スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2013年2月

装飾下

|| 目次 ||
映評■5日(火)Vishwaroop
映評■8日(金)ABCD - Any Body Can Dance
▼アンダマン家族旅行(2月13日~19日)
旅行■13日(水)デリー→ポート・ブレア
旅行■14日(木)ポート・ブレア→ハヴェロック島
旅行■15日(金)ハヴェロック島(ラーダーナガル・ビーチ)
旅行■16日(土)ハヴェロック島(エレファント・ビーチ)
旅行■17日(日)ハヴェロック島→ポート・ブレア
旅行■18日(月)3島ツアー
旅行■19日(火)ポート・ブレア→デリーと総括
▲アンダマン家族旅行(2月13日~19日)
随想■28日(木)日本完全帰国


2月5日(火) Vishwaroop

 ここ数週間、大いに世間を騒がせていたのはカマル・ハーサン制作・監督・主演の「Vishwaroopam/Vishwaroop」であった。タミル語・テルグ語版のタイトルが前者で、ヒンディー語版タイトルが後者となる。この映画はいくつかの新しい試みに挑戦している。タミル語・テルグ語・ヒンディー語の3言語公開や俳優がプロデューサーや監督を兼任することは既に目新しいものではなくなっているが、DTH(Direct-To-Home)による先行テレビ有料公開は初の試みだ。また、オーロ3Dという最新の音響技術を用いて作られており、インド映画では初のオーロ3D映画となると言う。しかしながら、この映画はそのような先進的な試みによって話題になっていた訳ではない。

 とりあえずの問題はDTH関連であった。元々この映画の映画館での封切り日は1月11日で、その前日の1月10日にDTHによる有料のテレビ公開が開始されるはずであった。しかしながら、タミル・ナードゥ州の映画館業者組織が劇場公開前にテレビ公開をすることに反対の声を上げたため、大いに紛糾した。結局、劇場公開後にテレビ公開されることになったが、それでも、映画公開の新たな形を提示することには成功したと言える。

 それよりも大きな問題となったのはイスラーム教徒団体による上映禁止の要求であった。彼らの訴えによると、「Vishwaroopam/Vishwaroop」はイスラーム教やイスラーム教徒を偏見に満ちた視点で描写しており、上映は許可されるべきでないとのことであった。タミル・ナードゥ州では、同映画上映予定の映画館が襲撃を受けたりして、大きな社会問題となった。

 タミル語・テルグ語版「Vishwaroopam」の新たな公開日は1月25日であったが、イスラーム教団体による反対運動のせいで、この日タミル・ナードゥ州を含むいくつかの州では上映されなかった。特にタミル・ナードゥ州では、州政府が公開の2週間延期を命令し、裁判所の介入が必要となった。しかしながら、ヒンディー語版「Vishwaroop」は2月1日に公開され、タミル・ナードゥ州での公開も2月7日から可能となるようである。

 デリーではヒンディー語版「Vishwaroop」が公開されており、僕が鑑賞したのもヒンディー語版である。ちなみにヒンディー語版はオリジナルに比べて5分ほどカットが入っているとの情報もある。



題名:Vishwaroop
読み:ヴィシュワループ
意味:世界の姿
邦題:ダーティーボム

監督:カマル・ハーサン
制作:プラサードVポトルリ、Sチャンドラ・ハーサン、カマル・ハーサン
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:パンディト・ビルジュ・マハーラージ
出演:カマル・ハーサン、プージャー・クマール、アンドレア・ジェレミヤー、ラーフル・ボース、ジャイディープ・アフラーワト、シェーカル・カプール、ナーサル、サムラート・チャクラボルティー、ミレス・アンダーソン、アトゥル・ティワーリー
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。


左からアンドレア・ジェレミヤー、プージャー・クマール、
カマル・ハーサン、シェーカル・カプール

あらすじ
 ニューヨークで原子力の研究をするドクター・ニルーパマー(プージャー・クマール)は、夫でカッタク・ダンサーのヴィシュワナート(カマル・ハーサン)が浮気をしているのではないかと疑っていた。ただ、彼女も上司のディーパーンカル(サムラート・チャクラボルティー)とただならぬ関係にあった。ニルーパマーは探偵ピーター・パルワーニー(アトゥル・ティワーリー)を雇い、ヴィシュワナートを尾行させる。ピーターはヴィシュワナートがヒンドゥー教徒ではなくイスラーム教徒であることを察知し、それをニルーパマーに伝える。確かに彼の本名はヴィサーム・アハマド・カシュミーリーで、イスラーム教徒であった。ところがそれよりも大きな秘密を彼は抱えていた。ピーターはその秘密に迫ってしまったために、アル・カーイダのアジトに遭遇してしまい、翌日遺体で発見される。

 ピーターの持ち物から、ピーターの雇い主がニルーパマーであることがアル・カーイダのテロリストに知れてしまう。実はディーパーンカルもテロリストの一味であった。ディーパーンカルはテロリストを引き連れてヴィシュワナートとニルーパマーの家に押しかけ、2人を拉致する。

 2人が連れて行かれたのは、病人がたくさん暮らす倉庫であった。また、このテロリスト集団のボスはオマル(ラーフル・ボース)という人物で、その場にはおらず、電話でテロリストに指示を出していた。オマルは、ヴィサームの写真を見て顔色を変え、倉庫へ向かう。ところがヴィサームは一瞬の内にテロリストたちを殲滅し、オマルが到着するまでに脱出していた。

 実はヴィサームとオマルは旧知の仲であった。かつて2人はアフガーニスターンでムジャーヒディーンたちを率い、米軍との戦いを繰り広げていたのであった。だが、ヴィサームは真のムジャーヒディーンではなく、インドの対外諜報機関RAWのエージェントであった。テロリスト組織に潜入し、拉致された米国人やオサマ・ビン・ラーディンを探していたのだった。ヴィサームはオサマ・ビン・ラーディンを目撃するが、米軍による襲撃を受け、それ以来オマルはヴィサームを見失っていた。しかしながら、ヴィサームの方はオマルのテロ計画を監視し続けていたのだった。

 オマルは腹心のサリーム(ジャイディープ・アフラーワト)と共に、ニューヨークで核爆弾を爆発させる計画を立てていた。ニルーパマーが勤める原子力研究機関からセシウムが盗み出されており、それがテロに使用される恐れがあった。しかし、既にニューヨーク中に微量のセシウムを付けた鳩が飛び交っており、放射線量が上がっていた。この混乱の中で核爆弾を爆発させるのがオマルの計画であった。ヴィサームは、ジャガンナート(シェーカル・カプール)やアシュミター(アンドレア・ジェレミヤー)らRAWエージェントたちと共にその阻止に動き出す。彼らの正体を知らないFBIに逮捕されてしまう一幕もあったが、インド大使館の介入もあって自由行動を許される。彼らはアッバースィーというアフリカ人が核爆弾を持っている疑いを持ち、彼の家に突入する。

 そのときオマルとサリームは飛行機でニューヨークを去るところであった。アッバースィーに連絡をし、爆弾を爆発させようとしていたが、その電話に出たのはヴィサームであった。ヴィサームは爆発を阻止し、オマルとの対決姿勢を明らかにする。

 最近、インドの対外諜報機関RAW(Research & Analysis Wing)のエージェントを主人公にした映画が増えている。長らくRAWはインド映画の中では無視された存在だったのだが、「国産MI6」として急に注目を浴びるようになり、「Ek Tha Tiger」(2012年)をはじめとして、アクション映画の中の設定として頻繁に取り込まれるようになった。「Vishwaroop」の主人公もRAWエージェントであった。

 主人公のヴィサーム・アハマド・カシュミーリーはRAWエージェントで、ヴィシュワナートを名乗り、ニューヨークでインド古典舞踊カッタクの教師をしていた。そしてその覆面の身分で彼は原子力学者のニルーパマーと結婚していた。おそらく、ニューヨークに核爆弾テロを仕掛けようとするテロリストのボス、オマルの監視のために彼女を選んだのだろうが、彼女の方はグリーンカードを目的にヴィシュワナートと結婚していた。また、ヴィシュワナートの周辺人物――叔父のジャガンナート、教え子のアシュミターなど――も、RAW関係者であった。つまり、ヴィシュワナートの正体を知らなかったのはニルーパマーだけであった。この映画は、そのニルーパマーが過去を回想する形式で語られる。

 今まで密かにオマルの動きを内偵していたヴィサームがオマルと対峙することになったきっかけは、ニルーパマーが夫の浮気調査のために雇った探偵ピーターがテロリストのアジトに入り込んでしまったことであった。それによってヴィサームはニルーパマーと共に拉致されてしまう。物語が動く重要な部分であるが、後から考えてみると、ヴィサームがなぜわざわざピーターをテロリストのアジトに連れて行ったのか謎である。

 また、ヴィサームとオマルの過去の因縁については、ヴィサームによる過去の回想という形で重箱式に語られる。ヴィサームはかつてインド生まれのムジャーヒディーンとしてターリバーンの組織に潜入しており、そのときオマルの信頼を得ていたのだった。このときヴィサームはオマルから、ニューヨークやロンドンなどの都市に核爆弾テロを決行する計画を聞いていた。その阻止のためにヴィサームは身分を偽ってニューヨークに潜伏していたのだった。

 どうやらカマル・ハーサン演じる主人公がイスラーム教徒であることは偽のIDではないようで、つまりこの映画はイスラーム教徒の主人公がイスラーム教徒のテロリストと対峙する構造になっている。つまり、イスラーム教徒を完全に悪として描いている訳ではない。イスラーム教徒によるテロを、敬虔なイスラーム教徒が阻止する内容だ。そういう意味で、イスラーム教団体による上映禁止要求は早とちりだったと言っていい。

 しかしながら、ターリバーンを正当に描写していたかと言うとそういう訳でもなく、米国を毛嫌いし、血も涙もない完全な悪役として決めつけているところがある。あくまでアクション娯楽映画であり、テロの問題に深く切り込んだ作品とはなっていない。しかし、アクションシーンには気合いが入っており、特に拉致されたヴィシュワナートが突然テロリストに反撃するシーンは素晴らしい。アフガーニスターンで米軍の襲撃を受けるシーンも迫力があった。

 ニルーパマーは夫が実はRAWのエージェントであったことを割とすんなりと受け容れているが、ヴィサームが彼女に対してした仕打ちは人道的にはあまり認められないのではないかと思う。ヴィサームが演じていたヴィシュワナートは同性愛者の毛色があり、どうやら2人の間に夫婦関係はなかったようである。そしてそれが彼女にとって長年のトラウマとなっていた。いくらRAWのエージェントだからと言って、それは正当化されるものではないだろう。ニルーパマーはもっと怒っていいはずである。その辺りが曖昧なので、全体的にはあまり現実感のない展開であった。

 「Vishwaroop」はオマルによるニューヨーク核爆弾テロを阻止するところで終わっているが、まだ続編があるようで、その予告編が最後に流れる。どうやら続編の舞台はインドになるようである。「Vishwaroop」ではヴィサーム、ニルーパマー、アシュミター、ジャガンナート、オマル、サリームなど主要登場人物が死んでおらず、続編でもそのまま彼らが登場すると思われる。

 今回カマル・ハーサンは制作・監督・主演を1人で務めている。元々ひとつの作品で何役もこなすのはお手の物であるが、今回は特にヴィシュワナートからヴィサームへの切り替えが素晴らしかった。ニルーパマーを演じたインド系米国人女優。一方、アシュミターを演じたアンドレア・ジェレミヤーは南インド映画界で活躍する女優・ダンサーである。ラーフル・ボースの悪役は意外なキャスティングと言える。彼は「ミスター・ヒングリッシュ」の異名を持ち、英語映画を主な活躍の場として来た。彼なりに頑張ってはいるが、果たして悪役としての貫禄があったかどうかは疑問だ。他にシェーカル・カプールの出演が特筆すべきだ。「Bandit Queen」(1994年)や「エリザベス」(1998年)などで有名な、国際的に活躍中のインド人映画監督である。銀幕への登場は20年振りとなる。

 音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイである。ヒンディー語の歌詞はジャーヴェード・アクタルが書いている。基本的に娯楽映画の作りでありながら、歌や踊りが意味なく入ることはなかった。むしろ特筆すべきはコレオグラフィーをカッタクの巨匠パンディト・ビルジュ・マハーラージが担当していることだ。序盤でカマル・ハーサンが踊るカッタク・ダンスをマハーラージが振り付けた。カマル・ハーサン自身が若い頃のマハーラージを彷彿とさせた。

 「Vishwaroop」は、いくつかの新しい試みに挑戦し、無意味に論争に巻き込まれ注目を浴びているものの、内容はいたって普通のアクション娯楽映画である。イスラーム教徒の尊厳を侵害するような作品でもない。ヒンディー語映画界ではテロは既に目新しいテーマでもなく、この問題について綿密なリサーチに基づいた深みがある訳でもないが、見て損はない娯楽映画である。

2月8日(金) ABCD - Any Body Can Dance

 日本へ帰国する前にインドの映画館で見ておきたいヒンディー語映画を挙げて行ったら枚挙に暇がない。特に映画の予告編を見てしまうと、どれも見てみたくなってしまう。その中でも是非最後に見ておきたかった映画が、インド初の3Dダンス映画を銘打った「ABCD - Any Body Can Dance」であった。「インドのマイケル・ジャクソン」と呼ばれる伝説的なコレオグラファー、プラブデーヴァが主演し、これまたコレオグラファー出身の映画監督レモ・デスーザが監督をしており、ダンスの質は予告編だけを見ても圧倒的であった。インドでも3D映画が作られるようになって久しいが、いまいち3D技術を活かした作品が出て来ていない。だが、もしインド映画が得意とするダンスを、3Dのフォーマットでより迫力のあるものに進化できたら、それは大きな業績となる。既に英米の映画界では「Step Up 3D」(2010年)や「StreetDance 3D」(2010年)など、3Dダンス映画は作られているのであるが、インド人がこの新技術をどう料理するか、見てみたかった。

 主演は前述の通りプラブデーヴァで、やはりコレオグラファーのガネーシュ・アーチャーリヤが脇役出演している。だが、物語の中心的役割を果たすのは若手ダンサーたちで、彼らの多くはインドのダンス・コンペティション番組「Dance India Dance」の参加者のようである。また、ヒロインの1人は米国のダンス・コンペティション番組「So You Think You Can Dance」の勝者ローレン・ゴットリーブが演じている。



題名:ABCD - Any Body Can Dance
読み:ABCD - エニー・バディー・キャン・ダンス
意味:誰でも踊れる
邦題:ABCD:エニーバディー・キャン・ダンス

監督:レモ・デスーザ
制作:スィッダールト・ロイ・カプール
音楽:サチン・ジガル
歌詞:マユール・プリー
振付:レモ・デスーザ
出演:プラブデーヴァ、ガネーシュ・アーチャーリヤ、ケー・ケー・メーナン、テレンス・ルイス、ローレン・ゴットリーブ、パンカジ・トリパーティー、ダルメーシュ・エーラーンデー、サルマーン・ユースフ・カーン、シャクティ・モーハン、ヌーリーン・シャー、プリンス・グプター、リヤーンシュ・シャルマー、ヴルシャーリー・チャヴァン、マーユレーシュ・ワードカル、ラーガヴ・ジュヤール、プニート・パータク、キショール・アマン、スシャーント・プジャーリー、サージャン・スィン、ラージュー・カトゥワール、サロージ・カーン(特別出演)、レモ・デスーザ(特別出演)
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。


プラブデーヴァ

あらすじ
 ヴィシュヌ(プラブデーヴァ)は、ジャハーンギール・カーン(ケー・ケー・メーナン)が経営するダンス学校ジャハーンギール・ダンス・カンパニー(JDC)で振り付けをするダンサーだった。JDCのダンサーたちは、ダンス・コンペティション番組「ダンス・ディル・セ(心から踊れ)」の前回チャンピオンで、第2回となる今回も優勝した。しかし、ヴィシュヌは決勝戦でJDCのダンスよりも相手のダンスの方が上だと感じており、それをジャハーンギールに話す。ジャハーンギールはテレビ番組のプロデューサーを買収したことを明かす。また、彼は外国からクリスという新しいコレオグラファーを雇い、ヴィシュヌを事務職に就かせようとする。それに反発したヴィシュヌはJDCを去る。

 故郷チェンナイに戻ることを決意したヴィシュヌであったが、ダーラーヴィーに住む親友ゴーピー(ガネーシュ・アーチャーリヤ)の家に居候することになった。ヴィシュヌはダーラーヴィーに住む血気盛んな少年少女を見て、彼らにダンスを教えたいと希望する。地元政治家(パンカジ・トリパーティー)の協力を得てスタジオを手に入れたヴィシュヌは、早速彼らにダンスを教え出す。

 当初は2つのライバル・グループ同士のつばぜり合いのせいでなかなか練習が進まなかった。特にD(ダルメーシュ・エーラーンデー)が大きなトラブルメーカーであった。意地を張ってヴィシュヌの下でダンスを習おうとしなかったり、JDCでジャハーンギールにセクハラに遭って逃げて来たリヤー(ローレン・ゴットリーブ)の気を惹こうとしてライバルに対抗心を燃やしたりしていた。また、彼は親からダンスを習うことを止められていた。また、麻薬中毒者ながらダンスの才能を持ったチャンドゥー(プニート・パータク)も仲間に加わる。様々な試練を乗り越えながら、徐々に彼らは団結して行く。

 遂に第3回ダンス・ディル・セのオーディションが始まる。ヴィシュヌのダンスチームはダーラーヴィー・ダンス・レボリューション(DDR)を名乗り、意気揚々とエントリーをする。しかし、オーディションの場でまたメンバーの不仲が表面化し、パフォーマンスは散々なものとなる。本当は落選されるべきであったが、ジャハーンギールはその失態を見て、ジョーカー役としてDDRを通させる。

 その屈辱的な仕打ちに激怒したヴィシュヌは、教え子たちを厳しく叱りつける。おかげでメンバーの不仲を解消し、遂に一枚岩となる。オーディションの回を重ねるごとに視聴者の間でDDRの人気は高まって行き、遂に準決勝戦まで駒を進める。ところがここでチャンドゥーの麻薬中毒が再発する。ヴィシュヌはチャンドゥーをセンターに持って行くことで荒療治しようとし、それはかなり功を奏するのだが、準決勝戦の当日にチャンドゥーは交通事故に遭って死んでしまう。その悲しみを乗り越え、メンバーたちは追悼の踊りを踊り、とうとう決勝戦まで勝ち進む。相手は強敵JDCであった。

 ここまで来るとジャハーンギールもDDRの実力を認めざるを得なかった。そこでジャハーンギールはDDRのメンバーの買収を試みる。それに乗ってしまったメンバーが出てしまった。JDCは決勝戦でDDRのダンスを丸コピーし、先にパフォーマンスをしてしまう。10分以内に振り付けをし直さなければならなくなってしまった。そこでヴィシュヌはガネーシュ・チャトゥルティー祭の踊りをフィーチャーした、型にはまらない踊りを提案する。このダンスは会場を熱狂の渦に巻き込み、ジャハーンギールですらDDRの勝ちを認める。優勝は文句なくDDRであった。

 近年、ヒンディー語映画界では歌や踊りの重要度が低下している。ストーリー重視の映画作りがトレンドとなって来ており、映画全体の雰囲気に合わない場合は歌や踊りを全く入れない選択肢も定着している。もし歌が入ってもBGM程度で、踊りらしい踊りを入れることを恥じらう傾向が強い。そのような状況において、コレオグラファーの地位が低下しつつあるかもしれないことは、容易に推測できる。最近コレオグラファーから監督に転身する人が何人かいるが、それもそんな世相と関連しているのかもしれない。

 「ABCD - Any Body Can Dance」は、歌と踊りを忘れつつあるヒンディー語映画界への、コレオグラファーからの逆襲だ。

 コレオグラファーが監督し、コレオグラファーがダンスを踊る。もちろん振り付けはコレオグラファー。最初から最後まで、圧倒的なダンスで埋め尽くされている。やはり映画館の大スクリーンで鑑賞する群舞の迫力はすさまじい。ダンスの楽しさをダンスで表現する、そんな爽快な娯楽大作であった。

 しかしながら、筋は至って単純だ。スラムの若者が裕福な人々の通うダンススクールに打ち勝つ構造、ダンスを何よりも愛するコーチの存在、ダンスよりもショーを重視するビジネスマインドの悪役、ライバル同士の確執による団結の欠如とその克服など、いわゆるスポ根モノのフォーマットにのっとった分かりやすい筋書きで、特に驚きの展開などはない。

 また、ダンス中心の物語で、ダンス・コンペティションをクライマックスに持って来るのは非常に陳腐に感じた。そのような構成の映画は、「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)や「Chance Pe Dance」(2010年)など、近年でもいくつか作られている。「ABCD - Any Body Can Dance」のダンスシーンでむしろ素晴らしかったのは、序盤のガネーシュ・チャトゥルティー祭シーンなど、舞台ではなく野外での踊りだ。また、「インドのマイケル・ジャクソン」の異名を持つプラブデーヴァがソロダンスを繰り広げるディスコでのシーンも緊迫感があった。

 3D技術をうまく活かし切れていたかどうかにも疑問がある。やはり3Dの映像技術は、どんなジャンルであっても、映画の面白さに大した影響は与えず、それ以外の要素――ストーリー、演技、台詞、音楽など――の方がよっぽどか重要だ。インド初の3Dダンス映画とのことだが、ただそれを言いたかっただけの映画に思えた。

 プラブデーヴァの演技力にも難があった。ダンスに関しては超一級だが、俳優としては大根で、しかもヒンディー語の台詞回しも苦手だ。一応劇中ではチェンナイ出身ということになっており、ヒンディー語が苦手な理由についても暗に説明されていたところがあるが、それでも非常に重要な役なので、彼の演技力のなさはこの映画の大きなマイナスポイントとなっていた。

 それでも、ダンスの威力は圧倒的で、およそ2時間半、スクリーンに釘付けになったことには変わりがない。映画館で見てよかったと心底思わせてくれる映画である。

 演技の面ではプラブデーヴァの大根役者振りが目立つのだが、他の俳優たちは意外にまともな演技をしていた。若い俳優たちは演技に踊りに精一杯取り組んでいたし、巨漢ダンサー、ガネーシュ・アーチャーリヤも絶妙な演技をしていた。他にエンドクレジットでのダンスシーンでレモ・デスーザ監督と大御所コレオグラファーのサロージ・カーンが特別出演して踊っている。正にコレオグラファーのためにある映画だ。

 音楽はサチン・ジガル。ダンス映画では音楽も重要である。その点で音楽はそこまで独創的ではなかったと感じた。ダンスシーンは多いのだが、音楽が耳に残るようなことはなかった。ARレヘマーンやシャンカル・エヘサーン・ロイなどの大物音楽監督がこの映画の音楽を担当したらもっと良くなったのではという予感もする。

 「ABCD - Any Body Can Dance」は、昨今のヒンディー語映画界でコレオグラファーの地位が下がりつつある中、コレオグラファーたちによる反乱とでも呼ぶべき、とにかくダンス・ダンス・ダンスの映画。ストーリーは単純であるし、3Dの意味もあまりないと感じたが、大きなスクリーンで2時間半とにかくダンスを見続けるこの爽快感は別格だ。このようなインド映画の長所の伸ばすような実験的作品は大歓迎したい。

2月13日(水) デリー→ポート・ブレア

アンダマン家族旅行

 昨年8月に研究ヴィザの最終更新をしたとき(参照)、期待していたよりも1ヶ月長く延長ができた。すなわち、規則通りならば2013年1月末までが精一杯だったはずだが、天の恵みかオフィサーの不注意のせいか、2月末まで延長してもらえた。おかげでいろいろなことが余裕を持って行えるようになった。1月29日には、博士号取得のための最後の手続きとなるViva Voce(口頭審査)が行われ、無事にヒンディー語博士号を取得することができた。Viva Voceの完了と共にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の寮を出なければならなくなったが、それも紆余曲折の末に2月10日まで猶予がもらえ、荷物を送ったり売ったり捨てたりする十分な時間があった。その後はスルターンプルの知り合いの家に居候することになり、予め帰国日に設定していた2月27日までインドに滞在することになった。

 1月末にViva Voceが終わったことで、2月末までにどこかへ旅行できる余裕も生まれた。もし最後に旅に出るとしたら、旅先には大別して2つの選択肢があった。ひとつは、今まで行った中で特に良かった場所を再訪すること、もうひとつは今まで行ったことのない場所を訪れること。前にも書いた通り(参照)、11年以上インドに住んで来たにも関わらず、インド国内にはまだ行ったことのない観光地がたくさんある。最後にどこへ行こうか迷ったが、多少昨年のD2Dツーリングの体験もその選択に影響を与えた。思い出というのは美化されるもので、かつて行った場所を再訪すると、美化されて脳裏に残っていたものがリセットされてしまうという欠点もあるのである。また、インドの観光地――特に遺跡――は昨今過激な整備が進んでおり、かつてのワイルドな姿が目に焼き付いていると、現状の姿はどうしてもパワー不足に思えてしまうのだ。やはり未知の土地を訪れてみたい、そういう気持ちが強くなり、最終的に未踏の地アンダマン&ニコバル諸島に決めた。

 アンダマン&ニコバル諸島はインド亜大陸と東南アジアの間に位置し、ベンガル湾に孤立して南北に伸びている。地図を見るとよく分かるが、ミャンマーからインドネシアへ続く山脈が海に水没し、山頂部が島となってできたのがアンダマン&ニコバル諸島である。大まかに、北部の島々はアンダマン諸島、南部の島々はニコバル諸島と呼ばれており、合計572の島から形成されている。その内、人間が定住しているのはわずか38島である。また、この島嶼群の北端から南端までおよそ800kmある。その立地は南アジアと言うよりむしろ東南アジアだ。気候は熱帯に属しており、陸地の86%は熱帯雨林で覆われている。「アンダマン(Andaman)」と「ニコバル(Nicobar)」の語源については諸説があるが、「アンダマン」とはマレー語でヒンドゥー教の神様ハンドゥマン(ハヌマーン)であり、「ニコバル」とは同じくマレー語で「裸族の地」であると言う。絶滅の危機に瀕した少数部族が住んでいる島がいくつかあること、インド洋シーレーン防衛の重要な軍事拠点となっていることなどの理由から、外国人の入域は制限されているが、RAP(制限地域許可)の取得は比較的容易である。英領インド時代に流刑地となり、多数のフリーダムファイターたちが収容されたこと、第二次世界大戦時に日本軍が占領したこと、また、スバーシュ・チャンドラ・ボースが樹立した自由インド政府の最初の領土となったことなど、僻地ながら近代史において重要な役割を果たしていることも注目すべきだ。


アンダマン&ニコバル諸島広域地図

 アンダマン&ニコバル諸島行きを決めたのは実はこれが初めてではない。2004年12月にも同地への旅行を計画していた。しかし、そのとき仲の良い日本人の友人がナガランド旅行に誘って来た。当時はナガランド州へ入るのにもRAP取得が必須だった。取得は難しくないのだが、原則では4人以上のグループでの申請が必要だとされていた。アンダマン&ニコバル諸島のRAPにはそのような規則はなく、1名でも取得可能だ。ナガランド州へ行きたい外国人が複数いる内に一緒に行った方がいいだろうと考え、そのときはアンダマン&ニコバル諸島旅行を止め、ナガランド州行きを決めたのだった。ちょうどその頃、スマトラ沖大地震が発生し、津波でアンダマン&ニコバル諸島にも大きな被害が出た。あのときは山奥にあるナガランド州へ行っていて本当に良かった。

 おそらく現時点でもアンダマン&ニコバル諸島はインドの観光地の中では秘境のひとつであろうが、このおよそ10年の間にかなり開発も進んだようで、島を訪れる観光客の数も急増しているようだ。また、デリーからの接続も良くなり、今ではいくつかの航空会社が直通便を飛ばしている。多くの観光客はダイビングやシュノーケリングなどのマリン・スポーツを目的にアンダマン&ニコバル諸島を訪れるようだが、僕が一番惹かれていたのはやはり近代史関連の史跡である。フリーダムファイターたちが収容されたセルラー・ジェイルは一度行ってみたい場所の筆頭になっていた。アンダマン&ニコバル諸島に住む部族にも大いに興味があるが、外国人との接触は厳しく制限されており、法を犯さなければ会うことは不可能なので、こればかりは仕方がない。つい最近、アンダマン諸島に住むジャラワ族に観光客がちょっかいを出していることが大問題となり、制限はさらに強化された。

 また、今回は2人の子供を連れての旅行になる。1人の子供を連れての旅行はしたことがあるのだが、2児を連れての旅行は初めてだ。しかも「魔の二歳児」と乳児という最悪の組み合わせである。輪を掛けて大変な旅行になるのは目に見えていた。通常、旅行のときは目一杯動き回るタイプなのだが、今回は子供たちに合わせてスローペースでの旅行を余儀なくされる。よって、動き回る必要のない、なるべく何もないところが良かった。そういう意味でもアンダマン&ニコバル諸島は最適であった。

 アンダマン&ニコバル諸島の中心都市ポート・ブレア(Port Blair)へはコールカーターやチェンナイから船でも行けるのだが、当然飛行機での往復を選んだ。調べてみたところ、格安航空会社GoAirのデリー~ポート・ブレア便(コールカーター経由)が安かったので、その運航日に合わせ、2月13日出発、19日にデリー帰着の旅程を立てた。

 GoAirのポート・ブレア行きG8 101は午前5時50分発でかなり早いのだが、何とか早起きし、準備を済ませ、余裕を持って空港に到着することができた。国内線専用のターミナル1Dからの出発であった。2時間ほどでコールカーターに到着。乗客の半分ほどが降り、それを補充するのに十分な数の乗客が新たに乗り込んで来た。意外にポート・ブレアへ行く人の数が多くて驚いた。だが、コールカーターで降りる乗客が、機内に残った乗客を見て「こいつらカーラーパーニーへ行くんだぜ」とつぶやいていたので、流刑地だったポート・ブレアに対する偏見は本土の人々の間にまだ残っているようにも思えた。「カーラーパーニー」の直訳は「黒い水」または「時間の水」だが、ヒンドゥー教の迷信のひとつで、海を渡った者は不浄になるというコンセプトである。アンダマン&ニコバル諸島へ行くのもカーラーパーニーだ。

 午前8時半頃に飛行機はコールカーターを発った。天気は薄い曇り空で、一面の海の上を飛行する様子は見られなかった。島に近付いて高度を下げたことでようやく海が見え始めた。ポート・ブレアのあるサウス・アンダマン島は非常に大きな島であった。午前10時40分にはポート・ブレアのヴィール・サーヴァルカル国際空港に到着した。


ヴィール・サーヴァルカル国際空港

 インドの田舎の空港によくありがちなのだが、ポート・ブレアの空港も、飛行機から降りたら徒歩で空港ビルディングまで行く形式であった。よって、飛行機を降りるとすぐに外気に触れることになる。気温は29度。デリーとの気温差以上に湿気の差を感じる暑さだ。建物に入るとすぐにイミグレーション・カウンターがあり、外国人はここで申請書に必要事項を記入し、RAPを取得する。RAPは小さな紙切れで、パスポートに挟んで渡される。また、パスポートには到着スタンプも押される。小さな空港で、バッゲージ・クレームで機内預け荷物を受け取れば、もうすぐに外である。飛行機の時間に合わせて空港にはタクシーやオートリクシャーが集結しているので、交通の不便はなかった。

 アンダマン&ニコバル諸島を訪れる旅行者の大半は、ポート・ブレアからスピードボートでおよそ2時間の場所にあるハヴェロック島(Havelock Island)を目指す。もし本日のハヴェロック島行きスピードボートのチケットが手に入ればそのままハヴェロック島まで行ってしまおうと思い、ハヴェロック島行きの船が発着するフェニックス・ベイ・ジェッティーへタクシーで向かった。


フェニックス・ベイ・ジェッティー

 ハヴェロック島行きの船の運航時間は時期によって変わるようなのだが、現在では午前6時、午前11時半、午後2時の便があるようであった。しかし、ジェッティーに着いたときには午前11時半の便がちょうど出港するところだった。また、ジェッティーにあるチケット予約窓口で聞いてみたところ、午後2時の便も満席となっていた。仕方がないので、今日はポート・ブレアに宿泊することにし、明日の午前11時半の船を予約した。片道310ルピーであった。予約するときには、空港で入手したRAPを見せなければならない。また、後から知ったことなのだが、民間会社のスピードボートが午後2時頃に出ており、こちらなら席に余裕があるので、満席になる可能性は低い。政府系とは別に民間会社の船があることは知っていたのだが、この時間に便があることはハヴェロック島に着いてから知った。

 急遽、今日はポート・ブレアで宿泊することになったため、宿探しをしなければならなくなった。アンダマン&ニコバル諸島のハイシーズンは12月から1月とのことだったので、今なら簡単に宿も見つかるだろうと気楽に構えていたのだが、そういう訳にはいかなかった。とりあえずロンリー・プラネットに掲載されているホテルを当たってみたのだが、ミッドレンジで手頃だったホテル・ドリフトフッドは満室で、それよりも高いTSGエメラルドも満室であった。だが、TSGエメラルドの前にある2011年開業のアンカレージ・イン(Anchorage Inn)には空き室があり、何とか本日の休息先を見つけることができた。ACダブルルーム、朝食込みで2,500ルピー。ポート・ブレアの物価は決して安くない。

 しかし、ここで大きな問題が発覚。なんと下の子のRAPがパスポートから姿を消していた。各パスポートに各RAPを挟んでおいたのだが、それがどこかで抜け落ちてしまっていた。アンダマン&ニコバル諸島に滞在する限り、外国人にとってRAPはパスポート以上にIDの役割を果たしており、それがなくなることは大問題だ。空港で受け取って以来、フェニックス・ベイ・ジェッティーの予約窓口で見せただけなので、そこで紛失した可能性が高い。急いでジェッティーへ引き返し確認してみたが、RAPは見つからなかった。

 しかしながら、困ったときに必ず助けてくれる人が現れるのもインドの常だ。アンカレージ・インのレセプションをしていたユースフという若者が献身的に力になってくれた。まずは一緒にイミグレーション・オフィスへ行き、事情を説明してくれた。すると、空港で再発行してもらえるとのことだったので、再び一緒に空港まで行き、無事にRAPの再発行を受けることができた。

 今日はこのRAP紛失騒動のせいで、デリーから来た身には灼熱地獄のポート・ブレアをあちこち走り回らなければならず、日中に観光らしいことはできなかった。そもそも早朝起きで子供たちも疲れていたので、あちこち動き回ることは不可能だった。またハヴェロック島から戻って来たらポート・ブレアの見所をゆっくり見て回ろうと思う。

 それでも夕食は遠出をしてみた。海に囲まれたポート・ブレアに来たら海の幸を楽しまない手はない。ポート・ブレアの繁華街アバルディーン・バーザール(Aberdeen Bazar)の先にあるニュー・ライトハウス・レストラン(New Lighthouse Restaurant)へ行った。獲れたばかりのロブスター、ブラック・タイガー、キングフィッシュ、カニなどが陳列されており、好みの方法で調理してくれる。カニが活き活きとしていておいしそうだったので、カニのバーベキューを作ってもらった。カニは食べられる部分が少ないので、追加でフィッシュ・ビリヤーニーを注文しなければならなかったが、食べられる部分はとてもおいしかった。

 ポート・ブレアの第一印象を記しておく。空港から出て、タクシーの車窓から町中を眺めた限り、雰囲気がタミル・ナードゥ州ととても似ていると感じた。タミル語の看板もよく見掛けた。ポート・ブレアにおいて最大のコミュニティーはベンガル人らしいのだが、タクシーやオートリクシャーの運転手など、観光客にとって目立つところで働いているのは大体タミル人なので、タミルっぽい雰囲気ムンムンだ。しかし、ポート・ブレアでもっともよく通じる言語は何と言ってもヒンディー語だ。連邦直轄地や辺境地域ではヒンディー語の教育が重点的に行われる傾向にある。アンダマン&ニコバル諸島も連邦直轄地のひとつで、ヒンディー語の教育も満遍なく行われているようで、ヒンディー語が公用語としてよく機能している。よって、タミル顔した運転手たちも普通にヒンディー語を話す。それが本場タミル・ナードゥ州と異なる点である。タミル・ナードゥ州ではヒンディー語の教育が必須ではないので、インドでもっともヒンディー語が通じにくい地域となっている。また、ポート・ブレアは山がちの地形だ。その辺りが南インドの避暑地――例えばクールグやウーティーなど――と何となく似ていると感じた。道が広く、交通がまばらで、海が近く、トロピカルな空気なのは、同じ連峰直轄地で港町のディーウ&ダマンやプドゥッチェリー(ポンディシェリー)にも似ていた。しかしながら、インドにおいて本土と完全に切り離された島の街を訪れたのは初めてのことで、完全に新しい体験であった。

2月14日(木) ポート・ブレア→ハヴェロック島

 アンダマン&ニコバル諸島の朝は早い。インドは広大ながら標準時間はひとつだけであり、インド国内に時差はない。よって、インドの中でもっとも東の端にあるアンダマン&ニコバル諸島は、デリーなどと比べて朝が早く来る。そのせいか、アンダマン&ニコバル諸島の宿は基本的にチェックアウト時間が早い。我々の宿泊したホテルもチェックアウト時間が午前7時となっていた。しかし何だか話がおかしいのである。宿泊料に朝食が込みなのだが、朝食は午前7時半からなのだ。聞いてみたら別に午前7時までに急いでチェックアウトする必要はないとのことであった。結局チェックアウト時間午前7時というのは形のみのようだ。通常のチェックアウト時間である正午頃まで部屋で粘ることは、予約状況と交渉次第であるが、午前9時や10時までなら何の問題もなさそうである。

 ところで、昨日はアンダマン&ニコバル諸島のコツが分からず、また無用なトラブルにも巻き込まれ、子供を抱えて右往左往してしまったが、今日は失敗を繰り返さないために予め全てをアレンジしての移動を試みた。すなわち、本日の目的地であるハヴェロック島までの船を予約し、ハヴェロック島の滞在先もユースフを通して予約した。

 ハヴェロック島行きの船は午前11時半発であった。朝食後にポート・ブレアの見所をひとつ訪れる時間があったので、午前9時頃チェックアウトした後、ホテルに荷物を預かってもらい、アンカレージ・インから近いサムドリカー海洋博物館へ行ってみた。インド海軍が管理する博物館で、アンダマン&ニコバル諸島の地理、海洋生物(小さな水族館の他、サンゴや貝など)、部族などの展示がある。個人的に興味を引かれたのは、日本軍がアンダマン&ニコバル諸島を支配していたときに発行した軍票である。貨幣単位は円ではなくルピーであった。この博物館はアンダマン&ニコバル諸島の概略が分かるので、旅の初めに訪れるにはいい場所であった。とは言っても、30分もあれば十分見て回れる大きさだ。見終わった後は徒歩でホテルまで帰った。ずっと下り坂なのでそれほど大変ではなかった。


サムドリカー海洋博物館の中庭に鎮座する二股の人魚像
1973年4月7日にイエメン沖の紅海で発見された
「リアル・マーメイド」をモデルにしていると思われる

 午前10時過ぎにホテルに辿り着いた。ホテル併設のレストラン「メヘマーン」でコールドドリンクを飲んでくつろいでいたところ、ホテルのマネージャーが話し掛けて来た。昨日ユースフと話したときから何となく気付いていたが、このホテルはイスラーム教徒の経営であった。マネージャーと話して分かったことは、彼らがケーララ州のイスラーム教徒、つまりマラヤーリー・ムスリムであることだ。ただ、マネージャーのお爺さんは生まれも育ちもポート・ブレアだと言う。そのお爺さんの父親がちょうど日本軍占領時代に日本人のために働いた経験があり、日本語を少しだけ話すことができると話していた。アンダマン&ニコバル諸島に駐在経験のある日本人は今でも日本にいるのかと聞かれたが、知り合いには存在しない。しかし、おそらくまだ何人かは生き残っているのではないかと思う。

 ホテルに預けた荷物を持って、午前11時頃にフェニックス・ベイ・ジェッティーに到着した。既に船は停泊しており、少し待ったら乗り込むことができた。この船は政府系の定期便で、お世辞にも清潔とは言えない。予約時に特にクラスを指定しなかったが、船に乗ってみて、いくつかのクラスに分かれていることが分かった。我々が購入したのはプッシュバック(リクライニング)チェアのものであり、おそらく3等席という訳ではない。ただ、地下の座席なので閉塞感がある。しかも蚊やゴキブリの数が半端じゃない。通常のチェアの席は上にあり、景色も見えるので、雰囲気は快適そうだった。他に寝台席もあった。ただ、出航してしまうと座席に座っている乗客はわずかだ。みんなデッキに出て日光と海風と景色を楽しんでいた。よって、どのクラスの座席を買ってもあまり関係ないと感じた。


船室の様子

 通常、政府系のスピードボートはポート・ブレアとハヴェロック島を2時間で結んでいる。だが、我々が乗った便はハヴェロック島の南にあるネール島(Neil Island)経由であり、3時間以上掛かった。ハヴェロック島のジェッティーに到着したのは午後3時であった。外国人はここでも警察からRAPのチェックを受ける。だが、警察はとてもフレンドリーでウェルカミングだ。必要書類さえ持っていれば何の問題もなく島に足を踏み入れることを許される。


政府系スピードボート ハット・ベイ号
ハヴェロック島のジェッティーにて撮影

 ハヴェロック島ではラーダーナガルのハーモニー・リゾートという宿を予約していた。どんなところか何の情報もなく予約してしまったが、「リゾート」の響きにかすかに期待はしていた。だが、インドで「デラックス」「ラグジュアリー」「ロイヤル」などの豪勢な形容詞にあまり期待してはいけないのは旅人の常識だ。確かにハヴェロック島には「リゾート」の名を冠した、正真正銘の立派なリゾート・ホテルもいくつかあるようだが、このハーモニー・リゾートは掘っ立て小屋の集落みたいなものであった。ただ、バスルーム付きでしかもACまである。見た目は質素で典型的な安宿だが、設備はなかなかだ。朝食付きで1泊2,000ルピーであった。


ハーモニー・リゾート

 名前負けしているハーモニー・リゾートの最大の強みは、ハヴェロック島で一番人気のビーチであるラーダーナガル・ビーチ(Radha Nagar Beach)に徒歩で行けることだ。しかもラーダーナガル・ビーチの手前にはいくつか売店が並んでおり、ちょっとした買い物や軽食にも便利である。オートリクシャーやバスの便も良い。この好立地のおかげで、ハーモニー・リゾートを予約したことには後悔しなかった。


ラーダーナガル・ビーチのバーザール

 早速、聞きしに勝るラーダーナガル・ビーチまで出掛けてみた。2004年にタイム・マガジンの「アジアのベスト・ビーチ」に選出されたと言う鳴り物入りのビーチである。アジアのナンバー1ということは自動的にインドのナンバー1と理解しても差し支えないだろう。確かに美しいビーチだ。特に砂浜の湾曲具合がいい。砂も非常にきめ細かい。しかし、ここまで来ても目立つのはやっぱりインド人観光客だ。それもビーチボーイズ&ガールズと言った感じではなく、単に海を観光しに来たような感じの人々(我々もそんなようなものだが)。ゴアやコーヴァーラムやプリーなどで見られる「インドのビーチ」とそう変わらなかった。しかしながら、夕日を見るためにインド人観光客が集まる夕刻にビーチを訪れたためにそのような印象を持っただけであり、ラーダーナガル・ビーチの印象はその後別の時間に何度も訪れたことで劇的に変わることになる。


夕刻のラーダーナガル・ビーチ


2月15日(金) ハヴェロック島(ラーダーナガル・ビーチ)

 周囲の森林から聞こえて来る虫の声に鶏の鳴き声が混じるようになる。次第に虫の声は目立たなくなり、代わりにあまり聞いたことのない鳥のさえずりが支配的になる。そうすると朝の訪れを知る。


ハヴェロック島の内陸部風景

 ハヴェロック島には大きく分けて3つのビーチがあるようだ。我々が滞在するラーダーナガル・ビーチは島の西部に位置している。島の東岸にはヴィジャイナガル・ビーチ(Vijaynagar Beach)がずっと伸びており、大部分の宿はこの地帯に密集している。もうひとつ、島の北西部にエレファント・ビーチ(Elephant Beach)というビーチがある。ヒンディー語ではハーティー・タープー(Hathi Tapu; 象の島)と言う。ここにはかつて野生の象がおり、近付く者を追い払っていたためにその名が付いたと言う。エレファント・ビーチは格好のシュノーケリング・スポットとなっているが、アクセスは他のビーチに比べると困難で、ジェッティーからボートに乗って回り込んで行くか、それともジャングルの中をトレッキングして行くかしかない。

 子連れなので基本的にシュノーケリングさえも難しいのだが、エレファント・ビーチには底がガラス張りになった舟(グラスボート)があり、シュノーケリングをしなくてもある程度海底を楽しむことができるとのことなので、今朝はジェッティーからボートでエレファント・ビーチへ行こうと考えていた。しかし、子供たちの体調が思わしくなく、朝は休息を余儀なくされた。

 ただ、ジェッティーへは用事があった。帰りのボートの予約をしなければならなかった。行きは政府系のスピードボートに乗ったが、帰りは民間会社マク・ロジスティックス(Mak Logistics)が運営するマクルーズ(Makruzz)を利用しようと考えていた。完全空調の最新鋭ボートでキャパシティーは280名。プレミアム、デラックス、ロイヤルの3クラスがあり、それぞれ値段が異なる。ハヴェロック島では予約オフィスはジェッティーにある。ジェッティーまでジープで行き、そこで一番安いプレミアム席を購入した。年々運賃が上がっているようで、現在は1人815ルピーになっていた。政府系のスピードボートに比べると倍以上だ。

 午前中は部屋でのんびり過ごしたが、子供たちの体調もだいぶ良くなったので、午後からはラーダーナガル・ビーチへ向かった。まずはビーチの入り口にある小さなバーザールで昼食を食べた。スワプナー・レストランとタミル語で書いてあったので南インド料理が出て来るかと思ったが、実際には北インド料理が中心であった。しかし120ルピーのターリーはお代わり自由でとてもおいしかった。

 昼食を食べた後はラーダーナガル・ビーチでのんびり過ごした。砂の質が非常に良く、また海水もちょうどいい温かさ。昨日は日の入り時にビーチに来たためにインド人観光客でごった返していたが、昼時に来るとビーチの人影もまばらで、確かにアジアのベストビーチの風格を持っていた。ビーチにいるのも西洋人ばかりだ。大体午後3時くらいになると、その西洋人が一斉に帰り始めるので不思議に思ったのだが、それと入れ替わるように今度はインド人観光客が来始めた。どうもポート・ブレアからのインド人日帰りツアー客がラーダーナガル・ビーチに到着するのがそのくらいの時間のようで、西洋人はその時間帯を避けているみたいであった。


ラーダーナガル・ビーチ

 夕食はジェッティーの近くにあるB3というレストランで食べた。B3は、アンダマン諸島の大手リゾート&スキューバダイビング・チェーンであるベアフット・グループが運営するイタリア料理レストランで、スイス人シェフが腕を振るっている。まだハヴェロック島はタイのプーケット島のように西洋人好みの観光地化が進んでいないのだが、このB3だけは内装がシャレていたり、金曜日にカラオケ・ナイトを催していたりして、国際レベルの南国リゾート地の雰囲気を醸し出している。料理の質も素晴らしい。「刺身」がメニューにあったのには驚いたが、我々は試さなかった。

 ところで、ハヴェロック島は日沈後の公共交通手段に大きな問題があることが分かった。B3で夕食を食べに出掛けたときは、ラーダーナガル・ビーチのバーザールから島の東部奥カーラーパッタル(Kalapathar)行きのバスに乗り、島の中心部No.3バーザールで降りて、そこからオートリクシャーでジェッティーまで向かった。帰りは、バスがあればバスで、なければオートリクシャーで帰ろうと思っていた。ところが、ハヴェロック島は夜が早く、バスは午後7時頃にはもうなくなってしまう。しかも、ハヴェロック島の中でも離れた場所にあるラーダーナガル・ビーチへ行ってくれるオートリクシャーはほとんどなく、片道でも往復の代金を支払わなくてはならない。我々はジェッティーからラーダーナガルまでオート運転手に400ルピーを支払った。昼間ならば150ルピーほどだ。よって、もしハヴェロック島を好きな時間にあちこち移動したいのなら、レンタルバイクを利用するのが一番いいだろう。そうでなければ、夕食のためにあまり遠くまで気楽に出歩けない。つまりはハヴェロック島にナイトライフなるものは存在しないのである。

2月16日(土) ハヴェロック島(エレファント・ビーチ)

 今日こそはエレファント・ビーチに行くことにした。ボートで行く場合、乗り合いボートと貸し切りボートの2つの手段があるが、我々は貸し切りボートを選んだ。エレファント・ビーチへのツアーは基本的にパッケージとなっており、料金には往復の交通費の他、シュノーケリングなどのビーチ・アクティビティが含まれている。我々は2,500ルピー払ったが、正規の料金かどうかは分からない。エレファント・ビーチへのボートはジェッティーから出ている。超高速のモーターボートで、15分ほど波を突っ切って走行すると、かつて野生の象に守られていたと言うエレファント・ビーチに到着する。


ハヴェロック島のジェッティー
エレファント・ビーチへのモーターボートが出ている

 エレファント・ビーチは、ハヴェロック島の中でもビーチ・アクティビティがもっとも充実した華やかなビーチだった。シュノーケリングの他、ジェットスキーやバナナボートなどが用意されており、チケットカウンターでチケットを購入するとそれらを楽しむことができる。


エレファント・ビーチ

 我々は、小さな子供がいるので、危険のあるビーチ・アクティビティはできなかったのだが、俗にヒンディー語で「シーシェーワーラー・ボート(ガラスのボート)」と呼ばれている、船底がガラス張りになったグラスボートに乗ってみた。泳ぐことなくシュノーケリング気分を味わうことのできるアトラクションだ。1人150ルピーだった。


グラスボート

 エレファント・ビーチはシュノーケリング・スポットと聞いていたのだが、ビーチのすぐそばに珊瑚礁が広がっている訳ではなく、ある程度沖合まで出て行かないと珊瑚礁は見られない。このグラスボートはなかなかの優れ物で、珊瑚礁の広がる場所まで直行し、海底をつぶさに観察することができる。あまり期待していなかったが、結構鮮明に見えるものだ。美しい熱帯魚もいくつも見られた。だが、残念なことに、エレファント・ビーチの珊瑚礁の美しさは2004年の津波でほとんど消滅してしまったと言う。確かに海底に珊瑚はあるが、どれもくすんだ灰色だ。津波の前はこれらがまるで万華鏡のように色とりどりの色で輝いていたと言う。津波から既に8年以上が経ったが、まだほとんど回復していない。元の姿に戻るには何十年もの時間が必要だ。


ガラスを通して海面を観察

 津波の爪痕はエレファント・ビーチ自体にも見られた。このビーチには根こそぎ倒れた木がいくつも横たわっている。津波のときに倒れた訳ではないが、津波によって受けたダメージで徐々に海岸沿いの木々が倒れて行ったと言う。おそらく津波でビーチが削られ、海水が浸食したことで、海に近い樹木から枯れて行ったのであろう。だが、この倒木がビーチの風景に新たな魅力を加えていることも否めない。単調になりがちなビーチの景観に強烈なアクセントを加えている。これらの倒木の上に立ったり座ったりして記念撮影をするのがこのビーチの最大のアトラクションとなっているように感じた。自然というのは不思議なものだ。ひとつの美しさを奪ったと思ったら、別の美しさを加える。


エレファント・ビーチの景観を引き立てる倒木

 エレファント・ビーチでは、ビーチを警備する女性警察官と仲良くなった。他のインド人とは違った顔をしていたが、聞いてみるとビルマ系の人だった。ビルマは英領インド時代にはインドの一部であり、1907年から1923年の間にビルマ人がアンダマン&ニコバル諸島に連れて来られたことがあった。おそらくその子孫であろう。また、アンダマン&ニコバル諸島にはミャンマーやタイの山岳部に住むカレン族のコミュニティーも存在する。アンダマン&ニコバル諸島にカレン族が移住したことにも歴史的な理由がある。1925年にラングーンのカレン神学校の校長をしていたH.I.マーシャル博士が、当時アンダマン&ニコバル諸島の警察本部長をしていた親戚フェラー氏を訪ねたことがあった。流刑地として開発された後もアンダマン&ニコバル諸島の大部分は密林で覆われていたが、フェラー氏はその密林を開拓し、農地に転換することのできる勤勉な労働者を求めていた。マーシャル博士はビルマのカレン族がそれに最適だと判断し、ビルマに帰った後、新聞に広告を出して、アンダマン&ニコバル諸島の開拓をする労働者を募集した。それ以来、ビルマからカレン族が移住するようになり、現在ではアンダマン諸島におよそ2,000人のカレン族が住んでいると言う。

 貸し切りのボートで行ったので、好きなだけエレファント・ビーチに滞在できたのだが、昼頃にはジェッティーまで戻った。昨晩に引き続きB3で昼食を食べ、ラーダーナガルのリゾートに戻った。

 夕食は近くのブルー・リゾート内のレストランで食べた。ブルー・リゾートはラーダーナガルの高級リゾートのひとつだ。ポート・ブレアにあるTSGエメラルド・ビューの系列である。聞いてみると宿泊料は1泊6,000~7,000ルピーとのこと。おそらくハヴェロック島でそれなりのリゾートに宿泊したいのならば、5,000ルピーは出さなければならないだろう。2,000ルピーではACのある部屋に泊まれるぐらいで、リゾートとはほど遠い。このブルー・リゾートのレストランは料理もおいしかったし、スタッフも非常にフレンドリーだった。ブルー・リゾートはラーダーナガル・ビーチにも近いし、お勧めのリゾートだと感じた。ポート・ブレアとハヴェロック島を訪れるならば、TSGエメラルド・ビューとブルー・リゾートをセットで予約すれば間違いはない。

 ところで、同じハーモニー・リゾートに宿泊していたインド人がちょうどタージ・ホテルの調査員であった。彼によると、もうすぐこのラーダーナガル・ビーチでタージ系列の超豪華リゾートの建設が始まると言う。専用ジェッティーまで備える予定らしい。これが完成したら、ラーダーナガル・ビーチはおろか、ハヴェロック島に今はまだ何とか残っている僻地としての魅力は、残念ながら完全に消滅するだろう。そして、数年内にインド有数のリゾート地として変貌することだろう。


エレファント・ビーチで撮影した家族写真


2月17日(日) ハヴェロック島→ポート・ブレア

 ロンリー・プラネット曰く、ハヴェロック島は「何もしないこと」をするのに人気の場所とのことだ。しかしながらハヴェロック島にもそれなりにやることがあり、数日間の滞在ならば、やることがなくて退屈することはない。我々も2つのビーチを楽しんだが、さらにビーチはあるし、内陸部もレンタルバイクで隅々まで探検してみると面白そうだった。だが、タイムリミットがあり、ポート・ブレアに帰らなければならなかった。

 午前11時のスピードボートでポート・ブレアに向かうことになっていたため、朝少し時間があった。もう一度ラーダーナガル・ビーチを見てみたくて、早朝散歩がてらビーチまで歩いた。公式のビーチ開放時間は午前8時であるが、それより前にビーチへ行くと人っ子一人いなかった。アジア最高のビーチを独り占めできる貴重な時間だ。ラーダーナガル・ビーチを最初に見たのは夕方で、次に見たのは昼時で、最後に見たのは早朝であったが、この順にこのビーチの魅力を実感することができた。




朝のラーダーナガル・ビーチ

 午前10時前にジェッティーへ向かった。マクルーズのチケットは、予約するだけでなく、乗船前にチェックインしなければならないようだ。また、外国人はハヴェロック島を去る前にジェッティーのポリスポストにレポートしなければならない。やはりRAPを見せるだけで手続きは終了する。


マクルーズ

 政府系のスピードボートはいかにも「船」という感じの設備で、「航海」をしている雰囲気ムンムンであったが、マクルーズの設備は飛行機か新幹線に近く、海の上を移動していることを忘れてしまうほどであった。中には売店もあり、軽食や飲み物を購入することもできる。そして正面のテレビではARレヘマーンのベスト集DVDが延々と上映される。蚊やゴキブリに悩まされることもなく、90分間ボーッとしているだけでポート・ブレアに着いてしまう。大きな欠点は、外に出て風に当たりながら風景を楽しめないことだ。客席は全てガラス張りで遮光フィルターが貼ってあるのでそのままの景色は見えない。そういう意味では、単なる「移動」という感じで旅情に欠ける。やはりハヴェロック島に近付くときだけでも政府系の定期船を使った方がロマンがあるだろう。


マクルーズの客室

 マクルーズはポート・ブレアとハヴェロック島を90分で結んでいるとのことだが、実際にはそれよりも若干少ない時間で到着した。正にワールドクラスのサービス。マクルーズは絶賛に値する。

 ポート・ブレアでは、アンカレージ・インのユースフに頼んで、予めホテルを予約しておいてもらった。アンカレージ・インから坂道を上ったところにあるクラシック・リージェンシー(Classic Regency)という場所で、ブティック・ホテルを謳っている。ACダブルルーム、朝食付きで1泊2,600ルピーであった。この時期のポート・ブレアの宿は慢性的に満室で、予約しないと宿探しに苦労する。このホテルも予約がない場合は宿泊できなかった。

 昼食を食べた後、ポート・ブレア観光に出掛けた。ポート・ブレアの最大の見所はセルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアルである。月曜日休館とのことだったので、是非とも今日見なければと考えていたのだが、ホテルのレセプションで聞いてみたところ最近は月曜日もオープンしているようだ。だが、予定通りまずはこの歴史的な刑務所を見に出掛けた。


セルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアル入り口

 セルラー・ジェイルはアンダマン&ニコバル諸島の開拓史と密接な関係がある。アンダマン&ニコバル諸島がヨーロッパ人に「発見」されたのは17世紀のことで、1789年には英国東インド会社が接収した。当初は近海を航行する船舶のための安全港としての開発が計画されていた。実際にチャッタム(Chatham)にコロニーが建造された。しかしながらこのときは飲料水や耕作地の不足などの理由から開発がうまく行かず、1796年にはコロニーは放棄された。ところが1857年、インド本土でインド大反乱が起こる。この反乱は1858年には完全に鎮圧され、反乱に荷担したインド人たちは裁判で裁かれた。しかし、その裁判で流刑となった罪人用の流刑地が急遽必要となり、アンダマン&ニコバル諸島が再び注目された。当初はチャッタムに罪人が収容されたが、水不足のためにロス島(Ross Island)に移転された。だが、脱獄する囚人が相次ぎ、流刑地としての存続が危ぶまれた。そこで1867年にヴァイパー島(Viper Island)に新しい刑務所が建造された。この刑務所では、規律を破った囚人が足枷を付けたまま過酷な労働をさせられたと言う。


セルラー・ジェイルの模型(完成当時)
セルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアルに展示

 その後、ポート・ブレアに新たな刑務所の建造が行われることになった。この刑務所の建造は1896年から始まり、1906年に完成した。中央の監視塔から7棟の3階建て建物が放射線状に伸びるユニークなデザインとなっており、全て独房(セル)となっている。全部で698室あったと言う。独房のみの刑務所のために、一般に「セルラー・ジェイル」と呼ばれた。独立運動の高まりにより、インド中の政治犯がこの刑務所に収容された。刑務所での生活は過酷なものであったが、彼らはこの刑務所でも盛んに情報交換し合い、刺激し合い、インド独立の夢を共有した。1942年にアンダマン&ニコバル諸島は日本軍の支配下に入ったが、この時代にセルラー・ジェイルの7棟の内4棟が破壊された。よって、現在は3棟のみが残っている。インド独立後は、英領時代に「テロリスト」のレッテルを貼られた人々が「フリーダムファイター」としてもてはやされるようになり、彼らが多数収容されたこのセルラー・ジェイルは独立運動の記念碑として重視されるようになった。それゆえに「ナショナル・メモリアル」とされている。


セルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアル敷地内

 セルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアルはアバルディーン・バーザールの先、ポート・ブレアの北東部に位置している。入場料は10ルピー、カメラ代は25ルピーであった。チケットを購入し、入り口をくぐるとまずは左右にセルラー・ジェイル関連の展示がある。セルラー・ジェイルに収容された人々の名前と顔写真がズラリと展示されている部屋と、流刑地としてのアンダマン&ニコバル諸島の歴史をパネル展示した部屋がある。入り口を直進すると美しく整備された庭やライト&サウンド・ショーの会場があり、その奥にセルラー・ジェイルの建物が姿を現わす。刑務所と言えど、現在では美しく整備されているため、おどろおどろしい感じはしない。全寮制エリート校の寮みたいな雰囲気だ。


セルラー・ジェイルの廊下

 独房の中には入れるようになっているところもあり、実際に入ってみると意外に涼しくて快適そうだった。観光客に開放されている棟の3階の一番奥には、ヴィール・サーヴァルカルが収容されていた独房がある。1883年に現マハーラーシュトラ州ナーシク近くに生まれたヴィナーヤク・ダーモーダル・サーヴァルカルは、若い頃から反英運動に積極的に参加した思想家で、1857年のインド大反乱を「第一次インド独立運動」と呼ぶと同時に、インドを不当に支配する英国を批判し、インドの独立を提唱した。サーヴァルカルはロンドン留学中の1910年に逮捕され、インド移送後に裁判で「2度の終身刑」、つまり50年の服役を下された。そしてアンダマン&ニコバル諸島のセルラー・ジェイルに収容され、1937年まで服役した。サーヴァルカルは、しばしば日本語で「ヒンドゥー至上主義」と訳される「ヒンドゥトヴァ(Hndutva)」という言葉を造ったことでも知られており、民族義勇団(RSS)にも思想的に大きな影響を与えた。独立後は国民会議派と対立し、政治活動を禁止された時期もあった。1966年に死去した。


サーヴァルカルの独房

 セルラー・ジェイル・ナショナル・メモリアルを見学し終わった後は、ガーンディー・パークへ行ってみた。1942年3月23日から1945年10月24日までアンダマン&ニコバル諸島は日本軍の支配下に置かれていた。現在ヴィール・サーヴァルカル国際空港と呼ばれている空港を造ったのも日本軍であるし、他にも日本軍が造ったとされる塹壕が各地に残っている。その中でも特に興味を引かれていたのが、日本軍が造った神社である。ポート・ブレアではガーンディー・パークに残っているとの情報があったので、そこへ向かったのだった。


ガーンディー・パーク

 ガーンディー・パークは、人造湖を中心に造られた公園で、子供が喜びそうな遊具がいくつも用意されていた。マハートマー・ガーンディーの巨大な座像もあった。この公園内の一際高い丘の上に、地元で「Japanese Temple」と呼ばれている神社があった。しかし、祠程度の小さな神社で、中にはなぜか「第三回慰霊団参加者名簿」と題された木の板が90度回転した形で納められていた。年号は消えていて読み取れなかったが、どう見てもそんなに古い神社ではなく、最近になって建てられたものだ。もっと古い神社がどこかにあるはずだが、情報源が限られており、これ以上探索することはできなかった。


神社


2月18日(月) 3島ツアー

 英国人がアンダマンに入植したとき、一番最初にコロニーを築いたのはポート・ブレアではなく、そのすぐ近くにあるチャッタムであった。そしてその次にヘッドクォーターとしてコロニーが築かれたのがロス島(Ross Island)であった。面積1平方km以下、1時間で1周できるほどの小さな島だが、この島が入植地に選ばれたのはおそらく原住民の攻撃から身を守るためであろう。ロス島には生活用の建物や教会が建てられた。ポート・ブレアにセルラー・ジェイルが完成した後もロス島は英国のアンダマン諸島ヘッドクォーターとして機能していたが、1942年には日本軍に占領され、日本軍が撤退した後は荒れるに任されていた。ロス島には英国人や日本人が築いた遺構が朽ち果てたまま残されており、現在では観光地となっている。


セルラー・ジェイルから眺めたロス島

 ポート・ブレアで必ず行きたかったのはセルラー・ジェイルであるが、それが実現した今、次はロス島に是非行ってみたいと考えていた。アバルディーン・ジェッティーからロス島行きの定期船が出ており、それを使って島に渡る計画を立てていたが、ホテルで聞いてみたところ、ロス島に加え、ノース・ベイ(North Bay)とヴァイパー島(Viper Island)の全3島を巡るスリー・アイランズ・ツアーなるものが存在することが分かった。ノース・ベイという島については事前に情報がなかったが、ヴァイパー島は懲罰用の刑務所が造られた島で、ポート・ブレア周辺の見所のひとつとしてガイドブックなどに載っていた。どうせならロス島と一緒にヴァイパー島も網羅するツアーを利用した方が得かと考え、その3島ツアーを申し込んだのだった。


アバルディーン・ジェッティーで見つけた津波祈念碑

 スリー・アイランズ・ツアーには2つの料金体系がある。1人500ルピーのチケットを購入した場合、ランチボックスと500mlのボトルウォーターが付く。一方、1人390ルピーのチケットを購入した場合、ツアー内容は全く一緒だが、ランチと水が出ない。500ルピーのチケットで提供されるランチボックスは、大しておいしくないヴェジ・ビリヤーニーであった。ノース・ベイとロス島にはランチができるキャンテーンやレストランがあるので、絶対に500ルピーのチケットを購入しなければならないことはない。しかしながら、我々は500ルピーのチケットを購入した。


アバルディーン・ジェッティー海底にはウニがワンサカ
日本軍がアンダマン&ニコバル諸島を占領した密かな理由?

 まず、この3島ツアーは完全にインド人向けであった。外国人は我々以外参加しておらず、インド人参加者の大半がベンガル人であった。案内役がしゃべる言語もヒンディー語のみなので、通常の外国人観光客が参加すると少しだけ疎外感を味わうかもしれない。


ツアーに参加していたベンガル人のおじさんと記念撮影

 また、「3島ツアー」と言うと聞こえはいいが、各島に滞在できる時間には大きな格差があり、実際には「ノース・ベイと他2島ツアー」と表現した方がより実態に近い。ノース・ベイの滞在時間は2時間、ロス島が1時間、そしてヴァイパー島が15分のみで、この順番に巡る。ではノース・ベイに何があるかと言うと、島自体には特に何の見所もない。代わりにちょっとしたビーチがあり、シュノーケリングやバナナボートなどのマリンスポーツができるようになっている。しかし、ハヴェロック島のエレファント・ビーチに比べると各アクティビティの値段は高く、ビーチの質も全く比べ物にならない。ロス島目当ての我々には全く無駄な時間だった。


ノース・ベイ

 さらに、この3島ツアーはチケット代以外にもお金が掛かるような仕組みとなっている。ノース・ベイへの入島料は1人10ルピー掛かるし、ロス島では入島料は運営者持ちとなるがカメラやビデオカメラを所有しているとその料金が掛かる。また、ノース・ベイではマリン・スポーツをはじめ何をするにもお金が掛かる。例えばシュノーケリングには1人500ルピー、グラスボートには1人300ルピー掛かるし、荷物を預けるロッカーや真水のシャワーも有料だ。その上、船上では案内役がアンダマン&ニコバル諸島を紹介するVCD3枚組セットを150ルピーで売り出す始末。とにかくツアー参加者から最大限のお金をむしり取ろうという魂胆が見え見えの、蟻地獄のようなツアーであった。


ノース・ベイ近くで見掛けた漁師

 この3島ツアーのおかげで、当初予定には入れていなかったヴァイパー島を訪れられたことはありがたいと言える。しかし、ヴァイパー島はもっとも見所に乏しく、もっとも汚ない島であった。何しろ桟橋の近くにある丘の上にパーンスィーガル(処刑場)が建っているだけで、他には特に何もない。逆に、この島にはなぜかゴミや糞が散乱しており、歩いていて非常に不愉快になる。15分しか滞在しないのも納得できるが、このつまらない15分のために、ノース・ベイやロス島から全く正反対の方向にあるこの島まで往復しなければならないのは納得しがたい。どうせならヴァイパー島を外して2島ツアーにしてくれれば、ロス島を余裕を持って巡ることもできるだろうし、帰りも早くなるだろう。もしヴァイパー島を訪れていなかったら、どんなところだっただろうと後に想像力を膨らませることがあったかもしれないが、訪れてみると、この島にわざわざ来たことを後悔する。ロンリー・プラネットにもこの島は「a fairly forgettable excursion(記憶に残らないほどつまらない探検)」と評されていたが、それを信じるべきであった。


ヴァイパー島の処刑場

 しかし、ロス島はそれなりに見所のある島であった。島の博物館にあった地図によると、島には60以上の遺構が残っている。放棄されてから半世紀しか経っていないはずだが、まるでカンボジアのシュムリアップに残る遺跡群のように、人造物が樹木に呑み込まれており、圧巻だ。入植の歴史が浅い分、カンボジアよりも熱帯雨林の脅威を思い知らされる。これら人工物と自然の織り成す奇怪な狂想曲がロス島の最大の魅力である。


樹木に呑み込まれる建物

 3島ツアーではロス島観光のために1時間しか時間がもらえないが、これはかなり最低限の時間であり、2-3時間くらいあるとゆっくり巡れる。3島ツアーではなく、ポート・ブレアとロス島を結ぶ定期船でこの島を観光すべきだ。島にはキャンテーンもあり、軽食や飲み物にも困らない。また、島の裏側にはちょっとしたビーチもあるが、ここでの遊泳は禁止されている。ロス島は海軍が管理しているためかいろいろ禁止事項が多く、ポイ捨てをしたり、ココナッツを拾ったりすると罰金を取られる。


ロス島のビーチ

 アバルディーン・ジェッティーに到着したのは午後4時過ぎであった。一旦ホテルまで戻って休憩。夕食はTSGエメラルド・ビューのルチ(Ruchi)で食べた。ポート・ブレアのグルメ・レベルはとても高く、どこで何を食べてもおいしかった。このルチは、ポート・ブレアでシーフードを食べるならば一二を争うレストランとのことであったが、その評判通り、おいしい海鮮料理が食べられた。

2月19日(火) ポート・ブレア→デリーと総括

 いよいよアンダマン最後の日となった。今日は午前11時45分発のGoAir G8 102便でデリーに帰る。しかし、空港へ向かう前にワン・アクションできる時間があったので、最後に人類学博物館(Zonal Anthropological Museum)を訪れることにした。


人類学博物館

 観光客が部族と接触することを禁じられているアンダマン&ニコバル諸島では、この人類学博物館が、当地に住む部族の実態を知るほぼ唯一の窓口となっている。アンダマン&ニコバル諸島には全部で6種類の部族が住んでおり、人種的にはアンダマン諸島に住む4部族がネグロイド、ニコバル諸島に住む2部族がモンゴロイドとなっている。
  1. グレート・アンダマニーズ アンダマン諸島 ネグロイド
  2. ジャラワ アンダマン諸島 ネグロイド
  3. オンギ アンダマン諸島 ネグロイド
  4. センティネリーズ アンダマン諸島 ネグロイド
  5. ションペン ニコバル諸島 モンゴロイド
  6. ニコバリーズ ニコバル諸島 モンゴロイド
 ニコバリーズの人口は2万人ほどあるようだが、その他の5部族は絶滅の危機に瀕するほど人口が減っている。部族ごとに外の世界との関わり方は異なるのだが、もっとも文明を拒否しているのがセンティネリーズで、まだまともに交流が確立できておらず、その文化や生活形態についても謎が多い。博物館には、比較的実態が明らかになっているニコバリーズやグレート・アンダマニーズなどの生活用具や住居などを中心に展示があった。


ニコバリーズの祖先崇拝像

 この博物館は、先住民のみならず、英国人入植後に島に移住して来たコミュニティーについての解説も充実している。2001年の国勢調査によると、アンダマン&ニコバル諸島の言語別人口数は、ベンガル語話者が1位で23%、タミル語話者が2位で19%、ヒンディー語話者が3位で18%、テルグ語話者が4位で12%などとなっている。その中に「Ranchi」なる聞き慣れない言語があり不思議だったが、これは現ジャールカンド州チョーター・ナーグプル地方から肉体労働のためにアンダマン&ニコバル諸島に連れて来られた部族たちが話す言語の総称のようである。ジャールカンド州の州都はラーンチーだが、そこからその言語名が名付けられたようだ。それぞれのコミュニティーがアンダマン&ニコバル諸島に移住した理由を読むとさらに面白い。ウッタル・プラデーシュ州に住むバーントゥーと呼ばれる犯罪カーストは1925年頃にアンダマン&ニコバル諸島に移送された;アンダマン&ニコバル諸島に住むベンガル人の多くはインド独立後に難民となって流入した人々で、主に酪農業に従事している;アンダマン&ニコバル諸島のマラヤーリー(ケーララ州の人々)は教養層が多く、公務員、教師、医者などを占めている;タミル人コミュニティーには大別して、スリランカから本国送還された人々と、後に仕事を求めて自ら渡って来た人々がいる;アンダマン&ニコバル諸島に住むテルグ人は実業家が多い他、漁師の大半もテルグ人である;軍人の中には退役後に農業をして暮らすためにアンダマン&ニコバル諸島に移り住む人々がおり、一定のコミュニティーを形成している。彼らの多くはパンジャーブ人で、その子孫は警察などになることが多い、などなどである。


ニコバリーズの住居

 もっとも衝撃的だったのは、これらの移民の子孫たちが「カーストレス」、つまりカースト制度がない「ローカル」という特殊なコミュニティーを形成しているらしいことである。その影響であろうか、ガーンディー・パークで出会った現地女性の話では、アンダマン&ニコバル諸島では恋愛結婚が多いらしい(それと関連してか、AIDSへの注意を喚起するポスターや看板も多かった!)。これの真偽について深く調べた訳ではないが、インド人行くところ必ずカースト制度が付きまとうと考えていた僕にとっては、目から鱗の情報であった。出自によって職種が異なる傾向があることは上の記述からも明らかだが、出自が結婚の障害になることが少ないのなら、アンダマン&ニコバル諸島の人々はインドの国土において特殊な社会を築き上げていることになる。ヒンディー語が公用語として機能していることや、カースト制度が消え去っていることなどを考え合わせると、インド共和国憲法が目指した社会が、インド本土から遠く離れたこの僻地に奇跡的に実現していると表現してもいいのではないだろうか?

 午前10時20分頃には空港に着き、チェックインを済ませた。GoAirのコールカーター経由ニューデリー行きG8 102便は、突然1人の乗客が飛行機に乗り込んだ後に降りると言い出したために定刻よりも30分ほど遅れて出発し、デリー到着も30分遅れた。デリーは曇り空で、熱帯のアンダマン&ニコバル諸島から帰って来た我々には肌寒く感じた。旅行から家に帰ると、旅が終わってしまった悲しさが心に浮かぶものだが、2児の子連れだと無事に帰って来られた安心感の方が強かった。


上空から見えたジャワーハルラール・ネルー・スタジアム




 今回のアンダマン家族旅行にはいくつか誤算があった。旅行前に想定していた通りに事が運ばなかったり、想像していたような状況になっていなかったりした。

 まず驚いたのは、インド人の間でアンダマンが既にかなりメジャーな観光地となっていたことである。インド亜大陸から1,300kmも離れた、かつて流刑地だったこの島嶼群に対しては、勝手に秘境のイメージを持っていた。まだまだ観光客も少なく、島国独特ののんびりとした雰囲気が残っているのではないかと想像を膨らませていた。もし観光客がいるとしても、外国人のヒッピーやバックパッカーぐらいだろうと決めつけていた。だが、実際に訪れたアンダマンは全く異なった。ハネムーン客から慰安旅行っぽい年配団体客まで、ありとあらゆるインド人が詰め掛ける旅行先となっていた。

 アンダマンの最大のピーク・シーズンは12月~1月と聞いていたのだが、多数のインド人観光客が訪れていたことから、2月でも十分にピーク・シーズンが続いていたのも誤算だった。この時期でも、ホテルから交通手段まで事前に予約しておかないと思い通りに進まないことばかりだ。ハヴェロック島の宿は事前に予約した方が無難であるし、ポート・ブレアに至ってはホテルの数が足りていないのではないかと思うほどに、どこも常に満室である。少なくともロンリー・プラネットなどのガイドブックに載っているような宿は、飛び入りで泊まれると思わない方がいい。

 意外に物価が高かったのも驚いた。ポート・ブレアについては、アンダマン&ニコバル諸島の主都であるし、ある程度物価が高いことは想定していたのだが、ハヴェロック島も意外や意外、安くはなかった。ハヴェロック島は宿や食事や交通手段などに安い選択肢があるというだけで、もしそれなりの宿に泊まり、それなりの食事を食べ、それなりの機動力を持って観光したかったら、それなりの料金が掛かる。インドの他のビーチに比べてコストパフォーマンスがいいとは決して思えない。

 2004年のスマトラ沖地震に伴う津波のダメージがアンダマンの観光業にまだ暗い影を落としていることも意外だった。表面上は津波の爪痕はそんなに目立たないが、例えばシュノーケリングを目当てにアンダマンに来ると大きく落胆することだろう。アンダマンにおいて、シュノーケリングで見られる深さの珊瑚礁は、津波によってほぼ壊滅してしまったのではないかと思う。津波によって、珊瑚礁の色は全て失われてしまい、あれから8年以上が経った今でもほとんど回復していない。灰色の珊瑚礁の間を縫って泳ぐカラフルな熱帯魚たちのみが、津波前の海底の美しい姿の生き証人となっている。

 今回は1週間のみの滞在で、アンダマンのほんの一部しか観光できなかったが、アンダマンの奥の深さは何となく感じ取ることができた。ハヴェロック島がここまで観光地化された今、おそらくアンダマンの次なるホットスポットは、さらに交通の便の悪い辺境の島々となって行くだろう。外国人が行ける島は限られているのだが、ネール島(Neil Island)やロング島(Long Island)など、かなり良さそうな島に思える。もし、楽園のようなビーチを発見する旅が目的ならば、アンダマンのマイナーな島々はかなり潜在的可能性がある。アンダマンはインドの一部と言うよりも独立したひとつの世界であり、この世界を隅々まで探検する価値は十分ある。

 ただ、ポート・ブレアから陸路で北上する道は閉ざされてしまった。アンダマン諸島は、ノース・アンダマン、ミドル・アンダマン、サウス・アンダマンの3つの島に分かれており、サウス・アンダマン島のポート・ブレアからノース・アンダマン島のディグリープル(Diglipur)までアンダマン・トランク・ロード(ATR)という幹線が続いている。ところがこの道がジャラワ族の居住地のど真ん中を通っているため、前々から問題になっていた。そんな中、ATRを通過する観光客がジャラワ族を弄んでいるビデオが流出し、問題が大々的に表面化した。今年1月に最高裁判所が、観光客がATRを通過することを禁止したため、この道沿いに点在していた観光地――例えばバラタング島(Baratang Island)の鍾乳洞(Limestone Caves)や泥火山(Mud Volcano)など――への訪問も不可能となってしまった。今後状況が変わるかもしれないが、今のところはこれらの観光地をはじめ、ポート・ブレアより陸路で北上しなければ行けない見所には、国内外の観光客はアクセスできなくなってしまっており、アンダマン諸島の観光資源が減ってしまった。

 今回は、2歳半の幼児と5ヶ月の乳児を連れての家族旅行だった。基本的にビーチはあまり乳幼児連れの旅行には向かない。なぜなら、あまりに小さな子供がいると、マリン・スポーツやビーチ・アクティビティをするのが非常に困難だからだ。よって、アジアでトップクラスの美しさを誇る海とビーチを眼前にしながら、海とビーチを味わい尽くすようなことはできなかった。それは傍から見るともったいないことだろう。しかし、インド人の多くはビーチに来ても、泳ぐわけでもなく、肌を焼くわけでもなく、通常の服を着て突っ立っているだけなので、ビーチでビーチらしいことをしなくて損をした感はインドでは結構少ない。それでも、子供たちが海を楽しめるくらいの年齢になってから来るのが正しいアンダマン家族旅行の形だっただろう。

 しかしながら、インドを子供連れで旅行することのメリットもある。一度でもインド国内を子供連れで旅行したことのある人なら思わず首肯することなのだが、インド人は本当に子供に対して優しく、そしてフレンドリーだ。特に外国人の子供は、まるで芸能人の子供のように大人気となる。よって、子供を介して多くのインド人と交流することができるのである。子連れの旅は苦労が多いのだが、周囲のインド人たちにだいぶ助けられ、そして幸せをもらった気がする。もちろん、子供がいなくても旅先でインド人とは普通に仲良くなれるのだが、子供がいると何倍ものスピードで交流が広がる実感がある。日本にはどこかその要素が欠落している気がするのだが、気のせいであろうか?もし気のせいでないのなら、日本はいつの間にか子供に冷たい社会になってしまったと言える。実態はどうあれ、子供連れで旅行するには、日本よりもインドの方がずっと気楽である。

 さらに、アンダマンの人々はほぼ皆とても素朴で温かかった。オートリクシャー運転手の中には、旅行者から高い運賃をぼったくることを覚えてしまった者もいるが、それを除けば地元の人々との交流の中で満たされた気分になることばかりだった。本土のインド人に比べて細かい気配りや礼儀正しさなどがあって、人間ができているようにも感じた。ポート・ブレアの街ひとつを取ってみても、ゴミが少なく、清潔な印象を受けた。人類学博物館で書かれていた「カーストレス」のローカル・コミュニティーとも関連があるのだろうか?部族コミュニティーとは接触できないものの、移民たちの人の良さがアンダマン&ニコバル諸島の最大の魅力であり、彼らが本土から遠く離れたこの「インド人のるつぼ」の島で作り上げた特異な社会に大きな興味を引かれた。

2月28日(木) 日本完全帰国

 前々からアナウンスしていたように、2月末のヴィザ失効に伴い、11年7ヶ月のインド滞在を完了して日本に完全帰国した。この日記は日本で書いている。

 過去に、周囲に「もうすぐ日本に帰ることになるかもしれない」と話しておきながら実際には帰らなかったことが何度かあったために、僕が日本に完全帰国することを信じていない人もいたのだが、今回ばかりは本当であり、本気であり、全てを引き払い、自ら送別会を開いての正真正銘帰国となった。

 今までの「帰ることになるかもしれない」は、ヴィザの更新や延長の可否が不確定要素としてあったために、もしヴィザが更新・延長できなかったら帰らざるを得ないだろう、ということであった。しかし、今回はヴィザ更新・延長の手続きは一切しておらず、現行のヴィザが失効することで自動的にインド滞在が終了となったのだった。

 学生ヴィザでの滞在が合計6年、研究ヴィザでの滞在が合計5年半で、「留学」としては、インドの教育・査証制度上、寄り道をせず、裏道を通らずの最長級滞在となったのではないかと思う。

 長年住んで来たばかりか、現在の自分のアイデンティティの大部分を占めるに至ったインドを去ることはとても辛い決断ではあったが、志半ばで去ることになった訳ではないため、辛さや悲しみと同時に正直言ってすがすがしさもある。正に卒業式の気分であった。

 また、ヴィザの期限という明確なタイムリミットがあったために、死期を悟った病人のように、身辺整理をゆっくりと段階的に行うことができたのも良かった。博士論文を提出するまでの数ヶ月間は本当に忙しく、ほとんどインドを楽しむ余裕がなかったのだが、論文提出後は残された半年の時間、インドの全てが美しく目に映った。ラダック、チャンデーリー、ブルハーンプル、アンダマン・・・。死ぬ前に世界が美しく見えるというのは本当かもしれない。


パンゴン・ツォ

 10年以上インドに住んで来たために、インドで経験し得ることの多くは経験した気になっていたが、いざ帰国準備をする段階になって大きな盲点があったことに気付いた。日本を出て以来、ずっとデリーで生活して来たこともあり、今まで本帰国をしたことがなかったのである。これからデリーで生活を始める人へのアドバイスはいくらでもできるのだが、これから日本に生活拠点を移すに際しての知識やコツなどは全く持ち合わせていなかった。

 学生・研究者として長く滞在して来たこともあり、もっとも困ったのは書籍類の処遇であった。心のどこかで「まだデリーに住み続ける」と信じていた部分があり、今まで買い集めた書籍類の大半は、こまめに日本へ送ったり持って行ったりすることなく、ずっとたまり続けていた。量ってみたら合計350kgあった。しかも、過去に何度か引っ越した中で不必要な本はその都度処分していたため、手元にある本の多くは捨てられない本であった。

 学生・研究者にとって本は命であるが、帰国時に本の送付が大きな問題となることが明らかになるにつれて、本を買うのが怖くなってしまった。2月にデリーでワールドブックフェアがあったが、また大量に本を買ってしまうのが怖くて行けなかった。一時は本を送る目処が付かなかったので、やがて世界が本で埋まってしまうのではないかという妄想にも悩まされた。

 荷物を日本に送る際、インディア・ポストがもっとも安価だと思われたが、僕が調べた限り、そうでもなかった。ひとつの小包の最大重量が20kgで、それを日本に送ると船便であってもひとつ5,200ルピーは掛かる計算であった。350kgの荷物を送付しようとすると、少なくとも合計9万ルピーは掛かってしまう。本の値段よりも送料の方が高く付いてしまうではないか。今まで本をため込んでいたことを激しく後悔した。

 様々なオプションを考慮した結果、最終的にはDHLを利用した。知り合いの会社を通してかなりのディスカウントをしてもらい、空輸でも合計8万ルピーに抑えられた。だが、それでも結構な金額だ。やはり本は計画的に持ち帰るべきであった。通常、日本に一時帰国する際にはインドから日本へのスーツケースには余裕があるものだ。1年に1度は必ず帰国していたので、その度に使わない本をこまめに持ち帰っておけばこんなことにはならなかっただろう。

 だが、本の送付作業が一段落付いたことで、完全帰国への心構えもより確固たるものとなった。まるで碇を上げた船のように、心は日本へ向かい始めた。


ハヴェロック島へ向かう船

 2年以上住んで来たマハーナディー寮を、帰国日の2-3週間前に引き払わなければならなくなったことも、結果的には帰国準備を早めに済ませるきっかけとなり、前向きな効果をもたらした。

 ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)はレジデンシャル・ユニバーシティー制度を採っており、希望する学生や教職員には寮や住居が宛がわれる。寮費は格安で、首都デリーにいながら最低限の出費で生活ができる。しかしながら、学生の場合、学籍を失うことで当然のことながら寮に住む権利も失う。例えばインド人学生は博士論文提出後すぐに寮の明け渡しを求められる。だが、外国人留学生だけは特別扱いされており、論文提出後もViva Voce(口頭審査)まで寮に住むことができる。通常、Viva Voceは論文提出後2ヶ月から半年は掛かる。だが、さすがにViva Voceが完了したらすぐに出なくてはならず、僕も1月29日にViva Voceが完了したことで2月10日までに寮を出ることになった。Viva Voce後1ヶ月くらいは住めるかと悠長に構えていたために当初は焦ったが、2月27日に予定していた帰国日までの居候先も決まり、また1週間のアンダマン旅行も手配して、最後の日々を無駄なく快適に過ごすことができた。

 だが、インドでの定住所を失ったことの影響は大きかった。僕は常々、「インドを旅することと住むことは全く違う」と持論を述べて来たが、マハーナディー寮の部屋を失って以来、その意味を自ら実感することとなった。デリーの光景がかなり違って見えたのである。まるでかつて自分のものだった物が急に他人の物になったかのようであった。かつてデリーは自分の中にあったが、今ではデリーは外にあった。このような精神状態ではインドに深く入って行けないだろう。インドを理解するには、まずどこでもいいから地に根を張ることが重要だ。そこから全てが始まる。そうでなければ何も始まらない。僕は2月10日に既にインドから、そしてデリーから浮遊した存在になっていた。そういう意味では、移民によって作られたアンダマン&ニコバル諸島の社会は、僕にとって好都合の旅先であった。

 2月23日には、ジャパン・ファウンデーションでヒンディー語映画について講演を行い、その夕方には日本人向けに自分の送別会も主催した。僕がインドに住み始めた頃からインドにいる友人から、最近来た友人まで、満遍なく招待しようと努力した。


講演の様子
Special Thanks to Mr."Rickey"

 インドはどうしても理解に時間が掛かる国であり、インド在住歴が似通った人同士で気が合う傾向にあると感じる。1年住めば1年なりの理解しか期待できないし、10年住めば10年なりの理解が得られる。そして、大体普通に過ごしていれば、インド在住歴が同様の年数になったときに同様のことを思い感じ考えるものだ。年齢や職種よりも在住歴の方が有意な要素だとまで思われる。だから、インドに何年から住み始めたか、何年住んだかは重要な指標となる。たとえ日本大使や大手企業社長であっても、どんなに高名な文学者や学者であっても、インドに滞在した日数が少なければ、その人の語るインドにあまり参考になるものはない。逆に、特に大したことをしていなくても、ずっとインドに住んでいる人の話には耳を傾けるべき何かがある。僕は11年7ヶ月の期間住み続けたが、同じだけインドに住んでいる人にはインドに対する物の見方に親近感を覚えるし、20年、30年のスパンでインドに住んでいる人には到底頭が上がらないと感じる。

 しかし、インドに住み続ければ住み続けるほど、どうしても新鮮な視点は失われて行くものだ。インドに住み始めた最初の1年間に心に浮かんだ感情や頭で考えた思考の量は、その後の10年間どんなに頑張っても越えられないほどのものであった。おそらくインドが与えてくれる刺激の量は変わらないのだろうが、それに反応するセンサーが鈍くなってしまう。ほとんど動かなくなったセンサーを持つ僕は、時々、今正にインドに到着した人々のその新鮮なセンサーが羨ましくなる。インドの理解はまだ未熟かもしれないが、インドで最初に感じ考えた様々なことは、後のインド理解に強力につながって行くもので、大事にしまっておくべきものだ。

 残念なことに、異なる期間インドに住み続けている人同士の交流は、そこまで活発ではない。やはり同じ頃にインドに来た人同士が一番気が合うので、その中で人間関係の多くが完結してしまう傾向にある。だが、インド在住歴の異なる人々がお互いに刺激し合うことはとても大事で、自分の送別会もそんな場にしたかった。自分がインドに住み始めたときに出会った友人から、去る間際に出会った友人まで、一堂に会することで、また新たな展開が生まれてくれればと考えていた。デリーを今正に去ろうとしている僕がデリーに残して行けるものと言えば、そのくらいであった。最終的に30名の人が集まってくれた。とても感謝している。


送別会での記念撮影

 日本人とのお別れは日本人の常識内で進んだのだが、インド人とのお別れは言わば初めての経験で、インド人がいかに情に厚いというか脆いというか、そういうことを思い知らされた数日間だった。普通、あと数日で日本に本帰国するとなった場合、お世話になった人々になるべくたくさん会えるように、この日はこの人と、この日はあの人と、と言った具合に調整するものだ。日本人ならば言わなくてもそういうことを理解してくれて、ミーティングの後には「それではさようなら、お元気で」となる。これが以心伝心というやつだろう。だが、インド人は全く違う。これが最後のミーティングだと決めて出会った人が、「帰国日はいつだ?」と聞いて来て、まだ数日あると知ると、こっちの予定お構いなしに「それじゃあそれまでに最後にまた会おう」と言って来るのである。実際に我々がインドを去るまで、彼らにとってはいつまで経っても「最後」がやって来ないのだ。そして本当に「最後の最後」の時間を共有するために、見送りまでしてくれる。インドとの別れはこちらも十分悲しいのだが、それ以上に、こちらが引いてしまうほど、彼らの方が我々との別れを悲しんでくれる。こんなに熱い人たちは世界広しと言えどあまりいないのではないかと思う。同時に、そんな友人たちに恵まれたことを非常に幸せに思う。


JNU時代の親友一家と「最後」に動物園へ

 日本に帰国したばかりの今、今後どのような形で自分がインドに関わって行けるのか、全く未知数なのだが、運命に導かれるようにインド留学を決めた12年前のように、またインドは何らかの形で僕を呼び戻し使ってくれるのだと信じている。そのときまで、さらばインド。

 




*** Copyright (C) Arukakat All Rights Reserved ***