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2011年3月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(火)「ブッダを救え」キャンペーン
文学■8日(火)ヒンディー語最初の自伝
祝祭■20日(日)ホーリーの疑問
分析■23日(水)Chaatmasala創刊
演評■28日(月)ダースターンゴーイー
分析■30日(水)インドの英語新聞の弱点3


3月1日(火) 「ブッダを救え」キャンペーン

 インドはヒンドゥー教徒が国民の大多数を占める国で、いわゆる黄金の三角形ルート(デリー~ジャイプル~アーグラー)を観光する限り見所の多くはイスラーム教関連の建築物となるのだが、日本人の間では仏教発祥の地としてのイメージが根強く、昔から仏跡目当てで旅行に来る日本人観光客は多い。インド国内の仏跡として有名なのは、ブッダが悟りを開いたボードガヤー、ブッダが初めて説法を行ったサールナート、ブッダが涅槃に入ったクシーナガルなどで、ネパールにあるブッダ生誕の地ルンビニーを含めて4大聖地とされる。さらにブッダが奇跡を行ったとされる4つの場所――シュラーヴァスティー(サヘート・マヘート)、ラージギール、サンキシャー、ヴァイシャーリー――を含めて8大聖地とされる他、インド各地にはブッダとは直接関係ないが仏教と深い関係を持った有名遺跡――ナーランダー、サーンチー、アジャンター、ナーガールジュナコンダからタボ、アルチなど――も多い。チベット亡命政府の拠点ダラムシャーラーも仏教(特にチベット仏教)に興味のある観光客には人気である。

 ここで挙げた遺跡は有名なものばかりで、既に観光地として整備され、保全・修復されているものが多い。だが、インドには実に300以上の仏教遺跡があり、その多くは消滅の危機に瀕していると言う。インド考古局などから「遺跡」として認定を受けているものも多いのだが、実際にはそれらを保護するために何の手立ても取られていないのが現状である。さらに、昨今のインドの急速な経済発展により、いくつかの遺跡には開発の波が間近に迫って来ている。このままでは偉大な仏教文化の形見は永遠に失われてしまう。こうしてはいられないと、それらを救うために有志によって立ち上げられたNGOがThe Buddhist Forumである。

 創立者はスィッダールタ・ガウリーという人物で、ウェブサイトでは「活動家、作家、映画監督」を自称している。実際に彼はインド各地の危機的状態にあるストゥーパ(仏塔)やヴィハーラ(僧院)の遺跡を取り上げた「Dhammachhetra: The Lost Land of the Buddha」というドキュメンタリー映画を撮っている。ネット上でこの映画は公開されていないが、公式サイトにナレーションの脚本が掲載されており、どんな内容か大体の概要は掴める。The Buddhist Forumのウェブサイトではさらに多くの仏教遺跡の燦々たる現状が報告されている。

 興味深いのは、The Buddhist Forumが本部をハリヤーナー州ヤムナー・ナガルに置いているだけあり、ハリヤーナー州の仏教遺跡の紹介と振興に特に力が入れられていることである。今までハリヤーナー州と言うとあまり仏教とは関係ないイメージがあった。仏教遺跡の多くはブッダが実際に行脚した地域にあり、それらは現在のビハール州とウッタル・プラデーシュ州にまたがる。ブッダは現ハリヤーナ州には一歩も足を踏み入れていない。だが、ハリヤーナー州は仏教全盛時代の二大都市タクシュシラー(タキシラー)とマトゥラーを結ぶ重要ルート上にあり、その関係で仏教遺跡がいくつか存在する。The Buddhist Forumの資料によれば、ハリヤーナー州には14件の仏教遺跡がある。その中でもアーディー・バドリー、チャネーティー、アグローハー、アサンド、クルクシェートラのストゥーパやヴィハーラが紹介されている。実はアグローハーには仏教遺跡を見に行ったことがあるが(参照)、デリーを取り囲むハリヤーナー州に他にもこれほど多くの仏教遺跡が残っているとは知らず、驚いた。


アグローハーのストゥーパ・ヴィハーラ跡

 さらに、本日付のザ・ヒンドゥー紙によると、ハリヤーナー州ヤムナー・ナガル県トープラー村では、アショーカ王の石柱・磨崖法勅に特化した博物館の建設も計画されていると言う。トープラー村と言えば、デリーのフィーローズ・シャー・コートラー(トゥグラク朝時代の宮廷跡)にあるアショーカ王の石柱が元々立っていた場所として歴史家の間ではよく知られている。14世紀に学者肌の皇帝フィーローズ・シャー・トゥグラクがアショーカ王の石柱に興味を持ち、トープラー村からデリーまで石柱を大事に運ばせて、宮廷内に立てたという面白い逸話がある。トープラー村には既に何も残っていないだろうが、フィーローズ・シャー・コートラーの石柱の返還要求をしたりするのではなく、博物館を建てるという行動に出るところが、目の付け所がいい。もちろん、The Buddhist Forumがこの動きを後押ししている。


フィーローズ・シャー・コートラーに立つアショーカ王の石柱

 デリーでバイクに乗り始めて以来、デリー近辺のツーリング・ルートを開拓して来ているのだが、デリーからほど近いハリヤーナー州の知られざる仏跡というのは目的地として非常に魅力的である。また、最近の有名遺跡はあまりに整備が進み過ぎていて、目的地に辿り着いたときに「発見した」という開拓者的達成感が薄い。管理が行き届き過ぎて、頂上まで行けない塔とか、入れない部屋がある城などは興醒めである。冒険者としてはどこまでも登って行きたいしどこまでも入って行きたい。理想的なのは鬱蒼としたジャングルに埋もれた遺跡を発見することだが、インドのマイナーなほったらかし遺跡はそれに似た興奮を与えてくれる。しかし近年遺跡の整備は隅々まで行き届き、そういう遺跡もだいぶ減ってしまった。その点、The Buddhist Forumが保護を訴えている仏教遺跡の数々は今のところ「理想的」な状態にある。ハリヤーナー州にはラーキーガリーなどインダス文明関連の重要史跡もあり、意外に掘り起こすと面白い州になるような気がする。

 また、デリーの歴史を知る上でもハリヤーナー州の仏教遺跡はヒントになり得る。古のインドラプラスタ(紀元前数世紀?)からトーマル朝(9世紀)までの間に現在のデリーの地がどんな状態であったか、ほとんど手掛かりがない。唯一、南デリーの住宅街イースト・オブ・カイラーシュにアショーカ王の磨崖法勅文(紀元前3世紀)があり、当時この地に重要な町があったであろうことが推測されるばかりである。

 ところで、ここでThe Buddhist Forumを取り上げたのは、ツーリングの話題を振るためだけではない。同フォーラムは消滅の危機に瀕した仏教遺跡を救うために署名を集めるキャンペーン「ストゥーパを救え、ブッダを救え(Save Stupas Save Buddha)」を行っているのだが、その請願書をよく読むと、日本にかなり期待していることが分かるからである。その中には以下のような一文がある。
Your valuable signatures will be submitted to Prime Minister of Japan as a global appeal to form an international body for the preservation of the Buddhist monuments and relics all over Asia which can further strengthen peace and harmony among the Asian countries.

あなた方の価値ある署名は、アジア全域の仏教史跡保護を目的とした国際的組織を結成し、アジア諸国の平和と調和をさらに強化するためのグローバル・アピールとして、日本国の総理大臣に提出される予定です。
 日本はこれまでもODAでアジャンターの遺跡の整備や修復を援助しているし、ナーランダー大学復興プロジェクトの支持も表明している。だが、果たして現在の日本政府がどこまでこのNGOの請願を聞き届けてくれるか疑問である。これに関連して思い出すのは、2007年にデリーで落成式が行われた日本山妙法寺の世界平和仏舎利塔である。日本山妙法寺はインド各地の仏教関連都市にストゥーパを建立している。デリーは仏教関連都市とは言い難いが、インドの首都における仏舎利塔建立は、日本山妙法寺の創立者藤井日達上人の長年の夢だったために弟子たちが努力して実現したと聞く。だが、インド各地のみならず、デリー周辺にも悲惨な状態にある昔のストゥーパが多くあることを知ってしまうと、デリーにわざわざ新しいストゥーパを建てるよりも、The Buddhist Forumが主張するように、それらの崩壊しかけた古いストゥーパを保全する方が、仏教徒としてより意味のある活動になったような気がする。


デリーの世界平和仏舎利塔
プラーナー・キラー近くのミレニアム・パークにある
落成式にはダライ・ラマ法王も出席

 もしThe Buddhist Forumのイニシアチブがうまく行き、デリー周辺に新仏教遺跡が複数出現すれば、特に仏教国からの観光客誘致には絶好の材料となり、黄金の三角形にも幅が出る。何より、黄金の三角形ルートでは素通りされてしまうハリヤーナー州が観光客に対して一定のアピール力を持つことになり、ハリヤーナー州政府としては本腰を入れて取り組んで損はない事案である。ハリヤーナー州に残る仏跡は写真で見る限り廃墟同然だが、他の仏教遺跡の多くも廃墟みたいなものなので大きな弱点にはならないだろう。ハリヤーナー州と仏教、今まで全くノーマークであったが、なかなか潜在性のある組み合わせだと思う。また、日本のリーダーシップが求められている点も重要である。

3月8日(火) ヒンディー語最初の自伝

 最近は博士論文の方に最大限の時間を割いていて、映画を見に行く以外、他のことにあまり取り組めずにいるのだが、新聞の書評で気になって購入し最近読んだ本が「अर्धकथानक (ardhkathānak/アルドカターナク)」という本である。ペンギン・インディアから2007年に出版されている。ペンギン・インディアは基本的に英語書籍専門の出版社で良書も多いのだが、数年前からヒンディー語やウルドゥー語などを含む現地語の書籍も積極的に出版するようになっている。


「アルドカターナク」

 「アルドカターナク」とは「半分の話」という意味で、著者の名前はバナーラスィーダース(1586-1643年)。現ウッタル・プラデーシュ州ジャウンプルにおいて、ジャイナ教徒商人の家に生まれた人物である。1641年、バナーラスィーダースが55歳のときに著したこの自伝に「半分の話」というタイトルを付けたのは、ジャイナ教では人間の一生は110年だと考えられているからである。人生の折り返し地点に到達した55歳のバナーラスィーダースは、今までの人生を振り返り、自伝を書くことにしたのだった。ただし、皮肉なことにバナーラスィーダースはこの自伝を書き終えた2年後に死去している。

 「アルドカターナク」はインドの文学伝統における最初の自伝だとされている。「インドの文学伝統」と多少限定して書いたのは、その頃にはインドにおいて既にペルシア文学などの伝統に準じた自伝的作品が著されていたからである。例えば、文学よりもむしろ歴史学の分野で有名な自伝として、トゥグラク朝第3代皇帝フィーローズ・シャー・トゥグラクが著したとされる「フトゥーハーテ・フィローズシャーヒー」(14世紀)や、ムガル朝初代皇帝バーバルの回想録「トゥズケ・バーバリー」(16世紀)などがある。それらを除けば、バナーラスィーダースのこの自伝は、確かにインド人によるもっとも初期の自伝と言うことが出来る。インドでは伝統的に自己を語るのを潔しとしない風潮があったばかりか、創作という行為に対してもどこか謙虚な姿勢があり、多くの文学作品は「神様からの頂き物」という建前になっている。

 「アルドカターナク」はヒンディー語最初の自伝ともされている。「アルドカターナク」はマトゥラーやアーグラーなどの地域で話されているブラジ語で書かれている。バナーラスィーダース自身はそれを「マディヤデーシュ(中央の国)の言語」と呼んでいる。ヒンディー語文学史の伝統では、近代以前のブラジ語による作品をヒンディー語文学の中に含めているため、まずはそういう意味でヒンディー語最初の自伝だと評価できる。また、「アルドカターナク」の言語は、後の標準ヒンディー語の土台となるカリー語にかなり近い形となっている。近代以降のヒンディー語文学はカリー語を中心に構築されており、カリー語以外の言語の作品をヒンディー語文学に含めることに対して批判的な意見もある。よって、狭義のヒンディー語の意味でも「アルドカターナク」はヒンディー語最初の自伝だと言える。

 ただし、「アルドカターナク」は1人称で書かれた話ではない。序文的な部分を除き、バナーラスィーダース(著者自身)という3人称を主人公としたノンフィクションの物語である。もし自伝を「1人称の伝記」と定義づけるならば、手放しでこの作品を自伝と呼ぶのに多少戸惑いが出て来る。また、「アルドカターナク」は散文ではなく韻文である。同時代の韻文による叙事詩と同様、ドーハーやチャウパーイーなどの韻律を組み合わせて書かれている。自伝というジャンルを散文にのみ留める必要はないが、現代的な意味での自伝とは少しずれるかもしれない。「自伝的」と表現するのがもっとも適しているかもしれない。

 今回ペンギン・インディアが出版したのは、「アルドカターナク」のブラジ語原文付き現代ヒンディー語訳で、訳者は童話作家ローヒニー・チャウダリー。「アルドカターナク」は既に1981年にムクンド・ラートによって英訳されているが、ローヒニー・チャウダリーはヒンディー語訳出版後の2009年、同じくペンギン・インディアから「Ardhakathanak (A Half Story)」のタイトルで改めて英訳を出版している。

 なぜこの本をここで特に取り上げようと思ったか、その理由は単純にこの本がとても面白かったからである。「アルドカターナク」が書かれた17世紀のヒンディー語文学と言うといわゆるバクティ・カール(信愛文学の時代)であり、宗教的または説教的作品で溢れている。カビール、ミーラー、トゥルスィー、スールなどの作品はどれもそれはそれで面白いし、基本的に神様への賛歌でありながら結局そこには人間賛歌がある訳だが、ヒンドゥー教徒ではない外国人の冷めた視線から見ると、あまりに神様神様し過ぎていて、どこか深く入って行けない世界が広がっている。だが、「アルドカターナク」では、当時の一般庶民の生々しい人生が垣間見られ、ブログを読み進めるが如く、読んでいて非常に面白いのである。バナーラスィーダースはアクバル、ジャハーンギール、シャージャハーンというムガル朝最盛期の皇帝たちの治世を生きている。そして彼はそれぞれの治世における市井の様子も時々緻密に描写しており、歴史的資料としても一定の価値を持っている。おまけに言葉の使い方も巧妙かつ軽妙で、現代ヒンディー語訳と合わせてブラジ語原文を読んで行くと、ブラジ語の勉強にもなる。少し読んだだけで、かなり特異な文献であることが分かった。

 著名なヒンディー語文学研究者ルパート・スネル教授がこの「アルドカターナク」について「Confessions of A 17th-Century Jain Merchant: The Ardhakathānak of Banārasīdās」(South Asia Research Vol.25 (I) 2005年)という論考を書いており、その中でこの詩作のユニークさについて詳細に分析している。それ以上の分析は僕には出来ないし、ここで極度に文学的な話をする積もりもない。それよりもこの自伝の内容について触れたいと思う。

 バナーラスィーダースはこの著作の中で人間について以下のように3つの分類をしている。その分類はそのまま自伝の種類にもつながる。
तीनि भांति के मनुज सब मनुजलोक के बीच।
बरतहिं तीनौं काल मैं उत्तम मध्यम नीच॥666॥

過去現在未来において3種の人間がいる
上級、中級、下級である

जे परदोष छिपाइ कै परगुन कहैं विशेष।
गुन तजि निज दूषन कहैं ते नर उत्तम भेष॥667॥

他人の短所を隠して長所ばかりを取り上げ
自分の長所を隠して短所ばかりを取り上げる人は上級である

जे भाखहिं परदोषगुन अरु गुन दोष सुकीउ।
कहहिं सहज ते जगत मैं हम से मध्यम जीउ॥668॥

他人と自分の長所と短所を両方取り上げ
明快な言葉で語る人は中級であり私もその1人である

जे परदोष कहैं सदा गुन गोपहिं उर बीच।
दोष लोपि निज गुन कहैं ते जग मैं नर नीच॥669॥

他人の短所を常に取り上げ長所を隠し
自分の短所を隠して長所ばかりを取り上げる人は下級である
 「アルドカターナク」は正に自分を含めた周囲の様々な人々の長所と短所を正直に語った本で、それ故に面白い。特にバナーラスィーダース自身の失敗談や恥ずかしい話も赤裸々に語られており、そういう部分に特に興味を引かれる。例えば思春期を迎えた14~15歳の頃、バナーラスィーダースは「アースィキー(恋の虜)」になってしまい、以下のような行動までするようになる。
चोरै चूंनी मानिक मनी। आनै पान मिठाई घनी॥
भेजै पेसकसी हित पास। आपु गरीब कहावै दास॥172॥

父親からルビーなどの宝石を盗み、パーンやお菓子を買い
恋人にそれらを贈り、哀れな「奴隷」を名乗った
 この頃のバナーラスィーダースは1日の大半を勉強と恋に費やしていた。400年前の人物であるが、何となく親近感が沸く。
कै पढ़ना कै आसिखी मगन दुहू रस मांही।
खान पान की सुध नहीं रोजगार किछु नांहि॥180॥

勉強と恋、バナーラスィーダースはこの2つに取り憑かれていた
飲食を忘れ、働く欲求も沸かなかった
 ただし、このとき既にバナーラスィーダースは結婚しており、現代的な観点から言えば、彼のこの恋は不倫ということになる。また、現代で言えば勉強に打ち込む若者は関心関心と言ったところだが、バナーラスィーダースは商人の家系に生まれたため、親は彼が勉強に打ち込むことを快く思っていなかった。家の年長者はバナーラスィーダースを諭す。
बहुत पढ़ै बांभन अरु भाट। बनिकपुत्र तौ बैठे हाट॥
बहुत पढ़ै सो मांगै भीख। मानहु पूत बड़े की सीख॥200॥

学問は僧侶と詩人がするもの、商人の息子は市場に座るべき
学び過ぎると乞食になるぞ、年長者の言うことを聞きなさい
 インドでは今でも怪しげな人間が怪しげな詐欺商売をしているが、それは当時も変わらなかったようだ。バナーラスィーダースもその手の詐欺師に引っかかってしまう。
...
समै उनसठे सावन बीच। कोऊ संन्यासी नर नीच॥209॥

1602年サーワン月(7-8月)にバナーラスィーダースは

आइ मिल्यौ सो आकसमात। कही बनारसि सौं तिन बात॥
एक मंत्र है मेरे पास। सो बिधिरूप जपै जो दास॥210॥

悪徳行者と出会った。行者はバナーラスィーダースに言った
「ワシはひとつ呪文を知っておる。それを正しく唱えれば

बरस एक लौं साधै नित। दिढ़ प्रतीति आनै निज चित्त॥
जपै बैठि छरछोभी मांहि। भेद न भाखै किस ही पांहि॥211॥

つまり1年間毎日、誠心誠意を込めて
便所で1人のときに呪文を唱え、このことを他言しなければ

पूरन होइ मंत्र जिस बार। तिसके फल का कहूं बिचार॥
प्रात समय आवै गृहद्वार। पावै एक पड़्या दीनार॥212॥

1年後この勤行が終わったときに、その褒美として
早朝家の玄関の前で金貨を手にするだろう

बरस एक लौं पावै सोइ। फिरि साधै फिरि ऐसी होए॥
यह सब बात बनारसि सुनी। जान्या महापुरुष है गुनी॥213॥

以後1年間金貨が手に入り、さらに唱えれば効果は持続する」
バナーラスィーダースはこの話を聞き、これは大賢人だと考えた

पकरे पाइ लोभ के लिए। मांगै मंत्र बीनती किए॥
तब तिन दीनौं मंत्र सिखाइ। अक्खर कागद मांहि लिखाइ॥214॥

欲のままに行者の足にしがみつき、呪文の教授を頼んだ
行者は3日間呪文を教え、紙にも書かかせた。

वह प्रदेस उठि गयौ स्वतंत्र। सठ बनारसी साधै मंत्र॥
बरस एक लौं कीनौ खेद। दीनौं नांहि और कौं भेद॥215॥

行者は去り、翌1603年にバナーラスィーダースは
1年間呪文を唱え続け、誰にも他言しなかった

बरस एक जब पूरा भया। तब बनारसी द्वारै गया॥
नीची दिष्टि बिलोकै धरा। कहुं दीनार न पावै परा॥216॥

1年が過ぎ去り、バナーラスィーダースは玄関を見てみた
地面をよく探したが、どこにも金貨は見当たらなかった

फिरि दूजै दिन आयौ द्वार। सुपने नहि देखै दीनार॥
ब्याकुल भयौ लोभ के काज। चिंता बढ़ी न भावै ना॥217॥

翌日も玄関を見てみたが、やはり金貨はなかった
欲が満たされずがっかりし、悩み、食欲はなくなった
 この後もバナーラスィーダースは懲りずに別の行者から同様の詐欺を受けてしまう。シヴァ神の法螺貝なる怪しげな品物を渡され、もし毎日この法螺貝のお祈りをすれば、シヴァ神の住む天国へ行けると言われた。バナーラスィーダースはすっかりその気になってしまい、毎日この法螺貝のお祈りを始めた。ところが1605年、大事件が起こる。
संबत सोलह स बासठा। आयौ कातिक पावस नठा॥
छत्रपति अकबर साहि जलाल। नगर आगरे कीनौं काल॥246॥

1605年のカールティク月(10-11月)、雨季が終わった頃
アクバル帝がアーグラーで崩御した
 バナーラスィーダースが住んでいたジャウンプルでも、アクバル崩御の知らせが届いた途端に人々は大混乱し、10日間に渡って暴動が発生した。バナーラスィーダースも無傷ではいられなかった。
आइ तवाला गिरि पर्यौ सक्यौ न आपा राखि।
फूटि भाल लोहू चल्यौ कह्यौ देव मुख भाखि॥249॥

バナーラスィーダースは知らせを聞いて驚き、思わず階段から
転げ落ち、額を割った。口からは「ああ神様」と声が漏れた
 このことをきっかけにバナーラスィーダースは法螺貝のお祈りも止めてしまう。階段から転げ落ちたときもシヴァ神は助けてくれなかったからである。それだけでない。彼はそれまで恋に狂って恋愛詩を作っていたが、それも虚しいものだと思い始める。あるとき彼は思い切って今までの自分の作品を河に投げ込んで捨ててしまう。この頃からバナーラスィーダースは徐々に宗教の道を志すようになる。
कहैं दोष कोउ न तजै तजै अवस्था पाइ॥
जैसैं बालक की दसा तरुन भए मिटि जाइ॥272॥

誰かに欠点を指摘しても更正しない、状況が変わって初めて自ら過ちに気付く
それは幼児の幼さが若者になると自然に消えるのと同じである
 ただ、バナーラスィーダースは商家に生まれた割には商才はからっきしであった。父親から宝石やその他の商品を渡され、アーグラーで売って来いと言われたことがあった。だが、バナーラスィーダースはアーグラーの商習慣に慣れていなかった上にいい加減な商売の仕方をしたために、赤字どころか一文無しになってしまう。帰路に妻の実家に立ち寄ったバナーラスィーダースは、実家に帰省していた妻から「アーグラーでの商売はどうでした?」と聞かれる。当初彼は嘘を付いてごまかす。だが妻は女の勘で嘘だと見抜き、さらに問い正す。遂にバナーラスィーダースは本当のことを話す。「儲けた金は全て使い果たしてしまった。」そんな夫に妻は優しい言葉を投げ掛ける。「愛しい人よ、悲しみも喜びも神様がお与えになるものです。」
समौ पाइ कै दुख भयौ समौ पाइ सुख होइ।
होनहार सो ह्वै रहै पाप पुन्न फल दोइ॥374॥

「悲しみと喜び、どちらも時が来れば訪れます
起こるべきことは起こるのです 罪と徳は必ず結果となります」
 そしてヘソクリの20ルピーを夫にそっと渡す。さらに妻は母親に相談して200枚の貨幣をもらい、それをバナーラスィーダースに渡す。その資金を元手にバナーラスィーダースは再びアーグラーへ行って商売を始める。残念ながらその商売も思った通りに行かない。バナーラスィーダースは本当に商売下手な商人だったようである。

 しかしながらこの頃バナーラスィーダースはナロッタムダースというジャイナ教徒の若者と出会い、生涯の親友となる。バナーラスィーダースとナロッタムダースは共同で商売をするようになり、ヴァーラーナスィーへ行ってジャイナ教の神パールシュヴァナートにお祈りをする。2人は願掛けのために、日に食事は2回のみ取ること、日に1回は必ずお経を読むこと、半パイサーの寄付をし続けること、毎月断食をすること、50種類の野菜を食べないこと、旅行中にもこれらの誓いを守ること、もしこれらの誓いを実行できなかったら、その日はギー(純油)を摂取しないことなどを誓った。それと同時に面白いことも誓っている。
दोइ बिवाह सुरित द्वै आगैं करनी और।
परदारा संगति तजी दुहू मित्र इक ठौर॥437॥

将来どうなるか分からないが、多くとも2回しか結婚をしない
他人の妻と交わらない、そんなことを2人は一緒に

सोलह सै इकहत्तरे सुकल पच्छ बैसाख।
बिरति धरी पूजा करी मानहु पाए लाख॥438॥

1614年バイサーク月(4-5月)白分月に誓ってお祈りをした
2人はまるで何十万ルピーも手にした気分になった
 このときバナーラスィーダースは多くとも2回しか結婚をしないと誓っているが、結局生涯に3回結婚している。わざわざこういうことを誓うということは、当時の人々は何度も結婚をしていたということだ。また、他人と妻と交わらないという誓いを見ると、他人の妻と交わることも普通のことだったと予想される。ちなみにこのときバナーラスィーダースは28歳だった。

 バナーラスィーダースは55年間の人生において大切な身内のほとんどを失っている。彼が3回結婚したのも、2人の妻と死別したからであるし、3人の妻の間に生まれた9人の子供も次々と死に、生き残った子供は1人もいなかった。父も死に、やがて母も死んだ。その度に深い悲しみに沈むのだが、親友ナロッタムダースの死ほど彼を悲しませたものはなかった。彼は親友の訃報をナロッタムダースの父親からの手紙によって知る。そのときのバナーラスィーダースの様子はいくつもの詩節に渡って語られている。特に以下の一文は痛切である。
...रोए बहुत बनारसी हामे मीत हा मीत॥556॥

…バナーラスィーダースは泣きじゃくった、ああ友よ、ああ友よ
 その悲しみの中で彼は、自分自身を慰めるために、以下のような人生の真理を導き出す。
लोभ मूल सब पाप कौ दुख कौ मूल सनेह।
मूल अजीरन ब्याधि कौ मरन मूल यह देह॥551॥

全ての罪の原因は欲、悲しみの原因は愛
病気の原因は消化不良、死の原因はこの身体
 バナーラスィーダースの人生は決して平坦ではなく、不幸な事件も多い。そしてその度に彼は上のような哲学的詩文を挟み、世の無常を読者に、そして自分に言い聞かせる。だが、彼は決して読者を必要以上に悲しみの中に引き込まず、そこからも彼の前向きな性格が感じられる。自伝の終章に当たる部分では、バナーラスィーダースは以下の一文を入れ、読者を安心させている。
..विद्यमान पुर आगरे सुख सौं रहै सजोष॥646॥

…現在アーグラーの町で妻と共に幸せに暮らしている
 ここで取り上げたエピソード以外にも、「アルドカターナク」の中には様々な興味深い逸話が盛りだくさんで、読み進めるのが面白い。特に現代のインドをよく知っている人には、400年前も今もインドはあまり変わっていないことが分かってさらに面白いだろう。残念ながらヒンディー語文学の本流の中ではこの本は今まで無視され続けて来たと言ってもよく、ルパート・スネルやローヒニー・チャウダリーらの努力によって最近になってようやく脚光を浴びるようになった訳だが、こういう本があるとヒンディー語文学も捨てた物ではないと考える心の余裕が出来る。ヒンディー語文学に興味のある人にはお勧めの本である。

3月20日(日) ホーリーの疑問

 インドでは1月14日にマカル・サンクラーンティという祭りが祝われる。この祭りは地方によってはローリーとかポンガルとか様々な呼称で呼ばれるが、そのコンセプトはひとつで、冬至を祝う祭りである。実際の冬至(12月22日頃)と日付がずれているが、これはインドがギリシア天文学を受容した後に地球の歳差運動を無視し続けたためで、このままさらに無視し続けるとどんどん日付がずれて行くところであったが、独立後にマカル・サンクラーンティは1月14日に固定されたため、今後もこの日がインドの冬至祭として実際の冬至とは独立して祝われ続けるだろう。確かにマカル・サンクラーンティを過ぎ始めた頃に北インドでは寒さが徐々に和らいで行くため、12月22日の冬至よりも1月14日のマカル・サンクラーンティの方が、実際の「冬の峠を越した」感覚に近い。

 マカル・サンクラーンティが過ぎ、しばらくすると北インドは、暑くもなく、寒くもなく、もっとも過ごしやすい気候となる。よって、2月前後が北インドの春と言うことになる。庭園には花が咲き誇り、森林には渡り鳥が飛来する。木々の中には葉を落とし始めるものもあり、その点だけが日本の春とは異なる。この快適な時期になるべくやるべきことを進めておきたいといつも考えるのだが、「春眠暁を覚えず」の言葉の通り、やたら眠くなるのもこの時期だったりする。だが、この春もホーリー祭を境に終わり、酷暑期に入る。

 ホーリーはヒンドゥー暦ファールグン月の満月の日に祝われる祭りで、春分の日に近い祭りだと考えていいだろう。年によって日付は変わるが、今年は3月20日で、春分の日に近かった。だが、2月に祝われる年もある。

 ホーリーは、ダシャハラー、ディーワーリーと並び、ヒンドゥー教3大祭のひとつとされている。ホーリーは何と言っても「色の祭り」としの側面が有名だ。この日、人々は色粉を顔に塗り合い、色水を掛け合って遊ぶ。家族、親戚、友人同士で遊ぶことが常だが、無礼講なので基本的にこの日は誰に対しても色粉を塗り、色水を掛けていい。また、ホーリーの日にはバーング(大麻)を飲んで酔っ払う伝統となっている。タンダーイーやラッスィーなどと言った飲み物に混ぜて飲むことが多い。法律上の話をすると、大麻や大麻製品についての扱いは州政府の管轄となっており、州によっては政府公認の店で大麻や大麻製品を買うことが出来る。だが、ホーリーの日にはインドのほとんどの地域で大麻の売買や摂取は半ば公認となる。ホーリーにはエイプリル・フールのような側面もあり、この日は政治家、映画スター、スポーツ選手などの有名人にまつわるジョークが新聞やテレビを賑わす。ホーリーで有名な地域はインドにいくつもあるが、ホーリーはクリシュナ神話と密接な関係を持った祭りであり、クリシュナ神話の本拠地であるブラジ地方がもっとも有名だ。ブラジ地方では、女性が男性を棒で叩くラトマール・ホーリーという面白い伝統もあるが、ラトマール・ホーリーはホーリーよりも数週間前に祝われる。

 ホーリーの起源を説明する神話伝承はいくつかあるが、もっとも有名なのがホーリカーとプラフラードの神話である。ホーリカーとプラフラードの神話は、ヴィシュヌ神の化身のひとつナルスィン(ナラスィンハ、ヌリスィン、ナラシマなどカタカナ表記は様々)の神話の一部となっている。

 ナルスィンは、身体は人間、顔は獅子という格好をしており、ヒラニヤカシヤプという悪魔を退治したことで知られる。ヒラニヤカシヤプは兄をヴィシュヌ神に殺され、ヴィシュヌ神に深い恨みを抱いていた。ヴィシュヌ神に復讐するため厳しい苦行を積み、ブラフマー神から「神にも悪魔にも人間にも動物にも、夜にも日中にも、建物の外でも内でも、地上でも空中でも、そしてどんな武器にでも殺されない」という恩恵を受ける。この無敵に近い恩恵によって最強となったヒラニヤカシヤプはたちまちの内に三界を支配し、最高神を自称するようになった。ところが、ヒラニヤカシヤプの息子のプラフラードはヴィシュヌ神の熱心な信者となってしまっていた。ヒラニヤカシヤプは息子を説得してヴィシュヌ神信仰を止めさせようとするが、プラフラードは決して父親を最高神とは認めず、「遍く広がる存在」であるヴィシュヌ神への信仰を捨てようとしなかった。怒ったヒラニヤカシヤプはプラフラードを殺そうと様々な手段を採るが、その度にヴィシュヌ神の力によってプラフラードは守られる。とうとうヒラニヤカシヤプは自ら出向いて行ってプラフラードに「もしヴィシュヌ神が遍く広がる存在であったなら、この柱の中にもいるのだな?」と言って、その柱を破壊する。すると、その柱の中からヴィシュヌ神がナルスィンの姿になって現れ、ヒラニヤカシヤプに襲いかかり、彼を腿の上に載せて爪で引き裂いた。ナルスィンは人獅子の姿をしたヴィシュヌ神の化身であり、神でも悪魔でも人間でも動物でもなかった。そのときはちょうど黄昏時で、夜でも日中でもなかった。その場所はちょうど敷居で、建物の外でも内でもなかった。腿の上に載せたため、地上でも空中でもなかった。爪で引き裂いたため、武器を使った攻撃ではなかった。これらの絶妙な行動により、ブラフマー神からの恩恵は見事外され、ヒラニヤカシヤプは絶命した。ナルスィンはプラフラードを代わりに王位に就け、ブラフラードはその後善政を敷いた。ナルスィンの神話の大体の流れはこのような感じである。


ヒラニヤカシプを殺すナルスィン
左にはプラフラードの姿も

 ホーリカーとプラフラード関連の物語は、ヒラニヤカシヤプがプラフラードを殺そうといろいろ試す中で登場する。ホーリカーはヒラニヤカシプの妹、つまりプラフラードの叔母で、炎に包まれても無傷という恩恵を受けていた。ヒラニヤカシヤプはホーリカーのその恩恵を利用し、プラフラードと共に火の中に身を投じさせた。ところがプラフラードは助かり、ホーリカーは燃えてしまった。その理由については諸説がある。例えばプラフラードがヴィシュヌ神に助けを求めたためにそうなったとか、ホーリカーが受けていた恩恵は他人を傷つけるために使われると無効になってしまうことになっていたからだとか、ホーリカーがプラフラードを助けるために火から身を守る衣を彼に着させたからだとかが主なものである。

 ホーリー前日の夜には、ホーリカーが燃えたことを祝うため、焚き火が焚かれる。これはホーリカー・デヘンと呼ばれる。「ホーリー」の名称はこの「ホーリカー」から来ている。ちょうど同じような焚き火はマカル・サンクラーンティ前日の夜にも見られる。これはパンジャーブ地方のローリーという祭りと関連しているため、もしかしたらデリーより東の地域ではこれは見られないかもしれない。だが、ローリーのこの焚き火には、ホーリカーとプラフラードの神話のような話はくっついていないはずである。

 インドの神話には何が言いたいのかよく分からない話が少なくないのだが、ホーリカーとプラフラードの神話もその内のひとつだ。ホーリカー・デヘンは、ダシャハラーと同様に、「悪に対する正義の勝利」を祝う儀式だとされる。だが、ホーリカーとプラフラードの神話を読む限り、ホーリカーからはそれほどの悪を感じない。上でホーリカーはプラフラードの叔母だと説明したが、もしかしたらホーリカーはプラフラードの継母なのかもしれない。そう考えるとより話を理解しやすくなるが、それでも神話全体を展望すると、納得できない。もし「悪に対する正義の勝利」であるならば、ヒラニヤカシヤプがヴィシュヌ神に退治されたことを祝う祭りの方がより適している。だが、ホーリーはそのような祝祭ではないし、ヒラニヤカシヤプ退治を祝う祭りも存在しない。ちなみにダシャハラーは、羅刹王ラーヴァンがラーム王子によって退治されたことを祝う祭りであると同時に、悪鬼マヒシャーがドゥルガー女神によって退治されたことを祝う祭りでもある。

 ホーリカー・デヘンにまつわるホーリカーとプラフラードの物語は、どうやら後付けと考えた方が良さそうだ。ホーリーは非常に古い時代から祝われている祭りのひとつであり、時代の変遷と共に様々な意味が付随して来た。ヒンドゥー暦ではホーリー前後は、冬の終わりと夏の始まりを告げるだけでなく、年末年始にあたる。また、収穫祭の意味合いもあり、この日オオムギ、コムギ、モロコシ、ヒヨコマメなどの収穫物が火に入れられ、神様に捧げられる。「ホーラー」とは「穀物」という意味で、この「ホーラー」から「ホーリカー」または「ホーリー」が派生したとされる。つまりホーリカーとは穀物のことになる。とすると、ホーリカー・デヘンの神話も、穀物を火で炙る行為から想像を膨らませて出来た話なのかもしれない。

 ホーリーには他にも様々な神話が関連している。上で述べて来たものは主にヴィシュヌ神関連であるが、シヴァ神関連の神話もある。むしろシヴァ神関連の神話は、ホーリー当日のドンチャン騒ぎと関連しているものが多い。例えば羅刹女ドゥンディーの物語である。あるときドゥンディーという羅刹女が強大な力を持ち、子供を喰らって人々を困らせていた。ドゥンディーは、神にも人間にも、どんな武器にも殺されず、寒さも暑さも雨も利かないという恩恵を受けており、無敵に近い状態であったが、シヴァ神からの呪いにより、子供の悪戯には弱いという弱点を持っていた。そこで勇気ある少年たちは、寒くも暑くも雨の季節でもないホーリーの日にドゥンディー退治に乗り出した。少年たちはバーングを飲んで酔っ払い、太鼓を鳴らしたり大声を出したり罵詈雑言を浴びせかけたり卑猥な冗談を言い合ったりしてドゥンディーを追いかけ回した。とうとう少年たちはドゥンディーを追い払うことに成功し、以後それを祝うためにこの日だけは皆バーングを飲んでドンチャン騒ぎをするようになった。これがドゥンディーの話の大筋である。それ以外にも、ホーリーはシヴァ神の結婚式であり、人々はシヴァ神の部下である悪鬼の格好をしてパレードをする習慣がホーリーのドンチャン騒ぎになったという話もあるし、愛の神カームデーヴが、シヴァ神の気を引こうと必死になるパールワティーを助けるためにシヴァ神に愛の矢を射てシヴァ神の怒りを買い、身体を失った日だともされる。その影響でカームデーヴは姿が見えない。

 ただ、これだけ様々な神話が付随していながら、不思議とホーリーには宗教色もしくはヒンドゥー色がない。ヒンドゥー教の3大祭のひとつとされるものの、特定の神様の礼拝をする日ではない。ホーリカー・デヘンの際にホーリカーの礼拝は行われることがあるようだが、上で述べた通り、ホーリカーの存在意義そのものが不明瞭である。ホーリカーは決して有力な神様でもない。もっとも、ヒンドゥー教の祭りには、特定の神様と必ずしも結びついていないものがいくつかある。冒頭で述べたマカル・サンクラーンティも宗教色が希薄と言えばそうだし、兄弟姉妹の絆を深める祭りであるラクシャーバンダンやバーイー・ドゥージ、妻が夫の健康を祈るカルワー・チャウトも同様だ。

 その中でもホーリーに限って言えば、やはりヒンドゥー教よりも古い祭りだからと考えるのがもっとも的確だと言える。もしかしたらその起源はアーディワースィー(先住民)まで遡れるかもしれない。そしてどんな神様や宗教にも完全に染まらない独自の魅力があるからこそ、ホーリーはインドを象徴する人気の祭りになっているのだろう。


ホーリー・ハェ!


3月23日(水) Chaatmasala創刊

 2010年12月23日の日記で日本語フリーペーパー月刊Chaloが創刊されたことを紹介した。月刊Chaloは毎月順調に刊行を重ねており、瞬く間にデリーの日本人社会に浸透したと言っていいだろう。3月号からはインターネットからもダウンロード可能となり(参照)、さらに便利となった。ちなみに、確か創刊号では「月刊Chalo!」とエクスクラメーションマーク(!)が誌名の語末に入っていたはずで、12月の日記でもそう紹介したのだが、最近は「月刊Chalo」のみとなっている。こちらが正式名称ということになったのであろうか。

 月刊Chaloに影響を受けたのか、それともたまたま同時進行で企画が進んでいたのか、今年に入ってもう1冊、日本語フリーペーパーと呼ぶことの出来る雑誌が創刊された。その名もChaatmasala(チャット・マサラ)。刊行者は日本人専門ホスピタリティー・サービス企業Sovereign Hospitality Solution社で、同社のウェブサイトからこの雑誌もダウンロード可能である。日本語フリーペーパーと断言しなかったのは、月刊Chaloほど流通形態が明瞭ではなく、今のところ「気軽に手に取って」という感覚からはほど遠いからである。

 とりあえず誌名から話題を始めさせてもらうと、やはりヒンディー語専門家の立場からは「チャット」というカタカナ表記が気になる。「chaat masala(チャート・マサーラー)」とはスパイスミックスの一種で、チャートと呼ばれる立ち食いスナック料理によく利用される。原義は「舐めること」で、他にも様々な意味があるが、俗語では「退屈な話」「下らないこと」という意味合いでもよく使われる言葉だ。おそらくこの「チャート」と、「ペチャクチャ話をする」という意味の英語「chat(チャット)」をかけて、「チャット・マサラ」としたのであろう。だが、そうした場合、英語の表記もそれに合わせて、「Chaatmasala」ではなく、「Chatmasala」にすれば良かったのではないかと思う。「masala」に関しては「マサーラー」がもっとも好ましいが、「マサラ」という表記も日本である程度普及しているので、特に問題はないだろう。

 Chaatmasalaの誌面を覗いて見ると、その内容は月刊Chaloとは全く異なることに気付く。月刊Chaloはゲストハウスやレストランなどの店紹介がメインだが、Chaatmasalaの方は、ホーリー、スパイス、ボリウッド・スター、イベント情報など、インドの文化紹介がメインとなっている。店の広告も入っているし、便利電話帳と題して映画館、美容院、食材店、病院などの一覧が載っているが、特に日本人を意識した選択にはなっていない。読み物としては月刊Chaloよりも面白いが、今のところインド生活の即戦力になるような情報誌ではない。また、序文において「ニューデリーの魅力をご紹介」と明言されており、少なくとも現行では全インド向けの雑誌ではなくデリー在住日本人向けだと考えることが出来る。刊行の頻度は不明である。

 ただ、変に日本人向けに薄味になっていないところが気に入った。もっともぶっ飛んでいたのはタンダーイーのレシピ紹介(16ページ)である。そこにはこんなことが書いてある。
“Thandai”はホーリー祭には喜んで飲まれるインドチックでスパイスとアロマ香る伝統的な冷たい飲み物です。“Bhang”タイマみたいな物)を入れても入れなくてもOKです。材料は地元スーパーで簡単に手に入ります。(約8杯分)【原文ママ】
 バーングとは大麻ペーストのことである。確かにタンダーイーという飲み物はバーングなしでも作られ、夏の飲み物として普通に飲まれるが、「入れても入れなくてもOK」という書き方は面白い。「これでインディア」でも以前、バーング入りタンダーイーの作り方を紹介したことがあったが(参照)、ここまで頭が回らなかった。

 また、ホーリーの際に使用人などに渡すバクシーシュ(心付け)の額についても、実生活の体験に基づいてかなり具体的に書いてあり、参考になる。
一般的なインド人家庭ではメイドさん、ドライバーさん他、セキュリティーガード、スイーパー、庭師、エレベーター案内人などには、だいたい100ルピーくらい、その他のスタッフにも職に応じてですが、だいたい200~500ルピーを渡します。
 Chaatmasalaのデザインや使用写真もなかなか良い。だが、最大の弱点は日本語である。名前から察するに編集陣の中には日本人がいるはずだが、その日本語を見ると、「日本語がうまいインド人が英語から日本語に翻訳した日本語」という感じがする。もし外国人がこの日本語を書いているなら褒めてあげたいが、ネイティブの日本人が書いているならばちょっと恥ずかしいという、微妙な線を行く日本語だ。意味は理解できるが、日本人向けの雑誌を発行するならば、日本語はやはりちゃんとしたものにした方がいいだろう。

 12月の日記でも書いたが、まだデリーまたはNCRエリアに住む日本人の数は、フリーペーパーのような情報媒体を必要とするほどの多さにはなっていないし、そもそもデリーでそう毎月毎月何か新しい動きがある訳でもないと考えている。既に10年ほどデリーに住んでいる僕の視点から言えば、そういう「みんな知り合い」もしくは「知り合いの知り合い範囲で全員収まる」というような村社会的雰囲気があるところがデリーの日本人社会のいいところで、フリーペーパーやクーポンマガジンが登場すること自体、そういう人間味のある情報網が崩壊しつつあることを示しているように思えてならない。しかし、今後さらに日本人が増加するであろうことを考えると、日本語の情報源が増えることは悪いことではないし、長老格の人間としては、応援して行かなければならないだろう。

3月28日(月) ダースターンゴーイー

 オールド・デリーの心臓ジャーマー・マスジド(金曜モスク)は小高い丘に建てられており、その三方に開いた門からは階段が下に向かって広がっている。今でもその階段には人々が座ってくつろいでいる姿が見られるが、昨今ジャーマー・マスジド内外でテロ事件が発生しているため、警備は厳重となり、昔ほど近所の人々が気軽に憩える場という訳には行かなくなっているようにも見受けられる。この階段にはかつて、毎週木曜日の夜、ダースターンゴーと呼ばれる語り部たちが座り、人々に奇想天外な物語を聞かせて楽しませていたと言う。彼らは語りに加えて身振り手振りと表情のみで物語を表現する技を磨き上げ、彼らのこの物語術はダースターンゴーイーと呼ばれるようになった。「ダースターン」とはペルシア語で「物語」、「ゴー」とは「語る」、「ゴーイー」とは「語ること」である。


ジャーマー・マスジドの階段

 ダースターンゴーイーは少なくとも19世紀までは盛んに行われていた。19世紀のデリーに生きた詩人ミルザー・ガーリブもダースターンゴーイーの大ファンで、自宅にダースターンゴーを呼んで、プライベート・ダースターンゴーイーを楽しんでいたとされる。1857年のインド大反乱をきっかけにムガル朝が滅亡した後もダースターンゴーイーはラクナウーやラームプルの宮廷や街角で盛んに行われた。しかし、映画という新娯楽の登場によりダースターンゴーイーも次第に廃れて行った。特にトーキー映画の登場はダースターンゴーイーの運命を決定づけた。初のフルトーキー映画「The Jazz Singar」がハリウッドで公開されたのが1927年で、同年にはインドでもトーキー映画「Julius Caesar」が公開されている。その翌年の1928年、最後のダースターンゴーと呼ばれるミルザー・バカル・アリーが死去し、ダースターンゴーイーの伝統は途絶えることとなった。

 ダースターンゴーイーの伝統とパラレルな関係にあるのが、アミール・ハムザの物語である。アミール・ハムザは預言者ムハンマドの叔父にあたる人物とされ、アミール・ハムザの物語は、彼を主人公とし、彼がイスラーム教に改宗するまでを描いた、冒険と魔法に満ちた一大ファンタジーである。アミール・ハムザの物語は基本的に口承文学で、正にダースターンゴーたちのパフォーマンスの源泉であった。元々はアラブ地方発祥の物語のようだが、モロッコからインドネシアまで、イスラーム世界に広く普及しており、インドには、ペルシアを通じて、少なくともムガル朝期までには伝わっていた。ペルシアにおけるアミール・ハムザの物語は1巻に収まる短い物語だが、インドにおいては、土着の口承文学の長い伝統によって増強され、アミール・ハムザの冒険もペルシアからインド、さらにミャンマーまで拡大し、ダースターンゴーたちの空想力によって物語に魔法や摩訶不思議な要素が加えられ、また、ペルシア語やペルシア文化に強い影響を受けたウルドゥー語の発展と軌を一とし、長大な冒険譚へと発展した。

 また、口承文学だったアミール・ハムザの物語を本の形にしようとする試みも昔から行われていた。ペルシア語版の筆記の試みは既にアクバルの時代から行われており、ダースターンゴーイーのパフォーマンス時に紙芝居のように用いたとされる巨大絵巻物「Hamzanama」も作られた。だが、インド的要素を存分に取り込んだウルドゥー語版の出版は19世紀になって初めて始まった。英国東インド会社の官吏要請学校として1800年に設立されたカルカッタのフォート・ウィリアム大学にて、アミール・ハムザの物語は、現地語の教科書として出版されたのが始まりである。その後もアミール・ハムザの物語を出版する試みは何度か見られるが、特に有名なのがラクナウーのナヴァル・キショールによる全46巻の「Dastan-e Amir Hamza」(1883-1917)である。各巻およそ1000ページの長大な物語だが、この本が出版されている間にもダースターンゴーたちの盛んな空想力によってアミール・ハムザの物語は膨張し、46巻をもってしても完結しなかったとされる。


「Hamzanama」

 また、アミール・ハムザの物語は欧米の言語に翻訳もされている。1892年の「The Amir Hamza: An Oriental Novel」(英語)、1895年の「De Roman van Amir Hamza」(オランダ語)、1991年の「The Romance Tradition in Urdu: Adventures from the Dastan of Amir Hamzah」(英語)などがあるが、これらはアミール・ハムザの物語の抄訳で完訳ではなかった。完訳を謳った英訳本は2007年に「The Adventures of Amir Hamza」のタイトルでRandom House Indiaから出版されている。僕が初めてアミール・ハムザの物語に触れたのもこの本であった。

 だが、偉大なダースターンゴーたちが死に絶え、ダースターンゴーイーの伝統が途絶えると同時に、アミール・ハムザの物語もインド人の脳裏から忘れ去られてしまった。前述の英訳本「The Romance Tradition in Urdu: Adventures from the Dastan of Amir Hamzah」の翻訳者フランシス・プリチェット教授がそのリバイバルに先鞭を付けたことになるが、ダースターンゴーイーの伝統とセットでアミール・ハムザの物語の再興が始まったのは21世紀に入ってからである。ウルドゥー語文学者シャムスル・レヘマーン・ファールーキーを中心にアミール・ハムザの物語の再評価が始まり、メヘムード・ファールーキーやダーニシュ・フサインらによってダースターンゴーイーの伝統を現代に蘇らせるプロジェクトが始動した。彼らのブログによると、最初の試験的パフォーマンスは2005年に行われ、高い評価を受けた。その後もインド各地でパフォーマンスが行われて来ている。また、ワークショップも行われており、ダースターンゴーの養成にも力が入れられている。

 ちなみに、メヘムード・ファールーキーは「Peepli [Live]」(2010年)の共同プロデューサーで、同作品の監督アヌシャー・リズヴィーの夫である。また、ダーニシュ・フサインは「Peepli [Live]」やキラン・ラーオ監督「Dhobi Ghat」(2011年)にも出演している男優で、ドキュメンタリー「Live from Peepli」の監督でもある。

 ところで、僕の所属するジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)はいわゆるレジデンシャル・ユニバーシティーで、学生、教員、職員のほとんどがキャンパス内の寮や住居に住んでいる。毎年3月頃になると各学生寮ではホステル・ナイトと呼ばれる寮祭が催される。僕が2009年まで住んでいたブラフマプトラ寮でもホステル・ナイトが行われた。ホステル・ナイトのメインイベントはビュッフェ形式の夕食会とその後のディスコであるが、他にもスポーツ競技会や文化イベントなど、各寮で様々なイベントが催される。今年、ブラフマプトラ寮ではホステル・ナイトの一環でダースターンゴーイーのパフォーマンスが行われることになった。これが実現することになった理由は2つある。まずひとつは、かつてブラフマプトラ寮に住んでいたとある寮生がメヘムード・ファールーキー主催のワークショップに参加し、ダースターンゴーになったことである。もうひとつは、たまたま寮のワーデン(寮長)を務める教授がオックスフォード大学留学時代にメヘムード・ファールーキーの同期生で親交があったことである。これらの理由によって、ブラフマプトラ寮では他のホステル・ナイトにはない独特のイベントが可能となった。また、元々メヘムード・ファールーキーたちは、「キャンパス・チャプター」と称し、大学や教育機関でのパフォーマンスにも力を入れて来ており、彼ら側としてもブラフマプトラ寮側からの誘致を断る理由がなかったと予想される。ブラフマプトラ寮は、現在僕が住むマハーナディー寮からも近く、元々ダースターンゴーイーやアミール・ハムザの物語に興味があったことから、このイベントに参加することを早々に決めていた。

 元々ブラフマプトラ寮でのダースターンゴーイーは3月24日の予定であったが、この日はクリケット・ワールドカップの準々決勝戦インド対オーストラリアの試合と重なり、集客が見込めなかったことから延期となった。結局3月28日午後9時に設定された。9時過ぎにブラフマプトラ寮に行ってみたが、パフォーマンスが始まったのは午後9時半過ぎであった。

 本日の演目は2つ。最初のパフォーマンスは、元ブラフマプトラ寮生ナディーム・シャーとビジネスマンのマヌ・スィカンダル・ディングラーの新米ダースターンゴー・コンビによる「アーザル・ジャードゥーの話」で、ふたつめのパフォーマンスは、メヘムード・ファールーキーとダーニシュ・フサインのベテラン・コンビによる「ラカーの物語」であった。インドで発展したアミール・ハムザの物語の中でも特徴的なのは「ティリスメ・ホーシュルバー(意識を失わせる呪文)」という章で、この章では、アミール・ハムザの部下でペテン師集団の長アマル・アイヤールと、魔術師の皇帝アフラースィヤーブの間の、トリックと魔法を使った戦いが描かれている。アミール・ハムザ自身はほとんど登場せず、アマルの活躍がメインとなる。


ナディーム・シャー(左)とマヌ・スィカンダル・ディングラー(右)

 ダースターンゴーたちは白いクルター・パージャーマー(上下の衣服)と白いドゥパリヤー(帽子)に身を包み、ガーオタキヤー(円筒長枕)を端に置いた一段高い台に座り、「カワーティーノ・ハズラート(紳士淑女の皆様)」と呼びかけてダースターンゴーイーを始める。おそらく本来のダースターンゴーたちはソロでパフォーマンスしていたはずだが、メヘムード・ファールーキーらはコンビでダースターンゴーイーをするスタイルを基本としているようである。2人で役割分担するという訳でもなく、基本的に交互に話を進めて行く。片方がある程度話し、キリのいいところまで来たら、別の人にバトンタッチするという方式である。ただ、2人以上の登場人物による会話のシーンでは、片方があるキャラクターを演じ、もう片方が別のキャラクターを演じるという様子も見られた。だが、ナレーションの部分と台詞の部分の区別や、キャラクターの区別は、完全にダースターンゴーの演技力に依っており、観客はダースターンゴーの身振り手振りや口調などから、それらの区別を理解する。皇帝を演じるときは威風堂々とした態度となり、女性を演じるときは目をパチクリさせ、なよなよとたおやかな仕草をする。微に入り細を穿った情景描写も特徴的で、言葉の力のみで風景から人物の特徴までを詳細に表現し、観客の眼前にそのシーンを浮かび上がらせる。日本の落語に非常に近いライブ・パフォーマンスだと言える。


メヘムード・ファールーキーとダーニシュ・フサイン

 「アーザル・ジャードゥーの話」のあらすじはこんな感じである。魔術師の皇帝アフラースィヤーブは部下の魔術師メヘターブ・ジャードゥーが、アイヤール(ペテン師)集団の長アマルに殺されたことを知って怒り、アマルを殺すために別の魔術師アーザル・ジャードゥーを派遣する。その際、アフラースィヤーブはアーザル・ジャードゥーに魔法の肖像画を持たせた。アイヤールは変装して近づいて来るために一目ではアイヤールと分からないが、その肖像画は、近くに来たアイヤールの正体を見破る力を持っていた。その魔法の肖像画のおかげで、アマルはアーザル・ジャードゥーに捕まってしまう。アマルの部下のアイヤールたちは、アマルが捕まったのを見て彼を救出しようと、牧夫に化けたり酌女に化けたりしてアーザル・ジャードゥーに近づくが、アーザル・ジャードゥーはその魔法の肖像画を使って次々にアイヤールの正体を見破る。だが、最後にメヘタル・キランというアイヤールがサードゥ(行者)に化けてアーザル・ジャードゥーを騙し、遂に彼を殺すことに成功したのだった。

 アミール・ハムザの物語の中では、このように魔法と魔法のアイテムに満ちた世界が繰り広げられる。そしてこのティリスメ・ホーシュルバーの章では、ペテン師たちが変装と騙しのテクニックによって魔術師に立ち向かうという面白い構図が見られる。物語自体も面白いが、随所に詩による言葉の凝縮と、笑いとユーモアが散りばめられており、ライブ・パフォーマンスとしての娯楽性に満ちている。ただし現代の観客にとって言語は難しめで、普段使わないペルシア語の語彙が多用されており、メヘムード・ファールーキーらダースターンゴーたちもそれらの言葉の説明を丁寧に挟んでいた。ブラフマプトラ寮でのダースターンゴーイーは、1時間ほどのパフォーマンスであった。

 前述したダースターンゴーイーのブログでは、ダースターンゴーイーのパフォーマンス日程が詳しく発表されており、どこかで鑑賞できる機会があるだろう。ウルドゥー語がある程度できないと、物語の内容や、笑いと「ワーワー(感嘆の声)」の壺を理解するのは難しいだろうが、近代より前のインド文学に取り組む際には避けて通れない口承文学の問題について、生のパフォーマンスを見て考えるチャンスが得られることは非常に貴重である。ウルドゥー語の発展においても、ダースターンゴーイーは重要な役割を果たしたはずだ。メヘムード・ファールーキーらの試みには今後も注目して行きたいと思う。

3月30日(水) インドの英語新聞の弱点3

 ここ1ヶ月ほど大したヒンディー語映画が公開されていないのだが、それはクリケットのワールドカップが開催中だからである。インドにおいてクリケットは宗教。いかに映画が娯楽の王様の地位を占めるインドであっても、大規模なクリケットの国際試合が開催されているときは映画産業も影が薄くなる。しかも今回はインド、バングラデシュ、スリランカの共同開催で、インドの都市で行われる試合も多い。前回のワールドカップではインドは予選敗退という屈辱を味わったが、今回は順調に予選を勝ち進み、決勝トーナメントに駒を進めた。決勝トーナメント初戦(準々決勝)の相手は強豪オーストラリア。過去4回優勝経験があり、しかもワールドカップ3連覇中という手強い相手である。しかしインドは地の利(試合会場はグジャラート州アハマダーバード)も活かしてオーストラリアを下し、準決勝に進出した。準決勝の相手は、宿敵パーキスターン、試合会場はインドのパンジャーブ州モーハーリーであった。

 インドとパーキスターンの関係については周知の通りである。過去に3回戦争をしていることに触れるだけで十分であろう。ただ、元々同じ国だったこともあり、両国の国民はお互いに気心が知れたところもあって、犬猿の仲という言葉がピッタリ当てはまる訳でもない。だが、ことクリケットの試合においては、永遠のライバルと表現して差し支えない。印パ両国の代表選手にとって、印パ戦は絶対に負けることの出来ない重要な試合なのである。たとえその試合が準決勝であっても予選であっても、印パ両国の国民にとって、印パ戦は決勝戦よりも重要な意味を持つ。

 ワールドカップ(ODI方式)における印パ戦は過去に4回あった。その4回ともインドが勝っている。最後に両国が激突したのは2003年のワールドカップであった。このとき既に僕はインドに住んでいたため、当然のことながらこの試合をテレビで観戦した(参照)。当時の日記を読むと、「インド・チームの勝利が確定した瞬間、デリーの街はもうそれは大変な騒ぎだった。ホーリーがもうすぐやって来るというのに、ディーワーリーがまた始まったかのようなお祭り騒ぎだった」と書かれており、あのときの興奮が克明に綴られている。クリケットの試合を最初から最後まで観戦したのも、あの印パ戦が初めてだったようだ。残念ながらパーキスターンを下した後、インドは力尽きてしまい、決勝戦でオーストラリアに負けてしまうのだが、このワールドカップのおかげで、しばらく僕もクリケット熱に冒されていたのを記憶している。MSドーニーの登場と将来性についても興奮気味にレポートしている(参照)。MSドーニーはその後、2007年のT20方式ワールドカップでチームを率いて優勝したことをきっかけに人気爆発し、サチンと並ぶ人気選手に、そしてインド代表の不動のキャプテンに成長した。あのときの読みは正しかったと言える。ちなみに2007年のT20方式ワールドカップ決勝戦でも印パ戦があり、非常に盛り上がった(参照)。だが、ドーニーがトレードマークだった長髪を切った辺りから、僕の日常生活からクリケット色が薄れて行ったような気がする。

 しかし今回、印パ戦が再び実現し、一気にクリケットへの興味が蘇った。ホーリーもディーワーリーもインドの大部分の地域で熱狂的に祝われる祭りだが、クリケットの印パ戦ほどインド全土を遍く熱狂の渦に巻き込むイベントは他にそうない。印パ戦開催時にインドにいられることはこの上ない幸せなのである。8年前と同様に、試合開始から終了まで観戦した。

 2003年の印パ戦と比べてみると、意外にインド側の顔ぶれが変わっていないことに驚く。オープナーは2003年も2011年もサチン・テーンドゥルカルとヴィーレーンドラ・セヘワーグであるし、他にも、ユヴラージ・スィン、ザヒール・カーン、アーシーシュ・ネヘラーが共通している。しかし、サウラブ・ガーングリーに代わってMSドーニーがキャプテンを務めていることを初めとして、この8年の間に変わった部分も多い。一方、2003年のパーキスターン代表は、インザマームル・ハクとショエーブ・アフタルの印象が強い。今回この2人はもう代表にいない。だが、ショエーブ・アフタルはパーキスターンのベンチに座って試合に出たそうにしていた。パーキスターン代表で共通しているのはアブドゥル・ラッザークとシャーヒド・アーフリーディーの2人のみか。シャーヒド・アーフリーディーは今回キャプテンとしてチームをリードして来た。印パ戦でも最後に粘りを見せ、キャプテンらしい働きをしていた。

 印パ両国にとってこの印パ戦は非常に重要な戦いだったが、特にインドにとっては勝利の他に是非もうひとつ達成したい記録があった。それはインドが誇る「マスター・ブラスター」サチン・テーンドゥルカルの100回目のセンチュリー(1試合中に100ランを得点することで、クリケットの世界ではセンチュリーの数は打者の実力を計るバロメーター)である。これまでサチンはテストマッチで51回、ODIで48回のセンチュリーを達成しており、これらは既に世界記録であるが、インドのクリケットファンは合計100回目のセンチュリーを心待ちにしている。宿敵パーキスターンとの試合中に100回目のセンチュリーを達成すれば、その喜びは自ずと倍増になる。逆に、パーキスターン側としては、たとえ試合に勝ったとしても、サチンに100回目のセンチュリーを許すことは耐え難い。シャーヒド・アーフリーディー主将も試合前にサチンのセンチュリー阻止を宣言していた。実際の試合運びを見ていると、サチンは明らかにセンチュリーを狙ったバッティングをしていたが、残念ながら85ランでアウトとなってしまった。2003年の印パ戦でもサチンは98ランでアウトとなっており、センチュリーを逃している。ただ、今回サチンは何度もアウトになりそうになりながら、リプレイ判定や相手選手のミスによって助かっており、85ランでも御の字と考えなければならないだろう。

 ところで、8年前と比べて、今回の印パ戦は親善試合的な雰囲気の中行われたような気がする。選手から、印パ戦で今まで見られた一触即発の殺気が感じられなかった。数人の選手たちからは笑顔まで見られた。ちょっと驚きであった。インドのマンモーハン・スィン首相とパーキスターンのユースフ・ラザー・ギーラーニー首相が観戦し、両国の内務次官同士の会談が同時進行する「クリケット外交」の雰囲気の中で試合が開催されたからであろうか?それとも両国の国民がだいぶ大人になったからであろうか?スタジアムには、ソニア・ガーンディー、ラーフル・ガーンディー、シャシ・タルールなどの政治家、ムケーシュ・アンバーニーやヴィジャイ・マーリヤーなどの実業家、アーミル・カーンやヴィヴェーク・オベロイなどの映画スターなどの姿も見えた他、おそらくパーキスターン側からもかなりのセレブリティーが集まっていたと見える。また、印パ友好を掲げる横断幕を持った観客の姿もあり、まるで印パがひとつになったかのような試合であった。おそらく両チームのキャプテンの人柄もあったのかもしれない。今回の印パ戦からは、印パ関係の確かな進展を感じさせられた。

 試合内容まで詳しく見て行くと長くなってしまうが、試合結果はインドの勝ちであった。簡潔に言うならば、バッティングではインドはかなりパーキスターンの好調な投手陣に抑え込まれたが、それ以上にインドの投手陣がパーキスターンの打者を首尾良く抑え込み、勝利を導いた。これでインドは決勝戦に勝ち進み、4月2日にムンバイーでスリランカと対戦する。何はともあれ決勝戦なので、印パ戦と同等の盛り上がりとなるのは必至だ。

 一応クリケットの話題は前置きなので、ここまでにしておく。今日の日記のテーマは、インドの英語新聞の弱点についてである。以前から英語新聞とヒンディー語新聞に掲載される記事の種類や内容の違いについて気付いたことを綴って来ており、今回はその3回目となる。1回目は2010年8月7日の日記に、2回目は2010年9月20日の日記に書いた。

 今回目に留まったのは、3月30日付けヒンドゥスターン紙1面の「खुफिया सुरक्षा चक्र लीक (極秘警備計画漏洩)」という記事である。その内容は、モーハーリーの印パ戦試合会場の警備計画チャートが外部に漏れてしまったというもので、ヒンドゥスターン紙もそのコピーを入手したとしている。そのチャートには、警備計画の全容と共に、どの地位の警官がどこを担当するか、各警官のコールサインは何で携帯番号は何番か、などと言った細かい情報まで記載されている。さすがに同紙はその内容をそのまま暴露することまではしておらず、具体的な部分を改変し、例としていくつかを掲載している。そして、「もしこのチャートがテロリストの手に渡ったら、警備を簡単に破ることができる」と警鐘を鳴らしている。

 今回の印パ戦は、昨年の英連邦競技大会(CWG)以来、国家の威信を賭けたスポーツ試合である。両国首脳をはじめ、重要人物も多く観戦する。よって、テロリストにとっては格好の標的である。その警備計画が外部に漏れたというニュースは、安全保障に関わる重大な報道であり、報道機関としては、その危機を警告すると同時に、テロリストまたは潜在的危険因子になるべくその情報が伝わらないようにしなければならない。こういう記事はもしかしたら英語新聞には掲載されないのではないかと思い、ヒンドゥスターン紙と同系列のヒンドゥスターン・タイムス紙をはじめ、いくつかの英語新聞を調べてみたが、僕が見た限りではそのような記事はなかった。

 これまでの比較から、国防やテロ防止に関わる情報は、英語新聞には掲載されにくいのではないかという仮説が成り立つ。もちろん新聞に掲載されてしまう時点で最重要機密情報ではないのだが、英語新聞のみで情報を収集しようとすると、現地語新聞よりも強めのフィルターを通った情報のみしか吸収できない可能性は否定できない。今後もさらにそういった例を収集して行きたいと思う。



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