スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2005年1月

装飾下

|| 目次 ||
▼ナガランド旅行(12月29日〜1月5日)
旅行■1日(土)コヒマの小暇な元旦
旅行■2日(日)カーズィランガー国立公園
旅行■3日(月)コヒマへ再突入
旅行■4日(火)ラージダーニー・エクスプレス
旅行■5日(水)旅行戦利品
映評■9日(日)Vaada
分析■12日(水)なぜ先住民は生き残ったのか?
映評■12日(水)Amu
映評■14日(金)Elaan
旅行■16日(日)ガンガー参拝ツーリング
分析■19日(水)ナチとマンジとスワスティカ
映評■21日(金)Kisna
競技■22日(土)印テニス界の新星、サーニヤー・ミルザー
映評■23日(日)Page3
旅行■29日(土)ブラジ・ツーリング@
旅行■30日(日)ブラジ・ツーリングA


1月1日(土) コヒマの小暇な元旦



 インドに来てからというものの、だんだん年末年始が関係なくなっている。日本にいると、年末年始に近付くにつれて、クリスマス、大晦日、元旦と、周囲の雰囲気が勝手に変わっていくので、それに流されていくことが多い。欧米諸国にいても同じだろう。しかしインドでは、クリスマスは近年祝われるようになって来たものの、年末年始に当たるイベントはディーワーリーかホーリーであり、12月31日から1月1日にかけての2日間はただの日付変更に過ぎない。よって、インドにいると全く年末年始と関係ない生活になって行く。去年の大晦日と元旦は、グジャラート州カッチ地方ブジからアハマダーバードへ向かう夜行バスの中で迎え、初日の出は、アハマダーバードからヴァローダラーへ向かうバスの中で拝んだ。だが、今年は精一杯正月気分を味わおうと思い、秘境コヒマまでわざわざいろいろ正月グッズを持って来た――しめ縄、鏡もち、日本酒(吉乃川)、凧(スポーツカイト)などである。また、元旦に戦没者墓地の日本人の墓にお神酒を捧げて供養するという計画も立てていた。

 早朝、日が昇る前にホテルを出て、歩いて戦没者墓地に向かった。ホテル・ジャプフから戦没者墓地までは1kmほど。ずっと下り坂なので特に辛くはない。その途中、コヒマ市街が見渡せる場所があったので、そこでご来光を拝むことにした。もう既に辺りは明るくなっており、東の空で今にも日が昇りそうになっていた。その場でしばらく待っていると、6時15分頃に山の向こうから太陽が昇った。コヒマのご来光!かなりレアな日の出である。




コヒマの初日の出


 日の出を見た後、さらに坂を下っていくと、森の中に戦車を発見した。1944年のコヒマ戦線中に英領インド軍によって使用された戦車で、「Medium Tank M3 Grant I」と説明されていた。外形はほぼ完全な形で残っていたが、内部はほとんどゴミ捨て場のようになっており、全体的にかなり朽ち果てていた。




M3 Grant I


 昨日は正門が閉まっており、元旦の今日も開いている望みは薄かったので、裏口を探すことにした。正門よりも少し坂を上がった場所に、「No Entry」と書かれた門があり、特に錠などはされていなかったため、ずかずかと入っていくと、民家を通り抜けてそのまま戦没者墓地に通じていた。一応呼び止めてくる人がいたが、「お祖父さんのプージャー(供養)をしたい」と言ったら簡単に入れてくれた。

 戦没者墓地は東向きの斜面に作られており、無数の墓碑が規則正しく並べられていた。また、頂上付近には大きな十字架が立っていた。とりあえず、日本人の墓碑はないか探してみた。3人で手分けしてほぼ全ての墓碑に目を通してみたが、日本人らしき名前を発見することはできなかった。ナガランドの友人の話では、コヒマの戦没者墓地に日本人の墓もあるとのことだったが、どうやら間違いだったようだ。聞くところによると、1970年代〜80年代にかけて日本から遺骨収集団がやって来て、旧日本軍兵士の遺骨を集中的に捜索したが、その遺骨が埋葬されたのはマニプル州インパールだったようだ。コヒマの戦没者墓地にも日本人の墓があったようだが、それも掘り起こされてインパールに移転されたらしい。コヒマに日本人の遺骨が埋葬されなかったのは、コヒマに仏教寺院がなかったからだと言う。インパール作戦で戦死した日本人兵士を元旦に参拝するというのが今回の旅行の大きな目的だったのだが、事前の調査不足により大失敗に終わってしまった。




戦没者墓地


 それでも、墓碑をひとつひとつ見ていくと面白いことに気が付いた。墓碑には、戦没者の宗教ごとに各宗教のシンボルが刻まれていた。キリスト教徒なら十字架、イスラーム教徒ならアラビア文字、ヒンドゥー教徒なら「om bhagwate namah(神様への礼拝)」というサンスクリト語のマントラなどである。また、英国人兵士の墓碑が一番多かったものの、インド人兵士の中で一番目立ったのがムスリムの兵士たちだったのが面白かった。インパール作戦で戦死した英領インド軍の兵士の大半はムスリムだったようだ。おそらくベンガル地方から連れて来られたのだろう。ムスリムの墓碑に刻まれているアラビア文字の意味は、専門家によると、「huwa al-Gafuur(神は何でもお許しになられるお方)」「innaa lillaahi wa innaa ilaihi raajiuun(本当に私たちはアッラーのもの。かれの御許に私たちは帰ります)」らしい。また、ヒンドゥー教徒はほぼ全員グルカー兵(ネパール人兵士)だった。ノース・イースト地域の部族出身と思われる兵士もいた。

 ホテルに戻った後、日本からわざわざ持ってきたスポーツ・カイトを取り出して、ホテルの屋上へ持って行った。本当は8月15日のインド独立記念日に飛ばそうと計画していたのだが、天候不良と練習不足のため断念してしまった。次なる飛行日に選ばれたのが、日本の伝統的凧揚げ日である元旦であった。コヒマは標高が高いため、さぞや風も強いだろうと計算していたのだが、退屈なコヒマの街を反映してか、見事に無風状態。凧は揚がらなかった・・・。せっかく持ってきたのだが・・・。

 普通インドでは元旦は平日なのだが、キリスト教の影響が強いナガランド州では、ほとんどの店が閉まっていた。それでいて街は特に新年を祝う雰囲気でもなく、手持ち無沙汰な人々がうろついているだけだった。トラックの荷台に乗った子供たちが「ハッピハッピニューイヤー!」と合唱しながら道路を疾走していたのだけが、唯一新年っぽい光景だった。これ以上コヒマにいても仕方ないと思った我々は、ディマープルへ戻ることに決めた。だが、コヒマの元旦は交通機関にも多大な影響を与えていた。コヒマ市内用のローカル・タクシー(黄色と黒のツートン・カラー)は走っていたものの、市外用の長距離タクシー(黄色)が全く見当たらなかったのだ。ホテルからローカル・タクシーに乗ってダウンタウンまで行っても状況は変わらなかった。と、そのとき、ディマープルから今コヒマに到着したばかりの長距離タクシーがやって来た。そのドライバーと交渉したら、600ルピーでディマープルまで行ってくれることになった(正規料金は500ルピー)。まだタクシーには乗客が乗っていたので、ドライバーがそれらの乗客を下ろしてまた戻って来るのを待っていた。すると、我々の様子を伺っていた1人の怪しげなナガ人が話しかけてきた。「ウチに首狩り時代の像がある。見に来ないか?」どうせ今日は何も見るものがないので、せめて彼の持っている自慢の像でも見ようかと考え、タクシーが来てから彼の家を訪れてみた。家はホテル・ジャプフからさらに先へ行った、カテドラルへ行く途中の坂道にあった。家の裏の木材置き場の奥から、1mほどの裸の女性の木像と、2mほどある裸の男性の木像、そして木製の皿が出てきた。女性の木像は王妃らしく、ビーズの首飾りや耳飾りをしていて、乳房や女性器まで生々しく再現されていた。確かに古く見えたが、幼稚な作りで芸術的な価値があるようには思えず、買う気がしなかった。彼が言うには1500ルピーらしい。男性の像は大きすぎて持って帰ることは不可能だろう。木製の皿は、彼の説明によると、首を狩った勇者のみが使用できる特別製の皿らしい。大小2つのサイズがあった。この他、彼の家の中には土産物屋では見ることができないような、変わった形の木製家具や木製食器、剥製などが置かれていた。我々の1人が、ビーズのネックレスが欲しいと言うと、「ちょっと待っててくれ」と行って彼はおもむろに走り出した。しばらく待っていると、彼は手に1つのネックレスを持って走って来た。多分誰かの首から外して持って来たのではなかろうか。そういう面白い経緯もあり、彼から古いビーズのネックレスを購入した。いったいどれだけの価値があるのかは専門家なので分からない。だが、ナガランドで本当にいいものを買おうとしたら、土産物などではなく、民家に行かなければならないと思った。

 コヒマを12時半に出た。ディマープル近くは峡谷となっており、多くの人々が谷底の川岸でピクニックをしている姿が目に入った。ナガランドで一番の娯楽はピクニックのようだ。そういえばデリーで会ったナガの友人も、どこかの山奥でピクニックした写真を大事に持っていた。ディマープルには3時過ぎに到着した。同じくホテル・サラマティに宿泊した。

 ディマープルの店もほぼ全て閉まっていたので、特にやることがなかった。ホテル・サラマティの近くに王宮跡があるとのことだったので、そこまで散歩してみた。王宮はカチャーリー・ルインズと呼ばれており、崩れかけの城門と、男根に似たモノリスが残っている他は、だだっ広い草原となっていた。やはりピクニックに来ている家族や子供たちが多く、モノリスはほとんど子供の遊び道具となっていた。モノリスとは石の構造物で、ノース・イースト地域の至る所に残っている。特にメーガーラヤ州のものが有名だ。だが、このカチャーリーのものはなかなか素晴らしい彫刻が施してあり、他のモノリスとは一味違った芸術性の高いものとなっていた。10世紀頃からディマープルには、カチャーリー族という一部族(ナガの部族ではない)の王国があり、これらの建造物は10世紀〜14世紀に作られたものらしい。また、コヒマからディマープルに来る間にドライバーから聞いた話によると、現在あるディマープル駅は実はマニプル駅という名前だったという。なぜなら、マニプル王国のマハーラージャーがマニプル駅と、インパールからディマープルに通じる道を建造したからだ。・・・ということは、ディマープルは元々ナガの領土ではなく、ディマープルからコヒマを経由してインパールに通じる道も、元々ナガとは全く関係ないものだったということだ。ディマープルとコヒマを見比べてみれば、全く違う構造の街であることがすぐに分かる。マニプルにヒンドゥーの王国ができているときに、ナガの部族たちは依然として素っ裸で首狩りをしていた。ナガランドにはほとんど文明らしきものがなかったのか。ナガランド州が独立したときに、無理矢理ディマープルはナガランド州に組み込まれたという。




モノリス


1月2日(日) カーズィランガー国立公園

 昨日は元旦でほとんどやることがなかったが、今日も日曜日でナガランド州の店の多くが閉まっていることは明らかだった。何をして1日過ごそうか相談した結果、アッサム州のカーズィランガー国立公園を日帰りで訪れることに決まった。カーズィランガー国立公園は一角サイで有名な場所である。僕はランタンボール国立公園でサファリをしたばかりで食傷気味だったが、この際各地の国立公園を比較してみるのも楽しいかと思い、一角サイのサファリをすることに賛成した。

 カーズィランガー国立公園は、アッサム州のナーガーオンとジョールハートの間にあり、ディマープルから約200kmほどの地点にある。タクシーをチャーターして、往復2500ルピーということになった。

 一角サイはおそらくアッサム州最大の売り物である。一角サイはアッサム州観光局のマークにもなっているし、アッサム・オイルのマークにもなっているし、アッサム州を旅行するととにかくいろんな場所で一角サイを象ったマークを発見することができる。ただ、ランタンボール国立公園では目玉の虎を拝むことができなかったため、多少サファリには及び腰になっていた。いったい本当にサイを見ることができるのだろうか?ランタンボール国立公園には40頭の虎しかいなかった。だが、カーズィランガー国立公園には現在のところ1500頭以上のサイが生息しているという。これならサイを見ることは比較的簡単かもしれない。そう期待しつつ、ディマープルを出てカーズィランガーへ向かった。ナガランド州とアッサム州の州境には警察の検問所があったが、特に厳重に警戒をしていたわけではなかった。これでは簡単に陸路からナガランド州に入れてしまうだろう。

 ナガランド州を旅行している間は、いったいこの州はどうやったら発展するのか、非常に悩まされていた。何しろ何もないのだ。産業らしきものも特にないし、人々が勤勉なわけでもないし、独自の文化や遺跡があるわけでもない。全く救いようのない州のように思えた。そして、アッサム州に入った途端、広大な稲田と茶畑、そして巨大な石油精製工場を見た瞬間、ますますナガランド州の貧しさを実感することになった。挙句の果てには、ナガランド州はアッサム州から独立する意味があったのか、疑問に思えてきてしまった。アッサム州の未来は明るいが、ナガランド州の未来はあまりに暗い・・・。

 ディマープルからカーズィランガー国立公園までは約3時間半。国立公園の中を国道が突っ切っているような形になっており、通過するだけなら特に入場料などを取られることはないが、サファリをするために国道から外れる道に入るには入場料などが必要となる。一応国立公園の中央部辺りにメインゲートと思われる門があり、一角サイの像が置かれている。だが、どのようにしてサファリをするのかは全く案内がないため、外国人観光客が単独でここに来ても簡単にサファリをすることはできないだろう。我々も何の情報もなく来た上に、ドライバーもサファリをしたことがなかったため、全く訳が分からなかった。訳が分からないなりに手探り状態で調べた結果、まずやるべきことはジープのチャーターであることが分かった。ジープ以外の車両は国立公園内でサファリをすることができないため、国立公園の入り口辺りにたむろっているジープをチャーターしなければならない。ちょうど休日だったこともあり、多くのインド人観光客が訪れていたため、ジープの数が不足しており、ひとつのジープに多くのインド人が群がる混乱状態となっていた。その中で何とかジープのドライバーを捕まえて交渉し、サファリをしてもらえることになった。入場料などを払うのは、ジープのドライバーが見つかってからである。

 カーズィランガー国立公園にはいくつかの地域(レンジ)があり、1回のサファリで1つの地域しか行くことができない。また、地域ごとにジープのチャーター代が違う。その料金はちゃんと決まっており、カーズィランガー国立公園ツーリスト・コンプレックスの前に掲示されている。情報を集めてみたところ、我々がサファリを開始した12時半頃に一角サイがよく見られる場所は、ウエスト・レンジという地域らしいので、そこへ行ってもらうことにした。名前の通り、ウエスト・レンジは国立公園の西部をカバーする地域だった。入り口にチケット・カウンターがあり、そこで入場料、車両料、カメラ料などを払う。だが、ベラボウに高い外国人料金が設定されており、普通に入場したらタージ・マハルよりも遥かに高い観光地となってしまう。インド人料金は入場料20ルピー、警備代50ルピー、車両料150ルピー、カメラ料50ルピー、ビデオカメラ料500ルピーなどであるのに対し、外国人料金は入場料250ルピー、警備代50ルピー、車両料150ルピー、カメラ料500ルピー、ビデオカメラ料1000ルピーなどである。ランタンボール国立公園は1回のサファリが400ルピーだったのを考えると、カーズィランガー国立公園はほとんどボッタクリに近い高さだと言える。ただ、日本人なら「ナガランドから来た」などと言えばインド人料金で入れるかもしれない。我々は、「日本人だがデリーに住んでいる」と在住許可証を見せて交渉したら、インド人料金で入れてもらえた。

 ランタンボール国立公園は車両ごとに自由に公園内を回ることができたが、カーズィランガー国立公園は、銃を持った森林警備隊員が必ず同行することになっており、彼の先導に付いていかなければならない。1時間ごとの出発で、そのときに集まったジープが隊列を組んで行動する。よって、先頭のジープに乗った方が一番いいことになるが、我々は4台ある中の3台目だった。また、どうも決められたコースがあるようにも見えた。

 ランタンボール国立公園では40頭しかいない虎を追い求めて3時間公園内をグルグル巡ったが、カーズィランガー国立公園ではサファリを始めて数分も経たない内に一角サイを発見した。河が流れており、その河岸で多くのサイが草を食んでいた。ただ、望遠レンズがないと豆粒ぐらいにしか写らない遠いところにいるだけだった。その後どんどん進んでいくとジャングルの中に入るのだが、特に何の動物もいなかった。そこからグルッと円を描いて戻ってきて、最後は展望台のような場所で休憩してサファリ終了となる。ざっと1時間半ほどだった。




情けないが、これが一番よく撮れた
アッサム名物、一角サイの写真


 カーズィランガー国立公園の目玉は一角サイであり、ここを訪れる観光客は一角サイ目当てで来るわけだが、今日のサファリから察するに、多分誰でも必ずサイを見ることができるだろう。その点はいいところだ。しかし、いきなりサイを見ることができてしまうため、ランタンボール国立公園のように虎を追い求めて何度も何度もサファリをする楽しみや、やっと虎に出会えたときの歓喜という魅力に欠けるような気がする。しかもそれほど設備が整っているわけでもないのに、外国人料金が高すぎる。ホテルやレストランなどは建っているものの、お土産屋などがほとんど見当たらないし、ジープの手配方法が全くシステマティックではない。ランタンボールとカーズィランガー、2つの国立公園は非常に対照的で、ある意味興味深かった。カーズィランガーのレストランで昼食を食べた後、3時頃にディマープルへ発った。

 夕食は元IGが自宅に招待してくれていた。ホテルに自動車が迎えに来てくれた。元IGの家は2階建ての驚くほど立派な豪邸で、庭には池や畑があった。この国ではエリート警察に莫大な利権と財産が集中することを物語っていた。夕食はナガの伝統家庭料理を作ってもらった。豚肉やウナギのカレー、ダール、野菜カレー、チャトニー、小エビなどだった。ナガ料理というとチリでしか味付けがしてない激辛料理という印象が強いが、この夕食は我々のことを配慮してくれて全然辛くない味付けにしてくれていた。ただ茹でただけの非常にシンプルな料理が多く、山の料理という感じだった。

1月3日(月) コヒマへ再突入

 コヒマの戦没者墓地で神妙な新年を迎えるという我々の計画は、調査不足と年末年始の長期休暇のために失敗に終わってしまった。明日の早朝の列車に乗ってグワーハーティーからデリーへ戻らなければならないため、今日が最後のナガランド滞在日となる。しかし、今日ディマープルからグワーハーティーへ向かう列車は午後4時半発のため、まだ時間に余裕があった。元旦と重なった土日も終わり、今日からいろんな場所が通常通り営業が始まる予感もあった。ディマープルのマーケットを巡るという手もあったが、どうしてもコヒマの博物館とセールス・エンポリアムへ行ってみたかった。また、ブータン旅行の日記で反響が大きかったミス・ブータンの写真と同じような、ミス・ナガランドの写真を撮影するというのも密かな野望だった。よって、我々は早朝からコヒマまでとんぼ返りをするという計画を立てた。

 ディマープルからコヒマまでは公共バスも出ているが、一番便利なのはタクシーである。ディマープル郊外にコヒマ行きのタクシースタンドがある。乗り合いタクシー(5人乗り)なら1人100ルピー、貸し切りなら500ルピーである。前回は貸し切りで行き、今回は乗り合いで行ったが、ディマープルからコヒマまでの移動時間はやはり2時間ほどだった。

 コヒマのダウンタウンで市内タクシーに乗り換え、まずは州立博物館まで行った(往復100ルピー)。ところが博物館はまたもや閉まっていた。よく見ると「月曜休館」と書かれていた。そういえば、インドの全ての博物館は月曜日が休館日と決められているのだった。今日が最後のチャンスだったのだが・・・。しかし、博物館の前に関係者と思われる人が数人たむろっていたので、特別に開けてもらえないか交渉してみたところ、ちょうど中にいた館長と会わせてくれた。館長に事情を説明すると、特別に見せてもらえることになった。裏口を開けてもらって、そこから中に入った。今回のナガランド入域といい、博物館入場といい、全て裏口入場の旅行となってしまっている・・・。

 コヒマ州立博物館はナガランド州の各部族の紹介がしてある。等身大の人形による衣服や住居のジオラマ展示、武器、装身具、織物、生活用具などの展示、そしてなぜか現代絵画の展示もしてあった。館長が自ら案内してくれたため、かえってお得な見学となった。展示物はなかなか整然と並べられており、インドの博物館の中ではよくできた方だった。しかし、この博物館の最大の欠点は、ナガの部族の中で長い間続いていた首狩りの血生臭い風習が覆い隠されていたことである。一応骸骨の展示はあったが、それだけだった。ナガランドの「ナガ」とは、ヒンディー語の「ナンガー(裸)」と関係しており、つまりナガランドとは「裸族の国」という意味である(蛇を意味する「ナーガ」とは関係ないようだ)。しかし、博物館に展示されていた人形は皆衣服を着ていた。これも大きな嘘偽りなのではないかと思った。ちなみに館内は写真撮影禁止である。館長からは博物館のパンフレットがもらえた。




州立博物館の入り口の彫刻
生首のかわいい絵が並んでいる


 博物館を見た後は、コヒマの繁華街スーパー・マーケットのセールス・エンポリアムへ行った。ここは普通に営業していた。やはりナガランドの工芸品は芸術性が高くなく、魅力に乏しいものばかりだった。一番目立つお土産は槍。しかしどうやって持って帰れというのか。その他、エンポリアムに置いてあった品物は、持っていると呪われそうなおどろおどろしい像、一本の木でできた皿、各部族の特徴的な織物、いかにも原住民と言った感じのネックレスなどなど。なぜか地元のナガ人も買いに来ていたのはどういうことだろうか・・・。友人はかねてから槍を買おうとしていたのだが、エンポリアムで木製のクロスボウを発見して即決で購入。値段は310ルピーという破格の値段。僕はパーン用のライムを入れる金属製のアンティーク風ケース(500ルピー)と、ナガランドを紹介した本(300ルピー)を買った。店には民俗衣装を着た女の子の写真が載っている2004年のカレンダーがかかっていたため、それを売っているのか聞いてみたら、無料でくれた。密かにこのカレンダーが一番の貴重品なのではないかと思っている。




おどろおどろしい木像


 スーパー・マーケットからバススタンドにかけての商店街にはいくつか本屋があった。ナガの言語に関する本が欲しくていくつかの書店を回ってみたら、ある本屋で、コヒマ周辺に住むアンガミ族の言語「Tenyidie」の簡単なフレーズ・単語集と、英語、ヒンディー語、ナガミーズ(ナガランドの各部族間の公用語)、Tenyidieの4言語を並列した単語集が売られていたため、両方購入した(各60ルピー)。どちらも分かりやすい内容ではなかったが、これでナガランドの言語について少し分かるようになりそうだ。少なくとも上記の本のおかげで、ナガミーズはアッサミー語の方言であることが分かった。ノース・イースト地域では、ヒンディー語よりも英語の方が通じると思っていたのだが、少なくともナガランド州では英語よりもヒンディー語の方が通じて少し驚いていた。ヒンディー語が分からない人はいないが、英語が分からない人はまだ多い。その理由のひとつは、ナガの部族同士の公用語であるナガミーズが、ヒンディー語と近い関係にあるアッサミー語を基にしているからだろうと推し量られた。

 買い物を終えた後は、バススタンド近くの食堂で昼食を食べた。ポーク・スープ・チョウというメニューが豚肉の入ったヌードル・スープであることが分かっていたため、それを注文し、それと共にモモ(チベット風餃子)も試しに食べてみた。モモは豚肉のみだったが、生姜とタケノコをまぶして作ったソースと共に出てきてなかなかおいしかった。12時過ぎにタクシースタンドでタクシーを拾ってディマープルまで戻った。

 ディマープルには2時過ぎに到着した。最後にディマープルのマーケットを散策してみたが、やはりそれほどいいものは売っていなかった。コヒマで買い物をしておいて本当に正解だった。3時半頃にはディマープル駅に向かった。

 実はディマープルからグワーハーティーへ行く列車、午後4時半発2068ジャン・シャターブディー・エクスプレスのチケット取得でも一悶着があった。元IGの話ではチケットは簡単に取れるとのことだったが、この日はウェイティング・リストとなってしまっていた。しかし駅の派出所の所長や元IGの裏工作により、何とか3人分の座席が手に入った。またもや裏口である。どちらかというと、警察側が正規の入域許可証を持っていない我々に早くナガランドを出て行ってもらいたいような感じだったから、お互い様だったのかもしれない。所長には、「次は正規の入域許可証を持って来てください。そうすればいつでも歓迎します」と言われてしまった。

 グワーハーティーからディマープルへ行くジャン・シャターブディー・エクスプレスの車内では、チャーイ、コーヒー、カツレツ、チキン・フライドライスなど、いろいろな車内販売があって楽しかったのだが、なぜか帰りの同列車では車内販売がほとんどなかった。それでも途中の駅でプーリーを買って食べたため、腹を満たすことはできた。僕の隣にはベンガル人で民俗歌の歌手をやっている兄妹が座り、少しだけ歌を聞かせてくれた。

 列車は午後9時過ぎにグワーハーティー駅に到着した。駅前にあるアッサム州観光局経営のツーリスト・ロッジに泊まりたかったのだが、あいにく満室だった。結局オート・リクシャーに任せて、駅の反対側にあるホテル・スターラインに泊まることにした。ノンACのダブルが480ルピー、ACのダブルが660ルピー。これしか部屋が空いていなかった。夕食は、前回行ったジャスト・フィッシュで食べようと思ったが、既に閉業時間の10時を過ぎていて食べさせてもらえず、さまよった挙句、ホテル前にあるダーバー(安食堂)でフィッシュ・カレー各種を食べた。

1月4日(火) ラージダーニー・エクスプレス

 グワーハーティーからデリーまでは、「インドの新幹線」との異名を持つラージダーニー・エクスプレスで帰った。ラージダーニー・エクスプレスとは、インドの主要各都市を結ぶ特急寝台列車の総称であり、全寝台席かつ全エアコン車両で、しかも飛行機のように食事付きである。車両には等級が2つあり、1つは3段寝台車、もう1つは2段寝台車。もちろん2段寝台車の方が高い。ちなみにラージダーニーとは「首都」という意味である。今回は初めてラージダーニー・エクスプレスの2段寝台車を利用した。デリーまでは1940km、32時間の旅。こんなに長い時間ラージダーニー・エクスプレスに乗るのも初めてである。

 グワーハーティー発ニューデリー行きのラージダーニー・エクスプレスは早朝6時発。グワーハーティー駅には5時半に着いたが、既に列車はプラットフォームに来ていた。車両は2段の寝台が2つ向かい合わさった4人用コンパートメントと、廊下を挟んだ窓際に縦に並ぶ2段の寝台の2人用座席で構成されており、僕の席はその窓際側の座席になってしまった。これではあまり2段寝台席を取った意味がない。コンパートメントの入り口と窓際の寝台にはカーテンがかかっており、3段寝台車と区別が図られていたが、特に高級感があるわけでもお徳感があるわけでもなかった。また、現在ニューデリー〜ムンバイー間を運行している最新式車両のラージダーニー・エクスプレスを経験してしまうと、旧車両のラージダーニー・エクスプレスからはもはや何の高級感も感じなくなってしまうだろう。

 列車は時間通り出発した。ラージダーニー・エクスプレスはチケットに全食事の料金が含まれているため、座っているだけで三食とチャーイが出てくる。おそらく2段寝台車の方が3段寝台車よりも食事の回数が多いように感じた。食事にはヴェジとノン・ヴェジがあり、朝食はノン・ヴェジはオムレツ、パン、チャーイ、昼食と夕食はチキン・カレー、ダール、チャパーティー、ライス、アチャール、サラダ、ダヒー、アイスクリームなど。32時間乗っていて分かったが、ラージダーニー・エクスプレスの食事のメニューはほとんど変わらない。しかもあまりおいしくない。だから最後には飽き飽きしてヴェジのメニューを頼んだ。そうしたらヴェジのメニューの方がおいしかった。ただ、昼食や夕食と共に出てくる素焼きの容器入りのダヒー(ヨーグルト)は絶品である。容器がダヒーの水分を吸い込み、ほどよい固さのヨーグルトになっている。

 グワーハーティーから約6時間後に西ベンガル州北部の要地ニュー・ジャルパーイーグリー駅に到着したことが分かったが、その後はどこをどう通って来たのはよく分からなかった。後で地図で確認したところ、西ベンガル州からビハール州に入り、州都パトナーからガンガー河を挟んで対岸にあるハジプル駅を経由して西進。ウッタル・プラデーシュ州北部を通って、州都ラクナウーを通って北西へ向かい、シャージャハーンプルを経由して、ガーズィヤーバード方面からデリーに入った。長距離列車の割には時間通りで、ニューデリー駅に到着したのは予定到着時間から30分後の2時半頃だった。

 デリーに戻ってきたらもう安心だと思ったが、タイミング悪くデリーではオート・リクシャーのストライキが行われていた。それでも規模の大きいものではなかったため、オートは利用できた。午後3時過ぎにはサフダルジャング・エンクレイヴの自宅に戻ることができた。とりあえずシャワーを浴びたかった。



 今回のナガランド旅行をまとめると、合法的な安全第一旅行を遵守しようとしていたにも関わらず、計画が計画の意味を成しておらず、行き当たりばったり、頼みは人脈のみの危ない裏口旅行となってしまった。一番痛かったのは、4人の団体旅行のつもりが3人になってしまったことと、そしてナガランド州では日本と同じように年末年始が長期休暇期間となってしまっていたことである。それでも行きたい場所は大体行くことができ、無事に戻って来れたのは運が良かった。

 ノース・イーストは「インドの中の異ンド」とでも呼ぶべき、全く違う文化圏に属する地域である。アッサム州はまだインド文化の影響下にあるが、その他の6州――アルナーチャル・プラデーシュ州、ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州、トリプラー州、メーガーラヤ州――は、長い間部族の居住地となって来ており、インドの常識はほとんど通用しない。現在、外国人の入域が無制限で許可されているのは、アッサム州、メーガーラヤ州、トリプラー州の3州である。それ以外の州は入域許可証の取得が必要で、通常は4人以上の団体でなければ許可は下りない。マニプル州やミゾラム州は入域許可証の取得が困難なようだが、ナガランド州とアルナーチャル・プラデーシュ州は比較的容易なようだ。また、ナガランド州は旧日本軍と英領インド軍が戦った場所であり、日本人にとっても意義深い州である。よって、今回ナガランド州を旅行先に選んだ。

 ところが、実際にナガランドを旅行してみた結果、この州には特に見るべき価値のあるものがほとんどないことが分かった。我々が見たのはナガランド州南部のディマープルとコヒマだけであり、これだけでナガランド州について語るのはおこがましいが、しかし今のところ実際に観光旅行者が普通に訪れることができるのはこの2都市のみだと考えていいだろう。ディマープルもコヒマも中途半端に近代化された街であり、街並みや住民に特に魅力があるわけでもない。もっと田舎の方に行けば伝統的家屋や生活などを見ることができるようだが、何の人脈もなしに田舎の村を訪ねるのは、武装ゲリラが巣食うナガランド州では危険極まりない行為である。僕も田舎の村へ行ってみたかったのだが、結局行けず終いだった。一応観光客向けのツーリスト・ヴィレッジなるものがナガランド州各地にあり、伝統家屋などを見ることができるようだが、現地まで来たのだから本物を見てみたいものである。それらのツーリスト・ヴィレッジは整備がされていないとも聞いた。イギリス人がナガランドを管理下に置いたのも、ナガランド自体に魅力や価値があったからではなく、アッサム地方の茶プランテーションを守るためであったという。

 普通に旅行しただけではあまり楽しめないナガランド州だが、12月上旬に行われるホーンビル・フェスティバルのときだけは楽しそうだ。ナガランド州の各部族たちが民俗衣装を着てコヒマ近くのキサマという場所に集まり、各種催し物を行うらしい。また、キリスト教徒の多いナガランド州では、クリスマスも盛大に祝われる。我々がナガランドを訪れた12月下旬は、ホーンビル・フェスティバルとクリスマスという、ナガランドの2大イベントが終わった後であり、ナガの人々が精根を使い果たした期間であったらしい。

 ナガランド州は1963年にアッサム州から独立したが、ナガの部族が住む地域ではインド独立の年から中央政府と独立闘争を繰り広げて来た歴史があり、度々テロ事件などが発生している。そのため治安が良くないイメージがあったが、僕が見たナガランド州は平和そのもので、特に危険な州には見えなかった。しかし、それも夜間の移動をしないなど、細心の注意を怠らなかったからであり、やはり気を付けなければならない地域であることに変わりはない。

 ナガランド州は入域許可証が必要な州ではあるが、同州に住む人々の顔は日本人とよく似ており、日本人ならノーチェックで入域が可能である。僕の友人の韓国人などは、ナガランド人の友人と共に無許可で入域していた。だが、ホテルに宿泊する際は入域許可証の提示を求められるため、無許可の場合は必ず知人の家に泊まらなければならないという制約があるだろう。また、もしばれた場合などは、どういう扱いを受けるのか分からない。即刻退去ならまだいいが、拘束されたりしたら辛い目に遭うだろう。やはり入域許可証を取得してナガランド州を旅行すべきである。また、規則では4人以上の団体か既婚のカップルの団体にしか許可は下りないことになっているが、交渉次第でけっこう融通が利くみたいである。人脈があればなおよい。

 個人的に大きな発見だったのは、ナガランド州でヒンディー語が思った以上によく通じたことだ。英語よりもよく通じた。デリーに来ているナガランド人は英語がうまい人が多く、彼らと話すときは意識的に英語でしゃべっていたのだが、ナガランド州を旅行した結果、実はナガランド人もかなりヒンディー語を理解することが分かった。やはりヒンディー語の映画やTVドラマの影響が強いと思うが、前述の通り、アッサミー語をベースにしたナガミーズという共通語を話しているため、ヒンディー語もすんなり理解できるのだろう。よく「ヒンディー語はインド全土で通じない」という悪口を聞くが、今回の旅行でナガランド州はヒンディー語が通用する州であることが分かり、幾分心強い気持ちになった。今まで僕が旅行した中でヒンディー語が全く、またはほとんど通じなかったのは、メーガーラヤ州の地方都市ジョワイと、タミル・ナードゥ州の田舎くらいである。基本的に内外の人の交流の多い場所ではヒンディー語の通用度が増える傾向にあると思う。この調子で他のノース・イースト各州でもヒンディー語の通用度を確かめてみたくなった。

 ナガランド州の未来にはあまり希望を見出せなかったが、それとは対照的にアッサム州の豊かさには目を見張るものがあった。雄大な大河と広大な稲田と茶畑、石油と石油精製工場、一角サイという絶好のマスコット・キャラ・・・特にアッサムの米の旨さは発見と言っていい。大粒のサラサラの米で、これが同じくアッサムで獲れた魚のカレーとよく合う。ムガル王朝よりも長く続いたインド最長の王朝、アホム王国(1228〜1838年)があったことも、この肥沃な大地を見れば容易に理解できる。

1月5日(水) 旅行戦利品

 ナガランドの伝統工芸品には多大な期待を寄せていたのだが、いかんせん文明と呼べるものがあまりなかった地域だけあって、工芸品にも完成度の高いもの、観光客の目を奪うようなものはほとんどなかった。それでも、我々が買った中で面白そうなものを紹介しようと思う。

 ものすごい欲しかったわけではないが、一番ナガランドらしいだろうと思って僕が買ったのは、生首のペンダントである。人間の顔の形をした木製または金属製のペンダントが付いており、装着すると何だか悪の大王になった気分になる。上で少し触れたが、ナガ族の男性は首を狩らなければ一人前とは認められず、狩った数だけ首を並べたペンダントを首から下げて自身の強さを誇る。いろいろな数の首が付いたペンダントがあったが、店で見たものの中で一番首の数が多かったのは、人間の首4つ+牛の首1つの合計5首ペンダント。つまり、これを首から下げていた人は、4人の人間の首と、1頭の牛の首を狩ったことになる。これを購入した。だが、その後州立博物館で、もっと首の数の多いペンダントが展示されていたので、ちょっと悔しい気分になった。生首ペンダントは、一昔前に流行ったアーケード・ゲーム「ストリート・ファイター2」の登場キャラ、ダルシム(インド代表)も髣髴とさせた。この種のペンダントは、ナガランドならどこでも売っているが、僕はコヒマのスーパー・マーケットで購入した。言い値は800ルピー。こういうアンティークっぽいペンダント(本当にアンティークかは不明)は法外な値段で売られており、普通は1000ルピーを越えるため、いい買い物だったと思う。




5首ペンダント


 当初、我々はナガランド名物の槍と盾を買って帰ろうと意気込んでいた。ナガランドで売られている武器の数々――槍、剣、斧、弓、杖、盾――は、まるで有名TVゲーム「ドラゴンクエスト」のようであり、ゲーム世代に生まれた我々にはたまらない品々だった。是非これらを購入して、攻撃力を上げたいところだったが、「こんなもの買ってどうするんだ」という冷静な問いかけが心の中で何度もコダマしたため、とうとう僕は何の武器も買わなかった。しかしながら、僕の友人は果敢にも木製のクロスボウを購入した。TVゲームで言えば弓はエルフの武器であり、友人はエルフ気取りであったが、そのクロスボウはオンボロかつヒビが入っており、装備すると呪われそうだった。一応刃物なので持って帰るときに何か警察に言われるかと思っていたが、列車だったので特に問題はなかった。おそらく飛行機で帰っていたら持って帰ることが困難だったかもしれない。実物大の大きさの武器はさすがに買えない人が多いと思うが、お土産用にミニチュアサイズの槍や盾も売られていた。




木のクロスボウ
錆び付いた矢も付いていた


 ナガランドのもうひとつの名物と言えば、食事用の皿。日本の膳のように、ナガランドでは伝統的に台状になった皿を使って食事をするようだ。その皿はスタンダードなものでは杯のような形をしているが、いろいろバリエーションがあり、3つの皿が横一列に並んでいるようなものや、皿の内部が仕切られているようなものもあった。複数の木を接合して作られているものもあったが、やはり1本の木だけで作られているものが優れていると思われる。

 ナガランドの皿ではないが、アッサム州で僕はソーンフ(食後の口直し)を入れる台を購入した。1本の木でできているものではなかったが、色合いがアンティークっぽくて気に入ったために購入した。ディマープルからカーズィランガーへ行く途中、所々で村人が木製の置物などを直販しており、それらの内の1軒で購入した。




ソーンフ入れ
載っているのは
グレープフルーツ
のような柑橘系果物
下に敷いてあるのは
ナガランド名物の肩掛けカバン


 アッサム州で一番お買い得なのは、一角サイの木像なのではないかと思う。上記の直販所で大小様々なサイの像が売られていた。サイは元々彫刻みたいな身体をしているので、彫刻にするとよく栄えるような気がする。インドにはラクダやゾウの置物が数多く売られているが、一番ホットなのはこのアッサム名物、一角サイの置物だ。ある直販所では、1人では到底持ち上げられない大きさの一角サイの置物がわずか4000ルピーで売られていた。これをデリーまで持って帰るのは不可能に見えたため買わなかったが、これがもしデリーのディッリー・ハートなどで同じ値段で売られていたら、即購入だろう。




一角サイの置物
これは200ルピー


 今回残念だったのは、ミス・ナガランドと呼ぶべき美しいナガの女性に会うことができなかったことだ。インド人女性は日本人とは別次元の美しさがあり、何の躊躇もなしに美人だと思える人が多いが、ナガの女性たちは日本人と顔が似ているだけあって、選考の目も厳しくなってしまう。日本人のフィルターを通してナガの女性を見ると、数世代前の日本人のようにしか見えない人たちばかりだ。明治時代の日本の写真に写っていそうな人がたくさんいた。また、山の民族の宿命として、胴長短足の体型をした人が非常に多い。そういう意味では、平野部にあるディマープルの方が都会的美人が多い予感がした。

 だが、唯一の救いは、コヒマのセールス・エンポリアムでもらった「民俗衣装をまとったナガの女の子カレンダー2004」だった。ナガランド中から選りすぐったと思われるナガ美人の写真が多数掲載されており、おそらく日本人の目にも美人だと思えるのではないだろうか。








ミス・
ガランド?








 だが、これらの写真の女の子が本当にナガの女の子なのかは甚だ疑問である。どこかからモデルを連れてきてナガの衣装を着せて写真を撮っただけという可能性も大いにありうる。少なくとも我々が滞在した期間中、このカレンダーに登場するような美女は1人も現れなかった。多少きれいかな、と思える人でも、聞いてみるとネパール人だったりした。果たしてナガに美人はいるのか?未だ謎のままである。

1月9日(日) Vaada

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Vaada」を見た。「Vaada」とは「約束」という意味。監督はサティーシュ・カウシク、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストはアルジュン・ラームパール、アミーシャー・パテール、ザイド・カーンなど。




左からアルジュン・ラームパール、アミーシャー・パテール、
ザイド・カーン


Vaada
 ラーフル(アルジュン・ラームパール)とプージャー(アミーシャー・パテール)は幸せに暮らす新婚夫婦だった。ラーフルは事故により両目を失ったが、2人の生活は依然として幸せだった。ラーフルはカラン(ザイド・カーン)を仕事の補佐役として雇うが、実はカランとプージャーは昔の恋人だった。カランがあまりにプージャーのことを激しく愛しすぎるため、怖くなったプージャーは彼と絶交したという過去があった。

 ある日、プージャーが首を吊って死んでいるのが見つかる。当初は自殺と見られたが、検死前に遺体が病院から盗まれたこともあり、他殺の疑いが強くなる。容疑者として挙がったのはカランだった。次々にカランに不利な証拠が見つかり、カランは窮地に陥る。だが、カランはとあるきっかけから、ラーフルが盲人ではないことに勘付く。プージャーを殺したのはラーフルであると考えたカランは、ラーフルの目が見えることを一生懸命証明しようとするが、ラーフルの方が一枚上手で、次から次へと失敗に終わる。

 とうとうカランは逮捕され、裁判所で裁かれることになる。裁判でもカランはラーフルが盲人ではないことを主張するが、その落ち着かない態度によりますます自分の首を絞めることになる。結局、カランは終身刑を言い渡される。

 ラーフルは刑務所にカランを訪れ、全てを話す。ラーフルはカランがプージャーを殺したのではないことを知っていた。ラーフルはシンガポールで目の手術をして視力を取り戻しており、プージャーを驚かそうとこっそり自宅に帰って来たが、そのときカランとプージャーが抱き合っているのを目撃してしまった。ラーフルはそのときから盲目の振りをし続けると共に、自分を裏切ったプージャーを責めた。プージャーは攻撃的なカランの性格を知っていたがために仕方なく従っていただけであるが、夫の誤解を招いたことを苦に自殺してしまう。翌朝、プージャーが自殺したことを知ったラーフルは、死の原因となったカランに復讐するために全ての計画を思いついたのだった。

 実は、映画館へ行ったのは別の映画を見るためだったが、既に満席だったために急遽代わりに見ることにした映画だった。だが、期待を越える出来で満足。細部にかみ合ってない部分があったものの、展開が二転三転する、観客を飽きさせない佳作映画だった。

 主な登場人物は3人だけ。ラーフル、プージャー、そしてカランである。プージャーは物語の冒頭で自殺をしてしまい、その後回想シーンにしか登場しないので、実質的にはラーフルとカランの2人を中心にストーリーが進んでいく。一番スリリングなのは、ラーフルが盲目ではないことを証明しようとするカランと、盲目ではないことを隠そうとするラーフルのつばぜり合いである。インターバルの直前に観客にはラーフルが盲目ではないことが明かされるが、カランがそれに勘付くのは、ラーフルの服のポケットから本屋のレシートを発見してからである。カランはいろいろ計画を練るのだが、常にラーフルの方が一枚上手で、観客の笑いを誘っていた。

 ストーリー上、一番かみ合っていなかった部分は、裁判所からラーフルの目の検査が命じられたところである。検査を行えば、ラーフルの目が見えることはすぐに分かるはずなのに、検査結果は「盲目」であった。どのようにラーフルが検査結果を変えたのか、全く明らかにされていなかった。おそらく編集段階でカットされてしまったのではないかと思う。

 この映画の終わり方については賛否両論あるだろう。インド映画の鉄則はハッピーエンドであり、勧善懲悪である。しかしこの映画の終わり方は、ハッピーエンドともアンハッピーエンドとも言えず、また善が勝ったとも悪が勝ったとも言えない、不思議な終わり方だった。観客の同情心が果たしてラーフルに行くのか、カランに行くのか、で印象が違うのだろうが、僕はラーフル寄りの心情で映画を見ていたため、たとえカランが無実であっても、ラーフルが完全勝利を収めた終わり方は満足できた。

 この映画の最大の見所は、アルジュン・ラームパールとザイド・カーンであろう。アルジュン・ラームパールは「Aankhen」(2002年)でも盲人の役をやっていたが、今回の方がずっといい演技をしていた。ザイド・カーンは「Main Hoon Na」(2004年)のヒットでかなり株を上げたが、この映画で若手の中で最も演技力のある男優であるということを見せ付けたといえる。アルジュン・ラームパールとザイド・カーンは、2人とも長身、細身、ハンサム、それでいてマッチョという似たようなキャラクターだが、2人の独自の持ち味――落ち着きのアルジュン、憤怒のザイド――がうまく引き出されていた。アルジュンとザイドに、現在人気急上昇中のジョン・アブラハムを加えた3人が、現在のボリウッド界の若手男優3人衆だと言える。アミーシャー・パテールは久し振りにスクリーンで見た。出番が少なかったが、悪くない演技だった。彼女は最近、彼女の収入を不正に使用したとして実の父親や家族を訴えており、プライベートで問題を抱えている。

 絶対にオススメの映画というわけではないが、見て損はない映画である。

1月12日(水) なぜ先住民は生き残ったのか?

 昨年12月26日のスマトラ沖地震、そしてそれに伴うインド洋津波は、被災地はもとより世界中に大きなショックを与えた。死者の数はまだまだ特定されていないが、今のところ合計15万人以上となっている。この津波に関しては各方面からいろいろな分析がされているため、僕がわざわざ書くこともないのだが、この津波をきっかけに急に世界的にその名を知られることになったアンダマン&ニコバル諸島のことには少し触れておこうと思った。

 アンダマン&ニコバル諸島は、インドよりもむしろ東南アジアに近い位置にある南北に連なった島々で、ベンガル湾とアンダマン海を隔てている。厳密には北緯10度線以北はアンダマン諸島、以南はニコバル諸島となっており、主な島は、北からノース・アンダマン島、ミドル・アンダマン島、サウス・アンダマン島、リトル・アンダマン島、カール・ニコバル島、リトル・ニコバル島、そしてグレート・ニコバル島である。これ以外にも大小様々な島でアンダマン&ニコバル諸島は構成されている。アンダマンとはマレー語でヒンドゥー教の猿の神様ハヌマーンを指し、ニコバルはマレー語で「裸族と土地」という意味である。アンダマン&ニコバル諸島はインドの連邦直轄地のひとつで、中心都市はサウス・アンダマン島にあるポート・ブレア。最近では「最後の秘境」として徐々にリゾート観光地として有名になりつつあった。アンダマン&ニコバル諸島の海は、ほとんど手付かずなだけあって世界有数の美しさと言われる。また、現在ではインド本土からの移民が多く住み着いているものの、アンダマン&ニコバル諸島には6万年前に移住してきたという、今でも文明を拒んで原始的な生活を送る先住民たちが住んでおり、そういう意味でも非常に興味深い地域である。だが、インド政府が外国人の立ち入りを厳しく制限しているため、普通は観光客が先住民と交流することはできない。アンダマン&ニコバル諸島は東南アジアと中東を結ぶ重要なシーレーン上にあるため、インド空軍や海軍の基地が設置されていることも忘れてはならない。

 歴史的にもアンダマン&ニコバル諸島は特異な運命を辿った。日本とも関係があるところが興味深い。アンダマン&ニコバル諸島は長年先住民たちの居住地となっていたが、この地が初めてインド本土の政権の支配を許したのは17世紀だった。アンダマン&ニコバル諸島は17世紀にマラーター王国の支配下に置かれた後、1857年に英国に占領されて政治犯の流刑地となった。第二次世界大戦中の1942年には日本が占領し、スバーシュ・チャンドラボースに自由インド仮政府の当面の領土として提供しながらも、実質的には旧日本軍が駐屯して管理を行った。このときの名残りにより、ポート・ブレアには神社があり、日本語をしゃべれる島民もいるという。インド独立後はインド領に組み込まれ、連邦直轄地となった。

 アンダマン&ニコバル諸島には合計6部族が住んでおり、その内の多くは消滅の危機に瀕している少数部族である。文明化した部族もいるが、ほとんどの部族は未だに原始的な生活を送っており、文化人類学者垂涎の地となっている。言語学的にも非常に興味深い。今回の津波により、それら少数部族の安否が気遣われたが、案外無事だったことがさらに人々の関心を集める結果となった。1月9日付けのサンデー・エクスプレス紙の折込版、サンデー・ストーリー紙に、それらの部族が大津波からどう生き残ったのか、特集がされていた。

■グレート・アンダマン族(Great Andamanese)

 主都ポート・ブレアがあるサウス・アンダマン島周辺の島々は英領インド時代、グレート・アンダマン諸島と呼ばれていた。19世紀中頃の調査によると、グレート・アンダマン諸島にはネグロイド人種の合計10部族が住んでいた。Aka-Cari、Aka-Cora、Aka-Bo、Aka-Jeru、Aka-Kede、Aka-Kol、Oku-Juwoi、Aka-Pucikwar、Aka-Bale、Aka-Beaである。それらの部族の合計人口は7000人ほどであったが、英国との戦闘や、外部の人間の流入による疫病の流行などで人口が急減してしまい、1971年の時点で19人しか生き残っていなかった。これらの部族の生き残りを現在ではグレート・アンダマン族と呼んでおり、現在では人口は50人ほどとなっている。彼らはミドル・アンダマン島付近にあるストレート島に移住して生活している。島ではグレート・アンダマン族は衣服を一切身に付けない原始的な生活を送っているものの、部族の若者は積極的に外界と交わる傾向にあり、ポート・ブレアなどで森林警備隊や警察などの職業に付いている者もいる。一方、年配者は手工芸品などを売って現金収入を得ている。部族内ではジェル語(Jeru)を話すが、外部の者とはヒンディー語で会話をする。

 12月26日の津波による死者はグレート・アンダマン族には出なかった。彼らが助かったのは、部族の酋長の指導力のおかげだという。酋長は年老いており、若者は酋長にそれほど敬意を払っているわけでもないが、それでも酋長や年長者を敬う風潮は根強く残っている。地震と津波があった日、酋長は人々に対し、ココナッツの木に登るよう指示を出したという。ココナッツの木の上で津波をやり過ごした後、部族たちは丘の上に移動して4日間過ごし、インド政府の救援を待った。おかげで犠牲者は1人も出なかった。現在、グレート・アンダマン族の内、29人はストレート島に戻り、残りはポート・ブレアに滞在している。津波によりストレート島は塩水に侵食されており、食糧と水の供給が完全に破壊されてしまっているという。

■オンゲ族(Ongese)

 オンゲ族は、サウス・アンダマン島の南にあるリトル・アンダマン島に居住しているネグロイド人種の部族である。推定人口は98人。かつてはリトル・アンダマン島全土に居住していたが、1976年にインド政府の指示により強制的に移住させられ、現在では同島のドゥゴン・クリークとサウス・ベイに分かれて居住している。やはりオンゲ族も裸族であったが、現在では洋服を着用している。だが、相変わらず狩猟採集の半遊牧生活を送っている。オンゲ族は一部ではマラリアの薬を持つ部族として有名である。1993年、インドの微生物学者デーヴプラサード・チャットーパディヤーイは、リトル・アンダマン島に住むオンゲ族が蚊に囲まれた生活を送っているにも関わらずマラリアにかからないことを発見し、その原因を、オンゲ族が住むジャングルで採取される薬草に特定した。その薬草には抗熱成分や血中からマラリア原虫を駆除する効能があり、その後自身がマラリアに伝染したときに服用したところ、3日で完治してしまったという。だが、チャットーパディヤーイは、莫大な利益を生むこの薬草を巡る争いがオンゲ族の生態系を破壊することを危惧し、そのマラリア万能薬を公表していないという。

 オンゲ族も、予め森林の奥に避難していたため、津波による影響はほとんど受けなかったようだ。そればかりか、1月4日にはオンゲ族の新生児も生まれたという。だが、避難所でオンゲ族が酒とタバコの味を覚えてしまったとの報告もあり、以前の生活に戻れるのか懸念されている。

■ジャラワ族(Jarawas)

 ジャラワ族はミドルアンダマン島とサウス・アンダマン島の西部にあるジャングルの中に住むネグロイド人種の部族で、アンダマン&ニコバル諸島の中で最も原始的な狩猟採集の半遊牧生活を送っている部族のひとつである。やはり伝統的に裸族であり、樹皮や貝殻などで作った装飾品を身に付けるのみである。推定人口は266人。長らく外界との交流を遮断していたが、最近になってインド人類学調査局が本格的に調査に乗り出したことにより、次第にジャラワ族の実態が明らかになってきた。

 ジャラワ族にも津波による死者は出ていないという。元々海岸にはあまり住んでいなかったこともあるが、部族の集落間に張り巡らされた警報網によるところが大きい。津波が来た瞬間、警報が鳴らされ、それの警報が次々に集落間を駆け巡ったため、ジャラワ族は避難することが可能だった。また、部族に伝わる伝承や天変地異を解読する手法も、津波からの脱出に大いに役立ったという。

■センティネル族(Sentinelese)

 センティネル族も頑なにも外界との交流を拒んでいる部族である。ポート・ブレアの西にあるノース・センティネル島に居住しているネグロイド人種の部族であるが、地球上で最も文明の流入を拒絶することに成功している部族であり、島に近付くと容赦なく矢を浴びせかけられるため、接触は非常に困難である。よって、彼らの生活様式などは明らかになっていない。だが、推定によると人口は50〜100人ほどだとされている。

 やはり津波の影響が懸念されたが、地元行政官によると彼らは無事のようだ。津波の影響により島の形が変わってしまったことが報告されているものの、死体などは確認されておらず、少なくとも32人のセンティネル族の姿を見たという。また、ヘリコプターで島の上空を飛行したところ、ジャングルの中から矢を射掛けられたこともあり、「攻撃的な態度は以前からあったが、矢を射掛けられたことにより彼らが生き残ったことが確認された」と語っている。

■ションペン族(Shompens)

 ションペン族はグレート・ニコバル島に住むモンゴロイド人種の部族で、推定人口は398人。狩猟・採集・漁業を基本とした半遊牧生活を送っている。ションペン族は大きく2つのグループに分かれており、グレート・ニコバル島西岸地帯に住むグループはKalay、東岸地帯に住むグループはKeyetと呼ばれている。基本的にションペン族もジャングルの奥深くに居住しており、津波の被害は被っていないと考えられている。

■ニコバル族(Nicobarese)

 ニコバル族はニコバル諸島にある12の島に住むモンゴロイド人種の部族で、アンダマン&ニコバル諸島に住む部族の中で最大の人口を擁している。地元行政官によると、ニコバル族の人口は2万8653人だというが、正確な数字ではない。他の5部族と違い、ニコバル族は伝統文化の多くを捨てて大いに文明を受容しており、識字率は80%を越え、公務員として政府機関に勤めている者も多い。98%がキリスト教徒で、2%がイスラーム教だという。

 ニコバル族が最も人口が多かったこと、海岸に多く居住していたこと、またニコバル諸島が津波の影響を最も被ったこともあるが、アンダマン&ニコバル諸島の6部族の中で最も多くの死者を出すことになってしまったのが、伝統を捨てて文明を受容したニコバル族であったことは、何らかの含蓄を含んだ結果であるような気がしてならない。もっとも、元々人口が何人いたのか正確な数字がないため、一体どれだけの死者が出たのか実態は掴めずにいるようだ。


 原始生活を送っていた先住民たちが津波によって全滅しなかったという報告は、それだけ見ると非常に不思議なように思えるが、結局、島と言っても多くの部族がジャングルの奥深くに居住していたため、津波の直接的な被害を免れただけのようだ。それでも、部族に長い間伝わっていた知恵と、自然と共生することによって培われた勘が、被害を最小限に抑えたことは否めない。これはガセネタに近いと思うが、ある部族は1日前から津波が来ることを知っており、ジャングルの奥地の木の上に家を作って津波に備えたという噂も聞いた。いったい文明とは何なのか、今回の津波により少し考えさせられることになった。



 津波関連でもうひとつ面白い記事があった。1月12日付けのタイムズ・オブ・インディア紙によると、バンガロールの街角から乞食が消え去ったという。その理由は、いつもは寺院、モスク、教会、バス停、鉄道駅などにたむろっている乞食たちが、津波の被害に遭って救援物資が豊富に届いているインド東岸部に殺到しているからだ。特に最悪の被害を被ったタミル・ナードゥ州ナーガパッティナムやカドルールなどに乞食たちが大集合しているという。

 カルナータカ州乞食救済委員会のチャンドラッパ・B・マダル委員長は、「実は我々は津波の影響でタミル・ナードゥ州などからの乞食の流入を懸念していたが、逆にバンガロールから乞食の数が激減したことは嬉しい誤算だった」と述べている。乞食は実は頭が良く、嘘を付くことを徹底的に訓練させられるため、ボランティアたちを騙すことなど朝飯前だという。――そういえば、グジャラート州で地震があったときも、救援物資で潤う被災地に乞食が殺到したという話を聞いたことがある。同委員長は、「乞食たちはどんな場所でも、どんな状態でも生き残ることができる」と苦笑している。

 部族と乞食を一緒にするのは失礼かもしれないが、それでも文明社会にあまり組み込まれていない層の人々が、大災害をものともせずにしたたかに生き残っていることは、どこかしら痛快な気持ちがする。

1月12日(水) Amu

 今日はPVRアヌパムで新作ヒングリッシュ映画「Amu」を鑑賞した。「Amu」はPVRアヌパムで1日1回だけ限定公開されている特殊な映画だ。監督はソーナーリー・ボース。彼女は1965年コールカーター出身、ムンバイーで育ち、デリー大学の名門ミランダハウス・カレッジで歴史学学士を取得後、ニューヨークのコロンビア大学で政治学修士を取得した。その一方で、学生時代一貫して演劇と政治活動に取り組み、ロサンゼルスの映画学校を卒業後、監督、脚本、製作を自ら行って作ったのがこの「Amu」であった。映画館は満席状態で、チケットが手に入ったのは奇跡に近かった。ちょうど僕がチケットを買っているときに、隣で1枚チケットをキャンセルしているおばさんがいたので、それを譲ってもらえたのだった。なぜ無名監督によるこの映画がこれほど注目されているかと言えば、1984年10月の暴動をテーマにしているからだ。

 1984年10月、インディラー・ガーンディー首相(当時)がスィク教徒のボディーガードに暗殺されるという大事件が起きた。一国の首相が暗殺されたのだから大事件に違いないのだが、この暗殺はインド全土に暴動を引き起こし、さらに深刻な大事件を引き起こしてしまった。インディラー・ガーンディー首相がスィク教徒に暗殺されたことを知ったヒンドゥー教徒は暴徒と化し、手当たり次第にスィク教徒を殺害し始めたのである。特に印パ分離独立後に多くのスィク教徒が流入した首都デリーでは多くのスィク教徒が殺害された。その数は5000人とも1万人とも言われている。スィク教徒はターバンを巻き、長い髭をたくわえているため、一目でそれと分かってしまう。助かるためにはターバンを取り、髪や髭を切らなければならなかった。だが、人前でターバンを脱ぐこと、髪や髭を切ることはスィク教の戒律に反していた。現在インドにはターバンを巻いたスィク教徒と、ターバンを巻かないスィク教徒の2種類が見受けられるが、後者の多くは、このときに自らの命を救うためにターバンを取った人々である。だが、この映画が最も問題にしているのは、1984年の暴動自体ではなく、暴動があったことが若い世代に隠されていることである。

 キャストは、コンコナー・セーンシャルマー、アンクル・カンナー(新人)、ヤシュパール・シャルマー、ブリンダー・カラト(新人)、チャイティー・ゴーシュなど。コンコナー・セーンシャルマーは有名な女優・監督アパルナー・セーンの娘で、ヒングリッシュ映画最高傑作と言っても過言ではない「Mr. and Mrs. Iyer」(2002年)に出演していた女優である。言語は基本的に英語だが、ヒンディー語、ベンガリー語、パンジャービー語が入り乱れる。ベンガリー語とパンジャービー語のセリフには英語字幕が付く。




コンコナー・セーンシャルマー


Amu
 米国在住のインド人、カジュー(コンコナー・セーンシャルマー)は、従姉妹トゥキー(チャイティー・ゴーシュ)の家族を訪ねてデリーに来ていた。カジューはインド生まれだった。だが、カジューの両親は伝染病で死去しており、カヤー(ブリンダー・カラト)が養女として育てていた。カジューは自分が生まれた村を訪れるが、いまいち思い出せなかった。

 カジューはトゥキーの友人カビール(アンクル・カンナー)と出会う。カジューはカビールと共に、大学のそばのダーバー(安食堂)の店主ゴービンド(ヤシュパール・シャルマー)の家を訪ねる。ゴービンドはスラムに住んでいたが、彼の家族はカジューを温かく迎える。だが、カジューはスラムの風景に不思議な感覚を覚える。「この風景・・・見たことがある!」ゴービンドらの話により、このスラム一帯は1984年の暴動のときに焼き払われたことを知る。

 カジューの後を追ってカヤーもデリーにやって来た。カジューは自分の出身地や両親のことを尋ねるが、カヤーははっきりとした言葉を返さなかった。カジューは祖父の部屋から自分が養女となったときに作成された書類を見つけ、カビールと共に自分の本当の親と生い立ちを捜し求め始める。遂に2人は、カジューの父親と思われる人物を見つける。その男の名はキシャン・クマール。その辺りでは有名なゴロツキで、オート・リクシャーの運転手をしていた。

 カジューはキシャン・クマールに自分が娘であると打ち明けようと1人彼のもとへ行くが、カヤーはそれを引き止める。そしてカヤーはカジューの本当の親のことについて打ち明ける。

 カジューはスィク教徒の家に生まれた。父、母、兄がおり、名前はアムリト、ニックネームはアムーだった。1984年の暴動のときに父親は暴徒に殺され、兄は焼け死んでしまった。母親はその場にいた警察や政治家たちに助けを求めたが無視された。行き場のない彼らを救ってくれたのはグルドワーラー(スィク教寺院)だった。グルドワーラーで救援活動を行っていたカヤーは、アムーと出会い、仲良くなる。だが、やがてアムーの母親はアムーをカヤーに託して自殺してしまう。カヤーはアムーを引き取り、母親の遺言に従って、アムーに悲劇を思い出させないよう気を遣って育てて来たのだった。

 「Mr. and Mrs. Iyer」に次ぐほどの傑作。どちらかというとドキュメンタリー映画に近いタッチであり、「Mr. and Mrs. Iyer」ほど登場人物の感情の機微を巧妙に描写していたわけではないが、映画が持つメッセージ性はより強烈であった。確かにこの映画が主張するように、1984年の暴動はインドではあまり大っぴらに語られていない。言わばタブーとなっている。1947年の印パ分離独立時の大惨事や1999年のカールギル紛争は繰り返し映画化されるにも関わらず、である。映画館にはなぜか映画のプロデューサーも来ており、映画上映後、簡単に挨拶していた。プロデューサーの話によると、「Amu」はベルリン国際映画祭に出品されるそうだ。

 だが、最もこの映画が雄弁に物を語っていたのは、検閲により音声がカットされた部分である。カットされたセリフは、同映画のウェブサイトによると、「Minister hee to the. Unhee ke shaye pe sab hua(大臣がやったんだ。大臣の指図で行われたんだ)」「Saare shamil the... police, afsar, sarkar, neta, saare(みんなグルだった・・・警察、官僚、政府、政治家、みんな)」などである。この他にもいくつかのセリフがカットされていた。つまり、1984年の暴動は暴徒によって自然に起こったのではなく、権力者たちの思惑に従って起こったということを伝える、反政府的セリフが全てカットされていた。しかも、若者たちに真実を知ってもらいたいという映画制作者の意図を打ち砕くように、この映画は「A」認証、つまり成人向け映画とされてしまった。政府は映画制作者たちに対し、「なぜ忘れ去られた過去の出来事をわざわざ蒸し返そうとするのだ」と問いかけたというが、上記のセリフが、1992年のバーブリー・マスジド破壊事件や、2002年のグジャラート暴動などにもつながるメッセージを秘めているため、特に神経質になったのだと思われる。だが、検閲され、無声となったセリフが、20年経った今でもタブーをタブーのまま隠し通そうとする政府の体質を皮肉にも余計露にしてしまっていた。

 主演のコンコナー・セーンシャルマーは、女優にしては肌の色が黒くて、顔も身長も平均的なインド人女性という感じだが、演技力は申し分ない。僕は「Mr. and Mrs. Iyer」の人妻役の方がいい演技をしていたと思うが。ヤシュパール・シャルマーは、「Lagaan」(2001年)などに出演していた男優。この男優はなぜか裏切り者役が多く、こいつが出てくると裏切るんじゃないかと不安になってくる。やはり「Amu」でもその例に漏れず、微妙に裏切り者キャラだった。ゴービンドは叔父さん(スィク教徒)のダーバーで修行をしていたが、1984年の暴動のとき、ゴービンドは暴徒に脅されて、隠れていた叔父さんの居所を教えてしまったのだった。カビール役のアンクル・カンナーは中の下くらいか。外見は細身でジャニーズ系みたいである。コンコナー・セーンシャルマーとアンクル・カンナーはなぜかヒンディー語が下手だった。

 舞台はデリー。よってデリーの風景がたくさん出てくるが、お世辞にも美しい風景ではない。特にスラムの汚なさは現実そのままである。しかし、逆にそれがこの映画を魅力的にしていた。ここまでデリーの本当の姿を正直に見つめた映画は今までなかった。デリーの住民がどんなところに住んでいるのか、スクリーンを通して観察することができる貴重な映画である。デリー大学のミランダハウス・カレッジも出ていた。

 インド映画はいろいろな理由から馬鹿にされることが多いが、「Amu」はその見解を覆すだけの力がある傑作である。だが、映画の筋を理解するには、1984年に起こった出来事をある程度知っておく必要があるだろう。インドの政治学や社会学に関心がある人には必見の映画と言っていい。

1月14日(金) Elaan

 今日はPVRプリヤーで新作ヒンディー語映画「Elaan」を見た。「Elaan」とは「宣言」という意味。監督はヴィクラム・バット、音楽はアヌ・マリク。キャストはラーフル・カンナー、ジョン・アブラハム、アルジュン・ラームパール、ラーラー・ダッター、アミーシャー・パテール、ミトゥン・チャクラボルティーなど。




左からラーラー・ダッター、ジョン・アブラハム、
ラーフル・カンナー、アルジュン・ラームパール、
アミーシャー・パテール


Elaan
 国際的テロリスト、バーバー・スィカンダル(ミトゥン・チャクラボルティー)は、2億ルピーの献金を断った大富豪カーンティーラール・シャーを暗殺する。カーンティーラールの養子、カラン(ラーフル・カンナー)は、どこにいるか分からないバーバーに対し復讐を誓い、必ずインドに連行することを決意する。

 カランは、若くして退職した元警察官アルジュン(アルジュン・ラームパール)を仲間に誘い、アルジュンの作戦に従って、バーバーの手下だったアビマンニュ(ジョン・アブラハム)を脱獄させ仲間に引き入れる。アビマンニュの情報により、バーバーはイタリアのヴェネツィアにいることが分かる。また、カランの動向を探って特ダネを狙っていたリポーターのプリヤー(アミーシャー・パテール)もこっそり彼らを尾行する。

 ヴェネツィアに着いたカラン、アルジュン、アビマンニュは、バーバーの愛人ソニア(ラーラー・ダッター)と接触する。ところがソニアはアビマンニュの恋人だった。アビマンニュはカランから大金を奪ってソニアと逃げようとしたが、バーバーに捕まってしまう。アビマンニュが裏切ったことをカランらに伝えたのは、尾行していたプリヤーだった。アビマンニュとソニアが殺されそうになっていたところへカランらは駆けつけ、救出する。5人は改めてバーバーに復讐することを誓い、結束を高める。

 カランらはバーバーの後を追って、ドイツのミュンヘンへ赴く。バーバーが雪山の中の別荘にいることを掴んだ5人は、隙を見計らって突入するが、それは罠だった。バーバーの手下に囲まれ、絶体絶命のピンチに陥るが、アルジュンの命を懸けた行動により、何とか逃げ出すことに成功する。しかし、そのときにアルジュンはバーバーに数発撃たれ、死んでしまう。

 バーバーの一隊が陸路で独仏国境近くを通過していることを突き止めたカランたちは、フランス警察の協力を得て、バーバーらを追い詰める。カランとアビマンニュは次々とバーバーの手下や兄弟をやっつけ、遂にバーバーを捕まえる。バーバーはインドに引き渡され、裁判所で死刑を宣告される。

 ハリウッド映画っぽいテイストのアクション映画であるが、竜頭蛇尾な尻すぼみの映画だった。カラン、アルジュン、アビマンニュ、プリヤー、ソニアと仲間が揃っていく過程は面白いのだが、インターバル過ぎた辺りから急にスピード感と方向性を失ってしまうように感じた。そもそもプリヤーとソニアが銃を取って戦う理由が分からない。プリヤーがカランに惚れているという設定にもなっているのだが、いつ、なぜ惚れたのかも描写されていなくて唐突過ぎた。ところで、「マハーバーラタ」では、アビマンニュはアルジュンの息子。若気の至りで敵陣の中に無謀にも突入して死んでしまう。それを反映して、てっきりアビマンニュが死亡するかと予想していたが、死んだのはアルジュンだった。

 ロケ地は豪華。インドの他、イタリア、スイス、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパの各都市でロケがされていた。監督は元々エジプトでピラミッドの間を潜り抜けるようなカーチェイスを撮影したかったらしいが、エジプト政府はドキュメンタリー映画しか撮影許可を出しておらず、代わりにヨーロッパが舞台となったという。中盤、雪山の中のカーチェイスは氷点下の中行われ、トラックの上に立って銃をぶっ放したアルジュン・ラームパールは一瞬にして雪男となり、バイクを運転したジョン・アブラハムの手はかじかんで、バイクのクラッチを握れなくなったとか。なかなか迫力のあるシーンだった。だが、見ていて情けなかったのはヴェネツィアでのボート・チェイスのシーン。世界的に有名なあの運河をボートで追いかけっこするのだが・・・ボートの制限時速が5kmだったところを無理矢理20〜30km出して撮影したらしいが、それでもスピード感に欠けていたことは否めない。よって、チェイスなのにチェイスになってないスピードで2槽のボートがゆっくり動くだけの退屈なシーンになってしまった。しかも撮影中、スピードを出しすぎたおかげで高波が発生して停泊中のボートが数艘壁にぶつかって壊れてしまい、賠償金を支払わされたとも聞く。挙句の果てに「二度と運河で映画撮影をしないでくれ」と警告されたらしい。インド映画の恥だ・・・。さらに、アルジュン・ラームパールが走行中の車の上から落ちそうになったとか、俳優5人が乗ったジープがあと少しで崖から落ちそうになったとか、危なっかしい裏話が映画のウェブサイトにいくつも載っている。この映画監督、正気じゃない・・・。

 ラーフル・カンナーは有名俳優かつ政治家ヴィノード・カンナーの息子で、アクシャイ・カンナーの弟。兄と同じく、やっぱり前髪の後退が気になる。おぼっちゃま顔なので、今回のようなアクション映画にはちょっと無理があった。ジョン・アブラハムは熱演と言っていい。ちょうど「Dhoom」(2004年)のウダイ・チョープラーのような、ムンバイヤー・ヒンディーをしゃべるゴロツキの役を演じていた。左胸になぜか「吉戦」という漢字の刺青がしてあったが、「吉田戦車」を思い浮かべてしまったのは僕だけではないと思う。アルジュン・ラームパールは、「Deewaanapan」(2001年)や「Asambhav」(2004年)を思わせる肉体派の活躍振り。だが、彼の演技はいつもそうだが、二枚目過ぎて1つ1つのシーンが「演技」よりも「ポーズ」になってしまっているような気がする。アミーシャー・パテールとラーラー・ダッターは、ただのヒロインに甘んじることなく、銃をぶっ放してアクションにも努めていた。悪役バーバー・スィカンダルを演じたミトゥン・チャクラボルティーは間違いなく一番の好演。だが、キャラクター設定自体があまり悪役として研ぎ澄まされていなかったため、その分損をしていたと思う。

 音楽はアヌ・マリク。ラーラー・ダッターの登場シーンのミュージカルは秀逸だったが、それ以外の挿入歌は映画の進行を邪魔していたとした思えなかった。

 気楽に見れるアクション映画で、暇つぶしには最適だが、撮影裏話を予め読んで映画を見に行くと、違った楽しみ方もできるかもしれない

1月16日(日) ガンガー参拝ツーリング

 昨年12月中旬、ラージャスターン州を旅行中に僕の愛機カリズマが何者かに盗まれてしまった。旅行から帰って来た後、盗難届けの提出や保険などの事務手続きを行い、再びナガランド州旅行へ出かけた。留守にしている間に何らかの進展があることを期待していたが、残念ながら何の手掛かりも得られなかった。

 実はナガランド州旅行中、次はどのバイクを買おうか思いを巡らせていた。現在一番熱いバイクは、HMSI(ホンダ・モーターサイクル&スクーター・インディア)のユニコーン(150cc)である。HMSIは日本のホンダが100%出資して立ち上げた純正の「ホンダ」であり、ホンダがインド企業のヒーロー社(元々自転車の会社)と合資して立ち上げたヒーロー・ホンダよりも格上だ。ホンダ特有の羽のマークもちゃんと入っている。HMSIは創業からしばらくはスクーターのみを製造・販売して来たのだが、2004年9月に遂にバイクを発売した。そのHMSIのバイク第一弾がユニコーンである。150ccクラスではダントツのパフォーマンスに加え、値段もお手頃の5万〜5万3千ルピー。150ccクラスの売れ筋バイク、バジャージ社のパルサー打倒を掲げただけあり、パルサー・キラーと呼んでも差し支えない優良なバイクである。ちょうどアッサム州のカーズィランガー国立公園で一角サイ(ユニコーンと言えば角を持った馬だが、一角サイもユニコーンと呼ばれている)を見た縁もあり、心はかなりユニコーンに傾いていた。

 しかしながら、依然としてカリズマが有力候補であった。僕が昔カリズマを買ったときは定価8万ルピーであり、割高なバイクだったが、現在は1万ルピー値下げされており、かなりお手頃なバイクとなっていた。150ccのセル・スターター付きユニコーンが5万3千ルピー、180ccのパルサーが6万ルピー、225ccのカリズマが7万ルピーだと、どうしてもカリズマの方がお徳に思えて来る。それに、一度225ccのバイクに乗ってしまったら、それ以下の排気量のバイクには乗れなくなるというのも大きな理由であった。何より使い慣れていたので、もう一度カリズマを買おうという気持ちが強くなった。違う色のカリズマを買うという選択肢もあったが、色を替えるとJNUの友人などに「なぜ色を替えたのか?」「前のバイクはどうしたのか?」といちいち質問されることは目に見えていたため、面倒を避けるためにも、同じ色の同じバイクをまた買うことに決めた。ヒーロー・ホンダの日本人駐在員の方のご慈悲もあり、さらに値引きをしてもらって、1月10日、赤のカリズマを購入した。

 それからまだ1週間も経っていない今日、友人たちとツーリングに出かけることになった。今回の参加人数は過去最大の3人。カリズマの他は、バジャージ社のパルサー(180cc)、ヒーロー・ホンダ社のアンビシャン(133cc)である。アンビシャンはもうすぐ売られてしまう運命にあるため、今回はカリズマのデビュー・ツーリングとなると同時に、アンビシャンのラスト・ツーリングとなる。目的地は、デリーから東に80kmの地点にあるクチェーサル。去年の1月にラージャスターン州ニームラーナーにある宮殿ホテルまでツーリングをしたが、あのニームラーナー・ホテルと同じ系列の宮殿ホテルがクチェーサルにもある。マッド・フォート・クチェーサル――つまり、「泥の城」である。ニームラーナーが非常によかったので、このホテルにも多大なる期待を寄せていた。




左から、赤カリズマ2号(225cc)、
黄アンビシャン(133cc)、
銀パルサー(180cc)


 朝8時頃、僕の家の前で出陣式を行った。ところが、記念写真を撮影しているときに、空からパラパラと水滴が・・・。「雨?」雨季が終わって以来、デリーに雨が降ったことなど一度もなかったのだが、ツーリングをする今日に限って雨が降り出すとは・・・何たる不運!だが、それほど雨は強くならない様子だったので、ツーリングは決行することになった。結局、今日1日を通して、曇り時々雨のような天気だったが、ツーリング続行不可能なほどの強い雨は一度も降らなかった。まずはムールチャンド病院近くのガソリンスタンドで、愛用のガソリン「スピード93」を満タンまで入れた。そこからリングロードを通り、国道24号線を通って一路東へ向かった。

 ヤムナー河を越え、対岸に到着すると、左手に建設中の巨大な寺院が見えた。これが最近新聞を賑わせていたアクシャルダームか!アクシャルダームは以前、グジャラート州の州都ガーンディーナガルで訪れたことがある。アクシャルダームとは、簡単に言えばヒンドゥー教の宗教テーマパークみたいなもので、スワーミー・ナーラーヤンという聖人を教祖にした、ヒンドゥー教の新興宗派が運営している。そのアクシャルダームが20億ルピーの予算をかけてデリーにも建設中なのだが、その建設を巡って住民と教団の間で摩擦が生じていた。予定では今年の3月に完成するというが・・・。

 国道24号線は、ガーズィヤーバードをかすめて東に延びている。この道は日本の援助で作られたそうで、片側2車線、中央分離帯ありの美しい舗装道路だった。よって、インドの道を走っているとは思えないほどの快適さ。ところが、その快適な舗装道路は、デリーから約40kmのハープルで終了しており、その後は、片側1車線、中央分離帯なしの恐怖の道路が続いていた。一番恐ろしいのは、対向車線の車両の強引な追い越し。片側1車線しかないので、追い越しをするには対向車線にはみ出さなければならない。バスやトラックなどが巨体に物を言わせてはみ出して来るので、バイクなどの弱者は黙って道を譲るしかない。さらに道を危険にしているのは、道路の途中をノンビリと進む牛車たち。ちょうどサトウキビの収穫シーズンを迎えており、荷車にサトウキビを満載した牛車が隊列を組んで道を進んでいた。そのおかげで所々車の流れが止まってしまっていた。満載されたサトウキビは車幅をはみ出して両側に飛び出ているため、非常に邪魔であった。一度、牛車が急に方向転換したため、僕のバイクの端がはみ出したサトウキビにぶつかってしまった。サトウキビに衝突・・・日本ではありえない事故である。ただ、相手がサトウキビだっただけあり、特にこちらに損傷などはなかった。

 ハープルを越えてしばらく行くと、ちょっとした町があり、そこに「マッド・フォート・クチェーサル」の大きな看板があった。その看板に従って右に曲がると、道はさらに悪くなった。ボロボロの舗装道路はまだいい方で、砂利道、砂道、泥道、石畳道、まるでオフロード・レースをしているような道路がずっと続いた。7kmほど進むと、再び看板があったため、それに従って進んで行ったら、目的地のマッド・フォート・クチェーサルまで到着した。南デリーからクチェーサルまで約2時間ほどだった。

 クチェーサルのマッド・フォートは、18世紀中頃にジャート族によって建造された。ジャートとは、現在のハリヤーナー州からウッタル・プラデーシュ州周辺に住む人々のことを指す。ジャートは18世紀中頃に現ラージャスターン州バラトプルを都に王国を築き、ムガル帝国、マラーター王国、イギリス東インド会社などと渡り合った。クチェーサルもそのジャート王国の一角を担っていたようだ。




マッド・フォート・クチェーサル


 マッド・フォートは、白と黄色で外壁が着色された平地の城だった。元々インドの建築物はレンガと泥で作ったようなものなので、「泥の城」と言っても特に珍しいものでもないことに行ってみて初めて気が付いた。僕たちが着いたときにはちょうどホテルで結婚式が行われていた。ズカズカと入り込んで行って、レセプションで部屋を見せてくれるように頼み、中を見て回ったが、ニームラーナーとは比べられないくらい低レベルな外装・内装でガッカリした。城内には7つの建物があるようだが、ホテルとして開放されているのは一部のみで、残りの部分は王族の末裔が今でも住んでいる。




内部


 レストランも開いていないようなので、長居は無用と考え、すぐに立ち去ることにした。再び砂埃と泥にまみれた道を走って帰った。「泥の城」を見る前に自らが泥だらけになってしまうとは、しょうもない演出である。

 このままツーリングを終わらせてしまうのももったいないので、クチェーサルから24kmさらに東へ行ったところにあるガンガー河(ガンジス河)を拝むことにした。ガンガー河と言えば、おそらくインドで一番有名な河だろう。リシケーシュ、ハリドワール、ヴァーラーナスィーなどを流れるガンガー河が有名だが、河なだけあって、それらの都市以外の場所も当然のことながら流れている。いったい、有名な聖地以外のガンガー河がどんな状態なのか見てみたくて、国道24号線とガンガー河が交差する、ブラジガートへ行ってみた。

 まずは、バイクでガンガー河を渡るという偉業(?)を成し遂げるため、河に架かった橋を渡り、Uターンして戻って来た。ヴァーラーナスィーと同じく、ガンガー河の西岸はガート(階段)になっていて、寺院や小屋などが並んでいた。東岸はほとんど開発されておらず、掘っ立て小屋が数軒立っているだけだった。河にはボートが数艘浮かんでいた。「リトル・ヴァーラーナスィー」という呼称が最も適していると思われる。




ブラジガート


 まずはガートに降り立って歩いてみた。早速数人のボート乗りたちが話しかけて来た。「ボートに乗らないか?」値段を聞いてみると100ルピーと言う。ヴァーラーナスィーよりも高い!値段交渉をして、1人25ルピー、3人で75ルピーにしてもらった。ボートに乗り、ガンガー河を周遊する。ブラジガートはヴァーラーナスィーよりもずっと上流にあるものの、河の色はヴァーラーナスィーと変わらない濁った茶色をしていて、とてもじゃないが沐浴しようとは思えない。ガートの一番下流では煙が上がっていた。ヴァーラーナスィーにもある火葬場だ。この周辺で死んだヒンドゥー教徒は、ここで火葬されて河に流されるのだろう。インドに初めて来た人がこの火葬場を見ると、急に哲学者になってしまうものだが、既にヴァーラーナスィーで何度も見た光景なので、僕はもう何とも思わなかった。・・・と、そのとき、遠くの方から救急車が火葬場へ向けて走って来た。案の定、救急車は火葬場のすぐ近くで停車した。・・・これはいったいどういうことだろうか・・・。救急車で運ばれていた患者が急死ししたため、急遽ガンガー河まで連れて来られたのだろうか・・・それとも、病院で死んだ人が救急車により運ばれて来たのだろうか・・・。やはり、河畔の火葬場は、我々に思索のネタをいろいろと与えてくれる。

 ブラジガートは前述の通り、ヴァーラーナスィーを小さくしたような場所だったが、ひとつだけヴァーラーナスィーにないものがあった。それは河の中洲にある家である。ブラジガートのガンガー河には、少しだけ中州があり、その上に掘っ立て小屋が立っている。掘っ立て小屋では、プージャー(祭儀)用の品物などを売っていた。当然のことながら、中州にいる人々はそこに住んでいるわけではないようだ。




河の中洲に売店


 このガートでもうひとつ面白かったのは、河の中に立っている人々であった。この辺りの河は案外浅いので、河の中で立つことが可能である。腰〜腹くらいまでが浸かるくらいの深さである。だが、それはいいとして、歩いて河を渡っているわけでもなさそうだし、河の中にポツンと立っている人々がいったい何をやっているのか分からなかった。その理由は非常に面白いものだった。ボート乗りの説明によると、彼らは川底に落ちているコインを足で拾っているらしい。つまり、足で川底をなぞるようにしてゆっくり歩き、何かを見つけると足の指を器用に使って拾い上げ、それを収入とするのだ。だが、いったいなぜ河の中にコインが落ちているのか?そのとき、ハッと昔の記憶が蘇った。2003年、ノース・イーストを旅行したときのことだった。アッサム州のグワーハーティーから西ベンガル州のスィリーグリーまで向かうバスに僕は乗っていた。僕の席の近くには、ノース・イーストまで出稼ぎに来て、稼いだ金を持って村に帰る途中のビハール人が数人座っていた。けっこうたんまり稼いだのだろう、彼らの顔には喜びが満ち溢れていた。バスがブラフマプトラ河に架かる橋を通りかかった。すると、彼ら出稼ぎビハール人はおもむろにコインを取り出して、バスの窓から河へ向かって投げ入れた。ブラフマプトラ河はインドを代表する大河であり、アッサム地方の聖なる河である。そしてヒンドゥー教では河は女神として描かれることが多い。彼らは、ブラフマプトラ河の女神に感謝の気持ちを込めて賽銭を投げ入れたのだ。・・・おそらく、それと同じことが、このガンガー河でも行われているに違いない。そういえば、コイン探しの人々は橋の下を集中的に捜索していた。これは、インドならではの光景と言える。




河の中でコインを拾う人


 ボート周遊を終えた後、ブラジガートへ続く門前町のとある食堂で昼食を食べた。なるべく清潔なレストランで食べようと思っていたのだが、そんなものはなかった。僕たちが昼食を食べた食堂は、客席の目の前に井戸水ポンプがあり、その水で、飲み水、手洗い用水、料理用水、食器洗い用水など全てを賄っていた。この水はどこから来るのか・・・やっぱりガンガーの水だよな・・・ということは考えないようにして、プーリーを食べた。味はまあまあ。だが、その数時間後に、我々を「ガンガーのお恵み」が襲ったのは言うまでもない。僕はちょっと腹が緩くなっただけで済んだが、特別腹の弱い友人は、正にシャワー状態。以後、この状態のことを「ガンガー・シャワー」と呼ぶことにした。

 このツーリングの目的地はクチェーサルであり、ガンガー参拝はオマケに過ぎなかったのだが、クチェーサルがあまりに期待外れだったことと、ブラジガートがなかなかよかったことから、急遽ツーリングの題名は「ガンガー参拝ツーリング」に変更された。

 ブラジガートを一通り見終えた後は、来た道をそのまま帰った。行きと同じく危険極まりない道路を命からがら通り抜け、日本が作った道路に入ったら一安心。そのままスイスイとデリーに近付いた。途中、ノイダ北部のガーズィープル付近で、遠くに大量の鳥が旋回しているのを発見。すぐに何か分かった。・・・ゴミ捨て場だ。それもただのゴミ捨て場ではない。デリー中のゴミが集められ、放置される場所である。ただでさえインド人はポイ捨てを何とも思わないので、このような巨大なゴミ集積場が大都市の郊外に全くの放置状態となっている。同じような集積場は、デリー北端でも見たことがある。野次馬根性で急遽そのゴミ捨て場へ行ってみることにしたが・・・やはりとんでもない数の鳥が、デリー市民の出したゴミを漁っていた。間違っている・・・何か間違っている・・・繁栄の裏に、これほどの巨大な汚物が生まれなければならないなら、それは繁栄とは呼ばないのではないか・・・。ガンガーの火葬場に引き続いて、我々はさらに思索の深淵に放り込まれた。




ガーズィープルのゴミ集積場


 そのゴミ集積場のすぐ近くには、チキン、卵、魚の卸問屋マーケットがあった。我々が行ったときには既に閉まっていたが、毎朝6時から開いているらしい。デリーで最も新鮮な魚が手に入るのは、チッタランジャン・パークかINAマーケットだと思っていたのだが、もしかしたらここの魚の方が新鮮かもしれない。ちょっとした発見だった。

 ヤムナー河を渡り、ローディー・ロードのガソリンスタンドで再びガソリンを満タンまで入れて燃費を確かめた。今回は慣らし運転のため、それほどスピードを出さなかった。全走行距離は224.2km、ガソリンの消費量は4.87L、よって、燃費は約46km/l。昔、クルクシェートラにツーリングしたときに燃費はリッター40kmちょっとだったので、あのときよりも燃費が良くなっていることが分かった。

1月19日(水) ナチスとマンジとスワスティカ

 最近、英国のハリー王子が友人の誕生日パーティーに、ハーケンクロイツ(鍵十字)の入ったナチス・ドイツの制服を着て参加し、それを英国大衆紙サンがスキャンダラスに報じるという事件が物議を醸した。ヨーロッパでは、鍵十字の使用を禁止する国が多いという。また、今年4月1日より、少林寺拳法のマンジ(卍)のロゴが変更されることも決定された。理由は、マンジがハーケンクロイツと似ているため、ユダヤ人団体などから反発を受けていたからだという。世界的にマンジのマークに対し風当たりが強くなっているように思われる。だが、この動きに対し、釈然としない気持ちを抱いているのは僕だけではないはずだ。




少林寺拳法の新ロゴ


 マンジはアジアでは非常に重要なシンボルである。一説によると、マンジ型のシンボルは人類最古の記号のひとつで、6000年前の壁画などに既に見られるという。一般にマンジはインド起源だと言われているが、ヴァイキング、ギリシア人、マヤ人、アメリカ・インディアンなども使用し、メソポタミアで発見されたコインにも刻印されていた上に、原始キリスト教のシンボルでもあり、アジアだけでなく非常に国際的なマークであったことが伺える。ナチス・ドイツのハーケンクロイツは卍の逆であり、日本の一般的なマンジは卍の形をしているが、インドでは両方とも使用される。逆卍はスワスティカと呼ばれる。「吉祥」「幸運」「健康」などを象徴するおめでたいマークであり、ガネーシュ神と関係が深いと言われている。一方、卍はスアワスティカと呼ばれ、「破壊」を象徴し、カーリー女神のシンボルだと言われている。

 インドの各宗教ごとにマンジの重要性を見てみよう。ヒンドゥー教においてマンジが最初に宗教的シンボルとして使用されるのは、ヒンドゥー教の前身バラモン教の聖典ヴェーダにおいてである。スワスティカは、幸運、太陽、創造神ブラフマー、エネルギー、ガネーシュ神など多くのめでたい事象を象徴する。また、帳簿の表紙、家の入り口、薬局の玄関などにこのマークが使用されることも多い。仏教ではマンジはブッダの足跡を象徴したが、後世には「運命への服従」を表すようになり、仏像の胸、手の平、足の裏などに刻まれた。ジャイナ教ではスワスティカは第7代ティールタンカラ(祖師)を表すとされ、またスワスティカの4本の腕は、人が生まれ変わる4つの場所――動物と植物の世界、地獄、地上、精神世界――を象徴すると考えられている。

 ドイツでマンジ形の記号が政治的に利用されるようになったのは1910年からで、反ユダヤ人の象徴としてマンジが採用された。その後、1920年にナチ党の党章となり、1935年にナチス・ドイツの国旗となった。アドルフ・ヒトラーは自著「我が闘争」の中で、ハーケンクロイツを「アーリヤ人種の優越と反ユダヤの象徴」と説明している。ナチス・ドイツのハーケンクロイツは45度傾いた逆卍型が一般的に知られているが、卍型や、45傾いていない卍、逆卍も使用している。その後、ナチス・ドイツが欧州で恐怖の対象となるにつれて、ハーケンクロイツも暴力と死の象徴として考えられるようになった。

 ヒトラーやナチス・ドイツが行ったことの功罪をここで議論するつもりはないが、いくらナチスを思い出すのが嫌だからといって、アジアを中心に世界中で長い間吉祥の印として使用されていたマンジのマークの使用を禁止しようとする風潮があるのには納得ができない。これは、ユダヤ人の我がまま、欧米人の我がままだと言ってもいいだろう。もしマンジが禁止されるなら、イスラーム世界に侵略を繰り返した十字軍のシンボルである十字架も世界中で禁止されるべきである。残念ながら少林寺拳法の団体は欧米の我がままに屈してしまったようだが、たまには我々アジア人もアジアの主張をしていかないと、欧米の我がままに歯止めがかからなくなる。

 蛇足になるが、最近インドでも公開されたオリバー・ストーン監督の「アレキサンダー」(日本では2月5日から公開のようだ)。この映画が昨年、パールスィー(拝火教徒)の間で物議を醸したことがあった。パールスィーは元々イランに住んでいたが、イスラーム教の浸透によりインドまで逃げてきた人々だ。パールスィーの多くはマハーラーシュトラ州のムンバイーに住んでいる。2001年の国勢調査では、インドには6万9601人のパールスィーが住んでいるとされており、人口的にはマイノリティーながらも、インドの経済界に多大な影響力を持っていることで知られている。アレキサンダー大王は欧州では英雄的存在であるが、実はパールスィーの間では悪魔に等しい存在だという。なぜならアレキサンダー大王は拝火教徒の大虐殺を行ったからだ。ちょうど欧米とイスラーム世界におけるオサマ・ビン・ラディンの評価の違いに似ているかもしれない。で、何が問題になったかというと、「アレキサンダー」の映画自体ではなく、そのロゴであった。当初、「アレキサンダー」のロゴには羽根を象ったマークが使用されていたのだが、それがパールスィーのシンボルに酷似しており、試写会で「アレキサンダー」を見た在米の拝火教徒たちが批判の声を上げ、それがムンバイーまで飛び火したというわけだ。だが、今「アレキサンダー」の映画のウェブサイトを見てみたら、ロゴが変更されており、羽根を象ったマークが削除されていた。拝火教徒たちの声が一応オリバー・ストーン監督まで届いたということだろうか。




パールスィーのシンボル


 宗教的シンボルを巡る文化摩擦は他にも多く例があるだろう。有名なのは、赤十字のマークがイスラーム圏では赤い十字架ではなく、赤い月のマークになっていることだ。この裏にはもちろん、十字架に対するイスラーム教徒の反感が関与している。




赤新月マーク


 ヒンドゥー教の聖なるシンボルである「オーム」も、オウム真理教の影響で日本ではタブーのような扱いを受けるようになってしまった。先月、「Hari Om」というインド映画の上映会に出席したが、邦題は「ハリ・オーム」ではなく「ハリ・オム」になってしまっていた。だが、インド映画には必ずと言っていいほど冒頭に神様への礼拝シーンが映されており、また映画中にも神様への賛美歌を歌うシーンなどがよくあり、「オーム」を否定したら、インド映画の日本上映自体が否定されてしまう恐れがある。「オーム」がこんな悪い扱いを受けるなら、「オーム」と同じ語源と考えられる、キリスト教の「アーメン」はなぜ野放し状態なのか、ちゃぶ台をひっくり返したくなる心境である。

 シンボルは象徴なだけあって、各時代、各地域、各宗教のニーズに従っていろいろな意味を付け加えられていく。だが、その分、一旦悪い意味や印象が付け加わってしまうと、それを消去するのは非常に難しい。

1月21日(金) Kisna

 2004年末のボリウッドは大予算愛国主義映画が目白押しだった。ヤシュ・チョープラー監督の「Veer-Zaara」(予算3億ルピー)、アシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の「Swades」(予算3億ルピー)、アニル・シャルマー監督の「Ab Tumhare Hawale Watan Sathiyo」(予算未公表)などである。今日、PVRプリヤーで鑑賞した「Kisna」(予算2億5千万ルピー)も、同じく大予算の愛国主義映画であり、昨年末に公開が予定されていたものの度々延期され、本日よりやっと一般公開となった。

 「Kisna」とは、ヒンドゥー教の神様の1人、クリシュナの訛った形で、主人公の名前になっている。監督は「Taal」(1999年)や「Yaadein」(2001年)のスバーシュ・ガイー。音楽はARレヘマーンとイスマイル・ダルバールという豪華コンビ。キャストは、ヴィヴェーク・オーベローイ、アントニア・バーナート(英国人女優、新人)、イーシャー・シャルヴァーニー(新人)、マイケル・マロニー(英国人男優)、キャロリン・ラングリシェ(英国人女優)、アムリーシュ・プリー、オーム・プリー、ヤシュパール・シャルマー、ラジャト・カプール、スシュミター・セーン(特別出演)、リシター・バット(特別出演)など。

 なかなか素晴らしい映画なので、これから見ようと思っている人は、以下のあらすじを読まない方がいいと思う。見終わった後に読んで理解を深めてもらいたい。




ヴィヴェーク・オーベローイとアントニア・バーナート


Kisna
 時は1935年。ヒマーラヤの奥地、聖なるバーギーラティー河とアラクナンダー河が合流する地にあるデーオプラヤーグに、キスナーという名の馬使いの息子がいた。少年キスナは英国人行政官ピーター・バケット(マイケル・マロニー)の娘、キャサリンと仲が良く、いつも一緒に遊んでいた。キスナーに恋心を抱いていた、村の音楽家の娘ラクシュミーは、キャサリンに嫉妬を燃やしていた。しかし、キャサリンはピーターにより、教育のために英国に帰されてしまう。

 12年後の1947年、学校を卒業したキャサリン(アントニア・バーナート)は休暇をもらって生まれ故郷のデーオプラヤーグまで戻って来る。村は昔と少しも変わっておらず、キスナー(ヴィヴェーク・オーベローイ)と再会を喜ぶ。ラクシュミー(イーシャー・シャルヴァーニー)も、キャサリンが帰って来たことにより再び嫉妬心を燃やすようになる。だが、ラクシュミーの心を察した父親は、キスナーの両親の縁談をまとめ、2人の婚約式が行われた。全ては昔のままに見えたが、政局は大きく変わっていた。同年3月にインド総督に就任したマウントバッテン卿は、マハートマー・ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーと協議し、8月14〜15日にインドとパーキスターンを分離独立させることを認めた。そのニュースはデーオプラヤーグの村人たちを歓喜させたが、同時に、残虐な行政官ピーターに対する積もり積もった恨みを晴らすための起爆剤ともなった。キスナーの叔父であり、村で道場を開いていたバイロー・スィン(アムリーシュ・プリー)や、キスナーの兄シャンカル・スィン(ヤシュパール・シャルマー)は、ピーターの邸宅に夜襲をかけ、ピーターを殺害した。ピーターの妻ジェニファー(キャロリン・ラングリシェ)とキャサリンは別々に逃げ出した。キスナーが偶然キャサリンを見つけ、一緒に隠れる。キスナーの母は、彼に対し、キャサリンをデリーまで送り届けるよう命令すると同時に、「マハーバーラタ」を引き合いに出して、必要があれば兄シャンカルとも戦うことを辞さないよう檄を飛ばす。

 キスナーとキャサリンはデーオプラヤーグを脱出し、シヴプリーに住む友人の家に数日間滞在する。そこでルクマニー(リシター・バット)らに手厚く歓迎される。キスナーとキャサリンを追う者は3者いた。一者はキスナーの兄シャンカル・スィンと叔父バイロー・スィン。彼らは行政官の家族皆殺しを掲げていた。一者はラグラージ王子(ラジャト・カプール)。ラグラージ王子はピーターと交流があった男で、キャサリンと結婚しようとしていた。もう一者はキスナーの婚約者ラクシュミー。キスナーとキャサリンが一緒にいなくなったことに我慢ならないラクシュミーは、遂に自らキスナーを追いかける。

 キスナーとキャサリンはハリドワール駅に到着する。キスナーがデリー行きの列車の切符を買いに行っている間、キャサリンは母ジェニファーと再会する。だが、ジェニファーはラグラージ王子と一緒だった。ラグラージ王子はキャサリンを連れて行ってしまう。だが、キスナーはラグラージ王子を追いかけ、2人を取り戻す。3人は、ちょうど外遊に来ていたファイザーバードの王妃ナイナー・ベーガム(スシュミター・セーン)や、音楽家ジュンマン・キスティー(オーム・プリー)らの助けによりラグラージ王子から逃れてデリーへ向かうが、途中でシャンカル・スィンやバイロー・スィンに見つかってしまう。ジュンマンやジェニファーとはぐれたキスナーらは、ジャングルの中に逃げ込む。教会に身を潜めた2人のところへ、今度はラクシュミーがやって来て、「婚約者である私を捨てて白人の女と逃げるなんてどういうつもり?」と怒りを露にするが、キスナーは「オレはキャサリンをデリーまで送り届けなければならない。それまでは誰の言うことも聞かない」と答える。ラクシュミーは怒って去って行ってしまう。

 キスナーとキャサリンは再びシャンカルらに見つかってしまう。だが、キスナーはキャサリンを殺害しようとしたバイロー・スィンを殺し、兄シャンカルにも斬りかかる。シャンカルもキスナーの気持ちを理解し、2人に道を開ける。キスナーとキャサリンはデリー近郊の街ガーズィヤーバードに到着するが、そこではヒンドゥーとムスリムの殺し合いが行われていた。しかもラグラージ王子もそこに来ており、キャサリンは捕えられてしまうが、キスナーによって助け出され、ラグラージ王子は無残な最期を遂げる。キャサリンは無事デリーまで送り届けられる。

 キャサリンはキスナーに対し、一緒に英国へ来るように頼むが、キスナーはそれを拒んだ。「君をデリーまで送り届けることはオレの男としてのカルム(行動義務)だった。それが完了した今、オレはラクシュミーと結婚して、ダルム(宗教義務)を遂行しなければならない。」こうしてキスナーはデーオプラヤーグに戻ってラクシュミーと結婚したのだった。

 大規模な恋愛&歴史映画で、感動と涙を誘うシーンや見所がいくつもあり、全体的に優れた映画であった。しかしながら、ストーリーのつながりが不明瞭な部分が散見されたため、残念ながら完成度はそれほど高くないと感じた。一言で言ってしまうならば、最近のスバーシュ・ガイー監督の作品「Taal」のいいところと、「Yaadein」の悪いところを合わせて、歴史映画的な重厚性を加味したような映画である。

 映画は突然、1月26日の共和国記念日パレードから始まる。どうやら現代のようだ。印パ分離独立時を舞台にした映画だと思って映画館に来ていた観客はビックリする。1950年1月26日にインド憲法が施行され、それを記念するために毎年1月26日には首都デリーでパレードが行われる。この映画が公開されたのが本日1月21日、共和国記念日の5日前だ。ちょうどこの時期にこの映画が公開された意味がよく分かった。映画に話を戻そう。主賓としてインドを訪れていたキャサリンは、ウッタラーンチャル州デーオプラヤーグへ行きたいと言い出し、周囲の人々を困惑させる。「なぜそんなところに?」デーオプラヤーグに着いたキャサリンは、ここが自分の生まれ故郷であることを明かし、また、自分こそが真のインドを知っていると言って、キスナーの話を始める。それが上のあらすじで書いたストーリーである。

 デーオプラヤーグ。地図で調べてみたら実在の町だった。リシケーシュからガンガー(ガンジス)河を遡って、さらにヒマーラヤの奥地へ行ったところにある町で、上記の通り、ちょうどバーギーラティー河とアラクナンダー河が合流する地点にある。言わば、ガンガー河がガンガー河と呼ばれ始める地点に位置する町である。インドでは、河の合流点は聖なる地と考えられており、河と河の合わさるところに必ず何かしらの寺院や聖地が存在する。一番有名なのは、ガンガー河とヤムナー河の合流点であるイラーハーバードである。イラーハーバードは古名をティールト・ラージとかプラヤーグと言う。デーオプラヤーグの他、キスナーとキャサリンが数日間滞在したシヴプリーやハリドワールなども実在の町であり、非常に現実味のある映画であった。ロケ地は、ウッタラーンチャル州のデーオプラヤーグ、シヴプリー、リシケーシュ、ハリドワール、ラーニーケート、ムクテーシュワルや、デリーなどである。ほとんどウッタラーンチャル州で撮影されているため、「山のインド」の美しさが存分にスクリーンに映し出されていてよかった。

 人材発掘家としても有名なスバーシュ・ガイー監督。ガイー監督はこれまで、ジャッキー・シュロフ、マードゥリー・ディークシト、マニーシャー・コーイラーラー、マヒマー・チャウドリーなど、多くの俳優を発掘してスターに育て上げた。今回の彼の大発見は、イーシャー・シャルヴァーニーである。イーシャーは有名な舞踊家ダクシャー・セートの娘で、既に国際的な舞踊家として名の知れた存在だったが、「Kisna」での大抜擢により、その名はインドの隅々にまで知れ渡ったと言ってよい。彼女の踊りは文句なく現在のボリウッド女優の中でダントツのNo.1である。特に紐にぶら下がって座禅を組んだりするコンテンポラリー・ダンス風の踊りは彼女にしかできない芸当だろう。彼女の踊りを見るためだけでも、この映画は見る価値がある。顔は多少華がないが、「ボリウッド女優は踊れてなんぼ」という常識を改めて思い出させてくれるだけのアピールがある期待の新人である。




イーシャー・シャルヴァーニー


 英国人女優のアントニア・バーナートも素晴らしかった。はつらつとした演技をしていて、キャサリンのキャラクターにピッタリだった。だいぶヒンディー語も勉強したようで、外国人キャストの中では一番流暢なヒンディー語をしゃべっていた。今までインド映画に出演した白人俳優の中で一番の演技とまで賞賛してもいいだろう。なぜかイーシャーとアントニアは肌の露出合戦を行っていて、インド映画にしてはかなりきわどいセミヌード・シーンが両者ともあった。

 主人公キスナー役のヴィヴェーク・オーベローイも一皮剥けた演技をしていてよかった。長髪に髭という風貌は多少おかしかったが。これからますます成長するだろう。

 「Kisna」は、1月21日に脳溢血で急死したアムリーシュ・プリーの遺作の1本となってしまった。映画中の彼の役柄は脇役に過ぎなかったが、彼が登場したときには客席から拍手が上がった。ボリウッド映画界で独特の地位を築いた彼へのオマージュの拍手であった。

 「Kisna」の特に前半は、ストーリーの合間にミュージカルがあるというよりも、ミュージカルの合間にストーリーがあるような、音楽と踊りに溢れた映画だった。この点で「Taal」を思い起こさせた。しかし、編集が下手なのか、シーンとシーンの整合性があまりなく、その点で支離滅裂映画と酷評された「Yaadein」を思い起こさせた。ストーリーが自然に流れていかなくて、話が急に飛んだり、無駄なシーンが入ったり、脈絡のない出来事が次々に起こったりと、多少イライラさせられた。また、キスナーらが使っていた剣のデザインが西洋的すぎるように思えた。本当にああいう形の剣が使われていたのなら文句はないのだが、少なくともマハーラージャーの宮殿などでよくある武器博物館では、この映画に出てくるような形状の剣を見たことはない。キスナーの強引なまでの無敵の強さにもちょっと興ざめしてしまった。印パ分離独立時に発生したヒンドゥーとムスリムの間での凄惨な殺し合いも、特に深く描写されていたわけではなかった。

 音楽はARレヘマーンとイスマイル・ダルバール。「Kisna」の音楽のテーマソングは、フー・ピン監督の「ヘブン・アンド・アース 天地英雄」(2003年)のためにレヘマーン自身が作曲した曲の焼き直しである。2人ともインド映画の音楽界を代表する音楽監督だが、「Kisna」の挿入歌に傑作と言えるものは少なかったと思えた。

 細かい部分の粗探しをしていったら切りのない映画ではあるが、そういう部分に目をつむって、風景の美しさやイーシャー・シャルヴァーニーの素晴らしい踊りを楽しむことができるなら、「Kisna」鑑賞は今年初のフィルマーナンド(インド映画鑑賞により心に沸き起こるエクスタシー:僕の造語)を体験させてくれるだろう。

1月22日(土) 印テニス界の新星、サーニヤー・ミルザー

 インドは大国でありながら、なぜかスポーツが弱い国である。それは去年の夏に行われたアテネ五輪でも証明された(銀メダル1枚のみ)。また、サッカーW杯の予選で日本代表とインド代表が試合をしたことにより、日本人の間でも「インドは弱い」というイメージが定着してしまった。インドの国技とも言えるクリケットにしても、それほど強いわけではない。ゴルフ界ではヴィジャイ・スィンというインド系プロゴルファーが大活躍しているが、彼にしてもインド系移民というだけで、国籍はフィジーである。インドのホッケーが無敵の強さを誇った時代もあったが、今は昔の物語となってしまっている。なぜインド人スポーツ選手は国際舞台で弱いのか。僕はその理由を、全てを神様と運命に任せ自助努力を諦めてしまうインド人特有の哲学的思考や、身体を動かすことを卑しいことと考えるカースト観に求めたいと思っているが、やはりスポーツは、共産主義国を除けば、ある程度国や国民が日常生活以外のことに目を向けられるくらい裕福になる必要がある上に、政府が積極的に後押ししないと振興されないものであるという点が大きい。しかし、インド経済の成長に従って、次第にスポーツの分野で活躍するインド人選手が徐々に現れてきているのを感じる。

 インドのテニス界のスーパースターと言えば、マヘーシュ・ブーパティとリーンダー・パエスである。2人はゴールデン・コンビとして知られ、アテネ五輪でも男子ダブルスに出場したが、残念ながら4位で終わり、メダルにあと一歩手が届かなかった。だが、現在オーストラリアのメルボルンで開催中の全豪オープンにおいて、新たなインド人テニス選手のスターが誕生した。サーニヤー・ミルザーである。サーニヤー・ミルザーはマハーラーシュトラ州ムンバイー出身、アーンドラ・プラデーシュ州ハイダラーバード在住の18歳。名前から分かるように、ムスリムである。サーニヤーは2003年6月に行われたジュニア・ウィンブルドンの女子ダブルスで優勝したインドテニス界のホープだった。サーニヤーは今回、「1勝できれば」という気持ちで全豪オープンに出場したところ、女子シングルスで見事3回戦まで進出するという快挙を成し遂げた。インド人女子テニス選手で、グランドスラム(全英、全仏、全豪、全米オープン)のシングルスで3回戦まで進出したのはサーニヤーが初とのこと。しかもなかなかかわいらしい顔をしているため、一気にインド人の間で人気に火が付いたというわけだ。ムスリムの祭日、イードゥッ・ズハー(1月21日)に行われた3回戦のときには、日頃クリケットの試合にしか興味を示さないインド人たちがTVの前に群がった。




サーニヤー・ミルザー


 3回戦まで進出したサーニヤーを待ち構えていたのは、元世界チャンピオンのセリーナ・ウィリアムズ(米国)。世界的に有名な豪腕テニスプレイヤーである。サーニヤーの世界ランクは現在163位である一方、セリーナは7位。まるで勝ち目のない戦いだった。だが、サーニヤーは健闘した。第1セットは1−6で完敗に近かったものの、第2セットは4−6とかなり競った試合をした。試合後、セリーナは18歳の新星に対し、「あなたは将来性があるわ。頑張って腕を磨いて」と激励したという。

 サーニヤーは1986年11月15日、ムンバイー生まれ。父親はスポーツ・ジャーナリストで、元々スポーツに関係のある家系だったようだ。6歳からローンテニス(芝生コートでプレイするテニス)を始め、マヘーシュ・ブーパティの父CKブーパティの手ほどきを受ける。その後、ハイダラーバードの二ザーム・クラブでコートテニスを始め、スィカンダラーバードにあるシネット・テニス・アカデミーや、米国にあるエース・テニス・アカデミーで英才教育を受けた。1999年から国際試合に出場するようになり、2003年にはロシアのアリサ・クレイバノワとコンビを組んでジュニア・ウィンブルドンで優勝した。インド人女子テニス選手がグランドスラムで優勝したのは、1952年のリター・ダーバル以来51年振りのことだった。そして今回、女子シングルスで初の3回戦進出となったわけだ。TVで彼女のインタビューを見たが、彼女の英語は上流階級のそれであった。テニスなんて元々暇人の道楽であり、自分の子供にテニスの英才教育を施すことができるのは、インドではまだまだ裕福な家庭に限られている。やはり、まずは富裕層のインド人家庭が子女に英才教育を施さなければ、国際舞台で活躍できるスポーツ選手がインドから生まれる可能性は低いということが感じられた。




マヘーシュ・ブーパティ(左)と
サーニヤー・ミルザー(右)
なぜかサーニヤーのシャツには、
漢字で「夏」と書いてある


 とりあえず、サーニヤー旋風はこれからもインドで続きそうだ。サーニヤーには、好物のハイダラーバーディー・ビリヤーニーを一杯食べて栄養を取ってもらって、怪我に気を付けて頑張ってもらいたい。



 1月23日付けのサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙には、引き続きサーニヤーの特集が組まれていた。まず目立ったのは、「シャラポワNo.1、サーニヤーNo.2」という記事。今回の全豪オープンで一番人気はロシアのマリア・シャラポワだが、それに次ぐのがインドのサーニヤー・ミルザーであるという内容だった。何を根拠にしているかというと、全豪オープンのウェブサイトのプロフィールのアクセス数。今まで同ウェブサイトは110万ヒットを記録したが、その女性セクションで、サーニヤー・ミルザーのページへのアクセス数が、シャラポワに次いで第二位だったという。まだ全豪オープンは終わっておらず、今の時点でそんな下らないことを記事にするのはどうかと思うが、世界の人口の大部分を占めるインド人が同時に何かひとつのことに関心を示したらどういうことになるのかを表しているようで、多少怖い気もする。

 同紙には、サーニヤー・ミルザーをジャッスィーと比較する記事もあった。ジャッスィーとは、ソニーTVで放映されている「Jassi Jaisi Koi Nahin(ジャッスィーのような女の子はどこにもいない)」というTVドラマの主人公で、2003年に始まってからというものの、インド国内で爆発的な人気を誇っている。ジャッスィーの何が受けたかというと、何てことはない、彼女が中産階級の普通の女の子であることだ。ジャッスィーは、ダサい眼鏡をかけ、歯を矯正中で、色気のないサルワール・カミーズをいつも来ているという、今までインド映画やTVドラマになかった庶民的キャラクターだった。だが、芯はしっかりした女の子で、非常に勤勉かつ頭がいい。ファッション会社で最初は秘書として働くものの、持ち前の才能を発揮してどんどん出世する。ジャッスィーを演じるモーナー・スィンは、全く無名の女優だったものの、このTVドラマの大成功により、今やインドで彼女の顔を知らない人はいないほどになっている。ジャッスィーは既に現代のインドの中産階級の女性の理想像となっていると同時に、長年娯楽の王様としての地位に安住していた映画界を追撃するほど、TVドラマ産業を急成長させるきっかけともなった。そのジャッスィーとサーニヤーが比較されていた。上ではサーニヤーのことを上流階級だと書いたが、彼女自身の弁では「ハイダラーバードの典型的な中産階級ムスリムの家庭に生まれた」らしいので、そういうことにしておこう。彼女の普段の格好は、やはり眼鏡をかけ、シンプルな服を着ており、そこら辺の女の子と変わらない。だが、一度テニスコートに立てば、まるで魔法で変身したかのように、チャーミングなテニスプレイヤーとなる。その様子を見て、記者はサーニヤーを「現実世界のジャッスィー」と賞賛したというわけだ。




ジャッスィー


 サーニヤーのインタビューによると、どうやら既に映画界やモデル界からもオファーがあったようだが、彼女は断ったらしい。その辺は分をわきまえているようで、好感が持てる。「ムスリムの女性でありながら、肌の露出が多いテニスウェアを着ることに抵抗はないか」というインドっぽい質問には、「私たちの宗教はスポーツをすることを禁じていないわ。もし気温45度の中、長袖長ズボンでテニスをしろというなら、私は何もすることができない。私は好き好んで足を見せているわけではないわ。テニスをしに来ているの」となかなかまっとうな答え方をしている。以前は世界ランクトップ100入りが目標だったようだが、グランドスラム3回戦進出したことにより、目標はトップ50入りに上方修正されたそうだ。




なぜかビルヤードをする
サーニヤー・ミルザー
普段は黒縁眼鏡をかけている


1月23日(日) Page3

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Page3」を見た。監督はマドゥル・バンダールカル。「Chandni Bar」(2001年)で有名な監督である。音楽はサミール・タンダン。キャストは、コンコナー・セーンシャルマー、ボーマン・イーラーニー、アトゥル・クルカルニー、ターラー・シャルマー、ビクラム・サルージャー、サンディヤー・ムリドゥル、ジャイ・カルラー(新人)など。ちなみに「Page3」とは、日本の新聞で言う「三面記事」のことで、ゴシップなど中心の面を言う。特にインドではパーティー特集面のことを言うようだ。タイムズ・オブ・インディア紙の折込版であるデリー・タイムスなどを見ると、第3面はセレブ・パーティーの記事が派手な写真と共に毎日のように載っている。この第3面に載ることが、有名人のステータス・シンボルだとされている。




左からコンコナー・セーンシャルマー
ターラー・シャルマー
サンディヤー・ムリドゥル


Page3
 マードヴィー(コンコナー・セーンシャルマー)はページ3の記者で、毎晩ムンバイーのセレブのパーティーに出席して取材しており、社交界の中で顔の知れた存在となっていた。だが、マードヴィーは真面目な記事を書きたいと思っており、無名の美術家の展覧会や孤児院の記事などを載せようとするも、編集長のディーパク・スリー(ボーマン・イーラーニー)に阻止されてしまっていた。

 マードヴィーはスチュワーデスのパール(サンディヤー・ムリドゥル)と共に同居していたが、偶然出会った女優志望の女の子ガーヤトリー(ターラー・シャルマー)も一緒に住むようになる。マードヴィーは、友人の人気男優ローヒト(ビクラム・サルージャー)に頼んでガーヤトリーを映画監督に紹介してもらう。だが、その監督は彼女に肉体関係を迫ったため、彼女は逃げ出して来てしまう。また、ガーヤトリーはローヒトと恋仲になるが、妊娠した途端ローヒトから捨てられたため、自殺未遂をする。ガーヤトリーは一命を取りとめたものの、映画業界に嫌気がさして故郷のデリーに帰ってしまう。時を同じくして、パールも大富豪と結婚して米国へ去って行ってしまう。また、マードヴィーは、恋人でモデルの卵のアビジート(ジャイ・カルラー)がゲイの友人と裸で抱き合っているところを目撃してしまい、彼と絶交する。マードヴィーは孤独になってしまった。

 ページ3の取材に嫌気がさしたマードヴィーは、スリー編集長に頼んで犯罪部に異動させてもらう。マードヴィーはベテラン記者のヴィナーヤク(アトゥル・クルカルニー)と共に犯罪の取材を行う。あるときヴィナーヤクが留守にしているときに、情報屋からタレコミを得たマードヴィーは、それを警察に伝えて人身売買を行うマフィアの家宅捜査に同行する。だが、そのマフィアの逮捕により、少年への性的虐待を行っていた大富豪が浮かび上がってしまう。その大富豪は、マードヴィーの勤める新聞社のスポンサーでもあった。マードヴィーはスキャンダルを記事にまとめるが、上からの圧力により没にされた上に解雇されてしまう。

 家にこもって涙を流すマードヴィーのもとにヴィナーヤクがやって来る。ヴィナーヤクはマードヴィーに、「真実を記事にしなければならない。しかしそれには方法がある。システムの中にいながら、システムを変えなければならない」とアドバイスする。マードヴィーは別の新聞社にページ3の記者として就職し、再びセレブ・パーティーの世界を取材するようになる。マードヴィーはそこで、デリーに帰ったはずのガーヤトリーと出会う。ガーヤトリーの隣には、かつて彼女に身体関係を迫った監督がいた。彼女の様子もだいぶ垢抜けてしまっていた。ガーヤトリーは彼女に言う。「こうするしかなかったの。」パーティーには、かつての恋人アビジートもいた。彼も出世のためにゲイに身体を売ったのであり、そのために現在はセレブの仲間入りを果たしていた。それらを見て、マードヴィーは「やはりここは私のいるべき場所じゃない」と、1人パーティー会場を後にする。

 ムンバイーの華やかな社交界の裏に潜む退廃的人間関係に光を当てたユニークな作品。前半を見ていたときは、「Let's Enjoy」(2004年)のような、パーティーの中での各種人間模様を描いた作品かと思っていたが、後半になって急に話がシリアスになり、非常に深みのある映画となっていた。ドラッグあり、セックスあり、ゲイあり、少年への性虐待ありと、扱っていたテーマは際どかったが、インドの実情からそう遠くはないと思えた。

 映画の冒頭では、米国からインドに15年振りに帰って来たインド人資産家が、ムンバイーで成功するために「ページ3」を活用するシーンが描かれる。まずはパーティーを主催し、各界の有名人を招待し、その様子が新聞のページ3に掲載されれば、成功は間違いないという。そこからムンバイーで夜な夜な繰り返されるセレブ・パーティーの様子と、それを取材するマードヴィーが物語の中心に来る。華やかなるパーティー。出席するセレブたちの顔ぶれは毎回そう変わらず、一晩にいくつも掛け持ちでパーティーを巡るのが彼らの中では当たり前となっていた。当初は観客も楽しそうなパーティーの様子に心を躍らせるが、次第にセレブたちの間に蔓延する汚れた人間関係が露となってくる。特にそれが露骨に描写されるのは、大富豪の妻アンジャリーが自殺し、その葬式が行われているシーンである。人々はアンジャリーの死を悼むためにやって来るが、話し合っていることは、相も変わらずゴシップ、ビジネス、そして次のパーティーのことばかりである。それを見たマードヴィーは、ページ3の記者を辞める。

 だが、さらにショックなのは、マードヴィーが元の新聞社をクビになり、新しい新聞社で再びパーティーの取材を始めたシーンである。マードヴィーはそこで、けばけばしい化粧をしてタバコを吹かすガーヤトリーの姿を目にする。マードヴィーがガーヤトリーに会ったとき、彼女はパーティーに馴染めなくてまごつく純粋無垢な女の子だった。監督に手篭めにされそうになった上に、妊娠した途端、付き合っていた人気男優に捨てられ、自殺まで図った彼女は、いつの間にか監督に身を売ってセレブの仲間入りをしていた。病んだ社会で生きるためには、自ら病むしかないということを痛烈に描いていた。

 ・・・だが、このプロットは、マドゥル・バンダールカル監督自身に関わる、ある実際の事件を思い起こさせるものであった。2004年6月、プリーティ・ジャインという映画女優志望のモデルが、バンダールカル監督をレイプの罪で告訴したのだ。プリーティは、バンダールカル監督が自分を彼の映画のヒロインにすると約束したため、1999年〜2004年に渡って彼と肉体関係を持った。しかし、いつになってもバンダールカル監督が彼女をヒロインにしないため、彼女がこれ以上の肉体関係を断ったところ、無理に押し倒されてレイプされたとのことだった。おそらくまだ公判中だろうが、世論は2つに分かれている。すなわち、女優になりたい女の子の弱みに付け込んで手篭めにしたバンダールカル監督が悪い、という意見と、ヒロインになりたいがために監督と肉体関係まで結び、しかもそれを売名行為に利用するプリーティ・ジャインが悪い、という意見である。どちらにしろ、監督自ら、自分自身のスキャンダルを想起させるプロットを映画に盛り込むとは、この監督も只者ではないと思う。

 この他にも「Page3」は、インドの社交界と新聞の問題点をいろいろ暴き出していた。例えば、ページ3は「知名度ゼロの人間のことを書くのではなく、銀行口座にゼロがいくつもある人間のことを書くためにある」という編集長の言葉は、どのような記事がページ3に載るのかを如実に表していた。また、犯罪に関する記事では、金と人脈によりいくらでもコントロールができてしまう様も明らかになっていた。だが、問題点はいろいろと提示されたが、その解決は映画中には何も示されなかった。映画は全ての問題が未解決のまま、マードヴィーがセレブ・パーティーや社交界の世界から永遠に足を洗うことを予感させて終了した。

 「Amu」(2005年)に引き続き、コンコナー・セーンシャルマー主演作だった。「Mr. and Mrs. Iyer」(2002年)の成功で一気に演技派女優として認知度を上げたようだが、彼女の外見ははっきり言って普通の女の子であり、うまく配役しないと映画全体のバランスが崩れてしまう。この「Page3」でも、彼女の容姿は多少マイナスに働いていた。ゴージャスなセレブたちの間をテクテクと歩き回る姿は、場違いな印象を受けた。

 脇役だったが、サンディヤー・ムリドゥルの演技が光っていた。彼女は「Saathiya」(2002年)でラーニー・ムカルジー演じるヒロインの姉役を演じ、「Waisa Bhi Hota Hai Part II」(2003年)では怖い女警官の役を演じていた。どちらも非常に印象的な演技をしていたが、「Page3」でもさらにその脇役演技に磨きをかけていた。ヒロインにはなれない顔をしているが、名脇役にはなれそうな顔である。ボーマン・イーラーニーは、アムリーシュ・プリー亡き今、コメディーも悪役もシリアスな役も怖い親父役もこなせる、ヒンディー語映画界にはなくてはならない個性派おじさん男優となっている。密かに注目しているアトゥル・クルカルニーも好演していた。映画中のセレブ・パーティーでは、スニール・シェッティーがチラリと特別出演していた。

 言語は、ヒンディー語6割、英語4割。一応分類ではヒンディー語映画となっていたが、ヒングリッシュ映画にカテゴライズしてしまってもいいと思った。

 「Page3」は、風刺コメディーとしても社会派映画としてもパーティー映画としても楽しめる映画であり、インド映画の新たな道を開拓したのではないかと感じた。マドゥル・バンダールカル監督は、新感覚のヒンディー語映画を作る、今最も注目の映画監督の1人だということが証明されたと言っていいだろう。

1月25日(火) デリーの大学生の支出

 1月23日付けのサンデー・ニュースライン紙(エクスプレス・ニュースラインの日曜折込版)に、デリーの大学生の支出額が出ていた。1ルピー=2.5円として、日本円も記載しておいた。

携帯電話  3,000 -15,000ルピー  7,500 -37,500円
インターネット 500 - 1,000ルピー 1,250 - 2,500円
タバコ 700 - 1,000ルピー 1,750 - 2,500円
通学 50 - 2,000ルピー 125 - 5,000円
靴/鞄 500 - 2,000ルピー 1,250 - 5,000円
サングラス 150 - 5,000ルピー 375 -12,500円
ジーンズ 700 - 1,500ルピー 1,750 - 3,750円
映画 150 -   300ルピー 375 -   700円
夜遊び 500 - 2,000ルピー 1,250 - 5,000円
音楽/本 500 - 1,000ルピー 1,250 - 2,500円
外食 500 - 2,000ルピー 1,250 - 5,000円

 いったいどういうデータなのか全く書いておらず、ほとんど参考にならないような数値であったが、あまりこういうデータを見ないので、推測を混ぜて考察してみようと思う。

 まず、対象となっている学生は、デリー大学のノース・キャンパスの学部学生である可能性が高い。デリー大学にはピンからキリまでいろいろなカレッジがあるが、ノース・キャンパスのカレッジは一般的に優秀な学生が多く通っており、裕福な学生も少なくない。次に注意すべきことは、上記の金額が、毎月の支出の最低額・最高額と、所持している物の料金の最低額・最高額がごっちゃになっている可能性が高いことだ。上の項目の内、携帯電話、靴/鞄、サングラス、ジーンズは、おそらくアンケート時に所有しているものの料金であって、毎月これらのものにこれだけのお金を費やしているということではないだろう。一方、インターネット、タバコ、通学、映画、夜遊び、音楽/本、外食の項目は、毎月または特定の月の平均的支出額だろう。以下、個別に各項目を見てみよう。

 デリーの大学生が持っている携帯電話の額は3000ルピーから始まる。3000ルピーというと、モノクロ液晶の中古携帯電話ぐらいだろう。上限は1万5千ルピー。このぐらいの値段だと、新品のカメラ&ムービー付き携帯電話が買える。最近、デリーの学生の携帯電話の間で、学生生出演のポルノ・ムービーが出回るという事件が起きて大問題になった。この事件からも、学生たちがけっこう高機能な携帯電話を持っていることが分かる。

 インターネット代が500〜1000ルピーというのは、ちょっと注記しておかなければならない。インドではまだまだ自宅にパソコンを持っている人は少なく、この金額はネットカフェなどでインターネットをするための代金だということだ。デリーの一般的なネットカフェ料金は、1時間15〜20ルピー。単純計算すると、デリーの大学生は1日1〜2時間くらいネットを利用していることになる。

 タバコ代が700〜1000ルピーというのはけっこう高い。インド人はタバコを箱買いすることは稀で、ばら売りされているものを数本ずつ買うことが多い。1本3ルピーぐらいだ。これも単純計算すると、1日10本前後吸っていることになるだろう。最近はインド人の若い女の子が喫煙をしている姿をよく見かけるようになった。先日見た「Page3」という映画にも、女の子がタバコを吸うことが当然の如く描写されていた。ヴェジタリアンなのにヘビースモーカーという人もいたりして、日本人には少し理解しがたい状況となっている。

 通学費の下限が50ルピーというのは、多少多すぎるように思える。歩いて通える距離に住んでいる寮生などは通学費ゼロだろうし、バスパス(バスの定期券)を利用すればもっと安くなると思う。通学に2000ルピーもかかる人は、オートリクシャーを利用している人だろう。大富豪の子女になると、運転手付きの自動車で送り迎えしてもらっている人もいるそうだ。

 靴と鞄は500〜2000ルピー。僕が持っている通学用のワンショルダーリュックはグルガーオンで購入したものだが、1000ルピーぐらいだったと思う。靴をインドで買ったことは一度しかないが、それは確か2000ルピー以下だったと記憶している。しかし、インド製の靴は通気性が悪く、足がものすごく臭くなることから、それ以来インドの靴は買っていない。靴というから、インド人が大好きなチャッパル(サンダル)は含まれていないのだろう。

 サングラスの価格は150〜5000ルピー。なぜサングラスという項目があるのかは大きな謎である。インド人は眩しがり屋の欧米人と違ってそれほどサングラスを多用しない民族だと思うのだが・・・。150ルピーのサングラスは、そこら辺の道端の露店で売っている安物だろう。5000ルピーものサングラスを着用しているインド人学生がいることは簡単には信じられない。

 ジーンズの価格は700〜1500ルピー。700ルピーのジーンズは、俗に言う「ローカル」のジーンズで、訳の分からない会社名などが書かれていたり、何も会社名が記載されていなかったりするものだろう。リー、リーバイスなどの「カンパニー」のジーンズなら1000〜1500ルピーはする。だが、インドではジーンズを履いていること自体がステータスであることも明記しておかなければならない。

 インドの娯楽の王様、映画代は150〜300ルピー。想像していたより低いように思える。PVRなどの高級シネマコンプレックスなら、1チケット150ルピーする。昔ながらの映画館なら、20〜40ルピーくらいが最も安い座席の値段だろう。インド人学生は、わざわざ高い金を出してまでシネコンに見に行かないとも考えられるし、1月に1〜2本しか映画館で映画を見ないとも考えることもできる。・・・といか僕が映画を見すぎているだけなのか。VCDのレンタルは1枚20ルピーくらい。

 夜遊び代500〜2000ルピーというのは、飲み代とディスコ代ということだろう。デリーではまだまだ夜遊びしようにも夜遊びできる場所が限られており、バーで飲むかディスコで踊るかぐらいしかない。バーで飲めばビール1本100ルピー以上はかかるし、ディスコに入るにはカバーチャージとして300〜400ルピーは取られる。節度ある夜遊びをしていれば、500〜2000ルピーというのは妥当な値段だろう。

 音楽/本に費やす金額は500〜1000ルピー。学生生活は本を買わなければ始まらないが、インドでは必ずしも学生が本を買う必要はない。多くの場合、貧しい学生たちは図書館から本を借りたり、コピーをしたり、友人から本を譲ってもらったりして勉強をしており、あまり本を買うということはしない。音楽はカセットとCDがあるが、学生の間ではまだカセットが主流だろう。CDは100ルピーほど、カセットは50ルピーほどである。

 外食代500〜2000ルピー。外食というのがどこまで含むのか不明だが、毎日の昼食代+友人たちとの会食費と考えるとこのくらいか。キャンパス内の食堂で食べれば1食10〜20ルピー程度、マクドナルドなどのファストフード店で1食食べれば100ルピー、チャーイは1杯2ルピーなど。

 毎月の平均支出額と思われる上記の7項目を合計すると、2900〜9300ルピーとなり、デリーの大学生が毎月使うお小遣いの金額の幅に近いように思われる。もちろん、これ以外にも出費はあるだろう。また、新聞記事に載っていた学生へのインタビューを総合すると、一月の支出を2000〜4000ルピーにしようと努力するのが一般的なデリーの大学生のようだ。ただ、僕が通うジャワーハルラール・ネルー大学の学生は、寮住まいの人が多いこともあり、さらに一月の支出額は低いと予想される。

 ところで、これらの統計がなぜ新聞に載っていたかというと、大学生の学費が安すぎる、ということを主張する上で、デリーの大学生は毎月こんなに多くの金を使ってますよ、と伝えるためのものだった。実はインドの大学の学費は馬鹿みたいに安い。例えば、デリー大学の学費は1月15ルピーである。これ以外にも入学費、図書館費、学生証発行費などの諸経費や寮費、寮食費などがかかるのだが、学費(Tuition Fee)として徴収されている料金は毎月15ルピーに過ぎない。実にコカ・コーラ1.5瓶分である。JNUでも修士課程までの学費は毎月18ルピーである。ただし、これはインド人学生のみであり、外国人留学生はベラボウに高い学費を払わされる。デリー大学では年間の学費は5500〜6000ルピーで、それに加えて入学時に300〜500ドルを「外国人登録費」として支払わなければならない。JNUでも文系学部は半年の学費は600ドルであり、インド人と比べて不当に高い値段となっている。大学は、学費値上げが学生運動や政治問題の引き金となるのを恐れ、数十年間学費に手を付けることができないでいる。その代わりの財源を確保するため、外国人留学生の学費が引き上げられたというのが実状である。しかし、次第にインド人学生の学費の値上げが議題に上るようになって来ていると感じる。

 だが、インドはまだまだ貧富の差が激しい国であるので、いくら「一般的な」大学生の支出額が学費と釣り合わない額だからと言って、一方的に学費を値上げるのも考え物だ。新聞に載っている大学生の支出額はどう見てもデリー在住の中産階級のものであり、田舎から家族や村人たちの期待を一身に背負ってデリーまで来ている貧乏学生たちの財政状況を鑑みると、やはり学費は据え置いておかないといけないんじゃないかとも思えてくる。兄弟が多く、貧しい家庭では、1人に教育を集中させる傾向もある。兄弟の中でもっとも頭のいい1人を大学まで何とか進学させて、残りの兄弟は村に残って野良仕事などをして家計を支えるというのがよくある状況だ。だから、貧しい学生の裏には、当人だけの苦労だけでなく、多くの人々の血と汗と涙が隠されていることがある。僕のクラスメイトの大半も、やはり電気も舗装道路もないような貧しい村から苦労してやって来た苦学生たちである。ヒンディー語修士課程を学ぶ学生たちのステータスはJNUでは全然高くないが、彼らも卒業して村に帰れば、「インド最高峰の大学を卒業した人」としてもてはやされることだろう。もし国家公務員試験に合格しようものなら(JNUの学生は公務員志望が多い)、村を挙げて祝ってくれるだろう。だが、もしこれ以上学費が高くなってしまったら、昨今のインドの経済発展とは無縁な貧しい村々の学生が大学で学びにくくなってしまうことは必定だ。貧しい学生には奨学金が遍く渡るようにするなど、いろいろ配慮しつつ学費値上げについて検討しなければならないと思う。

1月29日(土) ブラジ・ツーリング@

 バイクでアーグラーまで行きたい、タージ・マハルとバイクのツーショットを撮りたい――インドに住み、バイクを乗り回すようになってから、いつしかそれが密かな野望となっていた。デリーからアーグラーまでは約200km。往復400km。バイクで日帰りするにはちょっと辛い距離である。よって、一泊二日でアーグラーまでツーリングする計画を以前から立てていた。先週はシムラーで雪が降った影響でデリーは寒波に襲われていたが、今週に入って次第に温かくなって来ており、ツーリングするのにちょうどいい気候になっていた。また、ツーリング仲間の中では一番忙しい僕も、テスト期間やレポート提出などが始まっておらず、まだ時間に余裕があった。よって、1月の最後の土日がアーグラーへの一泊二日のツーリング日に決定された。

 デリーの南、マトゥラーからアーグラーにかけての一帯は伝統的にブラジ地方と呼ばれている。ブラジ地方はクリシュナ神話の舞台であり、この地方で話されるブラジ方言は、中世から近代にかけてヒンディー文学の中心言語となった。ムガル朝時代には都がデリーやアーグラーなどに置かれたことから、政治の中心地としても栄えた土地だ。「ブラジ」とは家畜放牧用の囲い地のことで、その言葉からも牧畜の盛んな地域だったことが伺われる。今回のツーリングでは、ウッタル・プラデーシュ州のアーグラーとファテープル・スィークリー、ラージャスターン州のバラトプルとディーグの4ヶ所を巡ることにした。バラトプルやディーグをブラジ地方に含めるかどうかは微妙だが、気分的にはブラジ地方一帯を巡るツーリングである。よって、題名はブラジ・ツーリングとなった。参加者は1月16日のガンガー参拝ツーリングと同じメンバーで3人。僕は225ccの赤カリズマに乗り、残りの2人は180ccの銀パルサーと、135ccの黄アンビシャンである。黄アンビシャンは前回のツーリングが引退旅行となるはずだったが、しぶとくもう一回老骨に鞭打っての参加となった。これでやっと通算4度目のツーリングとなり、まるでブッダの四門出遊の如く、デリーの四方にバイクで足を伸ばしたことになる。今までのツーリングの旅程を一枚の地図にまとめてみた。ツーリング・マップとしてだけでなく、デリーからの日帰り旅行などにも参考になるだろう。■デリー周辺ツーリング・マップ

 朝9時半頃にサフダルジャング・エンクレイヴの自宅を出発。空には薄っすらと雲がかかっているが、晴天と言っていいだろう。まずはムールチャンド病院の交差点近くにあるバーラト・ペトロリアムで愛用のガソリン、スピード93を満タンまで補給。そこからリング・ロードを通って東へ向かい、アーシュラムでマトゥラー・ロードに入って、あとはひたすらまっすぐ南下した。マトゥラー・ロードは文字通りマトゥラーに続く道路で、国道2号線とも言う。デリーの州境にあるバダルプルが常に混雑しているが、ハリヤーナー州ファリーダーバードを抜ければ、片側2車線、中央分離帯ありの快適な道で、あとはスイスイ行く。

 ところが、バダルプル付近でトラブル発生。銀パルサーの後輪がパンクしてしまったのだ。タイヤには釘が刺さっていた。道の途中で釘を踏んだ可能性もあるが、駐輪している場所で嫌がらせを受けた可能性も高い。彼のパルサーは今まで何度も釘による嫌がらせを受けており、あるときには一度に3本もの釘を刺されていたことがあった。今回は長距離ツーリングなので、パンクを機に彼は思い切ってチューブを新しいものに変えた。チューブ交換で90ルピー。変なところでパンクするよりも、パンクの修理屋がすぐ見つかる市街地でパンクしておいてよかったのではなかろうか。

 当面の目的地はマトゥラー近くにあるマクドナルド。そこで昼食を食べる予定になっていた。パンクで時間をロスしてしまったので、ファリーダーバードを抜けた後は一直線でマトゥラーを目指した。デリーからマトゥラーまでは約150km。マクドナルドはマトゥラーからさらに約10km行ったところにある。州は、デリー州→ハリヤーナー州→ウッタル・プラデーシュ州と変遷して行った。その途中、マトゥラーでジャイ・グル・デーヴ寺院に立ち寄った。デリー〜アーグラー間を陸路で移動したことがある人なら、その途中にある白亜の巨大な寺院を見たことがあるだろう。その姿はタージ・マハルにも似ており、偽タージ・マハルと呼ばれることもしばしばある。この辺を通るたびにいつも気になっていたのだが、今回はバイクで来ていたので自由が利き、ついでに立ち寄ってみることにした。僕はてっきりスィク教のグルドワーラーだと思っていたのだが、ヒンドゥー教に近い新興宗教の寺院だった。1973年から建造が始まったらしいが、未だに建設中だそうだ。菜食主義を主眼にしており、寺院の中に座っていた人は我々に菜食主義の実践を促した。地下には既に死去した教祖の記念碑があり、賽銭箱が置かれていたが、そこには「肉、魚、卵、酒を摂取する人の賽銭お断り」と書かれていた。こういう方針の寺院は珍しい。




ジャイ・グル・デーヴ寺院


 マクドナルドに到着したのは午後2時頃だった。ツーリングのルートの途中にマクドナルドのような清潔なレストランがあるとありがたい。ちゃんとしたトイレがあることが保証されているし、顔や手を洗うことができるし、食事もすることができる。マクドナルドでは久し振りにマハーラージャー・マックバーガー・コンボ(99ルピー)を食べた。空腹だったので、ものすごく美味く感じた。昔、アーグラーのケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンでヒンディー語を学んでいたリトアニア人のクラスメイトの話では、アーグラーからバイクに乗ってよくこのマクドナルドまで来ていたそうだ。当時はアーグラーにマクドナルドがなかったのだ。今でもないかもしれないが。




マトゥラーのマクドナルド


 マクドナルドで腹ごしらえをした後は、そこから40kmの地点にあるアーグラーを目指した。公害都市アーグラーへわざわざ寄る目的はただひとつ。タージ・マハルの前でバイクと写真を撮ることである。もちろん、タージ・マハル周辺は車両の進入は禁止されているので、行くことができない。ではヤムナー河対岸はどうか。昔、ヤムナー河に架かる線路を渡ってタージ・マハル対岸まで来て、写真を撮ったりスケッチしたりしたことがあった。だがあのときは徒歩だった。しかも3〜4年も前になる。あのときはちゃんとした道路などはなかったはずだ。果たして現在、車両が対岸まで行くことが可能だろうか?ロンリー・プラネットから出ている「India&Bangladesh Road Atlas」(ツーリングの際、非常に参考になる地図帳である)を見てみたところ、タージ・マハルの真ん前の「タージ・ビューポイント」まで続く道が載っていた。この道を通れば行けるかもしれない、そう直感した我々は、まずは国道2号線を通ってヤムナー河を越え、そこから右に曲がってアリーガル・ロードに入り、タージ・マハルの真ん前まで行くこと、それが無理でも可能な限りタージ・マハルに近付くことを次の作戦とした。題して「ミッション・タージ」。大好きなタージ・マハルをもう一度見ることができるだけでも、僕の胸は高鳴った。

 アーグラーに近付くに連れて道は混雑して来た。アーグラー郊外にあるスィカンドラー(ムガル朝第3代皇帝アクバルの墓廟)の前を通り、そのまま国道2号線をカーンプル方面に向けて走った。ヤムナー河に架かる橋を渡り、そこから国道を下りて、アリーガル・ロードに入り、ありとあらゆる物体がうごめく道路をクラクション連発しながら通り抜けた。この辺りには、チーニー・カ・ラウザーやイティマドゥッダウラーなど、アーグラーのマイナーな遺跡がいくつかある。

 アリーガル・ロードを南下していくと、まずはアーグラー城を見渡せる場所に出た。この場所は、い〜んディア写真館2001年の作品No.10「サーリー畑」を撮影した場所である。やっぱり今日もドービー(洗濯人)たちが川辺にサーリーを干していた。とりあえずここでアーグラー城とカリズマの2ショットを撮影した。

 そこからさらに南下していくと、とうとう目の前にタージ・マハルの威容が姿を現した。カーブを曲がった瞬間、青い空の中、緑の森の向こうに「バン!」と白亜のドームが現れるものだから迫力満点である。このときの感動は筆舌に尽くしがたいほどであった。そのまま舗装道路が続いており、道に沿っていったら、ヤムナー河の岸辺まで辿り着いてしまった。岸辺に行くには砂地の坂道を下らねばならず、帰りバイクで登れるか心配だったが、岸辺に既に1台のバイクが停まっていたので、それなら大丈夫だろうと、一気に下りてしまった。そしてタージ・マハルの正面にバイクを停めた。この時点で午後3時だった。タージ・マハルには今日も多くの観光客が訪れており、巨大な白亜の廟の中をゴマ粒のような大きさの人々が歩き回るのが見えた。きっと多くの人が驚いてこちらを眺めていることだろう。

 さあ、早速タージ・マハルの前で写真を撮ろう、長年の野望が成就させよう――だが、そうは問屋が卸さなかった。岸辺に到着したときから、大勢の子供たちが僕たちの後を一斉に追いかけてきたのだ。ある子供は満面の笑みと共に、ある子供は「何が起こったかわからない」といった表情をしながらも、他の子供に遅れまいと必死に走って来た。バイクを停車させると、我々は子供たちに囲まれることとなった。子供たちは口々に何かを叫んでいる。ペンをくれだの、このバイクはいくらかだの、僕を乗せてくれだの、写真をくれだの、もう無茶苦茶な状態となってしまった。天下にその名を轟かせしタージ・マハル、外国人入場料が750ルピーに値上げされてしまった今、対岸から無料でタージ・マハルを眺めて満足する貧乏性な外国人旅行者も多いようで、必然的にこの辺りを縄張りにする物売りや子供たちも増えてしまったようだ。ラクダまでいた。カメラを構えると、一斉に子供たちが走り寄ってきてポーズを取るという有様・・・この状態では写真が撮れない・・・。

 しかしここではヒンディー語が役に立った。子供たちに「後で写真を撮ってあげるから、ちょっとどいててもらえないかな」と言うと、ガキ大将格の子供が理解してくれて仕切ってくれたため、何とかタージ・マハルとカリズマの2ショットを撮影することに成功した。他の2人も子供たちを騙しつつ何とか記念写真撮影を終えた。その後は逃げるようにして走り去った。・・・だが、後から思えば、もっといろんな構図でタージ・マハルとカリズマの写真を撮りたかった。僕も一緒に写っておけばよかったと激しく後悔した。またいつか、子供たちのいない時間帯を見計らって、タージ・マハルまでバイクで来ようと誓った。





タージ・マハルとカリズマ


気を抜くとこうなる


 次の目的地はファテープル・スィークリー。ファテープル・スィークリーは、アーグラー観光コースに必ず入っている観光地で、アーグラーの西約40kmの地点にある。1571年から1585年の間だけムガル王朝の首都となった場所で、当時の遺構がほぼ完全な形で残っていることで有名だ。だが、僕たちがファテープル・スィークリーへ行く主な目的は、遺跡ではなかった。この周辺には、熊使いが出没することでも有名である。その熊と一緒に写真を撮りたかったのだ。しかも熊使いの村がアーグラーとファテープル・スィークリーの間にあるとの情報があり、是非そこへ行ってみようということになった。

 タージ・マハル対岸からファテープル・スィークリーへ向かうのに、アーグラー市街地を抜けるという、あまり賢くないルートを取ってしまった。まずはイティマドゥッダウラー近くの細い橋を渡ってヤムナー河を越え、そこから中世のバーザールの雰囲気を残す大混雑の街中を通って行った。とにかく道なりにず〜っとまっすぐ進んでいくと、アーグラーの大動脈と言える大通り、マハートマー・ガーンディー・ロード(MGロード)に出た。MGロードを南に進み、適当なところで西へ折れて、そこからは交差点ごとに道を尋ねる方式で、ファテープル・スィークリーへつながる道を探した。アーグラーは道案内の標識がほとんどないので運転するのが難しい。

 何とかファテープル・スィークリー行きの道を見つけることができた。この道は幹線ではないので、中央分離帯がない片側1車線の危険な道だった。インド人は無理な追い越しをするので、ヒヤリとさせられる場面が何度もあった。しかも同じ方向に進むトラックが暴走していると、それを追い抜くのに苦労するし、かといってトラックの裏にくっ付いていると、トラックの脇からモウモウと吐き出される黒煙を思いっきり浴びることになるので、大変だ。

 既にこの辺りの道端には熊使いが多数待機していた。熊使いは、旅行者が乗る自動車が通ると、おもむろに熊に芸をさせて注意を引き、旅行者が停まると、さらに多くの芸を見せてお金をもらう。熊というと怖いイメージがあるが、彼らが飼い慣らしている熊は牙や爪が抜かれているそうだ。我々は、熊使いの村に行ってたくさんの熊たちと一緒に写真を撮ろうと目論んでいた。その村はファテープル・スィークリーから10kmくらいの地点にあった。確かに村の家の庭には熊がつながれている。よしっ!と思って村の中にバイクを乗り入れると、何だか視線が厳しい。「熊を見に来た!」と言うと、「熊なら道端にいるからそっちへ行け」と冷たい返事が帰って来た。終いには何だかよく分からないが石を手に持って怒り出した子供と女性がいて、雰囲気がやばかったので、仕方なく退散することにした。やはりいきなりバイクで乗り入れたからいけなかったかもしれない。結局今回の旅行では熊と一緒に写真を撮ることができなかった。

 そのままファテープル・スィークリーまで直行した。午後4時半過ぎにはファテープル・スィークリーの城下町に到着。今日はマーケットの入り口のすぐそばにあるゴーヴァルダン・ツーリスト・コンプレックスに宿泊することにした。トリプルルームで550ルピー。ここのホテルのレストランはエッグ・カレーがスペシャリティーとのことだったので、素直にそれを注文してみたら、けっこう不思議な味付けで美味しかった。適当にマーケットを散策した後は、一杯交わして早々に眠った。

1月30日(日) ブラジ・ツーリングA

 朝7時起床。ありがたいことに今日も快晴。事前に見てきたYahoo!の天気予報では月曜日が雨となっており、その雨が今日にずれ込んだらやばいと思っていたのだが、どうやら天気予報通りになってくれたようだ。

 1人が朝寝坊だったため、僕ともう1人は朝の散歩に出かけた。散歩と言っても、黄アンビションに2ケツしてのドライブである。ファテープル・スィークリーは3人とももう既に来たことがあったため、わざわざ260ルピーの外国人料金を払ってまで見る気はしなかった。だが、僕にはひとつだけ行ってみたい場所があった。それは、ファテープル・スィークリーの外れにあるヒラン・ミーナールという塔である。ファテープル・スィークリーには2回来たことがあったが、ヒラン・ミーナール(鹿の塔)は遠くて行ったことがなかった。だが、最近ファテープル・スィークリーを訪れた友人の写真を見せてもらったところ、このヒラン・ミーナールの上から撮った写真があり、塔に登れることが分かったため、是非行ってみようと思った。地図で確認したところ、どうも入場料を取られる正門から入る必要はなく、裏から道が続いているようだったので、その道を見つけてみることにした。

 ファテープル・スィークリーの遺跡は、主にモスク地区と宮殿地区に分かれている。モスク地区であるジャーマー・マスジドは今でも宗教施設として機能しており、入場料は無料である。南側にある高さ54mのブランド・ダルワーザー(巨大門)は、何度見ても圧倒される。内部にはシェーク・サリーム・チシュティー廟などがある。一方、宮殿地区は入場料が必要で、現在のところ入り口は2ヶ所ある。モスク部分に近いジョード・バーイー宮殿の入り口と、アーグラー門(アーグラー方向を向く門で、ファテープス・スィークリーの入り口)側のディーワーネ・アーム(一般謁見の間)の入り口である。そのアーグラー門とディーワーネ・アーム側入り口の間、ナウバト・カーナーと呼ばれる門の近くに、北の丘方向へ続く細い石畳の道があり、そこを抜けていくと貧しい村に出る。村の中の道を抜けていくと宮殿部分の裏側につながっており、そこからヒラン・ミーナールへ行くことができた。ヒラン・ミーナールだけでなく、宮殿内部にも簡単に入れてしまえそうだった。道は狭くて悪いので、オート・リクシャーで行くのはおそらく大変だろう。バイクで来た甲斐があったというものだ。




ヒラン・ミーナール


 ヒラン・ミーナールは、インドの塔建築の中でも一風変わった外見をしている。塔の表面に象牙を模した突起が無数に突き出ているのだ。最近、インド各地に残っている塔は入り口が閉ざされていて上まで登れないようになっていることが多いのだが(転落事故防止のため)、この塔は開きっぱなしで、上に登ることができた。この上からファテープル・スィークリーを眺めると、なかなか絶景であった。背後には広大な畑が広がり、インドの豊かさを雄弁に物語っていた。

 誰かに見つかると怒られそうなので、そのまま早々に切り上げて帰路に着いた。途中、村を走っているときに、遠くに大きな建物が見えた。早速その建物を目指して村の路地を爆走した。ちょうど村人たちは朝の野グソに出かける時間で、野原では至る所で人々がふんばっていた。その建物はハヴェーリー(邸宅)だった。ラーラー・ジャーンキー・プラサード宮殿というらしいが、内部は崩れかけており、ほとんど廃墟だった。だが、中には人が住んでいた。住んでいるのか、住み着いているのかはよく分からなかった。廃墟とは言ったものの、正面の壁の彫刻や透かし彫りはけっこうきれいに残っており、かつての栄華を偲ばせた。200年くらい前に作られたそうだ。突然訪ねて行ったのだが、中に住んでいた人は親切に案内してくれて、「友人にもこのハヴェーリーのことを紹介してくれ」と頼まれた。こんな貧しい村にこんな立派なハヴェーリーが立っているのも不思議なものだ。




ラーラー・ジャーンキー・プラサード宮殿


 ホテルに帰り、荷造りをした後、午前8時半頃に3人でホテルを出発した。次の目的地はバラトプル。ラージャスターン州に入る。バラトプルは18〜20世紀にかけてジャート王国の本拠地となった都市である。ジャート族はラージプートと同様に元々外来の民族だとされるが、ラージプートよりも社会的地位は下に見られる傾向があった。だが、勇猛果敢さではラージプートに勝るとも劣らず、ムガル王朝やイギリス東インド会社に果敢に立ち向かった歴史を持っている。ジャートは主にハリヤーナー州などに住んでいる。ちなみに、パンジャーブ州のスィク教徒はジャットという民族だが、ジャートとは関係ないようだ。ジャートは喧嘩っ早いことで悪名高く、例えば1984年にデリーで起こった反スィク教徒暴動のときに、暴動を扇動したされる国民会議派の政治家、サッジャン・クマール議員は、ジャート出身である。また、現在外務大臣を務める国民会議派のナトワル・スィンはバラトプルのマハーラージャーの家系であるが、彼は穏健派のようだ。

 ファテープス・スィークリーからバラトプルまでは約20km。30分ほどで到着した。バラトプルでは、世界自然遺産に登録されているケーオラーデーオ国立公園が最も有名な見所だが、僕が見たかったのは市街地の中心にあるローハーガル(鉄の要塞)であった。マーケットを抜けてローハーガルまで行った。

 ローハーガルは、マハーラージャー・スーラジ・マールによって18世紀に建造された要塞である。この要塞は、インドで最も堅固な要塞として知られている。1825年、インドを植民地化しつつあったイギリス東インド会社は、バラトプルにも攻撃を仕掛けた。だが、英国人は圧倒的な兵力を誇っていたにも関わらず、ローハーガルを陥落させることができず、多大な損害を被った東インド会社は、バラトプルのマハーラージャーと講和条約を結ぶ羽目になった。バラトプル王国は東インド会社と永久平等友好条約を結んだ初めての藩王国となり、それはインド独立の1947年まで守られ、その間バラトプル王国は独立を保つことができた。こういう輝かしい歴史があったため、てっきりラージャスターン州やマハーラーシュトラ州にある要塞のように、断崖絶壁の山の上の要塞だと思っていたが、実は平地の城だった。周囲は深い堀で囲まれていたものの、今まで見てきた要塞の中で特別堅固とは思えない構造だった。ローハーガルの内部も町になっており、人が住んでいる。いくつか宮殿建築物が残っているが、大学になっていたり、寺院になっていたり、閉まっていたり、博物館になっていたりした。博物館の入場料は3ルピー。展示物は、石像、武器、剥製、その他マハーラージャーのコレクションなど、あまり見る価値はなかったが、ハンマーム(浴場)はなかなかきれいに保存してあり、一見の価値があった。また、博物館の横の小高い丘の上には鉄柱が立っており、表面にはバラトプル王国のマハーラージャーの家系図などが刻まれていた。この他、バラトプル市街にはガンガー寺院、ジャーマー・マスジド、ラクシュマン寺院などの建築物が残っている。11時頃にバラトプルを発った。





ローハーガルの入り口、ローヒヤー門



博物館



キショーリー宮殿
中には入れず




鉄柱


家系図が刻まれている


 次に向かったのは、バラトプルから北に35kmの地点にあるディーグ。ディーグもバラトプル王国の都市で、夏の都だった場所だ。バラトプルからディーグへ行く道は、思っていたほど悪くなかったが、途中小さな村の中の道になると、途端に道路の舗装は剥がれ尽くしており、相当な悪路となっていた。ディーグには12時前に到着した。

 ディーグは国際的な観光地アーグラーの近くにありながら、ほとんど無名の都市である。しかし、ディーグに残っているジャル・マハル(水の宮殿)は、規模、保存状態、建築的ユニークさで、もっと名を知られてもいい存在であると感じた。18世紀にマハーラージャー・スーラジ・マールによって建造されたジャル・マハルは、ラージプート建築とムガル建築の折衷様式となっている。ムガル建築特有の四分庭園を中心に東西南北にラージプート建築風の宮殿が立ち並び、さらに東西には巨大な貯水池がある。マハーラージャーはクリシュナ神の信者だったため、宮殿の建物にはクリシュナに関係する名前が付けられている。1970年代までマハーラージャーが実際にここに住んでいただけあり、保存状態はずば抜けてよい。宮殿内部にはマハーラージャーが使用していた品々が展示されている。その中でも印象的だったのは、西にあるゴーパール・バヴァンの大広間。贅沢な調度品が置かれていたが、天井から吊り下げられた巨大な扇が圧倒的だった。召使いたちが上階から紐を使って扇を揺らし、広間全体に風を送っていたそうだ。残念ながら建物内部は写真撮影禁止だった。南西部にあるスーラジ・バヴァンは、タージ・マハルと同じく全体が白大理石で作られている。南部にあるキシャン・バヴァンの屋上には巨大な貯水池があり、この水によって庭園全体に水を行き渡らせていたそうだ。北部にあるナンド・バヴァンは、クシュティー(インド相撲)のアカーラー(道場)になっていたらしい。だが、僕たちが訪れたときには修復中で中に入ることはできなかった。





ジャル・パレス
ゴーパール・バヴァンと貯水池



ハルデーヴ・バヴァンと庭園


 実は、ジャル・マハルにある調度品や建築物は、ムガル王朝の支配下にあったデリーやアーグラーから略奪して来たものが多い。ジャートはムガル王朝に異常な対抗意識を燃やしており、自身の宮殿をムガル王朝以上のものにしようと躍起になっていたという。アーグラーのタージ・マハルもジャートの略奪を受けているし、デリーのレッド・フォートもジャートの攻撃を受けている。

 ジャル・マハルの入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピー。僕はインドの学生とういことで5ルピーで入ることができた。

 ディーグはちょうどマトゥラーの西40kmほどの地点にある。ディーグ観光を終えた我々は、マトゥラーを目指して東に向かった。だが、この道が実は今回のツーリングの中で最悪だった。村と村をつなぐ道は悪くない舗装道路だったが、村の中に入ると泥沼のような道路になったりして、非常に苦労した。ディーグとマトゥラーの間にはゴーヴァルダンがあった。ゴーヴァルダンには、クリシュナが持ち上げた山として有名なゴーヴァルダン山がある。3〜4年前にゴーヴァルダンに来たことがあったので懐かしかった。そのままゴーヴァルダンを通過して国道2号線に出た。昼食はまたマトゥラー近くのマクドナルドですることになっていたので、一旦アーグラー方面へ向かって、マクドナルドで休憩した。

 後はデリーに向かって一直線に帰るだけだった。ここで3人の間でひとつの試みを行うことで合意に至った。我々の乗っているバイクの内、アンビシャンは排気量135ccで、実は遠乗り用のバイクではない。よってスピードを出すことができない。時速80km出すとハンドルがブルブル震えだすという有様である。よって、我々は時速70kmを目安に今まで走行してきた。しかし、僕のカリズマも遂に走行距離1000kmを越え、そろそろ慣らし運転を卒業してスピードを出したくなっていたし、パルサーも本領を発揮したくてウズウズしていた。そこで、アンビシャンには20分早く出てもらって、180ccのパルサーと225ccのカリズマが後から高速で追いかけて追いつくかどうか試してみることにした。アンビシャンはマトゥラーのマクドナルドを午後2時20分頃に出発。その後、2時40分にカリズマとパルサーが出発。アンビシャンは大体時速60〜70kmで走行し、カリズマとパルサーは時速90〜100kmで走行した。マトゥラーのマクドナルドからデリーまで約150km。いろいろな誤差を含めて、ファリーダーバード辺りで追いつく計算になっていた。

 また、実はこのとき、ガソリンも底を尽きかけていた。パルサーはどうも時速70kmで走行するくらいが一番燃費がいいようで、燃料に余裕があったが、アンビシャンとカリズマは既に半分以下となっていた。マクドナルドのすぐ隣にガソリンスタンドがあったため、そこで給油すればいいのだが、しかし我々はスピード93という高級ガソリンしかバイクに入れないというこだわりを持っており、そのガソリンはとりあえずデリーでしか手に入らないので、デリーまで給油せずに直行する賭けに出ることにした。ギリギリ辿り着けるか辿り着けないぐらいかの距離である。

 マトゥラーからデリーに通じる国道2号線は、前述の通りきれいな舗装道路なので、スピードを出すには申し分のない道である。かと言って、日本の高速道路ではないので、途中で人や犬や牛が横切ったりするため、町の近くなどでは注意して走行しなければならない。それでも、抜かすことはあっても抜かされることはあまりないので、時速70kmで走っているときよりも神経を使わずに済んだ。ノンストップで走行していたら、大体計算どおり、4時15分頃、ファリーダーバードに入る手前でアンビシャンに追いつくことができた。ファリーダーバードにあるクラウン・プラザにちょっとだけ立ち寄って、デリーを目指した。デリーの入り口、バダルプルに入る辺りで、アンビシャンとカリズマが相次いでリザーブタンクとなった。カリズマのリザーブタンクは2リットル。理論上はリザーブタンクで80kmくらい走れることになっているが、ここまでガソリンタンクを使い切ったことはなかったのでかなり不安だ。バダルプルは常に混雑しており、なかなか進まなかったが、それを抜けてアポロ病院の前を通り、何とかネループレイスのバーラト・ペトロリアムまで辿り着いた。そこでスピード93を12.16リットル給油。昨日ガソリンを給油したときにゼロにしたトリップ・メーターは509.2kmを指していた。つまり燃費はリッター41.875km。市街地や悪路を走行したことを考えれば、妥当な数字だろう。一方、パルサーはどうやら時速90km前後で走ると燃費が悪いようで、マトゥラーからデリーに戻る間に大量のガソリンを消費し、燃費はリッター43kmほど。アンビシャンもスピードを出しすぎると燃費が悪く、リッター47kmほどだった。


NEXT▼2005年2月


*** Copyright (C) Arukakat All Rights Reserved ***