スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2012年10月

装飾下

|| 目次 ||
旅行■1日(月)レー周辺のゴンパ巡り
旅行■2日(火)レー→パンゴン・ツォ
旅行■3日(水)パンゴン・ツォ→レー
旅行■4日(木)レー→ツォ・モリリ
旅行■5日(金)ツォ・モリリ→レー
旅行■6日(土)残りのゴンパ巡り
旅行■7日(日)レー・マナーリー・ロード1
旅行■8日(月)レー・マナーリー・ロード2
旅行■9日(火)レー・マナーリー・ロード3
旅行■10日(水)マナーリー→チャーイル
旅行■11日(木)チャーイル→パーニーパト
旅行■12日(金)パーニーパト→デリーと総括
▲ラダック・ツォーリング(2012年9月20日~10月12日)
映評■14日(日)English Vinglish
映評■14日(日)OMG Oh My God!
映評■15日(月)Aiyyaa
映評■17日(水)Chittagong
映評■19日(金)Student of the Year
映評■20日(土)Makkhi
散歩■23日(火)アーディラーバード
映評■24日(水)Chakravyuh
▼D2Dツーリング(2012年10月15日~11月10日)
旅行■25日(木)デリー→アーグラー
旅行■26日(金)アーグラー→チャンデーリー
旅行■27日(土)チャンデーリー観光
旅行■28日(日)チャンデーリー→ボーパール
旅行■29日(月)ボーパール→ウッジャイン
旅行■30日(火)ウッジャイン→オームカーレーシュワル
旅行■31日(水)オームカーレーシュワル→ブルハーンプル


10月1日(月) レー周辺のゴンパ巡り

ラダック・ツォーリング

 今日は再びパーミット取得の日である。今後の旅行先としてパンゴン・ツォとツォ・モリリを考えているが、どちらもインナーライン・パーミット(ILP)が必要であり、その取得には少なくとも1日掛かる。前回と同じくHidden Himalayaに取得代行を頼んだ。今回はパンゴン・ツォとツォ・モリリのILPを一度に取得することにした。一度の申請におけるILPの最大有効期限は7日間となっているが、どちらも1泊しかしない予定なので、1週間あれば十分であろう。

 パーミット取得の間、レー周辺のゴンパを巡ることにした。ゴンパとはチベット仏教の寺院兼僧院のことで、大概は岩山の上に要塞の如くそびえ立っている。レー周辺にはいくつもの重要なゴンパが点在しており、それらを巡るのがラダック観光の大きな目玉となっている。10年前にレーに来たときも当然ゴンパ巡りをした訳だが、あのときはジープをチャーターしての観光であった。今回はバイクで来ているので、スタンプラリー感覚でなるべく多くのゴンパを巡る。

 午前10時頃にILPの取得代行を頼んだ後、午前中にレーの西にあるゴンパを巡ることにした。まず向かったのはピャン(Phyang)。レーを西に出て、空港や軍駐屯地を越えた先の、山間の奥まった場所にある。ラマユル・ゴンパと同じディクン派のゴンパだ。


ピャン・ゴンパ

 次に向かったのはスピトク(Spitok)。空港のすぐそばにある岩山にそびえ立っている。最大宗派ゲルク派のゴンパである。レー周辺部で、レーの西側にあるゴンパは主にこの2つだけである。ちょうど昼時になっていたので、レーまで戻って、サマー・ハーベストでキチン・モモを食べた。

 昼食後はレーの東側にあるゴンパを巡る。頭に思い描いていたルートでは、まずレーから見てインダス河の対岸にあるストク(Stok)を目指すはずであった。そのままマト(Matho)、スタクナ(Stakna)、ティクセ(Thikse)、シェイ(Shey)と巡ろうと考えていたが、チョグラムサル(Choglamsar)辺りでインダス河を渡る地点を通り過ぎてしまった。そこで、想定していたルートとは逆回りでシェイから見て回ることにした。考えてみれば、このルートの方が時計回りであり、チベット仏教のコルラ(右遷)のルールに従っている。

 まずやって来たのはシェイ。レーから南東に約15kmほどの地点にあり、目と鼻の先である。シェイは元々首都だった場所で、ゴンパの他に城塞跡が残っている。拝観料は20ルピー。シェイ・ゴンパには高さ10mの巨大なシャキャムニ像が納められている。


シェイ・ゴンパのシャキャムニ像

 次に向かったのはティクセ。シェイからすぐ近くだ。ゲルク派に属するティクセ・ゴンパは正に要塞そのものの外観で、ラダックを代表する景観となっている。拝観料は30ルピー。ティクセにも巨大なチャンバ像があるが、こちらはそんなに古くない。


ティクセ・ゴンパ

 ティクセからさらに南東に向かい、途中でインダス河を渡ると、その先に見えるのがスタクナ・ゴンパである。ブータンから招かれた高僧のために建立されたと言うドゥク派のゴンパだ。拝観料は30ルピー。一番奥の、もっとも古い部屋にある小さな白い仏像が、この寺院の本尊だと説明を受けた。案内してくれた僧侶が「最近なぜか日本人の来訪者が多いんだ」と漏らしていたが、おそらくそれは山本氏のガイドブックの影響であろう。


スタクナ・ゴンパ

 スタクナ・ゴンパから今度は北西に向かう。インダス河の南岸の道はそれほど良くなく、所々道路が崩壊している。だが、しばらく我慢して走っていると舗装道になる。面白いことに、こちら側にはイスラーム教徒が多く住んでいるようで、いくつかモスクもあった。ティクセの対岸辺りから真っ直ぐ南に道が延びており、それがマト村まで通じている。マト村を見下ろすのがマト・ゴンパである。ラダックで唯一のサキャ派に属するゴンパだ。このゴンパからはレー、ティクセ、スタクナを初めとして、インダス谷の大部分が見渡せる。絶景である。ところがマト・ゴンパには誰もおらず、中を見ることができなかった。


マト・ゴンパ

 マト・ゴンパまで来た時点で午後4時を回っていた。午後5時にILPを受け取りにHidden Himalayaへ行かなければならなかったため、今日はストクを見るのを諦めた。それでも1日で6つのゴンパを巡ることができた。バイクという機動力あればこそのゴンパ三昧の1日であった。しかし大した専門知識もなしにゴンパばかりを見て回っていると、終いにはどれも同じに見えて来てしまう。本当に単なるスタンプラリーだ。


マト・ゴンパからの眺望

 パンゴン・ツォとツォ・モリリへ行くためのILPも首尾良く取得でき、明日からの旅の準備が整った。

 本日の走行距離:126.1km、本日までの走行距離:1,919.5km。ガソリン補給1回、850ルピー。

10月2日(火) レー→パンゴン・ツォ

 大ヒット映画「3 Idiots」(2010年)のラストシーンを覚えているだろうか?カリーナー・カプール演じるピヤーが、アーミル・カーン演じるランチョーと再会する場面。山々に囲まれた真っ青な湖の中でランチョーは飛行機を飛ばしていた。あのロケ地がパンゴン・ツォである。「3 Idiots」の大ヒット以来、パンゴン・ツォはインド人観光客の間で大人気となり、湖畔には「3 Idiots Restaurant」なるレストランまで出現する始末。しかし、幾分騒がしくなった今でも、その美しさは筆舌に尽くしがたいと言う。今日はパンゴン・ツォを目指す。パンゴン・ツォはレーから日帰りも可能だが、湖の美しさを堪能するには日帰りでは不十分と聞き、1泊することを決めた。


「3 Idiots」のラストシーン

 パンゴン・ツォはレーから154kmの地点にあるが、その間には標高5,360mのチャン峠(チャン・ラ)がそびえ立っており、容易にアクセスできる場所ではない。カルドゥン峠やヌブラ谷と同様に冒険覚悟の準備と心構えが必要だ。

 午前8時にホテルを出発。南東方向に進む。シェイ、ティクセ、スタクナなど、昨日訪れたゴンパを通り過ぎ、午前9時頃にカルー(Karu)に到着。カルーから先に行く場合、ここのガソリンスタンドが最後のガソリンスタンドとなる。バイカーにとっては非常に重要な場所である。ここで燃料を満タンにした。

 カルーは、マナーリーやツォ・モリリ方面へ行く道と、パンゴン・ツォ方面へ行く道の分岐点となっている。カルーの分かれ道を左に進めば、パンゴン・ツォへと続く道となる。

 カルーからの道は舗装道だが、一車線分しかなく、対向車とのすれ違いには常に気を遣う。しばらく行くと、サクティ(Sakti)という大きな村に到着する。サクティからは標高5,280mのワリ峠(ワリ・ラ)へ続く道とチャン峠へ続く道が枝分かれしている。実はワリ峠を越えるとヌブラ谷へ出る。サーイーはこの道を通って昨日ヌブラ谷からレーまで戻って来たが、ほとんど誰も使っていない道であり、路面状況は最悪とのことである。ワリ峠には用はないので、チャン峠方面へ進む道を進んだ。


サクティ付近の風景

 巨大な山の山腹を這うように進む。まだ舗装道になっており、ここまでは意外に楽である。ところが、チャン峠のベースキャンプとなるジングラル(Zingral)を越え、チャン峠付近に差し掛かると、道路は最悪の状態となる。ただでさえ空気が薄くてエンジンにトルクがないのに、その上舗装を完全に諦めたかのような石と岩だらけの道となって、バイクに大きな負担が掛かる。もしかしたらカルドゥン峠よりも難関かもしれない。

 そのような悪路を苦労して上り、午前10時半頃にようやくチャン峠に到着。雰囲気はカルドゥン峠と似ており、茶店、診療所、寺院などがあった。茶店でブラックティーを飲んだが、手が震えてならない。長らく悪路を走行して来たためか、高山のためか、それとも寒さのためか、ちょっと異常な状態であった。また、あまりに出来すぎな話ではあるが、デリーから出発してちょうど2,000kmの地点がこのチャン峠であった。


チャン峠制覇!

 チャン峠では15分ほど休憩し、標高を下げるためにすぐに下り道に入った。峠を越えた先の道もとんでもない悪路で、氷の上を越えて行かなければならない場所もあった。やはり難易度はカルドゥン峠よりもさらに高い気がする。

 ベースキャンプのタクトク(Taktok)辺りから道は舗装道となり、走行も快適となる。美しくも険しい渓谷の間をひたすら進んで行った。正午ちょうどにタンツェ(Tangtse)に到着。タンツェには軍の駐屯地の他にチェックポストがあり、外国人はILPのコピーを提出しなければならない。


途中にある小さな湖

 タンツェを過ぎると、パンゴン・ツォへの入域料10ルピーを支払うブースがある。それを過ぎるといよいよパンゴン・ツォへと続く道となるが、これがまた微妙な道だった。基本的には舗装道なのだが、所々に悪路があり、気を付けて運転しないと、舗装道を走行する感覚で悪路に突っ込んでしまう。また、パンゴン・ツォに近付くにつれて悪路のレベルが酷くなって行く。砂だらけの道、岩だらけの道など、様々な障害が待ち受けている。

 それでも午後1時には何とかパンゴン・ツォの湖畔に到着。茶色の山の中に突如真っ青な湖が現れる。標高4,350mの高地に、全長134km、604平方kmの巨大な湖が存在することだけでも驚きなのに、そのなんと美しいことか!聞きしに勝る美しさ!この世のものとは思えない!何も言葉が出ない!天国のイメージがそのまま眼前に現れたかのようだ!しばし、その浮世離れした絶景に見とれてしまった。ちなみに、この巨大高山湖はそのまま中国チベット国境の先まで続いている。


パンゴン・ツォ
ルクンで撮影

 湖のもっとも北端にあるルクン(Lukung)という場所には、観光客向けのテント食堂が軒を連ねており、食事をすることができる。日帰り客は大体ここでパンゴン・ツォを楽しみ、レーに帰って行く。一番設備が整っているので、ここで昼食を食べ、しばらく湖畔を散策した。


噂の3 Idiots Restaurant
残念ながら営業していなかった

 ルクンの辺りは日帰りの観光客でごった返すため、もっと先まで行くことにした。ルクンから10kmの地点にスパンミク(Spangmik)という村があり、そこにはホームステイ、ゲストハウス、キャンプサイトなどが揃っている。今日はスパンミクで宿泊することにした。とりあえず目に付いた民家でホームステイが可能かどうか聞いてみたらOKとのことだったので、その民家に宿泊させてもらった。1人500ルピーで、食事の料金は別。非常にベーシックな部屋であるが、1泊するだけなので全く問題ない。スパンミクに着いたのが午後2時頃であった。


ホームステイ先

 ホームステイ先に荷物を下ろし、チャーイをいただいた後、ひたすらパンゴン・ツォの美しさを愛でて歩いた。さすがにこの辺りまで来ると観光客もおらず、この世にも稀な光景を独占することができた。耳を澄ましても風の音と湖の波打つ音しかしない。このような場所が地球上にあったとは、神に感謝しなければならない。この美しさの前にはどんな言葉も無力だ。ただ写真を見て感じ取っていただくしかない。


ルクンの辺り


これもルクン


赤いカリズマと青いパンゴン・ツォ


スパンミク


これもスパンミク


賽の河原のように石が積み上げられている


美しすぎる・・・!


夕暮れ時のパンゴン・ツォ



 夕食はトゥクパを作ってもらった。ものすごく質素な生活をしてそうな家族だったので正直食事にはあまり期待していなかった。具が豆しか入っていないシンプルなトゥクパだったが、驚いたことに今まで食べて来たどのトゥクパよりもおいしかった。ホームステイならではの体験だ。


家庭の味トゥクパ

 本日の走行距離:164.8km、本日までの総走行距離:2,084.3km。ガソリン補給1回、400ルピー。

10月3日(水) パンゴン・ツォ→レー

 昨日は空に雲がほとんどなく、パンゴン・ツォは売り文句の「ターコイズ・ブルー」色に染まっていた。ところが今日は空に雲が掛かっており、湖の色もくすんでいた。パンゴン・ツォは晴天のときにのみ本来の美しさを見せる。昨日は運良くその神々しい姿を拝むことができたが、今日はそれを期待できそうになかった。遠くの方では山頂を雲が覆っており、雪が降っていそうな雰囲気であった。昨日に比べて寒さも増しており、村を流れる小川は所々凍り付いていた。


今日のパンゴン・ツォ

 パンゴン・ツォがご機嫌斜めでは、ここに長居する理由はない。ホームステイ先で朝食をいただき、午前9時頃にはスパンミク村を出た。途中、ルクンに立ち寄ってGoProによるビデオ撮影をしてみたが、やはり湖の色は昨日撮影した映像とは比べ物にならない。ルクンを出たのが午前9時半頃であった。


雲が多く美しさ激減

 その後はただひたすら来た道を引き返すのみ。やはりチャン峠を越えるこのルートは相当難易度が高い。しかも昨日に比べて寒いので、やたらと厳しく感じる。途中で立ち止まって風景の写真を撮る余裕すらない。氷結している道も昨日に比べて多い。何度も繰り返すが、おそらくツーリング・ルートとしての難易度は、カルドゥン峠越えよりもこちらの方が上のはずである。最悪の悪路と戦いながら、少しずつ少しずつレーへと向かった。

 正午にチャン峠に到達。そろそろ昼時ではあったが、寒さと高さで全身の震えが止まらないので、ここで立ち止まらずにもっと標高を下げてから休むことを決め、チャン峠を通り過ぎた。ここからはずっと下り坂なのでだいぶ楽になる。路面の状況は相変わらず酷いが、進めば進むほど楽になるとなると、忍耐力も異なって来る。標高が下がって来ると風の冷たさも軽減されて行き、サクティ村が見える頃にはかなり暖かくなっていた。

 午後1時頃にカルーに到着。交通の要衝に位置するこの場所には食堂が集まっている。チベット料理レストランでマトン・モモを食べた。それほどレベルの高いモモではなかったが、冷え切った身体にはとにかくありがたかった。


カルーで休憩

 午後1時20分にカルーを出発。あとはレーまで広く平坦な道である。いつの間にかレーが自分の家のように思えて来た。レーに着けばホットシャワーがある!レーに着けばフカフカの布団で眠れる!レーに着けばおいしいごはんが待っている!とにかく早くレーに着きたい!そんなはやる気持ちを抑えながら、安全運転を心掛けてレーまで向かった。レーには午後2時過ぎに到着。今回もシャーンティ・ストゥーパ下のオリエンタル・ホテルに宿泊した。

 パンゴン・ツォは天国のような場所であったが、天国の前には地獄が待っていることも同時に教えられた。そして、この苦しい旅路の中で、いつの間にかレーが自分の心の中で大きく温かい存在になっていることにも気付かされた。さらに何日もレーを離れることになるトレッカーたちは、おそらくさらに強くそのことを感じるのだろう。そして旅人たちのそんな「望郷心」が、レーをここまで急速に発展させたのだと思った。ラダックの厳しい自然の中にあって、何でも揃っているレーは誠にオアシスのような存在だ。もはやレーが田舎に思えなくなった。

 本日の走行距離:166.7km、本日までの総走行距離:2,251.0km。ガソリン補給なし。

10月4日(木) レー→ツォ・モリリ

 今日は、パンゴン・ツォと並び称せられる高山湖、ツォ・モリリへ向かう。レーから220km離れており、日帰りでは困難なことから、パンゴン・ツォよりも秘境とされている。天国のように美しいパンゴン・ツォを見て十分満足したが、どうせならツォ・モリリも見ておきたいという欲張りな気持ちが沸き起こって来た。パンゴン・ツォよりもツォ・モリリの方がいいという人もいる。どうせなら同時に2つの湖を見て比べてみようではないか。また、パンゴン・ツォを往復してカリズマの燃費を概算してみたところ、カルーでタンクを満タンにすれば、予備の燃料を用意しなくてもツォ・モリリまでの往復は十分可能であることを確信した。ツォ・モリリへ行くにはILPが必要だが、それはパンゴン・ツォと同時に取ってある。ツォ・モリリに行かない手はなかった。

 ところが朝、空を見てみると、今にも雲がレー一帯を覆ってしまいそうなほどの悪天候だった。気温もいつに増して低い。ツォ・モリリへ行くには完璧な日ではない。しかし、ラダックではもう冬が始まっており、このまま待っていても状況が好転しそうになかったので、思い切って出発することにした。

 レーからツォ・モリリまでは2つのルートがあるが、より容易と思われるマヘ(Mahe)経由の道を選んだ。ちなみにもうひとつのルートはツォ・カル経由のものだが、こちらはタグラン峠(タグラン・ラ)という、カルドゥン峠に次いで標高の高い峠を越えなければならないので、困難が予想された。マヘ経由のルートはインダス河沿いの平坦な道がずっと続く。

 午前8時過ぎにホテルを出発。午前9時にカルーのガソリンスタンドで満タンにした。レーは曇り空であったが、東の方に来ると日が差しており、悪い天気ではなかった。思い切って出発して正解だった。

 カルーからインダス河に沿った道を上流に遡る形で走行した。平坦な道なので非常に楽だ。舗装もまあまあ。所々で工事中だったり土砂崩れの多い部分だったりして悪いところはあるが、カルドゥン峠やチャン峠を越えて来た者にとってはどうってことない。途中にある村々も非常に美しく、この辺りを走行するのはとても楽しかった。


インダス河上流の景色

 午前11時45分頃にチュマタン(Chumathang)に到着。ここは温泉が湧いていることで有名な場所で、軍人用のスパの他、いくつか食堂もある。周囲の風景もとても美しい。ここで15分ほど昼食休憩をした。


チュマタン近くの風景

 正午にチュマタンを出発し、さらにインダス河を遡る。するとマヘに出る。ここには橋が架かっており、ツォ・モリリへ行くにはその橋を渡って行く。橋を渡らずに直進する道路もあるが、現在外国人はマヘから先のロマ(Loma)までしか行くことができない。ロマよりもさらに先のハンレ(Hanle)にはハンレ・ゴンパや天文観測所があることで知られているが、外国人は今のところ行けない。マヘにはチェックポストがあり、ILPのチェックがあった。マヘに着いたのが午後12時30分頃だった。

 マヘからは幹線を外れるので、さぞや悪路となるだろうと思っていたが、意外や意外、きれいな舗装道がずっと続いていた。途中で分岐点がある。そこを右に行くとツォ・カルというもうひとつの湖の方へ向かう道で、プガ・スムド(Puga Sumdo)という村が見える。ツォ・モリリへ行くには、プガ・スムドの方ではなく、直進しなければならない。眼前には巨大な雪山が見え、気温も下がって来たのを感じる。前に見える雪山は地図によるとおそらくチャルン(Chalung)という標高6,500mの山だ。上から粉砂糖を振りかけたような山が景色に含まれることでいよいよ寒冷地に入って行くことを実感するが、幸い天気が良くて日が照っているので、そこまで寒さは感じない。雪山を目指して進んだ。


プガ・スムドからチャルン山を臨む

 そのまましばらく進んで行くと峠道となり、やがて黄色い草原が現れた。無数のタルチョがはためいている。特に表示はなかったが、ここが標高4,800mのナムシャン峠(ナムシャン・ラ)であろう。今まであまり見たことがない色使いの峠であった。ナムシャン峠を越えると、今度は湖が見えて来る。これはツォ・モリリではなく、キアガル・ツォ(Kiagar Tso)という湖である。黄色い草原に浮かぶ蒼い湖。これもまた何と美しい光景であろう。パンゴン・ツォを見て以来、美しいものに対しては「美しい」としか言葉が出ない。


キアガル・ツォ

 だが、あいにく舗装道はキアガル・ツォまで。これ以降は土と砂と石の道となる。しばらくは草原の中を自由に疾走するような道が続くが、それが終わると川沿いの道となり、かなりハードな砂利道が続く。だが、遠くに真っ青な湖が見え始める。間違いない、あれがツォ・モリリだ。そのブルーサファイヤのように青く光る湖を目指して、ひたすら砂利道を走った。しかし今まで楽だったのに、どこへ行くにも最後まで楽に辿り着かせてくれないのか、このラダック・ツーリングは!


ツォ・モリリ、見えたり!

 その砂利道を越えた先に、左方向に橋が掛かっており、その先にきれいな舗装道が続いていた。その舗装道につられてそちらへ行ってしまったが、ツォ・モリリで唯一の集落となるコルゾク(Korzok)はそちらにはなかった。それに気付いたのはかなり走った後で、引き返す羽目になった。しかし、こちらの道からはツォ・モリリを上から見下ろすことができるため、ツォ・モリリの景観を楽しむための思わぬ寄り道となった。ちなみにこの舗装道はこのまま中国チベット国境まで続いているようだ。


ツォ・モリリ

 橋の方ではなく、湖の西側(右側)を進む道を行く。こちらは相変わらず酷い砂利道と砂道で、いつバイクが壊れてもおかしくはない。しかし、その悪路を少しずつ進んだ。するとやがて目の前に湖を臨む集落が見えて来る。コルゾクである。ただし、村に入る前にチェックポストがあり、ここでもILPのコピーを渡さなければならない。


コルゾク

 コルゾクはゴンパを中心に広がる小さな村であった。コルゾクでは、村の中心部にあるメントク・ゲストハウスに宿泊。「ゲストハウス」を冠してはいるが、実際にはホームステイのような感じであり、1泊500ルピーであった。


メントク・ゲストハウス

 ゲストハウスに荷物を下ろした後、ツォ・モリリを散策しに出掛けた。パンゴン・ツォは、人界と地獄を越えた先にある天国という印象だったが、ツォ・モリリは雄大な大自然という印象だ。標高4,595mの高地にあり、パンゴン・ツォよりも高い。ただ、面積は120平方kmと、大きさはパンゴン・ツォの5分の1程度だ。甲乙付けるとしたら僕はパンゴン・ツォに軍配を上げる。また、コルゾク村の下の湖畔には広大な草原が広がっており、馬や羊などが草を食んでいた。


ツォ・モリリの北


ツォ・モリリの南


湖畔は牧草地となっている


コルゾクの夕暮れ

 夕食はヴェジ・モモだった。コルゾクの辺りは野菜が採れず、野菜の料理だけでもご馳走である。たまたま同じ宿にフランス人の老夫婦が宿泊しており、そのドライバーやガイドがレーから野菜を持って来ていたため、彼らがヴェジ・モモを作って提供してくれたのだった。そうでなければもっと貧相な食事になっていたところだった。


コルゾクのおばさんたち

 本日の走行距離:242.3km、本日までの総走行距離:2,493.3km。ガソリン補給1回、820ルピー。

10月5日(金) ツォ・モリリ→レー

 今日のツォ・モリリも晴天であった。しかし外に出てみると、道端の水たまりが氷結している。やはり夜は氷点下まで行っているようだ。もう標高4,000mクラスの場所では確実に冬がやって来ている。


ツォ・モリリの日の出

 朝食を食べ、チャーイを飲み、午前8時45分にコルゾクを出た。コルゾクを出るときには再びチェックポストでレポートしなければならない。その後はコルゾクからキアガル・ツォまでの悪路をひたすら進んだ。はっきり言って、ツォ・モリリよりもキアガル・ツォの美しさに惹かれる。大きさではツォ・モリリの方が圧倒的に大きいが、凛とした美しさがキアガル・ツォにはある。ツォ・モリリは大きすぎて「海」という感じで、波もあるが、キアガル・ツォは静かにたたずみ、雪化粧した山々の鏡となっている。


キアガル・ツォ

 キアガル・ツォからは舗装道が続くので走行は一気に楽になる。ナムシャン峠を越え、午前10時45分にはマヘのチェックポストに到着した。ここでも一応レポートをしなければならなかった。

 マヘからはインダス河沿いの平坦な道となる。今度は下流に向かう形でレーを目指した。午前11時15分にチュマタンに到着。これ以降はロクな休憩地点がなくなるので、ここで早めの昼食を食べることにした。行きのときにもチュマタンで休憩し、ホット・スプリング・バーという食堂で食べたダール・チャーワルがおいしかったので、今日もそれを注文。日向で熱を蓄えながら、30分ほど休憩した。

 午前11時45分にチュマタンを出発。さらにインダス河を下る。途中、ニャニス(Nya Nyis)という村の付近で道路工事をしている場所があり、30分ほど待機を余儀なくされた。それ以外は、交通量も少なく、スムーズな走行だった。


インダス河上流の村

 午後3時にカルーに到着。ここまででリザーブタンクのガソリンを少し使用したぐらい。ツォ・モリリまでの往復、余裕の帰還である。当然、カルーのガソリンスタンドで燃料を満タンにした。12.73リットル入ったので、それから計算してみると、カリズマの標高3,000-4,000m台での山道での燃費はおよそリッター30kmということになる。平地でのツーリングではリッター40km前後行くので、それと比べればやはり燃費は悪くなっているが、それでも上等な燃費だと言える。

 カルーからは広く快適な道が続くため、何の問題もない。広大なインダス谷の道を疾走して、午後4時前にはレーに到着した。やはりオリエンタル・ホテル&ゲストハウスに宿泊した。もう立派なオリエンタリストだ。


スタクナ・ゴンパ(左)とティクセ・ゴンパ(右)

 本日の走行距離:218.6km、本日までの総走行距離:2,711.9km。ガソリン補給1回、980ルピー。

10月6日(土) 残りのゴンパ巡り

 レーを中心とした主なツーリング先であるヌブラ谷、パンゴン・ツォ、ツォ・モリリの3つを制覇した。また、パンゴン・ツォやツォ・モリリで見た通り、標高4,000m級の場所では既に夜中氷点下まで行っており、冬が来ている。レーはまだ比較的暖かいものの、もはやハイシーズンは過ぎ、市場ではシャッターを閉める店も日に日に増えて来た。家が、暑さが恋しくなって来た。ラダックを去り、デリーに向かうときが来たようだ。しかしながら、2つの「ツォ」を立て続けに見て回り、疲労が溜まっていたので、1日だけ休憩の日を設け、行き残した場所へ行き、やり残したことをすることにした。

 この短期間で、「ラダック ザンスカール トラベルガイド」で紹介されている全てのゴンパを巡ることは不可能だったが、上ラダックのゴンパくらいは制覇しようと思い、まずはゴンパ巡りから開始した。10月1日に行き残したストクから始め、カルー周辺の3つのゴンパ――へミス(Hemis)、チュムレ(Chumdrey)、タクトク(Takthok)――を巡る。

 まずはストクへ。チョグラムサルの対岸にある村で、レーのかつての王家が住んでいる居城ストク・カルがある。ストク・カルは現在博物館として一般に公開されており、入場料は50ルピーとなっている。展示されているのは主に歴代の王族の所持品で、衣装、装身具、武器、仏像、タンカなどがあった。特に興味を引かれたのは印章であった。デーヴナーグリー文字(サンスクリット語)、ペルシア文字、漢字、チベット文字の4つの印章があった。つまり、ラダックはこれらの文字が使用される文化圏と交流があったということを示しているのだろう。


ストク・カル

 ストク・カルでは「Along the Sengge Tsangpo」というパンフレットを購入した(100ルピー)。ナムギャル・ラダック芸術文化研究所(NIRLAC)が制作したもので、ラダックの伝統文化や各ゴンパに関する情報が詳細に分かりやすくまとめられている。これはラダック旅行のまず初めに手にすべき資料であった。これを一読していれば、ゴンパ巡りなどもっと楽しめたことだろう。ちなみに「Sengge Tsangpo」とはインダス河のラダッキー語名で、「獅子の河」という意味らしい。

 ストクにはゴンパもあるが、そちらには行かなかった。次に向かったのはヘミス。ラダックでもっとも有名なゴンパであるヘミス・ゴンパがある。ドゥク派に属している。カルーからインダス河を渡り、数km山道を登ったところにある。山中のかなり奥まった場所にあるので、幹線上からは全く視認できない。拝観料は100ルピー。ヘミスには本堂が2つあり、一方には巨大なグル・リンポチェ像が、もう一方にはシャキャムニ像が納められている。


ヘミス・ゴンパ

 ヘミス・ゴンパには博物館もある。大したものが展示されている訳でもないのだが、カメラや携帯電話などをロッカーに預けてからでないと見学させてもらえない。博物館と同じ建物には土産物屋もある。ヘミス・ゴンパはラダックでもっとも観光地化されたゴンパなだけあって、全体的に僧侶の雰囲気がもっともすれていたように感じた。


グル・リンポチェ像

 ヘミス・ゴンパを見終わると正午過ぎになっていた。ヘミス・ゴンパの下に寂れた食堂があったので、そこで昼食を食べた。エッグ・フライドライスを注文したが、おまけでスープまで付けてくれたりして、なかなか気が利いていた。味もおいしかった。

 ヘミスの次はチュムレ・ゴンパを目指した。カルーまで戻って、そこからパンゴン・ツォへ向かう道を進んだところにある。先程見たヘミス・ゴンパの分院でドゥク派に属している。チュムレ・ゴンパではちょうど勤行か会議が行われており、皆忙しそうだったので、ゴンパの外観だけを見て帰った。チュムレ・ゴンパには博物館もあるようだ。


チュムレ・ゴンパ



 最後に向かったのはタクトク・ゴンパ。サクティ村からワリ峠(ワリ・ラ)へ向かう道へ進んだ先にある。残念ながらラマ(僧侶)が誰もいなくて、洞窟を見ることができなかった。山本高樹氏も「普段は人気が少なく、鍵を持つ僧侶がなかなか見つからない場合もある」(P55)と書いているが、その通りであった。

 これで予定していたゴンパは全て巡った。最後に訪問を考えていたのは、「3 Idiots」のロケ地となったドゥク・ホワイト・ロータス・スクール(Druk White Lotus School)である。観光客の間では「ランチョーの学校」として知られている。シェイにあるとの情報を掴んでいたので、帰り道に立ち寄ってみた。「3 Idiots」の大ヒット以降、訪問者が相次いでいる関係で、見学者用のゲートやレセプションまで用意されている。そしてガイドと共に学校を見て回らなければならない。


「ランチョーのコーヒーショップ」は閉まっていた

 学校の写真撮影は禁止されていないが、児童生徒の写真を撮ることは厳禁である。また、教室内部を見ることはできない。ガイドの話によると、ドゥク・ホワイト・ロータス・スクールは2001年開校の比較的新しい学校で、まだ校舎の建設が行われている。現在図書館が建設中である。ドゥク派に属する尼僧たちが運営している学校で、学校の裏には壮麗な僧院が建っている。


チャトゥル・ラーマリンガムが立ちションした歴史的場所

 レーまで戻った後、市街地でアプリコット・ジャムなど、少しお土産の買い物をした。書店で購入したのはザイヌル・アーベディーン・アーベディー著「Emergence of Islam in Ladakh」(Atlantic, 2009)という本だ。ラダックと言うとチベット仏教圏のイメージがあるが、実際に旅行をしてみて、より関心を持ったのはイスラーム教徒のプレゼンスである。レーの市街地にはモスクがいくつかあるし、インダス河の対岸にはかなりの数のイスラーム教徒が住んでいる。カールギル周辺や、ヌブラ谷のフンダル以西も完全なるイスラーム圏である。ちょうどラダック地方におけるイスラーム教に関する本を書店で見掛けたので、購入したという訳だった。

 カシュミール地方では14世紀頃からイスラーム教の学者、聖者、伝道師などの活動が活発化し、イスラーム教が隆盛した。このカシュミールのイスラーム化が、ラダック地方へのイスラーム教の伝播へのステップとなった。カシュミール地方で活動していたイスラーム教の学者、聖者、伝道師などがラダック地方まで立ち寄ることもあったと言う。例えば14世紀の聖者シャー・ハムダーンは有名で、シェイにあるモスクは彼によって創建されたという説がある。また、カシュミールで最初のイスラーム教徒支配者となったサダールッディーン・リンチェン・シャー(在位:1324-1327)はラダックの王家の出身だとされている。

 これらのイスラーム教学者、聖者、伝道師の活躍によって、カシュミールに次いでイスラーム化が進んだのがバルティスターンであった。バルティスターンの多くのイスラーム教徒はシーア派である。しかしながら15世紀にシャヨク谷で大洪水があり、農耕地や灌漑設備が軒並み破壊されてしまった。よって、大洪水から逃れた人々も今度は飢えに苦しむこととなった。このときバルティスターンの多くの人々がインダス谷に移住して来た。ラダックの王様も移民を受け容れ、彼らがイスラーム教を信仰し続けることを許した。この天災が、インダス谷にイスラーム教徒の人口が増える大きなきっかけとなった。15世紀末までにインダス谷には複数のイマームバーラー、カーンカー、モスクなどのイスラーム教宗教施設が建造された。

 しかしながら、ラダック地方でイスラーム教が本当に浸透したのは、政略結婚の結果によるところが大きいようである。ラダック地方が仏教徒のジャムヤン・ナムギャル王(在位:1555-1610年)によって治められていた頃、バルティスターン地方のスカルドゥ(Skardu)を拠点とするシーア派イスラーム教徒の支配者アリー・シェール・カーン・アンチャンがラダックに侵攻した。ジャムヤン・ナムギャルは敗北し、アリー・シェール・カーンは彼を捕虜にしてラダックに居着いた。両王の間で領土などに関する条約が取り交わされ、ジャムヤン・ナムギャルの娘のメントク・ギャルモはアリー・シェール・カーンと結婚することになった。その後もしばらくジャムヤン・ナムギャルは解放されず、アリー・シェール・カーンの賓客として軟禁され続けた。だが、バルティスターン地方のハプルー(Khapulu)の支配者ヤブゴー・シェール・アリー・ガーズィーによる仲介もあってようやくジャムヤン・ナムギャルは解放されることになった。そのときに彼はヤブゴー・シェール・アリー・ガーズィーの娘リギャル・カートゥーンと結婚することになった。当然、彼女もイスラーム教徒である。また、彼女との間に生まれた子供を後継者とする取り決めも交わされた。

 仏教徒の王であるジャムヤン・ナムギャルに嫁いだリギャル・カートゥーンは、結婚後も自分の宗教を信仰することを許された。それだけでなく、彼女は領土内のイスラーム教徒を庇護し、イスラーム教を振興した。リギャル・カートゥーンがラダックの王妃となったことで、インダス谷には多くのイスラーム教徒が移住して来るようになった。ただ、ジャムヤン・ナムギャルとリギャル・カートゥーンの間に生まれたセンゲ・ナムギャルは、イスラーム教徒ではなく、熱心な仏教徒となった。ラダック地方で仏教が黄金期を迎えるのはこのセンゲ・ナムギャルの治世(1616-42年)である。シェイからレーに遷都したのも、レー・パレスを建造したのも、ヘミス・ゴンパを建造したのも彼だ。

 基本的にラダックの王は仏教徒であったが、イスラーム教徒になったとされる時期もある。デレク・ナムギャル王の治世(1666-95年)、チベットとブータンの争いに首を突っ込んだばかりに、ラダックはチベット軍の侵攻を受けることになった。デレク・ナムギャルは敗走し、テインモスガン(Tingmosgang)の城塞に立てこもった。当時カシュミール地方はムガル朝の支配下にあり、イブラーヒーム・カーンが知事として統治していた。デレク・ナムギャルはイブラーヒーム・カーンに使者を送り、救援を求めた。イブラーヒーム・カーンは皇帝アウラングゼーブに相談した。アウラングゼーブは援軍派遣を承諾し、息子のフィダーイー・カーン率いる6,000人の軍勢を派遣した。チベット軍とムガル軍は激突し、ムガル軍が勝利した。デレク・ナムギャルはフィダーイー・カーンに会いに行き、感謝の意を表した。ところがそれだけでは足らず、フィダーイー・カーンはいくつかの見返りを要求した。その内のひとつが、デレク・ナムギャル王のイスラーム教への改宗であった。王が本当にイスラーム教に改宗したかどうかについては諸説あるが、少なくともカルマ(アッラーの他に神はなく、ムハンマドは預言者なり)を唱えさせられたとされている。このカルマを唱えた者はイスラーム教を受け容れたと解釈される。また、このときラダック地方で手に入るパシュミナ毛を独占的にカシュミールに供給する契約が結ばれ、現在に至るまでカシュミール地方の主要産業となっているパシュミナ・ショールの基礎が築かれた。

 ラダックというとチベット仏教のイメージが強かったが、意外にイスラーム教もよく浸透している。カールギルやヌブラ谷のような辺縁部だけでなく、インダス谷でもイスラーム教は目立つ存在だ。この本を読んでその歴史が少しだけ分かった。ラダックの王がイスラーム教徒の后を娶ったことも意外な事実だった。確かにストクの博物館を見学したとき、イスラーム教徒っぽい名前(カートゥーン)の后の遺品があったので、まさかとは思ったのだが、本当にイスラーム教徒の王妃であった。この本にはラダック地方の主なイスラーム教関連の史跡も紹介してある。また機会があったらこれらの史跡も巡ってみたいものだ。

 本日の走行距離:145.8km、本日までの総走行距離:2,857.7km。ガソリン補給なし。

10月7日(日) レー・マナーリー・ロード1

 ラダック旅行を切り上げ、本日から帰途に就く。行きと同じく、デリーまでのルートは大まかに3つある。シュリーナガル経由のルート、マナーリー経由のルート、スピティ経由のルートである。ラダックへ向かおうとしたときは、2番目と3番目のルート上で積雪が報告されたため、シュリーナガル経由のルートを取った。だが、その後まとまった積雪は報告されておらず、帰りは2番目または3番目のルートを取ることが可能となった。

 当初の野望としては、もっとも大回りとなるスピティ経由のルートで帰ろうと考えていた。しかしながら、ラダックで冬が既に始まっていることを実感し、これ以上標高の高い場所に長居する気が失せて来た。カザ(Kaza)を主都とするスピティ地方はラダックと標高が変わらない。既に標高の高いところから水の氷結が始まっていることだろう。よって、デリーまでもっとも近道となるマナーリー経由のルートを取ることにした。

 ラダック地方の主都レーとヒマーチャル・プラデーシュ州の避暑地マナーリーを結ぶ全長480kmの道は、通称レー・マナーリー・ロードと呼ばれ、バイカーにとって地球上でもっとも過酷なツーリング・ルートとされている。その理由はいくつかある。まず、標高の高い峠をいくつも越えなければならないことである。レーから近い順に挙げて行くと、タグラン峠(標高5,350m)、ラチュルン峠(標高5,070m)、ナキー峠(標高4,739m)、バララチャ峠(標高4,915m)、ロータン峠(標高3,978m)の5つの峠がある。この中でもタグラン峠はカルドゥン峠に次ぎ世界第二の高さの自動車道とされているし、バララチャ峠とロータン峠は豪雪かつ雪崩・地滑り多発地帯として悪名高い。全く一筋縄では行かない峠たちが列をなして待ち構えているのである。

 また、ラダック地方のカルーとラーハウル地方(ヒマーチャル・プラデーシュ州最北部の地域)のタンディー(Tandi)の間の365km区間、ガソリンスタンドがないこともバイカーにとっては大きな課題となっている。365km以上の航続距離を持つバイクで挑戦するか、またはフルの燃料タンクの他にガソリン携行缶に必要な量の燃料を入れて持って行くかしか、この課題を乗り切る術はない。

 大部分の区間は標高が4,000mを越えるため、高山病の恐れも常に付きまとう。この区間を頻繁に行き来するジープ・ドライバーならまだしも、道に不慣れな旅人バイカーにとって、このルートを1日で走破することはほとんど不可能である。どこかで最低1泊しなければならないのだが、レー・マナーリー・ロードにはなかなか最適な宿泊場所がない。これらの理由から、この道を走破することはバイカーにとって大きな挑戦かつ大きな憧れとなっている。

 2年前はこのレー・マナーリー・ロードを通ってマナーリーからレーを目指そうとした訳だが、バララチャ峠で雪に阻まれ、諦めざるを得なかった。以来、バララチャの名は僕にとって、「越えられない壁」の象徴として深層心理に君臨して来た。あのときは長男の明日真(あすま)が生まれる直前の時期で、あのラダック・ツーリングは最後の冒険の積もりだった。それを阻まれたショックは果てしなく大きかった。子供が生まれたら、もうこんな馬鹿な冒険はしていられないだろうと思っていた。もし挑戦できるとしたら、それは老後になるか、もしくは明日真が叶えてくれるか。どちらにしろ、2年前の僕は、夢を諦めた父親であった。

 しかし、博士論文を提出し、ヴィザの延長に成功し、長女の茉莉花(まりか)が生まれ、妻子が日本に滞在する中、再びラダック・ツーリングに挑戦できるタイミングが得られた。行きは大事を取ってシュリーナガル経由のルートを取ったが、帰りはレー・マナーリー・ロードを通る。そしてバララチャ峠を越える。世界最高の自動車道カルドゥン峠を制覇した今、残された目標はバララチャ峠しかなかった。標高にしたらバララチャ峠よりも高い峠が他にいくつもあるが、峠越えの困難さを決める要素は標高だけではない。何と言ってもバララチャ峠は超豪雪地帯である。その姿の片鱗を2年前に自分自身の目で見た。雪の上をバイクで走る恐ろしさも味わった。バララチャ峠は恐怖の対象でもある。だが、これを越えたら、もう一段階上の存在になれる、そんな気がしていた。何より自分の夢は自分で叶えるのだ。バララチャ峠を越え、自尊心のある父親になるのだ。そんな強い意気込みと共にレーを発った。

 しかし、レー・マナーリー・ロード通過のための旅程は、余裕を持ったものを考えていた。通常なら、レー~マナーリー間のどこかで1泊すれば十分なのだが、2泊してのんびりとこの過酷な道を越えることを考えていた。そのひとつの理由は、火曜日(9日)にロータン峠を越えたかったからである。火曜日はマナーリー側からの車両進入が規制されるため、ほとんど交通量のない峠越えが楽しめるのだ。また、是非ケーロンで1泊したいと思っていた。2年前はケーロンに1週間滞在し、バララチャ峠が開くのを待っていた。あのとき泊まったホテル・タシデレに、バララチャ峠を越えた後に宿泊したかった。ホテルのオーナーであるタシ氏が僕のことを覚えていてくれるか分からないが、あのときはとても世話になったので、改めてお礼も言いたかった。そんなことから、レー・マナーリー・ロードの旅程を、サルチュ(Sarchu)とケーロンでの2泊と共に完遂することを計画していた。サルチュは、レー・マナーリー・ロード上のもっともポピュラーな停泊地である。シーズン中はキャンプがあり、宿泊できるようになっている。レー側から見るとバララチャ峠の直前に位置している。

 午前8時15分にレーを出発。午前9時にカルーのガソリンスタンドでガソリンを満タンにする。そしてウプシからマナーリーへ向かう道に入った。しばらくは峡谷の底を行く美しい光景の道が続く。舗装状態も悪くない。途中、ミルー(Miru)、ラト(Latho)、ギャー(Gya)、サソマ(Sasoma)、ルムツェ(Rumtse)などの村々を越えて行く。


ウプシ~ルムツェ間の道

 ルムツェを越えると山道に入り、坂道を上がることになる。タグラン峠(タグラン・ラ)だ。だが、やはりきれいな舗装道が続き、全然苦ではない。標高が上がり、例によってエンジンにトルクがなくなって来るが、道がいいので楽勝だ。頂上付近になると急に酷い悪路になるが、それもそんなに長くは続かない。午前11時にタグラン峠に到着した。標高5,350m、世界第二の高さの自動車道とされている。カルドゥン峠やチャン峠には茶屋などがあったが、ここは無人の峠で、殺風景だった。ただ寂しげにタルチョがはためいていた。


タグラン峠

 タグラン峠を越えると、坂を下り切るまで悪路が続く。タグラン峠は完全にレー側から越えた方が楽だ。タグラン峠を下りると、今度は山間を一本道が果てしなく続く。ここで左に分岐する道がある。そちらへ行くと10kmほどでツォ・カルまで出る。ツォ・カルはラダックを代表する高山湖のひとつで、ツォ・モリリから遠くないので、ツォ・モリリと合わせて観光することが多い。だが、僕はレー・マナーリー・ロードを通ることを決めていたために、後回しにしていた。とりあえずツォ・カルへ向かう道へ行く。ツォ・カルが見える場所までは出たが、湖畔まで行くにはさらに時間が掛かりそうだったので、遠くから眺めるだけで引き返した。再びレー・マナーリー・ロードに出て、南へ向かう。


ツォ・カル

 するとやがて広大な平原を行く道となる。これはモレー平原と呼ばれている。大体は平坦な舗装道となっているので、走行自体には問題がないのだが、冷たい強風が吹きすさんでおり、とにかく寒い。非常に雄大な光景ではあったが、あまり楽しめず、ただひたすら前へ進んだ。

 モレー平原を通過すると、今度は切り立った峡谷となる。断崖絶壁にはカッパドキアのような自然の造形物が並んでおり、奇岩の宝庫だ。


パンの峡谷

 その峡谷を底まで下り切ると、そこがパン(Pang)という場所にある。パンには軍の駐屯地の他、食事兼寝床を提供するテントが並んでいる。このとき午後1時半頃になっていたので、適当なテントに入ってダール・チャーワルを食べ休憩した。とにかく身体が冷え切っていたので、温かい食べ物が何よりありがたかった。


パンのテント群

 午後2時頃にパンを出て、峡谷の中の道を進む。ここからの道は砂利だらけの悪路だ。今度はラチュルン峠を越えることになるため、また徐々に標高が上がって行く。


奇岩が続く

 標高5,070mのラチュルン峠に到達したのは午後2時45分頃。やはりタルチョ以外は特に何もない寂しい峠であった。僕の写真を撮ってくれる人もいなかった。


ラチュルン峠

 ラチュルン峠を越えると下り道となり、クネクネと蛇行する道をつたって峡谷の底まで下りる。底にはポツンとひとつダーバーがあった。しかし今度はナキー峠が待っているので、再び登り道となる。忙しい道だ。


ラチュルン峠~ナキー峠間の光景

 ナキー峠に着いたのは午後3時過ぎ。標高4,739m。賽の河原のように無数に石が積んであるだけの、さらに殺風景な峠であった。


ナキー峠

 ナキー峠からは、ガーター・ループスと呼ばれる21個の連続カーブ急斜面となる。レー側から来た場合は下りになるので大きな問題ではないが、マナーリー側から来た場合はこのクレイジーな連続カーブをひとつひとつ登らないといけないので大変だ。ガーター・ループスを下り切ると、ツァラプ・チュという名の川に沿って平原を行く道となる。やはり浸食によってできた奇岩の宝庫となっている。


ツァラプ・チュ

 この平原の先にあるのがサルチュのはずであった。レー側から来ると、まずはサルチュがあり、そこにいくつもの食堂兼寝床用テントが並んでいる。こちらは一般旅客向けの安価なテントである。そのサルチュを越えたところのサルチュ・サラーイという場所には、裕福な旅行者用のキャンプ・リゾートが並んでいるはずだった。値段は10倍ぐらいするが、夜も寒そうなことだし、どうせなら設備の整ったテントに宿泊しようと考えていた。サルチュ・サラーイのどれかのキャンプ・リゾートで万全の一夜を明かし、翌日悠々とバララチャ峠に挑戦しようという腹づもりだった。ところがサルチュを越えていくら進んでも、キャンプ・リゾートらしきものが見えて来ない。どうやらもうシーズンオフでテントを畳んでしまったようだ・・・。

 ここでサルチュまで引き返すという選択肢もあった訳だが、実はサルチュに戻りたくない強い理由があった。サルチュとサルチュ・サラーイの間に1本の脆弱な橋が架かっているのだが、それを越えた先の道が完全に川となっており、まるで沢登りのようだった。何とか通過した訳だが、ズボンの裾のかなりの部分がびしょ濡れになってしまった。もうあの川の道だけは二度と通りたくないと思った。一度は越えられたが、二度目はそうもいかないかもしれない。そんな最悪の悪路であり、サルチュに引き返す気になれなかった。

 そうなると眼前にそびえ立っているのはバララチャ峠である。標高4,915m、僕が2年間恐れ続けて来た峠。今一度対峙すると、白と黒の不気味なまだら模様をしている。もうすっかり雪を蓄え、来る者を寒さで凍えさせようとしているのだ。しかも山頂付近には暗雲が立ちこめており、雪が降っていそうだ。時刻を見ると既に5時近くなっている。山の夜は早い。もう日が山陰に沈みそうだ。何と言うことだ、バララチャ峠とこんな状態で対決しなければならないとは・・・!しかし、バララチャ峠を越えれば、ジンジン・バー(Zingzing Bar)という陽気な名前の場所がある。そこにはいくつかテントがあり、夜を明かすこともできることは分かっていた。2年前はジンジン・バーを通り過ぎたところで雪に阻まれたので、ジンジン・バーまで来れば、後はかつて通った道ということになる。道標を見るとジンジン・バーまで35kmとあった。日没までに辿り着けない距離ではない。決断した。今日、バララチャ峠を越える!


暗雲立ちこめるまだら模様のバララチャ峠

 レー側からのバララチャ峠へ続く道は非常に悪かった。基本的には未舗装道で、今にも落ちそうな橋も渡らなくてはならない。しかし、無我夢中で前へ進んだ。まるで迷宮のように、上に下に右に左にグニャグニャと曲がった道もあった。きっと冬の間の雪の重みでこうなってしまうのだろう。しかし、ありがたいことに峠付近の道は一応舗装されており、ある程度の速度でもって駆け抜けることができた。不思議なことに、バララチャ峠には峠のトップを示す看板が立っていない。今までのタグラン峠、ラチュルン峠、ナキー峠にはあったのに、だ。一体いつバララチャ峠を越えたのか、正確に認識することができなかった。ただ、峠付近にはスーラジ・タールという湖があり、その辺りが峠であろうことは予想できた。


スーラジ・タール
写真を撮っている余裕があるじゃないかと思われるかもしれないが
写真を撮っている余裕をバララチャ峠に見せ付けたかっただけである

 やがて恒常的に下り道となり、完全に峠を越えたことを理解した。辺りは薄暗くなってはいるが、まだ夜ではない。ループに次ぐループの下り道を下って行くと、ようやくジンジン・バーに出た。一番最初に見つけたテントで一泊できるか聞いてみると100ルピーでOKとのことだったので、今夜はこのテントで一夜を越すことにした。とりあえず温かいチャーイをもらい、焚き火に当たって身体を温めた。

 ジンジン・バーはバララチャ峠からほど近い場所にあり、ベースキャンプのような位置付けだ。つまり、期せずして宿敵バララチャの懐に抱かれて一夜を過ごすことになった。何とも奇妙な縁だ。まだ本格的な降雪のシーズンではないものの、豪雪地帯の名に恥じない寒さ。寒さなんてものじゃない、極寒だ。ゾジ峠近くのドラスは定住地の中で世界で2番目に寒い場所ということだが、ジンジン・バーは単なるキャンプで定住地ではないので、そのランキングに入る資格はない。純粋に気温だけを見たら、もしかしたらドラスよりも寒いんじゃないかという異常な寒さだった。靴下3枚、ヒートテックのシャツ2枚を重ね着して、セーターとジャケットを着て首にショールを巻き、ヒートテックの股引の上にジーンズをはいて、つまりはバイクに乗っているときとほとんど同じ格好をして、何枚もの毛布や布団の中にくるまり込んで寝た訳だが、それでも寒い。テントと言っても単なる掘っ立て小屋であり、外とそんなに変わらない気温だと思われる。ハイウェイ沿いのテントであるため、目の前の道をトラックが通り過ぎるたびに目が覚める。とても辛い夜を過ごすことになった。翌朝起きてみると、テントの中に置いてあったペットボトルの水がカチカチに凍っていた。つまり氷点下の空気の中、眠っていたことになる・・・。

 本日の走行距離:323.7km、本日までの総走行距離:3,181.4km。ガソリン補給1回、500ルピー。

10月8日(月) レー・マナーリー・ロード2

 部屋の中の水も凍る極寒の中での睡眠だったが、疲れが取れるだけ眠ることはできた。すがすがしい朝だ。バララチャ峠も晴れ渡っている。何だかよく分からない内に越えてしまったが、とにかく2年間「越えられない壁」の象徴として深層心理に君臨して来たバララチャ峠を越えたのだ。昨夕に見たバララチャ峠の姿は本当に不気味で恐ろしいものであったが、今朝の姿は雪が日光に当たってキラキラと輝き、とても美しかった。


朝のジンジン・バー

 ちなみに、ジンジン・バーのテントは10月10日で店じまいをすると言う。サルチュのテントでも同じようなことを聞いた。レー・マナーリー・ロードを走破するに当たり、道中にあるこれらのテントがなくなることは、非常に重大な意味を持つ。この過酷なルートを行き来する人々に温かい食事と飲み物を出し、寝床を提供するこれらのテントがないと、レー・マナーリー・ロードの難易度はさらに跳ね上がってしまう。今年は10月10日がその分かれ目だった。ギリギリのタイミングでレー・マナーリー・ロードを走破したと言っていいだろう。


バララチャ峠から流れ出るバーガー河

 午前8時半にジンジン・バーを出て、マナーリー方面へと向かった。今日は予定通りケーロンに宿泊する。ジンジン・バーからケーロンまでは50kmほど。そんなに遠くないので、今日はほとんど休憩の日となる。


ディーパク・タール
ジンジン・バー~ダルチャー間にある小さな湖

 午前9時半にダルチャー(Darcha)に到着。ダルチャーは3つの河――バーガー河、バラーイー河、ミラング河――の合流点で、ヒマーチャル・プラデーシュ州に入ったことを実感させてくれる場所だ。既にサルチュ辺りからヒマーチャル・プラデーシュ州なのだが、それまではラダック地方とあまり変わらない荒れ地の光景が続くので、その実感が沸かない。だが、ラーハウル地方の北の端ダルチャーまで来ると、山に緑が目立ち始め、ヒマーチャル・プラデーシュ州の典型的な風景となる。そしてデーオダル(ヒマラヤスギ)の匂い!ダルチャー村が見えた途端、デーオダルの匂いが鼻に飛び込んで来た。そしてパーン(ビンロウジュ)の匂いもどこからともなくしてくる。そういえばラダック地方ではパーンを噛む習慣はなかったかな・・・。このように、ダルチャーに来ると一気にヒマーチャルらしくなるのだ。


ダルチャー

 ダルチャーにはチェックポストがあり、外国人はパスポートを見せる必要があるとのことだったが、レー方面から来た外国人へのチェックは特に厳しくなかった。ほとんどノーチェックで通過させてもらえた。そのままケーロンへ続く道を進んだ。遠くに雪山、近くには緑の山、斜面に点在する村々、そんな美しい光景を楽しみながら、午前10時半頃にはケーロンに到着した。


ケーロンの町並み

 ただ、一旦はケーロンを通り過ぎた。ケーロンから8km先にあるタンディーという場所でガソリン補給をしたかったからだ。タンディーはチャンドラ河とバーガー河の合流点で、ラーハウル地方唯一のガソリンスタンドがある。ラダック地方の最後のガソリンスタンド、カルーから365kmの地点にある最初のガソリンスタンドでもある。このとき既にリザーブタンクの燃料を使用していたが、何とか無補給でレー・マナーリー・ロードのこのガソリンスタンドなし区間を走破できた。カリズマは本当にバランスの良いバイクだ。
Tip 今日補給できるガソリンは今日補給せよ

 僻地でのツーリングではガソリン補給が最重要課題だ。ガソリンスタンドの数が限られているし、ガソリンがいつでもあるとは限らないし、ガソリンスタンドが24時間いつでも営業しているとも限らない。今日補給できるガソリンは今日の内に補給しておくべきだ。明日になったら何らかの理由でガソリンが得られないかもしれない。
 タンディーに寄っていたため、ケーロンに着いたときには午前11時を回っていた。ケーロンでは、2年前に1週間宿泊した思い出のホテル・タシデレに投宿。オーナーのタシ氏と再会したかったが、あいにくクッルーに滞在中とのことで、旧交を温めることはできなかった。また、ホテルの増築が行われており、かつて宿泊していた部屋からは、ヒマーラヤ山脈のダイナミックな眺望が楽しめなくなっていた。よって、その上のより眺めのいい部屋にしてもらった。通常1,200ルピーのところを1,000ルピーにしてくれた。

 今思えば、このホテルからバララチャ峠を越えることを夢見ながら眺め続けていたこの雪山と青空の風景が、長男明日真の名前の源となったのだった。ヒンディー語で「空」は「アースマーン」と言うため、それを多少改変して明日真にした訳だが、漢字の中には日と月もあり、空ととても相性の良い名前だと考えた。実際にそのときには空に月も浮かんでいた。この雪山の向こうの空へ真っ直ぐ行って欲しいと願って明日真と名付けたのだった。


このケーロンの空を再び見たかった

 おそらくケーロンにここまで強い思い入れをしている日本人は僕ぐらいしかいないだろう。ケーロンに戻って来られて本当に幸せだ。そしてケーロンの隠れた楽しみのひとつはダーバー(安食堂)巡りである。バーザールにはいくつもの似たようなダーバーが軒を連ねており、そこのモモとスープが安くてとてもおいしいのだ。昼にヴェジ・モモ、3時のおやつにマトン・モモと、モモ尽くしの食生活をして過ごした。

 本日の走行距離:78.4km、本日までの総走行距離:3,259.8km。ガソリン補給1回、900ルピー。

10月9日(火) レー・マナーリー・ロード3

 突然のことだが、朝タシ氏と再会することができた。ちょうど昨晩クッルーからケーロンまで戻って来たのだ。僕のことを覚えていてくれるか、あまり自信がなかったが、僕を見た途端、向こうの方から「元気かい?私のことを覚えてるかい?」と声を掛けて来てくれた。それだけで本当に幸せだった。もちろん、もちろんだとも。あなたに会うためにわざわざケーロンに一泊したんだ。博士論文を提出したこと、子供が生まれたことなどを報告した。そして、今度は家族を連れてケーロンへ来ることを約束した。いつになるか分からないが、おそらくいつか実現されるのだろう。

 タシ氏に見送られながら午前8時半にケーロンを出発。今日は過酷なレー・マナーリー・ロードの終着点となるマナーリーを目指す。タシ氏は、ケーロンからマナーリーの区間の道はだいぶ舗装され整備されたと胸を張っていたが、とんでもない。まだまだ悪路だらけだ。確かに舗装されている区間は増えたが、ずっと舗装されている訳でなく、突然砂利道や穴ぼこや水たまりが現れるので、余計危険だ。しかし山々の風景のなんと壮大で美しいことか。よく見ると部分的に紅葉が始まっている。紅葉と言うより黄葉か。山のあちこちが黄色に染まっている。黄葉するヒマーラヤ山脈は初めて見たかもしれない。ラダック地方では冬に追われるように出て来たが、ラーハウル地方では今正に秋が地上に降り立とうとしていた。美しい光景を見つけては止まって写真を撮りつつ、前へ進んだ。


上から黄葉が始まっている

 ケーロンとマナーリーの間には、悪名高いロータン峠がそびえ立っている。何しろ「ロータン」とはチベット語で「死体の山」という意味であるらしい。標高は3,978mとそんなに高くはないが、降雪・積雪、吹雪、土砂崩れなど日常茶飯事の難所であり、峠越えは決して楽ではない。個人的には、インドでもっとも困難な峠のひとつだと考えている。今まで3回ロータン峠を越えたが、いつまで経っても苦手意識は消えない。今日の最大の課題は、このロータン峠を越えることになる。

 ただ、ロータン峠に挑む前にひとつ大きな難関があった。ロータン峠の麓にコークサル(Khoksar)という場所があるのだが、そこへ至るための橋が崩落しており、川を越えて行かなければならなかった。今まで何度もバイクでの川越えは経験済みだが、今回の川越えはかなりタフだった。足を川の中に着地せずに渡河できれば100%成功と言えるのだが、今回は川の中でこけそうになったので両足を着いてしまった。つまり両足が水浸しになってしまった。何とか向こう岸まで渡ることができたが、この状態のままロータン峠まで標高を上げるのは危険である。コークサルの茶屋に立ち寄ってチャーイを飲みつつ、靴下を取り替えた。靴は濡れたままであるが、靴下だけでも乾いたものを身に付けるだけでだいぶ違う。思わぬハプニングに巻き込まれてしまったが、午前10時過ぎにコークサルを出て4度目のロータン峠越えに臨んだ。



 今回は初めて雪のないロータン峠と相見えることになった。今までは5月から6月にかけての時期にロータン峠を越えたが、その頃にはまだ冬の間に積もった雪が残っている。そして朝日が差すや否やその雪が溶け始めるため、道は雪解け水の濁流となる。これがロータン峠の嫌な点のひとつだ。しかし今回は道のほとんどの部分は乾いており、走行しやすかった。

 また、わざわざ火曜日をロータン峠越えの日に設定したのも綿密な計算の上であった。火曜日はマナーリー側からのロータン峠への車両進入が規制されており、コークサル側からならば、ほとんど交通量のない中、峠越えに挑戦することができる。2年前は偶然火曜日にロータン峠を越えることになったのだが、今回はキチンと日程を調整した。ただ、ロータン峠において四輪車はマナーリー側へ下りるのをしばらく待機させられていた。おそらく道路工事のためであろう。二輪車は問題なく通過できた。しかしながら、ロータン峠が混雑するのは、雪を見物しに来るインド人観光客があまりに多いからで、ロータン峠に雪が全くない今、それほど混み合うことはないようである。よって、この時期ならばこの「火曜日ルール」をわざわざ活用しなくても良かったかもしれない。

 ロータン峠ではここ数年間、道路整備・拡張工事が行われており、確かに2年前に比べて舗装された区間は増えた。しかし、酷い悪路はまだまだ健在で、特にマナーリー側の道路は、泥沼の部分などいくつかあって難易度が高かった。さらに、土砂崩れ多発地帯でブルドーザーが土砂を除去するのを待たなくてはならない場面が1度あった。とは言っても、ロータン峠のブルドーザー運転手はなかなか上手で、道を作るのにそんなに待たされることはなかった。それに比べるとラダック地方のブルドーザー運転手は本当に下手で、なかなか道が開かなかった。

 そんなこんなで午前11時にはロータン峠に到達した。峠では外国人観光客を乗せてスピティ地方を巡って来たジープの運転手に記念写真を撮ってもらった。彼と少し雑談をしたら、彼は2週間以上前に雪で閉ざされたバララチャ峠を歩いて越えたことが分かった。そのとき撮影した動画も見せてもらった。その頃はちょうどレーに向けて旅立とうとしていたときで、ロータン峠、クンザム峠、バララチャ峠などで今季初の積雪があり、シュリーナガル経由にルートを切り替えたのだった。動画を見ると人の背丈ほどもあるほど雪が積もっており、完全に雪山の風景。改めてバララチャ峠の恐ろしさを実感した。


バイクでは4度目のロータン峠

 マナーリーに向けて一気に2,000m標高を下げ始めた。マリー(Marhi)を過ぎると道は恒常的に舗装道となり、走行もグッと楽になる。標高が下がることで気温も上がって来て、ちょうど良い陽気だ。デーオダル(ヒマラヤスギ)の森林の中を爽快に駆け抜け、午後1時頃にはマナーリーに到着した。これにて、地球上でもっとも過酷なツーリング・ルートとされるレー・マナーリー・ロードを完走したことになる。

 マナーリーではいつも、ヴァシシュトにある風来坊山荘に宿泊していた。森田さんという日本人の老夫婦が経営しており、周辺の山の情報に異常に詳しく、単なる宿以上の有益な体験をさせていただいていた。しかし、最近経営者が変わったことを知った。元々バイカーにとって風来坊山荘の大きな欠点は、徒歩でしか行けない場所に立地していることだった。毎回便宜を図ってもらってバイクをどこかに駐輪させてもらっていたのだが、そういうことを頼みづらくなってしまった。よって、今回は別の宿に宿泊することを決めた。

 前から一度宿泊してみたいと思っていたエリアはオールド・マナーリーである。安宿や旅行者向けの店が密集しており、いかにもバックパッカー天国と言った雰囲気の場所だ。今回はオールド・マナーリーにあるドラゴン・ゲストハウスに宿泊した。最大の決め手はバイクを駐輪できる駐車場があることだった。また、WiFiが無料で利用でき、部屋にいても電波が届く。とても居心地のいい宿で、今後何も予定がなければずっと長居したいゲストハウスだ。

 マナーリーに来てみて気付いたが、現在マナーリーはオフシーズンであった。5月や6月に見たマナーリーよりもずっと落ち着いた雰囲気で、国内外の旅行者の姿もまばらであった。オールド・マナーリーも少し寂れたように見えた。

 マナーリーには何度も来たことがあるので、あくせく観光をする必要はない。だが、散歩がてらマナーリーの2つの有名寺院であるマヌ・マハリシ寺院とハディンバー寺院を巡ることにした。

 マヌ・マハリシ寺院はオールド・マナーリーの奥にあり、ドラゴン・ゲストハウスからも近い。とは言ってもオールド・マナーリーはずっと上り坂なので、奥へ行けば行くほど上へ上へ登って行かなければならない。結構な運動だ。まずはマヌ・マハリシ寺院で旅の無事を祈った。インド神話の中で人類の始祖とされるマヌを祀った寺院である。


マヌ・マハリシ寺院

 次にオールド・マナーリーの坂をずっと下って行って、鬱蒼としたデーオダル林の中にあるハディンバー寺院を参拝した。「マハーバーラタ」に登場するパーンダヴァ5王子の次男ビームの妻がハディンバーで、クッルー谷でもっとも強力な神様とされる。パゴダ様式の美しい寺院である。実はハディンバー寺院の本殿には一度も入ったことがなかった。なぜならいつもインド人参拝客の長蛇の列ができているからだ。しかし今はオフシーズンなだけあって参拝客もまばらで、初めて本殿内部に入ることができた。驚いたことに、本殿の中は巨大な岩が埋め尽くしていた。そしてその岩の下のわずかな空洞部分にご神体が安置されていた。ここでも最後まで旅の無事を祈願した。


ハディンバー寺院

 ハディンバー寺院のすぐそばには、ガトートカチのご神木もある。そちらには行ったことがなかったので、行ってみた。単なる木であったが、地元の人々はこれをビームとハディンバーの息子ガトートカチと見なして信仰していると言う。


ガトートカチの木

 ハディンバー寺院から坂を下って行って、マナーリー市街地に入った。そこで店などをブラブラと物色した。すると、ヒマーチャル・プラデーシュ州観光開発公社(HPTDC)の建物が目に入った。実は、翌日はシムラー近くのチャーイル(Chail)に宿泊しようと考えていたのだが、そのチャーイルにある宮殿ホテルがHPTDCの経営で、予約した方がいいかと考えていたところだった。HPTDCオフィスに入って聞いてみると予約可能とのことだった。値段もそんなに高くない。よって、すかさず明日のチャーイルのホテルを予約した。

 マナーリーのレストランではやたらと「鱒(マス)ありマス」の看板を見た。きっとマナーリーでよく取れるのだろう。よって昼も夜も鱒料理だった。昼はドラゴン・ゲストハウスのレストランで焼き鱒(Grilled Trout)を食べ、夜はドリフターズ・カフェで鱒の鉄板焼き(Trout Sizzler)を食べた。久々に魚料理を食べた。また、夕食では2週間振りにオールド・モンク(ラム酒)を飲んだ。マナーリーには24時間電気が来ているし、一気に文明開化した気分だ。


鱒の鉄板焼き

 ところで今日は夕立があった。今回の旅行で雨に降られたのはこれが初めてだ。幸い、屋内でネットをしていたので雨に濡れることはなかった。高山性砂漠気候のラダック地方を旅行している間は雨天という状況は全く想定しなかてよかったが、マナーリー以降は湿潤気候の山岳地帯だ。今後は平野部に出るまで雨天も計算に入れて旅行しなければならない。

 本日の走行距離:118.7km、本日までの総走行距離:3,378.5km。ガソリン補給なし。

10月10日(水) マナーリー→チャーイル

 マナーリーからデリーに帰る際、毎回課題となるのは中継地点をどこにするかということだ。マナーリー~デリー間の距離は570kmあり、1日で走破するにはちょっと辛い。どこかで1泊するとちょうどいい距離になる。2年前は、ムガル庭園で有名なハリヤーナー州のピンジャウル(Pinjore)で宿泊した。今回もピンジャウルを中継地点としても良かったのだが、どうせなら別の場所にしたかった。

 シムラーやチャンディーガルなど、いくつか候補地があったのだが、あまり都会に宿泊すると、あれこれやりたくなってゆっくり休めないので、田舎のゆったりとしたホテルが良かった。理想的な位置と環境にあるのはナーラーガル(Nalagarh)の宮殿ホテルだが、宿泊料は最低でも5,000ルピーほどし、あまり財布に優しくない。いくつか候補地を考えた末に、シムラー近くのチャーイルを中継地点と決めた。チャーイルには、1891年に建設されたパティヤーラー王家の宮殿を利用したヒマーチャル・プラデーシュ州観光開発公社(HPTDC)経営のホテルがある。宿泊そのものが観光となるため、ゆっくり休むにはもってこいだ。昨日マナーリーのHPTDCオフィスでホテルを予約した。最も高いマハーラージャー・スイートは17,000ルピーもするが、一番安い部屋は2,400ルピーほどである。シングルだと25%の割引。1ベッド150ルピーのドミトリーもあり、意外に門戸の広い宮殿ホテルだ。

 HPTDCオフィスで聞いたところ、マナーリーからチャーイルまでは9時間ほど掛かるとのことだった。距離表で見てもマナーリーからチャーイルまでは303kmあり、確かにそのくらい掛かりそうだ。なるべく日が高い内にチャーイルに着きたかったので、マナーリーを午前6時半に出発した。ラダック地方では、この時間でのバイクの走行は寒すぎて不可能だったが、標高2,000m程度のマナーリーなら全く問題ない。しかも今日の道程は途中まで標高が下がる一方である。

 マナーリーからは、ビアース河の東岸を行くナッガル・ハイウェイを使った。この道はクッルーまでの裏道で、交通量が少なく景観がいいので、マナーリーに来たときはいつも使っている。そのままクッルーのバイパスに接続しているのも便利だ。マナーリーを出て1時間ほどでクッルーに到着。午前8時15分にはアウト(Aut)のトンネルを通過した。この辺りの道は既に何度か通っているので、勝手知ったるものだ。

 午前8時45分にパンドー(Pandoh)を通過。朝食を食べて来なかったため、そろそろ腹が空き始めた。そこでパンドーを過ぎた辺りにあるハイウェイ・ダーバー(安食堂)に立ち寄り、アールー・パラーターを食べた。


パンドーで立ち寄ったダーバー
マナーリーからはダーバーが随所に点在しているので
食事や休憩には困らない

 午前9時15分頃に出発。午前9時半にはヒマーチャル・プラデーシュ州のヘソ、マンディー(Mandi)に到着。ここからダラムシャーラー(Dharamshala)やパターンコート方面への道が分岐している。だが、そちらに用はないので、ビラースプル(Bilaspur)方面へ向かう道を行く。午前10時半頃にはスンダルナガル(Sundarnagar)を通過。次第に標高が下がり暖かくなって来た。

 さて、マナーリーからシムラーを目指す場合、いくつか道があるのだが、HPTDCオフィスで聞いた最善の道は、ガーガス(Ghaghas)でシムラー方面への道を取るルートであった。ガーガスには午前11時に到着。ガーガスもいくつかの道が交差している交通の要所で、マナーリー方面から来た場合、橋を渡って左へ続く道がシムラーへの近道またはビラースプルのバイパスとなる。

 ガーガスまでは大部分が広い舗装道であったが、ビラースプルのバイパスは狭く、舗装も完璧ではなかった。多少道が悪くても問題ないのだが、この時間帯のこの辺りまで来ると交通量が増えて来て、それで苦労する。前にトラックやバスが来ると、追い抜くのに時間が掛かる。ただ、シムラーまでの最後の30kmほどは再び広い舗装道となり、走行もとても楽になる。尾根伝いの道なので景観も良い。また、シムラーに近付くに連れて標高も上がって行き、空気がヒンヤリとして来る。

 午後1時半にシムラーに到着。その前にトゥトゥー(Tutu)という町でグリーン・フィーなるものを支払わなければならなかった。二輪車は100ルピーと、決して安くない。環境保護のための税金だろうが、納得が行かない。ちなみにグリーン・フィーを支払うとレシートがもらえ、それさえあれば1週間は再びグリーン・フィーを支払う必要はない。

 シムラーの市街地に入った後、ヴィクトリア・トンネルをくぐって北側の道に出、そのままクフリー(Kufri)方面を目指した。クフリーからはチャーイルへ続く道が分岐している。驚いたことに、クフリーからチャーイルまでの道にはいくつものリゾートホテルが点在していた。シムラーは避暑地として有名だが、こちらの方まで避暑リゾートが広がっていたのである。通り掛かったとき、ちょうどインド人の若者たちが乗馬を楽しんでいた。

 クフリーからチャーイルまでは、狭くて舗装も甘いものの、交通量がほとんどないので、とても爽快な山道が続く。大部分はデーオダル林に覆われた木漏れ日こぼれる林道である。所々とても眺めの良い場所もあった。チャーイルに入る前にまたもグリーン・タックスの支払いがあった。こちらは高くなく、二輪車は10ルピーだった。ただし有効期限は3日と短い。

 チャーイルには午後3時頃に到着。正確に言えば、宿泊先であるザ・パレスにその時間に着いた。ザ・パレスはチャーイル市街地の数km手前に位置していたのである。マナーリーから8時間半で着いたことになる。ただ、昼食を食べていないので、それを加えればやはり9時間掛かることになるだろう。


チャーイルのザ・パレス

 ザ・パレスは、前述の通り1891年建設の宮殿ホテルである。観光地にもなっており、宿泊客以外は入場料として100ルピーを支払う。着いて驚いたことにザ・パレスは72エーカーのかなり広大な敷地から成っており、客室もその敷地に分散している。僕が予約したのはヒムニール・ブロックなる部屋だったが、それは宮殿内の部屋ではなく、そこから1kmほど下に下ったところにあるコテージの部屋だった。宮殿の建物にしかレストランがないため、食事をするにもわざわざ宮殿の方まで行かなければならない。他に山小屋風の部屋などが敷地内に点在している。


ザ・パレスのロビー

 ホテル敷地内にはテニスグランドやちょっとしたハイキングコースもあったりして、数日間滞在すると楽しそうな場所であった。ただ、悪戯猿が多くて、あちこちに「猿に注意」の看板があった。部屋を開けっ放しにしておくと猿が入って来て荷物を荒らすそうだ。


ヒムニール・ブロック

 夕食はもちろんホテルのレストランで食べた。ヒマーチャル料理が目白押しで、僕はチャー(ヨーグルト水)で煮込んだラム肉のカレー、チャー・ミート(Chhah Meat)と、ヨーグルトとほうれん草のグレービーの中にウラド豆の団子が浮かぶセープー・バーディー(Sepu Badi)を食べた。どちらも非常においしかった。

 本日の走行距離:308.5km、本日までの総走行距離:3,687.0km。ガソリン補給1回、500ルピー。

10月11日(木) チャーイル→パーニーパト

 チャーイルを中継地点に選んだひとつの理由は、ボン教の僧院に行ってみたかったからである。ボン教は、チベット文化圏において仏教が流入して来る前に信仰されていた宗教だ。ただ、仏教の普及によってボン教が滅んでしまったという訳でもなく、まだ細々と存続している。あまり知られていないが、チベット亡命政府の拠点があるヒマーチャル・プラデーシュ州には、ボン教の僧院も存在する。チャーイルからそれほど遠くないドーラーンジー(Dolanji)という場所である。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王と同様に、中国共産党の手に落ちたチベットから亡命して来た法王によって1969年に設立された。チベットにある総本山メンリ僧院が中国共産党によって破壊された後、ドーラーンジーのこの僧院がボン教の総本山となっていると言う。


ザ・パレスのレストラン「キングス・ダイニング」

 このラダック・ツーリングではチベット仏教のゴンパをたくさん見物したが、その締めくくりとして、チベット仏教よりも古いボン教の僧院も訪れてみようと考えた訳である。ネットで調べたところ、ボン教僧院はオーチュガート(OchhGhat)の近くにあることが分かっていた。ボン教寺院について知っている人は地元民でも多くないが、オーチュガートは有名である。とりあえずオーチュガートまで辿り着ければ何とかなるだろうと考えていた。

 HPTDCで購入した地図によると、チャーイルからオーチュガートまでの道は主に2つあった。ひとつはNH22上にあるソーラン(Solan)まで行ってからオーチュガートを目指すルートである。もうひとつは、カーリー・カ・ティッバーというカーリー寺院経由でオーチュガートへ行くルートである。前者の方が広く舗装された道で容易だが遠回り、後者は未舗装道が続くが近道となっている。複数の地元民と相談した結果、後者の道で行くことを決めた。

 午前9時にホテルをチェックアウトして出発。まずはカーリー・カ・ティッバーへ向かった。谷の中に突き出た山の上にある堂々たる白亜の寺院で、かなりの規模である。カーリー女神に旅の最後までの無事を祈願した。


カーリー・カ・ティッバー

 カーリー・カ・ティッバーから、多少道に迷ってしまったものの、オーチュガートへ向かう正しい道を取ることができた。とは言っても単なる砂利道が延々と続く。あまり道標もないし、途中ほとんど集落らしきものを通らないため、一体どこへ続いているのか不安になって来る。1時間半ほど掛かってようやくガウラー(Gaura)という村に出た。この辺りからやっと舗装道となる。橋を渡るとオーチュガートまであと十数キロとの道標があった。ソーランとラージガル(Rajgarh)を結ぶ州道で、道幅も広くなる。ここからは快調に飛ばし、オーチュガートに到着した。

 オーチュガートの市場からナラーグ(Narag)へ続く細い道が分岐している。ボン教僧院へ行くには、そこを下に下りて行く。ただ、またも道を間違えてしまった。途中にあるカーラーガート(Kalaghat)という村の分岐点で直進しなければならなかったのだが、それに気付かず通り過ぎ、下に下る道へ行ってしまった。遠くに僧院らしきものが見えたのだが、どう考えてもこのまま道を下って行っては辿り着かないと直感したため、来た道を引き返し、道を尋ねつつ、ようやく正しい道を取ることができた。この辺りまで来ると地元の人々はドーラーンジーのボン教僧院のことを知っているので、聞けば道を教えてくれる。


ボン教僧院らしきものが見えた!

 午前11時45分頃、散々道に迷った挙げ句、ようやくボン教僧院に到着。チベット仏教僧院ととても似た建築様式だが、色使いがさらに派手だ。敷地内にはいくつか建物が建っているが、寺院は一番奥にある。ちょうど昼時で、僧侶たちが昼食に向かうところであったが、皆シャイだ。さすがにロンリー・プラネットにも載っていないレアな場所のため、滅多に訪問客が来ないのだろう。僕のことをまるで異星人のように凝視している。話し掛けてみるのだが、ヒンディー語もあまりできないようで、会話が成り立たない。外国人慣れしているラダックのチベット仏教ゴンパに比べると居心地が悪い。


奥の多層の建物は図書館

 少なくとも寺院を参拝して行こうと考えた。面白いことにボン教では寺院を巡る方向がチベット仏教と異なる。チベット仏教ではコルラと言って必ず右回り、つまり時計回りに回るのだが、ボン教では左回り、つまり反時計回りに回る。チベット仏教僧院の癖でつい右回りに回ってしまったのだが、僧侶たちに注意された。


寺院

 左回りに寺院を回って寺院の正面まで来ると、寺院の扉は閉まっていた。僧侶に聞いてみると、もうすぐ開くと言うのだが、いつ開くのかは教えてもらえない。仕方がないので寺院の前で座り込んで扉が開くのを待っていた。


寺院の玄関脇に描かれていた四天王の内の2人

 すると、明らかにインド系の顔をした僧侶がやって来て、寺院を見せてやるから来いと言う。ヒンディー語も普通にしゃべっている。聞くとヒマーチャル・プラデーシュ州東部のキンナウル地方出身だと言う。この僧院に足を踏み入れてからチベット人僧侶しか見なかったのだが、インド人のボン教徒もいるとは!きっとチベット人僧侶たちはあまりヒンディー語がしゃべれないので、ヒンディー語ができるインド人僧侶が仲間たちに「お前が行って来い」と言われて出て来たのであろう。彼に案内されて、裏口から寺院の中に入った。寺院に祀られているのはトンパシェンラブという神様らしい。調べてみたところ、ボン教の開祖であった。非常に壮麗な像だった。


トンパシェンラブ

 寺院内部の構造や装飾は一般的なチベット仏教僧院と同じと言っていい。僕の限られた知識では、違いを見つけることができなかった。寺院の外観において大きな相違点はマニ車がないことだ。他はあまり違いはない。


寺院内部

 昼休み中みたいなので、あまり邪魔しても悪いと思い、寺院を参拝して満足したところでボン教僧院を去った。僧院のすぐそばにはメンリ・ゲストハウス(Menri Guest House)という宿もあり、宿泊もできそうだった。ボン教グッズとかボン教についての情報をまとめた本とかを売っている売店がないかと思ったが、そういうものはなさそうだった。この辺りが、チベット亡命政府が拠点とするダラムシャーラー(Dharamshala)のように観光地として発展する見込みは今のところあまりなさそうだ。


ボン教僧院と共に記念撮影

 午後12時15分頃にドーラーンジーを出発。オーチュガートまで戻り、ソーランを目指した。午後1時にはソーランに到着。ソーランはかなり都会で交通量が多く、町中を抜けるのに時間が掛かった。ソーランからはカールカー(Kalka)を目指した。カールカーは、シムラーを結ぶトイトレインの始発駅となっており、ヒマーチャル・プラデーシュ州の入り口である。走行中、踏切で止められて、このトイトレインが通り過ぎて行くのを見ることができた。


トイトレイン

 途中、ダラムプル(Dharampur)を過ぎた辺りにあるジャーブリー(Jabli)にマクドナルドがあったので、そこで昼食を食べた。午後2時15分頃に出発し、再びカールカーを目指した。

 驚いたことに、ヒマラヤン・エクスプレスウェイというバイパスが完成しており、パルワーヌー(Parwanoo)からカールカーなどを経由せずにピンジャウルへ直接行くことができるようになっていた。調べてみたところ今年オープンしたばかりのバイパスである。これを利用すれば45分から1時間の時間短縮になると言う。カールカーの辺りはいつも混んでいたので、これは非常にありがたい。エクスプレスウェイのそばにはカウシャリヤー・ダムという大きなダムもあった。ピンジャウルからは完全な平地の直線道路だ。パンチクラー(Panchkula)などを通過し、午後3時半にはアンバーラーに到着。天下のNH1に入った。ここからは片側3車線以上の道路となり、時速80km以上で走行しても何の問題もない。

 さて、このままデリーまで爆走してもよかったのだが、途中にあるパーニーパト(Panipat)でもう1泊したい気持ちが沸き起こっていた。かねてから、パーニーパトにあるブー・アリー・シャー・カランダル廟を参拝したいと考えていたのだが、ふと今日が木曜日であることに気付いた。スーフィー聖者の聖廟の参拝は通常、木曜夜がもっとも効果があるとされる。図らずも今日は同廟を訪れる絶好の日だ。また、パーニーパトのニルラーズ・ホテルが前から気になっており、一度宿泊したいと考えていた。これらを実現するため、パーニーパトに泊まることにした。

 午後5時にパーニーパトに到着。ニルラーズ・ホテルへ行ってみると、一番安いエグゼクティブ・ルーム(S1,845/D2,345ルピー)は埋まっていたものの、その次に安いデラックス・ルーム(S2,245/D2,745ルピー)は空きがあった。迷わずその部屋に宿泊することを決定。基本的にビジネスホテルで、宿泊客はビジネスマンばかりだった。部屋には必要なものは大体揃っている。有料でWiFiも利用可能だ。

 シャワーを浴びてリフレッシュした後、早速ブー・アリー・シャー・カランダル廟へ向けて出発した。と言っても旧市街の狭い路地の奥にありそうだったので、バイクでは行かず、サイクルリクシャーで行くことにした。ニルラーズ・ホテルから聖廟までは40ルピーだった。帰りも同じ値段だったので、これが相場であろう。

 予想通り、ブー・アリー・シャー・カランダル廟は縁日のような賑わいであった。廟内には出店が出ており、多くの人々が参拝に訪れていた。カッワールの演奏も行われていた。デリーの聖廟と同様に、敷地内にはいくつもの墓が密集しているのだが、主な墓は2つ。ブー・アリー・シャー・カランダル自身の墓と、その愛弟子ムバーラク・カーンの墓である。


ブー・アリー・シャー・カランダル廟

 ブー・アリー・シャー・カランダルの本名はシャラフッディーンと言い、13世紀の初めにパーニーパトで生まれた。一説によるとクトゥブッディーン・アイバクの治世である1209年の生まれだと言う。ブー・アリー・シャー・カランダルの出生に関してこんな言い伝えがある。
 ブー・アリー・シャー・カランダルは生後3日間、乳も飲まず、目も開けず、ただ泣いてばかりいた。父親のファリードゥッディーンが家の外に出ると、そこには1人のカランダル(遊行者)が座っていた。ファリードゥッディーンが挨拶をすると、カランダルも返事をし、彼に語り掛けた――「男の子の誕生、おめでとう!その子を見るためにここで待っていたんだ。」ファリードゥッディーンはカランダルを家の中に招き入れた。カランダルは泣きじゃくる赤子の額にキスをし、耳のそばで囁いた。

فا نیما تولو فثم وجه اللہ

 「どこを向いてもそこにはアッラーがおわします」

 これを聞くや否や赤子は泣くのを止め、目を開けた。そして乳を飲み始めた。
 ブー・アリー・シャー・カランダルは40年間パーニーパトで勉学に勤しみ、その後デリーに移住して勉強を続行すると同時に教鞭も執った。ブー・アリー・シャー・カランダルの師匠については諸説があるが、もっとも壮大な説は、預言者ムハンマドの娘婿アリーが師匠であるというものである。
 ブー・アリー・シャー・カランダルはスルターン(皇帝)の顧問学者の1人であった。その頃スルターンはとある美女と結婚した。ところがスルターンがその美女と交わろうとする度に、その女性に生理が来てしまっていた。他の后とはそんなことは起こらなかった。スルターンは顧問学者たちを召還し、この現象が一体何なのか、質問した。だが、このような現象はどんな本にも書かれておらず、誰も満足行く答えを返すことができなかった。スルターンは激怒し、もし明日までにこの問題を解決できなかったら全員死刑に処すと宣言した。驚いた学者たちは皆泣きながらアッラーにすがった。

 その日、とある聖者がブー・アリー・シャー・カランダルの学校にやって来て、学生たちに師匠の居所を尋ねた。学生たちは「スルターンのところに呼ばれて行っています」と答えた。すると聖者はブー・アリー・シャー・カランダルに書き置きをして言った。ブー・アリー・シャー・カランダルが帰って来て、その書き置きを読むと、こんなことが書いてあった。

――スルターンはとある美女と結婚したが、彼女はスルターン自身の娘なのだ!かつてスルターンは1人の后を怒って森に追放したことがあった。その后は1人のドービー(洗濯屋)の家に匿われた。后は妊娠しており、1人の女児を産んだ。その7年後に后は死んでしまった。ドービーには子供がおらず、その女児を養女にした。この女児が大きくなると、その美しさは遠くの国まで噂となった。その噂を聞いたスルターンはその娘と結婚した。だが、スルターンはイスラーム教の守護者である。アッラーが、スルターンが近親相姦という大罪を犯さないように守っているのだ。もしスルターンがこの話を疑うならば、そのドービーを呼んで聞いてみるといい。后は死ぬ前に彼に全てを話しているから。

 ブー・アリー・シャー・カランダルはそれを読んで喜んだ。翌日スルターンにその話を聞かせた。スルターンはそのドービーを呼んだ。ドービーも同じ話をした。こうして不可思議な現象の謎が解け、学者たちの命は助かったのだった。

 ブー・アリー・シャー・カランダルは家に戻った後、全ての本を焼き払い、その謎の聖者を追い掛けた。3日後、なんとかその聖者を見つ出した。ブー・アリー・シャー・カランダルは聖者に、自分を弟子にするように嘆願した。だが、聖者はそれを断り、代わりに自分の師匠を紹介すると言った。

 その師匠とはアリーであった。よって、ブー・アリー・シャー・カランダルはアリーの弟子となった。「ブー・アリー」とは「アリーの香り」という意味だが、このときその称号も受けた。
 一方、ムバーラク・カーンとはギヤースッディーン・バルバンの息子である。幼少時より神の道に興味を示し、ブー・アリー・シャー・カランダルの弟子となった。ブー・アリー・シャー・カランダルはムバーラク・カーンを大層気に入り、片時もそばから離さなかったと言う。ムバーラク・カーンの死についてこんな話が伝わっている。
 あるときデリーのスルターン、アラーウッディーン・キルジーが狩猟をしながらパーニーパトまで来たことがあった。ついでなのでアラーウッディーン・キルジーはブー・アリー・シャー・カランダルの庵を訪ねた。ブー・アリー・シャー・カランダルはアラーウッディーン・キルジーに、自分のために墓廟を造るように命じた。アラーウッディーン・キルジーはそれを光栄に感じ、すぐに建設に取り掛かった。また、アラーウッディーン・キルジーはご馳走を作らせ、ブー・アリー・シャー・カランダルの庵まで届けさせた。ブー・アリー・シャー・カランダルはその食事の一部だけを食べ、愛弟子のムバーラク・カーンに残りを井戸に捨てるように命じた。だが、ムバーラク・カーンは師匠の食べかけの食事をプラサード(神饌)だと考え、食べてしまった。聖者の食べかけの食事には危険な力が含まれていることをムバーラク・カーンは知らなかった。その力によってムバーラク・カーンは死んでしまった。

 ブー・アリー・シャー・カランダルは愛弟子の早世を悲しみ、アラーウッディーン・キルジーに造らせた墓廟にムバーラク・カーンを埋葬させた。そして、「自分の墓廟を参拝に来る者はまずムバーラク・カーンの墓廟を参拝するように」とのお触れを出した。
 ムバーラク・カーンの墓廟はブー・アリー・シャー・カランダルの墓廟よりも前にあり、ブー・アリー・シャー・カランダル廟を参拝する者は必ず最初にムバーラク・カーン廟を参拝する。聖廟前の参道でチャーダル(布)2枚を含む参拝セットを買ったので、まずはムバーラク・カーンの墓廟にチャーダルを掛け、次にブー・アリー・シャー・カランダルの墓廟にチャーダルを掛けた。2つの墓に花びらも掛けた。この2つの墓以外にも多くの墓があるのだが、面白いことに参拝客たちはそれらの墓のそばに設けられた箱にシールニー(金平糖)を少しずつ入れて行っていた。僕もそれに従ってシールニーを入れて行った。


ソロのカッワールが「ダマーダム・マスト・カランダル」を歌う

 境内の出店では、ブー・アリー・シャー・カランダルに関するグッズを中心に様々なイスラーム・グッズが売られていた。僕もいくつかイスラーム・グッズを購入した。


廟の入り口

 突然決めたパーニーパトでの一泊だったが、神聖なる雰囲気に満ちた、充実した体験となった。今日はヒンドゥー教のカーリー女神、ボン教のトンパシェンラブ神、そしてイスラーム教聖者のブー・アリー・シャー・カランダル廟と、3つの神様にお祈りをすることができた。旅の最後までの無事を祈ったが、事実上、このラダック・ツーリング成功への感謝の気持ちを表す祈りだった。

 本日の走行距離:298.7km、本日までの総走行距離:3985.7km。ガソリン補給1回、700ルピー。

10月12日(金) パーニーパト→デリーと総括

 パーニーパトは、インドの歴史を左右する3回の大戦が行われた場所で、歴史的建造物も多い。パーニーパトに一泊したなら、それらを観光しない手はないのだが、外に出てみたら思ったよりも暑かった。涼しい山岳地帯から来た身としては、この暑さは耐え難い。昨日は夕方着いたのであまり気付かなかった。この暑さに一気に観光する気が失せ、このままデリーに帰ることにした。デリーから近いのでまた来る機会もあるだろう。

 午前11時頃にホテルをチェックアウトしてパーニーパトを出発。パーニーパトからデリーは80kmほどであり、遠くない。午後12時半にはデリーの北端に到着した。しかし、僕の家のある南デリーまで行くにはさらに1時間掛かった。リングロードを通ってジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)キャンパスへ。家に帰り着いたのは午後1時半であった。3週間振りの我が家!特に変化はなく、出発したときのままであった。

 本日の走行距離:111.3km、本日までの総走行距離:4097.0km。ガソリン補給なし。



 これにて、3週間、4,000km以上に及ぶラダック・ツーリングは成功裏に終了した。デリーから出発した場合、ラダック・ツーリングには複数のルートが考えられるが、その内のオーソドックスなルートである、デリー→シュリーナガル→レー→マナーリー→デリーの西回りルートを取ったことになる。出発時にはマナーリーなどで積雪があり、もしかしたら帰りもシュリーナガルを通ることになるかもしれないと予想したが、それ以来大規模な降雪・積雪はなく、来た道を引き返さなくて済んだ。

 別のオーソドックスなルートは、その逆回りとなるデリー→マナーリー→レー→シュリーナガル→デリーの東回りルートか、もしくはデリー→マナーリー→レー→マナーリー→デリーのマナーリー経由往復ルートである。そして一般にはこちらの方がさらにポピュラーだ。山本高樹氏も「ラダック ザンスカール トラベルガイド」の中で、「トラブルを回避するためにも、スリナガルを経由地にするのは避けた方がいいだろう」(P131)と、マナーリー経由のルートを勧めている。

 だが、はっきり言ってレーへ陸路で行くにはシュリーナガルを経由した方が断然楽である。ここでは一応バイクでの話に限るが、バスやジープなどでの移動にも十分当てはまる。シュリーナガル経由ルートの懸念はカシュミール地方の治安問題とシュリーナガルの宿泊問題だけだ。カシュミール地方の治安は現在ではかなり落ち着いており、全く問題ないレベル。僕がカシュミール地方に入ったときには、預言者ムハンマド侮辱映画問題を巡って各地でデモ行進が行われていたが、危険な目に遭うことはなかった。平常時ならばより安全にシュリーナガルを抜けることができるだろう。シュリーナガルでは、会う人会う人が皆ハウスボートに旅行者を放り込もうとして来るのも大きな問題だが、陸地のホテルを予約してシュリーナガル入りすれば全く問題ない。既に宿を決めてしまった旅行者に対しては、客引きもほとんど無力である。「そのホテルは閉業した」などと言う彼らの嘘に耳を貸さなければいいだけだ。インド旅行に慣れた人ならどうってことないだろう。

 それらのマイナスポイント以上に、シュリーナガル経由のレー入りには多くのメリットがある。まずは高山病の心配が少ないことである。シュリーナガルの標高が1,730m、ソーナーマルグが2,800m、ゾジ峠が3,528m、カールギルが2,817m、フォトゥ峠が4,108mと、徐々に徐々に標高が上がって行く。一方、レー・マナーリー・ロードは標高の上がり方が激し過ぎる。標高2,050mのマナーリーから一気にロータン峠の3,978mまで2,000m上昇する。その後ケーロンの3,350mまで下がるものの、それ以降はずっと4,000m以上。最後に標高5,350mのタグラン峠を越え、レーに至る。非常に高山病を発症しやすいルートとなっている。

 レー・マナーリー・ロード上にある峠を吟味した結果、現状ではレー側から越えた方が楽な峠が多いと感じた。タグラン峠とロータン峠は、道路の舗装状況などの理由から、完全にレー側から挑むのが易しい。バララチャ峠はマナーリー側から挑む方が楽だと感じたが、レー側からでもそんなに難しくはない。また、マナーリー側からナキー峠へ挑もうとすると難所ガーター・ループを上がらなければならない。レー側からならガーター・ループは下り坂だ。

 積雪、雪崩、土砂崩れなどで通行止めになる確率はどの峠にもあるが、ロータン峠とバララチャ峠はその確率がどの峠よりも高い。もしそうなった場合、足止めを余儀なくされる訳だが、ラダックへ向かう前に足止めされるのと、ラダック旅行を一通り終えてから足止めされるのとでは、だいぶ心理的ダメージが異なる。もしマナーリー経由でレーへ向かう場合、このロータン峠とバララチャ峠の問題が常に付きまとう。そして万一の場合は、マナーリーやケーロンで何日も待たなくてはならなくなる。一方、もしシュリーナガル経由でレーに到達し、マナーリー経由で帰ろうとしたときにロータン峠やバララチャ峠が通行止めとなった場合、再びシュリーナガル経由で引き返す選択肢もあるし、それらの峠が開くのを待つ選択肢もある。

 旅行記の中では特に触れなかったが、ゾジ峠の一方通行ルールも西回りルートの大きな利点だ。ゾジ峠は基本的に時間制の一方通行となっており、大体午前11時を境に、午前はレー→シュリーナガル方向が開き、午後はシュリーナガル→レー方向が開く。時間帯からすると、圧倒的にシュリーナガル→レーの方が楽である。朝シュリーナガルを出れば、ちょうどゾジ峠が開く頃に現地に着くことができる。一方、レー方面から来た場合、どこかで一泊しなければならないことが多い。ドラスがそのための最適な宿泊地となっているが、世界で2番目に寒い定住地とされており、極寒の中眠らなければならないかもしれない。

 ロータン峠の交通規制も大きな理由のひとつだ。マナーリー側からのロータン峠進入にはいくつか規制が掛かっている。例えば火曜日は進入禁止、ヒマーチャル・プラデーシュ州以外の車両は許可取得が必要、などである。これらのルールは毎年変わる可能性もあるが、その目的はとにかくロータン峠の混雑を解消することで、その混雑の原因はマナーリー側からロータン峠の雪を見物しに来るインド人観光客である以上、マナーリー側からの交通規制は今後も何らかの形で掛かり続けるだろう。だが、レー側からならほとんど規制が掛かっておらず、容易にロータン峠を越えることができる。

 最後に、インナーライン・パーミット(ILP)の取得が事実上レーでしかできないことも重要だ。レーからツォ・モリリとツォ・カル経由で直接マナーリーを目指すルートがあるが、これはシュリーナガル→レー→マナーリーのルートを取った者だけが享受できる。マナーリー方面からレーへ向かった場合は、ツォ・モリリに寄ってレーに行くことができない。バイクでこのレー→ツォ・モリリ→ツォ・カル→マナーリーのルートを取る場合は、500km以上はガソリンスタンドがないことになるので、絶対に予備燃料が必要となるが、もし用意できるならば挑戦してみてもいいだろう。僕はガソリン携行缶などを持たないスタイルを貫いていたので、このルートは取らなかった。

 また、一般にラダック・ツーリングに最適な時期は6月から7月とされる。しかし、9月下旬から10月上旬に掛けてラダック・ツーリングをしてみて、9月下旬こそがベスト・シーズンだと感じた。9月15日以降、ラダックはオフシーズンに入り、観光客の数がグッと減るが、モンスーンが終わっているため、天候は快晴のツーリング日和が続く。特にパンゴン・ツォやツォ・モリリの美しさは天候に大きく左右されるので、快晴の確率が高いことはラダック観光において非常に重要な意味を持つ。10月上旬になるとさすがにかなり冷え込んで来るので、バイクにとっては厳しくなるが、9月下旬はとても快適だった。6月や7月だとまだ峠に冬の間に積もった雪が残っているが、9月には完全に溶けてしまっている。峠越えの大敵は、積もった雪から発せられる冷気と、道路に溢れる雪解け水の濁流だが、この時期の峠越えではその心配もない。ただし、9月下旬にシュリーナガル→レー→マナーリーのルートを取る際に気を付けなければならないのは、レー・マナーリー・ロード上に点在するキャンプの店じまい日だ。これらのキャンプが閉まってしまうと、このルートの難易度は一気に上がる。初冬の兆しが来ると、これらのキャンプを経営する人々はどんどん店を畳んでしまう。今年は10月10日がその日だった。あまりレーに長居していると、レー・マナーリー・ロードを通ってマナーリーへ行くことが困難になってしまう。

 総じて、2年前はもっとも難しい時期にもっとも難しいルートを通ってレーへ行こうとし断念した訳だが、今回はもっとも易しい時期にもっとも易しいルートを通ってラダック・ツーリングを完遂できたと言える。

 今回のツーリングの業績としては以下のものが挙げられる。どれもバイカーの夢や憧れだ。
  • ラダック・ツーリングを西回りルートで自分のバイクで完遂したこと。
  • 過酷なレー・マナーリー・ロードを自分のバイクでガソリン携行缶なしで走破したこと。
  • 世界最高の自動車道カルドゥン峠を自分のバイクで制覇したこと。
  • パンゴン・ツォまで自分のバイクでガソリン携行缶なしで往復したこと。
  • ツォ・モリリまで自分のバイクでガソリン携行缶なしで往復したこと。
  • インド最北端のトゥルトゥクまで行ったこと(ただしバイクでではない)。
 「自分のバイク」を強調するのは、レーやマナーリーなどでレンタル・バイクが利用できるからである。レンタル・バイクでこれらを達成することもできるが、バイカーとしてはあまり面白くない。やはり自分が普段乗っているバイクでこれらの冒険に挑戦したいものだ。そもそも、どのようなメンテナンスがされているか分からないバイクで僻地の悪路を走行することほど恐ろしいことはない。トゥルトゥクにバイクで行けなかったのは残念だが、僕は特にそこまでバイクで行くことにこだわっていなかった。だが、今回のツーリングで親しくなったサーイーは、インド最南端のカンニャークマーリーからバイクでインド最北端を目指していたため、彼にとってはバイクでトゥルトゥクまで行くことに大きな意義があった。彼は友人の運転する4WDのバックアップ(燃料運搬など)があったため、無事にトゥルトゥクまでバイクで辿り着くことができた。ヌブラ谷のガソリン事情は全く信頼できないので、トゥルトゥクへバイクで行くにもガソリン携行缶は必須だ。

 それにしてもラダックは本当にバイク天国だ。バイカーにとって、これほど挑戦しがいのあるデスティネーションはない。まずレーに辿り着くだけで大冒険であるし、レーに辿り着いてからも、いくつもの困難な冒険が待っている。とてつもなく標高の高い峠を越えるもよし、最悪の悪路を克服するのもよし、荒野の中の一本道を風となって爆走するのもよし。そして必ずその先に素晴らしく美しいものが待っているのだ。ラダックは基本的に交通の便が不便で、バイクだからこそできる旅のスタイルもある。バイカーのためにあるような土地である。

 もうすぐインドを去らなくてはならない僕にとって、おそらくこのラダック・ツーリングが最後のインド大冒険となる。旅を通し、インドへの愛を表現することがひとつの目的であったが、行く先々でそれ以上に大きな愛を受け取った気分だ。特にトゥルトゥクでは、ヒンディー語ができることで村人たちと独断場の交流をすることができた。ヒンディー語を学んで良かったと思わせてくれた瞬間だった。ケーロンでは恩人タシ氏とも絶妙なタイミングで再会できた。パーニーパトからデリーへ向かう途中では、走馬灯のようにインドでの様々な体験が頭をよぎった。まるでデリーに辿り着くことで僕のインド人生が終わるかのような感覚であったが、それもまた一理あるかもしれない。

 2年間ろくに旅行をしていなかったので、正直なところ、旅立ちのときは少し恐れもあったのだが、3週間旅行をする中で、「旅が日常」の感覚がだいぶ戻って来た。若い頃は本当に旅ばかりしていたものだ。その感覚が戻った今では、むしろ定住するのが恐ろしい。しかし、久し振りに家に帰り着いて落ち着くと、安心感も沸き起こって来た。この安心感が再び全身を覆ってしまうとき、旅立ちが怖くなるのだろう。

 だが、旅の間に感じる感情は、家族を持ってからだいぶ変わってしまったことを強く感じた。美しい場所へ行けば行くほど、素晴らしい場所へ行けば行くほど、家族が恋しくなる。この光景を妻や子供と共に見たかったと常に考えてしまう。独身の頃は、1人で旅行することに何の不安や躊躇も抱かなかったが、今ではそれをフルで楽しめない。今後はもっと違った形の旅行をすることになるのだろうか。

 それにしてもパンゴン・ツォの美しさはこの世の物とは思えなかった。あの青さ、あの静けさ。天国だと感じた。そしてその天国で家族を想った。きっと死んだときもそんな気持ちになるのだろう。もしかしたら死んだら魂はここに来るのでは?生きながらここに来てしまった自分はどうなる?いや、もう生きていないのか?1人湖畔でそんなことを考えながら散策していたものだった。間違いなくこの旅のハイライトだ。

 旅先で急に家族が恋しくなってしまったものの、長年抱き続けて来た、「カリズマにラダックの青い空を見せたい」という夢は叶った。カリズマは家族とは別次元の存在であるが、7年以上共に過ごして来た大切な相棒だ。大きなトラブルもなく、旅を成功させてくれたのは本当にありがたい。今回の旅の真の主役はカリズマだ。ただ、実は旅の終盤でエンジンの調子が悪くなり、騙し騙しデリーまで辿り着いた感じだ。標高の低いところから高いところへ向かうときは大体大丈夫なのだが、標高の高いところから低いところへ来ると、調子が悪くなることが多い気がする。エンジンの知識がないのでその原因が分からないのだが、空気と燃料の混合比の問題であろうか?すぐにサービス(修理)に出さなければならない。タイヤも前後ともにかなりすり減ってしまったので、交換が必要だろう。ラダック・ツーリングは、バイクにとっても当然極限まで過酷な旅路であった。

 ラダック・ツーリングは一生に一度の旅だと言われる。確かにその通りだ。こんな過酷なツーリングはもうコリゴリで、次にラダックへ行くことがあっても、バイクではもう絶対に行かないだろう。だが、一生の内にそう何度もこんな大冒険に挑戦できるチャンスが巡って来る訳でもない。僕にとっては二度目の挑戦であり、今回は運良くそれを成功させることができた。単にレーへ行くだけでなく、ヌブラ谷、パンゴン・ツォ、ツォ・モリリと言う3つのルートを制覇することができた。それだけで大満足だ。一生に一度でも多すぎるくらいの充実した旅だった。

 しかし、仮に2年前にレーに辿り着けていたとしても、今回ほど楽しめなかったかもしれない。なぜなら2年前には山本高樹氏の「ラダック ザンスカール トラベルガイド」がなかったからである。山本氏が今年出した同書のおかげで、本当に充実したラダック旅行をすることができた。それだけでなく、時々質問に答えていただいたりして、全面的に旅をサポートしてくれた。この場を借りて感謝の言葉を述べたい。おそらく僕は今年「ラダック ザンスカール トラベルガイド」をもっとも活用した1人であろう。ザンスカールやダー・ハヌーなどには行けなかったが、掲載されているかなりの場所を網羅した。また、バイクでのラダック旅行という観点からは、この旅行記が同書の補完的情報源になるのではないかと自負している。

 「ラダック ザンスカール トラベルガイド」に加え、高木辛哉氏の「旅行人ウルトラガイド ラダック」もまだまだラダックへ携帯する価値のある本である。2001年初版の本なので旅行情報については古くなってしまっており使い物にならないが、各ゴンパ情報などは異常に詳しいので、参照する価値がある。

 一方、全く役に立たなかった本はMapmyIndiaの「National Motoring Atlas」だ。2006年版のEicherのインド道路地図「India Road Atlas」を持っていたが、最新の地図が欲しかったので、ツーリング出発直前、書店で見て購入した。「自動車旅行地図」ということで、通常の地図帳よりも便利だろうと考えたのだった。ところがこれがとんでもなく不正確な地図で、ほとんど役に立たなかった。特にラダックのような僻地では、地図の間違いは最悪の場合、死をももたらす可能性がある。例えば、ツォ・モリリまでの道のりがとんでもなくいい加減で、コルゾクの位置も間違っている。これは殺人地図である。ラダックの地図については、前述の「Milestone Himalayan Series: Ladakh and Zanskar」が一番だ。基本的にはトレッキング地図だが、道路情報も正確で、バイカーにとっても必携の地図となっている。

 最後になるが、このラダック・ツーリングを「ラダック・ツォーリング」としたのは、ここまで読んでくれたなら既に分かってくれているだろう。ラダックのツーリングはとにかく「ラ(峠)」と「ツォ(湖)」の旅である。ラダックには「ラ」をいくつも越えて行かなければならないし、「ツォ」も「ラ」の先にある。いくら言語に疎い人でも、チベット系言語のこの2語だけは覚えてしまう。よって、ラダック・ツーリングをもじって「ダック・ツォーリング」としたのだった。



オマケ

 インドのハイウェイ、特に山岳地帯の道を走ったことのある人なら誰でも気付いていると思うが、道端には交通安全標語みたいなものが随所に立っており、通り過ぎる者たちの知性とウィットをくすぐる。「Speed Thrills But Kills」や「After Wisky Driving Risky」などと言った、既に半ば諺と化した定番の標語も多い。今回ツーリング中にこれらの標語をひとつひとつ吟味し、自分の中で最優秀賞を決定した。それは以下のものである。


Be Gentle on My Curves
パンゴン・ツォ付近で撮影

 この亜種として「Be Soft on My Curves」や「I'm Curvacious Be Gentle」なども見たが、これが一番まとまりがいいのではないかと思う。誰が考案しているのか知らないが、おめでとう!

動画について

 GoProで撮影した動画については随時アップロードして行く予定。動画をひとつひとつ見直し編集するのは膨大な時間が掛かる。インドのネット環境だと高画質(HQ)の動画をアップロードするのは難しいので、画質は悪くなるが、オリジナルは非常に精細に映っている。日本帰国後にHQ動画をアップロードしたり、かっこよく編集した映像を作ったりすることもあるかもしれない。

10月14日(日) English Vinglish

 ラダック・ツーリングで3週間ヒンディー語映画を見ることができなかった。その間にいくつか重要な映画が公開されており、今週はできるだけ多くの映画を見ようと思う。とりあえず今日は2本の映画を見た。最初に見たのは非常に評判の良い「English Vinglish」。10月5日公開。1980年代から90年代初期に活躍した大女優シュリーデーヴィーのカムバック作品だが、決してその要素だけでヒットしている訳ではない。監督は新人のガウリー・シンデー。だが、彼女の夫は名作「Cheeni Kum」(2007年)や「Paa」(2009年)で知られるRバールキー監督であり、決して過小評価することはできない。ヒンディー語版と同時にタミル語版とテルグ語版も公開されている。ちなみに題名となっている「Vinglish」とは、南アジアの言語に特徴的なエコーワードというやつで、特に意味はない。前の名詞と似たような音の語を加えることで、「~や何か」という意味になる。「チャーイ・ワーイ(チャーイや何か)」などよく使われる。



題名:English Vinglish
読み:イングリッシュ・ウィングリッシュ
意味:英語や何か
邦題:イングリッシュ・ウィングリッシュ

監督:ガウリー・シンデー(新人)
制作:スニール・ルッラー、Rバールキー、ラーケーシュ・ジュンジュンワーラー、RKダマーニー
音楽:アミト・トリヴェーディー
歌詞:スワーナンド・キルキレー
衣装:アールティー・パトカル
出演:シュリーデーヴィー、メーディ・ネブー、アーディル・フサイン、プリヤー・アーナンド、スルバー・デーシュパーンデー、スジャーター・クマール、ナヴィカー・コーティヤー、シヴァーンシュ・コーティヤー、ニールー・ソーディー、ラージーヴ・ラヴィーンドラナータン、ルース・アギラ、スミート・ヴャース、マリア・ロマノ、ダミアン・トンプソン、コリー・ヒブス、アミターブ・バッチャン(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞、満席。


シュリーデーヴィー

あらすじ
 シャシ(シュリーデーヴィー)はプネーに住む中産階級の主婦であったが、得意のラッドゥー(インドのお菓子の一種)を知り合いに売って小遣いを稼いでいた。シャシと夫サティーシュ(アーディル・フサイン)の間には長女サプナー(ナヴィカー・コーティヤー)と長男サーガル(シヴァーンシュ・コーティヤー)が生まれ、何不自由ない生活を送っていた。唯一、シャシの悩みは英語が苦手なことだった。サティーシュは英語堪能であるし、2人の子供も学校で英語を習っている。同居する義母(スルバー・デーシュパーンデー)を除けば、家族で英語ができないのはシャシだけであった。シャシは劣等感に苛まれて暮らしていた。

 あるときニューヨークに住む姉マヌー(スジャーター・クマール)から電話が掛かって来て、彼女の長女ミーラー(ニールー・ソーディー)の結婚が決まったと吉報が入る。シャシの家族もニューヨークに呼ばれた。だが、結婚式の準備のために人手が必要で、シャシは他の家族より一足先にニューヨークに行くことになった。英語ができないシャシは不安でいっぱいだったが、家族に説得され、渋々単身ニューヨークへ飛ぶことになった。

 マヌーは、夫のアニルを亡くした後、女手一つで2人の娘たちを育て上げた。長女のミーラーはこの度結婚し、次女のラーダー(プリヤー・アーナンド)は大学で勉強していた。ニューヨークに着いたシャシはマヌーの家に滞在して結婚式の準備をすることになる。しかしマヌーは日中仕事で家におらず、シャシは昼間基本的に1人であった。思い切って外出したシャシは早速英語ができないばかりにカフェで屈辱的な体験をし、落ち込む。そんなとき彼女の目に入ったのが「4週間で英語をマスター」という英語学校の広告だった。シャシはラッドゥーを買って貯めたお金を資金とし、密かに英語学校に通い出す。英語学校にはメキシコ人、フランス人、パーキスターン人、インド人、韓国人、アフリカ人など、様々な国籍の生徒が英語を学びに来ていたが、彼らが共通して抱える問題は、英語ができないことから来る劣等感であった。

 シャシは英語学校でめきめき英語を上達させる。また、英語学校に通うフランス人ローレン(メーディ・ネブー)と親しくなる。ローレンはフランス料理のシェフとしてニューヨークで働いていた。ところが、ローレンと一緒にいるところをラーダーに見られてしまい、英語学校に通っていることを彼女に明かすことになる。だが、ラーダーは英語を学ぼうとするシャシのガッツを応援し、2人だけの内緒とする。

 英語のコースも3週間が過ぎ去り、残るは1週間となる。教師のデーヴィッド・フィッシャー(コリー・ヒブス)は、最終日にテストとして5分間のスピーチをしなければならないと生徒に通告する。それに合格して初めて生徒たちは証明書をもらえる。ところがその日はミーラーの結婚式であった。シャシは考え込んでしまう。

 また、サティーシュ、サプナー、サーガルが予定よりも早くニューヨークに来てしまう。子供たちの世話をしなければならなくなったシャシは英語学校に通えなくなってしまう。しかしラーダーとローレンが協力し、ストリーミング・ビデオを使ってシャシが家にいながら授業に参加できるようにする。また、テストは午前中、結婚式は午後であったので、ラーダーが何とかシャシに、テストを受ける時間を作れるように計らう予定であった。

 結婚式当日。シャシは手によりを掛けて作ったラッドゥーを会場に持って行こうとするが、そのときサーガルが悪戯をしたことで、ラッドゥーが全て台無しになってしまった。シャシはもう一度ラッドゥーを作り直すことを決意する。もちろんそうすることでテストは受けられなくなってしまうが、シャシにとっては英語よりもラッドゥーの方が大事だった。テストの時間は過ぎ去ってしまった。

 結婚式が始まった。ラーダーは英語学校のクラスメイトやデーヴィッド先生を結婚式に招待していた。彼らは結婚式会場にやって来る。そこでマヌーや新郎の父親(白人)が英語でスピーチをする。それが終わるとラーダーはシャシにスピーチをするように促す。シャシが英語を学んだことを知らないサティーシュはそれを制止するが、シャシは立ち上がって英語でスピーチを始める。参列者はそのスピーチを聞いて拍手を送る。デーヴィッド先生もそのスピーチでもって合格とした。

 苦手な英語を克服したシャシは、マヌーやラーダーに見送られ、自信を持ってニューヨークを去る。

 英語話者人口の多さは国際的にはインドの大きな武器だと一般に認識されている。だが、国内をよく観察すると、英語は諸刃の剣となって一般庶民を抑圧し、社会を分断している。インドの教育は完全にエリート養成型で、英語による教育に付いて来られる人材をより磨き上げて行くことに主眼が置かれている。だが、その当然の帰結として、英語が得意でなかったり、英語教育が満足に受けられなかった人々には非常に不利な社会構造となっている。英語を自信を持ってしゃべれるインド人の数はパーセンテージにしたらまだまだそんなに多くないにも関わらず、いや、だからこそ英語が手っ取り早い選別基準となって、インドにおいて英語が満足にできない人は二等市民としての生活を余儀なくされ、社会の中でなかなか上昇できない。もっとも大きな問題は、英語ができない人物はどんなに知的に優れていても教養があると見なされないことである。そして教養があると見なされないということは、社会の中で最低限の尊敬が得られないということである。自分の母国において、とある外国語が苦手であるばかりに二等市民としての生きることを余儀なくされるこの理不尽さを理解できる日本人はそんなに多くないだろう。

 「English Vinglish」は、インドのその歪んだ社会構造を部分的に捉えることに成功した作品だ。部分的、というのは、同作品は結局すぐに舞台がニューヨークに移ってしまい、インドの文脈からかなり離れてしまうからである。インドにおいて英語ができなくて困ることと、米国において英語ができなくて困ることでは、だいぶ受け止め方が異なる。米国では英語が事実上公用語として話されており(ただし英語は憲法で規定された米国の公用語ではない)、英語をマスターすることは米国で暮らす以上、必要不可欠と言っても語弊はないだろう。だが、インドにおいて英語をマスターする必要性は、特に主婦などにとっては、本当はないはずである。自国で外国語ができないことで直面する問題と、外国で外国語ができなくて困る問題は全く別だ。よって、舞台がニューヨークに移ったことで、せっかくインドの文脈の中でなされた重要な問題提起が曖昧になってしまっていた。だが、序盤において英語ができないインド人中産階級主婦の苦悩はよく描写されており、それだけでもかなりいい着眼点と共に映画が構想されたと評価できる。

 ただ、映画の中で英語の問題は単なるショーケースであり、本当にこの映画が取り扱っていたのは女性の自尊心、特に主婦の自尊心の問題であった。仕事に忙しい旦那と生意気な2人の子供たちに囲まれ、主人公のシャシはいつしか自分に自信の持てない女性に成り下がっていた。英語ができないことも家族から下に見られていた原因ではあったが、それよりもシャシが自分から自分を無価値の存在としてしまっていたところがあった。その心境に変化が訪れるきっかけとなったのが、フランス人シェフのローレンとの出会いであった。ローレンはシャシの美しさを褒め、彼女に必死に言い寄る。シャシは久し振りに自分に価値を見出してくれる人物に出会ったのだった。

 もちろんこれはインド映画であり、シャシは保守的なインド人主婦であるため、その後2人が不倫関係になったりすることはない。それで正解だった。この辺りの大人の恋愛の取り扱いの巧さは、「Cheeni Kum」などで見せたRバールキーの手法を思わせるものがあり、きっと彼の何らかの介入・助言・影響があったと思われる。絶妙なのは最後のシーンだ。シャシはただローレンの求愛をはねのけるだけでなく、「自分に自信を持たせてくれてありがとう」と告げる。この2人の関係は、優れた「English Vinglish」の中でも白眉と言っていいだろう。

 また、英語が苦手な主婦が英語を何とかマスターするという内容であるにも関わらず、英語を盲目的に支持していたという訳でもなかった。この辺りのさじ加減も良かった。基本的にヒンディー語映画でありながら「英語さえしゃべれれば尊敬が得られる」「みんな英語を学ぼう」という単純なメッセージを広める作品では決してなく、あくまで自尊心を持って生きることの大切さを主張していた。映画の最後、インドへ帰る飛行機の中でシャシは客室乗務員にヒンディー語の新聞はないか英語で聞く。ここでこれみよがしに英語の新聞を読み始めていたら、少し興醒めだった。英語をマスターし、自分に自信が持てた。ならばまた元の自分に戻ればいい。何も無理して英字新聞を読む必要はないのだ。

 シャシがラッドゥーをはじめとした料理の名人との設定なだけあって、映画中では料理をするシーンや食事が出て来るシーンが多く、見ていてとても腹が減った。そういえば「Cheeni Kum」もインド料理レストランのオーナーが主人公の映画で、インド料理が随所に出て来た。これもRバールキーの影響であろうか?

 シュリーデーヴィーの15年振りのカムバック作品とのことで、彼女の演技にも注目が集まった。僕ははっきり言って彼女のキャスティングは多少無理があったと感じた。英語のできない中産階級の主婦にとてもじゃないが見えないのである。絶対に英語ができる顔をしている。そういう外見上のギャップはあったものの、演技は見事にそれをカバーするものであった。また、このくらいの美貌がなければ、フランス人との淡い恋愛も成り立たないだろう。80年代に君臨したトップ女優のカムバックはひとまず大成功ということで、今後どんな暴れ方をしてくれるのか、楽しみである。

 シャシの姪ラーダーを演じたプリヤー・アーナンドも非常にいい雰囲気だった。出身が南インドということもあり、2009年から南インド映画界で活躍しているようで、本作がヒンディー語映画デビュー作となる。夫サティーシュを演じたアーディル・フサイン、姉マヌーを演じたスジャーター・クマールなども良かった。また、序盤のアミターブ・バッチャンの特別出演はインパクトがある。

 音楽はアミト・トリヴェーディー。彼の持ち味であるぶっ飛んだ曲作りは今回控え気味で、映画の雰囲気に合った上品な曲ばかりであった。タイトルソングの「English Vinglish」がグッド。

 言語はヒンディー語と英語が半々くらい。苦手な英語の克服をテーマにした映画なので、このくらいの英語の台詞があっても変ではない。フランス語も少しだけ使われる。また、シャシがヒンディー語を理解しないローレンにヒンディー語で話し、それに対してローレンがフランス語を理解しないシャシにフランス語で話すというユニークなコミュニケーション場面もいくつか見られた。それでも心は通じ合うものだ。

 ちなみに、映画中シャシがニューヨークのカフェで英語が分からないためにコーヒーも注文できず辱めを受けるシーンがあるが、これは海外でよくある経験なのではないだろうか?僕もロサンゼルスに行ったとき、ファストフード店で、フライドポテトを向こうではフレンチフライと言うのを知らず、一生懸命「フライドポテト!」「フライドパテーィトー!」と連呼しても店員に分かってもらえずに大恥をかいた経験がある。

 「English Vinglish」は、「Cheeni Kum」などのRバールキーがプロデューサーとして名を連ねている他、監督は他でもない彼の妻ガウリー・シンデーである。よって、大人向けの上品な作品に仕上がっている。15年振りに銀幕に舞い戻ったシュリーデーヴィーの名演も当然この映画の成功に多大な貢献をしている。今年必見の映画の一本である。

10月14日(日) OMG Oh My God!

 2本目に見たのは、9月28日公開のコメディー映画「OMG Oh My God!」である。やはり大ヒットとなっている。内容は神様に対して訴訟するという奇想天外なもので、ヒンディー語映画界でコメディアンとしてもっとも脂の乗っているパレーシュ・ラーワルが制作・主演。プロデューサー陣にはアクシャイ・クマールも名を連ね、クリシュナ役で出演もしている。ウメーシュ・シュクラー監督自身のグジャラーティー語劇「Kanji Virudh Kanji」を原作としているが、オーストラリア映画「The Man Who Sue God」(2001年)とプロットの類似も指摘されている。



題名:OMG Oh My God!
読み:OMGオー・マイ・ゴッド!
意味:ああ神様!
邦題:オー・マイ・ゴッド!

監督:ウメーシュ・シュクラー
制作:アシュヴィニー・ヤールディー、アクシャイ・クマール、パレーシュ・ラーワル
原作:ウメーシュ・シュクラー「Kanji Virudh Kanji」(グジャラーティー語劇)
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー、サチン・ジガル、ミート・ブラザーズ・アンジャーン
歌詞:シャッビール・アハマド、サミール、スブラート・スィナー、クマール、スワーナンド・キルキレー
出演:パレーシュ・ラーワル、アクシャイ・クマール、ミトゥン・チャクラボルティー、オーム・プリー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ゴーヴィンド・ナームデーヴ、プーナム・ジャヴェール、ムルリー・シャルマー、ルビナー・サリーム、ニキル・ラトナパルキーニディ・スバーイヤー、ティスカ・チョープラー、プラブ・デーヴァ(特別出演)、ソーナークシー・スィナー(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞、満席。


パレーシュ・ラーワル

あらすじ
 グジャラート商人家系のカーンジー・ラールジー・メヘター(パレーシュ・ラーワル)はムンバイーで神像などを売る店を経営していたが、自身は神様も天罰も信じない無神論者であった。安物の神像を高値で売り払ってボロ儲けをしていた。

 クリシュナ生誕祭の日、ムンバイー各地では盛大にダヒー・ハンディー(空中高くに吊り下げられた壺を組体操のように人間の塔を作って割る儀式)が行われていた。カーンジーは自分の息子チントゥーがこの危険な儀式に参加していることをテレビで知り、現場に駆けつけて止めさせる。祭りを邪魔されたことで、その場に居合わせたヒンドゥー教の高僧スィッデーシュワル・マハーラージ(ゴーヴィンド・ナームデーヴ)は激怒し、カーンジーに天罰が下るぞと忠告する。だがカーンジーは全く動じない。まるで神様が怒りを表現したかのように地震も起こるが、それでもカーンジーは神様の存在を信じなかった。そればかりかカーンジーのホラによって、インド中でクリシュナ像がバターを食べるとの噂が広がり、大混乱が生じた。

 カーンジーはその騒動を面白がってテレビで見ていたが、先程の地震で自分の店だけが大被害を受けたことを知る。カーンジーの家族や世間は天罰が下ったと考えるが、カーンジーは保険に入っていたためにどこ吹く風であった。早速必要書類を持って保険会社を訪れる。

 しかし、契約書の条項の中に、「神様の行為(Act of God)」での被害については保険会社は責任を一切負わないとの記述があり、それを盾に保険会社からは保険金の支払いを拒否された。もはやカーンジーは笑っていられなくなった。店を開くときにカーンジーは自宅を抵当にして借金をしていた。このままでは家を追い出されてしまう。店の跡地も、神像が壊れて埋もれた土地として不吉だとされ、買い手が付かなかった。

 窮地に陥ったカーンジーは神様を訴えることを決意する。だが、裁判所へ行っても神様を訴えるということで弁護士は皆逃げてしまった。そこでカーンジーは弁護士ハニーフ・クレーシー(オーム・プリー)を訪ねる。ハニーフはイスラーム教徒でありながらムンバイー暴動の際に被害を受けたヒンドゥー教徒の側に立って弁護をした正義派弁護士であった。だが、そのときにイスラーム教徒コミュニティーからリンチを受け、下半身不随となっていた。ハニーフは法的文書作成などの面でカーンジーを支援することを約束するが、裁判は自分で争うように言う。カーンジーは自ら弁護士を務めることを決意する。

 カーンジーは、神様の代理人として、インド各地の宗教指導者たちに訴状を送り付けた。その中には前述の高僧スィッデーシュワル・マハーラージに加え、大聖者リーラーダル(ミトゥン・チャクラボルティー)や女性聖者ゴーピー・マイヤー(プーナム・ジャヴェール)なども含まれていた。彼らは弁護士(マヘーシュ・マーンジュレーカル)を雇い、裁判を争うことを決める。しかしどうせ裁判所はこの訴えを退けると踏んでいた。ところが裁判長はこの訴えを受け容れてしまう。こうして神様を相手取った裁判が開始され、世間の注目を集めることとなった。

 スィッデーシュワルと吊るんで次の選挙を有利に戦おうと思っていた政治家ラクシュマン・ミシュラー(ムルリー・シャルマー)は、悪漢たちにカーンジーを殺させようとするが、それを救ったのがクリシュナ・ヴァースデーヴ・ヤーダヴ(アクシャイ・クマール)、つまりクリシュナ神であった。しかしカーンジーは無神論者なのでクリシュナが神様自身であることを信じない。クリシュナはカーンジーの家を買い取っており、家の新しい主であった。だが、クリシュナはカーンジーにそのまま住み続けることを許した。カーンジーはそれを感謝し、家に住み続ける。同時にクリシュナはカーンジーに様々なアドバイスをする。

 最初、人々は神様を訴えたカーンジーのことを狂人だと考えていた。カーンジーの妻(ルビナー・サリーム)も、信心深い性格だったので、夫の行動に腹を立てて子供を連れて実家に帰ってしまっていた。しかし、カーンジーはクリシュナの勧めに従ってテレビ番組に積極的に出演し、神様を使って金儲けをする宗教指導者たちの行動に疑問を呈す。次第にカーンジーに味方する人々が増えて来た。

 また、カーンジーの他にも神様に不満を抱く人々がたくさんいた。ハニーフの元にはそんな人々の列が出来ていた。カーンジーは彼らの訴えも一緒に行うことを決める。こうして、神様を相手取った訴訟は大規模なものとなった。

 裁判の争点は、カーンジーの家を破壊した地震を神様が起こした証拠があるかないかという点になった。地震を神様が起こしたという文面の証拠がなければ、訴えは認められない。裁判長は1ヶ月の猶予をカーンジーに与えた。カーンジーは困ってしまった。どうやってその証拠を提示すればいいのか。

 クリシュナはカーンジーに、バガヴァドギーター、聖書、クルアーンの3冊を渡し、読破するように言う。カーンジーはそれらの聖典を熟読する。確かにそこには神様が天災を起こすと書かれた箇所があった。カーンジーはそれらを証拠として裁判所に提出した。ところが熱弁を振るっている内にカーンジーは脳卒中を起こして倒れてしまう。

 カーンジーは1ヶ月間意識不明の重体であった。左半身も麻痺してしまった。人々は天罰だと噂していた。病床に伏すカーンジーの元にクリシュナが現れる。クリシュナはカーンジーの意識を戻し、麻痺も治療する。そして神様の姿をしてカーンジーの目の前に現れる。カーンジーは初めて神様の存在を実感する。

 ところが、この1ヶ月間に事態はとんでもない方向に向かっていた。スィッデーシュワル・マハーラージらはカーンジーの損失を補填することを決定していたが、それは負けを認めたからではなかった。彼らはカーンジーを神の化身として売り出すことを決めたのだった。医者と結託してカーンジーの生命維持装置を外して殺すことも決定済みだった。カーンジーの相棒であるマハーデーヴ(ニキル・ラトナパルキー)をも抱き込んでいた。しかもカーンジーの店があった場所にカーンジーの寺院が建設されていた。

 意識を取り戻したカーンジーはクリシュナの運転するバイクに乗ってカーンジー寺院へ行き、自分の像を破壊する。そして集まった人々に神様を盲信する危険性を説く。そしてそこに居合わせたスィッデーシュワル、リーラーダル、ゴーピー・マイヤーのような宗教指導者にお布施をしないように忠告する。

 クリシュナはいつの間にかその場から消えていた。地面にはクリシュナがいつも手に持っていた孔雀の羽根のキーホルダーが落ちていた。それを見つけたカーンジーは拾い上げて大事にしまおうとするが、どこからかクリシュナの声が聞こえて来た。「何をしている?そんなものは捨てなさい。」カーンジーはそのキーホルダーを投げ捨てる。

 ストーリーのそもそもの出発点は、保険会社が使う「Act of God」という専門用語である。日本語だと「自然災害」「天災」になるようだが、インドをはじめとした国々の保険契約には大体この用語がそのまま出て来て、「Act of God」による被害については保険会社は免責となる旨が記載されている。つまり、神様はいるものだという前提で契約が取り交わされていることになる。

 そしてストーリーの面白い部分は、「Act of God」条項を盾に、地震で壊滅した店の保険金の支払いを拒否された無神論者の主人公カーンジーが、神様を相手取って訴訟する点である。つまり、神様なんているはずないと考えているカーンジーが神様を訴えるという前代未聞の裁判を起こすのだ。一方、神様の代理人として訴状を受け取った宗教指導者たちは、普段は神様がこの世を創造し全てを決めて罰も与えると吹聴しているのに、「神様が地震を起こした証拠はあるのか?」と反論する点も、その表裏一体の面白さとなっている。

 しかし、この部分はそれほど強調されることなく、映画は次のテーマに移って行く。それはインドの中産階級をメインターゲットとした宗教ビジネスだ。神様やカリスマ的宗教指導者の名の下に信者から金を巻き上げ、所得税も免除されたインドの宗教ビジネス界は、2007年のデータで200億ルピー市場とされており、マネーロンダリングの温床にもなっている。サティヤ・サーイーバーバーやバーバー・ラームデーヴをはじめ、インドには有象無象の「グル」や「バーバー」がひしめいている。彼らは寺院に集まった無数の飢えた乞食を境内に入れようとしない一方、信者たちにミルクを乞食ではなく石(シヴァリンガ)にかけるように指示する。マフィアが銃を見せて無力な人々から金を巻き上げるように、グルやバーバーは神の名の下に困窮した信心深い人々を脅して金を巻き上げる。信者たちが神様に捧げた髪の毛(インドでは願い事をする際に髪の毛を捧げる習慣がある)は米国に売られてカツラとなっている。映画の中でこのような実態が次々と暴かれる。

 最終的にカーンジーは、宗教は人々を無力にするか、それともテロリストにするかしかしないと喝破する。

 宗教が常に深刻な問題を引き起こすインドにおいて、宗教の在り方に疑問を呈したこの「OMG Oh My God!」は非常に勇気ある作品だと言える。ただし、カーンジーは無神論者であるが、映画自体が無神論を支持する訳ではなく、アクシャイ・クマール演じるモダンなクリシュナの登場に象徴されるように、むしろ「神はいる」ことを前提にストーリーが作られている。その点で今までのインドの神様映画から完全に外れてはいない。インドの神学的な分類で言えば、サグン(偶像崇拝)ではなくニルグン(非偶像崇拝)を支持する映画だった。寺院に参拝したり神像に祈ったり儀式主義に陥ったりするのではなく、心に神様への信仰を持っていればいい、というものだ。

 秀逸なのは、カーンジーが意識不明となった後だ。宗教や神を否定し続けたカーンジーが今度は神に祭り上げられてしまうのである。宗教がいかに形成されて行くか、その部分にまで批判のメスが入れられていた。

 コメディー映画としてもよく出来ていた。娯楽映画のフォーマットの中で、重要な社会的メッセージを主張することに成功しており、インド映画の鑑と高く評価できる。

 パレーシュ・ラーワルは脇役もそつなくこなすし主演しても十分観客を引き付ける力を持った稀な男優だ。おそらく近年彼ほど成功したコメディアン俳優はヒンディー語映画界にはいないだろう。素晴らしい演技と存在感だった。

 アクシャイ・クマールは今回はクリシュナ役という変則的なキャスティングだった。しかも典型的な神様ルックではなく、バイクを乗り回すモダンなクリシュナ像を提示していた。プレイボーイとして浮き名を流したアクシャイ・クマールはクリシュナに適任だ。しかし映画の終盤に一瞬だけ神様ルックを披露するシーンがあるが、それは似合っていなかった。

 オーム・プリー、ミトゥン・チャクラボルティー、マヘーシュ・マーンジュレーカルなど、意外に脇役陣も豪華で、それぞれ適切な仕事をしていた。特にミトゥン演じるリーラーダルは怪しげな手つきが面白すぎた。おそらくサティヤ・サーイーバーバーがモデルになっている。他に「インドのマイケル・ジャクソン」として知られるプラブ・デーヴァがソーナークシー・スィナーとアイテムナンバー「Go Go Govinda」で踊りを踊る。ティスカ・チョープラーのカメオ出演もある。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。アイテムナンバー「Go Go Govinda」が飛び抜けているが、他に耳に残った曲はなかった。

 「OMG Oh My God!」は、インドの宗教ビジネスを批判的に取り上げた秀逸なコメディー映画である。結局「神様はいる」ことになっているのがインド映画らしいところだが、コメディー映画のフォーマットの中で社会的メッセージをきちんと主張しており、高く評価できる。見て損はない映画だ。

10月15日(月) Aiyya

 今日は3週間のツーリングで調子が悪くなったバイクをサービス(メンテナンス)に出した。快調になったところで映画を鑑賞。10月12日より公開の最新ヒンディー語映画「Aiyya」である。主演はラーニー・ムカルジー。「No One Killed Jessica」(2011年)以来の出演で、だいぶ間が開いてしまった。監督はサチン・クンダルカルという聞き慣れない名前だが、マラーティー語映画や演劇を主なフィールドとする人物のようで、本作が初のヒンディー語映画となる。マラーティー語映画俳優が多く出演しているが、目立つのはマラヤーラム語映画やタミル語映画で活躍するプリトヴィーラージ。ラーニー・ムカルジーがベンガル人であることを考え合わせると、かなり汎インド的な配役となっていて興味深い。また、ヒンディー語映画界を牽引役となっているアヌラーグ・カシヤプがプロデューサーを務めていることにも注目だ。



題名:Aiyyaa
読み:アイヤー
意味:アイヤー(感嘆詞)
邦題:アイヤー

監督:サチン・クンダルカル
制作:アヌラーグ・カシヤプ、グニート・モーンガー
音楽:アミト・トリヴェーディー
歌詞:アミターブ・バッターチャーリヤ
出演:ラーニー・ムカルジー、プリトヴィーラージ、スボード・バーヴェー、サティーシュ・アーレーカル、キショーリー・バッラル、ニルミティー・サーワント、アメーヤー・ワーグ、アニター・ダーテー、ジョーティ・スバーシュ、パカーダー・パーンディー、シュバーンギー・ダームレー、チャンドラカーント・カーレー
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


一番下はラーニー・ムカルジー、その左はプリトヴィーラージ

あらすじ
 マラーティー・ガールのミーナークシー(ラーニー・ムカルジー)は、夢の中でシュリーデーヴィー、ジューヒー・チャーウラー、マードゥリー・ディークシトなど、ヒンディー語映画の大女優たちに成り切って踊っているような夢見がちの女の子であった。ところでミーナークシーの家族は変人ばかりであった。父親デーシュパーンデー(サティーシュ・アーレーカル)は一度に何本もの煙草を吸うヘビースモーカー。祖母(ジョーティ・スバーシュ)は盲目かつ車椅子生活だがなぜか家族で一番元気。弟のナーナー(アメーヤー・ワーグ)は犬マニアで将来クッター・ガル(犬の家)を建てるのが夢。母親デーシュパーンデー夫人(ニルミティー・サーワント)もどこか抜けている。デーシュパーンデー一家の当面の懸念はミーナークシーの結婚であった。新聞に花婿募集広告を出し、本格的にお見合いを開始した。

 一方、結婚する気のないミーナークシーは大学の図書館で司書として仕事を始める。そこで同僚となったのが、これまた変人のマイナー(アニター・ダーテー)。毎日おかしなファッションをして大学に勤務している女性であった。

 ミーナークシーは大学でスーリヤ(プリトヴィーラージ)というタミル人男子学生を見て一目惚れしてしまう。特に彼の身体から発せられる匂いに異常な反応を示すミーナークシーであった。しかしスーリヤの身辺には良くない噂が立っていた。アルコール中毒で、借金してまで酒を飲み続け父親をショック死させてしまったこと、ドラッグにも手を出していること、などなどである。それでもミーナークシーはスーリヤに惹かれる。

 ミーナークシーは次第に異常な行動に出始める。スーリヤと話すためにタミル語を勉強し始める。スーリヤの匂いの秘密はドラッグにあるのではないかと考えたミーナークシーは、密売人からドラッグを買おうとする。スーリヤの家にサーリーの行商人に扮して押しかけ、スーリヤのTシャツや写真を盗む。とにかく毎日スーリヤだらけの生活だった。しかし実生活ではスーリヤとほとんど会話を交わすことができなかった。

 ところで、ミーナークシーの縁談はマーダヴ(スボード・バーヴェー)という純朴そうな好青年と決まる。婚約式の日取りもとんとん拍子で決まってしまう。ミーナークシーは焦り始める。だが、どうしようもないまま日にちだけが過ぎて行く。

 婚約式の日。ミーナークシーは家を飛び出て大学へ行く。ちょうど図書館にはスーリヤが来ていた。スーリヤがハンカチを落としたのを見てミーナークシーは彼の後を付いて行く。だが、スーリヤに話し掛けられないまま、スーリヤの住むアパートまで来てしまった。ミーナークシーはアパートの下でスーリヤを待ち続ける。

 一方、デーシュパーンデー家では婚約式の準備が整ったが、ミーナークシーの姿が見当たらなかった。マーダヴの一家も来てしまう。ナーナーは、ミーナークシーの同僚マイナーが何かを知っているのではないかと考え、マイナーの家へ行く。そこでナーナーとマイナーは電撃的な出会いをし、2人は結婚を決める。そしてミーナークシーを待ちわびている家族親戚一同のところへ行き、結婚を宣言する。他にやることがないので、彼らはナーナーとその謎の花嫁の婚約式を執り行う。

 夕方、スーリヤは家を出てどこかへ向かい始める。ミーナークシーは彼の後を付ける。彼が入って行った場所は色粉の工場だった。スーリヤの身体から発せられる匂いもこれだった。しかし、スーリヤに見つかったところでミーナークシーは気を失ってしまう。目を覚ましたミーナークシーは、スーリヤが酒やドラッグをしていないこと、父親が死んでから、父親が経営していたこの工場で夜働いていることなどを明かされる。そしてスーリヤに家まで送ってもらう。

 実はスーリヤもミーナークシーが自分の後を付け回していたことを知っていた。そしてミーナークシーが自分に好意を抱いていることにも気付いていた。スーリヤはミーナークシーにプロポーズをする。2人は共に家の中に入り、婚約式を待ちわびていた家族の前に姿を現わす。マーダヴも全てを理解し、スーリヤにミーナークシーを譲って立ち去る。ミーナークシーは、ナーナーとマイナーが婚約したことに驚くが、両親にスーリヤと結婚したいと告げる。既に思考能力を失っていた両親は2人の結婚を認める。

 僕が本格的にヒンディー語映画を見始めた2001年以来、ヒンディー語映画のジャンルは徐々に多様化して行き、ホラー映画、スポーツ映画、SF映画、キッズ映画、アニメ映画、スーパーヒーロー映画など、各種ジャンルが確立して来た。その中のひとつが女性向け映画だと言える。インド映画は基本的に老若男女全ての年齢層性別社会階層をターゲットとした映画作りが行われるが、どちらかと言うと男性の視点に立った映画が大多数を占めている。だが、女性監督や女性脚本家の増加に伴って、またはそれとは全く関係なく、女性視点の映画または女性をメインターゲットとした映画がちらほら出始めている。「Fashion」(2008年)や「Aisha」(2010年)などはそのテーマや演出から女性向け映画と言えるし、女性キャラが立った映画も「Jab We Met」(2007年)、「No One Killed Jessica」、「Tanu Weds Manu」(2011年)、「The Dirty Picture」(2011年)、「Kahaani」(2012年)などかなり増えて来た。この「Aiyya」も女性向け映画にカテゴライズして支障ないだろう。

 「Aiyya」を見て、まるで少女漫画を読んでいるような、完全に女性視点の恋愛物語だと強く感じたが、驚いたことに監督も脚本もサチン・クンダルカルで、男性が書き男性が撮った映画であった。特に好きな男性の匂いに執着する部分、夢想・妄想の内容、好きな人と話すためタミル語を勉強し始めるところなどは、女性の発想力だと思ったが、サチン・クンダルカル監督の構想の一部であった。

 大まかなプロットには特に目新しいものはない。娘の結婚を急ぐ家族と、恋愛結婚を夢見る少女。お見合い結婚の相手が決まるが、一目惚れした男性に片想いし続ける。婚約式の土壇場で好きな男性との結婚を貫く。全くもって王道のインド恋愛映画だ。しかしその味付けがヘンテコだった。まずキャラクター。ぶっ飛んだキャラばかりで、ほとんど正常な登場人物がいない。特に主人公ミーナークシーの同僚マイナーは今までのヒンディー語映画であまりない強烈なキャラだ。ジョン・アブラハムに傾倒し、自宅もジョン・アブラハムだらけ。職場にアバンギャルドなファッションで現れ、ウォッカを飲みながら仕事をする。挙げ句の果てにミーナークシーの婚約式の日にミーナークシーの弟ナーナーと強引に婚約してしまう。ミーナークシーの祖母も、車椅子で走り回りながら訳の分からないことを叫ぶ変なキャラだし、犬マニアのナーナーも十分変である。この辺りはカトリーナ・カイフのデビュー作にして世紀の失敗作「Boom」(2003年)と似たものがある。

 ミーナークシーが片想いをする相手がタミル人というのも珍しい設定だ。タミル人俳優がヒーローを務めることはそんなに珍しくないのだが、タミル人の男性に恋する北インド人女性の物語は他にあまり思い付かない。しかもその恋心は彼女にタミル語まで学ばせてしまう。

 さらに、ミーナークシーの夢や妄想を通して、過去のインド映画音楽のパロディーで物語を彩っている。単に懐メロを散りばめているだけでなく、それぞれのパロディーに主人公の心境の変化を込めている。最初は「Mr. India」(1987年)、「Qayamat Se Qayamat Tak」(1988年)、「Chaalbaaz」(1989年)などギンギラな80年代ヒット作のパロディーから入り、方向性のない夢を象徴する。次にタミル人青年スーリヤとの出会いがあり、彼女の妄想には南インド色が加わる。なんちゃってタミル語歌詞の曲「Dreamum Wakeuppam」と共に、ミーナークシーはシルク・スミターに成り切ってスーリヤと共に妖艶な踊りを踊る。また、お見合い結婚相手となったマーダヴの趣味も入り、今度は「Saath Saath」(1982年)の中のジャグジート・スィンが歌う名曲「Tum Ko Dekha Toh Yeh Khayal Aaya」が流れる。このように、ミーナークシーの心境の変化は映画音楽と共に表現されて行く。

 本筋はシンプルで、味付けがヘンテコ。それに加えて最後のまとめ方は多少乱暴だった。スーリヤが突然ミーナークシーにプロポーズするところは、もう少し伏線が欲しかったものだ。これらの要素から、本当ならばもっとしょうもない映画になっていたはずだが、絶妙なバランスの中で何とか見られる映画に収まっている。これはマラーティー語コメディー映画の特徴なのか、それとも監督の手腕なのか、判断しかねるが、「Aiyyaa」に限って言えば、こういう映画もたまにはいいかと思わせるものがある。

 久々の主演となったラーニー・ムカルジーは、絶頂期だった頃に「Bunty Aur Babli」(2005年)などで見せたはつらつとした演技を再度披露。まだまだヒロイン女優として現役であることを見せ付けた。下手すると馬鹿に見えるような演技も、可愛く演じ切ったと言える。

 女性中心の映画で、プリトヴィー演じるスーリヤは、あまり台詞もないし、無言の迫力で魅せるシーンが大半であった。最後に急に柔和な笑顔を見せていたが、それを見ると無言の場面の方が貫禄があって良かったと感じた。まだヒンディー語映画界での潜在能力は未知数だ。

 脇役の中でもっとも気になるのが、マイナーを演じたアニター・ダーテーであろう。「Zor Lagaa Ke... Haiya!」(2009年)という映画に出演していたようだが、未見なので今回初めて見た。レディー・ガガのインド版「ガガ・バーイー」を勢いで演じ切った感じだ。彼女についてはあまり情報がないのだが、ヒンディー語映画の中で女性のプレゼンスが高まっているので、このような女性体当たりコメディアン的なキャラにも今後スポットライトが当たって行くのではないだろうか。

 音楽はアミト・トリヴェーディー。ヴァイバヴィー・マーチャントによる振り付けと共に、非常に派手な歌と踊りが散りばめられた映画だった。アミト・トリヴェーディー色がもっとも強いのは「What To Do」だ。聞いただけで彼の曲だと分かる。その他にも「Dreamum Wakeupum」や「Aga Bai」など、変わった曲が多い。音楽はこの映画の長所のひとつである。

 「Aiyyaa」は、完全に女性視点の王道ロマンス映画だが、それだけでは語り切れないユニークな味付けがなされたヘンテコ映画だ。本筋とはあまり関係ない部分に力を入れ過ぎな嫌いもあるが、片想いする女性の心境を妄想の映像化と共にゆっくり丁寧に描いており、一応楽しめる作品となっている。ラーニー・ムカルジーの久々のはつらつとした演技にも注目だ。

10月17日(水) Chittagong

 インド独立運動は今まで頻繁にヒンディー語映画のテーマや舞台背景となっており、その中でもマハートマー・ガーンディーやバガト・スィンの人生、思想、活動はよく取り上げられる。しかし、1930年4月18日のチッタゴン反乱はインド史の中で決してメジャーな事件ではない。そもそも現在チッタゴンはバングラデシュ領である。そのチッタゴン反乱をテーマに、稀なことにヒンディー語映画界では2本目の映画が作られた。1本目はアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の「Khelein Hum Jee Jaan Sey」(2010年)で、アビシェーク・バッチャンとディーピカー・パードゥコーンが主演した。そして2本目が10月12日公開の「Chittagong」である。マノージ・パージペーイーやナワーズッディーン・スィッディーキーなど、演技に定評のある俳優たちが主演を務めている。既に「Khelein Hum Jee Jaan Sey」が題材にした事件をどのように料理し直して観客に提示できるのか、その点に特に注目したい。



題名:Chittagong
読み:チッタゴン
意味:チッタゴン(地名)
邦題:チッタゴン

監督:ベーダブラタ・パーイーン
制作:スニール・ボーラー、アヌラーグ・カシヤプ、ショーナーリー・ボース、ベーダブラタ・パーイーン
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:プラスーン・ジョーシー
衣装:ニールナジャナ・ゴーシュ
出演:マノージ・パージペーイー、ナワーズッディーン・スィッディーキー、ラージ・クマール、ヴェーガー・タモーティヤー、ジャイディープ・アフラーワト、バリー・ジョン、ディビエーンドゥ・バッターチャーリヤ、ヴィシャール・ヴィジャイ、ディルザード・ヒワーレー(新人)、ヴィジャイ・ヴァルマー(新人)、サウラーセーニー・マイトラー(新人)、チャイティー・ゴーシュ(新人)、アヌラーグ・アローラー、アレックス・オニール、ターナージー・ダースグプター、サーヒブ・バッターチャーリヤ
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


ディルザード・ヒワーレー

あらすじ
 英領時代の1930年チッタゴン。教師スーリヤ・セーン、通称マスター・ダー(マノージ・バージペーイー)は密かに仲間たち――ニルマル・セーン(ナワーズッディーン・スィッディーキー)、ロークナート・バル(ラージ・クマール)、アナント・スィン(ジャイディープ・アフラーワト)、アンビカー・チャクラバルティー(ディビエーンドゥ・バッターチャーリヤ)――と革命を計画していた。しかし彼らは警察から監視されており、下手に動けなかった。

 一方、弁護士の息子スボード・ロイ、愛称ジュンクー(ディルザード・ヒワーレー)は県長官ウィルキンソン(バリー・ジョン)の家庭に通い、その妻からピアノを習っていた。父親はジュンクーを英国に留学させることを夢見ていた。だが、反英気運が高まるチッタゴンにおいて、県長官に可愛がられるジュンクーは浮いた存在になっていた。特に乱暴者のジョンソン(アレックス・オニール)が地元の青年を殺害した事件の原因はジュンクーの裏切りだと噂された。ジュンクーにはアパルナー(サウラーセーニー・マイトラー)という幼馴染みの少女がいたが、彼女もジュンクーを避けるようになった。今まで親英的立場にいたジュンクーはこの事件をきっかけに一気に反英となり、マスター・ダーの革命に志願する。

 マスター・ダーは、当局から疑われることの少ない子供たちを使って革命を起こそうと計画していた。表向きサッカー・チームの練習に見せ掛け、マスター・ダーはチッタゴンの子供たちに軍事訓練を施す。

 1930年4月18日、マスター・ダー率いる「インド共和国軍」はチッタゴンの英国拠点を同時に襲撃する。だが、武器庫でマシンガンが入手できなかったこと、英国人軍人や統治者が集っているはずのヨーロピアン・クラブが留守だったことなどから、革命は失敗に終わる。インド共和国軍は山に逃亡する。

 英国軍の反撃が始まった。インド共和国軍の人々は何とか英国軍の第一波を撃退するが、何人かの子供たちが死んでしまった。マスター・ダーは逃亡し、潜伏する。同時に、子供たちを家に帰す。ジュンクーも家に帰るが、インド人警察エヘサーヌッラー(アヌラーグ・アローラー)に逮捕されてしまう。

 ジュンクーは拷問を受けるが、マスター・ダーの居所を教えなかった。だが、次々にインド共和国軍のメンバーが逮捕、殺害されるニュースが入って来る。マスター・ダーと行動を共にしていたニルマル・セーンも殺害されてしまう。その恋人のプリーティラター・ワーデーダル(ヴェーガー・タモーティヤー)はインド共和国軍の女性指揮官となり、ヨーロピアン・クラブ襲撃を指揮する。そして女性とは初の殉死者となる。このときエヘサーヌッラーとジョンソンも暗殺される。

 最後にはとうとうマスター・ダーも逮捕されてしまい、絞首刑となる。一方、ジュンクーはアンダマン諸島の牢獄に入れられる。アンダマン諸島に投獄された中でジュンクーは最年少であった。

 数年後、ジュンクー(ヴィジャイ・ヴァルマー)はチッタゴンに戻って来る。アパルナー(チャイティー・ゴーシュ)とも再会する。チッタゴンでは相変わらず英国人の横暴が続いていた。例えば農民たちの作物が強奪されていた。ジュンクーは、近隣の村々を組織し、作物を奪い返すためにトンネルを掘って英国の倉庫を襲う。ベンガル地方ではその他にも農民の反乱が続いた。

 「Khelein Hum Jee Jaan Sey」はチッタゴン反乱を指揮したスーリヤ・セーンが主人公の映画であったが、この「Chittagong」では反乱に参加した子供の1人ジュンクーを中心にストーリーが展開する。その点で大きな違いがあった。また、スター俳優2人を主演に据えた前者はヒンディー語娯楽映画の文法により忠実に則っていたが、「Chittagong」はダンスシーンなどなく、非常に真面目な作りだった。

 監督の経歴は変わっている。15年間NASAに務めていたエンジニアで、デジカメや携帯電話に使われるCMOSセンサーの開発に携わった。だが、映画監督になる夢を捨て切れず、NASAを辞め、この「Chittagong」で映画監督デビューした。ただ、映画界とのつながりはこれが初めてではない。以前、「Amu」(2005年)という傑作ヒングリッシュ映画があったが、その制作にも関わっていたようである。この映画は1984年の反スィク教徒暴動をテーマにしている。インドの過去の事件に興味のある監督のようである。

 実はこの映画は2010年には完成していたようで、「Khelein Hum Jee Jaan Sey」より前に公開することもできた。だが、政治的な駆け引きがあったようで、バッティングは避けられ、2年後のこの時期の公開となったと言う。「Chittagong」の主人公スボード・ロイは2005年まで存命で、彼の死の直前に行われたインタビュー映像も映画の最後に出て来る。決して「Khelein Hum Jee Jaan Sey」の二番煎じではないことが主張されていた。

 映画は史実を坦々と映像化して行くような忠実な作りで、細かい部分が解説されたり解釈されたり脚色されたりされている訳ではない。よって物語としての評価もしにくい。「Khelein Hum Jee Jaan Sey」を見ていたからストーリーを追えたところもある。ただでさえマイナーな事件であり、それがなければ多くの観客にはチンプンカンプンだったのではなかろうか。マスター・ダーを初めとして登場人物のスケッチもほとんど皆無だ。俳優たちに丸投げされている感じであった。そういう意味では不親切な映画だった。

 だが、逆に言えば俳優たちにとっては非常にやりがいのある映画だったのではないかと思う。何しろ自分で自分の役に深みを与えられるのだ。そしてやはり名優による役柄にはそれなりの深みがあった。俳優陣を見ると錚々たる顔ぶれである。マノージ・パージペーイー、ナワーズッディーン・スィッディーキー、ジャイディープ・アフラーワトなど、「Gangs of Wasseypur」(2012年)のメンバーが揃っている。アヌラーグ・カシヤプがプロデューサー陣に名を連ねているのもそれと無関係ではないだろう。

 英国人側の配役は、よく見ると過去にヒンディー語映画出演歴のある人ばかりだ。ウィルキンソンを演じたバリー・ジョンは「Shatranj Ke Khiladi」(1977年)や「Tere Bin Laden」(2010年)に出演している。この映画では一番の憎まれ役であるジョンソンを演じたアレックス・オニールは「Cheeni Kum」(2007年)や「Joker」(2012年)に出演済みだ。

 ジュンクーを演じた男優2人とアパルナーを演じた女優2人は皆新人だ。少年時代のジュンクーがディルザード・ヒワーレー、青年時代のジュンクーがヴィジャイ・ヴァルマー、少女時代のアパルナーがサウラーセーニー・マイトラー、青年時代のアパルナーがチャイティー・ゴーシュである。ジュンクー役の2人はとても好演していた。サウラーセーニー・マイトラーは多少初々しさが抜けていなかった。チャイティー・ゴーシュはミスキャスティングだ。全く少女時代の面影がないおばさんだ。マムター・バナルジー州首相かと思った。声も図太いし、なぜ彼女を起用したのか。

 このような社会派映画としては珍しく、音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイが務めている。シャンカル・マハーデーヴァンが歌うバラード「Bolo Na」など、何度もリフレインされて映画をしっとりと盛り上げていた。また、エンディングのスタッフロールで流れる「Ishan」はベーダブラタ・パーイーン監督自身が歌っている。

 ところで映画中でエヘサーヌッラーが「反乱軍は皆ヒンドゥーだ」と言う台詞があり、それで気付いたのだが、このチッタゴン反乱に荷担したのは名前からするに皆ヒンドゥー教徒である。調べてみると現在チッタゴンの人口の8割はイスラーム教徒のようだ。当時もそんなにこの人口比に変化はなかったことだろう。とすると、チッタゴン反乱に加わったのはマイノリティーのヒンドゥー教徒のみだったということになる。それがどういう意味を持つのだろうか?

 「Chittagong」は、アビシェーク・バッチャンとディーピカー・パードゥコーン主演の「Khelein Hum Jee Jaan Sey」と同様に1930年のチッタゴン反乱を題材とした映画だ。ただ、前者が反乱の指揮者を主人公にしているのに対し、後者は反乱の主な構成員となった子供たちの1人に焦点が当てられている。この2つの映画を合わせて見ると、事件のことがよく分かるだろう。

10月19日(金) Student of the Year

 カラン・ジャウハルと言えば、ヒンディー語映画界のみならずエンターテイメント業界で広く活躍する人物であるが、本業は映画監督である。しかしながら、メディアでの露出度に比べて彼の監督としてのフィルモグラフィーは意外にも寂しい。「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)でデビューした後、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)、「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)、「My Name Is Khan」(2010年)と、片手で数えられるくらいしか監督作がない。プロデュース作品を含めると一応賑やかにはなるが、実績からすると必要以上にもてはやされてしまっているのではないかとの心配もある。

 カラン・ジャウハルの最新監督作「Student of the Year」が今日から公開となった。今までカラン・ジャウハルの監督作にはシャールク・カーンが必ず主演していたのだが、今回は思い切って新人3人を起用。「My Name Is Khan」ではイスラーム教とテロリズムという重いテーマに挑戦した訳だが、今回は「Kuch Kuch Hota Hai」を思わせる学園モノだ。原点回帰と言ったところか。しかし当然のことながらベテラン監督ならではの手腕が期待される。



題名:Student of the Year
読み:スチューデント・オブ・ザ・イヤー
意味:今年の学生
邦題:スチューデント・オブ・ザ・イヤー

監督:カラン・ジャウハル
制作:ヒールー・ヤシュ・ジャウハル
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:アンヴィター・ダット
振付:ファラー・カーン、ヴァイバヴィー・マーチャント、レモ・デスーザ、ボスコ・シーザー
衣装:マニーシュ・マロートラー
出演:スィッダールト・マロートラー(新人)、アーリヤー・バット(新人)、ヴァルン・ダワン(新人)、リシ・カプール、ローヒト・ロイ、ラーム・カプール、マンジョート・スィン、サナー・サイード、マンスィー・ラッチ、サーヒル・アーナンド、カーヨーゼー・イーラーニー、ファリーダー・ジャラール、スシュマー・セート、ガウタミー・カプール、マニーニー・デー・ミシュラー、アクシャイ・アーナンド、プラーチー・シャー、ボーマン・イーラーニー(特別出演)、カージョール(特別出演)、ファラー・カーン(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。


左からスィッダールト・マロートラー、アリーヤー・バット、ヴァルン・ダワン

あらすじ
 デヘラー・ドゥーンの名門校セント・テレサには、寄付金によって入学した裕福な家庭の子供と、勉学によって入学した中産階級以下の子供が半々ほど在学していた。学長はヨーゲーンドラ・ヴァシシュト(リシ・カプール)。同性愛者で変人であるが、過去25年間セント・テレサの顔となっていた。今年が彼の最後の任期となっていた。

 セント・テレサのヒーローはローハン・ナンダー(ヴァルン・ダワン)。インドを代表する実業家アショーク・ナンダー(ラーム・カプール)の息子であった。アショークはヴァシシュト学長の旧友にしてセント・テレサの大口スポンサーの1人でもあった。ローハンは、やはり富豪の娘であるシャナーヤー・スィンガーニヤー(アーリヤー・バット)と付き合っていた。ローハンとシャナーヤーは学園の目立つ存在であり、その回りには彼らのカリスマ性を慕ってサークルが出来ていた。ジート(サーヒル・アーナンド)はローハンの付き人のような存在だった一方、シュルティー(マンスィー・ラッチ)はシャナーヤーの金魚の糞となっていた。また、タニヤー(サナー・サイード)は何かとローハンを狙っており、シャナーヤーとはライバル関係にあった。他に、太っちょのスードー(カーヨーゼー・イーラーニー)や天然ボケのスィク教徒ディンピー(マンジョート・スィン)など、愉快な仲間がいた。

 ある日セント・テレサに1人のハンサムな男子生徒が入学して来る。彼の名前はアビマンニュ・スィン(スィッダールト・マロートラー)。中産階級の出身で、スポーツ推薦での入学であったが、誰もが恐れるローハンと対等に向き合う度胸を持っていた。2人の間には初日から火花が散る。アビマンニュはヴァシシュト学長お気に入りのコーチ(ローヒト・ロイ)が指揮するサッカーチームに入る。そこではローハンがスタープレーヤーとして活躍していた。早速2人はサッカーのフィールドでもライバル意識を向き出しにする。しかし、過去24年間勝てなかったセント・ローレンス校を協力して負かしたことで2人の間には友情が芽生える。ローハンはアビマンニュを父親に紹介する。アビマンニュはアショークを尊敬しており、アショークもアビマンニュの上昇志向を気に入る。

 あるとき、ローハンの兄の結婚式がタイで行われることになり、ローハン、シャナーヤー、アビマンニュ、ジート、シュルティー、タニヤーなどもタイに行くことになる。そこでローハンとシャナーヤーの仲が険悪なものとなるが、アビマンニュはわざとシャナーヤーと近付くことでローハンを嫉妬させ、2人の関係修復を計る。アビマンニュのおかげでローハンとシャナーヤーは仲直りするのだが、アビマンニュは本当にシャナーヤーに惚れてしまう。敏感なシュルティーはそれに気付き、シャナーヤーに伝える。そのときからシャナーヤーもアビマンニュを意識するようになる。

 ところで、セント・テレサでは「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」と言う校内総合競争が毎年行われていた。「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」になるには、IQテスト、宝探し、ダンス、トライアスロンの4つの競技で勝ち残らなければならない。誰もが「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」になることを夢見ていた。当然、ローハンとアビマンニュを初めとして、彼らの友人たちも「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」を狙っていた。

 とりあえずローハン、アビマンニュ、シャナーヤー、ジート、シュルティー、タニヤー、スードーらはIQテストに合格し、宝探しも通過。次はダンス・コンペティションであった。男女がペアにならなくてはならない。だが、この頃にアビマンニュの祖母(ファリーダー・ジャラール)が死去したことをきっかけに、アビマンニュとシャナーヤーは急接近する。そして2人はキスをしているところをローハンに目撃されてしまう。ローハンとアビマンニュは殴り合いの喧嘩をし、絶交となる。また、ローハンは父親とも喧嘩し、勘当される。シャナーヤーとシュルティーも仲違いし、ジートはローハンに牙をむく。かつての仲良しグループはバラバラになってしまった。

 結局ダンス・コンペティションにはローハンとタニヤー、アビマンニュとシュルティー、ジートとシャナーヤーのペアで出場することになった。スードーは相手が見つからず、ディンピーとペアを組む。ダンス・コンペティションではローハン、アビマンニュ、シュルティー、ジートらが勝ち残る。

 最後のトライアスロンとなった。アビマンニュとローハンは対抗意識を剥き出しにして争う。水泳、サイクリングと経て、最後はアビマンニュとローハンの一騎打ちとなる。結果はローハンの勝ちであった。しかし、ローハンは「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」を辞退する。また、スードーは公衆の面前で、「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」のせいで仲良しグループがバラバラになってしまったとヴァシシュト学長を糾弾する。学長にとって最後の「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」杯は後味の悪いものとなってしまった。

 それから10年後。この10年間、ローハン、アビマンニュ、シャナーヤー、ジート、シュルティー、タニヤー、スードーらは一度も顔を合わせていなかった。だが、ヴァシシュト元学長危篤の報を聞き、再び彼らは再会する。ローハンはかねてからの夢だったミュージシャンとして大成していた。また、アビマンニュは銀行員となり、シャナーヤーと結婚していた。しかし10年振りに顔を合わせたローハンとアビマンニュは過去の諍いを蒸し返して取っ組み合いの喧嘩をする。ローハンが怒っていたのは、アビマンニュが最後にわざと負けたことを知っていたからだった。だが、アビマンニュはアショークがローハンの敗北を望んでいたために彼を勝たせたのだった。思いっ切り殴り合ってせいせいした2人は再び仲良しとなる。それを見届けるようにヴァシシュト元学長は息を引き取る。

 信じられない気持ちでいっぱいだ。カラン・ジャウハル監督の作品がここまで平凡な映画になるとは。結局彼には才能がなかったのだろうか?いや、決して「Studento of the Year」は失敗作ではない。娯楽映画としての最低限の要件は満たしている。ロマンスを中心に、笑い、涙、スポーツ、ダンスなどを散りばめ、インド映画の方程式に忠実に作られた娯楽映画となっていた。しかし、それだけだった。他に何もない。何もヒンディー語映画の発展に寄与するような要素がない。何も社会に発信するメッセージがない。娯楽に徹したと開き直っても、娯楽映画としてのレベルも決して最上ではない。これが新人監督の作品ならば一定の評価をしてもいいだろう。だが、10年以上のキャリアのあるカラン・ジャウハル監督の作品なのだ。これでいいのだろうか?僕はどうしても首を縦に振ることができない。

 学園モノ映画ということで、まずはやはり「友情」が重要な要素となる。しかし、「Student of the Year」で描かれる友情は、簡単に壊れてしまうようなものか、または歪んだ種類のものばかりである。スードーは「Student of the Year」のせいで友情が破壊されたとヴァシシュト学長を糾弾するが、その程度で壊れるものを友情を呼ぶことができるだろうか?ローハンとアビマンニュが仲違いすることで、ドミノ崩しのように友情が崩壊したが、非常に不自然だった。一応映画の最後でその友情は修復されるが、10年も掛かるものなのだろうか?残念ながら、見ていて気持ちいい友情はこの映画にはない。

 友情と同じくらい、学園モノ映画には「ロマンス」も欠かせない。この映画ではシャナーヤーを巡るローハンとアビマンニュの三角関係がロマンスの主軸だ。シャナーヤーがローハンを嫉妬させるためにアビマンニュを利用し、アビマンニュがシャナーヤーのことを好きになってしまうところまでは、陳腐な筋書きではあるが、いいとしよう。しかし、シャナーヤーがその後アビマンニュとキスをするシーンは全く分からない。一体どんな心変わりがあったのか?祖母の危篤をきっかけに近付いたのは分かったのだが、その心境が分からない。

 インド映画には「家族」も非常に重要な要素だ。しかし、この映画の中で家族の役割は非常に希薄である。もっとも前面に出ているのがローハンの父親アショークである。しかしローハンが勘当されるシーン以降、アショークの行動は一般的な父親像からかけ離れている。いくら勘当したからと言って、息子の成功を喜ばない父親がいるだろうか?アビマンニュの家族も、祖母以外は断片的な登場でほとんど存在感がなかった。

 カラン・ジャウハル監督の映画にはよくスポーツ・シーンが出て来るのだが、この「Student of the Year」も例外ではない。主にサッカーとトライアスロンのシーンがあり、映画のハイライトとなっていた。しかし、スポーツ映画ではないことを差し引いても、あまり緊迫感のないものばかりだった。トライアスロンは驚いたことに男女混合で、しかもなぜか序盤はシュルティーがトップランナーとなっていた。普通は男女別の競技にすべきで、「スチューデント・オブ・ザ・イヤー」も男女1人ずつ選出すればいいと思うのだが、そうなっていなかった。そういう疑問が心に沸くと、なかなか映画の世界に入り込めないものだ。

 その一方で、新人俳優3人は決して映画の足枷にはなっていなかった。アーリヤー・バットの容姿に関しては多少言いたいことがあるが、それ以外は非常に真摯に演技に取り組んでいたと言えるだろう。特にローハン役のヴァルン・ダワンが将来性がある。アーリヤー・バットは、少しインド人離れした顔で、これが今後インド美人のスタンダードになって行くかと言うと、そうではないだろうと答えたくなる。肩幅が広くて身体がアンバランスな気もした。しかし、終盤、アビマンニュの祖母を見舞うシーンで落ち着いた衣服を着ていたが、むしろこちらの方が似合っており、あまり派手なキャラ向けではないと感じた。ちなみにヴァルン・ダワンは映画監督デーヴィッド・ダワンの息子、アーリヤー・バットは映画監督マヘーシュ・バットの娘である。スィッダールト・マロートラーはおそらく映画関係の家族出身ではない。

 リシ・カプールは同性愛の学長役。同性愛者の疑惑のあるカラン・ジャウハル監督の関わる作品には同性愛者の登場する確率が高い。往年の名優リシ・カプールにとっては肩の力を抜いた演技であった。他にボーマン・イーラーニー、カージョール、ファラー・カーンなど、ヒンディー語映画界の有名人がカメオ出演する。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。コレオグラファーも錚々たる顔ぶれが揃っている。だが、音楽とダンスも平凡だ。ネクスト・ジェネレーション参上、という活力がない。映画の盛り上げにはなっているが、映画の質向上には役立っていない。サントラCDの中では、クリシュナとラーダーの恋物語をモダンに味付けした「Radha」が一番いい。

 「Student of the Year」はカラン・ジャウハル監督の最新作であるが、意外なほどに平凡な作品である。普通に楽しめるが、彼にはどうしてもプラス・アルファを求めてしまう。その期待に沿える作品ではない。

10月20日(土) Makkhi

 南インドの映画スターが、南インドの言語で作られた映画のヒンディー語吹替版を引っさげてヒンディー語映画界に殴り込んで来たことは近年では2回あった。まずはカマラ・ハーサン。タミル語映画「Dasavathaaram」(2008年)のヒンディー語吹替版「Dashavatar」が同年に公開された。次は日本でもお馴染みのラジニカーント。タミル語映画「Enthiran」(2010年)のヒンディー語吹替版「Robot」が同時公開された。だが、ヒンディー語映画界に挑戦状を叩き付ける次なる南インド映画スターが蝿だとは誰が予想しただろうか?

 10月12日より公開中のヒンディー語映画「Makkhi」は、今年7月6日に公開されたテルグ語映画「Eega」のヒンディー語吹替版である。この映画は、恋人を狙う宿敵に殺された男が蝿になって生まれ変わり復讐を果たすという奇抜なプロットが受けて大ヒットした。蝿がインド映画界の新たなスーパーヒーローとなったのである。ヒンディー語版の評判も悪くないようで、上映は2週目に入っている。



題名:Makkhi
読み:マッキー
意味:蝿
邦題:蝿

監督:SSラージャモウリ
制作:サーイー・コッラパティ
音楽:MMカリーム
歌詞:ニーレーシュ・ミシュラー
出演:スディープ、ナーニ、サマンサ・ルース・プラブ、ハンサー・ナンディニー、クレイジー・モーハン、デーヴァダルシニー、アーディティヤ
備考:DTスターDLFプレイス・サーケートで鑑賞。


Makkhi

あらすじ
 ビンドゥー(サマンサ・ルース・プラブ)は小さなペンダントなどを作るのが得意なマイクロアーティストで、かつNGOで働いていた。ビンドゥーの近所に住むジャーニー(ナーニ)は2年間ビンドゥーに求愛し続けて来たが、ビンドゥーはなかなか彼の愛を受け容れようとしなかった。

 あるときビンドゥーは寄付金を集めにスディープ(スディープ)が経営する会社を訪れる。女たらしのスディープはビンドゥーに一目惚れし、何とか彼女を物にしようと画策するようになる。ところが、ビンドゥーの回りをストーカーのように付け回す男の存在に気付く。ジャーニーであった。ビンドゥーもジャーニーのことを気にしていることを知り、スディープはジャーニーを誘拐する。ビンドゥーが電話で正にジャーニーに「愛してる」と伝えたとき、スディープはジャーニーの息の根を止めていた。

 死んだジャーニーは蝿となって生まれ変わった。蝿のジャーニーは前世の記憶を取り戻し、スディープに復讐することを誓う。しかし蝿の身ではスディープに傷を付けることもできなかった。せいぜいスディープの耳元でうるさい羽音を立てて安眠を妨害することぐらいしかできなかった。しかし、次第に妨害の方法を身に付けて行く。蝿のジャーニーは、自動車を運転するスディープの目に突撃し、運転を狂わせる。スディープは大事故を起こすが、幸い命に別状はなかった。しかし、スディープは1匹の蝿が自分に「I Kill You」と挑戦状を叩き付けたことで、蝿を恐れるようになる。

 一方、蝿のジャーニーは何とかビンドゥーに自分のことを伝えようとする。ジャーニーが死んでからビンドゥーは塞ぎ込んでいた。ビンドゥーの兄嫁は、死んでしまった人のことは忘れるようにと言う。しかし彼女はどうしてもジャーニーのことを忘れられなかった。ジャーニーはビンドゥーの涙を使って「I Am Jaani」とメッセージを伝える。ビンドゥーはジャーニーが蝿となって生まれ変わったことや、ジャーニーを殺したのはスディープであることを知る。

 それ以降、ビンドゥーはジャーニーの復讐を助けることになる。蝿用に、殺虫剤を防ぐためのマスクや、スディープの肌を傷付けるための刃物を作る。それを装着したジャーニーはますますスディープへの攻撃を強化する。その仕上げとして、スディープの家に置いてあった大砲の模型を使ってスディープを射殺する計画を立てる。密かに大砲の模型の中に火薬を運び込み、弾丸を込め、あとは照準を定めるだけだった。しかしその大砲の模型には紙くずが詰められてしまい、この計画は水泡と化す。

 1匹の蝿に悩まされ続けたスディープは遂におかしくなり、大事なミーティングを台無しにしたり、会社の金庫に隠してあった現金に火を付けたりする。全てを失ったスディープは、1人の呪術師にすがる。呪術師は、ジャーニーが蝿となって生まれ変わり復讐しようとしていることを暴く。そしてスディープの自宅で儀式を行い、鳥に憑依してジャーニーを捕獲しようとする。しかし間一髪でジャーニーは助かる。スディープの自宅では火災が発生し、呪術師は死ぬがスディープは煙の中で気を失う。

 ジャーニーはてっきりスディープが死んだものと思ってビンドゥーの家に戻る。ところがスディープは助かっていた。家中に設置したCCDカメラを分析した結果、ビンドゥーが蝿を助けていることを発見する。スディープはビンドゥーを自宅に無理矢理連れて来て、彼女の首に刃物を突き立てる。ビンドゥーを救うため、ジャーニーはスディープの前に姿を現わすしかなくなる。ジャーニーは片羽根を切られ、飛べなくなる。しかし、火薬を詰めた大砲から紙くずが外れているのを見つける。ジャーニーは自ら火だるまとなって大砲の中に突っ込む。火薬に火が付き、弾丸が発射され、それはスディープに命中する。また、スディープの家では大爆発が起き、スディープは今度こそ絶命する。

 蝿のジャーニーは死んでしまったが、また蝿となって生まれ変わり、ビンドゥーを守り続けていた。

 蝿が主人公の映画と言うことで、観客は大部分の時間、大スクリーンで蝿を見続けることになる。大半の人にとっては、蝿の大写しを見続けるのは普通気持ちのいい体験にはならないだろう。だが、不思議とこの「Makkhi」に登場する蝿は、そういう不快な気持ちを引き起こさなかった。決してディズニー映画のように可愛くディフォルメされている訳ではない。正真正銘の蝿だ。ストレートに蝿である。最初は多少抵抗を覚えるかもしれない。しかし、すぐに慣れてしまい、むしろ観客は蝿と一体となる。そして蝿となって生まれ変わったジャーニーの復讐劇を一生懸命応援する。日頃は憎まれ者の蝿にここまで感情移入できるようになるとは。完全にアイデアの勝利。SSラージャモウリ監督に拍手を送りたい。

 やはり素晴らしいのは、蝿という、人間から憎まれる存在でありながら、人間におよそ身体的危害を加えることができそうにもない生き物に、人間への復讐をさせた点にある。普通に考えたら蝿が人間を殺すなんてことはできないはずだが、劇中ではしっかりと手順を踏んで蝿の復讐劇を追っており、説得力を持たせてある。か弱い存在が巨悪に立ち向かい、打ち勝つ様子を見るのは痛快なものだ。

 蝿のジャーニーはスディープに復讐を果たした後、一旦は死ぬが、また蝿となって生まれ変わる。人間が蝿に転生した後、また蝿に生まれ変わるのは可哀想ではないかと思ったが、どうも続編の話もあるようで、このまま蝿のスーパーヒーローが定着して行くのだろうか?

 SSラージャモウリ監督は大ヒット作「Magadheera」(2009年)で知られている。彼の過去の作品のいくつかはヒンディー語にリメイクされている。例えば「Vikramarkudu」(2006年)が「Rowdy Rathore」(2012年)、「Maryada Ramanna」(2010年)が「Son of Sardaar」(2012年11月公開予定)などである。主にアクション映画を作る監督だが、「Eega」は特殊な内容だったのでヒンディー語吹替されて公開されたのだろう。

 蝿の登場するシーンのほとんどはCGで処理がしてあった。蝿にも感情表現がされており、観客は容易に蝿の気持ちを汲み取ることができた。しかしながら、CGに頼ろうと頼るまいと、多くのシーンではスディープのパントマイム的演技が重要であった。蝿に悩まされる様子を巧みに表現していた。スディープは長身でハンサムな俳優だが、決してそれだけではなく、むしろ演技力で魅せられる優れた男優である。二枚目半の演技もものともしない。ハンサムでかつ捨て身のコメディーもできるような俳優は、ヒンディー語映画界では稀だ。スディープは基本的にカンナダ語映画界で活躍しているが、ヒンディー語映画にも時々出演している。

 ビンドゥーを演じたサマンサ・ルース・プラブと、ジャーニーを演じたナーニも南インド映画の俳優である。サマンサはヒンディー語映画「Ekk Deewana Tha」(2012年)に出演したことがある。

 音楽はMMカリーム。ヒンディー語吹替版の歌詞はニーレーシュ・ミシュラーが担当している。決して音楽も売りとなっている映画ではないが、「Makkhi Hoon Main」など、簡単に口ずさめていい。

 この映画を見ていて思ったが、ヒンディー語吹替版の映画で使われるヒンディー語は、強い癖がなく、非常に理解しやすいものとなっている。最近のヒンディー語映画のヒンディー語は方言色が強かったり若者言葉が混じっていたりして、初学者には聴き取り困難なものが多くなっているのだが、「Makkhi」はおそらく聴き取りやすいヒンディー語だと感じることだろう。

 「Makkhi」は、蝿の復讐劇というユニークな発想の映画。大ヒットしたテルグ語映画のヒンディー語吹替版であるが、逆に考えたらヒンディー語吹替されるほど面白いということである。新たなスーパーヒーローの誕生を是非目の当たりにすべきだ。子供も存分に楽しめることだろう。

10月23日(火) アーディラーバード

 デリーの数ある遺跡の中で、もっとも好きなのは依然としてトゥグラカーバード城塞だ。デリー・サルタナト朝の3番目の王朝トゥグラク朝の創始者ギヤースッディーン・トゥグラク(在位:1320-25)が建造したこの城塞跡は、ユネスコ世界遺産となっているクトゥブ・コンプレックス、フマーユーン廟、ラール・キラーなどと比べると、特に何か分かりやすいモニュメントが残っている訳でもないのだが、堂々たる城壁と、いい具合に廃墟となった内部の景観と、そして小高い丘となっているブルジ・マンダルからのデリーで一番の展望。それらがミックスされて、マイナーながらも魅力的な遺跡となっている。


トゥグラカーバード城塞内の貯水池

 トゥグラカーバードには今まで何度も足を運んで来たし、いろんな人を連れて行ったのだが、なぜかトゥグラカーバード城塞の近くにあるアーディラーバード城塞の方には行ったことがなかった。トゥグラカーバードの宮殿エリアにあるブルジ・マンダルに上って南東の方角を見ると見える小さな城塞である。ちょうどトゥグラカーバードのミニチュアのような形をしている。アーディラーバードには謎の部分が多いのだが、一般的にはギヤースッディーン・トゥグラクの息子ムハンマド・ビン・トゥグラク(在位:1325-1351年)が住んでいた場所だとされている。ムハンマダーバードとも呼ばれている。


アーディラーバード城塞遠景

 思うところあって、今日はアーディラーバードを訪れてみた。かつて精力的に行っていた「デリー散歩」の再開でもある。涼しくなって来たからというのが一番の理由であるが、もうひとつ大きな理由もある。

 アーディラーバードとトゥグラカーバードの間には広大な平地が広がっている。この辺りにはかつてヤムナー河またはその支流が流れており、それを堰き止めてここに巨大な人造湖が造られたと言われている。現在では近隣の子供たちの絶好のクリケット場となっている。初心者ドライバーの運転練習場にもなっている感じだ。アーディラーバードへ行くには、この平地を通り抜けなければならない。この平地に入る入り口はいくつかあるのだが、トゥグラカーバード村への車道の入り口辺りにひとつ入り口があり、そこが一番分かりやすいのではないかと思う。


アーディラーバードの入り口
この階段は最近設置されたもの

 アーディラーバードは、かつては全く荒れるに任されていたために、反社会分子の密会場になっていたらしいのだが、最近になってだいぶ整備されたようだ。中は花壇などが作られ、ちょっとした庭園のようになっていたし、警備員の常駐するプレハブも作られていた。知られざる遺跡としての魅力はだいぶ減ってしまったと思うが、観光地としてはいい方向に進化していると言える。ちなみに入場料などはない。


アーディラーバード内部

 アーディラーバードの稜堡からは、トゥグラカーバードとギヤースッディーン・トゥグラク廟を同時に眺望することができる。


ギヤースッディーン・トゥグラク廟(左)とトゥグラカーバード城塞(右)

 城塞内外に特にこれと言ったものは残っていないのだが、アーディラーバードの入り口となっている門の形状には歴史的な価値がある。建築用語で言うとコーベル式アーチ(疑似アーチ)となっている。キーストーンを用いた真性アーチが入って来る前にインドの建築で多用されていたアーチ形式だ。真性アーチは13世紀に中央アジアからインドへ入って来たと考えられるが、それが普及しても尚、コーベル式アーチが利用されていたことを、このアーディラーバードの門が示している。ちなみに城塞の他の場所では大体真性アーチが利用されている。


コーベル式アーチ

 あと、個人的には城壁の上部を構成する以下の部分にフェティシズムを感じる。この石の置き方、並べ方、そして最上部の石の形状、絶妙だ。このスタイルはトゥグラク朝の建築に限らないと思うが、このトゥグラカーバード地域の遺跡では特に目立つ。


城壁上部の形状

 今日はアーディラーバードだけでなく、トゥグラカーバード城塞とギヤースッディーン・トゥグラク廟も併せて再訪した。久し振りに訪れたが、少しだけ整備が進んでいた。ちょっとオシャレな看板が立っていたし、階段などもより整備されたと感じた。


トゥグラカーバード城塞宮殿エリア

 ギヤースッディーン・トゥグラク廟は相変わらず美しい。白大理石のドームを戴き、赤砂岩と白大理石のコントラストを上手に活かした、インド初の建築だ。このアイデアが後にフマーユーン廟へつながり、最終的に最高傑作タージ・マハルを生んだ。


ギヤースッディーン・トゥグラク廟
ムハンマド・ビン・トゥグラクの墓も納められている

 今まで見逃していたのだが、世にも稀な「犬の墓」を今回は拝むことができた。ギヤースッディーン・トゥグラク廟に入って左手に進んだところにある小さな墓である。


犬の墓

 別に碑文がある訳ではなく、言い伝えでこれはスルターンの寵愛していた犬の墓だとされている。よって、これが本当に犬の墓であるかどうかを立証する手段はほとんどないと言っていい。しかし、通常の墓に比べて異常に小さく、特殊な墓であることは一目瞭然だ。ギヤースッディーン・トゥグラク廟に常駐しているガイドもこれを犬の墓だと述べている。なんでもスルターンの忠犬で、その忠節振りが報われて墓まで作ってもらえたようだ。「インド版忠犬ハチ公」と言ったところか。もし犬の墓だとすると、墓の形状から、その犬は雄犬だったことが分かる。

 おそらくそのスルターンとは、ギヤースッディーン・トゥグラクではなく、その息子で後継者のムハンマド・ビン・トゥグラクなのではないかと思う。ギヤースッディーン・トゥグラク廟自体が、ギヤースッディーン・トゥグラク自身が造ったかどうか疑問視されている。彼の在位期間は5年ほどで、トゥグラカーバード城塞でさえその短期間で建造したことは驚異的だとされている。自分の墓廟まで造る時間はなかったのではなかろうか?もし彼が造ったものでないとしたら、十中八九ムハンマド・ビン・トゥグラクが造ったことになる。よって、この犬の墓も、ムハンマド・ビン・トゥグラクの愛犬の墓である可能性が濃厚となる。

 ムハンマド・ビン・トゥグラクは、インド史上では「狂王」として悪名高い。デリーからデカン高原のダウラターバードに遷都し強制的に全デリー市民を移住させたり、インドで初めて代用貨幣(Token Money)を導入したり、デリー各地に残る城塞都市をつなげて巨大な大城塞都市圏を形成しようとしたり、極端な政策で知られている。だが、そのビジョンは時代を何世紀も先取ったもので、非常に賢明な王だったのではないかとも思われる。イスラーム教では一般的に犬は不浄な動物だと考えられているが(その真偽については諸説ある)、その犬の墓を造るのも、彼だからできたことだと考えられる。

 改めて、トゥグラカーバードは奥深い場所だと感じた。まだまだ探検しがいがある。ただ、現在は雨季の後なので草木が生い茂っていて遺跡の細部までアクセスするのが困難だ。2月頃がベスト・シーズンかもしれない。

10月24日(水) Chakravyuh

 アーディワースィー(原住民)と呼ばれる部族が多く住むインドの森林地帯では、ナクサライト(インド共産党毛沢東主義派)と呼ばれる極左武装組織と警察・武装部隊との間の戦いが熾烈化しており、インドの大きな内憂となっている。インド政府はナクサライトを非合法組織に認定し根絶を目指しているが、なかなかナクサライトを鎮圧できずにいる。その大きな理由が、ナクサライトの主張にも一理あるからであろう。部族が住む森林地帯は鉱物資源豊かな土地で、経済の急成長に伴ってインド政府はそれらを開発し、国の発展に役立てようとしている。その前にそこに住む部族民たちを移住させなければならないのだが、先祖代々住んで来て生活と一体化している土地を彼らがやすやすと明け渡すはずがない。移住プランや雇用プランなどを提示するものの、それらの多くは決して守られることのない約束で、だまし討ちに近い形で無力な部族民たちから土地を奪い取っているとされる。そのような方法が長続きするはずがない。次第に部族民たちからも反発が出る。すると、資源確保を急ぐ政府側は力尽くで部族を押さえ付けようとする。民主主義のシステムも部族には開かれていない。そうなると、自分たちの生活を守るには武装蜂起しか道が残されていない。それが部族民の間でナクサライト運動への支持へとつながっている。言わばナクサライトは不公平な発展の反作用として生まれた運動だ。

 ナクサライト運動は近年になっていくつかの映画のテーマにもなって来ている。スニール・シェッティー主演の「Red Alert」(2010年)は典型的なナクサライト映画だ。マニ・ラトナム監督の「Raavan」(2010年)も部分的にナクサライト運動から着想を得ていると考えられる。だが、本日より公開のプラカーシュ・ジャー監督新作映画「Chakravyuh」ほど大規模にかつストレートにナクサライト運動を扱った映画は今までなかったと言える。

 プラカーシュ・ジャー監督は、ソリッドな政治劇を作る映画監督として知られる。「Gangajal」(2003年)、「Apaharan」(2005年)、「Raajneeti」(2010年)、「Aarakshan」(2011年)など、ハードボイルドな作品を作り続けており、映画界では一目置かれた存在である。そのプラカーシュ・ジャー監督がナクサライト問題を取り扱った映画を作ったということで、期待しない方がおかしい。

 題名となっている「チャクラヴューフ」とは、古代インド兵法の陣形のひとつで、日本語にすると「円陣」になる。「マハーバーラタ」において、戦争13日目、カウラヴァ軍の将軍ドローナーチャーリヤが組んだ最強の陣形がチャクラヴューフであった。この陣形の破り方を完全に把握しているのはクリシュナ、その息子プラデュムナ、そしてアルジュンのみであったが、アルジュンの息子アビマンニュは胎児のときに耳にした記憶から部分的にそれを知っていた。そのとき現場にはアビマンニュしかいなかったため、彼がチャクラヴューフに立ち向かうことになった。ところが、アビマンニュはこの円陣の中に入る方法は知っていたが、出る方法は知らなかった。アビマンニュは1人で敵の円陣の中に突撃することになり、孤軍奮闘の後に殺されてしまう。ここでは、「解決不可能な難題」ぐらいに捉えてもいいだろう。

 ちなみに、本日はダシャハラー祭である関係で、水曜日封切りという変則的なスケジュールとなっている。



題名:Chakravyuh
読み:チャクラヴューフ
意味:円陣
邦題:赤い円陣

監督:プラカーシュ・ジャー
制作:プラカーシュ・ジャー
音楽:サリーム・スライマーン、ヴィジャイ・ヴァルマー、サンデーシュ・シャーンディリヤー、シャーンタヌ・モーイトラ、アーデーシュ・シュリーワースタヴ
歌詞:トゥラーズ、イルシャード・カーミル、アーシーシュ・サーフー、パンチー・ジャローンヴィー
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ
衣装:プリヤンカー・ムンダーダー
出演:アバイ・デーオール、アルジュン・ラームパール、マノージ・パージペーイー、イーシャー・グプター、アンジャリー・パーティール、オーム・プリー、カビール・ベーディー、ムルリー・シャルマー、チェータン・パンディト、サミーラー・レッディー(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


左からイーシャー・グプター、アルジュン・ラームパール、アバイ・デーオール、
アンジャリー・パーティール、マノージ・パージペーイー

あらすじ
 マディヤ・プラデーシュ州の警察官僚アーディル・カーン(アルジュン・ラームパール)は、州都ボーパールでナクサライトのイデオローグ、ゴーヴィンド・スーリヤヴァンシー(オーム・プリー)を逮捕する。ゴーヴィンドは過去30年間地下に潜り、ナクサライト運動を率いて来た。

 一方、ナクサライトの影響下にあるナンディーグラームでは、ナクサライトによる奇襲によって84名の警察官が殺されるという事件が発生する。アーディルは妻で同期警察官僚のリヤー(イーシャー・グプター)に相談せず、ナンディーグラームへの配属を志願する。

 ナンディーグラームでは特に3名のナクサライト・リーダーが武装勢力を率いていた。トップリーダーのラージャン(マノージ・パージペーイー)、資金調達担当のナーガー(ムルリー・シャルマー)、そして女性リーダーのジューヒー(アンジャリー・パーティール)であった。彼らが目の敵にしていたのが実業家マハーンター氏(カビール・ベーディー)が経営するマハーンター社のナンディーグラーム開発計画であった。州政府は何とかナクサライトを一掃し、マハーンター社の投資をナンディーグラームに引き留めようと努力している最中だった。

 アーディルはナンディーグラーム配属後、早速村々を巡って村人たちの信頼を回復しようとする。だが、ナクサライトはすぐに反撃に出る。アーディルは誤った情報に踊らされてナクサライトの奇襲を受け、負傷してしまう。

 そのとき、ナンディーグラームまでアーディルを訪ねてやって来た男がいた。親友のカビール(アバイ・デーオール)である。カビールはアーディルやリヤーと共に警察学校に入ったが、教官と諍いを起こして中退してしまった。つい最近、同窓会でアーディルはカビールと再会していた。この間、カビールは様々な職を経た後に携帯電話製造のビジネスに手を出したが、事業は失敗し、借金だけが残った。カビールはアーディルが負傷したことを聞き、お見舞いにやって来たのだった。

 アーディルの話を聞き、カビールは、ナクサライトに立ち向かうためには正確な情報源が必要であることを痛感する。そこでカビールは、自分がナクサライトに潜入し、情報を送り続けることを提案する。アーディルはカビールを逮捕してから脱走させ、うまくナクサライトに潜り込ませる。カビールが内偵であることを知っているのはアーディルのみだった。

 カビールは徐々にナクサライトから信頼を勝ち取る。彼の電波の知識が大いに役立ち、ジューヒーやラージャンに重用される。一方、カビールのタレコミにより、アーディルはナクサライトの手に渡る寸前だった大量の銃器を奪取することに成功する。また、ゴーヴィンドの移送中にナクサライトの襲撃を受けるが、カビールの暗躍によって負傷したラージャンを逮捕する。ただ、このときゴーヴィンドには逃げられてしまう。ゴーヴィンドはカビールに「アーザード」という新しい名前を与える。

 ラージャンの逮捕により、ナクサライト運動は一時勢力をそがれる。マハーンター社はそれをいいことに、プロジェクト上邪魔になる村々の取り壊しに着手する。アーディルはそれに反対するが、州政府からのお墨付きを受けているため、この暴力は止まりそうになかった。また、カビールはその様子を見てナクサライトに同情するようになる。

 また、カビールはジューヒーに好意を寄せるようになっていた。しかしジューヒーは警察の襲撃を受けて捕まってしまう。村の子供たちを救うために自ら投降したのだった。しかし警察はジューヒーを連行しレイプする。カビールはジューヒーを救い出し、警察を皆殺しにする。そしてアーディルに対し、ナクサライトへの弾圧を止めるように忠告する。アーディルはそれを拒否する。この事件により、ラージャンの後継者として「アーザード」の名前は警察に知れ渡る。

 このときまでにナンディーグラームにリヤーも配属されて来ていた。リヤーは衛星を使って森林を監視する中で、ナクサライトの中にカビールがいるのを発見し、アーディルに問い質す。アーディルは、自分がカビールをナクサライトの中に潜入させたが、カビールはいつの間にかナクサライトの仲間になってしまったことを明かす。

 今や完全にナクサライトのリーダーとなったカビールは、マハーンター社を襲撃し、社長の息子アーディティヤを誘拐する。交換条件としてラージャンの釈放を要求する。州政府はその要求を呑み、ラージャンを解放する。しかし、警察はラージャンの体内に発信器を仕込む。また、アーディルはわざと自分とカビールが旧知の仲である情報を新聞社に漏らす。とうとうナクサライトの仲間たちに、アーディルの内偵だったことが知れてしまう。カビールは人民裁判に掛けられる。

 しかしそのとき警察の急襲がある。カビールは銃を取って警察と戦う。だが、警察が自分たちの動きを手に取るように察知していることに気付く。カビールはラージャンの体内に仕込まれた発信器を見つけ、1人それを持って別方向へ走って警察をおびき寄せる。カビールは1人で警察の集団と戦おうとするが、そこへジューヒーをはじめナクサライトの仲間が救援に駆けつける。銃撃戦の中でカビールは足を負傷し、ジューヒーも胸を撃たれる。カビールはジューヒーを連れて逃げるが、アーディルに追いつかれてしまう。ジューヒーの死を看取ったカビールは反撃しようとするが、アーディルの裏で銃を構えていたリヤーに撃たれて絶命してしまう。

 プラカーシュ・ジャー監督らしいハードボイルドなドラマであった。ナクサライト問題に対する視点は、間違いなくナクサライトへの同情が強く、インド政府への批判色が濃かった。ナクサライトの主張やインド政府との戦いの大義など、娯楽映画のフォーマットの中で、とても分かりやすく説明されていたと思う。ただ、ナクサライト問題の解決法を具体的に提示する種類の映画ではなかった。あくまで、彼らがなぜ何のために戦っているのか、それを提示することに重きが置かれていたと言えよう。

 映画のメッセージは、エンディングに流れるナレーションに集約されている。急速に発展するインドの中で、同じくらい急速に取り残されて行く人々をどうするのか。彼らを犠牲にしてインドはさらなる発展の道を歩んで行っていいのか。そんな疑問が観客に投げ掛けられていた。とても難しい問題だ。正にチャクラヴューフである。

 大まかなプロットは、敵の中に潜入した主人公がその敵の一味になってしまうと言う、非常にオーソドックスなものだ。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)や「アバター」(2009年)など、ハリウッドでも散々使われて来た筋書きだ。だが、その「敵」側の主張に焦点を当てるのには完成された方程式であり、ナクサライト運動を題材としたこの「Chakravyuh」でもうまくはまっていた。

 ただ、カビールとジューヒーの間に恋愛感情を持ち込んだことで、多少カビールの心変わりに複雑さが生じていた。果たしてカビールはナクサライトのイデオロギーに賛同してアーディルと絶縁したのか、それともジューヒーへの恋慕の情がそれよりも大きな動機となったのか、その辺りは深く追求されることはなかった。しかし、エンディングを見る限り、カビールのジューヒーに対する感情は決して小さくなかったと言える。

 この映画の大きな弱点は銃撃戦シーンだ。プラカーシュ・ジャー監督は戦争シーンがあまり得意でないと見えて、警察とナクサライトの銃撃戦は、単に突っ立って撃ち合うだけという、非常に単調なものだった。もっと緊迫感ある戦いを見たかった。

 劇中のいくつかの事件は、実際に起こったナクサライト絡みの事件と思わせるものだった。例えば冒頭、84名の警察官が殺される事件は、チャッティースガル州ダンテーワーラー県で2010年4月に中央予備警察部隊(CRPF)がナクサライトの奇襲を受け、76名が殉死した事件がベースとなっていると思われる。マディヤ・プラデーシュ州が舞台となっていたが、多くは西ベンガル州、ジャールカンド州、チャッティースガル州で起こった事件を参考にしている。

 アバイ・デーオール、マノージ・バージペーイー、オーム・プリーなど、演技派俳優が揃っており、彼らの演技は素晴らしかった。「演技派」とは呼ばれることの少ないアルジュン・ラームパールも、彼らに負けない熱演をしていた。キャリアベストの演技と言っていいだろう。だが、おそらくもっとも注目を浴びるべきなのは、ジューヒーを演じたアンジャリー・パーティールであろう。「Delhi in a Day」(2012年)でデビューしたばかりの新人女優であるが、国立演劇学校(NSD)出身なだけあって、演技力はずば抜けている。「Delhi in a Day」でもいい演技をしていたが、この「Chakravyuh」で全国的な知名度を獲得することだろう。楽しみな女優が出て来たものだ。それに比べたらイーシャー・グプターは飾りのようなものだった。「Jannat 2」(2012年)、「Raaz 3D」(2012年)と、ヒット映画に出演して来ているが、本人の実力はまだ未熟だ。

 音楽はサリーム・スライマーンをはじめとした複数の音楽監督による合作。「Mehangai」はヴィジャイ・ヴァルマー、「Kunda Kol」はサンデーシュ・シャーンディリヤー、「Aiyo Piyaji」はシャーンタヌ・モーイトラ、「Paro」はアーデーシュ・シュリーワースタヴなどとなっている。もっとも話題になっているのはカイラーシュ・ケールが歌う「Mehangai」だ。「Peepli [Live]」(2010年)の「Mehngai Dayain」と似たインフレ風刺曲で、単品で魅力的な歌なのだが、その歌詞が問題となった。ビルラー、ターター、アンバーニー(リライアンス)、バーター(靴メーカー)など、実在の企業名を歌詞に入れてしまっているからだ。結局裁判所の判断でそのまま使用することが可能となったが、映画の冒頭や曲使用時に「実在の企業とは無関係」と言った注意書きが入っていた。

 大部分のロケはマディヤ・プラデーシュ州で行われたようだ。プラカーシュ・ジャー監督の映画はマディヤ・プラデーシュ州で撮影されることが多く、「Raajneeti」もボーパールなどでロケが行われていた。

 劇中でナクサライトたちがしゃべる言語は、チャッティースガリー方言のテイストを混ぜた、架空のヒンディー語方言と言った感じだ。標準ヒンディー語からは離れているので、聴き取りは困難な部類となる。

 「Chakravyuh」はプラカーシュ・ジャー監督渾身のドラマ映画。ナクサライトというインドの内憂をナクサライト寄りの視点から浮き彫りにし、貧しい人々を搾取し犠牲にする「発展」に疑問を呈している。純粋に娯楽映画として見てもよく出来ており、今年必見の映画の1本に数えられる。


10月25日(木) デリー→アーグラー

D2Dツーリング

 9月下旬から10月上旬にかけて3週間のラダック・ツーリングを無事に成し遂げた。これがインドで最後のツーリングになるだろうと考えていたし、それにふさわしい充実した旅だった。しかし、一度心に「旅の虫」が付くとなかなか取れないものだ。デリーに戻って来て、ラダックの旅行をまとめ終わると、むずむずと「旅の虫」が騒ぎ出し、すぐにまた旅に出たくなって来た。ふと、書棚で長いこと埃をかぶっていたブルハーンプル(Burhanpur)のガイドブックに目が留まった。そうだ、ブルハーンプルへ行こう。次の目的地は即決した。

 ブルハーンプルはマディヤ・プラデーシュ州の最南端、デカン高原の入り口にある町だ。インド中世史を紐解くとブルハーンプルやその周辺地域であるカーンデーシュ(Khandesh)の名前はよく出て来るが、現在のインド観光マップの中ではほとんど無視された存在である。幸い、道路地図の出版社アイシャー・グッドアース(Eicher Goodearth)がブルハーンプルに特化したガイドブックを最近出してくれたため、まとまった観光情報が簡単に手に入る。

 同時に、昔考えたとあるツーリング計画も思い出した。ほとんど誰の役にも立っていないが、デリー発のツーリング・ルート開拓が趣味のひとつとなっている。その中で、ダウラターバード遷都ツーリングを考案したことがあった。14世紀、トゥグラク朝の皇帝ムハンマド・ビン・トゥグラク(在位:1325-51年)が首都をデリーからデカン高原のダウラターバード(Daulatabad)に移したとされるのだが、その遷都を再現するツーリング、つまりデリーからダウラターバードへバイクで行く旅はどうかと企画していた。

 ブルハーンプルとダウラターバードはそんなに離れていない。両方一緒に巡ることもできるだろう。ダウラターバードは既に行ったことがあるので、当地の観光自体に魅力は感じないが、バイクで行くなら新しい体験となる。こうして、D2D (Delhi to Daulatabad)ツーリングが動き出した。

 このツーリングのひとつの大きなテーマは前出のムハンマド・ビン・トゥグラクである。そのため、ツーリングに出る前にムハンマド・ビン・トゥグラクが遷都前に建造したとされる、デリー南部のアーディラーバードを訪問した。だが、もうひとつ、それと同じくらい大きなテーマがムムターズ・マハルであった。

 ブルハーンプルには数々の歴史的遺構が残っているが、その中でエピソードとしてもっとも面白いのは、ここがムムターズ・マハルの没した地であり、彼女が最初に葬られた墓廟もここにあるということである。ムムターズ・マハルとはムガル朝皇帝シャージャハーンの妃であり、彼女の死がタージ・マハル建造の動機となったことはあまりにも有名である。シャージャハーンは当初タージ・マハルをブルハーンプルに造る予定だったとも言われている。もしタージ・マハルがこの地にあったら、ブルハーンプルの観光地としてのステータスは全く変わっていたことだろう。だが、いくらタージ・マハルをアーグラー(Agra)に奪われようとも、ムムターズ・マハルの死んだ場所がブルハーンプルであることは動かしようのない事実だ。シャージャハーンは王子時代からブルハーンプルに長く滞在しており、ムムターズ・マハルとの愛も、アーグラーではなくむしろブルハーンプルで育まれた。インド史上もっとも有名なロマンスであるシャージャハーンとムムターズ・マハルの恋物語は、ブルハーンプルを訪れずには完結しない。

 この2つのテーマを主軸にして、ルート上にある大まかな訪問地を決め、ダシャハラー祭の翌日である今日、ツーリングに出発した。10月後半から11月前半にかけて、デリーではF1、演劇「Tughlaq」上演、プールワーローン・キ・サイル(花売りたちの行進)など、楽しそうなイベント目白押しだったのだが、旅の楽しみには代えがたい。それらの誘惑を振り切っての出発であった。



 ムムターズ・マハルがテーマのひとつである以上、タージ・マハルを冠するアーグラーを無視することはできない。よって、最初の目的地はウッタル・プラデーシュ州の街アーグラーに決めた。デリーからアーグラーまではおよそ200km。早朝出れば昼までには着く距離である。今まで何度もバイクでアーグラーまで行ったことがあり、精神的にも肉体的にも余裕の移動だ。しかしながら、今回はひとつ新たな体験をすることができた。それはヤムナー・エクスプレスウェイである。昨年のF1インドGPのときに部分的に開通しており、F1を見に行ったときにブッド・インターナショナル・サーキットまでの道だけは走行したことがあったのだが、今年8月にやっとグレーター・ノイダからアーグラーを結ぶメインの区間が一般に開放された。まだこのエクスプレスウェイを使ってアーグラーまで行ったことがなかったので、迷わずこの出来たてホヤホヤの道を利用することにした。

 午前7時にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)を出発し、アウターリングロードを通ってマトゥラー・ロードへ。カーリンディー・クンジの橋を渡ってヤムナー河を越え、ノイダに入った。そしてノイダ・グレーターノイダ・エクスプレスウェイを使って南下。そこからヤムナー・エクスプレスウェイに入った。南デリーからだと、ヤムナー・エクスプレスウェイに入るまで40kmはあり、30分~1時間は掛かるだろう。

 ヤムナー・エクスプレスウェイは馬鹿みたいに一直線の道だ。片側3車線+路肩1車線の広々とした道で、インドの通常のハイウェイのように人や動物が横切ることはあまりない(それでも皆無ではない)。時速100kmの走行も余裕である。しかし、一直線過ぎて退屈でもある。日本の高速道路は眠気覚ましのために微妙にカーブを入れてあると聞いたことがあるのだが、そういう配慮もなく本当に一直線だから、ただただ直進するだけの何の刺激もない運転だ。道路の外に目をやっても単調な田園風景が続くだけで、これと言って何か目を引くものがある訳ではない。


ヤムナー・エクスプレスウェイの料金所

 料金所はデリー~アーグラー間に3ヶ所あった。二輪車の片道料金(デリー~アーグラー)は150ルピーで、1回支払えば後はそのレシートを見せるだけでその後の料金所はパスできる。料金所を越えたところに必ずトイレとレストランがあり、そこで休憩することができる。しかし、レストランの方はまだ「ないよりマシ」程度の間に合わせの施設だ。しかも何もかもが高い。チャーイが一杯15ルピーもする。この3つの休憩所以外、ダーバー(安食堂)などはないし、その余地もないので、この休憩所の一刻も早い発展が望まれる。

 ヤムナー・エクスプレスウェイに入ってから2時間でアーグラーに到着。さすがにかっ飛ばすしかやることのない道だけあって早い早い。グレーター・ノイダまで行くのに余分な時間が掛かるので、もしかしたら南デリーからだとこのエクスプレスウェイにはあまり時間的な恩恵はないかと思ったが、走ってみた結果、こちらの方が断然早くアーグラーに着くことが分かった。例えば2006年のツーリングではデリーからアーグラーまで1回の休憩を含めて3時間半以上掛かっている。今回は1回の休憩を含めて3時間ほどでアーグラーに着いた。もし目的地がタージ・マハルならば、ヤムナー・エクスプレスウェイの出口がタージ・マハルからそんなに遠くない場所となるので、さらに有利となる。

 アーグラーではシーラー・インというホテルに宿泊。以前アーグラーに来たときに泊まったことがある。しかし、そこまで辿り着くのに一苦労だった。タージ・マハル周辺は、タージ・マハルを排気ガスなどの汚染から守るために、かなり前から車両の乗り入れが規制されている。タージ・マハルを訪れる観光客は数km離れた場所に自動車を駐車し、電動自動車などクリーンな乗り物に乗ってタージ・マハルまで行くことになっている。だが、前回来たときにはバイクは自由に行き来できた。タージ・マハル周辺はタージ・ガンジと呼ばれ安宿街となっているので、アーグラーで宿泊しようと思った場合、タージ・ガンジに乗り入れできないと困ったことになる。今回は正にそれであった。ウッタル・プラデーシュ州ナンバーのバイクならば通行できるのだが、外のナンバーのバイクは検問で容赦なく追い返される。まずは西門からアプローチして追い返され、次に東門へ南方向からアプローチしてまた追い返された。本当はタージ・マハル東門すぐそばのシーラー・ホテルに宿泊したかったのだが、宿泊目的であってもバイクを乗り入れさせてくれないので、仕方なく同系列の少し離れた場所にあるシーラー・インに宿泊したのだった。シーラー・インのある辺りまではギリギリ車両の乗り入れができる。ACなどないベーシックな部屋で600ルピーだった。

 ホテルに落ち着けたときには既に11時半頃になっていた。早速タージ・マハルを見に出掛けた。タージ・マハルの外国人料金は相変わらず750ルピー。インドの遺跡の中ではもっとも高価だが、近年ずっと据え置かれていることに感謝しなければならないだろう。このチケットがあれば500mlの水とタージ・マハル霊廟に入る際に便利なシューズカバーがもらえ、駐車場とタージ・マハルを結ぶ電動自動車乗車もフリーとなる。

 ちなみに、タージ・マハル東門から駐車場(シルプグラーム)までの道はドクター・マツキ・ミヤザキ・ロードと呼ばれている。宮崎松記氏については以前まとめたことがあるので、そちらを参照されたい。


Dr. Matsuki Miyazaki Road

 タージ・マハルについて改めて詳しく解説する必要はないだろう。シャージャハーンがムムターズ・マハルのために造った世界でもっとも美しい建築物であり、コンプレックス全体の完成には22年の歳月が掛かったとされている。シャージャハーンも死後ムムターズ・マハルの墓の隣に葬られた。ムムターズ・マハルの本名はアルジュマンド・バーノー。ペルシア系(一説によるとアルメニア系)の強力な大臣アブドゥル・ハサン・アーサフ・カーンの娘であった。彼女は結婚以来常にシャージャハーンに連れ添い、寵愛を受けたと言われている。14人の子供を産み、その内の7人が成人した。当時皇帝は複数の妃を持つことが普通であり、シャージャハーンにもアルジュマンド・バーノー以外に数人妃がいた、その中で1人の妃にここまで愛情を注ぎ込むことは極めて稀だ。ムムターズ・マハルが、他の妃が妊娠すると堕胎させていたという残酷な話もあるが、とにかくシャージャハーンの子孫は、ムムターズ・マハルから生まれた子供しか成人しなかった。1612年に結婚し、1631年に死去しているため、結婚以来平均16ヶ月に1回出産していたことになる。子供ばかり産んでいた人生になる。


ムムターズ・マハル

 彼女の死も出産によるものだった。3年前に晴れて皇帝に即位したシャージャハーンと共にブルハーンプルに駐屯中、14人目の子供を産む際の産褥熱により、38歳で死んでしまう。その際、シャージャハーンの頭髪や髭が悲しみの余り一晩で白くなってしまったとか、死に際にムムターズ・マハルが世界で一番美しい建物に葬って欲しいとシャージャハーンに要求したとか、タージ・マハルやムムターズ・マハルを巡る逸話には事欠かない。想像力豊かでサービス精神旺盛なタージ・マハルのガイドなどによってそれらのエピソードはかなり脚色されてしまっていることもあって、一般的に流布しているエピソードを全てそのまま信じ込むのは良くない。例えば、シャージャハーンはタージ・マハルの対岸に黒いタージ・マハルを建てようとしていたという逸話があるが、そのような記述は歴史的文献のどこにもない。そもそも、ムムターズ・マハルはタージ・マハルの建築美のおかげでインド史上もっとも有名な女性となっているのだが、それとは対照的に、彼女はあまり当時の文献に名前が出て来ない。皇帝の絶大な寵愛を受けていながら、叔母のヌールジャハーン(ジャハーンギールの妻)ほど表の政治舞台に立たなかった。謎の多い人物である。


タージ・マハルに捧ぐ花
サーニヤー・パレス・ホテルのルーフトップ・レストランより

 それにしてもタージ・マハルは訪れる度に混雑度が増している。混雑解消のための様々な工夫も見て取れるのだが、それを上回る訪問者があり、収拾できていない。特に霊廟の混雑は度を超しており、ゆっくり墓参りする暇もない。あまりに美しすぎる墓廟を造ると死後安眠できないことをここで多くの人が学んでいることだろう。


タージ・マハル

 今回特に注目したのは、ムムターズ・マハルの元々の埋葬場所である。タージ・マハルに向かって左側、モスクのすぐ近くの庭園の中に小さな囲い地がある。ブルハーンプルで死んだムムターズ・マハルの遺体がアーグラーに運ばれた後、まずはこの囲い地の中に葬られたとされている。入り口は閉ざされていたが、中を覗き込んで見ると、草むらとなっている他は何もなかった。


タージ・マハル完成前にムムターズ・マハルが葬られたとされる囲い地

 アーグラーには何度も訪れたことがあるのだが、実はアーグラー観光については雑魚同然だ。ヤムナー河の対岸にあるイティマードゥッダウラー廟にはなぜか今まで行ったことがなかった。イティマードゥッダウラーとは、アクバルとジャハーンギールに仕えた宰相ミルザー・ギヤース・ベーグに与えられた称号で、「国の柱」という意味だ。ペルシア出身のミルザー・ギヤース・ベーグは、ジャハーンギールの妻ヌールジャハーンの父親で、シャージャハーンの妻ムムターズ・マハルの祖父に当たる人物でもあり、かなりの重要人物である。1622年に、前年に亡くなった妻の後を追うように死去した。


イティマードゥッダウラー廟

 イティマードゥッダウラー廟は娘のヌールジャハーンが両親の死後、1620年代に建造したもので、赤砂岩の基壇の上に静かに佇む白大理石の美しい建物だ。壁で囲まれた正方形の庭園の中心部に建っており、東門からアプローチする。南北にはシンメトリーを創出するために偽の門が建っている。世界遺産ではないが、アーグラーの主要観光地のひとつとなっており、外国人は入場料100ルピーを払う。外壁と内壁を繊細な象眼細工が埋め尽くしており、この装飾がタージ・マハルのモデルのひとつになったことは想像に難くない。象眼細工だけでなくリアリスティックな花の壁画も見られる。これらの装飾デザインは、ヌールジャハーンの一家がペルシアから持参した刺繍などを参考にしたのではないかと考えられている。墓廟の西側にはヤムナー河にベランダが迫り出したパビリオンがあり、アーグラー城に沈む夕日を眺めながら夕涼みができる。ヤムナー河を舟で渡り、この西のパビリオンから廟の敷地内に入ることもできたようだ。規模は大きくないが、とてもセンスの良い建築物である。


ミルザー・ギヤース・ベーグと妻の墓

 スィカンドラーのアクバル廟は訪れたことがあったが、中に入ったのは10年以上前になるので、大帝アクバル参拝を兼ねてもう一度訪ねてみた。世界遺産ではないものの、やはりアーグラーの主要観光地のひとつで、外国人は100ルピー必要だ。


アクバル廟の門

 アクバルはムガル朝の第3代皇帝で、ムガル朝を真の意味での帝国に築き上げた張本人だ。アクバルの治世の建築物は、ファテープル・スィークリーに残る宮殿跡によく見られるように、インドの土着の建築デザインを外来のイスラーム様式建築と折衷させた形になっている。だが、まだその折衷には荒々しさが残り、洗練されていない。アクバルの廟も、やたら壮大なだけで、どこかごちゃごちゃした印象は拭えない。アクバルの墓は、何の装飾もないシンプルなホールの中にぽつんと置かれており、訪問者は地下へ続く通路を通って墓まで行くことができる。


アクバル廟

 アクバル廟を観光し終わった時点で午後4時半を過ぎており、ホテルに戻る時間になったのだが、その前に帰り道の途中にあるケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターン(中央ヒンディー語学院)アーグラー本校を訪ねてみた。僕はこの政府系のヒンディー語学校のデリー校で2年間ヒンディー語を学んだ。在学中に1度だけアーグラー本校を訪れたことがあったが、アーグラー本校自体にはそれだけしか思い出がない。しかしながら、サンスターン時代にお世話になった先生がアーグラー本校に勤務しているとの情報があったので、訪ねてみたのだった。

 アーグラー・サンスターンの場所は、マトゥラー(Mathura)やスィカンドラー方面からアーグラーにアプローチすると大きな看板(Central Institute of Hindi)が出ているのですぐに分かる。キャンパスに入るには校門でエントリーが必要だったが、かつてサンスターンで学んだんだと説明したらすんなり入れてもらえた。現在アーグラー本校に在籍していて僕が教えてもらった先生の中にはプラモード・クマール先生がいた。もう午後5時近かったので会えるか心配だったが、先生は偶然まだ部屋にいて会うことができた。プラモード・クマール先生はしばらくハンガリーで教えていたのだが、いつの間にかインドに戻って来ており、アーグラー本校に勤務となっていた。アーグラー勤務でも基本的にデリーに住んでいるようで、週日は学校の近くに借りた部屋に住み、週末はデリーで過ごしているようである。そのまま家にお邪魔させてもらって、チャーイを飲みながら話をした。プラモード・クマール先生とはFacebookでつながっているので、お互いの近況について特に目新しい話はあまりないのだが、久し振りに会えて嬉しかった。

 ところで、アーグラーでもWiFiが当たり前になって来ているが、僕の泊まったシーラー・インではまだ導入されていなかった。タージ・マハル東門の近くにWiFi可のネットカフェがあったため、そこまでパソコンを持って行ってネットをした。

 本日の走行距離:276.1km。ガソリン補給なし。

10月26日(金) アーグラー→チャンデーリー

 本日の目的地はマディヤ・プラデーシュ州のチャンデーリー(Chanderi)。と言っても知っている人は少ないだろう。ロンリー・プラネットにも載っていないマイナーな観光地だ。しかし、アイシャー・グッドアースがチャンデーリーに特化したガイドブックを出しており、それを見る限り十分に訪れる価値のある場所に思えたので、今回のツーリングの訪問地に加えた。デリーとダウラターバードを直結する道からは少し外れるが、デリーの政権にとって長らく南方制圧の重要拠点となって来た町で、もしかしたらダウラターバード遷都の通り道となったかもしれない。

 チャンデーリーはグワーリヤル(Gwalior)とボーパール(Bhopal)の中間点に位置するが、国道などの大きな幹線は通っていない。州道またはそれ以下の道を必ず通らなければならない。アーグラーからグワーリヤルまでは国道3号線(NH3)の一本道だが、グワーリヤルからチャンデーリーまではいくつかのルートが考えられた。もっとも楽そうだったのは、グワーリヤル→ジャーンスィー(Jhansi)→ラリトプル(Lalitpur)→チャンデーリーのルートである。グワーリヤルから国道75号線(NH75)に乗り、ジャーンスィーから国道26号線(NH26)に乗り換えてラリトプルまで行けば、チャンデーリーまで36kmだ。ラリトプルまで国道が続くので道は悪くないだろう。しかし、グワーリヤル~ジャーンスィーの道は以前通ったことがあった。ツーリングは道との出会いでもある。どうせなら別の道を見てみたい。よって、シヴプリー(Shivpuri)経由の別の道で行くことにした。グワーリヤルからシヴプリー方面には今まで行ったことがなかった。シヴプリー経由でも2-3通りの行き方がありそうだったが、グワーリヤル→シヴプリー→ルクワーサー(Luwasa)→イーサーガル(Esagarh)→チャンデーリーのルートを選んだ。グワーリヤルからルクワーサーまでは国道だが、そこから先は100kmほど非幹線となる。

 午前7時にアーグラーを出発。モール・ロードからNH3に出て南下。6年前はアーグラーからグワーリヤル方面に出る道の状態はかなり悪かったのを覚えているが、今ではちゃんと舗装され、通行に何の支障もない道路に様変わりしていた。アーグラーを出てからも、国道3号線は中央分離帯のある片側2車線の快適な道が続いた。人や動物が横切ったりすることがあるので注意しなければいけないが、基本的に時速80kmで走行できた。

 途中、ダウルプル(Dholpur)でチャンバル河を渡る。チャンバル河に架かっていたNH3上の大きな橋が崩落してしまっていたため、古い小さな橋を渡ることになった。その辺りだけ迂回路となったので道が悪かった。

 グワーリヤルに差し掛かったのは午前9時15分頃。だが、ここから急に道が悪くなる。片側1車線のみの中央分離帯なし対面交通で、交通量も多いため、通り抜けるのに苦労する。グワーリヤル市街地には入らず、西部をかすめるようにして通っているシヴプリー行きの道を通った。

 午前10時頃、グワーリヤルを出た辺りにあるダーバーで朝食を食べた。15分ほど休憩して出発。NH3は、アーグラーとムンバイーを結ぶ1桁台の国道であるが、グワーリヤルから先の道は整備が進んでいなくて、依然として片側1車線の対面交通が続いた。しかも手抜き工事のせいか所々に深い穴が開いているので、それらを避けながら運転しなければならない。交通量も多い。あまり勧められない道だ。

 シヴプリーには午後12時15分に到着。小都市であり、ただまっすぐ通り抜けるだけだ。シヴプリーを抜けて少し進むと、フライオーバーをくぐる。このフライオーバーから西へ行くと、国道76号線(NH76)となり、ラージャスターン州のウダイプル(Udaipur)に着く。そちらへは行かないのでフライオーバーはくぐって直進となる。フライオーバーをくぐってからコーラーラス(Kolaras)という町があり、その先のルクワーサーにチャンデーリー方面への分岐点があった。ちゃんと道標があったのですぐに分かった。

 国道3号線の道の悪さと交通量の多さにはほとほと辟易していたので、ルクワーサーからのこの細い道に出たときにはホッとしたものだった。道の全幅は1.5車線ほど、舗装状態はまあまあだが、交通量が圧倒的に少ないので、走行には苦労しない。街路樹などがないので周囲の農村風景もよく見えるようになり、退屈もしない。ところが、しばらく進むととんでもない悪路が待っていた。一体何年舗装していないのかと言うほどの穴ぼこだらけの道。ABヴァージペーイー元首相の言葉を借りれば「穴の間に道がある」ような悪路だ。これが少なくとも20kmは続く。マディヤ・プラデーシュ州政府への怒りがふつふつと沸き起こった。だが、イーサーガル付近まで来ると舗装道が復活し、ここからは非常に快適な走行となった。チャンデーリーへの道標も要所要所に設置されているので迷うことはない。途中、美しい湖の湖畔を通過したり、ちょっとした峠を越えたりして、風景も楽しめる。この辺りからヴィンディヤー山脈が始まるようで、テーブルトップ型の低い台地が並んでいて、独特の景観だ。

 やがて、田園風景の中に遺跡が見え始め、チャンデーリーに着いたことを知った。「歴史の町チャンデーリーへようこそ」という看板もあった。町の中をざっと通り抜けただけでも、いくつもの遺跡が道端に見えた。素晴らしい場所に来たと感じた。チャンデーリー到着は午後3時半頃であった。

 チャンデーリーではマディヤ・プラデーシュ州観光振興公社(MPSTDC)経営のホテル・ターナーバーナーに宿泊。チャンデーリー市街地からラリトプル方面にしばらく進んだところにある。ラリトプルから来た場合はチャンデーリー市街地に入る前にこのホテル・ターナーバーナーが見つかるだろう。ACなしの部屋で1泊900ルピーほどだった。

 チェックインをしていたら午後4時半頃になってしまい、今日はあまり動き回れなかった。明日、本格的にチャンデーリーを探検する。

 本日の走行距離:374.2km、本日までの総走行距離:650.3km。ガソリン補給2回、合計1,180ルピー。

10月27日(土) チャンデーリー観光

 チャンデーリーは、今でこそ鉄道も通っていないマイナーな町だが、かつてはブンデールカンド地方とマールワー地方の境界にある重要な軍事拠点かつ商業・文化都市であった。「マハーバーラタ」やプラーナ文献に登場するチェーディラージまたはチャイドナガルがチャンデーリーだと比定されており、それが正しいとなるとチャンデーリーの歴史は神話時代まで遡る。しかしながら、現存するチャンデーリーは、プラティハーラ朝の王キールティ・パールによって11世紀に建造されたと考えられている。それ以前のチャンデーリーは別の場所にあり、今ではブーリー・チャンデーリー(Budhi Chanderi)と呼ばれ、密林の中に埋もれている。キールティ・パールがブーリー・チャンデーリーから現チャンデーリーに遷都した張本人となる。以後、デリー・サルタナト朝、マーンドゥー(後述)のキルジー朝、ムガル朝、ブンデーラー・ラージプート、マラーター同盟のスィンディヤー家などに支配され、周辺地域を支配するヘッドクォーターとして栄えて来た。ムガル朝の創始者バーバルによって占領される前には、わずかな期間ながら、メーディニー・ラーイという名のラージプートによる独立国(1524-1528年)がこのチャンデーリーに興ったこともある。アクバルの治世には、チャンデーリーには14,000戸の石造家屋、61軒の宮殿、384ヶ所の市場、350ヶ所のキャラバンサラーイ(隊商用宿泊所)、1,200軒のモスク、1,200基の階段井戸があったとされる。


チャンデーリー市街地

 その歴史を反映して、チャンデーリーには375件もの歴史的建造物が残っており、その内の11件がインド考古局(ASI)に、5件がマディヤ・プラデーシュ州考古局に管理されている。チャンデーリー観光は、一にも二にもそれらの歴史的遺構を巡ることに尽きる。


チャンデーリー城をバックに記念撮影

 しかしながら、チャンデーリーのいい地図が手に入らなくて、必ずしも効率的に巡ることができなかった。アイシャー・グッドアースのガイドブックは情報豊富なのだが、なぜか地図が載っていない。小さな町なので順路通りに見なくても大きな問題はないのだが、ここでは参考のために主要な見所をホテル・ターナーバーナーから近い順に紹介する。実際に観光してみた結果、バイクがあるならおそらくこの順で巡るのが一番効率が良いだろう、というルート案で、僕が実際にこの順番で巡った訳ではない。また、いくつかの遺跡は日光の関係で写真撮影に適した時間が午前または午後のどちらかとなっている。その点にも触れながらチャンデーリーの見所を案内したい。


チャンデーリー城に掲載されていたヒンディー語の略地図

 まずホテル・ターナーバーナーからチャンデーリー市街地へ向かうと、坂を下りる途中、左手にチャンデーリー城へ続く細い舗装道が伸びている。それを道なりに登って行くと、チャンデーリー市街地を見下ろす小高い山の上に出る。この山は南北に2km伸びた細長いテーブルトップ型の台地となっており、ディーングドーと呼ばれている。この山の上にチャンデーリー城が建っている。道の末端にはスィンディヤー家のコロニアル様式レストハウスがあるが、フォート・コンプレックスの入り口はその敷地を越えた先にある。11世紀にキールティ・パールによって建造されたため、キールティ・ドゥルグ(キールティ城)とも呼ばれる。


チャンデーリー城を南端から眺める

 チャンデーリー城にはいくつかの建築物が残っている。まず目立つのは宮殿跡だ。ブンデーラー・ラージプートの王ドゥルジャン・スィンによって建造されたもので、ナウカンダー・マハル(9階建て宮殿)と呼ばれている。この宮殿の上まで上るとチャンデーリーの市街地を一望の下にできる。また、この宮殿の1階には、チャンデーリーの遺跡の修復作業に関する写真がズラリと展示されている。チャンデーリーでは2005年辺りから集中的に遺跡の修復作業が行われており、そのビフォア・アフターが紹介されているのである。また、ヒンディー語のみになるが、チャンデーリーの主要遺跡についての解説や、チャンデーリーの簡単な地図なども展示されており、チャンデーリー観光の一番最初に訪れるべき場所となっている。ナウカンダー・マハルの隣にはモスク跡も残っている。


ナウカンダー・マハル
右半分は修復作業の一環として再建されたもの

 ナウカンダー・マハルからさらにフォート・コンプレックスの奥の方へ歩いて行くと門がある。これはクーニー・ダルワーザー(血の門)と呼ばれている。なぜそう呼ばれるようになったかについては、少なくとも2つの説を目にした。ひとつはナウカンダー・マハルで説明されているものだが、バーバルの攻撃を受けたときに城塞内で大量殺戮があり、この門から血が川となって流れ落ちたため、というものである。もうひとつはアイシャー・グッドアースのガイドブックに載っていたもので、マールワー・スルターン支配下の時代に処刑された犯罪者の遺体が見せしめのためにこの門にぶら下げられたため、というものである。この門から下に伸びる道はチャンデーリーの市街地まで続いており、もし徒歩でフォートまで行こうとしたら、この道を通るのがいいだろう。


クーニー・ダルワーザー

 クーニー・ダルワーザーからさらに奥の方へ道が続いている。そこは谷に突き出た山の先端部となり、小さなチャトリーが建っている。そこからの景色も絶景で、キラート・サーガルと呼ばれる湖を見下ろすことができる。キラート・サーガルの向こう岸には、後述するカティー・ガーティー門も見える。


フォート・コンプレックスの南端

 他に、フォート・コンプレックス内にはふたつの石碑が立っている。ひとつはジャウハル記念碑。バーバルの攻撃によってチャンデーリー城が陥落したとき、600人のラージプート女性たちがジャウハル(名誉を守るための集団自殺)を決行し、湖に身を投げて死んでしまった。それを記念する碑文である。近くにはその湖も残っており、ジャウハル・タール(ジャウハル湖)と呼ばれている。


ジャウハル祈念碑

 もうひとつの石碑は、チャンデーリーに生まれた「サンギート・サムラート(音楽の皇帝)」バイジュー・バーウラーを記念したものだ。バイジュー・バーウラーは本名をバイジューナート・プラサードと言うが、子供の頃から歌が大好きで、河原に座って鳥や動物たちに歌を聴かせて時を過ごしていた。あるときバイジューナートは大失恋してしまい、その後は音楽の世界に没頭することになる。人々はそんな彼をバーウラー(狂人)と呼んだ。やがてバイジュー・バーウラーは優れたドゥルパド歌手として知られるようになり、グワーリヤルの王マーンスィンの宮廷音楽家にもなった。彼は、アクバルの宮廷のカリスマ的音楽家であるターンセーンに音楽の勝負で勝利したとも言われている。


バイジュー・バーウラー祈念碑

 チャンデーリー城を見終わった後は来た道を引き返し、ディーングドー山を下りる。すると左手に、旧市街に入る小さな門がある。それをくぐって石畳の道を真っ直ぐ進む。道端にいる人々に道を尋ねつつ、適切な交差点で左に曲がると、一番奥にシュリー・ジャゲーシュワリー寺院へ続く階段がある。ディーングドー山の中腹にいくつかの小さな寺院が平行に並んでいる。この寺院の由来については後述する。この寺院からもフォートへ上る道がある。


シュリー・ジャゲーシュワリー女神

 そのままチャンデーリー市街地へ向かって走って行くと、小さなロータリーのある交差点に出る。左にはデリー門があり、チャンデーリー旧市街の入り口となっている。名前の通り、デリーの方向を向いているためにそう名付けられた。右はピチョール(Pichor)へ通じる道だ。やや左寄りに真っ直ぐ進むと、市街地に通じている。だが、よく見るともうひとつ道がある。バイク2台がやっとすれ違えるくらいの細い道が真っ直ぐ伸びているのである。周囲より一段高くなっていて、ガードレールもないので危ないのだが、この道を進む。するとまずは2頭の向かい合った馬の彫刻が立っている。これについては後で説明する。


馬の彫刻

 その馬の彫刻からさらに道なりに進んで行くと、四角形の大きな貯水湖に出る。これがパルメーシュワル・タールである。パルメーシュワル・タールと前述のシュリー・ジャゲーシュワリー寺院については、チャンデーリーの起源にも関係する以下のような興味深い言い伝えが残っている。主人公は、チャンデーリー城を建造したプラティハーラ朝のキールティ・パール王である。
 キールティ・パール王はハンセン病に冒されていた。ある日、王はブーリー・チャンデーリーから狩猟に出掛けたが、部下たちとはぐれてしまい、森林の奥深くに迷い込んで、とある池に辿り着いた。王がこの池で沐浴すると、なんと彼のハンセン病が治ってしまった。そのとき、この池の主である女神が王の目の前に現れ、ハンセン病を治癒した見返りとして、近くの山の上に自分のための寺院を造るように言った。ただし、寺院が完成した後、9日間は寺院の扉を開けないようにと忠告もした。

 キールティ・パール王は女神に言われた場所に寺院を建立した。しかし、好奇心に勝てず9日経つ前に扉を開けてしまった。すると、完治したはずのハンセン病が再発してしまった。しかもその後、ブーリー・チャンデーリーは地震で壊滅し、王は現チャンデーリーに遷都することになった。
 この女神がジャゲーシュワリーであり、沐浴したらハンセン病が治ったとされる池がパルメーシュワル・タールであり、キールティ・パール王が建立したとされるのがシュリー・ジャゲーシュワリー寺院なのである。


パルメーシュワリー・タールとラクシュマン寺院

 パルメーシュワル・タールの向こう岸には白い建物が建っているが、これはジャゲーシュワリー女神とは関係なく、ラームの弟ラクシュマンを祀ったラクシュマン寺院となっている。この寺院の由来については、こんな言い伝えがある。
 かつてラクシュマン像を運ぶ一団がパルメーシュワル・タールの湖畔で一夜を明かしたことがあった。彼らはラクシュマン像を菩提樹の下に置いた。翌朝、彼らがラクシュマン像を運ぼうとすると、どう頑張っても持ち上がらなかった。ラクシュマン像がこの地を気に入ったのだと考えた一団は、ここに寺院を建造した。これが現在のラクシュマン寺院となった。
 パルメーシュワル・タールまで来ると、近くにシェヘザーディー・カ・ラウザーが見える。「姫の墓」と言った意味だ。チャンデーリーに残る墓廟群の中ではもっとも保存状態がいい。建造時期を示す碑文などは残っていないが、15世紀の建築だとされている。かつてはドームがあったと思われるが、今では崩落してしまっている。また、ドームの四隅にはチャトリーがあったと容易に予想されるが、現在残っているのはひとつだけだ。上部にはうっすらと青色の装飾が残っている。この種の装飾はデリーのプラーナー・キラーやフマーユーン廟コンプレックスなどでも見られるので、何か関係があるかもしれない。


シェヘザーディー・カ・ラウザー

 シェヘザーディー・カ・ラウザーにまつわる、こんな悲恋物語が伝わっている。
 メヘルンニサー姫は軍の隊長を務める平民出の男と恋に落ちた。それを知った王は失望し、娘を説得してその関係を断ち切らせようとしたが、失敗に終わった。そこで王はその男を暗殺するために刺客を送った。ところがその男は重傷を負いながらも生き延び、チャンデーリーまで戻って来た。そしてチャンデーリーに辿り着いたところで力尽き、最後に叫び声を上げた。メヘルンニサー姫はその声を聞き、恋人のところへ急いだが、助けることはできず、男は死んでしまった。それを見た姫は嘆き悲しみ、自殺してしまった。
 また、上で2つの馬の彫刻について触れたが、その場所こそが、メヘルンニサー姫とその恋人が死んだ場所だとされている。この王やメヘルンニサー姫がどの時代に属するのかについては不明である。

 ラクシュマン寺院とシェヘザーディー・カ・ラウザーの間の道をずっと進んで行くとバイパスに出る。チャンデーリー市街地にはバスやトラックなどの大型車両は進入禁止となっており、チャンデーリーの通過にはこのバイパスが利用される。


バイパス沿いのイードガー
今日はイードだった

 バイパス沿いに白いイードガーがあり、その右側にある小高い丘に白い小さな建物が見えて来る。これはアリー・ジー・キ・ダルガーと呼ばれる聖廟である。その聖廟の麓にはアーチの回廊を持つ廃墟がある。これはシャーヒー・マドラーサー(王の学校)と呼ばれているが、中には3つ墓があり、学校ではなく誰かの墓廟なのではないかと思われる。シャーヒー・マドラーサーから見てちょうどアリー・ジー・キ・ダルガーの裏辺りにあるのがバッティースィー・バーオリーである。チャンデーリーに残る階段井戸の中でもっとも保存状態が良い遺構で、「32段の階段井戸」という意味である。1485年にマールワーの王ギヤースッディーン・キルジーによって建造された。石が散乱し茂みが広がる荒野の中にポツンと存在しており、道らしき道もないため、ガイドなしに辿り着くのは非常に難しい。一度アリー・ジー・キ・ダルガーまで上って位置を確認するのもいい手だろう。バイクでは行かない方がいいかもしれない。近くにはモスクもあったようだが、現在では残っていない。


バッティースィー・バーオリー
裏の小高い丘の上にはアリー・ジー・キ・ダルガーが建っている

 バイパスまで戻り、イードガーから先に進むと、チャンデーリーの町外れに着く。そこを右折して道なりに進んで行くと、道は二手に分かれている。左へ行くとすぐに右手に考古学博物館の入り口がある。2007年に完成したばかりの新しい博物館で、チャンデーリーで発掘された石像などが展示されている。入場料は5ルピー。


チャンデーリー考古学博物館

 少し道を戻って、今度は分かれ道を右へ進んで村の中を抜けて行くと、巨大な建築物が見えて来る。これがチャンデーリーの遺跡の中でも傑作のひとつに数えられるコーシャク・マハルである。正方形のプランの中央から四方に通路が伸びており、四隅には階が重なっていて階段で上に上って行ける。東に面する門にはアーチの中にアーチが並ぶ彫刻がしてあり美しい。アフガーン様式の建築と説明されているが、何をもってアフガーン様式なのかはよく分からない。アフガーン系の政権と言うとローディー朝で、デリーにはローディー朝時代の遺跡もたくさん残っているが、このような建築物はデリーにはない。15世紀にマーンドゥーの王メヘムード・シャー・キルジーが建設したようだが、このようなユニークな建築物を造った理由については諸説あって定まっていない。1445年にジャウンプルの王メヘムードとの戦争に勝利したのを記念して建造したとの説、メヘムード・シャーがこの地で出産時に死亡した妃コーシャクのために建てたという説、チャンデーリーの人々に雇用を創出するために公共事業の一環として建設したという説などがある。現存する建物は3階半の高さだが、元々7階建てだったという説もあるし、完成しなかったという説もある。コーシャク・マハルは東を向いているために午前中に見るのが一番いい。


コーシャク・マハル

 コーシャク・マハルはチャンデーリーの遺跡群の中ではもっとも辺境に位置している。そこから道を引き返し、バイパスとの合流点も直進して、チャンデーリー市街地に入る。そのまま道なりに進んで行くと、ラームナガル行きの道が右手に分岐している。その道を進むとすぐに大きな湖の湖畔に出る。これが、チャンデーリー城からも見えたキラート・サーガルである。この湖畔からのチャンデーリー城の眺めは素晴らしい。


キラート・サーガルとチャンデーリー城

 キラート・サーガルの湖畔の道をずっと進んで行くと道は二手に分かれている。右の道を行くと急な山道となり、そのままカティー・ガーティー門まで続いている。チャンデーリーの南の入り口となるこの門も、チャンデーリーのユニークな見所のひとつである。なんと山の一部を削って門にしているのである。高さ10m、幅は25mある。「カティー・ガーティー」とは「山を削った」という意味だ。やはりその建造の理由には諸説ある。1527年にバーバルがチャンデーリーを攻めたときに造ったという言い伝えもあるが、門に残っている碑文によると1490年マーンドゥーの王ギヤースッディーン・キルジーの治世に造られたもののようだ。


カティー・ガーティー門

 この門の建造については以下のような逸話が残っている。
 あるとき、ギヤースッディーン・キルジーがマーンドゥーからチャンデーリーを訪れることになった。チャンデーリーの太守ジマン・カーンは王を歓迎するために、チャンデーリーの南側に壮麗な門を造ることを決めた。しかし、王の来訪まで1日しか時間がなかった。太守は、1日で山を削って門を造ることができた者には多額の報酬を与えると公表した。

 名乗りを上げた石工は1人しかいなかった。彼はチームを率いて仕事に取り掛かった。翌朝、太守が見てみると、驚いたことに門が完成していた。しかし、彼は門に扉がないことに気付き、それを理由に報酬を与えることを拒否した。石工は失望し、その場で自殺してしまった。
 この石工の墓とされるものがカティー・ガーティー門のすぐ北に残っている。また、門の南側には3つのアーチが彫られているが、これはバーバルがチャンデーリーを侵攻したときに、戦争の勝利を祈願して礼拝した場所だとされている。


カティー・ガーティー・ゲートを彫った石工の墓

 カティー・ガーティー・ゲートを越えて南へ行くと、ラームナガルという村に出る。その村を越えてさらに進んで行くと、正面に鬱蒼とした林に埋もれる3階建ての建物が見えて来る。これがラームナガル・マハルである。美しい湖の湖畔に建つこの宮殿は、1698年ブンデーラー・ラージプートの王ドゥルジャン・スィンによって建設されたもので、狩猟用のロッジとして使用された。この建物の敷地内はちょっとした博物館となっており、周辺地域から発掘された重要度の低い出土品などが展示されている。


ラームナガル・マハル

 ラームナガル・マハルからカティー・ガーティー・ゲートを通ってチャンデーリーまで戻る。キラート・サーガルの手前の分かれ道を右に行くと、カンダーギリというジャイナ教の寺院群に出る。チャンデーリー周辺ではジャイナ教が栄え、現在でも多くのジャイナ教徒がチャンデーリーに住んでいる。ここでの最大の見所は、崖に彫られた巨大なリシャブナート像である。高さ14mある。他にも小さなティールタンカラ像が崖の至る所に彫られており、階段を使ってそれらまでアクセスできる。これらのティールタンカラ像は少なくとも12-13世紀のもののようである。これがあるため、チャンデーリーを観光するインド人観光客にはジャイナ教徒が多い。


カンダーギリのリシャブナート像

 カンダーギリからチャンデーリー市街地に戻る。市場の方へ向かうと、まずは左手に3つのドームを戴くジャーマー・マスジドがある。1251年に奴隷王朝のギヤースッディーン・バルバンが、チャンデーリーを支配下に収めたことを記念して建設したとされているが、現存する建築物の建築様式を見ると、後の時代のものだと考えられている。ジャーマー・マスジドはインドの他のモスク建築と同様に四方を壁で囲まれている。東側にある唯一の入り口には幾何学模様や花模様の繊細な彫刻が施されている。これは15世紀のものだとされている。モスクの内部には、礼拝ホールと南北のダーラン(回廊)に屋根があり、アーチで支えられている。各支柱には、チャンデーリー建築に特徴的な蛇の彫刻がしてある。メッカの方向を示すキブラも細長いアーチの彫刻になっており、とても美しい。


ジャーマー・マスジド

 ジャーマー・マスジドから少し先に進むと、右手にある稜堡にバーダル・マハル門への入り口があるのが分かる。バーダル・マハルの敷地内は美しい庭園となっており、その奥に、チャンデーリー城をバックにして、チャンデーリーの象徴とも言えるバーダル・マハル・ゲートが静かに佇んでいる。


バーダル・マハル門とチャンデーリー城

 高さ15m、2本の塔を従えた二重アーチの絶妙なプロポーションをした門であるが、上部のジャーリー(スクリーン)を初め、彫刻も美しい。特定の建物の入り口ではなく、デリーのインド門のように、独立して立っている。1450年にマーンドゥーのメヘムード・シャー・キルジーが建設した。賓客を迎える歓迎門として建てられたとか、戦争の勝利を記念して建てられたとか言われている。もしくは、かつてバーダル・マハル(雲の宮殿)という宮殿があり、その入り口だったとも考えられている。インドの門建築の最高傑作のひとつと言っても過言ではないだろう。バーダル・マハル門は西に面しているので、午後から夕方にかけて観光すると、もっとも綺麗に見える。夕方にはバーダル・マハル門前の庭園には多くの地元民が夕涼みにやって来るため、とてもいい雰囲気だ。


バーダル・マハル門

 バーダル・マハル・ゲートを出て右手にモスクがあるが、そのモスクの右側の路地を歩いて行くと、美しい透かし彫りのスクリーンで囲まれた一角がある。その中はイスラーム教徒の墓地となっており、大小いくつもの墓が並んでいる。多くは野ざらしだが、いくつかの墓には屋根があり、透かし彫りスクリーンで装飾されている。これは、デリーで活躍したスーフィー聖者ニザームッディーン・アウリヤーの家族の墓だとされている。なぜニザームッディーンの家族の墓がチャンデーリーにあるのかは不明である。ニザームッディーンの弟子や子孫の墓なのではないかとの説もある。


ニザームッディーン・アウリヤーの家族の墓

 これでチャンデーリーの主な見所は巡ったことになる。ちなみにチャンデーリーの遺跡は今のところ全て入場無料である。遺跡の管理人からビジターブックへの記帳を求められることもある。ただしジャーマー・マスジドだけはカメラ撮影に25ルピーを支払わなければならない。


ジャーマー・マスジド玄関の彫刻の一部

 チャンデーリーの建築の第一の特徴は繊細な彫刻である。彫刻で有名な遺跡はインドにいくつもあるが、チャンデーリーはその中でもトップクラスだと言っていい。さらに、建築にも独創性があり、バーダル・マハル門やコーシャク・マハルに代表されるユニークな意匠の建築が残っている。ただ、チャンデーリーの遺跡群の大半はかなりアグレッシブな修復がされており、来訪者に強い疑問を投げ掛けることだろう。そのビフォア・アフターの豹変振りはチャンデーリー城で見ることができる。はっきり言って、「ここまで勝手に修復しちゃっていいの?」というレベルのものである。例えるならば、ピザの斜塔を真っ直ぐにしてしまうような修復方法だ。管理も整備もされていない遺跡を見ると保存・修復の必要性を強く感じるのだが、チャンデーリーのように行き過ぎた修復も考え物ではないかと思ってしまう。


田園の中に溶け込むシェヘザーディー・カ・ラウザー

 しかしながら、それを差し引いてもチャンデーリーは個性的な中世建築がいくつも残る魅力的な場所であり、「秘境」のタグにふさわしい。かつて、「地球の歩き方」などでジャーンスィーの近くにあるオールチャー(Orchha)が秘境扱いされていた頃があるが、オールチャーはもうかなり観光地化されてしまい、そのタグにはふさわしくない。オールチャーからも遠くないこのチャンデーリーこそ、マディヤ・プラデーシュ州の秘境を名乗る権利がある。観光客はほとんどおらず、外国人観光客は皆無に近い。バイクがあると観光が楽になるので、ツーリング先としても最適だ。ジャックポットの場所だった。



 本日の走行距離:60.8km、本日までの総走行距離:711.1km。ガソリン補給なし。

10月28日(日) チャンデーリー→ボーパール

 チャンデーリーの次の目的地はウッジャイン(Ujjain)であったが、チャンデーリーからウッジャインまでは400kmあり、チャンデーリー周辺の道の状態を鑑みるに1日で走破することは大変そうだった。よって、途中どこかで1泊する必要があった。ちょうど中間地点にはマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール(Bhopal)がある。また、ボーパールからおよそ40kmほど手前には世界遺産サーンチー(Sanchi)がある。サーンチーで宿泊しても良かったのだが、どうせならボーパールまで前進しようと考えた。サーンチーは今まで2度訪れたことがあるが、せっかくなので立ち寄って3度目の観光をし、ボーパールで宿泊というのが本日のプランである。

 午前8時半にチャンデーリーを出て、考古学博物館の左から伸びているヴィディシャー(Vidisha)方面行きの道路に出た。まさかとは思ったが、やっぱりこの道も非常に悪かった。道路拡張工事中なのはいいのだが、道路を作っているのか壊しているのだか分からないような状態の区間が80kmほど続く。ラフな砂利だらけの一本道が地平線の彼方まで伸びているのを前にすると、さすがに気が遠くなる。しかし、それを克服すれば、全幅2車線ある舗装道となり、交通量もそんなに多くないため、時速80kmの走行が可能となる。ヴィディシャー付近まで来ると、国道86号線(NH86)となるため、道の状態はさらによくなる。交通量が増えるので走る気持ちよさは減るが、サーンチーへ近付くにつれてかつての思い出が蘇って来た。2度目にサーンチーに来たとき、サーンチーで自転車をレンタルしてヴィディシャーまでサイクリングをした。自分で運転して旅をすると周囲の景色をよく記憶するものだ。ヴィディシャーに入る前にベース川を渡るが、この付近からかつて通った風景だと感じるようになった。サーンチーには午後12時45分に到着した。

 まずはサーンチー・ストゥーパの建つ丘の麓にあるマディヤ・プラデーシュ州観光開発公社(MPSTDC)経営のカフェテリアで昼食を食べた。このホテルには以前宿泊したことがあるが、ホテル自体にあまり思い出はない。

 昼食を食べ終わった後、サーンチー・ストゥーパを見に出掛けた。丘の麓にチケット・ブースがあり、ここで入場料などを支払う。外国人料金は250ルピー。バイクで上まで行くには別に5ルピーが必要だった。


サーンチーのストゥーパ

 前述の通り、これが人生3度目のサーンチー観光であるが、以前来たのはいつだったか調べてみると、なんとちょうど10年前であった。あの頃と比べるとサーンチー・ストゥーパのコンプレックスは見違えるほど整備されており、遺跡自体も修復・美化がされていた。一番ありがたかったのは、サーンチーのトーラン(門)に彫られた彫刻がひとつひとつ解説されていたことだ。ガイドブックを見たりガイドを雇ったりしなくても、これを見れば最低限の情報が得られる。もっとも北門以外の解説はヒンディー語オンリーであったが。


北門裏の彫刻

 さて、サーンチーを流し観光し終え、これからボーパールへ向かう訳だが、1人ボーパールで会いたい人物がいた。グンデーチャー・ブラザーズの下でドゥルパド(インド古典声楽の一種)の修行をしている日本人、井上想君である。かつてデリーでグンデーチャー・ブラザーズのプライベート・コンサートがあったときに出会い、その後何度かデリーで顔を合わせる機会があった。そのとき「ボーパールにいつか行く」と口約束したのだが、それを実現するときが来たようだ。まだ彼がボーパールに住んでいるか、住んでいるとしてもボーパールに今現在いるか、分からなかったのだが、サーンチーから電話してみたらボーパールにいた。もう5年目になると言う。彼が住み込みで修行しているドゥルパド・サンスターンの寮にゲストルームがあり、そこでの宿泊も可能とのことだったので、お言葉に甘えて泊まらせてもらうことにした。

 午後2時15分頃にサーンチーを出た。サーンチーからボーパールまでは舗装道が続く。ボーパール市街地に入ったのは午後3時15分頃であった。今日は日曜日のため市場は閑散としており、道も空いていた。ドゥルパド・サンスターンは、ボーパールの南西にあるスーラジナガルという地域の一角にあった。ちょうどインダウル(Indore)やウッジャインへ抜ける道の方向にあったので都合が良い。都市の喧噪から離れた立地で、音楽に没頭できそうだ。現在インドはダシャハラーやディーワーリーのお祭りシーズンで、里帰りしている生徒も多く、寮にいたのは限られた生徒だけであった。太陽光発電でお湯も使えて、なかなか設備は整っている。ただし寮なので規則は厳しい。井上君を含め、外国人の生徒も多かった。夕食も寮の食事をご馳走になった。


ドゥルパド・サンスターン

 本日の走行距離:235.4km、本日までの総走行距離:946.5km。ガソリン補給1回、500ルピー。

10月29日(月) ボーパール→ウッジャイン

 井上想君は変わった人物だ。まず、携帯電話を持っていない。彼との連絡は、彼のルームメイトが持っている携帯電話を通して行うしかない。Eメールも50日に1回しかチェックしていないと言う。よって、日本に住む家族や知人との交流は未だに手紙に頼っている。そんな井上君が毎朝日課としているのが、近隣の村の子供たちに花を一輪ずつ配り歩くという、突拍子もない素敵な試みである。そのおかげで井上君は子供たちに大人気だ。子供たちは毎朝彼に配られる花を楽しみにしていると言う。今朝は僕もその散歩に同行させてもらった。

 グンデーチャー・ブラザーズから直々にゲストルームに宿泊する許可を与えてもらったので、お礼を言ってから立ち去りたかったが、残念ながら会えなかった。普段は午前10時頃にドゥルパド・サンスターンに来るようだが、グワーリヤルでコンサートをして今朝ボーパールに到着したばかりなので、遅くなりそうとのことであった。よって午前10時まで待って、ドゥルパド・サンスターンを発った。

 ドゥルパド・サンスターンのあるスーラジナガルはボーパールの西南部にあり、本日の目的地ウッジャインの方向に向かう片側1車線の舗装道が通っている。この道はスィーホール(Sehore)で州道18号線(SH18)と合流する。SH18は片側2車線、中央分離帯ありの立派な道路で、これがインダウルまたはウッジャインの道への分岐点となるデーワース(Dewas)まで続く。デーワースからは片側1車線の道となるが、舗装はまあまあで、走行に大きな支障はなかった。ウッジャイン市街地に入ったのは午後1時頃であった。よく整備されたSH18のおかげで、ボーパールからウッジャインまでの約200kmの道のりは3時間しか掛からなかった。

 ウッジャインではホテル探しに多少苦労した。ロンリー・プラネットに掲載されていた2つのホテルが閉鎖または改装中で、3つめに訪ねたホテル・グランド・タワーでやっと今日の宿泊地を見つけることができた。見所が集まっているウッジャイン旧市街から遠いので、観光には多少不便だ。一番安いシングルの部屋で1,300ルピーほど。ビジネスホテルのような雰囲気で、部屋には一通り設備が揃っている。このホテルに併設されているヴェジタリアン・レストラン、ジャローカー(Zharokha)は非常にレベルが高く、期せずしてウッジャインにてグルメな食生活を楽しむことができた。

 ウッジャインはかつてアヴァンティカーと呼ばれていた古都で、ヒンドゥー教7大聖地のひとつでもある。ウッジャインには12ジョーティルリンガのひとつを祀るマハーカール寺院があり、参拝客を集めている。ウッジャインの見所はほとんどがヒンドゥー教寺院だ。ウッジャインは初めての訪問だが、元々それらを全て回る積もりはなく、マハーカール寺院だけを拝めたらいいと考えていた。ウッジャインを訪れたのは、単に古い聖地の雰囲気を楽しみたかっただけだった。

 マハーカール寺院はウッジャイン旧市街の中心部にある。しかし、想像していたのとは違い、マハーカール寺院の建築は、遠くから目立つような大きなものではなかった。周囲より一段低いところに境内があり、地下深くにシヴァリンガを納めたガルバグリハ(聖室)がある。寺院は、大量の参拝客をコントロールするために、かなりシステマティックに整備されている。一般参拝客と特別参拝客の2つの入り口があり、特別参拝客は151ルピーのチケットを購入して中に入る。特別参拝客の入り口から入るとすぐにシヴァリンガまで到達できるが、一般参拝客はしばらく列に並んで待たされることになる。境内へのカメラなどの持ち込みは禁止で、特別参拝客チケットを購入すると無料でクロークルームを利用できる。しかし、回りのインド人参拝客があまりに真剣にシヴァリンガを拝みに来ているので、物見遊山で足を踏み入れてしまうと浮いてしまう。マハーカール寺院は、非ヒンドゥー教徒にとってはそんなに楽しい場所ではないかもしれない。


マハーカール寺院の入り口

 マハーカール寺院から西に出ている道を下りて行くと、ハルスィッディ寺院などを経てシプラー川の岸に出る。この辺りはラーム・ガートと呼ばれている。ヴァーラーナスィーのガートをスケールダウンしたような雰囲気で、こぢんまりとした静かなガートだ。毎日午後6時半からはサンディヤー・アールティという儀式が行われている。


ラーム・ガート

 北回帰線のすぐ近くに位置するウッジャインには、天文マニアとして知られるジャイプルの王サワーイー・ジャイ・スィンがマールワー太守を務めていた1719年にウッジャインに造った天文台が残っている。デリーやジャイプルにもあるジャンタル・マンタルと同じ種類のものだ。ここでもジャンタル・マンタルと呼ばれているが、正式名称はヴェード・シャーラーである。入場料10ルピー。デリーやジャイプルのものと比べたら規模はずっと小さいが、ウッジャインのジャンタル・マンタルは唯一今でも利用されていると言う。各観測器具には事細かに解説も添えてある。占星術に関係する器具はよく理解できなかったが、日時計はさすがに理解できた。まずはウッジャインの正確な時刻が太陽の影によって示され、インド標準時間との誤差を、器具に添えられている表を使って調整する。試しに自分の腕時計と日時計が示す時刻を照らし合わせてみたが、僕の時計の方が3分早かった。


ヴェード・シャーラー
ウッジャインの正確な時刻を示す巨大な日時計

 本日の走行距離:207.3km、本日までの総走行距離:1,153.8km。ガソリン補給1回、500ルピー。

10月30日(火) ウッジャイン→オームカーレーシュワル

 本日の目的地であるオームカーレーシュワルにはやはり10年前に訪れたことがある。ナルマダー河の中に浮かぶ島の形が上から見るとヒンドゥー教の聖印オーム(ॐ)に似ていることから、オームカーレーシュワル(オームの神様)と呼ばれている。また、その島に鎮座するシュリー・オームカール・マーンダーター寺院には、12ジョーティルリンガのひとつが祀られており、ヒンドゥー教の重要な巡礼地にもなっている。しかし、10年前はインダウルから日帰りでのせわしない旅行で、のんびり観光できなかった。あのときの「日帰りではなくここに1泊したかった」という気持ちが、今回のオームカーレーシュワル再訪につながっている。ウッジャインからその次の目的地であるブルハーンプルまでの中継地点としてもちょうどいい位置にある。


オームカーレーシュワルの航空写真
実は単なる三角形の島

 午前8時半にウッジャインを出発。ウッジャインとインダウルを結ぶ州道27号(SH27)は片側2車線、中央分離帯ありの快適な舗装道で、1時間ほどでインダウルに到着した。おそらくインダウルには市街地をグルッと取り囲むリングロードがあり、インダウルを通り抜けるにはその道を使った方がいいかもしれない。だが、僕はインダウル市内を中央突破する道に入ってしまった。まだ朝早かったので市場などはそんなに混んでおらず、おそらくタイムロスは少なかったはずだ。また、通りすがりにインダウルの象徴ラージワーダーも見ることができた。18世紀からマールワー地方を支配するマラーター同盟のホールカル家によって建造された宮殿である。ラージワーダーで写真撮影をしたりしていたので、インダウルを抜けるのに30分は掛かった。


ラージワーダー

 インダウルから先も道の名称はSH27だが、道のグレードは落ち、片側1車線の対面交通になる。しばらく進むと山道となり、峠をいくつか越えることになる。また、踏切も何ヶ所かあった。インダウルを出て1時間半ほどで、オームカーレーシュワル・ロード駅に差し掛かる。ここから左へ折れると、オームカーレーシュワルへ一直線に向かうオームカーレーシュワル・ロードとなる。午前11時45分にはオームカーレーシュワルに到着した。


オームカーレーシュワル

 オームカーレーシュワルは本土部分と島部分に分かれており、その間には新旧2本の橋が架かっている。だが、基本的に島へは車両の乗り入れはできない。よって、自家用車で来た場合は一般的に本土部分で宿を探すことになるだろう。ところが、狭い路地と階段による接続で成り立っているオームカーレーシュワルは、駐車場が大きな問題となる。オームカーレーシュワルで宿泊したのはホテル・ギーターシュリーであったが、ホテルの人曰く、オームカーレーシュワルで唯一駐車場のあるホテルとのことだった。島へ向かう路地を走っていてたまたま見つけた。僕の宿泊した部屋は1泊400ルピーだが、部屋の新旧や階によって宿泊料には開きがある。


参道で水を提供する老人

 10年前にここに来たときの日記を読み返すと、チラホラとヒッピーみたいな白人旅行者がオームカーレーシュワルまで来ているのを見て、「おそらくここも10年後には(ヴァーラーナスィーのような)立派な観光地になっているのではなかろうか」と書かれており、少し微笑ましい気分になる。この10年間でオームカーレーシュワルは確かにかなり発展したが、外国人の姿は依然として稀である。いるのはインド人ばかりだ。むしろヒッピー型の外国人旅行者は今回1人も見なかった。シーズンの関係であろうか、それともヒッピーの間でオームカーレーシュワルの人気が落ちてしまったのであろうか。10年前と比較して、オームカーレーシュワルの景観をもっともドラスティックに変えてしまっているのは、オームカーレーシュワルのすぐ上流に造られた巨大なダムである。いわゆるナルマダー・ダム・プロジェクトの一部だ。ジャワーハルラール・ネルーが「現代の寺院」と呼んだダムは、この古くからの寺院の町を無言のまま冒涜し威圧している。かつてのどかだったオームカーレーシュワルも、このダムのせいで何とも不気味な光景になったものだ。


川の上流に見えるのがオームカーレーシュワル・ダム

 バススタンド近くのボージュナーラヤ(食堂)で昼食を食べた後、島の方へ向かった。バススタンドから既にシュリー・オームカール・マーンダーター寺院の参道が始まっており、参拝グッズや土産物などを売る店が所狭しと軒を連ねている。橋を渡って島へ行き、まずはシュリー・オームカール・マーンダーター寺院を参拝した。10年前に来たときは簡単に中に入れたのだが、現在では参拝客数の増加のためか、ウッジャインのように一般参拝客と特別参拝客が分けられ、寺院周辺もかなりきれいに整備されていた。しかし、残念なことに、寺院は参拝客から多額の金を巻き上げようとする悪徳ブラーフマンの巣窟となってしまっていた。10年前はこんなことはなかったと思うのだが・・・。


シュリー・オームカール・マーンダーター寺院

 シュリー・オームカール・マーンダーター寺院のそばから上に上る道を上って行くとラージャー・マーンダーター・マハルという宮殿まで行ける。ホールカル家の宮殿だ。この宮殿にも10年前に来たことがある。当時はかなり朽ち果てた建物だったのだが、現在ではカラフルに塗装がされていた。今でも人が住んでいるが、自由に中を見学させてもらえる。


ラージャー・マーンダーター・マハル内部

 宮殿から道なりに歩いて行くと下に下りる階段がある。それを下りて行くと、パリクラマー・マールグ(巡礼路)に出る。この道は島をグルッと巡っている。オームの形をした島を巡るということは、オームの軌跡を描きながらの旅となる。前回来たときにはパリクラマー(巡礼)をする時間がなかったが、今回は時間は有り余っているので、パリクラマーをすることにした。おそらくパリクラマー・マールグはこの10年の間にかなり整備されたはずだ。石畳の歩きやすい道となっており、道端にはヒンドゥー教の聖典バグヴァド・ギーターがヒンディー語訳と共に1-2節ずつ書かれた看板が数mおきに立っている。また、このパリクラマー・マールグ沿いには多くの茶屋や土産物屋が営業しており、途中休憩も簡単にできる。


パリクラマー・マールグ

 まず道はナルマダー河とケーヴェーリー河のサンガム(合流点)へと向かう。この道はオーム(ॐ)の左下の部分となり、サンガムが左下の先っぽに位置することになる。また、サンガムの近くにはリン・ムクテーシュワル(借金帳消しの神)寺院というラディカルな名前の神様が祀られた寺院がある。サンガムでは多くのインド人が沐浴をしていた。


サンガム

 サンガムからリン・ムクテーシュワル寺院の左側を進む。緩やかな上り道をしばらく進むと、やがてガウリー・ソームナート寺院のある広場に出る。この辺りがオーム(ॐ)の左中央、線の交差点となっている部分になる。ガウリー・ソームナート寺院は11世紀建立のシヴァ寺院で、シカラ(尖塔)部分が3階建ての構造となっている。各階にシヴァリンガが祀られており、1人がやっと通れるくらいの小さな階段を使って上って行ける。また、1階にはシヴァリンガの裏にガウリー(パールヴァティー)像がある。


ガウリー・ソームナート寺院

 ガウリー・ソームナート寺院の前にはパーターリー・ハヌマーン寺院またはレーテー・ハヌマーン(寝たハヌマーン)寺院と呼ばれるハヌマーンを祀った寺院がある。文字通り寝た姿のハヌマーン像が中にあるが、涅槃仏のように横になって寝ている訳ではなく、仰向けになって気持ちよさそうに寝ている。


パーターリー・ハヌマーン寺院

 パーターリー・ハヌマーン寺院の左側の道を進んで行くと、右手の中空に巨大なシヴァ像が見えて来る。これはシュリー・ラージ・ラージェーシュワリー・セーヴァ・サンスターン基金という宗教団体が建設したもので、30mある。その巨大シヴァ像自体が寺院となっている。


巨大なシヴァ像

 そこからさらに進んで行くと、丘を下る道となり、下り切ったところでまた上り坂になって、スーラジ・チャーンド門をくぐる。こちらはマーンダーター・ヒルと呼ばれているようだ。今までの丘が何と言う名前かは分からない。ここからはオーム(ॐ)の右半分となる。しばらく平坦な道を進んで行くと、スィッダナート寺院という古い寺院に出る。この寺院は10年前に見たことがある。基壇にいくつもの像の彫刻が刻まれており、ガルバグリハ(聖室)の四方には美しい彫刻が施された柱が整然と並んでいる。祀られているのはやはりシヴァリンガである。この辺りからはダムが間近に迫って見える。このスィッダナート寺院を過ぎて下に下りる道の途中に門があるのだが、この門の両側にはパーンダヴァ5王子の内のビームとアルジュンの像が立っている。


スィッダナート寺院

 これで一通りパリクラマーは終わる。道なりに歩いて行くと、新しい橋のところまで出る。その橋を渡らずに真っ直ぐ行くとシュリー・オームカール・マーンダーター寺院に着く。橋を渡ると、マムレーシュワル寺院の建つ丘に出る。このマムレーシュワル寺院もシヴァリンガを祀った古い寺院だ。その建築様式は先程のガウリー・ソームナート寺院と酷似した多層構造となっている。シュリー・オームカール・マーンダーター寺院を参拝した後にこのマムレーシュワル寺院を参拝するのが慣わしのようだ。


マムレーシュワル寺院

 マムレーシュワル寺院の参道を下りると船着場がある。この船を使って島へ渡ることもできる。また、ここからシュリー・オームカール・マーンダーター寺院やラージャー・マーンダーター・マハルなどを一望できる。こうして夕方までにはオームカーレーシュワル観光を終えることができた。


神様の絵を売る売店

 本日の走行距離:139.8km、本日までの総走行距離:1,293.6km。ガソリン補給1回、500ルピー。

10月31日(水) オームカーレーシュワル→ブルハーンプル

 いよいよ本ツーリングでもっとも楽しみにしていたブルハーンプルへ向かう。オームカーレーシュワルからブルハーンプルまでは120kmほどである。午前7時半にオームカーレーシュワルを出発し、オームカーレーシュワル・ロードを引き返してSH27に向かった。オームカーレーシュワル・ロード駅まで行かなくても、途中からブルハーンプル方面へ向かう近道があったので、そちらを使った。しかし、途中の踏切で遮断機が下りていたため、しばらく待つことになった。その踏切を越えたらすぐにSH27に合流した。

 相変わらずSH27は片側1車線、中央分離帯なしの対面通行だった。まだ朝早いのにトラックの交通量も多かった。もうマハーラーシュトラ州との州境が近いので、マハーラーシュトラ州ナンバーのトラックが目立つようになって来た。引き続きなだらかな丘陵地帯の道が続き、いくつか低い峠を越えた。途中、ブルハーンプルまで25kmほどの地点辺りから、遠くの山にモスクのミーナール(尖塔)のようなものが2本見えて来る。さらに近付くと山頂を城壁が囲んでいるのがはっきり見て取れるようになる。これが難攻不落のアスィールガル城塞である。ハイダラーバード近くにあるゴールコンダ城塞に匹敵する堅固な城塞とされており、明日観光予定である。オームカーレーシュワルからの通り道にあるので、ついでに立ち寄っても良かったのだが、バイクに積んだ荷物が心配だったので、一旦ブルハーンプルでホテルに荷物を下ろしてからアスィールガルを観光するプランを立てていた。


アスィールガル

 ブルハーンプルには午前10時15分頃に到着。SH27はブルハーンプル旧市街を取り囲む城壁をかすめるようにして通っており、通りすがる者にここがただの町でないことを無言で主張している。タープティー河の北岸に位置するブルハーンプルはデカン高原の入り口であり、デリーの政権にとってデカン支配の重要な軍事拠点となって来た。それだけでなく、インド亜大陸の東西南北から来る交易路の交差点ともなっており、経済が大いに栄えた。ムガル朝時代、ブルハーンプルは必ず皇族が太守に任命されるほど重視されており、事実上第二の首都の性格を担っていた。しかし、ムガル朝の衰退に伴ってデカン高原はデリーの政権の手から離れ、デカン高原の入り口としてのブルハーンプルの重要性は減った。市内外に残る無数の遺跡を除けば、現在ではマディヤ・プラデーシュ州の片隅にある小さな田舎町に過ぎない。


ブルハーンプル旧市街中心部

 ブルハーンプルではマディヤ・プラデーシュ州観光開発公社(MPSTDC)経営のタープティー・リトリートに宿泊した。ACなしのシングルで1,690ルピー。「リトリート」と付くMPSTDCのホテルは多少高めの料金設定のようである。このホテルのロビーにはブルハーンプルの見所が紹介されたパネルが展示されている。言語は英語とヒンディー語であるが、ヒンディー語でしか書かれていないパネルもあり、両言語が分からないと全ての情報が手に入らない。また、ブルハーンプルの簡単な地図も展示されている。やはりアイシャー・グッドアースのガイドブックには地図が載っていないので、これは重宝する。観光情報に乏しいブルハーンプルでの宿泊は、このタープティー・リトリートがベストだと言える。


ブルハーンプルの略地図

 部屋で少し休憩した後、早速ブルハーンプル観光に出掛けた。まずはブルハーンプル対岸にあるザイナーバード(Jainabad/Zainabad)までバイクで行った。ここにはムムターズ・マハルと関係のある遺跡がいくつか残っている。その中でももっとも有名なのがアフーカーナー(Ahukhana)だ。タープティー・リトリートのあるイッチャープル・ロードをそのまま南に向かい、タープティー河に架かる橋を渡ってしばらく進むと、道は二手に分かれる。左はアムラーヴァティー、右はイッチャープルへ続く道だ。ここを左へ進む。この交差点にはアフーカーナーへの小さな道標もある。ここからは1.5車線の農道となり、走行には注意が必要になる。アフーカーナーへ導く道標がその後もいくつか立っているので、それらに従って進んで行けばアフーカーナー方面には行けるが、道標は途中からなくなるので、後は道端にいる人に道を尋ねつつ進まなければならなくなる。ガイドなしに辿り着くのは少し難しい。しかも、途中の道がかなり悪いので、バイクでアフーカーナーへ行くことは勧められない。ブルハーンプルのラージガートからザイナーバードへ渡る渡し船が出ているので、これを使って行った方が分かりやすいだろう。対岸まで渡ったら、暇そうにしている村人にガイドを頼むと大体快諾してくれるのではないかと思う。この村では職のない若者が大量に手持ち無沙汰にしている感じであった。もう一度繰り返すが、ガイドがいないとザイナーバードの遺跡はどこに何があるか全く分からない。炎天下の中、足場の悪い道をひたすら彷徨うことになる。


タープティー河
左の岸がブルハーンプル、右の岸がザイナーバード

 あまり知られていないことだが、ムムターズ・マハルはタージ・マハルに葬られるまでに3回別々の場所に埋葬されたと考えられている。その最初の埋葬場所がアフーカーナーだとされている。アフーカーナー自体はブルハーンプルを首都として興ったファールーキー朝と、次にブルハーンプルを支配したムガル朝の頃に狩猟用キャンプ地として利用された囲い地である。「アフーカーナー」とは「鹿園」のような意味だ。中央にはムガル朝時代に建設された宮殿が残っており、その正面には四角形の大きな貯水湖跡がある。また、この宮殿の裏には小さなパビリオンもある。ここでタクフィーンという屍衣を着せる儀式が行われ、しばらくムムターズ・マハルの遺体が保存されていたと考えられる。


アフーカーナー

 第二の埋葬場所はタープティー河のすぐ近くにある。アフーカーナーからタープティー河に向かって歩き、交差点で右に曲がると右手に崩れかけた門が見える。地元民はこれをパーンスィーカーナー(首吊り所)と呼んでいる。英国統治時代に罪人をここで首吊りにしていたと言うが、真偽の程は定かではない。


パーンスィーカーナー

 そのパーンスィーカーナーからさらに進んで行くと、遠くに小さな建物が2つ見えて来る。ひとつは白く塗られており、ひとつはくすんだ黒色をしている。地元の人々は「バーギーチャー(庭園)」と呼んでいるが、実際にはこれがムムターズ・マハルの墓である。アーグラーに移送される前、ムムターズ・マハルは6ヶ月間ここに埋葬されていた。白い建物はモスクで、ムムターズ・マハルの墓があった建物は右側のものだ。


ムムターズ・マハルの墓
地元の人々は「バーギーチャー(庭園)」と呼んでいる

 ムムターズ・マハルの遺体が一時的に葬られたこの墓廟は周囲より一段高い基壇の上に建っており、南側の門から階段を上がって中に入ることができる。


ムムターズ・マハルの墓に近付く
周囲は荒れ放題である


モスク側(西側)から見た墓
中にまで草が生い茂っている

 建物の内部には中心部に四角形の深い穴があり、それを壁が取り囲んでいる。南側には入り口となる通路の両側に2つの部屋がある。この通路上にムムターズ・マハルの墓があったとされるが、現在では何も残っていない。


墓の内部
中心部に四角い穴がある
2つの部屋の間にある通路にムムターズ・マハルの墓があったとされる

 インドのイスラーム教墓廟では、地上に偽の墓があり、地下に本物の墓があるのが一般的だ。この建物にも、中央部にある四角い空間に続く通路がある。ムムターズ・マハルの本物の墓はこの四角い空洞の中に置かれ、この上に偽の墓が置かれていたのではないかと個人的には感じられた。単なる素人の見方ではあるが。


墓を囲む壁

 また、この墓には平たいドームを戴いた小部屋が2つある。言い伝えによると、ムムターズ・マハルがこの建物に葬られて以来、片方の部屋ではマウルヴィー(イスラーム教僧侶)が、片方の部屋ではパンディト(ヒンドゥー教僧侶)が、昼夜お経を唱え続けていたと言う。


四角い空洞部

 注意しなければならないのは、地元民はムムターズ・マハルの埋葬場所をアフーカーナーのみだと考えていることだ。このムムターズ・マハルの墓(ムムターズ・マハル・カ・カブル)には、一応それを示す看板と説明(ヒンディー語のみ)が立っているにも関わらず、地元民は全くそれに注意を払っていない。ムムターズ・マハルの名前を出すともれなくアフーカーナーに連れて行かれるので注意が必要である。

 第三の埋葬場所はアーグラー観光のときに説明した。タージ・マハルの西側にあるモスクの近くに囲い地があり、タージ・マハル完成前までムムターズ・マハルはその中に埋葬されたとされている。

 タージ・マハルも元々はこのタープティー河の河畔に建造される予定だった。おそらくムムターズ・マハルの墓の奥にある広大な空き地がその予定地だったのだろう。だが、3つの理由からそれは実現されなかった。ひとつめの理由は物流問題である。中世から白大理石の一大産出地はジャイプル(Jaipur)とアジメール(Ajmer)の間にあるマクラーナー(Makrana)であるが、そこからブルハーンプルまで白大理石を運搬するのには相当な時間と費用が掛かった。ふたつめの理由はタープティー河河畔の土壌である。非常に脆い土で、今でもザイナーバードやブルハーンプル周辺で地面が崩落している様子を目の当たりにできる。このように脆い土壌はタージ・マハルのような白大理石の重い建築物を支えることが不可能だった。建築家たちはシャージャハーンに、もっと内陸部にこの墓廟を造るように進言したが、シャージャハーンは河畔にタージ・マハルを造ることにこだわっており、それを聞き入れなかった。これがみっつめの理由である。その結果、ムガル帝国内でタージ・マハル建設に適した場所の探索が行われることになり、当時首都だったアーグラーのヤムナー河河畔が様々な理由から最適とされたのだった。

 ザイナーバードには他にも畑の中に遺跡が点在しているが、どれも全く管理されておらず、荒れ果てた状態だ。境内まで畑になってしまっているモスクもあった。また、ザイナーバード側からは、後述するバードシャーヒー・キラーがよく見える。ブルハーンプルを訪れたならザイナーバードも一度は立ち寄るべきである。


畑と化したモスク

 今日はブルハーンプル市内に散らばる遺跡もいくつか観光したのだが、様々な事情から翌日再訪したりしたものもあったりするので、翌日の日記にまとめて書くことにする。


サンワーラー門
ブルハーンプル旧市街へのメインゲート

 本日の走行距離:148.3km、本日までの総走行距離:1,441.9km。ガソリン補給なし。

 


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