スワスティカ 印度文学館 スワスティカ

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ニルマラー

装飾下


 プレームチャンド(1880-1936)。ヒンディー・ウルドゥー文学の巨匠。生涯に18の長編小説と400余の短篇小説を発表。ガーンディー主義に傾倒し、農民、労働者、ダリト(不可触民)、女性など、社会的弱者の視点に立った作品を書き続ける。「ニルマラー」は、1925年11月から1926年11月まで、女性向け雑誌「チャーンド」に連載された長編小説。インドの女性問題をテーマに、心理描写に重点を置いて書かれている。ヒンディー語版からの翻訳。

第1章

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールの家には何十人もの家族が住んでいた。母方の従兄弟がいれば、父方の従兄弟もいるし、姉妹方の甥がいれば、兄弟方の甥もいた。しかしここでは彼らに触れる必要はないだろう。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは優秀な弁護士で、ラクシュミー女神(富の女神)の敬虔な信者であり、貧者に施しをするのを自らの使命としていた。物語の主人公は、彼の娘たちである。長女の名前はニルマラー、次女の名前はクリシュナーと言った。ついこの前まで、2人は一緒に人形遊びをしていた。ニルマラーは15歳、クリシュナーは10歳だったが、2人の性格に特に違いはなかった。2人は暇があれば人形を結婚させて遊んだり、一緒に家事をさぼったりしていた。母親が呼んでも、2人は、全く今度は何の仕事を押し付けるつもりかしら、と倉庫に隠れて座っていた。2人は兄弟たちとよく喧嘩をしたり、使用人たちを叱ったり、楽器の音を聞くや否や戸口に立ったりしていた。しかし最近では、どういうわけか、長女は長女、次女は次女になってしまっていた。クリシュナーは相変わらずだったが、ニルマラーは思慮深く、孤独を好み、恥かしがり屋の女の子になってしまった。

 ここ数ヶ月間、バーブー・ウダイバーヌ・ラールはニルマラーの結婚相手を探していた。今日、その努力が実り、バーブー・バールチャンドラ・スィナーの長男ブヴァンモーハン・スィナーとの縁談が決まった。花婿の父親は、「ダウリー(持参金)を払おうと払うまいと、あなたのよかれと思うようにして下さい。私は全く気にしません。ただ、バーラート(花婿側招待客)の人々をきちんともてなしていただければ結構です。あなたと私の名誉が汚れることがあってはいけませんからね」と言った。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは弁護士ではあったが、金儲けには長けていなかった。ダウリーは彼にとって困難な問題であった。だから花婿の父親から「ダウリーのことは気にしない」という言葉を聞いたとき、縁談は決まったも同然だった。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは、ダウリーのためにどれだけの人の前で手を合わせなければならないだろう、と常々悩んでおり、2、3人の高利貸しと日頃から懇ろにしていた。そして、どれだけ出費を抑えても、少なくとも2000ルピーはかかるだろう、と見込んでいた。それゆえに、この好条件を提示された途端、彼は喜びの余り飛び上がらんほどであった。

 この知らせが家に届いた途端、無邪気だった少女は顔を隠して部屋の隅に座り込んでしまった。彼女の心には奇妙な胸騒ぎが沸き起こり、全身に未知の恐怖が駆け巡った――いったいどうなってしまうの?彼女の心には、乙女たちの目に色気を添え、唇に柔かな笑みを含ませ、身体の動きを甘くさせるような歓喜はなかった。そこには憧れもなかった。ただ胸騒ぎが、不安が、そして臆病な想像のみがあった。青春の光はまだ完全に少女を照らし出していなかった。

 クリシュナーは何となく知ってはいたが、まだ理解できていないこともたくさんあった。お姉ちゃんはきれいな装飾品がもらえるでしょう、戸口で楽器が鳴るでしょう、お客さんたちが来るでしょう、みんなが踊りだすでしょう――それを思うだけで嬉しくなってしまった。そして彼女は、姉がみんなと抱き合って泣くこと、涙を流しながらこの家から去って行ってしまうことも知っていた。私は1人になってしまう、それを思うと悲しくなった。しかし彼女は、それが何のために起こっているのか、父と母がどうして姉をこんな嬉しそうに家から追い出すのか、全く理解できなかった。お姉ちゃんはいつもと違うわ、誰にも何も言おうとしないし、誰にも反対しようとしない。これはなぜ?いつかこんな風に私も追い出されてしまうの?私もお姉ちゃんのように部屋の隅に座って泣くの?誰も私を慰めてくれないの?それを思うと彼女は怖くもあった。

 夕方になった。ニルマラーは屋上に1人ポツンと座り、遠い空を物欲しげな目で眺めていた。もし羽があったら飛び去ってしまいたい、そうすればこんなことから抜け出せるのに、と考えていた。この時間にはいつも、2人姉妹はどこかに散歩に出掛けていたものだった。仕掛けておいた罠に獲物がかかっていないときはいつも、2人は畑の方に散歩に出かけていた。だからクリシュナーは姉を探し回っていた。どこにも見当たらなかったので、彼女は屋上まで上がって来た。ニルマラーを見つけると、クリシュナーは笑って言った。「お姉ちゃん、こんなところに隠れて何してるの?私、あちこち探し回っちゃったわ。さあ、罠を仕掛けて来ましょうよ。」

 ニルマラーは興味なさそうに言った。「あんた、1人で行って。私は行かないわ」

 クリシュナー「そんなのいや、私の大好きなお姉ちゃん、今日は一緒に行きましょうよ。ほら、気持ちいい風が吹いてるわ。」

 ニルマラー「気が乗らないの、1人にして。」

 クリシュナーの目が潤んできた。声を震わせて言った。「お姉ちゃんはなんで今日、行ってくれないの?私をどうして無視するの?どうしてあちこち隠れてるの?私、1人で寂しい。お姉ちゃんが行かないなら私も行かない。ずっとお姉ちゃんのそばに座ってるわ。」

 ニルマラー「もし私がお嫁に行ったら、あんたはどうするつもり?誰と遊ぶの?誰と一緒に散歩に行くの?考えてみたことある?」

 クリシュナー「私もお姉ちゃんと一緒に行くわ。ここに1人で住むことなんてできないもの。」

 ニルマラーは微笑んで言った。「そんなこと、お母さんが許さないわ。」

 クリシュナー「それなら私がお姉ちゃんを行かせないわ。お母さんにどうして言わないの、行きたくないって?」

 ニルマラー「言ってるわ。言ってるけど誰が聞いてくれるの?」

 クリシュナー「それじゃあこの家はお姉ちゃんのものじゃないの?」

 ニルマラー「違うわ。私のものだったら、誰が私を無理矢理追い出そうとする?」

 クリシュナー「こんな風に私もいつか追い出されちゃうの?」

 ニルマラー「あんたはいつまでもこの家に居座るつもり?私たちは女の子なの、私たちの家はどこにもないのよ。」

 クリシュナー「チャンダルも追い出されちゃうの?」

 ニルマラー「チャンダルは男の子でしょ、誰が追い出すって言うの?」

 クリシュナー「それじゃあ、女の子は厄介者ってこと?」

 ニルマラー「厄介者じゃなかったら、どうして家から追い出されるって言うの?」

 クリシュナー「チャンダルはあんな悪戯っ子なのに、どうして誰も追い出そうとしないの?お姉ちゃんも私も悪戯なんてしたことないのに。」

 そのときチャンダルが騒々しい音を立てながら屋上までやって来て、ニルマラーを見て言った。「あれ、お姉ちゃん、ここにいたのか。オッホ!もうすぐ音楽が鳴って、お姉ちゃんがお嫁さんになって、お輿に乗って行っちゃうね!オッホ!オッホ!」

 チャンダルの本名はチャンドラバーヌだった。ニルマラーの3歳年下で、クリシュナーの2歳年上だった。

 ニルマラー「チャンダル、これ以上私を怒らせたら、今からお母さんのところへ行って言いつけるからね。」

 チャンダル「どうして怒ってるの?お姉ちゃんも音楽聞くんでしょ!オッホ!もうすぐお嫁さんになるんでしょ!キシュニー(クリシュナーの愛称)、お前も音楽聞くよな?あんな音楽、お前は一度も聞いたことないだろうな?」

 クリシュナー「バンドの演奏よりもいいの?」

 チャンダル「ああ、当然さ。バンドよりもいいさ、1000倍いいさ、10万倍いいさ!お前に何が分かる?バンドの演奏1回聞いただけで、それが最高の音楽だと勘違いしてやがる。音楽の演奏隊は、赤いチョッキを羽織って、黒い帽子をかぶってるだろうね。お前にゃ分からないくらいかっこいいだろうなぁ。花火もあるだろう。ロケット花火が空に飛んで、星にぶつかって、赤や黄や緑や青の星が降ってくるだろうなぁ。楽しみだなぁ。」

 クリシュナー「あと何があるの、チャンダル、教えてよ?」

 チャンダル「オレと一緒に散歩に行こうぜ、歩きながら教えてやるよ。お前の目の玉が飛び出るくらいいろんなことがあるぜ。妖精が空をヒラヒラ飛んだりもするんだぜ、本物の妖精がよ!」

 チャンドラバーヌとクリシュナーは行ってしまったが、ニルマラーは1人でその場に留まっていた。クリシュナーが行ってしまったことを、このときニルマラーは不愉快に思った。クリシュナーのことを誰よりも愛していたのに、今日のクリシュナーはなんて冷たいの。私を1人残して行ってしまったわ。訳もないのに心は痛み、風が吹いただけで目からは涙が出た。ニルマラーはしばらくの間泣いていた。兄弟姉妹も両親も、みんなこのように私のことを忘れてしまうんでしょう、みんな目を背けてしまうんでしょう。多分みんなのことが恋しくてたまらなくなるんだわ。

 庭には花が咲き、甘い香りが漂って来ていた。チャイト月(3月〜4月)の涼しい風が吹いていた。空には星が瞬いていた。ニルマラーは悲しみに沈みながら眠ってしまった。目を閉じた途端、彼女の心は夢の世界をさまよい始めた。目の前には波立った河が見えた。その河の岸には桟橋があった。夕方だった。暗黒が何か恐ろしい獣のように迫ってきていた。彼女は、どうやってこの河を渡ろうか、どうやって家に帰ろうか、と考えていた。どうか夜にならないように、夜になってしまったら私は1人こんなところでどうすればいいの、と泣いていた。と、突然、1葉の美しい舟が岸の方にやって来るのが見えた。彼女は喜びの余り飛び上がり、舟が岸に着くや否やそれに乗ろうと走り出した。ところが、舟の甲板に足を乗せようとしたとき、船頭が叫んだ。「お前が乗る場所はねぇんだよ!」彼女は船頭にお世辞を言ったり、足元にひれ伏して頼み込んだり、最後には泣いてみたりしたが、船頭は同じ言葉を繰り返すだけだった。「お前が乗る場所はねぇんだよ!」すぐに舟は発ってしまった。彼女は大声を上げて泣き始めた。こんな人気のない河岸で夜を過ごせないわ、そう考えた彼女は河に飛び込んで舟をつかもうとしたが、そのときどこかから声がした。「待て、待て、河は深いぞ、溺れちまうぞ。その舟はお前のためのじゃない。オレが行くから。オレの舟に乗れば、向こう岸まで送ってやるよ。」彼女は怖くなって、一体声がどこからするのか、あちこちを見回した。少しすると、1葉の小さな舟がやって来るのが見えた。その舟には帆も舵も帆柱もなかった。舟底は穴だらけで、甲板は壊れ、舟には水が溢れていた。そして1人の男が舟の中から水をくみ出していた。「こんな壊れた舟で、どうやって向こう岸まで行くの?」船頭は言った。「お前のために送られたのはこれだけなんだ、さあ乗りな。」彼女はしばらく、こんな舟に乗るのかと考えていたが、結局彼女は乗ることに決めた。こんなところに1人取り残されるよりはこの舟に乗った方がましだし、恐ろしい獣に食べられるよりは河で溺れた方がましだわ。それに、舟が向こう岸まで辿り着くかどうかは誰にも分からないわ。そう考えた彼女は、思い切って舟に乗り込んだ。しばらく舟はゆらゆら揺れながら進んでいたが、刻一刻と舟の中に水が入って来た。彼女も船頭と一緒に手で水をくみ出し始めた。彼女はすぐに疲れてしまった。水はどんどん溜まって行った。遂に舟はグルグル回り始めた。今にも沈みそうな状態になったそのとき、彼女は何でもいいから掴まるものを探して手を伸ばした。舟は足元から離れ、足は足場を失った。彼女は大声で叫んだ。大声で叫びながら彼女は目を覚ました。見ると、母親が目の前に立って、彼女の肩を掴んで揺らしていた。

第2章

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールの家は市場の一角に建っていた。ベランダでは金工の金槌が音を立て、部屋の中では仕立て屋の針がせわしく動いていた。目の前のニームの木の下では、大工がチャールパーイー(インド式ベッド)を作っていた。瓦屋根にはお菓子屋のために釜戸が造られていた。各客人のために宿舎が用意されており、1人につきひとつずつ、チャールパーイー、椅子、机が行き届くように手配されていた。また、3人の客人に1人ずつカハール(小間使いカースト)を置く計画も立てられていた。バーラート(花婿側招待客)が来るまでまだ1ヶ月あったが、準備はもう始まっていた。バーブー・ウダイバーヌ・ラールは、招待客たちをグゥの音も出ないぐらい満足させるようなもてなし方をしよう、今まで参加した結婚式を忘れてしまうぐらいの思い出深いものにしようと息巻いていた。チャーイ(紅茶)のセット、軽食用の小皿、大皿、小壺、グラスなど、食器で家が一杯になるほどだった。

 いつも寝台に横たわってフッカー(水タバコ)を吸っていた人たちは、生まれ変わったように精力的に仕事をしていた。これを逃したら、自分の働き振りを示す機会はすぐには来ないだろう!1人の人手で足りる場所に、5人が走る有様だった。仕事は多くなかったが、騒動は絶えず繰り返された。大したことのない話のために何時間も口論が続き、最後にウダイバーヌ・ラールが出て来て決着を付けなければならなかった。1人が「これはよくない」と言うと、もう1人は「これよりいい物がもし万一市場で手に入ったら負けを認めよう」と言い返す。1人が「このギー(純油)から悪臭がする」と言うと、もう1人は「お前の鼻がおかしいんだ、お前にギーの何が分かる。ここに来て初めてギーを見たくせに、そうでなけりゃギーなんてお目にかかることなんてなかったろう」と言い返す。このように口論は激化し、ウダイバーヌ・ラールがいさかいを仲裁しなければならなかった。

 夜の9時だった。ウダイバーヌ・ラールは家の中で出費の推算をしていた。彼はほぼ毎日計算をしていたが、毎日何らかの変更をせざるをえなかった。その前ではカリヤーニーが眉間に皺を寄せて立っていた。しばらくして、彼は顔を上げて言った。「1万ルピー以下にはならないだろう、いや、多分それ以上になるだろう。」

 カリヤーニー「10日で5千ルピーから1万ルピーになったわ。1ヶ月後には10万ルピーまで膨れ上がってしまうでしょうね。」

 ウダイバーヌ「仕方ない、世間の笑いものになるのは御免だ。もし万一何か不平不満が出たら、人々は口々に噂するだろう、名は大きいくせに実は小さい、とね。花婿側はダウリーを受け取らないと言ってくれてるんだ、なら客人の精一杯のもてなしをして何も文句を言わせないようにするのは私の義務だよ。」

 カリヤーニー「ブラフマー神(創造神)がこの世界を創造して以来、誰が今日までバーラートを満足させられたことがあると言うんですか?バーラートは、粗探しをして何か不満を口にするためにいるようなものよ。自分の家では粗末なローティー(インド式パン)すら口にしてない貧乏人でも、バーラートに加わった途端、暴君になってしまうものよ。油からいい香りがしない、この安物の石鹸どこから拾って来たのか、小間使いが話を聞かない、ランタンから煙が出てる、椅子がカタカタする、チャールパーイー(インド式ベッド)の網が緩い、ジャンワーサー(花婿側参列者用部屋)に風が入らない、あれこれ何千もの不平不満が出て来るものよ。あなたはそれをどこまで穴埋めするつもりですか?もしこれらの不満を何とかできたとしても、今度は別の欠点を見つけるでしょう。あれ、この油は売春婦用のものだ、ワシらは普通の油が欲しいんだ、この石鹸は何だ、金持ち振りを見せびらかしやがって、まるでワシらが石鹸を見たことないと思ってるんじゃないか、これは小間使いじゃない、閻魔の使いだ、振り向けばそこにいやがる、このランタンは眩し過ぎるぞ、もし数日灯りを点けてたら目が潰れちまいそうだ、ジャンワーサーはどうなってる、まるで乞食の家みたいに四方から風が吹いて来るぞ。もう、お願いですから、バーラートのことに気を揉むのはやめて下さいな。」

 ウダイバーヌ「結局お前は私に何が言いたいんだ?」

 カリヤーニー「さっきから言ってますように、5千ルピー以上の出費はしないと心に決めて下さい。家はもうスッカラカンです、後はもう借金するしかないですよ。一生費やしても返しきれないほどの借金をどうして作る必要がありますか?私や子供たちのことも考えて下さい、子供たちのために何か残しておかないといけないでしょう。」

 ウダイバーヌ「お前は口を開けばそのことばかり言う。」

 カリヤーニー「何も間違ったことは言っていません。皆いつか死ぬんです。誰も不死身じゃありません。目を閉じるだけでこれから起こることを避けることはできません。毎日私は、父親を失った子供たちが路頭に迷っているのを見てます。誰が好きこのんでこんなことするの?」

 ウダイバーヌは怒って言った。「なら、ワシの死ぬときが来たと言うんだな、それがお前の予言なんだな!結婚の日から女の心は退屈しないと聞いてはいたが、今日は新しい話を聞いた。未亡人になるのに喜びを感じる奴がいるとはな!」

 カルヤーニー「世間の何を言ってもあなたは悪いように受け取るのね。まるであなたは私のことを、あなたのローティーに頼って生きてる哀れな存在だと思ってるみたい。何か話をするとあなたはすぐに怒るわ。まるで私を家の下女か何かで、食べ物と衣服の関係だけだと思ってるみたいね。湯水のようにお金を使って、誰にも文句を言わせず、酒と食べ物にお金を費やしても、誰にも口を開かせないつもりね。でもその全てのつけは、私の子供たちに回ってくるのよ。」

 ウダイバーヌ「それじゃあワシはお前の奴隷か?」

 カリヤーニー「それじゃあ私はあなたの奴隷なの?」

 ウダイバーヌ「女の手の平の上で踊る男は他にいるだろう。」

 カリヤーニー「男に踏みにじられても黙って耐える女は他にいるでしょう。」

 ウダイバーヌ「金を稼いでるのはワシだ、ワシは好きなように金を使うことができる。誰にも文句を言われる筋合いはない。」

 カリヤーニー「それならあなたが家事をして下さい、私はもうこんな家たくさんです。私の居場所すらないんですから。家の中ではあなたと私には同じだけ権限があります。私はあなたより微塵も小さな存在じゃありません!あなたが自分のことを王様と考えてるなら、私は女王です。あなたは自分の家でくつろいでて下さいな、私は自分の面倒は自分で見ます。子供のことは生かそうが殺そうがどうとでもして下さい。もう関係ないから、悲しくもありません。目が覚めました。」

 ウダイバーヌ「お前がいなければワシは何もできないとでも思ってるのか?ワシは1人でこんな家、何十軒でも養うことができるぞ。」

 カリヤーニー「誰が!もし1日でもこの家をこのままにできたら、そのときに私を笑って下さいな。」

 カリヤーニーはそう言いながら顔を紅潮させ、急に立ち上がると戸口の方へ向かった。ウダイバーヌは裁判においては駆け引きの妙に長けていたが、女性の心理については理解が足りなかった。男というのは年を取っても子供のままなのだ。もしここで彼が冷静になってカリヤーニーの手を取って座らせていれば、彼女は留まることもあっただろう。しかし彼はそういうことをしなかったばかりか、火に油を注ぐようなことをしてしまった。彼は、「実家にでも戻るつもりか?」と言った。

 カリヤーニーは戸口で立ち止まり、赤い目で夫の方を睨みつけると、がなり立てた。「実家の人たちとはもう縁はないし、私はあの人たちの情けにすがるほど落ちぶれてもいないわ。」

 ウダイバーヌ「じゃあどこへ行くつもりだ?」

 カリヤーニー「あなたにそんなこと聞かれる筋合いはありません。神様は全ての生き物のために住家を与えて下さっています。私の居場所もどこかにあるわ。」

 カリヤーニーはそう言って部屋の外に出た。庭に出ると、彼女はふと空を見上げた。その様子はまるで、空の星たちに、自分がどんなに残酷な状況の下に家から追い出されようとしているのかを訴えかけているかのようだった。時刻は夜の11時過ぎだった。家は静寂に包まれていた。2人の息子の寝台は彼女の部屋に置いてあった。彼女は自分の部屋に入ると、チャンドラバーヌが寝ているのを見た。末っ子のスーリヤバーヌは寝台の上に座っていた。母親を見ると言った。「お母ちゃん、どこ行ってたの?」カリヤーニーは遠くから答えた。「どこにも行ってないわ、お前のお父ちゃんのとこにいたのよ。」

 スーリヤバーヌ「お母ちゃんが行っちゃったから、僕、1人で怖かったよ。お母ちゃん、どうして行っちゃったの?ねえ?」

 そう言ってスーリヤバーヌは抱擁を求めて両腕を広げた。カリヤーニーは自分を止めることができなかった。母性愛という名の大河の氾濫に、彼女の燃え盛った心は水浸しになってしまった。心に育まれていたしなやかな樹は、怒りの炎に一旦しおれてしまったが、再び青々とした色を取り戻した。彼女は目に涙を浮かべながら子供を胸に抱いて言った。「お前はどうして私を呼ばなかったんだい?」

 スーリヤバーヌ「呼んだけど、お母ちゃん聞いてくれなかったんだよ。もうどこにも行かないでね。」

 カリヤーニー「ええ、もうどこにも行きませんよ。」

 カリヤーニーはそう言ってスーリヤバーヌを抱きながら寝台に横になった。母親の胸に抱かれた子供は、安心してすぐに寝入ってしまった。カリヤーニーは心の中で考え始めた。夫の言葉を思い出すと、三行半を突きつけてすぐにでも家を出てやりたい気持ちでいっぱいだった。しかし子供の顔を見ると、母性愛で胸がいっぱいになるのだった。子供を誰に預けて行けばいいの?私のかわいい子供たちを誰が育てるの、誰のものになってしまうの?誰が毎朝子供たちに乳を飲ませたりハルワー(お菓子の一種)を食べさせたりするの、誰が子供たちを寝かしたり起こしたりするの?そう考えると彼女は、子供たちのために何でも我慢しよう、不名誉も罵声も叱責も全てを子供たちのために甘んじて受け容れよう、という気持ちになるのだった。

 カリヤーニーは子供を抱いて寝てしまったが、旦那の方はなかなか寝付けなかった。心に突き刺さった言葉を忘れるのはとても難しいものだ。全くなんて女だ!まるでワシがあいつの女房みたいじゃないか。言い返す暇もありゃしない。今日からワシがあいつの奴隷になれってか?家族みんなを追い出して、家に1人で住むつもりなんだろう。馬鹿にしてやがる。ワシが死んだ後は1人でのんびり暮らそうと考えてるに違いない。思ったこと何でも口にしやがって。放っておけばいい気になりやがってガミガミ怒鳴ってばっかだ。きっと実家に戻ったに違いない。だが、誰も何が起こったか聞かないだろう。今頃歓迎されてるに違いない。だがしばらく居座っていればその内厄介者扱いされるだろう。そして泣きながら帰って来るだろう。なんて高慢な女だ、自分だけが家を支えていて、4日でもいなくなったらワシが根を上げるとでも思ってるのだろう。一度あいつの鼻をへし折ってやらなきゃいかん。そうだ、あいつに一度未亡人の楽しみを味わわせてやろうじゃないか。ワシを平気で罵るあの度胸がどうなるか見ものだ。あいつには愛情のかけらもないのか、それとも、いくら罵ってもワシが家から逃げ出さないとでも思ってるのだろう。多分そうだ、だがワシは家族に束縛されるような男なんかじゃない。あんな奴の世話にならなきゃならんのなら、こんな家なんて地獄に堕ちてしまえばいいんだ!こんなの家じゃない、地獄だ!男は外で働き、疲れ果て、ゆっくり休むために家に帰って来るんだ。それなのにこの家じゃ休息の代わりに罵声を浴びせかけられる。ワシの死を願ってみんな断食してやがる。これが25年間の結婚生活の成れの果てだ。もう嫌だ、家を出よう。あいつの高慢ちきな鼻がへし折れて頭が冷えるのを見るまではワシは戻って来ないようにしよう。なぁに、4、5日のことさ。そうすればあいつにも、誰のおかげで生きてられたのかが分かるだろう。

 バーブー・ウダイバーヌは立ち上がると、絹のショールを首に巻き、いくらかの現金を持ち、自分の身分証を取り出して別のシャツのポケットに入れ、杖を取って外に出た。使用人たちは皆、深い眠りに就いてた。犬は物音に気付いて立ち上がり、彼の後を付け出した。

 しかし、これが運命の悪戯の始まりだと誰が知っていただろう。人生劇場の非情な語り部は、どこか秘密の場所に座ってこの複雑で残酷な遊戯を淡々と語っていた。演技が本当になり、嘘が真実になりつつあることに、このとき誰が気付いていただろう。

 夜は月を打ち負かして自分の帝国を築き上げていた。夜の率いる悪鬼の軍勢は自然に攻撃を加えていた。正義は顔を覆って隠れ、悪は勝利に酔って練り歩いていた。森では獣たちが獲物を求めてさまよい歩き、町では悪鬼たちが路地をうろつき回っていた。

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールは早足でガンガー河の方へ向かっていた。彼は、自分の上着を河畔に置いて、5日間の旅程でミルザープルへ行こうと考えていた。ワシの服を見れば、ワシは入水自殺してしまったのだと誰もが信じることだろう。上着のポケットにはワシの身分証が入れてある。身元確認もこれで問題ないだろう。きっとたちまちの内に街中に知れ渡ることだろう。朝8時には街中の人々がワシの家の前に集まって来ることだろう、そのときあいつがどんな顔をするか、見ものだ。

 バーブー・ウダイバーヌ・ラールはそう考えながら路地を歩いていた。ふと、彼は背後に何者かの気配を感じた。多分誰か他に歩いている人がいるのだろう、と考え、そのまま気にせず歩いていたが、角を曲がると、背後の人影も同じ方向に曲がることに気付いた。ウダイバーヌ・ラールは誰かに尾行されているかもしれないと思い始めた。どうも嫌な予感がした。彼はとっさに携帯用のランタンを取り出し、背後に光を向けた。すると、一人の屈強な男が肩に棒を担いで歩いていた。ウダイバーヌ・ラールは彼の姿を見て恐怖で身がすくんでしまった。それは街でも鳴り物入りの悪党だった。3年前、その男は強盗の罪で裁判にかけられたことがあった。ウダイバーヌ・ラールはその裁判で政府側の弁護人を務め、その悪党を3年の禁固刑に処させた。そのときからその悪党はウダイバーヌ・ラールの命を狙っていたのだった。彼は昨日、刑務所から出てきたばかりだった。今日たまたまウダイバーヌ・ラールが夜中1人で出歩いているのを見つけ、借りを返すのにちょうどいい機会だと考えたのだった。おそらくこんないい機会は二度と巡って来ないだろう。すぐさま後を付け、今にも襲い掛かろうとしていたときに、ウダイバーヌ・ラールがランタンの光を向けたのだった。悪党は少し戸惑いながらも言った。「どうした旦那、オレを覚えてるかい?オレだよ、マタイーだよ。」

 ウダイバーヌ・ラールは叫んだ。「お前、ワシの後をどうして付けて来た?」

 マタイー「なにか、道を歩いちゃいけないってのかい?この路地はお前の親父のもんだってのかい?」

 ウダイバーヌ・ラールは若い頃、相撲をやっていたので、今でも筋骨たくましい体つきをしていた。心も臆病ではなかった。杖を握り直して言った。「まだおそらく刑務所暮らしに満足していないみたいだな。今度は7年ぶちこんでやるぞ。」

 マタイー「7年だろうが14年だろうが関係ない、確実なのは、オレがお前を生かしちゃおかねぇってことだけだ。そうだな、もしお前がオレの足元にひれ伏して、もう誰もブタ箱にぶちこまないと誓ったら、許してやってもいいぜ。どうだ、誓うか?」

 ウダイバーヌ「お前はまだ懲りてないと見えるな。」

 マタイー「オレは懲りちゃいないさ、今度はお前が懲りる番だ。さあ、答えろ、誓うか?ひと〜つ!」

 ウダイバーヌ「どこかに失せろ、さもないと警察を呼ぶぞ?」

 マタイー「ふた〜つ?」

 ウダイバーヌ「目の前から消えてなくなれ、悪党め!」

 マタイー「みっつ・・・」

 「みっつ」の声がした途端、ウダイバーヌ・ラールの脳天に棒が振り下ろされ、彼は気を失って地面に倒れてしまった。口からはただ、「ハーエ!叩きやがった!」としか声が出なかった。マタイーが近寄って見ると、頭は割れ、血が吹き出ていた。既に脈は止まっていた。マタイーはやり過ぎてしまったと悟った。彼は手首から金の腕時計を外し、上着から金のボタンを外し、指から指輪を外すと、まるで何事もなかったかのように来た道を引き返した。ただその前に、彼は遺体を道の真ん中から引きずって隅に寄せるくらいの憐れみは見せた。

 何てことだろう!哀れなウダイバーヌ・ラール、何を考えて家を出て、一体どうなってしまったのだろう。人生より空虚なものがこの世にあるだろうか?人生とは、風のひと吹きで消えてしまう灯りのようなものではないだろうか?水の泡は消えるまでに少しの間だけこの世に存在するが、人の一生にはそれだけの猶予もない!余命にどれだけの信頼を置くことができようか、それなのに我々はこの無常の人生の中でどれだけ多くの夢を築き上げることだろう?吸い込んだ息が吐き出されるかどうかも分からないのに、我々はまるで自分が不老不死であるかのように遠く未来のことまで考えを巡らせているものだ!

第3章

 未亡人の嗚咽と、後に残された子供たちの泣き声を聞かせて読者の心を悲しませるようなことは遠慮しておこう。不幸に陥った人々が泣き、嗚咽し、悶絶するのは何も今に始まった話ではない。もし読者が望むなら、カリヤーニーの精神的苦痛を少しだけ垣間見てみることにしよう。彼女は、自分の生活の支えだった夫を殺した張本人は自分であるとの自責の念に駆られていた。怒りに任せて自制を失った口から飛び出た言葉は、今では彼女の心に矢のように突き刺さっていた。もし夫が自分の胸の中でうめきながら息を引き取ったならば、自分は義務を果たしたと満足したことだろう。悲しみに沈んだ心にとって、それ以上に慰めになることはない。夫が死ぬ間際に心に愛情を満たしながら、自分に満足して死んでいったならば、妻にとってそれほど嬉しいことはない。カリヤーニーはその満足を得ることができなかった。彼女は考えていた――ああ!私の25年間の献身は水の泡になってしまった。私は最期に夫の愛から遠ざかってしまった。もしあの人にあんな厳しいことを言わなかったら、あの人は絶対に真夜中外に出るようなことはなかったでしょう。あの人は一体何を考えていたんでしょう?夫の心情を思い描き、自分の過ちを自分に押し付けながら、彼女は四六時中沈み込んでいた。あれほど子供たちに愛情を注いでいたカリヤーニーだったが、今では子供たちの姿を見るだけで激昂していた。子供たちのせいで私は自分の夫と口喧嘩する羽目になってしまった、子供たちは私の敵だわ。かつては役所のように人の行き交いが激しかった彼女の家は、今ではすっかり砂塵が飛び交っていた。全てが変わり果ててしまった。食べさせる者がいなかったら、食べる者はどうして暮らせようか?1ヶ月の内に、1人、また1人と、同居していた親戚は去って行ってしまった。水の恩は血で返すと口にしていた人々は、後ろも振り返らずに一目散に逃げ出してしまった。世界は全く変わってしまった。目に入れても痛くなかった子供たちの顔には、今ではハエがたかっていた。一体あの愛情はどこへ消え去ってしまったのだろう!

 悲しみが幾分和らいだ頃、ニルマラーの結婚が問題となって浮上した。今年中の結婚はやめておくべきだという意見を言う者がいた。カリヤーニーは言った。「これだけ時間をかけて準備してきたのに、今頃になって結婚を中止したら、今までの努力が無駄になってしまうわ。それに来年になったらまた同じ準備をしないといけないし、そんなことする余裕がそのときあるかも分からないわ。結婚はこのままするべきです。何も先延ばしする理由なんてありません。招待客のもてなしのための材料はもう準備してしまったし、延期にでもなったら大損です。」そして、花婿の父親のバールチャンドラに、訃報と共にその内容の伝言も送った。カリヤーニーは手紙の中に、「どうかこの父親を失った娘にお情けをかけて下さい、そして沈みつつある舟を岸まで渡して下さい。夫はこの結婚を楽しみにしておりましたが、神様は別のことをお考えだったようです。今、私の名誉はあなた1人にかかっております。娘は既にあなたのものです。私はあなたたちのお世話ができるのを自分の幸運だと思っております。けれども、もし、おもてなしに何か不足や手違いがありましたら、私の窮状に免じましてお許し下さるようお願い申し上げます。私は、あなたがこの哀れな娘に追い討ちをかけるようなことはしないと存じ上げております」と書いた。

 カリヤーニーはこの手紙を送るのに郵便は使わず、プローヒト(家庭付きの僧侶)に託して言った。「ご足労をかけて申し訳ありませんが、あなたがご自分で行ってこの手紙を渡して下さい。そして私の方から、結婚式の参列者をなるべく少なくするように頼んで下さい。うちにはもうそんな人手はいませんから。」プローヒトのモーテーラームはこの伝言を持って3日後にラクナウーに到着した。

 夕方だった。バーブー・バールチャンドラは、応接間の前で長椅子に丸裸で横たわって水タバコを吸っていた。彼は、長身で真っ黒な肌の色をした男だった。まるで大黒天か、またはエチオピアから連れて来られた黒人のようだった。頭の先から爪先まで黒一色だった。その顔の黒さは、額がどこで終わって頭がどこから始まるのか分からないほどだった。その姿はまるで炭が生き物になったかのようだった。そして彼は非常に暑がりだった。2人の召使いが扇を扇いでいたが、それでも汗の流れが止まることはなかった。彼は酒類取締局の重要な役職に就いており、毎月600ルピーの給料を得ていた。それに加え、酒屋から莫大な賄賂を受け取っていた。酒屋が酒の名のもとに水を売っても、24時間営業していても、バーブー・バールチャンドラの機嫌を伺っている内は何の問題もなかった。全ての法律は彼の享楽のためにあった。

 月夜の晩に彼を見た者は誰でもギョッとしてしまうほど、バーブー・バールチャンドラの形相は恐ろしかった。子供や女性はもとより、男であっても震え上がってしまうほどだった。月夜の晩、とわざわざ言ったのは、暗い夜には闇と一体化して見えなくなってしまうからである。ただ唯一、目だけが赤かった。信心深いイスラーム教徒が毎日5回礼拝をするように、バーブー・バールチャンドラは毎日5回酒を飲んでいた。ただで酒が飲めるのは役人の特権だが、その上彼は酒類取締局の局員なのだから、どれだけ飲んでも彼を捕まえる者はどこにもいなかった。喉が渇くと酒を飲んでいた。色には同系色があれば、対照色もある。目の赤色のおかげで、彼の黒肌はさらに恐ろしさを増していた。

 バーブー・バールチャンドラは、モーテーラームを見るや否や椅子から立ち上がって歓迎した。「あれ!あなたですか?さあ、来て下さい。よく来てくれました!おい、誰かいるか?どこへ行っちまったんだ、みんな!ジャグルー、グルディーン、チャカウリー、バヴァーニー、ラームグラーム、誰かいるか?みんな死んじまったのか?おい、ラームグラーム、バヴァーニー、チャカウリー、グルディーン、ジャグルー!誰も返事をしやしねぇ、みんな死んだんだ。十何人もいるのに、大事なときにゃ1人も姿を現さねぇ、一体みんなどこに消えちまったんだ。誰でもいいから椅子を持って来い!」

 バーブー・バールチャンドラは5人の名前を何度も繰り返したが、扇を扇ぐ2人の内の1人に椅子を持って来させることはなかった。3、4分後、1人の片目の男が咳き込みながらやって来て言った。「旦那様、こんな安賃金の仕事、腹の足しにもなりゃせん。どれだけ借金して食いつないでくのか!もう借金しても何も感じなくなっちまいました。」

 バールチャンドラ「つべこべ言わずに椅子を持って来い!何か仕事を言いつけると、すぐに泣き言わめきだしやがる。・・・それで、パンディトジー(僧侶に対する敬称)、向こうはみんな元気ですか?」

 モーテーラーム「何と言ったらいいのか、旦那様、誰が元気なものですか?家族は皆、地に堕ちてしまいましたよ。」

 そう言いかけたとき、先ほどの男が壊れかけた松材の箱をひとつ持って来て置き、言った。「椅子も机もワシの力じゃあ持ち上がりませんでした。」

 モーテーラームは恥じ入りながら、箱が壊れないかと恐る恐る腰を下ろした。そしてカリヤーニーの手紙を旦那に手渡した。

 バールチャンドラは、「もうこれ以上地に堕ちることがあるでしょうか?これより悪い不幸が他に起こるでしょうか?バーブー・ウダイバーヌ・ラールは私の古い友人でした。あれは人じゃない、宝石だ。なんて優しくて、なんて勇気のある人だったんでしょう」と言って目を拭い、さらに続けた。「私にとっては右手を失ったようなものです。信じて下さい、その訃報を聞いてからというものの、私の目の前は真っ暗になってしまいました。食べようとしても何も喉を通らないんです。彼の姿が四六時中目に浮かぶんです。口はもう何も受け付けなくなってしまいました。仕事も手につきません。兄弟が死んだとき以上の悲しみです。人じゃない、全く宝石でした。」

 モーテーラーム「旦那様、街にもうあんな偉人はいませんよ。」

 バールチャンドラ「それは私がよ〜く知ってますよ、パンディトジー、この私に何を言ってるんですか!私ほど彼のことをよく知っていた人は他にいません。2、3回会っただけで、彼の信者になってしまったんです。そして死ぬまで信者でいることでしょう。どうかカリヤーニーさんに伝えてください、私がお悔やみを申し上げていた、と。」

 モーテーラーム「あなたからその言葉をお聞きできると思っておりました。あなたのような素晴らしい人に出会うことはなかなかできないでしょう。今どき誰がダウリーなしで結婚をしましょうか。」

 バールチャンドラ「モーテーラームさん、ダウリーの話をあのような真っ正直な人の前ですることなんてできませんよ。あの人と縁を結ぶことができるだけでも10万ルピーの価値があります。私はそれを自分の幸運だと思っています。ああ!なんて素晴らしい人だったのでしょう。あの人はお金にまったく無頓着な人でした、藁と同じように気にもかけていませんでした。何て悪い習慣でしょう、何て悪い!もし許されるなら、ダウリーを求める者も与える者も、両方を殺してしまいたい気持ちですよ、たとえ首吊りになったとしても!息子の結婚をさせてるのか、息子を売り払ってるのか、はっきりしてもらいたいですね。もし自分の息子の結婚式のためにお金を費やしたいなら、好きなように費やせばいいんですよ。ただし、何をするにも自分のお金で。花嫁の父親の胸倉を掴むような行為は許せません。卑劣な、非常に卑劣な行為です。もし許されるなら、この悪習をこの世からなくしてしまいたいと思っています。」

 モーテーラーム「なんと素晴らしいご意見で、旦那様!神様があなたに大いなる知恵をお授けになったに違いない。これはひとえに信仰の力でしょう!奥様は、結婚式の日取りはそのままにしたいとお考えです。他の諸々のことも手紙に書いてあります。今、あなたの手助けがなければ、我々は救われません。バーラート(花婿側招待客)のもてなしは私たちがいたしますが、今、状況は大きく変わってしまいました、旦那様、もてなしの主がいなくなってしまったのです。どうか、ウダイバーヌさんの名前に泥がつくようなことはなさらないで下さい。」

 バールチャンドラは1分間目を閉じて座っていた。そして長い溜息をつきながら言った。「神様は、このラクシュミー女神(富の女神;花嫁の比喩)が私の家にやって来ることをお望みにならなかったのでしょう。そうでなければこんな不幸、起きるでしょうか?全ての計画は水泡に帰してしまいました。めでたき日が近づいて来るたびに、喜びに胸を躍らせていましたのに、神様の間でこんな結末が決められていたとは、私は知りもしませんでした。亡くなってしまった人のことを思い出すだけで涙が出てきてしまいます。花嫁を見たら悲しみが蘇ってしまうでしょう。このような状態で私は何をすることができるでしょう。一度深い仲になった人のことが忘れられないのは、いいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。とにかく今でもあの人の姿が目の前から離れないのです。こんなときにあの娘が私の家にやって来たら、私は生きることが難しくなってしまいます。本当に、私の目は涙で潰れてしまうでしょう。泣くのは無意味だと分かっています。死んでしまった人はもう二度と戻って来ません。耐え忍ぶ以外に方法はありません。しかし私の心はすっかり弱ってしまいました。あの哀れな娘を見たら、私の心は破裂してしまうでしょう。」

 モーテーラーム「そんなことおっしゃらないで下さい、旦那様!ウダイバーヌさんがいなくても、あなたがいるではありませんか。今やあなたがあの娘の父親なんです。あの娘はもはやウダイバーヌさんの娘ではなく、あなたの娘なんです。あなたの気持ちを誰が理解するでしょうか。世間の人々は噂するでしょう、ウダイバーヌさんが死んでしまったから、あなたは約束を反故にした、と。そうなったらあなたの不名誉になります。気をしっかり持って、無邪気な少女の結婚をさせて下さい。確かに大きな不幸が起きてしまいました。数え切れないほどの困難が降りかかってきていますが、奥様はあなたたちのお世話をするのを楽しみにしているのです。」

 バーブー・バールチャンドラは、モーテーラームが頭でっかちの僧侶ではなく、行儀作法にも長けた人物であることを理解した。彼は言った。「パンディトジー、私は誓って言いますが、自分の娘以上にあの娘のことを愛しています。しかし、神様がお望みでないのに、私が何をすることができましょう?この死は、神様によって指し示された、いわゆる凶兆です。これは来たるべき困難の予言です。神様ははっきりと、この結婚は吉祥ではないとおっしゃっています。このような状況において、あなたも少し考えてみて下さい、不幸から始まったものがめでたく終わることがありえるでしょうか?いえ、訳もなくハエを飲み込むようなことは起こりえません。どうかカリヤーニーさんにこう伝えて下さい、私はあなたの命令に従う準備はできていますが、その結果は好ましくないでしょう、私は自分のわがままのために、親友の娘に対して酷い仕打ちをすることはできません、と。」

 この理屈に対してモーテーラームは返答することができなかった。バールチャンドラは、矢じりのない矢を放ったのだった。敵はモーテーラームの武器を使って彼を攻撃したのだった。そして彼はそれに反撃することができなかった。彼が答えを考えていると、バールチャンドラはまた召使いを呼び始めた。「おい!お前たち、どこに消えちまったんだ!ジャグルー、チャカウリー、バヴァーニー、グルディーン、ラームグラーム!1人も返事をしねぇ。みんな揃って死んじまった。パンディトジーのために水も持って来ねぇのか?一体こいつらにどこまで教えれば分かるんだ。言ったことのひとつも覚えやしねぇ。客人が遠くからくたくたになってやって来たのを見てるのに、誰も気にしねぇとはな。おい、飲み物持って来い!パンディトジー、あなたのためにシャルバト(甘い飲み物)を作らせましょうか、それとも果物のミターイー(お菓子)がいいでしょうか?」

 モーテーラームは、ミターイーについては何の禁忌も持っていなかった。彼の理論では、ギー(純油)によって全ての食べ物は浄化されるのだった。ラスグッラー(お菓子の一種)と、ベーサン粉(豆の粉)でできたラッドゥー(お菓子の一種)が大好物だった。しかしシャルバトは好みではなかった。飲み物で腹を膨らませるのは彼の信条にそぐわなかった。モーテーラームは遠慮しながら言った。「シャルバトは飲まないんです、ミターイーをいただきしょう。」

 バールチャンドラ「果物のミターイーですよね?」

 モーテーラーム「いえいえ、何でもお構いなく。」

 バールチャンドラ「そうですよね。浄不浄なんてみんなまやかしです。私もそんなことは信じていません。おい、まだ誰も来てないのか?チャカウリー、バヴァーニー、グルディーン、ラームグラーム、誰か返事しろ!」

 今回も例の年老いたカハール(小間使いカースト)が咳をしながらやって来て言った。「旦那様、ワシの給料をください。こんな仕事、もうこりごりですじゃ。どんだけ走り回ったことか?走って走って足が痛くなっちまいました。」

 バールチャンドラ「仕事しようがしまいが、給料だけは先に欲しがるんだな。一日中横になって咳き込んでるだけで、給料が上がると思ってるんだな。行って、市場から1アーナー(貨幣の単位;1/16ルピー)の新鮮なミターイーを買って来い!走って行け!」

 小間使いに命令を出した後、バールチャンドラは家の中へ入って妻に言った。「向こうからパンディトジーがやって来たぞ。この手紙を持って来た。ちょっと読んでみろ。」

 妻の名前はランギーリーバーイーと言った。白い肌をした明るい顔の女性だった。美しさと若さは彼女から別れを告げる時期に来ていたが、それらは30年間の友情を忘れられないかのように、なかなか彼女を離れずにいた。

 座ってパーン(噛みタバコ)を作っていたランギーリーバーイーは言った。「ちゃんと言ったでしょうね、私たちはあの家と結婚するのは反対だって。」

 バールチャンドラ「ああ、言ったさ、しかしためらいがあってなかなか言葉が出なかった。あることないこと屁理屈をこね回さなきゃならなかったよ。」

 ランギーリー「当然のことを言うのにためらう必要なんてある?私たちの返答は、結婚はしない、ということ。誰かから何か受け取ったわけでもないでしょう?しかも他の家から1万ルピーのダウリーがもらえる話が来てるのに、あの家と誰が結婚するものですか?あの家の娘が金でできてるわけでもないでしょうに。ウダイバーヌさんが生きてれば、こっそりと1、2万ルピーは出してたでしょう。でも今、あの家に何が残ってるって言うの?」

 バールチャンドラ「だからと言って、一言の言い訳もせずに約束を破るのはよくないだろう。誰も何も言わなかったとしても、名誉が汚されることは避けられない。しかしお前のわがままには参るよ。」

 ランギーリーバーイーはパーンを食べながら手紙を開き、読み始めた。バールチャンドラはヒンディー語が全く読めなかった。ランギーリーバーイーも本を読んだことなど一度もなかったが、手紙くらいは読むことができた。一行目を読むや否や彼女の目には涙が溢れ、手紙を読み終えたときには彼女の目から止めどもなく涙が流れ落ちていた。ひとつひとつの単語が悲哀の情に満ちていた。ひとつひとつの文字から失意が漏れ出していた。ランギーリーバーイーの心は石ではなく、ロウでできていた。小さな火でも溶けてしまうほど脆弱だった。カリヤーニーの憐憫の情溢れる文章は、彼女の高慢な心を溶かしてしまった。声を詰まらせながら彼女は言った。「まだパンディトジーはいるわよね?」

 バールチャンドラは妻の涙を見て焦っていた。妻に手紙を見せてしまったことを後悔していた。そんな必要なかったじゃないか?こんな失敗は今まで一度もしたことがなかった。口ごもりながら答えた。「まだいるかもしれんが、ワシは帰るように行ってしまったよ。」

 ランギーリーは窓から外を覗いた。モーテーラームはシラサギのように真剣な顔をして、市場の方を注視していた。空腹に苛立って、何度も何度も足を組み直していた。「1アーナーのミターイー」という言葉は、彼の期待を裏切るのに十分だった。その上、この遅れは何だ?居ても立ってもいられなかった。モーテーラームが座っているのを見て、ランギーリーは言った。「まだいるわ。すぐに行って伝えてちょうだい、私たちは結婚するって。可哀想に、カリヤーニーさんは不幸のどん底にいるわ。」

 バールチャンドラ「お前も時々子供のようなこと言い出すな。今さっきパンディトジーに結婚は無理だと言って来たんだ。そのために長い長い話を言って聞かせたんだぞ。今さらそんなことを言ったら、パンディトジーが心の中でどう思うか、考えてもみろ。これは結婚なんだ。子供の遊びじゃない。一度言ったことをすぐさまやすやすと変えるわけにはいかないんだ。気まぐれでものを言うんじゃない!」

 ランギーリー「分かったわ、あなたは言わなくていいわ。あのパンディトジーを私のところへ呼んでちょうだい。私が、あなたの言ったことも私の言ったことも筋が通るように話をするから。それならいいでしょう?」

 バールチャンドラ「お前は、自分以外はみんな間抜けだと考えてるのか?お前が言おうがワシが言おうが、同じことだ。一度決まったことはもう変えられないんだ。ワシはもうこの問題を口にしたくない。あの家と結婚したくないと何度も何度も言っていたのはお前だろう。お前のせいで、ワシは約束を破らなきゃならなくなったんだ。それなのに今頃になってお前は心変わりしてやがる。それはワシに向かって豆を投げつけるようなもんだ。ワシの名誉不名誉について少しは考えるべきだ。」

 ランギーリー「未亡人がこんなにも憐れなものだと私は知らなかったのよ。あなたが言ってたじゃない、カリヤーニーさんは旦那の全ての財産を隠し持っているのに、貧乏の振りをしてうまく事を運ぼうとしているって。あの人は素晴らしい女性だわ。私はあなたの言ったことを鵜呑みにしただけよ。いい返事をした後に悪い返事をするなら、恥とためらいがあって然るべきだわ。でも悪い返事をした後にいい返事をするのに何をためらう必要があるの?もしあなたが結婚を承諾して来て私がそれを拒否するように言ったなら、あなたのためらいは正しいでしょう。でも、結婚は無理だと言った後にやっぱりできると言うのは寛大なことだと思うわ。」

 バールチャンドラ「お前は寛大さを知っていて、ワシは悪行しか知らないってことか。しかもお前は、ワシがあの弁護士の女房について言ったことが嘘だとどうやって知ったんだ?この手紙を見てか?お前は自分と同じように他の人間もみんな単純だと思ってるみたいだな。」

 ランギーリー「この手紙は作り話とは思えないわ。作り話は心に突き刺さりはしないもの。作り話には、偽物のにおいが絶対にするものよ。」

 バールチャンドラ「作り話は、本当の話がつまらなく思えるほど心に突き刺さるもんだ。お前を何時間も泣かせるような小説を書く小説家の奴らが、本当の話を書いてるとでも思ってるのか?最初から最後まで嘘を並べ立ててるだけだ!ひとつの詐欺さ。」

 ランギーリー「そんなに怒って、まるで産婆を見て腹を隠してるみたいね。あなたの言うことを私が素直に聞いたら、私をだまくらかしたとでも考えるんでしょう。でも私はあなたのことなんて全部お見通しだから。あなたは自分の間違いを私になすりつけて、自分は無傷でいようと考えてるんでしょう、どう、図星でしょう?ウダイバーヌさんが生きてたときには、どうせ何も言わなくてもよかれと思うだけ出すだろうから、ダウリーの金額を決定する必要なんてない、あわよくば金額を決めるよりも多くのお金がもらえるだろうって考えてたんでしょう。ウダイバーヌさんが死んでしまったら、急いであれこれ言い訳を考え始めて。それは寛大でも何でもなく、卑劣な行為よ。その罪は全てあなたにあるわ。私はもう結婚のことは関与しないから、あなたがしたいようにすればいいわ。私はずるい人間が一番嫌い。いい話でも悪い話でも、話をするときは正々堂々とするべきだわ。象の牙だけ見せておいて、食べさせるものは別、という振る舞いは、あなたのためにもならないでしょう。さあ、あの家と結婚するつもりなの、どうなの?」

 バールチャンドラ「ワシは不正直者で裏切り者で嘘つきってわけか、そんなワシに何を聞くか!それにしてもお前は男のことを何でも知ってるんだな。お前の知識には頭が上がらないよ。くわばらくわばら。」

 ランギーリー「まぁなんて腰が低いこと、それでもまだ恥じ入ってないみたいね。正直に言いなさいよ、私の言ったこと図星かどうか!」

 バールチャンドラ「分かった分かった、今までワシは、男のことをよく理解しているのは売春婦だけで、普通の女の考えることはとても視野が狭いと思っていたが、今日、偉人たちが女のことについて言ったことを受け容れないといかんと思い始めたよ。」

 ランギーリー「あら、ちょっと鏡で自分の顔を見てみて!どれだけ恥じ入っているか、一目見てごらんなさいよ。」

 バールチャンドラ「そうか、そんなに恥じ入って見えるか?」

 ランギーリー「まるで聖人が泥棒して捕まったときの表情ぐらい、恥じ入ってるわ。」

 バールチャンドラ「そうか、ワシがどれだけ恥じ入ってるかはどうでもいい、だがあの家との結婚はしない。」

 ランギーリー「私に構わず、好きなようにして下さい。でも、ブヴァンに一度聞いてみたらどうかしら?」

 バールチャンドラ「それはいい考えだ。ブヴァンが決めればいい。」

 ランギーリー「でも口出ししちゃいけないわよ。」

 バールチャンドラ「分かってるさ、ワシは黙ってるだけだ。」

 そのときちょうど、ブヴァンモーハンがやって来た。彼ほどハンサムで体格のいい若者は、大学にも他にほとんどいなかった。完全に母親似であった。母親と同じ白く明るい肌、母親と同じバラの葉のような細い細い唇、母親と同じ小さな額と大きな目、ただ体格だけが父親似であった。長いコート、ネクタイ、ブーツ、帽子がとても似合っていた。手にはステッキを持っていた。その足取りは若さを誇り、目は自尊心に満ちていた。ランギーリーは言った。「今日は遅かったじゃない。ほら、お前の花嫁の家からこんな手紙が来たよ。お前の嫁の母親が書いたのよ。正直に言いなさい、まだ何とかなるから。お前はこの家との結婚に満足かい?」

 ブヴァン「結婚すべきだとは思うけど、僕はしたくない。」

 ランギーリー「どうして?」

 ブヴァン「どこかお金がたくさんもらえるところと結婚させて欲しい。10万ルピーもらえるならそこがいい。今、あの家には何もないよ!ウダイバーヌさんは死んでしまったし、あの婆さんの手元に何が残っていると言うの?」

 ランギーリー「お前はそんなこと言って恥ずかしくないのかい?」

 ブヴァン「恥ずかしがる理由なんてないよ。お金には何の害もない。10万ルピーものお金、10万回生まれ変わっても稼ぐことはできないだろう。今年大学に受かったら、少なくとも5年はお金を稼ぐことができない。卒業後は、2、300ルピーの月給で働くことになる。そして給料が5、600ルピーまで上がったときには、僕の人生の4分の3は過ぎてしまっている。つまり、もう二度とまとまったお金を手にする機会はやって来ない。これでは少しも人生を楽しむことができない。もし金持ちの娘と結婚することができたら、人生は安泰でしょ。僕は多くを望まないから、10万ルピーのお金がもらえる家と結婚するか、もしくは大金持ちの未亡人の一人娘と結婚したいな。」

 ランギーリー「どんな女の子でもいいのかい!」

 ブヴァン「富は全ての欠点を覆い隠すものだよ。僕はどんな悪口も気にしない。よく乳を出す牝牛の蹴りを悪く思う人はいないように。」

 バールチャンドラは得意気になって言った。「ワシらはあの家族に同情しているし、神様がこんな不幸に貶めたことを悲しく思う。だが、何事も理性を働かせて決めなきゃいかん。ワシらがどんなに同情しても、バーラートは大勢来るだろう。だがあの家は食べ物の用意すらおぼつかない有様だ。食べ物がなかったらみんなに笑われるだろう、そして惨めな結果に終わるだろう。」

 ランギーリー「あなたたち、父親も息子もお金のことしか目にないのね。2人ともあの貧しい少女にナイフを投げつけるのに何のためらいもないのね。」

 ブヴァン「貧乏人は、貧乏人と結婚するべきだよ。きちんと自分の立場をわきまえて・・・」

 ランギーリー「黙りなさい、お前こそ立場をわきまえなさい!どこの金持ちの御曹司になったの?誰かが戸口まで来たら、一杯の水を出すのは当然よ。全く何様のつもり!?」

 ランギーリーはそう言って立ち上がり、食事の支度をしに行ってしまった。

 ブヴァンモーハンは微笑みながら自分の部屋に入った。バールチャンドラは髭を整えながら外に出て、モーテーラームに最終決断を知らせようとした。ところがモーテーラームはどこかへ消えてしまっていた。

 モーテーラームはしばらくの間、カハールが帰って来るのを待っていた。だが、なかなか帰って来ないので、我慢ができなくなってしまった。彼は、こんなところに座っていても何も変わらない、何かしないといけない、自分の運を信じてここに座り続けていたら、空腹で餓死してしまう、と考えた。ここではワシの目的は達成されない!モーテーラームは黙って杖を取ると、カハールが行った方向へ歩いて行った。市場は少し遠かったが、すぐに辿り着いた。見ると、老いたカハールは菓子屋に座ってチラム(煙管)を吸っていた。彼を見つけると、モーテーラームは馴れ馴れしく話しかけた。「まだ何もしてないのか?旦那が家で、どっかで寝てるのか、それとも椰子汁でも吸ってるのかって怒ってたぞ。ワシは、『旦那様、そうじゃないでしょう、もう老人ですし、そろそろ来ることでしょう』って言っておいたぞ。あんたも本当に変な人だ。あんな人のところでよく働けるなぁ。」

 カハール「ワシを除いて他に誰も長続きしたことなんかありゃせんし、誰も長続きせんじゃろう。1年間給料をもらってないし、旦那は誰にも給料を払わないんじゃ。給料を求めたらすぐにお冠じゃし、みんな仕事をおっ放り出して逃げちまうんじゃ。扇を扇いでたあの2人は、政府の使用人じゃよ。政府から2人の使用人が手に入ったもんだから、のんびり暮らしてるんじゃよ。ワシも長いものに巻かれて過ごしてるんじゃ。10年経ったけど、このまんま1年2年また過ぎるでしょうな。」

 モーテーラーム「ということは、お前1人なのか?何人も他のカハールの名前を呼んでたじゃないか。」

 カハール「みんなここ2、3ヶ月の内に来て、辞めてった奴らですよ。旦那は威厳を見せるために今でも辞めた奴らの名前を呼んでるんですじゃ。どっかにいい働き口があるなら、すぐ行きますよ。」

 モーテーラーム「ああ、いっぱい仕事があるぞ。今の世の中、カハールを見つけるのは難しくなってしまった。お前は経験豊かに見える。お前なら仕事に困らないだろう。ここなら若いもんもいないだろう。旦那はワシに聞いて来たよ、『夕食はキチュリー(豆ご飯)にしましょうか、バーティー(炭火焼のパンケーキ)にしましょうか』って。ワシはこう答えたよ、『旦那様、カハールはもうお年寄りです、夜中に私のためにご飯を作るのは辛いでしょう。私は市場で何か食べて来ます。どうかお構いなく』と。そうしたら旦那様は、『分かりました。きっと店にカハールがいるでしょう』と言ったよ。」そう言うと彼は菓子屋に向かって言った。「おやっさん、何かうまいもんあるかい?ラッドゥー(お菓子の一種)なんてうまそうじゃないか。1セール(約1kg)よそってくれ。上に上がろうかい?」

 そう言ってモーテーラームは菓子屋に座り込み、ラッドゥーを食べ始めた。そしてお腹いっぱいになるまで食べ続けた。2、3セールは平らげてしまった。食べながら、菓子屋の賞賛を惜しまなかった。「あんたの店の評判を聞いてたが、全くその通りだった。カラーカンド(お菓子の一種)は作れても、バナーラスのラスグッラーは真似できないと言うが、なかなかどうして悪くなかったよ。材料を放り込むだけじゃあいいものは作れない、知恵が必要なのさ。」

 菓子屋「もっと食べて下さいな、旦那!このラブリー(甘い濃縮ミルク)はサービスです、飲んで下さいな。」

 モーテーラーム「もう満腹だが、せっかくだ、1パーオ(約250g)だけくれ。」

 菓子屋「1パーオだけじゃ味が分かりませんよ。絶品ですから、半セール(約500g)飲んで下さいな。」

 モーテーラームは腹一杯食事をして、少しの間、その辺を散歩していた。9時になって店まで戻ってくると、もう店は閉まって静まり返っていた。ただランタンがひとつ燃えていただけだった。彼は適当な台に敷物を敷いて、横になった。

 朝になり、いつもの通り8時に目を覚ますと、バールチャンドラが散歩しているのが目に入った。バールチャンドラはモーテーラームを見つけると、慇懃に挨拶をして言った。「パンディトジー、昨夜はどこへ行ってしまったんですか?私は真夜中まであなたを待っていたんですよ。食事も用意していたんですが、あなたが来なかったので片付けさせてしまいました。昨夜は何か食べましたか?」

 モーテーラーム「菓子屋で食べて来ましたよ。」

 バールチャンドラ「あれ、プーリー(揚げパン)やミターイーをいくら食べても、バーティーやダール(豆カレー)のうまさにはかないませんよ。10アーナー(10/16ルピー)ほど食べても、お腹は膨らまなかったでしょう。あなたは私の客人です。いくらかかったかおっしゃって下さい、私が払います。」

 モーテーラーム「あなたの顔馴染みの菓子屋で食べました。ほら、あの角にある。」

 バールチャンドラ「いくら払いましたか?」

 モーテーラーム「あなたの付けにしておきました。」

 バールチャンドラ「どれだけミターイーを食べたか教えて下さい。そうでないと後からぼったくられますから。連中は強盗みたいなもんですよ。」

 モーテーラーム「確か2.5セールのミターイーと、半セールのラブリーでした。」

 バールチャンドラは自分の耳を疑った。彼は目を見開いてパンディトジーを凝視した。彼の家では、1ヶ月合わせても3セールものミターイーを食べたことなどなかった。それなのにこのパンディトジーと来たら、一度に4ルピーものミターイーを平らげてしまったのだ。もしあと半日でも居座られたら、何もかも食べ尽くされてしまうだろう。一体この人の腹は、腹なのか、それとも悪魔の墓なのか?3セール!信じられない!バールチャンドラは慌てて家に帰り、ランギーリーに言った。「おい、聞いたか、あのパンディトジー、昨日、3セールのミターイーを平らげちまったみたいだぞ。まるまる3セール!」

 ランギーリーバーイーは驚いて言った。「本当ですか!3セールものミターイーをどうやって食べるんですか!牛の話ですか?」

 バールチャンドラ「自分の口で3セールと言ったんだ。4セール以上食ったかもしれん、まるまる4セール!」

 ランギーリー「お腹に悪魔でも住んでるんですか?」

 バールチャンドラ「今日もここに泊まったら、6セールは食べ尽くすだろう!」

 ランギーリー「今日ここに泊まることなんてないわ、手紙の返事をして、すぐに帰して下さいな。もしもう一泊したいと言ったなら、はっきりと言って下さい、私たちの家ではミターイーはただで出てこない、何か他に用事があるならすぐに言って、ないならすぐに帰るようにって。あんな食いしん坊に食べ物を食べさせて解脱が得られる人たちがいるなら、その人たちに食べさせておけばいいんです。私たちにそんな解脱は必要ありません。」

 しかし、モーテーラームは元からもう帰ろうと思っていた。おかげでバールチャンドラは彼をうまく説得する苦労をせずに済んだ。バールチャンドラは彼に聞いた。「何の用意をしてるんですか、旦那?」

 モーテーラーム「ああ、旦那様、私はもう帰ります。9時の列車に間に合うでしょうね?」

 バールチャンドラ「今日も泊まって行って下さいよ。」

 そう言いつつも、バールチャンドラはもしかしてモーテーラムが本当にもう一泊することがあるかもしれないと不安になり、そのまま言葉を続けた。「そうですね、向こうでも皆さんがあなたの帰りを待っていることでしょう。」

 モーテーラーム「1日2日はどうってことありません。私もトリヴェーニー河で沐浴してから帰ろうと思っていました。しかし、悪く思わないで下さい、あなたたちはブラーフマン(バラモン)を少しも尊敬していません。ブラーフマンからの命令を待ち、命じられたことを何でもする人こそが信心深い人なのです。私たちがそのような人たちの家に行くと、彼らはそれだけで幸運と感じ、老いも若きもみんな集まって私たちのもてなしを一生懸命してくれます。私たちに対する尊敬がない場所に留まるのはひと時でも耐えられません。ブラーフマンに対する尊敬のない場所に、吉祥は訪れないでしょう。」

 バールチャンドラ「私たちはそんな不敬はしていません。」

 モーテーラーム「不敬はしていないって!それでは不敬とは何を言うのですか?今さっき、あなたは家の中で、『あのパンディトジーは3セールのミターイーをまるまる平らげてしまった』と言っていたじゃありませんか。しかもあなたはどこで食べてるところを見たんですか?一度食べさせてくれれば目が覚めるでしょう。私たちは、菓子屋一軒まるごとミターイーを食べても、ゲップすらしない偉大な力を持っています。私たちは、ミターイーを食べるよう頼まれることすらあるのです。私たちはあなたの戸口に立ち尽くす乞食僧ではありません。あなたの評判を聞いてやって来たのです。しかし、この家で腹を空かせる羽目になるとは思ってもいませんでした。どうか神様のご加護がありますように!」

 バールチャンドラは口から何も言葉が出ないほど恥じ入ってしまった。今までの生涯、こんな厳しい言葉を浴びせかけられたことは一度もなかった。彼は苦しい言い訳を言って弁解した。「あなたのことを言っていたのではありません、他の御仁のことを言っていたんです。」しかし、パンディトジーの怒りは収まらなかった。彼は全てを耐え忍ぶことができたが、自分の腹に対する批判を黙って聞き過ごすことはできなかった。女性が容姿について悪く言われるのを嫌う以上に、男性は自分の腹の批判を嫌うものだ。バールチャンドラは何とか彼の怒りを静めようとしたが、それはもう収まりきらないほどになっていた。バールチャンドラのあさましい本性を覆っていたヴェールが明かされてしまったのは疑いもなかった。今はそのヴェールをまた何とか覆い直す必要があった。自分のあさましさを隠すためのいい言い訳は思い付かなかったが、これから起こるであろうことは次々に頭に浮かんで来た。どうして家でこいつの話をしてしまったんだろう、しかもあんな大声で、こいつは壁に耳を付けて聞いてやがったんだ、と後悔していた。だが、後悔したところで何の得があろうか!こんな不幸に見舞われるなんて、どの疫病神に取り付かれてしまったんだろう。もし今、怒ったまま立ち去ってしまったら、こいつは向こうへ行ってワシの名誉を汚すだろう、そしてワシの全てがばれてしまうだろう。今、こいつの口を閉ざしておかなけりゃいかん。

 そう考えながら、バールチャンドラはランギーリーバーイーに言った。「あいつ、ワシとお前の会話を聞いてやがった。怒って帰ろうとしてる。」

 ランギーリー「もし戸口に立ってるって知ってるんだったら、どうして小声で言わなかったの?」

 バールチャンドラ「不幸は一人じゃやって来ないもんさ。戸口で聞き耳立ててるなんて、全く知らなかったんだ。」

 ランギーリー「一体誰の呪いでしょう!」

 バールチャンドラ「あいつ、家の前に寝転がってたんだ。知ってたら、そっちを見もしなかったのに。こうなってしまったら、あいつに何かやって黙らせるしかない。」

 ランギーリー「もう放っておきなさいよ。あの家と結婚しないなら、何の関係もないじゃありませんか。言いたいだけ言わしておけばいいでしょう。」

 バールチャンドラ「そういう訳にもいかん。仕方ない、10ルピー、選別にやって来る。神様、もうあの疫病神と二度と会わせないで下さい。」

 ランギーリーはぶつくさ言いながら10ルピーを取り出した。バールチャンドラはそれを持ってパンディトジーの足元に置いた。モーテーラームは心の中で言った。「吝嗇家の選別か、一生忘れないほど大した額を投げ出すじゃないか!10ルピー渡してワシの機嫌を取ろうってわけだな。その手には乗らんぞ。お前のことはよく分かったからな。」そして、彼はお金をポケットに入れて、祝福を与えて行ってしまった。

 バールチャンドラはずっとその場に立って考えていた―― 一体今でもワシのことを守銭奴だと思っているだろうか、それともヴェールは覆われただろうか。このお金が無駄にならなきゃいいのだが・・・。

第4章

 カリヤーニーは大きな問題に直面していた。夫の死後、彼女は自分の家の財政的窮状を初めて身をもって感じていた。貧しい未亡人にとって、年頃の娘が家に残っていることほど大きな問題が他にあるだろうか?息子たちを裸足で学校へ行かせることもできるし、食器の後片付けを自分ですることもできる。質素な食事をしても生きていくこともできるし、掘っ立て小屋に住むこともできる。しかし、年頃の娘をいつまでも家に置いておくことはできない。カリヤーニーはバールチャンドラの裏切りに激怒した。自ら出向いて行って彼の顔に泥を塗ってやろうか、頭髪をむしり取ってやろうか、それとも、お前は一度口にしたことを守らなかったから父親の息子じゃない、と罵ってやろうか、と考えていた。パンディト・モーテーラームは、バールチャンドラの舌先三寸をそのまま言って聞かせたのだった。

 カリヤーニーが怒りに身体を震わせていたときに、クリシュナーが遊びながらやって来て言った。「いつバーラート(花婿のパレード)が来るの、お母ちゃん?パンディトジー(僧侶に対する尊称)はもう来たの?」

 カリヤーニー「バーラートなんて来ないわ。」

 クリシュナー「チャンダルが言ってたわ、2、3日でバーラートが来るって。違うの、お母ちゃん?」

 カリヤーニー「もう言ったでしょ、お母さんを困らせないで。」

 クリシュナー「みんなの家にバーラートは来るのに、私たちの家にはどうして来ないの?」

 カリヤーニー「お前の家に来ることになってたバーラートの家が火事になってしまったんだよ。」

 クリシュナー「本当、お母ちゃん?おうちが全部燃えちゃったでしょうね。今、どこに住んでるんでしょう?お姉ちゃんはどこに住むんでしょう?」

 カリヤーニー「お前は馬鹿だね、何も分かってないわ。火事になっちゃったから、もう私たちとは結婚しないのよ。」

 クリシュナー「どうして、お母ちゃん?もう決まってたのに?」

 カリヤーニー「たくさんお金をくれって言って来たのよ。私たちはそんなお金持ってないでしょ。」

 カリヤーニー「とっても欲張りなの、お母ちゃん?」

 カリヤーニー「欲張りじゃなかったら何なんでしょう!血も涙もない裏切り者!」

 クリシュナー「それならお母ちゃん、とってもよかったわ。そんな人の家にお姉ちゃんが結婚せずに済んだんだもの。お姉ちゃんがそんな家にどうして住める?これってとっても幸せなことじゃない、お母ちゃん、それなのにどうしてそんなに怒ってるの?」

 カリヤーニーは、娘を愛情たっぷりの視線で見つめた。クリシュナーの言ったことはなんて正しいんでしょう!こんな無邪気な言葉の中に、困難を解決するこれほど深い洞察力があるなんて!本当にこれは幸せなことだわ、そのような悪人と婚姻関係にならずに済んだのだから。怒る必要なんてないわ。あんな酷い人たちの中に住むことになっていたら、ニルマラーはどうなっていたことでしょう。自分の運命を呪ったことでしょう。ダール(豆カレー)の中に少しギー(純油)を多く入れてしまっただけで、家中に怒声が響いていたことでしょう。少し食べ物をたくさん作ってしまっただけで、義父は目を吊り上げていたことでしょう。花婿も同じように欲張りでしょう。本当に結婚が中止になってよかったわ、そうでなかったら、ニルマラーは一生泣き暮らすことになっていたわ。立ち上がったカリヤーニーは、心が軽くなっているのを感じた。

 しかしどうしても今年中に結婚式を挙げなければならなかった。もし今年できなかったら、来年また一から準備を始めなければならなくなる。今や良家を探す必要はなかった。いい花婿を見つける必要もなかった。未亡人の家が、どうして良家のいい花婿と縁談を結ぶことができようか?今や、何とかして肩の重荷を下ろさなければならなかった。何とかして娘を向こう岸まで渡さなければならなかった――娘を井戸に投げ込む覚悟をしなければならなかった。ニルマラーは美しく聡明な女の子だったが、そんなことは関係なかった。ダウリー(持参金)さえあれば、どんな欠点も長所になるのだ。花嫁自身の価値など微塵もない、ただダウリーの価値だけがあるのだ。なんと惨い世の中なのだろう!

 カリヤーニーにも大きな落ち度があった。女性は、未亡人になることでその欠点の埋め合わせをすることはできない。彼女は、娘よりも息子をあからさまに可愛がっていた。息子たちは畑を耕す牡牛だ。牡牛たちには飼料を先に食べる権利があった。そして牡牛たちが食べ残した飼料を牝牛が食べるのだ。家もあり、金もあり、数千ルピー相当の宝飾品もあったが、息子たちの教育が最優先だった。もう1人の娘も、あと4、5年したら結婚させなければならなくなるだろう。だから、カリヤーニーはダウリーのために大金を費やすつもりはなかった。息子たちのためにも何かを残しておかなければならなかった。もし娘の結婚に金を使い果たしてしまったら、息子たちはどう思うだろうか?

 パンディト・モーテーラームがラクナウーから戻って来てから15日が過ぎていた。戻って来た翌日、彼は花婿を探しに出掛けた。彼は、ラクナウーの奴らにお前らだけが世界中で唯一の結婚相手ではなく、他にもたくさんいるということを見せ付けてやる、と誓っていた。カリヤーニーは毎日毎日モーテーラームの帰りを待ち焦がれていた。なかなか帰って来ないので、彼女は今日こそモーテーラームに手紙を書こうと思い、筆とインクを取り出して座っていた。そこへちょうどモーテーラームがやって来た。

 カリヤーニー「お待ちしてました、パンディトジー(僧侶に対する敬称)、ちょうどあなたに手紙を書こうとしていたところです。いつ戻って来たんですか?」

 モーテーラーム「戻って来たのは今朝だったが、そのとき1人のセート(実業家)から招待されてね、久し振りに会ったんだ。ついでにこっちの仕事も終わらせてから行こうと思って、今、そこから戻って来たところなんですよ。500人のブラーフマン(バラモン僧)の共餐があったんだ。」

 カリヤーニー「うまくいったんですか、それとも散歩して帰って来ただけですか?」

 モーテーラーム「うまくいったもいかないも、聞いて驚かないで下さい!5ヶ所で話をして来ました。5家の詳細もこの通り持って来ました。この中からあなたがどれでも好きな家を選んで下さい。まずはこれを見て下さい、この子の父親は郵便局で働いています。月給は100ルピーです。息子は今、大学で勉強しています。しかし、仕事が安定しているので、家に蓄えはありません。息子は将来性があると思います。家柄も申し分ありません。2000ルピーで話を付けて来ました。3000ルピーを求めて来ましたが。」

 カリヤーニー「息子の兄弟は?」

 モーテーラーム「いません。でも、3人の姉妹がいて、3人ともまだ未婚です。母親はまだ存命です。さあ、これも見て下さい。この子は、鉄道局で月給50ルピーで働いています。両親はいません。とても容姿端麗で、礼儀正しく、筋骨逞しい好青年です。しかし家柄はよくありません。母親は床屋の娘だったと言う人もいれば、地主の娘だったという人もいました。父親は弁護士でした。小さな土地の地主ですが、その土地は数千ルピーの借金の担保になっています。この家にはお金を払う必要はありません。年齢は20歳ほどでしょう。」

 カリヤーニー「家柄が悪くなかったらここに決めていたんですけど。知ってしまったら無視はできないわ。」

 モーテーラーム「3つ目の家も見て下さい。地主の息子です。年収千ルピーほどです。少し農業もやっています。息子はあまり教養がありませんが、役所や法廷の仕事には長けています。再婚で、先の妻が死んで2年になります。子供はいません。しかし生活は裕福で、仕事も家でしています。」

 カリヤーニー「ダウリー(持参金)は?」

 モーテーラーム「かなり吹っかけて来ました、4000ルピーです。では、4番目のも見て下さい。この人は弁護士をしています。年齢は35歳ぐらいでしょう。3、400ルピーの収入があります。亡くなった前妻との間に3人の子供がいます。自分の家を持っていますし、財産も持っています。ここもお金を払う必要はありません。」

 カリヤーニー「家柄はどうですか?」

 モーテーラーム「最高です、古い貴族の家柄です。それでは、最後のを見てみて下さい。父親は印刷所を持っていて、息子は学部卒ですが、その印刷所で働いています。年齢は18歳ぐらいでしょう。家には印刷機の他に何も資産はありません。しかし借金もありません。家柄はとてもいいわけではありませんが、悪くもありません。息子はとても端正で実直です。しかし千ルピー以下では話はまとまらないでしょう。要求金額は3000ルピーです。さあ、どの家が気に入りましたか?」

 カリヤーニー「あなたはどの家が気に入りましたか?」

 モーテーラーム「私は2人、気に入りました。1人は鉄道局の子で、もう1人は印刷所で働いている子です。」

 カリヤーニー「でも、最初の子の家柄はよくないと言ってたじゃありませんか?」

 モーテーラーム「はい、確かによくありません。それでは印刷所の子にしましょうか。」

 カリヤーニー「千ルピーものお金、どうやって工面するんですか?しかも千ルピーというのはあなたの予想で、多分もっとかかるでしょう。私の家の状況はあなたもご存知のはずです。食べるものさえあればそれだけで幸せです。お金がどこから出て来ると言うんですか?地主の旦那は4千ルピーものお金を求めてるし、郵便局の息子も2千ルピーですからね。彼らは諦めましょう。そうすると、弁護士だけが残りましたね。35歳と言っても、年を取りすぎというわけでもないでしょう。この人に決めてはどうでしょう?」

 モーテーラーム「よく考えて下さい。もちろん私はあなたの意見を尊重します。あなたが気に入った家と縁談を決めて来ます。しかし、千ルピーぐらい払ってもいいでしょう。印刷所の息子は素晴らしい子ですよ!あの子と結婚させれば、娘さんの人生はバラ色でしょう。端正な顔立ちですし、品行方正ですし、美人で礼儀正しい娘さんにはピッタリのお相手です。」

 カリヤーニー「私もその子が一番気に入ってますよ。でも、どこからお金を借りればいいんですか?それに誰に見せびらかす必要がありますか?親戚は食べるだけ食べておいていなくなってしまいました。今では家に誰も来ません。それだけでなく、私があの人たちを追い出したと思っているほどです。自分の手に負えないことに手を出すことはありません。自分の子供は誰にでもかわいいものです。子供の幸せを願わない親はいません。でも、それも自分で自分の面倒が見れるようになってからのことです!お願いですから、弁護士の旦那との結婚を決めて来て下さい。年はちょっと上ですが、生きるも死ぬも神様がお決めになることなんです。35歳と言っても、男なんですから、まだまだ若いでしょう。もし娘が幸運ならば、どこへ行っても幸せに過ごすことができるでしょう。不運ならば、どこへ行っても不幸になるでしょう。ニルマラーは子供好きです。前妻との子供とも仲良くできるでしょう。吉日を選んで、結婚を決めて来て下さいな。」

第5章

 ニルマラーの結婚式が行われた。サスラール(花婿の家族)がやって来た。花婿の名前はムンシー・トーターラームと言った。色黒の太った男で、職業は弁護士だった。40歳にはまだ届いていなかったものの、裁判所の仕事は彼の頭髪を真っ白にしてしまっていた。彼は運動する時間もないほど多忙だった。散歩にも行けないほど忙しいため、彼のお腹は出っ張ってしまっていた。すっかり肥満体となってしまった彼は、最近どこかしら体調がおかしかった。慢性的な胃弱と痔を患っていた上に、歩くと息切れがした。彼には3人の息子がいた。長男は16歳でマンサーラームと言った。次男のジヤーラームは11歳で、三男のスィヤーラームは7歳だった。3人とも英語を勉強していた。家には、トーターラームの未亡人の姉以外、女性がいなかった。その姉が家の女主人として君臨していた。彼女の名前はルクミニーと言い、年齢は50歳より上だった。亡き夫の家には誰もおらず、トーターラームの家に住み着いていた。

 ムンシー・トーターラームは夫婦学をよく心得ていた。ニルマラーを満足させるために足らないものを、彼は贈り物で満たそうとしていた。彼は非常に倹約家ではあったが、毎日ニルマラーのために何かしら贈り物を持って来ていた。彼はここぞというときにお金にこだわらない性格だった。息子たちのために少量のミルクしか持って来なかったのに、ニルマラーのためにはドライフルーツ、ジャム、ミターイー(お菓子)など、ありとあらゆる物を持って来た。生涯で一度も娯楽のために外出したことはなかった彼が、今では自分の貴重な時間の一部を、ニルマラーと共に蓄音機を鳴らすために割いていた。

 しかし、なぜかニルマラーはトーターラームの近くに座って談笑することにためらいを感じていた。その原因はおそらく、今まで頭を下げ、畏まって接していた父親と同じくらいの年齢の男が夫になってしまったことにあった。ニルマラーはトーターラームを、愛の対象ではなく、畏敬の対象だと考えていた。ニルマラーは夫を避けて暮らしており、彼を見た途端、彼女の顔から笑みが消えてしまうのだった。

 ムンシー・トーターラームは、夫婦学から、若い妻の前では愛の話をたくさんしなくてはならないと学んでいた。心を開けっ広げにすることが、夫婦円満の秘訣だと理解していた。だからトーターラームは、自分の愛を隠さず示していた。だが、ニルマラーは彼のそういう話を嫌っていた。それらの甘い言葉は、誰か若い青年の口から聞くと愛情で心が満たされるのだろうが、トーターラームの口から聞くと矢となって彼女の心を傷つけた。そこには情感も悦楽もなく、ただ模倣と欺瞞だけがあった。乾いた感情と空虚な大言壮語だけがあった。彼女は香水や香油を悪く思っていなかった。演劇を観に外出することも嫌いではなかった。装飾品をもらうことも嫌ではなかった。嫌だったのは、トーターラームの近くに座ることだった。彼女は自分の美しさと若さを彼に見せたくなかった。なぜならそこにはそれらを見るための目がないからだった。彼女は夫を、自分の美しさと若さを味わうだけの価値がある人物だと認めていなかった。花のつぼみは暁のそよ風に触れられて開くのだ。お互いがお互いを求め合っているのだ。ニルマラーのための暁のそよ風がどこにあるだろう?

 最初の1ヶ月が過ぎるや否や、ムンシー・トーターラームはニルマラーに家計を任せるようになった。裁判所から帰って来ると、1日の稼ぎを彼女に渡した。彼は、ニルマラーがそれらのお金を見て目の色を変えるようなことはないだろうと考えていた。ニルマラーは喜んでこの仕事をこなしていた。どんな小さなお金の動きもきちんと書き留めていた。もし稼ぎが少ないことがあると彼女は「今日はどうして少ないの?」と聞いていた。家計について彼女は夫とよく話をした。夫とは家計の話をするものだと彼女は考えていた。少しでも話が不真面目な方へ向くと、彼女は不機嫌な顔をした。

 ニルマラーは、宝飾品で身を飾って鏡の前に立ち、自分の美しさの煌きを見ると、心にある乾いた欲望が沸き起こるのを感じた。そのとき彼女の心には炎が燃え上がるのだった。この家に火を放ってやろうか、心の中で彼女はそう考えるのだった。彼女は自分の母親に憎悪を感じたが、それよりもさらに憎しみの対象となっていたのは、何の罪もないトーターラームであった。彼女は常にその憎しみを燃やし続けていた。王子が荷馬に乗ることなんてあろうか、それよりは徒歩を選ぶだろう。ニルマラーの心境は、荷馬に乗るか徒歩で行くかを選ばなければならなくなった王子の心境に似ていた。彼女は天馬にまたがって空を翔けたいと思っていた。稲妻のような速さで気持ちよく飛び回りたいと思っていた。荷馬のいななきと尖がった耳など想像もしていなかった。確かにニルマラーは、子供たちと遊んでいるときは自分の境遇を少しの間だけ忘れることができた。少しだけ心を軽くすることができた。しかし、ルクミニーは子供たちをニルマラーのそばに近寄らせようともしなかった。まるで子供たちをひと呑みにしてしまう鬼のような扱いであった。ルクミニーの性格は全く変わっていた。彼女が何で喜んで何で怒るのかを見極めるのは困難であった。もしニルマラーが自分の部屋で座っていると、彼女は「何してるんだか、この役立たず」と罵った。もし彼女が屋根裏部屋へ上がって行ったり女中と話したりすると、彼女は「恥も外聞もないわ、このアバズレ女、その内市場で踊り出すつもりでしょう」と嘆き悲しんだ。

 トーターラームがニルマラーにお金を渡すようになって以来、ルクミニーは四六時中彼女の批判をするようになった。ルクミニーは、もうすぐ大問題が起こることをよく知っていた。息子たちは何度も何度も小遣いを求めて来ていた。ルクミニーは、自分が女主人だったときには、子供たちに欲しいだけお金をあげていた。今では子供たちをニルマラーのところへ送っていた。ニルマラーは子供たちの金遣いの荒さをよく思っていなかった。彼女は時々小遣いを与えるのを拒否していた。すると、ルクミニーは悪口を言う絶好の機会を得るのだった――「あの嫁が女主人になったら、子供たちはどうやって生きていけばいいんでしょう。母親のいない子供たちの面倒を誰が見るんでしょう?1ルピーのミターイー(お菓子)を食べていたのに、今では半パイサー(100パイサー=1ルピー)のミターイーによだれを垂らす有様だわ。」もしニルマラーが誰にも聞かずにお金をあげるようなことがあれば、ルクミニーは再び彼女の批判を始めるのだった――「子供たちが生きるも死ぬも、あの嫁次第だわ!やっぱり子供たちには母親がいないと駄目ね、誰も子供たちにミターイーを食べ過ぎないように注意しようとしないわ。家計はやっぱり私が見ないと。あの嫁に何が出来るって言うの?」

 もしこれだけだったら、おそらくニルマラーは我慢していただろう。だが、ルクミニーは秘密警察のようにニルマラーを尾行して回っていた。もしニルマラーが屋根裏部屋にいると、ルクミニーは、きっと何かを物色しているんでしょう、と考えていた。もしニルマラーが女中と話していると、ルクミニーは、きっと私の悪口を言っているんでしょう、と考えていた。もしニルマラーが市場に何かを買いに行かせると、ルクミニーは、きっと何か贅沢な品物でも買いに行かせたんでしょう、と考えていた。ルクミニーは、度々ニルマラーの手紙を盗み見ていた。こっそりと彼女の話に聞き耳を立てていた。ニルマラーはルクミニーを恐れていた。とうとう我慢し切れなくなり、ニルマラーはある日夫に言った。「あなた、お義姉さんを何とかして下さい。どうして私の後を付け回すんですか?」

 ムンシー・トーターラームは怒って言った。「何か言われたのか?」

 「毎日言われています、口では言えないくらいのことを。もしお義姉さんが、私が女主人になったことをよく思ってないのでしたら、これからは義姉さんにお金を渡して下さい。私には必要ありません。お義姉さんを女主人に戻してあげて下さい。私は、悪口を浴びせかけられなければそれで十分です。」

 そう言いながら、ニルマラーの目には涙が溢れてきた。ムンシー・トーターラームは、自分の愛を示す絶好の機会を得たと考え、口を開いた。「ワシが今日、姉さんにビシッと言ってやるよ。もし黙って生活するならそれでよし、そうでなければ家から出て行け、この家の女主人は姉さんではなくお前なんだ、ってね。姉さんはお前を手助けするためにいるんだ。もし姉さんがお前を手助けせずに、邪魔ばかりしているなら、姉さんがこの家にいる必要はない。ワシは、姉さんは未亡人だし、子供もいないし、なけなしのローティーを食べて生きていくだろうと考えていたんだ。他でもない、ワシの実の姉だし、息子たちの面倒を見るために女の手も必要だったから、家に住まわせていたんだが、かと言って姉さんにお前を抑え付ける権利はない。」

 ニルマラーは言った。「お義姉さんは子供たちに言うんです、行って母さんからお金をもらって来なさい、とか、他にもいろいろ。子供たちがやって来て私を困らせるんです。ゆっくり休むこともできません。もし叱りでもしたら、お義姉さんが目を真っ赤にして走って来るんです。義姉さんは私のことを、子供嫌いだと思ってるんです。でも、神様は私がどれだけ子供好きかご存知のはずです。そもそも私の子供たちじゃありませんか。どうして私が子供たちを嫌ったりするでしょう?」

 トーターラームは怒りで震えながら言った。「もし子供たちが今度お前を困らせたりしたら、殴ってやれ。ワシも、子供たちが悪ガキになってしまったと思っていたんだ。ワシはマンサーラームを全寮制学校に送り込んでやるぞ。残りの2人は、今日にでも叱りつけてやる!」

 そのときムンシー・トーターラームは裁判所へ行くところで、叱責する時間はなかった。だが、裁判所から家に戻ってくるなり、彼はルクミニーに言った。「姉さんはこの家にこのまま住みたいんですか、それとも出て行きたいんですか?もし住み続けるつもりなら、静かに住んで下さい。他人の生活を邪魔するのはやめてください。」

 ルクミニーは、嫁が全てをぶちまけたことを即座に理解した。しかし彼女はおめおめと引き下がる女ではなかった。ルクミニーはトーターラームよりも年上であったし、長い間この家を看て来たという自負もあった。誰に自分をこの家から追い出す権利があろうか?ルクミニーは弟の卑劣さに驚いて言った。「私に女中になって住めって言うのかい?女中になるくらいだったら、私はこの家には仕えないよ。もしお前が私に、誰かが家に火を点けるのを黙って見てろって言うなら、誰かが好き勝手にしてるのを黙って見てろって言うなら、それは私にはできない話だね。お前はどこまで自分を見失ってしまったんだい?脳みそどこかで抜かれちまったのかい?アバズレ女に踊らされてるんじゃないのかい?あの嫁が矢を放ったら、何も考えずに玩具の兵隊みたいに剣を振り回すなんてみっともないったらありゃしない。」

 トーターラーム「姉さんはいつも荒探しばかりして罵声を浴びせかけてるそうじゃないか。もしニルマラーに何か教えることがあるなら、優しく柔かく言わないと駄目じゃないか。罵声で人は学ばない、逆に怒り出すものだ。」

 ルクミニー「ならお前は、私が何にも口出ししないことを求めてるんだね。でも後になってから私に言うんじゃないよ、家にいたのになんで何も言わなかったんだ、って。もし私の言うことが信じられないなら、犬に噛まれたって言うもんですか。『仔牛に野良仕事は務まらぬ、嫁に家事は務まらぬ』とはよく言ったものね。嫁がどうやって家を切り盛りして行くのか、見ものだわ。」

 そのとき、スィヤーラームとジヤーラームが学校から帰って来た。帰って来た途端、2人は叔母のそばへ行って食べ物を求め始めた。ルクミニーは言った。「どうして母さんのところへ行って言わないんだい?私には何の権利もないんだから。」

 トーターラーム「もしお前たちが母さんの部屋に一歩でも入ったら、お前たちの足をへし折ってやるぞ。悪戯ばかりしやがって!」

 少し怒りっぽい性格だったジヤーラームは言った。「父さんは、母さんには何も言わないのに、僕たちにだけは怒るんだね。母さんは僕たちにお小遣いもくれないんだ。」

 スィヤーラームも同調して言った。「母さんは、私を困らせたりしたら耳をちぎってやるって言うんだ。言うよな、ジヤー?」

 ニルマラーは自分の部屋から言った。「私がいつ耳をちぎるなんて言ったの?どこで嘘を覚えたの?」

 そのとき、ムンシー・トーターラームはスィヤーラームの両耳をつかんで引っ張った。スィヤーラームは大声を上げて泣き始めた。

 ルクミニーは走って来て、スィヤーラームをトーターラームから引き離して言った。「もうやめなさい。子供たちに暴力を振るうんですか?なんて人!耳が赤くなってしまったわ。新しい嫁をもらうと男は盲目になってしまうって言うけど、本当ね。今からこんな状態なら、この家は一体どうなってしまうことか。」

 ニルマラーは自分の勝利を快く思っていたが、トーターラームが子供の耳を引っ張り出すと、我慢できなくなってしまった。彼女もスィヤーラームを助けようと走ったが、ルクミニーの方が一足先だった。ルクミニーは言った。「自分で火を点けといて、今頃自分で火を消しに走って来て。自分の子供が生まれたら目が覚めるでしょう。外国の聖人に何が分かることか?」

 ニルマラー「あなたの弟ならそこにいるから、火を点けたのが私かどうか聞いてみたらどうなの?私は、子供たちがお金をくれって何度も何度も言って来て困るって言っただけ。もしその他に私が何かを言ったなら、目が潰れてもいいわ。」

 トーターラーム「ワシは息子たちが手に負えなくなっているのを自分の目で見て知っている。ワシは盲目じゃない。3人とも我がままで腕白になってしまった。だから今日にも長男を寮に送ることに決めたぞ。」

 ルクミニー「お前は今まで子供たちの悪戯について何も言わなかったのに、今日になって突然どうしたんだい?」

 トーターラーム「姉さんが子供たちを我がままにさせたんだ。」

 ルクミニー「私が全ての原因ってわけね。私のせいでお前の家が滅茶苦茶になったってわけね。ならいいわ、私は出て行くから。誰に殴られようと、誰に噛まれようと、もう私には関係ないわ。」

 ルクミニーはそう言ってそこから立ち去ってしまった。ニルマラーはスィヤーラームが泣き止まない姿を見て居ても立ってもいられなくなってしまった。彼女はスィヤーラームを抱きしめ、そのまま抱き上げると、自分の部屋に連れて行ってキスをし出した。しかし、スィヤーラームはさらに嗚咽しながら泣き始めた。スィヤーラームの未熟な心は、ニルマラーの愛情の中に、神様によって奪われてしまった母性愛を見出すことはできなかった。これは母性愛ではなく、ただの同情だった。自分の所有権がない事物だった。ただ恵んで与えられたものだった。まだ母親が生きていたときにも、2、3回、父親に叩かれたことはあったが、そのとき母親は彼を抱きしめて涙を流してはくれなかった。彼女は不機嫌になって、口を利いてくれなかった。それでも、スィヤーラームはしばらくすると全てを忘れて母親のところへ走って行っていた。スィヤーラームは、悪戯の結果、罰を受けることは理解できた。だが、叩かれて叱られた後にキスされるのは理解できなかった。

 母性愛には、柔かさのの中にも固さがあるものだ。だがニルマラーの愛情には、親密さを暗に示す固さがなく、ただ憐憫の情のみがあった。健康な身体を誰が気遣ったりしようか?だが、身体のどこかで痛みを感じると、その部分の痛みを和らげるためにあらゆる努力が払われるものだ。スィヤーラームの悲痛な泣き声はニルマラーに、自分が母親を失ってしまったことを知らせ続けていた。スィヤーラームは長い間ニルマラーの胸の中で泣き続け、泣きながら眠ってしまった。ニルマラーは子供を寝台に寝かせようと思ったが、スィヤーラームは眠りながらも両腕で彼女の首に抱きつき、まるで誰かが固定してしまったかのように、彼女にピッタリと張り付いていた。疑念と恐怖で彼女の顔は歪んだ。ニルマラーは再び子供を胸に抱き上げたが、寝台に寝かせることはできなかった。そのとき彼女は初めて、子供を胸に抱く悦びを感じていた。そのとき初めて彼女は自覚した。彼女の目はそれまで覚めておらず、自分の道が見えていなかった。今、その道が見え始めた。

第6章

 その日、自分の深い愛情の証拠を示した後、ムンシー・トーターラームはこれでニルマラーの心を遂にものにすることができただろうと期待を抱いていた。しかし、彼のその期待は少しも現実のものとならなかった。そればかりでない。以前は、時々ではあったが、ニルマラーは彼と笑顔で会話することがあったものだったが、今では子供たちの世話に全神経を傾けるようになってしまった。家に帰って来ると、いつもニルマラーは子供たちに囲まれていた。子供たちに読み書きを教えていることもあれば、服を着せていることもあった。何かの遊びをしていることもあれば、何かの話を聞かせていることもあった。ニルマラーの乾き切った心は、愛情に失望した後、この母性愛を生き甲斐と考えるようになった。トーターラームと一緒にいるときは、笑ったり会話をしたりすることに戸惑いと不快と退屈を感じ、逃げ出したいほどであったが、子供たちの誠実で無垢な愛情に向き合うことで、彼女の心は満たされるのだった。最初、マンサーラームは彼女のそばに近寄るのをためらっていたが、今では彼も時々彼女のそばに座るようになった。マンサーラームはニルマラーと同い年であったが、精神年齢では彼女よりも5歳年下だった。ホッケーとサッカーだけが彼の全世界だった。彼の空想は限りない広場であり、彼の願望は青々と茂った庭園であった。マンサーラームは、細身で美しく朗らかではにかみ屋の少年であった。彼と家の関係はただ食事のみであった。それ以外は一日中どこかで遊びまわっていた。ニルマラーは、マンサーラームから一日何をして遊んで来たのかを聞くと、少しの間だけ悩みを忘れることができるのだった。そして、人形同士の結婚式をしては遊んでいたあの頃がもう一度戻って来ないかと考えるのだった。もうあの頃がだいぶ昔のことに思えて来てしまっていた。

 ムンシー・トーターラームは、他の独り身の人間と同じく自己中心的な男だった。しばらくの間、彼はニルマラーをよく散歩や芝居に誘っていた。しかし、その効果が全くないのを見てとると、彼は孤独な人生に戻って行った。1日中頭脳を酷使した後に彼の心は憩いの場を求めた。だが、自分の安らぎの庭園に足を踏み入れたときに、花がしぼみ、植木がしおれ、花壇が埃だらけになっているのを見たら、その庭園を見捨ててしまおうと思うのは自然なことだった。彼には、ニルマラーが自分に無関心な理由を理解できないでいた。夫婦学の全ての極意を試してみたが、思い通りにはいかなかった。後は何をすればいいのか、彼には全く途方に暮れていた。

 ある日、トーターラームがニルマラーのことで思い悩んでいたところ、学生時代の友人であるナヤンスクラームがやって来て、適当に挨拶をした後にニヤニヤしながら言った。「で、最近どうだい調子は?新しい奥さんをもらってからというもの、若さが戻って来たんじゃないか?この幸せ者め!失った若さを取り戻すために、若い嫁さんを娶る以上の方法はないだろう!こっちは人生滅茶苦茶さ。家内のやつ、俺をひとときも離そうとしないんだよ。俺、真剣に誰か別の女と結婚することを考えてるんだ。どこかにいい話あったら頼むよ。お礼はするからさ。」

 トーターラームは真剣な顔で言った。「絶対にそんな馬鹿なことをするんじゃない、でないと後で困ったことになるぞ。若い女は若い男とだけ幸せになれるんだ。ワシもお前ももうそんな年じゃない。本当のこと言うと、ワシは今、再婚して大失敗だったと思ってるところなんだ。全くとんだ思い違いだった。もう2、3年、人生を楽しもうと考えてたんだが、逆にとんでもないことになってしまった。」

 ナヤンスクラーム「何言ってるんだ。女を操るなんて簡単じゃないか!芝居でも見せて、買い物にでも連れ出して、ちょっとお世辞でも言っておけば、あっと言う間に思い通りさ。」

 トーターラーム「全部試したが駄目だったよ。」

 ナヤンスクラーム「そうか!香水、香油、花、菓子、全部試してみたか?」

 トーターラーム「ああ、全部試したさ。夫婦学の全ての秘訣を試してみたさ。でも全部駄目だった。」

 ナヤンスクラーム「そうか、なら俺の助言をよ〜く聞け。お前、自分の顔をいじってもらえ。最近この近辺に、老いの印を全て消し去ってくれるという電気の医者が来てるんだ。顔からシワを取ったり、髪から白髪をなくしたりするだけじゃないぜ、どんな魔法を使ってるのか知らないが、男の全身を変えてしまうんだ。」

 トーターラーム「いくらかかるんだ?」

 ナヤンスクラーム「そうだな、けっこう取るって話だ。多分500ルピーくらいだろう。」

 トーターラーム「そりゃあきっと、ただのペテン師だろう。馬鹿を掴まえては荒稼ぎしてるんだ。何かの油を使って、2、3日だけ顔を照からせて終わりだろう。そういう大袈裟な医者の連中は信用ならない。5ルピー、10ルピーだったら気晴らしに試してみてもいいが、500ルピーは大金だ。」

 ナヤンスクラーム「お前にとって500ルピーは大金じゃないだろう。1ヶ月の収入じゃあないか。もし俺が500ルピー持ってたら、まず最初にそれをするだろう。青春を取り戻すために500ルピーだったら安いもんさ。」

 トーターラーム「それにしても、もっと安上がり方法はないものかな。安くて効果抜群な薬を出す薬剤師とか、いないかな。電気やラジウムは金持ちのためのものさ。彼らが楽しめばいいんだ。」

 ナヤンスクラーム「なら、もっと派手な格好をしてみろよ。そんな地味なコートはやめにして、モスリンのカッコいいロングコートを着て、タックのあるズボンをはいて、金の首飾りをつけて、ジャイプル製ターバンをかぶって、目にカージャル(油煙)を塗って、紙にヘンナの油をつけてみろ。出っ腹を引っ込めるのも忘れちゃいけない。二重にベルトを縛ることだ。ちょっと苦しいだろうが、ロングコートが映えるだろうよ。髪は俺が染めてやるよ。それと、50個でも100個でもいいからガザル(恋愛詩)を覚えろ。時間があったら詩を読め。そうすれば話上手になるさ。あと、世の中のことはもうどうでもいいように振る舞うべきだ、まるで新妻のことしか頭にないような風にな。そうだな、それと勇敢なところを示す機会を常に探すことだ。真夜中、嘘でいいから『泥棒だ!泥棒だ!』って大声を出してみろ。それで剣を持って一人で走り出せ。そうそう、そのとき少しは慎重にやるべきだ、本当に泥棒が出て来たら大変だからな。そうなりゃ一発でお前の正体がばれてしまうだろう。勇敢さってのは、冷静さにあるってのを忘れるなよ。まるで何事もなかったかのように泰然自若としてるべきだ。でも、泥棒がやって来たら、すぐさま外に出て剣を持って『どこだ?どこだ?』って走るんだぞ。なぁに、ずっと続ける必要はないさ。1ヶ月くらい俺が言ったことをやってみろ。もし何の効果もなかったら、罰としてお前が言う通りのことを何でもするからさ。」

 ムンシー・トーターラームは、そのときはナヤンスクラームの話を、まるで教養ある人間がそうすべきであるかのように、笑い飛ばしただけだった。しかし、彼の心にいくらか残ったものがあった。明らかにナヤンスクラームの話の影響が出てきた。彼は、人々に気付かれないように、徐々に身なりを変えて行った。まずは髪から始め、次にカージャルを塗り、1、2ヶ月の間に彼の全身は変わってしまった。ガザルを覚えるのは笑止千万であったが、勇敢さを誇示することにはやぶさかではなかった。

 その日から、トーターラームは毎日自分の勇敢さを無理に示すようになった。だが、ニルマラーは、夫が精神に何か異常をきたしつつあるのではないかと疑い始めた。ムーング豆のカレーと2枚のチャパーティー(インドのパン)を食べた後にスレーマーニー塩(消化剤)を求めるような人(つまり子供が何人もいるのに再婚するような人)が、服装に狂い出しても何らおかしいことはない。彼の行動によってニルマラーの気持ちが変わるようなことはなかった。いや、少なくとも彼女は夫が憐れに思えてきた。怒りや嫌悪の情は次第に消えて行った。怒りや嫌悪の情は、正常な人に対して湧き起こるものだ。しかし正気を失った人は同情の対象でしかない。彼女は、人々が狂人に対してするように、影で夫をからかい、冗談のネタにするようになった。もちろん、夫にばれないように細心の注意を払っていた。彼女は、夫は今、自分の罪の禊をしているのだ、自分の悲しみを忘れるために大袈裟な振る舞いをしているのだ、だが何をしても運命は変わらない、この可哀想な人間をわざわざ怒らすことがあろうか、そう考えていた。

 ある日の夜9時に、ムンシー・トーターラームは紳士風の格好をして散歩から帰り、ニルマラーに言った。「今日は3人の泥棒と出会ったよ。ワシがちょうどシヴプリーの方へ歩いているところだった。真っ暗闇だった。線路のそばに着いた途端、3人の男が剣を振りかざしてどこかから飛び出して来たんだ。3人ともまるで死神みたいだったよ!ワシは1人だったし、手にはこの杖しか持ってなかった。向こうは3人とも剣を持ってたんだ、全く肝を冷やしたよ。人生ここでお終いかと思ったんだが、どうせ死ぬんだったら勇敢な死に方をしたいと考えたんだ。そんなこと考えていたら、1人の男が叫んで言った。『持ってるもの全部置いて黙って消えな。』ワシは杖を握り締め、構えて言った。『ワシはこの杖しか持ってない。もしこの杖が欲しいなら、お前らの首と交換してやる。』ワシがそう言った途端、3人とも剣を振り上げて飛び掛って来たんだ。ワシは杖で奴らの剣を止めた。奴らは3人がかりで必死になって切りかかって来て、鈍い音が響き渡ったんだが、ワシは稲妻のように身をかわして奴らの攻撃を防いだ。10分くらい奴らは剣を振り回しただろうか、でもワシはかすり傷ひとつ負わなかった。ワシは剣を持ってなかったから不利だった。もし剣さえあれば、1人も生かしておかなかっただろう。とにかく、何と言ったらいいのか、そのときのワシはすごかったぞ。ワシは自分で自分の華麗な身の裁きがどこから出て来たのか驚いたくらいだ。3人ともこれ以上無理だと分かると、剣を鞘に収めて、ワシの肩を叩きながら言った。『お前のような勇者は今まで見たことがない。俺たち3人は一騎当千の強さで、村から村を荒らし回って来たが、今日お前は俺たちを打ち負かした。俺たちはお前の強さに降参した。』そう言ってどこかへ消えてしまったんだ。」

 ニルマラーは真剣な顔をして微笑んで言った。「この杖には剣の跡がいっぱい残っていることでしょう?」

 トーターラームはその質問に対する答えを準備していなかった。だが、何か答える必要があった。彼は言った。「ワシは剣の攻撃をうまくかわしていたんだ。2,3の攻撃を杖で受けたが、払いのけただけだ。それだけで跡は残らないよ。」

 トーターラームがその言い訳を言い終わらない内に、突然ルクミニーが慌てて走ってやって来て、息せき切りながら言った。「トーター!トーターはいるかい?私の部屋に蛇が出て、寝台の下に潜り込んだんだよ。すぐさま逃げて来たわ。1、2メートルはあるでしょう。襟を広げてシューシュー鳴いてるわ!ちょっと来てよ!棒を持って!」

 トーターラームの顔は急に青ざめてしまった。だが、心の動揺を隠しながら言った。「ど、どこから蛇が、ここに?きっと何かの見間違いだろう?縄か何かじゃないか?」

 ルクミニー「私は自分の目で見たんだよ。ちょっと行って見て来てよ!それとも、男のくせに怖がってるのかい?」

 トーターラームは家から出たが、ベランダで立ち止まってしまった。彼の足は言うことを聞かなかった。心臓はドキドキと高鳴っていた。蛇は怒りっぽい生き物だ。もし噛まれでもしたら、即あの世行きだ。彼は言った。「怖がってるわけじゃないさ。蛇なんだろ、ライオンに比べりゃどうってことないさ。しかし蛇に棒は効かないから、誰かを送って、近所の家から槍でも借りて来させよう。」

 そう言ってトーターラームは走って表に出た。マンサーラームは夕食を食べていた。トーターラームが外へ行ってしまったとき、マンサーラームは食事を終えてホッケーの棒を手に持ち、ルクミニーの部屋の中に入ってとっさに寝台を引いた。蛇は怒っており、逃げようともせずに襟を広げて鎌首を持ち上げた。マンサーラームは素早く寝台の敷布を広げて蛇に被せ、続けて3、4度棒で打った。蛇は敷布の下でもがいて死んでしまった。それを見たマンサーラームは棒で蛇を持ち上げて外に出た。そのときトーターラームが数人の男を連れてやって来た。マンサーラームが蛇をぶらさげているのを見て、彼は驚いて悲鳴を上げたが、すぐに平静を取り戻して言った。「ワシが来るところだったのに、お前はどうしてそんなに急いだことをしたんだ?さあ、ワシによこしなさい、誰かに捨てに行かせよう。」

 そう言って威風堂々とルクミニーの部屋の戸口に立つと、部屋の隅々を見回した。そして髭をいじりながらニルマラーのところへ行って言った。「ワシが来るところだったのに、マンサーラームが殺してしまったよ!何も知らないくせに棒を持って!蛇は槍で殺すべきなんだ。あの子はどうもせっかちなところがあっていかん。ワシは何匹の蛇を今まで退治したことか。蛇を殺すことなんて朝飯前だ。何匹もの蛇をこの手で掴んで握りつぶしたんだぞ。」

 ルクミニーは言った。「もういいよ、お前の男らしさは十分見させてもらったよ。」

 トーターラームは恥じ入って言った。「そうか、ワシのことを臆病者だと笑うなら笑えばいいさ!姉さんからご褒美をもらおうってわけじゃないからな。行って料理人に言ってくれ、そろそろ食事にするって。」

 トーターラームは夕食を食べに行ったが、ニルマラーは戸口に立って考えていた――神様、あの人は本当に何かの病気になってしまったの?私の境遇をもっと貶めようとなさっているの?私はあの人の世話をすることはできるし、人生をあの人に捧げることもできるわ。でも私の手に負えないことをすることはできないわ。年の差を縮めることは私には不可能よ。一体あの人は私に何を求めているのかしら?・・・ああ!分かったわ!私はそのことを今まで気付かなかったわ。そうでなかったら、あの人はこんな苦労をすることはなかったでしょう。こんなにおかしな振る舞いをすることもなかったでしょう!

第7章

 その日からニルマラーの言動に変化が表れ始めた。彼女は自分に与えられた使命の遂行に一生を捧げることに決めたのだった。今まで彼女は悲しみに打ちひしがれ、自分の使命に目を向けることすらしなかった。彼女の心には反抗の炎が燃え盛っていた。彼女のやり場のない悲しみは、彼女の正気を奪うほどであった。

 だが、今、その悲しみの嵐は静まりつつあった。彼女は、自分の人生に幸せは訪れないことを悟ったのだった。幸せな人生を夢見て、今ある人生を台無しにするのは何にもならないわ。世界の全ての生き物が安眠できるわけではない。私もその不幸な生き物の1人なんだわ。私も神様に、不幸の荷を背負うために選ばれたんだわ。この重荷を頭から下ろすことはできない。これを捨て去ろうと思っても捨てることはできない。この重みでたとえ目の前が真っ暗になっても、たとえ首が折れようとも、たとえ足が動かなくなっても、私はこの重荷を背負って行かなければならないんだわ。終身刑を泣いても仕方ないわ。泣いても誰が見てくれるというの?誰が同情してくれるというの?泣くことで仕事が滞りでもしたら、さらに罰を受けなければならなくなるわ。

 次の日、ムンシー・トーターラームが裁判所から帰って来ると、ニルマラーが微笑んで自分の部屋の戸口に立っていた。その無邪気な姿を見て、彼の目は輝いた。久し振りに蓮の花が開いているのを見た気分であった。部屋の壁には、大きな鏡が掛けてあった。いつもはその鏡を覆っていた布が、今日は外されていた。部屋の中に足を踏み入れたトーターラームは、ふとその鏡に目を向けた。そこには自分の姿が映っていた。それを見た彼の心は傷ついてしまった。1日中働き続けたことにより、彼の顔はすっかりやつれていた。いろいろな栄養剤を取っているにも関わらず、頬のシワはくっきりと刻まれていた。お腹はきつく縛り付けているにも関わらず、暴れ馬の如く外に飛び出ていた。鏡の前には、別の方向を向いていたが、ニルマラーも立っていた。2人の外見にどれだけの違いがあることか!一方は宝石が散りばめられた宮殿であった。他方はボロボロに崩れた廃墟であった。彼はそれ以上鏡を凝視することができなかった。自分の無様な姿を我慢することができなかった。彼は鏡の前から立ち去った。彼は自分の身体に嫌悪感を覚え始めた。この美しく若い女性が彼を嫌悪したとしても何の不思議もなかった。彼は、ニルマラーの方に目を向ける勇気も無くしてしまった。彼女の類稀な容姿は、彼の心に槍となって突き刺さった。

 ニルマラーは言った。「今日はどうしてこんなに遅くなったんですか?一日中待ってたんですよ。」

 トーターラームは窓の方を向きながら答えた。「裁判のせいで息をつく間もないほど忙しいんだ。本当はもうひとつ裁判があったんだが、頭痛がすると言い訳をして逃げ帰って来たんだよ。」

 ニルマラー「ならどうしてそんなに裁判を引き受けるんですか?仕事をするのは結構ですけど、余裕を持って、できる分だけ引き受ければいいじゃないですか。そんなに命を削ってまで仕事をすることはありません。もう裁判を引き受けないで下さい。私はお金なんて欲しくありません。あなたがゆっくり生活できれば、それで十分です。」

 トーターラーム「でもなぁ、ラクシュミー女神(お金の女神)が来たら、拒むことはできないんだ。」

 ニルマラー「ラクシュミー女神が来ると言っても、もし血や肉と引き換えなら、来ない方がいいです。私はお金なんて必要ありません。」

 このときマンサーラームが学校から帰って来た。強い日差しの中を歩いてきたので、額には汗が浮かび、白い顔は赤く上気していた。目からは光が発せられているかのようだった。マンサーラームは戸口に立って言った。「お母さん、すぐに何か食べるものちょうだい、今から遊びに行かなきゃならないんだ。」

 ニルマラーは奥に行ってコップに水を入れ、小皿にドライフルーツを盛ってマンサーラームに差し出した。マンサーラームはそれを急いで口に入れ、すぐに外に出ようとした。ニルマラーは言った。「いつ戻って来るの?」

 マンサーラーム「分からない、白人とホッケーの試合があるんだ。ここからすごい遠いからね。」

 ニルマラー「いい、早く帰ってくるのよ。料理が冷めちゃうでしょ、そうしたらお前は、すぐにお腹減ってないって言うから。」

 マンサーラームは無邪気にニルマラーの方を振り返って言った。「もし遅くなったら、そこで何か食べてると思ってよ。僕を待つ必要はないからさ。」

 マンサーラームが走り去ってしまうと、ニルマラーは言った。「前は家にも帰って来なかったし、恥ずかしがって私と話そうともしなかったわ。何か入用があると、外から買って来させていたわ。私が呼ぶようになってから、来るようになったわ。」

 トーターラームは怒って言った。「あいつはどうしてお前のところに食べ物や飲み物を求めに来るんだ?どうして姉さんのところに行かない?」

 ニルマラーは、褒めてもらいたくてその話題を口にしたのだった。彼女は、自分が夫の子供たちをどれだけ愛しているか、示したくて言ったのだった。これは見せかけの愛情ではなかった。彼女は子供たちを本当に愛していた。彼女の性格にはまだ子供らしさがたくさん残っていた。彼女はまだ、好奇心に満ち溢れ、遊びと悪戯好きな女の子であった。そして彼女のこの子供心は、子供たちと一緒にいることで満たされるのだった。妻としての嫉妬心は、まだ彼女の心には芽生えていなかった。彼女は、夫が喜ぶ代わりに怒る理由を理解できずに言った。「どうして子供たちがお義姉さんのところへ行かないのかは知りませんが、私は子供たちを叱ったりしませんから。もしそんなことしたら、私は子供嫌いだと思われてしまうでしょう。」

 トーターラームは何も答えなかったが、今日の彼は顧客と話をしなかった。マンサーラームが帰って来ると、彼は息子に試験をさせた。彼がマンサーラームや他の息子たちの教育に興味を示したのは、人生の中でこれが初めてであった。彼は普段、自分の仕事のことで頭が一杯だった。彼が学校を卒業してから、およそ40年が過ぎ去っていた。それ以来、勉強には全く興味がなかった。法律の本と手紙以外、何も読んでいなかったし、そんな時間もなかった。しかし今日、彼はマンサーラームの試験をした。マンサーラームは賢く、勤勉な少年であった。Bチームのキャプテンを務めていながら、クラスの中では常にトップだった。一度読んだ文章は、二度と忘れなかった。トーターラームは、マンサーラームが答えに窮するような質問を考え出すことがなかなかできなかった。マンサーラームはどんな質問もすぐに答えてしまった。

 まるで敵と剣を交えて戦っている兵士が、なかなか相手を傷つけられないと躍起になってさらに剣を素早く振り回すように、マンサーラームの答えを聞いている内にトーターラームも躍起になって来た。彼は、マンサーラームにも答えられないような質問を何とかして考え出そうとした。息子の弱点がどこにあるのかを見たかった。息子が何を勉強しているのかを知るだけでは満足できなかった。息子が何を勉強していないのかを知りたかった。これがもし経験豊かな試験官なら、マンサーラームの弱点を簡単に見出すことができたかもしれない。だが、半世紀も勉強から遠ざかっていたトーターラームにそんなことがどうしてできようか?彼は怒りを発散させる言い訳をとうとう見つけられず、こう言った。「お前が一日中あちこちほっつき歩いているのをワシは知っているぞ。ワシはお前の性格をお前よりもよく知っている。ワシはお前のその放蕩癖に我慢ならんのだ。」

 マンサーラームは怖気づかずに言った。「僕は夕方1時間だけホッケーをしに行ってますが、1日中遊んではいません。お母さんや叔母さんに聞いてみて下さい。僕だってそんなほっつき歩くのは好きじゃありません。ただ、ヘッドマスターさんが呼んでいるときは、僕も行かなくちゃならないんです。もしホッケーがいけないなら、明日から行きません。」

 トーターラームは、話が別の方向へ行っているのを見ると、大声で言った。「お前がホッケー以外に何もしていないなんて、ワシは信じられん。何度も苦情を聞いてるんだぞ。」

 マンサーラームもカッとなって言った。「誰がお父さんにそんな苦情を言ったんですか?僕にも教えて下さい。」

 トーターラーム「それが誰であろうと、そんなことは関係ない。ワシは理由もなく叱ったりしない。お前は黙って聞けばいいんだ。」

 マンサーラーム「もし誰かが、僕の目の前で、僕が遊び回っているのを見たと証言するなら、僕はもう顔も見せません。」

 トーターラーム「お前に直接苦情を言って、復讐しようとするような暇人はいない。どうせお前は仲間を引き連れてその人の家の屋根瓦を割って仕返しをするつもりだろう。ワシはそういう苦情を1人から聞いたわけじゃない。多くの人から聞いたんだ。そしてワシが自分の友人たちを疑う理由はない。これからお前は学校の寮にずっと住むこと、いいな!」

 マンサーラームはうつむいて言った。「寮に住むことに僕は何の異議もありません。お父さんが言ったときに、僕は出て行きます。」

 トーターラーム「どうして下を向いた?寮は嫌いか?まるで寮に入ったら最後、生きて帰って来られないような顔をしてるじゃないか。もし嫌なことがあったら言ってみなさい。」

 マンサーラームは寮に住みたくなかった。しかし父親からその理由を聞かれると、マンサーラームは自分の気持ちを隠すために作り笑いをして言った。「別に下なんか向いてません。僕にとって家も寮も同じことです。嫌なことはありません。あったとしても我慢できます。それじゃあ明日には出ることにします。もし空き部屋がないなら仕方ないですが。」

 トーターラームは弁護士だった。息子が何か、寮に住むことを免れ、しかも面子を保つことができる都合のいい言い訳を探していることに気が付いた。彼は言った。「部屋は全ての学生のために用意されているんだろう、お前の部屋だけないのか?」

 マンサーラーム「たくさんの学生が空き部屋がなくて、外で家賃を払って住んでいます。つい最近も、寮から1人の寮生が出て行ったんですが、その空き部屋に50人が殺到したんです。」

 ムンシー・トーターラームは、このまま議論を続けるのはよくないと思った。マンサーラームに明日出発する準備をするよう言いつけると、馬車を用意させて散歩に出掛けた。最近彼は夕方よく散歩に出掛けていた。ある博識な知人に、散歩ほど身体にいいものはないと聞いたからである。トーターラームが去った後、マンサーラームはルクミニーのところへ行って言った。「叔母さん、父さんが僕に、明日から寮に住むように言うんです。」

 ルクミニーは驚いて言った。「どうして?」

 マンサーラーム「僕は知りません。僕が風来坊のようにあちこちうろつき回ってるって言い出したんです。」

 ルクミニー「お前は、どこにも行ってないって言わなかったのかい?」

 マンサーラーム「言ったけど、信じてくれないんです。」

 ルクミニー「お前の新しい母親のせいさ、それ以外に何があるの?」

 マンサーラーム「そうじゃないと思います、叔母さん、僕は母さんを疑ってません。母さんは間違ってもそんなこと言わないでしょう。何か欲しいものがあれば、すぐにくれますし。」

 ルクミニー「お前にあの女の何が分かるの!これはあの女が放った火種なんだよ。私が行って聞いてくるから、お前は見てなさい。」

 ルクミニーは怒りを露にしながらニルマラーのところへ行った。ルクミニーは、彼女を非難し、突き飛ばし、泣かせる機会をみすみす見逃すような女ではなかった。一方、ニルマラーはルクミニーを尊敬していた。ルクミニーの前では口答えすらしなかった。ニルマラーはルクミニーから学ぼうとしていた。自分の間違った部分を直してもらいたかった。家事を監督していてもらいたかった。だが、ルクミニーはニルマラーを嫌っていた。

 ニルマラーは寝台から起き上がって言った。「どうしたんですか、お義姉さん、座ってください。」

 ルクミニーは立ったまま言い放った。「私はお前にひとつ聞きに来ただけよ。お前は家のみんなを追い出して1人で住むつもりかい?」

 ニルマラーは柔らかな物腰で答えた。「どうしたんですか、お義姉さん?私は誰にも何も言っていませんけど?」

 ルクミニー「マンサーラームを家から追い出しておいて、何も言ってないなんてしらばっくれるつもりかい!お前はそのくらいのことも我慢できないのかい?」

 ニルマラー「お義姉さんの前に跪いて言いますが、私は何も知りません。もし私がそのことについて一言でも口を開いたなら、目がつぶれても構いません。」

 ルクミニー「なにデタラメな誓いを立ててるんだい?今までトーターラームは子供を叱ったことなんてなかった。マンサーラームが1週間だけナニハール(母方の祖父母の家)に行ったときでも、自分で連れに行くほどうろたえてたんだよ。今じゃあそのマンサーラームを家から追い出して寮に入れようとしてるんだからね。マンサーラームにもしものことがあったら、お前はどうするつもりだい?あの子は今まで一度も外に住んだことがないんだよ。食べることも着ることも知らないんだ。座ったところでそのまま寝てしまうんだよ。身体は大きくなったけど、内面はまだ子供なんだよ。寮になんて住んだら、あの子は死んでしまうわ。寮じゃあ誰も、あの子が食事をしたか、どこで服を着替えたか、どこで寝たか、気にしやしないからね。家の中で気にする人がいないなら、家の外で誰が気にするってんだい?いいかい、私はお前に警告したよ、これからどうなるか、お前も見てなさい。」

 そう言ってルクミニーは去って行ってしまった。

 トーターラームが散歩から帰って来ると、ニルマラーはすぐにこの件について話を始めた。ニルマラーは最近、マンサーラームから少しの間だけ英語を習っていた。マンサーラームが寮に行ってしまったら、もう習うことができなくなってしまうわ!他に誰が英語を教えてくれるというの?彼女はそう訴えかけた。トーターラームは、今までそのことを知らなかった。ニルマラーは、ある程度しゃべれるようになったら、彼に英語で話しかけて驚かそうと考えていたのだった。彼女は、自分の兄弟から少しだけ英語を習ったことがあった。今では彼女は定期的に勉強をしていたのだった。トーターラームは再び激怒して言った。「いつからあいつはお前を教えてるんだ?お前は今までワシにそれを言ったことがあったか?」

 ニルマラーは、トーターラームがこれほど怒ったのを過去に一度だけ見たことがあった。それは、スィヤーラームを殴って気絶させてしまったときだった。トーターラームは、そのときと同じ憤怒の形相をしていた。ニルマラーは恐る恐る言った。「マンサーラームの勉強の邪魔はしていません。私は、あの子が暇なときに習ってました。もし忙しいならいいからってちゃんと聞きました。大体、あの子が遊びに行くときに呼び止めて、10分だけ時間を作ってもらっていました。私も、マンサーラームの邪魔にならないように気を付けていました。」

 大した話ではなかった。だが、トーターラームは寝台に力なく座り込み、額に手を当て、深刻な顔をして考え始めた。彼が考えていたよりも深刻な事態になりつつあった。彼は、予め息子を外に出しておかなかった自分に怒りが込み上げてきた。やけに最近ニルマラーが嬉々としている理由がようやく理解できた。以前はこんなに着飾ったりしなかったが、今ではまるで変身してしまったかのようだった。心は今すぐマンサーラームを家から追い出したい気持ちで一杯であったが、理性が、今は怒る必要はない、と言い聞かせていた。もしニルマラーにこの怒りを読み取られてしまったら、話はさらに厄介になってしまう。そうだ、ちょっとニルマラーの心を試してみよう、と考えたトーターラームは言った。「お前が2、3分英語を習うことで、マンサーラームの勉強に支障が出ることはないのはワシだって知っている。しかしな、あいつは風来坊だ、自分の仕事をしない言い訳になってしまう。もし落第でもしてみろ、あいつは言うだろう、1日中教えていて勉強する時間がありませんでした、と。お前のために家庭教師を雇うことにしよう。そんなに高くないだろう。お前はワシに今まで言わなかったからな。あいつに何が教えられる?2、3の単語を教えて走り去ってるんじゃないのか?そんなんじゃあ、お前はいつまで経っても英語が身に付かないだろう。」

 ニルマラーはすぐにマンサーラームを擁護して言った。「いいえ、そんなことはありません。マンサーラームは真面目に私に教えてくれます。それに、英語にさらに興味が持てるようなうまい教え方ですよ。あなたもいつか、あの子の教え方を見てみて下さい。家庭教師でもこんなに真剣に教えてはくれないでしょう。」

 トーターラームは自分の質問の絶妙さに酔いしれながら言った。「1日に1回教えているのか、それともそれ以上?」

 ニルマラーにはまだ質問の意図が分からなかった。彼女は言った。「前は夕方だけ教えてくれてましたけど、最近は書くのも教えてくれています。あの子が言ってましたけど、クラスで一番できるんですって。この前の試験では、あの子が一番だったらしいですよ。マンサーラームが勉強に興味がないなんて、あなたはどうしてそんなことおっしゃるんですか?それにきっとお義姉さんは、私が全ての原因だって思うに違いありません。私は何もしていないのに責められるんです。さっきも私を散々脅して行ってしまいました。」

 トーターラームは心の中で言った――ワシを何だと思ってるんだ?こいつはまだ子供の癖にワシに命令しようとしてるのか?姉さんを引き合いに出してまで我がままを押し通そうとしてるんだな。そしてトーターラームは言った。「寮に住むことで息子に害があるとは思えない。むしろ友達と一緒に住めるし、普通は喜ぶはずだ。だが、マンサーラームは逆に泣いている。少し前まで、あいつは真面目に勉強していた。クラスで一番を取ったのは、そのときの成果だ。しかし最近、あちこちぶらぶらし始めた。もし今すぐ止めなかったら、手遅れになってしまうだろう。お前のためには家庭教師を付けることにする。」

 次の日の朝、ムンシー・トーターラームは正装して外に出た。裁判所には数人の顧客が待っていた。その中には、毎年数千ルピーの報酬をくれる王族もいた。しかし、トーターラームは彼らをそこに待たせたまま、10分で帰って来ると約束して、馬車に乗って学校の校長のところへ行った。校長は立派な人物であった。トーターラームのことを大変歓迎したが、学校の寮には彼の息子のための空き部屋がなかった。全ての部屋は埋まっていた。学校監査官から、都市部の生徒たちよりも先にまず農村部の生徒たちに部屋を割り当てるよう厳命が出されていた。しかも、農村部の生徒たちからの入寮申請書が山積みになっていた。よって、たとえ部屋に空きが出ようとも、マンサーラームに割り振ることはできそうになかった。トーターラームは弁護士であった。朝も晩も、私益のために不可能を可能にするような人々と交渉していた。彼は、少し握らせればうまく行くだろうと考え、事務室の事務員に話しかけた。しかし、事務員は笑って言った。「トーターラームさん、ここは役所ではありません、学校です。もし校長の耳に少しでも入ったら、怒り狂ってマンサーラームを退学させてしまうでしょう。警察に届け出ることもありえます。」トーターラームは何も言うことができなかった。10時頃にイライラしながら家に戻って来た。ちょうどそのとき、マンサーラームは家から学校へ行くところだった。トーターラームは、まるで自分の敵が家に上がり込んで来たかのように、息子を睨み付けた。

 その後の十数日間、トーターラームはときに朝、ときに夕方、いろいろな学校の校長と会ってはマンサーラームを入寮させようとしたが、どこの学校の寮にも空きがなかった。結局、どの学校からもいい返事はもらえなかった。今や2つの方法しか残っていなかった。マンサーラームを下宿させるか、それとも別の学校に入学させるか。どちらの方法も簡単ではなかった。田舎の学校なら、いつも空きがあった。しかし、最近のトーターラームの心はだいぶ落ち着きを取り戻していた。あの日以来、マンサーラームが外に出掛ける姿を一度も見なかった。彼は遊びに出掛けることすらなかった。学校へ行く前も帰って来た後も、マンサーラームはずっと部屋に閉じこもっていた。夏の日であった。風通しのよい広場でも汗が身体から止めどもなく噴き出して来たが、マンサーラームは部屋の外に出ようともしなかった。マンサーラームの自尊心は、風来坊の汚名を返上しようと躍起になっていた。彼は、自分の言動からその汚名を消し去りたいと思っていた。

 ある日、ムンシー・トーターラームが座って食事をしていると、マンサーラームが沐浴を終えて食事の席に着いた。トーターラームはここ最近、マンサーラームの身体を見たことがなかった。今日、息子の身体を見た途端、トーターラームは驚いてしまった。まるで骸骨が目の前に立っているかのようだった。顔には今でも若々しさが光っていたが、身体は棒のようになってしまっていた。トーターラームは言った。「最近お前の体調はよくないなんじゃないか?どうしてこんなに痩せ細ってしまったんだ?」

 マンサーラームは腰布を巻きながら言った。「体調はとてもいいです。」

 トーターラーム「なら、どうしてこんなに痩せてるんだ?」

 マンサーラーム「痩せてなんかいません。僕がこれ以上太ったことはありません。」

 トーターラーム「昔の半分くらいしか肉がないじゃないか、それでも痩せてないと言うのか?ちょっと姉さん、マンサーラームはこんなに痩せたっけ?」

 中庭でトゥルスィー(神聖なハーブの木)に水をかけていたルクミニーは言った。「痩せることなんかないわよ、上手に育ててくれる人がいますからね。私は田舎者ですから、子供の世話なんか知らなかったし、いい加減な食事を食べさせて、子供を駄目にしてしまったわ。今じゃあ教養もあって家事も立派にこなす女性が居座ってるんですからね!あいつの敵が痩せますように!」

 トーターラーム「姉さん、どうしてそんな悪態をつくんだい?姉さんが子供を駄目にしたなんて、誰が言った?他の人にできない仕事は、姉さんがするべきだ。家の全てから関係を断ち切ることはない。ニルマラーもまだ子供だ、他の子供の世話がどうしてできる?これは姉さんの仕事だよ。」

 ルクミニー「自分の子供だと思っていたときはそうしていたわよ。お前が私のことを他人だと思ってるなら、どうしてお前の言うことなんか聞く必要があるの?最後に牛乳を飲んだのはいつか聞いてみなさいよ。行ってあの子の部屋を見てみなさいよ、朝食のために出したミターイー(甘いお菓子)がそのまま腐ってるわ!私が出した食べ物を誰も食べようとしなかったら、口の中に押し込めって言うの?いい、あんた、このままだとあの子は一度も愛されて育ったことのない子供のようになってしまうでしょう。お前の息子たちはみんな孤児みたいに幸せを知らない子供になってしまうでしょう。はっきりと言わせてもらうわ。悪く思われても、誰も何も言わないよりはましだから!あんたは子供を寮に送ろうとしてるようね、家に帰って来るのすら禁止するつもりらしいわね。この子は私のところに来て震えてるのよ、でも私のところにはこの子に食べさせるものもないの!」

 そのときマンサーラームは2枚のローティー(パン)を食べただけだったが、立ち上がった。トーターラームは言った。「なんだ、もう食べ終わったのか?まだ来てから1分も経ってないじゃないか。たった2枚しか食べてないだろう。」

 マンサーラームは小さな声で言った。「ダール(豆カレー)とタルカーリー(野菜カレー)も食べました。たくさん食べ過ぎると、喉が痛くなるし、げっぷが出るんです。」

 ムンシー・トーターラームは食事を終えると、不安を抱えながら立ち上がった。もし息子がこのまま痩せ細って行ったら、何か悪い病気にでもなってしまうかもしれない。このとき彼にはルクミニーに対して怒りが込み上げていた。姉さんは、自分が家の女主人でないから嫉妬しているんだ。そもそも姉さんは家の女主人になって一体どうするつもりなんだ。お金の数え方も知らないのに、どうして女主人になれようか?確かに1年間は女主人になっていたが、パーイー(当時の最小貨幣単位)すら残らなかったじゃないか。ループカラー(前妻の名)は今の収入で2、300パーイーは余らせることができた。姉さんは、支出を収入内に収めることすらできなかった。それはいいとしても、姉さんは子供たちを溺愛してでくの坊にしてしまった。こんな大きな子供たちに、わざわざ言って聞かせて食べ物を食べさせる必要があるか?もう食事くらい自立しなくちゃならない年頃だ。トーターラームは1日中このことで悩んでいた。数人の友人に相談してみたところ、彼らは口を揃えて言った。「子供の遊びを邪魔するべきじゃない。今から子供を閉じ込めるようなことはするな。狭い部屋の中に引き篭もっている方が、外で遊び回っているよりも悪い影響を与える可能性が高い。悪い友達とつるむのは必ず止めさせるべきだが、家から出ることを禁じるのはやりすぎだ。若い頃に孤独癖が身に付いてしまうのはよくない。」

 トーターラームは自分の間違いに気付いた。家に戻ると、マンサーラームのところへ行った。彼はちょうど学校から戻って来たところで、制服を着たまま本を開いて、前の窓を眺めていた。彼は、自分の子供を抱いて物乞いをしている1人の女乞食を見ていた。子供は、母親に抱かれて、まるで王座に座っているかのようにご機嫌であった。マンサーラームはその子供を見て涙が溢れてきた。この子供は僕よりも幸せなんじゃないだろうか?この広い世界に、母親の胸以上に幸せな場所があるだろうか?神様ですら、母親の胸以上に幸せなものを創り出すことはできないだろう。ああ、神様はどうして、母親と別れなければならない運命の子供を生み出したんだろう?僕のような不幸な人間が、この世の中に他にいるだろうか?僕が食べようと飲もうと、生きようと死のうと、誰も気に掛けてくれない。もし今日、僕が死んでしまっても、誰の心にも何の傷も残らないだろう。父さんは今では僕を泣かせて楽しんでいるし、僕の姿を見ようともしてくれない。僕を家から追い出す準備をしている。ああ、お母さん!僕は今日、風来坊と言われています!お母さんが3人の息子を託したあのお父さんが、今日では僕のことを風来坊とかでくの坊とか呼んでいるんです。僕は、この家に住む資格もないんでしょうか?マンサーラームはとうとう声を上げて泣き出してしまった。

 そのときトーターラームは部屋の中に入って来た。マンサーラームはすぐに涙を拭ってうつむきながら立ち上がった。トーターラームが息子の部屋に入ったのは、おそらくこれが初めてであった。マンサーラームの心臓は、今日はどんな不幸が起こるのかと、音を立てて鼓動し始めた。マンサーラームが泣いているのを見た途端、トーターラームの愛情は長い長い眠りから飛び起きた。驚きながら言った。「おい、どうして泣いてるんだ?誰かに何か言われたのか?」

 マンサーラームは、何とか湧き上がる涙をこらえて言った。「いいえ、泣いていません。」

 トーターラーム「母さんが何か言ったんじゃないか?」

 マンサーラーム「いいえ、お母さんは僕と話してもくれません。」

 トーターラーム「マンサーラーム、ワシは子供たちに母親が必要だと思ったから再婚したんだ。しかし、その期待はどうやら間違いだったようだ。母さんは何も話さないのか?」

 マンサーラーム「はい、ここのところ数ヶ月間、話してくれません。」

 トーターラーム「訳の分からん性格の女だ、何が欲しいのか全く分からない。もしあの女の性格がこんなだと知っていたら、ワシは結婚などしなかった。毎日何かしら問題を起こす。母さんが、子供が1日中どこかへ行ってしまっていると言ってたんだ。あいつの心をワシがどうして知っていようか?ワシはてっきり、お前が悪い友達とつるんで1日中遊び回っているかと思っていた。自分の可愛い息子が風来坊のようにほっつき歩いているのを見て顔色を変えない父親はいないだろう。だからワシはお前を寮に入れようと決めたんだ。ただそれだけの話だったんだ、マンサーラーム!ワシはお前の遊びを止めたいとは思っていなかった。お前の今の状態を見ると、ワシの心はチクチク痛むんだ。昨日、ワシは自分の間違いに気付いた。お前は心ゆくまで遊んでいい、朝でも夕方でも、広場に行って遊びなさい。新鮮な風に触れなさい。何か必要なものがあったらワシに言いなさい。母さんに言う必要はない。母さんは家にいないものと思いなさい。お前の母さんは亡くなってしまったが、ワシはまだいるぞ。」

 マンサーラームの純粋で誠実な心は父性愛に触れて恍惚となった。目の前に神様の化身が立っていると感じた。絶望と焦燥により打ちひしがれ、父親のことを残酷だとか、他にもいろいろ誤解していた。継母にも何の不平もなかった。今や彼は、神様に等しい父親に対して多くの罪を犯してしまったことに気付いた。父親に対する愛情が波のように沸き起こり、マンサーラームは父親の足元にひれ伏して泣き出した。すると、トーターラームに憐憫の情が沸き起こって来た!一瞬でも目の前からいなくなったら心配で心配でたまらなかった愛息子を、知人にも他人にも自慢してはばからなかった賢く誠実で行儀のいい愛息子を、どうしてこんな厳しい視線で見るようになったのだろう?自分の可愛い息子を敵と見なして、家から追い出そうとしていた。父と息子の間には、ニルマラーが壁となって立っていた。ニルマラーを自分の方へ向けるために、後ろに下がらなくてはならなかった。父と息子の間の溝は深まっていくばかりだった。結果、今のような状況となってしまった。自分の実の息子を貶めようとしていた。今日、彼はよく考えた後、ひとつの方針を決めた。ニルマラーを間から取り除いて、自分の片腕同然の息子を自分の方へ引き寄せることにしよう。彼はこの方針を実行に移し出した。しかし、それによって望むような結果が得られるかどうか、誰にも分からなかった。

 ニルマラーは、トーターラームが必死の説得にも関わらずマンサーラームを寮に送ることを決めた日から、マンサーラームから英語を習うのを止めていた。そればかりか、彼と話そうともしなかった。ニルマラーは、夫が自分を疑っていることに何となく気付いていた。こんなに疑り深い人だったなんて!神様、この家を守って下さい!あの人は何か悪い考えに取り付かれているわ!私のことをそこまで見下しているなんて!そう考えながら、ニルマラーは何日間も泣き暮らしていた。だが、次第に彼女は考え始めた。どうしてあの人はそんな疑いを持ち始めたのかしら?あの人を苛立たせるようなことを私はしたかしら?ニルマラーは考えに考えたが、身に覚えがなかった。もしかして、マンサーラームに英語を教えてもらったり、一緒に話したりすることがいけないのかしら?それなら、もう私は彼から習ったりしないし、間違っても話したりしないわ。彼の姿も見ないようにしましょう。

 しかし、そうすることは彼女にとって非常に苦痛であった。マンサーラームと話すと、彼女の想像力は膨らみ、心は満たされるのだった。彼と話すと、言葉では表せないほどの無限の喜びを感じるのだった。彼女の心には、不純な欲望は少しもなかった。彼女は、マンサーラームと禁断の恋愛をしようなどとは夢にも考えることができなかった。あらゆる生物には、自分と同じ種の存在と戯れたいという自然の欲求があるものだ。彼女にとって、マンサーラームと話すことはその欲求のひとつの表れであった。今やニルマラーの心には、満たされない欲求が灯りのように燃え始めた。彼女の心は未知の欲求によって揺さぶられていた。何か失くしてしまった物をあちこち探し回っていた。そこに座ったと思ったら、またあそこに座るということを繰り返した。どの仕事にも集中できなくなってしまった。ただ、トーターラームがやって来ると、彼女は自分の全ての欲望を悲しみに沈め、微笑みながら彼と世間話を始めるのだった。

 昨日、トーターラームが食事をして裁判所へ出掛けると、ルクミニーはニルマラーをこっぴどく罵った。「ここで子供の世話をしないといけないって知ってたんだったら、どうして家族にこことは結婚したくないと言わなかったんだい?夫以外誰もいないところに嫁いでりゃよかっただろ。お前のその自慢の容姿を見て満足するような男と結婚すればよかっただろ。あの中年男にお前の美貌の何が役に立つんだい?弟は子供の世話をさせるためにお前と結婚したんだよ、お楽しみのためなんかじゃないんだよ。」

 ルクミニーは長い間、ニルマラーの傷に塩を塗りつけていたが、ニルマラーはうんともすんとも言わなかった。彼女は弁解をしたい気持ちでいっぱいだったが、何もすることはできなかった。もし彼女が、私は夫に言われたことをしているだけよ、とでも言おうものなら、壺のひとつやふたつが割れていたことだろう。もし彼女は自分の間違いを認め、それを直したならば、いったいどんな結果になるのか分からなかった。彼女は元々思ったことをはっきりと言う性格であり、真実を言うのをためらったり恐れたりはしなかった。だが、いかんせん微妙な立場に立たされており、彼女は沈黙を守らざるをえなかった。その他にいい方法はなかった。彼女は、マンサーラームが落ち込んでいるのを知っていた。マンサーラームが日に日に痩せ衰えて行くのにも気付いていた。しかし、彼女は何も言うことができなかったし、何もすることもできなかった。このときのニルマラーはまるで、泥棒の家に泥棒が入ったときのような状態であった。

第8章

 何らかの事象が我々の期待に反したとき、心に悲しみが沸き起こるものだ。マンサーラームは、ニルマラーが彼の告げ口をするなどとは考えてもいなかった。だから彼は非常に落ち込んでいた。母さんはどうして告げ口なんてしたんだろう?何をしたいんだろう?僕の学費や生活費が父さんの稼ぎを食いつぶしていると思っているんだろうか?僕を家から追い出そうと思っているんだろうか?僕がいなくなれば、母さんの取り分が増えるだろう。母さんは僕にいつも優しい。母さんの口から一度も汚ない言葉を聞いたことはない。それは全部演技だったんだろうか?そうかもしれない。鳥を罠にかけるために、猟師は餌を撒くものだ。あぁ!やっぱり餌には罠があるんだ!母さんの愛情は、僕を追放するための準備だったのか!

 僕がこの家にいるのがそんなに気に食わないんだろうか?母さんの夫は、僕の父親じゃないか?父親と息子の関係は、夫と妻の関係よりも親密じゃないと言うのか?でも、僕は母さんの絶対的支配を妬んだりしていない。母さんがすることに僕は何も口出していない。なら、どうして母さんは僕から父さんを奪おうとするんだろうか?母さんは、自分の帝国の領内で僕が木の陰に座って休むことも許さないんだろうか?

 そうだ、母さんはきっと、僕が大きくなったら父さんの財産を受け継ぐ立場にいると考えているに違いない。だから、今の内から僕を追い出そうとしているんだろう。僕に対してそんな疑いを持たなくてもいいのに、どうやって説得すればいいんだろう?マンサーラームは母さんを害する前に毒を飲んで死んでしまう人間であるということを、どうやって伝えればいいんだろう?マンサーラームはどんな困難を耐え忍ぼうとも、それが母さんの心の中の棘になることはないのに。父さんは僕に生をくれたし、今でも僕に対する愛情は減っていないだろう。でも、新しい母さんと結婚したときから、父さんは僕を自分の心の外に置いたことくらい、僕だって理解している。僕たちは孤児のようにこの家に住めばいい。この家は僕たちのものではないんだ。前世の行いのおかげで、他の孤児に比べたら僕たちの状態はまだましだ、でも孤児には変わりない。僕たちは、母さんがあの世へ逝ってしまったときから孤児になってしまったんだ。あのときはそうは思わなかったけど、父さんが再婚してそれがはっきりと形となったんだ。僕は前々から新しい母さんとは特に関係を持っていなかった。もしあの頃に母さんが父さんに僕の告げ口をしていたなら、多分こんな悲しみは起こらなかっただろう。僕は何の衝撃も受けなかっただろう。僕は小間使いとして働くことだってできる。でも、悪いときに母さんは僕を傷つけた。肉食動物は油断した人間を襲うものだ。だから僕に対してあんなに親切にしてくれていたんだ。だから食事に少しでも遅れたら、呼びに来てくれていたんだ。だから早朝新鮮なハルワー(甘いお菓子)を作ってくれていたんだ。だから何度も何度も、お金の必要はないか聞いてくれてたんだ。だから100ルピーの時計を買ってくれたんだ。

 しかし、僕のことを風来坊と呼ぶ他に、別の告げ口を思い付かなかったのだろうか?そもそも、母さんは僕がふらふら遊び歩いているのを見たことがあるのだろうか!マンサーラームは勉強に身が入っていない、マンサーラームは事あるごとに小遣いを要求する、そういう告げ口をすることもできただろう。よりによってどうしてそんな告げ口をしたのだろう?多分、それが僕に一番大きな傷を負わせる手段だと考えたから、そうしたんだろう。母さんは僕を一撃で打ちのめそうとしたんだ。父さんが僕に対して失望するように仕向けたんだろうか?僕を寮に送るのはただの言い訳だ。僕を牛乳に入ったハエのようにつまみ出すのが目的なんだ。2、3ヶ月後に、僕への仕送りも止めてしまうつもりだろう。僕が生きようと死のうと後は野となれ山となれだ。もし、この計画が全て母