スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2012年12月

装飾下

|| 目次 ||
映評■12日(水)Talaash
映評■14日(金)Khiladi 786
分析■15日(土)ヘルメットをかぶらなくてもいい人たち
映評■21日(金)Dabangg 2
分析■23日(日)レイプ首都でのニルバヤー革命
分析■30日(日)Suraj - The Rising Star


12月12日(水) Talaash

 11月下旬から12月上旬に掛けて日本に一時帰国していた。今回の主な任務は、日本に滞在していた妻と子供2人をインドへ連れて来ることであった。デリーに帰って来た後は、生活を軌道に乗せるためにしばらく奔走しなければならなかったが、ようやく一息付いたので、映画を見に行く余裕ができた。

 本日鑑賞した「Talaash」は11月30日に公開された。現在2週目である。主演はアーミル・カーン。彼が出演する映画は「Dhobi Ghat」(2011年)以来およそ2年振りとなる。カリーナー・カプールとラーニー・ムカルジーと言う00年代を代表する女優がヒロインを務めていることも注目される。監督は「Honeymoon Travels Pvt. Ltd.」(2007年)のリーマー・カーグティー。明るい雰囲気のオムニバス形式映画だった前作とは打って変わって、ムンバイーの夜を舞台とした暗鬱としたサスペンス劇である。



題名:Talaash
読み:タラーシュ
意味:捜索
邦題:捜索

監督:リーマー・カーグティー
制作:リテーシュ・スィドワーニー、アーミル・カーン、ファルハーン・アクタル
音楽:ラーム・サンパト
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:カエサル・ゴンザルベス
衣装:ルシー・シャルマー、マノーシー・ナート
出演:アーミル・カーン、カリーナー・カプール、ラーニー・ムカルジー、ナワーズッディーン・スィッディーキー、ヴィヴァーン・バテーナー、パリヴァー・プラナティ、ラージ・クマール・ヤーダヴ、ジニート・ラト、スハース・アーフージャー、シェーールナーズ・パテール、スブラト・ダッター、アディティ・ヴァースデーヴなど
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


カリーナー・カプール(左)、アーミル・カーン(中)、ラーニー・ムカルジー(右)

あらすじ
 ムンバイー警察のスルジャン・シェーカーワト警部補(アーミル・カーン)には妻ローシュニー(ラーニー・ムカルジー)との間にカラン(ジニート・ラト)という息子がいた。だが、水難事故によってカランは死んでしまい、以来そのショックからスルジャンは不眠症に悩まされていた。

 スルジャンはとある不可解な事件を担当することになった。人気映画スター、アルマーン・カプール(ヴィヴァーン・バテーナー)の事故である。アルマーン・カプールは深夜まで続いた撮影の後、普段とは違って自分で自動車を運転し、なぜか自宅の方向とは全く異なる場所で海に突っ込んで水死した。海岸沿いの道路の何もない場所で急にハンドルを切って海に飛び出しており、動機や原因は全く謎であった。ただ、事件当日、アルマーン・カプールは200万ルピーをホテル・リドのレセプションに届けており、それが事件の鍵を握っていると思われた。

 事件の難解さとカランを失った悲しみに悩むスルジャンはある晩ロージーと名乗る売春婦(カリーナー・カプール)と出会う。ロージーから得られた情報により、シャシ(スブラト・ダッター)というポン引きが事件に関与している疑いが浮上する。だが、シャシは既に殺された後だった。

 しかしながら、重要な情報を提供してくれたことから、スルジャンは夜な夜なロージーと会うようになる。ロージーは彼を自分だけの秘密の場所へ連れて行く。そこは静かな海岸だった。ロージーは、どこでも見つからないとき、自分はここにいるとスルジャンに告げる。

 一方、ローシュニーは近所に住む奇妙な女性フレニー(シェールナーズ・パテール)の家に入り浸っていた。彼女は霊能力を持っており、カランの魂と交信することができた。ローシュニーは彼女を通してカランと会話をし、心の平安を得ていた。だが、スルジャンはそれを迷信だと決めつけており、フレニーを嫌っていた。ある日スルジャンはローシュニーがフレニーの家にいるのを見つけ、彼女と大喧嘩をする。ローシュニーは家を飛び出し、友人の家に転がり込む。スルジャンが毎晩家に帰って来なかったため、ローシュニーは、スルジャンは他の女と浮気しているのではないかと疑っていた。

 ローシュニーと喧嘩した後、スルジャンはロージーに会いに来ていた。ロージーは、友達のマッリカー(アディティ・ヴァースデーヴ)を救うようにお願いする。マッリカーは元売春婦で、死んだシャシの愛人であった。シャシの死後、売春宿に連れ戻され、暴行を受けていた。スルジャンはマッリカーを救い出す。すると、マッリカーは、シャシの子分だったタイムール(ナワーズッディーン・スィッディーキー)が怪しいとタレコミをする。

 タイムールは一度警察に尋問を受けたことがあった。そのときシャシが200万ルピーを手に入れたことを知り、何とかそれを手に入れようと躍起になっていた。タイムールはシャシのSIMカードやCDを見つけており、それを使ってアルマーン・カプールの友人サンジャイ・ケージュリーワール(スハース・アーフージャー)を脅していた。タイムールはサンジャイから500万ルピーをせしめようとしていた。タイムールは何とか金を手に入れ、それを愛人のニルマラー(シーバー・チャッダー)に託すものの、自身はサンジャイの刺客によって殺されてしまう。

 ただ、刺客の1人が現行犯逮捕されており、そこからサンジャイの名前が浮上する。サンジャイは3年前の事故を自白する。サンジャイ、アルマーンともう1人ニキルの3人はある晩、シャシの斡旋によってシムラン(カリーナー・カプール)という売春婦を買う。ところがニキルとシムランは車から落ち、大怪我を負ってしまう。サンジャイとアルマーンはニキルを連れて行くが、シムランは見殺しにした。彼女はそのまま死んでしまう。だが、そのことをシャシが知っており、彼らが映った防犯カメラの映像を使って、ゆすりたかりをしていたのだった。今回の200万ルピーも、その金だった。

 スルジャンはシムランの映像を見て驚く。それは、自分が夜な夜な出会っていた売春婦ロージーであった。スルジャンはサンジャイを連行し走行していた。すると、例の海岸沿いの道に差し掛かり、そこで車内と路上にロージーの姿を見る。咄嗟にハンドルを切るが、スルジャンの運転する車は海に突っ込んでしまう。海底に沈んだスルジャンは、ロージーが泳いで来るのを見る。彼女はスルジャンを車内から救い出す。ロージーは、死んだシムランの亡霊であった。一方、サンジャイは溺死する。

 一命を取り留めたスルジャンは、ロージーがかつて連れて行ってくれた海岸へ行く。そこの地面を掘り起こすと、シムランの白骨死体が出て来た。スルジャンはそれを丁重に荼毘に付す。そのお礼であろうか、スルジャンの元にはカランからの手紙が届く。スルジャンはそれを読み、カランが両親の幸せを何よりも望んでいることを知って涙する。

 表面上では、見殺しにされた売春婦シムラン/ロージーが、亡霊となって見殺しにした男たちに復讐をするというサスペンス・ホラーだが、そのような評価は適切ではないだろう。ホラー映画にカテゴライズするのも正しくない。映画の核心はむしろ、主人公スルジャン・シェーカーワトの心理状態であり、それを追求する心理ドラマとして優れた作品となっていた。「Talaash(捜索)」という題名は、一義的には事件の真相の究明であるが、実際にはスルジャンが安寧と安眠を獲得するまでの道を象徴したものだと考えられる。台詞も研ぎ澄まされており、無駄がなかった。ヒンディー語サスペンス映画の傑作の1本に数えてもいいだろう。

 スルジャンには妻ローシュニーとの間にカランという一人息子がいた。スルジャンとローシュニーは、カランとその友人サマルを連れて湖畔にピクニックに来ていた。ところがスルジャンとローシュニーが居眠りをしている間、カランとサマルはモーターボートに乗って遊び出す。モーターボートは暴走し、カランとサマルは湖に投げ出されてしまう。スルジャンは湖に飛び込んで子供たちを救出しようとするが、助け出せたのはサマルのみであった。カランは遺体すら見つからなかった。

 これがスルジャンとローシュニーにとって大きなトラウマとなっていた。スルジャンはローシュニーを心理カウンセラーのところへ通わせるが、カウンセリングが必要なのはむしろスルジャンの方であった。自分が居眠りしている間に息子を失ったためか、それ以来彼は安眠することができなかった。警察という職業も手伝い、スルジャンは毎晩ムンバイーを徘徊して回っていた。2人目の子供を作ることもせず、スルジャンとローシュニーの仲は冷え切ったものとなっていた。ローシュニーは、あの事故でカランを失っただけでなく、夫すらも失ってしまったと感じていた。

 スルジャンの脳裏には、息子と最後に交わした会話がいつまでも共鳴していた。「ちょっと遊んで来る」と言う息子に対し、「こっちで遊ぼう」「オレも行く」などと言っていれば、カランを救うことができた。そんな妄想が彼を幾度となく悩ませていた。

 そのスルジャンにとって結果的に救いとなったのが、今回のアルマーン・カプール変死事件であった。この事件を通して彼はロージーという3年前に死んだ売春婦の亡霊と出会い、彼女の手助けによって、息子の死を受け容れることができるようになる。息子からの手紙には、自分の死は自分の過ちから来るものだったこと、両親が幸せになることが自分の幸せにつながることなどが、健気な言葉によって綴られていた。

 硬派なサスペンス・ドラマに、幽霊という非現実的な要素を入れたことで、この映画はともするとバランスを失うところであった。しかし、霊能力を持つフレニーを登場させて幽霊の存在を伏線として匂わしており、決して突拍子もない結末ではなかった。しかしながら、真の問題は、劇中で殺された人々の幽霊についても取り扱わなくては、この映画が提示した世界観からするとおかしいことになるということだ。アルマーン・カプール、シャシ、タイムール、サンジャイなどは無念のまま死んだはずなので、幽霊となってこの世界を彷徨うはずである。そういうところまで考え出すと、やはり幽霊の存在をこのような緻密なシナリオに取り込むのには無理があると言わざるを得ない。

 アーミル・カーン、カリーナー・カプール、ラーニー・ムカルジーと、メインストリーム娯楽映画の第一戦で活躍するスターたちが主演しており、それらの名前だけを見ると豪華な印象を受けるが、彼らは今回かなりシリアスな演技に徹しており、いい意味で派手さが抑えられていた。

 最近急速に台頭しているのがナワーズッディーン・スィッディーキーだ。「Peeli [Live]」(2010年)や「Gangs of Wasseypur」(2012年)などで名を売った男優であり、国立演劇学校出身の演技派である。「Talaash」ではびっこのタイムールを巧妙に演じていたし、彼の登場シーンにはアーミル・カーンのシーンとは異なった緊張感が溢れていた。タイムールとは中央アジアの英雄ティームールのことで、ティームール自身がびっこであったことから、そう名付けられたのであろう。

 音楽は「Talaash」の最大の弱点だと言える。ラーム・サンパトの作曲であるが、映画の雰囲気には必ずしも合っていなかった。もっと暗さや重厚さを出した音楽の方が良かっただろう。作詞はジャーヴェード・アクタル。彼は、作詞家の著作権保護のために運動をしたこともあって、最近ヒンディー語映画界では干されている。彼が作詞家として起用された背景には、プロデューサーとして彼の息子ファルハーン・アクタル、脚本家として娘ゾーヤー・アクタルの参加が挙げられる。そのような特殊な状況がなければ、ジャーヴェード・アクタル作詞の映画は最近ほとんど存在しない。

 「Talaash」は、アーミル・カーン、カリーナー・カプール、ラーニー・ムカルジーという3人のメインストリーム俳優たちがシリアスな演技に徹したサスペンス・ドラマ。特にアーミル・カーン演じるスルジャンのトラウマに焦点を当てた心理ドラマとなっている。とは言ってもアーミル・カーン1人の肩にのしかかった作品ではなく、彼は今回キャストの1人として献身的に映画に寄与している。飛ぶ鳥を落とす勢いの演技派男優ナワーズッディーン・スィッディーキーの演技にも注目。インドのサスペンス映画は、優れたものも多いのだが、日本人がわざわざ見る価値があると言えるものは少ない。だが、「Talaash」は見て損はない映画である。

12月14日(金) Khiladi 786

 ハリウッドではヒット映画のパート2、パート3などが作られることはごく一般的であるが、ヒンディー語映画界ではそれはここ5-6年内に始まった新しいトレンドである。ヒンディー語映画界で初の続編映画は「Lage Raho Munnabhai」(2006年)、「2」が付いた初のヒンディー語映画は「Dhoom:2」(2006年)、現在もっとも多くの続編が作られているのは「Golmaal」シリーズと「Raaz」シリーズでパート3まで作られている。

 しかし、それ以前のヒンディー語映画界でも、広義で続編モノと呼ぶことのできる映画群が作られていた。例えば「No.1」シリーズ。デーヴィッド・ダーワン監督は「Coolie No.1」(1995年)、「Hero No.1」(1998年)、「Biwi No.1」(1999年)、「Jodi No.1」(2001年)、「Shaadi No.1」(2005年)と、一連のコメディー映画を作り続けていた。ただ、題名に「No.1」と付くだけで、ストーリー上、キャラクター上、キャスティング上の関連性はない。

 それよりも続編の性格が強いのが「Khiladi」シリーズである。アクシャイ・クマールの人気を決定づけたシリーズで、大ヒット作「Khiladi」(1992年)以降、「Main Khiladi Tu Anari」(1994年)、「Sabse Bada Khiladi」(1995年)、「Khiladiyon Ka Khiladi」(1996年)、「Mr. and Mrs. Khiladi」(1997年)、「International Khiladi」(1999年)、「Khiladi 420」(2000年)と合計7作作られている。やはりストーリーやキャラクターの関連性はないが、シリーズを通してアクシャイ・クマールが必ず主演していることが共通している。それらの事実を根拠にして、「Khiladi」シリーズはインド映画界で最長のシリーズ物とされている。ちなみに「Khiladi」とは「遊び人」「賭博師」「プレイボーイ」や「危険なことをしてばかりの人」みたいな意味がある。

 その最新作「Khiladi 786」が12月7日に公開された。「Khiladi」シリーズ第8作となる。主演はもちろんアクシャイ・クマール。ヒロインはアシン。監督のアーシーシュRモーハンは新人だが、ローヒト・シェッティー監督のアクション・コメディー映画「Golmaal」シリーズで助監督を務めて来た人物であり、期待ができる。ストーリー原案はなんとヒメーシュ・レーシャミヤー。音楽監督・シンガーソングライターとして一世を風靡し、俳優業にも進出した変わり種の人物で、今回は音楽監督と脇役出演に加えてプロデュースも務めている。

 ちなみに、タイトルになっている「786」とは、イスラーム教の「バスマラ」と呼ばれる重要なフレーズ「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において( بِسْـــــمِ اللهِ الرَّحْمَانِ الرَّحِيمِ )」の各文字を、アブジャド数字という記数法に従って合計したものであり、イスラーム教では特別な数字である。インドでも街角でよく見掛ける数字だ。「Khladi 786」の中で主人公バハッタル・スィンの右手には「786」を象った手相があり、神の恩恵を受けているとされている。また、バハッタルとは「72」という意味で、彼の父親はサッタル(70)、兄はイカッタル(71)、弟はティハッタル(73)、甥はチャウハッタル(74)と名付けられている。



題名:Khiladi 786
読み:キラーリー・サート・サォー・チヤースィー
意味:プレーヤー786
邦題:プレーヤー786

監督:アーシーシュRモーハン(新人)
制作:トゥインクル・カンナー、スニール・ルッラー、ヒメーシュ・レーシャミヤー
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー
歌詞:サミール・アンジャーン、シャッビール・アハマド、ヒメーシュ・レーシャミヤー
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ、ピーユーシュ・パンチャル
衣装:コーマル・シャーハーニー
出演:アクシャイ・クマール、アシン、ミトゥン・チャクラボルティー、ラージ・バッバル、ヒメーシュ・レーシャミヤー、ラーフル・スィン、ムケーシュ・リシ、マノージ・ジョーシー、シュバム・スィン、サンジャイ・ミシュラー、ジョニー・リーヴァル、バーラティー・スィン、ムシュターク・カーン、グルプリート・グッギー、クラウディア・シエスラ、パレーシュ・ラーワル(ナレーション)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


アシン(左)とアクシャイ・クマール(右)

あらすじ
 バハッタル・スィン(アクシャイ・クマール)は目にも止まらぬスピードと怪力を持つ男だった。警察の制服を着て、パンジャーブ州警察に勤務している振りをしていたが、実際にはパーキスターンから来るトラックから密輸品をせしめて、パンジャーブ州警察のジュグヌー・スィン(シュバム・スィン)と山分けにする泥棒稼業をして生活していた。

 バハッタルの兄イカッタル・スィン(ムケーシュ・リシ)は中国人女性と、父サッタル・スィン(ラージ・バッバル)はカナダ人と、今は亡き祖父はアフリカ人と結婚しているという国際的な家庭であったが、バハッタル自身は花嫁募集中であった。

 一方、ムンバイー在住のマンスク(ヒメーシュ・レーシャミヤー)は、父親の縁組み・結婚式プランナーをする父親チャンパーラール・デーサーイー(マノージ・ジョーシー)の手伝いをしていたが、失敗ばかりで勘当されてしまっていた。そんなマンスクが出会ったのがムンバイーのアンダーワールドを支配するターティヤー・トゥカーラーム・テーンドゥルカル、通称TTT(ミトゥン・チャクラボルティー)であった。TTTにはインドゥ(アシン)という妹がいたが、彼女がかなりのお転婆で、なかなか結婚しないので困っていた。マンスクはTTTに、10日以内にインドゥを結婚させると豪語する。マンスクは屍衣・棺屋のジーヴァン(サンジャイ・ミシュラー)と共にインドゥの花婿捜しに繰り出す。

 マンスクには心当たりがあった。以前パンジャーブ州を訪れたときにバハッタルと出会っており、彼の花嫁捜しも請け負っていた。インドゥを制御できるのはバハッタルしかいないと考えたマンスクは、彼の家を訪れる。マンスクは、バハッタルの一家を警察だと考えていたため、インドゥの父親が警察官であると嘘を付く。TTTもその嘘に合わせて警察官に成り切ることにする。バハッタルの一家はトラックに乗ってムンバイーまでやって来て、お見合いをする。両家はお互いを気に入り、縁談がまとまる。こうして、警察官ではないが警察官の振りをした2つの犯罪者一家が結婚を執り行うことになる。

 ところで、バハッタルもインドゥに一目惚れしてしまっていたが、インドゥは違った。インドゥにはアーザード(ラーフル・スィン)という恋人がいた。アーザードと結婚しようとしていたが、彼は今のところ刑務所にいた。何とか結婚式までにアーザードに自由の身になってもらって結婚しようと画策していたが、アーザードのドジのせいで釈放は延び延びになっていた。

 ひょんなことからマンスクとジーヴァンはバハッタルの一家が警察官ではないことを知ってしまう。だが、彼らはそれをひた隠しにして何とか結婚式を完了させようとする。また、インドゥはバハッタルを刑務所にいるアーザードに引き合わせ、彼と結婚するつもりだと告白する。優しいバハッタルは、アーザードを刑務所から救い出すことに協力するが、インドゥはそのときまでにアーザードよりもバハッタルに惹かれるようになっていた。インドゥはアーザードを捨ててバハッタルと結婚することを決める。また、バハッタルとインドゥは、お互いの家が警察官ではないことも知る。だが、やはりそれを秘密にして、マンスクとジーヴァンと共に、結婚式を完了させてしまおうとする。

 結婚式当日。式は滞りなく進行して行った。そして新郎新婦が火の回りを回る儀式が始まる。ところが、あと少しで儀式が完了するという段になって様々な邪魔が入る。TTTの家で働いていたメイドのミリー(バーラティー・スィン)は実はTV局のリポーターで、結婚式を潜入取材しようとする。バハッタルと共謀して密輸品を猫ばばしていたジュグヌー・スィンや、TTTの正体を知る警察官カンブリー警部補(ジョニー・リーヴァル)なども乱入して来る。そして最後にはアーザードが手下を連れて侵入し、インドゥをさらって行ってしまう。バハッタルはアーザードを追い掛ける。

 アーザードは倉庫跡でインドゥと無理矢理挙式しようとしていた。だが、バハッタルが救出に飛び込み、アーザードの手下たちを次々になぎ倒す。そしてアーザードをも打ちのめす。そこにはバハッタルの一家、TTT、マンスク、ジーヴァン、そしてチャンパーラールなどが駆けつけ、バハッタルの雄姿を鑑賞する。そんな中、ムンバイー警察のパトカーがやって来るが、そこから降りて来たのはティハッタル・スィン(アクシャイ・クマール)、つまりバハッタル・スィンの生き別れの弟であった。彼らは再会を喜ぶ。そしてTTTもバハッタルとインドゥの結婚を認め、自ら2人を祭壇へ連れて行く。

 ミュージシャンとしては成功しながら、俳優としては物議を醸す存在であったヒメーシュ・レーシャミヤーがストーリー原案を考えたという曰く付きのアクション・コメディー映画であるが、その出来は中の上くらいであり、一応楽しめる作品となっていた。ヒメーシュ自身も今回はかなり「俳優」らしく演技をしており、好感が持てた。「Khiladi」シリーズはアクシャイ・クマールの看板映画群であるが、この「Khiladi 786」はむしろヒメーシュの成長をアクシャイが後押しするような内容となっていた。今回ヒメーシュが作った曲も、ヒメーシュらしさを残しながら新たなステージへの飛躍を感じさせるものであった。

 肝心のアクションの方も合格点だったと言える。さすがローヒト・シェッティー監督の下で研鑽を積んだ監督の作品なだけあって、「Golmaal」シリーズなどとよく似たド派手なアクションが目白押しだった。バハッタル・スィンが悪漢らと戦うアクション・シーンや、インドゥを乗せてムンバイーを爆走するシーンなどに、それがよく表れていた。ただ、バハッタルがあまりに強すぎた。敵に触れずに吹っ飛ばしてしまうようなシーンがいくつかあったが、ここまで来ると手抜きに思えた。

 コメディー部分は秀逸だった。アクシャイ・クマール自身もコメディーはお手の物であるし、ヒメーシュも献身的にコミックロールを演じていた。さらに、ミトゥン・チャクラボルティーやラージ・バッバルのようなベテラン俳優や、ジョニー・リーヴァル、サンジャイ・ミシュラー、ムシュターク・カーンなどのコメディアンが笑いを加えていた。ストーリーに依存するコメディー要素もバランス良く配分されており、楽しめた。

 アクションとコメディーに比べるとロマンスは力不足だった。ヒロインのインドゥの心情が丁寧に描写されていなかったことがその大きな原因だ。インドゥがアーザードからバハッタルに結婚の対象を変えるシーンも突然過ぎる。それと関連して、アシンも出番が少なかった。「Khiladi 786」はアクシャイ・クマールとヒメーシュ・レーシャミヤーの映画だったと言える。

 音楽監督のヒメーシュ・レーシャミヤーは、かつてインドに大ブームを巻き起こした人物だ。2005年の「Aashiq Banaya Aapne」辺りからそのブームが始まり、2007年頃まで続いた。そのブームに乗って「Aap Kaa Surroor」(2007年)や「Karzzzz」(2008年)などの映画で主演を務めたりもした。だが、そのブームもすぐに下火となり、本業である音楽監督の仕事も激減してしまった。最近になってまたヒメーシュ作曲の映画が増え、「Bodyguard」(2011年)の「Teri Meri」、「Bol Bachchan」(2012年)の「Chalao Na Naino Se」、「OMG! Oh My God」(2012年)の「Go Go Govinda」、「Son Of Sardar」(2012年)の「Rani Tu Main Raja」など、順調にヒットも飛ばして来ていたが、この「Khiladi 786」は完全復活を印象づける作品となるだろう。

 「Khiladi 786」にはヒメーシュらしい音楽が多いが、もっとも心に残ったのはヒメーシュ自身がソロで歌う「Sari Sari Raat」だ。彼の声もどこか変わっており、とても透き通った印象を受ける。タイトルソングの「Khiladi」もサビに中毒性がある曲だ。「Balma」では、人気パンジャービー・ラッパー、ヨー・ヨー・スィンとタイアップしており、人気を博している。また、「Hookah Bar」ではヒメーシュが作詞も担当している。ちなみに「Balma」ではドイツ人モデル、クラウディア・シエスラがアイテムガールとして踊っている。クラウディアはインドのテレビ番組などに出演しており、インドでは一定の知名度を持っている。映画デビューは今回が初めてだ。

 「Khiladi 786」は、アクシャイ・クマールの出世作「Khiladi」シリーズの最新作であるが、実際にはヒメーシュ・レーシャミヤーの復活を印象づけるアクション・コメディー映画だ。ヒメーシュがストーリー原案からプロデューサー、音楽監督、プレイバック・シンガー、作詞、俳優までを務めており、彼のマルチタレント振りが発揮されている。映画の出来も上々で、普通に楽しめるだろう。

12月15日(土) ヘルメットをかぶらなくてもいい人たち

 インドの大きな弱点のひとつに、法律の運用が不完全であることが挙げられる。インドの社会をより整然としたものに変えて行くだけの潜在力を持った法律は十分過ぎるほど制定されているのだが、その施行が疎かになっているために、結局何も変わらなかったりする。しかも突然思い出したかのように施行が厳格化されることもあり、その際は社会に大きな混乱がもたらされる。

 インドの道路を見ても、まるでこの国には交通ルールがないかのようだ。デリーはまだマシな方だが、日本と比べると十分カオスと言っていいレベルであるし、一歩デリーから外に出ると、そこには無法地帯が広がっている。日本では完全に交通違反とされるものが、インドではあまり真剣に取り締まられていなかったりもする。逆走は好例だ。日本で逆走をしたら通行区分違反や通行禁止違反となって2点の加点となるが、インドでは逆送が取り締まられることはほとんどない(停止線付近のみに中央分離帯がある交差点での右折の際にだけ注意が必要)。信号無視や速度超過などはデリーでは気を付けないと捕まるが、デリーの外に出たら違反している人が多すぎて違反の内に入らないというのが現状である。

 目で見て分かりやすい交通違反のひとつが、二輪車に乗る人のノーヘルである。デリーの外ではヘルメットをかぶっている人の方が少ないくらいだが、デリーでは交通警察が目を光らせているため、ほとんどのライダーがヘルメットをかぶっている。

 ただ、実はインドでは全てのライダーにヘルメット着用が義務づけられている訳ではない。州によっても異なるのだが、インド全土でヘルメット着用を免除されているのはターバンをかぶったスィク教徒であり、それに加えてデリーでヘルメット着用の義務がないのが女性である。

 インド全土に適用されている自動車法(Motor Vehicle Act)の第129条において、二輪車の運転手や乗り手がヘルメットを着用しなければならない旨が明記されているが、同時に以下の追記があり、ターバンをかぶるスィク教徒男性がその義務から免除されている。
provided that the provisions of this section shall not apply to a person who is a Sikh, if he is, while driving or riding on the motor cycle, in a public place, wearing a turban.

ただし、ターバンをかぶるスィク教徒が公道において二輪車を運転または乗用する際には、その人にはこの条項の規定は適用されない。
 これには宗教上の理由がある。スィク教徒はターバン以外のものをかぶってはいけないとされており、その根拠として以下の一節がよく引用される。これはスィク教の聖典グル・グラント・サーヒブに収録されているものではないが、スィク教の規範とされる書物の中にあるようである。
ਹੋਯ ਸਿਖ ਸਿਰ ਟੋਪੀ ਧਰੇ ਸਾਤ ਜਨਮ ਕੁਸ਼ਤੀ ਹੋਯ ਮਰੇ

スィク教徒でありながら帽子をかぶる者は、ハンセン病者として7回生まれ変わっては死ぬだろう
 スィク教徒の宗教的感情を尊重し、インドではスィク教徒にヘルメットの着用を義務づけていない。海外でもスィク教徒の移民が多い国・地域では、スィク教徒にヘルメットの着用を義務づけていないところがあるようである。ちなみに、月光仮面はターバンをかぶりサングラスを掛けてバイクに乗るスィク教徒の姿をモデルにしているのは有名な話である。

 ところで、上述の自動車法第129条には、以下の文言もある。
provided further that the State Government may, by such rules, provide for such exceptions as it may think fit.

ただし、州政府は適宜、同様の条例を制定することで、同様の例外を定めることができる。
 つまり、スィク教徒以外にも、州政府が個別に法律を制定することで、特定のコミュニティーにヘルメット着用免除の権利を付与することができる。

 デリーでは、デリー自動車条例(Delhi Motor Vehicles Rules)の第115条2項の以下の規定により、女性がヘルメット着用を免除されている。
It shall be optional for woman whether riding on pillion or driving on a motor cycle to wear a protective headgear.

女性は、二輪車の後部座席に乗っていようと運転していようと、保護的ヘッドギアの着用は任意とする。
 よって、デリーではスィク教徒と女性がヘルメットをかぶらなくてもいいことになっている。

 なぜ女性がヘルメット着用を免除されているのだろうか?それにはスィク教徒とも関係がある。1988年に自動車法が制定されたとき、ヘルメット着用は二輪車に乗る全ての人に義務づけられていた。しかし、ターバン以外のものをかぶってはならないと宗教的な束縛を持つスィク教コミュニティーから反発があり、後にスィク教徒はその義務から免除された。自動車法の中では「ターバンをかぶっているスィク教徒」、つまり男性のみが免除の対象となったはずだが、現場では男女のスィク教徒全てが免除という扱いになってしまった。スィク教徒の女性は一目で分かるような外見的な特徴を持っていない。デリーではスィク教徒の人口が多く、交通警察は女性のノーヘルを取り締まることができなくなってしまった。そこで、なし崩し的に全ての女性がヘルメット着用を免除された。このような経緯でデリーでは女性ライダーはヘルメットをかぶらなくてもいいことになっている。

 もちろん、社会の中でも、スィク教徒の間でも、女性の間でも、全ての人に対してヘルメット着用を義務としようとする動きはある。特に女性のヘルメット着用義務づけについては、僕がデリーに住み始めた当初から議論に上がっていたのだが、いつまで経っても法律が変わりそうな気配はない。どうも政治家が女性票を失うことを恐れているからのようなのだが、ヘルメット着用が義務づけられていないことで不利益を被っているのが女性自身であることから、外部の人間には全く理解不能の事態である。女性がヘルメットをかぶらないため、二輪車の交通事故において女性の死亡率が非常に高いのである。

 それらの議論はともかくとして、デリーにおいてスィク教徒と女性がノーヘルなのは、現時点では交通違反ではない。彼らは法律によってヘルメット着用を免除された特権階級なのである。

 また、ノーヘルと同じくらい分かりやすい違反に、二輪車に運転手以外に2人以上の人が乗る行為がある。インドでは3人乗り、4人乗りは当たり前であるが、これについては自動車法第128条で明確に禁止されている。インドでは二輪車には運転手以外には1人しか乗ることができない。しかし、これも現場ではあまり真剣に取り締まられていないのが現状である。

12月21日(金) Dabangg 2

 南インドのヒット映画をリメイクしたヒンディー語は昔から少なくなかったのだが、特にここ最近はその種の映画が非常に目立つようになった。中でもアクション映画が人気で、「Ghajini」(2008年)、「Wanted」(2009年)、「Singham」(2011年)、「Bodyguard」(2011年)、「Rowdy Rathore」(2012年)など、南インド映画をリメイクして大ヒットしたヒンディー語アクション映画には枚挙に暇がない。だが、南インド映画界はヒンディー語映画界とは異なった文化圏であり、映画作りの文法も異なる。もっとはっきり言えばストーリーテーリング、キャラクター設定、技術などの面で一時代ほど遅れている。よって南インド映画をそのままヒンディー語化すると、どうしても違和感が出てしまうのだ。リメイクは悪いことではないのだが、ヒンディー語映画の文法に従ってうまく消化する必要がある。

 そんな中で、南インド映画のテイストを巧みに消化して作られたオリジナルのヒンディー語アクション映画があった。サルマーン・カーン主演の「Dabangg」(2010年)である。南インド映画の影響は無視できないが、どの映画のリメイクでもなく、完全なるオリジナル作品である。そして何よりヒンディー語映画らしい完成度を誇っていた。「Dabangg」の成功は他のリメイク映画と同一視すべきではない。マルチプレックス向けの映画を志向し、しばらくアクション映画から離れていたヒンディー語映画界が、大衆向けの映画作りに回帰し、アクション映画のセンスを取り戻したことを示す重要な金字塔である。

 「Dabangg」が大ヒットしたことを受け、早々と続編の制作がアナウンスされていた。そして本日遂に「Dabangg 2」が公開となった。主演は前作と同じサルマーン・カーン。ヒンディー語映画界の続編モノは、前作とストーリー上の関連性がないことが多いのだが、この「Dabangg」は前作からの続きとなっており、主なキャスト・登場人物も共通している。よって、前作を見ていないとすんなり映画の世界に入って行けないだろう。ただ、監督は前作のアビナヴ・カシヤプではなく、アルバーズ・カーンとなっている。アルバーズ・カーンは前作ではプロデューサーと助演を務めていたが、本作ではそれらに加えて監督もこなしている。彼にとってはこれが監督デビュー作となる。



題名:Dabangg 2
読み:ダバング2
意味:恐れ知らず2
邦題:ダバング2

監督:アルバーズ・カーン(新人)
制作:アルバーズ・カーン、マライカー・アローラー・カーン
音楽:サージド・ワージド
歌詞:ジャリース・シェールワーニー、イルファーン・カーミル、サミール
振付:ファラー・カーン、ガネーシュ・アーチャーリヤ
衣装:アルヴィラー・アグニホートリー、アシュレー・ロボ
出演:サルマーン・カーン、ソーナークシー・スィナー、アルバーズ・カーン、ヴィノード・カンナー、プラカーシュ・ラージ、ディーパク・ドーブリヤール、ニキティン・ディール、サンディーパー・ダール、マノージ・パーワー、マーヒー・ギル(特別出演)、ティーヌー・アーナンド(特別出演)、マライカー・アローラー・カーン(特別出演)、カリーナー・カプール(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。


サルマーン・カーン(左)とソーナークシー・スィナー(右)

あらすじ
 田舎町ラールガンジから地方都市カーンプルに転勤となったチュルブル・パーンデーイ(サルマーン・カーン)。継父プラジャーパティ・パーンデーイ(ヴィノード・カンナー)、弟マッカンチャンド(アルバーズ・カーン)、そして妊娠中の妻ラッジョー(ソーナークシー・スィナー)も一緒だった。早速カーンプルで誘拐劇を一人で解決し、街の話題の人となったチュルブルであった。カーンプル警察のトップ、アーナンド・マートゥル警視(マノージ・パーワー)も新任のチュルブルにご満悦の様子であった。

 ところで、チュルブルの所属となった地域は、悪徳州議会議員バッチャー・バイヤー(プラカーシュ・ラージ)のテリトリーであった。弟のガインダー(ディーパク・ドーブリヤール)やチュンニー(ニキティン・ディール)と共に恐怖政治を敷いており、誰もバッチャーに歯向かおうとしなかった。しかし、チュルブルは違った。

 チュルブルはまず、殺人事件に関与したバッチャーの手下を殺し、バッチャーに宣戦布告する。次に、花嫁を誘拐しようとしたガインダーを公衆の面前で殺害する。それまでバッチャーは師匠にたしなめられて怒りを抑えていたが、弟の死により怒りを爆発させ、師匠と決別してチュルブルへの反撃を開始する。バッチャーはラッジョーとマッカンチャンドを襲撃する。これによりラッジョーのお腹の中にいた胎児が死んでしまい、マッカンチャンドも重傷を負う。

 それを知ったチュルブルはバッチャーの待つ郊外の寺院へ単身突入する。バッチャーの手下を次々となぎ倒し、チュルブルも倒す。バッチャーにもとどめをさそうと言うときにマートゥル警視がやって来てバッチャーを逮捕するが、チュルブルは問答無用でバッチャーを射殺する。

 おそらくアルバーズ・カーンは「Dabangg」を長期シリーズ化しようとしているのだろう。そしてチュルブル・パーンデーイとそれを演じるサルマーン・カーンをヒンディー語映画界のラジニカーントに育て上げようとしているのだろう。そんな野心が感じられる第二作であった。もっと踏み込んで言えば、既に「Dabangg」は日本の「水戸黄門」のように様式化されている。ストーリーの流れ、アクションの構成、お約束ギャグ、挿入歌の使い方など、前作を完全に踏襲しており、新しい冒険や工夫はあまり見られない。そういう批判も多く出て来ることだろう。だが、それが必ずしもマイナス要因となっておらず、安定した娯楽を提供する作品となっていた。地方の庶民層から都市の若者まで、幅広い支持とユニバーサル・ヒットを狙った、計算高い作品である。

 「Dabangg 2」の主な存在意義は、「Dabangg」長期シリーズ化の布告に加えて、チュルブル・パーンデーイのキャラ確立であろう。確かに前作で既に十分過ぎるほど個性的なキャラに仕上がっていた。強きをくじき、弱気を助ける腕っ節の強い警官であるが、完全なる正義漢でもなく、「いい具合」に汚職している。だが、決して弱者を苦しめて金儲けをせず、必ず強者や悪者から金をせしめる。ラーム型ではなく、クリシュナ型の主人公、それがチュルブル・パーンデーイであり、人々から愛されるのもその親しみやすいキャラによるところが大きかった。だが、「Dabangg 2」ではそのチュルブルをさらに磨き上げ、シリーズ映画の主人公にふさわしいカリスマ性とチャーミングさを今一度付与していた。決め台詞が前作と異なっていたことを鑑みるに、おそらく作品ごとに新たな決め台詞を提供して行くことになるのだろう。

 悪役は、前作ではソーヌー・スード演じるチェーディー・スィンであったが、今回はプラカーシュ・ラージ。南インド映画で主に活躍する俳優であったが、ヒンディー語映画の「Bbuddah... Hoga Terra Baap」(2011年)や「Singham」(2011年)での見事な悪役振りが評価され、ヒンディー語映画界でも起用されるようになって来ている。「Dabangg 2」でさらに注目を浴びることだろう。おそらく「Dhoom」シリーズのように、「Dabangg」も「次作の悪役は誰か」ということが話題になる映画シリーズになりそうだ。

 ヒンディー語映画の本拠地は言わずと知れたムンバイーである。よって、ムンバイーを舞台とした映画がヒンディー語映画に多いのだが、ムンバイーはマラーティー語を第一の州公用語とするマハーラーシュトラ州の州都であって、ヒンディー語がローカル言語ではない。もちろん、ムンバイーはメトロポリタンであり、様々な地域から来た人々が住んでいるので、ヒンディー語もよく通じる。だが、言語に写実性を求めると、ヒンディー語だけには頼れないのが現状である。それでも、「ヒンディー語映画」を銘打っているだけあって、ムンバイー舞台の映画でありながらも、ヒンディー語――しかも標準ヒンディー語――で作られることがほとんどだ。メインストリームのヒンディー語娯楽映画は今でもムンバイーが舞台になったものが多い。

 しかしながら、ここ数年、ヒンディー語圏の都市を舞台としたヒンディー語映画も増えて来ており、2010年に公開された「Dabangg」もヒンディー語の牙城であるウッタル・プラデーシュ州の田舎町が舞台となっていた。「Dabangg」シリーズでは、単にヒンディー語圏を舞台としたヒンディー語映画というだけでなく、ヒンディー語の地方色もよく出ている。チュルブルをはじめとした登場人物は、サンスクリット語彙を主体としたコテコテのヒンディー語を話す。それでいて少し訛りもあって、いかにも田舎町のインド人と言った雰囲気がよく出ている。チュルブルの名字パーンデーイやその仲間の警官の名字――チャウベー、ティワーリーなど――は北インドの典型的なブラーフマン名であることも追記しておく。

 「Dabangg 2」はサルマーン・カーン一家が完全に実権を握る作品となっていることも重要だ。プロデューサーはサルマーンの弟アルバーズとその妻マライカー・アローラー・カーンであるし、コスチュームデザインはサルマーンの妹である。これらは前作も同様だったのだが、本作では監督をアルバーズが担当。それにより、さらにサルマーン・カーンのファミリー・フランチャイズ性が強くなった。

 サルマーン・カーンは円熟期に来てまたはまり役を得たと言っていい。チュルブル・パーンデーイは、サルマーン・カーンの普段のキャラや一般的なイメージの延長線上にあり、さぞや成り切るのが楽しいことであろう。

 ソーナークシー・スィナーにとって前作はデビュー作であり出世作だった。この2年間ヒット作に恵まれ、彼女は若手の中で頭一つ飛び抜けた存在となっている。しかし、彼女自身の成長は正直あまり感じられない。出演作のヒットと周囲の支えと運によってここまで来ていると言っていい。「Dabangg 2」でも、特に優れた演技をしていた訳ではなかった。演技力一本で頭角を現わした同世代のアヌシュカー・シャルマーなどと比較すると、将来が心配な女優である。

 悪役プラカーシュ・ラージについては前述の通りである。他にディーパク・ドーブリヤールがいい存在感を放っていた。「Omkara」(2006年)や「Teen Thay Bhai」(2011年)などで有名な個性派男優だ。アルバーズ・カーン、ヴィノード・カンナー、マノージ・パーワーなどもナイス・アシスト。前作で出演したマーヒー・ギルやティーヌー・アーナンドは今回はカメオ出演扱い。

 また、アイテムガールとしてマライカー・アローラー・カーンとカリーナー・カプールが出演している。マライカー・アローラー・カーンは前作で「Munni Badnaam」を踊り、「ムンニー」として名声を獲得した。「Dabangg 2」でも「Pandeyjee Seeti」で突然乱入して踊りを踊っている。今回はカリーナー・カプールが前作のムンニー的な立場でアイテムナンバー「Fevicol Se」を踊ったが、ムンニーほどのパワーはなかった。

 音楽は前作に引き続きサージド・ワージド。前述の通り、「Dabangg」と非常に酷似した構成となっている。それをもう少し詳しく見てみよう。前作にはラーハト・ファテ・アリー・ハーンの歌うカッワーリー風バラード「Tere Mast Mast Do Nain」があったが、本作ではやはりラーハト・ファテ・アリー・ハーンの歌うカッワーリー風バラード「Dagabaaz Re」があった。前作ではマムター・シャルマーの歌うアイテムナンバー「Munni Badnaam」が大ヒットしたが、本作でも二匹目のドジョウを狙うアイテムナンバー「Fevicol Se」があった。歌っているのもやはりマムター・シャルマーだ。タイトルソングに至ってはほぼリメイクの域だ。ちなみにフェヴィコールとはインドで普及している糊のブランドのことである。前作ではスクヴィンダル・スィンの歌う「Hud Hud Dabangg」がテーマソングとなっていたが、本作ではそのサビを流用した「Dabangg Reloaded」が使われていた。歌手もそのままスクヴィンダル・スィンだ。「Dabangg」は音楽の良さでも突出していたが、「Dabangg 2」はその繰り返しを狙いに狙った音楽となっている。しかし、前作に勝る音楽的カリスマ性は感じない。

 今回舞台となったカーンプルはウッタル・プラデーシュ州の実在の都市で、同州の代表的な都市のひとつである。実際にカーンプルでロケが行われていたと思われる。

 「Dabangg 2」は、2010年の大ヒット作「Dabangg」の正統な続編。前作を見ていないとストーリーに入って行けないが、前作を見ていると前作とほとんど同じ構成であることに気付くだろう。しかしながら、決して二番煎じの退屈な作品ではなく、ヒンディー語映画の文法に従って優れた娯楽映画に仕上がっている。長期シリーズ化の布告も十分に感じられた。サルマーン・カーンとそのファミリーには、「Dabangg」シリーズを大事に育てていってもらいたいものだ。将来的にはヒンディー語映画の財産となり得る。

12月23日(日) レイプ首都でのニルバヤー革命

 デリーではレイプ事件が多発しており、インドの「レイプ首都(Rape Capital)」という不名誉な称号ももはやすっかり定着してしまっている。毎日――誇張ではなく毎日――新聞を開くと、必ずレイプ事件の記事が掲載されている。インドのような国ではレイプ事件が明るみに出ることが比較的少ないことを考慮すると、実際の数はもっと多いことが容易に推測される。よって、ひとつひとつのレイプ事件が大きな扱いになることはほとんどない。犯人または被害者が有名人だったり上流層だったり外国人だったりすると、取り上げられることがあるくらいだ。

 だが、1週間前の12月16日に発生した輪姦事件は様子が違う。インドでは、同事件を発端とする反政府・反警察の抗議運動が全国的な広がりを見せており、特にデリーでは大統領官邸の目と鼻の先で抗議者と警察の間で大規模な衝突まで起こっている。「インド門が戦場になった」という扇情的な報道もなされている。抗議者の多くは特定の政党や団体などに属しておらず、全く自発的に抗議運動に参加していることも特筆すべきだ。元々デリーでは汚職撲滅運動が活発化していたが、この事件をきっかけに、汚職撲滅よりも何よりももっと基本的な「安全」を一般庶民に提供できていない政治家や警察に対する怒りが爆発したと言える。デリーでここまで大規模な一般庶民による抗議運動が起こったのは2011年のアンナー・ハザーレー逮捕(参照)以来だ。

 では、今回の輪姦事件は他のレイプ事件と何が違ったのだろうか?

 まず事件の詳細を見てみよう。被害者は23歳の女性で、看護士学校に通っている学生である。父親は空港で働く労働者。特にハイソな背景を持つ人物ではない。12月16日の午後9時から9時半頃、その女性は男性の友人1名と共に南デリーのサーケートで映画を見終わった後、南デリーのムニルカーまで移動し、そこで自宅のあるパーラム方面へ行くバスを待っていた。そこへ1台の私営チャーターバス(いわゆるホワイトライン・バス)がやって来た。バスの行き先を聞くと目的地の方向であったために、2人はそのバスに乗り込んだ。しかし、それは路線バスではなかった。バスには運転手を含め6人(7人との話もある)の男性が乗っていたが、彼らは皆仲間で、酒を飲んでデリーを「ジョイライド」をしていた。ムニルカーに着く前には、間違ってバスに乗って来た別の男性から現金と携帯電話を奪っており、次のカモを探していたのだった。彼らは異変に気付いた2人をからかい出し、いざ喧嘩になると、男性を鉄棒で殴って気絶させ、女性を後部へ連れて行って代わる代わるレイプした。バスに乗っていた男性全員が女性をレイプしたのかどうかについてはまだ聴取中だ。とにかく何人もの男性が女性をレイプした後、空港近くのマヒパールプルで2人をバスから投げ捨てて逃走した。女性は素っ裸の状態だったと言う。男性も大きな怪我を負ったが、深刻なのは女性の方で、現在でも病院で生と死の境を彷徨っている。壊疽した腸の大部分を摘出する手術を受け、依然危篤状態であるが、容体は安定しており、精神状態も驚くほど平常を保っているとのことである。一方、もし犯人が6人のみだったとすると、現在まで全員が逮捕されている。

 この事件でまずポイントとなるのは、犯人は被害女性の知り合いではないことである。インドにおけるレイプ事件の多くは知り合いの男性による犯行だとされており、もしそうである場合は、合意の上での行為ではないのか、女性が復讐か何かのために男性に濡れ衣を着せようとしているのではないか、という点がしばしば争点となるのだが、この事件はそのケースに全く当てはまらない。犯人の供述からも、全く見知らぬ女性に対するレイプであったことが確実である。

 次に、犯行時刻が午後9時から午後9時半頃と、特に深夜という訳でもない時刻であることだ。深夜に街に出ていた女性がレイプの被害に遭うことが少なくなく、その際には「そんな時間に外出していた女性が悪い」という論調が必ず沸き起こるものなのだが、今回はそのケースにも当てはめられないだろう。午後9時代を「深夜」または「レイプの危険がある時刻」としてしまったら、デリーのナイトライフは死んでしまう。

 被害女性は1人でいた訳ではないことも重要なポイントだ。男性の友人と共にいた。そして男性は十分に女性を守ろうとしたと伝えられている。やはりレイプ事件が起きると、女性の単独行動が槍玉に挙がることがあるのだが、今回はそういう被害者糾弾をすることもできない。

 報道によれば、被害女性は事件時に特に「誘惑的な」衣服を着ていたともされていない。冬であることもあって、肌の露出は最低限だったと言えるだろう。レイプ事件が起きると、事件当時に女性が着ていた衣服にも焦点が当てられる。もし必要以上に露出度の高い衣服を着ていたりすると、「女性の責任」とされ、レイプされても仕方がないと結論付けられることが少なくない。どうやら今回のケースはそれにも当てはまらないようである。

 つまり、今回のレイプ事件は、被害女性側に全く非がないのである。間違いがあったとすれば、路線バスではないバスに乗り込んでしまったことだけだ。それだけでこれだけ酷い陵辱と暴行を受けたということは、デリーの治安に問題があるとするしかない。庶民の怒りはもっともだ。もうこれ以上女性が身を守るためにできることはないのだから。もしこれを単なるレイプ事件として看過してしまったら、女性は外出するなと言っているのと同じになってしまう。今までは、同様の事件が起きると、「女性は深夜外出すべきではない」「肌の露出の多い服を着るべきではない」などと、女性側をたしなめる意見も出て来た訳だが、今回は全く女性側に落ち度がなかったことから、逆に「午前2時に女性が外出しても安全な街を」「好きな服を着る自由を」という声が女性の間から噴出している。

 折しも、映画俳優ファルハーン・アクタルを起用したデリー警察のCMが流れており、その中でファルハーンは、「女性に対する暴行事件の蔓延は女性にも責任がある」「犯罪を犯すことと堪え忍んで警察に報告しないことは両方とも罪だ」という内容のことをしゃべっている。しかし、今回の被害女性のような状況に陥ったとき、1人の女性が何をすることができるだろう?このCMは全くタイミングが悪かった。



 また、これは未確認なのだが、どうやら被害女性はレイプ以上のことをされたようである。最初の報道では「unnatural sex(自然ではない性行為)」も受けたとされていたので、そういう趣味の犯人からそういうこともされたのかと勝手に想像していたのだが、実際にはもっと非人道的なことをされていたとされる。どうやら性器から鉄棒を突っ込まれ、腸まで突き刺されたようだ。腸の摘出手術を受けるまでの重傷を負ったことから、その情報には十分に信憑性がある。レイプ後に路上に放り出されたとき、通行人や野次馬がしばらくその女性が誰も助けようとしなかったとの報道も目にしたのだが、もし被害女性がそんな酷い状態で道に転がっていたら、助けようにも助けられなかったことはある程度仕方のないことだと言える。

 よって、今回は被害女性に全く非がないこと、そして単なるレイプではなく輪姦、しかもさらに酷いことをされた可能性があることから、人々の怒りが爆発したと言う訳だ。被害女性がバスに乗った場所が、僕の住むジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のすぐ近くだったことも、少しだけ運動の盛り上がりに関係していると思われる。JNUの学生たちが特に敏感に反応し、事件発覚直後から抗議運動を始め、南デリーの大動脈アウターリングロードのブロックなどをしていた。それが現在の大統領官邸やインド門での抗議運動につながっている。JNUのコムレードにラール・サラーム!

 被害女性の名前は公表されていないのだが、インドの大手英字紙タイムス・オブ・インディアは抗議運動の発端となった被害彼女を「ニルバヤー(恐れ知らず)」と名付け、運動をさらに支援して行く方針を明確にした。このような酷い犯行と傷害を受けたにも関わらず、彼女は恐れず勇敢に生き続けようとしているからだ。彼女の容体は毎日逐一報道されており、人々は彼女の回復を一身に願っている。ニルバヤーの他にダーミニーやアマーナトなど、メディアによって複数の名付けが行われている。

 今回の事件をきっかけに、強姦の厳罰化を求める声が上がっている。現在のインド刑法(IPC)では、強姦罪に対する罰は禁固7年から終身刑、輪姦罪に対する罰は禁固10年から終身刑となっている。それをさらに厳罰化し、死刑や薬物による去勢を可能にする法改正を求める声が強くなっている。同時に、裁判の迅速化も叫ばれている。

 この事件はまだ全く収束しておらず、現在進行中だ。対応を誤ると、中央政府やデリー州政府の与党国民会議派の命取りになる可能性も否定できない。青年リーダーを自称するラーフル・ガーンディーからもとんと音沙汰がない。この抗議運動はまだ今後も拡大する可能性は十分ある。だが、当初は一般庶民が大多数を占めていたのだが、「プロ市民」が運動をハイジャックして暴徒化し、警察の反撃を誘発しているとの報道もあり、物見遊山でデモを見物するのは危険である。ちなみに、デリーの州議会選挙は2013年に予定されている。

12月29日、シンガポールの病院に搬送され治療を受けていた被害女性が死亡した。


12月30日(日) Suraj - The Rising Star

 今年1月の日記でインド版「巨人の星」として取り上げたアニメが、インドの娯楽チャンネルColorsにおいて、12月23日から毎週日曜日午前10時の枠で放映中である。結局題名は「Suraj - The Rising Star」となった。「スーラジ」はヒンディー語で「太陽」という意味で、主人公の名前でもある。インドにおいても日本は「The Land of The Rising Sun(日出ずる国)」として有名で、それと原作の「星」の部分を掛け合わせた題名であろう。

 ポリシー上から自宅にTVは置いていないので、「Suraj - The Rising Sun」の第1話をリアルタイムで見ることはできなかったのだが、インドではテレビ番組の無料公式ネット配信が進んでおり、放映日から6日後となる12月29日にはColorsの公式ウェブサイトに第1話が全編アップロードされていたため、やっとその本編を目の当たりにすることができた。おそらく毎週土曜日に、前の日曜日に放映された分がネット配信されるスケジュールになっているのではないかと思う。

 第1話では、主人公スーラジ(星飛雄馬)に加え、父親シャーム(星一徹)、姉シャーンティ(星明子)、宿敵ヴィクラム(花形満)など、主なキャラクターが登場。また、インドの人気クリケット選手サチン・テーンドゥルカルをモデルにしたと思われるサミールという選手も登場しており、原作における長嶋茂雄登場を容易に連想させる。原作で有名な「ちゃぶ台」「大リーグボール養成ギブス」「宵の明星」などに当たる小道具も早々に登場しており、原作を知る視聴者の掴みも巧妙に狙われている。

 ちょうど今年が日印国交樹立60周年だったこと、また当初からインド進出中の日本企業をスポンサーとして巻き込んで企画が進められたことなどから、「Suraj - The Rising Star」にはスズキ、全日空(ANA)、ダイキンなど、日本企業の作中広告が登場する。さりげなく、という感じではなく、どちらかと言うとあからさまな入り方だ。インドのTVアニメでここまで作中広告が入ったものは初めて見たのでかなりの違和感があったが、映画の世界ではごく普通となっている。

 この企画について事前に頭に浮かんだ問題点は1月の日記で既に書いており、ここで繰り返す必要はないだろう。実際に放映されたものを見た結果、もっとも大きな問題だと感じたのは作画だ。アニメ版「巨人の星」を手掛け、最近では「名探偵コナン」なども制作している日本のアニメーション制作会社トムス・エンタテイメントがこの企画に参加しているとのことだったので、日本のアニメに近い作画になるかと期待していたのだが、出来上がったものはどこから見ても完全にインドアニメであった。クレジットにはアニメーション制作担当としてインドのアニメーション制作会社DQエンターテイメントが掲載されていたので、この会社が大部分を手掛けたのだろう。

 インドのアニメ産業はITとの相性の良さから急速に発展しており、アウトソーシング先としてだけでなく、オリジナル・コンテンツの発信地としても重要性を増して来ている。近年見たインド製アニメの中では、映画になるが、「Arjun: The Warrior Prince」(2012年)の出来が突出していた。だが、「Suraj - A Rising Star」のアニメーションは「Arjun」の足下にも及ばないばかりか、Flashアニメに毛が生えた程度の残念なものであった。もし緻密なマーケティングの結果、インド人にはこういうアニメが受けるという確信があり、故意にそうしているというのなら、何も言うことはないが、さすがにインド人でもアニメを見分ける鑑識眼が養われて来ていると思われる。また、「Suraj - A Rising Star」は、子供向けチャンネルではなく、Colorsという一般向けTVドラマなどを放映しているチャンネルで敢えて放映していることからも分かるように、子供だけでなく全年齢層をターゲットにしている作品だ。そういうアニメがこの程度の出来というのは、どこかで間違いがあったと邪推せざるを得ない。

 「Suraj - A Rising Star」の第1話を見た後、ひとつの新聞記事が思い起こされて来た。「Yeh Dil Manga More(意訳すると「この心は漫画をもっと欲する」みたいな意味)」という12月15日付けタイムス・オブ・インディア・クレスト・エディションの記事である(参照)。

 この記事では、現在インドの子供に大人気の日本アニメが特集されており、特に「ドラえもん」の人気に焦点が当てられている。「ドラえもん」はディズニー、ハンガーマー(Hungama)など、複数のチャンネルで放映されており、インドでの平均視聴率(TVR)は子供向け番組のトップとなる0.56となっている。ちなみに第2位のPogo「Chhota Bheem」が0.48である。他に、「忍者ハットリ君」、「クレヨンしんちゃん」、「つるピカハゲ丸君」なども、「ドラえもん」には及ばないものの、国産や米国のアニメより遙かに人気となっている。インドの高級アパートでは、「ドラえもん」をテーマにしたパーティーが大人気という話もある。よって、日本からインドの子供へのお土産として、「ドラえもん」グッズは非常に受けがよい。

 この記事の中では、インド人の視点から、なぜ日本アニメがインドで受けているのかが分析されている。8歳と5歳の子供を持つアパルナー・シャルマーさん(35歳)曰く、「日本は西洋よりも文化的にインドに近く、これらのアニメは、勤勉の重要性、宿題を期限内に終わらせること、年上を敬いケアすることなど、インドの子供たちが教え込まれる価値観を強調して」おり、ディズニーUTVのアルナブ・チャウダリー氏によると、「『ドラえもん』は子供や家族に普遍的なアピールがある。このアニメは、友情、両親の言いつけを聞くこと、学校、遊び、制服など、インドの子供たちが共感できるコンセプトに焦点を当てている」とのことである。また、9歳の子供を持つ作家キラン・マンラル氏は、「日本のアニメの多くは、1980年代の日本を舞台にしているが、都市に住むインドの子供たちにとっては、神話アニメやインドの農村を舞台にしたアニメよりもより身近な現実を描写している。また、日本のアニメは、常に世界を白黒に二極化しようとするインドのアニメとは違って、善悪が曖昧である。主人公は必ずしもヒーロー的なキャラではなく、子供たちは両親に言い返しもする。私たちがそれを好こうが好くまいが、今の世代の子供たちは両親とより直接的な関係を築いているのは真実だ」と述べている。

 もし「Suraj - The Rising Star」が失敗するとしたら、上で引用されている発言はかなり重要な意味を帯びて来るだろう。講談社は、現在のインドが「巨人の星」の舞台となった高度成長期の日本――つまり1960年代の日本――に似ているため、「巨人の星」をクリケットに置き換えたアニメも受けるだろうと考えたようだが、インドにおいてアニメの熱狂的なファンになり得る層は、もはや1960年代の日本のような生活環境に生きていない可能性がある。確かに都市部ではインフラ整備が急ピッチで進められており、高度成長期の日本を思わせるかもしれないが、一方で十分な数の上位中間層が生まれており、その子供たちは生活上は何不自由なく育って来ている。日本アニメの主な支持層も確実に彼らだ。これらの子供たちが直面する問題はむしろ、毎日の宿題だったり、受験戦争だったり、友人関係や恋愛だったりと、正に1980年代から90年代の日本がもっとも近い状況となっているかもしれない。そうだとすると、原作通り古めかしいスパルタ教育と貪欲なハングリー精神と極端な勝負観に裏打ちされた物語になるであろう「Suraj - The Rising Star」がこの層にどのくらい共感されるか、疑問だ。もしかしたら、デリーのスラムでうどんを売っていた漫画家山松ゆうきちさんのように、スラムの子供たちが第一のターゲットなのかもしれない。彼らの共感が得られたらすごい話だが、うまく行くかどうか?

 しかしながら、インドという広大なキャンバスに筆を入れた講談社のチャレンジ精神は歓迎すべきだ。「Suraj - The Rising Star」の行方がどうあれ、企画者は「巨人の星」の精神でインドにぶつかっている。インドは何が受けて何が受けないかはっきり分からない市場であり、日本企業が日本の得意とする分野でそこに果敢に切り込もうとする姿は頼もしい限りである。限られたコミュニティーや社会層向けのチマチマした商売ではなく、インド人の大海を相手にしているところも壮大で素晴らしい。講談社が版権を持っているアニメや漫画の中では、「金田一少年の事件簿」シリーズがインド人に受けるのではないかと助言させてもらったこともあるのだが、次の企画としてどうだろうか?

 


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