スワスティカ 印度文学館 スワスティカ

装飾上

ニルマラー

装飾下

 プレームチャンド(1880-1936)。ヒンディー・ウルドゥー文学の巨匠。生涯に18の長編小説と400余の短篇小説を発表。ガーンディー主義に傾倒し、農民、労働者、ダリト(不可触民)、女性など、社会的弱者の視点に立った作品を書き続ける。「ニルマラー」は、1925年11月から1926年11月まで、女性向け雑誌「チャーンド」に連載された長編小説。インドの女性問題をテーマに、心理描写に重点を置いて書かれている。ヒンディー語版からの翻訳。

第1章

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールの家には何十人もの家族が住んでいた。母方の従兄弟がいれば、父方の従兄弟もいるし、姉妹方の甥がいれば、兄弟方の甥もいた。しかしここでは彼らに触れる必要はないだろう。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは優秀な弁護士で、ラクシュミー女神(富の女神)の敬虔な信者であり、貧者に施しをするのを自らの使命としていた。物語の主人公は、彼の娘たちである。長女の名前はニルマラー、次女の名前はクリシュナーと言った。ついこの前まで、2人は一緒に人形遊びをしていた。ニルマラーは15歳、クリシュナーは10歳だったが、2人の性格に特に違いはなかった。2人は暇があれば人形を結婚させて遊んだり、一緒に家事をさぼったりしていた。母親が呼んでも、2人は、全く今度は何の仕事を押し付けるつもりかしら、と倉庫に隠れて座っていた。2人は兄弟たちとよく喧嘩をしたり、使用人たちを叱ったり、楽器の音を聞くや否や戸口に立ったりしていた。しかし最近では、どういうわけか、長女は長女、次女は次女になってしまっていた。クリシュナーは相変わらずだったが、ニルマラーは思慮深く、孤独を好み、恥かしがり屋の女の子になってしまった。

 ここ数ヶ月間、バーブー・ウダイバーヌ・ラールはニルマラーの結婚相手を探していた。今日、その努力が実り、バーブー・バールチャンドラ・スィナーの長男ブヴァンモーハン・スィナーとの縁談が決まった。花婿の父親は、「ダウリー(持参金)を払おうと払うまいと、あなたのよかれと思うようにして下さい。私は全く気にしません。ただ、バーラート(花婿側招待客)の人々をきちんともてなしていただければ結構です。あなたと私の名誉が汚れることがあってはいけませんからね」と言った。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは弁護士ではあったが、金儲けには長けていなかった。ダウリーは彼にとって困難な問題であった。だから花婿の父親から「ダウリーのことは気にしない」という言葉を聞いたとき、縁談は決まったも同然だった。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは、ダウリーのためにどれだけの人の前で手を合わせなければならないだろう、と常々悩んでおり、2、3人の高利貸しと日頃から懇ろにしていた。そして、どれだけ出費を抑えても、少なくとも2000ルピーはかかるだろう、と見込んでいた。それゆえに、この好条件を提示された途端、彼は喜びの余り飛び上がらんほどであった。

 この知らせが家に届いた途端、無邪気だった少女は顔を隠して部屋の隅に座り込んでしまった。彼女の心には奇妙な胸騒ぎが沸き起こり、全身に未知の恐怖が駆け巡った――いったいどうなってしまうの?彼女の心には、乙女たちの目に色気を添え、唇に柔かな笑みを含ませ、身体の動きを甘くさせるような歓喜はなかった。そこには憧れもなかった。ただ胸騒ぎが、不安が、そして臆病な想像のみがあった。青春の光はまだ完全に少女を照らし出していなかった。

 クリシュナーは何となく知ってはいたが、まだ理解できていないこともたくさんあった。お姉ちゃんはきれいな装飾品がもらえるでしょう、戸口で楽器が鳴るでしょう、お客さんたちが来るでしょう、みんなが踊りだすでしょう――それを思うだけで嬉しくなってしまった。そして彼女は、姉がみんなと抱き合って泣くこと、涙を流しながらこの家から去って行ってしまうことも知っていた。私は1人になってしまう、それを思うと悲しくなった。しかし彼女は、それが何のために起こっているのか、父と母がどうして姉をこんな嬉しそうに家から追い出すのか、全く理解できなかった。お姉ちゃんはいつもと違うわ、誰にも何も言おうとしないし、誰にも反対しようとしない。これはなぜ?いつかこんな風に私も追い出されてしまうの?私もお姉ちゃんのように部屋の隅に座って泣くの?誰も私を慰めてくれないの?それを思うと彼女は怖くもあった。

 夕方になった。ニルマラーは屋上に1人ポツンと座り、遠い空を物欲しげな目で眺めていた。もし羽があったら飛び去ってしまいたい、そうすればこんなことから抜け出せるのに、と考えていた。この時間にはいつも、2人姉妹はどこかに散歩に出掛けていたものだった。仕掛けておいた罠に獲物がかかっていないときはいつも、2人は畑の方に散歩に出かけていた。だからクリシュナーは姉を探し回っていた。どこにも見当たらなかったので、彼女は屋上まで上がって来た。ニルマラーを見つけると、クリシュナーは笑って言った。「お姉ちゃん、こんなところに隠れて何してるの?私、あちこち探し回っちゃったわ。さあ、罠を仕掛けて来ましょうよ。」

 ニルマラーは興味なさそうに言った。「あんた、1人で行って。私は行かないわ」

 クリシュナー「そんなのいや、私の大好きなお姉ちゃん、今日は一緒に行きましょうよ。ほら、気持ちいい風が吹いてるわ。」

 ニルマラー「気が乗らないの、1人にして。」

 クリシュナーの目が潤んできた。声を震わせて言った。「お姉ちゃんはなんで今日、行ってくれないの?私をどうして無視するの?どうしてあちこち隠れてるの?私、1人で寂しい。お姉ちゃんが行かないなら私も行かない。ずっとお姉ちゃんのそばに座ってるわ。」

 ニルマラー「もし私がお嫁に行ったら、あんたはどうするつもり?誰と遊ぶの?誰と一緒に散歩に行くの?考えてみたことある?」

 クリシュナー「私もお姉ちゃんと一緒に行くわ。ここに1人で住むことなんてできないもの。」

 ニルマラーは微笑んで言った。「そんなこと、お母さんが許さないわ。」

 クリシュナー「それなら私がお姉ちゃんを行かせないわ。お母さんにどうして言わないの、行きたくないって?」

 ニルマラー「言ってるわ。言ってるけど誰が聞いてくれるの?」

 クリシュナー「それじゃあこの家はお姉ちゃんのものじゃないの?」

 ニルマラー「違うわ。私のものだったら、誰が私を無理矢理追い出そうとする?」

 クリシュナー「こんな風に私もいつか追い出されちゃうの?」

 ニルマラー「あんたはいつまでもこの家に居座るつもり?私たちは女の子なの、私たちの家はどこにもないのよ。」

 クリシュナー「チャンダルも追い出されちゃうの?」

 ニルマラー「チャンダルは男の子でしょ、誰が追い出すって言うの?」

 クリシュナー「それじゃあ、女の子は厄介者ってこと?」

 ニルマラー「厄介者じゃなかったら、どうして家から追い出されるって言うの?」

 クリシュナー「チャンダルはあんな悪戯っ子なのに、どうして誰も追い出そうとしないの?お姉ちゃんも私も悪戯なんてしたことないのに。」

 そのときチャンダルが騒々しい音を立てながら屋上までやって来て、ニルマラーを見て言った。「あれ、お姉ちゃん、ここにいたのか。オッホ!もうすぐ音楽が鳴って、お姉ちゃんがお嫁さんになって、お輿に乗って行っちゃうね!オッホ!オッホ!」

 チャンダルの本名はチャンドラバーヌだった。ニルマラーの3歳年下で、クリシュナーの2歳年上だった。

 ニルマラー「チャンダル、これ以上私を怒らせたら、今からお母さんのところへ行って言いつけるからね。」

 チャンダル「どうして怒ってるの?お姉ちゃんも音楽聞くんでしょ!オッホ!もうすぐお嫁さんになるんでしょ!キシュニー(クリシュナーの愛称)、お前も音楽聞くよな?あんな音楽、お前は一度も聞いたことないだろうな?」

 クリシュナー「バンドの演奏よりもいいの?」

 チャンダル「ああ、当然さ。バンドよりもいいさ、1000倍いいさ、10万倍いいさ!お前に何が分かる?バンドの演奏1回聞いただけで、それが最高の音楽だと勘違いしてやがる。音楽の演奏隊は、赤いチョッキを羽織って、黒い帽子をかぶってるだろうね。お前にゃ分からないくらいかっこいいだろうなぁ。花火もあるだろう。ロケット花火が空に飛んで、星にぶつかって、赤や黄や緑や青の星が降ってくるだろうなぁ。楽しみだなぁ。」

 クリシュナー「あと何があるの、チャンダル、教えてよ?」

 チャンダル「オレと一緒に散歩に行こうぜ、歩きながら教えてやるよ。お前の目の玉が飛び出るくらいいろんなことがあるぜ。妖精が空をヒラヒラ飛んだりもするんだぜ、本物の妖精がよ!」

 チャンドラバーヌとクリシュナーは行ってしまったが、ニルマラーは1人でその場に留まっていた。クリシュナーが行ってしまったことを、このときニルマラーは不愉快に思った。クリシュナーのことを誰よりも愛していたのに、今日のクリシュナーはなんて冷たいの。私を1人残して行ってしまったわ。訳もないのに心は痛み、風が吹いただけで目からは涙が出た。ニルマラーはしばらくの間泣いていた。兄弟姉妹も両親も、みんなこのように私のことを忘れてしまうんでしょう、みんな目を背けてしまうんでしょう。多分みんなのことが恋しくてたまらなくなるんだわ。

 庭には花が咲き、甘い香りが漂って来ていた。チャイト月(3月〜4月)の涼しい風が吹いていた。空には星が瞬いていた。ニルマラーは悲しみに沈みながら眠ってしまった。目を閉じた途端、彼女の心は夢の世界をさまよい始めた。目の前には波立った河が見えた。その河の岸には桟橋があった。夕方だった。暗黒が何か恐ろしい獣のように迫ってきていた。彼女は、どうやってこの河を渡ろうか、どうやって家に帰ろうか、と考えていた。どうか夜にならないように、夜になってしまったら私は1人こんなところでどうすればいいの、と泣いていた。と、突然、1葉の美しい舟が岸の方にやって来るのが見えた。彼女は喜びの余り飛び上がり、舟が岸に着くや否やそれに乗ろうと走り出した。ところが、舟の甲板に足を乗せようとしたとき、船頭が叫んだ。「お前が乗る場所はねぇんだよ!」彼女は船頭にお世辞を言ったり、足元にひれ伏して頼み込んだり、最後には泣いてみたりしたが、船頭は同じ言葉を繰り返すだけだった。「お前が乗る場所はねぇんだよ!」すぐに舟は発ってしまった。彼女は大声を上げて泣き始めた。こんな人気のない河岸で夜を過ごせないわ、そう考えた彼女は河に飛び込んで舟をつかもうとしたが、そのときどこかから声がした。「待て、待て、河は深いぞ、溺れちまうぞ。その舟はお前のためのじゃない。オレが行くから。オレの舟に乗れば、向こう岸まで送ってやるよ。」彼女は怖くなって、一体声がどこからするのか、あちこちを見回した。少しすると、1葉の小さな舟がやって来るのが見えた。その舟には帆も舵も帆柱もなかった。舟底は穴だらけで、甲板は壊れ、舟には水が溢れていた。そして1人の男が舟の中から水をくみ出していた。「こんな壊れた舟で、どうやって向こう岸まで行くの?」船頭は言った。「お前のために送られたのはこれだけなんだ、さあ乗りな。」彼女はしばらく、こんな舟に乗るのかと考えていたが、結局彼女は乗ることに決めた。こんなところに1人取り残されるよりはこの舟に乗った方がましだし、恐ろしい獣に食べられるよりは河で溺れた方がましだわ。それに、舟が向こう岸まで辿り着くかどうかは誰にも分からないわ。そう考えた彼女は、思い切って舟に乗り込んだ。しばらく舟はゆらゆら揺れながら進んでいたが、刻一刻と舟の中に水が入って来た。彼女も船頭と一緒に手で水をくみ出し始めた。彼女はすぐに疲れてしまった。水はどんどん溜まって行った。遂に舟はグルグル回り始めた。今にも沈みそうな状態になったそのとき、彼女は何でもいいから掴まるものを探して手を伸ばした。舟は足元から離れ、足は足場を失った。彼女は大声で叫んだ。大声で叫びながら彼女は目を覚ました。見ると、母親が目の前に立って、彼女の肩を掴んで揺らしていた。

第2章

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールの家は市場の一角に建っていた。ベランダでは金工の金槌が音を立て、部屋の中では仕立て屋の針がせわしく動いていた。目の前のニームの木の下では、大工がチャールパーイー(インド式ベッド)を作っていた。瓦屋根にはお菓子屋のために釜戸が造られていた。各客人のために宿舎が用意されており、1人につきひとつずつ、チャールパーイー、椅子、机が行き届くように手配されていた。また、3人の客人に1人ずつカハール(小間使いカースト)を置く計画も立てられていた。バーラート(花婿側招待客)が来るまでまだ1ヶ月あったが、準備はもう始まっていた。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは、招待客たちをグゥの音も出ないぐらい満足させるようなもてなし方をしよう、今まで参加した結婚式を忘れてしまうぐらいの思い出深いものにしようと息巻いていた。チャーイ(紅茶)のセット、軽食用の小皿、大皿、小壺、グラスなど、食器で家が一杯になるほどだった。

 いつも寝台に横たわってフッカー(水タバコ)を吸っていた人たちは、生まれ変わったように精力的に仕事をしていた。これを逃したら、自分の働き振りを示す機会はすぐには来ないだろう!1人の人手で足りる場所に、5人が走る有様だった。仕事は多くなかったが、騒動は絶えず繰り返された。大したことのない話のために何時間も口論が続き、最後にウダイバーヌ・ラールが出て来て決着を付けなければならなかった。1人が「これはよくない」と言うと、もう1人は「これよりいい物がもし万一市場で手に入ったら負けを認めよう」と言い返す。1人が「このギー(純油)から悪臭がする」と言うと、もう1人は「お前の鼻がおかしいんだ、お前にギーの何が分かる。ここに来て初めてギーを見たくせに、そうでなけりゃギーなんてお目にかかることなんてなかったろう」と言い返す。このように口論は激化し、ウダイバーヌ・ラールがいさかいを仲裁しなければならなかった。

 夜の9時だった。ウダイバーヌ・ラールは家の中で出費の推算をしていた。彼はほぼ毎日計算をしていたが、毎日何らかの変更をせざるをえなかった。その前ではカリヤーニーが眉間に皺を寄せて立っていた。しばらくして、彼は顔を上げて言った。「1万ルピー以下にはならないだろう、いや、多分それ以上になるだろう。」

 カリヤーニー「10日で5千ルピーから1万ルピーになったわ。1ヶ月後には10万ルピーまで膨れ上がってしまうでしょうね。」

 ウダイバーヌ「仕方ない、世間の笑いものになるのは御免だ。もし万一何か不平不満が出たら、人々は口々に噂するだろう、名は大きいくせに実は小さい、とね。花婿側はダウリーを受け取らないと言ってくれてるんだ、なら客人の精一杯のもてなしをして何も文句を言わせないようにするのは私の義務だよ。」

 カリヤーニー「ブラフマー神(創造神)がこの世界を創造して以来、誰が今日までバーラートを満足させられたことがあると言うんですか?バーラートは、粗探しをして何か不満を口にするためにいるようなものよ。自分の家では粗末なローティー(インド式パン)すら口にしてない貧乏人でも、バーラートに加わった途端、暴君になってしまうものよ。油からいい香りがしない、この安物の石鹸どこから拾って来たのか、小間使いが話を聞かない、ランタンから煙が出てる、椅子がカタカタする、チャールパーイー(インド式ベッド)の網が緩い、ジャンワーサー(花婿側参列者用部屋)に風が入らない、あれこれ何千もの不平不満が出て来るものよ。あなたはそれをどこまで穴埋めするつもりですか?もしこれらの不満を何とかできたとしても、今度は別の欠点を見つけるでしょう。あれ、この油は売春婦用のものだ、ワシらは普通の油が欲しいんだ、この石鹸は何だ、金持ち振りを見せびらかしやがって、まるでワシらが石鹸を見たことないと思ってるんじゃないか、これは小間使いじゃない、閻魔の使いだ、振り向けばそこにいやがる、このランタンは眩し過ぎるぞ、もし数日灯りを点けてたら目が潰れちまいそうだ、ジャンワーサーはどうなってる、まるで乞食の家みたいに四方から風が吹いて来るぞ。もう、お願いですから、バーラートのことに気を揉むのはやめて下さいな。」

 ウダイバーヌ「結局お前は私に何が言いたいんだ?」

 カリヤーニー「さっきから言ってますように、5千ルピー以上の出費はしないと心に決めて下さい。家はもうスッカラカンです、後はもう借金するしかないですよ。一生費やしても返しきれないほどの借金をどうして作る必要がありますか?私や子供たちのことも考えて下さい、子供たちのために何か残しておかないといけないでしょう。」

 ウダイバーヌ「お前は口を開けばそのことばかり言う。」

 カリヤーニー「何も間違ったことは言っていません。皆いつか死ぬんです。誰も不死身じゃありません。目を閉じるだけでこれから起こることを避けることはできません。毎日私は、父親を失った子供たちが路頭に迷っているのを見てます。誰が好きこのんでこんなことするの?」

 ウダイバーヌは怒って言った。「なら、ワシの死ぬときが来たと言うんだな、それがお前の予言なんだな!結婚の日から女の心は退屈しないと聞いてはいたが、今日は新しい話を聞いた。未亡人になるのに喜びを感じる奴がいるとはな!」

 カルヤーニー「世間の何を言ってもあなたは悪いように受け取るのね。まるであなたは私のことを、あなたのローティーに頼って生きてる哀れな存在だと思ってるみたい。何か話をするとあなたはすぐに怒るわ。まるで私を家の下女か何かで、食べ物と衣服の関係だけだと思ってるみたいね。湯水のようにお金を使って、誰にも文句を言わせず、酒と食べ物にお金を費やしても、誰にも口を開かせないつもりね。でもその全てのつけは、私の子供たちに回ってくるのよ。」

 ウダイバーヌ「それじゃあワシはお前の奴隷か?」

 カリヤーニー「それじゃあ私はあなたの奴隷なの?」

 ウダイバーヌ「女の手の平の上で踊る男は他にいるだろう。」

 カリヤーニー「男に踏みにじられても黙って耐える女は他にいるでしょう。」

 ウダイバーヌ「金を稼いでるのはワシだ、ワシは好きなように金を使うことができる。誰にも文句を言われる筋合いはない。」

 カリヤーニー「それならあなたが家事をして下さい、私はもうこんな家たくさんです。私の居場所すらないんですから。家の中ではあなたと私には同じだけ権限があります。私はあなたより微塵も小さな存在じゃありません!あなたが自分のことを王様と考えてるなら、私は女王です。あなたは自分の家でくつろいでて下さいな、私は自分の面倒は自分で見ます。子供のことは生かそうが殺そうがどうとでもして下さい。もう関係ないから、悲しくもありません。目が覚めました。」

 ウダイバーヌ「お前がいなければワシは何もできないとでも思ってるのか?ワシは1人でこんな家、何十軒でも養うことができるぞ。」

 カリヤーニー「誰が!もし1日でもこの家をこのままにできたら、そのときに私を笑って下さいな。」

 カリヤーニーはそう言いながら顔を紅潮させ、急に立ち上がると戸口の方へ向かった。ウダイバーヌは裁判においては駆け引きの妙に長けていたが、女性の心理については理解が足りなかった。男というのは年を取っても子供のままなのだ。もしここで彼が冷静になってカリヤーニーの手を取って座らせていれば、彼女は留まることもあっただろう。しかし彼はそういうことをしなかったばかりか、火に油を注ぐようなことをしてしまった。彼は、「実家にでも戻るつもりか?」と言った。

 カリヤーニーは戸口で立ち止まり、赤い目で夫の方を睨みつけると、がなり立てた。「実家の人たちとはもう縁はないし、私はあの人たちの情けにすがるほど落ちぶれてもいないわ。」

 ウダイバーヌ「じゃあどこへ行くつもりだ?」

 カリヤーニー「あなたにそんなこと聞かれる筋合いはありません。神様は全ての生き物のために住家を与えて下さっています。私の居場所もどこかにあるわ。」

 カリヤーニーはそう言って部屋の外に出た。庭に出ると、彼女はふと空を見上げた。その様子はまるで、空の星たちに、自分がどんなに残酷な状況の下に家から追い出されようとしているのかを訴えかけているかのようだった。時刻は夜の11時過ぎだった。家は静寂に包まれていた。2人の息子の寝台は彼女の部屋に置いてあった。彼女は自分の部屋に入ると、チャンドラバーヌが寝ているのを見た。末っ子のスーリヤバーヌは寝台の上に座っていた。母親を見ると言った。「お母ちゃん、どこ行ってたの?」カリヤーニーは遠くから答えた。「どこにも行ってないわ、お前のお父ちゃんのとこにいたのよ。」

 スーリヤバーヌ「お母ちゃんが行っちゃったから、僕、1人で怖かったよ。お母ちゃん、どうして行っちゃったの?ねえ?」

 そう言ってスーリヤバーヌは抱擁を求めて両腕を広げた。カリヤーニーは自分を止めることができなかった。母性愛という名の大河の氾濫に、彼女の燃え盛った心は水浸しになってしまった。心に育まれていたしなやかな樹は、怒りの炎に一旦しおれてしまったが、再び青々とした色を取り戻した。彼女は目に涙を浮かべながら子供を胸に抱いて言った。「お前はどうして私を呼ばなかったんだい?」

 スーリヤバーヌ「呼んだけど、お母ちゃん聞いてくれなかったんだよ。もうどこにも行かないでね。」

 カリヤーニー「ええ、もうどこにも行きませんよ。」

 カリヤーニーはそう言ってスーリヤバーヌを抱きながら寝台に横になった。母親の胸に抱かれた子供は、安心してすぐに寝入ってしまった。カリヤーニーは心の中で考え始めた。夫の言葉を思い出すと、三行半を突きつけてすぐにでも家を出てやりたい気持ちでいっぱいだった。しかし子供の顔を見ると、母性愛で胸がいっぱいになるのだった。子供を誰に預けて行けばいいの?私のかわいい子供たちを誰が育てるの、誰のものになってしまうの?誰が毎朝子供たちに乳を飲ませたりハルワー(お菓子の一種)を食べさせたりするの、誰が子供たちを寝かしたり起こしたりするの?そう考えると彼女は、子供たちのために何でも我慢しよう、不名誉も罵声も叱責も全てを子供たちのために甘んじて受け容れよう、という気持ちになるのだった。

 カリヤーニーは子供を抱いて寝てしまったが、旦那の方はなかなか寝付けなかった。心に突き刺さった言葉を忘れるのはとても難しいものだ。全くなんて女だ!まるでワシがあいつの女房みたいじゃないか。言い返す暇もありゃしない。今日からワシがあいつの奴隷になれってか?家族みんなを追い出して、家に1人で住むつもりなんだろう。馬鹿にしてやがる。ワシが死んだ後は1人でのんびり暮らそうと考えてるに違いない。思ったこと何でも口にしやがって。放っておけばいい気になりやがってガミガミ怒鳴ってばっかだ。きっと実家に戻ったに違いない。だが、誰も何が起こったか聞かないだろう。今頃歓迎されてるに違いない。だがしばらく居座っていればその内厄介者扱いされるだろう。そして泣きながら帰って来るだろう。なんて高慢な女だ、自分だけが家を支えていて、4日でもいなくなったらワシが根を上げるとでも思ってるのだろう。一度あいつの鼻をへし折ってやらなきゃいかん。そうだ、あいつに一度未亡人の楽しみを味わわせてやろうじゃないか。ワシを平気で罵るあの度胸がどうなるか見ものだ。あいつには愛情のかけらもないのか、それとも、いくら罵ってもワシが家から逃げ出さないとでも思ってるのだろう。多分そうだ、だがワシは家族に束縛されるような男なんかじゃない。あんな奴の世話にならなきゃならんのなら、こんな家なんて地獄に堕ちてしまえばいいんだ!こんなの家じゃない、地獄だ!男は外で働き、疲れ果て、ゆっくり休むために家に帰って来るんだ。それなのにこの家じゃ休息の代わりに罵声を浴びせかけられる。ワシの死を願ってみんな断食してやがる。これが25年間の結婚生活の成れの果てだ。もう嫌だ、家を出よう。あいつの高慢ちきな鼻がへし折れて頭が冷えるのを見るまではワシは戻って来ないようにしよう。なぁに、4、5日のことさ。そうすればあいつにも、誰のおかげで生きてられたのかが分かるだろう。

 バーブー・ウダイバーヌは立ち上がると、絹のショールを首に巻き、いくらかの現金を持ち、自分の身分証を取り出して別のシャツのポケットに入れ、杖を取って外に出た。使用人たちは皆、深い眠りに就いてた。犬は物音に気付いて立ち上がり、彼の後を付け出した。

 しかし、これが運命の悪戯の始まりだと誰が知っていただろう。人生劇場の非情な語り部は、どこか秘密の場所に座ってこの複雑で残酷な遊戯を淡々と語っていた。演技が本当になり、嘘が真実になりつつあることに、このとき誰が気付いていただろう。

 夜は月を打ち負かして自分の帝国を築き上げていた。夜の率いる悪鬼の軍勢は自然に攻撃を加えていた。正義は顔を覆って隠れ、悪は勝利に酔って練り歩いていた。森では獣たちが獲物を求めてさまよい歩き、町では悪鬼たちが路地をうろつき回っていた。

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールは早足でガンガー河の方へ向かっていた。彼は、自分の上着を河畔に置いて、5日間の旅程でミルザープルへ行こうと考えていた。ワシの服を見れば、ワシは入水自殺してしまったのだと誰もが信じることだろう。上着のポケットにはワシの身分証が入れてある。身元確認もこれで問題ないだろう。きっとたちまちの内に街中に知れ渡ることだろう。朝8時には街中の人々がワシの家の前に集まって来ることだろう、そのときあいつがどんな顔をするか、見ものだ。

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールはそう考えながら路地を歩いていた。ふと、彼は背後に何者かの気配を感じた。多分誰か他に歩いている人がいるのだろう、と考え、そのまま気にせず歩いていたが、角を曲がると、背後の人影も同じ方向に曲がることに気付いた。ウダイバーヌ・ラールは誰かに尾行されているかもしれないと思い始めた。どうも嫌な予感がした。彼はとっさに携帯用のランタンを取り出し、背後に光を向けた。すると、一人の屈強な男が肩に棒を担いで歩いていた。ウダイバーヌ・ラールは彼の姿を見て恐怖で身がすくんでしまった。それは街でも鳴り物入りの悪党だった。3年前、その男は強盗の罪で裁判にかけられたことがあった。ウダイバーヌ・ラールはその裁判で政府側の弁護人を務め、その悪党を3年の禁固刑に処させた。そのときからその悪党はウダイバーヌ・ラールの命を狙っていたのだった。彼は昨日、刑務所から出てきたばかりだった。今日たまたまウダイバーヌ・ラールが夜中1人で出歩いているのを見つけ、借りを返すのにちょうどいい機会だと考えたのだった。おそらくこんないい機会は二度と巡って来ないだろう。すぐさま後を付け、今にも襲い掛かろうとしていたときに、ウダイバーヌ・ラールがランタンの光を向けたのだった。悪党は少し戸惑いながらも言った。「どうした旦那、オレを覚えてるかい?オレだよ、マタイーだよ。」

 ウダイバーヌ・ラールは叫んだ。「お前、ワシの後をどうして付けて来た?」

 マタイー「なにか、道を歩いちゃいけないってのかい?この路地はお前の親父のもんだってのかい?」

 ウダイバーヌ・ラールは若い頃、相撲をやっていたので、今でも筋骨たくましい体つきをしていた。心も臆病ではなかった。杖を握り直して言った。「まだおそらく刑務所暮らしに満足していないみたいだな。今度は7年ぶちこんでやるぞ。」

 マタイー「7年だろうが14年だろうが関係ない、確実なのは、オレがお前を生かしちゃおかねぇってことだけだ。そうだな、もしお前がオレの足元にひれ伏して、もう誰もブタ箱にぶちこまないと誓ったら、許してやってもいいぜ。どうだ、誓うか?」

 ウダイバーヌ「お前はまだ懲りてないと見えるな。」

 マタイー「オレは懲りちゃいないさ、今度はお前が懲りる番だ。さあ、答えろ、誓うか?ひと〜つ!」

 ウダイバーヌ「どこかに失せろ、さもないと警察を呼ぶぞ?」

 マタイー「ふた〜つ?」

 ウダイバーヌ「目の前から消えてなくなれ、悪党め!」

 マタイー「みっつ・・・」

 「みっつ」の声がした途端、ウダイバーヌ・ラールの脳天に棒が振り下ろされ、彼は気を失って地面に倒れてしまった。口からはただ、「ハーエ!叩きやがった!」としか声が出なかった。マタイーが近寄って見ると、頭は割れ、血が吹き出ていた。既に脈は止まっていた。マタイーはやり過ぎてしまったと悟った。彼は手首から金の腕時計を外し、上着から金のボタンを外し、指から指輪を外すと、まるで何事もなかったかのように来た道を引き返した。ただその前に、彼は遺体を道の真ん中から引きずって隅に寄せるくらいの憐れみは見せた。

 何てことだろう!哀れなウダイバーヌ・ラール、何を考えて家を出て、一体どうなってしまったのだろう。人生より空虚なものがこの世にあるだろうか?人生とは、風のひと吹きで消えてしまう灯りのようなものではないだろうか?水の泡は消えるまでに少しの間だけこの世に存在するが、人の一生にはそれだけの猶予もない!余命にどれだけの信頼を置くことができようか、それなのに我々はこの無常の人生の中でどれだけ多くの夢を築き上げることだろう?吸い込んだ息が吐き出されるかどうかも分からないのに、我々はまるで自分が不老不死であるかのように遠く未来のことまで考えを巡らせているものだ!

第3章

 未亡人の嗚咽と、後に残された子供たちの泣き声を聞かせて読者の心を悲しませるようなことは遠慮しておこう。不幸に陥った人々が泣き、嗚咽し、悶絶するのは何も今に始まった話ではない。もし読者が望むなら、カリヤーニーの精神的苦痛を少しだけ垣間見てみることにしよう。彼女は、自分の生活の支えだった夫を殺した張本人は自分であるとの自責の念に駆られていた。怒りに任せて自制を失った口から飛び出た言葉は、今では彼女の心に矢のように突き刺さっていた。もし夫が自分の胸の中でうめきながら息を引き取ったならば、自分は義務を果たしたと満足したことだろう。悲しみに沈んだ心にとって、それ以上に慰めになることはない。夫が死ぬ間際に心に愛情を満たしながら、自分に満足して死んでいったならば、妻にとってそれほど嬉しいことはない。カリヤーニーはその満足を得ることができなかった。彼女は考えていた――ああ!私の25年間の献身は水の泡になってしまった。私は最期に夫の愛から遠ざかってしまった。もしあの人にあんな厳しいことを言わなかったら、あの人は絶対に真夜中外に出るようなことはなかったでしょう。あの人は一体何を考えていたんでしょう?夫の心情を思い描き、自分の過ちを自分に押し付けながら、彼女は四六時中沈み込んでいた。あれほど子供たちに愛情を注いでいたカリヤーニーだったが、今では子供たちの姿を見るだけで激昂していた。子供たちのせいで私は自分の夫と口喧嘩する羽目になってしまった、子供たちは私の敵だわ。かつては役所のように人の行き交いが激しかった彼女の家は、今ではすっかり砂塵が飛び交っていた。全てが変わり果ててしまった。食べさせる者がいなかったら、食べる者はどうして暮らせようか?1ヶ月の内に、1人、また1人と、同居していた親戚は去って行ってしまった。水の恩は血で返すと口にしていた人々は、後ろも振り返らずに一目散に逃げ出してしまった。世界は全く変わってしまった。目に入れても痛くなかった子供たちの顔には、今ではハエがたかっていた。一体あの愛情はどこへ消え去ってしまったのだろう!

 悲しみが幾分和らいだ頃、ニルマラーの結婚が問題となって浮上した。今年中の結婚はやめておくべきだという意見を言う者がいた。カリヤーニーは言った。「これだけ時間をかけて準備してきたのに、今頃になって結婚を中止したら、今までの努力が無駄になってしまうわ。それに来年になったらまた同じ準備をしないといけないし、そんなことする余裕がそのときあるかも分からないわ。結婚はこのままするべきです。何も先延ばしする理由なんてありません。招待客のもてなしのための材料はもう準備してしまったし、延期にでもなったら大損です。」そして、花婿の父親のバールチャンドラに、訃報と共にその内容の伝言も送った。カリヤーニーは手紙の中に、「どうかこの父親を失った娘にお情けをかけて下さい、そして沈みつつある舟を岸まで渡して下さい。夫はこの結婚を楽しみにしておりましたが、神様は別のことをお考えだったようです。今、私の名誉はあなた1人にかかっております。娘は既にあなたのものです。私はあなたたちのお世話ができるのを自分の幸運だと思っております。けれども、もし、おもてなしに何か不足や手違いがありましたら、私の窮状に免じましてお許し下さるようお願い申し上げます。私は、あなたがこの哀れな娘に追い討ちをかけるようなことはしないと存じ上げております」と書いた。

 カリヤーニーはこの手紙を送るのに郵便は使わず、プローヒト(家庭付きの僧侶)に託して言った。「ご足労をかけて申し訳ありませんが、あなたがご自分で行ってこの手紙を渡して下さい。そして私の方から、結婚式の参列者をなるべく少なくするように頼んで下さい。うちにはもうそんな人手はいませんから。」プローヒトのモーテーラームはこの伝言を持って3日後にラクナウーに到着した。

 夕方だった。バーブー・バールチャンドラは、応接間の前で長椅子に丸裸で横たわって水タバコを吸っていた。彼は、長身で真っ黒な肌の色をした男だった。まるで大黒天か、またはエチオピアから連れて来られた黒人のようだった。頭の先から爪先まで黒一色だった。その顔の黒さは、額がどこで終わって頭がどこから始まるのか分からないほどだった。その姿はまるで炭が生き物になったかのようだった。そして彼は非常に暑がりだった。2人の召使いが扇を扇いでいたが、それでも汗の流れが止まることはなかった。彼は酒類取締局の重要な役職に就いており、毎月600ルピーの給料を得ていた。それに加え、酒屋から莫大な賄賂を受け取っていた。酒屋が酒の名のもとに水を売っても、24時間営業していても、バーブー・バールチャンドラの機嫌を伺っている内は何の問題もなかった。全ての法律は彼の享楽のためにあった。

 月夜の晩に彼を見た者は誰でもギョッとしてしまうほど、バーブー・バールチャンドラの形相は恐ろしかった。子供や女性はもとより、男であっても震え上がってしまうほどだった。月夜の晩、とわざわざ言ったのは、暗い夜には闇と一体化して見えなくなってしまうからである。ただ唯一、目だけが赤かった。信心深いイスラーム教徒が毎日5回礼拝をするように、バーブー・バールチャンドラは毎日5回酒を飲んでいた。ただで酒が飲めるのは役人の特権だが、その上彼は酒類取締局の局員なのだから、どれだけ飲んでも彼を捕まえる者はどこにもいなかった。喉が渇くと酒を飲んでいた。色には同系色があれば、対照色もある。目の赤色のおかげで、彼の黒肌はさらに恐ろしさを増していた。

 バーブー・バールチャンドラは、モーテーラームを見るや否や椅子から立ち上がって歓迎した。「あれ!あなたですか?さあ、来て下さい。よく来てくれました!おい、誰かいるか?どこへ行っちまったんだ、みんな!ジャグルー、グルディーン、チャカウリー、バヴァーニー、ラームグラーム、誰かいるか?みんな死んじまったのか?おい、ラームグラーム、バヴァーニー、チャカウリー、グルディーン、ジャグルー!誰も返事をしやしねぇ、みんな死んだんだ。十何人もいるのに、大事なときにゃ1人も姿を現さねぇ、一体みんなどこに消えちまったんだ。誰でもいいから椅子を持って来い!」

 バーブー・バールチャンドラは5人の名前を何度も繰り返したが、扇を扇ぐ2人の内の1人に椅子を持って来させることはなかった。3、4分後、1人の片目の男が咳き込みながらやって来て言った。「旦那様、こんな安賃金の仕事、腹の足しにもなりゃせん。どれだけ借金して食いつないでくのか!もう借金しても何も感じなくなっちまいました。」

 バールチャンドラ「つべこべ言わずに椅子を持って来い!何か仕事を言いつけると、すぐに泣き言わめきだしやがる。・・・それで、パンディトジー(僧侶に対する敬称)、向こうはみんな元気ですか?」

 モーテーラーム「何と言ったらいいのか、旦那様、誰が元気なものですか?家族は皆、地に堕ちてしまいましたよ。」

 そう言いかけたとき、先ほどの男が壊れかけた松材の箱をひとつ持って来て置き、言った。「椅子も机もワシの力じゃあ持ち上がりませんでした。」

 モーテーラームは恥じ入りながら、箱が壊れないかと恐る恐る腰を下ろした。そしてカリヤーニーの手紙を旦那に手渡した。

 バールチャンドラは、「もうこれ以上地に堕ちることがあるでしょうか?これより悪い不幸が他に起こるでしょうか?バーブー・ウダイバーヌ・ラールは私の古い友人でした。あれは人じゃない、宝石だ。なんて優しくて、なんて勇気のある人だったんでしょう」と言って目を拭い、さらに続けた。「私にとっては右手を失ったようなものです。信じて下さい、その訃報を聞いてからというものの、私の目の前は真っ暗になってしまいました。食べようとしても何も喉を通らないんです。彼の姿が四六時中目に浮かぶんです。口はもう何も受け付けなくなってしまいました。仕事も手につきません。兄弟が死んだとき以上の悲しみです。人じゃない、全く宝石でした。」

 モーテーラーム「旦那様、街にもうあんな偉人はいませんよ。」

 バールチャンドラ「それは私がよ〜く知ってますよ、パンディトジー、この私に何を言ってるんですか!私ほど彼のことをよく知っていた人は他にいません。2、3回会っただけで、彼の信者になってしまったんです。そして死ぬまで信者でいることでしょう。どうかカリヤーニーさんに伝えてください、私がお悔やみを申し上げていた、と。」

 モーテーラーム「あなたからその言葉をお聞きできると思っておりました。あなたのような素晴らしい人に出会うことはなかなかできないでしょう。今どき誰がダウリーなしで結婚をしましょうか。」

 バールチャンドラ「モーテーラームさん、ダウリーの話をあのような真っ正直な人の前ですることなんてできませんよ。あの人と縁を結ぶことができるだけでも10万ルピーの価値があります。私はそれを自分の幸運だと思っています。ああ!なんて素晴らしい人だったのでしょう。あの人はお金にまったく無頓着な人でした、藁と同じように気にもかけていませんでした。何て悪い習慣でしょう、何て悪い!もし許されるなら、ダウリーを求める者も与える者も、両方を殺してしまいたい気持ちですよ、たとえ首吊りになったとしても!息子の結婚をさせてるのか、息子を売り払ってるのか、はっきりしてもらいたいですね。もし自分の息子の結婚式のためにお金を費やしたいなら、好きなように費やせばいいんですよ。ただし、何をするにも自分のお金で。花嫁の父親の胸倉を掴むような行為は許せません。卑劣な、非常に卑劣な行為です。もし許されるなら、この悪習をこの世からなくしてしまいたいと思っています。」

 モーテーラーム「なんと素晴らしいご意見で、旦那様!神様があなたに大いなる知恵をお授けになったに違いない。これはひとえに信仰の力でしょう!奥様は、結婚式の日取りはそのままにしたいとお考えです。他の諸々のことも手紙に書いてあります。今、あなたの手助けがなければ、我々は救われません。バーラート(花婿側招待客)のもてなしは私たちがいたしますが、今、状況は大きく変わってしまいました、旦那様、もてなしの主がいなくなってしまったのです。どうか、ウダイバーヌさんの名前に泥がつくようなことはなさらないで下さい。」

 バールチャンドラは1分間目を閉じて座っていた。そして長い溜息をつきながら言った。「神様は、このラクシュミー女神(富の女神;花嫁の比喩)が私の家にやって来ることをお望みにならなかったのでしょう。そうでなければこんな不幸、起きるでしょうか?全ての計画は水泡に帰してしまいました。めでたき日が近づいて来るたびに、喜びに胸を躍らせていましたのに、神様の間でこんな結末が決められていたとは、私は知りもしませんでした。亡くなってしまった人のことを思い出すだけで涙が出てきてしまいます。花嫁を見たら悲しみが蘇ってしまうでしょう。このような状態で私は何をすることができるでしょう。一度深い仲になった人のことが忘れられないのは、いいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。とにかく今でもあの人の姿が目の前から離れないのです。こんなときにあの娘が私の家にやって来たら、私は生きることが難しくなってしまいます。本当に、私の目は涙で潰れてしまうでしょう。泣くのは無意味だと分かっています。死んでしまった人はもう二度と戻って来ません。耐え忍ぶ以外に方法はありません。しかし私の心はすっかり弱ってしまいました。あの哀れな娘を見たら、私の心は破裂してしまうでしょう。」

 モーテーラーム「そんなことおっしゃらないで下さい、旦那様!ウダイバーヌさんがいなくても、あなたがいるではありませんか。今やあなたがあの娘の父親なんです。あの娘はもはやウダイバーヌさんの娘ではなく、あなたの娘なんです。あなたの気持ちを誰が理解するでしょうか。世間の人々は噂するでしょう、ウダイバーヌさんが死んでしまったから、あなたは約束を反故にした、と。そうなったらあなたの不名誉になります。気をしっかり持って、無邪気な少女の結婚をさせて下さい。確かに大きな不幸が起きてしまいました。数え切れないほどの困難が降りかかってきていますが、奥様はあなたたちのお世話をするのを楽しみにしているのです。」

 バーブー・バールチャンドラは、モーテーラームが頭でっかちの僧侶ではなく、行儀作法にも長けた人物であることを理解した。彼は言った。「パンディトジー、私は誓って言いますが、自分の娘以上にあの娘のことを愛しています。しかし、神様がお望みでないのに、私が何をすることができましょう?この死は、神様によって指し示された、いわゆる凶兆です。これは来たるべき困難の予言です。神様ははっきりと、この結婚は吉祥ではないとおっしゃっています。このような状況において、あなたも少し考えてみて下さい、不幸から始まったものがめでたく終わることがありえるでしょうか?いえ、訳もなくハエを飲み込むようなことは起こりえません。どうかカリヤーニーさんにこう伝えて下さい、私はあなたの命令に従う準備はできていますが、その結果は好ましくないでしょう、私は自分のわがままのために、親友の娘に対して酷い仕打ちをすることはできません、と。」

 この理屈に対してモーテーラームは返答することができなかった。バールチャンドラは、矢じりのない矢を放ったのだった。敵はモーテーラームの武器を使って彼を攻撃したのだった。そして彼はそれに反撃することができなかった。彼が答えを考えていると、バールチャンドラはまた召使いを呼び始めた。「おい!お前たち、どこに消えちまったんだ!ジャグルー、チャカウリー、バヴァーニー、グルディーン、ラームグラーム!1人も返事をしねぇ。みんな揃って死んじまった。パンディトジーのために水も持って来ねぇのか?一体こいつらにどこまで教えれば分かるんだ。言ったことのひとつも覚えやしねぇ。客人が遠くからくたくたになってやって来たのを見てるのに、誰も気にしねぇとはな。おい、飲み物持って来い!パンディトジー、あなたのためにシャルバト(甘い飲み物)を作らせましょうか、それとも果物のミターイー(お菓子)がいいでしょうか?」

 モーテーラームは、ミターイーについては何の禁忌も持っていなかった。彼の理論では、ギー(純油)によって全ての食べ物は浄化されるのだった。ラスグッラー(お菓子の一種)と、ベーサン粉(豆の粉)でできたラッドゥー(お菓子の一種)が大好物だった。しかしシャルバトは好みではなかった。飲み物で腹を膨らませるのは彼の信条にそぐわなかった。モーテーラームは遠慮しながら言った。「シャルバトは飲まないんです、ミターイーをいただきしょう。」

 バールチャンドラ「果物のミターイーですよね?」

 モーテーラーム「いえいえ、何でもお構いなく。」

 バールチャンドラ「そうですよね。浄不浄なんてみんなまやかしです。私もそんなことは信じていません。おい、まだ誰も来てないのか?チャカウリー、バヴァーニー、グルディーン、ラームグラーム、誰か返事しろ!」

 今回も例の年老いたカハール(小間使いカースト)が咳をしながらやって来て言った。「旦那様、ワシの給料をください。こんな仕事、もうこりごりですじゃ。どんだけ走り回ったことか?走って走って足が痛くなっちまいました。」

 バールチャンドラ「仕事しようがしまいが、給料だけは先に欲しがるんだな。一日中横になって咳き込んでるだけで、給料が上がると思ってるんだな。行って、市場から1アーナー(貨幣の単位;1/16ルピー)の新鮮なミターイーを買って来い!走って行け!」

 小間使いに命令を出した後、バールチャンドラは家の中へ入って妻に言った。「向こうからパンディトジーがやって来たぞ。この手紙を持って来た。ちょっと読んでみろ。」

 妻の名前はランギーリーバーイーと言った。白い肌をした明るい顔の女性だった。美しさと若さは彼女から別れを告げる時期に来ていたが、それらは30年間の友情を忘れられないかのように、なかなか彼女を離れずにいた。

 座ってパーン(噛みタバコ)を作っていたランギーリーバーイーは言った。「ちゃんと言ったでしょうね、私たちはあの家と結婚するのは反対だって。」

 バールチャンドラ「ああ、言ったさ、しかしためらいがあってなかなか言葉が出なかった。あることないこと屁理屈をこね回さなきゃならなかったよ。」

 ランギーリー「当然のことを言うのにためらう必要なんてある?私たちの返答は、結婚はしない、ということ。誰かから何か受け取ったわけでもないでしょう?しかも他の家から1万ルピーのダウリーがもらえる話が来てるのに、あの家と誰が結婚するものですか?あの家の娘が金でできてるわけでもないでしょうに。ウダイバーヌさんが生きてれば、こっそりと1、2万ルピーは出してたでしょう。でも今、あの家に何が残ってるって言うの?」

 バールチャンドラ「だからと言って、一言の言い訳もせずに約束を破るのはよくないだろう。誰も何も言わなかったとしても、名誉が汚されることは避けられない。しかしお前のわがままには参るよ。」

 ランギーリーバーイーはパーンを食べながら手紙を開き、読み始めた。バールチャンドラはヒンディー語が全く読めなかった。ランギーリーバーイーも本を読んだことなど一度もなかったが、手紙くらいは読むことができた。一行目を読むや否や彼女の目には涙が溢れ、手紙を読み終えたときには彼女の目から止めどもなく涙が流れ落ちていた。ひとつひとつの単語が悲哀の情に満ちていた。ひとつひとつの文字から失意が漏れ出していた。ランギーリーバーイーの心は石ではなく、ロウでできていた。小さな火でも溶けてしまうほど脆弱だった。カリヤーニーの憐憫の情溢れる文章は、彼女の高慢な心を溶かしてしまった。声を詰まらせながら彼女は言った。「まだパンディトジーはいるわよね?」

 バールチャンドラは妻の涙を見て焦っていた。妻に手紙を見せてしまったことを後悔していた。そんな必要なかったじゃないか?こんな失敗は今まで一度もしたことがなかった。口ごもりながら答えた。「まだいるかもしれんが、ワシは帰るように行ってしまったよ。」

 ランギーリーは窓から外を覗いた。モーテーラームはシラサギのように真剣な顔をして、市場の方を注視していた。空腹に苛立って、何度も何度も足を組み直していた。「1アーナーのミターイー」という言葉は、彼の期待を裏切るのに十分だった。その上、この遅れは何だ?居ても立ってもいられなかった。モーテーラームが座っているのを見て、ランギーリーは言った。「まだいるわ。すぐに行って伝えてちょうだい、私たちは結婚するって。可哀想に、カリヤーニーさんは不幸のどん底にいるわ。」

 バールチャンドラ「お前も時々子供のようなこと言い出すな。今さっきパンディトジーに結婚は無理だと言って来たんだ。そのために長い長い話を言って聞かせたんだぞ。今さらそんなことを言ったら、パンディトジーが心の中でどう思うか、考えてもみろ。これは結婚なんだ。子供の遊びじゃない。一度言ったことをすぐさまやすやすと変えるわけにはいかないんだ。気まぐれでものを言うんじゃない!」

 ランギーリー「分かったわ、あなたは言わなくていいわ。あのパンディトジーを私のところへ呼んでちょうだい。私が、あなたの言ったことも私の言ったことも筋が通るように話をするから。それならいいでしょう?」

 バールチャンドラ「お前は、自分以外はみんな間抜けだと考えてるのか?お前が言おうがワシが言おうが、同じことだ。一度決まったことはもう変えられないんだ。ワシはもうこの問題を口にしたくない。あの家と結婚したくないと何度も何度も言っていたのはお前だろう。お前のせいで、ワシは約束を破らなきゃならなくなったんだ。それなのに今頃になってお前は心変わりしてやがる。それはワシに向かって豆を投げつけるようなもんだ。ワシの名誉不名誉について少しは考えるべきだ。」

 ランギーリー「未亡人がこんなにも憐れなものだと私は知らなかったのよ。あなたが言ってたじゃない、カリヤーニーさんは旦那の全ての財産を隠し持っているのに、貧乏の振りをしてうまく事を運ぼうとしているって。あの人は素晴らしい女性だわ。私はあなたの言ったことを鵜呑みにしただけよ。いい返事をした後に悪い返事をするなら、恥とためらいがあって然るべきだわ。でも悪い返事をした後にいい返事をするのに何をためらう必要があるの?もしあなたが結婚を承諾して来て私がそれを拒否するように言ったなら、あなたのためらいは正しいでしょう。でも、結婚は無理だと言った後にやっぱりできると言うのは寛大なことだと思うわ。」

 バールチャンドラ「お前は寛大さを知っていて、ワシは悪行しか知らないってことか。しかもお前は、ワシがあの弁護士の女房について言ったことが嘘だとどうやって知ったんだ?この手紙を見てか?お前は自分と同じように他の人間もみんな単純だと思ってるみたいだな。」

 ランギーリー「この手紙は作り話とは思えないわ。作り話は心に突き刺さりはしないもの。作り話には、偽物のにおいが絶対にするものよ。」

 バールチャンドラ「作り話は、本当の話がつまらなく思えるほど心に突き刺さるもんだ。お前を何時間も泣かせるような小説を書く小説家の奴らが、本当の話を書いてるとでも思ってるのか?最初から最後まで嘘を並べ立ててるだけだ!ひとつの詐欺さ。」

 ランギーリー「そんなに怒って、まるで産婆を見て腹を隠してるみたいね。あなたの言うことを私が素直に聞いたら、私をだまくらかしたとでも考えるんでしょう。でも私はあなたのことなんて全部お見通しだから。あなたは自分の間違いを私になすりつけて、自分は無傷でいようと考えてるんでしょう、どう、図星でしょう?ウダイバーヌさんが生きてたときには、どうせ何も言わなくてもよかれと思うだけ出すだろうから、ダウリーの金額を決定する必要なんてない、あわよくば金額を決めるよりも多くのお金がもらえるだろうって考えてたんでしょう。ウダイバーヌさんが死んでしまったら、急いであれこれ言い訳を考え始めて。それは寛大でも何でもなく、卑劣な行為よ。その罪は全てあなたにあるわ。私はもう結婚のことは関与しないから、あなたがしたいようにすればいいわ。私はずるい人間が一番嫌い。いい話でも悪い話でも、話をするときは正々堂々とするべきだわ。象の牙だけ見せておいて、食べさせるものは別、という振る舞いは、あなたのためにもならないでしょう。さあ、あの家と結婚するつもりなの、どうなの?」

 バールチャンドラ「ワシは不正直者で裏切り者で嘘つきってわけか、そんなワシに何を聞くか!それにしてもお前は男のことを何でも知ってるんだな。お前の知識には頭が上がらないよ。くわばらくわばら。」

 ランギーリー「まぁなんて腰が低いこと、それでもまだ恥じ入ってないみたいね。正直に言いなさいよ、私の言ったこと図星かどうか!」

 バールチャンドラ「分かった分かった、今までワシは、男のことをよく理解しているのは売春婦だけで、普通の女の考えることはとても視野が狭いと思っていたが、今日、偉人たちが女のことについて言ったことを受け容れないといかんと思い始めたよ。」

 ランギーリー「あら、ちょっと鏡で自分の顔を見てみて!どれだけ恥じ入っているか、一目見てごらんなさいよ。」

 バールチャンドラ「そうか、そんなに恥じ入って見えるか?」

 ランギーリー「まるで聖人が泥棒して捕まったときの表情ぐらい、恥じ入ってるわ。」

 バールチャンドラ「そうか、ワシがどれだけ恥じ入ってるかはどうでもいい、だがあの家との結婚はしない。」

 ランギーリー「私に構わず、好きなようにして下さい。でも、ブヴァンに一度聞いてみたらどうかしら?」

 バールチャンドラ「それはいい考えだ。ブヴァンが決めればいい。」

 ランギーリー「でも口出ししちゃいけないわよ。」

 バールチャンドラ「分かってるさ、ワシは黙ってるだけだ。」

 そのときちょうど、ブヴァンモーハンがやって来た。彼ほどハンサムで体格のいい若者は、大学にも他にほとんどいなかった。完全に母親似であった。母親と同じ白く明るい肌、母親と同じバラの葉のような細い細い唇、母親と同じ小さな額と大きな目、ただ体格だけが父親似であった。長いコート、ネクタイ、ブーツ、帽子がとても似合っていた。手にはステッキを持っていた。その足取りは若さを誇り、目は自尊心に満ちていた。ランギーリーは言った。「今日は遅かったじゃない。ほら、お前の花嫁の家からこんな手紙が来たよ。お前の嫁の母親が書いたのよ。正直に言いなさい、まだ何とかなるから。お前はこの家との結婚に満足かい?」

 ブヴァン「結婚すべきだとは思うけど、僕はしたくない。」

 ランギーリー「どうして?」

 ブヴァン「どこかお金がたくさんもらえるところと結婚させて欲しい。10万ルピーもらえるならそこがいい。今、あの家には何もないよ!ウダイバーヌさんは死んでしまったし、あの婆さんの手元に何が残っていると言うの?」

 ランギーリー「お前はそんなこと言って恥ずかしくないのかい?」

 ブヴァン「恥ずかしがる理由なんてないよ。お金には何の害もない。10万ルピーものお金、10万回生まれ変わっても稼ぐことはできないだろう。今年大学に受かったら、少なくとも5年はお金を稼ぐことができない。卒業後は、2、300ルピーの月給で働くことになる。そして給料が5、600ルピーまで上がったときには、僕の人生の4分の3は過ぎてしまっている。つまり、もう二度とまとまったお金を手にする機会はやって来ない。これでは少しも人生を楽しむことができない。もし金持ちの娘と結婚することができたら、人生は安泰でしょ。僕は多くを望まないから、10万ルピーのお金がもらえる家と結婚するか、もしくは大金持ちの未亡人の一人娘と結婚したいな。」

 ランギーリー「どんな女の子でもいいのかい!」

 ブヴァン「富は全ての欠点を覆い隠すものだよ。僕はどんな悪口も気にしない。よく乳を出す牝牛の蹴りを悪く思う人はいないように。」

 バールチャンドラは得意気になって言った。「ワシらはあの家族に同情しているし、神様がこんな不幸に貶めたことを悲しく思う。だが、何事も理性を働かせて決めなきゃいかん。ワシらがどんなに同情しても、バーラートは大勢来るだろう。だがあの家は食べ物の用意すらおぼつかない有様だ。食べ物がなかったらみんなに笑われるだろう、そして惨めな結果に終わるだろう。」

 ランギーリー「あなたたち、父親も息子もお金のことしか目にないのね。2人ともあの貧しい少女にナイフを投げつけるのに何のためらいもないのね。」

 ブヴァン「貧乏人は、貧乏人と結婚するべきだよ。きちんと自分の立場をわきまえて・・・」

 ランギーリー「黙りなさい、お前こそ立場をわきまえなさい!どこの金持ちの御曹司になったの?誰かが戸口まで来たら、一杯の水を出すのは当然よ。全く何様のつもり!?」

 ランギーリーはそう言って立ち上がり、食事の支度をしに行ってしまった。

 ブヴァンモーハンは微笑みながら自分の部屋に入った。バールチャンドラは髭を整えながら外に出て、モーテーラームに最終決断を知らせようとした。ところがモーテーラームはどこかへ消えてしまっていた。

 モーテーラームはしばらくの間、カハールが帰って来るのを待っていた。だが、なかなか帰って来ないので、我慢ができなくなってしまった。彼は、こんなところに座っていても何も変わらない、何かしないといけない、自分の運を信じてここに座り続けていたら、空腹で餓死してしまう、と考えた。ここではワシの目的は達成されない!モーテーラームは黙って杖を取ると、カハールが行った方向へ歩いて行った。市場は少し遠かったが、すぐに辿り着いた。見ると、老いたカハールは菓子屋に座ってチラム(煙管)を吸っていた。彼を見つけると、モーテーラームは馴れ馴れしく話しかけた。「まだ何もしてないのか?旦那が家で、どっかで寝てるのか、それとも椰子汁でも吸ってるのかって怒ってたぞ。ワシは、『旦那様、そうじゃないでしょう、もう老人ですし、そろそろ来ることでしょう』って言っておいたぞ。あんたも本当に変な人だ。あんな人のところでよく働けるなぁ。」

 カハール「ワシを除いて他に誰も長続きしたことなんかありゃせんし、誰も長続きせんじゃろう。1年間給料をもらってないし、旦那は誰にも給料を払わないんじゃ。給料を求めたらすぐにお冠じゃし、みんな仕事をおっ放り出して逃げちまうんじゃ。扇を扇いでたあの2人は、政府の使用人じゃよ。政府から2人の使用人が手に入ったもんだから、のんびり暮らしてるんじゃよ。ワシも長いものに巻かれて過ごしてるんじゃ。10年経ったけど、このまんま1年2年また過ぎるでしょうな。」

 モーテーラーム「ということは、お前1人なのか?何人も他のカハールの名前を呼んでたじゃないか。」

 カハール「みんなここ2、3ヶ月の内に来て、辞めてった奴らですよ。旦那は威厳を見せるために今でも辞めた奴らの名前を呼んでるんですじゃ。どっかにいい働き口があるなら、すぐ行きますよ。」

 モーテーラーム「ああ、いっぱい仕事があるぞ。今の世の中、カハールを見つけるのは難しくなってしまった。お前は経験豊かに見える。お前なら仕事に困らないだろう。ここなら若いもんもいないだろう。旦那はワシに聞いて来たよ、『夕食はキチュリー(豆ご飯)にしましょうか、バーティー(炭火焼のパンケーキ)にしましょうか』って。ワシはこう答えたよ、『旦那様、カハールはもうお年寄りです、夜中に私のためにご飯を作るのは辛いでしょう。私は市場で何か食べて来ます。どうかお構いなく』と。そうしたら旦那様は、『分かりました。きっと店にカハールがいるでしょう』と言ったよ。」そう言うと彼は菓子屋に向かって言った。「おやっさん、何かうまいもんあるかい?ラッドゥー(お菓子の一種)なんてうまそうじゃないか。1セール(約1kg)よそってくれ。上に上がろうかい?」

 そう言ってモーテーラームは菓子屋に座り込み、ラッドゥーを食べ始めた。そしてお腹いっぱいになるまで食べ続けた。2、3セールは平らげてしまった。食べながら、菓子屋の賞賛を惜しまなかった。「あんたの店の評判を聞いてたが、全くその通りだった。カラーカンド(お菓子の一種)は作れても、バナーラスのラスグッラーは真似できないと言うが、なかなかどうして悪くなかったよ。材料を放り込むだけじゃあいいものは作れない、知恵が必要なのさ。」

 菓子屋「もっと食べて下さいな、旦那!このラブリー(甘い濃縮ミルク)はサービスです、飲んで下さいな。」

 モーテーラーム「もう満腹だが、せっかくだ、1パーオ(約250g)だけくれ。」

 菓子屋「1パーオだけじゃ味が分かりませんよ。絶品ですから、半セール(約500g)飲んで下さいな。」

 モーテーラームは腹一杯食事をして、少しの間、その辺を散歩していた。9時になって店まで戻ってくると、もう店は閉まって静まり返っていた。ただランタンがひとつ燃えていただけだった。彼は適当な台に敷物を敷いて、横になった。

 朝になり、いつもの通り8時に目を覚ますと、バールチャンドラが散歩しているのが目に入った。バールチャンドラはモーテーラームを見つけると、慇懃に挨拶をして言った。「パンディトジー、昨夜はどこへ行ってしまったんですか?私は真夜中まであなたを待っていたんですよ。食事も用意していたんですが、あなたが来なかったので片付けさせてしまいました。昨夜は何か食べましたか?」

 モーテーラーム「菓子屋で食べて来ましたよ。」

 バールチャンドラ「あれ、プーリー(揚げパン)やミターイーをいくら食べても、バーティーやダール(豆カレー)のうまさにはかないませんよ。10アーナー(10/16ルピー)ほど食べても、お腹は膨らまなかったでしょう。あなたは私の客人です。いくらかかったかおっしゃって下さい、私が払います。」

 モーテーラーム「あなたの顔馴染みの菓子屋で食べました。ほら、あの角にある。」

 バールチャンドラ「いくら払いましたか?」

 モーテーラーム「あなたの付けにしておきました。」

 バールチャンドラ「どれだけミターイーを食べたか教えて下さい。そうでないと後からぼったくられますから。連中は強盗みたいなもんですよ。」

 モーテーラーム「確か2.5セールのミターイーと、半セールのラブリーでした。」

 バールチャンドラは自分の耳を疑った。彼は目を見開いてパンディトジーを凝視した。彼の家では、1ヶ月合わせても3セールものミターイーを食べたことなどなかった。それなのにこのパンディトジーと来たら、一度に4ルピーものミターイーを平らげてしまったのだ。もしあと半日でも居座られたら、何もかも食べ尽くされてしまうだろう。一体この人の腹は、腹なのか、それとも悪魔の墓なのか?3セール!信じられない!バールチャンドラは慌てて家に帰り、ランギーリーに言った。「おい、聞いたか、あのパンディトジー、昨日、3セールのミターイーを平らげちまったみたいだぞ。まるまる3セール!」

 ランギーリーバーイーは驚いて言った。「本当ですか!3セールものミターイーをどうやって食べるんですか!牛の話ですか?」

 バールチャンドラ「自分の口で3セールと言ったんだ。4セール以上食ったかもしれん、まるまる4セール!」

 ランギーリー「お腹に悪魔でも住んでるんですか?」

 バールチャンドラ「今日もここに泊まったら、6セールは食べ尽くすだろう!」

 ランギーリー「今日ここに泊まることなんてないわ、手紙の返事をして、すぐに帰して下さいな。もしもう一泊したいと言ったなら、はっきりと言って下さい、私たちの家ではミターイーはただで出てこない、何か他に用事があるならすぐに言って、ないならすぐに帰るようにって。あんな食いしん坊に食べ物を食べさせて解脱が得られる人たちがいるなら、その人たちに食べさせておけばいいんです。私たちにそんな解脱は必要ありません。」

 しかし、モーテーラームは元からもう帰ろうと思っていた。おかげでバールチャンドラは彼をうまく説得する苦労をせずに済んだ。バールチャンドラは彼に聞いた。「何の用意をしてるんですか、旦那?」

 モーテーラーム「ああ、旦那様、私はもう帰ります。9時の列車に間に合うでしょうね?」

 バールチャンドラ「今日も泊まって行って下さいよ。」

 そう言いつつも、バールチャンドラはもしかしてモーテーラムが本当にもう一泊することがあるかもしれないと不安になり、そのまま言葉を続けた。「そうですね、向こうでも皆さんがあなたの帰りを待っていることでしょう。」

 モーテーラーム「1日2日はどうってことありません。私もトリヴェーニー河で沐浴してから帰ろうと思っていました。しかし、悪く思わないで下さい、あなたたちはブラーフマン(バラモン)を少しも尊敬していません。ブラーフマンからの命令を待ち、命じられたことを何でもする人こそが信心深い人なのです。私たちがそのような人たちの家に行くと、彼らはそれだけで幸運と感じ、老いも若きもみんな集まって私たちのもてなしを一生懸命してくれます。私たちに対する尊敬がない場所に留まるのはひと時でも耐えられません。ブラーフマンに対する尊敬のない場所に、吉祥は訪れないでしょう。」

 バールチャンドラ「私たちはそんな不敬はしていません。」

 モーテーラーム「不敬はしていないって!それでは不敬とは何を言うのですか?今さっき、あなたは家の中で、『あのパンディトジーは3セールのミターイーをまるまる平らげてしまった』と言っていたじゃありませんか。しかもあなたはどこで食べてるところを見たんですか?一度食べさせてくれれば目が覚めるでしょう。私たちは、菓子屋一軒まるごとミターイーを食べても、ゲップすらしない偉大な力を持っています。私たちは、ミターイーを食べるよう頼まれることすらあるのです。私たちはあなたの戸口に立ち尽くす乞食僧ではありません。あなたの評判を聞いてやって来たのです。しかし、この家で腹を空かせる羽目になるとは思ってもいませんでした。どうか神様のご加護がありますように!」

 バールチャンドラは口から何も言葉が出ないほど恥じ入ってしまった。今までの生涯、こんな厳しい言葉を浴びせかけられたことは一度もなかった。彼は苦しい言い訳を言って弁解した。「あなたのことを言っていたのではありません、他の御仁のことを言っていたんです。」しかし、パンディトジーの怒りは収まらなかった。彼は全てを耐え忍ぶことができたが、自分の腹に対する批判を黙って聞き過ごすことはできなかった。女性が容姿について悪く言われるのを嫌う以上に、男性は自分の腹の批判を嫌うものだ。バールチャンドラは何とか彼の怒りを静めようとしたが、それはもう収まりきらないほどになっていた。バールチャンドラのあさましい本性を覆っていたヴェールが明かされてしまったのは疑いもなかった。今はそのヴェールをまた何とか覆い直す必要があった。自分のあさましさを隠すためのいい言い訳は思い付かなかったが、これから起こるであろうことは次々に頭に浮かんで来た。どうして家でこいつの話をしてしまったんだろう、しかもあんな大声で、こいつは壁に耳を付けて聞いてやがったんだ、と後悔していた。だが、後悔したところで何の得があろうか!こんな不幸に見舞われるなんて、どの疫病神に取り付かれてしまったんだろう。もし今、怒ったまま立ち去ってしまったら、こいつは向こうへ行ってワシの名誉を汚すだろう、そしてワシの全てがばれてしまうだろう。今、こいつの口を閉ざしておかなけりゃいかん。

 そう考えながら、バールチャンドラはランギーリーバーイーに言った。「あいつ、ワシとお前の会話を聞いてやがった。怒って帰ろうとしてる。」

 ランギーリー「もし戸口に立ってるって知ってるんだったら、どうして小声で言わなかったの?」

 バールチャンドラ「不幸は一人じゃやって来ないもんさ。戸口で聞き耳立ててるなんて、全く知らなかったんだ。」

 ランギーリー「一体誰の呪いでしょう!」

 バールチャンドラ「あいつ、家の前に寝転がってたんだ。知ってたら、そっちを見もしなかったのに。こうなってしまったら、あいつに何かやって黙らせるしかない。」

 ランギーリー「もう放っておきなさいよ。あの家と結婚しないなら、何の関係もないじゃありませんか。言いたいだけ言わしておけばいいでしょう。」

 バールチャンドラ「そういう訳にもいかん。仕方ない、10ルピー、選別にやって来る。神様、もうあの疫病神と二度と会わせないで下さい。」

 ランギーリーはぶつくさ言いながら10ルピーを取り出した。バールチャンドラはそれを持ってパンディトジーの足元に置いた。モーテーラームは心の中で言った。「吝嗇家の選別か、一生忘れないほど大した額を投げ出すじゃないか!10ルピー渡してワシの機嫌を取ろうってわけだな。その手には乗らんぞ。お前のことはよく分かったからな。」そして、彼はお金をポケットに入れて、祝福を与えて行ってしまった。

 バールチャンドラはずっとその場に立って考えていた―― 一体今でもワシのことを守銭奴だと思っているだろうか、それともヴェールは覆われただろうか。このお金が無駄にならなきゃいいのだが・・・。

第4章

 カリヤーニーは大きな問題に直面していた。夫の死後、彼女は自分の家の財政的窮状を初めて身をもって感じていた。貧しい未亡人にとって、年頃の娘が家に残っていることほど大きな問題が他にあるだろうか?息子たちを裸足で学校へ行かせることもできるし、食器の後片付けを自分ですることもできる。質素な食事をしても生きていくこともできるし、掘っ立て小屋に住むこともできる。しかし、年頃の娘をいつまでも家に置いておくことはできない。カリヤーニーはバールチャンドラの裏切りに激怒した。自ら出向いて行って彼の顔に泥を塗ってやろうか、頭髪をむしり取ってやろうか、それとも、お前は一度口にしたことを守らなかったから父親の息子じゃない、と罵ってやろうか、と考えていた。パンディト・モーテーラームは、バールチャンドラの舌先三寸をそのまま言って聞かせたのだった。

 カリヤーニーが怒りに身体を震わせていたときに、クリシュナーが遊びながらやって来て言った。「いつバーラート(花婿のパレード)が来るの、お母ちゃん?パンディトジー(僧侶に対する尊称)はもう来たの?」

 カリヤーニー「バーラートなんて来ないわ。」

 クリシュナー「チャンダルが言ってたわ、2、3日でバーラートが来るって。違うの、お母ちゃん?」

 カリヤーニー「もう言ったでしょ、お母さんを困らせないで。」

 クリシュナー「みんなの家にバーラートは来るのに、私たちの家にはどうして来ないの?」

 カリヤーニー「お前の家に来ることになってたバーラートの家が火事になってしまったんだよ。」

 クリシュナー「本当、お母ちゃん?おうちが全部燃えちゃったでしょうね。今、どこに住んでるんでしょう?お姉ちゃんはどこに住むんでしょう?」

 カリヤーニー「お前は馬鹿だね、何も分かってないわ。火事になっちゃったから、もう私たちとは結婚しないのよ。」

 クリシュナー「どうして、お母ちゃん?もう決まってたのに?」

 カリヤーニー「たくさんお金をくれって言って来たのよ。私たちはそんなお金持ってないでしょ。」

 カリヤーニー「とっても欲張りなの、お母ちゃん?」

 カリヤーニー「欲張りじゃなかったら何なんでしょう!血も涙もない裏切り者!」

 クリシュナー「それならお母ちゃん、とってもよかったわ。そんな人の家にお姉ちゃんが結婚せずに済んだんだもの。お姉ちゃんがそんな家にどうして住める?これってとっても幸せなことじゃない、お母ちゃん、それなのにどうしてそんなに怒ってるの?」

 カリヤーニーは、娘を愛情たっぷりの視線で見つめた。クリシュナーの言ったことはなんて正しいんでしょう!こんな無邪気な言葉の中に、困難を解決するこれほど深い洞察力があるなんて!本当にこれは幸せなことだわ、そのような悪人と婚姻関係にならずに済んだのだから。怒る必要なんてないわ。あんな酷い人たちの中に住むことになっていたら、ニルマラーはどうなっていたことでしょう。自分の運命を呪ったことでしょう。ダール(豆カレー)の中に少しギー(純油)を多く入れてしまっただけで、家中に怒声が響いていたことでしょう。少し食べ物をたくさん作ってしまっただけで、義父は目を吊り上げていたことでしょう。花婿も同じように欲張りでしょう。本当に結婚が中止になってよかったわ、そうでなかったら、ニルマラーは一生泣き暮らすことになっていたわ。立ち上がったカリヤーニーは、心が軽くなっているのを感じた。

 しかしどうしても今年中に結婚式を挙げなければならなかった。もし今年できなかったら、来年また一から準備を始めなければならなくなる。今や良家を探す必要はなかった。いい花婿を見つける必要もなかった。未亡人の家が、どうして良家のいい花婿と縁談を結ぶことができようか?今や、何とかして肩の重荷を下ろさなければならなかった。何とかして娘を向こう岸まで渡さなければならなかった――娘を井戸に投げ込む覚悟をしなければならなかった。ニルマラーは美しく聡明な女の子だったが、そんなことは関係なかった。ダウリー(持参金)さえあれば、どんな欠点も長所になるのだ。花嫁自身の価値など微塵もない、ただダウリーの価値だけがあるのだ。なんと惨い世の中なのだろう!

 カリヤーニーにも大きな落ち度があった。女性は、未亡人になることでその欠点の埋め合わせをすることはできない。彼女は、娘よりも息子をあからさまに可愛がっていた。息子たちは畑を耕す牡牛だ。牡牛たちには飼料を先に食べる権利があった。そして牡牛たちが食べ残した飼料を牝牛が食べるのだ。家もあり、金もあり、数千ルピー相当の宝飾品もあったが、息子たちの教育が最優先だった。もう1人の娘も、あと4、5年したら結婚させなければならなくなるだろう。だから、カリヤーニーはダウリーのために大金を費やすつもりはなかった。息子たちのためにも何かを残しておかなければならなかった。もし娘の結婚に金を使い果たしてしまったら、息子たちはどう思うだろうか?

 パンディト・モーテーラームがラクナウーから戻って来てから15日が過ぎていた。戻って来た翌日、彼は花婿を探しに出掛けた。彼は、ラクナウーの奴らにお前らだけが世界中で唯一の結婚相手ではなく、他にもたくさんいるということを見せ付けてやる、と誓っていた。カリヤーニーは毎日毎日モーテーラームの帰りを待ち焦がれていた。なかなか帰って来ないので、彼女は今日こそモーテーラームに手紙を書こうと思い、筆とインクを取り出して座っていた。そこへちょうどモーテーラームがやって来た。

 カリヤーニー「お待ちしてました、パンディトジー(僧侶に対する敬称)、ちょうどあなたに手紙を書こうとしていたところです。いつ戻って来たんですか?」

 モーテーラーム「戻って来たのは今朝だったが、そのとき1人のセート(実業家)から招待されてね、久し振りに会ったんだ。ついでにこっちの仕事も終わらせてから行こうと思って、今、そこから戻って来たところなんですよ。500人のブラーフマン(バラモン僧)の共餐があったんだ。」

 カリヤーニー「うまくいったんですか、それとも散歩して帰って来ただけですか?」

 モーテーラーム「うまくいったもいかないも、聞いて驚かないで下さい!5ヶ所で話をして来ました。5家の詳細もこの通り持って来ました。この中からあなたがどれでも好きな家を選んで下さい。まずはこれを見て下さい、この子の父親は郵便局で働いています。月給は100ルピーです。息子は今、大学で勉強しています。しかし、仕事が安定しているので、家に蓄えはありません。息子は将来性があると思います。家柄も申し分ありません。2000ルピーで話を付けて来ました。3000ルピーを求めて来ましたが。」

 カリヤーニー「息子の兄弟は?」

 モーテーラーム「いません。でも、3人の姉妹がいて、3人ともまだ未婚です。母親はまだ存命です。さあ、これも見て下さい。この子は、鉄道局で月給50ルピーで働いています。両親はいません。とても容姿端麗で、礼儀正しく、筋骨逞しい好青年です。しかし家柄はよくありません。母親は床屋の娘だったと言う人もいれば、地主の娘だったという人もいました。父親は弁護士でした。小さな土地の地主ですが、その土地は数千ルピーの借金の担保になっています。この家にはお金を払う必要はありません。年齢は20歳ほどでしょう。」

 カリヤーニー「家柄が悪くなかったらここに決めていたんですけど。知ってしまったら無視はできないわ。」

 モーテーラーム「3つ目の家も見て下さい。地主の息子です。年収千ルピーほどです。少し農業もやっています。息子はあまり教養がありませんが、役所や法廷の仕事には長けています。再婚で、先の妻が死んで2年になります。子供はいません。しかし生活は裕福で、仕事も家でしています。」

 カリヤーニー「ダウリー(持参金)は?」

 モーテーラーム「かなり吹っかけて来ました、4000ルピーです。では、4番目のも見て下さい。この人は弁護士をしています。年齢は35歳ぐらいでしょう。3、400ルピーの収入があります。亡くなった前妻との間に3人の子供がいます。自分の家を持っていますし、財産も持っています。ここもお金を払う必要はありません。」

 カリヤーニー「家柄はどうですか?」

 モーテーラーム「最高です、古い貴族の家柄です。それでは、最後のを見てみて下さい。父親は印刷所を持っていて、息子は学部卒ですが、その印刷所で働いています。年齢は18歳ぐらいでしょう。家には印刷機の他に何も資産はありません。しかし借金もありません。家柄はとてもいいわけではありませんが、悪くもありません。息子はとても端正で実直です。しかし千ルピー以下では話はまとまらないでしょう。要求金額は3000ルピーです。さあ、どの家が気に入りましたか?」

 カリヤーニー「あなたはどの家が気に入りましたか?」

 モーテーラーム「私は2人、気に入りました。1人は鉄道局の子で、もう1人は印刷所で働いている子です。」

 カリヤーニー「でも、最初の子の家柄はよくないと言ってたじゃありませんか?」

 モーテーラーム「はい、確かによくありません。それでは印刷所の子にしましょうか。」

 カリヤーニー「千ルピーものお金、どうやって工面するんですか?しかも千ルピーというのはあなたの予想で、多分もっとかかるでしょう。私の家の状況はあなたもご存知のはずです。食べるものさえあればそれだけで幸せです。お金がどこから出て来ると言うんですか?地主の旦那は4千ルピーものお金を求めてるし、郵便局の息子も2千ルピーですからね。彼らは諦めましょう。そうすると、弁護士だけが残りましたね。35歳と言っても、年を取りすぎというわけでもないでしょう。この人に決めてはどうでしょう?」

 モーテーラーム「よく考えて下さい。もちろん私はあなたの意見を尊重します。あなたが気に入った家と縁談を決めて来ます。しかし、千ルピーぐらい払ってもいいでしょう。印刷所の息子は素晴らしい子ですよ!あの子と結婚させれば、娘さんの人生はバラ色でしょう。端正な顔立ちですし、品行方正ですし、美人で礼儀正しい娘さんにはピッタリのお相手です。」

 カリヤーニー「私もその子が一番気に入ってますよ。でも、どこからお金を借りればいいんですか?それに誰に見せびらかす必要がありますか?親戚は食べるだけ食べておいていなくなってしまいました。今では家に誰も来ません。それだけでなく、私があの人たちを追い出したと思っているほどです。自分の手に負えないことに手を出すことはありません。自分の子供は誰にでもかわいいものです。子供の幸せを願わない親はいません。でも、それも自分で自分の面倒が見れるようになってからのことです!お願いですから、弁護士の旦那との結婚を決めて来て下さい。年はちょっと上ですが、生きるも死ぬも神様がお決めになることなんです。35歳と言っても、男なんですから、まだまだ若いでしょう。もし娘が幸運ならば、どこへ行っても幸せに過ごすことができるでしょう。不運ならば、どこへ行っても不幸になるでしょう。ニルマラーは子供好きです。前妻との子供とも仲良くできるでしょう。吉日を選んで、結婚を決めて来て下さいな。」

第5章

 ニルマラーの結婚式が行われた。サスラール(花婿の家族)がやって来た。花婿の名前はムンシー・トーターラームと言った。色黒の太った男で、職業は弁護士だった。40歳にはまだ届いていなかったものの、裁判所の仕事は彼の頭髪を真っ白にしてしまっていた。彼は運動する時間もないほど多忙だった。散歩にも行けないほど忙しいため、彼のお腹は出っ張ってしまっていた。すっかり肥満体となってしまった彼は、最近どこかしら体調がおかしかった。慢性的な胃弱と痔を患っていた上に、歩くと息切れがした。彼には3人の息子がいた。長男は16歳でマンサーラームと言った。次男のジヤーラームは11歳で、三男のスィヤーラームは7歳だった。3人とも英語を勉強していた。家には、トーターラームの未亡人の姉以外、女性がいなかった。その姉が家の女主人として君臨していた。彼女の名前はルクミニーと言い、年齢は50歳より上だった。亡き夫の家には誰もおらず、トーターラームの家に住み着いていた。

 ムンシー・トーターラームは夫婦学をよく心得ていた。ニルマラーを満足させるために足らないものを、彼は贈り物で満たそうとしていた。彼は非常に倹約家ではあったが、毎日ニルマラーのために何かしら贈り物を持って来ていた。彼はここぞというときにお金にこだわらない性格だった。息子たちのために少量のミルクしか持って来なかったのに、ニルマラーのためにはドライフルーツ、ジャム、ミターイー(お菓子)など、ありとあらゆる物を持って来た。生涯で一度も娯楽のために外出したことはなかった彼が、今では自分の貴重な時間の一部を、ニルマラーと共に蓄音機を鳴らすために割いていた。

 しかし、なぜかニルマラーはトーターラームの近くに座って談笑することにためらいを感じていた。その原因はおそらく、今まで頭を下げ、畏まって接していた父親と同じくらいの年齢の男が夫になってしまったことにあった。ニルマラーはトーターラームを、愛の対象ではなく、畏敬の対象だと考えていた。ニルマラーは夫を避けて暮らしており、彼を見た途端、彼女の顔から笑みが消えてしまうのだった。

 ムンシー・トーターラームは、夫婦学から、若い妻の前では愛の話をたくさんしなくてはならないと学んでいた。心を開けっ広げにすることが、夫婦円満の秘訣だと理解していた。だからトーターラームは、自分の愛を隠さず示していた。だが、ニルマラーは彼のそういう話を嫌っていた。それらの甘い言葉は、誰か若い青年の口から聞くと愛情で心が満たされるのだろうが、トーターラームの口から聞くと矢となって彼女の心を傷つけた。そこには情感も悦楽もなく、ただ模倣と欺瞞だけがあった。乾いた感情と空虚な大言壮語だけがあった。彼女は香水や香油を悪く思っていなかった。演劇を観に外出することも嫌いではなかった。装飾品をもらうことも嫌ではなかった。嫌だったのは、トーターラームの近くに座ることだった。彼女は自分の美しさと若さを彼に見せたくなかった。なぜならそこにはそれらを見るための目がないからだった。彼女は夫を、自分の美しさと若さを味わうだけの価値がある人物だと認めていなかった。花のつぼみは暁のそよ風に触れられて開くのだ。お互いがお互いを求め合っているのだ。ニルマラーのための暁のそよ風がどこにあるだろう?

 最初の1ヶ月が過ぎるや否や、ムンシー・トーターラームはニルマラーに家計を任せるようになった。裁判所から帰って来ると、1日の稼ぎを彼女に渡した。彼は、ニルマラーがそれらのお金を見て目の色を変えるようなことはないだろうと考えていた。ニルマラーは喜んでこの仕事をこなしていた。どんな小さなお金の動きもきちんと書き留めていた。もし稼ぎが少ないことがあると彼女は「今日はどうして少ないの?」と聞いていた。家計について彼女は夫とよく話をした。夫とは家計の話をするものだと彼女は考えていた。少しでも話が不真面目な方へ向くと、彼女は不機嫌な顔をした。

 ニルマラーは、宝飾品で身を飾って鏡の前に立ち、自分の美しさの煌きを見ると、心にある乾いた欲望が沸き起こるのを感じた。そのとき彼女の心には炎が燃え上がるのだった。この家に火を放ってやろうか、心の中で彼女はそう考えるのだった。彼女は自分の母親に憎悪を感じたが、それよりもさらに憎しみの対象となっていたのは、何の罪もないトーターラームであった。彼女は常にその憎しみを燃やし続けていた。王子が荷馬に乗ることなんてあろうか、それよりは徒歩を選ぶだろう。ニルマラーの心境は、荷馬に乗るか徒歩で行くかを選ばなければならなくなった王子の心境に似ていた。彼女は天馬にまたがって空を翔けたいと思っていた。稲妻のような速さで気持ちよく飛び回りたいと思っていた。荷馬のいななきと尖がった耳など想像もしていなかった。確かにニルマラーは、子供たちと遊んでいるときは自分の境遇を少しの間だけ忘れることができた。少しだけ心を軽くすることができた。しかし、ルクミニーは子供たちをニルマラーのそばに近寄らせようともしなかった。まるで子供たちをひと呑みにしてしまう鬼のような扱いであった。ルクミニーの性格は全く変わっていた。彼女が何で喜んで何で怒るのかを見極めるのは困難であった。もしニルマラーが自分の部屋で座っていると、彼女は「何してるんだか、この役立たず」と罵った。もし彼女が屋根裏部屋へ上がって行ったり女中と話したりすると、彼女は「恥も外聞もないわ、このアバズレ女、その内市場で踊り出すつもりでしょう」と嘆き悲しんだ。

 トーターラームがニルマラーにお金を渡すようになって以来、ルクミニーは四六時中彼女の批判をするようになった。ルクミニーは、もうすぐ大問題が起こることをよく知っていた。息子たちは何度も何度も小遣いを求めて来ていた。ルクミニーは、自分が女主人だったときには、子供たちに欲しいだけお金をあげていた。今では子供たちをニルマラーのところへ送っていた。ニルマラーは子供たちの金遣いの荒さをよく思っていなかった。彼女は時々小遣いを与えるのを拒否していた。すると、ルクミニーは悪口を言う絶好の機会を得るのだった――「あの嫁が女主人になったら、子供たちはどうやって生きていけばいいんでしょう。母親のいない子供たちの面倒を誰が見るんでしょう?1ルピーのミターイー(お菓子)を食べていたのに、今では半パイサー(100パイサー=1ルピー)のミターイーによだれを垂らす有様だわ。」もしニルマラーが誰にも聞かずにお金をあげるようなことがあれば、ルクミニーは再び彼女の批判を始めるのだった――「子供たちが生きるも死ぬも、あの嫁次第だわ!やっぱり子供たちには母親がいないと駄目ね、誰も子供たちにミターイーを食べ過ぎないように注意しようとしないわ。家計はやっぱり私が見ないと。あの嫁に何が出来るって言うの?」

 もしこれだけだったら、おそらくニルマラーは我慢していただろう。だが、ルクミニーは秘密警察のようにニルマラーを尾行して回っていた。もしニルマラーが屋根裏部屋にいると、ルクミニーは、きっと何かを物色しているんでしょう、と考えていた。もしニルマラーが女中と話していると、ルクミニーは、きっと私の悪口を言っているんでしょう、と考えていた。もしニルマラーが市場に何かを買いに行かせると、ルクミニーは、きっと何か贅沢な品物でも買いに行かせたんでしょう、と考えていた。ルクミニーは、度々ニルマラーの手紙を盗み見ていた。こっそりと彼女の話に聞き耳を立てていた。ニルマラーはルクミニーを恐れていた。とうとう我慢し切れなくなり、ニルマラーはある日夫に言った。「あなた、お義姉さんを何とかして下さい。どうして私の後を付け回すんですか?」

 ムンシー・トーターラームは怒って言った。「何か言われたのか?」

 「毎日言われています、口では言えないくらいのことを。もしお義姉さんが、私が女主人になったことをよく思ってないのでしたら、これからは義姉さんにお金を渡して下さい。私には必要ありません。お義姉さんを女主人に戻してあげて下さい。私は、悪口を浴びせかけられなければそれで十分です。」

 そう言いながら、ニルマラーの目には涙が溢れてきた。ムンシー・トーターラームは、自分の愛を示す絶好の機会を得たと考え、口を開いた。「ワシが今日、姉さんにビシッと言ってやるよ。もし黙って生活するならそれでよし、そうでなければ家から出て行け、この家の女主人は姉さんではなくお前なんだ、ってね。姉さんはお前を手助けするためにいるんだ。もし姉さんがお前を手助けせずに、邪魔ばかりしているなら、姉さんがこの家にいる必要はない。ワシは、姉さんは未亡人だし、子供もいないし、なけなしのローティーを食べて生きていくだろうと考えていたんだ。他でもない、ワシの実の姉だし、息子たちの面倒を見るために女の手も必要だったから、家に住まわせていたんだが、かと言って姉さんにお前を抑え付ける権利はない。」

 ニルマラーは言った。「お義姉さんは子供たちに言うんです、行って母さんからお金をもらって来なさい、とか、他にもいろいろ。子供たちがやって来て私を困らせるんです。ゆっくり休むこともできません。もし叱りでもしたら、お義姉さんが目を真っ赤にして走って来るんです。義姉さんは私のことを、子供嫌いだと思ってるんです。でも、神様は私がどれだけ子供好きかご存知のはずです。そもそも私の子供たちじゃありませんか。どうして私が子供たちを嫌ったりするでしょう?」

 トーターラームは怒りで震えながら言った。「もし子供たちが今度お前を困らせたりしたら、殴ってやれ。ワシも、子供たちが悪ガキになってしまったと思っていたんだ。ワシはマンサーラームを全寮制学校に送り込んでやるぞ。残りの2人は、今日にでも叱りつけてやる!」

 そのときムンシー・トーターラームは裁判所へ行くところで、叱責する時間はなかった。だが、裁判所から家に戻ってくるなり、彼はルクミニーに言った。「姉さんはこの家にこのまま住みたいんですか、それとも出て行きたいんですか?もし住み続けるつもりなら、静かに住んで下さい。他人の生活を邪魔するのはやめてください。」

 ルクミニーは、嫁が全てをぶちまけたことを即座に理解した。しかし彼女はおめおめと引き下がる女ではなかった。ルクミニーはトーターラームよりも年上であったし、長い間この家を看て来たという自負もあった。誰に自分をこの家から追い出す権利があろうか?ルクミニーは弟の卑劣さに驚いて言った。「私に女中になって住めって言うのかい?女中になるくらいだったら、私はこの家には仕えないよ。もしお前が私に、誰かが家に火を点けるのを黙って見てろって言うなら、誰かが好き勝手にしてるのを黙って見てろって言うなら、それは私にはできない話だね。お前はどこまで自分を見失ってしまったんだい?脳みそどこかで抜かれちまったのかい?アバズレ女に踊らされてるんじゃないのかい?あの嫁が矢を放ったら、何も考えずに玩具の兵隊みたいに剣を振り回すなんてみっともないったらありゃしない。」

 トーターラーム「姉さんはいつも荒探しばかりして罵声を浴びせかけてるそうじゃないか。もしニルマラーに何か教えることがあるなら、優しく柔かく言わないと駄目じゃないか。罵声で人は学ばない、逆に怒り出すものだ。」

 ルクミニー「ならお前は、私が何にも口出ししないことを求めてるんだね。でも後になってから私に言うんじゃないよ、家にいたのになんで何も言わなかったんだ、って。もし私の言うことが信じられないなら、犬に噛まれたって言うもんですか。『仔牛に野良仕事は務まらぬ、嫁に家事は務まらぬ』とはよく言ったものね。嫁がどうやって家を切り盛りして行くのか、見ものだわ。」

 そのとき、スィヤーラームとジヤーラームが学校から帰って来た。帰って来た途端、2人は叔母のそばへ行って食べ物を求め始めた。ルクミニーは言った。「どうして母さんのところへ行って言わないんだい?私には何の権利もないんだから。」

 トーターラーム「もしお前たちが母さんの部屋に一歩でも入ったら、お前たちの足をへし折ってやるぞ。悪戯ばかりしやがって!」

 少し怒りっぽい性格だったジヤーラームは言った。「父さんは、母さんには何も言わないのに、僕たちにだけは怒るんだね。母さんは僕たちにお小遣いもくれないんだ。」

 スィヤーラームも同調して言った。「母さんは、私を困らせたりしたら耳をちぎってやるって言うんだ。言うよな、ジヤー?」

 ニルマラーは自分の部屋から言った。「私がいつ耳をちぎるなんて言ったの?どこで嘘を覚えたの?」

 そのとき、ムンシー・トーターラームはスィヤーラームの両耳をつかんで引っ張った。スィヤーラームは大声を上げて泣き始めた。

 ルクミニーは走って来て、スィヤーラームをトーターラームから引き離して言った。「もうやめなさい。子供たちに暴力を振るうんですか?なんて人!耳が赤くなってしまったわ。新しい嫁をもらうと男は盲目になってしまうって言うけど、本当ね。今からこんな状態なら、この家は一体どうなってしまうことか。」

 ニルマラーは自分の勝利を快く思っていたが、トーターラームが子供の耳を引っ張り出すと、我慢できなくなってしまった。彼女もスィヤーラームを助けようと走ったが、ルクミニーの方が一足先だった。ルクミニーは言った。「自分で火を点けといて、今頃自分で火を消しに走って来て。自分の子供が生まれたら目が覚めるでしょう。外国の聖人に何が分かることか?」

 ニルマラー「あなたの弟ならそこにいるから、火を点けたのが私かどうか聞いてみたらどうなの?私は、子供たちがお金をくれって何度も何度も言って来て困るって言っただけ。もしその他に私が何かを言ったなら、目が潰れてもいいわ。」

 トーターラーム「ワシは息子たちが手に負えなくなっているのを自分の目で見て知っている。ワシは盲目じゃない。3人とも我がままで腕白になってしまった。だから今日にも長男を寮に送ることに決めたぞ。」

 ルクミニー「お前は今まで子供たちの悪戯について何も言わなかったのに、今日になって突然どうしたんだい?」

 トーターラーム「姉さんが子供たちを我がままにさせたんだ。」

 ルクミニー「私が全ての原因ってわけね。私のせいでお前の家が滅茶苦茶になったってわけね。ならいいわ、私は出て行くから。誰に殴られようと、誰に噛まれようと、もう私には関係ないわ。」

 ルクミニーはそう言ってそこから立ち去ってしまった。ニルマラーはスィヤーラームが泣き止まない姿を見て居ても立ってもいられなくなってしまった。彼女はスィヤーラームを抱きしめ、そのまま抱き上げると、自分の部屋に連れて行ってキスをし出した。しかし、スィヤーラームはさらに嗚咽しながら泣き始めた。スィヤーラームの未熟な心は、ニルマラーの愛情の中に、神様によって奪われてしまった母性愛を見出すことはできなかった。これは母性愛ではなく、ただの同情だった。自分の所有権がない事物だった。ただ恵んで与えられたものだった。まだ母親が生きていたときにも、2、3回、父親に叩かれたことはあったが、そのとき母親は彼を抱きしめて涙を流してはくれなかった。彼女は不機嫌になって、口を利いてくれなかった。それでも、スィヤーラームはしばらくすると全てを忘れて母親のところへ走って行っていた。スィヤーラームは、悪戯の結果、罰を受けることは理解できた。だが、叩かれて叱られた後にキスされるのは理解できなかった。

 母性愛には、柔かさのの中にも固さがあるものだ。だがニルマラーの愛情には、親密さを暗に示す固さがなく、ただ憐憫の情のみがあった。健康な身体を誰が気遣ったりしようか?だが、身体のどこかで痛みを感じると、その部分の痛みを和らげるためにあらゆる努力が払われるものだ。スィヤーラームの悲痛な泣き声はニルマラーに、自分が母親を失ってしまったことを知らせ続けていた。スィヤーラームは長い間ニルマラーの胸の中で泣き続け、泣きながら眠ってしまった。ニルマラーは子供を寝台に寝かせようと思ったが、スィヤーラームは眠りながらも両腕で彼女の首に抱きつき、まるで誰かが固定してしまったかのように、彼女にピッタリと張り付いていた。疑念と恐怖で彼女の顔は歪んだ。ニルマラーは再び子供を胸に抱き上げたが、寝台に寝かせることはできなかった。そのとき彼女は初めて、子供を胸に抱く悦びを感じていた。そのとき初めて彼女は自覚した。彼女の目はそれまで覚めておらず、自分の道が見えていなかった。今、その道が見え始めた。

第6章

 その日、自分の深い愛情の証拠を示した後、ムンシー・トーターラームはこれでニルマラーの心を遂にものにすることができただろうと期待を抱いていた。しかし、彼のその期待は少しも現実のものとならなかった。そればかりでない。以前は、時々ではあったが、ニルマラーは彼と笑顔で会話することがあったものだったが、今では子供たちの世話に全神経を傾けるようになってしまった。家に帰って来ると、いつもニルマラーは子供たちに囲まれていた。子供たちに読み書きを教えていることもあれば、服を着せていることもあった。何かの遊びをしていることもあれば、何かの話を聞かせていることもあった。ニルマラーの乾き切った心は、愛情に失望した後、この母性愛を生き甲斐と考えるようになった。トーターラームと一緒にいるときは、笑ったり会話をしたりすることに戸惑いと不快と退屈を感じ、逃げ出したいほどであったが、子供たちの誠実で無垢な愛情に向き合うことで、彼女の心は満たされるのだった。最初、マンサーラームは彼女のそばに近寄るのをためらっていたが、今では彼も時々彼女のそばに座るようになった。マンサーラームはニルマラーと同い年であったが、精神年齢では彼女よりも5歳年下だった。ホッケーとサッカーだけが彼の全世界だった。彼の空想は限りない広場であり、彼の願望は青々と茂った庭園であった。マンサーラームは、細身で美しく朗らかではにかみ屋の少年であった。彼と家の関係はただ食事のみであった。それ以外は一日中どこかで遊びまわっていた。ニルマラーは、マンサーラームから一日何をして遊んで来たのかを聞くと、少しの間だけ悩みを忘れることができるのだった。そして、人形同士の結婚式をしては遊んでいたあの頃がもう一度戻って来ないかと考えるのだった。もうあの頃がだいぶ昔のことに思えて来てしまっていた。

 ムンシー・トーターラームは、他の独り身の人間と同じく自己中心的な男だった。しばらくの間、彼はニルマラーをよく散歩や芝居に誘っていた。しかし、その効果が全くないのを見てとると、彼は孤独な人生に戻って行った。1日中頭脳を酷使した後に彼の心は憩いの場を求めた。だが、自分の安らぎの庭園に足を踏み入れたときに、花がしぼみ、植木がしおれ、花壇が埃だらけになっているのを見たら、その庭園を見捨ててしまおうと思うのは自然なことだった。彼には、ニルマラーが自分に無関心な理由を理解できないでいた。夫婦学の全ての極意を試してみたが、思い通りにはいかなかった。後は何をすればいいのか、彼には全く途方に暮れていた。

 ある日、トーターラームがニルマラーのことで思い悩んでいたところ、学生時代の友人であるナヤンスクラームがやって来て、適当に挨拶をした後にニヤニヤしながら言った。「で、最近どうだい調子は?新しい奥さんをもらってからというもの、若さが戻って来たんじゃないか?この幸せ者め!失った若さを取り戻すために、若い嫁さんを娶る以上の方法はないだろう!こっちは人生滅茶苦茶さ。家内のやつ、俺をひとときも離そうとしないんだよ。俺、真剣に誰か別の女と結婚することを考えてるんだ。どこかにいい話あったら頼むよ。お礼はするからさ。」

 トーターラームは真剣な顔で言った。「絶対にそんな馬鹿なことをするんじゃない、でないと後で困ったことになるぞ。若い女は若い男とだけ幸せになれるんだ。ワシもお前ももうそんな年じゃない。本当のこと言うと、ワシは今、再婚して大失敗だったと思ってるところなんだ。全くとんだ思い違いだった。もう2、3年、人生を楽しもうと考えてたんだが、逆にとんでもないことになってしまった。」

 ナヤンスクラーム「何言ってるんだ。女を操るなんて簡単じゃないか!芝居でも見せて、買い物にでも連れ出して、ちょっとお世辞でも言っておけば、あっと言う間に思い通りさ。」

 トーターラーム「全部試したが駄目だったよ。」

 ナヤンスクラーム「そうか!香水、香油、花、菓子、全部試してみたか?」

 トーターラーム「ああ、全部試したさ。夫婦学の全ての秘訣を試してみたさ。でも全部駄目だった。」

 ナヤンスクラーム「そうか、なら俺の助言をよ〜く聞け。お前、自分の顔をいじってもらえ。最近この近辺に、老いの印を全て消し去ってくれるという電気の医者が来てるんだ。顔からシワを取ったり、髪から白髪をなくしたりするだけじゃないぜ、どんな魔法を使ってるのか知らないが、男の全身を変えてしまうんだ。」

 トーターラーム「いくらかかるんだ?」

 ナヤンスクラーム「そうだな、けっこう取るって話だ。多分500ルピーくらいだろう。」

 トーターラーム「そりゃあきっと、ただのペテン師だろう。馬鹿を掴まえては荒稼ぎしてるんだ。何かの油を使って、2、3日だけ顔を照からせて終わりだろう。そういう大袈裟な医者の連中は信用ならない。5ルピー、10ルピーだったら気晴らしに試してみてもいいが、500ルピーは大金だ。」

 ナヤンスクラーム「お前にとって500ルピーは大金じゃないだろう。1ヶ月の収入じゃあないか。もし俺が500ルピー持ってたら、まず最初にそれをするだろう。青春を取り戻すために500ルピーだったら安いもんさ。」

 トーターラーム「それにしても、もっと安上がり方法はないものかな。安くて効果抜群な薬を出す薬剤師とか、いないかな。電気やラジウムは金持ちのためのものさ。彼らが楽しめばいいんだ。」

 ナヤンスクラーム「なら、もっと派手な格好をしてみろよ。そんな地味なコートはやめにして、モスリンのカッコいいロングコートを着て、タックのあるズボンをはいて、金の首飾りをつけて、ジャイプル製ターバンをかぶって、目にカージャル(油煙)を塗って、紙にヘンナの油をつけてみろ。出っ腹を引っ込めるのも忘れちゃいけない。二重にベルトを縛ることだ。ちょっと苦しいだろうが、ロングコートが映えるだろうよ。髪は俺が染めてやるよ。それと、50個でも100個でもいいからガザル(恋愛詩)を覚えろ。時間があったら詩を読め。そうすれば話上手になるさ。あと、世の中のことはもうどうでもいいように振る舞うべきだ、まるで新妻のことしか頭にないような風にな。そうだな、それと勇敢なところを示す機会を常に探すことだ。真夜中、嘘でいいから『泥棒だ!泥棒だ!』って大声を出してみろ。それで剣を持って一人で走り出せ。そうそう、そのとき少しは慎重にやるべきだ、本当に泥棒が出て来たら大変だからな。そうなりゃ一発でお前の正体がばれてしまうだろう。勇敢さってのは、冷静さにあるってのを忘れるなよ。まるで何事もなかったかのように泰然自若としてるべきだ。でも、泥棒がやって来たら、すぐさま外に出て剣を持って『どこだ?どこだ?』って走るんだぞ。なぁに、ずっと続ける必要はないさ。1ヶ月くらい俺が言ったことをやってみろ。もし何の効果もなかったら、罰としてお前が言う通りのことを何でもするからさ。」

 ムンシー・トーターラームは、そのときはナヤンスクラームの話を、まるで教養ある人間がそうすべきであるかのように、笑い飛ばしただけだった。しかし、彼の心にいくらか残ったものがあった。明らかにナヤンスクラームの話の影響が出てきた。彼は、人々に気付かれないように、徐々に身なりを変えて行った。まずは髪から始め、次にカージャルを塗り、1、2ヶ月の間に彼の全身は変わってしまった。ガザルを覚えるのは笑止千万であったが、勇敢さを誇示することにはやぶさかではなかった。

 その日から、トーターラームは毎日自分の勇敢さを無理に示すようになった。だが、ニルマラーは、夫が精神に何か異常をきたしつつあるのではないかと疑い始めた。ムーング豆のカレーと2枚のチャパーティー(インドのパン)を食べた後にスレーマーニー塩(消化剤)を求めるような人(つまり子供が何人もいるのに再婚するような人)が、服装に狂い出しても何らおかしいことはない。彼の行動によってニルマラーの気持ちが変わるようなことはなかった。いや、少なくとも彼女は夫が憐れに思えてきた。怒りや嫌悪の情は次第に消えて行った。怒りや嫌悪の情は、正常な人に対して湧き起こるものだ。しかし正気を失った人は同情の対象でしかない。彼女は、人々が狂人に対してするように、影で夫をからかい、冗談のネタにするようになった。もちろん、夫にばれないように細心の注意を払っていた。彼女は、夫は今、自分の罪の禊をしているのだ、自分の悲しみを忘れるために大袈裟な振る舞いをしているのだ、だが何をしても運命は変わらない、この可哀想な人間をわざわざ怒らすことがあろうか、そう考えていた。

 ある日の夜9時に、ムンシー・トーターラームは紳士風の格好をして散歩から帰り、ニルマラーに言った。「今日は3人の泥棒と出会ったよ。ワシがちょうどシヴプリーの方へ歩いているところだった。真っ暗闇だった。線路のそばに着いた途端、3人の男が剣を振りかざしてどこかから飛び出して来たんだ。3人ともまるで死神みたいだったよ!ワシは1人だったし、手にはこの杖しか持ってなかった。向こうは3人とも剣を持ってたんだ、全く肝を冷やしたよ。人生ここでお終いかと思ったんだが、どうせ死ぬんだったら勇敢な死に方をしたいと考えたんだ。そんなこと考えていたら、1人の男が叫んで言った。『持ってるもの全部置いて黙って消えな。』ワシは杖を握り締め、構えて言った。『ワシはこの杖しか持ってない。もしこの杖が欲しいなら、お前らの首と交換してやる。』ワシがそう言った途端、3人とも剣を振り上げて飛び掛って来たんだ。ワシは杖で奴らの剣を止めた。奴らは3人がかりで必死になって切りかかって来て、鈍い音が響き渡ったんだが、ワシは稲妻のように身をかわして奴らの攻撃を防いだ。10分くらい奴らは剣を振り回しただろうか、でもワシはかすり傷ひとつ負わなかった。ワシは剣を持ってなかったから不利だった。もし剣さえあれば、1人も生かしておかなかっただろう。とにかく、何と言ったらいいのか、そのときのワシはすごかったぞ。ワシは自分で自分の華麗な身の裁きがどこから出て来たのか驚いたくらいだ。3人ともこれ以上無理だと分かると、剣を鞘に収めて、ワシの肩を叩きながら言った。『お前のような勇者は今まで見たことがない。俺たち3人は一騎当千の強さで、村から村を荒らし回って来たが、今日お前は俺たちを打ち負かした。俺たちはお前の強さに降参した。』そう言ってどこかへ消えてしまったんだ。」

 ニルマラーは真剣な顔をして微笑んで言った。「この杖には剣の跡がいっぱい残っていることでしょう?」

 トーターラームはその質問に対する答えを準備していなかった。だが、何か答える必要があった。彼は言った。「ワシは剣の攻撃をうまくかわしていたんだ。2,3の攻撃を杖で受けたが、払いのけただけだ。それだけで跡は残らないよ。」

 トーターラームがその言い訳を言い終わらない内に、突然ルクミニーが慌てて走ってやって来て、息せき切りながら言った。「トーター!トーターはいるかい?私の部屋に蛇が出て、寝台の下に潜り込んだんだよ。すぐさま逃げて来たわ。1、2メートルはあるでしょう。襟を広げてシューシュー鳴いてるわ!ちょっと来てよ!棒を持って!」

 トーターラームの顔は急に青ざめてしまった。だが、心の動揺を隠しながら言った。「ど、どこから蛇が、ここに?きっと何かの見間違いだろう?縄か何かじゃないか?」

 ルクミニー「私は自分の目で見たんだよ。ちょっと行って見て来てよ!それとも、男のくせに怖がってるのかい?」

 トーターラームは家から出たが、ベランダで立ち止まってしまった。彼の足は言うことを聞かなかった。心臓はドキドキと高鳴っていた。蛇は怒りっぽい生き物だ。もし噛まれでもしたら、即あの世行きだ。彼は言った。「怖がってるわけじゃないさ。蛇なんだろ、ライオンに比べりゃどうってことないさ。しかし蛇に棒は効かないから、誰かを送って、近所の家から槍でも借りて来させよう。」

 そう言ってトーターラームは走って表に出た。マンサーラームは夕食を食べていた。トーターラームが外へ行ってしまったとき、マンサーラームは食事を終えてホッケーの棒を手に持ち、ルクミニーの部屋の中に入ってとっさに寝台を引いた。蛇は怒っており、逃げようともせずに襟を広げて鎌首を持ち上げた。マンサーラームは素早く寝台の敷布を広げて蛇に被せ、続けて3、4度棒で打った。蛇は敷布の下でもがいて死んでしまった。それを見たマンサーラームは棒で蛇を持ち上げて外に出た。そのときトーターラームが数人の男を連れてやって来た。マンサーラームが蛇をぶらさげているのを見て、彼は驚いて悲鳴を上げたが、すぐに平静を取り戻して言った。「ワシが来るところだったのに、お前はどうしてそんなに急いだことをしたんだ?さあ、ワシによこしなさい、誰かに捨てに行かせよう。」

 そう言って威風堂々とルクミニーの部屋の戸口に立つと、部屋の隅々を見回した。そして髭をいじりながらニルマラーのところへ行って言った。「ワシが来るところだったのに、マンサーラームが殺してしまったよ!何も知らないくせに棒を持って!蛇は槍で殺すべきなんだ。あの子はどうもせっかちなところがあっていかん。ワシは何匹の蛇を今まで退治したことか。蛇を殺すことなんて朝飯前だ。何匹もの蛇をこの手で掴んで握りつぶしたんだぞ。」

 ルクミニーは言った。「もういいよ、お前の男らしさは十分見させてもらったよ。」

 トーターラームは恥じ入って言った。「そうか、ワシのことを臆病者だと笑うなら笑えばいいさ!姉さんからご褒美をもらおうってわけじゃないからな。行って料理人に言ってくれ、そろそろ食事にするって。」

 トーターラームは夕食を食べに行ったが、ニルマラーは戸口に立って考えていた――神様、あの人は本当に何かの病気になってしまったの?私の境遇をもっと貶めようとなさっているの?私はあの人の世話をすることはできるし、人生をあの人に捧げることもできるわ。でも私の手に負えないことをすることはできないわ。年の差を縮めることは私には不可能よ。一体あの人は私に何を求めているのかしら?・・・ああ!分かったわ!私はそのことを今まで気付かなかったわ。そうでなかったら、あの人はこんな苦労をすることはなかったでしょう。こんなにおかしな振る舞いをすることもなかったでしょう!

第7章

 その日からニルマラーの言動に変化が表れ始めた。彼女は自分に与えられた使命の遂行に一生を捧げることに決めたのだった。今まで彼女は悲しみに打ちひしがれ、自分の使命に目を向けることすらしなかった。彼女の心には反抗の炎が燃え盛っていた。彼女のやり場のない悲しみは、彼女の正気を奪うほどであった。

 だが、今、その悲しみの嵐は静まりつつあった。彼女は、自分の人生に幸せは訪れないことを悟ったのだった。幸せな人生を夢見て、今ある人生を台無しにするのは何にもならないわ。世界の全ての生き物が安眠できるわけではない。私もその不幸な生き物の1人なんだわ。私も神様に、不幸の荷を背負うために選ばれたんだわ。この重荷を頭から下ろすことはできない。これを捨て去ろうと思っても捨てることはできない。この重みでたとえ目の前が真っ暗になっても、たとえ首が折れようとも、たとえ足が動かなくなっても、私はこの重荷を背負って行かなければならないんだわ。終身刑を泣いても仕方ないわ。泣いても誰が見てくれるというの?誰が同情してくれるというの?泣くことで仕事が滞りでもしたら、さらに罰を受けなければならなくなるわ。

 次の日、ムンシー・トーターラームが裁判所から帰って来ると、ニルマラーが微笑んで自分の部屋の戸口に立っていた。その無邪気な姿を見て、彼の目は輝いた。久し振りに蓮の花が開いているのを見た気分であった。部屋の壁には、大きな鏡が掛けてあった。いつもはその鏡を覆っていた布が、今日は外されていた。部屋の中に足を踏み入れたトーターラームは、ふとその鏡に目を向けた。そこには自分の姿が映っていた。それを見た彼の心は傷ついてしまった。1日中働き続けたことにより、彼の顔はすっかりやつれていた。いろいろな栄養剤を取っているにも関わらず、頬のシワはくっきりと刻まれていた。お腹はきつく縛り付けているにも関わらず、暴れ馬の如く外に飛び出ていた。鏡の前には、別の方向を向いていたが、ニルマラーも立っていた。2人の外見にどれだけの違いがあることか!一方は宝石が散りばめられた宮殿であった。他方はボロボロに崩れた廃墟であった。彼はそれ以上鏡を凝視することができなかった。自分の無様な姿を我慢することができなかった。彼は鏡の前から立ち去った。彼は自分の身体に嫌悪感を覚え始めた。この美しく若い女性が彼を嫌悪したとしても何の不思議もなかった。彼は、ニルマラーの方に目を向ける勇気も無くしてしまった。彼女の類稀な容姿は、彼の心に槍となって突き刺さった。

 ニルマラーは言った。「今日はどうしてこんなに遅くなったんですか?一日中待ってたんですよ。」

 トーターラームは窓の方を向きながら答えた。「裁判のせいで息をつく間もないほど忙しいんだ。本当はもうひとつ裁判があったんだが、頭痛がすると言い訳をして逃げ帰って来たんだよ。」

 ニルマラー「ならどうしてそんなに裁判を引き受けるんですか?仕事をするのは結構ですけど、余裕を持って、できる分だけ引き受ければいいじゃないですか。そんなに命を削ってまで仕事をすることはありません。もう裁判を引き受けないで下さい。私はお金なんて欲しくありません。あなたがゆっくり生活できれば、それで十分です。」

 トーターラーム「でもなぁ、ラクシュミー女神(お金の女神)が来たら、拒むことはできないんだ。」

 ニルマラー「ラクシュミー女神が来ると言っても、もし血や肉と引き換えなら、来ない方がいいです。私はお金なんて必要ありません。」

 このときマンサーラームが学校から帰って来た。強い日差しの中を歩いてきたので、額には汗が浮かび、白い顔は赤く上気していた。目からは光が発せられているかのようだった。マンサーラームは戸口に立って言った。「お母さん、すぐに何か食べるものちょうだい、今から遊びに行かなきゃならないんだ。」

 ニルマラーは奥に行ってコップに水を入れ、小皿にドライフルーツを盛ってマンサーラームに差し出した。マンサーラームはそれを急いで口に入れ、すぐに外に出ようとした。ニルマラーは言った。「いつ戻って来るの?」

 マンサーラーム「分からない、白人とホッケーの試合があるんだ。ここからすごい遠いからね。」

 ニルマラー「いい、早く帰ってくるのよ。料理が冷めちゃうでしょ、そうしたらお前は、すぐにお腹減ってないって言うから。」

 マンサーラームは無邪気にニルマラーの方を振り返って言った。「もし遅くなったら、そこで何か食べてると思ってよ。僕を待つ必要はないからさ。」

 マンサーラームが走り去ってしまうと、ニルマラーは言った。「前は家にも帰って来なかったし、恥ずかしがって私と話そうともしなかったわ。何か入用があると、外から買って来させていたわ。私が呼ぶようになってから、来るようになったわ。」

 トーターラームは怒って言った。「あいつはどうしてお前のところに食べ物や飲み物を求めに来るんだ?どうして姉さんのところに行かない?」

 ニルマラーは、褒めてもらいたくてその話題を口にしたのだった。彼女は、自分が夫の子供たちをどれだけ愛しているか、示したくて言ったのだった。これは見せかけの愛情ではなかった。彼女は子供たちを本当に愛していた。彼女の性格にはまだ子供らしさがたくさん残っていた。彼女はまだ、好奇心に満ち溢れ、遊びと悪戯好きな女の子であった。そして彼女のこの子供心は、子供たちと一緒にいることで満たされるのだった。妻としての嫉妬心は、まだ彼女の心には芽生えていなかった。彼女は、夫が喜ぶ代わりに怒る理由を理解できずに言った。「どうして子供たちがお義姉さんのところへ行かないのかは知りませんが、私は子供たちを叱ったりしませんから。もしそんなことしたら、私は子供嫌いだと思われてしまうでしょう。」

 トーターラームは何も答えなかったが、今日の彼は顧客と話をしなかった。マンサーラームが帰って来ると、彼は息子に試験をさせた。彼がマンサーラームや他の息子たちの教育に興味を示したのは、人生の中でこれが初めてであった。彼は普段、自分の仕事のことで頭が一杯だった。彼が学校を卒業してから、およそ40年が過ぎ去っていた。それ以来、勉強には全く興味がなかった。法律の本と手紙以外、何も読んでいなかったし、そんな時間もなかった。しかし今日、彼はマンサーラームの試験をした。マンサーラームは賢く、勤勉な少年であった。Bチームのキャプテンを務めていながら、クラスの中では常にトップだった。一度読んだ文章は、二度と忘れなかった。トーターラームは、マンサーラームが答えに窮するような質問を考え出すことがなかなかできなかった。マンサーラームはどんな質問もすぐに答えてしまった。

 まるで敵と剣を交えて戦っている兵士が、なかなか相手を傷つけられないと躍起になってさらに剣を素早く振り回すように、マンサーラームの答えを聞いている内にトーターラームも躍起になって来た。彼は、マンサーラームにも答えられないような質問を何とかして考え出そうとした。息子の弱点がどこにあるのかを見たかった。息子が何を勉強しているのかを知るだけでは満足できなかった。息子が何を勉強していないのかを知りたかった。これがもし経験豊かな試験官なら、マンサーラームの弱点を簡単に見出すことができたかもしれない。だが、半世紀も勉強から遠ざかっていたトーターラームにそんなことがどうしてできようか?彼は怒りを発散させる言い訳をとうとう見つけられず、こう言った。「お前が一日中あちこちほっつき歩いているのをワシは知っているぞ。ワシはお前の性格をお前よりもよく知っている。ワシはお前のその放蕩癖に我慢ならんのだ。」

 マンサーラームは怖気づかずに言った。「僕は夕方1時間だけホッケーをしに行ってますが、1日中遊んではいません。お母さんや叔母さんに聞いてみて下さい。僕だってそんなほっつき歩くのは好きじゃありません。ただ、ヘッドマスターさんが呼んでいるときは、僕も行かなくちゃならないんです。もしホッケーがいけないなら、明日から行きません。」

 トーターラームは、話が別の方向へ行っているのを見ると、大声で言った。「お前がホッケー以外に何もしていないなんて、ワシは信じられん。何度も苦情を聞いてるんだぞ。」

 マンサーラームもカッとなって言った。「誰がお父さんにそんな苦情を言ったんですか?僕にも教えて下さい。」

 トーターラーム「それが誰であろうと、そんなことは関係ない。ワシは理由もなく叱ったりしない。お前は黙って聞けばいいんだ。」

 マンサーラーム「もし誰かが、僕の目の前で、僕が遊び回っているのを見たと証言するなら、僕はもう顔も見せません。」

 トーターラーム「お前に直接苦情を言って、復讐しようとするような暇人はいない。どうせお前は仲間を引き連れてその人の家の屋根瓦を割って仕返しをするつもりだろう。ワシはそういう苦情を1人から聞いたわけじゃない。多くの人から聞いたんだ。そしてワシが自分の友人たちを疑う理由はない。これからお前は学校の寮にずっと住むこと、いいな!」

 マンサーラームはうつむいて言った。「寮に住むことに僕は何の異議もありません。お父さんが言ったときに、僕は出て行きます。」

 トーターラーム「どうして下を向いた?寮は嫌いか?まるで寮に入ったら最後、生きて帰って来られないような顔をしてるじゃないか。もし嫌なことがあったら言ってみなさい。」

 マンサーラームは寮に住みたくなかった。しかし父親からその理由を聞かれると、マンサーラームは自分の気持ちを隠すために作り笑いをして言った。「別に下なんか向いてません。僕にとって家も寮も同じことです。嫌なことはありません。あったとしても我慢できます。それじゃあ明日には出ることにします。もし空き部屋がないなら仕方ないですが。」

 トーターラームは弁護士だった。息子が何か、寮に住むことを免れ、しかも面子を保つことができる都合のいい言い訳を探していることに気が付いた。彼は言った。「部屋は全ての学生のために用意されているんだろう、お前の部屋だけないのか?」

 マンサーラーム「たくさんの学生が空き部屋がなくて、外で家賃を払って住んでいます。つい最近も、寮から1人の寮生が出て行ったんですが、その空き部屋に50人が殺到したんです。」

 ムンシー・トーターラームは、このまま議論を続けるのはよくないと思った。マンサーラームに明日出発する準備をするよう言いつけると、馬車を用意させて散歩に出掛けた。最近彼は夕方よく散歩に出掛けていた。ある博識な知人に、散歩ほど身体にいいものはないと聞いたからである。トーターラームが去った後、マンサーラームはルクミニーのところへ行って言った。「叔母さん、父さんが僕に、明日から寮に住むように言うんです。」

 ルクミニーは驚いて言った。「どうして?」

 マンサーラーム「僕は知りません。僕が風来坊のようにあちこちうろつき回ってるって言い出したんです。」

 ルクミニー「お前は、どこにも行ってないって言わなかったのかい?」

 マンサーラーム「言ったけど、信じてくれないんです。」

 ルクミニー「お前の新しい母親のせいさ、それ以外に何があるの?」

 マンサーラーム「そうじゃないと思います、叔母さん、僕は母さんを疑ってません。母さんは間違ってもそんなこと言わないでしょう。何か欲しいものがあれば、すぐにくれますし。」

 ルクミニー「お前にあの女の何が分かるの!これはあの女が放った火種なんだよ。私が行って聞いてくるから、お前は見てなさい。」

 ルクミニーは怒りを露にしながらニルマラーのところへ行った。ルクミニーは、彼女を非難し、突き飛ばし、泣かせる機会をみすみす見逃すような女ではなかった。一方、ニルマラーはルクミニーを尊敬していた。ルクミニーの前では口答えすらしなかった。ニルマラーはルクミニーから学ぼうとしていた。自分の間違った部分を直してもらいたかった。家事を監督していてもらいたかった。だが、ルクミニーはニルマラーを嫌っていた。

 ニルマラーは寝台から起き上がって言った。「どうしたんですか、お義姉さん、座ってください。」

 ルクミニーは立ったまま言い放った。「私はお前にひとつ聞きに来ただけよ。お前は家のみんなを追い出して1人で住むつもりかい?」

 ニルマラーは柔らかな物腰で答えた。「どうしたんですか、お義姉さん?私は誰にも何も言っていませんけど?」

 ルクミニー「マンサーラームを家から追い出しておいて、何も言ってないなんてしらばっくれるつもりかい!お前はそのくらいのことも我慢できないのかい?」

 ニルマラー「お義姉さんの前に跪いて言いますが、私は何も知りません。もし私がそのことについて一言でも口を開いたなら、目がつぶれても構いません。」

 ルクミニー「なにデタラメな誓いを立ててるんだい?今までトーターラームは子供を叱ったことなんてなかった。マンサーラームが1週間だけナニハール(母方の祖父母の家)に行ったときでも、自分で連れに行くほどうろたえてたんだよ。今じゃあそのマンサーラームを家から追い出して寮に入れようとしてるんだからね。マンサーラームにもしものことがあったら、お前はどうするつもりだい?あの子は今まで一度も外に住んだことがないんだよ。食べることも着ることも知らないんだ。座ったところでそのまま寝てしまうんだよ。身体は大きくなったけど、内面はまだ子供なんだよ。寮になんて住んだら、あの子は死んでしまうわ。寮じゃあ誰も、あの子が食事をしたか、どこで服を着替えたか、どこで寝たか、気にしやしないからね。家の中で気にする人がいないなら、家の外で誰が気にするってんだい?いいかい、私はお前に警告したよ、これからどうなるか、お前も見てなさい。」

 そう言ってルクミニーは去って行ってしまった。

 トーターラームが散歩から帰って来ると、ニルマラーはすぐにこの件について話を始めた。ニルマラーは最近、マンサーラームから少しの間だけ英語を習っていた。マンサーラームが寮に行ってしまったら、もう習うことができなくなってしまうわ!他に誰が英語を教えてくれるというの?彼女はそう訴えかけた。トーターラームは、今までそのことを知らなかった。ニルマラーは、ある程度しゃべれるようになったら、彼に英語で話しかけて驚かそうと考えていたのだった。彼女は、自分の兄弟から少しだけ英語を習ったことがあった。今では彼女は定期的に勉強をしていたのだった。トーターラームは再び激怒して言った。「いつからあいつはお前を教えてるんだ?お前は今までワシにそれを言ったことがあったか?」

 ニルマラーは、トーターラームがこれほど怒ったのを過去に一度だけ見たことがあった。それは、スィヤーラームを殴って気絶させてしまったときだった。トーターラームは、そのときと同じ憤怒の形相をしていた。ニルマラーは恐る恐る言った。「マンサーラームの勉強の邪魔はしていません。私は、あの子が暇なときに習ってました。もし忙しいならいいからってちゃんと聞きました。大体、あの子が遊びに行くときに呼び止めて、10分だけ時間を作ってもらっていました。私も、マンサーラームの邪魔にならないように気を付けていました。」

 大した話ではなかった。だが、トーターラームは寝台に力なく座り込み、額に手を当て、深刻な顔をして考え始めた。彼が考えていたよりも深刻な事態になりつつあった。彼は、予め息子を外に出しておかなかった自分に怒りが込み上げてきた。やけに最近ニルマラーが嬉々としている理由がようやく理解できた。以前はこんなに着飾ったりしなかったが、今ではまるで変身してしまったかのようだった。心は今すぐマンサーラームを家から追い出したい気持ちで一杯であったが、理性が、今は怒る必要はない、と言い聞かせていた。もしニルマラーにこの怒りを読み取られてしまったら、話はさらに厄介になってしまう。そうだ、ちょっとニルマラーの心を試してみよう、と考えたトーターラームは言った。「お前が2、3分英語を習うことで、マンサーラームの勉強に支障が出ることはないのはワシだって知っている。しかしな、あいつは風来坊だ、自分の仕事をしない言い訳になってしまう。もし落第でもしてみろ、あいつは言うだろう、1日中教えていて勉強する時間がありませんでした、と。お前のために家庭教師を雇うことにしよう。そんなに高くないだろう。お前はワシに今まで言わなかったからな。あいつに何が教えられる?2、3の単語を教えて走り去ってるんじゃないのか?そんなんじゃあ、お前はいつまで経っても英語が身に付かないだろう。」

 ニルマラーはすぐにマンサーラームを擁護して言った。「いいえ、そんなことはありません。マンサーラームは真面目に私に教えてくれます。それに、英語にさらに興味が持てるようなうまい教え方ですよ。あなたもいつか、あの子の教え方を見てみて下さい。家庭教師でもこんなに真剣に教えてはくれないでしょう。」

 トーターラームは自分の質問の絶妙さに酔いしれながら言った。「1日に1回教えているのか、それともそれ以上?」

 ニルマラーにはまだ質問の意図が分からなかった。彼女は言った。「前は夕方だけ教えてくれてましたけど、最近は書くのも教えてくれています。あの子が言ってましたけど、クラスで一番できるんですって。この前の試験では、あの子が一番だったらしいですよ。マンサーラームが勉強に興味がないなんて、あなたはどうしてそんなことおっしゃるんですか?それにきっとお義姉さんは、私が全ての原因だって思うに違いありません。私は何もしていないのに責められるんです。さっきも私を散々脅して行ってしまいました。」

 トーターラームは心の中で言った――ワシを何だと思ってるんだ?こいつはまだ子供の癖にワシに命令しようとしてるのか?姉さんを引き合いに出してまで我がままを押し通そうとしてるんだな。そしてトーターラームは言った。「寮に住むことで息子に害があるとは思えない。むしろ友達と一緒に住めるし、普通は喜ぶはずだ。だが、マンサーラームは逆に泣いている。少し前まで、あいつは真面目に勉強していた。クラスで一番を取ったのは、そのときの成果だ。しかし最近、あちこちぶらぶらし始めた。もし今すぐ止めなかったら、手遅れになってしまうだろう。お前のためには家庭教師を付けることにする。」

 次の日の朝、ムンシー・トーターラームは正装して外に出た。裁判所には数人の顧客が待っていた。その中には、毎年数千ルピーの報酬をくれる王族もいた。しかし、トーターラームは彼らをそこに待たせたまま、10分で帰って来ると約束して、馬車に乗って学校の校長のところへ行った。校長は立派な人物であった。トーターラームのことを大変歓迎したが、学校の寮には彼の息子のための空き部屋がなかった。全ての部屋は埋まっていた。学校監査官から、都市部の生徒たちよりも先にまず農村部の生徒たちに部屋を割り当てるよう厳命が出されていた。しかも、農村部の生徒たちからの入寮申請書が山積みになっていた。よって、たとえ部屋に空きが出ようとも、マンサーラームに割り振ることはできそうになかった。トーターラームは弁護士であった。朝も晩も、私益のために不可能を可能にするような人々と交渉していた。彼は、少し握らせればうまく行くだろうと考え、事務室の事務員に話しかけた。しかし、事務員は笑って言った。「トーターラームさん、ここは役所ではありません、学校です。もし校長の耳に少しでも入ったら、怒り狂ってマンサーラームを退学させてしまうでしょう。警察に届け出ることもありえます。」トーターラームは何も言うことができなかった。10時頃にイライラしながら家に戻って来た。ちょうどそのとき、マンサーラームは家から学校へ行くところだった。トーターラームは、まるで自分の敵が家に上がり込んで来たかのように、息子を睨み付けた。

 その後の十数日間、トーターラームはときに朝、ときに夕方、いろいろな学校の校長と会ってはマンサーラームを入寮させようとしたが、どこの学校の寮にも空きがなかった。結局、どの学校からもいい返事はもらえなかった。今や2つの方法しか残っていなかった。マンサーラームを下宿させるか、それとも別の学校に入学させるか。どちらの方法も簡単ではなかった。田舎の学校なら、いつも空きがあった。しかし、最近のトーターラームの心はだいぶ落ち着きを取り戻していた。あの日以来、マンサーラームが外に出掛ける姿を一度も見なかった。彼は遊びに出掛けることすらなかった。学校へ行く前も帰って来た後も、マンサーラームはずっと部屋に閉じこもっていた。夏の日であった。風通しのよい広場でも汗が身体から止めどもなく噴き出して来たが、マンサーラームは部屋の外に出ようともしなかった。マンサーラームの自尊心は、風来坊の汚名を返上しようと躍起になっていた。彼は、自分の言動からその汚名を消し去りたいと思っていた。

 ある日、ムンシー・トーターラームが座って食事をしていると、マンサーラームが沐浴を終えて食事の席に着いた。トーターラームはここ最近、マンサーラームの身体を見たことがなかった。今日、息子の身体を見た途端、トーターラームは驚いてしまった。まるで骸骨が目の前に立っているかのようだった。顔には今でも若々しさが光っていたが、身体は棒のようになってしまっていた。トーターラームは言った。「最近お前の体調はよくないなんじゃないか?どうしてこんなに痩せ細ってしまったんだ?」

 マンサーラームは腰布を巻きながら言った。「体調はとてもいいです。」

 トーターラーム「なら、どうしてこんなに痩せてるんだ?」

 マンサーラーム「痩せてなんかいません。僕がこれ以上太ったことはありません。」

 トーターラーム「昔の半分くらいしか肉がないじゃないか、それでも痩せてないと言うのか?ちょっと姉さん、マンサーラームはこんなに痩せたっけ?」

 中庭でトゥルスィー(神聖なハーブの木)に水をかけていたルクミニーは言った。「痩せることなんかないわよ、上手に育ててくれる人がいますからね。私は田舎者ですから、子供の世話なんか知らなかったし、いい加減な食事を食べさせて、子供を駄目にしてしまったわ。今じゃあ教養もあって家事も立派にこなす女性が居座ってるんですからね!あいつの敵が痩せますように!」

 トーターラーム「姉さん、どうしてそんな悪態をつくんだい?姉さんが子供を駄目にしたなんて、誰が言った?他の人にできない仕事は、姉さんがするべきだ。家の全てから関係を断ち切ることはない。ニルマラーもまだ子供だ、他の子供の世話がどうしてできる?これは姉さんの仕事だよ。」

 ルクミニー「自分の子供だと思っていたときはそうしていたわよ。お前が私のことを他人だと思ってるなら、どうしてお前の言うことなんか聞く必要があるの?最後に牛乳を飲んだのはいつか聞いてみなさいよ。行ってあの子の部屋を見てみなさいよ、朝食のために出したミターイー(甘いお菓子)がそのまま腐ってるわ!私が出した食べ物を誰も食べようとしなかったら、口の中に押し込めって言うの?いい、あんた、このままだとあの子は一度も愛されて育ったことのない子供のようになってしまうでしょう。お前の息子たちはみんな孤児みたいに幸せを知らない子供になってしまうでしょう。はっきりと言わせてもらうわ。悪く思われても、誰も何も言わないよりはましだから!あんたは子供を寮に送ろうとしてるようね、家に帰って来るのすら禁止するつもりらしいわね。この子は私のところに来て震えてるのよ、でも私のところにはこの子に食べさせるものもないの!」

 そのときマンサーラームは2枚のローティー(パン)を食べただけだったが、立ち上がった。トーターラームは言った。「なんだ、もう食べ終わったのか?まだ来てから1分も経ってないじゃないか。たった2枚しか食べてないだろう。」

 マンサーラームは小さな声で言った。「ダール(豆カレー)とタルカーリー(野菜カレー)も食べました。たくさん食べ過ぎると、喉が痛くなるし、げっぷが出るんです。」

 ムンシー・トーターラームは食事を終えると、不安を抱えながら立ち上がった。もし息子がこのまま痩せ細って行ったら、何か悪い病気にでもなってしまうかもしれない。このとき彼にはルクミニーに対して怒りが込み上げていた。姉さんは、自分が家の女主人でないから嫉妬しているんだ。そもそも姉さんは家の女主人になって一体どうするつもりなんだ。お金の数え方も知らないのに、どうして女主人になれようか?確かに1年間は女主人になっていたが、パーイー(当時の最小貨幣単位)すら残らなかったじゃないか。ループカラー(前妻の名)は今の収入で2、300パーイーは余らせることができた。姉さんは、支出を収入内に収めることすらできなかった。それはいいとしても、姉さんは子供たちを溺愛してでくの坊にしてしまった。こんな大きな子供たちに、わざわざ言って聞かせて食べ物を食べさせる必要があるか?もう食事くらい自立しなくちゃならない年頃だ。トーターラームは1日中このことで悩んでいた。数人の友人に相談してみたところ、彼らは口を揃えて言った。「子供の遊びを邪魔するべきじゃない。今から子供を閉じ込めるようなことはするな。狭い部屋の中に引き篭もっている方が、外で遊び回っているよりも悪い影響を与える可能性が高い。悪い友達とつるむのは必ず止めさせるべきだが、家から出ることを禁じるのはやりすぎだ。若い頃に孤独癖が身に付いてしまうのはよくない。」

 トーターラームは自分の間違いに気付いた。家に戻ると、マンサーラームのところへ行った。彼はちょうど学校から戻って来たところで、制服を着たまま本を開いて、前の窓を眺めていた。彼は、自分の子供を抱いて物乞いをしている1人の女乞食を見ていた。子供は、母親に抱かれて、まるで王座に座っているかのようにご機嫌であった。マンサーラームはその子供を見て涙が溢れてきた。この子供は僕よりも幸せなんじゃないだろうか?この広い世界に、母親の胸以上に幸せな場所があるだろうか?神様ですら、母親の胸以上に幸せなものを創り出すことはできないだろう。ああ、神様はどうして、母親と別れなければならない運命の子供を生み出したんだろう?僕のような不幸な人間が、この世の中に他にいるだろうか?僕が食べようと飲もうと、生きようと死のうと、誰も気に掛けてくれない。もし今日、僕が死んでしまっても、誰の心にも何の傷も残らないだろう。父さんは今では僕を泣かせて楽しんでいるし、僕の姿を見ようともしてくれない。僕を家から追い出す準備をしている。ああ、お母さん!僕は今日、風来坊と言われています!お母さんが3人の息子を託したあのお父さんが、今日では僕のことを風来坊とかでくの坊とか呼んでいるんです。僕は、この家に住む資格もないんでしょうか?マンサーラームはとうとう声を上げて泣き出してしまった。

 そのときトーターラームは部屋の中に入って来た。マンサーラームはすぐに涙を拭ってうつむきながら立ち上がった。トーターラームが息子の部屋に入ったのは、おそらくこれが初めてであった。マンサーラームの心臓は、今日はどんな不幸が起こるのかと、音を立てて鼓動し始めた。マンサーラームが泣いているのを見た途端、トーターラームの愛情は長い長い眠りから飛び起きた。驚きながら言った。「おい、どうして泣いてるんだ?誰かに何か言われたのか?」

 マンサーラームは、何とか湧き上がる涙をこらえて言った。「いいえ、泣いていません。」

 トーターラーム「母さんが何か言ったんじゃないか?」

 マンサーラーム「いいえ、お母さんは僕と話してもくれません。」

 トーターラーム「マンサーラーム、ワシは子供たちに母親が必要だと思ったから再婚したんだ。しかし、その期待はどうやら間違いだったようだ。母さんは何も話さないのか?」

 マンサーラーム「はい、ここのところ数ヶ月間、話してくれません。」

 トーターラーム「訳の分からん性格の女だ、何が欲しいのか全く分からない。もしあの女の性格がこんなだと知っていたら、ワシは結婚などしなかった。毎日何かしら問題を起こす。母さんが、子供が1日中どこかへ行ってしまっていると言ってたんだ。あいつの心をワシがどうして知っていようか?ワシはてっきり、お前が悪い友達とつるんで1日中遊び回っているかと思っていた。自分の可愛い息子が風来坊のようにほっつき歩いているのを見て顔色を変えない父親はいないだろう。だからワシはお前を寮に入れようと決めたんだ。ただそれだけの話だったんだ、マンサーラーム!ワシはお前の遊びを止めたいとは思っていなかった。お前の今の状態を見ると、ワシの心はチクチク痛むんだ。昨日、ワシは自分の間違いに気付いた。お前は心ゆくまで遊んでいい、朝でも夕方でも、広場に行って遊びなさい。新鮮な風に触れなさい。何か必要なものがあったらワシに言いなさい。母さんに言う必要はない。母さんは家にいないものと思いなさい。お前の母さんは亡くなってしまったが、ワシはまだいるぞ。」

 マンサーラームの純粋で誠実な心は父性愛に触れて恍惚となった。目の前に神様の化身が立っていると感じた。絶望と焦燥により打ちひしがれ、父親のことを残酷だとか、他にもいろいろ誤解していた。継母にも何の不平もなかった。今や彼は、神様に等しい父親に対して多くの罪を犯してしまったことに気付いた。父親に対する愛情が波のように沸き起こり、マンサーラームは父親の足元にひれ伏して泣き出した。すると、トーターラームに憐憫の情が沸き起こって来た!一瞬でも目の前からいなくなったら心配で心配でたまらなかった愛息子を、知人にも他人にも自慢してはばからなかった賢く誠実で行儀のいい愛息子を、どうしてこんな厳しい視線で見るようになったのだろう?自分の可愛い息子を敵と見なして、家から追い出そうとしていた。父と息子の間には、ニルマラーが壁となって立っていた。ニルマラーを自分の方へ向けるために、後ろに下がらなくてはならなかった。父と息子の間の溝は深まっていくばかりだった。結果、今のような状況となってしまった。自分の実の息子を貶めようとしていた。今日、彼はよく考えた後、ひとつの方針を決めた。ニルマラーを間から取り除いて、自分の片腕同然の息子を自分の方へ引き寄せることにしよう。彼はこの方針を実行に移し出した。しかし、それによって望むような結果が得られるかどうか、誰にも分からなかった。

 ニルマラーは、トーターラームが必死の説得にも関わらずマンサーラームを寮に送ることを決めた日から、マンサーラームから英語を習うのを止めていた。そればかりか、彼と話そうともしなかった。ニルマラーは、夫が自分を疑っていることに何となく気付いていた。こんなに疑り深い人だったなんて!神様、この家を守って下さい!あの人は何か悪い考えに取り付かれているわ!私のことをそこまで見下しているなんて!そう考えながら、ニルマラーは何日間も泣き暮らしていた。だが、次第に彼女は考え始めた。どうしてあの人はそんな疑いを持ち始めたのかしら?あの人を苛立たせるようなことを私はしたかしら?ニルマラーは考えに考えたが、身に覚えがなかった。もしかして、マンサーラームに英語を教えてもらったり、一緒に話したりすることがいけないのかしら?それなら、もう私は彼から習ったりしないし、間違っても話したりしないわ。彼の姿も見ないようにしましょう。

 しかし、そうすることは彼女にとって非常に苦痛であった。マンサーラームと話すと、彼女の想像力は膨らみ、心は満たされるのだった。彼と話すと、言葉では表せないほどの無限の喜びを感じるのだった。彼女の心には、不純な欲望は少しもなかった。彼女は、マンサーラームと禁断の恋愛をしようなどとは夢にも考えることができなかった。あらゆる生物には、自分と同じ種の存在と戯れたいという自然の欲求があるものだ。彼女にとって、マンサーラームと話すことはその欲求のひとつの表れであった。今やニルマラーの心には、満たされない欲求が灯りのように燃え始めた。彼女の心は未知の欲求によって揺さぶられていた。何か失くしてしまった物をあちこち探し回っていた。そこに座ったと思ったら、またあそこに座るということを繰り返した。どの仕事にも集中できなくなってしまった。ただ、トーターラームがやって来ると、彼女は自分の全ての欲望を悲しみに沈め、微笑みながら彼と世間話を始めるのだった。

 昨日、トーターラームが食事をして裁判所へ出掛けると、ルクミニーはニルマラーをこっぴどく罵った。「ここで子供の世話をしないといけないって知ってたんだったら、どうして家族にこことは結婚したくないと言わなかったんだい?夫以外誰もいないところに嫁いでりゃよかっただろ。お前のその自慢の容姿を見て満足するような男と結婚すればよかっただろ。あの中年男にお前の美貌の何が役に立つんだい?弟は子供の世話をさせるためにお前と結婚したんだよ、お楽しみのためなんかじゃないんだよ。」

 ルクミニーは長い間、ニルマラーの傷に塩を塗りつけていたが、ニルマラーはうんともすんとも言わなかった。彼女は弁解をしたい気持ちでいっぱいだったが、何もすることはできなかった。もし彼女が、私は夫に言われたことをしているだけよ、とでも言おうものなら、壺のひとつやふたつが割れていたことだろう。もし彼女は自分の間違いを認め、それを直したならば、いったいどんな結果になるのか分からなかった。彼女は元々思ったことをはっきりと言う性格であり、真実を言うのをためらったり恐れたりはしなかった。だが、いかんせん微妙な立場に立たされており、彼女は沈黙を守らざるをえなかった。その他にいい方法はなかった。彼女は、マンサーラームが落ち込んでいるのを知っていた。マンサーラームが日に日に痩せ衰えて行くのにも気付いていた。しかし、彼女は何も言うことができなかったし、何もすることもできなかった。このときのニルマラーはまるで、泥棒の家に泥棒が入ったときのような状態であった。

第8章

 何らかの事象が我々の期待に反したとき、心に悲しみが沸き起こるものだ。マンサーラームは、ニルマラーが彼の告げ口をするなどとは考えてもいなかった。だから彼は非常に落ち込んでいた。母さんはどうして告げ口なんてしたんだろう?何をしたいんだろう?僕の学費や生活費が父さんの稼ぎを食いつぶしていると思っているんだろうか?僕を家から追い出そうと思っているんだろうか?僕がいなくなれば、母さんの取り分が増えるだろう。母さんは僕にいつも優しい。母さんの口から一度も汚ない言葉を聞いたことはない。それは全部演技だったんだろうか?そうかもしれない。鳥を罠にかけるために、猟師は餌を撒くものだ。あぁ!やっぱり餌には罠があるんだ!母さんの愛情は、僕を追放するための準備だったのか!

 僕がこの家にいるのがそんなに気に食わないんだろうか?母さんの夫は、僕の父親じゃないか?父親と息子の関係は、夫と妻の関係よりも親密じゃないと言うのか?でも、僕は母さんの絶対的支配を妬んだりしていない。母さんがすることに僕は何も口出していない。なら、どうして母さんは僕から父さんを奪おうとするんだろうか?母さんは、自分の帝国の領内で僕が木の陰に座って休むことも許さないんだろうか?

 そうだ、母さんはきっと、僕が大きくなったら父さんの財産を受け継ぐ立場にいると考えているに違いない。だから、今の内から僕を追い出そうとしているんだろう。僕に対してそんな疑いを持たなくてもいいのに、どうやって説得すればいいんだろう?マンサーラームは母さんを害する前に毒を飲んで死んでしまう人間であるということを、どうやって伝えればいいんだろう?マンサーラームはどんな困難を耐え忍ぼうとも、それが母さんの心の中の棘になることはないのに。父さんは僕に生をくれたし、今でも僕に対する愛情は減っていないだろう。でも、新しい母さんと結婚したときから、父さんは僕を自分の心の外に置いたことくらい、僕だって理解している。僕たちは孤児のようにこの家に住めばいい。この家は僕たちのものではないんだ。前世の行いのおかげで、他の孤児に比べたら僕たちの状態はまだましだ、でも孤児には変わりない。僕たちは、母さんがあの世へ逝ってしまったときから孤児になってしまったんだ。あのときはそうは思わなかったけど、父さんが再婚してそれがはっきりと形となったんだ。僕は前々から新しい母さんとは特に関係を持っていなかった。もしあの頃に母さんが父さんに僕の告げ口をしていたなら、多分こんな悲しみは起こらなかっただろう。僕は何の衝撃も受けなかっただろう。僕は小間使いとして働くことだってできる。でも、悪いときに母さんは僕を傷つけた。肉食動物は油断した人間を襲うものだ。だから僕に対してあんなに親切にしてくれていたんだ。だから食事に少しでも遅れたら、呼びに来てくれていたんだ。だから早朝新鮮なハルワー(甘いお菓子)を作ってくれていたんだ。だから何度も何度も、お金の必要はないか聞いてくれてたんだ。だから100ルピーの時計を買ってくれたんだ。

 しかし、僕のことを風来坊と呼ぶ他に、別の告げ口を思い付かなかったのだろうか?そもそも、母さんは僕がふらふら遊び歩いているのを見たことがあるのだろうか!マンサーラームは勉強に身が入っていない、マンサーラームは事あるごとに小遣いを要求する、そういう告げ口をすることもできただろう。よりによってどうしてそんな告げ口をしたのだろう?多分、それが僕に一番大きな傷を負わせる手段だと考えたから、そうしたんだろう。母さんは僕を一撃で打ちのめそうとしたんだ。父さんが僕に対して失望するように仕向けたんだろうか?僕を寮に送るのはただの言い訳だ。僕を牛乳に入ったハエのようにつまみ出すのが目的なんだ。2、3ヶ月後に、僕への仕送りも止めてしまうつもりだろう。僕が生きようと死のうと後は野となれ山となれだ。もし、この計画が全て母さんのものだと知っていたなら、何とかして家に留まろうとしただろう。使用人の小屋に住むこともできるし、ベランダにも寝るには十分の場所がある。とにかく、いまや愛情はないのだから、腹を満たすために居座るのは恥知らずの行為だ。もうこれは僕の家じゃない。父さんも僕の父さんじゃない。僕は父さんの息子だけど、父さんは僕の父さんじゃないんだ。この世の全ての関係は愛情でできている。もし愛情がないなら、なにもない。ああ、母さん!一体どこにいるの?

 マンサーラームは泣き出した。母親のことを思い出せば思い出すほど、彼の目には涙が溢れ出てきた。彼は、まるで母親がそこに立っているかのように、何度も「お母さん!お母さん!」と叫んだ。母親を失った悲しみを、今日彼は初めて味わっていた。マンサーラームは自尊心が強く、勇敢な少年であったが、それは今まで彼が幸福の胸の中に抱かれていたからだった。このとき彼は自分の身寄りのなさを初めて噛みしめていた。

 夜の10時になっていた。トーターラームはどこかへ外食に出ていた。女中が2度、マンサーラームのところへ夕食の準備が出来たことを告げに来ていた。2度目に来たとき、マンサーラームはかっとなって女中に言った。「腹が減ってないんだ、何も食べられない。何度も来ていらいらさせるんじゃない!」だから、ニルマラーは再度女中を送ろうとしたが、彼女は行こうとしなかった。「奥様、坊ちゃんは私が呼んでも来ないでしょう。」

 ニルマラー「来ないはずないわ。行って、食事が冷めてしまうから早く来るように言いなさい。一口二口でも食べられるだけ食べればいいわ。」

 女中「全部言いましたけど、駄目でした。来ようとしません。」

 ニルマラー「お前は、私が待っていることを言ったのかい?」

 女中「いいえ、奥様、それは言っていません。嘘を言っても仕方ないでしょう?」

 ニルマラー「そう、なら行って伝えなさい。私が座って待っているって。もしお前が食べないなら、私も食べずに寝てしまうと伝えて来なさい。ブーンギー!いいかい、もう一度だけ行きなさい、もし来なかったら、抱えてでも連れて来なさい。」

 ブーンギーは顔をしかめながらマンサーラームの部屋へ行った。そしてすぐに戻って来て言った。「奥様、坊ちゃんは泣いてますよ。誰か何か言ったんですか?」

 ニルマラーは、まるで自分の息子が井戸に落ちたという知らせを聞いたときの母親のように驚き、2、3歩ヨロヨロと進んだ。しかしすぐに立ち止まり、ブーンギーに言った。「泣いている?どうして泣いているのか、お前は聞かなかったの?」

 ブーンギー「いいえ、奥様、聞きませんでした。嘘を言っても仕方ないでしょう?」

 マンサーラームが泣いている。この漆黒の夜に1人座って泣いている。母親のことを思い出しているのでしょう。何て言ってなぐさめたらいいのかしら?ああ、どうやって?ここではすること成すこと全て裏目に出てしまう。神様!どうかお助け下さい、もし私が誤ってでもあの子に何か言ったのなら、私を罰して下さい。私はどうすればいいの?マンサーラームは、私が父親に告げ口をしたと思っているに違いないわ。私があの子の悪口を一言も言っていないことを、どうやって説明すればいいの?もし、あんな神様の子供のような子を悪く言ったなら、私以上の悪魔はこの世界にどこにもいないでしょう。

 ニルマラーは、マンサーラームの健康が日に日に悪くなって行っていること、日に日に弱って行っていること、彼の顔の美しさが日に日に消え去って行っていること、彼の逞しい身体が日に日に衰えて行っていることに気付いていた。その理由も彼女はよく理解していた。だが、このことについて彼女は夫に相談することができなかった。全てを目の当たりにして、彼女の心は引き裂かれて行くようだったが、彼女の口は一寸たりとも開くことができなかった。彼女は時々心の中でいらついていた。マンサーラームはどうしてこんな小さなことに怒っているのかしら!私が彼を風来坊と呼ぶだけで、彼は風来坊になってしまうの?それに、ほんの少しの疑いが私を破滅させることができるわ。でも、そんなこと彼がどうして気にする必要があるの?

 彼女は心の中で何度も何度も、行ってマンサーラームを泣き止ませ、連れて来て食事をさせようと考えていた。可哀想に、夜中じゅうお腹を空かせてしまうでしょう。ああ!私がこの問題の原因なんだわ。私が来る前、この家はとても平和だった。父親は子供を可愛がっていたし、子供は父親を愛していた。私が来た途端に壁が出来てしまったんだわ!これからどうなるのかしら?神様のみご存知でしょう。神様は私に死すら授けて下さらないわ。可愛そうに、マンサーラームは1人でお腹を空かせているわ。昨夜も、少し口にしただけで席を立ってしまったわ。1、2歳の子供が食べる分だけしか食べていないわ。

 ニルマラーは立ち上がった。夫の意向に反し、マンサーラームの部屋へ向かった。血縁上の息子を説得しに行くのに、彼女の心は震えていた。

 彼女はまず、ルクミニーの部屋の方を見た。彼女は食事を終えてすやすやと眠っていた。その後、外の部屋の方へ行った。そこも静まり返っていた。トーターラームはまだ帰って来ていなかった。全てを注意深く調べた後、ニルマラーはマンサーラームの部屋の前に立った。戸は開いていた。マンサーラームは1冊の本を前に、まるで悲しみと不安の生きた肖像のように、机の上に突っ伏していた。ニルマラーは声を掛けようと思ったが、喉から声が出なかった。

 ふと、マンサーラームは頭を上げて壁の方を見た。暗かったので、ニルマラーを見ても誰だか分からなかった。彼はぎょっとして言った。「誰?」

 ニルマラーは声を震わせながら言った。「私よ。どうして食事に来ないの?もう夜中になってしまったわ。」

 マンサーラームは顔を背けて言った。「お腹が減ってません。」

 ニルマラー「それはもうブーンギーから3度も聞いたわ。」

 マンサーラームは皮肉に満ちた作り笑いしながら言った。「僕がすごくお腹が減っているときは来ないくせに。」

 マンサーラームはそう言って扉を閉めようとした。しかし、ニルマラーは扉を押しのけて部屋の中に入り、マンサーラームの手を取った。そして、目に涙を浮かべながら懇願する口調で言った。「お願いだから、私のために少しでも食べて。食べないなら、私も食べずに寝るわ。一口でいいから食べて。夜中じゅう腹を空かせるつもりなの?」

 マンサーラームは考え込んでしまった。今の今まで母さんは何も食べずに、僕を待っていてくれた。彼女は果たして母性愛の女神だろうか、それとも嫉妬と凶兆の妖女であろうか?彼は、自分の昔の母親を思い出した。彼がへそを曲げたとき、彼女も同じように彼をなだめに来たものだった。そして彼が納得するまで、彼女はそこに座り込んでいたものだった。マンサーラームは、ニルマラーのお願いを拒絶することができなかった。彼は言った。「僕のために母さんにも迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。もし、母さんがお腹を空かせて僕を待っていてくれていると知っていたなら、僕はすぐにでも食べに来てました。」

 ニルマラーは怒った顔をして言った。「お腹を空かせたお前を放っておいて、私が先に食べて寝てしまうとでも思っていたの?私があなたの継母だからと言って、そんな勝手なことするとでも言うの?」

 そのとき、表の部屋からトーターラームの咳の声がした。見ると、マンサーラームの部屋の方へ来ているようだった。ニルマラーの顔から血の気が引いた。彼女はすぐに部屋から出たが、自分の部屋に戻ることができないと分かると、大声を上げた。「私はこんな夜中まで誰かのために台所に座っているような下女じゃないわ!食事がいらないなら、前もって言って欲しいものだわ。」

 トーターラームはニルマラーが立っているのを見た。この馬鹿女!こんなところで何してやがるんだ?彼は言った。「何してるんだ?」

 ニルマラーは声を荒げて言った。「何してるかですって?自分の不幸を泣いているところです。全ての不幸の原因なんだわ、私は。こっちで誰かがへそを曲げてると思ったら、向こうでは誰かが頬を膨らませているし。一体、誰をなだめたらいいか、どこまでなだめたらいいか?」

 トーターラームは驚いて言った。「どういうことだ?」

 ニルマラー「食事をしに来ないんです、その他に何があります!何回も女中を呼びによこしても来ないから、最後には私が来なくちゃならなくなったわ。あの子は、お腹が空いていないと言うだけで済むからいいわ。この家じゃあ私は家中の奴隷なんだわ、世間は私だけを悪者扱いしようとする。本人が、お腹が空いていないと言っているのに、みんなは私があの子に何も食べさせていないと後ろ指を差すのよ、しかも誰もそれを止めようとしない!」

 トーターラームはマンサーラームに言った。「どうして食事を食べないんだ?もう何時か知ってるか?」

 マンサーラームは身動きせずに立っていた。彼には、今何が起こっているか全く理解できなかった。ついさっきまで懇願の涙で溢れていた目に、どこから突然嫉妬の炎がやって来たのだろうか?ついさっきまで甘露の雨を降り注いでいた唇から、毒の流れがどうして流れ出たのだろうか?その混乱した意識の中で彼は言った。「お腹が空いていません。」

 トーターラームは怒って言った。「どうして腹が減ってない?もし食欲がないなら、どうして夕方に前もって言わない?お前が腹を空かせるのを誰が夜通し待つと言うんだ?昔はそんなことなかっただろう。そんなへそ曲がりにいつからなった?行って食事をしろ。」

 マンサーラーム「本当に少しもお腹が減ってないんです。」

 トーターラームは歯をむき出して言った。「そうか、なら腹が減ったときに食べればいい。」そう言って、トーターラームは自分の部屋へ行ってしまった。ニルマラーも夫の後に付いて行った。トーターラームはもう寝ようとしていた。ニルマラーは食器を片付け、うがいをしてパーン(噛みタバコ)を食べ、微笑みながら夫のそばへやって来た。トーターラームは言った。「夕食は食べたよな?」

 ニルマラー「ええ!誰かのために夕食を外したりしないわ。」

 トーターラーム「あいつはどうなってしまったんだろう、全く訳が分からない。日に日に態度が悪くなっているし、自分の部屋に閉じこもってばかりいる。」

 ニルマラーは何も言わなかった。彼女は不安の海の中で溺れていた。マンサーラームは、私の態度が豹変したのを見て心の中でどう思ったことでしょう?父親を見た途端、私の態度がどうして変わったのか、不思議に思ったことでしょう?その理由を理解することができたかしら?あの子は食事をしに来るところだったのに、この旦那が突然帰って来てしまった。この微妙な状況をどうやってあの子に説明したらいいの?それに説明することは可能かしら?私は板ばさみになってしまったわ!

 翌朝、彼女は起きて家事をしていた。9時になると、ブーンギーがやって来て言った。「マンサー坊ちゃんが荷物をまとめてます。」

 ニルマラーは困惑して言った。「荷物をまとめてるですって!どこへ行くの?」

 ブーンギー「私が聞いたら、今日から学校に住むんだって言ってました。」

 マンサーラームは朝起きると、学校の校長先生のところへ行って、自分の入寮の準備をして帰って来たのだった。初め、校長先生は、空き部屋はない、君の前にも多くの学生の入寮願書を受け取っている、と断ったが、マンサーラームが、空き部屋がないなら、勉強はできないし、試験も受けることができない、と言うと、校長先生も折れざるをなかった。マンサーラームは首席で試験に合格する可能性があったからだ!先生たちは、きっとマンサーラームがこの学校の名声を高めると信じていた。そのような学生をどうして手放すことができるだろうか?校長先生は自分の事務所の部屋を彼のために空き室にした。よって、マンサーラームは学校から戻ると、すぐに荷造りを始めたのだった。

 トーターラームは言った。「そんなに急ぐ必要はないだろう?2、3日後に行けばいいじゃないか。ワシは、お前のためにいい料理人を探しているところなんだ。」

 マンサーラーム「寮の料理人はおいしい料理を作っています。」

 トーターラーム「健康にはくれぐれも注意しなさい。勉強に熱中し過ぎて健康を崩すようなことがあってはいかんぞ。」

 マンサーラーム「寮では、9時の後は誰も勉強できないことになっています。規則に従って遊ばなければなりません。」

 トーターラーム「どうして敷布団を持って行かない?どこに寝るつもりだ?」

 マンサーラーム「毛布を持ってます。敷布団はいりません。」

 トーターラーム「小間使いにお前の荷物を運ばせるから、それまでお前は行って何か食べなさい。昨晩も何も食べてないだろう。」

 マンサーラーム「寮で食べます。寮食で食事を作るように頼んで来たところです。それにここで食べていたら遅れてしまいます。」

 家では、ジヤーラームとスィヤーラームも、兄と一緒に家を出て行くと強情を張っていた。ニルマラーはそんな子供たちをなだめていた。「よく聞きなさい!お兄ちゃんが行くところは、小さな子供は住めないの。自分のことは全部自分でしなくちゃいけないのよ。」

 そのときルクミニーがやって来て言った。「お前の心は石のようだね!あの子は夜も何も食べていないし、今も食べずに行ってしまおうとしている。それなのにお前は子供たちとおしゃべりかい。お前は分かってるのかい?マンサーラームの行くところは学校じゃない、島流しだよ。もう二度と戻って来ないだろう。あの子は、ぶたれたことをすぐに忘れる子じゃない。あの子の心に傷はいつまでも残り続けるだろうよ。」

 ニルマラーは興奮して言った。「じゃあどうしろと言うの、お義姉さん?あの子は誰の言うことも聞かないんですから。あなたが行って呼び止めて下さい。あなたが言えば、聞くでしょう。」

 ルクミニー「そもそもあの子が出て行かないといけなくなった原因は何だい?あの子は今まで家ですねることなんてなかったんだ。自宅以外の場所で落ち着くことなんかなかったんだ。お前があの子に何か言ったに違いない、あの子の告げ口をしたに違いない。お前はどうして他人の嫌がらせばかりするんだい?家を滅茶苦茶にしておいて、自分だけすやすや眠れるとでも思ってるのかい?」

 ニルマラーは泣きながら言った。「私がもしあの子に何か言ったなら、舌が切れてもいいわ!きっと継母だからこんなひどい目に遭うのよ。お願いだから、行ってあの子を引き止めてちょうだい。」

 ルクミニーは声を荒げて言った。「お前が行けばいいだろう?なに怠けてるんだい?自分の子供だったら、そんな呑気にはしてないくせに。」

 ニルマラーの状況は、まるで翼のない鳥のようだった。蛇が目の前に迫っていながら、飛ぼうとしても飛べず、飛び跳ねても落っこち、羽根をいたずらに撒き散らすだけだった。彼女の心は奥の奥でもがき苦しんでいたが、それを表に出すことができなかった。

 そのとき、2人の子供がやって来て言った。「お兄ちゃんが行っちゃった。」ニルマラーは、まるで言葉を失ったかのように呆然と立ち尽くした。行ってしまった。家の中まで来ずに、私に挨拶もせずに行ってしまった!行ってしまった?私のことがそんなに嫌いなの!確かに私はあの子の何でもないわ、でも、叔母さんがいたじゃない?叔母さんには一度は会いに来るべきでしょう?ああ、私がここにいたからだわ!どうして中に入って来れるでしょう。私に見られてしまうからだわ!だから何も言わずに行ってしまったんだわ!

第9章

 マンサーラームが去って行ってしまった後、家は急に物寂しくなってしまった。2人の弟たちは、兄と同じ学校で学んでいた。ニルマラーは、彼らに毎日マンサーラームのことを聞いた。彼女は、休みの日に彼が帰って来ると期待していた。しかし、休みの日になっても彼は来なかったので、ニルマラーは失望した。彼女は、マンサーラームのためにムーング豆のラッドゥー(お菓子)を作っておいた。月曜日の朝、ブーンギーにラッドゥーを持たせて学校に送った。9時にブーンギーは帰って来た。マンサーラームはラッドゥーに少しも手をつけずに送り返していた。

 ニルマラーは聞いた。「様子はどう?前よりも元気になったかしら?」

 ブーンギー「元気になるどころか、余計やせ衰えていました。」

 ニルマラー「どうして?体調でも悪いの?」

 ブーンギー「それは聞いてません、奥様、嘘を言っても仕方ないでしょう?そういえば、そこの小間使いが言っていました。あんたのとこの坊ちゃんは何も食べないって。2、3口食べただけで席を立ってしまって、それから1日中何も食べないようです。毎日勉強ばかりしてるみたいですよ。」

 ニルマラー「お前、ラッドゥーをどうして送り返すのか、聞かなかったの?」

 ブーンギー「それは聞きませんでした、奥様、嘘を言っても仕方ないでしょう!坊ちゃんが、ここに置いておいても食べないから持って行けと言ったので、持って帰って来ました。」

 ニルマラー「他に何か言ってなかった?昨日はなぜ家に帰って来なかったのか、聞かなかったの?休みだったのに。」

 ブーンギー「奥様、嘘を言っても仕方ないでしょう。その質問は思い付きませんでした。そうそう、こんなこと言ってました。お前はもう二度とここに来るな、僕のために何も持って来るなって。あと、奥様にはこんなこと言ってました。僕のところに手紙も何も送ってよこすな、弟たちにも僕のところへ伝言させるなって。あと、もうひとつ言ってましたが、ちょっと言いにくいことで。それを言った後、泣き出してしまいました。」

 ニルマラー「何を言ってたの?言ってみなさい?」

 ブーンギー「何て言えばいいんでしょう、奥様。僕は生きてちゃいけないんだ、と言ってました。そう言って泣き出してしまいました。」

 ニルマラーは大きなため息をついた。まるで心臓が沈んでいくような気分だった。彼女の全身の毛が衝撃の余りむせび泣いているようだった。彼女は居ても立ってもいられなくなった。部屋に戻ると、布団に顔を押し付けて寝転び、大声を上げて泣き出した。彼にも分かったんだわ!彼女の心の中では、何度も何度もこの言葉が響き渡っていた――彼にも分かってしまったんだわ!神様、これからどうなるの?彼女を苦しめていた疑いの炎は、今や100倍の大きさとなって燃え広がり出した。彼女は、自分の心配など少しもしていなかった。人生において、彼女はもはや幸せになりたいなど一片も考えていなかった。彼女は、これは前世の罪の償いなのだと心の中で自分で自分に言い聞かせていた。このような境遇の中で長生きしようなど、誰がそんな恥知らずなことを考えようか?彼女は、運命という名の祭壇に自分の人生と全ての希望を捧げたのだった。心は泣いていたが、顔は微笑みで飾り立てなければならなかった。顔も見たくないような人の前で、彼女は嬉しそうに話をしなければならなかった。少し触られただけで蛇に絡まれた気分になるような人に彼女は抱擁されていた。その嫌悪と悲しみを、誰が理解しただろう?そのようなとき、彼女はただ、この地面が裂ければいい、その中に落っこちてしまえばいい、と考えていた。それでも、今まで全ての悲しみは自分の中に限られていた。そして彼女は自分の心配をもはやしていなかった。だが、問題は今や危険な方向へ向かっていた。ニルマラーは、マンサーラームの心の悲しみを直視することができなかった。マンサーラームのような賢く逞しい若者に対するこのような不名誉は、危険な結果を生む可能性があった。そしてそれを想像すると、ニルマラーの魂は恐怖で震え上がるのだった。今や、彼女はいかなる疑いをかけられていたとしても、自殺して償わなければなければならなくなっても、黙って見過ごすことはできなかった。マンサーラームを何としてでも守らなければ、と彼女は考え出した。彼女は、ためらいと恥じらいのヴェールを脱ぎ捨てる決意をした。

 ムンシー・トーターラームは、食事をして裁判所へ行く前に、必ず一度、ニルマラーに会いに来ていた。彼が来る時間になっていた。もうすぐ来るでしょう、そう考えて、ニルマラーは部屋の戸口に立って待とうとした。すると、どういうことか、トーターラームは外に出ようとしているところだった。馬と車もつながれてやって来ていた。彼はいつもニルマラーの部屋から馬車の用意をするよう指示を出していた。ということは、今日はあの人は来ないの?このまま裁判所へ行ってしまうの?いえ、そんなことは許さないわ。ニルマラーはブーンギーに言った。「行って主人を呼んで来てちょうだい。話したいことがあるからと言って来なさい。」

 トーターラームは今にも出発しようとしていた。ブーンギーから伝言を伝えられると、家の中に入って来た。だが、部屋には来ずに遠くから大声で聞いた。「どうした、早く言ってくれ、ワシは緊急の用事で行かなくちゃならんのだ。少し前、校長先生から手紙が来てたんだ。マンサーラームが熱を出していて、家で治療しないといけないくらい深刻らしい。だから学校に寄って裁判所へ行くんだ。で、何の用事だ?」

 ニルマラーはまるで稲妻に打たれたかのようになった。目の涙と喉の声の間で激しい争いが起こり始めた。先を争う両者は出口で突っかかっており、お互い先を譲ろうとしなかった。声の弱さと涙の強さから、一見すると、このまま戦いが続けばどちらが勝ちかを決めるのは難しくなかった。とうとう両者は同時に外に出た。だが、外に出た途端に強者は弱者を押さえつけた。ニルマラーの口からはただこの言葉だけが声になって出た。「何でもないわ。今日、あなたは学校に行くのね。」

 トーターラーム「子供たちに聞いたときは、昨日は座って勉強をしていたと言っていたんだが、今日は一体どうなってしまったことか。」

 ニルマラーは怒りで震えながら言った。「全部あなたのせいよ。」

 トーターラームも怒って言った。「ワシのせいだと!ワシが何をしたと言うんだ?」

 ニルマラー「自分の胸に聞いて下さい。」

 トーターラーム「ここじゃあ勉強に打ち込めないだろう、でも寮なら友達と一緒に好きなだけ勉強ができるだろうと考えてあいつを寮に送ったんだ。別に悪いことじゃない。他にワシが何をした?」

 ニルマラー「よく考えて下さい、どうしてマンサーラームを寮に送ったのか、考えて下さい!あなたの心に他の考えはありませんでしたか?」

 困惑したトーターラームは、自分の不利な立場を隠すために苦笑いを浮かべて言った。「他に何がある?お前も考えてみろ!」

 ニルマラー「そう、ならいいです。今すぐ行って、どうか今日中にあの子を連れて来て下さい。寮に住んでいたら、ますます体調を崩してしまうでしょう。家なら義姉さんが看病してくれます。」

 そして、一瞬うつむいた彼女は言った。「もし私のために連れて来たくないのでしたら、私を実家に送って下さい。私は大丈夫です。」

 トーターラームは何も答えず、家の外に出た。馬車は学校の方へ去って行った。

 心よ!お前は何と挙動不審で、不可思議で、強情なのだろう!お前は何と節操のないことか。移り身の早さでお前に敵う者はいない。花火ですら色が変わるのに少し時間がかかるのに、お前の色の変化にはその十万分の一の時間もかからない。ついさっきまで父性愛で満ちていた心には、今や猜疑の念で満たされていた。

 トーターラームは考えていた。「あいつはもしかして何か言い訳を考えているのか?」

第10章

 マンサーラームは2日間、深く考え込んでいた。何度も何度も死んだ母親のことを思い出した。何も食べる気がせず、勉強にも身が入らなかった。まるで彼は別人のようになってしまった。寮に篭りっきりなのにも関わらず、先生が明日までにやって来るようにと出した宿題を次の日になっても終えていなかった。その結果、彼は椅子の上に立って罰を受けなければならなかった。今までそのようなことは一度もなかった。この耐えがたい屈辱を耐え忍ばなければならなかった。

 3日目、彼は同じく深い悩みに悩まされながら、自分に対して言い聞かせていた。「この世で母さんを失ったのは僕だけじゃない。継母というのはみんなあんな感じなんだ!僕だけに不幸が起こってるわけじゃない。僕は男らしく、人一倍努力しなければならない。父さん母さんが望む通りにしなければならない。もし今年奨学金がもらえたら、家からお金をもらう必要もなくなる。自分の力だけで大きな仕事を成し遂げる人はいくらでもいる。人間が成すべきことは、困難を克服しながら機会を見て義務を果たすことだ。自分の不幸を嘆いていても何も始まらない。」

 そのとき、ジヤーラームがやって来た。

 マンサーラームは言った。「家の様子はどうだ、ジヤー?新しい母さんは元気だろう?」

 ジヤーラーム「母さんが何を考えているのかは知らないけど、兄さんが出てってから、母さんは一口も食べてないんだ。見るといつも泣いてるよ。でも父さんが帰って来ると、必ず笑い出すんだ。兄さんが家を出た日の夕方、僕も自分の本をまとめたんだ。兄さんと一緒にここで住もうと思って。でも、ブーンギーが行って母さんに言ったんだ。父さんも座ってたけど、父さんの前で母さんは僕の本を取って言ったよ。『お前が行ってしまったら、この家に誰が残るというの?もし私のせいでお前たちが家を捨てて出て行くなら、その前に私がどこかへ出て行くわ。』僕はいらいらしてたし、もうそこには父さんもいなかったから、怒って言ったんだ。『どうして母さんがどこかへ行くんですか?これは母さんの家です、のんびりと暮らして下さい。よそ者は僕たちです。僕たちがいなければ、母さんはもっとのんびりできるでしょう。』」

 マンサーラーム「お前、よく言ってやったな、本当によく言った。母さんは腹を立てて父さんに告げ口しに行ったことだろう。」

 ジヤーラーム「いや、そんなことは起こらなかった。母さんは地面に座り込んで泣き出したよ。さすがの僕もかわいそうになって、僕まで泣き出しちゃった。それで、母さんはヴェールで僕の涙を拭って言ったんだ。『ジヤー、私は神様に誓って言うわ、私はお前のお兄さんについてお父さんには一言も言ってないのよ。私は不幸な運命に従って生きているだけ。』その後母さんが何を言ったのか、僕は理解できなかったよ。父さんの話だった。」

 マンサーラームは不安になって言った。「父さんについて何を言ったんだ?何か覚えているか?」

 ジヤーラーム「う〜ん、覚えてないよ、兄さん。僕の記憶力はあまりよくないんだ。でも、母さんの話はこんな感じだったよ。何だったか、母さんは父さんを喜ばすために演技をしなければならないとか。他に、善とか悪とか訳の分からないことも言ってたな。僕が思うに、母さんは兄さんをここに送ろうなんて思ってなかったんじゃないかな。」

 マンサーラーム「お前にはまだ詐欺師の何たるかが分かってないみたいだ。これは大した詐欺さ。」

 ジヤーラーム「兄さんには分かるんだろうけど、僕には分からないよ。」

 マンサーラーム「幾何学が分からないお前に、これが分かるはずがない。あの日の夜、母さんが夕食に呼ぶために部屋に来て、僕は母さんがうるさく言うからしぶしぶ夕食を食べに行こうとしたんだ。あのときの父さんを見た母さんの態度の豹変ぶりを僕は忘れることができない。」

 ジヤーラーム「僕にはそれがよく分からないんだ。つい昨日、僕が家に帰ると、母さんは兄さんの様子を聞き出したんだ。僕は、『兄さんはもうこの家に足を踏み入れないと言ってました』と答えた。嘘は言ってないよ、だって兄さんがそう言ったんだし。その途端、母さんは大声出して泣き出したんだ。僕は心の中で、何でこんなこと言ったのかとっても後悔したよ。母さんは、何度も何度も言ってたな。『私のせいで家を出るの?私がそんなに憎いの!私に会わずに行ってしまった!食事が出来ていたのに、食べにも来なかった!ああ!私はどうすればいいのかしら?』そのとき父さんが帰って来たんだ。すると、すぐに目を拭いて、嬉しそうに父さんのところへ行ったんだ。僕には全然理解できないよ。今日僕は母さんに、兄さんを連れて来るように頼まれたよ。今日僕は兄さんを引っ張ってでも家に連れ帰らなくちゃならないんだ。2日の内に母さんはすっかり痩せてしまったよ、あの姿を見れば、兄さんも同情するだろう。今日は帰るでしょ?」

 マンサーラームは何も答えなかった。彼の足は震えていた。ジヤーラームは授業開始の鐘の音を聞いて走って行ったが、彼はベンチに横になり、まるで長い間息を吸っていなかったかのような長いため息をついた。彼の口からは、耐え切れない悲しみに沈んだ声がにじみ出た。「ああ、神様!」彼は、この言葉がなければ自分の人生は無意味だと感じていた。このひとつの息の中に、どれだけの悲しみ、どれだけの同情、どれだけの哀れみ、どれだけの苦しみが込められていたことか、それを誰が見抜くことができただろう!今、彼の目の前で全ての謎が解けつつあった。何度も何度も彼の悲痛な心は叫び声を上げていた。「ああ、神様!なんという屈辱!」

 人生において、これよりもつらい不幸を想像することができるだろうか?世の中において、これよりもひどい屈辱を想像することができるだろうか?今日までこれほどまで心無い恥辱を息子に与えた父親は他にいないだろう。あれほど賞賛してやまなかった息子に、若者の理想像と考えていた息子に、不純な考えをそばに寄り付かせようともしなかった息子に、このようなひどい屈辱!マンサーラームは、まるで自分の心がズタズタに引き裂かれるような思いだった。

 次の鐘が鳴った。生徒たちは自分の教室へ向かったが、マンサーラームは手の甲に頬を置き、瞬きもせずに地面を眺めていた。その姿は、まるで彼の全存在が水に沈んでしまったかのようでもあり、また誰にも顔を見せられないかのようでもあった。授業を欠席したことになってしまう、先生に怒られてしまう、彼はそんなことなど心配していなかった!彼の全存在が消えてしまった以上、そんな小さなことを恐れる必要などあるだろうか?このようなひどい屈辱を味わいながらものうのうと生き続けるのは、彼にとって人生への侮辱であった!

 その深い悲しみの中で彼は叫んだ。「母さん!母さん、どこにいるの?母さんが命を捨ててかわいがってくれた息子が、母さんの生きがいだった息子が、今日、崖っぷちに立たされています。父さんは息子に刃物を突きつけています。ああ、母さん、どこにいるの?」

 だが、マンサーラームは落ち着いて考え出した。なぜ僕はそんな疑いをかけられるようになったのだろう?何が原因なのだろう?父さんは僕のどの様子を見てそんな疑いを持つようになったのだろう?父さんは無実の僕に罪をなすりつけるような敵じゃない。必ず何かを見たり聞いたりしたに違いない。父さんはとても僕のことを愛してくれていた!僕がいなければ食事をしようともしなかった。そんな父さんが僕の敵となったなら、その裏には必ず原因があるはずだ。

 よく考えてみよう、その疑いの種がまかれたのはいつのことだろう?僕を寮に送ると言い出したのはだいぶ後のことだ。あの日の夜、父さんが僕の部屋に来て試験をし出したとき、父さんの機嫌は悪かった。あの日、何が父さんの機嫌を損ねたんだろう?僕は新しい母さんに食べ物をもらいに行った。父さんはあのときそこに座っていた。そうだ、あのとき父さんの顔がパッと赤くなった!あの日から母さんは僕から習うのをやめた。もし、僕が家で行ったり来たりすることや、母さんと話したりすることや、母さんを教えたりすることを父さんがよく思わないと知っていたなら、今日こんなことにはならなかっただろう。そして母さんもこんな苦労をすることはなかっただろう!

 マンサーラームは今までニルマラーの気持ちを考えようとしなかった。ニルマラーのことを考え出した途端、彼は涙がこみ上げてきた!母さんの純粋で愛情に満ちた心が、このような侮辱をどうして耐え忍ぶことができるだろうか?ああ!僕はなんという間違いを犯してしまったのだろう!僕は母さんの愛を演技だと思っていた。父さんの疑いを晴らすために僕に対してわざと冷たく当たっていたなんて、僕にどうして理解できただろう?ああ!僕は母さんに対してなんとひどい仕打ちをしたんだろう!母さんの状態は、僕よりもひどくなっていることだろう。僕はここに来てしまったけど、母さんはどこへ行くというのだろう?ジヤーは、母さんは2日間何も食べていないと言っていた。きっと毎日泣き暮らしていることだろう。何て謝ればいいんだろう?母さんは、なんで僕のために不幸を1人で背負ってるんだ?どうして何度も何度も僕のことを聞くんだ?僕を何度も泣かせるのはどうしてなんだ?母さんに対して、僕はあなたを憎んだりしていません、心から尊敬していますと、どうやって言えばいいんだろう?

 母さんは今でも座って泣いていることだろう。なんてひどいことだろう?父さんはどうなってしまったんだ?こんなことのために再婚したのか?1人の若い女性の命を奪うために結婚したのか?1本の美しい花を折って持って来たのは、拳で握りつぶすためだったのか?

 母さんを救うためにはどうしたらいいだろう?母さんの顔に喜びを呼び戻すためにはどうしたらいいだろう?母さんは、僕と親しくしたがためだけにこんな罰を与えられているんだ。優しさの代償に何という苦しみを味わっているのだろう?僕は、母さんがこのような残酷な恥辱に耐え続けているのを黙って見過ごしていていいのか?自分の名誉を守るためじゃない、母さんの命を守るために自分の命を捧げなくてはならないだろう。その他に母さんを救う手段はない。ああ!もっといろんなことをしてみたかった。全て灰にしてしまわなければならないだろう。1人の貞女に疑いがかけられている、それも僕のために!僕は自分よりも母さんを守らなければならない、これこそが僕の義務だ。これこそが真の勇気だ。母さん、僕は自分の血でこの汚名を洗い流します。そうすれば、僕にとってもあなたにとっても、利益となるでしょう。

 マンサーラームは1日中そのことを考え込んでいた。夕方、彼の2人の弟がやって来て、家に帰ろうと言い出した。

 ジヤーラーム「どうして帰らないの?兄さん、帰ろうよ!」

 マンサーラーム「お前の都合に合わせて帰れるほど暇じゃないんだ。」

 ジヤーラーム「明日は日曜日だよ。」

 マンサーラーム「日曜日にもやらなきゃいけないことがある。」

 ジヤーラーム「じゃあ、明日には来るよね?」

 マンサーラーム「駄目だ、明日は試合に行かなきゃならない。」

 スィヤーラーム「母さんがムーング豆のラッドゥー(お菓子)を作ってるんだ。帰らないと1個ももらえないよ。僕とジヤーで兄さんの分も全部食べちゃうからね!

 ジヤーラーム「兄さん、もし明日も来なかったら、母さんが自分でここに来ると思うよ!」

 マンサーラーム「本当か!いや、そんなことはしないだろう。ここに来られたら大変だ。お前たち、兄さんはどこかへ試合を見に行っていたと言っておけ。」

 ジヤーラーム「嘘なんて付きたくないよ。僕は、兄さんは機嫌悪そうに座ってたって言うから。僕が母さんを連れて来るからね。」

 スィヤーラーム「それに、兄さんが今日は授業に行かなかったって言っちゃうよ。ごろごろ寝転がってたって。」

 マンサーラームは、2人の弟に明日帰ると約束して何とか解放された。2人が去った後、再び彼は思考に沈んだ。夜通し寝返りを打って過ごした。日曜日も無為に流れ去った。馬車の車輪の音が聞こえると、彼の心臓は高鳴るようになった。もしかして母さんじゃないだろうか!

 寮には小さな医務室があった。1人の医者が夕方に1時間だけ来て診察をしていた。もし生徒が病気になると、その医者が薬を与えていた。マンサーラームは何かを考えながら医務室へ行って戸口に立った。医者はマンサーラームのことをよく知っていた。彼を見て驚きながら言った。「君、一体どうしてしまったんだ?まるで削り取られて行ってるみたいじゃないか!何か変なものでも食べてるんじゃないか?で、本当にどうしたんだ?ちょっとこっちに来なさい!」

 マンサーラームは微笑んで言った。「僕は人生の病にかかってしまいました。その薬がありますか?」

 医者「すぐに検査をしなければ。君の容姿は誰だか分からないほど変わってしまった。」

 そう言って医者はマンサーラームの手を取った。そして胸、腹、目、舌など全てを慎重に検査した。その後、心配そうな顔をして言った。「今日にも君の父親に会わなければならない。君は結核になりかけている。全て検査をしてみたが、疑いようもない。」

 マンサーラームは喜んで言った。「そうですか!あと何日の命でしょうか?」

 医者「何てこと言うんだ?私は、トーターラームさんに君をどこか山の上に送るよう助言するつもりだ。神様がお望みになるなら、君もよくなるだろう。病気はまだ初期段階にある。」

 マンサーラーム「それなら、あと1、2年といったところですね。それまで僕は待てません。それなら僕は結核でも何でもありませんし、どうか父さんを無意味に心配させるのはよして下さい。今、僕は頭痛がするんです。とりあえずその薬を下さい。2晩続けて寝付けてないので、眠気も一緒に催すような薬があればそれが一番です。」

 医者は劇薬の棚を開け、ひとつの瓶から少しだけ薬を抜き出してマンサーラームに渡した。マンサーラームは聞いた。「これは毒薬ですね。これを飲んだら死んでしまうんですか?」

 医者「死にはしないが、目まいはするだろうね。」

 マンサーラーム「飲んだ途端に死んでしまうような薬はないんですか?」

 医者「ここにあるのはそういう薬ばかりさ!例えばこの瓶の中に入ってる薬は、一滴でも腹に行ったら助からないだろう。飲んだ途端にイチコロさ!」

 マンサーラーム「毒を飲んで自殺する人は、死ぬときとっても苦しいでしょうね?」

 医者「全ての毒薬が必ずしも飲むと苦しいわけじゃない。この薬などは、飲むと途端に身体が冷たくなって、そのまま意識は二度と戻らない。」

 マンサーラームは考えた。それなら自殺するのはとても簡単だ。人はなぜそんなに恐れているのだろう?この瓶はどこで手に入るだろうか?町の薬屋で薬の名前を言っても、多分売ってくれないだろう。でも、薬を手に入れるのはそんなに難しいことじゃない。少なくとも簡単に死ぬことができることが分かっただけでも大きな収穫だ。マンサーラームは、まるでご褒美をもらったかのように嬉しい気分になった。彼の心に乗っかっていた重荷は取り除かれた。頭を覆っていた暗雲も消え去った。何ヶ月か振りに彼は心に活力がみなぎるのを感じていた。

 数人の少年が演劇を見に行こうとしていた。寮監から許可をもらっていた。マンサーラームも彼らと一緒に演劇を見に行った。彼は、この世にこれほど幸せな生き物はいないのではないかというほどの幸せを感じていた。劇場で物真似を見て、彼は大笑いしてのけぞった。何度も何度も拍手したり、「アンコール」のコールをかけることに関して、マンサーラームの右に出る者はいなかった。歌を聞くと彼は興奮して「オッホッホー!」と叫んだ。観客の視線は何度も彼の方へ注がれた。劇場の役者すらも彼の方を注視し、一体どこの誰がこれほど劇に熱中しているのかと興味を持った。彼の友達は、マンサーラームのはしゃぎ振りに驚いていた。マンサーラームは元々とても物静かで、真面目な少年だった。今日のマンサーはどうしてこんなに笑い上戸なんだ?どうしてこんなに見境いなく大騒ぎしてるんだ?

 深夜2時になって劇場から帰って来た後も、マンサーラームのはしゃぎ振りは変わらなかった。彼は1人の少年の寝台をひっくり返した。そして数人の男の子の部屋を外から閉じ、中からドンドンと戸を叩く音を聞いては大笑いしていた。とうとうその騒ぎのせいで寮長まで目を覚ましてしまった。そしてマンサーラームの悪戯に遺憾の意を表明した。彼の心にどれだけ大きな革命が起こっていたか、誰が知っていようか?彼の身に投げかけられた疑いは、彼の羞恥心と自尊心を滅茶苦茶にしてしまった。彼は、軽蔑や叱責をもはや少しも恐れていなかった。これは悦楽ではなく、彼の魂の悲しい嗚咽であった。全ての生徒が寝静まると、マンサーラームも寝台に横になった。しかし少しも眠気はやって来なかった。すぐに彼は起き上がると、全ての本をまとめて箱にしまった。死んでしまうなら、本を読んで何になる?人生にこんな困難と苦痛があるならば、死んでしまった方がマシだ!

 そう考えている内に夜が明けてしまった。3晩続けて彼は一睡もしていなかった。立ち上がると、彼の足はプルプルと震え、目まいがした。目は真っ赤になり、全身がだるかった。日はどんどん昇っていたが、彼は手や顔を洗う気力すらなかった。そのとき、彼はブーンギーが何かを包んだハンカチを持って下男と一緒にやってくるのを見た。彼の心臓は一瞬動きを止めた。ああ、神様!ブーンギーが来てしまった、どうしたらいいんだろう?ブーンギーは1人じゃないだろう。馬車も外で待っていることだろう。彼はついさっきまで立つこともままならなかったのに、ブーンギーを見た途端に走り出し、彼女に恐る恐る尋ねた。「母さんも来てるのか?」母親が来ていないことが分かると、彼の心は静まった。ブーンギーは言った。「坊ちゃん!奥様は、私はあの子の告げ口はしていないと言っていました。私に今日、泣きながら言ってました。あの子のところへこのミターイー(お菓子)を持って行って、どうして私のせいで家を出てしまったのか、言いなさいって。このお盆はどこに置きましょうか?」

 マンサーラームは荒々しく言った。「お盆は自分の頭の上に乗せておけ、このあばずれ女!ミターイーを持って消えろ!もう2度とここに来るんじゃない!何持って来やがったんだ!言って母さんに言え、僕はミターイーなんかいらないって!お前の家なんだ、僕のことなんか気にせずのんびり暮らせばいい!僕は僕でたらふく食べて、楽しんでるしな!いいか、父さんにも言っておけ、全部分かったってな。僕は誰も怖くないぞ。したいことをすればいい、思う存分すればいい。言われればイラーハーバードでもカルカッタでも行ってやる。僕にとってバナーラスも他の町も同じだ。ここに何があるってんだ?」

 ブーンギー「坊ちゃん、ミターイーを受け取って下さい、そうでないと泣き死んでしまいます。本当です、奥様は泣き死んでしまいます。」

 マンサーラームは沸き起こる涙の波を抑えながら言った。「死のうがどうなろうが僕の知ったことか!誰も僕のことを分かってくれないのに、どうして僕が気にする必要がある?母さんは僕の全てを滅茶苦茶にしたんだ。母さんに、僕に何の伝言もよこすな、必要ないって言っておけ!」

 ブーンギー「坊ちゃんはここでお腹いっぱい食べてる、楽しんでるって言いますけど、坊ちゃんの身体は半分以下になってしまいましたよ。ここに来たときの半分もありませんよ。」

 マンサーラーム「お前の目がおかしいんだろう。2、3日後には丸々太って豚みたいになってやるから見てな。母さんには、泣くのはやめるように伝えろよ。泣いて何も食べなくても、僕の責任じゃない。僕を家から追い出したんだから、のんびり暮らせばいい。ちょっと愛情を見せようと来ても無駄だ。僕はそういうずるい女の行動は全部お見通しだ。」

 ブーンギーは立ち去った。マンサーラームはブーンギーと話している内に少し冷静になった。この演技をするために彼は自分の感情を抑えなければならなかったが、それは彼にとって不可能なことだった。彼の自尊心は、このような不遜な態度を取るのを出来る限り早くやめるのに障害となっていた。これからどうなるんだろう?ニルマラーはこの侮辱を耐えることができるだろうか?今まで自殺を考えていたときは、他の人の命のことは全く考えなかった。しかし今日、自分の人生にもう1人の人生がつながっていることに気付いた。ニルマラーは、自分の残酷さが僕の命を奪ったと考えるだろう。そう考えたとき、彼女の優しい心は裂けてしまわないだろうか?彼女の人生は今でも十分苦しい。猜疑心という狡猾な罠にはまったか弱い女性が、自分を殺人者だと考えながら長く生きることができるだろうか?

 マンサーラームは寝台に横になってキルトをかぶった。それでも彼は寒さで心の震えが止まらなかった。しばらくすると、彼を高熱が襲った。そして意識を失ってしまった。この朦朧とした意識の中で、彼はいろいろな夢を見た。時々彼は起き上がって目を開けたが、すぐに気を失って倒れてしまうのだった。

 と、突然、トーターラームの声を聞いて目覚めた。確かに父親の声だった。彼はキルトをおしのけて寝台から下り、立ち上がった。彼は心の中で、今、父さんの前で命を絶とうと考えた。僕が死ねば父さんは大喜びするだろう、彼はそう思った。おそらく、僕が死ぬまであとどれくらいか見るために来たのだろう。トーターラームは彼の手を取って倒れないように支え、聞いた。「調子はどうだ、どうして寝てない?さあ、寝なさい。どうして立ち上がったりなんかしたんだ?」

 マンサーラーム「僕の体調はすこぶる快調です。父さんこそどうしてわざわざ来たんですか?」

 ムンシー・トーターラームは何も答えなかった。息子の状態を見て、彼の目からは涙がこぼれ落ちた。あれほど誇りに思っていた逞しい体格の少年が、今では骨のようになっていた。5、6日の内に、父親でさえ見間違えてしまうほどやせ細ってしまっていた。トーターラームは彼をゆっくりチャールパーイーに寝かせ、キルトを掛け、考え出した。さあ、どうしたらいいだろうか?息子にもしものことがあってはいけない。そう考えて彼は悲しみに苛まれ、腰掛けに座ると大声を上げて泣き出した。マンサーラームもキルトに口を押し付けて泣いていた。数日前までは、父親の心は彼を見て誇りで満たされていたのだった。それが今や、その痛々しい状態を見ても彼は考えていた。息子を家に連れ帰るべきだろうか?ここに薬はないのだろうか?ワシがここで24時間看病していよう。医者もここにいる。何の心配もないだろう。トーターラームは、彼を家に連れ帰るのに不安を抱えていた。最も恐れていたのは、ニルマラーがマンサーラームのそばにずっと付きっ切りになって、しかもそれを止めることができないことだった。彼にとってそれは我慢ならないことだった。

 そのとき寮長がやって来て言った。「この子を家に連れ帰るお積もりでしょう。馬車もありますし、問題ないでしょう。ここでは満足に看病もできません。」

 トーターラーム「そうですね、そう思ってここに来たんですが、息子の状態を見るにとても重症のようです。少しでも油断して錯乱状態になってしまうのが不安です。」

 寮長「ここから家に連れて行くのに少し不安があるのは確かですが、しかしここでは自宅のようにゆっくり休息することはできないでしょう。それに、病気の生徒を置くのは寮の規則にも反しています。」

 トーターラーム「必要なら、校長先生から許可をもらって来ます!私は、このような状態の息子を連れ帰るのは適切とは思えません。」

 校長の名を出すのを聞いた寮長は、この人は自分を脅迫しているのだと考えた。寮長は少しムッとして言った。「校長であっても規則に反することはできません。それに、私はこんな重大な責任を負うことはできません。」

 さあどうしよう?家に連れ帰らなければならないだろうか?ここから連れ出すと病気が悪化するというのは、ここにマンサーラームを置くための言い訳だった。ここから連れ出して病院に入院させるためにはどんな言い訳があるだろう?聞いた者は、医者の診療代を浮かすために病院に息子を捨てて来たと言うだろう。しかし、今やマンサーラームを連れ出す以外に方法はなかった。もし寮長が賄賂を受け取ってくれるなら、多分2、3年の給料分くらいは渡していただろう。しかし、規則、規則と繰り返す者にそんな知恵と賢さがあるだろうか?もし誰か彼にマンサーラームを家に連れ帰らなくてもいい方法を教えてくれる人がいたら、彼は一生その人を恩人だとみなしただろう。考える時間もなかった。寮長は悪魔のように睨み付けていた。トーターラームは仕方なくなって、2人の馬丁を呼び、マンサーラームを起き上がらせた。マンサーラームは半分朦朧としながら驚いて言った。「うわ、誰だ?」

 トーターラーム「心配するな、マンサー、ワシはお前を家に連れ帰るよ。さあ、抱きかかえてやるから。」

 マンサーラーム「どうして家に連れ帰るんですか?僕は帰りません。」

 トーターラーム「ここに住むことはできないだろう、規則があるんだ。」

 マンサーラーム「何が何でも家には帰りません。僕をどこか他の場所に連れて行って下さい。どこかの木の下でも、どこかの小屋でもいいですから、好きなところへ連れて行って下さい。でも、家にだけは連れて帰らないで下さい。」

 寮長はトーターラームに言った。「あなたはこの子の言うことを気にしないで下さい。動転しているだけです。」

 マンサーラーム「動転してる?僕が動転してるって?僕が誰かに悪口を言ったか?誰かに噛み付いたりしてるか?なぜ動転してる?僕をここにこのまま寝させて下さい。ここで全てを受け容れます。もし出て行かなければならないなら、病院に入院させて下さい、そこで寝込んでます。生きるなら生きるし、死ぬなら死にます。でも、家には絶対に帰りません。」

 トーターラームはもう一度寮長にお願いしてみたが、規則に縛られた人間は何も聞こうとしなかった。もし感染症にかかって、他の寮生にもそれが伝染したら、その責任は誰が負うのか、その理論の前に、トーターラームの自慢の弁論術も口を開くことができなかった。

 トーターラームはマンサーラームに言った。「マンサー、どうして家に帰るのをそんなに嫌がるんだ?家に帰ればゆっくりできるだろう。」

 トーターラームは口ではそう言っていたが、実際はマンサーラームが家に帰るのを承諾することを恐れていた。彼は、マンサーラームを病院へ入院させるための口実を探していた。そしてその責任をマンサーラームに押し付けようとしていた。彼はわざと寮長の前でその話をした。彼は、マンサーラームが自分で病院へ行くことを望み、自分には何の罪もないということの証人にしようと考えていた。

 マンサーラームはいらいらしながら言った。「嫌です、絶対に嫌です!僕は家には帰りません!僕を病院に入院させて下さい、そして家の誰も僕に会いに来ないように言って下さい!僕は別にどこも悪くありません!病気じゃありません。僕を放して下さい、自分の足で歩けます!」

 マンサーラームは立ち上がり、狂人のように戸口に向けて歩いた。しかし、彼は足をもつれさせてしまった。もしトーターラームが支えなかったら、彼は大怪我をしていたことだろう。トーターラームは使用人の助けを借りて彼を馬車に座らせた。

 車は病院へ向かった。トーターラームが望んでいた通りになった。この悲しみの中でも彼の心は満足しなかった。息子は自分で望んで病院へ行っている。これはつまり、彼が家の誰にも愛情を抱いていないということの証拠ではなかろうか?ということは、マンサーラームは無実だということにはならないだろうか!ワシは息子を誤解しているのではないだろうか?

 しかし、すぐに喜びの代わりに良心の呵責が沸き起こって来た。彼は自分のかわいい息子を家に連れ帰る代わりに病院へ連れて行っている。彼の邸宅には、息子のために場所がないのだ。息子が瀕死の状態にあるというのにも関わらず!何と言う皮肉だろう!

 さらに次の瞬間、トーターラームの心に疑問が沸き起こった。もしやマンサーラームはワシの考えに気付いてしまったのではあるまいか?だから彼はこれほど家に帰るのを拒否しているのでは!もしそうなら大変なことになる。

 自分の妄想にトーターラームは戦慄を覚え、心臓は奇妙な鼓動をし始めた。心に何かが突き刺さった気分だった。もしこの熱の原因がそれだったら、神様しかすがりつくことができる者はいないだろう。このときの彼の状態はとても哀れなものだった。彼が自分の凍えた手を温めるために付けた火は、今や彼の家全体に燃え広がっていた。その悲しみと後悔と疑念で彼の心は動揺した。彼の密かな嗚咽が少しでも外に漏れ出ることができたならば、それを聞く者は泣かずにはいられなかっただろう。彼の涙が外に流れ出ることができたならば、その流れはすぐにせき止められたことだろう。悲しみで動揺したトーターラームは息子を抱きしめ、後でしゃっくりが止まらなくなるほど泣いた。

 病院の門が見え始めた。

第11章

 夕方、ムンシー・トーターラームが裁判所から帰宅すると、ニルマラーはマンサーラームの様子を尋ねた。トーターラームは、ニルマラーの顔に少しも心配の色がないのを見て取った。ニルマラーは化粧をしていた。彼女は普段から首飾りを着けず、ジューマル(頭飾り)も大して好きではなかったが、今日は首飾りが彼女の首に美を添え、ジューマルが薄い絹のサーリーの下、黒い髪の上に、シャンデリアの如く輝いていた。

 トーターラームはそっぽを向いて言った。「病気だ、それ以上のことは分からない。」

 ニルマラー「あなたはマンサーを連れ帰りに行ったんでしょう?」

 トーターラームは苛立って言った。「あいつが帰って来ようとしないんだ、無理矢理連れ帰れって言うのか?何度も何度も説得したんだ、さあ、帰ろう、家に帰れば何の心配もないって。だが、家という言葉を聞いただけでマンサーの熱はますますひどくなってしまった。ここで死んでも家には帰らないと言っていたよ。最後には諦めて病院に入院させた。他にどうしようもなかったんだ。」

 ルクミニーもやって来て話に割って入った。「あの子は強情だから、ここには絶対に帰って来ないだろうね。それにいいかい、病院なんかにいてもあの子はよくならないだろうよ。」

 トーターラームは悲痛な声を上げて言った。「姉さん、2、3日でいいから病院に行って来て下さい!そうすればマンサーの慰めになるだろう!姉さん、お願いです!一人でいたら、きっと泣きながら死んでしまうだろう!マンサーはただ『ああ、お母さん!ああ、お母さん!』と繰り返して泣いていた!ワシも行くから、一緒に来て下さい!マンサーの体調がよくないんだ。全く変わり果てた姿になってしまった。あとはもう神頼みしかない!」

 ムンシー・トーターラームの目からは涙が溢れ出した。だが、ルクミニーは身じろぎせずに言った。「私はいつでも一緒に行くわ。もし私があの子の傍にいることで命が助かるなら、私は走ってでも行くわ。でも、一度私の話もよく聞きなさい!病院にいたらあの子によくないでしょう。私はあの子のことをよく知ってるわ。マンサーは病気でも何でもない、ただ家から追い出されたことが悲しいだけよ。その悲しみが熱になって現れてるのよ。いくら薬を飲ませても、いくら医者に見せても、何の効果もないでしょうよ。」

 トーターラーム「姉さん、誰がマンサーを家から追い出したんですか?ワシはただ勉強のために寮に住まわせただけです。」

 ルクミニー「お前が何を考えてマンサーを寮に送ったかは知らないが、それがあの子を傷つけたのは確かだよ。私は今じゃあ何でもないし、何か口出しする権利もない。家の主人はお前、女主人はお前の嫁。私はお前の家に居候している憐れな未亡人に過ぎないんだよ。私の言うことを誰も聞かないし、誰も私のことなんか気に掛けやしない。でも、今回ばかりは口出しせずにはいられない。マンサーは、家に帰って来て、お前の心が以前のようになって、初めて回復するだろうよ。」

 ルクミニーはそう言ってそこから立ち去った。人生の経験豊かな彼女にとって、目の前で起こっていることの秘密など手に取るように理解できた。そして彼女の全ての怒りはニルマラーに向けられていた。このときも彼女は、このラクシュミー(富の女神;ニルマラーの暗喩)が家にいる限り家の状態は悪化し続ける、と言いかけたが、敢えて口には出さなかった。しかし、トーターラームは彼女の言おうとしていたことを感じ取っていた。ルクミニーが去った後、彼は考え出した。このとき彼は、壁に頭をぶつけて死んでしまいたいほど自分に対して怒りが込み上げていた。なぜ再婚なんかしたんだろう?再婚する必要なんかあったのか?神様は3人もの息子を授けて下さったのに!年齢も50歳近かったのに、再婚なんてどうしてしてしまったのだろう?

 神様は、このひとつの失敗のために私を滅ぼすつもりなのだろうか!彼は頭を上げ、一度ニルマラーの姿を見てから、病院へ向かった。ニルマラーの顔には笑みが浮かび、その表情には全く動揺が見られなかった。ニルマラーのその姿は、彼の心を平静にさせた。今日、久し振りに彼はこの平静を得られたような気がした。愛に狂った心は、このような状態においてどうして平静かつ不動でいられようか?いや、絶対に平静ではいられないだろう。心の傷は、表情を作るだけでは隠し切れないものだ。自分の心の弱さに、彼はこのとき非常に憤りを覚えた。訳もなく心を疑念に任せてしまい、このような災難が起こってしまった。マンサーラームに対する疑念の気持ちも静まって来た。その代わり、彼に対して新たな疑念が沸き起こっていたのは確かだった。マンサーラームは気付いてしまったのではなかろうか?気付いてしまったからこそ、家に帰るのをこんなに嫌がっているのではなかろうか?もし気付かれてしまったら、それこそ最大の災難だ。それを想像しただけで、彼の心は戦慄で震え上がった。体中の骨という骨が、この疑念を何とか打ち消そうと疼くのだった。

 彼は、御者に馬の足を速めるように指示した。長らく彼の心を覆っていた暗雲は切れ目を見せ、光が中から今にも差し込もうとしていた。窓から顔を出してみると、御者はちっとも馬を急がせていなかった。馬車の歩みがこれほど遅く感じたことは今までなかった。病院に着くと、大急ぎでマンサーラームのところへ直行した。見ると、医者がマンサーラームの前で困った顔をして立っていた。ムンシー・トーターラームは怖気づいてしまった。口から一言も言葉を発することができなかった。むせぶような声で何とか言葉を搾り出した。「どんな様子ですか、ドクター?」そう言いながら彼は泣き出してしまった。医者が答えるのを一瞬ためらっている間に、トーターラームの全神経は、寝台に横たわったマンサーラームに向けられた。彼は寝台に腰掛けると、意識を失っている息子を抱き寄せ、子供のように嗚咽し始めた。マンサーラームの身体は、鉄鍋のように熱くなっていた。マンサーラームはふと目を開けた。ああ、なんと悲惨な光景なのだろう!トーターラームは息子を胸に抱きしめながら医者に聞いた。「息子はどうなってるんですか、ドクター?どうして何も答えてくれないんですか?」

 医者はかすれた声で言った。「あなたがご覧になっている通りです。熱が41度もあります。まだ熱は高くなりそうです。出来る限りのことをやっていますが、神頼みとしかいいようがありません。あなたが去った後、私はずっとここで様子を見ています。食事もしていません。1分後に何が起こるかも分からないほど事態は深刻です。高熱のあまり、意識がありません。時々、精神錯乱状態のような痙攣もあります。家で誰かに何か言われたんですか?何度も何度も『お母さん、どこにいるの?』と呻いています。」

 医者が言葉を終えない内に、マンサーラームは起き上がって座り込み、トーターラームを一押しして寝台から落とし、狂人のような声で言った。「どうして脅すんですか?殺してください、殺してください、今すぐ殺してください!剣はないんですか?縄ならあるでしょう!それもない?自分で首を吊って死にます。ああ、お母さん、どこにいるの?」そう言って、再び意識を失ってしまった。

 トーターラームは少しの間、マンサーラームの力の抜けた体を呆然とした表情で見つめていたが、急に医者の手を取って懇願し始めた。「ドクター、息子を助けて下さい、神様のために助けて下さい、もしものことが起こったら、私はおしまいです。お金ならあります、あなたが欲しいだけお金を払いますから、どうか息子を助けて下さい。いい医者を呼んで、息子の検査をさせて下さい。私が・・・私が全ての費用を出します!息子のこんな状態は見ていられません!ああ、息子が・・・!」

 医者は悲しい声で言った。「トーターラームさん、本当に私は全力を尽くして息子さんの治療をしています。なのに、あなたは他の医者に診せろとおっしゃる。分かりました。それなら、ドクター・レヘリー、ドクター・バーティヤー、ドクター・マートゥルを呼ぶことにします。ヴィナーヤク・シャーストリーを呼ぶこともできます。しかし、私はあなたに意味のない保証をしたりすることはできません。息子さんは重体です。」

 トーターラームは泣きながら言った。「お願いですから、そんなこと言わないで下さい。息子はきっと助かるはずです。神様が私にこんなひどいことをされるはずがない。カルカッタやボンベイの医者に電報を打って下さい。私は一生あなたの奴隷になります。この子だけが私の一族の灯火なんです。この子だけが私の生き甲斐なんです。ああ、心が破裂してしまいそうだ。どうか、息子が意識を取り戻すような薬を飲ませて下さい。私が息子に、何がそんなに苦しめているのか聞いてみます。ああ、息子よ!」

医者「大丈夫ですか、しっかりして下さい。そのように泣き喚いたり、医者の一団を揃えたりしたところで何にもならないことは、あなたが一番よくお分かりのはずです。子供ではないのですから。まずは落ち着いて下さい。私が町から医者を呼びますから、どうなるか見てみましょう。あなた自身がこうも取り乱していたら、ますます事態が深刻になってしまいます。」

トーターラーム「分かりました、ドクター、もう何も言いません。口も開きません。あなたが望むようにして下さい、息子の命はあなたに委ねました。息子を助けられるのはあなただけです。ただ、これだけはお願いです、どうか息子の意識を戻して下さい、息子が私に気付いて、私の話を聞けるようにして下さい。息子と少しだけでもいいから話ができるような蘇生薬はないものですか?」

 再び興奮して来たトーターラームは、マンサーラームに向かって話し掛けた。「マンサー、目を開けなさい、少しでいいから!ワシはお前のそばで泣いているんだぞ!お前に何も悪いことなどない、ワシはお前を疑ったりしていないんだぞ!」

医者「また訳の分からないことをおっしゃる。トーターラームさん、あなたは子供じゃないんです、大人なんです、我慢なさって下さい。」

トーターラーム「分かりました、ドクター、もう何も言いません、失礼しました。あなたの思うままにして下さい。全てあなたにお任せしました。しかし、私の心に一点の曇りもないということを、ただそれだけでいいですから、息子に知らせることができるような手段はありませんか?あなたが息子に言って下さい、ドクター、哀れな父親がそばに座って泣いていると、息子に言って下さい。父親は息子を疑ったりしていないと、少しだけ勘違いがあったと言って下さい。もう勘違いに気付いたから、と言って下さい。それ以上のことは望んでいません。私は黙って座っています。口すら開きません、しかし、これだけは息子に伝えて下さい。」

医者「お願いですから、トーターラームさん、辛抱して下さい。そうでなければ、私はあなたを家に追い返さなければならなくなってしまいます。今から部屋へ行って、医者に手紙を書いて来ます。黙って座っていて下さい。」

 医者とは非情なものである。若い息子のこのような状態を見て我慢していられる父親がこの世にいようか?ムンシー・トーターラームは非常に冷静な人間であった。このようなときに泣き喚いても何もならないことなど十分承知していた。だが、それでも、黙って座っていることなど彼にとっては不可能であった。もし天命によって息子が病気になってしまったのなら、彼は冷静でいられただろう、他人を説得できただろう、そして自分で医者を呼びに行けただろう。だが、全ての責任は自分にあるということを知っていながら、どうして静かにしていられようか?そのような石のような心を持った父親がどこにいるだろうか?彼は自分自身を呪っていた。そんな疑い、どこから生まれたのだろう?何の証拠もなしにどうしてそんな妄想をしてしまったのだろう?どうすればよかったのだろう?代わりに何をすべきだったのだろう?彼は答えを見つけることができなかった。そもそも再婚したのが失敗だった。再婚したことで彼は自分で自分の首を絞めてしまった。そうだ、それこそ全ての始まりだ!

 しかし、ワシは特に目新しいことをしたわけでもない。どこの男も女も結婚するではないか。彼らの人生は幸せに過ぎていくではないか。我々は幸せのために結婚するのではないか。近所には、2回、3回、4回と結婚する連中が腐るほどいる。中には7回結婚した奴もいる。しかもワシよりずっと年上なのに。そいつは死ぬまで幸せな人生を過ごした。みんながみんな、妻より先に死んだわけでもない。再婚、再々婚しても、やもめになった奴は少ない。もしみんなワシのような状態だったら、誰が結婚なんかするものか?ワシの父親などは、55歳に結婚して、ワシが生まれたときには60歳以上だった。だが、確かにその時代と今とでは全く違う。昔は女に教養がなかった。どんな夫でも、妻は付き従っていたものだった。男は教養があっても、女に対して高慢な態度を取っていた。そうだ、それに違いない。若い男が年増女と結婚したがらないなら、どうして若い女が年寄りの男と喜んで結婚するだろうか。

 しかし、ワシはそんなに年寄りでもないぞ。ワシを見て誰も40歳以上だとは分からないほどだ。とにかく、年を取ってから若い女と結婚したとしても、少し高慢に接しなければいけないだろう、それは間違いない。女は恥ずかしがり屋なものだ。不貞な女は別にして、普通の女は男よりも貞節なものだ。いい夫と結婚したら、女は他の男と会話をしたりふざけ合ったりしても、心は純なものだ。だが、望まない結婚をしてしまったら、他の男と全く顔を合わせなくても、女の心は不安定になる。前者が頑丈な厚い壁なのに対し、後者はすぐに壊れてしまう薄っぺらな壁だ。

 そうこう考えている内に、トーターラームは眠り込んでしまった。そして、心情がそのまま夢となって現れた。見ると、前妻がマンサーラームの前でしゃべっていた。「あなた、何ていうことをしたの?私が手塩を掛けて育てた息子を、あなたは残酷にも殺してしまった!こんな素晴らしい息子に、あなたはどうしてこんな酷い仕打ちをしたの?今さら何を考え込んでるの?あなたは息子を見捨てた!だから私が息子を連れて行くわ。あなたはこんなに疑り深い人ではなかったのに。再婚したついでに猜疑心まで家に連れ込んだの?こんな純粋な心に、こんな酷い傷を付けるなんて!なんて残酷なの!こんな酷い仕打ちを受けて生きていられる人なんていないでしょう!私の息子は耐え切れないわ。」そう言って、彼女は息子を抱いて去って行ってしまった。トーターラームは泣きながらマンサーラームを連れ戻すために手を伸ばした。と、そのとき彼は目を覚ました。彼の目の前には、ドクター・レヘリー、ドクター・バーティヤーなど、4、5人の医者が立っていた。

第12章

 3日過ぎたが、トーターラームは家に戻って来なかった。ルクミニーは日に2回、病院に行き、マンサーラームの様子を見て帰って来ていた。2人の弟も病院に行っていた。だが、どうしてニルマラーが行くことができただろうか?彼女の両足には足枷がはめられていた。彼女は、マンサーラームの容態が心配でならなかった。だが、ルクミニーに聞いても罵られるだけだし、2人の弟に聞いてもはっきりしたことは分からなかった。彼女は、一度だけでも自分で行って様子を見てみたいと思っていた。彼女は、もしかして猜疑心が息子に対する夫の愛情を冷めさせてしまってはいないか、もしかして夫の度を過ぎた倹約癖が息子の回復の障害になってやしないか、心配だった。医者は家族ではない、金のために仕事をしているのだ。死人が地獄に行こうと天国に行こうと、彼らにとっては関係ないことだ。

 彼女は、病院へ行って医者に1000ルピーの入った袋を渡し、「どうか息子を助けて下さい、この袋を受け取って下さい」と頼み込みたい気持ちで一杯だった。だが、彼女にはそんなお金もなければ、そんな勇気もなかった。今からでも、もし私が病院へ行くことができれば、マンサーラームはきっとよくなるでしょう。あの子には必要な治療がされていないんだわ、そうでなければ3日も熱が下がらないことなんてある?これは身体からの熱じゃなくて、心からの熱なんだわ。だから心が静まれば熱も下がるわ。もし私が病院で一晩中看病して、あの人も疑いの目を向けなければ、マンサーラームも父親を疑わなくなるだろうし、すぐに体調も回復するでしょう。でも、そんなことどうしてできる?あの人は息子のそばに私がいるのを見て平静でいられるかしら?今でも疑いが晴れていなかったら?ここを出るときも、あの人はまだ疑っていたように見えたわ。病院に行った途端、あの人の疑いがまた沸き起こって、息子の命を奪ってしまうなんてことになるかもしれない。

 この心の葛藤に悩みながら、3日が過ぎ去ってしまった。その間、釜戸に火が付くこともなかったし、誰も何も食べなかった。2人の息子のために、市場からプーリー(揚げパン)を買って来ていたが、ルクミニーとニルマラーは何も食べずに寝ていた。食欲すらなかった。

 4日目、ジヤーラームは学校から帰る途中、病院に寄って来た。ニルマラーは聞いた。「病院に行ったんでしょ?今日はどうだった?お兄さんは目を覚ました?」

 ジヤーラームは泣きべそをかきながら言った。「お母さん、今日は何も言わなかったし、動きもしなかった。黙って寝台に寝て、手足をバタバタさせてたよ。」

 ニルマラーの顔から血の気が引いた。彼女は動転して言った。「お父さんはいなかったの?」

 ジヤーラーム「もちろんいたよ。今日はものすごく泣いてたよ。」

 ニルマラーの心臓は高鳴りだした。彼女は聞いた。「お医者さんは?」

 ジヤーラーム「お医者さんもいたよ。何か話し合ってた。一番偉いお医者さんが英語で、『患者の身体に新鮮な血を入れないといけない』とか言ってたよ。そのときお父さんは、『私の身体から必要なだけ血を取って下さい』と言ってた。そしたらお医者さんは笑って、『あなたの血では駄目です、若い人の血が必要です』と答えた。結局、注射器で何かの薬をお兄ちゃんの腕に入れてた。5cm以上の長い針だったけど、お兄ちゃんは動きもしなかった。僕は怖くて目をつぶってたけど。」

 強い決意は、動揺の中でこそ生まれるものだ。ニルマラーは恐怖で震え上がったが、その一方で彼女の顔には強い決意の印が浮かび上がった。彼女は、自分の身体の新鮮な血を与えることを決意した。もし彼女の血でマンサーラームの命が助かるならば、彼女は喜んで最後の一滴まで血を与えるだろう。彼女はジヤーラームに言った。「急いで馬車を呼んで来て、私は病院へ行くわ。」

 ジヤーラーム「今、病院にはたくさんの人がいるから、夜になってから行けばいいと思う。」

 ニルマラー「いえ、今行くわ、だからすぐに馬車を呼んで来て。」

 ジヤーラーム「お父さんが怒るかも!」

 ニルマラー「怒らせておきなさい。さあ、行って馬車を呼んで来て。」

 ジヤーラーム「じゃあ、お母さんが馬車を呼んでるって言って来る。」

 ニルマラー「そうして。」

 ジヤーラームが馬車を呼びに言っている間、ニルマラーは髪に櫛を入れ、後ろで縛り、服を着替え、宝石を身に付け、パーン(噛みタバコ)を食べ、戸口に立って馬車がやって来るのを待った。

 ルクミニーは自分の部屋に座っていた。ニルマラーが出掛ける準備をしているのを見て聞いた。「どこ行くんだい?」

 ニルマラー「病院に行って来ます。」

 ルクミニー「病院に行って何するんだい?」

 ニルマラー「別に。何かできるわけでもないし。それができるのは神様だけです。ちょっとマンサーの様子が見たくて。」

 ルクミニー「いいから、行くのはやめなさい。」

 ニルマラーは丁寧な口調で言った。「行くと決めましたから行きます、お義姉さん!ジヤーラームに聞いたら、マンサーラームの体調がよくないみたいなんです。居ても立ってもいられなくて、お義姉さんも一緒に行きましょう?」

 ルクミニー「私は行って来たから知ってるわ。今、あの子の命は、輸血の血が手に入るかどうかにかかってるのよ。でも、自分の血をわざわざ分け与えようとする人がいるとは思えないわ。血を分け与えたりなんかしたら、自分が命を落としかねないし。」

 ニルマラー「だから私が行くの。私の血なら何とかなるでしょう?」

 ルクミニー「何とかならないことはないわ、若い人の血が必要らしいから。でも、あんたの血でマンサーラームの命が助かるぐらいだったら、あの子を水に流す方がマシよ!」

 馬車がやって来た。ニルマラーとジヤーラームは馬車に乗り込んだ。馬車は走り出した。

 ルクミニーは戸口に立ち、しばらくの間泣いていた。今日初めて、彼女はニルマラーのことを哀れだと思った。もしできることなら、ニルマラーを縛って家に引き留めておきたかった。悲哀と同情の衝動が彼女をどこに引っ張って行ってしまうのか、彼女は呆然と見ていた。ああ!なんて不幸なこと!生きては戻って来れないでしょう!

 ニルマラーが病院に着いたときには、既に峠は越していた。医者の一団は、各々助言をして去って行ってしまった後だった。マンサーラームの熱は下がり出していた。彼はじっと戸口の方を凝視していた。彼の視線は、まるで神様の出現を待ちわびているかのように、虚空に向けられていた。彼は、自分がどこにいるのか全く分からなかった。

 ふと、ニルマラーの姿を見つけると、彼は驚いて目を覚ました。彼の瞑想は解けた。霧散していた彼の意識に、サッと光が照らされた。彼は、まるで忘れていたことを急に思い出したかのように、自分の状況を理解した。彼はニルマラーを睨み付けると、そっぽを向いた。

 突然、トーターラームは大声で叫んだ。「お前、ここに何しに来た?」

 ニルマラーは何も答えることができなかった。彼は、「何しに来た」と尋ねた。これほど単純な質問に彼女はどんな返事をすればいいのか?彼女は何をしに来たのか?これほど複雑な質問を問い掛けられた者がいようか?家族が病気で、様子を見に来た。そんなこと質問しなくても分かるではないか?ならばどうしてこんなことを聞くのか?

 彼女はまるで口が利けないかのように、呆然と立ち尽くしていた。彼女は、2人の弟から夫の悲嘆にくれた様子を聞き、疑いは晴れたものだと思っていた。だが、今、それは思い違いだったことが分かった。大きな間違いだった。もし涙の雨ですら疑いの火を消すことができないと知っていたならば、彼女は何があってもここには来なかった。のた打ち回って死ぬことがあっても、絶対に家から一歩も外に出なかった。

 トーターラームは再び同じ質問を繰り返した。「お前、ここになぜ来た?」

 ニルマラーはかすれた声で言った。「あなたはここに何しに来たんですか?」

 トーターラームの堪忍袋の緒が切れた。彼は怒って寝台から立ち上がり、ニルマラーの手を掴んで言った。「お前がここに来る必要はない。ワシが呼んだときに来い、分かったか?」

 そのとき!何ということが起こったのであろう!寝台から起き上がることもできなかったマンサーラームが、急に立ち上がってニルマラーの足元に倒れ込み、泣きながらしゃべり出した。「お母さん、こんな僕のために苦労をかけました。僕はあなたの愛を絶対に忘れません。どうか、神様、次に生まれ変わるときは、あなたのお腹の中から生まれることができますように、そしてあなたから受けた恩を返すことができますように。神様はご存知です、僕があなたを継母だと思わなかったことを。僕はあなたを実の母だと思っていました。あなたは僕よりもずっと年上ではありませんけど、あなたは僕のお母さんです、常にあなたをお母さんだと思って来ました・・・どうか、お母さん、僕を許して下さい!これが最期の別れです。」

 ニルマラーは涙をこらえながら言った。「どうしてそんなこと言うの?2、3日でよくなるわ。」

 マンサーラームは悲しい声で言った。「もう生きる望みもありませんし、しゃべる力もありません。」

 マンサーラームの身体から力が抜け、そのまま地面に倒れ込んでしまった。ニルマラーは、夫の方に物怖じせずに視線を向けて言った。「お医者さんは何て?」

 トーターラーム「みんな頭がおかしいんだ。新鮮な血が必要だと。」

 ニルマラー「新鮮な血さえあれば、命は助かるの?」

 トーターラームはニルマラーを睨み付けて言った。「ワシは神様じゃないし、医者を神様だとも思っていない。」

 ニルマラー「新鮮な血なら手に入らないことないわ。」

 トーターラーム「そんなこと言ったら、空の星も手に入らないことはないだろう。何が言いたい?」

 ニルマラー「私が自分の血をあげようと思います。お医者さんを呼んで下さい。」

 トーターラームは驚いて言った。「お前が?」

 ニルマラー「そうです!私の血では駄目ですか?」

 トーターラーム「お前が自分の血をやるのか?いや、お前の血じゃ駄目だ、お前が死んでしまうかもしれないんだぞ。」

 ニルマラー「私の命なんて、あと何日もつか分からないわ。」

 トーターラームは目を潤ませて言った。「駄目だ、ニルマラー、今のワシにとって、お前の命はとても大切なものになった。今日までお前はワシの享楽の道具だったが、今日からワシはお前を拝まなければならなくなった。ワシはお前に本当に悪いことをした、どうか、許してくれ。」

第13章

 出来る限りのことをした。だが、どれもうまく行かなかった。医者がニルマラーから血を採ろうとしていたちょうどそのとき、マンサーラームはこの世を去ってしまった。おそらく彼の命の最後の煌きは、ただニルマラーが来るのをひたすら待ち続けていたのだろう。彼女の無実を証明せずにどうして彼は息を引き取ることができただろう?そして今、彼の目的は達せられ、父親はようやくニルマラーの潔白を信じた。だが、既に手遅れとなっていた。矢は手から放たれた後だった。

 息子を失ったムンシー・トーターラームの悲痛は果てしなかった。その日以来、彼の唇には二度と笑みが戻って来なかった。今や人生は無意味であった。裁判所には行っていたが、裁判の仕事をするためではなく、気を少しでも紛らわせるために行っていた。1、2時間そこで時間を潰して帰宅していた。食卓に着いても、食べ物は喉を通ろうとしなかった。ニルマラーは毎日一生懸命おいしい料理を作ったが、トーターラームはほとんど食べなかった。まるで食べ物が喉から戻って来るかのようだった。マンサーラームの部屋の方を向くだけで、彼の心臓は張り裂けんほど鼓動した。彼の希望の灯火が灯っていた場所は、今では暗闇で覆われていた。彼にはまだ2人の息子がいたが、よく乳を出す牛が死んでしまった今、どうして仔牛に期待ができようか?よく花を咲かせ、実を実らす木が倒れてしまった今、どうして小さな植木に期待ができようか?若い者も年老いた者もいずれは死ぬ運命にある、だが、彼が最も悔いていたのは、息子の命を自らの手で奪ってしまったことだった。そのことを思うと、胸が張り裂けて中から心臓が飛び出そうな気持ちになるのだった。

 ニルマラーは心から夫に同情していた。彼女は出来る限り夫を喜ばせようとした。間違っても過去のことには触れないようにした。トーターラームは、彼女とマンサーラームの話題を出すことをためらっていた。時々、一度心を開いてニルマラーと話そうと思うこともあった。だが、羞恥心がそれを止めていた。自分の苦痛を誰かに明らかにし、悲しみを共有することで得られる慰めすら、彼は得られずにいた。膿は外に出てこず、毒は体内を駆け巡った。日に日に身体は弱って行った。

 一方、マンサーラームの治療をした医者とトーターラームは親しくなった。医者は時々トーターラームの家を訪ねては、彼を慰めたり、外に連れ出したりしていた。彼の妻も時々ニルマラーに会いにやって来た。ニルマラーも幾度か彼らの家を訪れた。だが、自宅に戻ると、数日間は落ち込んでいた。その夫婦の幸せな人生を見ると、彼女は自分の不幸を思い知らずにはいられなかった。医者の月給は200ルピーだった。だが、それだけの収入で彼らは幸せに暮らしていた。家には女中が1人しかおらず、多くの家事は妻が自らしなくてはならなかった。彼女の身に着けている宝石の数も多くはなかった。だが、彼らの間には愛があった。その愛により、彼らはいくら財産が少なくても不安にはならなかった。夫を見ると妻の顔は明るくなり、妻を見ると夫はそのまま見とれてしまうのだった。

 ニルマラーの家は、彼らよりもかなり裕福であった。彼女が持っている宝飾品は、身体を覆い尽くしてしまうほどの量であった。彼女は何も家事をしなくてよかった。だが、ニルマラーは裕福であっても不幸であった。そしてスダーは貧しくても幸福であった。ニルマラーが持っていないものをスダーが持っているわけではなかった。ニルマラーが思わず嫉妬してしまうようなものは、スダーの手元にひとつもなかった。彼女は、スダーの家に宝石を身に着けて行くことを恥ずかしく思っていたくらいだった。

 ある日、ニルマラーが医者の家に行くと、スダーは彼女がひどく落ち込んでいるのを見て言った。「ニルマラー、今日はとても元気がないわね、旦那さんの体調がよくないの?」

 ニルマラー「どうしよう、スダー?主人の体調は日に日に悪くなってるわ。何をしても効果ないし。神様は何をお望みなんでしょう?」

 スダー「主人は、どこかに静養に行くべきだと言っているわ。でないと恐ろしい病気にかかってしまう恐れがあるわ。何度も旦那さんに言ったんだけど、あの人は『私は元気だ、調子は悪くない』と答えるだけで、聞こうとしないの。今日はあなたから頼んでみて。」

 ニルマラー「お医者さんの言うことを聞かないなら、私の言うことを聞くはずがないわ。」

 そう言いながら、ニルマラーの目は潤んできた。そして、ここ数ヶ月間彼女の心を不安に陥れていたひとつの疑念が、口から滑り出てしまった。彼女は今までその疑いを隠していたのだが、今やそれを隠すことはできなかった。彼女は言った。「スダー、私、どうもよくないことが起こる気がするの。神様は何をなさるおつもりなんでしょう?」

 スダー「ニルマラー、今日こそは旦那さんに、どこかに療養に行くべきと強く言うべきよ。3、4ヶ月、どこか他の場所へ行くだけで、いろんな嫌なことを忘れられると思うわ。家を変えるだけでも、旦那さんの悲しみを軽くすることができると思うわ。でも、あなたは他の場所に住むことはできないでしょう。今月は何月だったっけ?」

 ニルマラー「8月よ。そのことを考えると私はますます悩んでしまうわ。ああ、こんなこと一度も神様にお願いしたことないのに、どうして私の身にこんな不幸が降りかかるのかしら!私はなんて運の悪い女なの!スダー、結婚式の1ヶ月前に、お父さんが亡くなってしまったの。お父さんが亡くなった途端、私には不運が付きまとうようになったわ。嫁ぎ先からは、縁談が決まっていたのに、取り消されたわ。お母さんは仕方なく私をここに嫁がせたの。もうすぐ妹も結婚するはずだわ。あの子はどうなるんでしょう!」

 スダー「前に縁談が決まった先からは、どうして結婚を取り消されたの?」

 ニルマラー「そんなの決まってるじゃない。お父さんがいなくなったら、金の包みを誰が出すというの?」

 スダー「なんて卑劣なの。どこの家?」

 ニルマラー「ラクナウー。名前は覚えてないけど、酒造局の偉い役人だったと思うわ。」

 スダーは真剣に聞いた。「で、その息子は何をしてたの?」

 ニルマラー「何もしてないわ。どこかで勉強してた。でも将来有望だった。」

 スダーはうつむいて言った。「息子は父親に何も言わなかったの?まだ若かったから、父親に口出しすることができなかったのかしら?」

 ニルマラー「私は何も分からないわ、スダー!金の包みが嫌いな人なんていないわ。私の家から伝言を携えて行ったパンディト(僧侶)が言うには、息子自身が断ったそうよ。でも、母親は大した人だったみたい。母親が父親と息子を説得したんだけど、何も変わらなかったそうよ。」

 スダー「もし私がその息子に会ったら、とっちめてやるところだわ。」

 ニルマラー「私の運命に書かれていたことが起こっただけよ。今はクリシュナーのことが心配だわ。」

 夕方になり、ニルマラーが帰った後に、医者が帰って来た。スダーは彼に言った。「ねえ、あなた、もしある家と結婚が決まったのに、欲に負けて別の場所と結婚するような人がいたら、あなたはどうする?」

 ドクター・スィナーは驚いた様子で妻の方を見て言った。「そんなことするべきじゃないな、当然じゃないか。」

 スダー「卑劣な行為だわ、そう思うでしょ?これ以上ない卑怯者よ。」

 スィナー「ああ、そう言っても過言じゃない。」

 スダー「どちらの罪の方が重いかしら。息子?それともその父親?」

 スィナーはまだ、スダーの質問の意味をよく理解していなかった。驚きながら言った。「それは状況に拠るな。もし父親が決めたことなら、父親の罪だと言える。」

 スダー「たとえ父親が決めたとしても、息子の方に少しも責任がないの?もし自分のために新しいコートが欲しかったら、父親が反対したとしても、泣き喚いてでも説得するでしょう。こんな重要な問題でも、息子は父親に自分の言いたいことを言わないでいられる?私は、息子と父親、両方に罪があると思うわ。でも、比べたら息子の方が罪は重いでしょう!父親は、結婚式の費用を賄わないといけないから、嫁側からできるだけ絞り取ろうとしてもおかしくないわ。でも、息子は、もし欲に魂を売り渡していないなら、父親に対して主張すべきだわ。もしそうしないなら、その息子は強欲で、しかも臆病者だわ。不幸にも、私の夫がその1人だわ。何て言って叱ったらいいのか、言葉が思い付かないくらいだわ。」

 スィナーはうろたえながら言った。「えっと・・・それは・・・だな・・・それは話が別だ。金の受け渡しの問題じゃない、全く別の話だったんだ。花嫁の父親が亡くなってしまったんだ。そんな状況で私たちはどうすることもできなかった。花嫁に何か欠陥があるという話も聞いた。あれは全く別の話だ。だが、誰がお前にそのことを話したんだ?」

 スダー「花嫁は片目だったの?せむしだったの?それともナーイー(床屋カースト)の女の腹から生まれたの?自堕落な女だったの?どんな欠陥があったのか、聞かせてもらえるかしら?」

 スィナー「私が自分の目で見たわけじゃないんだが、聞いたところでは欠陥があると・・・。」

 スダー「一番の欠陥は、彼女の父親が亡くなってしまったことでしょ。そして、大金を支払うことができなくなったことでしょ。それだけのことを言うのに何を照れてるの?私はあなたの耳を切り取ったりしないわよ。もし少し嫌味に聞こえたら、すぐに忘れてしまっても結構。もし口が過ぎたなら、棒で叩いても結構。女は棒で叩いて大人しくさせるものなんでしょ?もしその花嫁に欠陥があったとしたら、ラクシュミー女神にも欠陥があるとしか言いようがないわ!あなたが不幸だっただけ、それだけのこと!あなたは私のような女と結婚して萎れてく運命だったんだわ。」

 スィナー「誰がお前に、あの花嫁がああだった、こうだった、と話したんだ!私たちがただ聞いたことをそのまま信じてしまったように、お前も聞いたことを信じ込んでるだけだろう。」

 スダー「私は誰かから聞いて信じたわけではないわ。自分の目で見たのよ。何も長々と賞賛する必要もないわ。ただ一言、私はあんなに美しい女性、見たことないわ。」

 スィナーは驚いて言った。「その女がどこか近くにいるのか?本当のことを教えてくれ、どこで見たんだ?家に来たのか?」

 スダー「ええ、来たわ。しかも1度や2度じゃなく、何度も来たわ。私もその人の家に何度も行ったわ。トーターラームさんの奥さんが、あなたが結婚を取り消した欠陥のある女性よ。」

 スィナー「それは本当か!」

 スダー「本当よ!もし今日彼女が、あなたがその人だと知ったら、もう二度とこの家には来てくれなかったところね。あんなに行儀がよくて、家事に長けて、あんな素晴らしい女性はこの町には2人といないでしょう。あなたは私のこと誉めそやすけど、私はニルマラーの女中にも値しない女よ。家に神様がお与えになった全てのものがあったとしても、自分に合った相手と会えなかったら、何の意味もないわ。ニルマラーの忍耐は本当に素晴らしいわ。あの年老いた弁護士と一緒に人生を生きているんですもの。私だったら、とっくの昔に毒を飲んで死んでいたわ。でも、心の痛みは誰かに話すことで少しはっきりするものよ。彼女は笑ったり、話したり、装飾品や衣服を着たりしてるけど、全身は泣いているんだわ。」

 スィナー「トーターラームさんのことをこっぴどく言っているだろう。」

 スダー「何を言うの?トーターラームさんはニルマラーの旦那さんじゃないの?この世に彼女のものがあるとしたら、それは彼だけよ。たとえ年寄りだとしても、病人だとしても、トーターラームさんが彼女の唯一の夫なのよ。良家の女性は夫の悪口を言ったりしないわ。そんなことをするのは不貞女だけ。彼女は夫の顔を見て不快に思ったでしょう、でも口では何も言わないわ。」

 スィナー「しかしトーターラームさんはあの年でどうして結婚しようなどと考えたんだろうな?」

 スダー「そういう人がいなかったら、貧しい家の女性はどうやって結婚すればいいと言うの?あなたのような人たちは、たっぷりの金の包みがないと話をしようともしない。そんな中、貧しい女の子はどこに行けばいいの?あなたはとても大きな罪を犯したわ、あなたはその禊をすべきよ。神様、ニルマラーの旦那さんが長生きしますように!でも、もしトーターラームさんに何かあったら、彼女の人生は滅茶苦茶になってしまうわ。今日、ニルマラーは泣いていたわ。あなたたちは本当に残酷だわ。私は、ソーハンをどこか貧しい家の女の子と結婚させるわ。」

 スィナーは最後の言葉を聞かなかった。彼は心配で心配でたまらなくなった。彼の心には、ひとつの問いが何度も何度も沸き起こって彼を不安にさせた。もしトーターラームさんに何かあったら?今日初めて、自分の欲深さの報いを受けた気分だ!本当にこれは私の過ちだ。もし父さんに、他の家とは結婚しないと強く言っていたら、父さんは私の意志に逆らってでも私を別の家と結婚させただろうか?

 そのときスダーが言った。「もし望むんだったら、あなたとニルマラーを会わせてもいいわ。彼女もあなたの姿を見られるでしょう。彼女は何も言わないと思うけど、視線だけであなたを責めるでしょう。そしてあなたは一生それを忘れられないでしょう。さあ、明日にでも会う?あなたのことも簡単にニルマラーに紹介するわ。」

 スィナーは言った。「いや、駄目だ、頼むからそんなことはしないでくれ、でないと私は家を捨てて逃げ出してしまうぞ!」

 スダー「自分で植えた棘の実を食べるのに何を怖がってるの?今ニルマラーがもがいているのも、あなたが彼女の首に剣を振り下ろしたからじゃないの?私のお祖父さんから5000ルピー受け取ったんでしょ!しかも、もうすぐ弟の結婚でまた5、6000ルピー手に入るわ。そうしたらあなた以上の金持ちはこの世にいなくなるでしょう!11000ルピーは小さな額じゃないわ。11000ルピーものお金、もし積み上げようと思ったら、何ヶ月もかかってしまうでしょう。もし息子が浪費し出したとしても、3代はなくならないでしょう。もう縁談をまとめてたりしないわよね?」

 スィナーは妻の冷やかしに、頭を上げることができないほど恥じ入ってしまった。彼の全ての思考は止まってしまった。まるでひどく殴られたかのように、すっかりしょげかえってしまった。そのとき外から誰かが彼を呼んだ。スィナーは急いで外に出た。妻がどれだけ口が達者か、彼は今日初めて知った。

 夜、スィナーは横になりながらスダーに言った。「ニルマラーの妹がいるだろう?」

 スダー「ええ、今日も妹の話が出たわ。もう今から妹の心配をしてたわ!自分の身に起こるべきことは起こってしまったと言っていたけど、妹のことはひどく不安みたい。母親の手元にはもう何も残っていないし、仕方なく誰か他の老人と結婚するしかなくなるでしょうね。」

 スィナー「ニルマラーは今なら母親を助けることができるだろう。」

 スダーは強めの声で言った。「あなたも時々根拠のないことを言うわね。ニルマラーができることと言ったら、数百ルピーを用意することぐらいでしょう。他に何ができるの?トーターラームさんもあんな状態だし、ニルマラーはあと何十年も生きなければならないのよ。そうなったら、あの家がどうなることか。トーターラームさんはもう半年も家に閉じこもってるのよ。お金が空から降ってくるわけでもないわ。1000ルピー、2000ルピーはあるでしょうけど、銀行にあるでしょう。ニルマラーの手元には何もないでしょう。私たちは毎月200ルピーの支出だけど、あの家はきっと400ルピーは使ってるでしょう。」

 スダーは眠たくなった。だがスィナーはしばらくの間、寝返りを打っていた。そしてふと起き上がると、机に向かって1通の手紙を書き始めた。

第14章

 3つのことが同時に起こった。ニルマラーが女の子を産んだこと、クリシュナーの結婚が決まったこと、そしてムンシー・トーターラームの家が競売にかけられたことである。女の子が産まれたことは、ニルマラーにとって人生で最も大きな出来事であったが、他の2つの出来事に比べたら大したものではなかった。クリシュナーの結婚があんな裕福な家庭と決まったのはなぜだろう?母親の手元には、ダウリー(持参金)と名の付くようなものは微塵もなかった。一方、嫁ぎ先のスィナー氏は年金生活をしていたが、周囲では欲張りとして有名であった。彼はどうして、自分の息子をこのような貧しい家の娘と結婚させようなどと思ったのだろうか?聞く者は皆、耳を疑った。それよりもさらに驚くべき出来事は、ムンシー・トーターラームの家が競売にかけられたことだ。人々はムンシー・トーターラームを、億万長者まではいかないが、それでも裕福な人物だと考えていた。彼の家がどうして競売にかけられることになってしまったのだろう?話はこうだった。ムンシー・トーターラームはある高利貸しから、ある村を担保に入れて借金していた。彼は、1、2年で借金を返せるだろうと考えていた。そして5年、10年の内にその村を取り戻せるだろう、村の地主も、借金と利子を返せば何も言えないだろう、そう考えたムンシー・トーターラームは、その考えを実行に移した。とても大きな村だった。4、500ルピーの収入があった。だが、この計画は計画のまま終わってしまった。ムンシー・トーターラームは何とか気を強く持とうと頑張ったが、裁判所に行くことができなかった。息子を失った悲しみは、彼から仕事をする力を完全に奪ってしまった。自分の息子の首に剣を振り下ろしておきながら平静でいられる残酷な父親がどこにいるだろうか?

 高利貸しのもとには1年間、利子が届いていなかった。そして彼が何度も呼び寄せたのにも関わらず、ムンシー・トーターラームは彼のところへ現れなかった。それだけではない。ムンシー・トーターラームは高利貸しに対して、「私は誰の奴隷でもありません。あなたが好きなようにして下さい」と伝言を送ったため、高利貸しは怒ってしまった。訴訟となった。ムンシー・トーターラームは弁護しに裁判所へ行くことすらしなかった。すぐに判決が出た。家には現金など置いていなかった。この間、ムンシー・トーターラームの信用もすっかり失墜してしまった。彼はお金を調達することができなかった。とうとう家が競売にかけられることになってしまった。そのときニルマラーは産室にいた。その知らせを聞いたとき、ニルマラーは言葉を失ってしまった。人生の中で何の幸せも得られなかった彼女であったが、お金の心配だけはしたことがなかった。お金は人生で最も重要なものではないかもしれないが、それに近い存在ではある。他のいろいろな心配事に加えて、今やお金の心配もしなくてはならなくなった。彼女は産婆に、「私の持っている全ての宝石を売って家が売られないようにして」と伝えさせたが、ムンシー・トーターラームは頑としてそれを認めなかった。

 その日からムンシー・トーターラームはさらに悩み込むようになった。かつては貯め込んだ財産を楽しむために再婚したものだったが、今ではそれは過去の思い出に過ぎなかった。彼は自責の念からニルマラーに顔を見せることもできなかった。彼は、ニルマラーに対して行った行為の不当性をひしひしと感じていた。それに加え、女児の出産は彼をさらに追い込んだ。もう破滅だ!

 出産から12日後、産室から出たニルマラーは、赤ちゃんを抱いて夫のところへ行った。ニルマラーは、このような惨めな境遇の中でも、まるで何の不安もないかのように幸せだった。赤ちゃんを自分の胸に抱くだけで、彼女の全ての悩みは吹き飛んでしまうのだった。赤ちゃんの大きく輝いた目を見るだけで、彼女の心は花開くのだった。母性愛の芽栄えにより、彼女の全ての苦痛は消え去ってしまった。彼女は、赤ちゃんを夫に抱かせてさらに幸せを実感したかった。だが、トーターラームは女児を見た途端、恐怖でおののいた。彼は赤ちゃんを抱いて大はしゃぎしようなどとは思わなかった。ただ1度、悲しい表情でその子の顔を見て、うつむいてしまった。赤ちゃんの顔は、ムンシー・トーターラームにそっくりであった。

 ニルマラーは、そのときの夫の感情を勝手に解釈した。彼女は100倍の愛情と共に娘を抱きしめた。その様子はまるで、トーターラームにこう語りかけているようだった――もしあなたがこの子を重荷だと考えるなら、今日から私はこの子をあなたの目に触れさせようともしないわ。これだけ私が苦労して手に入れた宝石をそんな風に扱っても、あなたの心は平気なのね。ニルマラーは赤ちゃんを抱きしめながら部屋に戻り、しばらくの間泣き続けた。彼女は夫の冷淡さの原因を理解しようとはしなかった。そうでなかったら、彼女はそのような行動はしなかっただろう。彼女には、夫の肩にのしかかった責任が分からなかった。たとえそれを考えようとしたとしても、彼女には理解できなかっただろう。

 トーターラームはすぐに自分の過ちに気付いた。母親の心は、将来の不安や障害も気にならなくなるほど愛情に沈み込むものだ。どんな妨げも押しのけてしまうほどの超自然的な力を心の中に宿すものだ。トーターラームは走ってニルマラーの部屋へ行くと、赤ちゃんを抱き上げて言った。「ワシはよく覚えているぞ、マンサーもこんなだった、本当にこんなだった!」

 ニルマラー「お義姉さんもそう言っていたわ。」

 トーターラーム「本当にそっくりだ。この大きな目、この赤い唇。神様がワシにマンサーラームを返して下さったんだ。このおでこ、この手足!神様、これはなんという奇跡でしょう!」

 そこにルクミニーもやって来た。トーターラームを見て言った。「ほら、マンサーラームにそっくりでしょう?あの子が戻って来たのよ、誰が何と言っても私は信じないわ。マンサーラームそのものよ!1年経って戻って来たんだわ!」

 トーターラーム「姉さん、本当に頭からつま先までそっくりだ。神様が私にマンサーラームを返して下さったに違いない。」そう言って赤ちゃんに対し、「おい、お前はマンサーラームだよな?もうどこにも行くんじゃないぞ、もう連れ戻したりしないぞ。逃げてしまったりして酷いものだ。でも結局は連れ戻したぞ。いいか、もうワシを置いてどこにも行くんじゃないぞ。・・・ほら、姉さん、ワシをじっと見てる。」

 そのときトーターラームは再び夢の館を築き始めた。希望が彼を俗世に引き戻した。ああ、人生よ!お前はなんとはかないのだろう、そしてお前の展望はなんと長大なのだろう!この世にすっかり絶望してしまったトーターラームが、昼も夜も死神を呼び寄せて止まなかったトーターラームが、藁を掴んで向こう岸まで辿り着こうと手足を一生懸命ばたつかせている!

 しかし、藁を掴んで向こう岸まで辿り着いたものが今までいただろうか?

第15章

 ニルマラーは自分の家のことで精一杯だったものの、クリシュナーの結婚のことを聞いて居ても立ってもいられなくなった。母親は彼女に、結婚式に来るように強く働きかけた。驚くべきことに、クリシュナーはニルマラーと以前縁談があった家に嫁ぐことになった。さらに驚きなのは、彼らが今回は少しもダウリー(持参金)を要求して来なかったことである。ニルマラーは、クリシュナーのことがとても心配だった。彼女は、妹も自分のような不幸な境遇に陥るのではないかと考えていた。母親の手助けをしてクリシュナーにふさわしい花婿を見つけられたら、とどれだけ思っていたことか。だが、旦那が家に居座ってしまったし、高利貸しに貸した借金のこともあり、彼女には余裕がなかった。このような状況の中でクリシュナーの結婚という吉報が届いたため、彼女の喜びは限りなかった。彼女は結婚式に出席する準備をした。トーターラームは駅まで見送りに来た。彼は、小さな娘をとてもかわいがっており、決して手放そうとしなかった。一時はニルマラーと一緒に行くと言い出した。だがニルマラーは、妹の結婚式の1ヶ月前に夫が家に来るのはよくないと思った。

 ニルマラーは母親に今まで自分の境遇を話していなかった。過ぎてしまった話を話して涙を流し、母親に心配をかけることに何の利益があろうか?だから、母親はニルマラーが幸せに暮らしていると思っていた。久し振りに帰って来たニルマラーの姿を見た母親は、まるで心臓を突き飛ばされたように感じた。女の子は嫁ぎ先から痩せて帰って来ることはないものだ。しかもニルマラーのような、幸せの全ての要素を持った女の子に限ってそんなことはありえない。母親は今まで、三日月のような身体をして嫁ぎ、満月のようになって帰って来る女の子を何人も見て来た。彼女は心の中で、ニルマラーはより美しくなっただろう、身体もふっくらしただろう、そして前にも増して魅力的になったことだろう、と想像を巡らせていた。それが今の彼女は嫁いだときの半分以下になってしまっていた。見る者の心を惹き付けて止まなかった若々しさや朗らかさはもはや残っていなかった。幸せな人生によってのみ生じるかわいらしさや女らしさも、跡形もなく消え去っていた。顔は青白く、表情は暗く、身体は弱り切っていた。齢19才にして既に老女となっていた。母と娘は泣きながら抱き合った。お互い落ち着いた後に母親は聞いた。「どうしたの、何か困ったことでもあるの?」

 クリシュナーは笑って言った。「向こうでは女主人になれたの?女主人はいろんな心配事があるのよね、夕飯は何にしよう、とか!」

 ニルマラー「お母さん、向こうの水が身体に合わないの。体調もずっと良くないわ。」

 母親「トーターラームさんは結婚式に来るわよね?そうしたら、花のような女の子をこんな目に遭わせたのはどういうことか、問い詰めてやるわ。そうそう、お前、どうしてお金なんか送ってよこしたんだい?私はそんなことお前に一度も頼んでないよ。いろんなことがあったけど、娘のお金に手をつけるまで落ちぶれちゃいないよ。」

 ニルマラーは驚いて聞いた。「誰がお金を送ったの、お母さん!私は送ってないわ。」

 母親「嘘を付くんじゃありません!500ルピーの札束を送ってよこしたわよね?」

 クリシュナー「送ってないなら、空から降って来たとでも言うの?姉ちゃんの名前がはっきり書いてあったし、スタンプも向こうのだったわ。」

 ニルマラー「神様に誓って、私はお金なんて送ってないわ。それはいつの話?」

 母親「2、3ヶ月前だと思うわ。でもお前が送ったんじゃないなら、どこから来たの?」

 ニルマラー「そんなの私だって知らないわ。でも私が送ってないのは確かよ。私の家じゃあ、長男が死んでしまってから、仕事にすら行ってないのよ。生活も楽じゃないし、お金なんてないわ。」

 母親「不思議な話だわ。向こうに他に親戚か誰かいないのかい?トーターラームさんがお前に内緒でお金を送ったとか。」

 ニルマラー「それはないと思うわ、お母さん。」

 母親「そうだとしたら、誰か送ったのか調べるべきだわ。私は全部クリシュナーのための宝石や衣服を買うために使ってしまったし。大変なことになったわ。」

 2人の兄弟間で何かを巡って口論が起こっていた。クリシュナーは判決を下すためにそちらへ向かった。ニルマラーは母親に言った。「クリシュナーの結婚の話を聞いてとても驚いたわ。どうしてこうなったの、お母さん?」

 母親「私にもよく分からないんだよ。一度決まった縁談を少しのお金のために蹴った家が、今度は何も取らずに結婚に合意するなんて、私には理解できないわ。向こうが自分から手紙を送って来たのよ。私は、自分の手元にはクリシュナーの他には何もないっ書いて返したわ。」

 ニルマラー「そうしたらどんな返事が来たの?」

 母親「シャーストリーさんが手紙を持って行ったわ。そうしたら、バールチャンドラさんはもう何も取ろうとする気はないって。この前約束を破ったことにも恥じ入っているようだったわ。バールチャンドラさんがそんな立派なことをするなんて全然期待していなかったけど、でも長男はかなりいい人よ。長男が父親を説得したみたいだわ。」

 ニルマラー「いい人と言うけど、昔はその長男もお金を要求してたんじゃない?」

 母親「ええ、でもシャーストリーさんが言うには、ダウリーという言葉を聞いただけで怒り出したそうよ。私の家と結婚しなかったことで後悔してたとも聞いたわ。お金のために結婚を破談にしたけど、たくさんのお金をもらってもいいお嫁さんに巡り合えなかったようね。」

 ニルマラーは、自分との結婚を拒否しながら、今になって妹を救おうとするその男を見てみたいと強く思った。禊と言えば禊であるが、このように自ら禊を申し出るような人間がこの世にどれだけいるだろう?彼と話をしてみたい、遠まわしに彼を咎めてやりたい、そして自分の美貌を見せびらかして、自分と結婚しなかったことをさらに後悔させてやりたい、ニルマラーの心は俄かに高揚して来た。夜、2人の姉妹は同じ部屋で寝た。近所のどの女の子が結婚したか、誰に子供が生まれたか、どの結婚式が盛大だったか、どの女の子が好みの夫と結婚できたか、誰がどれだけどのような宝石を贈り物として持って来たのか、2人は夜遅くまでそんな話をし続けた。クリシュナーは何度も、姉の家の状況がどうなのかを聞きたいと思ったが、ニルマラーはその質問をする機会を与えなかった。彼女は、その質問にどう答えていいのか分からなかった。だが、とうとうクリシュナーはこんな質問をした。「お義兄さんも来るんでしょ?」

 ニルマラー「来るように言っておいたわ。」

 クリシュナー「もうお姉ちゃんのこと気に入ったの、それともまだ変わらない?再婚した夫は妻のことを何よりも愛するって聞いてたけど、初めて逆のことを知ったわ。一体何が気に入らないの?」

 ニルマラー「他の人の心のことなんて分からないわ。」

 クリシュナー「お姉ちゃんが冷たいのが気に入らないんじゃないかしら。お姉ちゃんは、イライラしながら嫁いで行ったじゃない。向こうでも何か言ったんでしょ。」

 ニルマラー「そうじゃないの、クリシュナー、誓って言うわ、私は何もあの人のことを悪く思っていないわ。私にできることは何でもしているのよ。もし夫が何かの神様だったとしても、今していること以上のことはできないでしょう。あの人も私のことを愛してくれているわ。いつも私のことを気遣ってくれているわ。でもあの人と私の手に負えないことに対して、あの人も何もできないし、私も何もできないの!あの人は若くなれないんだし、私もお婆さんにはなれないよ。あの人は若返るために何かの汁やら灰やらを食べてるし、私もお婆さんになるために牛乳やギー(精製油)をやめてるのよ。私が痩せることで年の差が少しでも縮まるならそれでいいけど、でもちょっとやそっと栄養を取ったところであの人は若返らないし、私の苦行も何の効果もないわ。マンサーラームが死んでから、あの人の状態はさらに悪くなってしまったわ。」

 クリシュナー「マンサーラームのこと好きだったの?」

 ニルマラー「彼を見て好きにならない人はいなかったわ。あんなに大きい目、今まで見たことないわ。顔は蓮のようにいつも花開いていたわ。もし何かあったら、火の中にでも飛び込むほど勇敢だったわ。クリシュナー、正直言って、彼がそばに来ると、私は自分のことを忘れてしまっていたわ。いつまでも彼がそばにいるように、いつまでも彼のことを見ていられるように、そう願ったわ。でも私の心に少しも変な気持ちはなかったわ。もし一瞬でも彼を変な目で見たとしたら、目が潰れても構わないわ。でも、彼がそばにいるだけで、なぜか私の心はドキドキして仕方なかったわ。だから、私は彼に勉強を教えてもらってたの。そうでなかったら、彼は家に帰って来なかったから。もし彼の心に汚点があったとしても、私は彼のために何でもすることができたわ。」

 クリシュナー「お姉ちゃん、もういいわ、何てことしゃべってるの?」

 ニルマラー「ええ、こんな話を聞くといい気分はしないでしょう。実際、いい話じゃないわ。でも、人間の本性を誰も変えることはできないわ。お前も一度考えてみなさい、50歳の男と結婚することになったらどうする?」

 クリシュナー「私だったら毒を飲んで死んじゃうわ!そんな人の顔すら見たくない。」

 ニルマラー「分かったでしょ、そういうことよ。彼は私のことを一度もそういう風な目で見たことはなかったわ。でもあの人は疑っていたわ。お前のお義兄さんは、自分の息子の敵になって、遂には彼の命まで奪ったのよ。マンサーラームに高熱が出て、熱が冷めたときには死んでいたわ。ああ!あの最期のときの様子、今でも目に焼きついているわ。私が病院に行ったら、熱で意識を失っていたわ。起き上がる力もなかった。でも、私の声を聞いたら、目を覚まして、『お母さん、お母さん』と言って、私の足元に突っ伏したの。」ニルマラーは泣きながら続けた。「クリシュナー!そのとき、自分の命を掴み出して彼に与えたいとどんなに思ったことか。私の足元で彼は意識を失って、そのまま目を開かなかったわ。お医者さんが、彼の身体に新鮮な血を入れることを提案したの。それを聞いた途端、私は病院に走って行ったんだけど、医者がその準備をしている間に彼は死んでしまったわ。」

 クリシュナー「新鮮な血を入れたら彼は助かったかしら?」

 ニルマラー「分からないわ。でも私は最後の一滴まで血を与えようと思っていたわ!そんな状況なのに、彼の顔は灯火のように輝いていたわ。もし彼が私を見て走って来て倒れなければ、少しでも血を入れることができたかもしれない、そして助かったかもしれない。」

 クリシュナー「それじゃあ、どうしてそのとき彼を寝かさなかったの?」

 ニルマラー「馬鹿ね、まだ分かってないわね。彼は私の足元にひれ伏して、母と息子の関係を示して、父親の疑念を晴らそうと思ったのよ。ただそのためだけに起き上がったの。私の汚名を晴らすために彼は命を捧げたの、そして彼の最期の望みは達成されたの。お前のお義兄さんはその日から正気に戻ったわ。今ではあの人に同情を覚えるくらいよ。息子を失った悲しみは、あの人の命をも奪ってしまうでしょう。私を疑った罪の償いをしているのよ。お前はあの人の姿を見ただけで怖気づくでしょうね。すっかり年老いてしまったし、腰も曲がってしまったわ。」

 クリシュナー「年寄りってどうしてそう疑り深いのかしら、お姉ちゃん?」

 ニルマラー「年寄りに聞いてみなさい。」

 クリシュナー「きっと、年寄りの心にはいつも泥棒みたいのが居座ってるんでしょう、それで、若い女の子を幸せにすることができないんでしょう。だから、ちょっとしたことで疑うんだわ。」

 ニルマラー「あんた、これだけの間にそんなこと、どこで学んだの?まあいいわ、で、自分の花婿は気に入った?写真ぐらいは見たでしょ?」

 クリシュナー「うん、写真が届いたわ。見たい?」

 すぐにクリシュナーは写真を持って来てニルマラーに渡した。

 ニルマラーは微笑んで言った。「あんた、幸せ者ね。」

 クリシュナー「お母さんも気に入ってたわ。」

 ニルマラー「あんたは気に入ったのか、気に入ってないのか、言いなさい。話を反らさないで。」

 クリシュナーは恥ずかしがって言った。「見た目は悪くないわ、性格はどうかしら。シャーストリーさんは、こんなに性格のいい子は少ないって言っていたわ。」

 ニルマラー「あんたの写真は送られたの?」

 クリシュナー「送られたわ、シャーストリーさんが持ってった。」

 ニルマラー「向こうは気に入ったのかしら?」

 クリシュナー「他の人の心のことなんて知らないわ。シャーストリーさんは、とても喜んでたって言ってたわ。」

 ニルマラー「そう、じゃあ、贈り物は何がいい?今から教えて、作らせておくから。」

 クリシュナー「姉ちゃんの気に入ったものでいいわ。向こうは本がとても好きみたいよ。いい本を買っておいて。」

 ニルマラー「向こうの話じゃなくて、お前のことを聞いてるのよ。」

 クリシュナー「自分のために言ってるじゃない。」

 ニルマラーは写真を見ながら言った。「服は皆、カーディー(手織り綿布)みたいね。」

 クリシュナー「カーディーがとても好きみたいよ。カーディーを背負って村に売りに行ってるって聞いたわ。話をするのがとても上手みたい。」

 ニルマラー「だったらお前もカーディーを着ないと。お前は厚ぼったい布が嫌いだからね。」

 クリシュナー「彼が厚い布を好きだからと言って、私が怒ることはないわ。私はチャルカー(糸車)の使い方を学んだのよ。」

 ニルマラー「本当!糸を紡いでるの?」

 クリシュナー「そうよ!ちょっとばかし紡いでるわ。カーディー好きなら、きっとチャルカーも回してることでしょう。もし私ができなかったら、とても恥ずかしいから。」

 このように話をしている内に2人は寝てしまった。2時頃、子供の泣き声が聞こえると、ニルマラーは目を覚ました。見ると、クリシュナーの寝台が空だった。こんな夜中にどこへ行ったのか、ニルマラーは不思議に思った。おそらく水でも飲みに行ったんだろう、と考えたが、水は枕元に置いてあった。ならどこへ行ったのだろう?彼女は2、3回、クリシュナーの名前を呼んだ。だがクリシュナーの返事はなかった。ニルマラーは不安になった。彼女の心には数々の疑問が浮かび上がった。そのときふと、自分の部屋に行ったのではないかと思い付いた。彼女の予想は正しかった。クリシュナーは自分の部屋にいた。家全体が寝静まっている中、クリシュナーはチャルカーを回していた。演劇を見ているときですら、こんなに熱中はしていないだろう。ニルマラーは唖然として、部屋の中に入って言った。「何してるの!チャルカーを回す時間じゃないでしょ?」

 クリシュナーは驚いて立ち上がり、うつむいて言った。「お姉ちゃん、どうして目を覚ましたの?水なら私が置いておいたわ。」

 ニルマラー「真夜中チャルカーを回さなければならないほど、昼間忙しいの?」

 クリシュナー「昼間は暇がないの。」

 ニルマラーは糸を見て言った。「糸はとてもいいじゃない。」

 クリシュナー「全然。この糸は太すぎるわ。私、素敵な糸を紡いで、彼のためにターバンを作ってあげたいの。私からの贈り物。」

 ニルマラー「それはいい考えね。それ以上に価値のある贈り物はないでしょう!それはいいけど、今夜はもう寝なさい、紡ぐなら明日。病気にでもなったら、全部台無しよ。」

 クリシュナー「もうちょっとだけ。お姉ちゃんは先に寝てて。私、後で寝るから。」

 ニルマラーは無理強いはせず、先に横になった。しかし、眠気が来なかった。クリシュナーの熱意を見て、彼女の心は異様な興奮に包まれていた。ああ!今、クリシュナーの心はどんなに希望で満たされていることでしょう!愛情がどれだけ彼女を突き動かしていることでしょう!そのとき彼女は自分の結婚式のことを思い出した。彼女の額にティラク(赤い線;結婚の印)が付けられた瞬間から、気ままな生活とは永遠におさらばしてしまった。自分の部屋に閉じこもって彼女は自分の不運を泣いていた。そして神様に、この命を奪って下さい、と祈っていた。罪人には罰が与えられ、彼女には結婚という試練が与えられた。人生の全ての願望を粉々にし、全ての希望を燃やし尽くして灰にしてしまう、結婚という名の試練を。

第16章

 1ヶ月はすぐに過ぎてしまった。結婚式の日がやって来た。客人たちで家は埋まった。ムンシー・トーターラームも前日に家からやって来た。彼と共にスダーも来た。ニルマラーが強く誘ったわけではない。彼女は自分から出席したいと言い出したのである。ニルマラーは、花婿の兄の顔を一目見たいという気持ちで一杯だった。できれば、彼の行動に感謝の一言でもかけようと思っていた。

 スダーは笑って言った。「彼と話せるかしら?」

 ニルマラー「どうして?話をするだけよ、何の害があるの?今はもう、違う関係になっちゃったわ。もし話すことができなくても、あなたがいるから大丈夫。」

 スダー「え、そんな、私に頼らないでよ。私は知らない男と話すことなんてできないわ。一体どんな人かも分からないんだし。」

 ニルマラー「花婿は悪い人じゃないわ、それにあなたが彼と結婚するわけでもないし。少し話すだけ、大したことじゃないわ。スィナーさんがここにいたら、許可をもらったのにね。」

 スダー「心がいい人が性格もいいとは限らないでしょ。他の女をジロジロ見るのをためらわない男はいないわ。」

 ニルマラー「分かったわ、私が話をするから。ジロジロ見るんだったら、好きなだけ見ればいいわ。さあ、これでいい?」

 そのときクリシュナーがやって来た。ニルマラーは微笑んで言った。「クリシュナー、今の気分はどう?正直に言いなさい、ドキドキしてる?」

 クリシュナー「お義兄さんが呼んでるわ、まずは行って見て来てよ、無駄話するならその後。とても怒ってたわ。」

 ニルマラー「どうしたの、お前、何か言ったんじゃない?」

 クリシュナー「病気みたいに見えるわ。ものすごく痩せてしまったわ。」

 ニルマラー「それならちょっと話でもすればよかったじゃない、あの人の気晴らしにもなったでしょうに。すぐにここに走って来ることもなかったでしょう。神様のご加護がなかったら、お前の夫もあんなだったでしょうね。さあ、行ってちょっと話をして来なさい。あの人、おかしな話をするのよ。若者にあんなほら吹きはいないでしょうから。」

 クリシュナー「お姉ちゃんが行って、私じゃ駄目。」

 ニルマラーが立ち去ると、スダーはクリシュナーに言った。「もうバーラート(花婿のパレード)が来たんじゃない。ドワール・プージャー(戸口に立って行う歓迎の祭典)をどうしてしないの?」

 クリシュナー「知らないわ、シャーストリーさんが準備をしてるの。」

 スダー「花婿の兄嫁は厳しい人だって聞いたけど!」

 クリシュナー「どうして知ってるの?」

 スダー「そう聞いたわ、だから忠告してるの。怒鳴り散らされて暮らすことになるでしょうね。」

 クリシュナー「私は喧嘩したりしないわ。私の方から何も言わなくても、理由もなく怒ったりするの?」

 スダー「ええ、そう聞いたわ。あることないこと見境なしに怒り散らすみたいよ。」

 クリシュナー「でも私はこれだけは知ってるわ――謙遜は石をも溶かすって。」

 そのとき急に騒々しくなった。バーラートがやって来たのだ。2人は窓から覗き込んだ。すぐにニルマラーもやって来た。

 彼女は、花婿の兄を一目見たくてたまらなかった。

 ニルマラー「シャーストリーさんにでも聞こうかしら。象の上にはクリシュナーのお義父さんが乗ってるわ。あれ、スィナーさんがどうしてここにやって来たのかしら!ほら、馬の上に、見えないの?」

 スダー「ええ、確かに私の旦那よ。」

 ニルマラー「きっと友達なんでしょう。それとも親戚だったの?」

 スダー「会ったら聞いてみる。私は何も知らないわ。」

 ニルマラー「輿に乗ってる人、花婿のお兄さんには見えないわ。」

 スダー「全然見えないわね。まるで全身がお腹みたいだわ。」

 ニルマラー「2頭目の象には誰が乗ってるのかしら、よく分からないわ。」

 スダー「誰でもいいけど、花婿の兄じゃないでしょう。年齢は40歳以上なんじゃない。」

 ニルマラー「シャーストリーさんは今、ドワール・プージャーで忙しいでしょう、そうでなかったら聞いてたのに。」

 偶然、ナーイー(床屋)がやって来た。このときドワール・プージャーのためにお金が必要だったのだが、金庫の鍵はニルマラーが持っており、母親が送ってよこしたのだった。このナーイーもモーテーラームと一緒に向こうの家に行っていた。

 ニルマラーは言った。「お金が必要なの?」

 ナーイー「はい、ちょっと金庫を開けて下さい。」

 ニルマラー「分かったわ。そうそう、お前、花婿のお兄さんを知ってる?」

 ナーイー「知ってるも何も、すぐ目の前にいますよ。」

 ニルマラー「どこ、私には見えないけど?」

 ナーイー「ほら、馬に乗った人ですよ。」

 ニルマラーは驚いて言った。「そうなの、馬に乗ってたのが花婿のお兄さんなの!本当に知ってるの、それとも当てずっぽうで言ってるの?」

 ナーイー「何をおっしゃるんですか、私はそんなに忘れっぽくありません。たった今、軽食を出して来たところです。」

 ニルマラー「あれはスィナーさんよ、私の家の近くに住んでいるわ。」

 ニルマラーはスダーの方を見て言った。「ねえ、話聞いてる?」

 スダーは笑いをこらえて言った。「嘘でしょう。」

 ナーイー「嘘で結構、私はもう何も言いません。シャーストリーさんに聞いて下さい、そうすれば分かるでしょう?」

 ナーイーがなかなか帰って来ないので、モーテーラームは自ら中庭にやって来て大声を上げた。「この家の尊厳はもう神頼みだ!ナーイーを送ったのに、1時間経っても金を持って来やしない!」

 ニルマラー「ちょっとこっちに来て下さい、シャーストリーさん!いくら必要ですか?」

 モーテーラーム・シャーストリーはぶつぶつぼやきながら、息を切らして上までやって来た。そして大きく息を吸い込んでから言った。「どうかしましたか?話をする時間じゃありません、早くお金を取り出して下さい。」

 ニルマラー「今、取り出しているところですよ、心配しないで下さい。ところで、花婿のお兄さんはどこですか?」

 シャーストリー「ラームラーム!そんなことのために私をこんなところまで呼んだんですか?ナーイーが知ってるでしょう?」

 ニルマラー「ナーイーは馬の上に乗った人だと言うんです。本当ですか?」

 シャーストリー「他に誰だと言うんですか!彼以外に誰がいますか?」

 ナーイー「さっきから言ってるんですが、認めようとしないんですよ。」

 ニルマラーはスダーの方を愛情と感謝と、そして少しばかりの叱責の目で見て言った。「そう、今まで私をからかっていたのはあなただったのね!もし知ってたら、あなたをここに呼んだりしなかったわ。全くなんてずる賢いのかしら!何ヶ月も私をからかい続けたのに、間違ってもこのことで口を滑らしたりしなかったんですものね。私だったら3日と隠し通せないでしょう。」

 スダー「あなたに知られたら、私がここに来ることもなかったでしょう。」

 ニルマラー「全く、私はスィナーさんと何度も話をしてしまったわ。この罪は全部あなたが償わないといけないでしょう。クリシュナー、見た?お前のお義姉さんの悪戯!見ての通り、この人はとてもずる賢いから用心してなさい!」

 クリシュナー「私にとっては女神様だわ。何て幸運なの、女神様を拝むことができたわ。」

 ニルマラー「今やっと分かったわ。お金もあなたが送ったんでしょう。もし違うなんて言ったら許さないわ。」

 スダー「自分の家にお客さんを呼んでおいて侮辱をするのはよくないわ。」

 ニルマラー「それにしても大変なことになったわ。私はあなたが悪く思うといけないと思って、あなたに招待状を送ったのよ。あなたは本当に来てしまった。一体向こうで何を言われているでしょう?」

 スダー「みんなに言ってから来たわ。」

 ニルマラー「もうあなたの家には二度と行かないわ。スィナーさんの前で顔を覆うように、少しでも言ってくれたらよかったのに。」

 スダー「あの人が見ることで何の悪いことがあるの?もし見てなかったら、自分の運命を泣くこともなかったでしょう。欲に身を任せてどれほどの物を失ってしまったか、分からなかったでしょう。今ではあなたを見てお義父さんも後悔してるわ。口では何も言わないけど、心の中では自分の過ちを後悔してるわ。」

 ニルマラー「もうあなたの家には二度と行かないわ。」

 スダー「もう遅いわ。私はあなたが来るのを待ってるから。」

 ドワール・プージャーが終わった。客人たちは軽食を取っていた。ムンシー・トーターラームのそばにはドクター・スィナーが座っていた。ニルマラーは、簾の陰から2人を見て、心臓を締め付けられる気持ちがした。1人は健康で若く、神様のような容姿であった。だが、もう1人の方は・・・何も言わない方がいいだろう。

 ニルマラーはスィナーを何百回も見たことがあった。しかし、今日、彼女の心に沸き上がった感情は、今まで決してなかったものであった。ここに呼んでこっぴどく叱ってやろう、一生忘れられないほど罵ってやろう、そして泣いたら許してやろう、何度も何度もそう思った。だが、彼女は思い止まった。バーラートは休憩所へ向かった。夕食が準備されていた。ニルマラーは食器を選ぶのに忙しかった。そのとき女中がやって来て言った。「奥さん、スダーさんが呼んでいます。あなたの部屋にいます。」

 ニルマラーは食器を放り出して、困惑しながらスダーのところへ行った。しかし中に入った途端、驚いてしまった。ドクター・スィナーが立っていた。

 スダーは微笑んで言った。「ニルマラー、呼んでおいたわ。好きなだけ叱って。私が扉を閉めておくから逃げられないわ。」

 ドクター・スィナーは真剣に言った。「誰が逃げるって?私は頭を垂れて立ってるじゃないか。」

 ニルマラーは手を合わせて言った。「これからもよろしくお願いします。それだけが私からのお願いです。」

第17章

 クリシュナーの結婚式の後、スダーは去って行った。だが、ニルマラーは実家に残った。ムンシー・トーターラームが何度も手紙を送ってよこしたが、彼女は帰らなかった。帰る気が起こらなかったのだ。自宅には、彼女を引き戻すようなものがなかった。ここでは、母親の世話や弟たちの面倒を見ているだけで、楽しく時間が過ぎて行った。ムンシー・トーターラームが自ら来ていたら、彼女も帰る気になっただろう。だが、結婚式のとき、彼は近所の女の子たちからこっぴどくからかわれたので、二度と来ようとはしなかった。スダーも何度も手紙を送って来たが、ニルマラーは彼女に対しても言い訳を繰り返すだけだった。とうとうある日、スダーは下男と共に乗り込んできた。

 一通り挨拶と抱擁が終わった途端、スダーは言った。「あなたはまるで帰るのを怖がってるみたいね。」

 ニルマラー「そうね、怖がってるわ。嫁いで以来、3年振りに帰って来たのよ。この後は死ぬまであそこにいなければならないでしょう。誰も私を呼んでくれないし、誰も私のところに来てくれないわ。」

 スダー「好きなときに帰ってくればいいと思うわ。でも、家ではトーターラームさんがとても心配してるわ。」

 ニルマラー「でしょうね、夜も眠れないくらいでしょう!」

 スダー「ニルマラー、どうしてそんなに冷たくなってしまったの?彼を見ると同情してしまうわ。家には誰もいない、息子もいない、妻もいない、誰と気を紛らわせばいいのか、少しは考えて。引っ越して以来、ずっと気が晴れないみたいよ。」

 ニルマラー「息子なら2人もいるじゃない。」

 スダー「2人のことについて不満を漏らしていたわ。ジヤーラームは言うことを聞かない、まともに会話をしてくれない、末っ子も次男の言うことしか聞かないって。亡くなった長男のことを思い出して泣き暮らしているわ。」

 ニルマラー「ジヤーラームはそんな分からず屋じゃなかったはずよ、いつからそんな態度を取るようになったのかしら?私の言うことは何でも聞くわ。指図しただけでちゃんと仕事してくれたし。」

 スダー「私はよく分からないわ!でも、トーターラームさんに向かって、お父さんがお兄さんに毒を盛って殺したんだ、お父さんは人殺しだって言うそうよ。それで、それを聞いたトーターラームさんも泣いてしまうそうよ。そうそう、いつだったか、石を持って追いかけて来たこともあったみたい。」

 ニルマラーは急に不安になった。彼女は言った。「あの子、なんて悪い子になってしまったの。誰が、あの人が毒を盛ってマンサーラームを殺したなんて嘘を吹き込んだのかしら?」

 スダー「あなたが帰ればきっとよくなると思うわ。」

 ニルマラーの心には新たな不安が沸き起こった。もしジヤーが本当に父親に対して反抗的な態度を取っているならば、自分の言うことなど聞くだろうか?彼女は夜遅くまでそのことを考えていた。今日の彼女には、マンサーラームのことがやけに思い出されてきた。彼さえいれば、生活はどんなに安楽だったことだろう。父親に対してジヤーがそんな態度を取るようになったなら、私に対してはさらにひどい仕打ちをするだろう。家はもう滅茶苦茶になってしまった。借金も返さなくてはならない。だが収入はない。この状況は神様にしか救えないだろう。今日初めて、彼女は娘の将来に不安を感じた。この娘はこれからどうなるのだろう?神様はとんでもない重荷を下さったものだ。私には娘の必要すらなかった。もし生まれなければならなかったのなら、他の幸せな家庭に生まれればよかっただろう。娘は、彼女の胸に張り付いて眠っていた。母親は赤ちゃんを強く抱きしめた。まるで誰かに奪われないようにするために。

 ニルマラーのそばにはスダーが寝ていた。ニルマラーは不安の海の中でもがいていたが、スダーは睡眠の甘さを味わっていた。彼女は自分の息子の心配をすることがないのだろうか?死は年寄りも若者も差別はしない。それでいてなぜスダーは不安を感じることがないのだろうか?彼女が悩み事を抱えて困っているところを一度も見たことがなかった。

 そのとき、スダーはふと目を覚ました。彼女はニルマラーがまだ眠っていないのを見て言った。「あれ、まだ寝てないの?」

 ニルマラー「眠気が来ないの。」

 スダー「目をつむれば、自然に眠気は来るわ。私なんて寝台に横になった途端、眠ってしまうわ。旦那が起きていても私は気付かないの。どうして私はこんなに眠くなるんでしょうね?多分何かの病気だと思うわ。」

 ニルマラー「ええ、きっと重病よ。それ、王様病と言うのよ。すぐに旦那さんに言った方がいいわ、治療を始めてって。」

 スダー「でも、起きてて何を考えればいいの?時々、実家のことを思い出すけど、そういう日はなかなか寝付けないわ。」

 ニルマラー「旦那さんのことは思い出さないの?」

 スダー「そんなこと一度もないわ。どうして主人のこと思い出すの?私には何でもお見通し。今頃テニスをして帰って来たでしょう、今頃夕食を食べたでしょう、今頃ゆっくり横になってるでしょうって。」

 ニルマラー「あら、ソーハンも目を覚ましちゃったわ!あなたが目を覚ましたら、子供も眠ってられないのよね!」

 スダー「そうね、この子いつもそうなの。私と一緒に寝て、私と一緒に起きるの。きっと前世では苦行者か何かだったんじゃないかしら。ほら、額にティラク(赤い印)の跡があるし、腕にも同じような跡があるのよ。きっと苦行者だったに違いないわ。」

 ニルマラー「苦行者は白檀のティラクなんて付けてないでしょう?前世はきっと悪質な僧侶だったのよ。こら、あんた、どこの僧侶だったの?教えなさい?」

 スダー「私はこの子を自分の娘と結婚させるわ。」

 ニルマラー「冗談はよしてよ、何言ってるの?兄妹の結婚なんてできないわ。」

 スダー「私はするわ、誰が何と言おうと。こんなに美しいお嫁さん、どこからもらって来ればいいの?あら、ちょっと見て、この子の身体、ちょっと熱くないかしら、それともそう感じるのは私だけ?」

 ニルマラーはソーハンの額を触って言った。「多分熱があるわ。いつからかしら?お乳を飲んでたわよね?」

 スダー「さっき寝入ったときは、こんなに熱くなかったわ。多分風邪を引いたのかも。何とか寝かせれば、朝までにはよくなってるでしょう。」

 朝になったが、ソーハンの体調はさらに悪くなった。鼻水が出るようになり、熱はさらに高くなった。目は赤くなり、首は頭を支えられなくなった。手足を動かすこともなく、笑ったりしゃべったりすることもなく、ただ黙って横になっていた。まるで誰とも話したくないかのように押し黙っていた。咳も出るようになった。とうとうスダーも取り乱すようになった。ニルマラーは医者を呼ぶべきだと思ったが、彼女の母親は、「医者の仕事じゃないわ。明らかにこれは邪視のせいよ。医者に何ができるんだい?」と言い張った。

 スダー「おばさん、邪視と言ったって、誰がそんなことするの?外に出したこともないのに。」

 母親「邪視というのは誰かが付けたりするようなものじゃなくて、誰かの視線が邪だと、自然に付いてしまうものなのよ。両親の邪視が子供に付くことだって時々あるのよ。私は、この子がはしゃぎ回ってるのを見たときから、何か起こるんじゃないかって不安だったわ。目が見えないほどこんなに腫れてしまってるのは、邪視が付いた一番の印よ。」

 メヘリー婆さんと近所の僧妻もそれに賛成した。メヘングーもやって来て、子供の顔を見て笑って言った。「奥さん、これは完全に邪視ですよ。ちょっと細い藁を持って来て下さい。神様がお望みなら、夕方までにお子さんは笑い出すでしょう。」

 早速、藁が5本用意された。メヘングーはそれらの長さを揃えて1本の紐で縛った。そしてそれを手に持って、何かをつぶやきながら、ソーハンの頭をお祓いした。見ると、5本の藁の長さはバラバラになってしまった。全ての女性たちはそれを見て驚いてしまった。もはや誰も邪視であることを疑わなかった。メヘングーは再び藁で子供のお祓いをした。すると今度は藁は均等となった。ただ、少しだけ違いがあった。これはつまり、まだ邪視の影響が残っていることを示していた。メヘングーは皆に言い聞かせて、夕方また来ると言い残して去って行った。

 子供の病状は昼になるとさらに悪くなった。咳がひっきりなしに出るようになった。夕方、メヘングーはやって来て再び藁でお祓いを始めた。このとき、5本の藁は完全に均等となった。女性たちは安堵の溜め息をついた。しかし、ソーハンの咳は夜通し止まらなかった。白目をむくことまであった。スダーとニルマラーは徹夜でソーハンの看病をした。おかげで何とか無事に夜は過ぎた。すると母親は別の提案を始めた。メヘングーには邪視を治すことができなかったので、今度はマウルヴィー(イスラーム教の僧侶)に呪文を詠んでもらうしかなかった。スダーは未だに夫に電報を打っていなかった。メヘリー婆さんはソーハンを毛布でくるんでモスクへ連れて行き、呪文を詠んでもらった。夕方にもう一度呪文を詠んでもらった。だが、ソーハンは快方に向かわなかった。夜になった。スダーは、夜明けに夫に電報を打つことを決めた。

 しかし、夜は無事に過ぎなかった。夜半、子供は死んでしまった。スダーの唯一の宝物は、目の前で奪われて行ってしまった。

 2日前に結婚式ではしゃぎ回っていたあの子供が、今日は家の全てを泣かせていた。母親の胸を躍らせていたかわいいあの子が、今日は母親の胸を痛めつけていた。皆はスダーを一生懸命慰めたが、彼女の涙は止まらなかった。夫にどんな顔をして会えばいいのだろう、彼女にとって一番の悲しみはそれだった。まだ彼には知らせてもいなかった。

 夜になり、電報を打つと、翌日9時にドクター・スィナーは自動車に乗ってやって来た。彼がやって来たことを知ると、スダーはさらに大声で泣き出した。子供の火葬が行われた。スィナーは何度も家の中に入ったが、スダーは彼に会おうとしなかった。彼の前にどうして行けるだろうか?どの顔を見せればいいのだろうか?彼女は不注意から彼の人生の宝物を奪って河に放り込んでしまったのだった。彼のそばに行ったら、彼女の胸は木っ端微塵に砕け散ってしまうだろう。彼女の胸に子供が抱かれているのを見て、彼は目を輝かせていたのだった。子供は小躍りして父親の胸に移り、母親が呼んでも父親の胸にしがみついて離れようとしなかった。そして、いくらあやしても、決して父親の胸を手放そうとしなかった。仕舞いに母親は言うのだった、まあ、なんて自分勝手なの!だが、今日、彼女は誰を胸に抱いて夫のところへ行けばいいのだろう?彼女の孤独な胸を見て、夫は泣き崩れてしまわないだろうか?夫に対面するよりは死んだ方が数倍楽であった。彼女は、夫と会わないように、一瞬たりともニルマラーを離そうとしなかった。

 ニルマラーは言った。「スダー、もう起こってしまったことは起こってしまったことよ、旦那さんからいつまで逃げ回るの?夜になったら行ってしまうそうよ、お母さんが言ってたわ。」

 スダーは目に涙を浮かべて睨みながら言った。「どんな顔して旦那に会えばいいの?旦那の前に立った途端、足がよろついて倒れてしまうかもしれないわ。」

 ニルマラー「私が支えているから大丈夫よ、さあ、行きましょう。」

 スダー「私を捨てて逃げ出したりしない?」

 ニルマラー「そんなことしないわ、逃げたりしない。」

 スダー「ああ、心臓が張り裂けそう。こんな不幸に遭っても座っていられることが驚きだわ。あの人、ソーハンをとてもかわいがっていたのよ!どんなに悲しんでいることでしょう。なんて慰めたらいいのかしら、私が泣いてしまって、それどころじゃないでしょう。夜には行ってしまうの?」

 ニルマラー「ええ、お母さんがそう言ってたわ。休みを取って来なかったそうよ。」

 2人はマルダーナー(男性居住区域)の方へ行った。だが、部屋の入り口でスダーはニルマラーと分かれた。一人で部屋の中に入った。

 スィナー氏は、スダーのことをとても心配していた。いろいろな不安が頭をよぎっていた。帰る準備はできていたが、なかなか出発できずにいた。人生が空虚なもののように思えた。心は少しも落ち着かなかった。もしこんなに早くお召しになるつもりだったのなら、神様はどうしてお与えになったのだろう?彼は一度も神様に子孫が欲しいとは願わなかった。彼は一生涯、子孫なしで生きていくこともできた。だが、子孫を得ながら別れなければならないのは耐えられなかった。人間は本当に神様の玩具なのだろうか?人間の一生とはその程度のものなのだろうか?人間の一生とは、子供の作る家のようなものだ。作る理由もなければ、壊す理由もない。だが、子供だって自分の作った家に対して、紙の舟に対して、木馬に対して、愛着を持っている。お気に入りの玩具を大事にしまっている。もし神様は子供なのなら、非常におかしな性格の子供だ。

 しかし、知性は神様のその姿を受け容れることはできない。世界の創造者が勝手気ままな子供であるわけがない。我々は神様を、我々の知性を超えたありとあらゆる能力を持った存在と考えている。では、悪戯好きの性格もその内なのか?遊び盛りの子供の命を奪うことは何かの遊びなのか?神様はそんな悪魔のような遊びを遊んでいるのか?

 すると、スダーが静かに部屋の中に入って来た。スィナー氏は立ち上がり、彼女に近付いて言った。「どこにいたんだ、スダー?お前を待ってたんだぞ。」

 スダーの目は部屋中を泳いでいるようだった。彼女は夫の首に手をかけ、胸の中に頭を置いて泣き出した。だが、その涙の流れの中で、彼女は無限の忍耐力と慰撫を感じていた。木のように立ち尽くした夫にしがみつくことで、彼女は心の中に異常な興奮と力が広がっていくのを感じた。まるで、風によって消えかかっていた炎が、布に燃え移って一気に広がるかのようだった。

 スィナー氏は涙で濡れた妻の頬を両手で包み込んで言った。「スダー、どうしてそんなに気が弱くなったんだい?ソーハンはこの世でやるべきことはやり終えたんだ。なら、いつまでもこの世に居座ることはないだろう?木は水と光で成長するが、風の激しい体当たりによって強くなるんだ。それと同じように、愛も悲しみの衝撃によって成長していくものなんだ。嬉しいときに一緒に笑える仲間はいくらでも手に入るが、悲しいときに一緒に泣いてくれる人が本当の友人だ。一緒に泣く幸せを得たことのない2人に、愛の楽しみがどれだけ理解できるだろう?ソーハンの死は、今日僕たちの間の壁を完全に取り払った。今日から僕たちはお互いの本当の姿を見ることができる。」

 スダーは嗚咽しながら言った。「私はどうかしてたんだわ!ああ!あなたは最期にあの子の顔を見ることもできなかった。あのとき、あの子にどこからあんな知恵が付いたのかしら?私が泣いていると、あの子は自分の苦しみを忘れて微笑んだのよ。3日目にあの子は目を開けなくなってしまったわ。薬を飲ませることもできなかった。」

 そう言っている内に、スダーの目には再び涙が溢れて来た。スィナー氏は彼女を抱きしめ、悲しみで声を震わせながら言った。「スダー、いいかい、今まで何人もの子供や老人が、薬を十分に飲ませたにも関わらず、死んでしまっているんだよ。」

 スダー「ニルマラーが助けてくれたわ。私は居眠りをしていたときもあったけど、彼女は一睡もせずに夜通し看病してくれたのよ。彼女の恩は一生忘れないわ。あなた、今日の内に出ちゃうの?」

 スィナー「ああ、休みを取れなかったんだ。保健局長が狩りをしに出掛けていたからね!」

 スダー「保健局長はいつも狩りをしているの?」

 スィナー「王様に他にどんな仕事があるんだい?」

 スダー「私、今日は行かせないわ。」

 スィナー「僕もそうしたいところなんだが。」

 スダー「じゃあ行かないで、電報を打って。私もあなたと一緒に行くわ。ニルマラーも連れて。」

 部屋を出たときには、スダーの心はだいぶ軽くなっていた。夫の愛情のこもった優しい言葉は、彼女の全ての悲しみと苦悩を取り払ってくれた。愛は無限の信頼と、無限の忍耐力と、無限の活力を与えてくれるものだ。

第18章

 何かしらの不幸に遭遇したとき、我々は単に悲しみに沈むだけではない。他人の当てこすりに耐えなくてはならない。世間は、我々について意見する機会を待ち望んでいるものだ。マンサーラームが死んだことにより、世間はトーターラーム一家について話をする言い訳を得た。中で何が起こったのか誰も知らない癖に、人々は全ての責任は継母にあると結論付けていた。四方八方この噂で持ち切りだった――継母に子供の世話を任せるものじゃない。自分の家庭を破壊して、我が子の首に刃物を突きつけるようなことをしたくないなら再婚などすべきじゃない。継母が来て家庭が崩壊しなかったことなどない。目に入れても痛くないほど子供をかわいがっていた人が、継母が来た途端考えが変わり、子供の敵になってしまうものだ。血のつながりのない子を我が子のようにかわいがるような女性は今まで生まれたことがない。

 さらに悪いことに、人々は噂話をするだけでは満足しなかった。ジヤーラームとスィヤーラームをとてもかわいがっていた人たちもいた。彼らはその2人の子に深い同情の念を示した。彼らの母親の素晴らしさを思い出して涙を流す女性たちもいた。ああ!ああ!死んだ途端に子供たちがこんなひどい目に遭うなんて、お母さんは想像だにしなかったでしょう!今では牛乳もバターも口にできないでしょうに。

 ジヤーラームは言った。「そんなことないよ。」

 女性は言った。「そう!でもね、それにもいろんなものがあるのよ。どうせ水を混ぜた安物の牛乳でしょう。飲んでも飲まなくても同じ。誰が気にしてくれるの?お母さんだったら、下男に牛乳を搾らせて持って来ていたわ。それは顔に出ているわ。牛乳を飲んでいる子の顔は違うのよ。お前の顔は変わってしまったわ。」

 ジヤーラームは、実の母親の頃の牛乳の味を覚えていなかった。だから反論することもできなかった。その頃の自分の顔も覚えていなかった。だから黙っていた。このような同情の言葉が彼らに影響を与えるのは自然なことであった。ジヤーラームは家族に対して反抗的になって行った。ムンシー・トーターラームは家が競売にかけられた後、他の家に引っ越したが、今度は家賃の心配をしなくてはならなかった。ニルマラーはバターを買うのをやめた。収入がないのに、どうやって出費を賄えばいいのだろう?2人の下男も解雇した。ジヤーラームは生活が貧しくなっていくことを面白く思っていなかった。その上、ニルマラーは実家に帰ってしまっていた。ムンシー・トーターラームは牛乳を買うのもやめた。新しく生まれた女の子も心配の種となって彼を悩ますようになった。

 ジヤーラームは怒って言った。「牛乳をやめたら宮殿でもできるってわけ!何なら食事も止めてよ。」

 トーターラーム「牛乳が飲みたいなら、行って自分で搾って来たらどうだ?水の分の金を払わなくて済むだろう。」

 ジヤーラーム「僕が乳搾りに行くっての?それで友達にでも見られたら?」

 トーターラーム「別に何も起こらんさ。自分のために牛乳を持っていくと言えばいい。牛乳を搾ることは別に泥棒じゃない。」

 ジヤーラーム「泥棒じゃない!父さんは乳搾りしているところを誰かに見られても恥ずかしくないんだね?」

 トーターラーム「全然。ワシは自分の手で水を汲んだし、食べ物を稼いで来たんだ。ワシの父さんは金持ちじゃなかったんだ。」

 ジヤーラーム「僕の父さんは貧乏じゃないよ、僕がどうして乳搾りに行かなくちゃいけないの?それに、どうして召使いをやめさせたりしたの?」

 トーターラーム「お前はそんなことも分からんのか?ワシの収入は前と同じじゃないんだ!お前ももう分かる年頃だろう。」

 ジヤーラーム「それじゃあどうして父さんの収入は減ってしまったの?」

 トーターラーム「理解力のないお前に説明なんてできんよ。人生に失望してしまったんだ。誰が裁判をして、誰が準備するというのか?もう何もかもやる気がしないんだ。今はもう死ぬのを待つだけだ。全ての生き甲斐はマンサーラームと共に消え去ってしまった。」

 ジヤーラーム「父さんがしたことでしょ?」

 トーターラームは大声を張り上げた。「馬鹿者!神様のお望みだったんだ。誰が自分の首を自分で切ったりするか?」

 ジヤーラーム「神様が父さんの結婚を決めたわけじゃないでしょ。」

 トーターラームはもはや我慢できなかった。目を真っ赤にして言った。「お前、今日はワシと言い争うために来たのか?お前に何の権利がある?ワシはお前に食わせてもらってるのか?そうなってからワシに説教しに来い!そのときはワシも耳を貸そう。だが今はお前にワシを説教する権利などない!しばらく勉強して作法も身に着けろ。お前はワシの助言者じゃない。ワシはお前の助言を得て仕事をしてるわけじゃない。ワシが稼いだ金だ、ワシには好きなように使う権利がある。お前は口を開く権利すらない。もしワシにそんな大口でも叩いたら、とんでもないことになるぞ。マンサーラームのような子を失ってもワシは死ななかった。お前が死んでもワシは何ともない。分かったか?」

 このような叱責を受けても、ジヤーラームは一歩も下がらず、怖気づくこともなく言った。「じゃあ父さんは、僕がどんなに困っていても口を開いちゃいけないと言うんだね?僕にそんなことはできないよ。兄さんがいくら勉強ができて行儀が良かったとしても、僕には関係ない。僕には毒を飲んで死ぬような勇気はない。僕には真っ平ごめんだね。」

 トーターラーム「お前、よくもぬけぬけとそんなこと抜かすな。」

 ジヤーラーム「子供は大人の真似をするんだ。」

 トーターラームの怒りは収まった。ジヤーラームを叱っても何の効果もないことが分かったからだ。立ち上がって散歩しに出掛けた。今日、彼は自分の家庭が崩壊寸前であることを知った。

 その日から毎日のように、父と子の間でちょっとしたことで衝突が起こるようになった。トーターラームが何も対処しようとしなかったため、ジヤーラームはますます手が付けられなくなった。ある日、ジヤーラームはルクミニーにこんなことまで言った。「父さんだから僕は見逃してやってるけど、そうでなかったら、仲間に頼んで袋叩きにしてるところだ。」ルクミニーはトーターラームに告げ口した。トーターラームは表面上は無視をしたが、心の中は不安で一杯になった。夕方散歩に行くのをやめた。新たな不安の種ができてしまった。彼がニルマラーを連れ戻そうとしなかったのは、ジヤーラームがニルマラーに対してもこのような態度を取ることを恐れたからである。ジヤーラームは一度、ドスの効いた声でこんなことを口走ったことがあった。「この家にどんな顔して帰って来るか見ものだ。遠くから追い払ってやろう、でなきゃジヤーラームの名が泣く。老いぼれの父さんに何ができるってんだ?」トーターラームも、自分が何もできないことをよく理解していた。赤の他人だったら、警察に通報して法律の裁きを受けさせてやるところだった。だが、自分の息子にそんなことはできない。人間負けるときは自分の息子に負けるときだ、という諺は本当だった。

 ある日、ドクター・スィナーはジヤーラームを呼んで説教を始めた。ジヤーラームは彼を尊敬していた。黙って座って聞いていた。スィナー氏が「結局お前は何がしたいんだ?」と聞くと、ジヤーラームは答えた。「正直に言っていいですよね?悪く思わないで下さい。」

 スィナー「構わない。心で思っていることを正直に話しなさい。」

 ジヤーラーム「兄さんが死んでから、父さんの姿を見ると怒りが込み上げるんです。父さんは兄さんを殺したんだから、いつかは機会を得て僕たち2人も殺すんじゃないかって感じるんです。もしそうでなかったら、どうして父さんは再婚なんてしたんですか?」

 スィナー氏は何とか笑いをこらえながら言った。「お前を殺すためにお父さんが再婚しなくてはならなかったなんて、僕には全然分からないね。結婚しなくても殺すことはできたんじゃないかい?」

 ジヤーラーム「そんなことありません!あのときは父さんも別人でした。僕たちをとてもかわいがってくれてました。今では顔も見たくないでしょう。父さんは、自分たち2人以外、家に誰もいないことを願ってるんです。もし男の子が生まれたら、僕たちも生きてはいられないでしょう。これがあの2人の密かな計画なんです。僕たちをあれこれ困らせて追い出そうとしてるんです。だから最近、仕事もしてないんです。もし僕たち2人が今日にでも逃げ出したら、見てて下さい、きっと春が戻って来るでしょう。」

 スィナー「もしお前を追い出したいなら、何か言い掛かりをつけてとっくの昔に追い出していただろう。」

 ジヤーラーム「僕はもうその準備はできてます。」

 スィナー「どんな準備をしたのか、聞かせてくれないかい?」

 ジヤーラーム「そのときが来たら分かるでしょう。」

 そう言ってジヤーラームは去って行った。ドクター・スィナーは何度も呼んだが、彼は振り返りもしなかった。

 数日後、スィナー氏とジヤーラームはまた会った。スィナー氏は映画の愛好家だった。ジヤーラームは映画のために生きているようなものだった。スィナー氏は映画の批評をしてジヤーラームを惹き付け、家に連れて来た。食事の時間になり、2人は一緒に食事をした。スィナー氏の家の食事はおいしかった。ジヤーラームは言った。「僕の家では、コックが出て行ってから、食事の楽しみもなくなってしまいました!叔母さんは純菜食主義の食事を作ってくれて、僕もお腹一杯食べるけど、食べる楽しみはもうなくなりました。」

 スィナー「僕の家では、妻が自分で料理を作ると、これよりももっとおいしいよ。お前の叔母さんは、タマネギやニンニクに触りもしないだろう。」

 ジヤーラーム「はい、ただ煮るだけです。父さんは誰が食べたか、誰が食べていないか、全く気にしないんです。だからコックもやめさせたんです。もし本当にお金がないなら、毎日どこから宝石が出て来るんでしょう?」

 スィナー「そんなことはない、ジヤーラーム、お父さんの収入は本当に少なくなってしまったんだ。お前はお父さんを困らせてばかりいるな。」

 ジヤーラームは笑って言った。「僕が父さんを困らせてる?誓って言いますけど、僕は父さんに何も言ってません。父さんの方が、僕を貶めようとしてるんです。何の用もないのに僕を追い回すんです。その上、僕の友達に対しても怒るんです。考えてみて下さい、人間、友達なしにどうやって生きるんですか?僕は、不良とつるむほど下劣じゃありません。でも、僕の友達のことをあれこれ悪口言って、毎日僕をイラつかせるです。昨日も僕は父さんに、『誰が何と感じようと僕の友達が家に来るときは来るから邪魔しないで』って言ってやりました。誰であっても、こう何度も何度も威圧されてたらたまりません。」

 スィナー「僕はお父さんに同情してしまうよ。本当はもうゆっくり休んでもいい年頃なのに。もう年老いてしまった上に、息子の死の悲しみが追い討ちをかけている。体調もよくないし。そんな人間に何ができるんだい?多少のことをしてるなら、それで十分だ。お前はまだ何もできないかもしれないが、少なくとも行儀よくすることで、父さんを喜ばすことができるんだよ。年寄りを喜ばせるのはそんなに難しいことじゃない!本当さ、お前が笑って話すだけで、お父さんには十分な幸せなんだ。『お父さん、体調はどうですか?』これだけ聞くのにお前に何の損があるんだい?お父さんは、お前の反抗的態度を見て怒ってるんだよ。正直に話すけど、何度もお父さんが泣いているのを見たよ。確かに、お父さんが再婚したのは間違いだった。お父さんもそれは認めてる。でも、お前が自分の義務を果たそうとしないのはどういうわけだ?トーターラームさんはお前のお父さんなんだよ、お前はお父さんの世話をしなくちゃならない。お父さんを悲しませるような言葉、一言も口から出しちゃいけないよ!みんな私の稼ぎを食いつぶしてる、誰も私のことを気遣ってくれない、そんなことをお父さんに思わせちゃ駄目じゃないか。僕はお前よりだいぶ年上だ、ジヤーラーム、でも、僕は自分の父親に対して一度も口答えしたことなんてない。父親は今でも僕を叱るよ。それを僕はただうつむいて聞いている。なぜなら、父親が僕のためを思って言ってくれてるのを知っているからだ。両親以上に僕たちのことを気遣ってくれる人は、この世には誰もいないよ。その借りを誰が返すことができる?」

 ジヤーラームは座って泣いていた。今でも彼の良心は完全に消え去っていなかった。自分の過ちがはっきりと感じられた。このような自己嫌悪の感情は初めてだった。泣きながらスィナー氏に言った。「とても恥ずかしいです。他人の言うことに流されてしまいました。もう僕の不満を聞くことはないでしょう。僕の過ちを許してくれるように、お父さんに頼んで下さい。僕は本当に親不孝でした。お父さんをとても困らせてしまいました。お父さんに言って下さい、どうか僕のしたことを許して下さいって。そうでなかったら、僕は汚名を背負ったままどこかに消え去ります。河に身を投げて死にます!」

 スィナー氏は、自分の説教がうまくいったことを喜んだ。ジヤーラームを抱きしめて家に帰らせた。

 ジヤーラームが家に着いた頃には、既に11時になっていた。トーターラームは夕食を食べて外に出ようとしていた。ジヤーラームを見て言った。「何時になったか分かってるのか?もうすぐ12時じゃないか。」

 ジヤーラームはとても畏まった態度で言った。「ドクター・スィナーさんと会って、家にお邪魔していました。食事もして行くようにと言われたので、仕方なく食べて来ました。それで遅くなってしまいました。」

 トーターラーム「ドクター・スィナーに泣き言を言いに行ったんだろう。それとも他に何か用事があったのか?」

 ジヤーラームの慇懃さの4分の1がどこかへ行ってしまった。彼は言った。「泣き言を言うような性格じゃありません。」

 トーターラーム「泣き言を言わない、お前の口からは言葉すら出ない。そうか、なら、ワシにお前の話をする人たちはきっと、嘘を付いているんだろうな。」

 ジヤーラーム「他の日のことは別です。今日、僕はスィナーさんの家で、父さんの前で言えないようなことは言ってません。」

 トーターラーム「それは素晴らしいことだ。非常に素晴らしい!今日から聖人にでもなったというわけか?」

 ジヤーラームの慇懃さのさらに4分の1が消え去った。彼は顔を上げて言った。「人は聖人でなくても自分の過ちに恥じ入ることができます。自分を正すために、魔法の呪文は必ずしも必要じゃあありません。」

 トーターラーム「ならもう不良どもが集まったりしないというわけだな?」

 ジヤーラーム「証拠もないのにどうして誰かのことを悪者扱いするんですか?」

 トーターラーム「お前の友達はみんな不良かゴロツキだ。1人も立派な人間はいない。ワシはお前に何度も、あいつらを家に呼ぶなと言ったはずだが、お前は聞きもしない。いいか、これで最後だ、よく聞け、もし今後あの連中を家に呼んだら、ワシは警察を呼ぶ。」

 ジヤーラームの慇懃さのさらに4分の1が吹っ飛んだ。彼は震えながら言った。「分かりました、警察を呼んで下さい。警察に何ができるか、見てみようじゃないですか?僕の友達の半分以上は警察の子供です。父さんが僕を正そうとしているなら、僕が自ら努力するのは意味がないですね。」

 そう言ってジヤーラームは自分の部屋へ行った。すぐに彼の部屋からハルモニウム(鍵盤楽器)の甘い旋律が聞こえて来た。

 燃え上がった思いやりの灯火は、心ない皮肉の一吹きによって消え去ってしまった。踏み止まった馬は、あやすことでようやく駆け出したが、鞭を打った瞬間に再び立ち止まってしまい、後ろの馬車を押し戻し始めた。

第19章

 今度ばかりはニルマラーもスダーと一緒に帰らざるをえなかった。彼女は実家にあと数日留まりたいと思っていたが、悲しみに沈んだスダーをどうして一人にすることができただろう?彼女のためにニルマラーは帰らなければならなかった。ルクミニーはブーンギーに言った。「嫁はなんかきれいになって実家から戻って来たわね。」

 ブーンギーは言った。「母親の手料理というのは、女の子にはとても嬉しいものですからね。」

 ルクミニー「その通りね、ブーンギー、食べ物のことは、母親が一番よく知っているものだよ。」

 ニルマラーには、家の誰も彼女が帰って来ることを喜んでいないように思えた。トーターラームは喜びこそ見せたが、心の不安を隠すことはできなかった。スダーはニルマラーの娘の名前をアーシャーと名付けた。彼女はアーシャー(希望)そのものであった。娘を見ると、全ての不安は一瞬にして消え去った。トーターラームが抱こうとすると、アーシャーは泣き出した。走って母親にしがみついた。まるで父親だと分かっていないようだった。トーターラームはお菓子を使ってアーシャーをなつかせようとした。家には1人も召使いがいなかった。スィヤーラームに、2アーナー(1/8ルピー)分のお菓子を買ってくるように言い付けた。ジヤーラームもその場に座っていた。彼は言った。「僕たちのためには一度もお菓子なんて買って来ないのに。」

 トーターラームは怒って言った。「お前たちは子供じゃない。」

 ジヤーラーム「じゃあ老人とでも言うの?お菓子を買って置いといて下さい、そうすれば子供か老人か分かるでしょう!あと4アーナー出して下さい!アーシャーの幸運に僕たちもあやからして下さい!」

 トーターラーム「今、ワシは持ち合わせがない。スィヤー、行って、急いで買って来なさい。」

 ジヤーラーム「スィヤーラームは行きません!スィヤーは誰の奴隷でもありません。アーシャーが父親の子なら、スィヤーも父親の子です。」

 トーターラーム「訳の分からんこと言うんじゃない。こんな小さな子と張り合って恥ずかしくないのか?スィヤーラーム、ほら、この金を持って行きなさい。」

 ジヤーラーム「行くな、スィヤー!お前は誰の召使いでもないんだ。」

 スィヤーラームは困ってしまった。誰の言うことを聞けばいいんだろう?最後に彼はジヤーラームの言うことを聞くことに決めた。父さんは最悪でも怒るだけだ、でもジヤーは叩いて来る、そうなったら誰に訴えればいいのか。彼は言った。「僕は行きません。」

 トーターラームは脅して言った。「そうか、ならワシのところに何もねだりに来るんじゃないぞ。」

 トーターラームは自ら外に行ってしまった。そして1ルピーのお菓子を買って帰って来た。たった2アーナーのお菓子を買うのが恥ずかしかったのである。菓子屋は彼の知り合いであった。心の中で何を言われることか!

 お菓子を持ってトーターラームは家に入った。スィヤーラームはお菓子の載った大きな皿を見て、父親の言いつけを聞かなかったことを後悔した。どの面下げてお菓子をもらいに行けばいいだろう?大きな間違いを犯してしまった。彼は心の中で、ジヤーラームの平手打ちとお菓子の甘さを天秤にかけ始めた。

 すると、ブーンギーが2枚の皿を持って来て2人の前に置いた。ジヤーラームは怒って言った。「いらないから持ってって!」

 ブーンギー「どうして怒ってるんですか、坊ちゃん、お菓子は嫌いなのかい?」

 ジヤーラーム「お菓子はアーシャーのために買って来たんだ、僕たちのためなんかじゃない。持ってって、でないと道に捨てるよ。僕たちに対しては1パイサー(1/100ルピー)でもケチってるのに、1ルピーのお菓子を買って来るなんてね。」

 ブーンギー「お前は食べるだろ、スィヤー坊ちゃん、お兄ちゃんが食べなくても。」

 スィヤーラームは恐る恐る手を伸ばしたが、そのときジヤーラームが怒って言った。「お菓子に触るな、でないと手をへし折るぞ。この欲張りが!」

 スィヤーラームは怒鳴られて怖気づいてしまい、お菓子を食べる勇気が出なかった。ニルマラーはその話を聞いて、2人の子供を説得しに行こうとしたが、トーターラームが引き留めた。

 ニルマラー「あなたには分からないと思うけど、みんな私に対して怒ってるんです。」

 トーターラーム「すっかり生意気になってしまった。もし厳しくすると、近所の人々が言うだろう、母親のいない子供をいじめている、と。そうでなかったらすぐにでも性根を叩き直してやるところだが。」

 ニルマラー「それは私も不安だわ。」

 トーターラーム「だがもう恐れない。誰が何と言っても気にしない。」

 ニルマラー「昔はこんなことなかったのに。」

 トーターラーム「あいつは、『父さんには息子がいたのにどうして再婚したのか』と聞いてくるんだ。『父さんはマンサーラームに毒を盛った』なんてことまでずけずけと言ってた。ありゃあもう息子じゃない、敵だ。」

 ジヤーラームは戸口に黙って立っていた。2人の間で、お菓子のことについて何が話されているかを聞きに来たのだった。トーターラームの最後の言葉を聞いて、彼は我慢がならなかった。彼は突然しゃべり出した。「敵じゃなかったら、僕のことを付け回したりしないでしょう?今日の今、言っていたことは、僕は前から知ってました。兄さんはそれに気付かなかったから騙されたんです。でも僕には父さんの作戦は通じません。みんな言ってます、父さんが兄さんに毒を盛ったって。僕がしゃべると、どうして父さんは怒るんですか?」

 ニルマラーは黙り込んでしまった。誰かが彼の身体に火を付けたのではないかと思った。トーターラームは叱り付けてジヤーラームを黙らせようとしたが、ジヤーラームは全く動じず、レンガの言葉を石で返した。ニルマラーすら彼に対して怒りが込み上げて来た。昨日まで何の役にも立たないただのハナタレ小僧だったジヤーラームが、今では仁王立ちして、まるで自分が家の全ての面倒を見ているかのように、横柄な言葉を並べ立てていた。彼女は顔をしかめて言った。「もうたくさんよ、ジヤーラーム!お前が大した人間なのは分かったから、外に行って座ってなさい!」

 トーターラームは今まで抑え気味にしゃべっていたが、ニルマラーの加勢を得て気が大きくなった。彼は飛びかかると、手を上げた。だがその瞬間、ニルマラーも止めに入った。おかげでトーターラームはニルマラーの顔をぶってしまった。彼女は倒れた。目が回ってしまった。トーターラームのシワだらけの手には、彼女が想像もできないほどの力があった。頭を抱えて彼女は座り込んだ。トーターラームの怒りはさらに高まり、再度手を上げたが、ジヤーラームは今度はその手を掴んで押し戻した。ジヤーラームは言った。「遠くから話をして下さい、どうして無闇に自分の名誉を汚すんですか?お母さんを気遣ってこうしてますが、そうでなかったら目に物を見せてました。」

 そう言って外に行ってしまった。トーターラームは無言のまま立ち尽くした。そのときもしジヤーラームに雷が落ちても、彼は心から喜びを感じたことだろう。かつては胸に抱いてかわいがっていた子供だったが、今日ではジヤーラームのことを考えるだけで、様々な悪い想像をした。

 ルクミニーは今まで自分の部屋にいたが、やって来て言った。「息子が自分と同じぐらいになったら、手を上げたりしちゃいけないよ。」

 トーターラームは歯ぎしりしながら言った。「ワシはあいつを家から追い出してやる。乞食になろうと泥棒になろうと、ワシにはもう関係ない。」

 ルクミニー「それが誰の不名誉になると思ってるの?」

 トーターラーム「そんなことは心配してない。」

 ニルマラー「もし、私が戻って来ることでこんな嵐が起こるなんて知っていたら、二度と戻って来なかったのに。まだ間に合うわ、私を実家に帰して下さい。もうこの家にはいれないわ!」

 ルクミニー「お前には気を遣ってるんだよ!お前がいなかったら、今日は不幸が起こっただろう!」

 ニルマラー「これ以上、どんな不幸がありますか!私は慎重に慎重に物事を進めてるのに、それでも不幸なことが起こってしまうわ。今日も家に戻って来た途端、こんなことが起こったわ。神様、お救い下さい!」

 その夜、誰も夕食を食べようとしなかった。ただトーターラーム氏だけが食事を口にした。ニルマラーは今日、新たな心配事を抱えるようになった。「残りの人生をどうやって過ごせばいいのかしら!」自分の腹のことなら何の心配もいらない。今では新しい心配事が肩にのしかかっていた。彼女は考えていた。「娘の運命には何が書いてあるんでしょう、神様!」

第20章

 不安を胸に抱えてすやすやと眠ることが誰にできるだろうか?ニルマラーは寝台の上に横になって寝返りを打っていた。彼女はどんなに眠気を欲していたことか、だが、眠気は頑なに彼女の目を訪れるのを拒否した。灯りを消し、窓の戸を開け、チクタク音のする時計を別の部屋に置いて来たが、それでも眠気はやって来なかった。考えなければならないことは全て考え尽くしていた。心配事すらも全て心配し尽くしたのに、まぶたは閉じなかった。とうとう彼女はランプを点け、本を読み始めた。2、3ページ読んだところで眠気が襲って来た。本は開いたままだった。

 そのとき、ジヤーラームが部屋にやって来た。彼の足はブルブルと震えていた。彼は部屋を上から下まで見渡した。ニルマラーは寝ていた。彼女の枕元の棚には、小さな真鍮の箱が置いてあった。ジヤーラームは足を忍ばせて近付き、ゆっくりと箱を下ろして、急いで部屋の外に出た。そのときニルマラーは目を覚まし、驚いて起き上がった。戸口まで行って見た。彼女の心臓は激しく高鳴った。あれはジヤーラームだったの?私の部屋に何をしに来たの?見間違いじゃないかしら?おそらくお義姉さんの部屋と間違えたんでしょう?ここに何の用事があるのかしら?私に何か言いに来たのかもしれないわ、でも、こんな時間に何を言いに来たのかしら?目的は何?彼女の心臓は震え上がった。

 ムンシー・トーターラームは屋上で寝ていた。手すりがなかったため、彼女は屋上に上がって眠ることができなかった。彼女は、行ってあの人を起こそうかしら、と考えた。だが、上に上がる勇気が起きなかった。疑り深い人だから、どう受け止めて何をし出すか分からないわ。もしかしたら私の見間違いかもしれないし。寝起き時にはいろいろ見間違うものだわ。だが、朝聞こうと決めても、彼女は眠ることができなかった。

 翌朝、彼女は自分で朝食を持ってジヤーラームのところへ行った。彼はニルマラーを見ると驚いた。普段はブーンギーが持って来るのに、今日どうしてお母さんが来るのか?ニルマラーの方を見る勇気もなかった。

 ニルマラーはジヤーラームを信頼に満ちた目で見ながら聞いた。「昨晩、私のところに来た?」

 ジヤーラームは驚いた表情を見せながら言った。「僕が!夜中に何をしに行くの?それとも誰か来たの?」

 ニルマラーは、彼の話を完全に信じていると言う眼差しと共に言った。「ええ、私の部屋に誰か来たんじゃないかって感じたの。私は顔を見なかったけど、背中を見て、多分ジヤーが何かの用事で来たんじゃないかと考えたの。誰だったかなんて分からないわ。でも、誰か来たことは確かよ。」

 ジヤーラームは自分の無罪を証明するためにしゃべり出した。「僕、夜中に劇を見に出掛けたんだ。劇が終わった後、友達の家に泊まったんだ。それからしばらくして帰って来た。他の友達も僕と一緒だったよ。もし疑うんなら、友達にも聞いてみてよ。そうそう、何か物がなくなってるといけない。僕が疑われてしまうから。泥棒だったら捕まえられないだろう。僕が濡れ衣を着せられちゃう。お父さんの性格は知ってるでしょう、僕をこっぴどくぶつに違いないよ。」

 ニルマラー「お前の名前をどうして言うの!もし泥棒がお前だったとしても、お前を泥棒呼ばわりはできないわ。泥棒は他人の物を盗むものよ、自分の物を泥棒するなんてことはできないわ。」

 このときまでニルマラーは自分の箱を見ていなかった。彼女は料理を始めた。ムンシー・トーターラームが仕事に出掛けると、彼女はスダーに会いに行くことにした。しばらく彼女とは出会っていなかったし、夜の出来事について相談したかったのである。ブーンギーに言った。「部屋から宝石箱を持って来て。」

 ブーンギーは戻って来て言った。「どこにもありません。どこに置きました?」

 ニルマラーは怒って言った。「1回言っただけじゃお前は何の仕事もできないんだね。あそこ以外どこにあると言うの?棚の中は見た?」

 ブーンギー「いいえ!奥様、棚の中は見ませんでした。嘘を言っても仕方ないでしょう。」

 すぐにブーンギーは戻って来たが、またも手ぶらであった。「棚の中にもありません。どこにあるか教えてくれればそこを探します。」

 ニルマラーは苛立って立ち上がった。「神様はお前にどうして目をお与えになったんでしょうね!私が部屋から持って来るわ。」

 ブーンギーもニルマラーの後について部屋まで行った。ニルマラーは棚を一通り見た後、棚の戸も開けて見た。寝台の下を覗き、衣類が入った大きな箱を開けて見た。どこにも箱はなかった。一体箱はどこへ行ったの?

 そのとき、夜の出来事が稲妻の如く彼女の脳裏に浮かび上がり、心臓が飛び上がった。だが、依然としてその不安を抑えながら探し回っていた。いつの間にか身体が熱くなって来た。焦ってあちこちを探し始めた!どこにもない!探す必要もない場所まで探した。あんな大きな箱が、敷物の下にどうして隠れていようか?だが、敷物まで持ち上げて見た。次第に顔から余裕が消えて行き、動揺が激しくなって行った。最後には諦め、胸を一発叩いてから泣き始めた。

 宝石は女性の唯一の財産である。夫の他の財産に女性の所有権はない。宝石にこそ女性は力と尊厳を感じるものだ。ニルマラーは、5、6千ルピー相当の宝石を持っていた。それらを身に着けて外に出掛けるといつも、彼女の心は高揚して花開くのであった。ひとつひとつの宝石は、不幸から身を守るための護身用武器であった。昨晩彼女は、ジヤーラームの女中になって生きることはしないと決意したばかりだった。誰かに金を恵んでもらって生きるのは御免だった。持っている船賃で自分の舟を向こう岸まで渡すし、自分の娘もどこかしらの川岸に届けるつもりだった。何を心配する必要があろうか。誰も宝石にまで手を付けようとはしないだろう。今日の私の宝石は、明日の私の生活の糧になるのだ。そう考えることでどれほど彼女は慰められたことか。その財産を今日、彼女は失ってしまったのである。

 今や彼女は経済的基盤を失ってしまった。もはやこの世に何の頼りも支えもなかった!彼女の希望の綱は、根元から断ち切られてしまった。彼女は大声を上げて泣き出した。神様!なんてことをしてくれたの!私のような不幸な女を、こんな風に不具者にしてしまうなんて!私の目は潰れてしまったわ!誰に恵んでもらえばいいの?誰の戸口の前に立って乞食をすればいいの?彼女の全身は汗で濡れそぼってしまった。泣きに泣いて彼女の目は腫れてしまった。ニルマラーはうつむいて泣き続けた!ルクミニーは彼女を落ち着かせようとしたが、ニルマラーの涙は止まらなかった。悲しみの炎は一向に消えなかった。

 3時にジヤーラームは学校から帰って来た。ニルマラーは彼が帰って来たことを知った途端、狂人のように立ち上がり、彼の部屋の戸の前に立って言った。「ジヤー、ふさげてるなら返しなさい。私をいじめて何が楽しいの?」

 ジヤーラームは一瞬おののいた。彼が泥棒をしたのはこれが初めてだった。暴力に喜びを感じるような図太さは、彼にはまだ具わっていなかった。もし彼の手元に箱があり、それを棚に戻す機会があるのなら、彼は決してその機会を逃さなかっただろう。しかし、既に箱は彼の手元になかった。友達が既にそれを貴金属市場へ持って行き、二束三文で投げ売ってしまっていた。嘘をつく他に泥棒が助かる道があろうか?ジヤーラームは言った。「お母さんに対してふざけたりしてないよ。まだ僕を疑ってるの?僕は夜に家にいなかったって言ったじゃない。でも信じてないみたいだね。僕のことをそんなに見下してるなんてとても悲しいよ。」

 ニルマラーは涙を拭いながら言った。「私はお前を疑ったりしてないわ、ジヤー!お前を泥棒呼ばわりしたりしない。私は、きっとふざけたんだと思ったのよ。」

 ジヤーラームを泥棒にすることがどうしてできようか?世間は、子供の母親が死んでしまったから、泥棒の濡れ衣を着せていると噂するに違いなかった。ニルマラーの名だけが汚れるのだ。

 ジヤーラームは開き直って言った。「僕も見てみましょう、それにしても誰が持って行ったんだろう?泥棒が入って来るようなところがあるかな?」

 ブーンギー「どこから泥棒が来たかですって!ネズミでさえ穴があれば入って来るのに、この家は四方八方窓ですからね!」

 ニルマラー「家中探し回ったわ。他にどこを探せばいいの?」

 ジヤーラーム「夜になると眠りこけてしまうから、何があってもおかしくないよ。」

 4時に家に帰って来たムンシー・トーターラームは、ニルマラーの様子を見て言った。「どうしたんだ?どこか痛いのか?」そう言いながら彼はアーシャーを抱き上げた。

 ニルマラーは何も答えることができず、泣き出した。

 ブーンギーが言った。「こんなことは今まで起こったことはありません。私は生まれてこのかた、この家に住んで来ましたが、今日までお金が盗まれたことはありませんでした。世間はブーンギーが盗んだと言うでしょう。もはや神様だけが面目を守ってくれるでしょう。」

 上着のボタンを外しながら話を聞いていたトーターラームは、再びボタンをかけ直しながら言った。「何が起こった?何か盗まれたのか?」

 ブーンギー「奥様の宝石が全て盗まれました。」

 トーターラーム「どこに置いてた?」

 ニルマラーは声を喉に詰まらせながら夜中の出来事を全て話した。しかし、ジヤーラームのような姿形をした人物が入って来たことは言わなかった。トーターラームは溜め息をついて言った。「神様は不公平だ。死んだ人間をさらに殺そうとする。なんと不運なことが起こったことか。もし泥棒が来たなら、どこから入って来たんだ?どこにも泥棒が開けた穴はないし、入って来る道もない。ワシはこんな罰を与えられるような罪は犯していない。宝石の箱を棚に置くなと何度も何度も言っただろう、だが聞こうとしなかった。」

 ニルマラー「こんなことが起こるなんて私は考えもしなかったわ。」

 トーターラーム「毎日平穏に暮らせるわけじゃないことぐらいは分かっていただろう。盗まれた宝石は、今の価値にしたら1万ルピー以下では済まないんじゃないか。今の家の状態はお前もよく分かってるだろう。毎日の生活に必要な金すら満足に入って来ないのに、宝飾品を作らせる金がどこから沸いて来るんだ?警察に届け出を出して来る。だが、見つかることを期待するな。」

 ニルマラーは反抗的な態度で言った。「警察に届け出をしても見つからないことを知ってるなら、どうして行くの?」

 トーターラーム「我慢ならんからだ、当然だろう?こんな大損害を被っておいて、黙って座ってることなどできん。」

 ニルマラー「見つかるものなら最初からなくなりはしないわ。きっと縁がなかったのよ。」

 トーターラーム「縁があるなら見つかるだろう。そうでないならもうなくなってるしな。」

 ムンシー・トーターラームは部屋から出た。ニルマラーは彼の手を掴んで言った。「行かないで、お願い。ますます災難に巻き込まれたらどうするの?」

 ムンシー・トーターラームは手を振りほどいて言った。「お前も子供みたいな我がままを言う!1万ルピーの損害を黙って見過ごすことはできん。ワシは泣きはしないが、自分が考えていることを知っているのは自分だけだ。」

 彼は急いで家を出て、警察署を赴いた。警察官は彼を非常に尊敬していた。ムンシー・トーターラームは賄賂の裁判で彼の弁護をして無罪にさせていた。彼と共に、捜査のために家に来た。彼の名はアラーヤール・カーンと言った。

 夕方になっていた。アラーヤール・カーンは玄関から裏口まで念入りに調べた。中に入ってニルマラーの部屋を見た。屋上の手すりも検証した。近所の住民に密かに聴き取り調査をした。そしてムンシー・トーターラームに言った。「トーターラームさん、神に誓って、これは外部の人間の仕業ではありません。神に誓って、もし外から誰か泥棒に入ったなら、私は今日にでも警察官を辞めます。あなたの家に、疑わしい使用人などはいませんか?」

 トーターラーム「家には最近、女中が1人いるだけだ。」

 アラーヤール・カーン「あれはただの間抜けです。これは非常にずる賢い者の仕業です。」

 トーターラーム「なら家に他に誰がいる?2人の息子と、妻と、姉だけだ!この中の誰を疑えばいい?」

 アラーヤール・カーン「神に誓って、家の誰かの仕業です、誰かは分かりませんが。もし神がお望みなら、捜査をして、2、3日中にあなたに報告します。盗まれたものが全て見つかるとは言えませんが、神に誓って、絶対に泥棒を捕まえてみせます。」アラーヤール・カーンは立ち去ると、ムンシー・トーターラームはニルマラーにその話をした。ニルマラーは震え上がった。「お巡りさんに捜査はしないように言って下さい、お願いですから。」

 トーターラーム「一体どうしてだ?」

 ニルマラー「何て言えばいいの!お巡りさんは、家の誰かの仕業だと言ってるんですよ。」

 トーターラーム「言わせておけばいい。」

 ジヤーラームは自分の部屋に座って神様にお祈りをしていた。彼の顔は生気を失っていた。彼は、警察は顔を読み取ると聞いていた。よって外に出る勇気すらなかった。2人の間でどんな話がされているのか、何としてでも知りたくてうずうずしていた。警察官が立ち去り、ブーンギーが何かの用事で出掛けるとすぐに、ジヤーラームは聞いた。「お巡りさんは何て言ってた、ブーンギー?」

 ブーンギーは近くに来て言った。「お巡りさんは、家の誰かの仕業だと言ってたわ。外の人ではないって。」

 ジヤーラーム「父さんは何て言ってた?」

 ブーンギー「何も言ってなかったわ。ただ、フーンフーン言ってただけですよ。家の中じゃあブーンギーだけが他人でしょう、他のみんなは家族ですから。」

 ジヤーラーム「僕も他人だよ、お前だけじゃないって。」

 ブーンギー「坊ちゃんが他人なはずないでしょう!」

 ジヤーラーム「父さんは警察官に、家の中の誰を疑ってるとか言わなかった?」

 ブーンギー「何も言ってなかったと思うわ。あの警官と来たら、『ブーンギーは間抜けだから泥棒なんてしない』と言ってたわ。お父様は私を泥棒にするところでしたけど。」

 ジヤーラーム「ならお前の疑いは晴れたわけだ。それで僕だけが残ってるってわけか。ところで、あの日、お前は僕を見た?」

 ブーンギー「いいえ、坊ちゃんは劇を見に行ってたんでしょう。」

 ジヤーラーム「証言してくれる?」

 ブーンギー「何を言ってるの、坊ちゃん?奥さんが捜査を止めさせるでしょう。」

 ジヤーラーム「本当?」

 ブーンギー「ええ、坊ちゃん、何度も言ってましたよ、捜査を止めて下さい、なくなったものは仕方ないからって。でもお父様が聞こうとしなかったんです。」

 それから5、6日間、ジヤーラームは食事をしようとしなかった。2口3口食べることもあったが、いつも「お腹が減ってない」と言っていた。彼の顔はすっかり青ざめてしまった。夜には眠ることができなかった。常に警察官のことを考えていた。もしこんな大事になると知っていたなら、彼は絶対にそんなことはしなかった。きっと泥棒が入って来たということになるだろう、誰も僕を疑ったりはしないだろう、と気楽に考えていた。だが今、真実が暴かれるのは時間の問題のように思えた。警察官が捜査を進めれば進めるほど、ジヤーラームの悩みは日に日に大きくなって行った。

 7日目の夕方、ジヤーラームは非常に不安な気持ちで家に帰った。今日まで彼は助かる望みを捨てていなかった。今まで盗品は見つかっていなかったが、今日、その盗品が見つかったとの知らせを受けていた。きっと警察官は巡査を連れて来ていることだろう。もう助かる見込みはない。賄賂を渡せば、警察官は事件をもみ消してくれる可能性もあった。お金も手元にあった。だが、事件は本当にもみ消されるのだろうか?盗品が見つかっていなかったときですら、町には息子が盗んで売り払ったとの噂が広まっていた。盗品が見つかったなら、道という道に噂が広まってしまうだろう。そうなったら、彼はもう誰にも顔を見せることができない。ムンシー・トーターラームは裁判所から戻ると非常に困惑していた。頭を抱えて寝台に座り込んでしまった。

 ニルマラーは言った。「服を着替えたら?今日はいつもより遅かったわね。」

 トーターラーム「着替える?お前は聞いたか?」

 ニルマラー「何を?私は何も聞いてないわ。」

 トーターラーム「盗まれたものが見つかった。もはやジヤーは助からないだろう。」

 ニルマラーは驚かなかった。彼の顔から何となくそれが読み取れていたからだ。彼女は言った。「私は前から言ってたわ、警察署に届けないでって!」

 トーターラーム「お前はジヤーを疑ってたのか?」

 ニルマラー「疑うも疑わないも、私はジヤーが私の部屋から出て行くのを見たのよ。」

 トーターラーム「ならお前はそのことをなぜワシに言わなかった?」

 ニルマラー「私が言うべきことじゃなかったから。あなたはきっと、私が嫉妬して罪をなすりつけてると考えたでしょう。そうでしょう?嘘を言わないで。」

 トーターラーム「そうかもしれない、ワシは否定することはできない。それでもお前はワシに言うべきだった。そうしたら、届け出ることもなかったのに。お前は自分の評判は気にしたが、それがどんな結果を生むか考えなかったんだな。ワシは今、警察署に寄って来たところだ。アラーヤール・カーンがこっちへ向かってるだろう。」

 ニルマラーは驚いて言った。「どうなるの?」

 トーターラームは空を仰いで言った。「神様のお望み通りになるだろう!賄賂のために千ルピー、2千ルピーがあれば、大事にならずに済むかもしれない。だが、ワシの状態はお前も知っている通りだ!運がよくなかった。今は手元に何もない。罪はワシがしたが、罰は誰が受けるのか?長男はあんなことになってしまって、今、次男にもこんなことが起こっている。出来が悪くて、礼儀知らずで、怠け者だったが、ワシの息子だった。いつの日かいい子になることもあっただろう。この傷を我慢することはできん。」

 ニルマラー「もし何か出して助かるなら、私が用意するわ。」

 トーターラーム「できるのか?いくら用意できるんだ?」

 ニルマラー「いくら必要かしら?」

 トーターラーム「千ルピー以下じゃあ話はまとまらないだろう。ワシはある裁判であいつから千ルピー取った。今日、それを取り返そうとするだろう。」

 ニルマラー「揃えられると思うわ。今から警察署に行って。」

 ムンシー・トーターラームは警察署からなかなか戻って来なかった。内密に話をするために時間がかかった。アラーヤール・カーンはしたたかな男だった。何とか話に乗らせることができた。500ルピーを受け取る上に、恩義を被せて来た。話は済んだ。ムンシー・トーターラームは帰って来てニルマラーに言った。「苦労したが、何とかひとまず話をまとめて来た。ジヤーラームの食事は済んだか?」

 ニルマラー「まだよ、外に出掛けて帰って来てないわ。」

 トーターラーム「12時になったんじゃないか。」

 ニルマラー「何度も外に行って探して来たわ。部屋は真っ暗だし。」

 トーターラーム「スィヤーラームは?」

 ニルマラー「スィヤーは食べ終わって寝てるわ。」

 トーターラーム「スィヤーにジヤーはどこにいるか聞かなかったのか?」

 ニルマラー「ジヤーは、何も聞いてないと言ってたわ。」

 ムンシー・トーターラームは不安を覚えた。スィヤーラームを起こして聞いた。「ジヤーラームは、いつ戻るとか、どこに行くとか、お前に何も言ってないのか?」

 スィヤーラームは頭をかいて、目をこすりながら言った。「僕は何も言われてないよ。」

 トーターラーム「服は全部着て行ったか?」

 スィヤーラーム「クルター(上着)とドーティー(腰巻)だったよ。」

 トーターラーム「出掛けるとき、楽しそうだったか?」

 スィヤーラーム「楽しそうには見えなかった。何度も家の中に入ろうとしてたけど、戸口のところで引き返して行っちゃった。何分間か、ベランダのところに立っていたっけ。出て行くとき、目をこすってたよ。ここのところ、何日間も泣いてた。」

 トーターラームは、まるで人生に何も残っていないかのような溜め息をつき、ニルマラーに言った。「お前はよかれと思ってやったことかもしれないが、今日の今まで敵でもワシにこれほどの傷を負わせたことはなかった。ジヤーラームに母親がいたら、ためらいもしなかっただろう、絶対に。」

 ニルマラー「スィナーさんのところへ行ってみたら?多分そこにいるんじゃないかしら。毎日何人も友達が来てるから、あの子たちに聞くのもいいと思うわ。多分、誰か知ってるでしょう。用心深く歩いても、不幸は襲ってくるものよ。」

 トーターラームは急いで外に出ながら言った。「ああ、今から行く。他に思い付くこともないからな。」

 ムンシー・トーターラームが外に出ると、ドクター・スィナーが立っていた。驚いて聞いた。「しばらくここに立ってたんですか?」

 スィナー「いや、今来たところです。こんな時間にどこへ行こうとしてるんですか?12時半を回ってますよ。」

 トーターラーム「あなたの家に行こうとしてたんです。ジヤーラームがこの時間になっても外で遊んでいて帰って来ないんですよ。あなたの家には来ませんでしたか?」

 ドクター・スィナーがムンシー・トーターラームの両手を掴み、「トーターラームさん、気を強く持って下さい・・・」と言いかけた途端、ムンシー・トーターラームは銃で撃たれた人間のように地面に倒れた。

第21章

 ルクミニーは怒ってニルマラーに言った。「裸足で学校へ行かせるのかい?」

 ニルマラーは娘の髪を編みながら言った。「他にどうするの?私の手元にはお金もないのよ。」

 ルクミニー「宝石を作らすために金を使うくせに、子供の靴のためのお金はないのかい!上の2人は死んでしまって、今度は残った3人目をいじめ抜いて殺すつもりかい?」

 ここのところ、どんな些細なことでもニルマラーとルクミニーの間で口論が起こっていた。宝石が盗まれて以来、ニルマラーの性格はすっかり変わってしまった。彼女はどんな小さなお金でも噛み付いて離さないほどケチになった。スィヤーラームがいくら泣いても、お菓子を買うためのお金を与えなかった。スィヤーラームに対してだけでなく、自分のための費用も倹約していた。ボロボロにちぎれるまで、新しい腰巻を買おうとしなかった。何ヶ月も髪に油を塗っていなかった。パーン(噛みタバコ)が好物だったが、何日間も口にしていなかった。娘のために牛乳も買っていなかった。小さな赤ん坊の将来は、巨大な影となって彼女の頭の中を飛び回っていた。

 ムンシー・トーターラームは自身を完全にニルマラーに託してしまっていた。彼女のやることに口出しすることはなかった。なぜかは分からないが、彼女の言いなりになっていた。最近の彼は休まず裁判所に行っていた。若いときにすらこれほど忙しく働いたことはなかった。あまりに働きすぎたため、ムンシー・トーターラームは目を悪くしてしまった。ドクター・スィナーは夜に読んだり書いたりすることを禁じた。胃は昔から弱かったが、今ではさらに悪くなってしまった。喘息の症状も現れたが、ムンシー・トーターラームは朝から晩まで仕事をした。仕事をしたかろうがしたくなかろうが、体調が良かろうが悪かろうが、彼は仕事をしなくてはならなかった。ニルマラーは夫に少しも同情しなかった。将来への恐れと不安が、彼女の良心を蝕んでいた。乞食の声を聞くだけで彼女は苛立っていた。小銭すら彼女は乞食に恵もうとしなかった。

 ある日、ニルマラーはギー(精油)を買うためにスィヤーラームを遣わした。彼女はブーンギーを信用しておらず、彼女に買い物をさせることはなかった。スィヤーラームにはつり銭をごまかすような癖はついていなかった。無駄遣いすることも知らなかった。よって、市場の用事は全てスィヤーラームに任せられていた。ニルマラーはひとつひとつを計って、もし少しでも軽かったら、彼を市場に戻らせていた。スィヤーラームの時間は、家と市場の往復で過ぎ去ってしまっていた。市場の商人はすぐに彼にものを売りたがらなかった。今日もその問題が起こった。スィヤーラームは、いろいろな店を見て回り、上物のギーを買って来たつもりだった。だが、ニルマラーはそのにおいを嗅いだ途端に言った。「このギーは悪くなってるわ、戻して来なさい。」

 スィヤーラームは苛立って言った。「これよりもいいギーは市場にないよ、僕は全部の店を見て来たんだよ。」

 ニルマラー「じゃあ私が嘘をついているとでも言うの?」

 スィヤーラーム「そうは言ってないけど、もう商人は買い戻してくれないと思うよ。『見たいだけ見ろ、商品は目の前だ、でも売った後は買い戻しはしないからな』って言ってたし。僕はにおいを嗅いで、味見して買ったんだ。どんな顔して持って行けばいいの?」

 ニルマラーは歯ぎしりしながら言った。「ギーに油が混ざってるのに、お前はこれをいいギーだと言うのかい!私は絶対に受け取らないからね、戻して来るもよし、食べるもよし、お前の好きにしなさい!」

 ギーの入った壺をそこに残したままニルマラーは家の中に入ってしまった。スィヤーラームは怒りと動揺で震えていた。どんな顔して戻せばいいんだろう?商人は絶対に言うだろう、買い戻しはしないって。ならどうすればいいんだろう?その辺の商人や通行人が集まって来るだろう。みんなの前で恥をかかないといけなくなる。市場ではどの商人もすぐにはものを売ってくれない。どの店にも入ることすらできない。四方八方から怒鳴られるだろう。彼は心の中で怒って言った。「ギーはこのままここに置いておけ、絶対に戻しに行くもんか。」

 母親のいない子供ほど悲しい生き物はこの世にいない。他の悲しみは忘れることができる。スィヤーラームは母親を思い出した。母さんがいたら、こんな目には遭わなかっただろう。兄さんたちは去って行ってしまった。こんな不幸を耐え忍ぶために僕だけどうして残されたんだろう?スィヤーラームの目に涙が浮かんで来た。彼の悲しみと怒りに満ちた喉から、深い溜め息と共に声が出て来た。「母さん!僕を忘れたの、どうして僕を呼んでくれないの?」

 そのときニルマラーが家の中から外に出て来た。彼女は、スィヤーラームが既に行ったものと考えていた。彼が座っているのを見ると、怒って言った。「お前、まだここにいるの?一体食べ物はいつできるんだい?」

 スィヤーラームは目を拭いながら言った。「学校に遅刻しちゃう。」

 ニルマラー「1日遅刻したからって誰が気にするの?これも家の仕事よ。」

 スィヤーラーム「毎日この仕事をしなくちゃいけない。1度も時間に間に合ったことがない。家でも勉強する時間がない。どんなものも、2、3回返品しないと買おうとしない。叱られるのは僕だけ、恥をかくのも僕だけ、お母さんは何ともないじゃないか。」

 ニルマラー「ええ、何ともないわ。私はお前の敵だからね、味方だったら悲しみも沸くでしょう。私は神様に、お前が勉強できないように祈ってるのよ。悪いのは私だけ。お前には何の罪もない。継母は名前だけで悪者なのよ。母親は毒を食べさせても薬になるけど、私は薬を飲ませても毒になるんだから。お前たちのせいで私の人生は台無しよ!泣いている内に人生過ぎ去ってしまうわ。神様はどうして私に生を授けなさったのか、全く理解できないわ。お前は、私が遊び暮らしてると思ってるのね。お前を苛めて楽しんでると思ってるのね!神様も、全ての不幸がいつ終わるのか、ご存知ないようだわ。」

 そう言いながら、ニルマラーは目に涙を浮かべ、中に入った。スィヤーラームはニルマラーが泣いているのを見て恐れおののいた。彼に後悔の念は起きなかったが、今度はどんな罰を与えられるのか疑った。彼は黙って壺を持ち上げると、ギーを返品するために市場へ向かった。まるで、別の町へ行こうとしている犬のように、彼の心情は表へ染み出していた。通常の知能のある人なら、彼を見た途端に孤児だと言い当てられただろう。

 前へ進めば進むほど、スィヤーラームの心臓の鼓動は、来るべき災難の恐怖から激しさを増して行った。彼は決意した。商人がもしギーを受け取らないなら、ギーをそこに置いて帰って来よう。ぶつぶつ愚痴を言って呼び止めて来るに違いない。商人を叱責するための言葉も考えていた!おじさん、客を騙すつもり?上物を見せるだけ見せといて、いざ渡すとなったら安物と取り替えて!だが、その言葉を考えても、彼の足取りは軽くならなかった。彼は、自分がやって来るのを商人に見られたくなかった。突然、商人の目の前に現れたかった。だから、遠回りして、別の道からその商人の店へ行った。

 商人はスィヤーラームを見た途端に言った。「一度売ったものは買い戻さないと言ったはずだ。そうだよな?」

 スィヤーラームは機嫌を悪くして言った。「僕が見たギーを渡さなかっただろ!見せたギーとは違うのを渡したんだ。買い戻さないなんて言わせないぞ!強盗にでもなったつもりか?」

 商人「これよりも上物のギーが市場のどこかから沸いて出たら、罰金を支払ってやる。壺持って、そこら辺の店を見て回って来い!」

 スィヤーラーム「そんな暇はない。ギーを受け取れ!」

 商人「受け取るもんか!」

 商人の店に、蓬髪のサードゥ(遊行者)が座ってやり取りを見ていた。サードゥは立ち上がってスィヤーラームのそばに来ると、壺の中のギーのにおいを嗅いで言った。「少年よ、このギーはとても上物じゃないか。」

 加勢を得た商人は言った。「バーバージー(サードゥに対する尊称)、私共は客に安物をつかませたりしません!目が高い客に安物を売ったりすることなどできません。」

 サードゥ「ギーを持って行きなさい、少年よ。」

 スィヤーラームは泣き出した。ギーの粗悪さを証明するために、もはや彼には何の方法もなかった。スィヤーラームは言った。「だって言われるんだ、このギーはよくない、戻して来いって。僕は、このギーはいいって言ってたんだ。」

 商人「この子の母親が言ってるんだろう。どんな品物も気に入らないんだ。この可哀想な子を何度も何度も市場によこすんだ。継母だからな!実の母親だったら、もっと思いやりがあるだろう。」

 サードゥはスィヤーラームを、守ってあげたくてたまらないというような同情に満ちた眼差しで見た。そして悲哀に満ちた声で言った。「お前のお母さんが死んでどれくらいになる、少年よ?」

 スィヤーラーム「6年。」

 サードゥ「なら、そのときお前はとても小さかっただろうに。神様、あなたの戯れはなんと不可解なことでしょう!この乳飲み子を母性愛から引き離してしまわれるとは、なんとひどいことをなさるのでしょう、神様!しかもこの6歳の子に、鬼の継母を遣わされるとは!この子に哀れみを!商人さん、この子を哀れんでやってくれんかね。ギーを買い戻してやりなさい。でないと母親がこの子を追い出してしまうだろう。神様のお望みにより、お前のギーはすぐに売れるだろう。私もお前を祝福しよう。」

 商人はお金を返さなかった。結局この子は再びギーを買いに来なければならないだろう。1日に何往復もしなければならないだろう、そして最後にはどこかの詐欺師に騙されるだろう。自分の店に置いてあった最も上質のギーをスィヤーラームに渡した。スィヤーラームは心の中で、バーバージーは何と慈悲深いのだろうと思った。サードゥが助言をしなければ、商人は絶対にいいギーを出さなかっただろう。

 スィヤーラームはギーを持って帰った。すると、サードゥも一緒について来て、道の途中で彼を誘惑し始めた。

 「少年よ、ワシの母親も3歳のときにワシを置いてあの世へ行ってしまった。そのときから母親のいない子供を見ると、ワシの心は張り裂けそうになるんじゃ。」

 スィヤーラームは聞いた。「バーバージーのお父さんも再婚したの?」

 サードゥ「そうさ、そうでなかったらサードゥにはならなかっただろう。最初の内、父は結婚をしなかった。ワシをとても愛してくれていた。だが、なぜか心変わりを起こして再婚をした。ワシはサードゥだから、悪い言葉を口から出してはならないが、ワシの継母は、その美貌と同じくらい冷酷な人間だった。ワシに1日中食事を与えようともしなかったし、泣こうものなら叩かれたし、父ももはやワシのことなどお構いなしじゃった。とうとうワシは家出したんじゃ。」

 スィヤーラームも家から逃げ出すことを何度も考えたし、このときもそのことを考えていた。スィヤーラームは興味津々の様子で言った。「家出をしてどこに行ったの?」

 サードゥは笑って言った。「その日、ワシの全ての苦しみは断ち切られたよ。家の呪縛から解き放たれ、恐怖を心から追い出して以来、ワシはまるで解脱をしたかのような状態になったよ。1日中ワシは橋の下に座っていた。夕方頃、ワシは1人の偉大な行者と出会った。その方の名はスワーミー・パルマーナンドと言った。バールブラフマチャーリー(少年の頃から禁欲を貫いている修行者)だった。ワシに慈悲を投げ掛けて下さって、ワシをお供にして下さった。ワシはその方と共に国中を巡った。その方は偉大なヨーガ行者だった。ワシにもヨーガを教えて下さった。今ではワシは、好きなときに母親に会えるほどヨーガの力を身に付けたよ。」

 スィヤーラームは目をいっぱいに広げて聞いた。「バーバージーのお母さんは亡くなってしまったんでしょ?」

 サードゥ「だからどうした、少年よ、ヨーガには、死んだ魂を好きなときに呼び寄せる力もあるんだよ。」

 スィヤーラーム「僕もヨーガを習ったら、お母さんに会えるかな?」

 サードゥ「もちろん!訓練によって何でも可能になる。だが、それには優れたグル(導師)が必要だ。ヨーガによって素晴らしい知恵が手に入るのだ。どんな大金でも、一瞬の内に出すことができるし、どんな病気でも、それを癒す薬を言い当てることができる。」

 スィヤーラーム「あなたはどこに住んでるの?」

 サードゥ「少年よ、ワシに家などない。国中を巡っているんだ。さあ、もう行きなさい、ワシは沐浴をしに行く。」

 スィヤーラーム「じゃあ、僕もそちらへ行きます。まだ満足に話もしてないから。」

 サードゥ「駄目だ、少年よ、学校に遅刻してしまうぞ。」

 スィヤーラーム「次はいつ会える?」

 サードゥ「いつでも来なさい、少年よ、お前の家はどこかな?」

 スィヤーラームは嬉しくなって言った。「僕の家に来て下さい、すぐ近くです。お願いですから。」

 スィヤーラームは前に進み出した。まるで金の包みを持っているかのような喜びを感じていた。家の前に着いたところでスィヤーラームは言った。「ここです、少し休んで行って下さい。」

 サードゥ「駄目だ、少年よ、休むことはできない。また明日にでも来ることにしよう。これがお前の家だな?」

 スィヤーラーム「明日何時に来ますか?」

 サードゥ「決めることはできない。適当なときに来る。」

 サードゥが歩いてしばらく行くと、別のサードゥに出会った。名前はハリハラーナンドと言った。

 パルマーナンドは聞いた。「どこをほっつき歩いていた?獲物は見つかったか?」

 ハリハラーナンド「こっちは全部見て回ったが、獲物はいなかった。ワシを笑い者にする輩がいたぐらいだ。」

 パルマーナンド「ワシは1人見つかったようだ。これから仕掛けてみることにする。」

 ハリハラーナンド「お前はすぐに口から出任せを言う。うまく行ったとしても、4、5日後に逃げ出してしまうのが関の山だ。」

 パルマーナンド「今度のは逃げないだろう。見てるがいい。その子の母親は死んで、父親は再婚をし、継母がその子をいじめている。家に未練はない。」

 ハリハラーナンド「そうか、そういうことならきっとうまく行くだろう。しっかり言いくるめておいたか?」

 パルマーナンド「ああ、しっかりとな。この方法が一番いい。まずはどこに継母がいるか調べて、その家に罠を仕掛けるのが最も手っ取り早いものさ。」

第22章

 ニルマラーは苛立って言った。「こんな遅くまでどこに行ってたの?」

 スィヤーラームは怖気づかずに言った。「道の途中で寝ちゃった。」

 ニルマラー「そんなことは聞いてないわ、今何時か知ってるの?とっくに10時を回ったわ。市場はそんなに遠くないでしょ。」

 スィヤーラーム「遠くないよ、玄関のすぐ前さ。」

 ニルマラー「どうして素直に答えないの?まるで私の仕事をしに行ったかのように不機嫌ね。」

 スィヤーラーム「ならどうして無意味に叱り付けるのさ?一度買ったものを返品するのは簡単じゃないんだよ。商人と何時間も言い争いしなきゃならなかったんだよ。幸い、バーバージーが口添えしてくれたから何とかなったけど、そうでなかったら何を言っても聞かなかっただろうね。途中、1分も寄り道せずにまっすぐ帰って来たんだよ。」

 ニルマラー「ギーを買いに出掛けたら11時に戻って来るなんて、もし薪を買いに行かせたら、夕方に帰って来るつもり?お前の父さんは仕方なく何も食べずに仕事に行ったのよ。こんなに時間をかけるなら、どうして前もって言っておかないの?さあ、今度は薪を買いに行って来なさい。」

 スィヤーラームはもはや自分を抑えることができなかった。怒って言った。「薪は他の誰かに言ってよ。僕は学校に行かなくちゃいけないから。」

 ニルマラー「何も食べないの?」

 スィヤーラーム「いらない。」

 ニルマラー「今から食事を作るところよ。私は薪を買いには行けないし。」

 スィヤーラーム「ブーンギーに言えばいいでしょ。」

 ニルマラー「ブーンギーが買って来たものをお前は見たことがないの?」

 スィヤーラーム「僕は今、行かないから。」

 ニルマラー「私を困らせないで。」

 スィヤーラームは何日間も学校に行っていなかった。市場への買い物のせいで、本を読む時間すらなかった。学校に行ったところで、叱られて、椅子の上に立たされて、罰を受ける以外に何が得られるだろう?彼はいつも家から本を持って出掛けると、町へ行って木の下に座ったり、軍隊の訓練を見たりしていた。そして3時に家に戻った。今日も彼は家から出たが、腹が減って仕方なかった。10時にも食事ができていないのはどういうことだろう?父さんが出掛けてしまったのは分かる。でも、僕のために2、3パイサーの小遣いを渡すこともできないのだろうか?母さんさえいれば、腹ペコのまま僕を外に出すようなことはなかっただろう。僕を気遣ってくれる人はもう1人もいないんだ。

 スィヤーラームは無性に父親に会いたくなった。今、どこで会えるだろうか、どこへ行けばいいだろうか、と考えた。父親の心地よい言葉や、勇気付けられる慰めを聞きたかった。彼は衝動的に声に出して言った。「どうして父さんと一緒に出なかったんだろう?家に僕のために何があるって言うんだ?」

 スィヤーラームは今日、家には行かず、まっすぐギー売りの商人の店へ着いた。おそらくバーバージーに会えるだろうと考えていた。だが、そこにはサードゥの姿はなかった。しばらくそこで立って待っていたが、やがて諦めて帰路に就いた。

 家に帰って座り込むと、ニルマラーがやって来て言った。「今日はどうして遅かったの?朝何も食べずに出て、今も断食するつもり?行って市場から何か野菜を買って来なさい。」

 スィヤーラームは怒って言った。「1日中何も食べてないんだ。水すらも持って来てくれないのに、市場へ行けと命令して。僕は市場なんか行かないから!僕は召使いなんかじゃないぞ。結局食べ物をくれるだけじゃないか。それとも他に何かくれるの?これだけ仕事をしたら、それだけの食べ物が手に入って当然だ。もし仕事をしないといけないなら、母さんのところではしたくない。僕のために食事を作らないで。」

 ニルマラーは言葉を失ってしまった。この子は今日、一体どうなってしまったの?いつもは黙って仕事をしていたのに、今日はどうしてこんなに怒ってるの?それでも彼女は、スィヤーラームに何か食べ物のために2、3パイサーの小遣いを渡すことは思い付かなかった。彼女はそこまでケチになっていた。ニルマラーは言った。「家の仕事は仕事の内には入らないわ。お前のように私が『もう食事を作らない』と言ったら、父さんが『ワシはもう裁判所に行かない』と言ったら、どうするつもり!もし行きたくないなら行かなくていいわ。ブーンギーを遣わせるから。お前が市場へ行くのを嫌がってるなんて知らなかったわ。もしそうなら、半パイサーの品物が1パイサーになるとしても、お前を遣わしたりしなかったわ。ほら、今日から二度と市場に行かせたりしないと誓うわ。」

 スィヤーラームは心の中で少し恥じ入ったが、市場には行かなかった。彼はバーバージーのことばかり考えていた。今では、全ての悲しみの終わりと人生の全ての希望が、あのバーバージーの祝福にあるように思えていた。あの人の弟子になることで、僕の人生は有意義なものとなるだろう。日が沈むと、彼は居ても立ってもいられなくなった。彼は市場中を探し回ったが、サードゥの影も形も見当たらなかった。この愚かな子供は、朝からの飢えと乾きを我慢し、傷ついた心を抑え、希望と恐怖の入り混じった気持ちで、建物から道から寺院まで、あの人なしにはもう人生を耐え抜くことはできないという切望と共に探し回っていた。そのとき、サードゥを見つけたような気がした。喜びに満ちた興奮と共に彼が飛び上がった。走って行ってサードゥのそばに立ち止まったが、違う人間だった。彼はがっかりして立ち去った。

 次第に道は静かになって行った。家の扉は次々と閉ざされて行った。インドの民は、道端に敷物を敷いてその上に寝転がった。しかし、スィヤーラームは家に帰らなかった。もうあの家には戻りたくなかった。誰も彼のことを愛していなかった。彼は居候のように生活しなければならなかった。なぜなら彼には他に行くところがなかったからだ。この時間に帰らなくても、家で誰が心配するだろう?父さんは夕食を食べて寝てしまっただろう、母さんも眠ろうとしているところだろう。誰も僕の部屋を覗いたりしないだろう。そうだ、きっと叔母さんは心配しているだろう。僕の帰りを待っていることだろう。僕が帰るまで、食事をしないだろう。

 ルクミニーのことを思い出した途端、スィヤーラームは家へ向かった。ルクミニーは例え他に何もすることができなかったとしても、少なくとも彼を抱きしめて泣いてくれていた。外から帰って来ると、手や顔を洗うための水を出してくれていた。世界の全ての子供が牛乳でうがいをすることができるわけではないし、皆が金を食べることができるわけでもない。何人の子供が腹いっぱいに食べ物を食べられないことだろう、でも家を疎ましく思うのは、母親の愛を失った子供だけだ。

 スィヤーラームが家の方へ歩いていると、パルマーナンドが横の道から歩いて来るのが見えた。

 スィヤーラームは近付いて彼の手を取った。パルマーナンドは驚いて言った。「少年よ、どうしてここに?」

 スィヤーラームは言い訳をして言った。「友達に会いに行ってたんです。あなたが沐浴する場所はここからどのくらいなの?」

 パルマーナンド「我々はもうこの町を発つところだ、少年よ!ハリドワールへ行くんだ。」

 スィヤーラームはがっかりして言った。「今日行ってしまうの?」

 パルマーナンド「そうだ、少年よ、もし戻って来たらまた会おう!」

 スィヤーラームは声を震わせて言った。「戻って来たら!」

 パルマーナンド「すぐに戻って来るさ、少年よ!」

 スィヤーラームは謙虚な態度で言った。「僕もあなたと一緒に行きます。」

 パルマーナンド「ワシと一緒に!お前の家族は何と言うかな?」

 スィヤーラーム「家族は僕のことなんて心配していません。」それ以上スィヤーラームは言えなかった。彼の涙ぐんだ目が、彼の悲しい身の上を、言葉よりも雄弁に語っていた。

 パルマーナンドはスィヤーラームを抱きしめて言った。「そうか、少年よ、お前が望むなら行こう。サードゥや聖人との出会いを楽しむがいい。神様がお望みになるなら、お前の望みもかなうだろう。」

 餌の上を飛び回る小鳥は、最後には餌に食いつくものだ。彼の人生が鳥かごの中で終わるのか、それとも猟師の小刀によって終わるのか、誰が知っていよう?

第23章

 ムンシー・トーターラームは5時に裁判所から戻り、寝台に倒れ込んだ。この老体は今日、1日中食べ物が得られなかった。顔はすっかり痩せこけてしまった。ニルマラーは、今日は何の仕事も得られなかったのだと悟った。

 ニルマラーは聞いた。「今日は何も仕事がなかったの?」

 トーターラーム「1日中走り回ったが、何も得られなかった。」

 ニルマラー「あの刑事裁判はどうなったの?」

 トーターラーム「ワシが弁護してた被告は有罪になってしまったよ。」

 ニルマラー「パンディト(僧侶)の裁判は?」

 トーターラーム「パンディトに判決が下されたよ。」

 ニルマラー「あなたは、訴訟は棄却されるって言ってたじゃない。」

 トーターラーム「言っていたし、棄却されるべきだったが、誰がそんなうまいこと事を運べるんだ?」

 ニルマラー「スィール(自耕地)の裁判は?」

 トーターラーム「それも負けてしまったよ。」

 ニルマラー「それじゃあ今日は朝から疫病神に取り付かれたんじゃないかしら。」

 トーターラームはもはや仕事ができる状態ではなかった。そもそも彼のところに仕事が来なかったし、来たとしてもうまく行かなかった。しかし彼は自分の失敗をニルマラーに隠していた。何も得られなかった日は、誰かから借金してニルマラーに渡していた。ほぼ全ての友人に既にいくらか借金をしていた。だが、今日はそれすらもうまく行かなかった。

 ニルマラーは心配そうに言った。「夫がこんな状態なら、あとは神頼みだわ。しかも息子は市場へ行こうともしないし。ブーンギーに全ての仕事を任せるしかないわ。ギーを買って帰って来たのが11時。どれだけ薪を買って来なさいと言っても聞こうともしない。」

 トーターラーム「食事を作ってないのか?」

 ニルマラー「そんなこと言ってるから裁判に負けるのよ。燃料なしに誰が料理をすることができるの?私にはそんなことできないわ。」

 トーターラーム「何も食べずに出て行ってしまったのか?」

 ニルマラー「家には食べさせるものなんてないもの。」

 トーターラームは恐る恐る言った。「小遣いも渡さなかったのか?」

 ニルマラーは眉をひそめて言った。「家にお金のなる木でもあるの?」

 ムンシー・トーターラームは返事をしなかった!少しの間、何か軽食でも出て来るのではないかと待っていた。だが、ニルマラーが水を持ってこさせようとしたとき、トーターラームは落胆して席を立った。スィヤーラームの苦しみを思うだけで彼の心は動揺した。1日経ってしまったのに、あの子は今まで何も食べていない。部屋に寝そべっているだろう。ブーンギーに薪を買いに行かせるのに、どんな損害があるのか?家族が腹をすかしていなければならないような倹約に何の意味があろうか?彼は自分の箱を開けて、少しはお金が残っていないかと探し出した。箱の中から全ての書類を出して、隅から隅まで見たが、小銭すら出て来なかった。もしニルマラーの箱に金のなる木がないなら、この箱から金が湧き出てくることはないだろう。しかし、そのとき偶然、書類を払いのけた瞬間に25パイサー(1/4ルピー)の硬貨が飛び出てきた。ムンシー・トーターラームは喜びに飛び上がった。かつて彼は大金を稼いだものだが、この25パイサー硬貨を見つけたとき以上の喜びは未だかつてないものだった。コインを手に持ってスィヤーラームの部屋の前に立ち、彼を呼んだ。だが、何の返事もなかった。そこで部屋の中に入って見た。スィヤーラームはどこにもいなかった。まだ学校から帰って来ていないのだろうか?そう考えてトーターラームはブーンギーに聞いた。学校から帰って来たことは分かった。

 トーターラームは聞いた。「水か何か飲んだか?」

 ブーンギーは何も答えなかった。鼻をすすって顔を背けて行ってしまった。

 トーターラームはゆっくりと歩いて自分の部屋に座った。今日彼は初めてニルマラーに怒りが込み上げたが、すぐにその怒りの矛先は自分に向けられた。その暗い部屋の敷物の上に寝転びながら、彼は自分の息子にこれほど無関心になってしまったことを後悔し始めた。1日の疲れがたまっていた。すぐに眠気が襲って来た。

 ブーンギーがやって来て呼んだ。「旦那様、食事が出来ました。」

 トーターラームは起き上がった。部屋にはランプが点いていた。

 トーターラーム「何時だ、ブーンギー?つい眠ってしまった。」

 ブーンギー「警察の時計は9時が鳴りました。他の時計は知りません。」

 トーターラーム「スィヤーは帰って来たか?」

 ブーンギー「帰って来たら、家にいるでしょう。」

 トーターラームは苛立って言った。「ワシは、帰って来たかどうか聞いているんだ。お前はいつもおかしな返事をする。帰って来たか?」

 ブーンギー「私は見てません。嘘を言っても仕方ないでしょう。」

 トーターラームは再び横になって言った。「戻って来たらワシも食べる。」

 それから30分ほど眠っていた!そして起き上がると、表へ出て、家の右手の方へ散歩に出掛けた。そして帰って来ると再び聞いた。「スィヤーは帰って来たか?」

 中から声が聞こえた。「まだです。」

 ムンシー・トーターラームは今度は左手の方に散歩に出掛け、町の境まで行った。だが、スィヤーラームはどこにも見当たらなかった。そこから戻って来ると、戸口に立って聞いた。「スィヤーは帰って来たか?」

 中から声がした。「まだです。」

 警察署の時計塔は10時を打ち始めた。

 ムンシー・トーターラームは急いでカンパニー公園の方へ行った。多分そこまで行って、草の上に横になっている内に眠ってしまったんだろう、と考えていた。公園に着くと、彼は全てのベンチを見て、四方を探し回った。多くの人が草の上に寝転んでいたが、スィヤーラームの姿はなかった。彼はスィヤーラームの名を大声で呼んだが、どこからも返事は聞こえて来なかった。

 多分学校で何かイベントでも行われているんだろうと思い付いた。学校は1、2kmほどのところにあった。学校の方へ向かった。だが、途中で引き返してしまった。市場は既に閉まっていた。学校でこんな遅くまでイベントが行われるはずがない。このときになって彼は、いくらなんでももうスィヤーラームは戻って来ただろう、と希望を抱いた。戸口に立って呼び掛けた。「スィヤーは帰ったか?」扉は閉まっていた。返事は返って来なかった。再び大声で叫んだ。ブーンギーが扉を開きながら言った。「まだ帰って来てません。」

 トーターラームは静かにブーンギーを呼び寄せると、悲しげな声で言った。「お前は家のこと全部知ってるだろう、言いなさい、今日家で何があったんだ?」

 ブーンギー「旦那様、嘘は言いません、奥様が追い出してしまったんです、それ以外に何があります?他人の息子をかわいがることなんてできないんですよ。用事があるといつも市場へ行かせるんです!1日中市場を行ったり来たりしてました。今日は薪を買いに行かなかったから、料理もできませんでした。何か言えば怒ります。あなたが見てないなら、他の誰が見ると言うんです?さあ、夕食を食べて下さい、奥様がずっと待ってます。」

 トーターラーム「今は食べないと言え。」

 ムンシー・トーターラームは自分の部屋へ行って大きな溜め息をついた。彼の口からは悲しみで満ちた言葉が抜け出た。「神様、まだ罰は終わってないのですか?盲人の手から杖を奪われる積もりですか?」

 ニルマラーが来て言った。「今日、スィヤーラームがまだ帰って来ないの。何か作るから食べなさいと何度も言ったのに、いつの間にかいなくなってたわ!一体どこをほっつき歩いてるのかしら!言うこと聞かないし。いつまで待てばいいの!あなたは食べて下さい、スィヤーのための食べ物は別にしておきます。」

 ムンシー・トーターラームはニルマラーを鋭く睨みつけて言った。「今何時だ?」

 ニルマラー「知らないわ、10時ぐらいでしょう。」

 トーターラーム「いや、もう12時だ。」

 ニルマラー「12時になったの!今までこんなに遅くなったことはなかったわ。あなたはいつまで待つ積もりですか?昼にも何も食べなかったし、こんな風来坊、見たことないわ。」

 トーターラーム「そうだな、お前をとても困らせてるな?」

 ニルマラー「ええ、こんな遅くなっても家のこと気にかけないなんて。」

 トーターラーム「これが最後の悪戯かもな。」

 ニルマラー「なんてこと言ってるの。どこに行くと言うの?どこか友達の家にいるんでしょう!」

 トーターラーム「そうかもしれない。そうであって欲しい。」

 ニルマラー「朝帰って来たら、叱りつけて下さいな。」

 トーターラーム「しっかり叱るとも。」

 ニルマラー「さあ、食べて下さい、すっかり遅くなってしまったわ。」

 トーターラーム「朝、あいつを叱ってから食べる。もし戻って来なかったら、あんな働き者の小間使い、二度と手に入らないだろう。」

 ニルマラーはこわばりながら言った。「じゃあ、私が追い出したとでも言うの?」

 トーターラーム「いや、そんなこと誰が言った!お前がどうしてあいつを追い出すんだ!お前の仕事をしてたんだ。何かあったに違いない!」

 ニルマラーはそれ以上何も言わなかった。話が大きくなるのを恐れたからだ。家の中に行った。寝る前の挨拶もしなかった。少し経ってから、ブーンギーが中から扉を閉めた。

 ムンシー・トーターラームがどうして安眠できただろう?3人の息子の内、1人だけが残っていた。それも失ってしまったら、人生に暗闇の他に何があるだろう?自分の跡継ぎは誰もいなくなってしまう。ああ!なんと貴重な宝石を失ってしまったことだろう!トーターラームの目から涙が溢れ出てもおかしくなかった。この巨大な後悔と深い憎悪の中で、彼はわずかな希望にすがり付いていた。この希望すらも失われたとき、彼の身に何が起こるか、誰が予想できようか?彼の悲しみを誰が想像することができようか?

 何度もムンシー・トーターラームは眠りに落ちたが、その度にスィヤーラームの足音を聞いたような気がして目を覚ました。

 夜が明けるとすぐに、ムンシー・トーターラームは再びスィヤーラームを探しに出掛けた。誰に聞こうと恥じらいはなかった。こんなときに体裁など構っていられない。誰からの同情も期待していなかった。表には出さないが、皆は心の中で、「因果応報だ」と言うだろう。1日中、彼は学校の運動場、市場、公園を探し回った。2日間絶食していながら、彼のどこからこんな力が出て来るのか、それは彼にしか分からなかった。

 夜中の12時にムンシー・トーターラームは家に戻って来た。戸口にランタンが灯されており、ニルマラーが立っていた。彼女は彼を見ると言った。「何も言わずに行ってしまって!何か分かった?」

 ムンシー・トーターラームは真っ赤な目で睨みつけて言った。「どっかへ行け、でないとひどい目に遭わせるぞ!ワシはもう自制できん。全部お前のせいだ。お前のせいでワシは今日、こんな目に遭ってるんだ。6年前、家はこんなじゃなかった。お前が、ワシの築き上げた家を滅茶苦茶にしたんだ、お前が青々した庭園を台無しにしたんだ。ただ切り株がひとつ残っただけだった。それすらも消し去って、お前はさぞや満足だろう。ワシは自滅するためにお前を嫁にもらったわけじゃない。幸せな人生をさらに幸せにしたかっただけだ。これはその禊だ。大事に育てた息子たちを、お前はワシの目の前で使用人扱いした。ワシを盲人にしてしまった。行け、ワシのために毒を持って来い。残ったのはワシだけだ、それも今、ここで消えてなくなるぞ。」

 ニルマラーは泣きながら言った。「私は元から不幸な女よ、今更あなたに言われても何もできないわ。神様はどうして私に生を下さったのかしら?でも、あなたはどうしてスィヤーラームがもう帰って来ないと諦めしまったの?」

 ムンシー・トーターラームは自分の部屋の方へ向かいながら言った。「大声を上げるな、行って祝えばいいだろう。お前の望みは全部叶ったんだからな。」

第24章

 ニルマラーは一晩中泣き通していた。こんな汚名!彼女はジヤーラームが宝石を持ち去るところを目撃しながら、口を開くことをしなかった。なぜなら世間の人々は、彼女が濡れ衣を着せて息子を罠にはめようとしていると言うに決まっているからだ。今日、彼女は黙っていたことで犯人にされている。もし彼女があのときジヤーラームを止めて、ジヤーラームが恥じ入って逃げ出してしまったら、彼女に罪がなすりつけられることはなかったのだろうか?

 スィヤーラームに対してどんな意地悪をしたと言うのだろう!彼女は倹約するためにスィヤーラームを買い物に行かせたのだ。お金を節約して自分のために宝石を買おうとしていたとでも考えているのだろうか?もし収入がこんな状態なら、出費を抑えること以外、彼女にできることはないではないか?若者ですらいつ死ぬか分からないのに、老人の命に何の保証があろうか?娘の結婚のため、彼女は誰にお金を恵んでもらえばいいのか?娘の人生は彼女の肩にかかっていたのではないか?彼女は夫を助けるために倹約に努めていたのだ。夫のためだけではない。父親の後は、スィヤーラームが一家の主になるのだ。妹の結婚が彼の重荷にはならなかっただろうか?ニルマラーは、夫と息子の重荷を少しでも軽減するために全ての倹約をしていたのだ。娘の結婚は、このような境遇の中で、重荷以外の何物でもないではないか?だが、それでも彼女は汚名だけが上塗りされる運命であった。

 昼になったが、今日も家では火が起こらなかった。食べることも人生において重要な仕事だ。だが、家の誰も食べることを忘れてしまった。ムンシー・トーターラームは表で死人のように横たわっていた。ニルマラーは家の中にいた。娘は表と中を行ったり来たりしていた。誰も彼女に話し掛ける者はいなかった。何度も何度もスィヤーラームの部屋の戸の前に行って立ち、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼び掛けた。だが、「お兄ちゃん」の返事はなかった。

 夕方、ムンシー・トーターラームはやって来てニルマラーに言った。「いくらか金はあるか?」

 ニルマラーは驚いて聞いた。「どうするの?」

 トーターラーム「聞いたことの返事をしろ。」

 ニルマラー「あなたも知っているでしょう?私にお金をくれるのはあなたなのよ。」

 トーターラーム「金があるのかないのか。もしあるならワシにくれ。ないならはっきりそう答えろ。」

 ニルマラーはそれでもはっきり答えなかった。彼女は言った。「あるなら、家の中にあるでしょう?私が他のどこかに送ったとでも?」

 トーターラームは外に出た。彼は、ニルマラーが金を持っていることを知っていた。実際、あったのだ。ニルマラーは、「ない」とも「あげない」とも言わなかった。だが、彼女の返事から、彼女が渡したくないと思っていることは明らかだった。

 夜9時、ムンシー・トーターラームはルクミニーに言った。「姉さん、ワシはちょっと外に行って来る。ワシの寝具をブーンギーに言って縛らせて、トランクにいくつか服をしまわせておいてくれ。」

 食事を作っていたルクミニーは言った。「嫁は部屋にいるんだから、嫁に言えばいいだろう。どこかへ行くのかい?」

 トーターラーム「ワシは姉さんに言ってるんだ。嫁に言うなら、どうして姉さんに言う?今日は姉さんが料理をしてるのか?」

 ルクミニー「他に誰がいるのさ?嫁は頭痛がすると言うし。で、こんな時間にどこへ行くんだい?朝行けばいいだろう。」

トーターラーム「こんな風に探し回って今日で3日が過ぎ去ってしまった。あちこち遠出してみれば、少しはスィヤーラームの消息が分かるかもしれない。数人が、サードゥと話をしていたと言っていた。多分、そのサードゥが誘惑してどこかへ連れて行ったに違いない。」

 ルクミニー「いつまでに帰るんだい?」

 トーターラーム「分からない。1週間かかるかもしれないし、1ヶ月かかるかもしれない。誰に分かる?」

 ルクミニー「今日は何の日だい?パンディト(僧侶)に言って、吉日を教えてもらったかい?」

 トーターラームは食事をするために座った。ニルマラーはそのとき彼がとても哀れな存在に思えた。彼女の全ての怒りは鎮まった。自分では言わなかったが、娘を起こして愛撫しながら言った。「ほら、お父さんはどこへ行くんでしょう?聞いてみたら?」

 娘は戸口から覗いて聞いた。「お父ちゃん、どこ行くの?」

 トーターラーム「遠くへ行くんだ、お前のお兄さんを探しに行くんだ。」

 娘はそこに立ちながら言った。「あたちも一緒に行く!」

 トーターラーム「とても遠くに行くんだ!お前のために何か買って来よう。こっちへおいで。」

 娘は微笑みながら隠れてしまった。そして戸の裏から顔を出して言った。「あたちも一緒に行く!」

 トーターラームは娘のしゃべり方を真似て言った。「お前は一緒に連れて行かない!」

 娘「どうしてあたちを連れて行ってくれないの?」

 トーターラーム「お前はワシのそばに来てくれないからな。」

 娘は小躍りしながら父親の膝の上に座った。少しの間、ムンシー・トーターラームは娘と遊ぶのに夢中になり、心の悲しみを忘れた。

 食事を終え、ムンシー・トーターラームは外に出た。ニルマラーは立って彼を見ていた。彼女は、「行っても無駄でしょう」と言いたかったが、言うことができなかった。少しお金を取り出して渡そうとも思ったが、渡すこともできなかった。

 とうとう我慢できず、ルクミニーに言った。「お義姉さん、ちょっと何とか言って下さい、どこへ行くんでしょう。私が何を言っても無駄でしょうけど、言わずにはいられないわ。何の当てもなくどうやって探す積もりかしら?何の意味もないでしょう。」

 ルクミニーは悲哀に満ちた目で彼女を見ると、自分の部屋へ行ってしまった。

 ニルマラーは娘を抱きながら、多分行く前に私か娘に会いに来るだろうと考えていた。だが、彼女の期待は裏切られた。トーターラームは寝具を持ち上げると、馬車に乗ってしまった。

 そのときニルマラーの胸は強く締め付けられた。もう夫とは二度と会えないのではないかと思った。彼女は居ても立ってもいられなくなり、玄関まで出てムンシー・トーターラームを止めようとした。だが、既に馬車は出てしまった後だった。

第25章

 日は過ぎ去って行った。1ヶ月が過ぎ去った。だが、ムンシー・トーターラームは戻って来なかった。一通の手紙すら送って来なかった。ニルマラーは常に、あの人が帰って来なかったらどうしよう、ということを考えるようになった。彼女は、彼がどんな目に遭っているか、どこでどんな苦労をしているか、体調はどうか、などということは考えなかった。彼女はただ、自分と、それ以上に娘の心配をしていた。生活はどうなるの?どうやって筏を向こう岸まで渡せばいいの?娘の人生はどうなるの?彼女が節約して貯めたお金は、日に日に減って行った。まるで彼女の身体から血が抜き取られて行くかのようだった。苛立つとムンシー・トーターラームを罵った。娘が何かの拍子に泣き出すと、「不幸者」「恥知らず」と叱り付けた。それだけでなく、ルクミニーが家にいるのを、まるで彼女が自分の首に乗っかっているかのように、厄介に思うようになった。

 心が燃え盛っているとき、その言葉も燃え盛るものだ。ニルマラーは元来とても物腰の柔らかな女性だったが、今では口やかましい女の部類に数えられていた。1日中彼女の口からは罵詈雑言が発せられた。彼女の柔らかな言葉遣いはどこへ行ってしまったのだろう?表情に優雅さのかけらもなかった。ブーンギーは長い間この家で女中をしていた。我慢強い性格であった。しかし、この四六時中続く怒声を彼女も耐え忍ぶことができなかった。ある日彼女は家に帰ってしまった。ニルマラーは、自分の命よりも大切にしていた娘ですら、今では姿を見るのも嫌なほどの憎悪の対象となった。ちょっとしたことで叱責し、さらには叩くこともあった。ルクミニーは泣き喚く娘を抱きしめ、何とかあやして黙らせていた。この子にとって、今やルクミニーのみが安住の場所となった。

 ニルマラーにとって唯一の気晴らしは、スダーと話すことであった。彼女はスダーを訪れる機会を常に伺っていた。彼女はもう、娘を一緒に連れて行きたいとは思わなかった。以前、家では食べ物は何でも手に入り、スダーの家に行けば笑って遊んでいた。だが、今ではスダーの家に行っても腹を空かしていた。ニルマラーが睨みつけても、拳を見せ付けても、娘は空腹を主張するのをやめなかった。だからニルマラーは娘を連れて行くのをやめたのだった。スダーのそばに座ると、彼女は自分が人間であることを思い出すのだった。スダーと話している間、彼女は全ての心配事から解放されるのだった。酒飲みが酒の酔いで全ての心配事を忘れるように、ニルマラーはスダーの家に行って全ての悩みを忘れるのだった。ニルマラーを彼女の家で見た者は、スダーの家にいるニルマラーを見て驚くのだった。あのやかましくて口の悪い女が、ここに来ると笑い上戸で穏やかで気品のある女性になるのであった。青春時代特有の朗らかな性格は、自分の家で道を閉ざされたため、ここで跳ね回り出したのだった。ここに来るとき、彼女は髪をきれいに結って、きれいな衣服で着飾り、できるだけ自分の不運は心に抑え込んでおくことにしていた。ここには笑うために来ていた。泣くためじゃない!

 だが、彼女の運命に幸せはなかった。ニルマラーはいつも12時から3時頃にスダーの家に行っていた。だが、ある日彼女はとても退屈で、朝からスダーの家を訪れた。スダーは河へ沐浴しに行っており、ドクター・スィナーが病院へ行くために着替えをしていた。女中は自分の仕事に忙しかった。ニルマラーはスダーの部屋へ行くと、くつろいで腰をかけた。彼女は、スダーは何か用事があるのだろう、もうすぐ来るだろう、と考えた。2、3分が経った後、彼女は棚からアルバムを取り出し、髪を解いて寝台に横たわって見始めた。そのときドクター・スィナーが何かを取りにスダーの部屋に入って来た。おそらく眼鏡を探していたのだろう。ノックもせずに部屋の中に入った。ニルマラーは入り口の方で髪を解いて寝転がっていた。ドクター・スィナーを見た途端、彼女は驚いて起き上がり、顔をベールで覆って寝台から降りて立った。スィナー氏は部屋を出るときに入り口に立って言った。「すまん、ニルマラー、いるとは思わなかった。眼鏡が部屋になくてね。どこに置いたんだろう。ここにあるかと思ったんだが。」

 ニルマラーが寝台の枕元にあるニッチを見ると、そこに眼鏡の小箱が見えた。彼女はその箱を取ると、うつむいて身体を覆いながら、ドクター・スィナーの方に手を伸ばした。スィナー氏は以前にもニルマラーを数回見たことがあったが、このときような感情が起こったのは初めてだった。何年も心の中に押し込めていた炎は今日、風のひと吹きを受けて一気に燃え上がった。彼は眼鏡を取るために手を伸ばしたが、その手は震えていた。眼鏡を受け取っても彼は外に行かず、その場で呆然として立ち尽くしていた。ニルマラーは2人っきりであることに怖くなり、聞いた。「スダーはどこかへ行ってるの?」

 ドクター・スィナーはうつむいて答えた。「ああ、ちょっと沐浴しに行ってる。」

 それでもスィナー氏は外に行こうとしなかった。その場に立ち尽くしていた。ニルマラーは再び聞いた。「いつ来るかしら?」

 スィナー氏はうつむいたまま答えた。「もうすぐ来るだろう。」

 それでも外に行かなかった。彼の心の中では激しい葛藤が起こっていた。良心ではなく、臆病のもつれた糸だけが彼の言葉をかろうじて止めていた。

 ニルマラーは再び聞いた。「どこか寄り道でもしてるのかしら。私も行ってみるわ。」

 臆病の糸が切れてしまった。川岸まで追い詰められた敗走の兵士たちには異常な力が宿るものだ。ドクター・スィナーは頭を上げてニルマラーを見ると、愛情に満ちた声で言った。「いや、ニルマラー、今に来るだろう。行くんじゃない。毎日スダーのために来ているんだ、今日ぐらいは僕のために来てくれ。いつまでこの炎の中で身を焦がさないといけないんだ?本当のこと言うと、ニルマラー・・・」

 ニルマラーはそれ以上聞かなかった。彼女は地面全体が揺れているのではないかと感じた。稲妻に打たれたのではないかと思った。彼女は急いで吊るし紐にかけてあったショールを取ると、何も言わずに部屋を出た。ドクター・スィナーは恥じらっているかのような泣き顔をして立っていた。彼女を止めたり、彼女に声を掛ける勇気は彼にはなかった。

 ニルマラーが玄関まで来ると、スダーが馬車から降りるのが見えた。スダーはニルマラーを見ると、急いで馬車から降りて彼女の方へ向かって早足で歩いて来た。そして何かを聞こうとしたが、ニルマラーはその前に矢の如く立ち去ってしまった。スダーはしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。何が起こったのか、彼女には理解できなかった。不安になり、家の中に入った。まずは女中に何があったのか聞いた。彼女は、女中や下男が何か失礼なことをしたのだと考えた。そうだとしたら、何をしたのか問い詰めて、家から追い出してやろうと思った。急いで自分の部屋へ行った。すると、夫がうつむいて寝台に座っているのを見つけた。彼女は聞いた。「ニルマラーがここに来なかった?」

 スィナー氏はうつむいたまま言った。「ああ、来たよ。」

 スダー「女中か下男がニルマラーに何か言ったんじゃない?私に何も言わずに飛んで出て行ってしまったわ。」

 スィナー氏の顔は青ざめた。彼は言った。「ここでは誰も何も言わなかったよ。」

 スダー「誰も何も言わなかったですって!いい、本当のこと言って。神様もご存知だわ、私は絶対に何があったか突き止めて、こっぴどく叱って追い出してやるから!」

 スィナー氏はまごついて言った。「僕は誰かが何か言ったのを聞かなかった。お前はニルマラーを見てないだろう。」

 スダー「まあ、私が見てないですって!私はニルマラーの目の前で馬車から降りたのよ。彼女、私の方を見もせず、話もしなかったわ。この部屋に来たの?」

 スィナー氏はどんどん寿命が縮まる思いがした。ためらいながら言った。「来たに決まってるじゃないか。」

 スダー「あなたがここに座ってるのを見て、立ち去ってしまったんでしょう。多分、女中の誰かが何か言ったんでしょう。卑しい人間は、話す作法も知らないんだわ。こら、スンダリヤー、ちょっとここに来なさい!」

 スィナー「どうして呼ぶんだ。ニルマラーは玄関からまっすぐここまで来た。女中たちとは話すらしてない。」

 スダー「ならあなたが何か言ったんでしょう?」

 スィナー氏の心臓は激しく鼓動し始めた。「僕が何を言うのか!そんな田舎者じゃないぞ。」

 スダー「あなた、ニルマラーが来たときもこうして座ってたの?」

 スィナー「僕はここにはいなかった。外の客間で眼鏡を探したんだ。そこで見つからなかったから、ここにあるんじゃないかと思った。ここに来て見たら、ニルマラーが座っていた。僕は部屋を出ようと思ったんだが、彼女が自分から聞いたんだ。『何か探してるの?』僕は答えた。『ちょっと、眼鏡がないか探してくれ。』眼鏡は枕元のニッチの中にあった。彼女はそれを取ってくれた。ただそれだけだ。」

 スダー「それだけ?あなたに眼鏡を渡した途端、怒って出て行ってしまったの?」

 スィナー「出るとき怒ってはいなかった。立ち去ろうとしたから、僕は『座りなさい、妻ももうすぐ来るだろう』と呼び掛けたんだ。だが行ってしまった。僕に他に何ができた?」

 スダーは少し考えてから言った。「話がよく分からないわ。私ちょっとニルマラーのところへ言って来るわ。一体何があったのか聞いて来る。」

 スィナー「行けばいいだろうが、そんなに急ぐ必要もないだろう?まだ1日は始まったばかりだ。」

 スダーはショールを肩にかけながら言った。「何かしっくりこないの。急ぐ必要もないですって?」

 スダーは急いでニルマラーの家へ向かい、5分で着いた。見ると、ニルマラーは自分の部屋の寝台に横たわって泣いていた。そして娘がそばに立って聞いていた。「お母ちゃん、なんで泣いてるの?」

 スダーは娘を抱き上げると、ニルマラーに言った。「ニルマラー、正直に言って、何があったの!私の家で、誰かが何かを言ったんじゃないの?みんなに聞いたけど、誰も答えようとしないの。」

 ニルマラーは涙を拭いながら言った。「誰も何も言ってないわ、スダー。あなたの家で私に何か言う人がいる?」

 スダー「ならどうして私に何も言わなかったの?帰って来た途端、泣いてるの?」

 ニルマラー「自分の不運を泣いてるのよ、ただそれだけ!」

 スダー「そんなこと言わないで、そんなこと言わないって誓って。」

 ニルマラー「誓いも何も、誰も私に何も言ってないわ。嘘ついても仕方ないでしょう?」

 スダー「私に誓って!」

 ニルマラー「あなたは意味のないことしてるわ。」

 スダー「もし何も教えてくれなかったら、あなたは私のこと少しも好きじゃない、あなたは口先だけの人だと理解するわ。私はあなたに何も隠し事をしてないのに、あなたは私のこと他人だと考えているのね。私はあなたのこととても信頼してたのよ。でもそれは間違いだったのね。」

 スダーの目に涙が溢れて来た。彼女は抱いていた子供を下に下ろすと、外に出ようとした。ニルマラーは立ち上がって彼女の手を掴み、泣きながら言った。「スダー、お願いだから、もう聞かないで!あなたはとても悲しくなるでしょうし、私は二度とあなたに顔を見せることができなくなるわ。私は不幸者なんだわ、こんな目に遭うなんて!もう神様にお祈りするしかないわ、私を早くこの世から呼び寄せて下さいって。今、こんな不幸が起こってるなら、将来どんなことが起こるか分からないわ。」

 これらの言葉に暗に含まれたことを、賢いスダーは読み取った。彼女は、夫がニルマラーを誘惑したことを理解した。スダーは、彼のおどおどした話し方、質問の逸らし方、彼の血の気のない醜い姿を思い出した。彼女は頭の先からつま先まで震えさせ、何も言わずに雌ライオンの如く部屋の外に出た。ニルマラーは彼女を止めようと思ったが、止められなかった。見る見る内に彼女は表へ出て、自分の家へ向かって歩いて行ってしまった!そのときニルマラーはその場にしゃがみ込み、大声で泣き出した。

第26章

 ニルマラーは1日中寝台に横たわっていた。彼女の身体には命が宿っていないかのようだった。沐浴もせず、食事もしなかった!夕方、熱が出た。一晩中、彼女の身体は鉄板のように焼けていた。翌日になり、熱は少しだけ下がりはしたが、完全には治らなかった。彼女は寝台に横になって、戸口の方をじっと見つめていた。四方は全くの無であった。中も無、外も無。心配事も、思い出も、悲しみも、何もなかった。頭脳には震えるだけの力も残っていなかった。

 そのとき、ルクミニーが娘を抱いて中にやって来て立った。ニルマラーは聞いた。「泣きはしなかった?」

 ルクミニー「少しも泣かなかったわ。一晩中静かに寝てたわよ。スダーが少し牛乳を送ってくれたから、それを飲ませておいたわ。」

 ニルマラー「牛乳屋が置いていかなかったの?」

 ルクミニー「今までのお金を払ったら渡すと言ってたわ。体調はどうだい?」

 ニルマラー「何ともないわ。昨日、ちょっと熱が出たみたい。」

 ルクミニー「スィナーさんは大変なことになったみたいね。」

 ニルマラーは困惑して言った。「どうなったの?変わりないわよね?」

 ルクミニー「変わりないどころか、今頃お葬式の準備をしているんじゃないかしら。ある人の話だと、毒を飲んだと言うし、別の人の話だと、心臓麻痺になったと言うし。神様のみがご存知でしょう。」

 ニルマラーは思わず息を吸い込み、むせび声で言った。「ああ、神様!スダーはどうなったでしょう?どうやって生きればいいの?」

 そう言いながらニルマラーは泣き出し、そのまましばらく嗚咽していた!そして寝台から下りると、スダーのところへ行く準備をした。足はプルプルと震え、壁に寄りかかって立ったが、心が身を止めていた。スダーは帰った後に旦那さんに何て言ったんでしょう!私は彼女に何も言ってないわ。私の言ったことをどういう風に受け取ったのかしら?ああ!あんなに美しくて、思いやりがあって、気品のある女性の身にこんなことが起こるなんて!もしニルマラーの怒りの結果がこのような恐ろしいものだと分かっていたなら、彼女は毒を飲まされてもそのことを冗談だと受け止めていただろう。

 私の冷酷さのせいでスィナーさんが大変な目に遭ってるんだわ、そう考えるとニルマラーの心は粉々になった。まるで心臓に刺し棒が刺さったかのように感じた。彼女はスィナー氏の家へ向かった。

 遺体は既に火葬場へ運ばれていた。表は沈黙で包まれていた。家の中には女性たちが集まっていた。スダーは地面に座って泣いていた。ニルマラーを見ると、大声で泣き叫び、彼女の胸にしがみついた。2人はしばらくの間、泣いていた。

 集まった女性たちの数が少なくなり、2人だけになると、ニルマラーは聞いた。「どうなってしまったの、スダー!あなた、何を言ったの?」

 スダーは今日、自分の心の中でこの質問の答えに何度答えていたことだろう。彼女は、自分の心を慰めることができた答えをニルマラーに言った。「黙っていられなかったの、ニルマラー!怒りの言葉には怒りで返すものよ。」

 ニルマラー「私はあなたに何も言わなかったわ。」

 スダー「あなたにどうして言うことができたの、言うことなんてできなかったでしょう。でも、あの人が起こったことを言ったの。それに対して私は口に上って来たことを言ったわ。もし邪な考えが浮かんだら、それだけで起こったものと考えなきゃいけないわ。機会を得たら、必ずそれを実現しようとするから。ただの冗談だったとか言い訳して言い逃れすることなんてできないわ。2人っきりのときにそんな言葉を口にするのは、その大きな証拠よ。私はあなたに一度も言わなかったけど、あの人は何度もあなたのことを覗き見してたのよ。そのとき私は、多分見間違いだろうと思ってたわ。でも今、その覗き見が何だったのか分かったわ!もし私がもっと経験豊かだったら、あなたを絶対に家に招いたりしなかったでしょう。少なくともあなたを旦那の目に触れさせることはしなかったわ。でも、男の口にあることと心にあることが別だなんて、どうして私に分かったかしら?神様が望んでらっしゃったことが起こったのよ。そんな偽物の幸せよりも未亡人の方がマシ。自分の儲けた金に食われるような金持ちよりも、貧しい人の方が数倍幸せだわ。断食するのは簡単だけど、毒入りの食事をするのは難しいものよ!」

 そのときドクター・スィナーの弟とクリシュナーが家にやって来た。家の中に悲嘆の声がこだました。

第27章

 1ヶ月が過ぎ去った。スダーは義理の弟と3日目に去って行ってしまった!もはやニルマラーは一人ぼっちだった。以前はスダーと談笑し合って気晴らしをしていた。今では泣くことだけが唯一の仕事になった。彼女の健康は日に日に悪化して行った。家賃が高かったので、より安い家賃の家を借りて引っ越した。この家は狭い路地にあった。ひとつの部屋と、小さな庭しかなかった。光も差し込まないし、風も来なかった。悪臭が漂っていた。お金がありながら、時々断食をしなければならなかった。誰が市場に買い物に行くのか?夫もいなければ息子もいない。それなら毎日誰が料理をすると言うのか?女性のために毎日料理をする必要があろうか?彼女らはもし1回食事を食べたら、2日間は腹を空かせていた。ただ娘のためには新鮮なハルワー(お菓子)やローティー(インド式パン)を作っていた。こんな生活で体調が崩れない方がおかしい!不安、悲嘆、悪環境、この内のひとつでも病気の原因になるというのに、ここでは3つとも揃っていた。ニルマラーは薬を飲もうと決めた。だが、何ができようか?残ったなけなしの金に薬を買う余裕などどこにあろうか?食事さえ満足にできない家で、薬が話題に上ることはない。日に日に彼女は痩せ衰えて行った。

 ある日ルクミニーは言った。「ニルマラー、どこまで痩せるつもりだい!命あっての物だねだよ。さあ、どこかお医者さんのところへ行くよ。」

 ニルマラーは面倒くさそうに答えた。「泣くためだけに生きるぐらいなら、死んだ方がマシよ。」

 ルクミニー「呼んだところで死はやって来ないよ。」

 ニルマラー「死は呼ばなくてもやって来るわ、呼べばやって来るでしょう?もうすぐやって来ると思うわ、お義姉さん!その日が来るのが待ち遠しいわ!」

 ルクミニー「そんな弱気なこと言うんじゃないよ!まだこの世の幸せも見てないだろう。」

 ニルマラー「もしこの世の幸せが長い間見て来たこれだったら、私はそれでもう満足よ。本当のこと言って、この子への未練がなかったら、私はとっくの昔に死んでいたところよ。この子の将来がどうなるか心配だわ。」

 2人の女性は泣き出した。ニルマラーが寝台に寝たきりになって以来、ルクミニーの心に憐れみの泉が湧き上がったかのようだった。口論も少しも起きなかった。どんな仕事をしていても、ニルマラーの声を聞くとすぐに飛んで来た。何時間も彼女のそばに座って、話を聞かせていた。ニルマラーが好んで食べそうなものを作ろうと思っていた。ニルマラーが笑っているのを見ると、彼女は嬉しくなった。そしてニルマラーの娘をいつも胸に抱いてあやしていた。子供が寝るとルクミニーも寝、子供が起きるとルクミニーも目を覚ました。この女の子が今や彼女の人生の生き甲斐となっていた。

 ルクミニーはしばらく後に言った。「ニルマラー、お前はどうしてそんなに気弱なんだい?神様がお望みなら、2、3日中によくなるでしょう。私と一緒に今日、お医者さんのところへ行きましょう。いい人だよ。」

 ニルマラー「お義姉さん、もうどんなお医者さんの薬も効かないと思うわ。私の心配はしないで。この子をお義姉さんに託すわ。もし無事に育ったら、どこかいい家柄の人と結婚させてちょうだい。私はこの子のために何もすることができなかったわ。ただ生んだだけの無責任な母親だわ。一生独身で過ごそうとも、毒を飲ませて殺そうとも、悪い人とは絶対に結婚させないで。それだけが私の願いよ。私はお義姉さんのお世話も何もすることができなかった。とても悲しいわ。私のような不幸者は、誰も幸せにすることができなかった。私が関わった人たちはみんな破滅してしまったわ。もし夫が家に帰って来たら、この生まれながらの罪人を許してくれるように頼んでちょうだい。」

 ルクミニーは泣きながら言った。「ニルマラー、お前には何の罪もないよ。神様に誓って、私はお前に何の憎しみも抱いてないよ。そればかりか、私はお前にいつも厳しく当たったわ。そのことを私は死ぬまで後悔するでしょう。」

 ニルマラーは悲しげな目で見つめながら言った。「お義姉さん、売り言葉には買い言葉で返すものよ。夫はいつも私を信じていなかったけど、私は一度もあの人を無視したことはないわ。起こるべきことが起こってしまっただけ。不義を働いて来世を台無しにするようなことはしないわ。でも私は前世で一体どんな罪を犯したのかしら?こんな償いをしなければならないなんて。もしこの世でも罪を犯したなら、どんなことになっていたでしょう?」

 ニルマラーは悲痛で苦しくなった。再び寝台に横たわると、娘を見つめた。ニルマラーの目にはまるで、自分の人生の悲劇を全て詰め込んだような悲しみがあった。言葉にそれほどの力があろうか!

 3日間、ニルマラーの目からは涙が流れ続けた。彼女は誰ともしゃべらず、誰をも見ず、誰の言葉も聞かなかった。ただただ泣き続けた。誰がその悲しみを想像することができようか?

 4日目の夕方、その悲劇は幕を閉じた。動物や鳥たちが自分の巣に帰っていたとき、ニルマラーの命の鳥も、猟師たちの銃口と、猛鳥たちの鉤爪と、突然の強風に翻弄されながらも、自分の巣へ向けて飛び立った。

 近所の人々が集まった。遺体が外に運び出された。誰が火葬を取り仕切きるべきか?人々の間で問題になった。人々が困っていると、どこからか1人の老いた旅人が袋を抱えてやって来た。ムンシー・トーターラームであった。


−完−

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