スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

結護編

装飾下

【8月16日〜8月31日】

8月16日(金) Chhal

 サンスターンで働いている職員たちと何気なく話していると、ときどきふとした拍子に新サンスターンに対する不満が出てくる。その不満の矛先は専ら新サンスターンの立地の悪さに向けられている。中には旧サンスターンよりも家から近くなった人もいるみたいだが、大部分は遠くなってしまったり、バスの便が悪くなってしまったりしている。今回のサンスターンの移転に、今年の4月の卒業式に人材開発省副大臣の前で僕が話したスピーチがどの程度の効力を持っているのか分からない。もともとサンスターンはラージパト・ナガルの方へ移転するという噂があったので、前々から計画されていたことではあるだろう。しかし、直接の引き金となったのが僕のスピーチだとしたら、僕の責任は重大である。そういう不満を聞くと、どうしても僕が責められているように思えて居心地が悪くなる。

 今日は夕方から友人とPVRアヌパム4へ映画を見に行った。当初は「Mujhse Dosti Karoge」が目的だったのだが、時間が合わなくて諦めた。代わりに「Chhal」という今日から封切られた映画があったので、それを見ることにした。

 その映画が始まるまで2時間ほど時間があったので、サーケートの辺りをブラブラした。知らないうちにこの辺りもいろいろ店が出来ており、前からあったマクドナルド、バリスタ、アルチーズの他、サブウェイ、ニルラーズ、クウィッキーズ(コーヒー・パブ)、ルビー・チューズデイ(レストラン)、カウント・ダウン(レストラン?)、イリジウム(クラブ)などなど、いろいろ出来た。一杯飲もうという話になり、Buzzというバーでビールを飲んだ。Buzzの雰囲気は悪くなく、こじんまりしてはいるものの、なんとなくハードロック・カフェっぽくて、許容量を遥かに越える音量で音楽が鳴り響いていた。客層は金持ちインド人の若者が中心で、カップルで来ているというよりは数人のグループで来ている客が多かった。一応今日注文した品の値段を書いておくと、ビールのピッチャーが240ルピー、ナチョスが105ルピー。金を使いたくてたまらない階層のインド人でなければ立ち入ることも許されないだろう。しかし8時頃には店内は満席で、デリーにおいて金持ちインド人が爆発的に増加していることを感じた。

 「Chhal(騙す、という意味)」は実は普通のインド映画ではなく、最近徐々に作られるようになった新感覚のインド映画である。上映時間は2時間、キャストに有名なボリウッド・スターはいないし、ミュージカル・シーンも最小限に抑えられていた。ただ、主演のケー・ケーという男優は、ときどきプレイバック・シンガーとして名前を目にしていたので知っていた。歌手から俳優に転向したのだろうか?映画内の曲も彼が歌っていた。

Chhal
 警察官のカラン(ケー・ケー)はオトリ捜査のため、ムンバイーの地下組織を支配するシャーストリーの組織に潜入することになった。この任務は州首相も関わっており、数ヵ月後に迫った選挙の前に、地下組織一掃という手柄を立てておきたいという政治的な意図によるものだった。まずシャーストリーの腹心ギリーシュの妹を敵ギャングの襲撃から救ってギリーシュに近付く。カランは職を探すためにマドラスからやって来たと語り、それを知ったギリーシュはカランを仲間に雇ってやる。カランはシャーストリーとも会うことができ、彼の組織に潜入することに成功した。カランは警察に地下組織の情報を流し続ける。

 しかし、ギリーシュは短気ですぐに人を殺すことに何の躊躇もない男だが、それ以外は実は妹思いのとてもいい奴だった。ギリーシュの唯一の肉親である妹のパドミニーは美容院で働いている美しい女性で、兄のことをいつも思いやっていた。カランはギリーシュの信頼を徐々に勝ち得て、カランもギリーシュに友情を感じるようになる。やがてシャーストリーもカランを信用するようになる。そしてカランとパドミニーは恋仲となる。

 一方、カランからの情報を得た警察は、ギャングの密会場などに何度も踏み込んでくる。前もってカランに伝えることなしに。このオトリ捜査のことを知っているのは一部の幹部だけで、現場で銃を放ってくる警察官たちはカランが実はオトリ捜査官であることなど全く知らない。カランは警察の上司に「もしオレの前に警察がやって来たら、オレはどうすればいいんだ?」と質問するが、上司は明確な答えを返してくれない。仕方なしにカランは同胞である警察を殺してシャーストリーやギリーシュを助けなくてはならなかった。挙句の果てに、カランは今回のオトリ捜査の司令官の1人までも殺してしまう。

 度々の警察の奇襲により、ギリーシュは仲間の中に誰か密通者がいることに勘付く。警察官を捕らえては拷問にかけ、密告者をなんとか暴き出そうとした。また、警察側は、カランに、ギリーシュやシャーストリーの身柄を引き渡すように要求してくるようになった。だが、既に地下組織の中で絶大な信頼を得ており、カランもギリーシュに友情を感じていたので、その要求を承諾しようとしない。何よりカランは婚約者となったパドミニーのことが心配だった。カランはパドミニーに「何があってもギリーシュを守る」と誓ったのだった。カランは警察とギャングの間で板ばさみとなって悩むことになる。

 しかしついにギリーシュは、カランが密告者であることを知ってしまう。ギリーシュはカランを人気のいないところに呼び出し、カランを追求する。そして一旦はカランに銃を向け殺そうとするが、その銃の弾丸はギリーシュの頭を貫いた。ギリーシュは「妹を頼む」と言い残し、自殺したのだった。カランはパドミニーのもとへ行き、2人で泣き崩れる。

 しかしシャーストリーの耳にもカランがオトリ捜査官であることが届く。シャーストリーはすぐに刺客を差し向けカランを殺そうとする。その際、パドミニーは怪我を負ってしまう。カランは仲間の警察官と共にシャーストリーの隠れ家に押しかけ、待ち構えるシャーストリーの部下たちと激しい銃撃戦を繰り広げる。カランは何発も銃弾を受け、血まみれになりながらも最後にシャーストリーを殺す。カランはすぐに病院に運ばれ、一命を取り留める。パドミニーも無事だった。

 ストーリーは急に数十年後へ。警察の上層部となったカランは、若い警察官を呼び出す。彼も若い頃のカランと同じく、ギャングのオトリ捜査を行うために選ばれたのだった。カランはその若者にオトリ捜査の説明をする。彼は「もし私の前に警察官が銃を持って現れたらどうすればいいんですか?」と問う。その問いにカランは答えるが、何と答えたかは分からなかった。

 ハリウッドのB級映画によくある警官アクション映画という感じだったが、インド映画という範疇で考えたらよく練って作られていたと思う。最後のシーン(数十年後のシーン)が挿入されていたことにより、インド映画の特徴がでていた。インド映画ではなぜか時間の循環性というか、同じことが何度も繰り返される様をわざわざ描くことが多い。また、ギリーシュの妹がギャングをやっている兄に何の疑問を抱いていない点も、インドっぽいような気がした。普通、兄がギャングだったら妹はそれをやめさようとしないだろうか?もしくは自分もギャングとなって兄妹でギャングをしたりとか。しかしこの映画では美容師である妹がギャングの兄を容認しているように見えた。これもインド人の考え方の特徴である「ダルマ(生き方)」だろうか?「教師のダルマは教えること、泥棒のダルマは盗むこと、各人に与えられた仕事をこなせばそれでよい」という考え方がインドにはある。以前に見た「Company」もギャングが主人公の映画だったが、その妻はギャングである夫を、ギャングをやめさせようとはせず、サポートしていたのを思い出す。

8月17日(土) 花火大会

 現在ちょうど日本はお盆の時期である。それに関連してか知らないが、夕方からある駐在員の自宅でデリー在住の日本人が集まる会があった。デリーではこういう会がときどき催されている。今回は案外学生の参加者が多く、駐在員は少なめだった。また、学生といっても今まではJNUの留学生中心だったのだが、今回はデリー大学やサンスターンからの参加者も増えていた。僕ももう1年デリーに住んだので、けっこう顔見知りの日本人が増えた。初対面の人は数人ぐらいしかいなかった。

 今回の会のメイン・イベントは花火だった。インド製花火である。インドの花火・・・それは火薬の制限一切なしの超絶火力花火だった。最近、大阪のUSJのアトラクションで火薬の量が多すぎるだの何だので問題になっていたが、それだったら是非日本なんか早々に見捨てて代わりにインドにUSI(Universal Studio India)を作るべきだ。細かいことでいちいち規制されたりしないから、使いたい分だけ火薬を使って、本国アメリカよりもド迫力のショーを展開することができるだろう。

 用意されていた花火は打ち上げ花火中心だった。導火線に点火して火が火薬に達すると、爆発音が衝撃波となって顔面に吹きかかってくるので驚きだ。打ちあがった花火はかなり低空で花となって散るのも、せっかちなインド人の性質を如実に表していて臨場感満点である。閑静な住宅街で行ったのだが、特に周囲から苦情の声も挙がらなかった。案外インド人は騒音に寛容な性質らしい。

 食事は、チキン・ティッカの他、ビーフ・カレーが出て来た。暗いところで食べていたので何の肉か見分けがつかず、ついつい牛肉を口にしてしまった。最近あまりアルコールを飲んでいなかったので、ビールとワインを数杯飲んだだけでかなり酔っ払ってしまった。

8月18日(日) 引越し計画再浮上

 今更ながら、まずは僕が住んでいる建物のことを最近の近況と共に紹介しようと思う。僕の住んでいる建物は現在の大家さんの父だったか祖父だったかが作ったもので、特に建物名などはない。西の方角に面して入り口と窓がある。地下1階にはネット・カフェがあり、夜中の2時までやっているが、僕は自宅ネット生活を送っているので、今まで一度も利用したことはない。

 1階から上の各階の構造はだいたい一緒だ。階段を上ると踊り場に面して2つの扉がある。右側の扉(南側)に続く部屋は小さめの部屋で、西に小さいベランダがあり、東に大きめのバスルームがある。一方、踊り場正面(東側)の扉をくぐるとすぐにキッチンがあり、その奥には大きめの部屋1つ、そのまた奥に中ぐらいの部屋1つと小さいバスルームがある。

 1階の南側の部屋には、ちょっと前までムスリムの仕立て屋が住んでいた。僕が「ダラダラ・テイラー」とさんざん罵ってきた駄目テイラーだ。仕事がいい加減な上に、いつまで経っても出来上がらないという、仕立て屋の風上にも置けない人物であった。「住んでいた」というのは、実は今もう彼は住んでいないからこう書いている。僕が日本に帰る前にはまだ仕立て屋はやっており、出掛けるときに覗くと何かしら仕事はしていたと記憶しているのだが、日本からインドに戻ってきたら仕立て屋の扉が閉まっていた。いつもいつも扉が閉まっているので、不審に思って聞いてみたら、その仕立て屋はどうやら夜逃げしたらしい。「これだからムスリムは信用ならん」とジャイナ教徒の大家さんは息を荒くしていた。そういえば去年のディーワーリーのときに僕が彼に注文したクルター・パージャーマーは未だに出来ていなかった。どうやら永遠に受け取れなくなってしまったようだ。

 その仕立て屋と同じ階にはビューティー・パーラーがある。男でも女でも受け付けているようだ。去年値段を聞いてみたら、カット40ルピーと言っていた。だが、実は僕はここで髪を切ってもらったことは一度もない。一度は行ってみようと思っているのだが・・・。普通インドの床屋は宗教上の理由から火曜日休みだが、ここは火曜日も営業している。やはり床屋というよりは美容院なのだろう。

 2階は大家さん一家の居住地域だ。3部屋全て大家さんたちが使っている。3階、4階は家賃でインド人が住んでいる。7月ぐらいに新しくインド人の女の子2人組が3階に引っ越してきたことがあった。なんとなく見た目が悪女っぽいイメージだったのだが、やはり僕の予想は的中していた。いつの間にかその女の子たちがいなくなっていたので大家さんに聞いてみたら「奴らは汚ない雌猫だった。毎晩どっからか男を連れ込んでいた。もう女に部屋は貸さん」と言っていた。というわけでそこには現在普通のインド人家族が住んでいる。

 5階の南側の部屋には僕が住んでいる。同じ階の東側の部屋には7月までウガンダ人のモーゼスが住んでいたのだが、どっかへ引っ越してしまった。未だに空き部屋となっている。6階は屋上となっており、以前までデリー・ポリスの家族が住んでいたのだが、彼らはいつの間にか引っ越してしまい、新しい家族が住んでいた。

 さて、問題となるのは、僕の部屋の隣にある空き部屋である。一度G.K.1への引越し計画がポシャってしまったのだが、依然として引越しへの情熱は失われていない。今住んでいる部屋で不満なのは、ひとつは狭いこと、ひとつは窓やドアに隙間があり、砂埃がたまりやすいこと、そしてキッチンがないことである。気付いてみたら、それを簡単に解決するひとつの手段が目の前に転がっているのだ。

 大家さんにそれとなくその空き部屋のことを聞いてみた。もっとも理想的なのは、5階の3部屋、2バスルーム、1キッチンを全て僕が占領してしまうことだが、予算面でそれは辛い。現実的なのは今住んでいる部屋から、以前モーゼスが住んでいた部屋(2部屋、1バスルーム、1キッチン)にマイナー引越しをすることだ。大家さんは「君のことは息子のように考えている。お金のことは問題ない」と言っておきながら、電気代込みで4500ルピーの値段を提示してきた。おいおい、それは正規の値段だろ、と突っ込みを入れつつ僕は4000ルピーを要求したが、結局大家さんの値段は4200ルピー止まりだった。これにて交渉は決裂した。

 しかし大家さんは代わりに奇妙な提示もしてきた。もしキッチンが欲しかったら、そこの東側の部屋のキッチンを使っていいと言ってきたのだ。構造的にそのキッチンは僕の部屋というより、隣の部屋に所属しているのだが・・・。もしその部屋に誰か引っ越してきてキッチンを使いたいと言ったらどうするんだ、と聞いたが、大家さんは「多分インド人の男が引っ越して来る。男はキッチンを使わない」と断言していた。もしそのキッチンが使えるのなら、現在部屋の中に置いてある冷蔵庫などをそこに置くことができるから部屋を広く使えるし、毎日自分で食事を作ることもできる。ただ、キッチンの入り口に鍵がかかるようになっていないので、少し手直しが必要だ。現在この計画が密かに進行中である。

8月19日(月) ヒンディー語の歴史

 今日から本格的にサンスターンの授業が始まるかと思ったら、まだ今日も午前中だけの授業で1時には終わってしまった。まだ時間割は目下協議中らしい。論点となっているのは、1週間に何日休みがあるのか、1日の授業は何時〜何時までか、という点だ。去年は週休3日制、11時〜2時半、45分授業だったのだが、今年はどうも最悪の場合、週休2日(土、日休日)、10時半〜4時、50分授業となるみたいだ。今年からカリキュラムが厳しくなるというが、いったい4時まで先生たちは教えることがあるのだろうか?この変化は多分、去年まで行われていた夜間学校(午後4時〜7時)の授業がなくなったことを受けていると思われる。とにかく、まだ決定してないので、生徒たちは黙って待っているしかない。韓国人は口々に文句を言っていたが・・・。


 マンジュ先生の授業で「ヒンディー語の歴史」を教えてもらった。本当はこういう言語の核心に迫る授業が一番好きだ。しかもインド人はインドのことに関して割と独自の論点を持っており、欧米のインド学者の考え方に毒されていないというか、「外国人に何が分かる」という高慢な態度なので、ラディカルな意見を聞くことができる。以下一応マンジュ先生の授業の内容をまとめておくが、あくまでインド的というか、マンジュ先生的な見解なので、あまり一般的ではないように思える。

 やはりヒンディー語の歴史を紐解くと、まずサンスクリト語の話になる。しかしサンスクリト語は一部の教養ある人々によって使われていただけで、一般庶民は「デーシー・バーシャー」という言語をしゃべっていたと言う。サンスクリト語は文字があったため復元可能だが、デーシー・バーシャーには文字はなかったため、どういう言語なのか推定不可能である。ただ、サンスクリト語は文字にされた言語なので容易に変化を被らなかった一方で、デーシー・バーシャーは実用的な言語だったため、外来民族が訪れたり、他民族との交易の際にどんどんそれらの言語の語彙を吸収し、変化を遂げていったことは推測するに難くない。このサンスクリト語とデーシー・バーシャーの2言語体制がインドで長く続いていたが、やがてジャイナ教が生まれる。ジャイナ教は経典をプラークリット語で書いた。プラークリット語は既に難解な言語となっていたサンスクリト語にデーシー・バシャーを混ぜて分かりやすく書かれたものだった。その後仏教が生まれ、プラークリット語よりさらにデーシー・バシャーが混ざったパーリ語によって経典が書かれた。つまり新興宗教であるジャイナ教と仏教は、より広く民衆に教義を理解してもらうために、既存の難解な言語を簡単にして経典を書いたというのだ。

 ここでヒンドゥー教の歴史に触れることになる。まず、よくこの手の解説書に載っている事柄だが、当初「ヒンドゥー」とは単に土地の名前を指すだけで、宗教とは全く関係のない言葉だった。ペルシアの方から来た人々が、インダス河の向こう側、スィンド地方に住んでいる人々のことを「ヒンドゥー」と呼んだのが始まりだった。インド文化の黎明期にはヴァルナという職業分業制度が発達していた。よく「カースト制度」と称される、ブラーフマン(バラモン)、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの4つである。ブラーフマンは頭脳労働者で、知識を授けるのが仕事、クシャトリアは都市を運営していくのが仕事、ヴァイシャは交易するのが仕事、シュードラは物を作ったりするのが仕事だった。これら4つの職業は互いに必要不可欠なものだったため、身分の上下や身分差別はなかったという。そして身分は世襲ではなく、自分の得意な分野を自由に選んで仕事に就くことができたらしい。また、この時代に寺院などの宗教施設はなく、人々の信仰の対象は専ら自然現象にあった。インドに住む人々は何世代も生きていくうちにあることを発見した。自分たち人下や動物は生まれればいつか死ぬ。毎日誰かが死に、誰かが生まれる。しかし太陽は毎日毎日同じ行動を繰り返し、不変である。月も形こそ変わるものの、不滅の存在である。季節の巡りも不変である。消滅する運命にある自分たちと、不滅の存在である自然。この対比から、自然を崇拝する思考が生まれたのだった。

 やがてウパニシャッド時代が到来すると、次第に身分世襲の風潮が出てくる。ブラーフマンの子供はブラーフマンに、クシャトリアの子供はクシャトリアに、という具合にだ。そうなってくると、当然のことながら身分の上下の考え方も生まれてくる。そんなときジャイナ教と仏教が誕生した。これらの宗教は身分の差別を否定すると同時に、寺院を作り、像を作り、偶像に対し信仰することを始めた。やがてそれまでインドに根付いていた自然信仰を担っていたブラーフマンたちもジャイナ教や仏教を真似て寺院を作り、それまで形を持っていなかった神の像を勝手に想像して作り始めた。そして、それまでブラーフマン階級はサンスクリト語のみを使っていたのだが、デーシー・バーシャーにも目を向けるようになり、民衆の言葉を使って分かりやすく自分の宗教を説明するようになった。その言語がアプブランシュと呼ばれている。そしてこれがヒンディー語の直接の祖先となったと言う。同時に、寺院という自分の城を持ったブラーフマンたちは権力を振りかざすようになり、身分の差もはっきりと分かれ、ジャーティまたはカースト制度と呼ばれる現在のインドの特徴的な身分制度が出来上がったのだった。とりあえずこの辺で授業は終わりになった。ちなみにヒンドゥー教に「ヒンドゥー教」という名前を付けたのは、ずっと後になってインドにやって来たイギリス人らしい。



 今日はランチ前に授業が終わったので昼食を食べる必要はなかったのだが、先生が「試しに昼食を食べて見る?前の食堂に注文するから」と言っていたので、試しに食べてみることにした。新サンスターンの前に食堂なんてあったかな・・・と首を傾げたが、よく見てみたら向かいにあるナショナル・オープン・スクールの食堂から持って来てもらう方式になっていた。ターリー1皿12ルピー。格安である。ローティー2枚、ごはん、サブジー1つとダール1つに生野菜が乗っていた。食べてみたらけっこう味もよかった。これにチャーイバーバーのチャーイ3ルピーを加えて、毎日昼食は15ルピーで食べれる計算になる。なかなかいいではないか。いちいち向かいに注文しに行くのは面倒なので、1時間目に誰かがまとめて各教室に注文を取りに来て、ランチタイムに合わせて持って来てもらうというシステムを早く確立すべきだと思った。あと、去年と比べてなぜかチャーイバーバーのチャーイがおいしくなっている。まだいつ味がいきなり落ちるか分からないので、手放しで喜び賞賛することはできないが、82歳にしてチャーイバーバーは進化を遂げつつあるとだけは言っておこう。

8月20日(火) 能の夕べ

 今日、サンスターンでは朝から停電が続いた。最近また暑くなってきているため、A/Cとパンカーが止まると教室の中は一気に暑くなる。校舎が新しくなったのはいいのだが、徐々に職員生徒から不満が続出しており、教室の風通しの悪さもそのひとつとなっている。ジェネレーターはあるのだが、手違いなのか意図的なのか、1階の事務員室にしかジェネレーターの電気が送られないようになっており、2階にある教室と職員室は停電になったら停電のままだった。これはもしや、普段教師陣から虐げられている事務員たちの復讐だろうか・・・?



 逆説的だが、海外に住んでいると、日本に住んでいるときになかなか体験できないような日本の伝統芸能に出会う機会がある。今日はジャパン・ファウンデーションで能の公演があった。今まで僕は能なるものを見たことが一度もなかったし、特にやることもなかったので、見に出掛けることにした。

 ジャパン・ファウンデーションの庭にテントが特設されており、建物の1階部分にあるテラスのような部分を舞台に見立てられていた。地面にはマットレスが敷き詰められ、観客は靴を脱いでその上に座って鑑賞する形になっていた。この雰囲気はとてもグッドだった。会場の四方八方に大きな扇風機が立ち並んでいたのだが、僕はステージ真正面でかつ扇風機の風によく当たる場所を選んで座った。

 公演は午後7時からだった。ざっと会場を見渡してみると日本人5割、インド人5割くらいだった。日本人は「能を見るの初めて」という感じの好奇心旺盛な感じの人々が多そうだった。インド人ももちろん能を見るのは初めての人が大半だろうが、それ以上に日本の文化全般に興味のある教養人や学生が多いように見えた。

 今回の公演は、本格的な公演というよりはレクチャーだった。能の演目をまるまる上演するのではなく、能のエッセンスを抜き出して、丁寧に説明してくれた。日本語と英語で2回説明してもらえたので、非常に分かりやすかった。能初心者には非常に有意義な公演だったと思う。能の踊り手はもちろんプロの人々である。

 まず、本公演では絶対に見ることの出来ない、衣装の着付けから見せてくれた。踊り手はただ突っ立ったり座ったりしてるだけで、衣装係りが手際よくいろんな装飾品や着物を踊り手に着付けていく。そして最後に面と頭飾りをつけ、着付けが完了となる。特に面を付ける瞬間というのは、かなりの気合が入っているのを感じた。

 次に「羽衣」という題目の能を少し見せてくれた。ソロの踊りで、2重3重に着物を着ていてあまり激しい動きができないみたいで、ソロリソロリと動いていた。・・・インド人の考えを予想するに「これがダンス?」という感じだ。このままずっとこのペースでノロノロ動かれたら退屈だなぁ、と思っていたら、最後の方にはやっと少し動きが加わった。でも、やっぱり衣装が重いみたいで、目を見張るほどの動きはなかった。




「羽衣」の天女


 その次に少し能の型や面の表情についてレクチャーがあり、最後に3つほど短い演目を、今度は重たい衣装や面なしで踊って見せてくれた。能の踊りには、男の踊り、女の踊り、鬼の踊りの3種類があるようで、その3種類を1つずつ踊ってくれた。こういう風に分かりやすく上演してもらうと、能や日本の伝統芸能に対して難解なイメージを持っている日本の若者も少しは興味を持つのではないか。特に最後の鬼の舞いはなかなかの迫力だった。土蜘蛛と源のなんとかの戦いで、蜘蛛役の人は糸を手から放出しながら左右に立ち回って盛り上がった。

 全体の感想としては、やはり日本の芸能は静に重きが置かれているため、何事にも派手好きなインド人に広く理解してもらうのはちょっと難しいかもしれない、と思った。確かにインドの伝統音楽も最初はゆっくり静かに始まるが、終わるときはかなりの激しさになる。能にも一瞬の躍動感はあったが、その躍動感がある部分で、やっとインド古典舞踊のノーマルな状態に対等になるので、ちょっと苦しい。でも、僕たち能初心者の日本人にとっては、普段関わりの薄い能に触れることができて、滅多にない大変貴重な機会となったと思う。公演後、ちょっとした立食パーティーがあって、能の踊り手の人と話す機会があったが、その人も「なるべく若い人たちに理解してもらいたい」と語っていた。しかし能を見るのに何千円も入場料をとるようでは、いつまでたっても普及しないだろう。せめて映画と同じくらいの料金にするべきだと思う。ちなみに今日の公演は無料だった。

8月21日(水) 破壊と誕生inデリー

 ガウタム・ナガルの入り口ユスフ・サラーイには、サブジー・マンディー(野菜市場)があって毎日賑わっている。通りの片側に掘っ立て小屋や露店がズラッと並んでおり、新鮮な野菜や果物を売っている。ところが最近になってその掘っ立て小屋のいくつかが破壊されているのに気が付いた。それでもサブジー・マンディーの賑わいに変わりはないのだが、木片や布切れが道の片隅に折り重なっている様を見ると空しい気持ちになる。

 ちょっと前にデリーの各地で一斉に警察の手入れがあったようで、政府の認可を受けていない露店が次々と破壊されたらしい。サフダルジャング・エンクレイヴにある有名なダーバー(安食堂)、ラジェーンドラ・ダ・ダーバーも取り壊されたようだ。ただ、インドの面白いところは、取り壊されても数日後にはまた同じ場所で同じ店がちゃっかり営業をしているところだ。ラジェーンドラ・ダ・ダーバーも規模は縮小されたもののちゃんと営業している。また、サフダルファング・エンクレイヴのマーケットにちゃんとした店舗を建造中みたいだ。

 破壊されるものがある一方で、建造されるものもある。去年ぐらいからず〜っと工事をしていた、メディカルとサウス・エクステンションのフライ・オーバー(高架橋)が遂に先日完成した。特にメディカルの辺りは南デリー最大の慢性渋滞エリアだったのでありがたい。ただ、フライ・オーバーができて被害を被るのは、交差点で物売りをしていた人や乞食をしていた人たちだ。彼らはどこへ行くのだろうか・・・。



 夕方から一時激しい雨が降った。8月に入ってからデリーでもようやく雨が降るようになってはいたが、今日のような激しい雨は初めてだった。雷もゴロゴロ鳴っていた。その雨が通り過ぎた後は空気が非常に涼しくなった。そんな涼しい空気の中、夜、「Devdas」を見にチャーナキャー・シネマへ出掛けた。「Devdas」を見るのはこれが2回目だ。実は某インド系サイトにインド映画のレビュー記事を載せることになっており、その第1回を今年一番の話題作「Devdas」にしようと思っているので、記憶を新たにするためにもう一回見に行ったのだった。もう封切から1ヶ月経っているので、観客はあまり入っていなかった。2回も見れば筋の細かいところまで理解することができるが、やはり部分部分でまだわからないところがあった。ヒンディー語のうまい日本人はたくさんいるが、ヒンディー語映画を100%理解できる人っているのだろうか?少なくとも、歌の歌詞はかなり文学的な表現が使われていることが多いので外すとして、ストーリー部分の登場人物の会話を全部理解することができる人がいたとしたら尊敬してしまう。

8月22日(木) ラクシャー・バンダン/Mujhse Dosti Karoge

 今日はヒンドゥー教の祭日、ラクシャー・バンダンである。女の子が兄弟の手首に「ラーキー」と呼ばれる紐を結び、自分を守ってくれるように頼む日だ。別に血のつながった兄弟でなくてもよく、気に入った男の子に結んであげればよい。インド版ヴァレンタイン・デイのようなものだ。ただ、原則としては、ラーキーを結んだ男女は兄弟関係となり、恋愛の対象外となってしまう。だからヴァレンタイン・デイとは根本的に違うのだが、割と見てると恋人同士ラーキーを結んだりもしてるのではないかと思う。ちなみに僕にラーキーを結んでくれた人はいなかった。ラーキーを結ばれたら、その女の子を守ってあげなくてはならないだけでなく、お礼にお金もあげなくてはいけないようなので、それはそれでいい。

 ラクシャー・バンダンとは関係がありそうであまりないのだが、今日、「Mujhse Dositi Karoge?(私と友達になる?)」を見にPVRアヌパム4へ行った。2週間ほど前に封切られた映画で、友人の評価は一方で「なかなかよかった」、他方で「頭痛がするほど退屈」と分かれていたが、少なくとも2週間上映されているということは、超が付くほどの駄作ではなかろうと思い、今日見に行くことにした。リティク・ローシャン、カリーナー・カプール、ラーニー・ムカルジー主演の映画である。




左からラーニー・ムカルジー、
リティク・ローシャン、
カリーナー・カプール


Mujhse Dosti Karoge
 舞台はヒマーチャル・プラデーシュ州の州都シムラー。この有名な避暑地に3つの家族が住んでいた。それぞれの家庭には一人ずつ子供がおり、親子共々3家族は非常に仲良しだった。3人の子供の名前はラージ(リティク・ローシャン)、ティーナー(カリーナー・カプール)、そしてプージャー(ラーニー・ムカルジー)である。ラージとティーナーは幼心ながらも愛し合っており、プージャーはそんな2人の愛を温かく見守りつつも、密かにラージに思いを寄せていたのだった。

 物語はラージの家族がロンドンへ転勤となるところから始まる。ラージ、ティーナー、プージャーは離れ離れになっても3人の友情は変わらないことを誓い合う。そしてラージはティーナーに絶えずEメールを送ることを約束する。しかしティーナーは面倒なことが嫌いな性格で、ラージにいちいちEメールを送るのに嫌気がさした。そこでティーナーは、プージャーに適当にメールを送っておくように言う。プージャーはティーナーの代わりにラージとEメールを送り合う。自分の名前ではなく、ティーナーの名前を使って。プージャーは、ラージとティーナーの仲を壊したくなかったのだ。

 やがて15年が経った。15年間、プージャーはラージとEメールを交換し合っていた。もちろんラージはティーナーとEメールを交換しあっていると思っていた。そして遂にラージがシムラーに2週間だけ帰ってくることになる。しかしそのときティーナーはすっかり色気ムンムンのプレイガールになっており、ラージのことなどすっかり忘れていた。プージャーは15年間ティーナーの名前を使ってラージとEメールを送りあっていたことをティーナーに話し、ティーナーには何とか話を合わせてもらうように頼む。

 ラージが15年ぶりにシムラーに戻ってきた。それを一番待ち望んでいたのはプージャーだった。しかしラージは真っ先にティーナーの元に駆け寄る。ティーナーはラージが予想外にハンサム・ボーイであることに驚き、やがて恋に落ちる。ラージはティーナーに少年時代と変わらぬ愛を抱きつつも、いろいろと話が合うのはプージャーであることに気付いたのだった。2週間の滞在はあっという間に過ぎ、ラージは再びロンドンに帰ることになる。

 その後、プージャーはロンドンの大学に留学するためにロンドンを訪れる。ラージはプージャーの来訪を歓迎し、彼女のためにロンドンを案内する。しかしその過程で、15年間Eメールを交換し合っていたのはティーナーではなく、プージャーであることを悟る。その15年の間、ずっと愛していたのはティーナーではなく、ティーナーの名を使ったプージャーであることが分かった今、ラージはプージャーと結婚することを決意する。そして2人は両親に説明するためにシムラーを訪れる。

 ところが、シムラーに戻った2人を待っていたのは、ティーナーの父親の死という悲しいニュースだった。ティーナーはラージのもとに駆け寄る。また、亡き父の遺志を継ぐ形で、ティーナーとラージの結婚が決定してしまう。ラージはプージャーと結婚することを望んでいたが、プージャーはティーナーの気持ちを害することを恐れ、ラージとティーナーの結婚を受け入れる覚悟をする。そのときラージはプージャーに誓った。ラージとティーナーの結婚式と同時に、プージャーと他の誰かの結婚式も同時に行うと。ラージは、自分たちの結婚式の前にプージャーに結婚相手を探すように強制し、ロンドンに戻る。

 3ヵ月後、結婚式を挙げるためにプージャーやティーナーたち一家もロンドンにやって来る。しかしプージャーは全く結婚相手を決めていなかった。なぜならプージャーはラージを愛していたからだ。そこで、ラージとプージャーの盛大な婚約パーティーが開かれている中、ラージは友達のローハンを紹介し、2人をなんとか結婚させようと画策する。最初はプージャーは拒絶していたが、遂にローハンとの結婚を承諾する。それを聞いたラージは、自分で画策したことながらショックを受けるが、プージャーの結婚を祝福する。こうして、ラージとティーナー、プージャーとローハンの結婚式が同時に行われることになる。

 しかしローハンはラージとプージャーが恋仲であることを悟る。また、ティーナーもプージャーがラージのことを愛していることに気付く。いざ結婚の儀式が行われようとするとき、ティーナーは、ラージとプージャーこそが真に結ばれるべきであることを主張し、ローハンもそれを認めた。こうしてめでたく2人の結婚が成就したのだった。

 多分ヒンディー語が分からなくても容易にストーリーを理解できるような、非常に分かりやす〜い映画だった。カリーナー・カプールはタカビーな現代風ギャル、ラーニー・ムカルジーはおしとやかで友達想いな優しい女の子、リティク・ローシャンは無邪気で才能豊かなハンサム・ガイ、という風に、今まで培われてきたそれぞれのイメージそのまんまの配役だし、最初の5分で結末が完全に予想可能なありふれた脚本だ。一歩でも間違ったら何の変哲もない駄作映画として永久に歴史の影に葬り去られるところだったが、物語の中で度々「ムジュセ・ドースティー・カローゲー?(私と友達になる?)」と質問し、握手を交わすシーンがあり、それに場面場面で深い意味が加わってくるのが物語の節目節目になっていたのと、プージャーのいじらしい恋心と友情を大事にする心が観客の共感を得ていた(と思われる)ところが救いとなり、まあまあのレベルの映画に落ち着いていた。

 しかしあらゆる意味で圧巻だったのは、ラージとティーナーの婚約パーティーでのインド映画音楽メドレー。インド映画の有名な曲が次々とメドレーで流れるのだ。脈絡なくメドレーが流れるのではなく、前後で歌詞の内容が関連しているようだった。昔の曲は全然分からなかったが、「Gadar」「Kahoo Na Pyaar Hai」「Kuch Kuch Hota Hai」ぐらいは分かった。しかしこの場面でのインド人の観客の反応は、僕が見たときにはちょっと冷め気味だったように思える。

 リティク・ローシャンのダンスは相変わらず冴えていた。カリーナー・カプールもだんだん見れる踊りを踊れるようになっては来ているが、リティクと並んで踊るとやはりまだまだだ。歌のレベルは並み程度。何曲か耳に残った曲はあったが、CDを買おうと思わせるほどのパンチ力はなかった。

 ラーニー・ムカルジーは、友情と恋愛の板ばさみになったり、2者択一を迫られたりする役がなぜか多いような気がする。「Kuch Kuch Hota Hai」にしろ、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」にしろ・・・。でもカリーナー・カプールとの相性は案外よかったかもしれない。カリーナー・カプールと並ぶと、ラーニーの方が色も黒いし背も低い。だから今回のようなカリーナーの影になって目立たない女の子、みたいな役はけっこうはまっていた。

8月23日(金) 文学が社会を変えるか

 僕の住むガウタム・ナガルの家はここのところ停電・断水が全く起こっておらず、快適に過ごしている。だが、他の地域に住んでいる人たちの話を聞くと、特に水不足でかなり困窮しているようだ。水がなくて2日間シャワーを浴びてない、とか大家さんと毎日水の件でケンカしてるとか、トイレが流せなくてそのままになってるとか・・・。貧弱なインフラと共に下手に都市生活をすると、人間の生活は村での生活以下になるようだ。僕の家なんて、蛇口が壊れてて完全に閉まらないので、いつもポタポタ水滴が落ちているのだが・・・。

 新サンスターンのあるカイラーシュ・コロニーも電気事情がよくないらしく、今日もほぼ1日中停電だった。一度はG.K.1に引っ越す気マンマンだったのだが、今となっては電気と水のあるところで住むのが一番だと思った。

 マンジュ先生の授業は相変わらずヒンディー語の歴史を教えている。今日は15世紀〜16世紀に活躍した伝説の詩人カビールの話が出て来た。マンジュ先生は「社会が変われば文学も変わり、文学が変われば社会も変わる」という、いかにも文系人間っぽい考えを持っており、それに基づいて話をしている。カビールが生きた時代はちょうどインドでイスラーム諸王朝が覇権を争っていた頃で、ヒンドゥー教寺院は破壊され、その跡地にモスクが建てられていた。もともとヒンドゥー教の前身となる宗教に寺院を造る習慣はなかったのだが、この頃になると寺院に参拝して祈りを捧げる習慣が完成していた。だから寺院を壊されたヒンドゥー教徒たちは、祈る場所がなくなって非常にストレスを感じていたという。インド人にとって神様は相談役、愚痴を聞いてくれる存在、苦しみを分け合う存在のようだ。他の誰かに相談するよりも、まずは神様に相談するらしい。だから寺院がなくなるということは、心を開いて語り合える存在がいなくなるということに等しい。寺院を破壊された人々は、精神衛生的にすさんだ生活を送っていたらしい。そこに現れたのがカビールだった。カビールはもともとヒンドゥーのバラモンの家に生まれたのだが、イスラーム教徒の家で育てられ、ヒンドゥーの宗教家の弟子となったという複雑な宗教背景の持ち主だ。彼は「神は寺院にいない。各人の心の中にいる」と考え、それをインド各地の話し言葉で詩にしながらインド中を巡ったらしい。彼の信仰の方法はバクティと呼ばれる。彼の神を讃える賛歌は寺院を失ったヒンドゥー教徒の共感を得ただけでない。彼はイスラーム教徒にもモスクでの礼拝の無意味さをとき、イスラーム教徒の共感を得たそうだ。

 その後、カビールの詩に影響される形で、各地で神を讃えるバクティ文学が生まれ始めた。その中でも中心的なのは、ブラジュ地方(マトゥラー近辺)のクリシュナ信仰と、アワド(UP州)地方のラーマ信仰である。理由は簡単で、クリシュナの生誕地はブラジュ地方であり、ラーマの生誕地はアワド地方であるからだ。

 これらの話はまあ別になるほどな話しなのだが、マンジュ先生は時々驚くべきことを口にする。冗談で言っているのか、真面目に言っているのかはよく分からない。例えば、サンスクリト語の文献の大半がドイツに持ち去られた、という話のついでに、「ドイツ人はサンクリット語の文献を参考に核兵器やミサイル、戦闘機などの新兵器を作った」と言っていた。確かに「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」には、現代の兵器そっくりそのままの武器・兵器の記述がある。それを見て「マハーバーラタ戦争は核戦争だった!」とか言う人もいて楽しいわけだが、インド2大叙事詩が現代の最新兵器の基になっているなんて言う意見は初めて聞いた。でももし、もしもそれが真実だとしたら、少なくともそれらの古文献が現代の科学者に兵器のアイデアを与えたとしたら、「文学が社会を変える」ことになったと言えるだろう。万が一そうだったとしたら、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」と、唯一の被爆国である日本も決して無関係ではない。

8月24日(土) サロージニー・ショッピング

 隣の部屋にある台所を僕のものにする計画があった。台所の扉に鍵がついていなかったので、ちょっと前に大家さんに鍵をつけておいてくれるように頼んでおいた。しかし未だに何も進展がなかったので、今日の朝大家さんに聞いてみた。「いつ台所の扉に鍵をつけてくれますか?」そうしたら「もうあの部屋は台所と一緒に他の人にあげてしまった」と言われた。・・・どうせこんなことだろうと思ったよ・・・。しかし聞くところによると僕の住んでいる建物が学生や独身男性用のホステルになるらしく、もし頼めばペイン・ゲスト方式になるらしい。つまり、台所でお手伝いさんが料理を作って食べさせてくれるらしいのだ。家賃プラスその月に食べた分だけ払えばいいらしい。まだよくシステムが分からないが、自分で料理を作るより楽かもしれない。来月ぐらいからそうなるようなので、まだ様子見の段階だ。

 今日は久しぶりにサロージニー・ナガルへ足を伸ばしてみた。引っ越さないことが決定したので、気分転換に部屋の模様替えをしようと思っていた。去年1年間はなるべく荷物を増やさないように生活していたのだが、やはり最低限の家具が今頃欲しくなってきた。具体的には、勉強机、快適なイス、そしてベッドだ。家具といえばムニルカー・マーケットだが、以前友人の家でちょうど良さそうな机を見たことがあり、どこで買ったか聞いてみたらサロージニー・マーケットだったので、僕も行ってみることにしたのだった。

 今までサロージニー・ナガルといえば大体衣服を買いに出掛けていたので、他の商品を扱っている店があまり眼中に入らなかったのだが、今日は家具を目当てにマーケットを歩いていたので、家具の店がよく目に入ってきた。マーケットの南部分にけっこうたくさん家具店があった。最近の流行はデスクトップ・パソコン用の机みたいで、キーボードを出し入れできる引き出し(というか板)が付いている机がどこの店にも置いてあった。僕も第一にパソコンを使うことを念頭に机を探していたので、そういうパソコン用机ばかり見ていたのだが、よく考えてみたら僕のパソコンはノートPCなので、キーボード用の引き出しはあまり意味がない。それにパソコン用机は、他の一般的な机に比べて少し高かった。そこで普通の勉強机(1900ルピー)を買うことにした。それと一緒にクッションの効いたローラー付きイス(1000ルピー)も買った。後からサイクル・リクシャーで届けてもらった。5階の自宅まで運び入れるのには苦労したが、けっこういい感じで収まったので今のところ満足。

 サロージニー・ナガルから帰るときにバスに乗った。そのバスはサロージニー・ナガルの中を突っ切って南に向かい、リング・ロードを東に向かい、メディカルの交差点を南に向かうルートを通るはずだった。ところが、メディカルに新しくフライ・オーバーが出来たため、その交差点を右折できず、そのままフライ・オーバーを渡って北に行ってしまった。そしてINAマーケットを越えて、サフダルジャング空港のフライオーバーの下をくぐってUターンし、そこから再び南へ向かってメディカルのフライ・オーバーの下をくぐってユスフ・サラーイの方へ向かった。つまりメディカルの交差点にフライオーバーが出来たために、ものすご〜い遠回りをしなくてはいけなくなったみたいだった。まだメディカルのフライ・オーバーは工事をしてるので、将来的には改善されると思うのだが・・・。同じく、サウス・エクステンションから来た車両は左折できないため、同じように一度サフダルジャング空港のフライ・オーバーの下をくぐってUターンしなければならない。その代わり、メディカル付近の交通渋滞は全く解消された。

 夕方からチャーナキャー・シネマに新しい映画「Maine Dil Tujhko Diya」を見に行った。のだが、なぜかいきなりハリウッド映画の「Gladiator」が上映されていた。しかもチャーナキャー・シネマで何らかのイベントが開催されるみたいで、やたらと大勢のインド人が集結していた。しかも、夕食だけでも食べようと思ったのだが、チャーナキャー・シネマ前のチベット料理屋やニルラーズは全て満席だった。非常に理不尽な思いをして帰ることになった。

8月25日(日) ブック・フェア

 8月24日〜9月1日まで、プラガティ・マイダーンでブック・フェアが開催されている。去年の経験からだと、大体1年に2回ぐらいブック・フェアがある。今日は日曜日で混雑していることが予想されたが、どうせなら混んでるときに行った方がいろいろイベントとか開催されてて楽しいかもしれないと思い、プラガティ・マイダーンへ出掛けた。

 今回のブック・フェアは「デリー・ブック・フェア」という名前で、前回開催された「世界ブック・フェア」に比べたら規模は小さかった。しかしそれでも全部見てまわると何時間もかかってしまうくらい多くの店が出展していた。ブック・フェアのいいところは、掘り出し物の本が手に入ることの他、大体10〜20%ぐらい価格がオフになることだ。これを機に大量の本を買い込む人は数知れない。

 やはり日曜日ということもあり、会場は大混雑だった。人気のある本屋はもう満員バスぐらいに混雑していた。ちょっとした広場にはインド人たちが床に腰を下ろしてくつろいでいた。本屋の他、文房具屋や家具屋、その他のグッズなどを売る店もなぜか出展しており、なかなか見ごたえがあった。

 僕もいわゆるひとつの本好きなので、抑制しないと欲しい本をどんどん衝動買いしてしまう。しかし、過去2回のブック・フェアの反省から、今回はよ〜く考えて買い物をすることにした。ブック・フェアで買ったはいいものの、ほとんど開かずに本棚に眠っている本が何冊かあるのだ。しかし本というのは一期一会のもの。見たとき、買えるときに買っておかないと、後から後悔することもある。本当に自分にとって必要な本を厳しく選定して購入する才能を磨かなければならない。

 今回、ブック・フェアをざっと廻ってみて気付いたのは、まず新大統領、アブドゥル・カラムに関する本が多かったことだ。「ミサイル・マン」というそのまんまのタイトルの本もあった。また、「Devdas」のヒットに便乗する形で、原作小説のヒンディー語訳版(オリジナルはベンガリー語)もよく売られていた。言語的には、英語の本、ヒンディー語の本、ウルドゥー語の本が大部分を占めていた。その中から僕が買ったのは・・・

「Delhi City Guide」・・・デリー生活の必需品のひとつ「Eicher Delhi City Map」と同じ系列のデリー観光ガイド。デリー観光局の全面協力を得て作られているみたいで、パラパラっと見てみたところ、今まで見たどのガイドブックよりもデリーの見所について詳しく書かれていた。しかもきれいな写真&絵付きである。また、ポケット・サイズの地図としても使用可能である。この本があれば、これからマイナーなデリーの観光地へ行くことが可能である。

「Devdas」・・・大ヒットを記録した同名映画の原作の訳本。僕が今回見たところ、3種類の「Devdas」があった。その中から意味なく2冊買ってしまった。実は僕は今までヒンディー語の小説を一冊読破したことがない。ちょうどいい機会なので、この「Devdas」を読破し、日本語訳してこのホームページに載せようと画策している。

「Palmistry For All」・・・手相占いの本。インド人の男が女の子をナンパするときによく手相が使われるので、僕もそれを真似して(?)手相を学ぼうと思っていた。インドは手相占い発祥の地。それこそいろんな種類の入門書が出版されているが、その中から分かりやすそうなものを選んで買った。

「Little Known Facts About India」・・・インドの雑学が書かれた小冊子。さらっと読むことができたので、中から面白かったものを下に載せておいた。

知られざるインド
★タージ・マハルの入り口の門に書かれているアラビア語の文字は、下から見て同じ大きさに見えるようになっている。実際は字の大きさは上に行くほど大きい。

★タージ・マハルは実はクトゥブ・ミーナールよりも高い。タージ・マハルが約75m、クトゥブ・ミーナールは約73m。

★クトゥブ・ミーナールの近くに立っている鉄柱は1600年前に造られたものながら非常に頑丈にできている。1739年にデリーに侵略してきたナディール・シャーが大砲で破壊しようとしたのだが、表面がへこんだだけでびくともしなかったそうだ。

★インドにも中国の万里の長城に負けない長城が存在する。それはメーワール王ラーナー・クンバーによって造られ、アラヴァリ山脈を縫うように40Kmに渡って続いており、34の砦を持っている。

★1920年代、ジョードプルで大きな旱魃があった。時のマハーラージャ、ウメイド・スィンは民に食料を配ろうとしたが、誇り高いメーワールの農民たちは施しを受けることを拒否し、代わりに仕事をくれるように頼んだ。そのため、ウメイド・スィンは農民たちに宮殿建設の職を与え、ウメイド・バヴァンが造られたのだった。

★タミル・ナードゥ州のアイルーラという部族は蛇を一本のフックだけで捕まえ、生きたまま皮を剥ぎ、それを売って何世紀も生計を立ててきた。現在彼らのその特技は、蛇から毒液を抽出するのに活用されている。蛇の毒液は医療に使用される。

★ラージャスターンにあるカルニーデーヴィー寺院では、ネズミが神の化身として崇拝されている。信者はネズミをネズミと見ておらず、マルワーリー語で「子供」という意味の「カバス」と呼んでいる。
 数え切れないほど寺院に住んでいるネズミの中で、白いネズミを見ることができれば吉祥の印と考えられている。信者は白いネズミを見つけるまで、何度も何度も寺院へ参拝する。祈りの時間には信者たちの信心深さがよく分かる。朝夕行われるアールティーの後、ネズミたちはプラサードに群がる。ネズミたちが少しそれを食べた後、プラサードは信者たちに分け与えられる。彼らは何の躊躇もなくそれを受け取る。

★1ルピー札にだけ「インド政府(Goverment of India)」という記述がある。他の札には「Reserve Bank of India」とプリントされている。

★ポルトガル人は新大陸で多くの食用植物を発見し、インドに持ち込んだ。ポテト、キャベツ、タバコ、トマト、カシュー、パイナップル、パパイヤ、グァバ、パン、ビスケットなどである。特にグリーン・チリ、レッド・チリはインド料理に革命を起こした。

★カッチのラン砂漠にのみ生息するクールと呼ばれる野生のロバは、馬よりも速く走ることができる。

★ジャイプルにはジャンタル・マンタルという250年前にサワーイ・ジャイ・スィンによって建てられた天文台がある。今でも毎年インド中から天文学者が集まって、ジャンタル・マンタルの器具を使ってその年の暦を決定している。

★グジャラート州のスィッディーという部族は、アラブ商人によってインドに連れてこられたアフリカ人奴隷の末裔である。彼らの中には、持ち前の正直さと勇気をもってして高い地位を獲得した者もいる。ジャンジラの王はスィッディーだった。スィッディーはソマリ語の方言をしゃべる。

★インドにコーヒーを伝えたのは、バーバー・ブデーンというムスリムの聖者である。彼はアラビアからインドへやって来て、カルナータカ州のチックマガルルという山間の国に住み着いた。彼は少量のコーヒーの種を持参しており、最初は自分のために使っていたのだが、やがてインド中にその習慣は広まった。

★フマユーンをデリーから追放したシェール・シャー・スルは1542年に178グラムの銀でコインを鋳造した。彼がそのコインを見たとき、「ルパイヤー(美しい、という意味)」と声を上げた。それが今のインドのお金の単位「ルピー」の起源となった。

★インドの他の地域と違い、ウッタル・プラデーシュ州のウッタルカンド地方では、ほら貝の音は祭りの始まりを告げるものではない。それは隣の村で誰かが死んだという合図であり、もしほら貝の音を聞いたら、人々は葬式に参加するだけでなく、火葬のための木を少し持っていかなければならない。

★1911年、全員裸足でプレイしていたインド人サッカー・チームが、白人のサッカー・チームを負かしたことがある。

★ラクナウーにあるイマームバラーは、モハッラムを祝うために造られた宗教的な建物である。内部は部屋と廊下が入り組んだ迷宮になっている。この建物は深刻な飢饉のときに造られた。民に職を与えるため、ナワーブの命令により、昼間造られ、夜破壊されたのだった。

★シャー・ジャハーンはタージ・マハル内部にあるムムターズの墓の周りに、金で出来た仕切りを作って置いた。しかし後になって盗難に遭うことを恐れ、大理石製の美しい仕切りに置き換えられた。しかしこの大理石製の仕切りは息子のアウラングセーブ帝によって売却され、代わりにさらにシンプルな大理石製の仕切りが置かれた。これは今でも現存している。

★インドで一人当たりのアイスクリーム消費量がもっとも多いのはアーマダーバードである。

★ティルパティ寺院では髪の毛供養が行われている。寺院にはただで髪を切ってくれる床屋がたくさん並んでいる。普通、願い事が適ったときに髪の毛が供養される。それらの髪は集められ、きれいにされてオークションで売られる。年間の売り上げは4000万ルピー以上らしい。

★グジャラート州のバーヴナガルの駅では、インドで唯一女性のポーターが働いている。その土地の王が男性のポーターを自分の宮殿で働かせるため全員雇ってしまったため、彼らの妻たちが代わりに駅でポーターをするようになり、今でもその習慣が残っているのだ。

★オリッサ州のカッタックの警察署では、今でも伝書鳩が使われている。そこでは約1000羽の鳩が飼育されており、メッセージを各地の交番へ届けるための訓練が行われている。なぜならその土地は山がちな地形なためだ。鳩はメッセージの入った小さいカプセルを足に結んで飛び、返事と共にまた帰ってくる。

★4月の満月の日には、インド最南端の地カンニャークマーリーで、月の出と日の入りが同時に起こる風景を見ることができる。

★マウラナー・アブドゥル・カラム・アーザードにバーラト・ラトナ賞が授けられたとき、その勲章は式典が行われていた大統領官邸に届かずに、カルカッタに住んでいるマウラナーの甥に届けられた。

★ニルギリ地方に住むトダ族は、クリンジという花で自分の年齢を数える。その花は12年に1回咲く。前回咲いたのは1992年。

★ジョジャバはもともとメキシコに自生していた低潅木だ。1980年代にラージャスターン州とグジャラート州の下層土に含まれる塩を吸い上げるために広く植林された。葉から抽出される油は香水になった。だが今、科学者たちはさらに有効な使い道を考え出した。ジョジャバの油はミサイルを作るための鯨油の完璧な代用品となるのだ。

★鍼治療は3000年前のインドで発明され、中国で完成された。

★1200年前、拝火教徒がイランから持ち込んできた聖なる火は、現在グジャラート州のウドワダで燃えている。

★ヒマーチャル・プラデーシュ州、クッルーの近くにあるビジュリー・マハーデーヴ寺院はほぼ毎年落雷を受けている。高さ18mのその寺院は、セメントや石膏を一切使わず、石だけで出来ている。

★ケーララ州の金属製鏡はユニークである。それはガラスではなくスズと銅の合金で出来ており、ベルギーのガラスよりもよく反射する。この500年の歴史を持つ芸術は現在アランムッラの一家族4人によって受け継がれているだけである。

★グジャラート州カッチの近くのヴェルヌ村の村民は、250年前、首長がダコイトの襲撃から村を守るために死んだときからずっと喪に服している。彼らは祭りを一切祝わない。結婚式のときでさえ、村に一歩入ったら一切音楽を演奏しない。

★インドラプラスタ、キラー・ラーイ・ピトーラー、スィリー、トゥグラカーバード、アディラーバード、フェローザーバード、ディンパナー、シャージャハナーバード。これらはデリーがニューデリーと呼ばれるまでに付けられた名前の数々である。

★マジュリーはアッサム州のブラフマプトラ河の中にある、世界最大の川中島である。しかし毎年河の増水によって消滅の危機にさらされている。ところが、このような災難に巻き込まれることを承知で、その島に住み続ける人々がいるから不思議である。

★ロケットが初めて使用されたのは、1780年マイソールのティープー・スルターンがイギリス軍と戦ったときである。そのロケットは竹の棒の先に結び付けられた鉄製のもので、射程距離は3Kmしかなかった。その後、ロケットは兵器の仲間に加わった。

★ラージャスターン州の諸侯たちはホーリーのときにクムクムで遊んだ。クムクムとはグラールと呼ばれる赤い粉の詰まったボールで、投げるとはじけて、周りに赤い粉を撒き散らす仕掛けになっていた。現在クムクムは糞と泥の混合物で作られている。

 文房具屋のセクションでは、やはりアルチーズが人気があった。僕は「Devdas」グッズが欲しかったのだが、あまりに混雑していて買うことができなかった。また、別の店でかっこいいメモ帳を見つけて、買おうと思ったのだが、その店は卸屋オンリーで、個人には売ってくれなかった。

 文房具の他にもいろいろ新製品のプロモーションなどが行われていたのだが、一番驚いたのは、エレクトリック・タンドゥールである。タンドゥールとはムガル料理やパンジャーブ料理を作るのに使われる釜で、ナーン、タンドゥーリー・チキン、ティッカ、カバーブなどを作ることができる。その電熱版が登場したのだ。タンドゥール・ローティー、パラーター、パニール・クルチャー、ピザ、ナーン、パニール/チキン/フィシュ・ティッカ、スィーク・カバーブなどが作れるらしい。もしかして去年からあったかもしれないが、今回目に留まって写真まで撮らせてもらったので一応紹介しておく。値段は聞かなかった。




手前にある黒い箱が
エレクトリック・タンドゥール


8月26日(月) ムニルカー・ショッピング

 学校が終わった後、ムニルカーに買い物に行った。ムニルカーのマーケットは南デリー最大の家具市場として有名だ。以前僕はここで棚を買ったことがある。他の地域で売られている家具と質・値段を厳密に比べたことはないが、一応定説ではここが一番安いということになっている。

 ムニルカーの家具市場はアウター・リング・ロード沿いに家具屋がズラ〜っと並んでいるのですぐ分かる。僕の目的の品はシングル・ベッドだった。一昨日勉強机とイスをサロージニー・ナガルで買ったばかりだったので、そこで買ったものよりも安くていいものが売られているかもしれない・・・という嫌な予感もしたのだが、好奇心の方が強かったので一応ベッドと一緒に机を見たり値段を聞いたりしながら各店舗を冷やかしてまわった。

 まず机であるが、やはりデスクトップ・パソコン用机がたくさん売られていた。去年来たときはこういう種類の机はなかったと思う。インドの家具職人たちも時代のニーズに従って進化しているようだ。僕が買ったのと似たような机があったので怖いもの見たさで値段を聞いてみたが、僕の買った机の2倍くらいした。木の材質や引き出しの数、頑丈さや仕上げの仕方など、いろいろと値段決定要因はあるので一概に言えないのだが、とりあえずサロージニー・ナガルで買った机には満足。ちなみにパソコン用デスクはサロージニー・ナガルの市場とほぼ同じだった。

 ところがローラー付きイスはムニルカーの方がいいのを売っていた。僕が買ったイスは高さを調節するのに手動でネジを回さなければならないのだが、ガス圧式の同じ形のイスが、ほとんど同じ値段で売られていた。こちらはちょっと損した気分。手動調節のローラー付きイスだったら、700〜800ルピーほどで売られていた。

 さて、目当てのシングル・ベッドだが、ムニルカーには2つの種類のベッドが見受けられた。ひとつは底の厚いタイプのベッドで、板の下がボックスになっており、荷物を収納することができる。もうひとつはボックスが付いていないシンプルなもので、下が空洞になっている。僕の部屋は日本式に言って5階にあり、ボックス付きベッドを上まで持ってくるのは大変だと思ったので、自然にボックスなしのベッドを買うことに決めた。だいたい言い値は800ルピーだが、少し話せば750ルピーまで下がる。さらに交渉し続けたら720ルピーまで下げてくれた。ガウタム・ナガルまで荷運びサイクル・リクシャーが80ルピーで運んでくれたので、結局合計800ルピーになった。

 ムニルカーのムニルカーたるところは、家具を売っているそばで職人たちが家具を一生懸命作っていることだ。気に入った家具を見つけて店の人を呼ぶと、奥の方で板を切っていた兄ちゃんが「なんだい?」と言って汗を拭きながら出てくる、といった感じだ。もちろんオーダー・メイドも可能であるし、既製品でも気に入らないところがあったらすぐに直してもらえる。




ある家具屋の工房


 家具を買った後、ムニルカーにある南インド料理レストラン、ウドゥピへ行った。昔ユスフ・サラーイに支店があったのだが、今年に入って潰れてしまった。だから久しぶりにウドゥピの料理を味わったことになる。バター・マサーラー・ドーサーを食べたのだが、ユスフ・サラーイにある同じく南インド料理レストランのカルナータカよりもおいしかった。昔はよくウドゥピに行っていたので、顔馴染みの店員もおり、ここで働いていないかと探してみたがいなかった。

8月27日(火) 小説「Devdas」

 一昨日ブック・フェアで買ってきた「Devdas」の小説を翻訳しつつ読み始めた。原作はベンガリー語で書かれているので、本当はベンガリー語版を読むべきなのだが、僕はベンガリー語ができないのでヒンディー語訳版を読むしかない。

 最初、2種類買ってきた「Devdas」ヒンディー語版のうちの1冊を選んで、それを底本にして訳していた。パラパラっとめくってみたところ、そちらの方が簡単なヒンディー語で書かれていたからだ。だが、だんだん訳しているうちに、そちらの方は所々で省略してあるところが多いことに気付いた。しかも、訳が稚拙で、言語の文脈の筋が通っていないところもあった。一方、もう片方の本は、やたらと難解なヒンディー語で書かれているものの、原本に忠実に訳してあるみたいで、筋も通っていた。しかし、固有名詞の表記は、前者の本がヒンディー語的、後者がベンガリー語的だった。例えばデーヴダースの名字はヒンディー語読みでは「ムカルジー」、ベンガリー語読みでは「ムコパディヤイ」になるし、パールヴァティーの呼び名はヒンディー語読みでは「パーロー」、ベンガリー語読みでは「パットー」になるみたいだ。個人的はヒンディー語読みの方が馴染みがある。そこで、途中から後者の方を底本にすることにしつつ、固有名詞の表記は前者のものにすることに決めた。

 まだ16章ある内の第3章までしか訳していないが、なんとなく冒頭部分は「トムソーヤの冒険」に似ているように感じた。サンジャイ・リーラー・バンサーリーの映画「Devdas」は、デーヴダースがロンドン留学から帰ってくるところから始まったが、原作ではデーヴダースとパールヴァティーの子供時代から描かれている。デーヴダースは俗に言う不良少年で、パールヴァティーはデーヴダースのことをいつも心配し、思いやっている女の子だ。農村での2人ののびのびとした暮らしぶりが生き生きと描かれていて、インドの田舎の情景が自然と浮かんでくる。これから後どうなるか自分でも楽しみなので、現在急ピッチで読んでいる。

8月28日(水) ファブ・インディア

 8月に入ってからだんだんと部屋の模様替えを行っている。勉強机とイスを買ったし、ベッドも買った。その次はベッド・シーツを買うことにした。今まで持っていた真っ白いベッド・シーツは、日本に帰るときに埃よけに使用してしまったため、再生不可能なくらい汚れてしまったのだった。だから前々からベッド・シーツを買おうと思っていたのだった。

 ベッド・シーツははっきり言ってどこでも買うことができるのだが、ここはちょっと生意気して、ファブ・インディアで買うことにした。ファブ・インディアはムンバイーに本店がある有名な衣料総合店で、学校のすぐ近く、G.K.1のNブロック・マーケットにある。最近ヴァサント・クンジの方にも新店舗ができた。いかにもインドっぽいデザインと、良質な布で出来ていて、外国人にも人気が高い。

 ファブ・インディアへ行く前に、同じくNブロック・マーケットにある日本料理レストラン「都」へ友人たちと連れ立って行ってみた。デリーには日本料理レストランが数軒あるのだが(勘違い日本料理レストランはもっと多いが・・・)、あまりに高いため、僕は今までどこにも行ったことがなかった。

 都の内装ははっきり言って日本っぽさのカケラもない。しかし店員はハッピのような服を着ており、チャウキーダール(警備員)は「コンニチワ」と挨拶してくる。ちゃんと日本語メニューも用意されており、ざっと見たところ誤植などは見当たらなかった。大体どれも150ルピー〜250ルピーぐらいで、高級レストランの部類に入る。僕たちは親子丼、豚ラーメン、カツ丼、うどん、すき焼きを注文した。

 まあここはインドなので、誰も日本料理が出てくることを期待していなかった。インド風日本料理が出てくればいい方で、下手すると日本風インド料理になる。怖いもの見たさ半分で注文したといっても過言ではない。ところが、出て来た料理は案外まともな外見、まともな味だった。全体的に味付けが甘かったような気もするが、許せる範囲。唯一、うどんだけは突っ込みどころがあった。「これはソバじゃね〜か!」という・・・。でも、どれもインドにしてはかなり頑張っていた。やるな、都・・・。

 さて、腹ごしらえをした後は、早速ファブ・インディアへ行った。ファブ・インディアはNブロック・マーケットに並んでいる店舗の半分くらいの面積を占めているくらい大きい。ジャンルごとに建物が異なるので、けっこう不便ではある。ベッド・シーツや枕カバーを売っているところへ行って、いろいろ物色した。最初、割と落ち着いた柄&デザインのものを中心に選んでいたのだが、友人に「古臭い」と言われたので、怒って派手な色のベッド・シーツを買うことに決めた。緑、青、黄色、オレンジなどのベッド・シーツと枕カバーを取り出して並べ、いろいろ比べてみた。どうせならシーツと枕カバーの色を合わせたかった。僕はシングル・ベッドのシーツを探していたのだが、なんとなくダブル・ベッド用のシーツの方がいいのがあった。しかし買うときに買っておかねば、ということで、遂に明るい緑色のベッド・シーツ(290ルピー)と枕カバー(75ルピー)を買った。このシーツの上に寝れば、まるで草原の上で寝ているようなすがすがしい気分になれるだろう。ついでにファブ・インディアの衣服部門でクルター・パジャーマーも1着買った。

 家に帰って、早速マットレスにベッド・シーツを敷いてみた。・・・う〜ん、なんか部屋の一部が異様に目立つようになってしまった。これに合わせて急に部屋の他のインテリアも明るい色にしたくなって来た。物欲を刺激する色である。夜になって寝てみたが、特に草原で走り回るような夢は見なかった。

8月29日(木) イリヂウム・デビュー

 朝から弱い雨が降っていた。最近専ら朝はオート・リクシャーで登校している。雨が降ったときはもちろんだが、晴れてる日でもオートだ。もしバスで行こうと思ったら、サウス・エクステンションまで歩いていかなければならないので、9時半ぐらいに家を出なければならない。オートで行くなら10時過ぎに家を出ても十分間に合う。この30分の違いが、朝には大きく感じる。ちなみにオートだとガウタム・ナガルからカイラーシュ・コロニーまで25ルピーかかる。バスだと、今まで5ルピーだと思っていたが、どうも2ルピーで行けるみたいだ。毎日オートで行ってバスで帰ってくるとすると、1ヶ月約600ルピーかかることになる。・・・今までオートで登校するなんてリッチな行為だと思っていたが、案外安いかもしれない。

 新サンスターンに移ってから、毎日昼食に困っている。まだ昼食後の授業が始まっていないので、差し迫った問題にはなっていないのが幸いだが、やがては大きな問題となるだろう。一応カイラーシュ・コロニーのマーケットにいくつかレストランはあるのだが、どれも高いので毎日行くにはちとつらい。サンスターンの前にはナショナル・オープン・スクールという学校があり、そこの食堂から出前してもらえる、という話もあったのだが、食事運び係が頭の悪い奴で、毎日30分以上待たされる上に必ず何かが足りなくてさらに待ったりして、しかも金の勘定ができないのか、わざと金を多くとろうとしてるのか、もうとにかく非常にストレスが溜まる。そして遂に先日ちょっといざこざがあり、それにいじけたのか、それ以来サンスターンには来なくなってしまった。一応食べ物はおいしかったのだが、僕だって毎昼イライラするのはゴメンだから別に構わない。

 そこでカイラーシュ・コロニーのマーケットで安くておいしい食堂を探すことにした。ほとんど行き尽くした感はあったのだが、マーケットから少し離れたところにひとついい感じの雰囲気の食堂を発見した。名前は「Kim Fa」。チャイニーズ、マレーシアン、タイ料理を出すらしい。値段は大体50〜100ルピー、肉類を注文すると100ルピー以上になるので、カイラーシュ・コロニーの他のレストランと同じくらいのレベルだったが、何しろタイ料理である。ちょっと食べてみることにした。

 僕はタイ・カレーを食べ、そのとき一緒にいた友達はミー・ゴレンやモモなどを食べた。モモはちょいと小粒で数が少ないように感じたが、少なくとも僕の食べたタイ・カレーはなかなか本格的な味だった。店の女主人に話を聞いてみると、コールカーターから来た中国人系の人で、タイにも親戚がたくさん親戚がおり、食材は全部そこから直輸入しているそうだ。そういえばこの前行った高級中華料理店インペリアル・ガーデンもコールカーターから来た中国人が経営していた。だんだんデリーに進出して来ているのだろうか?



 PVRアヌパム4に近くにイリヂウムというバー&レストランが新しくできた。聞くところによると、半ズボンでは中に入れないくらいの高級店らしい。窓がないので中が覗けず、嫌が上でも高級感が漂う。そのイリヂウムに今日友達と行ってみることにした。もちろんジーンズにジャケットという正装で。ジーンズの尻部分には、ラダック旅行のときにいつの間にかできた小さな穴が開いていたので、ちょっと恥ずかしかったのだが・・・まあばれないだろうと開き直って行った。

 まず8時半頃に一回入店を試みたのだが、どこかの学校のパーティーが開かれており、一般客は入れなかった。そのパーティーが終わるまで、映画館で「Eight Legs Freaks」というハリウッド映画を見た。巨大クモの集団が人間を襲う、という話で、ホラー・コメディーっぽかった。B級ハリウッド映画の域を出ない、馬鹿馬鹿しい娯楽映画だった。

 映画が終わった後、再びイリヂウムへ向かった。今度はすんなり入店できて、バー・カウンターに案内された。とりあえず1杯180ルピーするイリヂウム特製カクテルを注文。・・・よく考えてみたら日本の飲み屋で飲むのとそう変わらない値段ではないか。店内はまあまあ洒落た空間を醸し出しており、一角に小さなダンス・フロアと、DJ用ブース、そしてカラオケ用(?)の小さな小さなステージが申し訳程度にあった。店内にあまり人はいなくて、寂しい雰囲気だった。バー・カウンターの中を覗いてみると、下にダンボールが転がっていたりしてお世辞にもきれいとは言えなかった。店員の服装もやたら手作り感が出ており、ちょっと細かい部分で手抜きしているように感じた。努力してるのは分かるのだが、イマイチだ。1杯飲んだだけで店を出た。

 夜12時を過ぎると、さすがのサーケートでももうほとんどの店は閉店してしまい、やることがなくなる。人影もまばらとなり、目立つのは犬影のみ・・・。今日は馬鹿馬鹿しいことに散財してしまったことを反省し、虚しい気分のまま家に帰った。

8月30日(金) Chor Machaaye Shor

 今日はジャナマーシュトミー(クリシュナの誕生日)のため学校は休みだった。ジャナマーシュトミーは本当は明日なのだが、なぜかその前日も休みになるみたいだ。サンスターンだけでなく他の大学も休みになってたみたいなので、一般的なことらしい。てっきりサンスターンの教師が休みが欲しいから勝手に休日にしてるかと思ってた。

 今日は暇に任せて馬鹿馬鹿しい映画を見てしまった。本当は本日より公開の個人的に話題作「Agnivarsha」をPVRアヌパム4へ見に行ったのだが、他のインド人にとっても話題作だったみたいで、チケットは売り切れだった。そこで同じく本日より封切られた「Chor Machaaye Shor(泥棒が大声をあげる)」を見ることにした。主演はボビー・デーオール、シルパー・シェッティー、そしてビパーシャー・バスである。




左からシルパー・シェッティー、
ボビー・デーオール、
ビパーシャー・バス


Chor Machaaye Shor
 泥棒のシャーム(ボビー・デーオール)は3億ルピー相当のダイヤモンドを仲間のティトー、トニー、ジョニーと共に盗み出し、彼らを裏切って1人で逃走した。しかし警察から逃げ切れないことが分かると、建設中の建物の通気口にダイヤモンドを隠し、逮捕された。シャームは2年間服役し、娑婆に戻ってくる。

 早速ダイヤモンドを隠した場所へ行ってみるが、その建物はなんと警察署になっていた。シャームは警察の制服を着、付け髭を付けて警察署に侵入するが、そのときちょうど銃を奪って逃走した犯人を捕らえるという手柄を立てる。シャームはラームと名乗り、今日配属されてきた警官であると言い繕ってなんとか信用される。

 警察官ラームとなってしまったシャームは、幸か不幸かとんとん拍子に手柄を立てて、署長の信頼を得る。また、ランジーター警部(ビパーシャー・バス)も彼に思いを寄せるようになる。しかしジョニーが逮捕されたことにより、2年前ダイヤモンドを奪った泥棒シャームであることがばれそうになる。彼はシャームは自分の弟であるとさらに嘘をつきごまかすが、署長はシャームを改心させるから会わせろ、と余計なお世話を焼き出す。シャームは付け髭を外して署長に会うが、署長は彼を自分のドライバーとして雇うことに決めてしまう。それからというものの、付け髭をつけ、制服を着た警察官ラームと、付け髭を外したシャームの二重生活が始まった。また、署長の娘カージャル(シルパー・シェッティー)がシャームに恋をしてしまう。

 シャームは署長の目を盗んでダイヤモンドを探すがなかなか見つからない。その内ティトー、トニーもシャームを見つけて警察署の中にチャーイ屋に変装してやってくるわ、逮捕されていたジョニーが脱走するわで、何度もラームがシャームであることがばれそうになるのだが、その都度適当にごまかしていた。

 やっとシャームはダイヤモンドを発見するが、その後はシャーム、ティトー、トニー、ジョニーたちのダイヤモンド取り合い合戦となる。そしてラームとシャームが同一人物であることも遂に署長にばれてしまう。しかし最後にそのダイヤモンド争奪戦を制するのはシャームで、カージャルと一緒に海外へ旅立つのだった。

 どんな映画かと思ったら、ストーリーよりもギャグが優先されるコメディー映画だった。無理あり過ぎの強引なストーリー、脈絡なく挿入される変なミュージカル・シーン、人類の限界を超越したアクション・シーン、あまり解決になってないエンディング・・・もういい。細かいことは気にしない。十分に苦笑にしろ、呆れ笑いにしろ、何らかの形で笑わせてもらっただけで僕は満足だった。しかしPVRで150ルピーを払ってまで見る映画じゃなかった。テレビで見れば十分だ。映像もなぜかあまり鮮明じゃなかったし。

 インド映画には伝統的にダブル・ロールの手法がよく使われる。この映画もダブル・ロールのオンパレードで、それで笑いをとっていたようなもんなのだが、なにしろ脚本がお粗末なので陳腐な笑いで終わっていた。脇役を固める優れたコメディー俳優のおかげで、なんとかコメディー映画としての体裁は保っていたが。もっと丁寧に作ればなんとか見れる作品になったような気もしないではないのに・・・。何となく、まるで何かのノルマを達成するために機械的に作られた映画のような雰囲気すらあった。儲けることを目的とするでもなし、評論家から評価されることを目的とするでもなし、何のために作られたのか理解しかねた。

 僕のお気に入りの女優ビパーシャー・バスが出ていたことが、この映画を見る気になったひとつの要因だったのだが、彼女の役は何が何だかよく分からないおかしな役だった。一応ラーム警部に恋をする女警察官なのだが、どうして恋に落ちたかがほとんど描かれておらず、恋に落ちたはずなのに全然恋する乙女っぽい役柄でもないし、ラームがシャームであることが分かってからは何の説明もなしにスクリーンから姿が消えてしまっていた。ビパーシャーはデビュー以来「Ajnabee」「Raaz」とヒット作を連発していたのだが、ここに来て遂に駄作に出演してしまったようだ。お願いだから作品をよく選んで出演してもらいたい。

 音楽はアヌー・マリク。彼も僕のお気に入りだったのだが、この映画の音楽に彼の才能の一片も見当たらなかった。踊りも変だったので、苦笑するしかなかった。ただ、シルパー・シェッティーはけっこう踊りがうまいと思った。それにしてもボビー・デーオールはいつからコメディー路線になったのだ・・・?

8月31日(土) ジャナマーシュトミー

 今日はクリシュナの誕生日ジャナマーシュトミーである。1、2週間前にラクシャー・バンダンがあったので、ここのところ祭りだらけだ。思い起こせば、インド留学の思い出は去年のジャナマーシュトミー辺りから始まっている。何も分からないまま単身デリーに飛び込んできて、ガウタム・ナガルに住居を早々と決め、デリー生活になんとか慣れようと頑張っていた時期にジャナマーシュトミーがあった(インドの祭りは太陰暦によって決定されるので、毎年日付が異なる)。だから、今年のジャナマーシュトミーは個人的にインド滞在1周年を記念する祭りだった。

 ガウタム・ナガルは他の地域と比べて、どうも祭りを盛大に行う地域なので、祭りの日は楽しい。僕の家の近くにある寺院近辺は数日前から飾り付けがされていて、子供たちもどこかしらいつもより興奮気味だ。ジャナマーシュトミーのときには数人の子供がクリシュナやシヴァなどに仮装するので、顔見知りの子供から「絶対に見に来てよ」と言われたりしていた。

 また、それぞれの家の軒先には、クリシュナの神話を中心としたジオラマが作られる。小さな人形が市場で売られているので、それを買って来て並べ、飾り付ける。ジオラマの中にはお金を入れる皿が置かれており、どうも通行人は、よくできたジオラマにお金を入れなければならないようだ。それも子供にとっては楽しみのひとつなのだろう。

 祭りは日が落ち、夜になってから次第に盛大になって来る。クリシュナが真夜中に生まれたことと関係しているかもしれない。寺院の周りには自然と人が集まってきて、仮装した子供たちが台の上に座って得意気にしている。寺院の中では神を讃えるバジャンが、少しは名のある音楽家と見られる人のよって歌われており、その歌声はスピーカーを通り、大音響となって近所に響き渡る。うちの近くの寺院では、あまり他の地域では見られないことがされる。去年もあったのだが、地面に氷の板が数メートルに渡って敷かれ、その上をキャアキャア言いながら歩く、という苦行兼遊びが行われるのだ。はっきり言ってこれも子供たちのお楽しみのひとつになっている。ガウタム・ナガルだけでも数箇所ジャナマーシュトミーが祝われているのだが、このようなことが行われているのは、うちの近くの寺院だけだった。




ユスフ・サラーイの寺院


 おそらく真夜中になると祭りは佳境を迎えるのだが、僕はもう去年見たので、子供たちの仮装をいくつか写真に収めただけで家に帰った。家でパソコンをやっていると、夜中にシャームーが来て寺院からプラサードを持って来てくれた。バナナと甘い粉の山だった。そういえばシャームーという名前もクリシュナのことだ。






クリシュナ? 誰の仮装だかよく分からん




―結護編 終了―

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