スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2002年前半ダイジェスト1

装飾下



1月1日(火) 2002年の初日の出

 昨夜はずっとカンニャークマーリーに来ていた日本人たちと話していたので徹夜になってしまった。午前5時頃日の出を見に海岸へ出た。今回の旅のメイン・イベントが、このインド最南端の地カンニャークマーリーで初日の出を見ることだった。既にベスト・ポジションにはインド人たちが陣取っていたが、僕は日本人の特権でいい席に入れてもらえることができた。やっぱり今日も風が強く、東の方から潮風が突風となってぶつかってきていた。髪はぐしゃぐしゃになるし、すごい寒いしで、早く太陽よ出てきてくれ、と祈るしかなかった。僕の座っていたところは波打ち際の手すりの上だったのだが、徹夜だったこともあり途中睡魔が襲ってきて、何度か手すりから海に落っこちそうになってヒヤリとした。

 次第に東の空が青みがかって来た。僕の座っている位置からだと、ちょうどヴィヴェーカーナンダ岩の辺りから日が昇りそうだ。残念ながら水平線の辺りには雲がかかっていたので、海から太陽が昇るところは見ることができなさそうだった。次第に赤みがかって来る空、そして雲の間から光線が漏れ始めた。僕もインド人たちも心はひとつだった。太陽がいつ、どこから出てくるか、固唾を呑んで東の空を一心に見つめていた。

 午前6時半頃、遂に太陽が顔を出した。2002年最初の日の出である。その瞬間、僕の後方から「スーリヤ・デーヴター・キ・ジャーイ!(太陽神スーリヤ万歳!)」という女性の声が聞こえた。ふと見ると、インド人たちは手を合わして太陽にお祈りをしている。僕もそれにならって初日の出に手を合わせ、今年1年の幸福をお祈りした。神妙なる新年の幕開けとなった。




ヴィヴェーカーナンダ記念堂と2002年初日の出


 9時頃ホテルをチェック・アウトしてバス停へ行き、マドゥライ行きのバスに乗った。一人日本人のおじさんも一緒だった。その人はなんか不思議な雰囲気の人で、ガイドブックを持たず地図だけ買って旅行していた。カンニャークマーリーからマドゥライまで、予想以上に時間がかかって、マドゥライに着いたときには4時頃になっていた。マドゥライの郊外のバススタンドに下ろされてしまったので、その日本人とリクシャーをシェアして市街地へ行ったのだが、その人は「インド来てリクシャーに乗ったのは初めてです。値段交渉が面倒ですから」と言っていた。案の定リクシャー・ワーラーは勝手に僕たちをどこかのホテルへ連れて行こうとした。するとそのおじさんは突然ぶち切れて「金を払わないぞ」と怒り出した。しかし顔は不気味な笑顔だった。「笑って怒ることにしてるんです」と言っていた。典型的なインド人嫌いな旅行者だと思った。既に僕はインドに5ヶ月滞在し、けっこうインド人贔屓になっているから、そういう旅行者のインド人に対する横柄な態度には腹が立つ。特に南インドのリクシャー・ワーラーは旅行者をだますようなことはほとんどなく、あったとしても駄目元でいろいろやってるだけでかわいいものだ。いちいちインド人の行動に腹を立てていたらせっかくの旅行も味気なくなってしまうだろう。リクシャーを降りたらその人とはすぐに別れた。

 2年前にマドゥライに来たときは、そのリクシャー・ワーラーのように勝手にホテルに連れて来させられたのだが、そのホテルが非常に気に入ってしまったので、今回もそのホテルに泊まろうと思っていた。ホテルの名前は忘れてしまっていたのだが、なんとなく道は覚えていたので、その記憶に従って探してみたら本当にあった。ホテルの名前はシュリー・デーヴィーだった。シングル・ルーム&バスルームで180ルピーとちょっと高めだが、このホテルには他のホテルにない特権がある。マドゥライにはミーナークシー寺院というタミル・ナードゥ州で最大規模を誇る有名な寺院があり、マドゥライはこの寺院の門前町として発展した町だ。そのミーナークシー寺院の西門のすぐそばにシュリー・デーヴィーはあり、屋上から寺院の全貌を見渡すことができる。以前来たときはその展望が気に入ってしまい、すぐに泊まることを決め、屋上で2日かけてミーナークシー寺院のスケッチをしたものだった。今回ももう1回スケッチしてみたくなってこのホテルに泊まった。

 チェック・インしてからすぐに屋上へ上がり、ミーナークシー寺院の西門である巨大なゴープラムをスケッチした。ミーナークシー寺院の四方にはゴープラムと呼ばれる巨大な門があり、これこそが南インドの寺院の建築様式の特徴である。ゴープラムの表面にはヒンドゥー教の神様のカラフルな像がゴチャゴチャと並べられており、見る者を圧倒する。前回来たとき、このミーナークシー寺院のゴープラムを見た感想を「まるで色盲検査みたいだ」と書いた覚えがある。描き始めたのが遅かったため、途中で暗くなってしまってスケッチを中断せざるをえなくなった。また明日の早朝続きを描こうと思う。




ミーナークシー寺院のゴープラム


 部屋に戻ってシャワーを浴びた後、夕食を食べに外へ出た。適当な食堂で食事をしていると、他のインド人客から「あれ、カンニャークマーリーで踊ってた人じゃないか?」と話しかけられた。確かに12月31日から1月1日になった瞬間、雰囲気に流されてインド人たちと踊りまくっていたが・・・。とにかくせっかく会ったので彼らと同じテーブルを囲んで夕食を食べた。しかし彼らはケーララ州から来た人々で、マラヤーラム語以外はあまりしゃべれず、意思疎通が難しかった。ちょっとマラヤーラム語を教えてもらったが、かなりタミル語と似てるな、と思った。

1月2日(水) マドゥライ

 朝6時にシュリー・デーヴィー・ホテルの屋上に上がり、昨日のスケッチの続きを描きながら日の出を待った。ところがちょうど太陽はミーナークシー寺院の西門の裏から昇ったので、日の出の瞬間を見ることはできなかった。8時半ころ絵は完成した。思ったよりも出来はあまりよくなかった。

 まずは朝、アリャガル・コイルというマイナーな村へ行くことにした。アリャガル・コイルにはアリャガル神を祀った寺院がある。アリャガルは土着の神で、もともとミーナークシー女神の夫だったのだが、北インドのヒンドゥー教の浸透によってミーナークシーはシヴァの妻ということになってしまい、代わりにアリャガルはミーナークシーの兄と見なされることになったそうだ。また、アリャガルはヴィシュヌ神と同一視されている。そういえばミーナークシーとシヴァの結婚をヴィシュヌが祝福するという絵を見たことがある。あの絵はこのことを表していたのか、と悟った。

 アリャガル・コイルはマドゥライの北東21Kmのところにある。リクシャー・ワーラーと往復300ルピーの料金で交渉し、行ってもらうことにした。アリャガル・コイルまでの道もやっぱりインドの田舎の風景が続き興味深かった。ほとんどおっぱい丸出しで歩いてるお婆さんがいたりした。マドゥライからアリャガル・コイルまでは30分くらいだった。ミーナークシー寺院と同じようなゴープラムがあり、けっこう本格的な寺院だった。本殿の柱に彫られた彫刻は一見の価値があるほど素晴らしいと思った。いつの創建かは分からないが、主にヴィシュヌのアヴァータラ(化身)の彫像が彫られていた。やはりアリャガルはヴィシュヌ神と同一視されてしまっているようだ。また、偶然目に留まったのだが、ゴープラムの表面に並べられた彫像の中に奇妙な彫像を見つけた。裸の女の人の股からコブラが生まれている、という不気味な彫像である。僕の予想だと、これはガルーダの母親に関する神話を表していると思うが確かではない。




アリャガル・コイルの寺院の本殿


コブラを産む裸の女性の彫像


 アリャガル・コイルに来る途中でリクシャーが壊れてしまったので、リクシャー・ワーラーが直すまで待ちながら、その辺にいたおじいさんたちと話をしていた。大体は乞食同然の人々だったが、一人変わったものを持った人がいた。ヤシの葉を重ねて綴じたような形をしており、中には絵が描かれていた。どうやらこれは占いに使う本みたいで、試しに僕もやらせてもらった。占い方は単純で、本を閉じて適当に棒をページの間に刺し、そこに描かれている絵で未来を占うというものだ。僕は2回やったのだが、1回目に出た絵は、3つ山があり、2つの谷の間に杓が立っているような感じだった。その人はほとんどタミル語しか話せなかったので何を意味するかは理解できなかった。2回目に出た絵は理解できた。インドの結婚式に使われる道具(火を燃やす暖炉や花輪)などが描かれており、ずばり「もうすぐ結婚する」という意味だった。本当だろうか・・・。でもなかなか興味深いものを見てしまった。どこかにその占いの本は売っていないだろうか?




古そうな占いの本


 リクシャー・ワーラーからショッキングな話を聞いた。タミル映画のスーパースターであり、僕がインドにはまるきっかけを作ったラジニカーントは、老衰のために身体が動かなくなり、もう映画に出ることはないそうだ。ラジニカーントの顔はタミル・ナードゥ州の街中の至るところに見られ、根強い人気を改めて感じていたのだが、もう彼の映画を見ることができないとなると寂しい気持ちでいっぱいである。(多分実際老衰はしていると思うが、まだ映画には出るかもしれない)




街中の看板にラジニカーントの顔が


 アリャガル・コイルからマドゥライに帰り、街を歩いていると、カンニャークマーリーで会った韓国人、ミンとキムに再会した。昼食を食べた後、一緒にティルマライ・ナーヤカ宮殿へ行くことにした。17世紀にティルマライ・ナーヤカ王が建てた宮殿である。しかし行ったときにはちょうどランチ・タイムで、1時間ほど待たなければならなかった。ミン、キムと共に宮殿の門の前で腰を下ろし話をした。話している内に彼らのことがけっこう分かってきた。彼らは大学時代の友人同士で、今回は卒業旅行でインドに来ているそうだ。韓国には徴兵制度があるので、大学卒業は日本より遅れる。だから彼らは27歳だった。どんな大学か聞いてみたらどうやらアクティング・スクールみたいな感じのところで、彼らは映画監督になりたいそうだ。また、本当かどうか分からないが、キムは2001年韓国で大ヒットした映画「チングー(友人)」のプロデューサーの甥にあたるそうだ。もしかしたら将来彼らは韓国の映画界を背負って立つ人物になるのかもしれない。

 午後2時になってティルマライ・ナーヤカ宮殿が開き、僕たちは中に入った。ほとんど西洋風宮殿の建築で、インドらしさがほとんど感じられなかった。インド・サラセン様式と言うそうだ。荘厳な建物だった。




ティルマライ・ナーヤカ宮殿


 ティルマライ・ナーヤカ宮殿を見た後、ミン&キムと別れてホテルに戻った。南インドのホテルは24時間制をとっており、チェック・インした時間の24時間後がチェック・アウト・タイムになる。昨日は午後4:20にチェック・インしたので、同じ時間までにチェック・アウトしなければならない。実際は少しぐらいの遅れはOKなのだが、余計なトラブルを避けるためにも一応チェック・アウトだけはして、荷物をフロントに一度預けた方が無難である。

 チェック・アウトした後、ミーナークシー寺院に入ることにした。今回の旅行ではホテルの上から眺めただけで、まだ中に入っていなかった。南インドの寺院はランチタイムのためか知らないが、12時〜4時の間は閉まっている。チェック・アウトしてホテルを出たときにはちょうどミーナークシー寺院が開いたときだった。

 ミーナークシー寺院は南インド最大の規模と権威を誇る寺院だけあって、外部も内部もすごい。例えるならばシネマ・コンプレックスだろうか。まさに屋内寺院コンプレックスである。一応主神はミーナークシー女神で、副神としてスンダレーシュヴァラ(シヴァ)が祀られているのだが、その他にもありとあらゆるヒンドゥー教の神様の彫像があちこちに置かれ、インド人たちはいちいちそれらの神様に祈りを捧げている。彫像だけでなく、なんと本物の象までいて、鼻で参拝に来た信者の頭を撫でて祝福を与えている。




信者に祝福を与える象


 ミーナークシー寺院はヒンドゥー教徒にとって重要な寺院だが、外国人ツーリストにとっても興味深い観光地である。よって悪質な人たちがそこら辺にたむろしているかと思ったら別にそうでもなく、「ガイドは必要か?」と聞いてくる人もいなかったし、カメラ持ち込み料30ルピーを要求してくる人もいなかった。ただ運がよかっただけなのかもしれないが。寺院内でまたミン&キムと出会った。

 ミーナークシー寺院南門の辺りには神様ショップが軒を連ねている。神様ポスターを見せてもらったらどんどんいろんなポスターが出て来たので手当たり次第に買いまくった。南インドでしか手に入らないようなマイナーな神様のポスターがたくさん手に入ってよかった。全部で510ルピー。ポスターだからましなのだが、それでも荷物が増えてしまった。

 ミーナークシー寺院の内部には美術館まである。前回来たときにはこの美術館の存在に気付かなかったので、今回初めて入った。主にヒンドゥー教の神様の彫像が置かれており、かなり見ごたえのがる美術館だった。薄暗くてよく見れないのが難点だったが、南インドの神様の彫像とその名前が記されているので、非常に参考になった。

 7時頃ホテルで荷物をもらって、ニュー・バス・スタンドへ行き、チェンナイ(マドラス)行きのバスに乗った。一時はマドゥライ→チェンナイ行きのデラックス・バスで480ルピーも払わされそうになったが、政府系の安いバスを見つけ、149ルピーで行くことができた。車掌さんが親切な人で、僕のために片側3席を一人で使わせてもらうことができた。だからその3席の座席に横になることができたので、デラックス・バスのリクライニング・シートより断然よく眠れた。運がよかった。

1月3日(木) チェンナイ

 朝7時頃にはチェンナイに到着した。ちょうど安宿が集まっているエグモア駅の手前で降ろしてもらえたので助かった。本当に親切な車掌さんだった。

 ところが案外宿探しが大変だった。聞くところによるとちょうどチェンナイでテニス・マッチが行われるところらしく、どこの宿も満室状態だった。しかしそういうときに暗躍するのがホテルの客引き連中である。一通り安そうな宿を自分で廻ってみてどこも満室であることを確認した後、最終手段として客引きにホテルを紹介してもらうことにした。連れて行かれたのはエグモア駅からちょっと離れたところにあるスーリヤ・タワーというホテル。シングル・ルーム、バスルーム付きで275ルピー。テレビが置いてあったのと、部屋の壁に大きなインド人女性の絵が飾ってあったのが気に入ったので、ここに泊まることにした。

 ケーララ州のティルヴァナンタプラムにいたときから街中の壁などに貼ってある映画宣伝用のポスターを見て薄々感じていたのだが、今日タミル映画のミュージカル・シーンを流しているテレビ番組を見てそれは確信に変わった。おそらく今、タミル映画界でプラシャーントという男優はトップ・スターに近い存在になっている。プラシャーントは、アイシュワリヤー・ラーイと共演したハリウッド資本の映画「ジーンズ」に出ていた人だ。あのときはまだ新人で、あまり濃くない顔の男優だとしか思っていなかったのだが、あれから大きく成長したみたいだ。街中のポスターやテレビで彼の姿をよく目にする。プラシャーントはタミル映画界のシャールク・カーンになりつつあるのかもしれない。

 エグモア駅の前の通りに食堂が並んでいたので、その内の一軒に入って朝食を食べた。マサラ・ドーサーを食べ、チャーイを飲んで合計23ルピーだったので、103ルピーを払った。お釣りは80ルピーになるはずだが、後から数えたら70ルピーしかなかった。そういえば隣の席に座っていたインド人もウェイターに「10ルピーお釣りが足らないぞ」みたいなことを言っていた。ここの食堂のウェイターはそうやって小金をせしめているのだろう。朝から気分を害された。

 チェンナイでは買い物が主な目的だったが、まだ11時前でどこの店も開いていなそうだったので、博物館で時間を潰すことにした。チェンナイは博物館や美術館が一箇所に固まっており、入場料もセット料金だった。僕の泊まったホテルからすぐ近くだった。

 ところが生意気にも入場料がインド人料金と外国人料金の二本立てになっていた。インド人は大人10ルピー、外国人は5ドル(約250ルピー)。カメラ持ち込み料200ルピー。全く馬鹿げている。僕は外国人登録手帳を持っていたので、北インドの観光地のようにインド人料金で入れるかと思ったらそう易々とはいかなかった。チケット売り場の人に「オフィスへ行ってディレクターのパーミッションをもらって来い」と言われてしまった。ディレクターはいい人で、すぐに分かってくれてパーミッションをくれたが、カメラを持っていることは内緒にしてカメラ・チケットは買わなかった。

 まず入ったのはガヴァメント・ミュージアム。石像セクションとブロンズ像セクションに分かれていた。ここの博物館ではいろいろと興味深いものを見ることができた。例えばヤリという動物の石像。狼のような虎のような、形容のしようがない生き物で、多分空想上の生き物だろう。初めて見た。また、ガネーシャの石像が7世紀頃にはあったことも知った。ガネーシャはヒンドゥー教の神様の中では比較的新しく登場した神様だと思っていたのだが、7世紀頃の石像が置いてあった。また、ブラーフミー文字の刻んである石も個人的に興味があった。ブラーフミー文字とは、インダス文字の次にインドに現れた文字で、ヒンディー語の文字やタミル語の文字の共通の祖先である。ナーガの石像もあったのだが、興味深い説明が添えてあった。インドでは夫婦に子供ができないと、前世か現世で蛇を殺したことが原因になっていると考えられているため、その供養のためにナーガの石像を作ったそうだ。ナーガは主にコブラのことなのだが、上半神人間で下半身蛇の石像もあった。メモリアル・ストーンというものもあった。死んだ人(家族、友人、英雄など)を偲ぶためにつくられる石像である。ヒンドゥー教は遺体を火葬後川に流してしまうので基本的に墓はないのだが、やはり墓に代わるものは作られていたみたいだ。




ナーガの石像


 ガヴァメント・ミュージアムの他に、子供博物館、国立美術館、近代美術館などが並んでいて、一応共通チケットで入れるところは全部入ったのだが、どれも大したことはなかった。ガヴァメント・ミュージアムだけで十分だ。

 博物館を見た後、歩いてスペンサー・プラザまで行った。スペンサー・プラザは近代的なショッピング・モールで、2年前にチェンナイに来たときにも立ち寄ったことがある。しかし、今回再びスペンサー・プラザに行ってみたら割と驚いてしまった。まず、記憶していたよりも店の数が増えていたように感じた。また、やはり客層は金持ちインド人ばかりで、英語を日常語として使う人々ばかりだった。それでいて店員はパーリカー・バーザール並みに客を店に連れ込もうとしていた。雰囲気は香港のチョンキン・マンションに似て来ているように思えた。スペンサー・プラザの中には、サーリーや宝石などの高級服飾品店、アンティーク・ショップ、ミュージック・ワールド(CD屋)、ランドマーク(本屋&CD屋&文房具屋などなど)、コンピューター・ショップ、軽食屋、両替屋、その他いろいろな店があった。特にランドマークには驚いた。店舗が2階ぶちぬきだし、本、CD、PCソフトなど品揃えが豊富だった。しかもキャッシャーはバーコード式だった。

 スペンサー・プラザではいくつか買い物をした。まず、Lさんから「南インドのモーニング・バジャンで、女性が歌っているやつを買ってきてください」と頼まれていたので、ミュージック・ワールドで探した。せっかく南インドに来ているので、南インドにしか売っていないようなローカルなCDが欲しかったが、なかなか良さそうなのがなかったので、あまりその宿題にはこだわらず、自分で良さそうだと思った「Vatsalyam」というCDを買った。インドの伝統的な子守唄を集めたCDで、シンガーも女性だったのできっとLさんは気に入るのではなかろうか。次に、コンピューター・ショップで「ラーマーヤナ」と「シュリー・クリシュナ」というCD−ROMを買った。子供向けのソフトだが、多分ラーマーヤナやクリシュナについて絵と音声で分かりやすく解説してあるソフトだと思う。まだやっていないので分からないが。あと、本屋で「The Book of Devi」と「The Book of Krishna」を買った。

 スペンサー・プラザから映画館がたくさん集まっている地域までまた歩いて行った。この辺りは昔来たことがあるのでよく知っている。今日は6時辺りから何かタミル語映画を見ようと思っていたので、そのチケットを買いに行った。いろいろ面白そうな映画をやっていたが、その中からプラシャーント主演の「Majunu」を見ることに決めた。チケットは一番高い席で40ルピーだった。デリーより遥かに安い。上映時間は6時半から。

 6時半までまだ2時間ほどあったので、チェンナイ最大の寺院、カパーレーシュヴァラ寺院へ行って時間を潰すことにした。カパーレーシュヴァラ寺院はチェンナイの中心街から南へけっこう行ったところにあるので、リクシャーを使った。

 カパーレーシュヴァラ寺院はシヴァ神を祀った寺院らしいのだが、シヴァだけでなくいろんな神様の寺院の集合体だった。チェンナイの中ではけっこう有名な観光地だと思うのだが、全然みんな観光客ずれしていなくてのんびりした雰囲気で気に入った。ちょうど寺院では何かの儀式を行っていた。数人の若者が一列に並んで立っているのだが、彼らは頭の上に布袋を持っており、首には花輪がかかっていた。そしてその周りをインド人たちが取り囲んでいた。その内その若者たちは歩き出して、ギャラリーたちもその後に従った。そして寺院の外に止まっていたワゴン車の上に布袋を置き、若者たちは車の中に入った。聞いてみると彼らはこれからケーララ州のアイヤッパンの寺院へ行くらしい。それを送り出す儀式を行っていたのだろう。偶然珍しいものを見ることができた。




アイヤッパン寺院へ行く若者たち


 カパーレーシュヴァラ寺院の傍に、巡礼者用の小店が並んでいる一角があったので、ぶらぶらと見て廻った。すると神様ポスターをたくさん置いている店を見つけたので、またコレクター魂が呼び覚まされてしまった。やはり南インドの神様のポスターがたくさんあり、これは買うしかない、と欲しいポスターをピックアップしていったら、店の人もハッスルして来てどんどんいろいろ見せてくれた。そして遂に出て来たのが50年以上前の古いプリントの神様ポスター。保存状態がよくなかったのだが、そこに描かれている神様は温かい表情をしており、今売られている神様ポスターとは全然違った。僕はもう喜びに打ち震えた。まさにこれこそ僕が今まで求めていたものだった。なんとあのラヴィー・ヴァルマーの神様ポスターもあった。古いプリントのポスターはやはり値段が張り、1枚30ルピーしたが、今買わなかったらどこでまた買えるか分からないので、この際大量に購入することにした。そして2500ルピー分のポスターを買い込んだ。今回の旅の目的は当初、カンニャークマーリーで初日の出を見ることだったのだが、なんとなく神様ポスターを収集する旅になってしまっているような気がする。既にバッグの4分の1くらいはポスターが占拠していると思われる。

 6時半からタミル語映画「Majunu」を見た。タミル語はほとんど分からないので、やぱりヒンディー語映画ほど理解はできなかったが、大体のあらすじは掴めた。




Majunu

Majunu
 ハッサン(プラシャーント)は有力な政治家の息子で悠々自適な生活を送っていた。ところがある日カルカッタから来た女学生ヒーナ(ヒロイン、名前不明)と出会い、二人は相思相愛となる。そんなとき、ハッサンの父親はテロリストに命を狙われ、爆破テロに巻き込まれる。父親は危機一髪で命を取り留めるが、ヒーナが偶然の悪戯からテロの犯人にされてしまい、警察から追われる身になってしまう。ハッサンはヒーナを自分の部屋にかくまい、家族にも内緒にして数日間同棲生活をする。それと同時にハッサンはテロリストを独自に追う。ある大雨の日にハッサンは決意をし、ヒーナをカルカッタに帰す。しかしハッサンはヒーナの電話番号や住所を聞き忘れてしまう。そこでハッサンは友人と共にカルカッタを訪れ、ヒーナを探す。ヒーナと出会うことはできたのだが、またも運命の悪戯が起こる。なんとハッサンの父親の命を狙ったテロリストはヒーナの兄だったのだ。そして兄はハッサンがカルカッタに来ていることを知り、ハッサンの殺害も計画していることを知る。そのことにヒーナは気付き、ハッサンをカルカッタに帰そうとする。ハッサンはヒーナに振られてしまったと思って落ち込む。ドゥルガー・プージャーのときにハッサンとテロリストは乱闘を繰り広げるが、ヒーナはハッサンを無理矢理に引き離し、チェンナイ行きの列車へ乗せようとする。そしてとうとうハッサンにテロリストは自分の兄だということを打ち明ける。列車が発車しようとしているときにテロリストが来てハッサンを殺そうとするが、ヒーナはハッサンと一緒に列車に乗り、テロリストは警察に取り押さえられてハッピー・エンドとなる。

 タミル語映画だったのだが、時々ヒンディー語が出て来ることがあった。しかし大体ヒンディー語をしゃべるのはテロリストか道化役の人である。こういうところにタミル人のヒンディー語に対する抵抗を感じた。タミル人はヒンディー語が分かるのか、という疑問はあるが。客の入りはそんなによくなかったのだが、客はやたらと盛り上がっていた。タミル人は北インド人より明らかに能天気というか、おめでたいというか、ヤケクソなハイテンションになることが多いような気がする。

 主演のプラシャーントは踊りもアクションも「ジーンズ」の頃に比べて断然上手になっており、スターのオーラがにじみ出ていた。ヒンディー語映画よりタミル語映画の方がダンス・シーンが迫力があるのだが、ちょっと無理矢理ダンスシーンが挿入されている印象は拭いきれなかった。ヒンディー語映画の場合、最近は割とストーリーに自然に溶け込むようにミュージカル・シーンを挿入させていることが多い。音楽はハリス・ジャヤラージュ。「Rehnaa Hai Terre Dil Mein」の音楽も担当していた。緩やかでメロディアスな曲を作るのがうまいと思う。僕はけっこうこの人の音楽は好きだ。

1月4日(金) カーンチープラム

 朝6時半に起きてカーンチープラム行きのバスに乗った。カーンチープラムはチェンナイの南西へ77Kmいったところにある町で、インド有数の聖地である。今日は日帰りのカーンチープラム旅行を計画していた。チェンナイからバスで2時間程でカーンチープラムに着いた。カーンチープラムに着く前にバスの中から遠くにゴープラムが並んでいるのが見えたので、すぐにカーンチープラムに着いたことが分かった。何も高い建物が建っていない町にいきなりゴープラムが建っているので、強烈なランドマークになっている。

 バスを降りるとすぐにリクシャー・ワーラーに話しかけられた。カーンチープラムには大小合わせると200以上の寺院があるそうなのだが、主な寺院は5つある。その5つを廻って500ルピーという値段を提示された。田舎にしては一人前に外国人旅行者をぼったくる奴だ、と思いつつも200ルピーで交渉をまとめてリクシャーでカーンチープラムを廻ることにした。寺院は12時に閉まってしまうので、その前に5つの寺院全てを見て廻るため、どうしてもリクシャーの助けが必要だった。

 まず行ったのはカイラーサナータ寺院。7世紀に建立された寺院で、寺院の至る所に彫られた彫刻が素晴らしかった。所々まだ絵の具が残っている部分もあり、保存状態の良さを感じさせた。本殿の搭は崩れてしまったようで、新しく建て直されていた。

 次に行ったのはエーカンバレーシュヴァラ寺院。カーンチープラム最大の寺院。この寺院で良かったのは、普通はヒンドゥー教徒しか入ることができない本殿の中に入ることができることだ。バラモンたちが信者に祝福を与えている様子を見学することができた。さすがに写真撮影は厳禁だったが。




本殿への入り口


 次に行ったカーマクシー寺院は実は個人的に最も興味を持っていた寺院だ。カーマクシーという女神について日本語の文献ではあまり触れられていないので、是非どういう神様か確かめてみたかったのだが、あいにくガイドみたいな人もいず、ヒンドゥー教徒以外は本殿の中に入れなかったので、何も分からなかった。カーマクシー寺院を見て廻っているとき、偶然中国人の観光客団体と会った。中国語は少し習ったことがあるので、ちょっと中国語で話しかけてみた。彼らは上海から来たそうなのだが、なんとヒンディー語を勉強している人がいた。中国人でヒンディー語を習う人がいるなんてけっこう驚きだった。また、中には日本語をしゃべれる人もいた。それにしても中国語は本当に発音が難しい。僕の片言の中国語は通じるには通じたのだが、「その発音は違う」と何度も訂正されてしまった。それでもまだ正確な発音にはなってなかったみたいだ。ヒンディー語ならこのまま勉強を続ければネイティブ・スピーカー並みになれる自信があるが、中国語は多分駄目だろう。中国語を話すには音感が必要だから難しい。

 その後、ヴァイクンタ・ペルマール寺院へ行った。8世紀に建立された寺院で、縦長な構造をしている。本殿の周りの回廊に刻まれたレリーフが素晴らしかった。

 最後にヴァラダラージャ寺院へ行った。16世紀の寺院で、沐浴池の隣にあるホールが良かった。ヴィシュヌ神を祀った神殿らしいのだが、柱に刻まれた彫刻は各種趣向が凝らしてあって見て楽しかった。カジュラーホーのような男女交合像もあった。ここも本殿にヒンドゥー教徒が入ることができなかった。一応仏教徒もヒンドゥー教徒の一種なので、入れてくれていいと思うのだが・・・。




ヴァラダラージャ寺院のホール


 カーンチープラムはやはり聖地だけあって巡礼者や観光客が多く、それらの人々を対象にした悪質な人間が寺院や街中にいたりしてちょっと残念だった。町の規模も案外大きくて、タミルの田舎を見ることはできなかった。予定通り12時までに寺院の観光をし終え、チェンナイ行きのバスに乗った。

 エグモア駅の前でネット・カフェを見つけたので入ってみた。安宿が集まっている地域にあるネット・カフェなので、もしかしたらと思っていたが、やはり日本語を使うことができた。1時間25ルピーと、デリーに比べたら高めだったが、スピードは速かった。1週間ぶりにメール・チェックをした。年賀状が届いたかどうかが心配だったのだが、誰からも「届いたよ」というメールがなかったので、まだ届いていないと思われる。というか、最悪の場合本当に郵便局で燃やされているか、ガウタム・ナガルの家に返送されているかもしれない。

 カーンチープラムからチェンナイ行きのバスに乗っているときから、どうも身体の調子がおかしかった。額に手を当ててみると熱が出ているみたいだった。予定では今日、夜行バスに乗ってハイダラーバードへ行く予定だったのだが、大事をとってもう1泊マドラスに泊まることにした。どうせホテルも明日の7時まで利用できるので、料金も変わらない。旅行を始めて既に1週間が過ぎ、けっこうハイ・ペースで旅行をして来たので身体が疲れているのだろう。今夜はゆっくりホテルで休んだ。

1月5日(土) バンガロール(1)

 昨夜は早く寝たので身体の調子は大分回復したが、まだ少しだるかった。喉も痛くなってしまった。早朝ホテルをチェック・アウトし、バス停へ向かった。アーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードへ行こうと思っていたのだが、そこまで行く政府系のバスは出ていないらしかった。バス停にいた人に「列車で行け」と言われてしまった。しかし列車は午後5時くらいのしかないそうだ。仕方ないので第1プランのハイダラーバード行きを諦め、第2プランのバンガロールへ行くことに決めた。バンガロールはカルナータカ州の州都で、そこまで行くバスはちゃんとあった。

 チェンナイからバンガロールまではバスで約9時間かかった。タミル・ナードゥ州を抜けるまでけっこう時間がかかったのだが、カルナータカ州に入ったらすぐにバンガロールに着いた。やはり州境というのはよく分からず、店の看板の文字などが変わったことで州が変わったことが分かった。カルナータカ州の言語はカンナダ語。僕には全く未知の言語である。タミル文字と起源は同じだと思うのだが、アラビア語に似てるように見える。

 バンガロールには多くの肩書きがある。インド最大のITシティーであることから「インドのシリコンバレー」と呼ばれ、デリー、ムンバイーなどと並んで近代的な街並みであることから「インドで最もモダンな街」と呼ばれ、緑の多い美しい都市であることから「インドの庭園都市」とも呼ばれている。今回初めて訪れた。訪れる前は、パーキスターンの首都イスラマーバードのような整然とした都市景観を思い浮かべていたのだが、実際にバンガロールの街を見てみると、思っていたよりもインド色が強かった。整然さでは南デリーの方が勝っていると思ったが、それでも西洋風の建物がたくさん並んでいるのが見えた。チェンナイも十分発展した都市だったのだが、バンガロールと比べたら圧倒的にゴミゴミしていて汚ない。

 宿はバス停近くのロイヤル・ロッジに決めた。ダブル・ルーム、バスルーム付きで250ルピー。部屋は非常に清潔で、テレビ、タオルもあり、フロントの対応も親切で、しかもなんと防犯カメラまであった。さすがバンガロール。ちょっとびっくりしてしまった。

 チェック・インした後、すぐにホテルを出てバンガロールの街に繰り出した。今回バンガロールを訪れたのにはひとつの大きな目的があった。実はバンガロールにはインド唯一のケンタッキー・フライド・チキンの店舗があるのだ。昔はデリーにもケンタッキーはあったのだが、地元の市民の抵抗にあって燃やされてしまい、撤退を余儀なくされたらしい。そのインド唯一のケンタッキー・フライド・チキンを体験するのが、バンガロール訪問の大きな目的だったのだ。

 とりあえずリクシャー・ワーラーに「Do you know Kentacky Fried Chicken?」「Do you know KFC?」と一生懸命聞いてみたが、知っている人はいなかった。一瞬、バンガロールにケンタッキーは本当にあるのかと不安になったが、やっとケンタッキーを知ってるリクシャー・ワーラーを見つけ、行ってもらった。ところが、そこは「Kentacky Chicken Shop」という紛い物の店だった。仕方ないのでバンガロールの繁華街であるMGロードとブリゲイド・ロードの交差点附近に行ってもらい、自分で探すことにした。ケンタッキーは交差点のすぐそばにあり、カーネルサンダースのお馴染みの笑顔が微笑んでいた。迷わず中に入って注文した。フライド・チキン2個、パン、ペプシ(S)、フライド・チキン(S)で99ルピーだった。注文するときにスパイシーとノン・スパイシーを選べる。僕はノン・スパイシーを選んだ。食べた感想は、「え、こんな味だったっけ?」という感じ。この程度の味では店舗縮小も止むを得ないかもしれない。




ケンタッキー・フライド・チキン


 ケンタッキーは期待外れに終わったのだが、ケンタッキーのあったブリゲイド・ロード周辺には大いに驚かされた。ケンタッキー、ウィンピー、ピザ・ハット、ドミノ・ピザなどのファースト・フード店や、バリスタ、コーヒー・デイなどの喫茶店が並び、バーがあり、プラネットM(CD屋)があり、リーバイスやナイキなどのスポーツ用品店もあり、バンガロールならではのコンピューター・ショップもたくさんあった。ちょっと離れたところにはボンベイ・ストアなどの高級デパートもあった。道を歩いているインド人も断然モダンで格好をつけた人たちばかりだ。露出度がインド人レベルを超えたインド人女性も歩いていた。西洋人の姿もちらほら見られた。これほどまで一箇所にいろんな店が揃った通りはデリーにもない。バンガロールはすごい街だと改めて感じた。驚嘆と敬意を込め、今日からバンガロールのことを「インドの六本木」と呼ぶことにする。バンガロールに暮らすのも快適そうだと思った。




繁華街、ブリゲイド・ロード


 帰りはバスで帰ろうと思っていたのだが、まだバンガロールの街の地理感がないため、バスを拾うことができなかったばかりか道に迷ってしまったため、仕方なくオート・リクシャーで帰った。メイン・ロードは新年だからか電飾で飾られており、とてもきれいだった。また、バンガロールのリクシャー・ワーラーは英語やヒンディー語がよく通じると思った。タミル・ナードゥ州では英語もヒンディー語もほとんど通じなかったのだが・・・州境をひとつ越えただけですごい違いである。

1月6日(日) バンガロール(2)

 一昨日から体調を崩していたのだが、今朝は大分よくなっていた。しかし喉の痛さはとれていない。唾を飲み込むときに気合がいる。あまりうがいをしていなかったのがいけなかった。長距離バスで移動すると、開けっ放しの窓から飛び込んでくる砂埃を思いっきり吸い込まざるをえないので、こういうことになってしまう。ちょっと旅のペースを落とすことにした。

 泊まっていたホテルでは朝6:30〜9:00までホット・ウォーターが出た。今回の旅行でお湯の出るホテルに泊まったのは初めてだったので、朝ホット・ウォーターの恩恵に授かった。やっぱりお湯は気持ちいい。

 朝食を食べてからちょっとバス停へ赴いてみた。今夜、夜行バスでホースペートへ行く計画を立てていたのだが、本当に夜行があるかどうか心配だったので下調べをしようと思った。バンガロールのバス停はやはりインドにしては整然としており、どのバスがどこへ行くか分かりやすかった。バスの予約もできたので、今夜10:30発ホースペート行きのバスを予約した。約160ルピーだった。

 今日はバンガロール市内の主な観光地をさらっと見ておこうと思い、まずはティープー・スルターン宮殿へ行くことにした。リクシャーで移動すると高くつきそうだったので歩いていった。バス停から宮殿までの間にはシティー・マーケットというバンガロールで最大の市場があり、市場の建物の外にまで市場が広がっていた。路上にいろんな商品を並べて売ってる人が所狭しと並んでいるのだが、何を売ってるか見てみると、ほとんどガラクタに近いような機械の部品などだった。売ってる人も乞食みたいな感じの人が多かったので、おそらくゴミ箱などを漁って金になりそうなものを拾って来てここで売っているのだろう。しかし、本当にガラクタに近いものばかりなので、果たして買う人がいるのかどうかは疑問である。

 ティープー・スルターン宮殿はシティー・マーケットの南側にあった。割とこじんまりとした宮殿だったのだが、ここでも入場料は外国人料金とインド人料金に分かれていた。外国人は2ドル(100ルピー)、インド人は5ルピーである。もちろん僕はインドの住民なのでインド人料金で入れたが、こんな大したことない観光地まで外国人料金が設定されていたのでは、一般観光客はたまったものじゃないだろう。特にバックパッカーの人はもはや絶対にこういう観光地には入らなくなってしまうだろう。インドを旅するには、インド留学してインド市民になってしまうのが一番安上がりだと思った。せめて学生料金を作ってほしいものだ。

 ティープー・スルタン宮殿は18世紀に建てられた宮殿で、インドでは珍しい木造の建築物だった。しかし本当に小さな宮殿だったし、まだ新しかったので、あまり大したことはなかった。わざわざ歩いてきた甲斐がなかった。

 シティー・マーケットのバス停からミニバスに乗り、今度はガバメント・ミュージアムへ行った。ヒンドゥー教の石像を見るのが好きなので、ここの博物館の石像は楽しめた。特に七女神の石像はよかった。また、隣には美術館があり、インド人がインドの風景を描いた油絵などが展示してあった。

 博物館からさらに歩いて、ヴィダーナ・サウダというカルナータカ州の政庁の建物を見た。なかなか壮大な建物だとは思ったが、それ以上の感慨は沸かなかった。ただ写真を撮って引き返した。




ヴィダーナ・サウダ


 まだ身体の調子が悪いのか、それとも疲れが溜まっているのか、はたまた結局あまり感動的なものがなかったのか、ヴィダーナ・サウダを見終わったらすごい疲れてしまった。「地球の歩き方」に載っている観光地は大体見終えたし、別にやることもなくなってしまったので、昨日行った繁華街へ今日も行ってみることにした。バンガロールは観光客を惹きつけるような観光地はあまりないと思う。それよりも、街のモダンさ、人のモダンさを見るのが面白い。特にMGロードとブリゲイド・ロードをぶらぶらと歩くのは楽しい。街を歩いてこれほど楽しい街はインドにはないのではないだろうか、というくらいだ。今日はバンガロールの旧市街と新市街の両方を歩いたのだが、旧市街はインドの雰囲気そのままであり、新市街は道も広くて街路樹も整然と並んでおり、すごいキレイな街だと感じた。ヴィダーナ・サウダの前の通りも椰子の木が並んでいて、南国風の大通りだった。ただ、まだバスの使い勝手が分からないので、ちょっともどかしい。

 ホテルに戻ったのは2時頃。5時がチェック・アウト時間だったので、それまでゆっくり身体を休めることにした。今夜はまた夜行バスだし、体力を消耗する。明日の朝ホースペートに着き、そこからハンピーへ向かう予定だ。ハンピーは昔から一度行ってみたかったところで、遺跡に囲まれたひっそりとした村だそうだ。ハンピーに行った人の話を聞くと、誰もが「ハンピーはいい場所だ」と口を揃える。最近ハンピーは急速に観光地化が進んでいるそうなので、早く行っておかないといけないと思っていた。カルナータカ州の田舎の風景を見れるのも楽しみである。

 5時にホテルをチェック・アウトし、レセプションに荷物を預かってもらってもう少しバンガロールの街を散策しようと思ったのだが、どういう訳かそのホテルでは荷物を預かってもらえなかった。インドでは大体のホテルでチェック・アウト後も無料で荷物を預かってもらえるのだが、有料のところはあれど預かってもらえないというホテルは初めてだった。重い荷物をもってあちこち移動するのは嫌だったので、そのままホテルのロビーに座って待たせてもらうことにした。こうしていれば「仕方ない、預かってやる」とか、「バスの時間まで部屋を使っていいぞ」とか言ってくれるかとちょっと期待していたのだが、そのままずっと放って置かれた。このホテルのフロントは親切だと思っていたのだが、こんな仕打ちをされるとは思ってもみなかった。

 ずっと暇を持て余していたおかげで、遅れることもなく10時半発のバスに乗り込めた。椅子はリクライニング・シートになっており、一応眠ることはできそうだった。いざバスが出発しようとしたとき、バンガロールのバス停は出ようとするバスと入ろうとするバスがそれぞれ我先に突っ込んでいったおかげでまるでパズルのような状態になっていた。それでもそれぞれのバスの車掌がうまくバスを誘導して、さっきまでの混雑が嘘みたいに解消され、バスは無事出発することができた。

 バンガロールからホースペートまでの道のりは夜だったので何も見えなかった。ガイドブックによると10〜11時間かかるそうだ。ちょうど明日の朝ホースペートに着くことになる。リクライニング・シートを倒し、なんとか眠りに就こうと努力した。

1月7日(月) ハンピー(1)

 異変はバスに乗っているときに起こった。身体のあちこちがやたらと痒い。具体的に言えば両手の指と両腕と背中である。どうやら椅子に南京虫か何かがいて、刺されてしまったようだ。見てみたら痒い部分が赤く腫れ上がっており、触ると鈍い痛みがした。まだ風邪の後遺症が残っており、喉が痛いというのに、さらに予想外のダメージを受けてしまった。おそらく前にこの席に座った人が南京虫の巣窟みたいな乞食同然の人だったのだろう。

 ホースペートに着いたのは朝6時頃、案外早かった。6時半のハンピー行きのバスに乗り、7時にはハンピーに到着することができた。ホースペートからハンピーまでの道のりは楽しかった。期待通りカルナータカの田舎をそのまま体現したかのようなのどかな風景で、しかもハンピーが近付くにつれて小さな遺跡がぽつぽつと道端に転がっていた。

 ハンピーの宿については全然心配していなかったのだが、着いたらそれは間違いだったことに気が付いた。ハンピーのオン・シーズンは1月〜3月で、まさに今シーズンが始まったところらしく、宿はどこも満室の状態だった。一応僕は朝早く着いたので、前の客がチェック・アウトするのを待ってチェック・インすることができたが、午後にハンピーに着いていたら宿が全くない状態になっていた。ハンピーは急速に観光地化されているというが、それよりも先にハンピーを訪れる観光客が急速に増加しているため、それを収容するためのホテルが足りなくなっている。

 僕がハンピーで泊まったのはプシュパ・ゲスト・ハウスというところで、民家の一部を観光客に貸しているような感じのこじんまりしたホテルだった。200ルピーの部屋が空くというので待っていたのだが、そこに泊まっていた人がどこかへ外出してしまい、いつまでも帰って来なかった。そうこうしている内に300ルピーの部屋が空いたので、ちょっと高いと思ったがそこに泊まることにした。ハンピーでは一泊100ルピーぐらいで泊まれると思っていたのだが、状況が状況だけに仕方がない。現にハンピーのあちこちで宿を探してさまよっている外国人旅行者の姿が見受けられた。

 ハンピーがここまで人気を博しているのは、おそらくゴアからの直通バスがあるせいだと思う。なぜならハンピーにいる旅行者はゴア系のヒッピー的旅行者が非常に多いからだ。その他、インド人の巡礼者や、修学旅行で来たと思われるインド人の子供の集団などがいて、ハンピーは大変賑わっていた。ただ、日本人の姿はほとんど見かけなかった。韓国人の方が多いくらいだ。

 ハンピーは14世紀から16世紀に南インド一帯を治めたヴィジャヤナガル王国の都の跡で、岩だらけの荒野に数々の遺跡が点在している。既にハンピーに来る間にもその岩と遺跡の調和した姿を見ることが出来た。ホテルが決まってからは早速観光をするためにハンピーを歩き始めた。

 ハンピーには2日間滞在する予定だったので、今日はハンピー周辺の遺跡を見て歩くことにした。ハンピーではレンタサイクルを借りてのんびりと遺跡巡りをするのが通らしいが、今日行くところはどこも歩いていけそうだったので別に自転車などは借りなかった。

 まずハンピーの東にあるアチュタラヤ寺院を目指した。丘をひとつ越えたところにあり、けっこう規模の大きい寺院だった。北門の前には広い参道があり、かつてここを通って信者たちが寺院に参拝したのだろうと容易に想像することができた。参道の先にはトゥンガバドラー川があり、川の向こう岸にも遺跡が見えた。川に沿って北東の方向へ歩いていくと、途中にいくつもの廃墟がポツンポツンと建っていた。全部丹念に見て廻ったのでは日が暮れてしまいそうなくらいだ。川には橋の跡も残っていた。そして一番奥にあるのがヴィッタラ寺院である。ハンピの大きな見所のひとつで、山車型の寺院やミュージック・ストーンと呼ばれる叩くといろいろな音が出る柱がある寺である。今まで見てきたハンピの遺跡に入場料はなかったのだが、このヴィッタラ寺院だけは入場料を取られた。やはり外国人料金とインド人料金の二本立てで、外国人は5ドル(250ルピー)、インド人は10ルピーである。言うまでもなく僕はインド人料金で入れた。




荒野に佇むアチャタラヤ寺院


山車型の寺院(ヴィッタラ寺院)


 ヴィッタラ寺院を見た後は来た道を引き返してハンピー村まで戻った。ちょうど昼時になっていたので食堂で食事をした。モモを出しているところがあり、急にモモが恋しくなったのでヴェジ・モモを注文したのだが、非常に悲しい味がした。一生懸命作ってくれたのだが・・・。

 今度はハンピーの南側の遺跡を見た。大きなガネーシャの像や、クリシュナ寺院、巨大なリンガやヌリスィン像などがあった。こちら側に巨像が多いのは何か理由でもあるのだろうか。




ナルスィンハ(人獅子)像


 実はもうこのとき体力の限界に達していたので、一旦ホテルに戻って休息することにした。風邪のせいか、南京虫のせいか、それとも年齢のせいか、最近疲れやすくなっている。夜行バスで来たことも原因だろうし、日差しが強くてあまり日陰がないのも体力消耗の原因だろう。とにかく早く体調を回復させたい。

1月8日(火) ハンピー(2)

 昨日の午後3時頃、ベッドに横になってちょっと休んだのだが、目が覚めたら次の日の朝6時になっていた。よく眠ったものだ・・・。それだけ身体が疲れていたのだろう。南京虫に刺された部分の腫れは大分収まっていたが、喉の痛みはとれていなかった。

 外に出てハンピーの朝の様子を上から眺めていた。僕の部屋は2階で、屋上のようになっていたので、上から通りの様子がよく見れた。さすがに朝は肌寒く、セーターが必要なくらいだった。ホテルの前の家の前では、女の人が牛糞を混ぜた水を玄関の前に撒いていた。牛糞には蚊、ハエ、南京虫などを防ぐ効果があるらしく、よくインドの田舎の家の壁には牛糞が塗りたくってあるのだが、玄関の前に牛糞を撒くのは初めて見た。牛糞はすぐに固まる。今度はその上にコーラムと呼ばれる絵を米の粒で描く。魔除けのような意味合いがあると思われる。




牛糞の上にコーラムを描く


 実は昨日、この牛糞のおかげでひどい目に遭った。僕はコロコロ転がすタイプのバッグで旅行をしており、昨日も朝ホテルを探しているときにバッグを転がしながら道を歩いていた。ところがこの牛糞の道を転がしたら、車輪が詰まって動かなくなってしまい、針金で車輪の間に詰まった牛糞をほじくり出さなくてはならなかった。ちゃんと動くようになったので笑い事で済んだのだが・・・。

 牛糞を撒き、コーラムを描き終わった女性は今度は食器を洗い出した。道には水壺を持って井戸に水を汲みに行く女性たちが行き来していた。男性たちの朝は大体歯を磨いているだけだ。牛舎のある家では男が牛を洗っているのが見えたが。あと、子供たちは道端で座って遊んでいたりしてのどかである。小さい子供は素っ裸で歩き回っている。日も昇り、道には昨日のように宿を必死に探し回る旅行者がちらほら見え始めた。僕も歯を磨きながらその様子を眺めていた。

 今日は自転車を借りてちょっと遠いところまで足を延ばしてみることにした。レンタル・サイクルは1日30ルピーだった。ブレーキやタイヤをチェックして問題なかった自転車を借りて、ハンピーの南の方へキコキコこぎ始めた。

 昨日行ったクリシュナ寺院やヌリスィン像の辺りを越え、バナナ畑の間の道をずっと南下して行った。2つの大きな石が寄り添っているシスター・ストーンを越えた辺りから石と岩だけの荒野の風景となり、所々に朽ち果てた遺跡が広がっていた。名もない寺院や遺跡も多いのだが、一応何かあったらなるべく止まって足を踏み入れてみる方針で最初の内はゆっくりと遺跡巡りをした。地下寺院、ダナイク・エンクロージャーを廻り、一応見所のひとつとされているハザーラ・ラーマ寺院へ到着した。ハザーラ・ラーマ寺院の壁にはラーマーヤナを題材としたレリーフが刻まれていた。その後針路を北にとってザナーナ・エンクロージャーを目指した。ここも見所のひとつで、入場料が必要だった。外国人は5ドル(250ルピー)、インド人は10ルピーである。ここも外国人登録手帳を見せてインド人料金で入ろうとしたのだが、なんと拒否されてしまった。そして「オフィスへ行って許可をもらって来い」と言われた。僕は何とか「僕はインドに住んでいるからインド人だ。ヴィッタラ寺院はインド人料金で入れたぞ」と説明したが無駄だった。そこで仕方なく許可を取るため、ハンピーの南にあるカマラ・プラムにある考古学オフィスへわざわざ行くことになった。

 ザナーナ・エンクロージャーからオフィスまで自転車でゆっくり行って10分ほどだった。チーフ・オフィサーと話して許可をもらおうと「僕はデリーに住んでいて、インド市民だからインド人料金で遺跡に入りたい。だから許可を下さい」と英語で話したが、ここでも交渉は難航した。チーフは「君はただインドに住んでいるだけで、国籍は日本人だから、外国人料金で入りなさい」と言って来た。僕は「タージ・マハルもこの外国人登録手帳を見せればインド人料金で入れるんだぞ」と説得したが、なかなか折れなかった。チーフは僕に書類を見せて来た。それはインド政府の入場料に関する通達で、「Citizens of Indiaは10 Rs/per head、Othersは5dollers(250Rs)」と書かれていた。しかし「Citizens of India」の定義が書かれていなかった。僕は「Citizens of Indiaはインドに住んでいる人のことだ」と主張したが、それでも駄目だった。しかし途中からヒンディー語で交渉し始めたら好感を持ってくれたらしく、最後には「君はヒンディー語がしゃべれるから特別に許可をやる。他の外国人には教えるなよ」ということで、遂に交渉を始めてから30分ほどでチーフ・オフィサーの許可証を得ることができた。この努力のおかげで240ルピー得をした。でもインド人の役人を説き伏せて自分の主張を通せたので、それ以上の達成感があった。

 ザナーナ・エンクロージャーにはカマラ・マハルというヒンドゥーとイスラームの建築様式を融合させた建築物や、エレファント・ステイブルという象小屋の跡があったが、やはり250ルピーも払う価値のある遺跡とは思えなかった。10ルピーで十分過ぎる。




カマラ・マハル(蓮の宮殿)


 ザナーナ・エンクロージャーから考古学オフィスのあるカマラ・プラムまでの道の間にもいろいろ遺跡がある。沐浴場や貯水池が固まっている地域があって、治水能力の高さに驚いた。ところがこの辺りを廻っているときに自転車の後輪がパンクしてしまった。道が舗装されてなくて石が突き出しているので、自転車で通ったらパンクしてしまうのは必定なのだが、どうも運転しにくくなってしまったので、そのままカマラ・プラムの自転車屋へ行ってパンクを直してもらった。日本の自転車屋のように水を使ってパンクしている部分を丹念に探し当て、穴の開いている部分にゴム切れをボンドで貼ってくれた。インド人でも割と丹念にやってくれるものだと感心していたら、修理料金はなんと驚きの5ルピー(15円)。「たったの5ルピーでいいの?」と耳を疑ってしまった。田舎だから安かったのかもしれないが、日本の自転車屋がいかにぼったくっているのかが分かった。僕の知っている自転車屋はパンク修理一律1000円だった。物価の差を考慮に入れても、この値段の差は考えられない。日本における正規のパンク修理料金は多分100円くらいだと思う。

 カマラ・プラムで昼食を食べ、カムラ・プラムにある博物館へ行った。ハンピー周辺で出土した発掘品が展示されていた。しかしここの博物館はそういう出土品よりも、中庭にあるハンピーの遺跡の模型や、ハンピーの整備以前の写真などを見る方が楽しかった。博物館を見た後、カムラ・プラムから東の方にあるパッタビラーマ寺院へ行った。さすがにこの辺りまで観光客はあまり来ないようで、村も観光客を対象としてないただの純粋な村だった。ハンピーのいいところは、たくさんの遺跡を見ることができることよりも、こういう村の様子を自転車でのんびり眺めることができることだ。残念ながらハンピーやカマラ・プラム周辺では村人もかなり観光客に慣れてしまっているが、パッタビラーマ寺院に辺りまで来れば本当に普通のインド人と、伝統的な家屋や生活様式を見ることができる。それでいてやはり観光客は珍しい存在ではないので、子供たちに囲まれるようなこともない。それがいいと思った。パッタビラーマ寺院自体はそれほど個性的な特徴もないただの遺跡だった。




カルナータカの伝統的家屋


 一旦カマラ・プラムまで戻り、今度はハンピとは別の方向へ北上した。当然のことながら、下り坂を下っているときはいいのだが、上り坂は自転車で上るのは辛い・・・。途中で諦めて自転車を降り、自転車を押しながら坂を上りきったりして体力の衰えを感じていた。こちらにも途中にちらほら遺跡があったが、もはやわざわざ自転車を降りて見て廻れるほど気力体力が残っていなかった。そのまま昨日行ったヴィッタラ寺院まで来てしまった。昨日はハンピから山道を歩いてこの寺院まで来たが、今日は平野をグルッと自転車で廻ってここまで来たことになる。入場料が必要なので、もう1回ヴィッタラ寺院に入る気にはなれなかった。寺院の前でマンゴー・ジュースを飲んでリフレッシュし、来た道を引き返した。

 ヴィッタラ寺院へつながっている道とは別の道を行ってみると、トゥンガバドラー川に突き当たった。川には橋があったのだが、途中で製造中止になったらしく、向こう岸とつながっていなかった。代わりに橋の下では渡し舟が活躍していた。舟とは行ってもお椀型の粗末な作りの舟である。こんなので本当に川を渡れるのかと心配になるくらい心もとない舟だ。人が乗るのも心配になるくらいなのに、なんとその舟には自転車やバイクが積まれ、立派に川を渡っていた。僕はさすがにそこまで勇気がなかったし、もうこれ以上遺跡巡りをする気もなかったので、引き返すことにした。




お椀型の舟


 そこからハンピーまで戻るには、一度カマラ・プラムへ南下して、そこから再び北上しなければならない。ちょうど3時頃で、太陽の光はまだまだ強く、気温も最高潮になっていたので自転車を漕ぐのはかなり疲れた。上り坂では即行で押し歩きをし、下り坂はゆっくりと急速しながら下った。自転車のサドルが固いので、尻が擦れてこのときかなり痔気味になっていた。最近、風邪を引くは、南京虫に刺されるは、痔になるはで、インドを旅するのに無傷ではいられないことを実感した。

 ハンピーにやっとのことで帰り着き、自転車を帰してフラフラと宿に帰った。水シャワーが気持ちよかった・・・!そのまましばらくゆっくり休んだ。僕の場合、「休む」とはつまり「パソコンで日記を書く」という意味に近いのだが・・・。

 夕食はメイン・ロードの食堂で食べた。スペシャル・ターリーを注文したのだが、かなりの時間待たされた。小さい食堂だし、注文の早い順から順々に作っているので仕方ないのだが。でも、スペシャル・ターリーは本当にスペシャルで、サブジー2種、サンバー、ダヒー、チャパーティー2枚、パパド、ご飯、バナナと食べ応えがあった。食べ終わってお金を払おうとしても店の人が忙しくて全然取り合ってくれず困った。というか、店の主人だと思われた人がどうも酔っ払ってるみたいで、僕がお金を払おうとすると「OK、OK」と言って笑ってどこかへ行ってしまったりするのだ。僕はどうしようかと思っていたが、その主人の奥さんらしい人がお金をもらってくれた。どうもこの店は奥さんが取り仕切っているみたいだ。

 食堂に座ってターリーを待ちながら夜のハンピーの様子を眺めていたのだが、本当に白人バックパッカーの姿が目立つ。酔っ払った店主を見て、西洋人の増加がヒンドゥーの聖地に住む人々を蝕んでいるのを感じて嫌な気分になった。日本人ももしかしたらその一員なのかもしれないし、僕もその一員なのかもしれないのだが、僕の今までの経験からすると日本人にインドの文化を破壊する力はない。仏教はもともとインドの宗教だし、僕たち日本人とインド人の心の奥を流れるものに似通った部分があるからだと思う。恐るべきは欧米人の我が物顔の態度である。欧米人はみんな汚ない身なりをしている割にインドに溶け込んでいないし、溶け込もうともしていない。日本人にもそういう人がいるが、特にインド人はイギリス植民地時代の後遺症か、西洋の文化は自分たちの文化より優れていると勘違いしてる人が多いので、簡単にそちらの方向へ流れてしまう。特にハンピーのような聖地がそうなっていくのを見るのは耐え難い。もっとも、こうやって僕のように俗物化していく聖地を嘆くことも外国人の勝手な我がままなのかもしれない。もちろん僕にはどうすることもできないが、もっと早くハンピーに来ておきたかったと思った。

1月9日(水) 一日中バス移動

 確かに昨日はカルナータカの田舎の様子を見て喜んでいた。しかしまさかその次の日にこんなことになるとは・・・。僕は早朝ハンピーからバスに乗ってホースペートまで行き、そこからハイダラーバード行きのバスに乗っていた。ところがホースペートからハイダラーバードまでの道は幹線道路でも何でもなく、田舎の村々と人住まぬ荒野を突っ切る道路だった。田舎はいいのだが、田舎道だけは勘弁してもらいたかった。何十年前に舗装したのだか分からないような粗悪な道だ。そのオンボロ道路をオンボロバスで通るのだからたまらない。いつバスが壊れるかと気が気ではない。しかも道路は自動車一台分しか通れない。対向車が来るとお互い路肩に車体を寄せて、ギリギリのタイミングで通り抜けていく。まさに神技としかいいようのない運転技術である。牛車などものんびり道を走っているから避けて通らなければならない。それに加え、インドの道にはいろんな動物が彷徨っている。牛、ヤギ、犬、鶏、カラス、人などなど・・・。それらをクラクションでどかしながら進まなければならない。

 僕の乗ったバスはただのローカル・バスだったので、途中トイレ休憩や食事休憩などはなかった。途中大きなバス・ステーションに来ると5分〜10分くらい止まるので、そのときにトイレなどを済まさなければならない。僕は途中で物売りからバナナを一房買って、それでずっと食べつないでいた。水分はなるべくとらないようにして、トイレに行きたくならないようにした。ホースペートからハイダラーバードまで約600Km。まさに苦行のような旅だった。

 救いだったのは、車掌や運転手が僕に親切にしてくれたことだ。バス停に着いたときは「5分止まるから今のうちにトイレに行ったりチャーイ飲んだりしなよ」とか言ってくれたので、行動しやすかった。途中乗り込んでくる乗客も僕が珍しいのでいろいろ質問してきて和気藹々と移動ができた。

 すれ違う自動車はトラックやバスが多かったのだが、それ以上にアイヤッパ・ツアーズのワゴン車が多かった。アイヤッパというのはケーララ州の地方神で、シヴァとヴィシュヌ両方の血を引いていると言われる神様だ。カンニャークマーリーが混んでいたのも、ハンピーが混んでいたのも、実は外国人旅行者が多かったというよりは、このアイヤッパ・ツアーズの人々が多かったからに他ならない。チェンナイのカパーレーシュヴァラ寺院で見た儀式もこのアイヤッパ・ツアーズへの出発の儀式だった。要するにアイヤッパ・ツアーズというのは巡礼者の集団なのだが、彼らはみんな黒い衣服を身にまとい、バスやワゴンで集団移動してあちこちのヒンドゥーの聖地でお祈りをしているのだ。もうすぐアイヤッパ関連のお祭りがあるのか、それとも1月14日にある南インド最大のお祭りポンガルのためなのかは分からないが、外国人観光客にとっては宿が見つからなかったり観光地が混雑していたりして、ちょっと迷惑な話である。

 ホースペートから400Kmの地点でライチュールという割と大きな街に寄った。城壁に囲まれた歴史のありそうな街だった。ライチュールはまだカルナータカ州だったのだが、ハイダラーバードまでの道の間のどこかで州境を越え、アーンドラ・プラデーシュ州に入った。アーンドラ・プラデーシュ州の言語はテルグ語だが、カルナータカ州のカンナダ語とテルグ語の文字は似ているし、どちらも僕は読めないので、文字の変化で州を越えたことを察知することはできなかった。

 アーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードには夜9時に到着した。ホースペートから約12時間かかったことになる。まる半日である。さすがに疲れてしまった。宿はハイダラーバード駅の前のシティー・ロッジというマイナーなホテルにした。シングル・ルーム、バス・ルーム付きで一泊165ルピー。

1月10日(木) ハイダラーバード(1)

 遂に完全に体調を崩してしまった。昨日の無理なバス移動が祟ったみたいだ。朝から熱が出てフラフラする。しかし、今日は朝、列車のチケットを取りに駅のリザベーション・オフィスへ行かなければならない。老体に鞭打って、オフィスの開く午前8:00に合わせて外へ出た。やはり大分北に来たので涼しくなっており、朝はかなり肌寒い。セーターを着て駅まで行った。

 ハイダラーバードは今回の旅の最後の街で、ここからデリーに戻らなければならない。ハイダラーバードからデリーまでは1681Kmあり、とてもじゃないがバスでは行けない。寝台列車に乗って1日かけて走破しなければならない距離だ。どうしても列車のチケットが必要だった。しかし今の時期、列車のチケットは非常に取りにくいという噂を聞いていたのでちょっと心配だった。インドの列車には、外国人旅行者のために確保された席が主な列車に少し用意されており、普通の旅行者はそれを利用すれば混んでいる時期でも割と簡単にチケットを取ることができるのだが、それは観光ヴィザでインドに来た人だけの特典で、僕のような学生ヴィザの外国人は利用できないことになっている。だから列車のチケットを取るのはひとつの難関だった。もしチケットが取れないようなことがあれば、僕はデリーに帰れなくなってしまうのだ・・・。

 僕の第一希望は明後日12日の朝6:40ハイダラーバード駅発のアーンドラ・プラデーシュ・エクスプレスだった。この列車に乗れば13日の朝8:40にデリーに着くことができる。ハイダラーバード駅の予約オフィスには外国人用の窓口もあったが、まずはインド人用の窓口に並んで普通にチケットを買うことに挑戦してみることにした。ところが、やはりその列車はキャンセル待ち状態で、ウェイティング・ナンバーを聞いてみたらなんと211番とのことだった。つまり、僕の前にキャンセル待ちをしている人の数が210人もいるということになる。ほぼ絶望的な数字である。そこで今度は外国人用の窓口に並び、最後の望みを賭けてみることにした。祈るような気持ちで窓口の人に予約フォームを渡し、息を呑んでその人がコンピューターを打つ様子を見守っていた。すると、なんと外国人用窓口でそのチケットが取れた。パスポートの提示を求められたので恐る恐る渡した。もしパスポートに貼られたヴィザを見られて学生ヴィザであることがばれてしまうと全てが水の泡と化してしまう可能性がある。しかしその人はただパスポート番号を紙に写しただけで、ヴィザは見なかった。料金426ルピーを払い、無事に予約チケットを渡された。神様に感謝したくなる瞬間だった。これでデリーに帰ることができる!インドの習慣に従い、神様への感謝を行動に表して、予約オフィスの前に座っていた二人の乞食に1ルピーずつ寄付をした。

 列車の予約で精神力をかなり消費して身体がフラフラになってしまったので、ハイダラーバード観光は後回しにしてホテルに戻って身体を休めることにした。明日も1日観光できるので、そう急がなくてもいい。

 午後2時頃目が覚めた。完全に回復はしていなかったが、幾分身体は軽くなったみたいだった。そこでハイダラーバード観光へ出掛けることにした。今日はハイダラーバードのシンボルであるチャール・ミーナールを見ることにした。リクシャーを拾って、旧市街の中心にあるチャール・ミーナールへ向かった。

 今回の旅行はまさに南インド4州を廻る旅となった。南インド4州とは、ケーララ州、タミル・ナードゥ州、カルナータカ州、アーンドラ・プラデーシュ州の4つで、これらの州はドラヴィダ文化中心の州であるため、北インドとは異なった文化、人、言語で構成されている。しかもその4州をただ巡るだけでなく、ケーララ州の州都トリヴァンドラム、タミル・ナードゥ州の州都チェンナイ、カルナータカ州の州都バンガロール、アーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードと、全ての州都を制覇した。これらのことからいろいろと思ったことがあるのだが、特に今回ハイダラーバードに来てみて、ハイダラーバードは南インドにしてはイスラーム教徒の多い街であることを実感した。旧市街はまさにイスラームの街で、男は白いイスラーム帽をかぶり、女は黒いブルカーをかぶっている。それでいてイスラームの街にしては整然としており、道も広かった。

 イスラーム教徒が多いことに関係があるのかもしれないが、ハイダラーバードではかなりヒンディー語が通じた。タミル・ナードゥ州ではほとんどヒンディー語が通じなかったのとは対照的である。街中の看板にもヒンディー語やウルドゥー語がちらほら見えたし、人々の会話もヒンディー語(ウルドゥー語)が多かったように思える。かえってテルグ語を聞く機会やテルグ語の文字を見る機会は案外少なかった。

 さて、チャール・ミーナールだが、4本の尖塔を持つ立派な建物だった。旧市街の中心に位置しているだけあって、チャール・ミーナールの周辺は常に大渋滞状態だった。しかもメッカ・マスジッドというモスクが近くにあるからか知らないが、乞食が非常に多くて辟易した。10秒に一回乞食が来る。冗談ではなく本当である。しかもけっこうタフな乞食が多くて、僕の腕を掴んできたりするから困った。乞食のターゲットは僕のような外国人旅行者だけでなく、むしろチャール・ミーナール周辺にある店だった。僕はある店でソフト・クリームを食べながら腰掛けていたのだが、乞食がひっきりなしにその店に入ってきてお金を無心していたのを見ることになった。まさに入れ替わり立ち代わりという表現がピッタリである。店の人もやって来る乞食たちにいちいちお金をあげていたから偉いと思った。乞食は未亡人らしきお婆さんが多かったように思える。




チャール・ミーナール


 しばらくチャール・ミーナールをぶらついたのだが、やはり体調が良くなかったので疲れただけだった。でもこのままホテルに帰るのはちょっと口惜しかったので、もう一発何かをしておきたくて次の目的地を考えていた。すると、ふとミュージック・ワールドのことが浮かんできた。実は今朝予約オフィスへ行ったときに、ミュージック・ワールドの袋を持った人を見たので、ハイダラーバードにもミュージック・ワールドがあることを予想していた。インドには2つの大手音楽チェーン(CD、カセットなどの店)があり、1つはミュージック・ワールド、もう1つはプラネットMである。この両店舗は大体街で最もモダンな地域に店を構えているので、もしハイダラーバードのミュージック・ワールドへ行くことができたら、自然にハイダラーバードで最もモダンな地域へ行くことができると思った。適当なリクシャー・ワーラーに「ミュージック・ワールドって知ってる?」と聞いてみたら「知っている」と言うので、行ってもらうことにした。

 ミュージック・ワールドは本当に存在し、バンジャラ・ヒルズという高級住宅街にあった。予想通り、その近辺は高級店が並んでいる地域であったが、バンガロールの繁華街を見てしまったので幾分力不足に思えた。マクドナルドぐらいはあるかと思ったが、ピザ・ハットとバリスタがあるくらいだった。もっとよく探せばあったかもしれないが。

 せっかくミュージック・ワールドを目的地として来たので、ミュージック・ワールドの店内にも入った。そこで1枚CDを買った。「The Holiday Album」というCDで、ビーチ・リゾートなどでよく流れていそうな曲が入っていて気に入ったので買った。「Going To Ibiza」「Lambada」「Sunchyme」「Dancing Queen」「Ab Ke Sawan」「We Like To Party」など、どこかで聞いたことのある懐かしい曲が多かった。衝動買いした割にはいいチョイスだった。

 それからバリスタに入り、リッチにケーキとコーヒーでくつろいだ。店内にはハイダラーバードの上流階級インド人の若者が多数いた。どこにも金持ちインド人はいるものだと感じた。

1月11日(金) ハイダラーバード(2)

 実はハイダラーバードに着いてから食事は専ら駅前のラクシュミー・レストランで食べていた。「地球の歩き方」に載っていたということもあるが、駅前にヴェジタリアン・レストランがあまりなかったので、このラクシュミー・レストランに行かざるをえなかった、という理由もある。最近「Non-Veg」という文字を見るとそのレストランにはあまり入りたくなくなってきた。だんだん身体がヴェジタリアンになって来たのかもしれない。別に肉を食べることに抵抗はないのだが・・・。

 今日はそのラクシュミー・レストランの名物らしきものを朝食で食べてみた。その名も「Paper 70mm Dosa」。ウェイターに聞いてみたら「とても大きなドーサ」ということだったので、いったいどれぐらいの大きさか確かめるために注文してみた。出て来たのは本当にでかいペーパー・ドーサだった。しかし、「70mm」というのは多分ミス・プリントで、本当は「70cm」だと思う。「70mm」だったらすごい小さいドーサになってしまう。「70cm」のドーサを全部食べ切るのにはけっこう苦労した。その大きさの割に値段は20ルピーと手頃なのがよかった。




Paper 70mm Dosa


 朝食を食べた後、バスに乗ってゴールコンダ・フォートへ行った。ハイダラーバードの主要な観光地のひとつで、16〜17世紀に築かれた巨大な砦だ。聞くところによるとインド三大砦のひとつで、一見の価値があるという。けっこう期待して行った。入場料はやはり2本立てで、外国人は2ドル(100ルピー)、インド人は5ルピーだった。僕は問題なくインド人料金で入れた。ゴールコンダ・フォートは岩山の上に築かれた居城を中心に周囲が堅固な城壁で囲まれていた。ところが保存状態があまりよくなくて破損している箇所が多く、しかも武骨な砦だったので、期待が大きかった分がっかりした。上からの眺めは良かったが、なんとなくのんびりと風景を眺められるような構造になっていなかったのですぐに降りてきてしまった。




ゴールコンダ・フォート


 ゴールコンダ・フォートを見終わった時点でまだ正午頃だった。ハイダラーバードでもうひとつ是非行っておきたい場所があった。それはラモジ・フィルム・シティー。映画の撮影所である。テルグ語映画の他、ヒンディー語映画の撮影なども行われているそうだ。ハイダラーバードにあることを知っていたので、なんとか行けないかと思っていた。ゴールコンダ・フォートの傍の店の人に聞いてみたらなぜかその人はバス・ルートに詳しくて、紙にフィルム・シティーまでの道のりを詳細に書いてくれた。何番のバスに乗ってどこのバス停で降りて、また何番のバスに乗ればいいかなどが書かれていて、しかも料金まで教えてくれた。いったいなぜこんなに詳しいのだろうか・・・。

 その人の情報に寄るとゴールコンダ・フォートから119、142m、142k、66gのどれかのバスに乗ってMehdipatnamで降り、そこで156mか156vのバスに乗ってNalgonda X Roadで降り、そこで204kのバスに乗ってKohedaで降りればフィルム・シティーに辿り着けるそうだ。ハイダラーバードの地理は全く分からないので全然どこをどう行くのか全く予想もつかないが、その通りに行ってみることにした。

 まずゴールコンダ・フォートからMehdipatnamまでは簡単に行けたのだが、次のバスがなかなか来なくて30分くらいずっと待ちぼうけしなければならなかった。ようやく来た156番のバスに乗ってNalgonda X Roadまで行って次のバスを待ったのだが、もう面倒臭くなってしまったので結局リクシャーで行くことにしてしまった。ところが、リクシャー・ワーラーに聞いてみたらフィルム・シティーはそこからまた30Km以上先らしい。往復で250ルピーもかかると言われた。一瞬行くのをやめようかと思ったが、一度思い立ったことを途中で諦めるのはくやしかったので、250ルピー払ってでも行くことにした。

 ラモジ・フィルム・シティーはハイダラーバードにあるというよりは、ハイダラーバードの隣にあると言った方が正しいくらい郊外にあった。ハイダラーバードを出てずっと東へ行ったところにあり、リクシャーで約1時間くらいかかった。ところが、フィルム・シティーは個人でフラッと立ち寄った観光客が入れるような場所ではなく、予め旅行会社などでツアーを申し込んで団体で訪れることしか出来ないようだった。しかし僕が運がよくて、リクシャーで来る途中の道で同乗して来た人がちょうどフィルム・シティーで映画撮影をしているスタッフで、彼のおかげで僕も映画撮影の関係者を装ってフィルム・シティーの中に潜入することができた。

 ラモジ・フィルム・シティーはかなり広大な敷地を有しており、場内を移動するときにはフィルム・シティー内を走っているバスを利用しなければならないほどだ。所々に映画撮影に使うきれいな建物や美しい花園などがあった。整備も行き届いていて、インドらしからぬ風景だった。僕はその人に映画の撮影現場に連れて行ってもらった。そこにはバンガロール・エアポートと書かれた建物があり、空港さながらの外見だったが、横に廻ったら今度は大学の入り口になっていた。さすが映画の撮影場だけある。

 そのとき撮っていた映画はヒンディー語映画で、「Tujhe Meri Kasam」という題名らしかったが、有名な俳優は出てないみたいでその場に僕の知っているスターもいなかった。スタッフはみんなムンバイーから来た人たちばかりで、他のインド人とは明らかに雰囲気が違った。英語がやたらうまいし、仕草や話すことが芸能界っぽかった。なんか僕は「本当にこんなところに来てよかったのだろうか」という気持ちになってしまい、恐縮せざるをえなかった。女優らしき人たちもいたが、服装はファッショナブルだったものの顔は超美人とまではいかなかった。

 偽物バンガロール空港の傍でずっと撮影が始まるのを待っていたのだが、なかなか始まる気配がしなかった。撮影は夜9時までかかると言われたので、撮影を見てみたかった気もしたがもう帰ることにした。せっかく潜入した撮影現場だったが、今日はタイミングが悪かった。でもどんなところか見れたので満足だった。

 バンガロールに帰ったときには午後5時頃になっていた。実はバスで来るときに面白そうな場所を見つけたので、リクシャーを走らせながら地理感を頼りにその場所を探し出した。その名もビッグ・バーザール。日本で言えばちょうど西友みたいなデパートである。紳士服、婦人服、子供服、家電製品、寝具、宝石、時計、薬などが売られており、店内の様子はほとんど日本のデパートと代わりがなかった。定価制で、「20%OFF!」などと張り紙がしてあったり、カゴの中に特売品が入っていたり・・・逆にこういうデパートにインド人がいることが奇妙に思えたぐらいだった。これほどの店はまだデリーにはないだろう。このビッグ・バーザールのおかげでハイダラーバードの評価がけっこう上がった。1階にはコーヒー・デイというモダンな喫茶店があり、そこでバニラ・サンデーを食べた。インドも急速に変わりつつあることを実感した。




ビッグ・バーザール


1月12日(土) A.P.エクスプレス

 今日は1日列車で移動だ。ハイダラーバードからデリーまで1681Kmを26時間かけて走破する。実は今回留学するためにインドに来て、初めて列車を利用した。今までバス、自動車、飛行機などを使っていたのだが、列車だけは使っていなかった。別にインドの列車が嫌いなのではない。むしろインドの旅は列車で移動するのが一番楽だ。ところがチケットを取るのにちょっと知力体力時の運が必要なので、短い距離の移動なら予約の必要ないバスを使ってしまうことが多く、結局今まで列車を利用しなかった。

 朝6:40発のアーンドラ・プラデーシュ・エクスプレス(A.P.エクスプレス)に乗り、ハイダラーバードを去った。ハイダラーバード駅を発車したときには車内に乗客は少なかったのだが、次の駅のセカンダラーバード駅でどっと乗り込んできた。僕の席は2等寝台だ。インドの寝台列車はコンパートメント式になっており、2等寝台車のひとつのコンパートメントには片側に3段ベッドが2つ、もう片側に2段ベッドがひとつ設置されており、合計8人が座れて寝れるようになっている。ところが僕のコンパートメントにはなぜか僕を含めて12人もの人間がいた。その内2人は途中のナーグプルで降りる人で、寝台は必要ない人だったので別によかったのだが、他に子供たちを5人連れたインド人がいて、合計6人いるのに4つしか席を予約しておらず、そのために飽和状態になっていた。あとはムスリムの夫婦、アーグラーの陽気なおじさんが同じコンパートメントにいた。

 インドの列車の旅は楽しい。コンパートメントで同席になったインド人は大抵旅行者に親切にしてくれるし、物売りや乞食が次々と座席を訪れたりしてくるので退屈しない。座席は広々としているので、長時間の移動もバスに比べて疲れない。とりあえず朝食を取らずに列車に乗り込んだので、列車の中でコーヒーやらカツレツやらを買って食べまくっていた。

 日が昇り、空が明るくなってくると次第に車内の気温が上がってきた。デカン高原の真ん中を突っ切っているので、冬でも昼間は相当暑くなる。ムスリムのおばさんは乗り込んできたときまでは黒いブルカーをかぶっていたのだが、遂に耐えかねたのか、それとも心を開いたのか、おもむろにブルカーを脱ぎだした。ブルカーを脱ぐムスリムの女性を見るのは初めてだったので、ちょっと驚いてしまった。案外インドのムスリムの女性は形式的にブルカーを身に付けているだけなのかもしれない。実際、インドのムスリムの女性はブルカーの下にけっこう派手な服を着てるし、ブルカー自体にも刺繍がしてあったりして、オシャレ心が滲み出ている。

 車内ではランチ、ディナーなども出てくる。どちらも25ルピーだが、けっこうおいしい。チャーイ、コーヒーを売る人は頻繁に行き来しており、カツレツ、オムレツ、ビルヤーニーなどの食べ物を売る人も食事時に多い。駅に着くと、そこの物売りが乗り込んできたりする。どこから乗り込んだのか、乞食も時々やって来て乗客にお金を無心する。盲人や、勝手に歌を歌いだす人や、神様への祈りを捧げるサードゥーなど。途中、ヒジュラーまでやって来て乗客からお金を巻き上げていた。僕はヒジュラーに目をつけられたが、ヒンディー語が分からないふりをしてやり過ごした。そういえば、勝手に床掃除をし出してお金を要求する子供には今回出くわさなかった。

 夜になるとやはり寒かった。もう大分北に来たからかもしれない。ジャイプルで買った布団が役に立ったが、さすがに寝袋を使わなければならないほどではなかった。寝袋は枕の代わりになった。夜が明けると遂にデリーだ。

1月13日(日) 再び白霧の中へ・・・

 寒さと尿意で目が覚めた。まだ朝4時頃だった。5時頃アーグラーに着いたので、アーグラーのおじさんは降りて行ってしまった。窓の隙間から吹き込んでくる隙間風が刺すように冷たくて、もう眠ることができなかった。毛布を頭までかぶって朝になるのを待った。次第に辺りが明るくなって来る。外は一面白い霧で覆われていた。少しはデリーも暖かくなっているかと期待していたが、これではまだまだ寒いだろう。まるで雲が落ちてきたかのような霧だった。

 インドの列車というと決して時間通りに運行しないようなイメージがあるが、僕の乗った列車に限っては驚くほど正確に朝9:00頃デリーに到着した。ムスリムの夫婦はデリーを訪れるのは今回が初めてらしく、まずはジャマー・マスジッドへ行くらしい。僕はデリー住民として「こっちに行けばジャマー・マスジッドの方向だよ」と教えてあげた。

 懐かしいニュー・デリーの駅。駅に降り立ったときに感じたこの気持ちは、飛行機で成田空港に帰り着いたときの気持ちと同じだった。旅行が終わってしまう寂しさと、故郷に帰り着いた安堵感が入り混じった気持ち、日常生活に戻る寂しさと、もうバス移動やホテル探しを繰り返さなくてもいい安堵感が入り混じった気持ち、既にデリーは僕の故郷になっていた。

 家に帰ってみると大家さんたちも温かく迎えてくれた。しかし僕にはひとつ後ろめたいことがあった。実は大家さんたちのために何もお土産を買って来なかったのだ。本当はハンピーへ行った後、バンガロールに戻ってボンベイ・ストアでお土産を買おうと計画していたのだが、ホースペートからハイダラーバードへ行けることが分かったためにバンガロールまでわざわざ戻るのが面倒になり、そのままハイダラーバードへ向かってしまったのだった。ハイダラーバードでもお土産のために何かいい物はないかちょっとバーザールを見て廻ったりしたのだが見つからなかった。それで後ろめたい気分になっていた。「お土産買ってきたんだけど列車の中で盗まれてしまって・・・ごめんなさい」と言い訳しようかとも考えていたが、嘘がつけない性格なので無理だった。案の定大家さんから「何か私たちのために買ってきてくれたかね?」と言われてしまったが、僕は「何を買ってきたらいいのか分からなかったから買って来なかった」と言っておいた。大家さんも僕を半分からかって言っているようなので、それで話は済んだのだが。

1月16日(水) Style

  旅行中早起きしていたのが影響して、最近朝6時頃目が覚める。このペースを続けていけば健康的な生活ができそうだ。とは言ってもすぐに日常生活の怠惰なサイクルに飲み込まれてしまいそうな予感はするが・・・。窓の外を見てみると、今日も朝からどんよりとした曇り空だった。道路を見てみると濡れていたので、夜また雨が降ったのかもしれない。太陽が出ないとデリーは本当に冷え込むから困る。もしかしたら明日から晴れるかもしれないが、今日の天気と気分をストレートに表現して、このページの題名を「曇天編」と名付けた。前回の「南国編」の陽気な響きから一気にどん底に落ち込んだ感じだ。

 旅行から帰ってきてからよくパッパルさんのラクシュミー・ファスト・フード・コーナーで朝食を食べている。知り合いだから気兼ねしないし、値段もそこそこなのでこれからも足繁く通うことになりそうだ。ただ朝はなんだかあわただしくて、この前はプーリー・サブジーを注文して出てくるのに20分以上かかった。今日は予め「何が一番早く作れる?」と聞いてみたら、「パラーター」とのことだったので、エッグ・パラーターを注文した。パラーターとはチャパーティーの中に具が入っているような軽食だ。僕はあまり好きではないのだが、今日は気分転換に食べてみることにした。ところがやっぱり厨房では何か手間取っていて、簡単な料理にも関わらずちょっと時間がかかった。パッパルさんも厨房の料理人に「何やってんだ!」とどなっていた。出て来た料理もおいしくなかった。

 今日の授業も何だか先生が出揃っていない感じで、臨時にチャンドラプラバー先生が2時間授業をした。チャンドラプラバー先生は去年から僕たちに「自分の国の物語や詩をヒンディー語で書いて提出しなさい」という課題を出していたのだが、未だにほとんど誰も提出していなかった。そのため、今日もその課題をやらされた。実は僕は以前「桃太郎」をヒンディー語にしてチャンドラプラバー先生に出したのだが、今日は詩を書かされた。でも詩というのはその言語と密接に結びついているものなので、他の言語に翻訳してしまうと面白さがなくなってしまう。試しに松尾芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」をヒンディー語に訳して「puranee taal men manduuk kuudkar giraa aur paani ki aavaaz huii(古い池の中に蛙がジャンプして落ちた、そして水の音がした)」と書いて先生に見せてみた。チャンドラプラバー先生は「それからどうなった?」と聞いてきたので僕は「これで終わり。日本の詩はこんな感じ。インド人には分からないでしょう。」と言ったが、先生は「そんなことない。mazaa aayaa(面白かった)。」と無理して言っていた。

 チャンドラプラバー先生の次はマンジュ・ローイ先生という新しい人が来た。厳しそうな顔をした女の先生で、200クラスでは会話を担当することになった。僕はどんな先生かと思っていたが、けっこうハキハキ話す人で発音も分かりやすく、非常に好感が持てた。ランチの後は文法の授業で、アヒールワール先生が来た。本当はマノルマー先生が文法を担当しており、アヒールワール先生は臨時で来ただけだと思うのだが、なにしろ流動的なのでよく分からない。ヒンディー語で「馬鹿」「気違い」などを表す3つの単語「Muurkh」「Paagal」「Diivaanaa」の違いの話になった。「Muurkh」は間違った行動を行う人のことを言い、「Paagal」は精神的に狂った状態のことを言い、「Diivaanaa」は目的を完遂するために他のことが目に入らなくなってしまったことを言うそうだ。ただ、「Paagal」と「Diivaanaa」はよく恋に狂った状態のことも言う。その場合はほとんど区別がない。

 授業が終わった後、すぐバスに乗ってコンノート・プレイスへ向かった。2週間旅行をしていたこともあり、見てない映画が溜まっていたので映画を見たい欲求に駆られたのだ。別に無理して見なくてもいいのだが、一応上映されてる映画は全部見ておきたいという欲望がある。今日は前々から楽しみにしていた「Style」を見ることにした。リボリ・シネマでやっていた。

 リボリ・シネマで映画を見たのは初めてだったので、まずは映画館に驚いた。噂ではリボリ・シネマはデリーで最も汚ない映画館と聞いていたのだが、まさにその通りだった。汚なくて客席までトイレの臭いが臭って来るし、狭いし、スクリーンは小さいし、音も悪いし、いいところが全然なかった。なるべくこの映画館で映画を見るのはやめようと思ったぐらいだ。

 「Style」は大学を舞台としたコメディー映画で、一目で低予算ムービーであることが分かり、編集の荒さが目立ったが、ギャグはベタながら直感的で分かりやすく、ヒンディー語が全部分からなくても大笑いできた。ヒンディー語が分かったらもっと大笑いできただろう。実際、他のインド人たちはかなり大爆笑していた。主役は4人。シャルマン・ジョーシー、サヒール、リヤー・セーンとシルピー・ムドガル。全部新人である。




Style


Style
 バントゥー(シャルマン)とチャントゥー(サヒール)は仲良し2人組みの大学生で、いつも冗談ばかり言い合っているがいざというときには頼りになるみんなの人気者だった。校長まで手玉にとってからかうぐらい度胸があった。そこへシーナー(リヤー)とラーニー(シルピー)の2人の女の子が転校してくる。バントゥー・チャントゥー組とシーナー・ラーニー組は対立していろいろと悪戯合戦を繰り広げる。しかしバントゥー・チャントゥーはシーナーとラーニーが金持ちの令嬢であることを知ると、逆玉の輿を狙って二人に近付く作戦を練る。バントゥーとチャントゥーはシーナーとラーニーが住んでいる女子寮に女装して入り込み、二人の隣の部屋に住むことになった。女装した二人はうまくシーナー・ラーニーと仲良くなり、バントゥーとチャントゥーの魅力を吹聴する。やがてシーナーとラーニーはバントゥーとチャントゥーにそれぞれ恋をしてうまくいく。その4人の恋に殺人事件が絡んできて、バントゥーとチャントゥーは濡れ衣を着せられそうになるが、真犯人を見つけ出して一件落着となる。

 「Style」を見ている途中で気が付いたのだが、この映画には所々見覚えのある風景が出て来た。それはこの前行ったハイダラーバードのラモジ・フィルム・シティーだった。まさに僕が座ってロケが始まるのを待っていた場所も出てきたりして、なんか運命を感じた。

2月4日(月) Filhaal

 S君から「メールが送れなくなったから見てもらえないか」と頼まれたので、授業後彼のパソコンを見てあげた。彼は電話回線とAT&Tというプロバイダーを使ってインターネットをしている。パソコンの種類は僕の持っている東芝のダイナブックと一緒だったので見やすかった。ただ、彼のは下位モデルなのでDVDドライブが付いてなかったが、その他は大差なかった。メール・ソフトはアウトルック・エクスプレス。試しにネットに接続してメールを送受信してみたが、エラーになって送受信ともにできなかった。アカウントのプロパティーを見てみたら、POPサーバーの設定がプロバイダー側の設定例と異なっていたので、それを直したら受信はできるようになった。ところが送信はエラーが出てどうしてもできなかった。どうもプロバイダー側の問題みたいだった。一旦は諦めたが、アウトルック・エクスプレスでホットメールのアカウントも利用できるので、彼のホットメールをセットして、ホット・メールを使ってメールの送信を行うようにしてあげた。そうしたらメールを送ることも可能だし、ホット・メールとプロバイダー・メール両方受信することができる。電話回線でホット・メールを使うと金が非常にかかるが、この方法なら節約できる。頼まれた問題を解決することができて、僕の心もすっきりした。

 今日はもともと映画を見ようと思っていたので、友達のメールを直してからサーケートのPVRアヌパムへ行った。「Filhaal」という映画が目的だった。PVRアヌパムはデリー屈指の高級シネマ・コンプレックスで、ここで映画を見るのは2回目である。前回は薄汚れたクルター・パジャーマーで乗り込んでしまい、金持ちインド人たちの冷たい視線を浴びたが、今回はちゃんと洋服で行った。入場料は150ルピー。高いのは分かっていたが、「Filhaal」は近いところではここしかやっていなかったので仕方ない。6:45の回のチケットを購入した。

 映画が始まるまで時間があったので、PVRアヌパムの近くに新しく出来たサブウェイに行ってみた。そう、あのファスト・フード店のサブウェイである。マクドナルド、ケンタッキー、ピザハットなどに続き、遂にサブウェイもインドに進出して来たのだった。実は僕は日本でもサブウェイに入ったことは一度もなかったので、これが初トライになった。サンドウィッチの店であることはなんとなく知っていたが、どういうシステムかは知らなかったのでほとんど行き当たりばったりだった。大体手順はこうだった。まずは「1st Order Here」と書かれた看板のあるカウンターに行って、自分の欲しいサンドウィッチを注文する。やはりインドのお国柄を反映してヴェジとノン・ヴェジのカウンターが別々にある。サンドウィッチのパン生地や、中に挟む肉、野菜、ソース、調味料は自分で選ぶことができて、適当に好みの味を選んでいく。選ぶことができる、と書いたが、この過程が面倒くさい。適当に店員に選んでもらってやってもらいたいくらいなのだが、店員はいちいちどれにするか聞いてくるので答えなければならない。しかも野菜ぐらいは分かるが、肉の味付けやソースの種類など、名前を聞いてもピンと来ないので、好みで選んでいくというより当てずっぽうで選んでいくような感じである。しかもインド人の早口英語を聴き取らなければならないので苦労する。サンドウィッチができたらキャッシャーに自動的に運ばれ、そこで飲み物などを追加オーダーしてお金を払う。チキン・サンドゥイッチとペプシでちょうど100ルピーだった。味はけっこういけたが、量に比べて値段は高めに感じた。




サブウェイ


 「Filhaal」は4つあるPVRアヌパムの映画館の中でも一番メインの大きな映画館で上映されていた。前回ここで映画を見たときは小さめの映画館だったので、今回初めて大映画館を見たことになる。スクリーンの前に広いステージがあって、何かイベントを行うことができるようになっていた。客層は当然のことながらリッチなインド人ばかりで、若いカップルも多かった。僕のように一人で映画を見に来ている人は少なかった。

 「Filhaal」は「今現在」とか「一時的に」という意味。監督はメーグナー・グルザル。女性監督にしてこの映画がデヴュー作である。主演はタッブー、スシュミター・セーン、サンジャイ・スーリー、パラシュ・セーン。前者二人は名の売れた女優だが、後者二人はあまりピンと来ない男優である。映画のテーマは「代理母」と「女の友情」。女の人生を中心に描いた、インド映画の中でも珍しいタイプの映画である。主演の女優二人が非常に光っていた作品だった。




タッブーとサンジャイ・スーリー


スシュミター・セーンとパラシュ・セーン


Filhaal
 レーヴァー(タッブー)とシーアー(スシュミター・セーン)は学生時代からの友達で、深い友情で結ばれていた。ただ性格には違いがあり、レーヴァーは主婦向きな大人しくて繊細な女性、シーアーはカメラマンとしてのバリバリ仕事をこなすモダンな独立志向の女性だった。レーヴァーにはドゥルヴ(サンジャイ・スーリー)という恋人がいて、シーアーにもサーヒル(パラシュ・セーン)という恋人がいた。4人は非常に仲が良かった。そして遂にレーヴァーとドゥルヴは結婚することになる。サーヒルもシーアーに何度もプロポーズするのだが、仕事一筋のシーアーは結婚を拒否し続けていた。一見幸せそうに見えた新婚夫婦のレーヴァーとドゥルヴだが、ある日レーヴァーは妊娠はできるが子供を産むことができない身体であることが発覚する。ドゥルヴは養子をもらうことを提案するが、レーヴァーはどうしても自分の子供が欲しいと主張する。その様子を見ていたシーアーは、自分の子宮にレーヴァーとドゥルヴの受精卵を移植して、レーヴァーに代わって子供を産んであげることにした。ところが手術が終わった後でそのことを知ったサーヒルは怒り、シーアーとは絶交状態となる。そしてお腹が大きくなるにつれて、シーアーはカメラマンの仕事を続けるのが困難になって来る。また、レーヴァーは母親だが母親になれない悲しさからナーバスになり、シーアーの身体のことばかり気を遣うドゥルヴに嫉妬したりして、4人の仲は一瞬バラバラになりかけてしまう。ところがシーアーの胎内にいる赤ちゃんが危険な状態になって手術が必要となり、シーアーが緊急入院した病院にドゥルヴ、レーヴァーそしてサーヒルが駆けつける。手術は成功し、シーアーは無事子供を産むことができる。レーヴァーとドゥルヴは子供を手に入れることができ、レーヴァーとシーアーの友情も戻り、シーアーはサーヒルのプロポーズを素直に受け入れ、ふたつのカップルと4人の仲は幸せな状態となってハッピーエンドを迎える。

 題名になっている「Filhaal」という言葉は、いろんなシーンのセリフでちらちらと多分意識的に使われていたが、最後のシーンでその真意が分かる。シーアーが自分の産んだ子供を「私はfilhaal(一時的な)お母さんだったけど、これからはあなたの子供よ」と言ってレーヴァーに渡すのだ。そして「私たちの友情は永遠よ」とつながる。テーマが重いだけにまとめ方が難しかったとは思うのだが、清涼感溢れる映像と「女の友情」により、美しい話になっていた。「Filhaal」は分類では娯楽映画の内に入るだろうが、十分社会派映画の要素も備えており、娯楽作品でありながら教養のある人々にも訴えかけていける新しいタイプのインド映画の誕生を感じた。

 やはりタッブー、スシュミター・セーンの二人にどうしても目が行ってしまう映画だった。タブーは薄幸の人妻役が非常に板に付いていて、ちょっと前に見たタッブー主演の映画「Chandni Bar」でも同じような雰囲気だった。スシュミター・セーンは元ミス・ユニバース。世界一の美女に輝いただけあって、その美貌はゴージャスそのもの。きらびやかな衣装が非常によく似合う。タッブーもスシュミターも背が高くて足が長くてスラッとしているので、見栄えがいい。それに比べて男優二人は、女優を引き立たせるぐらいの役割しか果たしていなかったように思えた。

 音楽はアヌ・マリク。「Filhaal」の音楽CDはかなり以前に購入して、買ってすぐ聞いたときにはスローテンポの退屈な曲が多いCDだと感じていたのだが、聞けば聞くほど味が出て来た。そういえば同じアヌー・マリクが音楽を担当した「Asoka」の曲も、最初聞いたときはあまり気に入らなかった。アヌー・マリクの音楽はインドの古典音楽と現代西洋音楽を絶妙なバランスでミックスしてあるように感じる。音楽の幅も広いし、スロー・テンポの曲もアップ・テンポの曲も得意だ。「Filhaal」「Asoka」の他、彼が音楽監督を務めた最近の作品は「Ajnabee」「Lajja」「Yaadein」など。どれも僕の好きなCDである。だから僕はアヌー・マリクが作曲したCDは無条件で買うことにしている。日本ではA.R.ラフマーンばかり有名になっているが、アヌー・マリクも同じくらいすごいと思う。

 帰りにPVRアヌパムの近くのマクドナルドで夕食を食べた。ちょうどマクドナルドはヴァレンタイン・デー・キャンペーンをやっていた。日本ではそういうシーズンが近付くとTVのCMや街の雰囲気がそういう方向へ向かっていくので自然と実感が沸いて嫌な気分になったりワクワクしたりするのだが、インドではほとんどそういうのがない。敢えて言えばそういうことをやっているのは、マクドナルドとグリーティング・カード店チェーンのアルチーズ(Arches)だけだろう。だから今日マクドナルドに入ったとき、いきなりそういう雰囲気に包まれたのでちょっと戸惑ってしまった。しかも僕は一人なのに、店員にはヴァレンタイン・デーのスペシャル・ミール・コンボを薦められて薦められるがままについつい注文してしまい、ますます寂しい気分に陥った。ただ普通のミール・コンボにパフェとスクラッチ・カードが付いただけだったが。スクラッチ・カードの景品はロンドン旅行とかバイクとか景気のいい物ばかりが前面に押し出されていたが、僕はキット・カットが当たっただけだった。パフェも甘すぎて全部食べるのは苦痛だった。



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