スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2005年12月

装飾下

|| 目次 ||
映評■2日(金)Mr Ya Miss
映評■2日(金)Home Delivery
競技■4日(日)サーニヤー・ミルザー激写!
分析■6日(火)デリーの英雄、クルディープ・スィン
分析■6日(火)インドの人気観光地トップ47
映評■6日(火)Apaharan
映評■9日(金)Neal 'N' Nikki
映評■9日(金)Ek Ajnabee
分析■11日(日)ボリウッドと数秘学は相性悪し?
映評■12日(月)Kalyug
旅行■13日(火)シェーカーワーティー・ツーリング(1)
旅行■14日(水)シェーカーワーティー・ツーリング(2)
旅行■15日(木)シェーカーワーティー・ツーリング(3)
映評■18日(日)Bluffmaster!
分析■22日(木)ボリウッド vs ハリウッド
旅行■24日(土)ポンディチェリー
映評■27日(火)Vaah! Life Ho Toh Aisi
映評■29日(木)Dosti


12月2日(金) Mr Ya Miss

 12月に入り、デリーもだいぶ冷え込んできた。今日はPVRアヌパムで本日より公開の新作ヒンディー語を2本続けて見た。まず見たのは、個人的に以前から楽しみにしていた、「Mr Ya Miss」。プレイボーイの男が突然、女になってしまうという話である。僕が密かに応援している女優、アンタラー・マーリーが脚本、監督、主演を務めている。

 「Mr Ya Miss」とは、「ミスターかミスか」という意味。プロデューサーはラーム・ゴーパール・ヴァルマーなど3人、監督はアンタラー・マーリーとサトチト・プラーニク、音楽はニーティン・ラーイクワール。キャストは、アンタラー・マーリー、アーフターブ・シヴダーサーニー、リテーシュ・デーシュムク、アジンキャ・デーオ、ヴァルシャー・ウスガーオンカル、ディヴィヤー・ダッター、バラト・ダボールカルなど。

Mr Ya Miss
 サンジャイ(アーフターブ・シヴダーサーニー)は三度の飯よりも女の子が好きなプレイボーイだった。親友で同僚のシェーカル(リテーシュ・デーシュムク)は真面目な性格で、そんなサンジャイを諌めるが、彼は聞く耳を持たなかった。ある日、サンジャイは恋人の1人ラヴリーン(ディヴィヤー・ダッター)や他の女の子たちに浮気がばれ、後頭部を彫刻で殴られる。そのままサンジャイは昇天してしまった。【写真は、リテーシュ・デーシュムク(上)とアンタラー・マーリー(下)】

 サンジャイの魂はシヴァ(アジンキャ・デーオ)とパールワティー(ヴァルシャー・ウスガーオンカル)の前に行く。シヴァとパールワティーは、サンジャイに女性の気持ちを分からせるために、彼を女に変えて蘇生させる。サンジャイは自分が女になってしまったことに最初はショックを受けるが、仕方がないのでサンジャイの妹のサンジャナー(アンタラー・マーリー)と名乗って生活をし出す。

 サンジャナーは女になったことにより、じろじろ見てきたり、ヘラヘラ話しかけて来る男たちがいかにうざったいかを痛感することになる。そして次第に女性の気持ちを理解するようになる。また、親友のシェーカルはサンジャナーに一目惚れしてしまい、酔っ払った2人は一夜を共にしてしまう。しかもサンジャナーは妊娠してしまう。

 一方、ディヴィヤーはサンジャイがサンジャナーになって生まれ変わったことを知って驚き、サンジャイ殺害の罪をサンジャナーになすりつけようとする。彼女はサンジャイを殺した凶器の彫刻を密かにサンジャナーの家に置く。サンジャイの遺体が発見されると、サンジャナーはサンジャイ殺害の容疑者として逮捕されてしまう。サンジャナーに不利な証拠ばかりが見つかり、彼女の有罪は確定しそうになった。しかし、サンジャナーはシェーカルに頼んで自分が死んだ日に一緒にいた女の子たちを捜してもらい、証人になってもらう。そのおかげで裁判は大逆転となり、サンジャナーは無罪、今度はディヴィヤーが逮捕される。

 ・・・そのとき目を覚ますと、サンジャナーはサンジャイに、つまり男の体に戻っていた。サンジャイは一転して女性に気配りのできる男となり、今まで酷い目に遭わせて来た女性たち一人一人に謝る。

 男が女になったり、女が男になったりする性転換を題材にした話は神話時代からある。例えばギリシア神話では、盲目の賢人ティレシアスが有名だ。ティレシアスは元々男性だったが、交尾中の蛇を杖で打ったために呪われて7年間女性に姿を変えられてしまうという経歴を持っていた。あるときゼウスとヘラの間で、「性交による悦びは男と女、どちらが大きいか」という議題を巡って論争になったことがあった。ゼウスは「女の方が大きい」と言い張り、ヘラは「男の方が大きい」と主張した。決着が着かなかったので、男と女、両方の経験を持つティレシアスが呼ばれ、返答を求められた。ティレシアスは「女性の悦びの方が男性のものより10倍も大きい」と答えたという。性転換の話はギリシア神話だけではない。インド神話の中にも有名な逸話がある。カーシー王の長女アンバーは、自分を不幸にしたクル族の長老ビーシュムへの復讐を誓って自殺し、シカンディンという男に生まれ変わった。パーンダヴァとカウラヴァの間でマハーバーラタ戦争が勃発した際、ビーシュムはカウラヴァ軍を率い、シカンディンはパーンダヴァ軍に付いた。ビーシュムはシカンディンの前世が女性であることを知っていたために彼を攻撃することができず、結局それが弱みとなってビーシュムは殺されてしまう。日本ですぐに思いつくのは、大林宣彦監督の「転校生」(1982年)の原作となった山中恒著の有名な児童文学「おれがあいつであいつがおれで」だろう。性転換とは少し違うが、男の子と女の子の体が入れ替わってしまう話だった。

 結局、性転換というのは人類が共通して持っている想像力のひとつだと言えそうだ。男が女になってみたいと思い、女が男になってみたいと思うのは、基本的な願望や欲求なのだろう。だが、性転換を巡ってどんなストーリーが作られるのかはお国柄が出そうだ。ボリウッド版性転換物語「Mr Ya Miss」を見ていて、インド人の感性が非常によく分かったような気がする。

 まず、「Mr Ya Miss」において主人公の男を女に変えてしまったのがシヴァとパールワティー、つまり神様だったのは、いかにもインドっぽいところだ。数あるヒンドゥー教の神様の中からシヴァとパールワティーが選ばれたのは、やはり2人が生殖に密接な関係を持っているからであろうか。しかも男が女に変えられてしまった理由もただの罰ではなく、「女性の苦労が分かるように」という試練のような形であった。そしてその試練を耐え忍ぶ内に主人公の改心が起こる。こういうところにも「インド映画の良心」、つまり道徳観が表れていると思う。主人公が女になってしまった後の展開も、日本人の想像から少しかけ離れていた。もし日本人の脚本家が同じような話を作ったら、もっといやらしい方向に進んでいくのではなかろうか?だがあくまで「Mr Ya Miss」は節度を守った下ネタ程度に抑えられていた。主人公が、女になってもあくまで男っぽい態度を取っていたのが一番の要因であろう。男が女になった際、一番問題になるのは生理だと思うのだが、それも全く触れられていなかった。インド映画ではまだまだその部分には触れられない事情があるのだろう。最後は裁判で締めくくられるところもインド映画のお得意の展開であった。総じて、性転換を題材によくここまでインド映画的テイストにまとめたな、と感心してしまった。立ち小便をしようとした瞬間に男から女に転換してしまうという絶妙な演出もよかった。


朝起きたら親友が裸で隣に!

 この映画は正にアンタラー・マーリーのためにあるようなものだ。何しろ彼女が監督、脚本、主演を務めているのだ。アンタラー・マーリーは「Road」(2002年)、「Main Madhuri Dixit Banna Chahti Hoon」(2003年)、「Naach」(2004年)などで主演していた。僕は彼女のことを、現在ボリウッドで最も才能のある女優だと自信を持って言うことができる。踊りがやたらうまいし、演技も素晴らしい。それほど美人ではないが、それを補って余りある迫力がある。そしてお腹の筋肉が素晴らしい!「Mr Ya Miss」でも、「女になってしまった男」という難しい役を違和感なく演じていた。彼女がいなかったらこの映画は全く成立しなかっただろう。また、重要なのは、この映画のストーリーが「男が女になる」である一方、演技の面では「女が女になった男を演じる」という逆の過程を辿ることである。アンタラー・マーリーはインタビューの中で、「男になりきるのは自転車に乗るのと似ていた。最初は難しかったが、慣れたら何でもなくなった」と述べていた。また、男の行動を真似る内に、「男の欲望がよく理解できた」とも言っていた。

 女になってしまった親友サンジャイに恋してしまう純朴な男シェーカルを演じたリテーシュ・デーシュムクも素晴らしかった。リテーシュはマハーラーシュトラ州の州首相ヴィラースラーオ・デーシュムクの息子で、親の七光りでボリウッド・デビューを果たしたようなものだ。あまりハンサムでもなく、演技力が特別あるわけでもないのだが、二枚目半から三枚目ぐらいの間の役柄を演じさせたらなかなかフィットする俳優に成長してきた。だが問題なのは、その手の「駄目男」「優男」系若手男優が最近やたらと増えて来たことだ。トゥシャール・カプール、ウダイ・チョープラー、ジミー・シェールギルなどなど・・・。だが、アジャイ・デーヴガンが「駄目男」系男優から見事脱皮して現在では立派に活躍しているのを見ると、彼らにもチャンスはあると思われる。

 アーフターブ・シヴダーサーニーはいつの間にかハンサム系男優になってしまっている。シャールク・カーンに非常に影響を受けた表情作りをしていると思う。残念ながらこの映画の中ではそれほど活躍の場はなかった。脇役で最も光っていたのは、サンジャナーを罠にかける悪女ラヴリーンを演じたディヴィヤー・ダッターであろう。サンジャナーは裁判の判決前にラヴリーンに対して、「オレは男としては最低だったかもしれないけど、女としてはお前より何倍もマシだ」と言う。そのときの彼女の表情は非常に上手かった。

 僕はこの映画に最高レベルの賞賛を与えたいが、2つだけ欠点があった。まずひとつはミュージカル・シーンが邪魔だったこと。一応数ヶ所にミュージカルが挿入されるが、歌詞も音楽も踊りもあまり冴えておらず、削除しても構わないと思った。ダンスシーンjがあった割にはアンタラー・マーリーの踊りを存分に見れなかったのも不満点であった。もうひとつの欠点は、最後のまとめ方があまりにあっけなかったことだ。最後のシーンで、改心したサンジャイは今まで酷い目に遭わせて来た女の子たちに1人ずつ謝りの電話を入れるのだが、もう少しひねった終わり方でもよかったのではないかと思う。

 男が突然女になってしまったら一体どうなるのか、そしてインド人はそれをどう描くのか、そんなことを考えながら見ることもできるし、ただ単にコメディー映画として楽しむこともできる。「Mr Ya Miss」は今一番オススメのインド映画だと言える。

12月2日(金) Home Delivery

 本日見た2本目の映画は「Home Delivery」。やはり本日より公開の新作ヒンディー語映画である。デリーの映画館の上映状況を見ると、「Mr Ya Miss」よりもこちらの「Home Delivery」の方が上映回数や上映館数が多かった。通常、同日に新作映画が数本公開された場合、面白い映画の方が上映回数や上映館数が多くなるので、何を見ようか迷ったら新聞の映画館情報を見てどれが一番拡大公開されているか調べるといい。だが、今回ばかりは失敗だった。「Home Delivery」よりも「Mr Ya Miss」の方が断然面白い映画だった。

 映画の題名は「Home Delivery」、副題は「Aapko... Ghar Tak(あなたを・・・家まで)」。監督は「Jhankaar Beats」(2003年)のスジョイ・ゴーシュ、音楽はヴィシェール・シェーカル。キャストは、ボーマン・イーラーニー、ヴィヴェーク・オベロイ、アーイシャー・タキヤー、マヒマー・チャウドリー、ソウラブ・シュクラ、ティックー・タルサニヤー、アーリフ・ザカリヤーなど。これら主要キャストの他、豪華な顔ぶれがチョイ役で出演する。ナスィールッディーン・シャー、ヴィクター・バナルジー、カラン・ジャウハル、ジューヒー・チャウラー、アビシェーク・バッチャン、スニール・シェッティー、サンジャイ・スーリー、リテーシュ・デーシュムク、ピーヤー・ラーイ・チャウドリーなど。リティク・ローシャンは名前だけ登場。また、挿入歌の内、テーマ曲「Home Delivery」をボーマン・イーラーニーが、「Maya」をサンジャイ・ダットが歌っている。

Home Delivery
 サニー(ヴィヴェーク・オベロイ)は、タイムズ・オブ・ヒンドゥスターン紙の相談コーナーで「ギャーン・グル(知恵の導師)」を名乗って人々の悩みを解決する仕事をしていた。だが最近の彼はスランプ状態で、有名監督カラン・ジャウハル(実名出演)から脚本の仕事を頼まれたもののアイデアが浮かばず、新聞の編集者(ジューヒー・チャウラー)の電話にはいつも仮病で対応していた。サニーにはジェニー(アーイシャー・タキヤー)という婚約者がいた。サニーは彼女のこと「ナーニー(母方の祖母)」と呼んでいた。ジェニーは結婚を催促していたが、サニーは踏み出せないでいた。サニーの住むマンションにはおかしな住民たちが住んでいた。向かいの部屋に住むパーンデーイ(ソウラブ・シュクラ)はもう頭は禿げ上がり、腹も出っ張っているが、未だに独身かつブラフマチャリヤ(童貞)だった。パーンデーイは毎日のようにサニーの家に上がりこんできて、食べ物を勝手に食べたりTVを勝手に見たりしていた。下の階に住むグングナーニー(ティックー・タルサニヤー)は、自分のことを伝説の音楽家ターンセーンと同一視しており、毎日のように「ラ〜ワルピンディ〜」とカッワーリーを歌って近所の人々を困らせていた。【写真は、左の列の上からボーマン・イーラーニー、マヒマー・チャウドリー、ソウラブ・シュクラ、ティットゥー・タルスニヤー、アーリフ・ザカリヤー、ヴィヴェーク・オベロイ、アーイシャー・タキヤー】

 サニーはTVのインタビュー番組に出演し、昔からの憧れであった南インド映画スター、マーヤー(マヒマー・チャウドリー)と対面を果たす。マーヤーは北インド映画進出の野望を抱いており、カラン・ジャウハル監督の脚本を担当しているサニーを誘惑する。誘惑に負けたサニーはディーワーリーの前日にマーヤーを家に呼ぶ。その日はジェニーは親元へディーワーリーを祝いに行く予定だった。ジェニーが出掛けると、サニーはマーヤーの大好物のガージャル・カ・ハルワーを作り始めるがうまくいかない。また、彼は昼食のためにマミーズ・ピザにピザの出前を頼む。

 サニーの家にやって来たのは、マイケル(ボーマン・イーラーニー)という51歳のおじさんだった。マイケルはちょっと頭が弱い部分があったが、心はとても優しかった。サニーはマイケルにガージャル・カ・ハルワーを作らせる。だがそのとき、サニーのことを心配したジェニーが突然家に帰って来てしまう。サニーは何とかジェニーを家の外に連れ出すが、その間にマーヤーが家に来てしまう。マーヤーはマイケルと一緒にサニーの帰りを待つ。そのときサニーの家にパーンデーイが上がりこんで来る。パーンデーイは新しいビジネスとして映画制作をしようと考えていたのだが、それを聞いたマーヤーは彼に興味を示し、そのままパーンデーイの家に行ってしまう。パーンデーイはブラフマチャリヤを卒業する。

 何とかジェニーを遠くへやって家に戻って来たサニーだったが、既にマーヤーは立ち去った後だった。しかもサニーはギャーン・グルの仕事をクビになってしまう。落ち込むサニーに追い討ちをかけたのは、マイケルの一言だった。なんとマイケルはカラン・ジャウハル監督からの電話に出て、サニーがマイケルに冗談で話した「マハーバーラタ」から着想を得たありきたりの筋を話してしまったのだ。カラン・ジャウハルに「マハーバーラタ」?これでカラン・ジャウハルの仕事も失ってしまったも同然だった。さらに落ち込むサニー。彼はマイケルに罵声を浴びせかけて追い出す。と、そこへジェニーが帰って来る。サニーは自暴自棄になり、ジェニーに結婚する気はないことを伝える。怒ったジェニーは立ち去ってしまう。サニーは1日の内に全てを失ってしまった。

 だが、サニーのところへカラン・ジャウハル監督から電話がかかってくる。なんと監督はマイケルが話した筋が気に入ったらしい。喜ぶサニー。早速マイケルのところへ行って謝る。サニーはマイケルから妻ラーマーのことを聞いており、一度会わせてほしいと頼む。マイケルに連れられて家の中に入ったサニーが見たものは、亡くなった妻ラーマーの肖像画であった。愛の意味を悟ったサニーは、マイケルを連れてジェニーの元へ行き、父親(ヴィクター・バナルジー)から預かった母親の指輪をジェニーに渡す。こうしてマイケルは、一度「家」を失ってしまったサニーをホーム・デリバリーしたのだった。

 全くインド映画の文法を無視した作品。インド人観客は絶対に付いていけないだろうし、制作者側もうまくこの新感覚のストーリーを扱いきれていなかった。多くの登場人物が一見支離滅裂な人間関係を築いていくのだが、それが最後でひとつにまとまる、という筋にしたかったと思うのだが、技術不足で何を描きたかったのかあやふやになってしまっていた。インド映画をこまめに見ている人なら、豪華なメンバーのカメオ出演を楽しむことはできるだろうが、それ以外の楽しみ方はほぼ不可能な映画だ。

 まとめにくいストーリーだったが、上のあらすじに何とかまとめておいた。細かいところを見ていくと非常に謎な部分が多い。主人公のサニーは「ギャーン・グル(知恵の導師)」を名乗ってタイムズ・オブ・ヒンドゥスターン紙(インドの二大大衆新聞、「タイムズ・オブ・インディア」と「ヒンドゥスターン」を掛け合わせた名前)の読者相談コーナーを受け持っているのだが、特に「ギャーン・グル」がストーリー上重要な伏線となるようなことはなかった。サニーがなぜ父親と対立しているのか、ジェニーと結婚したくないのか、も詳しく説明されていなかった。サニーの妹のアンジューは映画の冒頭で出て来るにも関わらずその後ほとんどストーリーとは関係なかった。マーヤー役のマヒマー・チャウドリーは頻繁にサーリーのパッルー(胸にかけている部分)を落として豊満な胸の谷間を見せびらかしていたが、それも場違いな印象を与えた。アーリフ・ザカリヤーが演じるP3Pというセレブだけを狙う連続殺人犯もうまく活かされていなかった。マイケルがサニーを家族の元へ「ホーム・デリバリー」するという最後の決め台詞も、唐突過ぎて困惑した。コメディーの切れも悪いし、ミュージカルも非常になめたものしかなかった。

 ヴィヴェーク・オベロイは最近「Vivek Annand Oberoi」という名前で映画に出演している。どうも「Kyun! Ho Gaya Na...」(2004年)や「Kisna」(2005年)など主演作のフロップ(失敗作)続きで運勢を変えたかった彼は、数秘学者に相談して幸運を呼ぶ名前をつけてもらったようだ。だから、これからはそれを尊重してヴィヴェーク・アーナンド・オベロイと書くことにする。しかし、思い切って名前をマイナーチェンジしたヴィヴェーク・アーナンド・オベロイであったが、残念ながら本作品もフロップで終わるだろうし、彼の演技にも特に顕著な成長は見られなかった。

 すっかり演技派コメディアンとしてボリウッドに定着したボーマン・イーラーニーも、今回は押さえ気味の演技であまり目立った活躍をしていなかった。マヒマー・チャウドリーに至っては、一体出演する必要があったのか、と疑問に思った。一応一時期はボリウッドを代表する女優だったのだから、もっと威厳を持った役選びをする必要があるのではなかろうか?それともこんな役に出演せざるをえないほど困窮しているのだろうか?

 それらの名の知れた俳優たちに比べ、アーイシャー・タキヤーの方が光っていた。彼女はまだデビューしたばかりだが、どの映画に出ても「アーイシャー・タキヤーだ」という存在感がある。シャールク・カーン型の役者だと言える。絶対にこれから急成長していく若手女優の1人だと僕は考えている。

 「Home Delivery」は期待作のひとつに数えられていたのだが、残念ながら見所を探すのが難しい駄作に終わってしまっていた。間違っても普通に期待して見てはいけない作品である。「ウォーリーを探せ」みたいにカメオ出演の有名スターを探す目的なら何とかなるか。

12月4日(日) サーニヤー・ミルザー激写!

 今年ももう最後の月になってしまった。昼食を食べた後、「い〜んディア写真館」に載せる写真を整理していた。愛用していたキヤノンのデジカメ「IXY DIGITAL 30」が9月末に壊れてしまったため、今年後半は数ヶ所旅行へ行ったにも関わらずあまりいい写真が撮れなかった。とは言え、完全に壊れてしまったわけではなく、時々正常に写るので、そういうときに何とか撮影に成功した中でいい写真をピックアップして掲載しておいた。また、友人のカメラを借りて撮影した写真の中で気に入ったものもいくつか載せさせてもらった。ちなみに僕のカメラは現在修理に出している。

 さて、そういう訳で写真を整理していたわけだが、そのとき突然友人から電話がかかってきた。友人が言うには、今デリーにソニアが来ている、とのことだった。ソニアって・・・ソニア・ガーンディー?そんなもん元から政府の要人が住む豪華バンガロー集合地帯「10 Janpath」に住んでるだろう、と電話を切ろうとしたが、彼の「え〜っと、何だったっけ、テニス選手の・・・」という言葉に敏感に反応した。

――も、もしや、サーニヤー・ミルザーか!?

 サーニヤー・ミルザーと言えば現在世界ランク32位のインド女子テニス界の若きホープであり、一応僕は彼女のファンを自称している。そのサーニヤーが出る試合が本日RKカンナー・テニス・スタジアムで行われるとのことだった。同スタジアムは、実は僕の家から徒歩10分ほどの地点にある。チケットは、デリーの日本食材店として有名な大和屋で先着順で無料配布されているとの情報も得た。試合開始時刻は2時半。あと15分くらいしかない!すぐさまPCの電源を切り、身支度を整え、やはり徒歩1分の地点にある大和屋でチケットをもらった。チケットの裏に記載されていた注意事項を見てみると、「試合中はカメラのフラッシュをたかないで下さい」と書かれていた。ということはカメラ持ち込み可ということか。そこで、やはり近所に住んでいる友人のところへカメラを借りに行った。彼は、キヤノンの一眼レフデジカメ「EOS Kiss Digital」と望遠レンズを持っている。首尾よくカメラを借り受けると、オートを拾って早速スタジアムへ向かった。

 試合会場に着いたのは2時45分頃だったが、ご多分に漏れずまだ試合は始まっていなかった。撮影に適した場所を探したが、既に前の方の席は埋まっていた。仕方なく裏の方の席で、コートをよく見下ろせる場所に陣取った。実はあまりテニスについてはルールを理解しているくらいであまり知識がない上に、生でプロの試合を見るのはこれが初めてだったので、テニスに関する突っ込んだ解説や感想は期待しないでもらいたい。

 今回開催された試合のタイトルは「ABN AMRO TENNIS CHALLENGE」。4試合が予定されており、その内の3試合はインド対オランダの1セット制展示試合であった。第1試合はインドのシカー・オベロイ対オランダのミカエラ・クライチェク、第2試合はインドのマヘーシュ・ブーパティ対オランダのリカルド・クライチェク、第3試合はトーナメントの決勝戦でカラン・ラストーギー対ハルシュ・マンカド、第4試合は男女混合ダブルスの特別展示試合で、マヘーシュ・ブーパティ&サーニヤー・ミルザー組対ミカエラ・クライチェク&リカルド・クライチェク組であった。名前から分かる通り、リカルドとミカエラは兄妹である。

 午後3時頃からシカー・オベロイ対ミカエラ・クライチェクの展示試合が始まった。シカー・オベロイは、ボリウッド男優ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイの従姉妹であり、現在は米国に住んでいる。サーニヤーほどの人気はないが、インド人テニスファンの注目を集めている選手だ。妹のネーハー・オベロイもテニス選手である。対するミカエラ・クライチェクは現在世界ランク52位とアナウンスされていたと記憶している。試合はかなり拮抗したものとなり、フルセットまで行ったが、結局ミカエラが僅差で勝利した。

 
ミカエラ・クライチェクとシカー・オベロイ

 次に、マヘーシュ・ブーパティ対リカルド・クライチェクの試合が行われた。マヘーシュ・ブーパティはインドを代表するテニス選手であり、五輪銀メダリストのリーンダー・パエスとの黄金コンビで知られている。対するリカルド・クライチェクはウィンブルドン優勝経験を持ち、世界ランク自己最高4位を保持する強豪である。彼の得意とする強力な弾丸サーブは、ブーパティがしゃがみ込むほどすさまじかった。インド人観客からも驚きの歓声が漏れていた。男子の試合は球の速さが全然違う。男子の試合を見たら、女子の試合は子供の遊びみたいだと思った。ブーパティもかなり健闘したのだが、やはり弾丸サーブで圧倒的なアドバンテージに立っていたクライチェクが勝利を収めた。


マヘーシュ・ブーパティ

 第3試合はインド人の若手男子選手同士の試合となった。カラン・ラストーギー対ハルシュ・マンカドの決勝戦で、この試合だけ3セット制だった。この試合に勝った選手が、後日オランダで行われる「ABN-AMRO世界テニス選手権」のワイルドカードを手にする。26歳のハルシュ・マンカドは世界ランク226位、インドではけっこう名の知れたテニス選手のようで、試合を見ていても明らかに技術では彼の方が勝っていた。しかし、運では19歳のカラン・ラストーギーの方が勝っていたと見え、重要な場面で点を取ってセットポイントを着々と積み重ねて行ったのも彼だった。結局ラストーギーが7-6、6-2でマンカドを下した。

 ところで、なかなかサーニヤーが出て来なかったことに業を煮やしたのか、それとも急に試合から華々しさが消えたからなのか、この第3試合になるとインド人観客のマナーがかなり悪くなった。試合途中に席を立ってごそごそ歩き回ったり、ペチャクチャしゃべったりと、滅茶苦茶だった。しかも日が暮れて気温が急速に下がって来たので、観客席は居心地が悪くなった。だが、ここで帰ったら今までの我慢が水の泡となってしまうので、じっと耐え忍んでいた。

 午後7時頃にようやくサーニヤーの登場となった。一気に会場がヒートアップする。第4試合は本日のメインイベントである。何と言ってもインドを代表するテニス選手のマヘーシュ・ブーパティとサーニヤー・ミルザーがコンビを組むのが一番の見ものだが、対するクライチェク兄妹がコンビを組むのも実は初めてのことだったらしい。テニスファンには堪らない試合だったのではなかろうか。また、サーニヤーがデリーで試合をするのもかなり久し振りのことだったようだ。観客からもサーニヤー・コールが沸き起こった。しかし、あまり教養のない人々がファン層に多いのだろうか、「ミルザー」ではなく「ミルジャー」と発音されていて、少しずっこけ気味だった。田舎出身の人には、「ザ」の発音ができなくて、「ジャ」になってしまう人がけっこういる。僕はというと、望遠レンズを使って変態親父みたいにサーニヤーの動きを追って激写に没頭していたので、あまり試合には集中できなかったが、ちょっとサーニヤーはミスが目立ってさえてなかったように感じた。試合もクライチェク組が勝った。結局本日行われた展示試合3試合は、全てオランダ勢が勝ったことになる。

 負けてしまったとは言え、試合後の表彰式ではサーニヤー・ミルザーの声も聞くことができた。顔に似合わずちょっとおばさんっぽい声だった。音響装置が悪かったのか。デリーの人々へのサービスなのか、ヒンディー語でも少し話をしていた。ハルシュ・マンカドも少しヒンディー語で話をしていた。基本的に彼らは英語でインタビューなどに答えていた。彼らがヒンディー語で話すと、観客席からは歓声が上がっていた。それを見て少し思ったのだが、インド人がヒンディー語を話すと歓声が上がる、というのはヒンディー語の危機的な状況を浮き彫りにしているのではなかろうか?インドの第一公用語はヒンディー語なのだから、インド人がヒンディー語を話すのは当然のことではないか。それなのに、たとえ南インド人であっても、彼らがヒンディー語で話すことに大喜びするのは、ヒンディー語の未来にとってよくないことだ。インド人ならヒンディー語を話して当然、という雰囲気を作っていかなければならないだろう。

 ところで、肝心のサーニヤー・ミルザーの写真の方だが、あまりいいのが撮れなかった。スポーツの写真を撮るのは難しい。特にサーニヤー・ミルザーが登場したときには日が暮れていたので、フラッシュなし三脚なしで望遠で撮ると、ほとんどの写真がぶれてしまう。また、常に変化する被写体の絶好のポーズをカメラに収めるためには、ここぞというときにシャッターを押す勇気も必要だ。メモリーカードの容量が少なくて、合計15枚くらいしか撮れなかったのも痛かった。一応以下、サーニヤー関連の写真の中からよく撮れたものをピックアップした。


遂に登場、サーニヤー・ミルザー
マヘーシュ・ブーパティと共に


今日は残念ながらミニスカートではなかった。


マヘーシュ&サーニヤー組


試合後、クライチェク兄妹と健闘を讃えあう
というか、熱愛発覚写真!?


試合後のマヘーシュとサーニヤー

 写真を撮っている内に、こんな得体の知れない日本人にまでカメラで狙われるサーニヤーが可哀想になってきた。もうこれからはサーニヤーであれ、映画スターであれ、彼らをカメラで追いかけ回すのはやめようと思った。自分がそんな風に常にカメラの視線にさらされたら、気が狂ってしまうだろう。彼らも我々と同じ人間なので、人間として扱わないといけない。僕は良心の呵責を感じてしまうので、いいカメラマンにはなれないと感じた。

12月6日(火) デリーの英雄、クルディープ・スィン

 悲劇はときとして英雄を生み出す。10月29日のデリー連続爆破テロも、約60人の命を奪い、200人以上の負傷者を出したのと同時に、1人の英雄を生み出した。クルディープ・スィンである。デリー交通局(DTC)のバスの契約運転手で、1kmにつき1.3ルピーの給料で働いていた低賃金労働者の1人である。少なくとも10月29日までは・・・。

 デリー連続爆破テロでは3ヶ所で爆発が起こった。安宿街として有名なパハール・ガンジ、南デリー最大の庶民マーケットであるサロージニー・ナガル、そして南デリー南部のゴーヴィンドプリーである。この内、ゴーヴィンドプリーでの爆発では死者が出なかった。爆弾は32歳のクルディープ・スィン氏の運転するDTCバスに仕掛けられていたのだが、彼の活躍により大きな被害は免れたのだった。クルディープ・スィン氏に関する記事は、Yahoo!Japanでも紹介されていた。

 まずは午後5時25分頃、パハール・ガンジで最初の爆発があった。その15分後の午後5時40分頃、今度はサロージニー・ナガルで2度目の爆発があった。このテロのニュースは瞬時にデリー中を駆け巡った。すると、クルディープ・スィン氏が運転していたアウター・ムドリカー・バス(デリー全域を大回りに周回するバス)の乗客の1人が、不審なバッグが座席に置かれているのを車掌に報告した。クルディープ・スィンはすぐにバスをゴーヴィンドプリーのバススタンドに停車させ、乗客を下ろすと、その不審なバッグを開けてみた。その中には紛れもなく爆弾が入っていた。爆弾からは赤いワイヤーが出ていた。

 インタビューによると、クルディープ・スィン氏はそのとき、「ヒンディー映画のヒーローのように、配線を切断してその爆弾を解除しよう」という考えが頭をよぎったという。確かにボリウッド映画にはそういうシーンがよくある。例えばシャールク・カーン主演の「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」(2000年)の冒頭のシーンは印象的だ(失敗して爆発したが)。だが、最近の映画で思い付くのは、「Dus」(2005年)である。クルディープ・スィン氏は絶対に「Dus」を見て、そういう無謀なアイデアを思い付いたに違いない!しかし、ボリウッド映画のヒーローに完全に成り切ってしまうほど同氏は単純ではなかった。次の瞬間、バスに9本のガスシリンダーが搭載されていることを思い出したという。それが爆発したらとんでもないことになる・・・。そこで彼は爆弾を窓の外に放り投げることにした。だがそのとき、爆弾が爆発してしまった。この爆発により、クルディープ・スィン氏は皮膚の40%以上に火傷を負い、右手の2本の指を失った他、視力と聴力も失ってしまった。これを勇気ある行動ととるか、無謀な行為ととるかは人それぞれであろう。だが、交通事故を起こすと一目散に逃げ出してしまう悪質な運転手が多い中、車内に仕掛けられた爆弾の被害を最小限に抑える努力をしたクルディープ・スィン氏は、DTCバスドライバーの鑑と賞賛されてしかるべきであろう。クルディープ・スィン氏は一命を取り留めたが、事件から1ヶ月以上が過ぎた今でもまだ全インド医科大学(AIIMS)に入院中である。

 クルディープ・スィン氏の活躍はすぐにデリー市民の話題の的となった。DTCの運転手仲間たちは彼の写真を事務所に飾り、一刻も早い回復を祈っている。入院中の同氏のもとには、政治家や有志の市民ための見舞いが相次いでいる。DTCの契約運転手だった彼は、この活躍により正式運転手に昇格すると同時に、デリー政府からは20万ルピーの報奨金を得た。だが、クルディープ・スィン氏の唯一の願いは、「もう一度バスを運転したい」というものである。

 12月6日付けのザ・ヒンドゥー紙によると、AIIMSに入院中のクルディープ・スィン氏の運転手復帰のための試みが始まろうとしているようだ。運転手として最も重要なのは視力である。彼の左目は完全に視力を失い、右目は部分的に視力があるだけだ。医者によると、右目の視力が回復する可能性は75%あるという。一方、左目の治療のためにもうすぐ硝子体網膜手術なる手術が行われる予定で、それが失敗したら、角膜幹細胞治療という最新医療技術の適用も検討されているという。左目の視力の回復の可能性は50%。果たして彼が再びバスを運転できるようになるかは分からないが、少なくとも彼がクリスマス辺りに出産が予定されている自分の子供を見ることができるようにしたいと医者は意気込んでいる。


クルディープ・スィン氏(The Hinduより)

 ちょうどクルディープ・スィン氏のことがデリーで話題になったとき、僕はジャイサルメール旅行に出ていたために知ることができなかった。彼のことを初めて知ったのはYahoo!Japanのニュースだった。その後彼がどうなったか気になっていたのだが、本日の新聞で、多くの人々の支援のもとに回復の道を歩みつつあることが分かって安心した。まさにワーキング・クラス・ヒーロー。これからも彼の回復を経過を追っていこうと思う。

12月6日(火) インドの人気観光地トップ47

 12月6日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に、国立応用経済研究所(NCAER)が観光省のために行った国内観光実態調査の結果が発表されていた。その記事の副題は「ベンガル人とグジャラート人は、旅行好きの栄誉をカンナダ人に奪われた」というものだった。

 元々インド人の間では、旅行好きなのはベンガル人とグジャラート人というイメージが定着していたようだ。「ボング(ベンガル人)とグッジュー(グジャラート人)はどこでもいる」という諺まであるらしい。確かに今年11月にラージャスターン州ジャイサルメールに行ったときはグジャラート人観光客の多さに辟易したものだった。去年マハーラーシュトラ州の避暑地に行ったときも、主要な避暑客がマハーラーシュトラ人ではなくグジャラート人であることを不思議に思ったものだった。ノース・イースト地域やブータンを旅行したときには、ベンガル人観光客の多さを目の当たりにした。ヒンドゥー教の聖地として知られるヴァーラーナスィーには昔からベンガル人が多く詰め掛けていたようで、ベンガリー・トーラー(ベンガル人居住区域)という地名も残っているくらいだ。

 だが、NCAERの調査によりその神話が崩された。2002年の国内観光の実態を調査したところ、国内旅行者の数は3300万人で、その内訳を州別で見てみると、1位がカンナダ人で610万人、2位はタミル人で370万人、3位は290万人でマハーラーシュトラ人とベンガル人が並び、グジャラート人は280万人で5位だった。ちなみに2001年の国勢調査における各州の人口は、カルナータカ州が約5300万人、タミルナードゥ州が約6200万人、マハーラーシュトラ州が約9700万人、西ベンガル州が8000万人である。それと比べてみても、カンナダ人の旅行者数が飛びぬけて多いのは明らかだ。

 しかし、この調査において真っ先に浮かぶ疑問は、「旅行」をどう定義しているか、だ。住んでいる街から一歩でも外に出たら「旅行」なのだろうか?ビジネス目的の出張も「旅行」なのだろうか?観光地を訪れた時点で「旅行」になるのだろうか?その答えは新聞記事にはなかったが、調べてみたところ、どうやら、「レジャー、巡礼、社会儀礼、ビジネス、学術調査や治療を目的とし、日常の住居以外の宿泊施設で1泊以上、6ヶ月以内の滞在をしたインド人」が、「国内旅行者」になるようだ。同調査ではインド人旅行者の目的別割合も算出されていた。レジャー目的で旅行するインド人旅行者は全体の6%、巡礼などの宗教目的で旅行するインド人旅行者は全体の13.8%、最も多いのは、結婚式や葬式、親戚や友人に会うことが目的の社交旅行で、実に全体の58.9%も占めている。インド人の旅行に対する意識は、明らかに日本人のそれとは異なる。

 そうなると、インドの中でカンナダ人が最も旅行好きと考えるのは短絡的なように思える。普通、「旅行好き」と言ったら、レジャー目的の旅行を趣味としている人のことを言うのではなかろうか?僕は、カンナダ人がそこまで趣味で旅行しているとは思えない。一方、ベンガル人やグジャラート人は避暑や観光など、外国人旅行者と似た旅行意識を持っているように思える。やはりベンガル人やグジャラート人が真の旅行好きなのではないだろうか?だが、それでも飛び抜けて多くのカンナダ人が旅行をしている理由がよく理解できない。

 タイムズ・オブ・インディア紙の記事では、インドの人気観光地に関するランキングも発表されていた。ところが完全なランキングではなかったため、元のデータをどうしても見たくなった。検索の結果、苦労して見つけ出したのがコレである。そこには、インドの2002年の人気観光地トップ47が載っていた。以下、それを抜粋。

 地名  州
ティルパティ/ティルマラー アーンドラ・プラデーシュ州
プリー/ブバネーシュワル オリッサ州
ヴァイシュノー・デーヴィー ジャンムー&カシュミール州
バンガロール/マイソール カルナータカ州
ハリドワール ウッタラーンチャル州
デリー デリー
ナイナーデーヴィー ヒマーチャル・プラデーシュ州
マトゥラー/ヴリンダーヴァン ウッタル・プラデーシュ州
アジメール・シャリーフ ラージャスターン州
10 アムリトサル パンジャーブ州
11 イラーハーバード ウッタル・プラデーシュ州
12 サブリーマラー ケーララ州
13 シルディー マハーラーシュトラ州
14 ダージリン 西ベンガル州
15 バーラージー ラージャスターン州
16 コールカーター 西ベンガル州
17 バドリーナート/ケーダールナート ウッタラーンチャル州
18 チェンナイ タミルナードゥ州
19 ムンバイー マハーラーシュトラ州
20 アーグラー ウッタル・プラデーシュ州
21 ヴィシャーカーパトナム アーンドラ・プラデーシュ州
22 コーダイカーナル タミルナードゥ州
23 ゴア ゴア州
24 ウーティー タミルナードゥ州
25 ヴァーラーナスィー ウッタル・プラデーシュ州
26 アマルナート ジャンムー&カシュミール州
27 シムラー ヒマーチャル・プラデーシュ州
28 ハイダラーバード アーンドラ・プラデーシュ州
29 ナーシク マハーラーシュトラ州
30 ジャイプル ラージャスターン州
31 カンニャークマーリー タミルナードゥ州
32 ウドゥピ/フブリー カルナータカ州
33 クッルー/マナーリー ヒマーチャル・プラデーシュ州
34 ナイニータール ウッタラーンチャル州
35 マウント・アーブー ラージャスターン州
36 ムスーリー ウッタラーンチャル州
37 ウッジャイン マディヤ・プラデーシュ州
38 マハーバレーシュワル マハーラーシュトラ州
39 アジャンター/エローラ マハーラーシュトラ州
40 ヴェロール タミルナードゥ州
41 ウダイプル ラージャスターン州
42 シュリーナガル ジャンムー&カシュミール州
43 ビラースプル ヒマーチャル・プラデーシュ州
44 ドワールカー/ジャームナガル/スーラト グジャラート州
45 ガヤー/ボード・ガヤー ビハール州
46 ラトナギリ オリッサ州
47 カジュラーホー マディヤ・プラデーシュ州

 表には多少問題があった。例えば21位は「ヴィシャカーパトナム/トリヴァンドラム」と書かれていた。ヴィシャーカーパトナムはアーンドラ・プラデーシュ州沿岸地域の街で、トリヴァンドラムはケーララ州の州都だ。全く場所が違う。同位ということだろうか?しかし他の項目と照らし合わせるとそうとも思えない。僕は誤植だと判断し、ヴィシャーカーパトナムということにしてしまった。その他にも、2つの別々のロケーションを無理にまとめてしまった項目がいくつかあった。8位の「マトゥラー/ヴリンダーヴァン」、33位の「クッルー/マナーリー」、39位の「アジャンター/エローラ」、45位の「ガヤー/ボード・ガヤー」ぐらいだったらひとまとめにしても大して問題ないと思うが、4位の「バンガロール/マイソール」、32位の「ウドゥピ/フブリー」、44位の「ドワールカー/ジャームナガル/スーラト」などは無理がありすぎる。また、州名は元のデータにはなく、便宜を図るために僕が勝手に加えたものだが、43位の「ビラースプル」は困った。同じ地名の町がインド国内にいくつかあるからだ。可能性があるのは、ヒマーチャル・プラデーシュ州のビラースプルと、チャッティースガル州のビラースプルだろう。だが、2002年の時点ではまだチャッティースガル州はそこまで観光産業が発展していなかったと思うので、ヒマーチャル・プラデーシュ州ということにしておいた。あと、地図で確認できなかった地名は省略しておいた。例えば7位のナイナーデーヴィーと併記されていた「Ch.purni」、12位のサブリーマラーと併記されていた「Mona」などである。

 さて、この表を見ると、いくつかの神話が裏付けられると同時に、多くの神話が崩されるように思う。まず、ランクインしている地名を見ると、大方の予想通り、宗教的巡礼地や聖地が非常に多いことが分かる。1位のティルパティは世界最高数の巡礼者を集める一大巡礼地であるし(2002年には1140万人が参拝)、2位のプリーもジャガンナート寺院が全国的に有名だ。3位のヴァイシュノー・デーヴィーは、デリー近辺の人々の憧れの巡礼地である。5位のハリドワール、7位のナイナーデーヴィー、8位のマトゥラー/ヴリンダーヴァン、9位のアジメール・シャリーフ、10位のアムリトサル(黄金寺院)、11位のイラーハーバード(サンガム)、12位のサブリーマラー(アイヤッパン寺院)、13位のシルディー(サーイーバーバー寺院)など、上位をほぼ独占している。上記47ヶ所の地名の内、20ヶ所以上が宗教的巡礼地や聖地である。インド人の旅行の動機は、21世紀に入った今でもやはり宗教なのだ。巡礼地を訪れる旅行者の大半は、巡礼だけが目的であることも注目すべきだ。他の都市には、いろいろな目的を持った旅行者が訪れ、それらが合計された数字が算出されるが、巡礼地の旅行者数だけは巡礼を目的とした人々の数とほぼイコールと考えることができる。そう思うと、巡礼地への旅行者の多さは、異常なほど飛び抜けていると言わざるをえない。ちなみに、宗教的聖地では数年に1度のペースで大きな祭りが催されることが多く、各巡礼地への巡礼者数は毎年かなり変動すると思われる。

 巡礼目的の旅行の次に目立つのは、やはり英領インド時代の遺産である避暑目的の旅行である。14位のダージリン、22位のコーダイカーナル、24位のウーティー、27位のシムラー、33位のクッルー/マナーリー、34位のナイニータール、35位のマウント・アーブー、36位のムスーリー、38位のマハーバレーシュワル、42位のシュリーナガルの10ヶ所の避暑地がランクインしている。どれもインドを代表する避暑地である。だが、巡礼地には大きく水を開けられてしまっている。避暑地はシーズンが決まっており、年間通して旅行者を望めないため、こういう旅行者数のランキングではどうしても不利になりそうだ。42位のシュリーナガルは、2002年の時点ではまだ危険なイメージが付きまとっており、それほど旅行者が来なかっただろうが、現在では印パ緊張緩和により当地の観光業はかなり潤っており、今同じような調査をしたらもっと上昇すると思われる。

 インドの主要大都市もランクインしている。4位のバンガロール/マイソール、6位のデリー、16位のコールカーター、18位のチェンナイ、19位のムンバイー、28位のハイダラーバードなどである。これらの都市を訪れる人々は、ビジネス、観光、社交、教育、医療など、各種各様の目的を持って来ていると思うが、空港や鉄道など、交通の乗り換え地点としての利用も見逃せないだろう。商業都市ムンバイーの順位が案外低いのが気になる。バンガロールが1位に躍り出ているのは、マイソールとひとまとめにしてしまったからだろう。純粋な統計をすれば、これらの都市の中では首都のデリーが一番になってしかるべきだ。

 一番驚くのは、外国人旅行者によく知られた観光地の数々があまり健闘していないことだ。インドを代表する観光名所、タージ・マハルを擁するアーグラーですら20位に甘んじている。しかも、ビジネスや教育など、別の目的でアーグラーを訪れる人も多いと思うので、この順位は観光客だけで達成されたものではない。北インドのゴールデン・トライアングルをデリー、アーグラーと共に形成するジャイプルも30位止まりだ。インド中部の代表的観光地であるアジャンター/エローラも39位だし、ミトゥナ像で有名なカジュラーホーも47位と冴えていない。インド人観光客にとって、まだまだ遺跡などを見て回る旅行は一般的ではないのだろう。もっとも、最近のクトゥブ・ミーナールやタージ・マハルはすさまじい数のインド人観光客が押し寄せており、今現在の状況はまた変わっているかもしれない。

 ところで、よくウッタル・プラデーシュ州東部の都市ヴァーラーナスィー(バナーラスまたはカーシーとも呼ばれる)のことを「インド最大の聖地」と呼ぶ人がいる。試しにGoogleで「インド最大の聖地」と入れて検索してみると、多くの人がこの言葉をヴァーラーナスィーの枕詞として使っているのを目にすることができる。しかし、上の表を見ると、ヴァーラーナスィーは言われているほど大きな聖地ではないことが分かる。ヴァーラーナスィーは25位である。その上には、ティルパティ、プリー、ヴァイシュノー・デーヴィー、ハリドワール、ナイナーデーヴィー、マトゥラー、アジメール、アムリトサル、イラーハーバード、シルディーなど、数多くの巡礼地・聖地が名を連ねている。インド人の間では、ヴァーラーナスィーはそれほど重要な聖地ではないのではなかろうか?結局、現在のヴァーラーナスィーのイメージを作り上げたのは、「悠久のインド」を求めてインドにやって来た外国人旅行者である可能性が高い。

 表の中には、インド旅行歴がだいぶ長くなった僕でも聞いたことのないものも出てきた。7位のナイナーデーヴィーは、ヒマーチャル・プラデーシュ州南部にある聖地である。シヴァの神妃サティーの遺体の一部が落ちた、いわゆるシャクティ・ピートのひとつで、ここは名前の通りサティーの目が落ちた場所として信仰を集めている(ナイナー=目)。こんな有名な聖地がそんなところにあるとは知らなかった。それとも調査対象が偏っていたのか。12位のサブリーマラー(ケーララ州)はアイヤッパン寺院がある場所だ。アイヤッパンは、しゃがんだ姿で両足をバンドで縛っている特長的な神様である(ヨーガのポーズらしい)。22位のコーダイカーナルはタミルナードゥ州にある避暑地。南インド人の間では有名な避暑地らしいが、外国人にはあまり知られていないと思う。38位のマハーバレーシュワルも外国人には有名ではないと思うが、僕は去年訪れている。マハーラーシュトラ州を代表する避暑地のひとつだ。40位のヴェロールもタミルナードゥ州の都市。チェンナイから西に145kmの地点にあり、砦や寺院が残る古都のようだが、それよりも南インド随一の病院、クリスチャン医科大学病院を目的に訪れる人が多いと思われる。

 ちなみにランクインした観光地の中で、僕が今までに訪れたことのある場所は31ヶ所。日本人にしてはけっこう多いのではなかろうか!

12月6日(火) Apaharan

 今日はPVRプリヤーで先週の金曜日より公開の新作ヒンディー語映画「Apaharan」を見た。「Apaharan」とは「誘拐」という意味。監督は「Gangaajal」(2003年)などのプラカーシュ・ジャー。キャストは、アジャイ・デーヴガン、ナーナー・パーテーカル、ビパーシャー・バス、モーハン・アガーシェー、ムケーシュ・ティワーリー、ヤシュパール・シャルマー、アキレーンドラ・ミシュラー、ムクル・ナーグ、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、アイユーブ・カーン、ムラリー・シャルマー、パダム・スィン、チェータン・パンディト、アヌープ・ソーニー、エヘサーン・カーンなど。

Apaharan
 ビハール州サラームプル。世の中の不正を正す著名な社会活動家ラグヴァンシュ・シャーストリー教授(モーハン・アガーシェー)の1人息子のアジャイ(アジャイ・デーヴガン)は警察官になろうとしていた。アジャイは試験で一番優秀な成績を収めたが、賄賂を支払わなかったために落とされそうになる。そこでアジャイは、親友のカーシーナート(アイユーブ・カーン)らに頼んで50万ルピーを何とか工面してもらう。賄賂を支払ったアジャイは合格になりそうだったが、シャーストリー教授の活動を面白く思わないディンカル・パーンデーイ内相(チェータン・パンディト)は、アジャイの警察官就職を盾に教授を脅す。しかしシャーストリー教授は脅しに乗らなかった。おかげでアジャイは賄賂を支払ったにも関わらず警察官になれなかった。【写真は、ナーナー・パーテーカル(左)とアジャイ・デーヴガン(右)】

 50万ルピーは、誘拐仲介人ムラリーダル(ムラリー・シャルマー)から借り受けたものだった。ムラリーダルは3日以内に金を返すようアジャイに言う。アジャイは金を稼ぐために、カーシーナートたちと共に誘拐の仕事を請け負う。ところが、アジャイたちが誘拐した役人は、泣く子も黙るマフィア、ガヤー・スィン(ヤシュパール・シャルマー)の恩人だった。ガヤー・スィンは、マイノリティー出身の政治家で裏の政府を操るタブレーズ・アーラム(ナーナー・パーテーカル)の下で働いており、刑務所の中に住んでサラームプルの数々の犯罪を取り仕切っていた。ガヤー・スィンと癒着したヴィーレーンドラ・シュクラ副警視(エヘサーン・カーン)によって逮捕されたアジャイは、ガヤー・スィンの住む刑務所に放り込まれてリンチを受ける。父親からも見放されたアジャイは、正直に生きるのはやめて今までとは正反対の道を歩むことを決意する。手始めにアジャイはシュクラ副警視に取り入って刑務所から出ると、ガヤー・スィンが狙っていた実業家のセート・スーラジマールを誘拐し、その後ガヤー・スィンを人気のないところにうまくおびきよせて殺害する。そして、スーラジマールの身柄と共にタブレーズ・アーラムに投降する。タブレーズに気に入られたアジャイは、ガヤー・スィンに代わって彼の右腕として働き始める。アジャイは一旦、身の安全の確保のために刑務所に入るが、前回とは全く違った待遇だった。所員からは敬意を表され、ガヤー・スィンが住んでいた豪華な個室に住むことになった。仕事をするときはアジャイは刑務所の外に自由に出ることができた。

 タブレーズ・アーラムは、シャーストリー教授の告発により逮捕されてしまうが、それと時を同じくしてアジャイが刑務所から出てきた。アジャイはタブレーズの後を引き継いでビハール州の裏社会を牛耳り始める。アジャイは、見合った金を払えば人質は必ず生きて返すという規則を徹底させ、誘拐をビジネスにまで発展させる。ところが、誘拐した男の妻がかつての恋人メーガー(ビパーシャー・バス)だったという出来事に直面して以来、アジャイは変わり始める。それと同時にアジャイはタブレーズにとって邪魔な存在になって来ていた。同僚のウスマーン(ムクル・ナーグ)との権力争いもその一因だった。また、タブレーズのライバルであるディンカル・パーンデーイ内相はアジャイに近づき、自分の党から立候補しないかと囁く。

 そんな中、ビハール州政府を転覆させるほどの大スキャンダルが報道される。州政府内閣のダヤー・シャンカル大臣(ダヤーシャンカル・パーンデーイ)が収賄している映像がTVで報道されたのだった。今が政権を取る好機と見たタブレーズ・アーラムは刑務所を出て内閣不信任案を提出し、反政府キャンペーンを開始する。それと同時にタブレーズはアジャイに、父親のシャーストリー教授を誘拐するミッションを命じる。それを遂行できなかったアジャイは、待ち伏せていたシュクラ副警視に殺されそうになるが、それを返り討ちにする。裏で手を引いているのがタブレーズであることを知ったアジャイは、アンワル・カーン警視に投降する。

 アンワル・カーン警視は、ムスリムというハンディキャップを背負いながらも真面目さを武器にコツコツと出世を重ねてきた実直な警官だった。カーン警視はタブレーズ・アーラムの不正を暴こうと地道な捜査を続けていたが、いつも上からの圧力により押し潰されていた。アジャイは、そんなカーン警視に全てを懸けたのだった。カーン警視はアジャイに、ビハール州で多発する誘拐の黒幕はタブレーズ・アーラムであるという自供をさせる。カーン警視はその自供の手記を中央捜査局(CID)の局長に渡すが、局長はそれをディンカル・パーンデーイ内相に手渡してしまう。同じ政党のダヤー・シャンカル大臣のスキャンダルにより辞職に追い込まれそうになっていた内相はその手記の価値を見抜き、すぐにタブレーズに連絡を取って、その手記を盾に連立で政権を握ることを提案する。タブレーズも承諾し、内閣不信任案を撤回すると、内相に就任する。結局アジャイとカーンの努力は水泡と帰してしまった。今や、アジャイの身に危険が迫っていた。

 アジャイはカーン警視に、最期に一目だけ父親と会いたいと願い出る。カーン警視もそれを受け入れ、彼を自宅まで送り届ける。シャーストリー教授は、自分が今まで行ってきた正義のための厳格な闘争は息子を孤独にさせてしまっていたことを後悔しているところだった。父子は初めてお互いの愛情を確認し合って抱き合い、そして別れを告げる。翌朝、CIDに拘束されていたアジャイのもとをタブレーズ・アーラムが訪れる。アジャイは隠し持っていた銃でタブレーズを射殺するが、ウスマーンら部下たちに銃弾を浴びせかけられて絶命する。

 シャーストリー教授はアジャイの遺体を引き取り、荼毘に付した。

 主題はビハール州で頻発する誘拐事件であったが、それだけでなく、ビハール州がいかに上から下まで汚職で染まり切っているかのかを重厚なタッチで描いた傑作。2005年最高傑作のひとつと言ってもいいかもしれない。「Maqbool」(2004年)みたいな映画が好きな人にオススメしたい映画である。

 ビハール州では誘拐事件が相次いでいる。特に子供の誘拐が多い。全て身代金目当てのものだ。去年のことだったか、学校の子供たちが、誘拐を真剣に取り締まらない政府に対してデモ活動を行っていたことがあったが、「この国では子供までデモをするのか」と驚いたことをよく覚えている。あのときはビハール州の誘拐事件の構造をよく理解できなかったが、この映画を見て非常によく分かった。結局、誘拐を行っているのはマフィアだけではなく、政治家や警察までもがみんなグルになって行っているのだ。そして手に入った身代金をみんなで山分けしているのだ。誘拐だけでなく、映画中では警察官試験での不正にも触れられていた。試験でトップの成績を取っても、賄賂を払わなければ合格者リストから外されてしまうのだ。しかもその賄賂の額は50万ルピー。政治家や役人がそれぞれ賄賂を山分けするために、その額は膨大なものとなってしまうのだ。ビハール州の刑務所の様子も酷かった。犯罪を犯した者が罰を受けるために刑務所に入るのではなく、犯罪者が身の安全の確保のために刑務所に入るのだ。刑務所の所員もマフィアたちにこびへつらっているし、マフィアのための特別個室まで用意されている。しかも犯罪者は自由に外に出ることができ、警察の護送車で自由に移動することができる。すっかりビハール州に行きたくなくなってしまったぞ・・・。

 ビハール州の汚職まみれの構造を暴露すると同時に、監督は父と子の間の愛情の描写にも重点を置いていた。ラグヴァンシュ・シャーストリー教授は政府や政治家の不正や汚職を糾弾することを人生の使命とする社会活動家だった。家族のことに全く無関心なその態度に嫌気が差した妻は家を出てしまった。そして息子のアジャイも、父親の愛情を得られないまま育ち、自分の力で何とか警察官になろうと努力していた。アジャイは父親に内緒で贈賄して警察官試験に合格した。だが、その夜に家を訪ねてきたディンカル・パーンデーイ内相は、自分に関するスキャンダルの発表を遅らせるよう、賄賂を手渡しながらシャーストリー教授に頼む。それが受け容れられないと今度はアジャイの警察官就職を無効にすると脅す。それでもシャーストリー教授は折れなかった。それを見たアジャイは父親に幻滅し、転落の道を歩み始める。タブレーズ・アーラムの右腕となったアジャイは、州政府内閣スキャンダルに関する記者会見を主催する新聞記者アーカーシュ・ランジャンの暗殺を命じられる。ところがそこにいたのは自分の父親であった。シャーストリー教授は、今まで息子の成功を妨害してきたことを謝り、今ここで自分を殺して仕事を完遂するよう言うが、そのときその場に警察が到着し、アジャイは逃げ出す。その後、タブレーズ・アーラム告発に失敗して命を狙われたアジャイは、最後に父親に会いに行く。父親はアジャイのベッドに横たわって息子のことを思い出している最中だった。2人は初めて感情を吐露し合い、涙して抱き合う。非常にセンシティヴなシーンであった。政治がテーマの映画はドロドロした人間関係がどうしてもメインになってしまうが、シャーストリー教授とアジャイの間の愛情は、映画の過度の重圧感をほぐす要素となっていた。映画の題名は「Apaharan(誘拐)」だったが、これは実際の誘拐事件を指すと同時に、悪の道に走りながらも最後に巨悪になけなしの反撃をして死んで行った息子の遺体を引き取るシャーストリー教授の心情を暗示しているのかもしれない。真の誘拐犯は、若者が奈落の底に落ちていかざるをえない社会構造全体なのだろう。

 正義を貫く人間と、口だけの正義を振りかざす人間との争いもこの映画の重要なテーマだった。映画中、意地でも正義を貫いている人物は2人いた。シャーストリー教授とアンワル・カーン警視である。だが、真面目一徹で融通の利かない人間というのは、うまく世を渡っていけないばかりか、回りから疎がられるものだ。シャーストリー教授は社会的な尊敬を受けはするものの、彼の家族は荒廃しており、政治家だけでなく、賄賂を糧にしなければとてもじゃないが生活していけない安月給取りの下級官吏たちからも煙たがられていた。カーン警視も、誘拐の黒幕だと誰もが知りながら口に出せないタブレーズ・アーラムの逮捕に全力を尽くすものの、警察上層部が彼と癒着しているため、全ての試みは失敗に終わってしまう。エンディングでのアジャイの死は、正義の敗北と見るべきなのだろうか?

 非常に多くのことを考えさせてくれる映画ではあるが、欠点がないわけでもない。例えば、ビパーシャー・バス演じるメーガーの存在は全く活かされていなかった。確かにメーガーがいなかったら全く女っ気のない映画になってしまっていたが、別にそれでも構わなかったと思うし、これだけの質の映画だったら観客も入るだろう。また、誘拐がテーマなのに、誘拐の段取りがあまりに幼稚過ぎて、いい加減な印象を受けた。ロケはマハーラーシュトラ州のサーターラー周辺で行われたようだ。これだけビハール州を表に出した映画なのに、ビハール州で全く撮影されていないのは残念なことだ。セットなどをうまく使ってビハール州の雰囲気が出せればそれでいいのだが、どうもビハールっぽくない風景がたくさん出て来ていたように思った。しかし、それらを補って余りある優れた映画だったことには違いない。

 俳優陣の一級の演技もこの映画の見所である。ナーナー・パーテーカル、アジャイ・デーヴガン、モーハン・アガーシェーを筆頭に、各俳優がベストの演技をしていたと言っても過言ではない。相変わらずヤシュパール・シャルマーが憎たらしい演技である。ムラリー・シャルマーも本物と見紛うほどの見事なチンピラ振りであった。唯一、ビパーシャー・バスだけが場違いであった。ちなみに、登場人物の名前は、俳優の本名をもじったものが多いような気がする。アジャイ・デーヴガン→アジャイ・シャーストリー、ビパーシャー・バス→メーガー・バス、ダヤーシャンカル・パーンデーイ→ダヤー・シャンカル、ムラリー・シャルマー→ムラリーダルなどなど。監督の遊び心であろうか?

 そういえば、ビハール州を15年間に渡って支配して来た国民党(RJD)のラール・プラサード・ヤーダヴとその妻ラブリー・デーヴィーに代わり、つい最近ビハール州首相に新しく就任した統一人民党(JDU)のニーティーシュ・クマールも、公開と同時にパトナーでこの映画を鑑賞したらしい。ナーナー・パーテーカルが演じていたタブレーズ・アーラムは、ラールー・プラサードが部分的にモデルになっていると思われる。そういえば映画中にチラッと出てきたヒンディー語版インディア・トゥデイ誌に、ラールー・プラサードの写真が載っていた。これも監督の遊び心なのか?

  「Apaharan」はほとんど歌と踊りがない映画ながら(1曲だけ一瞬あった)、3時間の長尺であり、ドップリと映画の世界に浸かることができる。映画としても優れているし、ビハール州の現状を垣間見る目的でもオススメの映画だ。この冬は期待作が数本ひしめいているが、「Apaharan」がロングランする可能性は大いにありうる。

12月9日(金) Neal 'N' Nikki

 今日から3本の新作ヒンディー語映画が公開された。今日はコンノート・プレイスのPVRプラザで映画を見ようと思ったが、1時10分からの「Neal 'N' Nikki」はハウスフルだった。もう一度タイムテーブルを確認すると、バサント・ロークのPVRプリヤーでも1時10分からの回があった。時計を見ると1時10分まであと10分くらいだ。だが、CMなどが冒頭10分くらいあるので、映画本編開始まで20分くらいあることになる。そこで、急いでPVRプリヤーに直行することにした。瞬時に最短ルートを算出し、大統領官邸裏のクレシェント・ロードや、大使館密集地域のシャーンティ・パトを経由して、PVRプリヤーに到着した。映画館に入ってみると既に映画本編は始まっていたが、数分逃しただけだった。

 「Neal 'N' Nikki」とは、「ニールとニッキー」という意味。主人公2人の名前が並べてある。ヤシュ・ラージ・フィルムス制作の映画だ。今年公開された同プロダクションの「Bunty Aur Bubli」と非常によく似た題名である。監督はアルジュン・サブローク、音楽はサリーム・スライマーン。キャストは、ウダイ・チョープラー、タニーシャー・ムカルジー、リーチャー・パッロード、ガウラヴ・ゲーラーなど。アビシェーク・バッチャンが特別出演。

Neal 'N' Nikki
 カナダの片田舎に住むインド人で女の子が大好きなニール(ウダイ・チョープラー)は、見合い結婚をする代わりに親から21日間の休暇をもらいバンクーバーへ行く。ニールの目的は、21日間で21人の女の子とデートをすることであった。【写真は、ウダイ・チョープラー(左)とタニーシャー・ムカルジー(右)】

 ニールは白人モデルの女の子と出会い、デートをするが、そこで1人のインド人女性と出会う。名前はニッキー(タニーシャー・ムカルジー)。ニッキーもカナダ生まれのインド人で、箱入り娘の人生を送ってきたが、自立して生活できることを示すために単身バンクーバーにやって来たのだった。しかし飽きっぽい生活で、2日以上同じ仕事を続けたことがなかった。ニールはニッキーと会ってしまったのが運の尽きだった。女の子といいムードになっているときに必ずニッキーが現れて邪魔するのだった。

 遂にニールの怒りが爆発するが、そのときニッキーは「美人が集う町」ホイッスラーのことを彼に教える。ニールはニッキーと一緒にホイッスラーへ行くことになった。その途中で、ニールはニッキーの元彼氏トリシュの話を聞く。トリシュはカナダ人のモデルだったが、ニッキーはトリシュに捨てられてしまったショックから未だに癒えていなかったのだった。ホイッスラーに着いた2人であったが、そこでニッキーは当のトリシュを目撃してしまう。しかもアメンダという女の子とデート中だった。ニッキーはニールに、自分の彼氏の振りをするよう頼む。トリシュは、ニールと一緒にいるニッキーに嫉妬し、彼女にもう一度よりを戻すよう頼む。だがニッキーはそれを拒否する。ニッキーは捨てられたことが悔しくて、トリシュを自分から捨てたいだけだったのだ。

 いつの間にかニールとニッキーはお互い惹かれ合っており、クリスマス・パーティーの夜、ニールはニッキーに気持ちを伝える。そのまま2人は一夜を共にする。ニッキーにとって、それが初体験だった。ところが、翌朝ニールは彼女にうまく言葉をかけることができず、それに苛立ったニッキーはニールを後に残して去って行ってしまう。

 ニールの21日間のバンクーバー旅行は終了し、自宅に戻ってお見合い相手のスイーティー(リーチャー・パッロード)とのお見合いが行われた。ところが、スイーティーはニッキーの従姉妹で、ニッキーもその場に来ていた。ニッキーと運命の再会を果たしたニールは喜ぶが、しかし今回もうまく彼女に気持ちを伝えることができなかった。ニールとスイーティーの結婚は決まってしまった。

 婚約式当日、ニッキーは会場に現れなかった。ニールは婚約指輪をなかなかスイーティーに付けられずにいた。と、そのときニッキーが会場に走ってやってきた。ニッキーが叫ぼうとしたその瞬間、1人の青年(ガウラヴ・ゲーラー)が突然声を上げた。「僕はスイーティーのことが好きなんだ!」実はスイーティーにも好きな人がいたのだった。ニールは喜んで彼にスイーティーを譲る。そしてニッキーにプロポーズをする。

 「Kal Ho Naa Ho」(2003年)や「Salaam Namaste」(2005年)タイプの、全編海外が舞台、海外ロケの映画。しかもその内容はインド向けとは思えないほどの際どいテーマを扱っており、英語のセリフも多すぎる。大衆娯楽映画なのにも関わらず上映時間は2時間ほどで、3時間の映画に慣れてしまうと物足らない印象を拭えない。完全にインドの大衆映画ファンを眼中から外した、国内大都市&海外向けの作品である。「Home Delivery」(2005年)と並び、今年最もつまらない映画のひとつだった。

 この映画の最大のテーマはおそらく「婚前交渉」「初体験」「処女喪失」である。ヒロインのニッキーは、ニールに「お前、ヴァージンだろ?」と言われて「誰が?私はヴァージンじゃないわ!今までたくさんしたわ!」と言い張る。ニールは「初体験の相手は一生忘れられないから、馬鹿男に処女を捧げない方がいいぜ」と忠告する。その後、ホイッスラーにてニッキーは結局処女をニールに捧げることになる。その翌朝、ニッキーにとって特別な朝に、ニールはニッキーに「グッド・モーニング」「いい天気だね」「コーヒーでも飲むかい?」とあまり気の利いた言葉を投げかけられなかった。ニッキーはそれに怒ってニールを1人残してバンクーバーに去って行ってしまう。だが、このテーマはインド映画にはまだ早すぎる。「Mumbai Matinee」(2003年)では男のヴァージニティーが扱われていたが、女性のヴァージニティーに関するテーマはまだまだタブーに近い。男も女も結婚までヴァージンを守ること、そして一生の内で恋をするのは1回だけということは、伝統的インド映画の基本原則であり、暗黙の了解である。その中で、あたかも「処女であることは恥ずかしいこと」「結婚前になるべくたくさんの関係を持つことはかっこいいこと」のようなイデオロギーを広めようとするこの映画のストーリーやダイアログは、普通に考えたらインドでは到底受け容れられないだろう。そういえば、タイムズ・オブ・インディア紙が11月11日に「インド人の初体験の平均年齢は19.8歳」という記事を大々的に掲載して物議を醸したのは記憶に新しいし、タミル映画女優クシュブーが「教養のある男性は、花嫁が処女であることを期待しない」と発言して人々の反感を買ったのも最近のことであった。それに加えて、この映画では女性の肌の露出度が異常に高かった。露出度の高い白人女性がたくさん出てきた上に、ヒロインのタニーシャー・ムカルジーまでビキニを着ていた。胸の谷間を強調するショットも多かった。総じて、日本の男子中学生がよく読む雑誌のような映画だという印象を受けた。この映画がもしヒットするならば、それはこの際どさから来るものであろうし、もしフロップに終わるならば、その理由もこの際どさから来るものであろう。この映画は、インドのモラルの試金石と言える。

 ヤシュ・チョープラーの息子で、アディティヤ・チョープラーの弟のウダイ・チョープラーが主演を務めた。ウダイは、気味の悪い顔とマッチョな肉体のアンバランスさが売り(?)の男優であるが、この映画では女の子にモテモテの「スーパースター&ロックスター」を演じていた。ウダイは「Dhoom」(2004年)で演じたようなチンピラ役なら似合っているが、スーパースター役はお門違いであろう。ウダイを人気スターに押し上げてやろうというチョープラー一家の陰謀が見え隠れする映画であった。

 ヒロインのタニーシャー・ムカルジーは、人気女優カージョールの妹。カージョールよりも顔が角ばっているが、姉妹だけあってカージョールと声やしゃべり方が非常によく似ている。あのキンキン声は映画館の音響設備で聞くと不快になる。身振り手振りもオーバーアクション気味。肌の露出度も限界レベルまで高かった。「カージョール・スタイル+露出度」で攻めていくつもりだろうか?

 「Neal 'N' Nikki」は映画としては最低だが、音楽は現在ヒット中である。「ダッダラダッダラ・ダ、ニール&ニッキー」という印象的なイントロで始まるテーマ曲は、ニールとニッキーの自己紹介曲となっており、ポップで親しみやすい。序盤でタニーシャー・ムカルジーがニールを誘惑する「Halla Re」は、歌、踊り共にこの映画の中でベストのミュージカル・シーンであろう。英語歌詞の部分が心地よい「I'm In Love」も素晴らしい。「Neal 'N' Nikki」のサントラCDだけは買う価値がある。

 チョープラー一家が作る映画には、ヒンディー語映画なのにも関わらずパンジャービー語が過度に入る傾向がある。ヤシュ・チョープラーが監督した「Veer-Zaara」は、半分パンジャービー語映画であった。この映画も、いくつかのシーンでパンジャービー語色が非常に強くなる。それに加え、英語のダイアログが非常に多く、地方の観客にはつらい映画であろう。

 途中、「Dilwale Dulhaniya Le Jayenge」(1995)のパロディーが入ったり、昔の映画の1シーンが少し入ったりして、インド映画のファンには嬉しいサービスがある。アビシェーク・バッチャンが序盤に突然特別出演するのでお見逃しなく。

 「Neal 'N' Nikki」は、日本で言えば中学生向けぐらいのレベルの低い映画である。そのレベルに自分を合わせられるなら見てもいいだろうが、多くの日本人には不快な2時間となるであろう。

12月9日(金) Ek Ajnabee

 本日2本目に見たのは、現在入院中のアミターブ・バッチャン主演「Ek Ajnabee」。PVRプリヤーで鑑賞。

 「Ek Ajnabee」とは、「1人の異邦人」という意味。監督は「Mumbai Se Aaya Mera Dost」(2002年)のアプールヴァ・ラキヤー、音楽はアマル・モーヒレー。キャストは、アミターブ・バッチャン、アルジュン・ラームパール、パリーザード・ゾーラービヤーン、ヴィクラム・チャートワール、ルーチャー・ヴァイディヤ(子役)、ラージ・ズトシー、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、アキレーンドラ・ミシュラ、ケリー・ドルジ、ユト(タイ人)など。アビシェーク・バッチャンとラーラー・ダッター、サンジャイ・ダットが特別出演。

Ek Ajnabee
 退役軍人のスーリヤヴィール・スィン(アミターブ・バッチャン)は、元部下のシェーカル(アルジュン・ラームパール)に招待されてバンコクへやって来た。スーリヤは作戦中に民間人を謝って殺してしまったことを悔い、酒びたりの毎日を送っていた。シェーカルはスーリヤに、バンコク在住のインド人大富豪の一人娘の警護の仕事を斡旋する。【写真は、アミターブ・バッチャン。なぜか鳥居がバックに】

 大富豪の名前はラヴィ(ヴィクラム・チャートワール)、その妻の名前はニカシャー(パリーザード・ゾーラービヤーン)、娘の名前はアナーミカー(ルーチャー・ヴァイディヤ)だった。バンコクでは大富豪の子息の誘拐事件が多発しており、アナーミカーの身にも危険が迫っていた。スーリヤは最初、アナーミカーとうまく行かなかったが、水泳の特訓を手伝ったことをきっかけに急速に接近する。しかし、一瞬の隙を突いて誘拐犯たちはスーリヤを襲撃し、アナーミカーは連れさらわれてしまう。誘拐犯(ラージ・ズシ)は両親に100万ドルの身代金を要求する。ラージは身代金を渡してアナーミカーを助けようとするが、警察の横槍が入り、邪魔されてしまう。警察に邪魔されたことを怒った誘拐犯は、冷酷にもアナーミカーを射殺してしまう。

 一方、数発の銃弾を受けながらも一命を取り留めたスーリヤは、アナーミカーを誘拐し、殺した犯人への復讐を誓う。スーリヤはシェーカルやタイ警察(ケリー・ドルジ)の力を借りて事件の全貌を探って行く。すると、誘拐事件の裏には、アナーミカーの父親のラージがいることが分かった。ラージは、会社が抱えている多額の負債を、アナーミカーに懸けられた保険金でまかなうために誘拐を計画したのだった。しかし、アナーミカーが殺されてしまったのは彼にとっても誤算だった。スーリヤにそれを告げられると、ラージは自殺をしてしまう。

 ラージの弁護士チャン(ユト)を通じて遂に誘拐犯とのコンタクトに成功したスーリヤは、アナーミカーがまだ生存していることを知る。また、チャンは誘拐犯の弟であることも分かる。スーリヤはチャンの身柄とアナーミカーを交換することを提案する。

 身柄引き渡し場所で待つスーリヤやニカシャーの前に誘拐犯が現れ、アナーミカーとチャンの身柄交換が行われる。ところがそこにもう1人の人影があった。それはシェーカルだった。シェーカルまでもがグルだったのだ。スーリヤをバンコクに呼んだのも、最初からこの誘拐計画を成功させるためだった。スーリヤとシェーカルは死闘を繰り広げ、最後にスーリヤはシェーカルを倒す。

 15年後、護衛を引退したスーリヤに代わり、成長したアナーミカー(ラーラー・ダッター)のボディーガードを務めていたのは若い男(アビシェーク・バッチャン)であった。

 アミターブ・バッチャンのカリスマ性がうまく引き出された作品。この映画の見所は前半に集中している。後半は普通のアクション映画になってしまっていた。カメラワークや映像に斬新な工夫が見られたのは特筆すべきである。

 前半の、スーリヤとアナーミカーが打ち解けて行くシーンは、非常にセンシティヴに描かれていてよかった。スーリヤがアナーミカーの水泳を指導し、彼女が学校の大会で優勝するまでのシーンは間違いなくこの映画のハイライト・シーンであろう。だが、アナーミカーがさらわれてからは急に白けてしまう。特にスーリヤが誘拐犯たちを拷問するシーンは観客の目を背けさせるほど残酷であった。指を一本一本切り落としていったり、肛門に爆弾を突っ込んで爆発させたり、とテロリストよりも残酷な手段を使っていた。ラージを自殺させる必要もなかったのではないかと思った。。

 アミターブ・バッチャンの、どことなく影のある「怒れる老年」の演技は、「Black」(2005年)以来の好演と言っていいかもしれない。「Ek Ajnabee」でも「Black」でも、子役との共演でバッチャンの潜在的演技力が引き出されていたように思える。バッチャンは案外子役と相性のいい俳優なのかもしれない。だが、それには子役の演技力も不可欠となる。その点、アナーミカーを演じたルーチャー・ヴァイディヤは合格点と言っていいだろう。無邪気な演技が、ドンヨリとした映画全体の雰囲気をほぐしていた。

 アルジュン・ラームパールも、好演をしていた。髪型がかっこよかった。ミュージカル・シーン「Ek Ajnabee - Mama Told Me」でも今までにないワイルドな存在感を醸し出していてよかった。元々モデルなので、彼にあまり踊りや演技をさせてはならない。自然体が一番だ。

 偶然、今日見た映画2本ではどちらにもアビシェーク・バッチャンが特別出演していた。最近のアビシェークの人気はすさまじい。もう父親に届くくらいの人気なのではなかろうか?「Yuva」(2003年)でマニ・ラトナム監督にキャラを確立してもらって以来、アビシェークの人気も実力もうなぎ上りである。アビシェークがスクリーンに登場すると、館内から黄色い声が上がっていた。これで、「Bunty Aur Bubli」(2005年)、「Sarkar」(2005年)に続き、バッチャン親子共演は通算3度目となる。また、サンジャイ・ダットが、エンド・クレジット中に流れるミュージカル「They Don't Know」で特別出演している。


特別出演のサンジャイ・ダット

 舞台はバンコクだったので、全編バンコクでロケが行われたようだ。民主記念塔、カオサン通り、ゴーゴーバーなど、いくつか有名なスポットが出てきた。「サワディー」や「コプクン」のようなタイ語も登場。タイ人俳優も何人か出ていたが、有名な人なのかはよく分からない。「Kal Ho Naa Ho」(2003年)、「Salaam Namaste」(2005年)、「Neal 'N' Nikki」(2005年)のような西洋諸国ロケのインド映画よりも、アジアロケのインド映画の方が僕は好きである。今までタイで多くの場面が撮影されたインド映画というと、「Chura Liyaa Hai Tumne」(2003年)や「Murder」(2004年)などが有名だ。

 「Ek Ajnabee」は前半がよかっただけに、後半からの失速は非常に残念。だが、アプールヴァ・ラキヤー監督は才能のある監督だと思うので、これからの作品に期待したい。

12月11日(日) ボリウッドと数秘学は相性悪し?

 12月2日に見た「Home Delivery」の映画評にて、ボリウッド男優ヴィヴェーク・オベロイが、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイに改名したことを伝えた。英語のスペリングも、「Vivek Oberoi」から「Viveik Annand Oberoi」になった。ヴィヴェークは、俳優スレーシュ・オベロイの息子で、ロンドンやニューヨークで演技を学んだ後、ラーム・ゴーパールヴァルマー監督に見出されて「Company」(2002年)して一躍注目を集めた男優である。「Saathiya」(2002年)や「Masti」(2004年)」など、しばらくは順調にヒット作に恵まれてきたが、自身が脚本と主演を務めた「Kyun? Ho Gaya Na...」(2004年)や、大予算の主演作「Kisna」(2005年)がこけてしまい、それ以後スランプに陥っている。そこでヴィヴェークが何を考えたかといと、いかにもインド人らしいのだが、数秘学者に相談して改名したのだった。数秘学というのは、名前の総字数などで運勢を占う占いである。ところが、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイとなって再スタートを切った後も、残念ながらヴィヴェークの運勢に上昇の兆しは見えない。語り手として特別出演した「Deewane Huye Paagal」(2005年)はまあまあの収益を上げそうだが、主演した「Home Delivery」はフロップに終わりそうだ。しかも、ヴィヴェークは「世界で最も美しい女性(ジュリア・ロバーツ談)」のアイシュワリヤー・ラーイと付き合っていたのだが、12月に入り2人が破局したことが明らかになった。まさに泣きっ面に蜂のヴィヴェーク・アーナンド・オベロイ。やはり名前を変えただけで運勢が激変するほど世間は甘くないのか。

 12月11日付けのサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙には、上記のようなボリウッド俳優と数秘学に関する記事が掲載されていた。ボリウッドでは、ヴィヴェーク・アーナンド・オベロイの他にもスペリングを変えて運勢の転換を図った俳優が何人もいる。例えばカリーナー・カプール。カリーナーは、主演作「Asoka」(2001年)公開前に、数秘学者のアドバイスに従って、自身の英語のスペリングを「Kareena Kapoor」から「Karriena Kapoor」に変えた。映画の題名も、数秘学的な理由から、「Ashoka」から「Asoka」に変更されたらしい。だが、その結果は散々であった。シャールク・カーン渾身の歴史映画「Asoka」は大フロップに終わり、カリーナーも恥をかいただけであった。カリーナーはスペリングを再び「Kareena」に戻すと同時に、こんなことを語っている。「私は改名ビジネスを絶対に信じないわ。占い師たちの助言に従って名前を『Kareena』から『Karriena』に変えた途端、不幸がたくさん襲ってきたし、ずっと病気で寝込んでしまって、今でも完全に回復していないわ。私はもう絶対に占い師連中の助言を聞かないわ。」改名ビジネスを信じない、と言っているわりには、名前を変えたことにより不幸になった、とその影響を認めているような気もしないではないが、とにかくここにもう1人、数秘学の被害者がいることは確かだ。ところで、カリーナー・カプールに改名を助言したのは、エークター・カプールのグル、バンスィーラール・ジュマーニーという占い師だ。ジュマーニーの息子は、カリーナーのその発言に反論すると同時に父親を弁護して、こんなことを言っている。「カリーナーは名前を変えた直後、ペプシとの提携にサインした。これは幸せな出来事ではないだろうか?カリーナーが名前のスペリングを元に戻したのは、父親のランディール・カプールが彼女の改名を快く思わなかったからだ。『Asoka』は10月26日に公開されたが、2+6=8でサタンの数字だ。我々は公開前から失敗を予言していた。」占い師というのは、言い訳がうまくないと務まらない職業なのか?

 どうやらスニール・シェッティーも数秘学の被害者の1人のようだ。スニール・シェッティーは1992年にデビューして以来アクションヒーローとして人気を博した。ところがあるときから、体調を崩しやすくなったり、身内の不幸が続いたりしたため、スニールは妻の友人の助言に従ってバンスィーラール・ジュマーニーに相談した。以後、スニールはスペリングを「Sunil」から「Suniel」に変更した。同じ頃、スニールは「Niel」という名前の甥を失っており、自分の名前に彼の名前が含まれることに気をよくしていたという。ところが、名前を変えた途端スニールの運気に蔭りが見え始めた。スニール・シェッティーは主演をはれる男優だったのだが、いつの間にか脇役出演が多くなってしまったのだ。確かに、最近スニールの顔をスクリーン上でよく見るが、彼が主演をはった映画はとんとご無沙汰になっているように思える。しかも米国車ハマーの輸入関税脱税の問題に巻き込まれたりもした。プロデューサーや映画関係者はスニールに名前を元に戻すよう要請しているが、彼は今のところ「Suniel」のままである。

 エークター・カプールの弟、トゥシャール・カプールもバンスィーラール・ジュマーニーの意見に従って「Tusshar Kapoor」のスペリングを使っているが、未だにスターの座からはほど遠い。トゥシャールのデビュー作「Mujhe Kuch Kehna Hai」(2001年)のタイトルを「Mujhe Kucch Kehna Hai」に変更させたのもジュマーニーのようだが、映画はヒットしなかった。「Company」の「Khallas」にアイテムガールとして出演し、「カッラース・ガール」として一世を風靡したイーシャー・コーッピカルは、数秘学に従って名前を「Isha」から「Ishaa」に改名した。ところがそれから3年経った今でもイーシャーはアイテムガールのままである。数秘学はほとんど効果を発揮していないと見える。どうもバンスィーラール・ジュマーニーなる人物がボリウッドの改名フロップショーの張本人のようだ。彼のウェブサイトを発見したので参考までに掲載しておく(Jumaani)。

 インド人は世界で最も占い好きな民族だと言える。何か不幸が続いたとき、またはさらなる成功を求めるときに、数秘学に頼って名前を変えることは、インド人にとってそれほど特別なことではないだろう。だが、ボリウッドの例を見てみると、数秘学は少なくともインド人の名前にはあまり効果がないと見える。英語のスペリングでもって占うらしいのだが、それはやはり間違っているだろう。いくら数秘学が英語をベースとしていても、いくらインド人の名前を英語で書き表す習慣が根付いてしまっていても、インド人の名前は基本的に現地語をベースとしている。これは揺るぎない事実だ。まずは数秘学をヒンディー語や現地語に適応させて、それから占いをするべきだ。それから、占いに本当に効果があったのかどうかを論じればいいだろう。

 インド人の名前と数秘学の関係やその不適合性を見ると、インド人の名前を英語スペリングのみで理解しようとすることは不可能なのではないかという、かねてから抱いている理念の裏付けにもなる。ひとつは、インド人は占いによって英語スペリングの名前を案外簡単に変えてしまうので、同じ発音の名前でもいろんなつづりがありうる。「スニール」という名前ひとつをとっても、各個人によって「Sunil」「Suneel」「Suniel」「Soonil」など、スペリングにいくつかパターンがありうる。「チャウドリー」という名字にも、「Chowdhery」「Chowdhury」「Chaudhry」「Chaudhary」「Choudhary」などなど、いろいろなスペリングがある。それらがひとつの名前であることを理解するには、やはりヒンディー語を代表とする現地語の知識が必要不可欠になるだろう。特にカタカナ表記に際して、僕は英語をベースにすることは絶対にできないと考えている。やはりインド人の名前は現地語をベースに表記すべきであるし、現地語の筆頭に挙げられるのはヒンディー語をおいて他にない。ヒンディー語の人名表記にもブレがあるのは確かだが、英語のスペリングほどの違いはない。数秘学がインド人の名前の英語スペリングに不適合である以上に、インド人の名前の英語スペリングはカタカナ表記に不適合である。

12月12日(月) Kalyug

 今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Kalyug」を見た。ヒンドゥー教の世界観や時間概念によると、世界は「ユグ」と呼ばれる巨大な時間のサイクルを繰り返しているとされる。サティヤユグ(クリト・ユグ)、トレーターユグ、ドワーパルユグ、そしてカリユグ(カルユグ)である。サティヤユグには人間は善と徳で満たされる。トレーターユグになると人間は学習を覚え、神々への供犠を始める。ドワーパルユグでは正義が衰えて人間は災厄に見舞われるようになる。そしてカリユグでは世界は暗黒に包まれ、悪が氾濫する。映画の題名は、このカルユグから来ている。仏教にも末法思想という似た考えがあり、日本人には理解しやすいだろう。

 「Kalyug」の制作と脚本はムケーシュ・バット。監督はモーヒト・スーリー、音楽はアヌ・マリク。キャストは、クナール・ケームー、スマイリー・スーリー、イムラーン・ハーシュミー、ディーパル・シャー、アムリター・スィンなど。

Kalyug
 カシュミールからムンバイーへやって来たクナール(クナール・ケームー)は、父親の死後、ジムで働きながら生計を立てていた。そこへカシュミールの親戚からレーヌカー(スマイリー・スーリー)という名の1人の女の子が訪ねて来る。クナールとレーヌカーはすぐに惹かれ合い、結婚する。2人はハネムーンを草原の中に立つホテルで過ごす。【写真は左から、アムリター・スィン、ディーパル・シャー、クナール・ケームー、イムラーン・ハーシュミー、?】

 幸せな生活が始まろうとした矢先、突然クナールとレーヌカーは警察に逮捕されてしまう。クナールとレーヌカーが初夜を過ごした部屋にはカメラが設置されており、「Indiyaapassion.com」というポルノサイトで配信されたのだった。クナールはポルノサイト運営の首謀者とされる。クナールは弁護士の助けもあり釈放されるが、レーヌカーは屈辱に耐えられず自殺してしまう。

 クナールは、自分の人生を滅茶苦茶にしたポルノサイトの運営者に復讐を誓う。だが、警察も彼らとグルになっていることを見抜いていたクナールは、たった1人で戦うことを決めていた。彼は「Indiyaapassion.com」がスイスのチューリッヒで作られていることを知り、スイスへ渡る。そこで、セックスショップを経営するインド人、アリー(イムラーン・ハーシュミー)と出会い、彼に連れられて、ポルノサイトに登場していたインド人女性アニー(ディーパル・シャー)を探しにシン・シティーという怪しげなクラブへ行く。そこで偶然クナールは、スイス通信社の女社長シミー・ロイ(アムリター・スィン)と出会う。実はシミーこそが「Indyaapassion.com」の運営者であったが、このときクナールはまだそれに気付いていなかった。シミーは愛人のヴィクラムに、アニーを殺すよう命令する。

 クナールはヴィクラムに殺されそうになっていたアニーを助ける。クナールはアニーを責めるが、実はアニーも無理矢理ポルノ産業に放り込まれた被害者であった。一方、シミーはアリーを買収してクナールをおびき出そうとしていた。クナールはその誘いに乗ってしまうが、土壇場でアリーはクナールの味方をして彼を助ける。アリーは殺されてしまうが、死ぬ瞬間に、首謀者はシミーであることを明かす。

 クナールは、シミーの娘で母親に憎悪を抱いていたタニヤを味方にし、母親の悪事を世間に公表する。怒ったシミーは拳銃でクナールを殺そうとするが、その前にタニヤがシミーを撃っていた。クナールはレーヌカーの仇を取ると同時に、アジアから女性を誘拐してポルノ映画に出演させ、巨額の富を築いていたポルノ産業の一網打尽に貢献したのだった。クナールはアニーを連れてインドへ帰る。

 人身売買は、武器と麻薬に次ぎ、世界で三番目に大きい密貿易業のようだ。人身売買された少女たちのほとんどはポルノ産業に吸収されていく。「Kalyug」は、インドから少女を買ってブルーフィルムに出演させて金を稼ぐ、国際的ポルノ産業にメスを入れた映画である。しかし、ストーリーの核はインド映画の十八番、復讐劇であり、ポルノ産業の実態も分析が足らなかった。ポルノがテーマのため、際どいシーンがいくつか出て来るが、先日見た「Neal 'N' Nikki」(2005年)ほどではなかった。それでも、音楽が素晴らしいためにヒットする可能性は十分にある。

 主演を務めたクナール・ケームーは1990年代に子役として数本の映画に出演しているが、本格デビューはこの「Kalyug」となる。また、序盤ですぐに死んでしまうが、クナールの妻レーヌカー役を務めたスマイリー・スーリーは新人のようだ。この2人が大根役者過ぎた。そこからこの映画の不幸が始まる。舞台は途中で突然スイスに移るが、なぜか関わる人間全てがインド人という都合のいい展開となる。「Indyaapassion.com」を運営するのがスイス通信社の女社長、しかもインド人、という展開にも、あまり説得力のある説明がなされていなかった。同サイトの案内役として登場していたアニーのキャラクターもひねりがなかった。これだけ悪女っぽいイメージで登場しておいて、クナールに捕まった途端お涙頂戴のストーリーを語り出すのはいただけない。しかも最後にはクナールとできてしまうとは・・・。無茶苦茶なストーリーだ。また、アニーを演じたディーパル・シャーは今のところ将来性を感じない。クナールは、シミーの娘のタニヤを「Indyapassion.com」のポルノ動画に出演させて復讐を果たすが、そんなおかしな方法、一体誰が思いつくのか。タニヤは不良娘という設定だが、復讐目的でポルノ映画にわざわざ出演することがあるだろうか?もっとストレートな復讐の仕方があるだろう。最後にはタニヤがシミーを撃ち殺してしまうが、これも後味の悪い印象だけを残した。上映時間は2時間ほど。国際市場を狙ってコンパクトにまとめたのだろう。だが、内容はふつうのインド映画なので、非常に物足らない感じがした。

 映画自体にあまり魅力を感じなかったが、唯一、イムラーン・ハーシュミーが演じたアリーの役だけは光っていた。「Murder」(2004年)でブレイクしたイムラーンを僕は長い間認めていなかった。なぜこんな不細工で気持ち悪い男優が男優をやってるんだろう、と思いつつ過ごしていた。だが、彼の映画を見続けていたら何となく彼に惹かれている自分がいることに気付いた。これは洗脳であろうか、はたまたインド映画の魔法であろうか?「Kalyug」のイムラーンは脇役出演であったが、完全に主役を食っていた。

 間違いなく、この映画の一番の魅力は音楽にある。パーキスターンの有名なカッワーリー歌手、ヌスラト・ファテ・アリー・ハーンの甥ラーハト・ファテ・アリー・ハーンが歌う「Jiya Dhadak Dhadak Jaye」「Tujhe Dekh Dekh」や、同じくパーキスターンのバンド、ジャルのボーカリスト、ゴーハル・ムムターズが歌う「Aadat」、インド・ポップの草分け的存在であるアリーシャー・チノイが歌う「Dheere Dheere」など、聞き所がいっぱいである。歌声はやはりラーハトのものがもっとも素晴らしい。天才的歌手ヌスラトはもう死んでしまったが、ラーハトがいる限り我々は寂しくない、と思わせてくれるほどいい声だ。歌詞では、ゴーハルの歌った「Aadat」がベストだった。イントロ部の歌詞は聞くだけで涙が溢れてくるほどいい――judaa hoke bhi tu mujh mein kahin baaqi hai, palkon mein banke aansu tu chali aati hai(離れ離れになっても君は僕の中のどこかに残っている、目蓋の中で涙になって君はやって来る)。ゴーハルは「Zeher」(2005年)でも「Voh Lamhe」を歌って大ヒットを飛ばしている。どうやら「Aadat」は、ジャルのデビュー曲だったようだ。インターネットで公開した途端に話題を呼び、パーキスターンで最もダウンロードされた曲となったという。パーキスターンのバンドにしては、日本のバンドがよく辿りそうなサクセスストーリーを持っている。アリーシャーの「Dheere Dheere」は、クナールがシン・シティーに潜入するシーンで使われるが、パワー不足だった。「Kalyug」のCDは買って損はない。

 元々この映画の題名は「Blue Film」だったという。多分、本当にブルーフィルムと思われるといけないため、「Kalyug」という無難な題名に変更となったのだろう。微妙にエロチックなシーンは出て来るが、あくまでインド映画レベルに留まっている。扱っているテーマはインドでは目新しいものの、流れは一昔前のインド映画と全然変わらない。俳優の演技もほとんど全滅状態。サントラCDだけ買って済ませておくのが吉であろう。

12月13日(火) シェーカーワーティー・ツーリング(1)

 デリーとジャイプルを結ぶ国道8号線と、ジャイプルとビーカーネールを結ぶ国道11号線の間に挟まれた地域はシェーカーワーティー地方と呼ばれている。シェーカーワーティーという名前は、15世紀にこの地を支配したラージプートの領主、ラーオ・シェーカーから来ており、「シェーカーの庭園」という意味である。また、ラーオ・シェーカーの子孫たちはシェーカーワートと呼ばれるようになった。ヒンディー語ではシェーカーワティーとシェーカーワーティーという表記が見受けられるが、後者の方が大勢なので、そちらを基本的に採用することにする(上の画像は詳しく調べずに作成してしまったので、「シェーカーワティー・ツーリング」になっている)。シェーカーワーティー地方は伝統的にジャイプル王国の属領であったが、グジャラート地方の港町とデリーを結ぶシルクロード上にあったために、マールワーリー商人たちによる中継貿易で大いに栄えた地域であった。ところが19世紀初頭にイギリスがカルカッタ、ボンベイ、マドラスなどの新しい港を建設し、鉄道網を整備し始めると、ラクダによるこの通商路の重要性は失われてしまった。シェーカーワーティー地方で富を築いたマールワーリー商人たちは時代の流れをいち早く察知し、1820年頃からそれらの新しい港町へ移住してさらなる巨万の富を築いた。彼らは異国の地での自分の商売の成功を地元の人々に知らしめるために、故郷の豪華なハヴェーリー(邸宅)の壁面を、競うように色彩豊かなフレスコ画で飾り立てた。シェーカーワーティー地方出身の豪商の中には、現代のインドを代表する財閥にのし上がった者が多くいる。例えば、ビルラー、バジャージ、ゴーエンカー、ミッタル、モーディーなどである。これらのハヴェーリーの多くは今でも残っており、その壁面を彩るフレスコ画は「オープン・エアー・ギャラリー」としてシェーカーワーティーの一番の見所となっている。あまり日本人観光客には知られていない場所だが、インドの中でもユニークな観光地のひとつだ。過去にIndo.toのOgataさんがコラムにて特集しているので、少しは知名度が上がってきているかもしれない。

 シェーカーワーティー地方はデリーから270kmほどの地点にあり、見所が割と狭い範囲に集中している。常にデリー周辺のツーリング先を捜し求めている僕は、インドの地図を眺めるたびに、シェーカーワーティー地方はツーリングするとちょうどいい場所なのではないかと思っていた。しかし、日帰りで行くには遠すぎるし、1泊2日でもきついので、最低3日の旅程を立てて行かなければならないだろうと考えていた。12月に入って以来、映画を見たり、小説を翻訳したり、年賀状を書いたり、忘年会に出席したりと忙しい毎日を送っていたが、12月13日〜15日まで3日間の休みが取れそうだったので、シェーカーワーティー・ツーリングを決行することにした。しかしながら、同じ時期に暇のあるバイク仲間がいなかったため、単独で行くことになった。相棒はいつもの通り、ヒーローホンダのカリズマ(225cc)。多少調子がよくなかったので、前日に点検に出しておいた。また、僕のデジカメは現在修理に出しているので、友人からフジのファインピックスF401を借りた。観光情報は最新版(2005年版)の英語版「ロンリー・プラネット・インド」、地図はロンリー・プラネットが出している「India & Bangladesh Road Atlas」を大いに参考にした。

 午前10時に自宅を出発。国道8号線を通ってジャイプル方面へ向かった。この道は現在デリー・グルガーオン・エクスプレス・ハイウェイが建設中でゴチャゴチャしているが、過去のツーリング時に何度も通っているので何の問題もなかった。1時間ほどで毎度休憩地点に利用しているマーネーサルのマクドナルドに到着。軽食を取って20分ほど休憩した後、再び国道8号線に乗って南下。ビラースプルの料金所を越え、ダールヘーラーを越えた辺りで国道を下り、進路を西に変えてレーワーリーへ向かう。国道は中央分離帯のある幹線であり、途中所々にある交差点で気を付けさえすれば快適な走行だ。しかし国道を下りると中央分離帯のない道路になり、無理な追い越しをして突っ込んでくる対向車線の車両に注意しながら走行しなければならない。だが、ダールヘーラー〜レーワーリー間の道はまだきれいに舗装がされており、やはり快適な走行だった。レーワーリーには12時頃に到着した。

 レーワーリーはけっこう大きな街だった。レーワーリーを通過してナールナウルという町を目指さなければならないのだが、標識などほとんどないので、どの道から出たらいいのかよく分からなかった。人に道を聞きつつ、これと思われる道を見つけたのだが、念のためにその辺りにいた人にもう一度道を聞いてみたら、「こっちは遠回りだから向こうから行け」と反対方向を指し示された。そこでそっちの方へ行ってみてまた道を聞いてみたら、「ナールナウルはこっちじゃない、あっちだ」と、今来た道を指し示された。こんないたちごっこを繰り返している内に30分ほど経ってしまった。結局、最初に見つけた例の遠回りの道を取ってナールナウルへ向かった。途中踏み切りがあって長いこと待たされたが、菜の花畑の中を通る美しい道を行くことができ、心は満たされた。帰りに再びレーワーリーを通ったときに分かったことだが、現在ナールナウルへ通じるメインロードは工事中で通行止めになっており、そのために細い道を迂回して行かなければならなくなっていたようだ。ある人は、そういう迂回路は余所者の僕には難しいから遠回りでも分かりやすい道を指し示してくれて、またある人はその迂回路を教えてくれて、またある人はメインロードが工事中なのを知らずにそちらの方向を僕に言っていた、ということだろう。別にみんな悪気があったわけではなさそうだ。


菜の花畑の中を通過

 レーワーリーからナールナウルまでは55km。次第に道が悪くなって来て、スピードが出せなくなって来た。途中突然現れるスピードブレーカーも恐怖の存在である。何度ビッグジャンプを村人たちに披露したことか。1時間ほどでナールナウルに到着。ナールナウルもちょっとした町であった。ここからケートリーという町へ行く道を取る予定だった。そのまま道を直進して行き、人に「このまままっすぐ行ったらケートリーか?」と聞いたらそうだと答えた。ナールナウルではまだ余裕があったので、途中で見つけたグンバズ(廟)をちょっと見て回ったりした。こんなマイナーな町にも、必ずひとつやふたつ、立派な遺跡があるものだ。インドは奥が深い。


ナールナウルで見つけたグンバズ

 ナールナウルを出てしばらく進んで行った。インドの道路の片隅には、目的地までの距離を示した小さな石版が数kmごと立っている。幹線以外ではあまり道標などがないので、知らない道を行くときには非常に手助けになる。それを見ていたら異変に気付いた。石版に「ケートリー」という地名が一向に現れず、代わりに「スィンガーナーまで○km」という表示が延々と続いていた。止まって地図を確認してみると、僕はケートリー行きの道ではなく、ケートリーの北にあるスィンガーナー行きの道を取ってしまっていることが分かった。ぐわ、騙された!しかし、スィンガーナーからケートリーへ通じている道もあるようなので、引き返すよりは遠回りながらもこのまま進むことにした。スィンガーナーは交差点上にある小さな町だった。スィンガーナーを経由して午後2時半頃にケートリーに到着した。

 ケートリーもまた歴史のありそうな町で、市場の入り口には立派な門が立っていた。ケートリーからは本日の目的地ナワルガルまで一直線に通じている道を取る予定だった。地図には、ケートリーとナワルガルの間にグダーという地名があった。とりあえずグダーはどちらか聞いてみることにした。バススタンド近くで停車すると人々が集まって来た。その内の1人に道を聞いてみると、「グダーはあっちだ」と言う。他の人々も特に反論はしない。それならこの道でいいのだろう、と思って言われた通りの道を進んだ。ちょっと進んだ辺りでも道を聞いてみたが、グダーはこのまま真っ直ぐだと言う。すっかり安心し切ってバイクを走らせていた・・・が、その道もやっぱり間違いだった。グダーはケートリーの南西方向に位置しているが、僕が進んでいる道は南へ向かう道だった。このまま直進して行ったら国道8号線に逆戻りしてしまう。それに気付いたときにはけっこう進んで来てしまった後だった。引き返そうかと一瞬考えたが、地図を見てみると、途中にあるニーム・カ・ターナーという町で西へ折れればそのままナワルガルに着きそうだった。一度来た道を引き返すのはバイカーの哲学に反する。このまま直進することにした。

 ニーム・カ・ターナーもけっこう活況のある市場を中心とした歴史のありそうな町だった。インドはどんな田舎へ行っても必ず栄えた市場がどこかにあるので面白い。ニーム・カ・ターナーから慎重に道を聞いて、西方にあるウダイプルワーティー行きの道を取った。今度は間違いはなかった。だが、道は非常に劣悪だった。オンロードなのかオフロードなのかよく分からない穴ぼこだらけの道。しかも今まで2車線あったのだが、遂に1車線になってしまった。インドの道は危険だと言われるが、インドの1車線の道ほど危険なものはないだろう。これに比べたらデリーの道なんて運転免許教習所内の練習用道路みたいなものだ。巨大なトラックやバスが向こうから突進して来ると、バイクの僕は否応なく道路から路肩に下りなければならないし、黒煙を吐き出しながらノロノロと進む大型車を追い越すのにも一苦労である。しかもこの辺りの道は道路と路肩の段差が激しく、路肩はバンカーのような砂で覆われている。このニーム・カ・ターナー〜ウダイプルワーティー間の道で僕は一回事故に遭いそうになった。ちょっとスピードを出していて、カーブを曲がろうとしたら向こうから突然トラックがやって来た。何とかスピードを落として路肩に下りて避けたが、砂地に車輪を取られて道のそばに生えているサボテンに半分突っ込んでしまった。が、砂で速度が殺されたおかげでバイクの前部がサボテンの枝(?)に触れただけで、特に怪我も故障もなかった。1車線の悪路では時速60kmが限界だ。

 ウダイプルワーティーからナワルガルへ通じる道は、ロンリー・プラネットの地図では点線で表されていた。つまり、かなりの悪路ということであろう。しかし、他の道を取ると日没までナワルガルに辿り着けなそうなほどの遠回りになってしまうので仕方ない。ところが、ウダイプルワーティーで道を聞いてみると、地図には載っていない新しい道がナワルガルまで通じているという有力な情報を得た。しかもダブルロード、つまり2車線の道らしい。ウダイプルワーティーからスィーカル行きの道へ行く途中にその道はあった。この道のおかげで楽にナワルガルに到着することができた。ナワルガルに到着したのは午後5時、走行距離は約300km。デリーから7時間かかったことになる。


本日の行程
点線は予定していたルート
すごい遠回りしたことが分かる

 ナワルガルでは、アプニー・ダーニーというホテルに泊まろうと思っていた。インドの伝統的民家とエコロジーを融合させた、面白いコンセプトのホテルである。だが、アプニー・ダーニーを探すのにも多少手間取った。20分くらい迷った挙句、やっと発見した。アプニー・ダーニーはスィーカルとジュンジュヌーを結ぶハイウェイ近く、ナワルガルの郊外にあった。ここのオーナーのラメーシュ・ジャーンギールはインド人だが、ヨーロッパに長く住んでいた経験を持っており、インドにエコロジーをテーマにしたホテルを作ることを思い付いたという。アプニー・ダーニーでは太陽電池で発電したりお湯を作ったりしており、食事は全て有機栽培の野菜を使ったヴェジタリアン料理。ホテル内での飲酒は一切禁止(喫煙はいいみたいだ)。その他、電気、水、ゴミなどに関して宿泊客にはホテルのポリシーを守ることが義務付けられる。そういうのが嫌な人には向かないホテルだが、インドの中でもユニークなホテルのひとつであり、宿泊する価値があると言っていいだろう。部屋は伝統的なインドの家屋建築による泥造りの小屋となっている。僕は1泊800ルピーの部屋に宿泊した。夕食は、ジャーンギール氏や他の宿泊客と一緒にテーブルを囲んで歓談しながらとる。僕が泊まったときには、イギリス人、フランス人、ドイツ人の個人旅行者がいた。日本人はかなり稀らしい。シェーカーワーティー地方はなぜかフランス人観光客に人気のようで、このホテルも英語とフランス語のニ言語体制となっている。ジャーンギール氏や従業員も英語に加えてフランス語を話す。ちょうど今日は、ジャーンギール氏の孫の2歳の誕生日だったようで、夕食中に簡単な誕生日パーティーも催された。夜はかなり冷えたが、湯たんぽを貸してくれたので温かい睡眠を楽しむことができた。


アプニー・ダーニー

 インドの田舎ではガソリン補給が頭の痛い問題だ。まずガソリンスタンドがあまり見当たらない。見つかったとしても、ガソリンの備蓄がないこともある。ディーゼルのみのガソリンスタンドもあったりする。田舎で売られているガソリンの質も非常に疑わしい。未だに有鉛ガソリンが売られているかもしれない。というわけであまり田舎でガソリン補給したくなくて、デリーからここまで無補給で来た。だが、もうガソリンが尽きかけていたので、ホテルの人に聞いて近いところにあるガソリンスタンドを教えてもらった。いくつかの会社のガソリンスタンドがあったが、僕はリライアンスのガソリンスタンドを試してみることにした。リライアンスのガソリンスタンドはなぜかデリーには進出していない。リッター46.82ルピーだった。約10リットル補給。デリーで売られているレギュラー・ガソリンよりも数ルピー高い。デリーはインドの中でもガソリンが安いありがたい場所なのだ。だが、リライアンスのガソリンスタンドはちゃんとレシートをくれた。デリーのガソリンスタンドは、バイクの客にはレシートを発行してくれない。この点でリライアンスには好意が持てた。走りも問題はなかった。

12月14日(水) シェーカーワーティー・ツーリング(2)

 昨日は移動だけに1日費やしてしまったが、今日はシェーカーワーティー地方の見所を一気に見て回る。ホテルで朝食を取り、午前8時15分頃に出発した。朝は厚手のジャンパーや手袋をしていても震えるほど冷える。まず目指したのは、ナワルガルの東にあるパラシュラームプラーである。

 18世紀、アウラングゼーブの死後、ムガル王朝の力は衰え、代わって英国東インド会社がインドで影響力を拡大しつつあった。シェーカーワーティー地方はムガル王朝の衰退に乗じて勃興したシェーカーワート一族のサルドゥル・スィンとシェーオ・スィンによって支配されるようになり、代わってジュンジュヌーやファテープルを支配していたムスリムのカーヤムカーニー・ナワーブは駆逐された。シェーカーワーティー地方最古の壁画は、シェーカーワート・ラージプートが権勢を誇ったこの時期に属している。おそらくジャイプルの北にあるアンベール城の壁画に影響されたのだろう。サルドゥル・スィンによって1742年に建造されたパラシュラームプラーのゴーピーナート寺院の天井や、同地のタークル・サルドゥル・スィンのチャトリーの天井には、シェーカーワーティーで最も古く、そして最も保存状態のよいフレスコ画が残っている。まずはこの最古の天井画を求めてパラシュラームプラーへ向かった。

 ナワルガルに来た道を10kmほど引き返し、ジャージャルという町の先にある三叉路で北へ通じる小道に入る。そのまま10kmほど細い田舎道を直進すると、道が河の氾濫により崩壊している地点に出る。砂地の道を注意しながら進んで行った先にあるのがパラシュラームプラーであった。9時頃に到着。まずはゴーピーナートジー寺院を見てみた。寺院のマンダプ(拝堂)の天井に250年前のフレスコ画がほぼ完全な状態で残っていた。おそらく当時よりもだいぶ色あせてしまっているだろうが、非常に生き生きとした筆致である。題材は「ラーマーヤナ」やクリシュナ神話のものが多かった。寺院の鍵を管理している村人に入場料として20ルピー取られた。


ゴーピーナートジー寺院の天井画

 たちまちの内に僕とカリズマは村人たちの関心を集めることになった。子供たちが寄ってきて案内をしてくれた。次に見たのはシャームジー・シャラフのハヴェーリー(邸宅)。建物の外壁の高い部分や、玄関を入ってすぐのマルダーナーと呼ばれる部分に、ビッシリと壁画が描かれていた。シェーカーワーティー地方の他のほとんどのハヴェーリーと同様に、このハヴェーリーもただの民家になっており、ハヴェーリーを作った商人の子孫が今でも生活している。神様に混じって、家主のお爺さんの祖母の若い頃の様子が描かれた絵や、ヨーロッパ人の絵などがあった。


シャームジー・シャラフのハヴェーリー
左下でチャルカー(糸車)を回しているのは現家主の祖母らしい

 最後に見たのはタークル・サルドゥル・スィンのチャトリー。「タークル」とは「領主」という意味で、シェーカーワーティー地方を支配したラージプートの領主たちは「タークル」と呼ばれた。「マハーラージャー」などよりはかなりランクの低い称号である。また、「チャトリー」とはドーム状の屋根を柱などで支えた小さな小屋である。ラージャスターン州ではチャトリーの中に王族などの墓標を置く習慣があるが、このチャトリーもサルドゥル・スィンの子孫によって18世紀中頃に建てられたものらしい。このチャトリーの天井にも、ヒンドゥー教の神話を題材としたシェーカーワーティー最古のフレスコ画がほぼ完全な状態で残っている。天井の中央部には、クリシュナとゴーピー(牧女)たちのラース・リーラーが描かれ、その周囲を「ラーマーヤナ」などの神話を題材にした細かい絵が飾っている。やはり色は褪せているが、一見の価値はある素晴らしい絵。このチャトリーは普段は閉まっており、シャームジー・サルドゥル・スィンのハヴェーリー近くに住んでいる管理人のお爺さんに言って開けてもらう必要がある。お爺さんは孔雀の羽を先に括りつけた棒を使って詳しく解説もしてくれる。チップとして10ルピー渡しておいた。


タークル・サルドゥル・スィンのチャトリー
右上はラース・リーラー、左下はサルドゥル・スィン、
右下はランカー島に橋をかけるラーム軍(「ラーマーヤナ」より)

 この3つがロンリー・プラネットに掲載されていたパラシュラームプラーの見所の全てだが、村の子供たちが「あっちにもペインティングがある」と言うので、それもついでに見ることにした。子供を2人、バイクの後ろに乗せて、言われるがままにパラシュラームプラーの先へ行った。この辺りの道は道ではなく砂漠になっており、走行は困難を極めた。パラシュラームプラーの隣にある村の小高い丘に寺院があった。そこのチャトリーにフレスコ画があるというのだが・・・なんとチャトリー全体が白いペンキで塗られてしまっており、壁画は全て消滅していた。村人の話では、1ヶ月半ほど前に、汚れてしまっていたので「きれいにするために」ペンキを塗ってしまったという。村人はその壁画の価値を全く理解していなかった。どんな壁画があったのかは今では知る由もないが、非常に残念な気持ちになった。

 10時頃にパラシュラームプラーを出て、来た道を戻り、ナワルガルに到着した。今度はナワルガルの見所を見て回る。

 前述の通り、シェーカーワーティー地方でフレスコ画が描かれ始めたのは18世紀である。当初はタークルと呼ばれる領主層がスポンサーとなっていたが、次第に勃興して来たマールワーリーやバニヤーと呼ばれる商人階層が主役となって行く。シェーカーワーティー地方のタークルたちは、ジャイプルやビーカーネールと違って税金を安く設定したため、同地方はシルクロードの交易路となった。シェーカーワーティー地方はグジャラート地方の港町とデリーを結ぶ重要な中継地点となった他、中東、中国、インドからの商人たちが阿片、綿、香辛料などの交易を行うために集まって来るようになり、中継貿易によって大いに栄えるようになった。その恩恵により、当然のことながら商人階層が勃興し始めた。中継貿易により財を成した豪商たちは、豪華なハヴェーリーを競って建造し始める。しかしシェーカーワーティー地方の街の繁栄も長く続かなかった。英国東インド会社がカルカッタ、ボンベイ、マドラスなどの港を開港すると、インドの通商路は一変してしまった。また、鉄道の敷設もインドの交通を変えようとしていた。1820年代からシェーカーワーティー地方の街は衰退し始めた。だが、マールワーリー商人も負けてはいなかった。ラージャスターン地方の交易路に将来性がないのを察知すると、彼らはカルカッタやボンベイなどの港町に移住し、商売を始めた。彼らの多くは大成功し、さらに巨額の利益を上げるようになった。異国の地で成功した豪商たちは、経済的成功を故郷の人々に知らしめるために、ハヴェーリーの外壁や内壁を豪華絢爛なフレスコ画で飾るようになった。シェーカーワーティー地方のハヴェーリーの壁画は1940年代頃まで描かれ続けた。インド独立後、新天地で成功を収めたマールワーリー商人たちは家族を引き連れて完全に移住してしまったため、ハヴェーリーはかつての使用人が管理するようになった。このような状態なので、シェーカーワーティー地方のハヴェーリーの大半は、現在では荒れるに任せた状態となっている。それでも、ハヴェーリーの観光資源的価値を見抜いた人々は、観光客向けに整備し、入場料を取って公開している。フレスコ画で装飾されたハヴェーリーを持つ街はシェーカーワーティー地方の至る所に散在しているが、その中でも最も観光に値するのはナワルガルである。ナワルガルは、サルドゥル・スィンの4男のナワル・スィンによって建造された街で、当時インドで最も裕福な街のひとつだった。ナワルガルには600軒以上のハヴェーリーが存在し、その中のいくつかが観光客に公開されている。

 また、ハヴェーリーについても説明しよう。ハヴェーリーとは元々アラビア語で、「邸宅」という意味である。シェーカーワーティー地方のハヴェーリーは一定の建築プランによって建てられている。まず玄関を入ってすぐにマルダーナーという一画がある。マルダーナーとは「男性区画」という意味で、ここで商人たちは商売を行っていた。白いマットレスが敷かれているのが商売場で、その反対側に客間があるのが一般的である。マルダーナーの奥にはザナーナーと呼ばれる女性居住区画がある。家の女性たちはこのザナーナーで1日の大半を過ごした。ザナーナーとマルダーナーの間に覗き窓があるハヴェーリーも多い。このザナーナーの中庭を囲んで「ロ」の字型に2階建ての建物が建っているのが基本プランだ。大きなハヴェーリーは、この「ロ」をいくつも隣接させていっているだけである。酷暑期対策のために涼しい居住空間を創出する工夫がなされているのが印象的である。フレスコ画は、玄関、外壁、マルダーナー、ザナーナー一帯に描かれている。特に玄関は家の顔であるため、力が注がれているのが分かる。

 ナワルガルで訪れたのは、ムラールカー・ハヴェーリー、ドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館、バグトーンのハヴェーリー、そしてアート・ハヴェーリーである。この他にも街の各所にフレスコ画で飾られたハヴェーリーが林立しており、ひとつひとつを見て回ったら1日ではとても足らないほどだ。ムラールカー・ハヴェーリーは入場料40ルピーを取っているが、修復作業が行われているためにきれいなハヴェーリーだった。だが、一番の見所はドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館であろう(入場料85ルピー、カメラ料30ルピー)。1902年に建造されたこのハヴェーリーのフレスコ画は見事の一言。細かい彫刻が施された木製の扉がザナーナーへの入り口に置かれている他、ラージャスターン州の文化や工芸品を紹介した簡単な博物館や、基金によって運営されている学校を擁している。バグトーンのハヴェーリーは、ほとんど整備がなされていないハヴェーリーだが、その分オリジナルの雰囲気を味わえる場所である(入場料20ルピー)。英国人の壁画がたくさん描かれていた。アート・ハヴェーリーは、名前の通り8軒のハヴェーリーが並んでいる。だが中に入ることはできず、あまり面白くなかった。


ムラールカー・ハヴェーリー
ザナーナー(左下)の真ん中にはトゥルスィーの樹が


ドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館
列車(一番下)の絵がユニークだった
象と牛の顔が一体となった騙し絵のような壁画(真ん中)もあった


バグトーンのハヴェーリー
寝室には英国人の男女のフレスコ画が

 ところで、なぜこれらのハヴェーリーには度々英国人の絵が登場するのであろうか?実はシェーカーワーティー地方は、中継貿易地点として栄えたのと同時に、盗賊が跋扈する危険地域としても有名であった。19世紀初頭のシェーカーワーティー地方の政治状態は混沌としていた。シェーカーワーティー地方はサルドゥル・スィンの子孫たちによって細分化されてしまい、互いに抗争を繰り広げたり、略奪行為をするタークルたちも現れ、無法地帯となってしまっていた。商人たちは自衛のために私兵を雇わざるをえなかった。それを鎮圧してシェーカーワーティー地方に平和を取り戻したのが、英国人ヘンリー・フォースター少佐によってジュンジュヌーに設立されたシェーカーワーティー連隊であった。1830年代から40年代にかけてシェーカーワーティー連隊は盗賊対策を徹底し、反抗したタークルを捕えて彼らの砦を破壊した。彼らの活躍により、フォースター少佐を始めとした英国人はシェーカーワーティー地方では一躍人気者となり、その一番の恩恵を被った交易商人たちのハヴェーリーの壁にも英国人の姿が描かれることになったというわけだ。

 ナワルガルの人々は非常に親切で、特に僕がヒンディー語を話せるのを知ると長話をさせられた。バイクで見所をササッと回ってしまったので、あまり街の人々と交流する機会を設けられなかったが、数日滞在してのんびりハヴェーリーを見て回ると楽しそうな街だと思った。ナワルガルの観光を終え、12時頃に街を出た。次に向かうのはファテープルである。ファテープルへは、ナワルガルと並んでシェーカーワーティー地方の観光の目玉であるマンダーワーを経由して行く。だが、マンダーワーは今日は素通りするだけにして、明日観光することに決めていた。また、ナワルガルとマンダーワーの間にもいくつか見所がありそうだったので、適当に寄って行くことにした。

 ナワルガルを出て北にしばらく進むと、すぐにドゥンドロードという町に出た。ここにも一応何かありそうだったので、町の中に入ってみた。道なりに進んで行くと、大きな城が現れた。ドゥンドロード・フォートと呼ばれる城で、17世紀に建造された。中に入ってみると、ドゥンドロード・フォート・ヘリテージ・ホテルというホテルになっていた。20ルピー払うことで宿泊客以外でも中を見ることができる。だが、見所に乏しい城であった。ドゥンドロードはどうもポロで有名らしい。城の正門前はバーザールになっており、いくつか立派なハヴェーリーも建っていたが、先を急いでいたので中は見なかった。


ドゥンドロード・フォート

 ドゥンドロードからさらに北上すると、ムクンドガルという町に出た。ここで多少迷ったが、マンダーワー行きの道を探し出してマンダーワーへ向かった。特に問題なくマンダーワーに到着し、街中を通らずにファテープルへ行く道を取った。マンダーワーからファテープルまでの道も1車線のみの悪路で苦労したが、何とか2時頃にファテープルに到着した。

 ファテープルは1451年にカーヤムカーニー・ナワーブ、ファテー・カーンにより建造された街であるが、18世紀にサルドゥル・スィンによって奪取された。ファテープルには、フランス人芸術家ナディーン・プリンスによって買い取られたハヴェーリーがある。ナディーン・プリンスは地元の職人を使って、1802年に建造されたハヴェーリーを改装し、観光客に公開している(入場料100ルピー)。ナディーン・プリンスは、1年の半分をフランスで、半分をインドで過ごしているらしい。僕が訪れたときにはナディーンはおらず、管理人のメヘラージ・フサインが出迎えてくれた。徹底的に修復がしてあるだけあって、外部も内部も豪華絢爛の一言に尽きる。保存状態がよい部分はオリジナルのまま残してある。ハヴェーリーの隣には、ナディーンやその他の芸術家たちの作品が展示してあるギャラリーがあった。


ハヴェーリー・ナディーン・プリンス
右下はマルダーナーとザナーナーの間にある家主の部屋

 シェーカーワーティー地方のフレスコ画を描いたのは、クマール(陶工カースト)に属するチェージャーラーと呼ばれるコミュニティーらしい。彼らはハヴェーリーの建設と壁画の描画、両方の仕事を受け持っていた。フレスコ画には全て自然の色素が使われていた。黒にはカージャル(油煙)、白にはサフェーダー(石灰)、青にはニール(藍)、赤にはゲールー(紅土)、橙にはケーサル(サフラン)、黄にはペーブリー(黄土)など。壁の石膏が乾かない内にそれらの色を塗りつけていたため、それらの色は非常に長持ちした。だが、修復のために塗った色は、化学染料であり、また乾いた石膏の上に塗っているので、オリジナルほど長くは続かず、発色もよくないという。ハヴェーリー・ナディーン・プリンスでも、オリジナルの部分と後から修正した部分は一目瞭然であった。

 メヘラージ氏も非常に親切な人で、ハヴェーリーを一通り案内してくれた他、僕が「腹が減った」と言ったら、昼食も出してくれた。今日は、誰も観光客が来なくて退屈していたところに僕がやって来たので嬉しかったらしい。これからメヘンサルに行くと言ったら、「もしホテルが高かったり部屋がなかったりしたら、ここに戻って来なよ。ただで泊めさせてあげるよ」と言ってくれた。このハヴェーリーで1泊するのも悪くないな、と思いつつも、ファテープルを去って一路メヘンサルを目指した。ファテープルにも多くのハヴェーリーが残っているが、このハヴェーリーしか見なかった。


メヘラージ氏に出してもらった食事
黒色のはメーティー(フェヌグリーク)

 ところで、9月29日の日記で、ラージャスターン地方各地の王家に伝わる秘伝酒の話題を取り上げた。その中でも最も有名な秘伝酒がメヘンサル王家のものであった。メヘンサルもシェーカーワーティー地方の見所のひとつで、フレスコ画で彩られた建築物がいくつか残っているが、僕が最大の目的としていたのは当然のことながらその秘伝酒であった。シェーカーワーティー・ツーリング初日から既に秘伝酒の情報収集に取り掛かっていた。ナワルガルのアプニー・ダーニーでは、メヘンサルの城でその酒が手に入るとの情報を入手した。その城は現在ではホテルとなって観光客に開放されている。当初は2日目はマンダーワーに宿泊しようと考えていたが、その情報を得てからは急遽メヘンサル宿泊に予定を変更した。そしてファテープルのハヴェーリー・ナディーン・プリンスで、メヘラージ氏にもそれとなく秘伝酒のことを聞いてみたら、やはりメヘンサルの城で手に入るとの情報をくれた。ただし、密造酒なので誰にでも売ってくれるわけではないらしい。僕のような一旅行者に売ってくれるだろうか、と一抹の不安を覚えていたところ、メヘラージ氏はメヘンサルの城の主人と知り合いのようで、僕に酒を売るように一筆手紙を書いてくれた。まるでドラクエのような展開。これで一気に秘伝酒への道が開けた。

 3時頃にファテープルを出ると、まずはファテープルの北にあるラームガルを目指した。ファテープル〜ラームガル間の道もひどい悪路で、所々が砂漠に埋没していて走行は困難を極めた。それでも2車線あったので、一定のスピードで進むことができた。ラームガルで進路を東に取り、街中を通り抜けて行った。ラームガルにもいくつか見所があるようだが、今回はパス。ラームガルを抜けると、今度は正真正銘の田舎道。1車線のみで、しかも穴ぼこと砂だらけの道であった。だが、ラームガルからメヘンサルには案外すぐに到着した。メヘンサルは寂れた田舎町だった。すぐに城に直行。1768年に建造されたメヘンサルの城の一部は、前述の通り現在ではナーラーヤン・ニワース・キャッスルというホテルになっている。城に着くと温厚そうな顔をした主人が出迎えてくれた。部屋も空いているという。3部屋ほど見せてもらったが、もっとも豪華なナンバー5の部屋に泊まることにした。1泊1000ルピー。このホテルにはギザがないため、お湯はインドの安宿によくある、バケツで持って来てもらう方式になっている。だが、それ以外は設備に問題なかった。


ナーラーヤン・ニワース・キャッスル
右下は最も豪華なナンバー5の部屋

 まずは日没までの時間を使ってメヘンサルの見所をさっさと見て回ることにした。まず見たのはナーラーヤン・ニワース・キャッスルのすぐそばにあるソーネー・チャーンディー・キ・ドゥカーン(金銀の店)。1846年に建造されたこの建物の内壁は名前の通り金銀で装飾されており、シェーカーワーティー地方で最も美しいフレスコ画となっている。ソーネー・チャーンディー・キ・ドゥカーンは普段は閉ざされており、市場のある店の店主が鍵を管理している。入場料は100ルピー。やはり「ラーマーヤナ」やクリシュナ神話を題材にした絵が多かった。中央の入り口のすぐ上にあった、ゴーピー(牧女)たちが馬、象、輿の形になっている3つの絵が面白かった。


ソーネー・チャーンディー・キ・ドゥカーン

 次に見たのは、これまたすぐ近くにあるラグナート寺院。ラグナートとはラーム王子のことで、本尊はラームとスィーターであるが、ここの見所はその隣に祀ってあるシヴァの眷属の像らしい。シェーカーワーティー地方では、シヴァ寺院の本尊は普通シヴァリンガであるが、ここだけは人間の姿でシヴァが祀られているとか。しかもイタリアから輸入した大理石で作られている。また、寺院の外壁と内壁の一部にはやはりフレスコ画が描かれていた。ラグナート寺院から5分ほど歩いた場所にはサハージ・ラーム・ポーダールのチャトリーという遺跡があったが、こちらは特筆すべき事柄はなかった。


ラグナート寺院のシヴァの眷属
左からカールッティケーヤ、ガンガー、シヴァ、パールワティー、ガネーシャ

 さて、夕食の時間になった。ホテルの主人のマヘーシュワル氏が焚き火に当たっていたので、僕もそれに参加してボチボチ話を始めた。マヘーシュワル氏が「ビールは飲むか?」と聞いて来たので、「今だ!」と思ってファテープルのメヘラージ氏の名前を出し、メヘンサル特産の酒を飲みたいと言ってみた。そうしたら案外簡単に出してくれた。いろいろな種類の酒を作っているようだが、そのときはソーンフ(ウイキョウ)とイラーイチー(カルダモン)の2種類の酒が出てきた。ソーンフは透明で、水を加えると白く濁った。イラーイチーは最初から薄い黄色をしていた。恐る恐る両方とも口にしてみた。味は焼酎によく似ている。ファテープルのメヘラージ氏はソーンフがお気に入りのようだが、僕もイラーイチーよりはソーンフの方が気に入った。9月29日の日記で引用した文章で、メヘンサル・ソーンフは「3杯でディスカバリー号に乗ってしまう」と表現されていたが、僕は1杯飲んだだけでかなり酔っ払ってしまった。ちなみに、食事前に秘伝酒を出してくれることには簡単に応じてくれたものの、酒のテイクアウトにはかなり慎重であった。密造酒なので、警察の手入れを恐れているようだ。メヘンサルの城で酒が密造されていることは誰でも知っていると思うのだが・・・。だが、結局メヘラージ氏の手紙が功を奏し、1リットル売ってもらえた。200ルピーだった。やはり誰にでも売ってもらえるものではなさそうだ。


イラーイチー(左)とソーンフ(右)

 自分で取り上げた秘伝酒を自分で見つけ出して飲むことができたことも満足であったが、それよりも驚いたのはナーラーヤン・ニワース・キャッスルの料理であった。マヘーシュワル氏が「このホテルよりいい部屋はいくらでも見つかるだろうが、このホテルの食事よりおいしい料理はどこにもない」と豪語するだけあって、特別な味がした。僕1人のために(宿泊客は僕しかいなかった)、マトンカレーを含む何品もの料理を作ってくれた上に、それぞれが丁寧に作り込まれていた。特にトマトスープとトマトのカレーとカツレツがうまかった。おそらく料理人は代々王家に仕えている人なのだろう。このホテルの食事も絶品だったが、シェーカーワーティー地方の料理は全般的にどこか古いインド料理の伝統が今でも残っていて、健康でおいしいものが多いように思った。チャーイの味からしてこの地域は違う。僕は、現在「インド料理」として知られているものは、伝統的なインドの料理とはかなりかけ離れたものになってしまっているのではないかと日頃思っている。本当のインド料理は、伝統医学アーユルヴェーダに基づいた、医食同源の健康食だったに違いない。だが、いつしかインド人はそれを忘れ、または貴重な天然食材を失ってしまい、市販の手っ取り早い食材に頼るようになり、現在のように油っこくて同じような味の料理ばかりを食べるようになってしまったのではなかろうか?現在のインド料理はお世辞にも健康食とは言いがたいだろう。南インド料理はまだしも、北インド料理はヴェジタリアン料理でも毎日食べていたら確実に太りそうな味付けである。だが、今回旅行したシェーカーワーティー地方の料理には古き良きインド料理の残影が残っているような気がした。特にナーラーヤン・ニワース・キャッスルの料理は、こんなド田舎にいながらどうやってこれほどリッチな味を出すんだ、と唸ってしまうほどおいしかった。ちなみにこのホテルでは、その料理のレシピを惜しげもなく一冊の本にして売っている。絶対に買って帰ろうと思ったが、出発時にバタバタしていてうっかり忘れてしまった。今回のツーリングで最大のミスであった。今度行く機会があったら絶対に買って帰りたい。


ナーラーヤン・ニワース・キャッスルの夕食


本日の行程
走行距離約150km


12月15日(木) シェーカーワーティー・ツーリング(3)

 ホテルで朝食を取り、朝8時15分頃にメヘンサルを発った。今日はマンダーワーとジュンジュヌーを簡単に観光してデリーに戻る予定である。最低限、日没までにデリーに帰り着くことを目標とした。メヘンサルからマンダーワーへ通じる近道をホテルで教えてもらったのでその道を取った。途中いくつかの村を通り抜ける田舎道で、所々砂漠の道もあったが、もう悪路には慣れっこになっていたので問題はなかった。ただ、一番困ったのは道標もないほどの田舎道だったことだ。道から文字情報が消える、と表現すると分かりやすいだろうか?通常なら道端に数kmごとに置かれている「○○まであと何km」の表示もなく、あったとしても何十年も前に立てられたような代物で文字は当の昔に判別不可能となっている。だから、自分が果たして正しい方向に向かっているのか分からないのだ。人に道を聞くしか方法がない。だが、結局僕が取った道は正しかった。難なく1時間もしない内にマンダーワーに到着することができた。

 マンダーワーはシェーカーワーティー地方の観光の拠点となっている街である。シェーカーワーティーはそれほど多くの観光客に知られた場所ではなく、人々も非常に素朴であるが、この街だけは観光客ずれした雰囲気を持っている。元々ここで1泊しようと思っていたのだが、やめて正解だったようだ。

 まずはビンスィーダル・ネーワティヤーのハヴェーリーを探してみた。バーザールの真っ只中にあるこのハヴェーリーは、現在ではビーカーネール銀行の店舗となっている。この建物の東側の壁に興味深いフレスコ画が残っている。今まで見てきたいくつかのハヴェーリーにも、車や列車の絵など、英国人の来訪によりインドにもたらされた文明の利器が描かれていたが、ここのハヴェーリーの絵は最も面白い。車に加えて、飛行機や電話なども描かれているのだ。ベルが電話を発明したのが1876年、ライト兄弟が初めて飛行に成功したのは1903年、この絵が描かれたのは1920年頃らしい。当時のインドの田舎町としては最新の技術だったことだろう。そしておそらく実物を見たことがない絵描きがこれらの絵を描いたのだろう。列車の絵もそうだったが、これらの絵は、町の人々に世界でどんなことが起こっているのかを教えるためのものだったらしい。


ビンスィーダル・ネーワティヤーのハヴェーリーの外壁の絵
2番目の絵には「プロフェッサーラームールティナーヤル」と書かれている
4番目の絵には「ウルネーワーラー・ジャハーズ(飛ぶ船)」と書かれている

 英国人の来訪は、これまで神話や伝承などを題材にしていたシェーカーワーティー地方のフレスコ画に大きな影響を与えた。題材への影響は上に見てきた通りである。だが、その影響は題材だけでなく、絵の手法にも及んだ。1840年頃にインドに徐々に普及し始めた写真機は、今まで2次元だったシェーカーワーティー地方のフレスコ画に3次元的要素を加えた。オレオグラフ(油絵風石版画)の普及は、壁画でありながら油絵っぽい絵を生み出した。ドイツや英国から輸入されて来た化学染料は、それまでの天然染料に取って代わった。新しいものを何でも貪欲に取り入れていったそのハイブリッド性は、時代の潮流にうまく乗って莫大な富を稼ぎ出して来たマールワーリー商人たちがスポンサーだっただけある。今までラージャスターン地方で数々の壁画を見てきた。特にブーンディーのものは素晴らしかったし、各地に残っている宮殿や城塞の内部の装飾も美しいものが多かった。だが、シェーカーワーティー地方のハヴェーリーのフレスコ画ほどユニークな特徴を持った絵は見たことがない。神様と飛行機が混在するような壁画は、おそらく世界でも稀なのではなかろうか?王族ではなく、商人たちが描かせたこれらのフレスコ画は、どことなく現代のTVCMのような世俗っぽさを感じさせる。だが、残念なことにこれらのハヴェーリーの大半は、朽ち果てるままに任せられている。マンダーワーでもグラーブ・ラーイ・ラディヤーのハヴェーリーなど、いくつかのハヴェーリーを見たが、それよりも、ハヴェーリーが立ち並ぶ邸宅街で多くの立派なハヴェーリーがほとんど何の手入れもされずに放置されている状態に心が痛んだ。それは、ナワルガルでもファテープルでもそう変わらなかった。とは言え、ファテープルのハヴェーリー・ナディーン・プリンスのように、外国人が二束三文で買い取って金儲けの手段にしてしまうのも抵抗を覚えた。おそらくシェーカーワーティーを旅する者は、それらのフレスコ画の素晴らしさに感動すると同時に、多くの文化財が時の流れと共に容赦なく朽ち果てて行く姿に言い知れぬ悲しみを感じるに違いない。

 現在では高級ホテルになっているキャッスル・マンダーワーを簡単に見た後、10時頃にマンダーワーを発った。マンダーワーから北東の方向へ向かい、ジュンジュヌーには11時頃に到着した。シェーカーワーティー地方の大部分は、現在ではジュンジュヌー地区という行政区画に収まっており、その中心都市がジュンジュヌーである。もちろん、ジュンジュヌー地区で最も大きな街だ。ジュンジュヌーは、ファテープルと同様にカーヤムカーニー・ナワーブによって15世紀半ばに建設された都市である。カーヤムカーニー・ナワーブとは、フィーローズ・シャー・トゥグラクの時代(14世紀)にイスラーム教に改宗したラージプート王族ナワーブ・カーイム・カーン・シャヒードの末裔である。印パ分離独立時にはカーヤムカーニーの多くはパーキスターンに移住したが、今でもシェーカーワーティー地方を中心に多くのカーヤムカーニー姓を持つムスリムが住んでいるという。ジュンジュヌーは1730年にサルドゥル・スィンによって奪取され、1830年代から英国シェーカーワーティー連隊の駐屯地となった。

 ジュンジュヌーではケートリー・マハルとラーニー・サティー寺院を見た。ケートリー・マハルは市場の細い路地を通り抜けた先にある宮殿である。サルドゥル・スィンの孫、ボーパール・スィンによって1770年に建造された。ボーパール・スィンは、ナワルガルへ来る途中に通ったケートリーという町の創始者であり、その関係で宮殿の名前もケートリー・マハルと呼ばれているようだ。内部は大理石の柱が林立しており、数ヶ所に壁画が残っている。非常に風通しのいい構造になっている他、ユニークなのは馬を上階へ連れて行けるように階段がスロープになっていることだ。しかも、この宮殿の頂上からの眺めは非常によく、ジュンジュヌーの街を一望の下にできる。この宮殿の持ち主と言う家族の少年が案内してくれた(入場料50ルピーを取られた)。ちなみに、この宮殿はジャイプルのハワー・マハルのモデルとなったという。


ケートリー・マハル

 次にジュンジュヌーの町外れにあるラーニー・サティー寺院へ行った。ラーニー・サティー寺院は、1295年にサティー(寡婦殉死)を行ったナーラーヤニー・デーヴィーを祀った寺院である。サティーとは、夫の火葬時にその妻も火の中に飛び込んで自殺する風習で、インドの悪習の筆頭に挙げられることが多い。だが、サティーを行った女性は女神として祀られることが多く、インド国内には少なくとも250以上のサティー寺院が存在すると言われている。その中でも最も有名かつ大規模なのが、ジュンジュヌーにあるこのラーニー・サティー寺院である。サティーは1829年に英国によって禁止されたものの、現代でも時々サティーが行われているようで、特に有名なのは1984年9月4日にサティーを行ったループ・カーンワルである。それ以来、インドではサティー支持派とサティー反対派の間で激しい論議が巻き起こるようになり、それは現在でも解決していない。ラーニー・サティー寺院は700年前から毎年ナーラーヤニー・デーヴィーを祀る大祭を催して来たが、サティーはセンシティヴな問題となっているため、裁判所により1988年から同寺院におけるサティーを美化した祭りが禁止されている。その影響もあり、寺院前には警察官が数人立っていたが、みんな緊迫感はなく、僕とも非常にフレンドリーに話してくれた。僕が日本人であることが分かると、ある警察官は「私の父はインド国民軍(INA)にいて、チャンドラボースと共に戦ったんだ。日本軍は協力してくれたから友達だ」みたいなことを言って喜んでくれた。そういえばシェーカーワーティー地方ではチャンドラボースの肖像を多く見かけた。INAにはシェーカーワーティー地方の人々がけっこう参加していたのだろうか?ラーニー・サティー寺院はダラムシャーラー(参拝客用宿泊所)を備えた巨大な寺院で、本殿は撮影禁止だった。本尊はナーラーヤニー・デーヴィーだろうが、その他にもサティーを行った女性たちが祀られていた。


ラーニー・サティー寺院

 ジュンジュヌーには他にも、16世紀末に建造されたバーダルガル砦、19世紀に活躍したムスリムの聖人カムルッディーン・シャーのダルガー、フレスコ画で装飾された無数のハヴェーリー、シェーカーワーティー連隊を率いたヘンリー・フォースター少佐が作った町、フォースターガンジなど、いくつか見所があるが、今回はそれらを見て回る余裕がなかった。

 おそらくこれで「オープン・エアー・ギャラリー」と称されるシェーカーワーティー地方の主要な見所は大体見て回ったはずである。この地域にフレスコ画で装飾されたハヴェーリーは腐るほど存在するので、全てを見て回っていたら切りがない。もし時間が限られているならば、見るべき場所は5つだ。パラシュラームプラーのタークル・サルドゥル・スィンのチャトリー、ナワルガルのドクター・ラームナート・A・ポーダール・ハヴェーリー博物館、マンダーワーのビンスィーダル・ネーワティヤーのハヴェーリー、ファテープルのハヴェーリー・ナディーン・プリンス、そしてメヘンサルのソーネー・チャーンディー・キ・ドゥカーンである。そして宿泊するなら、僕が泊まったナワルガルのアプニー・ダーニーとメヘンサルのナーラーヤン・ニワース・キャッスルは両方ともユニークでオススメである。

 さて、ジュンジュヌーからはいよいよデリーを目指す。時刻は11時半。デリーからシェーカーワーティー地方へ来るときはとんだ遠回りをしてしまったが、デリーまで最も簡単に行ける道を地元の人に聞いたので、帰りは行きほど苦労はしなかった。デリーからシェーカーワーティー地方へ行くのに最適な道は、デリー→ダールヘーラー→レーワーリー→ナールナウル→スィンガーナー→チラーワー→ジュンジュヌーである。間違っても僕が行きで辿った道を行ってはならない。ジュンジュヌーからまずはチラーワーという町を目指した。ちょうどラーニー・サティー寺院はチラーワー方面へ抜ける道と方向が一緒だった。ジュンジュヌーからチラーワーまでは2車線のきれいな舗装道でスイスイと行けた。12時頃にチラーワーに到着。チラーワーは砂漠に埋もれた町であった。中心部にはガソリンスタンドが密集した地域があるのだが、そこの地面は全て砂漠であった。これは酷すぎる。車輪が砂に埋もれてしまって、まっすぐ進むのが難しかった。チラーワーからスィンガーナーへ抜ける道を探すのに多少手間取ったが、何とか道を発見。この辺りで「デリー」という道標を見かけたが、そちらへは行かない方がいいみたいだ。チラーワーからスィンガーナーまでの道はあまりよくなかったが、それでもまだ許せるレベル。スィンガーナーは行きに経由したので、ここまで辿り着けばもう簡単だ。スィンガーナーからナールナウルへ行き、ナールナウルからレーワーリーへ。午後2時半頃にはデリーとジャイプルを結ぶ国道8号線に出ることができた。3時頃、マーネーサルのマクドナルドで小休止。デリーに到着したのは午後4時半。行きはデリーからナワルガルまで7時間かかってしまったが、帰りはジュンジュヌーからデリーまで5時間ほどで到着することができた。本日の走行距離は約300km、3日間の全走行距離は746.5kmだった。


本日の行程

 シェーカーワーティー地方は間違いなくインド観光の大穴である。少なくとも日本人にとっては、これほど名を知られていなくて、かつこれほど魅力的で、しかもこれほどアクセスしやすい場所は他にないだろう。今回はデリーから行ったが、ジャイプルからならさらに容易にアクセスできる。バイクで旅行した点については、利点と欠点の両方があった。やはりバイクで行ったおかげで、短時間の内に多くの町を自由に巡ることが可能だったのは大きな利点だった。特にパラシュラームプラーは相当田舎にあるため、バスを利用しようと思ったら日帰りくらいの覚悟で行かなければならない。バイクならものの2時間ほどでナワルガルから行って帰って来ることができた。だが、バイクで行ったおかげで多くの苦労もしたし、体験できなかったこともあっただろう。やはり最大の欠点は道に迷うことだ。この辺りは道が複雑でしかもあまり道標がなく、地元の人々もあまり道を知らないため、迷い出したらとことん迷う。1日目は何度も間違った道を教えられて泣きそうになりながら走っていた。道がとんでもなく悪いのもバイク泣かせだ。幸い、ツーリング中にバイクのトラブルはなかったが、この辺りは道の途中に修理屋などほとんどないため、パンクにでもなったりしたら大ピンチであろう。ガソリンスタンドも心細い。その点では、あまりツーリング向けの土地ではないかもしれない。また、シェーカーワーティーの町はどこも徒歩で歩くと最大限に面白さを引き出せると言っていい。色あせながらも壮麗なハヴェーリーが立ち並ぶ町を、存分の容量を持ったカメラと共にゆっくりと歩くことができたら、どんなに楽しかっただろう、どんなにいい写真が撮れたことだろう。僕のようにバイクで目的地から目的地まで直行してしまっては、シェーカーワーティーの面白さの半分を見逃してしまったと揶揄されても言い返せないだろう。しかも、友人から借りたデジカメの容量が140枚ほどしかなかったので、気ままに写真を撮ることができなかったのも痛かった。最低でも300枚くらいは写真を撮りたかった・・・!シェーカーワーティーを観光する際、最も賢いのは、まずはどこかのホテルにチェックインし、シェーカーワーティー地方の観光情報に詳しいガイドと共に日帰りベースで数日かけてタクシーで回る方法であろう。

 バイクで回ってしまったため、公共交通に関する情報などは全くないが、それ以外で入手した旅行情報や感じた感想などは最大限盛り込んだつもりである。シェーカーワーティーの魅力を少しは分かっていただけたと思う。シェーカーワーティー地方名物オープン・エアー・ギャラリーの消滅の危機が叫ばれて久しい。修復が進むハヴェーリーもあるが、パラシュラームプラーの寺院のように、文化遺産の価値を解しない地元の人々に白塗りされ、永遠に葬り去られてしまう壁画の方が多いだろう。今からでも遅くはない。シェーカーワーティー地方は、早く行けば行くほどいい観光地だと言える。

12月18日(日) Bluffmaster!

 今日は新作ヒンディー語映画「Bluffmaster!」をPVRバンガロールで見た。PVRバンガロールには「ゴールドクラス」なる最高級映画館がある。入場料350ルピーに加え、150ルピー分の飲食チケットをもれなく買わされるため、1つの映画を見るために合計500ルピー支払うことになる。ほとんど日本の映画館と変わらない値段になってしまう。だが、映画館は36席しかない贅沢な空間で、ふかふかのリクライニング・チェアに横たわって映画を鑑賞することができる。せっかくなので、このゴールドクラスでこの映画を鑑賞した。ちなみにデリーでも、最近ノイダにできたPVRにゴールドクラスがあるようだ。

 「Bluffmaster」とは「詐欺の達人」みたいな意味だ。プロデューサーは伝説的傑作「Sholay」(1975年)のラメーシュ・スィッピー、監督はその息子で、「Kuch Naa Kaho」(2003年)で監督デビューしたローハン・スィッピー、音楽はヴィシャール・シェーカル。キャストは、アビシェーク・バッチャン、プリヤンカー・チョープラー、リテーシュ・デーシュムク、ナーナー・パーテーカル、ボーマン・イーラーニー、フサイン・シェークなど。

Bluffmaster!
 ロイ(アビシェーク・バッチャン)はプロの詐欺師だった。巧妙な手口で人々から金を騙し取っていた。だが、ロイは恋人のシミー(プリヤンカー・チョープラー)のことだけは心から愛しており、自分の職業についても黙っていた。ロイとシミーは結婚することになるが、結婚式会場にはかつてロイがカモにした男が来ていた。なんとその男はシミーの叔父であった。こうしてロイは正体がばれてしまい、シミーに振られてしまう。【写真は左から、ナーナー・パーテーカル、リテーシュ・デーシュムク、アビシェーク・バッチャン、プリヤンカー・チョープラー、ボーマン・イーラーニー】

 半年後、ロイは未だにシミーを失った悲しみから立ち直っていなかった。そんなときロイは、同じく詐欺師を生業とするディットゥー(リテーシュ・デーシュムク)と出会う。ロイは悲しみを和らげるために、まだまだ未熟な詐欺師のディットゥーにプロの心得を伝授することになる。ディットゥーが最終的なターゲットとしていたのは、父親を騙したチャンドルー(ナーナー・パーテーカル)という男であった。チャンドルーはホテルを経営する実業家ながら、裏では犯罪に手を染めている危険な男だった。ロイはディットゥーと共にチャンドルーを罠にかけ、大金をせしめる。ところが、その金はロイにカモにされて恨んでいたオマル(フサイン・シェーク)に奪われてしまう。

 また、ロイは最近よく目まいがして倒れこむことがあった。友人の医者バレーラーオ(ボーマン・イーラーニー)に相談して精密検査をしたところ、ロイは脳腫瘍を患っており、余命は3ヶ月と宣告される。だが、もし莫大な治療費を払って最新の手術を受ければ、その脳腫瘍を治療することは不可能ではないとのことだった。ロイは今まで詐欺をして稼いだ金を持ち出す。

 一方、ロイに騙されたことを知ったチャンドルーは激怒し、シミーを人質に取って身代金を要求する。もしその身代金を払ってしまったら、脳腫瘍の治療は不可能であった。自分の治療をするか、それともシミーを救うか。シミーのいない人生は何の意味もないことを知っていたロイは、迷わずその金を持ってシミー救出に向かう。金を受け取ったチャンドルーはシミーを解放するが、ビルの屋上からロイを突き落とす。

 だが、落ちた先には救命用クッションが置かれており、ロイは無事だった。どういうことか理解できないロイ。シミーの家に駆けつけたロイは、全てがドッキリであったことを知る。ディットゥーが監督、チャンドルーが脚本家であり、シミーもそれに加担していたのだった。実はディットゥーの方が騙しのテクニックではロイよりも何枚も上手だった。

 多少強引ではあるが、最後のどんでん返しが小気味良い佳作。音楽がファンキーなので、映画の雰囲気も非常にファンキーなものとなっている。この映画で完全にスタイルを確立したアビシェーク・バッチャンは、父親の七光りを照らし返すほどの大スターのオーラをまとってしまったと言っていいだろう。

 主人公のロイは「ブラフマスター」の名をほしいままにする天才的詐欺師。そのロイが、詐欺師の世界に足を踏み入れて間もないディットゥーに詐欺師の心得を説くと同時に、共に悪徳実業家チャンドルーを罠にかける。だが、詐欺にかかっていたのは実はロイの方で、全てはディットゥー監督、チャンドルー脚本の大ドッキリ映画であった、というのが主要なストーリーの流れである。それに、ロイとシミーの恋愛と、余命3ヶ月と宣告されたロイの葛藤が編み込まれていた。

 アビシェーク・バッチャンを筆頭に、俳優陣は優れた演技をしていた。プロデューサーのラメーシュ・スィッピーは、アビシェークの父親アミターブ・バッチャンを「Sholay」で国民的スターに育て上げたが、その息子ローハン・スィッピーはこの映画でアビシェークを完全に大スターに押し上げたと言っていいだろう。アビシェークは演技に加え、踊りまで独自のスタイルを確立した。彼はデビュー以来散々踊り下手の烙印を押され続けて来たが、「Naach」(2004年)で「踊らなくても踊っているように見える踊り」を披露したのを皮切りに、「Dus」(2005年)で「簡単に踊れるがかっこよく見える踊り」を自分のものにして、遂にこの「Bluffmaster!」で「アビシェーク型ダンス」を創出した。2000年代のボリウッドの大スターは、もしかしたらリティク・ローシャンでもジョン・アブラハムでもなく、このアビシェーク・バッチャンかもしれない。


アビシェーク・バッチャン
「BLUFF」「MASTER」の指輪がクール

 リテーシュ・デーシュムクもいい演技をしていた。リテーシュは、「Masti」(2004年)や「Kyaa Kool Hai Hum」(2005年)で演じたような三枚目役が一番はまり役であり、この映画でも基本的にその路線を踏襲した。今度はさらに芸幅を広げる努力が要求されるだろう。ヒロインのプリヤンカー・チョープラーはあまり出番はなかったが、適切な演技をしていた。ナーナー・パーテーカルは、危険なマフィアと見せかけておいて実は気弱な脚本家というおいしい役柄であった。ボーマン・イーラーニーはハッスル過剰気味だったが、面白かった。

 映画中、いくつかいいセリフがあった。余命3ヶ月と宣告されて落ち込むロイに、医者のバレーラーオは言う。「今までの人生の中で、何日記憶にある?最初の仕事、最初のスーツ、最初の給料、初めて女の子を触ったとき、初めて心が鼓動したとき、よし、人生の中で30日、覚えているとしようじゃないか。君にはあと90日あるんだ。1日1日を思い出深い日にすれば、君は3倍人生を生きられるんだ!」

 「Bluffmaster!」のサントラCDは現在ヒット中である。普通のインド映画音楽とは一風もニ風も変わった味付けの曲が多い。特によいのはタイトル曲の「Sab Se Bada Rupaiyya」であろう。「妻よりも子供よりも父親よりも母親よりも偉いもの、それは兄ちゃん、金だよ金」という歌詞がサビの曲である。ロイとシミーの結婚式に流れる「Say Na Say Na」も、基本はバングラーながらちょっと変わった曲。「Tadbeer Se Bigdi Hui Taqdeer」は、「Baazi」(1951年)の同名曲のリミックスである。「Right Here Right Now」ではアビシェーク・バッチャンが歌を歌っている。その他、インド系英国人女性サイラー・フサインがヴォーカルを務めるバンド、トリックベイビーの曲が数曲流れる。この映画はアミターブ・バッチャンとシャシ・カプール主演の「Do Aur Do Paanch」(1980年)が部分的にモデルになっているようで、同映画のタイトル曲のリミックスも出て来る。このように音楽に特に力が入っている映画である。

 今年のボリウッドは、「Page3」、「Black」、「Kaal」、「Home Delivery」など、新感覚の映画が相次いだが、「Bluffmaster!」もそのひとつと言える。やはり都市部の映画ファンをターゲットにした作品であり、田舎でのヒットは難しいだろうが、ボリウッド映画の多様化と、その多様性をカオスではなく洗練の方向へ持って行く努力は歓迎していきたい。

12月22日(木) ハリウッド vs ボリウッド

 インドを代表する映画情報誌「フィルムフェア」の2005年12月号に、以下のようなハリウッドとボリウッドの金銭的比較が掲載されていた。貨幣の単位は全てルピーで統一した。

■ジャンル別映画制作費

ジャンル ボリウッド ハリウッド
ロマンス Devdas(2002年) 5.0億 Titanic(1997年) 90.0億
歴史 Taj Mahal(2005年) 5.8億 Troy(2004年) 67.5億
冒険 Krrish(2006年) 6.0億 Spider-Man2(2004年) 90.0億
アクション The Hero(2002年) 5.5億 Kill Bill 2(2004年) 24.7億
アニメ Bhagmati(2005年) 0.5億 Finding Nemo(2003年) 42.3億

■2005年公開週、興行収入トップ5

ボリウッド ハリウッド
Mangal Pandey 1.85億 Star Wars Episode III 48.6億
Bunty Aur Bubli 1.60億 War of the World 28.8億
No Entry 1.34億 Charlie and the Chocolate Factory 25.2億
Sarkar 1.31億 Batman Begins 21.6億
Dus 1.24億 Wedding Crashers 14.9億

■米国公開のボリウッド映画とインド公開のハリウッド映画、興行収入トップ5

米国公開のボリウッド映画 インド公開のハリウッド映画
Monsoon Wedding(2001年) 6.21億 Titanic(1997年) 5.0億
Bride and Prejudice(2004年) 1.84億 Spider-Man2(2004年) 3.5億
Kabhi Khushi Kabhie Gham(2001年) 1.39億 Godzilla(1998年) 2.7億
Veer-Zaara(2004年) 1.26億 Anacondas(2004年) 2.2億
Devdas(2002年) 1.21億 XXX(2002年) 1.5億

■男優出演料

ボリウッド男優 トップ5 南インド男優 トップ5 ハリウッド男優 トップ5
アーミル・カーン 0.8億 ラジニーカーント 1.2億 トム・クルーズ 33.7億
シャールク・カーン 0.7億 チランジーヴィー 0.9億 トム・ハンクス 31.5億
サルマーン・カーン 0.6億 ナーガールジュナ 0.7億 ブラッド・ピット 13.5億
リティク・ローシャン 0.5億 カマル・ハーサン 0.5億 ウィル・スミス 12.6億
アミターブ・バッチャン 0.5億 ヴィジャイカーント 0.3億 ジム・キャリー 11.2億

■女優出演料

ボリウッド女優 トップ5 ハリウッド女優 トップ5
アイシュワリヤー・ラーイ 0.300億 ジュリア・ロバーツ 9.00億
ラーニー・ムカルジー 0.200億 キャメロン・ディアス 9.00億
プリーティ・ズィンター 0.150億 ニコール・キッドマン 6.75億
カリーナー・カプール 0.125億 リース・ウィザースプーン 6.75億
プリヤンカー・チョープラー 0.065億 ドリュー・バリモア 6.75億

■監督収入

ボリウッド監督 トップ5 ハリウッド監督 トップ5
ヤシュ・チョープラー 1.2億 ジョージ・ルーカス 130.5億
カラン・ジャウハル 1.0億 メル・ギブソン 83.2億
サンジャイ・リーラー・バンサーリー 0.7億 スティーヴン・スピルバーグ 36.0億
ラーケーシュ・ローシャン 0.6億 ジェリー・ブラッカイマー 27.0億
ディヴィッド・ダーワン 0.5億 ピーター・ジャクソン 21.1億

 インドは「世界一の映画大国」と言われる。映画の制作本数から見れば、それは間違いではないだろう。だが、その産業の規模は、表を見れば分かる通り、ボリウッドとハリウッドでは正に桁が違う。「Titanic」はサンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の意欲作「Devdas」の18倍の制作費をかけて作られており、「Star Wars Episode III」が公開後1週間で稼いだ興行収入は、アーミル・カーン渾身の「Mangal Pandey」の約26倍である。「Titanic」や「Spider-Man2」などのハリウッド映画がインドで数億ルピーの興行収入を上げている一方で、米国で大成功を収めた映画はミーラー・ナーイル監督の「Monsoon Wedding」1本のみという有様である。ボリウッド男優の出演料は、ハリウッド男優の数十分の一であるばかりか、南インドの大スターたちにも負けてしまっている。これは女優でも同じことだ。最も酷いのは監督の収入だ。ジョージ・ルーカス監督が130億5千万ルピーもの収入を得ている一方で、ボリウッドを代表する映画監督たちはその100分の1ほどの収入しか得ていない。この記事を書いた人の言わんとするところはつまり、ボリウッドはまだまだハリウッドの足元にも及ばない小さな存在である、ということだろう。

 しかし、映画の制作費や俳優の出演料などを比べて、全く違う国の映画産業を比較するのはあまりにも短絡的すぎるように思える。物価の差、経済力の差、マーケットの差など、多くの要素を考慮に入れて比較すべきだ。また、ボリウッド映画にはハリウッド映画以上の海賊版市場が存在し、表に表れない数字が多くあることも念頭に置いておかなければならないだろう。それらのことを考え合わせると、ボリウッド映画の規模はそれほど小さくないと言えるような気がする。

 ボリウッドとハリウッドの比較よりも、ボリウッドと南インド映画界との比較の方がどうやら面白そうだ。日本でも有名なタミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーントは、インドで最も高いギャラを取る男優で、この点で彼に叶う俳優はボリウッドにはいない。テルグ語映画界のメガスター、チランジーヴィーもラジニーカーントに迫る勢いだ。残念ながら南インド映画界の女優の出演料が記載されていなかったが、これはおそらく、南インド映画界ではボリウッド以上に男優と女優の出演料の差があることを表しているのではなかろうか?ボリウッドで最も高いギャラを取るアイシュワリヤー・ラーイですら、「3カーン」の2分の1以下しかギャラをもらっておらず、新たに台頭して来たプリヤンカー・チョープラーなどはまだなけなしの出演料しかもらうことができていない。おそらく南インド映画界の男優と女優のギャラの差はさらに大きいのだろう。ボリウッドには南インド出身の女優がたくさんいる。シュリーデーヴィー、レーカー、タッブー、アイシュワリヤー・ラーイ、シルパー・シェッティー、ブーミカー・チャーウラーなどなど、枚挙に暇がない。その理由もおそらく、南インド映画界に根強く残る、男優と女優のギャラの差なのではなかろうか?その他にも産業の規模や国内外マーケットの状況など、ボリウッドと南インド映画界を比較してみると面白い事実が浮かびそうである。

12月24日(土) ポンディチェリー

 今年のクリスマスはポンディチェリーで過ごした。インドでも最近はクリスマスや新年が祝われるようになって来てはいるが、多くのインド人にとって基本的にクリスマスは他宗教の祭りであるから盛り上がりに欠けるし、12月31日から1月1日にかけての2日間も、5月から6月に月が変わるのと同じくらいの感覚しか持っていない。日本が西洋文化の影響を受けすぎなので、インドの方が正しい受け止め方なのだろうが、それでも時々クリスマスをクリスマスらしく祝ってみたくなるのは人情というものであろう。インド国内で、クリスマスをクリスマスらしく祝っている地域はどこだろうか、と考えた際、元々フランス領だったポンディチェリーはけっこうそれに当てはまるのではないだろうか、と思い立ったのが、ポンディチェリー行きの主な動機であった。ポンディチェリーには、インドを初めて旅行した1999年にも一度訪れたことがある。だが、そのときはちょうどポンディチェリーで何かイベントがあり、宿が全く見つからなかったため、一泊せずにそのまま次の目的地、マハーバリプラムへ行かざるをえなかったという苦い思い出がある。

 ポンディチェリーはタミル・ナードゥ州の海岸沿いにある町である。「ポンディチェリー」とは、タミル語で「新しい村」という意味の「プドゥッチェリ」が訛った形で、通称は「ポンディー」。「Pondicherry」をフランス語的に読んで「ポンディシェリー」と表記することもあるが、「ch」の部分は現地の発音やヒンディー語表記に準じ、「ポンディチェリー」と統一して表記することにする。ちなみにタミル文字では、「パーンディッチェリー」と表記されていた。伝説では2500年前、現在ポンディチェリーがある場所で聖仙アガスティヤがアーシュラム(修験場)を開き、ヴェーダプリーと呼ばれていたと言われている。また、ポンディチェリーの南郊にあるアリカメードゥは、2000年前にローマ人によって建造された交易の港だったとされる。だが、現在のポンディチェリーは、フランスと結びついて人々に記憶されていることがほとんどだろう。

 チェンナイから約170km南にあるポンディチェリーはポンディチェリー準州(連邦直轄地)の州都となっており、タミル・ナードゥ州とは行政的に別の地域となっている。ポンディチェリー準州は、ポンディチェリーの他に3つの領土を南インド各地に擁している。アーンドラ・プラデーシュ州のヤナム、タミル・ナードゥ州のカライカル、ケーララ州のマエである。フランスはイギリスやオランダとインドでの覇権を巡って17世紀から抗争を繰り広げており、ヨーロッパでの勢力関係に従ってインドでの支配権も変化し続けた。ナポレオン戦争終結後の1816年時には、フランスはインドに5つの領土を持っていた。上記の4つの領土の他、ベンガル地方のシャンデルナゴル(チャンダンナガル)がその領土であった。また、フランスは現アーンドラ・プラデーシュ州のマチリーパトナム、現グジャラート州のスーラト、現ケーララ州のコジコデ(カリカット)にも商館を持っていた。だが、1947年8月15日のインド独立時にそれらの商館はインドに割譲され、1948年にはインドとフランスの間で、残りのフランス領について住民投票によりその帰属が決定されるとの協定が交わされた。シャンデルナゴルでは1948年に行われた投票で住民の97%がインドへの帰属を希望し、1950年にインドに事実上返還され、1952年に法律的返還が終了し、1955年に西ベンガル州に併合された。フーグリー河の河畔に位置し、長い間フランスのインド交易の中心地として栄えたシャンデルナゴルの返還がスムーズに進んだのは、英国が下流にカルカッタを造り、20世紀にはその重要性がほとんど失われていたからだろう。ところが他の4領のインド返還についてはスムーズに進まなかった。シャンデルナゴルと同じく、1948年に協定に基づいて4領にて投票が行われたのだが、不正が行われてインド合併支持派の市議会議員が逮捕され、4領は無理矢理フランス領内での自治を受け容れることになってしまった。だが、社会主義や共産主義の政党が中心となってフランス政府に抗議活動を続けた結果、ポンディチェリーとカライカルでは1954年にもう一度投票が行われることになり、圧倒的多数の支持票を得て両領のインド帰属が決定された。ヤナムとマエでも同様の独立運動が展開された。1954年にインドとフランスは4領を事実上インドに併合することで合意し、1956年に協定が結ばれ、1962年にフランス国会が正式にポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マエをインドに併合させることを承認した。1963年7月1日にこれらの4領は連邦直轄地となり、ポンディチェリー準州と名付けられた。インドの大部分では20世紀前半に英国との独立闘争が繰り広げられたが、ポンディチェリーではフランスとの独立闘争が繰り広げられた点で特異である。

 このような歴史的背景があるため、ポンディチェリーはインドの他の都市とは違ってフランスの影響が色濃く残った街となっている。ベンガル湾に面した卵型をした街は周囲をグルリと広い道で囲まれており、内部はルーズな碁盤目状の都市設計となっている。街路の名前には、英語の「ストリート(St.)」の他に、フランス語の「リュ(Rue)」という言葉が使われており、街の標識や看板も、英語、フランス語、タミル語のどれかが書かれている。だが、同時にタミル・ナードゥ州に取り囲まれたポンディチェリーは容赦なくタミル化が進んでおり、街の北部から中心部にかけてはほとんど他のタミル・ナードゥの都市と変わらない状態で、非常に騒々しい。それでも、海岸沿いの地区はまだまだ閑静で、フランスの田舎町の面影が残っている(フランスには行ったことないが)。それもそのはず、ポンディチェリーの中央部には用水路が流れているが、その東側、ベンガル湾寄りの地域は「ヴィル・ブランシュ(白人街)」と呼ばれ、元々フランス人居住区だったのだ。一方、その西側は「ヴィル・ノワール(黒人街)」と呼ばれ、インド人が住んでいた地域だった。今でもその違いははっきりと分かる。


ポンディチェリーの街並み
看板にはフランス語が
しかし繁華街(一番下)はタミルそのもの

 ポンディチェリーへはバンガロールから夜行バスで行き、24日早朝に着いたのだが、またしても宿決めに難航した。やはりポンディチェリーはインドの他の地域とは違い、クリスマスから新年にかけて非常に混雑するようだ。アーナンダ・イン、ホテル・スルグルなどの中級ホテルは新年まで満室で、スーリヤ・スワスティカ・ゲストハウスのような安宿までも空室がなかった。6年前の悪夢、再び・・・。しかし、あのときはまだ未熟な旅行者だったが、今ではいくらか経験も積んでいる。ロンリー・プラネットによると、ポンディチェリーには家族経営の小さなゲストハウスがいくつかあるようだった。部屋数は少ないが、表に看板も出していない本当に小規模なところばかりらしく、かえってこういうホテルの方が空いているかもしれないと考えた僕は、パトリシア・ゲストハウスという宿を探してみた。ただの民家だったので探し出すのに多少苦労したが、近所の人が教えてくれたため、何とか見つけることができた。パトリシア・ゲストハウスを経営するパトリシアさんは、ポンディチェリーに3軒の宿を持っており、僕がまず行ったのはその内の1軒、ドゥプイ・ストリートとフランソワ・マーティン・ストリートの角にある宿だった。残念ながらそこには空き室がなかったが、そこから10分ほど歩いた場所にあるもう1軒のゲストハウスに空き部屋があるとのことだったので、そちらへ泊まることにした。普通の小さな民家ではあるが、フランス植民地時代に造られたと思われる西洋風の造りをしていた。そして壁にはラージャー・ラヴィ・ヴァルマーのリトグラフなどが飾ってあった。僕は一泊1500ルピーの部屋に宿泊した。朝食はクロワッサンとフランスパンが出てきて、インドにいながらおフランスな朝を迎えることができた。


パトリシア・ゲストハウスの一室

 元々フランス領だったポンディチェリー準州だが、キリスト教徒の数は人口の7%ほどである(2001年国勢調査)。やはりヒンドゥー教徒が大多数を占め、全人口の87%がヒンドゥー教徒だ。だが、インドの全人口に占めるキリスト教徒の割合が2%であることと比較すると、ポンディチェリー準州のキリスト教徒人口は決して少なくない。また、この数字はポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マエを合計した数字であり、ポンディチェリーの海岸部にある旧市街だけを見るともっとキリスト教徒の人口比は多いように思えた(内陸部はほとんどタミルであった)。こういうわけで、ポンディチェリーでは期待通りクリスマスもクリスマスらしく、しかもいい具合にインド色に染まった形で祝われていた。クリスマス・ツリーが飾られるのは万国共通だろうが、イエス・キリスト誕生シーンがジオラマで再現されていたのは、もしかしてジャナマーシュトミー(クリシュナ生誕祭)の影響であろうか?ジャナマーシュトミーのとき、子供たちはクリシュナ誕生のシーンをジオラマで再現して家の前に飾る。また、クリスマス・イヴの夜には家の前にクリスマスを祝うランゴーリーが描かれていた。本当のランゴーリーは米粒で描かれるが、ポンディチェリー市街地の地面はアスファルトで覆われているので、チョークを使って描かれていた。また、夕食はランデブーというレストランでターキーを食べることができた。しかし夜はやっぱり爆竹が鳴るのがいかにもインドらしいところである。


イエス・キリスト誕生シーンのジオラマ(左上)
家の前にはクリスマスを祝うランゴーリーが

 ポンディチェリーには今でもフランス国籍のパスポートを持ったインド人が住んでいるという。彼らはポンディチェリーがインドに併合されたときに、インド国籍ではなくフランス国籍を選んだ人々のようだ。ポンディチェリーには白人、または白人っぽいインド人の姿を多く見かけた。その内の誰が旅行者で誰が住民なのかは判別が難しかったが、ポンディチェリーの風景を特異なものとするのに一役買っていた。パトリシアさんもインド人なのか白人なのかよく分からない顔をしていた。また、ポンディチェリーの警官は、ケピと呼ばれる赤い帽子をかぶっている。これは、フランスの兵士や警察がかつてかぶっていたのと同じものらしい。


赤い帽子をかぶった警官

 ポンディチェリーは、フランス植民地時代の面影が最大の見所であるが、もうひとつ世界的に有名なものがある。オーロヴィルである。オーロヴィルは、ポンディチェリーから北に10kmの地点に広がっている実験都市である。どの国家にも民族にも宗教にも属さず、地球環境と人間精神の調和を目指した理想都市オーロヴィルは、独立活動家から精神指導者に転身したアルビンド・ゴーシュ(シュリー・オーロビンド)の後継者、フランス人女性画家ミッラ・アルファサ、通称マザーによって実現された(マザーは国籍はフランスだが、エジプト人の父とトルコ人の母の間に生まれた)。オーロヴィルは1968年から建造が始まったが、当初この辺りは木が育たない荒地だったという。だが、オーロヴィリアン(オーロヴィルの住民)たちが一本一本植樹した結果、現在では緑に囲まれた豊かな土地に生まれ変わっている。オーロヴィルは、マートリマンディルと呼ばれる球体の建築物を中心に螺旋状に広がる都市プランで形成されており、それぞれの区域は、文化ゾーン、産業ゾーン、国際ゾーン、生活ゾーンのように役割分担がなされている。オーロヴィルは一応インド国内にあるが、インド政府から半自治的な地位を与えられているようで、経済的、文化的、環境的に自立した共同体が目標とされているという。


マザー(左)とアルビンド・ゴーシュ(右)


オーロヴィルの都市プラン

 前回ポンディチェリーに来たときはオーロヴィルを訪れることができなかったので、今回は是非訪れてみようと思っていた。オーロヴィルの最大の見所は、中心部にあるマートリマンディルである。マートリマンディルは金盤で覆われた直径31mの球体である。白大理石でできた内部には世界最大と言われる直径70cmの水晶が安置され、その周囲には12本の柱が立っている。建築的に非常に興味深い。だが、外部の者はマートリマンディルに自由に入ることができない。午後2時半〜4時の間にオーロヴィル内のビジター・センターで許可証を取得すれば、外部の者は午後4時〜4時半の間だけマートリマンディルの中に入ることが許される。元々そういう情報は知っていたのだが、どうせインドだから時間にルーズだろうと考えていた僕は、午後4時前くらいにポンディチェリーでオートを拾い、マートリマンディルに午後4時半過ぎに到着した。だが、警備員にあっけなく「今日の入場時間は終了」と言われて追い返されてしまった。またもマートリマンディルを見逃したか・・・。下の写真はネットで拾ったもの。ちなみに内部は写真撮影禁止のはず。


マートリマンディル


マートリマンディル内部

 オーロヴィルへ来た観光客がまず訪れるのはビジター・センターという場所である。ここではオーロヴィルに関する資料などが展示されていたり、売店や食堂があったりする。ビジター・センターに行って驚いたのはインド人観光客の多さ。やはりみんなマートリマンディルを目当てにやって来た観光客のようで、マートリマンディルを見終えた後にビジター・センターで買い物などをしていた。僕はオーロヴィルをもっと静かな場所だとイメージしていたので、これだけ観光客が押し寄せるようになってしまっている現状を見て気が滅入ってしまった。しかも、ビジター・センターの売店で売られているものには特に大したものがなくて、さらにガッカリ。オーロヴィルの財政は厳しいようなので、観光は大切な収入源なのだろうが、それでもちょっと商業主義に迎合し過ぎではなかろうか?

 ビジター・センターの売店で「The Auroville Handbook」という本を買った。オーロヴィルのことが詳しく掲載された本であり、オーロヴィルに移住する手引きも載っていた。どうやらオーロヴィルに移住するには、まず「Entry Viza for Auroville」という特殊なヴィザを母国のインド大使館で取得しなければならないようだ(観光ヴィザは駄目らしい)。だが、エントリー・ヴィザを取得する前に移住希望者は一度オーロヴィルを訪れて短期間「ビジター」として生活してオーロヴィルの理念をよく理解し、移住を決断したら住民を管理するエントリー・グループから推薦状を取得する必要がある。エントリー・ヴィザと共にインドに入国したら、オーロヴィル到着後すぐにエントリー・グループに到着レポートを提出すると同時に、インド政府の地域登録局(RRO)で外国人登録手続きも行わなければならない。移住希望者はエントリー・グループと面接を持ち、その後3ヶ月の「ゲスト期間」が始まる。ゲスト期間が終わるとまた面接があり、その後「ニューカマー期間」が始まる。ニューカマー期間は普通2年続くようだ。ニューカマー期間が終了すると再びエントリー・グループと面接し、何も問題がなければ晴れて「オーロヴィアン」になることができる。オーロヴィルには世界35ヶ国約40ヶ国からやって来た約1800人の住民が住んでいるらしいが、このように、オーロヴィルの住民になるにはけっこう面倒な手続きが必要だ。また、各住民は何らかのコミュニティーに属し、仕事をすることを義務付けられる。ちなみに、最新データ(2005年11月)によるとオーロヴィルには日本人が4人住んでいるようだ。一番多いのはインド人で736人、2位はフランス人で261人、3位はドイツ人で226人である。

 ハンドブックにはこのような注意書きがあった――オーロヴィルを訪れる外国人は、タミル・ナードゥとインドの文化と伝統を理解し、尊重することが期待される――だが、オーロヴィルを少しだけ覗いてみた感想では、それがあまり守られていないように感じた。一番気になったのは女性の肌の露出度の多さである。特に白人女性。白人にとって、冬のタミル・ナードゥも十分暑いのだろうが、タンクトップのような格好で地元の村の道を平気で通り抜けている姿は目を疑った。一体オーロヴィルは地元にどのような影響を与えているのだろうか。オーロヴィルは「どの国家にも領有されず、全ての善良で誠実な意思を持った人々が世界市民として自由に暮らせる場所」という理念のもとに造られたらしいのだが、僕には結局、白人が抱くユートピア、つまり欧米人の独り善がりのコミュニティーになってしまっているのではないかという危惧を感じた。確かに人口ではインド人が最大勢力だが、インド人も白人に弱いからなぁ・・・。

 また、個人的にはオーロヴィルは、僕が通っているジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)にどことなく雰囲気が似ているようにも思えた。観光地化したJNU、勉強しないJNU、という感じだった。オーロヴィルにあまり感心しなかったのも、JNUを見ているからであろうか。

 ポンディチェリーは、インドでは珍しくフランス的雰囲気を味わうことのできる街であると同時に、オーロヴィルという世界でも稀な共同体を体験できる特殊な場所だ。そしてもし、インドでクリスマスらしいクリスマスや、ニューイヤーらしいニューイヤーを祝いたいなら、ポンディチェリーはひとつの候補になりえるだろう。

12月27日(火) Vaah! Life Ho Toh Aisi

 今日はPVRバンガロールで新作ヒンディー語映画「Vaah! Life Ho Toh Aisi」を見た。題名の意味は、「わぁ!人生はこうでなくっちゃ」という感じ。監督はマヘーシュ・マーンジュレーカル、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、サンジャイ・ダット、シャーヒド・カプール、アムリター・ラーオ、アルシャド・ワールスィー、スハースィニー・ムレー、モーニーシュ・ベヘル、エークター・ベヘル、マスター・アーディル、プレーム・チョープラー、シャラト・サクセーナー、ラジャト・ベーディー、アマン・ヴァルマーなど。

Vaah! Life Ho Toh Aisi
 自動車修理工場で働くアーディ(シャーヒド・カプール)は、三世代が同じ屋根の下で過ごす大家族の一員だった。祖母(スハースィニー・ムレー)、叔父(プレーム・チョープラー)、長男夫婦(飛行機事故で死亡)の子供たち、次男夫婦(モーニーシュ・ベヘルとエークター・ベヘル)とその子供たち、妹が一緒に住んでおり、しかも家庭教師のピヤー(アムリター・ラーオ)も家族同然となっていた。そして、アーディとピヤーはお互いに惹かれ合っており、結婚も決まっていた。次男は事業に失敗して飲んだくれており、アーディだけが一家の大黒柱であった。【写真は、サンジャイ・ダット(左)、シャーヒド・カプール(中心)、アムリター・ラーオ(その後ろ)など】

 妹の縁談が進んでいた。だが、花婿側の家族は500万ルピーのダウリー(持参金)を要求して来た。アーディは太陽電池で動く自動車を開発しており、それが大手自動車会社に採用されれば、まとまった金が手に入る予定だった。アーディは金貸しから屋敷の権利書を担保に500万ルピーを借りて花婿側の家族に手渡す。ところが、その後すぐにアーディは突然交通事故に遭って死んでしまう。

 気付くとアーディは、ビンテージ・カーに乗ってデザイナー・スーツを着た男の隣にいた。彼はヤムラージ(サンジャイ・ダット)、つまり閻魔だと名乗った。車の行き先は天国であった。同じ車には、同日に死んだシャクティ(マスター・アーディル)という子供も乗っていた。アーディはヤムラージに、地上へ返してくれるよう頼み込む。情にもろいヤムラージは、アーディとシャクティを地上に返す。ただし2つの条件があった。ひとつは、地上に戻った2人を誰も見ることはできず、2人の言うことを誰も聞くことができない、というものであった。もうひとつは、1週間後に天国へ連れて行く、というものであった。

 地上に幽霊となって戻ったアーディとシャクティは、霊媒師ファキーラー(アルシャド・ワールスィー)と出会い、ハヌマーンの力を借りてスーパーパワーを手に入れる。その力を使えば、物に触れたり身体を伸縮させたりすることが可能だった。

 自宅に戻ったアーディであったが、屋敷が悪徳実業家ヒーラーチャンド(シャラト・サクセーナー)に狙われていることに気付く。ヒーラーチャンドはいつの間にかアーディの屋敷の権利書を手に入れており、借金の形に屋敷を差し押さえようとしていた。アーディと同居していた叔父もグルだった。だが、アーディはスーパーパワーを使って彼らを撃退する。この他にもいろいろな出来事があり、アーディの家族はアーディの幽霊が自分たちを守ってくれていることを感じ取っていた。また、この間度々ヤムラージはアーディを訪ねて来た。2人はすっかり大の仲良しになると同時に、ヤムラージは酒の味を覚えてしまう。

 やがて1週間が過ぎてしまった。最後に5分だけ、ヤムラージはアーディに家族の前に姿を現すことを許す。姿を現したアーディは家族と感動の再会を果たす。だが、ヤムラージは酒を飲んで酔っ払ってしまい、しかもアーディに同情して彼を地上に帰すことに決める。家族はヤムラージにも姿を現すように頼む。照れながらも姿を現したヤムラージであったが、その顔はサンジャイ・ダットにそっくりであった!

 基本的に子供向けのファンタジー映画であり、しょうもないシーンがいくつもあったが、最後は不覚にもホロリとさせられてしまった。家族みんなで映画館に見に行くのに最適な、クリスマス・シーズンにピッタリの映画だ。また、「モダンな閻魔様」と自分自身を演じるサンジャイ・ダットにも注目である。

 監督のマヘーシュ・マーンジュレーカルは、ボリウッドで最も意味不明の人物である。彼は悪役俳優であると同時に、様々なジャンルの映画を撮っている。「Rakht」(2004年)というハートフルなホラー映画を撮ってみたり、「Padmashree Laloo Prasad Yadav」(2005年)というお馬鹿なコメディー映画を撮ってみたり、「Viruddh」(2005年)というシルバーロマンス映画を撮ってみたり、全くパターンが読めない。今回は、「ゴースト ニューヨークの幻」(1990年)や「ジョー・ブラックによろしく」(1998年)をベースに、ボリウッド的味付けをした幽霊ファンタジー映画に挑戦である。ますます訳が分からない。

 まず冒頭で、アーディの家族の簡単な説明が漫画と共に流れる。いわゆるジョイント・ファミリーであり、「タイガース」と呼ばれる子供たちの群れを中心として多くの登場人物が出て来るので、ここで聞き逃すとストーリーについていけなくなってしまうかもしれない。重要なのは、プレーム・チョープラー演じる叔父はアーディの祖父でも直接の血縁でもないことと、アムリター・ラーオ演じるピヤーは家族の一員ではなく子供たちの家庭教師であることだ。それさえ分かれば流れはつかめるだろう。

 この映画が子供向けである最大の理由は、10人もの子供たちが出て来て、一人一人の役割は小さいものの、集団でけっこう活躍するからだ。「Makdee」(2002年)で双子を1人で演じたり、「Iabal」(2005年)で見事な助演をしたシュエーター・プラサード、「Pitaah」(2002年)に出演したタンヴィー・ヘーグデーなど、名を知られた子役俳優の他、主演シャーヒド・カプールの弟のイーシャーン・カプール、マヘーシュ・マーンジュレーカル監督の息子のサティヤ・マーンジュレーカルなどが出演していた。おそらく最も観客の記憶に残るのは、食いしん坊の末っ子を演じたダルシル、シャクティを演じたマスター・アーディル、そして手品好きの子供を演じたイーシャーンであろう。タイガースがアーディやピヤーと共にみんなでボーリング大会に参加するシーンや、最後に悪者どもをコテンパンにやっつけるところなどが、子供たちの最大の活躍の場だ。ちなみに最近ボリウッド映画にボーリングがよく出て来るような気がするが、一般のインド人はボーリングのルールなどを理解しているとは思えないのだが・・・。デリーにも小さなボーリング場がいくつかあるが、遊んでいるのはリッチな人々ばかりだ。それともムンバイーのインド人の間ではボーリングはけっこうポピュラーな娯楽になっているのだろうか?

 子供たちの活躍も痛快であったが、やはりこの映画の最大の主役はサンジャイ・ダットであろう。サンジャイ・ダットが演じるヤムラージは、日本語で言う閻魔様(サンスクリット語の「ヤマ」が日本語の「閻魔」になった)。だが、日本人が考えるほどインドの閻魔様は権力のある存在ではなく、彼の仕事は寿命が来た人間を連れに来るだけである。人間の寿命を決定するのはチトラグプトという神様で、映画中のセリフにもチラリと登場する。「Vaah! Life Ho Toh Aisi」の中のヤムラージは、従来のヤムラージのイメージを覆すモダンなスタイル。派手なスーツを身に付け、ビンテージ・カーを乗り回す。しかもこのヤムラージ、情にもろくてしかも大酒飲み。ナイトクラブで酒を飲んで踊り狂うミュージカル「Teri Yaad Yaar」では、ミニスカートの女の子の足元から上を覗き込んだり、キスをするカップルの間に入り込んだりと大暴れ。そしてエンディングでは「ヤムラージはサンジャイ・ダットに顔が似ている」ということになってしまう。サンジャイ・ダットはヤムラージの他、サンジャイ・ダット自身として映画の最後に特別出演する。しかも、サンジャイ・ダットが過去に主演した「Khal Nayak」(1993年)、「Vaastav」(1999年)、「Munnabhai MBBS」(2003年)関連のちょっとしたパロディーが出て来る。サンジャイ・ダットがいかにインド人に愛されているかを感じ取ることができるだろう。

 サンジャイ・ダットや子供たちに押され気味ではあったが、シャーヒド・カプールはいい演技をしていた。やたらアイドルアイドルしたアイドルスマイルが毎度気になるが・・・。サンジャイ・ダットと踊るミュージカル「Teri Yaad Yaar」では軟体動物のようにしなやかに、かつ激しく身体を動かして踊っていた。アムリター・ラーオは、「Main Hoon Na」(2004年)の頃のお転婆娘のイメージを払拭するようなピュアな女の子の役を演じていた。だが、何となく普通の若手女優になってしまったようで残念に感じた。見るたびに身体が華奢になっていくのは気のせいだろうか?祖母を演じたスハースィニー・ムレーは、「Lagaan」(2001年)でブヴァンのお母さんを演じた女優で、2003年3月に日本で行われた「Lagaan」の試写会に来ていた。「Vaah! Life Ho Toh Aisi」はこういう映画であるため、大人の俳優たちも童心に帰って演技をすべきだと思うのだが、スハースィニー・ムレーは最も表情が固く、この映画の趣旨をよく理解していないように思えた。その点、サンジャイ・ダットやシャラト・サクセーナーなどの馬鹿演技振りは見事であった。「ゴースト ニューヨークの幻」でウーピー・ゴールドバーグが演じていたような霊媒師役をアルシャド・ワールスィーが演じていたが、ムンバイーの下層民がしゃべるタポーリー・バーシャーと呼ばれるヒンディー語の一方言をまくしたてていて、理解が困難であった。だが、誰が何と言おうとそれが彼の持ち味なのである。

 アルシャド・ワールスィーが演じたファキーラーが、霊魂となって地上に戻って来たアーディとシャクティにスーパーパワーを与えるシーンは、この映画の中で最も馬鹿馬鹿しいと同時に最も面白い。まず、そのスーパーパワーは「ラーマーヤナ」に出て来る猿の将軍ハヌマーンの賛歌「ハヌマーン・チャーリーサー」を唱えることにより得られる。シャクティが「ハヌマーン・チャーリーサー」に文句を言うと、ファキーラーは「馬鹿!スーパーマンもバットマンもスパイダーマンも、ハヌマーンから力を授かってるんだ。ハヌマーンこそがスーパーヒーローたちの親分なんだ」と言う。そしてシャンカル・マハーデーヴァンが歌い、大量のサードゥたちが登場してスローダンスを踊るミュージカル「Hanuman Chalisa」となる。ミュージカルの最後には、天空にハヌマーンが登場し、アーディとシャクティに力を授ける。ちょうど2ヶ月前にハヌマーンを主人公にしたアニメ映画「Hanuman」が公開され、インド製アニメ映画としては異例のヒットとなっているが、今年はハヌマーンに縁のある年なのか。

 「Vaah! Life Ho Toh Aisi」は、子供向けのファンタジー映画であり、深く考えてしまう人には向いていないかもしれない。だが、サンジャイ・ダットのファンなら必ず見るべき映画だろう。

12月29日(木) Dosti

 今日は、クリスマス・ウィークに「Vaah! Life Ho Toh Aisi」と同時公開された新作ヒンディー語映画「Dosti」をPVRバンガロールで見た。昨日、バンガロールでは何者かによる銃の乱射事件が発生し、インド工科大学(IIT)デリー校の教授が射殺された。こういう事件が起こると、デリーでは一気に厳戒態勢が敷かれるが、バンガロールの警戒態勢に緊張感はあまりなかった。映画館のセキュリティーも、以前に比べて微妙にタイトになっていたぐらいだった。

 「Dosti」とは「友情」という意味。副題「Friends Forever」も示す通り、友情をテーマにした映画である。プロデューサーと監督は「Barsaat」(2005年)のスニール・ダルシャン。キャストは、アクシャイ・クマール、ボビー・デーオール、カリーナー・カプール、ラーラー・ダッター、カラン・クマール、リリット・ドゥベー、シャクティ・カプール、ジューヒー・チャーウラー、アマン・ヴァルマーなど。

Dosti
 カラン(ボビー・デーオール)は大富豪の息子だったが、父(キラン・クマール)からも母(リリット・ドゥベー)からも相手にされず、妹にも疎外され、寂しい人生を送っていた。だが、偶然出会った貧しい家の子供ラージ(アクシャイ・クマール)と意気投合し、固い友情を結ぶ。カランは孤児のラージを自分の家に住まわせる。【写真は左から、ラーラー・ダッター、ボビー・デーオール、アクシャイ・クマール、カリーナー・カプール】

 大きくなったカランはプレイボーイとなり、毎週違った女の子と恋愛を繰り広げるようになった。一方、ラージは幼馴染みのアンジャリー(カリーナー・カプール)と相思相愛の仲であった。アンジャリーの世話を見ていた兄は、定職に就いていないラージとの結婚を渋るが、それを見たカランは父親に頼んでラージを会社の重役にする。こうしてラージとアンジャリーの結婚が決まった。

 一方、カランも遂に1人の女性に本気の恋をする。名前はカージャル(ラーラー・ダッター)と言った。カージャルはカランに数々の難題を突きつけるものの、カランもそれを一生懸命こなし、遂に2人は付き合うことになる。カランとラージは、結婚式を同じ日に行うことを約束する。

 ところが、カランが元々付き合っていたリーナーと、その父親(シャクティ・カプール)は、カランの過去を暴露してカランとカージャルの結婚を邪魔する。また、ラージもアンジャリーに結婚式を延期すると言い出し、それが原因で2人は別れてしまう。ラージはカランとも仲違いし、彼のもとを去ろうとする。ところがその瞬間、ラージは倒れてしまう。

 実はラージは治療方法のない難病に冒されていた。余命はあと少しだった。アンジャリーも他の男と結婚してしまう。だがラージは、死ぬ前にバラバラになったカランの家族をまとめてカランを立ち直らせることを決意する。ラージの努力によりカランは父、母、妹と仲直りする。また、カージャルを説得してもう一度カランとよりを戻させる。だが、アンジャリーはラージが女医(ジューヒー・チャーウラー)と共に喫茶店にいるところを見て、彼女を彼の新しいガールフレンドだと勘違いし、ラージに罵声を浴びせかける。それが原因でラージは発作を起こす。急いで病院に搬送されるラージ。輸血が必要だっただが、ラージの血液型は特殊なRHマイナスO型だった。実はアンジャリーが彼と同じ血液型を持っていた。アンジャリーはラージに血液を提供すると同時に、彼の病気を初めて知る。

 何とか一命を取り留めたラージは、カランとカージャルの結婚式の日、最後の力を振り絞って踊る。だがその後、ラージは昏睡状態になり、皆に看取られながら息を引き取る。だが、カランはラージとの友情を忘れず、生まれてきた息子にラージと名付けるのだった。

 前半までは先が読めるベタな展開だが、インターミッションを過ぎると多少ストーリーに起伏が生まれ、最後は意外とシンミリと終わった。子供時代のシーンでラージがカランに言う「友達に手を握られると痛みが和らぐんだ。抱擁すれば痛みなんて感じないんだ」というセリフが最後で生きてきたり、冒頭でラージとカランが同じ血液型であることがそれとなく語られ、それがやはり終盤でラージとアンジャリーの仲直りにつながる伏線になっていたり、と脚本には多少工夫が見られたが、全体的にはお粗末の一言。音楽やミュージカル・シーンも精彩を欠いた。

 ラージとカランの少年時代のシーンは、見ていてむずがゆくなってくるほどのコテコテの展開。両親や妹から疎外されるカランの姿はわざとらしいし、サッカーボールを追いかけていったら崖から落ちそうになるのは、あまりに幼稚すぎる展開だ。なぜインド映画にはすぐ崖が出て来るのか?崖なんて普通の生活ではあまりお目にかからないのだが。とにかく、崖から落ちそうになっていたカランをラージが助けたことにより、2人の間に友情が生まれる。

 この映画を見ていて強く感じたが、インド映画の欠点は「改心」がすぐに起こることだ。心情変化の描写が稚拙、と表現してもいい。「改心」は、勧善懲悪をモットーとするインド映画にはなくてはならない要素ではあるが、その描写ががさつな映画が多い。「Dosti」もそのひとつである。ラージの努力により、カランは家族と関係を改善するが、20年以上うまくいっていなかった家族の仲がそう簡単に変わるとは思えない。結局、キャラクターの設定がいい加減ということだろう。

 この映画に見所があるとすればアクシャイ・クマールであろう。もう20代の若者を演じるには無理のある年齢になって来てはいるが、演技力でそれをカバーできるだけの俳優になった。死ぬ間際の大暴れ振りは、さすがアクション男優!対するボビー・デーオールも悪くはなかったが、髪形が変すぎた。あの顔でプレイボーイ役というのも納得できない。

 「Dosti」は男同士の友情をテーマにした映画であり、女優にあまり出番はなかった。だが、それでもカリーナー・カプールは感情の起伏をメリハリのある演技で表現していた。ラーラー・ダッターはそれに比べたらただの添え物に過ぎなかった。彼女が演じたカージャルの人物描写にも説得力がなかった。

 自動車のナンバーがチャンディーガルの「CH」だったし、「グルガーオン」という地名がセリフ中に出てきたので、舞台はデリーからチャンディーガルにかけての地域だったと思うが、特定はされていなかった。コーヒーショップを中心とした商店街が何度も出てきたが、あれはおそらくセットであろう。

 「Dosti」は、ある程度ストーリーにひねりが見られるものの、楽しい映画とはお世辞にも言えない。無理して見る必要はないだろう。


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