南デリーにある全インド医科大学(AIIMS)は、インド随一の医療教育研究機関であると同時に、最先端の医療技術を習得した医師が集う最高峰の病院でもある。ただし、政府系の病院で医療費は格安であるため、デリー中、インド中から大量の貧しい人々が診察に訪れる。受付の応対はいかにもお役所的で、一介の外国人、しかも健康でない人が立ち向かえるような場所ではない。コネがあれば最高の医療サービスを受けられるが、コネがないとひどい扱いを受けるという、いわゆる「インド的」なスポットである。
元々政治的中立と自治の伝統を守って来たAIIMSだが、ここ1、2年、政治闘争の現場になることが多くなった。その原因は元を辿って行けば、国民民主連合(NDA)時代に任命されたPヴェーヌゴーパール学長と、現在の統一進歩連合(UPA)政権のアンブマニ・ラーマダース保健家族福祉大臣の間の確執だ。ヴェーヌゴーパールはインドで最初に心臓移植手術を成功させた著名な医師で、AIIMS勤続年数も誰よりも長く、AIIMSの伝統に誇りを持っている。一方、医師出身の政治家ラーマダース大臣はAIIMSへの政治的支配力を拡大しようとしており、タミル地方出身の2人の医師の間で火花が散っている。ラーマダース大臣は去年あたりからあらゆる手段を使ってヴェーヌゴーパールをAIIMS学長職から追い落とそうとしているが、今でもかろうじてヴェーヌゴーパールは現職に留まっている。この2人の確執に、OBC(その他の後進階級)枠を巡る全国的な反対運動なども重なって、AIIMSでは度々医学生、医師、職員たちによるストライキが発生している。
現在AIIMSで最もホットなのは、AIIMS学長の定年を巡る問題である。11月28日に国会はAIIMS学長の定年を65歳と規定する改正案を可決した。当のヴェーヌゴーパール学長は今年7月に65歳に達っしており、この法律に従えば彼は今すぐにでも辞職しなければならなくなる。だが、ヴェーヌゴーパールは、「61歳のときに5年の任期と共にAIIMS学長に任命された」と主張し、反論している。この任命の有効性は今年3月にデリー高等裁判所でも認められており、法的な後ろ盾もあるとしている。また、AIIMS学長の定年を65歳と定める法律を今頃可決させて4年前に5年の任期で任命された学長を辞職させるのは遡及法にあたるとも主張している。ヴェーヌゴーパールはどうしてもあと1年AIIMSの学長に留まりたいようだ。
AIIMSの医師たちもヴェーヌゴーパールを支持しており、政府に反対するストライキを行うと宣言した。医療機関のストライキは重体患者の死を招くこともあり、通常のストライキよりも深刻なプロテストとなる。実際に過去AIIMSの医師たちのストライキが原因で死者も出ている。そこで高等裁判所は先手を打ち、ストライキに参加した者の給料を天引し、医師免許も停止すると布告した。
そこでAIIMSの医師たちが取った手段とは・・・日本式ストライキであった。
日本式ストライキというのは、11月30日付けのヒンドゥスターン紙(ヒンディー語紙)一面の見出し「हड़ताल जापानी स्टाइल」を訳したものである。今まで聞いたことがないので、おそらく記者の造語であろう。日本人としては非常に興味を引かれる。一体どんなストライキなのだろう?その記事の全文を訳してみた。
ヴェーヌゴーパール学長の控訴と高等裁判所の叱責の後、木曜日(11月29日)にAIIMSの医師たちはストライキを中止した。しかし、彼らは日本で採用されているストライキの方法を採用した。これから医師たちは仕事をしながら抗議を行う。すなわち、今後2日間、彼らは外来診療を3時間長く行う。AIIMS学長の定年を65歳に定める問題の改正案に対し、彼らの怒りが収まっていないのは明らかである。
一方、AIIMS運営部は木曜日、欠勤した50人の医師たちを厳罰に処すことを決めた。また、ヴェーヌゴーパール学長は改正案に抗議するため、最高裁判所を訪れた。AIIMSの学長と各部の部長から成る協会は、憲法第32条を根拠に、2枚の請願書を提出した。そこには、「改正案の主な目的はヴェーヌゴーパールを現職から追放することにある。なぜなら学長とアンブマニ・ラーマダース大臣との間では過去数年間確執があるからである。ラーマダース大臣は彼をAIIMSから何とかして追放しようとしている」と書かれている。
AIIMSの医師たちのストライキを巡って、1日中ドラマが繰り広げられた。後に在住医師協会はストライキの方法を変えた。アニル・シャルマー会長は、「我々は仕事をしながら抗議を行う。外来診察を午前8時から午後8時まで行う。通常、外来診察の時間は午後5時までである」と述べた。医師たちは金曜日に署名運動を開始する。この間、ラーマダース大臣は上院で医師たちのストライキに憤りを表明し、これを特権の冒涜の問題と述べた。一方、インド人民党(BJP)の上院議員たちは改正案に抗議して上院を欠席した。日中、高等裁判所のMKシャルマー裁判長とサンジーヴ・カンナー裁判官は政府に対し、ストライキに参加した医師たちに厳罰を処すように指示した。ストライキに参加した者の給料を天引きし、医師免許を停止するように指示が出された。
つまり、仕事を放棄するのではなく、余分に仕事をして抗議するのが日本式ストライキらしい。仕事を放棄したら厳罰に処せられることを逆手に取った苦肉の策であろう。
記事の中で日本でよく普及したストライキ方法であるかのように実しやかに語られているものの、当然のことながら日本でそのようなストライキが行われているとは考えられない。確かに日本人は勤勉だし、しばしば働き過ぎだと表現されるし、過労死が問題になっているが、何かに抗議するために残業をしたり過労したりしているのではなく、社会がそうなっているから仕方なくそうしているだけである。しかし、どこをどう間違ったのか、インドで「日本式ストライキ」なる珍妙な抗議形態が誕生してしまった。
思い起こせば2006年から、インドではユニークなスタイルの抗議活動が行われるようになった。全て映画の影響だと言って過言ではない。「Rang
De Basanti」(2006年)のヒットにより、キャンドル・プロセッション(ロウソクを手に持って行う行進)が頻繁に行われるようになったし、「Lage
Raho Munnabhai」(2006年)のヒットにより、抗議対象の人物に毎日花を贈り続けるというガーンディーギリ(ガーンディー主義)の抗議スタイルが人気になった。キャンドル・プロセッションはヴィジュアル的にインパクトがあるし、ガーンディーギリ成功例はインド各地で報告されている。それらに日本式ストライキが加わる日が来るのだろうか?考えてみれば、余分に働いて抗議するというのは、定時に帰るのは当然という考え方がインドにあるから成り立つ方法であり、非暴力を最優先に掲げるガーンディー主義にも通じるものがある。そういう意味で逆にインドらしいとも言える。日本で日本式ストライキをしても誰にも振り向いてもらえないだろう・・・!
ちなみに、ヴェーヌゴーパールの定年問題は今でも続いている。日本式ストライキも虚しく、とりあえずヴェーヌゴーパールは学長職を罷免されることになり、TDドーグラーがAIIMSの代理学長を務めている。
差別用語とされる言葉の言い換えをPC(Political Correctness)と言うが、不自然な言い換えや本質から外れた差別撤廃運動だとの批判も強く、しばしば言葉狩りと揶揄される。インドでも最近、PCまたは言葉狩りが話題になった。
11月30日に公開された新作ヒンディー語映画「Aaja Nachle」。90年代のボリウッド界に君臨した女王マードゥリー・ディークシトの久々の主演作ということで注目を集めていたが、残念ながら批評家にも観客にもあまり受けがよくない。ただ、代わりにこの映画は思わぬ点でニュースのヘッドラインを飾ることになった。公開直後、「Aaja
Nachle」の挿入歌の中に差別用語が含まれているとの主張がダリト(元々不可触民と呼ばれていた人々)によってなされたのである。ダリトを票田とする大衆社会党(BSP)が政権を握るウッタル・プラデーシュ州政府は迅速に対応し、即日同映画の上映を禁止した。パンジャーブ州やハリヤーナー州でも続けて同様の処置を取った。
一体何が問題だったのだろうか?
12月2日付けの各紙によると、問題となったのはタイトル曲「Aaja Nachle」の中の以下のラインのようだ。
मोहल्ले में कैसी मारामार है,
बोले मोची भी ख़ुद को सुनार है
mohalle men kaisī mārāmār hai,
bole mochī bhī khud ko sunār hai
近所一帯で大混乱が起こった
靴屋も自分のことを金細工師と言い出した
見たところ、このラインが差別を含むという主張の根拠は2つあると思われる。ひとつは、「靴屋」という意味のモーチーという言葉自体が差別用語であるとの主張である。もうひとつは、「靴屋が自分のことを金細工師と言い出す」ことが「大混乱」だとする内容から、靴屋の身分が金細工師よりも低いという考え方を暗示していて差別的だとの主張である。
まず、モーチーが差別語か否かという問題だが、どうもこの単語は単に職業名を示すだけで、必ずしも差別語ではなさそうだ。大修館「ヒンディー語=日本語辞典」にも他の辞典にもモーチーが差別語だとは一言も触れられていない。むしろ、皮革業者や低カースト者の総称であったチャマール(चमार)という言葉の方が差別語として有名である。ただし、当然のことながら、その言葉を聞いて差別だと感じる人がいればそれは差別語になるので、モーチーが差別語である可能性はゼロではない。
この歌詞を差別だとする主張の根拠としてより説得力があるのは後者の説明である。インドでは身分の上下は分かりやすく、とにかくより上にある物体に関係する職業の方が上とされる。頭を使う仕事は手を使う仕事よりも上とされるし、手を使う仕事よりも足を使う仕事の方が下である。そうすると、人間の体の一番下に位置する足や靴に関係するモーチーは、最も下の職業ということになる。また、肉や皮革のような動物性の物体を扱う職業も下賎とされる。靴屋はモロに皮革を使う職業なので、やっぱり最下層に位置することになる。一方、金細工師が扱うのは装飾品である。インドでは全身に装飾品を身に付けるが、主に首や手に関係するので、けっこう高い地位に位置することになる。しかも彼らは金属の中で最も高級とされる金の細工師だ。よって、靴屋と金細工師は同じ職人であっても全く地位が異なるのである。その靴屋が自分のことを金細工師だと言い出すのは、確かに大混乱の象徴と言える。そしてそのような考え方そのものにダリトたちは作詞者または映画制作者の差別的意識を感じ取ったのであろう。
だが、世間の反応は案外冷ややかである。まず、上記の歌詞を差別的と主張する時期が遅すぎたことが槍玉に上がっている。インド映画のサントラCDやカセットは映画公開前から発売されており、テレビでも連日のように「Aaja
Nachle」のプロモが放映されていた。それを看過し、映画が公開された直後に声を上げるのはおかしな行為である。
そして、重箱の隅をつつくような言葉狩りに対する反論もインドでは根強いようだ。例えば12月2日付けのタイムス・オブ・インディア紙はこの問題に関して、単なる事件の報道に留まらず、新聞としての意見を併記していた。
弊紙は、言論の自由が宗教やコミュニティーの微妙な感情に深刻な傷を与えていいとは考えていない。だが、歌の中の一節のために映画そのものを上映禁止にするのは極端で不相応な反応である。PCには限度があるべきだ。そうでなければ、最終的には全てのグループが、歌、詩、ジョーク、SMS(携帯メール)などによって傷付けられたと主張し始めることになるだろう。
一方、マードゥリー・ディークシト自身は情報放送省に「私はただ単に歌に合わせて踊っただけだ」と報告しており、無関係を決め込んでいるようだ。せっかくの復帰作だったのにこんな問題に巻き込まれてしまったので、マードゥリーのボリウッド完全復帰はもしかしたら遠のいてしまったかもしれない。今のところ次回作の予定はないようだ。
「Aaja Nachle」のプロダクションであるヤシュラージ・フィルムスの対応も早く、特定のコミュニティーの感情を傷付けたことを謝罪し、すぐに全国の映画館に問題の歌詞の部分を消去するように要請した。その誠意ある対応を受け、ウッタル・プラデーシュ州、パンジャーブ州、ハリヤーナー州で「Aaja
Nachle」の上映許可が下りた。
とりあえず大事に至らなかった「Aaja Nachle」問題だが、今後ボリウッドの映画制作者たちは差別用語にも敏感になって行かなければならないだろう。ここ数年、ボリウッドでは映画中における喫煙や動物の使用に対する規制が厳しくなって来ているが、「Aaja
Nachle」は映画とPCという新たな問題を提示したことで、インド映画史上の重要なターニングポイントとして語り継がれる作品になるかもしれない。
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12月7日(金) Khoya Khoya Chand |
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本日より2本の新作ヒンディー語映画が公開された。まずは「Khoya Khoya Chand」を見た。
題名:Khoya Khoya Chand
読み:コーヤー・コーヤー・チャーンド
意味:失われた月
邦題:おぼろ月
監督:スディール・ミシュラー
制作:プラカーシュ・ジャー
音楽:シャーンタヌ・モーイトラー
作詞:スワーナーンド・キキレー
衣裳:アシーマー・ベーラープルカル、ニハーリカー・カーン
出演:シャイニー・アーフージャー、ソーハー・アリー・カーン、ラジャト・カプール、ソーニヤー・ジャハーン、ヴィナイ・パータク、スシュミター・ムカルジー、サウラブ・シュクラーなど
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

シャイニー・アーフージャー(左)とソーハー・アリー・カーン(右)
| あらすじ |
1950年代のボリウッド。駆け出しの女優ニカト(ソーハー・アリー・カーン)は、大スター、プレーム・クマール(ラジャト・カプール)に見初められ、あっという間にスターダムを駆け上る。ニカトは撮影中に、ラクナウーからボンベイにやって来たウルドゥー語作家ザファル(シャイニー・アーフージャー)と出会う。ザファルもプレームに気に入られ、映画の原作や脚本を担当して行く中で、業界内で有名になって行く。ニカトはプレームに恋していたが、プレームは別の女性との婚約を発表する。プレームは結婚してもニカトのことだけを愛していると語るが、次第にニカトの心は不安定になって行く。そんな中、ザファルとニカトの中は急接近し、プレームに隠れて付き合うようになる。ある日プレームにもそのことが知れてしまい、ザファルは映画業界を去ろうとするが、権力のあるプロデューサーから認められていたザファルはそのまま映画の仕事を続けられることになる。
ザファルの夢は、自分の作品を自分で監督して映画にすることだった。そして、ニカトをそのヒロインにしようとしていたが、家族の問題などでニカトと仲違いし、彼はニカトのライバルであるラタンバーラー(ソーニヤー・ジャハーン)をヒロインに抜擢する。だが、その映画は全くの失敗作に終わってしまった。一方、ニカトはプレームとの共演作に出演する。ザファルは嫉妬し、自暴自棄になる。やがてボンベイにいられなくなったザファルは、誰にも何も告げずにどこかへ去ってしまう。
それから数年の月日が過ぎ去り、1965年になった。ロンドンに移り住んでいたザファルは久し振りにボンベイへ戻って来る。彼は再び映画を監督しようとしていた。だが、ボリウッドは彼のいた頃とはだいぶ様変わりしていた。白黒映画は消え、カラー映画の時代となっていた。ニカトも変わってしまっていた。アルコール依存症となり、スキャンダルの女王となったニカトは、銀幕から遠ざかり、ザファルの親友シャーマル(ヴィナイ・パータク)の家に住んでいた。ただ、2人は結婚をしていなかった。ザファルはニカトに出演を依頼し、彼女も承諾する。
だが、ニカトは心臓に病気を抱えていた。ニカトは撮影中に倒れてしまったが、何とか復帰し、撮影を終わらす。また、その中でニカトはザファルにプロポーズをする。映画完成から1年後、ニカトは死んでしまうが、彼女の最後の映画は後々まで語り継がれる名作となった。 |
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いったい何を言いたいのか全く訳の分からない映画。2007年公開の映画の中ではダントツに意味不明でつまらない映画なので、見るだけ時間の無駄である。
1950年代~60年代のボリウッド映画業界が舞台になっているということで、先月公開されたばかりの「Om Shanti Om」(2007年)を彷彿とさせた。「Om
Shanti Om」の前半の時代設定は1977年だった。その部分はコメディー色・パロディー色が強かったので、多少辻褄が合わなくても受け入れることが出来たが、「Khoya
Khoya Chand」はシリアスな映画であり、時代考証の正確さはさらに重要になる。ビンテージ・カーの使用や当時流行した衣装の再現によって、当時の雰囲気を醸し出そうとする努力は感じられた。また、ヒロインのソーハー・アリー・カーンの母親シャルミラー・タゴールは60年代以降に活躍した女優であり、彼女によく似たソーハーが当時のボリウッドを再現するのは適役に思えた。だが、「Parineeta」(2005年)で描写されたカルカッタと同様に、美化し過ぎの部分が多々見られ、必ずしも当時のボリウッドの再現が成功していたとは言えなかった。
ヴィジュアル面の欠点はあまり深く踏み込まないでおく。「Khoya Khoya Chand」の最大の欠点は、何と言っても脚本と編集にある。誰が何を考えているのか、何が起こっているのか、なぜこういう運びになるのか、映画中でははっきりと説明されないことが多すぎる。プレームがなぜ突然婚約を発表したのかも分からないし、ニカトが女優を目指すようになった経緯もよく分からない。ザファルとニカトの破局の原因もよく分からないし、ザファルがロンドンからボンベイへなぜ帰って来たのかも分からない。シャーマルがストーリーの語り手のように登場するシーンが数ヶ所あるが、それが一貫している訳でもない。終わり方も観客を突き放している。いきなり「1年後にニカトは死んだ」などと字幕が出て、そのままスタッフロールである。そして輪を掛けて映画を意味不明にしているのが、展開の過剰な早さである。観客が流れを理解するよりも早いスピードでストーリーが展開して行くので、仕舞いには何が何だか分からなくなる。この台詞を聞き逃したらもう付いていけない、というものが多かったのもとても気になった。
「Khoya Khoya Chand」を監督したスディール・ミシュラーは、「Calcutta Mail」(2003年)、「Hazaaron
Khwaishein Aisi」(2003年)、「Chameli」(2003年)などの監督である。「Hazaaron Khwaishein Aisi」は非常に高い評価を得ているが、もしかしたら実力はそれほど高くない人なのかもしれない。「Khoya
Khoya Chand」は、金を出して見るレベルのものとは思えなかった。
シャイニー・アーフージャーは現在ボリウッドで活躍する若手の男優の中では最も演技力がある有望株だ。怒りと悲しみが入り混じった表情や、シニカルな笑みを浮かべた表情がとてもいい。彼は「Hazaaron
Khwaishein Aisi」でデビューしたこともあり、スディール・ミシュラー監督は恩人のようなものだ。全く破綻していた映画の中で、彼の演技力だけは光っていた。
ヒロインのソーハー・アリー・カーンは難ありである。彼女は役に入り込むことが苦手なのではないかと思う。「Rang De Basanti」(2006年)のように、自然体で演じられる役が似合っている。「Khoya
Khoya Chand」のような、演技力を要する役は今のところ荷が重過ぎる。カタク・ダンスを練習したようだが、踊りにも魅力を感じなかった。
ラジャト・カプール、ヴィナイ・パータクなど、脇役陣はいい演技をしていた。ラタンバーラーを演じたソーニヤー・ジャハーンは、印パ分離独立前後に活躍した伝説的女優ヌール・ジャハーンの孫娘で、「Taj
Mahal」(2005年)にムムターズ・マハル役で出演していたパーキスターン人女優である。
音楽はシャーンタヌ・モーイトラー。「Parineeta」に似た雰囲気の音楽が多かった。50年代~60年代のボリウッドというより、当時のハリウッドと言った感じの音楽ばかりである。
時代を反映してか、出演者にはウルドゥー語の発音練習が課せられたらしい。若手ウルドゥー語作家ザファルを演じたシャイニー・アーフージャーは特にウルドゥー語の正確な発音を要求されたようだ。
「Khoya Khoya Chand」は、今年最もつまらない映画のひとつなので、見ない方が吉だ。二度と夜空に姿を現さない月となるだろう。
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12月8日(土) Dus Kahaniyaan |
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「Darna Mana Hai」(2003年)以降、ボリウッドでは数本の小話を1本にまとめたオムニバス形式の映画が作られるようになった。そのような映画で大成功を収めたものは今のところないのだが、しぶとく作られ続けている。遂に1本10分の小話を10本もまとめた「Dus
Kahaniyaan」なる映画まで登場した。総勢25人の俳優が出演している。さて、どんな作品になったのであろうか?
題名:Dus Kahaniyaan
読み:ダス・カハーニヤーン
意味:10の話
邦題:テン・ストーリーズ
制作:サンジャイ・グプター
音楽:ガウラヴ・ダースグプター、バッピー・ラーヒーリー、シャフカト・アリー・カーン、アーナンド・ラージ・アーナンド
作詞:ヴィラーグ・ミシュラー、パンチー・ジャローンヴィー、アンバル・ホーシヤールプリー、イブラーヒーム・アシュク
衣裳:プージャー・サリーン、タイヤー・ボーマンベヘラーム
出演:サンジャイ・ダット、スニール・シェッティー、ナーナー・パーテーカル、ナスィールッディーン・シャー、アヌパム・ケール、シャバーナー・アーズミー、アムリター・スィン、マヘーシュ・マーンジュレーカル、マノージ・バージペーイー、アルアーズ・カーン、アーフターブ・シヴダーサーニー、ジミー・シェールギル、ディノ・モレア、ディーヤー・ミルザー、ネーハー・ドゥーピヤー、ミニーシャー・ラーンバー、マンディラー・ベーディー、マースーミー、ローヒト・ロイ、パルミート・セーティー、スダーンシュ・パーンデー、ネーハー・ウベーロイ、タリーナー・パテール、アニーター・ハーサナーンダーニーなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

ポスターの俳優名紹介は多過ぎるため割愛。
ナヴァラサ評も省略。
| あらすじ |
1.Matrimony(結婚) 監督:サンジャイ・グプター
主人公は、多国籍企業の社長(アルバーズ・カーン)の妻(マンディラー・ベーディー)。彼女は毎週木曜日、軍人の男性(スダーンシュ・パーンデー)と出会って不倫をしていた。ある日、不倫相手からプレゼントに首飾りと指輪をもらってしまった彼女は、家に持って帰れず、質屋に預ける。ところがそれを夫が妻へのプレゼントとして買って来てしまった。そして彼は彼女に会社でプレゼントする。だが、ケースの中には指輪しか入っていなかった。おかしいと思った彼女がよく見ると、会社の受付嬢の首にその首飾りが光っていた。
2.High on Highway(ハイウェイ・ハイ) 監督:ハンサル・メヘター
男性(ジミー・シェールギル)と女性(マースーミー)のカップルは、酔っ払ったときにハイウェイを散歩するのが趣味だった。ところがある日、女性が通り掛った車に連れ込まれそうになる。男性は必至に抵抗するが、ナイフで手を切られて逃げ出してしまう。女性の方は運良く警察に保護されて助かったが、男性はショックのあまり部屋で自殺してしまう。
3.Pooranmashi(十五夜) 監督:メーグナー・グルザール
ラージャスターン州のとある村。母親(アムリター・スィン)の1人娘(ミニーシャー・ラーンバー)の婚礼が行われた。婚約式が終わった後、娘は母親に花嫁用のショールを身に付けさせる。母親もそれをかぶって1日仕事をする。その夜は満月だった。実は母親には、夫の他に密かに思いを寄せている男性がいた。彼は満月の夜に帰って来ると言い残して去って行った。ふと扉を開けると、その男が戸の前に立っていた。2人は畑の中で交わる。翌朝、目が覚めた母親は急いで家に戻って来るが、2人の情事を目撃した村人が、娘が男と情事をしていたと勘違いし、近所の人々を連れて押し寄せる。娘は、母親がそのようなことをしたと知ってショックを受け、井戸に身を投げて死ぬ。
4.Strangers in the Night(夜の出会い) 監督:サンジャイ・グプター
初老の夫(マヘーシュ・マーンジュレーカル)と若い妻(ネーハー・ドゥーピヤー)は、毎年お互いひとつずつ過去の秘密を暴露していく儀式を行っていた。今年は妻の番であった。妻は、ある夜に鉄道駅の待合室で起こった出来事を話す。それは、暴徒によって追われた子供を助けた話だったが、暴徒に触れた途端、彼女は今まで感じたことのないエクスタシーが全身を駆け巡ったというものであった。
5.Zahir(ザーヒル) 監督:サンジャイ・グプター
銀行員を辞め、小説家になるために新たな人生を踏み出したザーヒル(ジミー・シェールギル)。引っ越し先で彼は美しい女性(ディーヤー・ミルザー)と出会う。ザーヒルは彼女に恋し、あるとき突然キスしてしまうが、彼女には絶交される。その夜、友人たちとダンスバーで酔っ払っていたザーヒルは、踊り子の中にその女性がいるのを発見してしまう。その夜、彼は彼女の家に押し入って、彼女の制止を振り切って押し倒す。だが、実は彼女はエイズであった。エイズに感染したザーヒルは、死を待つ生活を余儀なくされる。
6.Lovedale(ラヴデール) 監督:ジャスミート・ドーディー
結婚式のために実家に戻る途中だったアヌヤー(ネーハー・ウベーロイ)は、列車の中でミステリアスな女性と出会う。その女性は片方した耳飾りを付けていなかった。アヌヤーはその耳飾りを手にとって見せてもらうが、その途端にその女性はいなくなってしまう。列車はラヴデール駅に停車していた。彼女は何かに引かれるようにその駅に降りる。森の先には1軒の屋敷があり、画家の男(アーフターヴ・シヴダーサーニー)が1人で住んでいた。ちょうど雨が降り出したこともあり、彼女は雨宿りさせてもらう。雨が止んだあと、アヌヤーは駅まで送ってもらい、そのまま父親(アヌパム・ケール)の待つ実家へ直行する。そこで2人はまた再会するが、画家の方はアヌヤーが結婚することを知ってその場を立ち去ってしまう。父親はアヌヤーに、結婚する前に本当に結婚したい人が他にいないか思い起こしてみなさい、と助言する。なぜか思い浮かんできたのはその画家であった。また、父親からは過去に告白しそこなった女性の話を聞く。彼は別れ際にその女性に片方だけ耳飾りを渡したのだった。それを聞いて、列車の中で出会ったのは、過去に父親が恋した女性だと気付き、アヌヤーは一目散に画家の家へ向かう。そこで知ったのは、耳飾りを付けていた女性は彼の母親で、もう何年も前に亡くなっているということだった。
7.Sex on the Beach(砂浜のセックス) 監督:アプールヴァ・ラーキヤー
ディノ(ディノ・モレア)が砂浜でくつろいでいると、砂の中から一冊の古びた本を見つける。そこに自分の名前を書き込んだ瞬間、海の彼方から1人の美女(タリーナー・パテール)がやって来た。その女性の誘惑に乗り、ディノは夕方彼女の家を訪れることになった。ベッドの上で美女を待つディノであったが、いつまで経っても女性はやって来なかった。心配になって探してみると、風呂場に女性の死体が転がっていた。だが、目だけはギロリとディノの方を向いた。驚いて逃げ出すディノであったが、逃げる先々に女性が現れた。その後、ディノがどうなったかは分からない。そしてまた今日も、その古びた本が別の餌食によって砂浜の中から発見されるのであった。
8.Rice Plate(ライス・プレート) 監督:ローヒト・ロイ
厳格なタミル・ブラーフマンのお祖母さん(シャバーナー・アーズミー)は、たくさんの荷物を抱えてプネーに住む孫娘に会いに行こうとしていた。だが、財布を家に忘れたり、イスラーム教徒のタクシーに乗ってしまったりと、どうも運が悪かった。挙句の果てにプネー行きの列車に乗り過ごしてしまう。プネー行きの次の列車は2時間後だった。その間、鉄道駅の食堂でライス・プレートを食べようとする。ところが、手を洗って戻って来た間に、彼女のライス・プレートは1人のイスラーム教徒のおじさん(ナスィールッディーン・シャー)が食べていた。怒った彼女は彼からライス・プレートを奪い取って食べる。だが、気付いたらイスラーム教徒が手を付けた食事を食べてしまっていた。気持ち悪くなった彼女は食堂を駆け出す。だが、荷物を忘れたことに気付き、引き返す。一瞬、荷物がなくなったと思った彼女だったが、よく見たら別のテーブルの下に置かれていた。また、テーブルの上には手付かずのライス・プレートが乗っかっていた。イスラーム教徒に食べられたと思っていたライス・プレートは、実は彼女のものではなく、彼のものだったのだ。以後、彼女はイスラーム教徒に対する考え方を少し改める。
9.Gubbare(風船) 監督:サンジャイ・グプター
長距離バスの中で、新婚の夫婦(ローヒト・ロイとアニーター・ハーサナーンダーニー)は新居の間取りについて相談している間に喧嘩をしてしまう。怒った妻は夫から離れて後ろの席へ移る。そこには、たくさんの風船を抱えたおじさん(ナーナー・パーテーカル)が座っていた。おじさんもどうやら妻を怒らせてしまったらしく、謝罪するために11個の風船を持って行く途中であった。おじさんの話に感動した妻は、些細なことで夫と喧嘩したことが恥ずかしくなる。途中のバス停でおじさんは降りて行く。忘れ物を見つけた妻は後を追うが、おじさんは墓地で墓に向かって語りかけていた。それを見た妻は、バスに戻って夫のそばに優しく寄り添う。
10.Rise & Fall(下克上) 監督:サンジャイ・グプター
ムンバイーを支配するマフィアのドン、バーバー(サンジャイ・ダット)は、相棒のナワーブ(スニール・シェッティー)と郊外の廃工場でミーティングを持つ。バーバー暗殺の指令が何者かによって出されており、ナワーブはバーバーに、オーストラリアへ逃亡するように助言する。だが、バーバーは暗殺指令を出したのがナワーブだと勘付き、それを拒否する。だが、その場を立ち去ろうとしたとき、2人は暗殺者たちによって襲撃を受け、殺される。子供の頃にマフィアのドンを殺してドンにのし上がったバーバーとナワーブは、若い勢力の台頭によって、同じように殺されて行ったのだった。 |
様々な場面で、インド人は短くまとめるのが苦手な民族なのではないかと思う。テストの問題を比べてみれば一目瞭然だ。日本では、「○字以内に述べよ」という字数制限付きの解答を嫌と言うほど訓練されるが、インドでは基本的に長く書けば書くほど高い点数がもらえるシステムになっている。インド人は長いものを短くまとめる訓練をして来ていないし、その必要性もあまり感じていないのではないかと感じる。よって、「Dus
Kahaniyaan」のように、10分という短い短編映画を作るのはインド人には難しいのではないかと感じた。中にはまあまあの小話もあったが、日本人の映画監督に監督させたらもっといいものが作れるだろうと思った。
「Darna Mana Hai」は基本的にホラー短編の集合体だったが、「Dus Kahaniyaan」には様々なジャンルの短編があり、ヴァラエティーに富んでいた。10本の内の5本を、プロデューサーでもあるサンジャイ・グプター監督が担当し、残りの5本を新進気鋭の監督たちに任せている。サンジャイ・グプター監督らしさが最も出ているのは一番最後の「Rise
& Fall」だ。盟友サンジャイ・ダットを主演に据え、カットバックを多用し、グプター映画のエッセンスを10分に凝縮している。ナーナー・パーテーカルの演技が光る「Gubbare」もよい。
他の監督の作品の中では、ローヒト・ロイ監督の「Rice Plate」がよくまとまっていて秀逸だった。メーグナー・グルザール監督の「Pooranmashi」も中の上くらい。その他の短編は「だからどうした?」という結末のものばかりだった。
しかし、わざわざ短編を集めた映画を映画館で公開する意味があるのか、今一度問い直したい。このような企画はテレビでやる方がベターであり、わざわざ映画館に足を運ぶような価値のある作品とは思えなかった。若い映画監督や売れない俳優たちにチャンスを与える映画という位置づけならば何らかの意味はあるかもしれないが、「Dus
Kahaniyaan」のような映画は、映画本来の楽しみからかけ離れていると思う。
「Dus Kahaniyaan」は、サンジャイ・ダットやスニール・シェッティー、ナスィールッディーン・シャーやナーナー・パーテーカル、シャバーナー・アーズミーやアムリター・スィンなど、著名な俳優が出演してはいるものの、10本分の映画を見ただけの満足感は得られないばかりか、1本分の映画の楽しさすらない作品である。わざわざ見に行く必要はないだろう。
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12月8日(土) 発展するデリー、悪化するヒンディー |
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12月7日付けのリミックス(रीमिक्स;ヒンディー語紙ヒンドゥスターンのサプリメント)に、「発展するデリー、悪化するヒンディー(खुशहाल
दिल्ली, बदहाल हिन्दी)」と題したコラムが掲載されていた。デリーでヒンディー語を学ぶ者にとって興味深い内容だったので、全文を翻訳してみた。今日の日記はヒンディー語が分かる人向けのものである。
インドの首都デリーは急速に発展している。道路、フライオーバー、新型バス、ガーデン、メトロ、ショッピングモール、マルチプレックス・・・まるでデリーが化粧直しをしているようだ。公共部門のオフィスも民間部門のオフィスも、急速に近代化が進んでいる。銀行に行くと、これが5、6年前までハエが飛び交い、見回しても席に座っているオフィサーが1人も見当たらなかったあの銀行か、と見間違うほどだ。
首都の多くの遺跡でも変化を目の当たりにすることができる。首都では何もかもが新しくなっていると感じる。本当に首都は発展している。だが、急成長する首都の中でもし何も変わっていないものを挙げるとすれば、それは公共部門・民間部門問わず、いろいろな場所に掲げられているボードに書かれたヒンディー語だ。もしくは遺跡の外、DTCバス、銀行、オフィスの外に書かれたヒンディー語のスローガン。それらは今でも見る者の首を傾げさせている。例えば、DTCバスの中でよくこんな注意書きを目にする。「सीट
पर बैठने से पहले कृप्या अपनी सीट के नीचे देख लें, कोई भी लावारिस वस्तु
बम हो सकती है(座席に座る前にどうか席の下を調べて下さい。不審な物体は爆弾の可能性があります)」この中の「कृप्या」は正しくは「कृपया」である。また、役所の外には、「नो
पार्किंग, उल्लंधन करने वाले पर जुमार्ना हो सकता है(駐車禁止。違反者は罰金を科せられることがあります)」と書かれているが、「उल्लंधन」は正しくは「उल्लंघन」であり、「जुमार्ना」は正しくは「जुर्माना」である。DTCバス、トラック、オートリクシャーの後ろにはよく「मां
का आर्शीवाद(女神の祝福を)」と書かれているが、「आर्शीवाद」は正しくは「आशीर्वाद」である。遺跡に掲げられている注意書きでも、よく「कृपया」が間違って書かれている。これだけでなく、多くの場所で間違った綴りのヒンディー語をたくさん目にする。興味深いことに、昼夜ヒンディー語に献身している者でも、これらの誤ったヒンディー語には気付いていない。もし外国人や他の州のインド人がこれらのボードや壁の注意書きを見てヒンディー語を学ぼうとしたら、どんなヒンディー語になるだろうか!もしテレビ番組の下に流れるテロップでヒンディー語を学ぼうとしたら、そのヒンディー語はどんなものになるだろうか?
私たちの言語は市場から最も影響を受けて来た。そしてもし近代化と資本主義に反対でないなら、今日、正しいヒンディー語と誤ったヒンディー語の違いがなくなってしまったという事実を受け入れるべきである。間違ったヒンディー語を書く者は、こんな言い訳をしている。「私たちが『कृप्या』と書こうと『कृपया』と書こうと、読む者は理解しているからいいじゃないか!」だが、近代化の波に乗って、私たちは新しいヒンディー語を作り出してしまってもいいものなのだろうか?
かつて「デリーに住んだことのない者は正しい言語を話すことができない」とまで言われていた時代もあったが、残念なことに、現在のデリーで使われているヒンディー語は正確なものではない。オールドデリーに行けば、まだ雑踏の中で交わされる罵詈雑言からも甘い詩的な響きを耳にすることができるが、一般のデリー市民に正確かつ美しいヒンディー語を期待してはならない。上の記事では、ボードなどに書かれた「目で見る」ヒンディー語に焦点が当てられていた。
確かにデリーに住み始めた頃は、目に入って来るデーヴナーグリー文字の多くに間違いがあり、だいぶ混乱したものだった。記事では「どうか」「please」みたいな意味の単語「कृपया」の誤った綴り「कृप्या」が槍玉に上がっていたが、僕も街中であまりに間違った綴りを見過ぎたため、「कृप्या」と「कृपया」のどちらか正しかったか迷うことが多々ある。また、看板などにヒンディー語を書いている人々は、「र」の半子音字の変則的規則を理解していないようで、「आर्शीवाद」や「जुमार्ना」のような間違いは至る所で目にする。
また、地名の綴りも一定していないことが多い。特に多いのが長母音と短母音の混乱である。それを見ると、インド人は本当に長母音と短母音を正確に使い分けているのか疑問に感じることもある。例えばジャワーハルラール・ネルー大学のすぐ近くにある「Munirka」という地名は、「ムニルカー(मुनिरका)」なのか「ムニールカー(मुनीरका)」なのかはっきりしない。どちらも目にするのである。ムニルカー/ムニールカーはニューデリー建造前から存在した古い村であり、おそらく元々どっちでもよかったのだろう。村人たちが好き勝手に呼んでいたに違いない。だが、首都に取り込まれ、南デリーの重要なランドマークのひとつとなった今、綴りをどちらかに統一すべきなのではないかと思う。
また、間違いではないが、ヒンディー語における英語の難解かつ不自然な言い換えもしばしば問題になる。その代表例は、「地下道」を示すヒンディー語「भूमिगत
पैदल पार पथ」である。誰もこんな言葉を使っていないのに、デリーでは地下道の入り口などにこの標識が掲げられている。「भूमिगत पैदल
पार पथ」を分解してみると、「भूमिगत」は「地下」、「पैदल」は「徒歩」、「पार」は「横断」、「पथ」は「道」である。こんな難しい言い方しなくても、「सबवे(サブウェイ)」とか、「यहाँ
से रास्ता पार कीजिए(ここから道を横断して下さい)」などと書いておけばいいのに、なぜかサンスクリット語的な難解な表現が使われている。このようにヒンディー語が庶民の感覚からかけ離れた状態なので、結局英語の方に流れて行ってしまうのである。
デーヴナーグリー文字を習い始めのときは、デリーの街中の看板や標識に書かれているヒンディー語は最高の練習台であるが、単語を覚え始める頃になると、目から入って来る綴りには慎重に対処して行かなければならないだろう。
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12月14日(金) ミッションRC再発行コンプリート |
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11月16日の日記でミッションRC再発行の途中経過をお送りしたが、今回はその続編の「コンプリート」である。一応前回までのあらすじから始める。
ディーワーリー休み期間中、旅行先のカルナータカ州ハーサンのバススタンドで財布をすられてしまい、その中に入っていた貴重な書類RCを再発行する必要に迫られたアルカカットは、デリー帰還後、南デリーのシェーク・サラーイにあるRTOで奮戦。やっとのことで書類を受理され、手数料を支払い、レシートがもらえたのであった。
RTOの廊下の壁にかかっているボードによると、RC再発行に要する時間は2日と書かれていた。そのため、数日後にRTOを再訪してみた。何の意味があるのか分からないが、まずは3番カウンターに並んで、窓口の人にレシートを見せ、コンピューターでデータを確認してもらった。次に1番カウンターに並ぶことになった。1番カウンターのおじさんの手元にはノートがあり、そこには申請日別にRCが発行された番号が列記されていた。だが、僕の申請日を見たおじさんには「ん、この前申請したばっかじゃないか。15日後に来い!」と言われてしまった。確かに廊下のボードには所要時間は2日と書かれているのだが、どうも15日待たないといけないらしい。この日はすごすごと帰ることになった。
15日というのが15営業日なのかそれとも本当に15日なのかよく分からなかったので、無駄足を減らすために、申請から3週間後にRTOを訪れることにした。12月10日(月)に意気揚々とRTOを訪れた。
この前からずっと見ているが、3番カウンターに並ぶ意味が分からない。この前レシートを見せたときも、申請から15日経っていなかったのに何も言われなかったし、一番最初に来たときもまずは3番窓口の列から並び始めたが特に手続き上必要なことが行われた形跡はなく、一体何をチェックしているのか不明なのである。それなのに、何をするにも「まずは3番カウンターに並べ」と言われる。ちなみに1番カウンターは二輪車手続き用、2番カウンターは四輪車の手続き用、4番カウンターはキャッシャー、5番カウンターはスマートカード手数料支払い窓口である。
前回既に3番カウンターでレシートを見せたので、3週間後の今日は3番カウンターをスキップしてそのまま1番カウンターに行った。3週間前と同じおじさんが座っていた。おじさんは「3番は行ったか?」と聞いて来たので、「行った」とだけ答え、心の中で「3週間前ね」と呟いた。レシートを渡すと、おじさんはパラパラとノートをめくって僕の番号を探した。だが、そのノートに僕の番号は載っていなかった・・・。途端に嫌な予感がして来た。おじさんは僕のレシートに「F」と書き込み、記録室のおじさんからファイルをもらって来いと指示した。記録室は同じ階の廊下にある。廊下の半分が仕切られ、記録室に転用されているのである。そしてその記録室の前にはドカッと無造作に机が置かれ、髪の毛を油でギトギトに照からせたおじさんが座っているのである。
言われた通り、「F」と書き込まれたレシートを記録室のおじさんに見せた。そして、「ファイルを持って来いと言われたんですが・・・」と聞いた。おじさんは部下に命じ、僕のファイルを探させた。なかなか見つからない。記録室の中には立ち入り禁止だが、机が置かれている場所から少し中が見える。インドの事務室はどこでもそうだが、ファイルの山山山・・・。この中から僕のファイルが本当に見つかるのか疑問になった。もしかしてファイルが途中でなくなってしまったのではないか?だから僕のRCが未だに発行されていないのではなかろうか?もしかしてまた手続きを最初からやり直さなければならないのか?目の前が次第に真っ暗になって来た。
しばらく待っていたら、突然僕のファイルが出て来た。どこにしまってあったのか分からないが、ひとまず安心である。そのファイルを持って、1番カウンターへ行った。1番カウンターのおじさんは僕のファイルを開け、書類をひとつひとつチェックし始めた。よく見ると、そのファイルの中には11月に提出した書類の他に、2005年1月にバイクを購入したときに提出した書類まで入っていた。約3年も前の書類をよく保管していたなぁと感心。役所だから当たり前のことなのだが、あの大海原みたいな記録室の中で3年の歳月を漂流せずに生き抜いたことは驚嘆に値する。おじさんはまずはサインチェックをしているようだった。書類に書かれたサインを指差し、「このサインは君がしたのか?」と聞いて来た。「そうだ」と答えた。昔の書類のサインと異なると問題になるらしい。サインに問題はなかった。さらに書類をチェック。「住所が違うじゃないか?」遂に言われてしまった。
申請のときも気になっていたのだが、バイクを買ったときの住所と、RC再発行時の住所が違うのである。あのときはサフダルジャング・エンクレイヴに住んでいたが、今はジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)キャンパス内のブラフマプトラ寮に住んでいる。今回、住所証明として出したのは後者の住所が書かれたものであった。申請時には何も言われなかったので、新RC発行と同時に住所変更もしてくれるのかな、と思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。僕のRCがすんなり発行されなかった理由も、住所の相違であったようだ。インドの役人はいい加減なようでよく見ている。
嘘を付いても仕方がないので、「引っ越しました」と答えた。「いつ?」と聞かれたので、「去年です」と答えた。「それなら住所変更の書類も一緒に出さないといけない」と言われた。住所変更の申請用紙はフォーム33である。1階の問い合わせ窓口まで戻り、フォームをもらってそこに必要事項を記入した。住所変更の手続きはそれほど面倒くさくなく、フォームのオリジナルを1枚出すだけでよさそうだった。すぐにフォームを持って、1番窓口へ直行した。おじさんはその用紙を見て、指を折って何やら計算を始めた。そして、フォームの裏に計算式を書き、「1350ね」と言って来た。1350号室にでも行くのかと思ったが、もう一度聞き返すと、どうも「1,350ルピーを払え」と言っているようだった。「な、なぜ~!」と思って聞いてみると、どうも引っ越しから1ヶ月以内に住所変更を申請しないと罰金が発生するらしい。そして、申請しなかった月の数だけ罰金が加算されて行く。僕の場合は去年の8月に引っ越したので、どうも13ヶ月分くらい罰金が溜まっているようであった。当然、罰金を支払わなければRCは発行されない。
幸い、そのくらいのお金は持っていた。仕方なく1,350ルピーをキャッシャー専用の4番窓口で支払ってレシートをもらい、それを1番窓口のおじさんに見せた。おじさんは僕のファイルに何やら手書きで「住所変更が原因でRC発行が停止していたが、住所変更申請用紙を提出し、罰金も支払ったので発行許可をお願いします」みたいな書き込みをし、ファイルを奥の部屋にいる偉いオフィサーに見せた。オフィサーは僕に、「金曜日ぐらいに来ればRCが発行されているだろう」と言ってくれた。てっきりまた15日待たないといけないかと思っていたので、その言葉はありがたかった。
そして12月14日(金)、今日でRTOは最後にしたいと願いつつ、シェーク・サラーイへ向かった。1番窓口へ行き、レシートを見せた。おじさんも僕のことを覚えていてくれたみたいで、レシートにササッと番号を書き込んでくれた。そのレシートを持って記録室のおじさんのところへ。おじさんはその番号を見て、箱の中から再発行されたRCを取り出し、無造作に僕の方へ投げてよこした。まるでゴミみたいだ。そのポイ捨て同然のRCを、僕はまるで餅投げの餅のようにありがたく受け取った。・・・もしかしてミッション・コンプリートか?もう一波乱くらいは覚悟していたのだが、あまりにあっけない結末にしばし呆然。そして次の瞬間、目頭が熱くなって来たのを感じた。ああ、RCがこんなにありがたいものだったなんて・・・!バイク購入時はディーラーが全て手続きをやってくれるため、割と簡単に手に入ってしまうのだが、自分で申請するとなんと苦労することか・・・。住所もちゃんとJNUのものになっていたし、完璧である。

本邦初公開、これがスマートカード化したRCだ!
多分コンピューターなどで読み取り可能だが、
今まで読み取っているところを見たことがない
裏に車両の所有者の情報が掲載されている
スリに財布をすられたのは痛かったが、その損害を忘れてしまうくらい、RCの再発行は辛く険しい道のりであった。これからは財布は盗まれてもRCだけは死守したい。
そういえば、最後まで3番カウンターが何のためにあるのか分からなかった・・・。
「ラーマーヤナ」に登場する羅刹王ラーヴァン。ラーヴァンは、10の頭を持ち、現在のスリランカに比定されるランカー島に住み、亡命生活中だったラームの一行からスィーター姫をさらい、最後にはラーム王子に退治されたとされている。ラーヴァンが退治された日は、ダシャヘラー祭として今でも盛大に祝われている。だが、デリーの近くに、ダシャヘラーが祝われない珍しい村がある。ウッタル・プラデーシュ州ビスラク(Bisrakh)村。ノイダとグレーター・ノイダの間にあるこの村は、一見何の変哲もない農村に見える。だが、伝説によれば、この村はラーヴァンが生まれ育った場所と言われている。村人たちは今でもラーヴァンを信仰しており、ダシャヘラーの日には、ラーヴァンの像を燃やす代わりに、ラーヴァンの魂を鎮める儀式が行われる。
ラーヴァンはよく、10の顔を持つ恐ろしい形相の悪魔として、そして元祖勧善懲悪劇の典型的な悪役として描かれるが、実際にはそのキャラクターは単純なものではない。ラーヴァンは聖典ヴェーダをマスターした地上で最も聡明な存在であり、長年の苦行によって神にも悪魔にも殺されないという強力な恩恵をブラフマー神から授かった地上で最も強力な存在でもある。そして、シヴァ神の熱烈な信奉者でもあり、ランカー島の有能な統治者でもあった。10の顔を持つのも、本当に10個も顔があったわけではなく、前後左右、斜め左右、斜め後ろ左右、上、下と、全方向・全方角を一度に把握する千里眼的な賢さがあることの象徴である。ラーヴァンに落ち度があったとすれば、それは完璧過ぎたことであった。ラーヴァンは自身の完璧さに驕ってしまったため、最後には身を滅ぼすことになった。だが、そこには完璧な人間の孤独と苦悩が見受けられ、ラームなどよりもずっと興味深い人間像が感じられる。また、もし「ラーマーヤナ」の中に何らかの歴史的事実が隠されているとしたら、ラームと同時にラーヴァンの実在も十分ありうることだ。おそらくラーヴァンは戦争で敗者となり、インド神話の中で永久の悪役に仕立て上げられてしまったのだろうが、ラーヴァンの王国の民の末裔や、ラーヴァンを信奉する人々が現代まで残っていたとしても不思議ではない。だから、ラーヴァンの生まれ故郷とされる村が残っているのも十分頷けることなのである。
しかもさらに興味深いことに、ビスラク村からは考古学的に非常に重要な彩色灰色土器(PGW)が出土しており、ラーヴァンとの関連を抜きにしても、この村の一帯には紀元前1000年~紀元前500年に何らかの集落があったことが分かっている。
だが、ビスラク村を見つけるには苦労した。なぜならビスラク村は、毎回お世話になっているEICHER「Delhi City Map」の範囲外だったからである。ビスラク村がガウタム・ブッダ・ナガル県のグレーター・ノイダの近くに位置することは分かっていたが、グレーター・ノイダのいい地図が見つからず、全くの手探り状態であった。インターネットで必至になって探したが、ガウタム・ブッダ・ナガル県のウェブサイトのみがかろうじて役に立つ地図を掲載していた。同県内の全ての郡が手書きで書き込まれていたのだが、その中にビスラクの名前を発見したのである。

ガウタム・ブッダ・ナガル県の地図
この手書きの地図によると、ビスラク郡はノイダとグレーター・ノイダの間に位置していた。ビスラク郡にビスラク村があるのは確実であろう。大体の位置関係は把握できたので、思い立ってビスラク村を探しに出掛けた。
ヤムナー河に架かり、デリーとノイダを結ぶ有料道路デリー・ノイダ・ダイレクト(DND)フライウェイを通ってアーシュラムからノイダに入った。ノイダとグレーター・ノイダの間にはグレーター・ノイダ・エクスプレスウェイという広々とした道路が通っているが、ビスラクへ行くには別のダードリー・ロードを通った方が分かりやすい。しばらく見ない内にノイダはだいぶ発展していた。その発展ぶりに驚きながら、ダードリー方面へ向かって走った。
ダードリー・ロードを走っていると、やがて「グレーター・ノイダへようこそ」と書かれた大きな標識が道路の上に架かっているところまで来る。ここを越えればいよいよグレーター・ノイダである。

グレーター・ノイダへようこそ
上の標識をくぐるとすぐに河があり、橋を渡ると、貨物車などのチェックポストがある。そのすぐ先に交差点があるが、ビスラクへ行くにはこの交差点を左に曲がらなければならない。交差点にはちゃんとビスラクへの道標も立っているが、小さいので見落とすこともあるだろう。僕は一度見落としてダードリーまで行ってしまった。この交差点で左に曲がり、1車線の舗装道を5kmほど進んで行くと、ビスラク村に着く。

ビスラク村
ビスラク村には、古いシヴァリンガがいくつも残っている。言い伝えではそれらはラーヴァンの父親ヴィシュラヴァによって奉納されたものらしい。ラーヴァンはシヴァ神の信奉者であり、ビスラク村がラーヴァンの故郷であるとの言い伝えは一応の信憑性を持つ。それらのシヴァリンガの中でも最も有名なシヴァリンガが八角形のものだ。現在そのシヴァリンガは立派な寺院に納められており、途中見られる道標も、このシヴァ寺院への道案内のために立てられたものである。

ビスラク村のシヴァ寺院までの道案内
「ラーヴァン生誕地の古いシヴァ寺院」と書かれている
寺院は村外れにあり、老いたパンディト(僧侶)が管理をしていた。僕以外に参拝者はおらず、閑散としていた。

ビスラク村のシヴァ寺院
寺院の前には小さなナンディー像があった。そして寺院の聖室には、シヴァリンガが安置されていた。どちらも古いものであろう。

シヴァリンガ
ちょうどパンディトがトゥルスィーダースの「ラームチャリトマーナス」(サンスクリット語の「ラーマーヤナ」をヒンディー語の方言アワディー語に翻訳・翻案した文学作品)を朗読し始めた。「ラームチャリトマーナス」はどちらかと言えばヴィシュヌ派の聖典になるのだが、パンディトは「オーム・ナマー・シヴァーイ」とシヴァ神への呼び掛けをしてから朗読をしていた。

「ラームチャリトマーナス」を読むパンディト
先に挙げた「ラーヴァンの生まれ故郷」と書かれた道標を除けば、ビスラクは何の変哲もない村であった。だが、ラーヴァンが殺されたダシャヘラーの日に来てみると、もしかしたら一風変わったものが見られるかもしれない。
実はラーヴァンを信仰する人々はビスラク以外にもいる。例えば、ラージャスターン州ジョードプルの近くのマンドールという場所には、ラーヴァンを祀る寺院がある。マンドールは、ラーヴァンの妻マンドーダリーの故郷とされており、この辺りにはラーヴァンを氏神として信仰する人々がいるようだ。また、ウッタル・プラデーシュ州カーンプルにもラーヴァンを祀った寺院があるらしい。この寺院は140年前に建造されたもので、ダシャヘラーの日にだけ開放される。タミル・ナードゥ州ティルチラーパッリのジャーンバケーシュワラ寺院では、シヴァ、パールワティーと共にラーヴァンの大きな像も祀られていると言う。さらにスリランカにもラーヴァンの寺院がいくつか残っているらしい。
これだけラーヴァン関連のスポットがあちこちに広がっていると、ラーヴァンの実在も俄かに信じられて来る。ラームをインドの表の神話とすれば、ラーヴァンはインドの裏の神話であろう。そこには、征服された民族の記憶が隠されていたりするのだろうか?生まれ故郷とされる場所がデリーのすぐ近くであることも非常に興味深い。ラーヴァンは、デリーの隠された過去を紐解く鍵なのかもしれない。
インドでは伝統的にディーワーリー・シーズンが大作映画の封切日として好まれて来たが、1月26日の共和国記念日、8月15日のインド独立記念日やその他の宗教的祭日を含む週も期待作が公開される傾向にある。そして、西洋文化の浸透を象徴しているのか、12月25日のクリスマスを含む週も映画公開日として好まれるようになって来ている。今年のクリスマス・シーズンには、「Welcome」と「Taare
Zameen Par」の2作が公開された。今日はコメディー映画の「Welcome」を見た。
題名:Welcome
読み:ウェルカム
意味:ようこそ
邦題:ウェルカム
監督:アニース・バーズミー
制作:フィーローズ・K・ナーディヤードワーラー
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー、アーナンド・ラージ・アーナンド、サージド・ワージド
作詞:サミール、アーナンド・ラージ・アーナンド、シャッビール・アハマド、イブラーヒーム・アシュク、アンジャーン・サーグリー
振付:アハマド・カーン、ボスコ・シーザー
出演:フィーローズ・カーン、ナーナー・パーテーカル、アニル・カプール、パレーシュ・ラーワル、アクシャイ・クマール、カトリーナ・カイフ、マッリカー・シェーラーワト、ヴィジャイ・ラーズ、スニール・シェッティー(特別出演)
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

上段左からマッリカー・シェーラーワト、アニル・カプール、アクシャイ・クマール、
カトリーナ・カイフ、パレーシュ・ラーワル
下段中央はナーナー・パーテーカル
| あらすじ |
医師のグングルー(パレーシュ・ラーワル)は、甥ラージーヴ(アクシャイ・クマール)の結婚相手を必死に探していた。グングルーは、死んだ妹、つまりラージーヴの母親と、甥を良家の女性と結婚させるという約束をしていた。一方、マフィアのドン、ウダイ・シェッティー(ナーナー・パーテーカル)は、妹のサンジャナー(カトリーナ・カイフ)の婿を探していた。ウダイは妹を、良家の男性に嫁がせたいと考えていた。だが、マフィアの家と親縁関係を結ぼうとする良家は存在しないのが悩みだった。
あるとき、ウダイの部下マジュヌー・バーイー(アニル・カプール)は、道端でラージーヴを見掛け、サンジャナーの婿にピッタリだと考えた。マジュヌーは早速それをウダイに報告する。ウダイとマジュヌーはグングルーを罠にはめ、ラージーヴとサンジャナーの結婚を承諾させる。ウダイがマフィアのドンであることを知ったグングルーは、この結婚を破談にさせるため、ラージーヴを別の女性と結婚させようとする。白羽の矢が立ったのは、偶然見掛けたサンジャナーであった。サンジャナーがウダイの妹であることを知らないグングルーは、ラージーヴとサンジャナーを結婚させようとする。ラージーヴとサンジャナーは以前一回偶然会ったことがあり、すぐに2人は恋に落ちた。ラージーヴはウダイに挨拶に行き、2人の結婚は決まる。このときラージーヴはウダイがマフィアのドンであることを知らなかった。
一方、ラージーヴの結婚が決まって気が大きくなったグングルーは、マジュヌーのところへ行ってウダイの妹との結婚はキャンセルすると言い放つ。その後、グングルーとラージーヴは、サンジャナーの兄に呼ばれてパーティーへ行くが、そこでサンジャナーの兄がウダイであることを知ってグングルーは卒倒してしまう。しかも、ウダイとマジュヌーの大ボスであるRDX(フィーローズ・カーン)がやって来て、話はさらにややこしくなる。
グングルーはこの結婚に反対するが、既にサンジャナーと恋に落ちていたラージーヴはある提案をする。それは、もしサンジャナーの親類縁者がマフィアをやめたら、サンジャナーとの結婚を許す、という条件であった。グングルーもそれを了承する。
ウダイは実は俳優になるのを夢見ていた。そこでラージーヴとサンジャナーはスニール・シェッティー(本人)やイーシャー/イシター(マッリカー・シェーラーワト)の協力を得て、ウダイをおだてて俳優の道を歩ませる。一方、マジュヌーは絵画が趣味だったため、オークション・ハウスに勤めていたラージーヴは彼に画家の道を歩ませる。だが、最大の難関はRDXとその息子ラッキーであった。マフィアの仕事を真剣にしなくなったウダイとマジュヌーの様子を見にラッキーがやって来る。ラッキーはラージーヴが何かを企んでいることに気付き、彼を殺そうとする。だが、サンジャナーが助けに入り、銃弾が偶然ラッキーに当たってしまう。ラッキーは病院へ運ばれる。
ラッキーを撃ったことを知ったウダイとマジュヌーは顔面蒼白になる。しかもRDXが病院へ向かっていた。そこで2人は、ラッキーは死んだことにして手早く葬式を済ますことにする。だがラッキーは息を吹き返し、逃げ出す。ラージーヴらが追い掛けるが、ラッキーはどこかへ隠れてしまって見つけられなかった。そこでグングルーが代わりに死体となる。
RDXが火葬場に到着した。何とかRDXをだまし、死体のふりをしているグングルーをラッキーの死体だと信じ込ませる。グングルーは焼かれる直前にRDXの目を盗んで参列者に紛れ込み、薪だけが焼かれる。ところがその薪の下にラッキーが隠れていた。ラッキーは飛び出し、ラージーヴ、ウダイ、マジュヌーたちに殺されそうになったとRDXに報告する。
激怒したRDXは郊外のコテージにこの計画に関わった者たちを呼び出し、殺そうとする。だが、そのコテージは違法建築で、市役所の役人が強制的に取り壊しを行おうとしていた。崖っぷちに立つコテージは崖に落ちそうになるが、絶妙のバランスで空中に留まる。何とか彼らは逃げ出すが、ラッキーが逃げ遅れてしまう。ラージーヴは我が身を顧みずラッキーを助ける。そのおかげでRDXも全てを許す。ところが今度は、ラージーヴがウダイとマジュヌーを騙していたことが発覚しそうになり、彼らは逃げ出す。 |
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ボリウッドのコメディー映画としては平均レベルの出来であろう。いくつか爆笑できるシーンがあるが、細部で粗さが目立ち、最上質のコメディー映画とは言えない。だが、結婚のためにマフィアを更正させようとする筋などは斬新で、一定の評価はできる。
監督のアニース・バーズミーは「No Entry」(2005年)で一躍注目を浴びた映画監督で、「Welcome」も同じようなライトなコメディー路線でヒットを狙った作品と言える。ナーナー・パーテーカルとパレーシュ・ラーワルの演技が最高で、最近出番がめっきり減ったアニル・カプールもプライドを捨てて脇役・汚れ役に徹していた。映画が何とか面白くまとまっているのには、この3人の貢献が大きい。だが、アクシャイ・クマールが演じたラージーヴのキャラクター設定が希薄で、マッリカー・シェーラーワトも十分使い切れていなかった。もう少しラージーヴのキャラを確立させて、マッリカーを本来のセクシー路線に戻すことができれば、さらに完成度の高い娯楽映画になっていただろう。ヒロインのカトリーナ・カイフは全く演技力を要されていないような役だったが、アイシュワリヤー・ラーイと同じく正統派ヒロインの道を歩む女優になりそうなので、今のところはこれで別にいいのかもしれない。素材は悪くないので、数をこなせば貫禄が付いてくるだろう。
映画の中ではいろいろなハプニングが起こる。大別すれば3つだ。ラージーヴとサンジャナーの結婚相手探しを巡るハプニング、ウダイとマジュヌーに極道から足を洗わせる上でのハプニング、そしてRDXの息子ラッキーの偽装死を巡るハプニングである。どれもドタバタギャグとしては面白く、コメディー映画としては一定の成功を収めている。それらの合間に、ラージーヴが運転する自動車のハンドルが取れ、ブレーキが聞かなくなるハプニング、グングルーがマジュヌーから逃げる上でのハプニング、空中に浮かぶコテージでのハプニングなど、小ネタが入る。それらは本筋との脈絡が薄いのだが、単発的笑いとしては悪くない。だが、それらのおかげでまとまりが欠けるようになり、しかも映画の終わり方は尻すぼみなので、「コメディーの帝王」と称せられるデーヴィッド・ダワン監督やプリヤダルシャン監督の傑作コメディー映画に比べると見劣りがする。
音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー、アーナンド・ラージ・アーナンド、サージド・ワージドの共作。「Partner」(2007年)を彷彿とさせるタイトル曲「Welcome」、「Kajra
Re」タッチのダンスナンバー「Hoth Rasiley」、ヒメーシュ色100%の「Insha Allah」など、アップテンポの曲が多いが、全体的にパワー不足である。ダンスも豪華さに欠けた。
映画のほとんどはドバイで撮影されたようだ。だが、舞台はどうもムンバイーのつもりのようである。ドバイが舞台であることは全く示唆されなかった。最後のコテージシーンではなだらかな丘陵地帯が背景に見られるが、これはマハーラーシュトラ州の有名避暑地ローナーヴァラーのようである。
映画の題名は「ようこそ」という意味になる。台詞の中で何度か「Welcome」という言葉が使われていたが、映画の主題とはあまり関係ない。なぜこのような題名になったかは不明だが、「No
Entry」の二匹目のドジョウを狙ったのではないかと思われる。
「Welcome」は、悪くないコメディー映画だが、コメディー映画が元気だった2007年のボリウッドの中で存在感を示すには多少困難な映画のように思われた。
12月21日付けのヒンドゥスターン紙に、ビハール州ベーグーサラーイ県のサラウンジャー村のことが書かれていた。この記事によると、ナクサライト支配地域にあるサラウンジャー村からは、若い水泳選手が育っているらしい。
例えば2007年11月にビハール州ガヤーで開催されたアクアスロン州大会で、女子の部の上位3位はサラウンジャー村出身の女の子たちが独占した。6年生のベービーが優勝、9年生のサーヴィトリーが2位、3年生のシュラーンティが3位である。サーヴィトリーは昨年の州大会で優勝している。男子も負けておらず、男子の部ではこの村の7年生バブルーが優勝した。彼らは特別な訓練を受けている訳ではない。水泳を教えているのは、小作農をしている貧しい父親たちである。子供たちは村にある池で水泳の練習をしていたが、最近州政府養魚局がこの池を養魚場にしてしまい、水泳は禁止された。だが、子供たちは役人たちの目を盗んでその池で練習をしているようだ。
サーヴィトリーは、村にちゃんとしたプールができ、政府がちゃんとしたコーチをアレンジしてくれたら、誰にも負けない水泳選手になれると語っている。また、彼女の夢は、ドーバー海峡を泳いで渡ることのようだ。2008年1月にグジャラート州で行われる全国大会には、サラウンジャー村から3人の子供たちが参加する。
北インドで11月という寒い時期に水泳大会というのはちょっと信じられないが、この記事を読んだとき、デリー散歩の際に度々参考にしているマヘーシュワル・ダヤール著「दिल्ली
जो एक शहर है(Dillī Jo Ek Shehr Hai)」の中の一章を思い出した。「階段井戸と水泳祭」と題したその章には、デリーの水泳文化について詳細に書かれている。
インド人と水泳というと、必ずしもイコールで結ばれないように思われる。国際的に有名なインド人水泳選手は今のところ皆無だし、インドの多くの公共プールはお世辞にも衛生的とは言えず、水泳選手が育つような土壌は微塵も感じられない。子供たちが池や川で水遊びをしているのはよく見掛けるが、あくまで水遊びであり、水泳と呼べるような代物ではない。むしろ、インド人は泳げない人が多いのではないかというイメージすらある。だが、少なくともデリーでは、水泳は庶民に人気の娯楽のひとつであり、中には達人と賞賛される人々もいたらしい。
デリーは内陸の都市ながら、ヤムナー河という大河に寄り添うように位置しており、デリーの水泳文化の中心地がヤムナー河だとしても何ら不思議なことはない。特に雨季になると水泳好きの人々は朝からヤムナー河へ行って、水位と水流の増した河の中で思いっ切り水泳を楽しんでいた。当然、濁流の中で泳ぐのは命の危険を伴う。それゆえに人々は水泳の達人たちが荒波と格闘する様子を見てエキサイトしていた。雨季の日には毎日ヤムナー河でこのような水泳ショーが行われており、タイラーキー・カ・メーラー(水泳祭)と言われていた。
デリーの水泳愛好家たちの間には派閥争いがあり、各派閥は他の派閥を打ち負かすために、あっと驚くような技を次々と編み出していた。例えばある派閥では、弟子の頭に火鉢を乗せて泳がせ、師匠がキセルを吸いながら悠然と泳ぐといった離れ業をやってのけていた。またある派閥では、数人の泳ぎ手が台を支えながら泳ぎ、その台の上で踊り子が踊り、演奏者がサーランギーやタブラーを演奏するという仰天のショーを披露した。まるで水中で立っているかのように泳ぐ者、自分の背中に生け花を乗せて泳ぐ者、自分の両肩に小鳥を止まらせて泳ぐ者など、各自観客を驚かせるためのネタを考えては水泳祭に参加していた。ムガル朝後期のデリーで最も有名な水泳の達人は、ミールマーヒーという名前だった。彼はまるで魚のように自由に水の中を泳ぐことができた。デリーの人々は水泳の達人たちを尊敬の眼差しで見ていた。
インドでは河は聖なる存在である。そして、いつの頃からか、列車が河を渡るとき、乗客は河にお賽銭としてコインを投げ入れるようになった。ラールキラーの北のサリームガルから対岸のシャーストリー・パークには1856年建造のオールド・ヤムナー・ブリッジが架かっており、オールドデリー駅からウッタル・プラデーシュ方面へ向かう列車はこの橋を渡ることになる。そして、列車がこの橋を渡るとき、乗客は旅の安全を祈って、また様々な願い事をしながら、コインを河に投げ入れていた。水泳や飛び込みの得意な子供たちにとって、乗客が河に投げ入れるコインは絶好のお小遣いであった。子供たちはフンドシ一丁で橋の端に立ち、列車が来るのを待つ。そして、乗客がコインを窓から投げた瞬間、子供たちは一斉に河に飛び込むのである。今でも信心深いインド人は河にコインを投げ入れるが、昔はさらに多くの人々がお賽銭をヤムナー河に投げ入れていた。列車が橋を渡り切るまで、コインが橋に当たることで発せられるチャリーン、チャリーンという音がずっと響き渡っていたと言う。そして、それと同じくらい、子供たちが河の中に飛び込むことで発せられるドボーン、ドボーンという音もあちこちで発せられていた。子供たちは、飛び込んでいる最中も絶対にコインから目を離さず、一度飛び込んだら必ずコインを手に浮かび上がって来た。コインが河に落ちる前にキャッチする達人技を見せる子供も少なくなかった。
南デリーのメヘラウリーには、バーオリーと呼ばれる階段井戸や貯水池がたくさんあり、やはりそこでも多くの人々が水泳を楽しんでいた。ガンダク・キ・バーオリー(硫黄の階段井戸)は13世紀に奴隷王朝のアルタマシュによって建造されたデリー最古の階段井戸で、水に硫黄が混ざっていたためにそう呼ばれた。この井戸の水は皮膚病に効くと言われており、その効能を求めて多くの人々が沐浴に来ていた。また、休みの日には子供たちや水泳の達人が井戸の水の中にアクロバティックな飛び込みを行い、観衆から褒美をもらっていた。ガンダク・キ・バーオリーは今でもメヘラウリーにあるが(EICHER「Delhi
City Map」P142 G3)、水は干上がってしまっている。

ガンダク・キ・バーオリー
ガンダク・キ・バーオリーのそばには、1506年建造と伝えられるラージョーン・キ・バーオリー(石工たちの階段井戸)がある。また、メヘラウリーの南には、アルタマシュによって13世紀に建造されたシャムスィー・ターラーブという貯水池や、その水を利用したジャルナーという水の庭園がある(EICHER「Delhi
City Map」P142 F5)。これらの場所では、やはり休日に多くの人々が水泳や飛び込みをしていた。

ラージョーン・キ・バーオリー

シャムスィー・ターラーブ
プールワーローン・キ・サイル(参照)のときに撮影したため、
向こう岸にメーラーの観覧車が見える

ジャルナー
ニザームッディーンには、聖者ニザームッディーン・アウリヤーが建造したバーオリーがある。このバーオリーにまつわる伝説は、9月26日の皇帝の野望、聖人の呪いで詳細に解説した。

ニザームッディーンのバーオリー
あまりデリーのことを知らない人は驚くかもしれないが、実はデリーの「ヘリテージ・ショッピングセンター」コンノート・プレイスのすぐ近くにも、上のようなバーオリーが存在する。場所は、デリーに英語留学する人がよく通うブリティッシュ・カウンシルのすぐ近くである。ブリティッシュ・カウンシルの交差点から、南東の住宅街の中に入って行くと、ウグラセーン・キ・バーオリーが忽然と姿を現す(EICHER「Delhi
City Map」P2 G6)。15世紀にウグラセーンによって建造されたと言われており、後世の追加と思われるモスクも併設されている。ウグラセーンはアッガルワール・コミュニティーの創立者とされる王である。かつてはオールドデリーの人々がよくここまで泳ぎに来ていたらしいが、今では水はほとんど干上がっており、井戸の上には鉄格子が置かれてしまっている。

ウグラセーン・キ・バーオリー

モスクとニームの大木
一方、シャージャハーナーバードの南、アジメーリー門とトゥルクマーン門の間には、かつてシャージー・カ・ターラーブと呼ばれる巨大な貯水池があり、やはりオールドデリーの人々の憩いの場となっていた。だが、この貯水池は1857年のインド大反乱後に半分埋め立てられ、さらに1947年のインド独立後に完全に埋め立てられてしまった。現在、ラームリーラー・グランドやカムラー・マーケットがある辺りが、シャージー・カ・ターラーブのあった場所である。きっとデリーには他にも埋め立てられた貯水池がたくさんあることだろう。
今でもデリー各所に階段井戸や貯水池は残っているが、そこで泳いでいる人々の姿は見たことがない。見ての通り、バーオリーの水はもはや下水などで汚染されてしまって飲み水にも水泳にも適していない。ヤムナー河もすっかり汚染河川となってしまった。だが、酷暑期にインド門を訪れると、ラージパト沿いの水路で子供たちが素っ裸になって水遊びに興じているのを見掛ける。おそらくそのような風景が、ヤムナー河河畔やバーオリーなどで見られたのだろう。伝え聞くような水泳の達人の存在はすぐには確信が持てないが、きっとビハール州のサラウンジャー村の子供たちのように、ちゃんとした競泳用プールなどなくても、水のある場所で着々と水泳の技を磨く人々がこのデリーのどこかに今でもいるのかもしれない。
最近のデリーの物価上昇はすさまじい。不動産の価格は年々急上昇して行くし、野菜の値段もジワジワと上がっているし、交通機関の運賃も頻繁に値上げが行われているし、映画の入場料も高くなっている。物価上昇の波は、イスラーム教徒の祭日「犠牲祭」に捧げられる生贄の値段にまで及んでいるようだ。
12月21日はイードゥル・・ズハーであった。イード・アル・アドハー、バクリードなどとも呼ばれ、日本語では一般に犠牲祭と訳されている。イードゥル・ズハーは、ヒジュラ歴の最終月ハッジ月(巡礼月)の10日目、ハッジの最終日に行われる祭りである。アッラーから信仰心を試されたイブラーヒームが、長男のイスマーイールを生贄として捧げたことを記念した祝祭で、イスラーム教徒は山羊、羊、牛、ラクダなどを神に捧げる。イードゥル・ズハーで犠牲にされる動物には一定の基準があるようだ。その基準を満たす家畜がいればそれを生贄にしてもいいが、基準を満たす家畜を持っていない人は市場で購入することになる。よって、この時期になるとイスラーム教の国々では生贄の売買を行う市場が立つのである。デリーで最大の生贄市場は、オールドデリーのジャーマー・マスジドの前に立つ。ここでは20万頭以上の生贄が売られると言う。
12月20日と21日付けのヒンドゥスターン紙には、ジャーマー・マスジド前の生贄市場の密着レポートが掲載されていた。
やはり、生贄の値段はピンキリのようである。実際に数人の売り手と交渉した記者によると、山羊の相場は1匹4,000~ペア26,000ルピーほどのものが見られたようだ。犠牲にした後は家族や親類で食べるので、やはり肉の付いた生贄が高価らしい。山羊売りの話によると、山羊の肉付きを調べるには、山羊のお尻を揉むのが最上の方法だと言う。もしお尻の肉付きがよければその山羊からは多くの肉が取れるし、お尻を揉んですぐに骨が感じられるようであれば、多くの肉は期待できないようだ。その他、歯の数も山羊の値段を決定する重要な要素となるようで、2本歯と4本歯のものがあるらしい。一方、インドでは生贄としてのラクダの値段はそれほど高くない。15,000ルピーも出せば大体のものは買えてしまうようだ。ただ、中には25,000ルピーや30,000ルピーのラクダも売られていたと報告されている。ラクダの値段は外見の美しさと歯の数で決まる。ラクダは6本歯のものが好まれるらしい。
肉付きの他に山羊の値段を決定する要素がある。それは模様である。もし山羊の体の模様が、アッラーの文字「الله」や、イスラーム教の聖なる数字「786」に見えると、その山羊の値段は一気に跳ね上がる。そのような特別な生贄の価格は、今年はラーク(10万ルピー)単位に達している。20日付けのヒンドゥスターン紙には、そのような生贄がいくつか紹介されていた。例えば、ジャンムー・カシュミール州ラージャウリー県から来たアブドゥル・ガッファールは、デリーまで連れて来た100kgの2本歯ドゥンバー(蓄積した脂肪で尻尾が丸くて太くなる羊の一種)の希望価格を強気の30万ルピーに設定している。その理由は白い体毛の中に浮き出ている「アッラー」の文字。この時点で既に買い手から13万ルピーの声が掛かっており、さらに値段が釣り上がるのを待っている状態である。また、ウッタル・プラデーシュ州マインプリーから来たガネーシュ・チャンドラが連れて来た重量56kg2本歯の山羊の背中にも「アッラー」の文字が浮かんでいる。彼は少なくとも10万ルピーで売りたいと考えているようだ。ウッタル・プラデーシュ州ビジナウル県から来たイマームッディーンの山羊に至っては、背中に「アッラー」、「786」、「ムハンマド」の3種類の文字が浮かび上がっている。彼は15万ルピーを希望価格に設定している。

12月20日付けヒンドゥスターン紙の同記事を加工
写真は、アブドゥル・ガッファールの
「アッラー」ドゥンバー(希望小売価格30万ルピー)と思われる
右上はアラビア語の「アッラー」
面白いことに、その後日談が21日付けの同紙に掲載されていた。どうやらマインプリーのガネーシュ・チャンドラの山羊は、12万ルピーで売れたらしい。今年のジャーマー・マスジド前生贄市場最高値である。一方、30万ルピーを希望していたアブドゥル・ガッファールのドゥンバーは未だに買い手が付いていない。アブドゥルは、「クルバーニー(生贄を捧げること)はバクリードの2日後まで行われるから、それまでに誰かが買ってくれるだろう」と語っているが、落胆の色は隠せないようだ。イマームッディーンの山羊の続報はなかった。
イードゥル・ズハーの翌日の新聞にさらなる続報はないものかと探してみたが見当たらなかったので、これで生贄の報道は終了であろう。はたしてアブドゥルやイマームッディーンはどのくらいの値段で生贄を売ることができたのだろうか?最高値はさらに更新されたのだろうか?気になるところである。
この記事を読んでやはり考えてしまうのは、普通の山羊などにペンか何かで「アッラー」とか「786」とか書いて高い値段で売りつけるずる賢い人が現れないのか、ということだ。「アッラー」という模様のある山羊が12万ルピーで売れたということは、おそらく同じ重さの通常の山羊の10倍の値段である。「アッラー」と書くだけで値段が10倍になるなら、試してみる人はいるのではないかと思う。これからの生贄市場では、偽造生贄に要注意だ。
ボリウッドには各時代を代表する女優がいる。女優なので美貌や演技力は重要な要素だが、時代の顔になるにはそれだけでは不十分だし、演技力に関しては時として必要とされないこともある。最も重要なのは身にまとっているオーラである。それはカリスマ性と言い換えてもいいのかもしれないし、話題性と言い換えてもいいのかもしれない。それらを総合的に考慮すると、ボリウッドはしばらくアイシュワリヤー・ラーイの時代だった。だが、今年4月20日にアイシュワリヤーはアビシェーク・バッチャンと結婚し、「結婚までが女優の寿命」というやや古い考え方に基づくならば、彼女の時代は一応の終焉を遂げたと言っていい。事実、インドでは結婚を機に銀幕から距離を置く女優の数が他のどの映画界よりも多い。そして、アイシュワリヤー時代の終焉と共に、ポスト・アイシュワリヤーは誰かという疑問が浮上する。
ここ数年間、注意深くデビュー女優たちを見てきた。アイシュワリヤー時代にはアイシュワリヤー似の女優がたくさん登場した。ディーヤー・ミルザーやスネーハー・ウッラールなどがその代表例だが、彼女らはアイシュワリヤー時代の申し子に過ぎず、ポスト・アイシュワリヤー時代を担うだけの力はない。「映画カースト」カプール家の末裔カリーナー・カプールは2000年にデビューした当初は勢いがあったが、どうも最近はペースが落ちている。アイシュワリヤーと同じミスコン出身女優という観点ではプリヤンカー・チョープラーが有望株だ。2003年デビューだが、本当に頭角を現してきたのは2006年。「Krrish」や「Don」などでトップ女優に躍り出た。だが、あと一歩のところで時代の顔になるのに不足している部分がある。演技力と実績という面ではヴィディヤー・バーランが飛び抜けている。「Parineeta」(2005年)での衝撃のデビュー以来、「Lage
Raho Munnabhai」(2006年)、「Heyy Babyy」(2007年)、「Bhool Bhulaiyaa」(2007年)とコンスタントにヒット作に貢献しており、実力はナンバー1だ。これからさらに大女優として育って行くだろう。だが、オーラという面では少し足りない気がする。次世代の美の基準になりそうなのはカトリーナ・カイフである。インド人と英国人のハーフであるカトリーナの顔は「美しい」と「かわいい」の調和を見事に実現している。ボリウッド・デビューは2003年の「Boom」だが、「Maine
Pyaar Kyun Kiya?」(2005年)で本格的にヒロイン女優となり、2007年は「Namastey London」、「Apne」、「Partner」、「Welcome」など当たり年になった。アイシュワリヤーを見初めたサルマーン・カーンが、彼女に振られた後にガールフレンドに選んだのもカトリーナであり、それだけでも何かただならぬものを感じる。しかし、やはり微妙な部分でアイシュワリヤーと比肩するまでに至らない。
では誰がポスト・アイシュワリヤーを担うことができるのか?その答えは、運命なのか偶然なのか、アイシュワリヤーが結婚した2007年に出た。ディーピカー・パードゥコーネ。インド映画史上に残るヒット作となった「Om
Shanti Om」でボリウッド・デビューを果たした期待の新人女優である。世間の注目は今や専らディーピカーに注がれている。

ディーピカー・パードゥコーネ
まずは「これでインディア」恒例のカタカナ表記についての注記だが、彼女の名字「Padukone」をどうカタカナ表記するかは今のところ検討中である。ヒンディー語では「पादुकोण(pādukon)」に固定されつつあるような傾向にあるが、彼女はカルナータカ州バンガロールの人(生まれはデンマークのコペンハーゲン)で、「Padukone」もカンナディガ(カルナータカ人)のもののようなので、カルナータカ州の州公用語カンナダ語の表記も参考にしたい。カンナダ語で彼女の名字は「ಪಡುಕೋಣ(padukōn)」である。「これでインディア」ではアルファベット表記も補助的に参考にする方針を採っている。よって、候補としては「パードゥコーン」、「パドゥコーン」、「パードゥコーネ」、「パドゥコーネ」が挙がる。今のところカンナダ語表記+アルファベット表記を元に「パドゥコーネ」を採用しているが、将来予告なしに変更するかもしれない。追記:後に「パードゥコーネ」を採用。
実はディーピカー・パードゥコーネの名前は前々から聞いていた。隣の部屋に住むゴーパールが去年くらいから彼女の名前を頻繁に口にしていたのである。ゴーパールはボリウッド女優の中ではタヌシュリー・ダッターが好みのようなのだが、当時モデルとして活躍していたディーピカー・パードゥコーネもいいと力説していた。そのときは何がそんなにいいのかと思っていたが、「Om
Shanti Om」を見た瞬間直感した。彼女こそポスト・アイシュワリヤーを担える人材であると。「Om Shanti Om」の公開以来、メディアもディーピカーを異口同音に大絶賛しており、それが決して個人的な思い込みではないことが分かった。そして、先日Indo.toでOgataさんがディーピカーについて、「この新進女優が身にまとうオーラというか、麗しさというのか、どうもうまく表現できないが、そのただならぬ存在感にすっかり参ってしまった。人並みはずれた外見の美しさだけではなく、大スターとして突出した存在になるべく他の人にはない何かを持ち合わせているように感じるのだ。」と書いており、日本人でもそう思う人がいることを知って、ますます自信を持った(ちなみにアルカカットは日本人である。が、自分の日本人としての感覚に最近疑問を持っている)。
Kahkashaanさんもブログ◇・◆サブSUB LOGローグ◆・◇で書いているが、ディーピカーはモデル出身女優のくせに写真写りがよくない。上では精一杯写真写りのいい写真を探して掲載したが、彼女の一般的な写真では、下のようにちょっと目つきが怖く、年を取って見える。ちなみにディーピカーは1986年生まれである。だが、「Om
Shanti Om」で動くディーピカーを見れば、おそらく誰でも彼女の魅力に釘付けになるであろう。

写真写りの悪いモデル?
23日付けヒンドゥスターン紙のサプリメント「ハム・トゥム」では、占星術師サミール・ウパーディヤーイがディーピカーのクンダリー(生誕時の星の位置から導き出された運命表)を見て彼女のこれからを占っている。興味深いことが書いてあったので、翻訳して転載する。占星術上の専門用語が多いが、分かる範囲で訳した。

ディーピカー・パードゥコーネのクンダリー
誕生日:1986年1月5日
誕生時間:午後3時2分
誕生地:コペンハーゲン(デンマーク)
ディーピカーはデビュー作「Om Shanti Om」でシャールク・カーンと共演し、世間の注目を浴びた。モデルから映画女優に転進したディーピカー・パードゥコーネは有名なバドミントン選手プラカーシュ・パードゥコーネの長女である。
ディーピカーは、双子宮が東の地平線に交差し、乙女座網星が第三段階にあるとき、つまり天秤宮の影響下に生まれた。クンダリーでは吉祥の水星と第5家主の金星が進撃の太陽と結合しており、それゆえに彼女はモデルや映画に関係した仕事に就いた。現在ディーピカーのクンダリーでは木星期が続いており、それは2009年10月29日まで続く。その後、土星期が19年続く。
2007年10月15日から2008年2月9日まで、木星期が続くが、その間にラーフ(日食を引き起こす架空の天体)期が入る。この間、吉祥な影響と第11室の土星のため、「Om
Shanti Om」はスーパーヒットになった。同時に、キングフィッシャーとリーバイスのブランド・アンバサダーにもなった。
ディーピカーの星は将来の大成功を示唆している。主の木星が元の位置に戻り、幸運の土星が第11室へ行くことで、ディーピカーはボリウッドで大女優に成長し、大きな仕事をする機会に恵まれるだろう。その他、新しい広告のオファーやステージショーへの出演によって、大金を得るだろう。数々の企業のブランド・アンバサダーになるチャンスも得られるだろう。ラー