スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

温故編

装飾下

【11月16日〜11月30日】

11月16日(土) ビームベートカー/ボージプル

 昨夜11時、デリーのハズラト・ニザームッディーン駅を発車した2156ボーパール・エクスプレスは、順調に遅れて朝10時過ぎにマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールへ到着した。今回の旅行は11月19日のグル・ナーナク・ジャヤンティー(スィク教の開祖の誕生日)の祝日を利用したもので、6泊4日という日程だ。つまり、夜行で行って夜行で帰る、4日間の旅行である。

 ボーパールはかつて一度訪れたことがある。忘れもしない1999年春、ホーリーの日、僕はサーンチーから鈍行列車に乗ってボーパールへやって来たのだった。そのときは初インド初ホーリーで、ボーパール市内を支配する全身色だらけの暴徒たちにかなり恐れをなしたものだ。ボーパール駅は3年前と変わっておらず、あのときの思い出が少し思い出された。

 ボーパール駅に西側には、ハミーディヤー・ロードという安宿街がある。そこのランジート・ホテルに泊まることにした。シングル・ルーム180ルピー。チェック・インした後、すぐにホテルを出た。

 今日のスケジュールはとにかくビームベートカーへ行くこと。ビームベートカーはボーパールの南東47Kmに位置し、1万年以上前の原始人たちの描いた壁画が残っているという、男のロマンをそそる土地である(女はこういうの好きか知らない)。どうやって行ったらいいか、詳しい情報を知りたかったので、まずは駅のツーリスト・オフィスへ。しかしここのオフィサーはやる気がない上にぼったくりで、ビームベートカーまでタクシーをチャーターしたら往復850ルピーになると言われた。そこで外でたむろしているオート・ワーラーに聞いてみたら、300ルピーかかると言う。リクシャーで行って途中でエンスト起こして立ち往生・・・みたいな最悪の図も脳裏に浮かんできたが、300ルピーで行けるなら安いもんである。白いトルコ帽をかぶったムスリムのオート・ワーラーに連れて行ってもらうことにした。

 ムスリムのオート・ワーラーを選んだのは別に深い意味はなかったが、彼と話していたらある重大なことに気が付いた。そういえば今はラマダーン月である。ムスリムは日中断食を行っている。そのオート・ワーラーももちろん断食を行っており、朝から何も飲み食いしていないと言う。「ラムザーン(インドではラマダーンをラムザーンと言う)のときはウソはつかない」と言っていたが、早速トラブル。「ボージプルまで往復300ルピーだ」と言い始めた。ボージプルはビームベートカーへ行く道の途中にある観光地で、帰りに寄ろうと思っていたのだが、そこまでしか行かないと言うのでは話が違う。しかもそいつはビームベートカーまでの道を知らないと言う。「ビームベートカーまで往復300ルピーだ、でなきゃ駅に戻れ!」とインド人並みに声を荒げて口論をし、とにかくビームベートカーまで行って、どれだけ遠いか確かめることにした。

 ボーパール〜ホーシャンガーバード間の道をひたすら直進し、途中にあるオバイドゥッラ・ガンジという町を越えたところに、「ビームベートカーはこちら、あと3Km」の看板がある。その看板に従って側道に入り、丘の上まで続く細い道をリクシャーでひいこら言いながら上がっていく。丘は黒っぽい岩石で覆われており、所々には、薄っぺらい板状の岩が何層にも積み重なった奇岩が転がっている。丘の周辺はもう鬱蒼としたジャングルである。

 オート・リクシャーのギアを1段に入れないと登れないような道を登りきると、そこには小さな駐車場とビームベートカーへの入り口がある。まだあまり有名な観光地でもないので、訪れる人は多くないようだ。入場料は必要ない。ただ、訪れるのが大変なだけである。

 丘の上には10m以上ある奇岩が森の中にいくつも立ち並んでいた。奇岩の下腹部は洞窟やシェルターのようになっており、いかにも原始人が住んでいそうである。もともとこの辺りはヒマーラヤ山脈と同じく海底にあったのだが、地殻変動によって隆起し、丘になったのだと言う。これら奇妙な形の岩だけでも、観光客を呼び込めるのではないかというぐらいだ。




洞穴


 しかしビームベートカーの見所は奇岩程度ではない。その奇岩群の至るところに描かれた、大昔の絵で有名なのだ。最初自分でフラフラ歩いていたときには、どこに絵が描いてあるのかよく分からなかったが、後から来た団体客についていって、ガイドの説明を受けたら、壁画を発見することができた。動物や人の絵が赤い塗料で描かれていた。なるほど、これが噂の壁画か・・・でも、これだけ?と思ったのも束の間、順路に沿って歩いていくと、もう数え切れないほどの壁画を見つけることができた。特にズー・ロックと呼ばれる石の壁画は圧巻。その名の通り、まるで動物園のように多くの動物の絵が集中的に描かれており、感動物だった。また、非常に保存状態のいい壁画もいくつかあった。聞くところによると、ビームベートカー周辺で150の壁画が発見されているらしい。




約5000年前の壁画。


 1万年前の壁画も確かにあったが、ここには長い間ずっと人が住んでいたようで、5000年前の壁画もあれば、紀元後に描かれた壁画もあった。まるでそれぞれの時代の人々が競い合うように描いてきたみたいだ。もちろん、心無い人によって描かれた20世紀〜21世紀の壁画もあったが・・・。




約1万年前の壁画


 主題は狩りの描写が圧倒的に多い。象、鹿、孔雀、牛、虎、ライオン、馬、ブタなどなど、多くの動物が描かれており、それと同時に狩りをする人間の絵が動物の間を動き回っていた。その他、踊りを踊っている絵や、花の絵、戦争の絵などもあった。全て自然から取った絵の具で描かれている。壁画の隅には、考古学研究の便宜のために、それぞれ番号がペンキで記されているのだが、不思議なことにペンキの塗料はすぐに剥がれ落ちてしまうにも関わらず、数千年前の壁画の塗料はずっと残っているそうだ。修正は一切加えられていないと言っていた。




原始人の王を描いた絵


 壁画を見て廻っている内に、僕はある抑えがたい欲求に駆られた――自分だけの壁画を見つけてやろうじゃないか!――既に発見された壁画には、上記のように番号が振られている。だが、どこかにまだ発見されておらず、かつ美しい壁画があるはずだ。僕は一般公開されている壁画を一通り見て廻った後、順路を外れて森の中へ足を踏み込んだ。立入禁止区域があって、「これは怪しい」と思ったので、そこへ行ってみることにした。周りには特に誰もいなかった。

 立入禁止区域を歩いて行く。しかしなぜ立入禁止なのか?もしかして危険なのだろうか?虎や大蛇がいたりして・・・と思いつつ歩いていくと、そこにも立派な奇岩がそびえたっていた。しかもその奇岩はまるで椅子のような形をしている。ビームベートカーとは「ビームの椅子」という意味である。ビームとは「マハーバーラタ」に出てくる怪力を持った英雄の名で、とにかく巨人だったらしい。ビームは他の兄弟と共に14年間森を放浪するが、そのときに住んでいたのがこのビームベートカーだと言われている。僕が発見したその岩が、まさに巨人ビームが座るのにちょうどよさそうな岩だった。なぜ、これを一般公開しないのだろう、と思ったが、その岩の裏を見てみたら寺院になっており、そこには一般人が余裕で来ていた。この岩の周辺にも多くの壁画が残されていた。だが、もう発見し尽くされているようで、壁画のそばには必ず番号が書かれていた。もう終いには諦めて、逆に番号を探して壁画を見つけていた。




ビームの椅子?


 さらに奇岩と壁画を求めてあちこちさまよったが、この辺りはさまよえばさまようほどいろんなものがありそうな気配で、非常にワクワクした。小高い奇岩の上に登ってみると、360度パノラマで周囲を見渡すことができた。どこまでも続く平野と森・・・。マディヤ・プラデーシュ州は「森のインド」を代表する州だ。ラージャスターン州の「砂漠のインド」、ヒマーチャル・プラデーシュ州の「山のインド」と対照的である。

 しかし、これらの奇岩は本当に奇岩なのだろうか?自然の気まぐれでできたものなのだろうか?明らかに自然にできた洞穴やシェルターもあったが、人為的に岩と積んで造られたように見えるものもいくつかあった。もし人為的に造ったとすると、今度はどうやってこの巨石を持ち上げたのかという疑問が沸いて来る。このビームベートカーをアジアからオセアニア一帯に広がる巨石文化の一端と考えても面白い。ていうか、考えている人いるだろうな。

 いくら歩いてもきりがなかったので、ビームベートカーで2時間ほど費やした後、オートに乗った。ビームベートカーはインドの観光地の中でもハイライトと言えるのではないか?こんなワクワクするようなところは久しぶりである。もっと有名になってもいいはずだ。全く観光客向けの設備が整っておらず、観光客相手に商売をしているような連中も全然いなかった。

 ビームベートカーからボーパールへ帰る途中、ボージプルへ寄った。ボーパール(旧名ボージュパール)もボージプルも、11世紀の王ラージャー・ボージュによって造られた町だったが、15世紀にマンドゥーの王ホーシャング・シャーによって破壊された。ボーパールは18世紀にドースト・ムハンマドによって再建され、19世紀からはベーガムと呼ばれる女王によって統治されて繁栄するが、ボージプルの方は廃墟のままだった。現在、ボージプルにはボージェーシュワル寺院が残っているだけだ。

 ボージェーシュワル寺院は小高い丘にそびえており、遠くからでも非常に目立つ。寺院の中には気合入りすぎてるほど巨大なシヴァ・リンガが安置されており、度肝を抜かれた。寺院は崩壊してしまっており、現在再建中のようだが、所々に素晴らしい彫刻を見ることができる。例によって破壊したのはイスラーム勢力である。ボージェーシュワル寺院のそばには河が流れており、その対岸にパールヴァティー寺院がある。こちらも非常に古いようだ。




巨大なシヴァ・リンガ


 ボーパール〜ホーシャンガーバード間の主な見所は、これらビームベートカーとボージプルぐらいだが、もうひとつ知る人ぞ知る、隠れたスポットもある。それがユニオン・カーバイド社の工場である。1984年12月3日、この工場から有毒ガスが漏れ、風に乗ってボーパールまで届き、1万6千人以上の人が死亡したという。世界史上最悪の工業災害である。オート・ワーラーは工場の前を通るとき、「これがユニオン・カーバイド社の工場だ、とっても大きいんだ」と淡々と語ったが、それ以上は何も言わなかった。彼も知らないはずはあるまい、あの大惨事を・・・。未だに毒ガスの後遺症に悩んでいる人もいるらしい・・・。

 マディヤ・プラデーシュ州の平原に沈む夕日を見つつ、6時にはボーパールに帰って来た。お楽しみの値段交渉は、400で決着をつけようと思ったが、結局500ルピーを払うことになった。最初は口論をしたりしたものの、彼もビームベートカーは初めてで「すごいなぁ」と言い合ったり、日が沈んでからは一緒に断食明けの食事をしたりしている内に、そのくらい払ってもいいか、と思うようになってしまった。インド人には大甘である・・・。

 そのオート・リクシャーもムスリムだったが、ボーパールには多くのムスリムが住んでいることに気が付いた。グワーリヤル周辺はあんなにヒンドゥー色が強かったのだが、ボーパールは長年ムスリムの王の支配下に置かれたせいで対象的にイスラーム色が強い。以前「マディヤ・プラデーシュ州はヒンドゥー色が強い州である」と書いたが、あれは早とちりだった。しかもちょうど今日、僕が泊まっているホテルのあるハミーディヤー・ロードは、グル・ナーナク・ジャヤンティーを祝う祭りが行われており、スィク教徒が大集合、電飾ギラギラの大パレード、ディーワーリー再来のような爆竹・花火の轟音と、非常に騒々しかった。ボーパールにはスィク教徒も多いのか?

11月17日(日) サーンチー

 サーンチーを訪れるのは2度目である。3年前、初めてインド旅行をしたときに訪れた土地だったが、そのときの印象が非常によかったので、もう一度行ってみたいと思っていた。「今までインドを旅行してよかったところは?」と聞かれると、サーンチーの名前を挙げてしまうことが多い。今回の訪問が、あのときの新鮮な感動に幻滅を上塗りしてしまうことになってしまうかもしれないことは十分に承知していた。しかし、ボーパールへ行くことを決めた瞬間、同時にサーンチーの再訪も心に決めていたのだった。ストゥーパのあるあの丘、町のあの交差点の光景が、3年経った今でも僕の脳裏にこびりついて離れないのだ。きっとサーンチーに呼ばれていたのだろう。

 早朝、ハミーディヤー・ロードのバススタンドでヴィディシャー行きのバスに乗ると、1時間半ほどでサーンチーに着いてしまった。着いてしまった、という気分になったのは、以前カジュラーホーからサーンチーに来たとき、夜行バス含めて数本バスを乗り継いで苦労して辿り着いたような印象があるからだ。バスから降りると、僕の記憶にしぶとく残っていたあの交差点だった。少々変わってはいたが、ほとんど変わりないと言ってもいいだろう。少し安心する。3年前泊まったツーリスト・カフェテリアへ行ってみると、ここもそんなに変化なかった。今回もこの州経営のホテルに泊まることにする。

 サーンチーは人口8000人程度の小さな町なのだが、世界遺産にも登録された、インド最古かつ最も保存状態のよいグレート・ストゥーパのおかげで、その名は世界中に知れ渡っている。紀元前3世紀、仏教で国を治めようとしたアショーカ王が初めてストゥーパを造ったのが、このサーンチーである。ストゥーパとはブッダや高僧の遺骨を納めるための墓で、ギリシアの影響で仏像が作られるようになる前の仏教徒の偶像となった。このストゥーパが東南アジアや中国に伝わる過程で形態が変化し、最終的に日本の三重塔・五重塔などになる。また、ストゥーパ本体以上に、ストゥーパの周囲に立っているトーラナと呼ばれる門も有名である。トーラナには繊細な彫刻がビッシリと刻まれており、保存状態も非常にいい。このトーラナは日本の神社の鳥居を髣髴とさせる。サーンチーは仏教の聖地であり、日本人にはどこか懐かしい、魂の故郷のような土地である。

 ホテルに荷物を置いた後、早速ストゥーパを見に行く。入場料はインド人10ルピー、外国人250ルピーという逆差別的料金だ。3年前は外国人料金なんてなかった。いつもの通り、「僕は日本人だけどデリーに住んでるからインド人だ」という理論でチケット売り場の人と交渉する。ところが、ここのチケット売り場のおじさんは頑固で、僕に10ルピーのチケットを意地でも売ろうとしなかった。僕はあらゆる手段で説得しようとしたが、彼は聴く耳を持たなかった。こういうときは、下っ端のチケット・ワーラーとではなく、一番偉い人と話をするのが最良なのだが、肝心の一番偉い人はボーパールにいるらしい。30分くらい粘って、懇願したり脅したり説得したり、自分のヒンディー語能力の全てを駆使したが、徒労に終わった。結局、250ルピーのチケットを買わされた。これはまさに歴史的敗北である。インドに留学して以来、初めて外国人料金を払った。「サーンチーの悲劇」とでも呼ぼうか。もうこれからは正直に日本人であることを言わず、「スィッキムから来た」と言うことに決めた。こうして正直者が捻じ曲がっていくのだ・・・。

 ストゥーパは丘の上にあるので、急な坂と階段を登っていかなければならない。苦労して登りきった先にグレート・ストゥーパがど〜んと待ち構えているので、2度目の僕でも感動的な体験である。サーンチーのストゥーパは、インドから仏教が衰退するに従って、自然と忘れ去られてしまっていた。1818年、イギリス人がこのストゥーパを発見まで・・・。アジャンターを発見したイギリス人もそうだろうが、サーンチーのストゥーパを最初に発見したイギリス人も、さぞや驚き、感動したことだろう。あの時代にイギリス人として生まれ、インドに来ることができたら、どんなにエキサイティングだろうと思うときがある。当時のインド人は、インドを忘れてしまっていた。自分たちが残してきたものにほとんど感心を持たなかった。インドの植民地化に乗り出したイギリス人が、インドを再発見し、再構成していったのだった。その再発見と再構成の過程は、どんなに楽しかっただろう。当時のインドは、いつなんどき考古学的大発見があってもおかしくない、玉手箱のような国だっただろうと想像してしまう。




グレート・ストゥーパ


 3年前と比較すると、サーンチーの仏教遺跡群は修復・整備が進んでいた。説明書きも増えていた。代わりに警備が厳重になっており、警備員が徘徊して見回っていた。僕が3年前に来たとき、ストゥーパの周りを猿が自由に闊歩し、遺跡の間を牛がノソノソと歩いており、ほのぼのした雰囲気があってよかったのだが、現在ではそれらの動物はどっかに追いやられてしまったようで、人間と小動物しかいなかった。

 一通りグレート・ストゥーパの周りを周りながら、スケッチのアングルを考えていた。ストゥーパの周りに植えられた木がやたらと成長していて、ストゥーパの美観を損ねていた。だから以前に比べて写真が撮りにくくなったように感じた。スケッチなら尚更である。アングルに加えて、座る場所、日陰が必要なのだ。グレート・ストゥーパの周りには東西南北4つのトーラナがあり、やはりそれを最低ひとつ絵に収めないことには意味がない。北門がもっとも保存状態がよいが、木が邪魔してあまりいい絵にならない。南門は最古の門だが、保存状態がよくない。絵になるのは西門・東門である。西門方面は特に夕方、とても美しい。僕は東門方面から見たスケッチを描くことに決めた。




北門


 スケッチをしている間、実にいろんな出来事があった。スリランカのお坊さんから祝福を受けたり、写真家の集団に僕の絵の写真を激写されたり、ソニーのハンディカムを持ったスリランカのお坊さんにインタビューされたり、メガーラヤの人に話し掛けられたり、タミル・ナードゥから来たやたら偉そうな人と軽くタミル語で会話をしたり、警備員の人たちに一躍有名になったり、韓国人旅行者に無視されたり・・・。気付いたら絵を完成させるのに4時間もかかってしまった。しかし、今まで僕が描いてきた絵の中でも最高傑作と呼ぶにふさわしい作品が出来上がり、大満足。ありがとう、サーンチー。でも250ルピーは痛かったぞ・・・!

 昼食を食べに一度下界に下りた後、再びストゥーパまで戻って来た。250ルピーの入場料を払ったからには、一日中ここにいさせてもらう。このチケットは1日有効で、明日もしまた来ようと思ったら、250ルピーのチケットを買い直さなければならない。だから今日はグレート・ストゥーパに1日を捧げるしかない。

 やはり世界遺産に指定されただけあって、サーンチーの遺跡の彫刻は超一級である。デザインもいいし、保存状態もいい。ブッダの生涯の出来事、ジャータカなどが主なテーマになっている。ただ、面白いことに当時ブッダを具体的な姿で描くことは禁じられていたようで、ブッダの姿が描かれていない。シンボルだけが代わりに描かれている。また、ビームベートカーと同じく、動物の彫刻がとても多い。日本人からすると、インド人のこの動物に対する思い入れは異常に思える。インドには昔から多くの動物が住み、人々の生活に密接に関係していたのだろう。グレート・ストゥーパのトーラナの彫刻も素晴らしいが、そこから少し丘を下ったところにあるストゥーパ2の周りの石柵に描かれたレリーフも絶品である。円形と半円形を象った紋章のようなレリーフがたくさん彫られており、どれも意匠を凝らしたデザインで、現代でも通用しそうなものが多い。




北門の裏側


ストーパ2の石柵のレリーフ
半人半馬の動物が見える



 ずっとストゥーパに来る観光客の様子を見ていると、スリランカ人がとても多いことに気付く。聞くところによると1週間後にここで仏教の祭りがあるようだ。それに合わせて、スリランカの僧も集まって来ている様子である。また、夕方ストゥーパの片隅で座ってマントラを唱える集団がいた。僕も一緒に座って手を合わせていた。「ブッダム・サラナム・ガッチャーミー・・・」ヒンドゥー教のマントラに比べて優しいメロディーである。祈りが終わってから話を聞いてみると、彼らはマハーラーシュトラ州から来た仏教徒のインド人だった。おそらくアーンベードカル博士の運動に従って改宗したネオ・ブッディストの人々だろう。インドで仏教はほとんど死滅したが、近代に入り、ヒンドゥー社会で差別を受け続けるアウト・カーストの人々が、差別撤廃運動を繰り広げるアーンベードカル博士に従って一斉に仏教に改宗する出来事があった。それがネオ・ブッディストである。話には聞いていたが、ネオ・ブッディストに会ったのはこれが初めてである。

 夕日を背に、グレート・ストゥーパの丘からサーンチーの町へ降り立った。サーンチーはやはり不思議と心の休まる場所である。世界遺産がある割には、町の人は全然観光業に興味がないようで、観光客相手に商売しようとしておらず、自分の生活に没頭している。同じマディヤ・プラデーシュ州のカジュラーホーや、カルナータカ州のハンピーのようにゲストハウスが乱立するようなこともなく、宿事情、レストラン事情は3年前とほとんど変わっていなかった。総合的に見て、やはりサーンチーは来てよかった場所である。だんだん250ルピーのチケットもどうでもよくなって来た。今日1日ストゥーパの周辺にいただけで、250ルピー以上の価値のある幸せを得た気分になることができたからだ。

11月18日(月) ウダイギリ/ヴィディシャー

 サーンチーの近郊にはいくつか遺跡が点在している。サーンチーほど優れた遺構が残っていないことは容易に推測できたが、せっかく2度目のサーンチー訪問なので、郊外まで足を伸ばしてみることにした。朝から自転車をレンタルして、ヴィディシャー方面へ向かった。

 ウダイギリはサーンチーから13Km離れたところにあった。実はビームベートカーを歩き廻ったときから太ももの筋肉痛に悩まされており、昨日はサーンチー・ストゥーパの丘を上り下りして筋肉痛を悪化させ、さらに自転車に乗るという無謀な行動をとっていた。13Kmの道のりはけっこう辛かった。半分はちゃんと舗装された道路だったが、半分は穴ぼこと砂利だらけのデコボコ道だった。田舎の村を通り抜け、村人たちの温かい声援と怪訝な視線を浴びつつ、何とか完走した。

 ウダイギリはひとつの岩山で、ヒンドゥー教とジャイナ教の石窟寺院が20窟発見されている。入場料はない。一人の監視員が入り口のところで暇そうに座っているだけだ。サーンチーとは待遇が大違いである。こんなところまで来るのは僕だけかと思ったが、既に先客が2人、フランス人のカップルがいた。彼らも自転車で来ていた。インド人から見たら、はるばるインドに来る金がありながら、なぜ外国人は自転車でわざわざ郊外の観光地まで出掛けるのか、不思議に感じるのではないだろうか?だんだん自分でも不思議になって来た。

 ウダイギリも丘を登ってまた降りるような順路になっており、棒になった足が折れそうだった。しかも丘の上には崩れかけた寺院しかなく、あまり登った甲斐がなかった。石窟寺院は大体麓に集中していた。しかしどれも小規模で、拍子抜けだった。唯一、ヴィシュヌの化身で猪の神ヴァラーハをモチーフにしたレリーフは、巨大かつ繊細で突出していた。




大地の女神を持ち上げるヴァラーハ


 ウダイギリの近くにはカンバー・バーバー、別名「ヘリオドスの柱」と呼ばれる柱が残っている。別になんてことない柱だったが、BC140年頃に建てられたものらしく、柱の表面にはブラーフミー文字が刻んであった。なぜか柱に玉虫が留まっていた。この柱は、パンジャーブ地方を支配していたギリシア人の王国、バクトリア朝の君主から使節として送られたヘリオドスが、ヴィシュヌに捧げて立てたそうだ。ギリシア人がヒンドゥー教徒になったことを示しており、興味深い。現在ではこの柱はなぜか地元の漁師たちの神様になっているそうだ。




カンバー・バーバー


 ガイドブックには、ヴィディシャーにBC2世紀に建てられたバラモン教の寺院の跡があると書いてあったので、そこも見てみたかった。しかし、地元の人に聞いてもよく知らないらしく、とうとう辿り着けなかった。代わりに、ビージャー・マンダール・モスクというところには行くことができた。ヒンドゥー教の寺院の基壇の上に、イスラーム教のモスクが乗っかっているという、曰くつきのモスクだが、ほとんど廃墟に近かった。

 結局、苦労して自転車でウダイギリやヴィディシャーへ行った割にはあまり収穫がなかった。来た道をまたせっせと自転車をこいでサーンチーへ戻り、バスに乗ってボーパールへ向かった。

 ここのところインドを旅行していて気になるのは、韓国人旅行者の増加である。3年前にインドを旅行していたときは、地元の人から「お前は中国人か?」と聞かれることはあれ、「お前は韓国人か?」と聞かれることは滅多になかった。しかし最近では「お前は韓国人か?」と聞かれることが非常に多い。それだけ韓国人旅行者がたくさんインドに来ているということだろう。もちろん、実際にインド各地で韓国人の若者をよく見る。僕の通っている学校でも、韓国人の生徒の数が圧倒的に多い。聞くところによると、韓国で「猿岩石」のような、若者が海外を貧乏旅行するテレビ番組が流行ったらしく、その影響で韓国人バックパッカーが急増したらしい。一方、ここのところ日本人のインドに対する印象はますます「危険」の色合いが強くなってしまったようで、特に団体旅行客が激減してしまった。こんな状態なので、ここ数年でインド人にとって日本人よりも韓国人の方が身近な存在となってしまったようだ。韓国人の他には、フランス人旅行者が目立つ。

11月19日(火) ボーパール

 ボーパールには、地元の人が「アジア一」と胸を張るものが2つある。その内のひとつがタージ・ウル・マスジッドである。アジア最大のモスクとも、インド最大のモスクとも言われている。19世紀後半、ボーパールの支配者シャー・ジャハーン・ベーガムによって建築が始められたが、彼女の死によって工事が中断し、1971年にやっと完成したそうだ。よって、インドの歴史から見たら、まだまだ新しい建造物である。

 タージ・ウル・マスジッドは、ホテル街のハミーディヤー・ロードから歩いていける距離にあった。ちょうど高台になっており、そこからボーパールの旧市街の街並みを見渡せた。しかし、アジア一大きいと豪語する割には、それほど巨大さを感じさせないモスクだった。デリーのジャーマー・マスジッドとそんなに変わらないし、デザインにも特筆すべきところがない。まだ、イスラーマーバードのシャー・ファイサル・モスクの方が人を圧倒するものがあると思うのだが。




タージ・ウル・マスジッド


 今日はグル・ナーナク・ジャヤンティーで祝日のためか、モスクは閑散としており、一組の家族連れインド人観光客がいただけだった。内部も特に優れたレリーフがあるとか、変わったものがあるわけでもなく、ごく普通のモスクだった。

 もし、タージ・ウル・マスジッドの特徴を挙げるとしたら、それは北にある小さな湖だろう。汚ない湖だったが、それでも湖の畔に建つモスクというのは、割と珍しい。湖を挟んでタージ・ウル・マスジッドのスケッチをした。ちょうどその辺りはオート・ワーラーたちが愛機を洗う場所になっており、ピカピカになったオート・リクシャーが誇らしげにモスクの影をボディに映し出していた。絵は2時間半ほどで完成。なかなかの出来。

 午後からは、ボーパール新市街を見下ろす丘の上にある、国立人類学博物館(ラーシュトリーヤ・マーナヴ・サングラハーラヤ)へ行った。ここはインド各地に住む部族民たちの生活の様子を展示した珍しい博物館である。博物館というよりも、丘ひとつそのまま展示場にしてしまったようなものなので、博物園というべきかもしれない。入場料は10ルピー。

 敷地内にいくつかの博物館と屋外展示場があったが、一番力が入っていたのは、インド各地の少数民族たちの住居である。各部族の様式で実際に家が建てられており、それが博物園内各地に点在している。家の中には生活に使う道具や、壁画などが忠実に再現されている。日本の住居に通じる家があったり、奇妙な形の家があったりで、けっこう楽しい。ただ、やはり展示するために造ったものなので、生活感がない。生活感がないので、まるでゴースト・タウンに迷い込んだような気分になったりもする。家の中に入ってベッドに横になってみたりすると、こんな家に住むのもいいかな、なんて思ったりもする。ここはもう少しキチンと整備すれば、文句なくボーパールの必須観光地に成長すると思う。今のところ、漠然とし過ぎていて、満足感よりも疲労感が印象深い。




トーダー族の住居


 インドには450以上の少数部族が、ある者は文明を受け入れ、またある者は昔ながらの伝統を頑なに維持しながら生活しているという。この博物園で紹介されていたのは、以下の部族である。

部族名 人口 地域
ワールリー Warli 500,000 マハーラーシュトラ、グジャラート
トーダー Toda 1,200 タミル・ナードゥ
ボーローカチャーリー Bodokachari 600,000 アッサム
コーター Kota 1,500 タミル・ナードゥ
ガドバー Gadaba 56,000 オリッサ
サーウラー Saora 500,000 オリッサ、アーンドラ・プラデーシュ
クティヤーカンド Kutiakandh 1,000,000 オリッサ
ラートヴァー Rathva 300,000 グジャラート
チャウドリー Chaudhri 200,000 グジャラート
アグリヤー Agaria 50,000 マディヤ・プラデーシュ
タールー Tharu 95,000 ウッタラーンチャル
ゼーミ・ナーガー Zemi Naga 11,000 アッサム
タンクル・ナーガー Tankhul Naga 85,000 マニプル
コーニヤク・ナーガー Konyak Naga 90,000 ナーガーランド
カルビー Karbi 100,000 アッサム
ミシング Mishing 200,000 アッサム
サンタール Santhal 2,100,000 ジャールカンド
ラジワール Rajwar チャッティースガル
カマール Kamar 18,000 チャッティースガル
マーリヤー Maria 700,000 チャッティースガル
ビール Bhil 2,500,000 マディヤ・プラデーシュ
ムリヤー Muria 250,000 チャッティースガル
アーオー・ナーガー Ao Naga 200,000 ナーガーランド

 ビール、サンタール、トーダーなどはけっこう有名な少数民族だが、その他にもいろいろな部族がインドに住んでいることが分かる。インドの多様性の極めつけがこの部族民たちの存在だろう。




ケーララ州の伝統的壁画


 ところで、ボーパールには「アジア一」のものが2つあるとさっき書いた。その内のひとつがタージ・ウル・マスジッドだが、もうひとつをこのラーシュトリーヤ・マーナヴ・サングラハーラヤから見渡すことができる。それは湖である。つまり「アジア最大の湖」ということらしい。確かにけっこう大きな湖だったが、アジア一をそう簡単に表明してしまっていいものだろうか?数字にすると6Kmだそうだ。もっと大きい湖もあると思うのだが・・・。もし「アジア一の人造湖」とか条件をせばめていけば、何かでアジア一になれるかもしれない。どちらにしろ、ボーパールの「アジア一」はイマイチ信用ならなかった。

 ボーパールには他にも見所があるとは思うが、これ以上市内観光はしなかった。夜10時頃、2155Bボーパール・エクスプレスに乗り、デリーに向かった。今回のボーパール旅行は余裕のある日程だったので、やることがなくて退屈してしまった。僕には忙しい旅が性に合ってるみたいだ。

 最近になって、マディヤ・プラデーシュ州にけっこうはまってしまっている。「地球の歩き方」にはマディヤ・プラデーシュ州の観光地と言ったら、カジュラーホー、サーンチー、マンドゥーくらいしか載っていないので、それ以外はあまり見所がない州なのかと思っていた。しかし、多様性が合言葉のインドにおいて、これほど多様性に富んだ州は他にないように思える。ヒンドゥー文化あり、イスラーム文化あり、さらに石器時代の遺物や、少数民族の遺跡も残っている。自然も豊かで、避暑地もあればサファリ・パークもある。今までグワーリヤル、カジュラーホー、オールチャー、サーンチー、ボーパール、ビームベートカーなどを訪れたが、マンドゥー、インダウル、ウッジャイン、マヘーシュワル、オームカレーシュワル、ジャバルプル、チットラクートなど、まだまだ訪れてみたい魅力的な土地が残っている。

11月20日(水) インディアン・マジック

 昨夜30分遅れでボーパール駅を出発したボーパール・エクスプレスは、1時間半遅れの9時頃に、南デリーのハズラト・ニザームッディーン駅に到着した。最近僕の乗った列車が時間通りに駅に到着したことがない。いや、こんな広大なインドを走っている列車が、時間通りに到着する方が奇跡なのだろう。日本の鉄道は、何もかも時間通りで気が狂いそうだ。

 僕はインド人が列車に乗るときのあの余裕が好きだ。席を取るときはインド人は死に物狂いだが、一度席を取ってしまえば後はもう平安である。インドの列車が発車する瞬間、プラットフォームを見てみるといい。まず汽笛が鳴って、ガッタンガッタンと列車が動き出す。そうすると、今までプラットフォームで立ち話をしていたインド人の数人が、列車の入り口に小走りして飛び乗るところを見ることができる。彼らはこれから列車に乗って移動するにも関わらず、閉鎖的な車内に発車前から座っているのを快しとせず、少しの間だけでも外の空気を吸いながら会話を楽しんでいたのだ。列車が走り出してから乗る、この当たり前の余裕がいい。日本の列車や電車は、動き出したときには既に乗ろうと思っても扉が閉まっており、つまり乗り遅れたということになる。なんて息の詰まる習慣だろうか。

 ニザームッディーン駅にはプリペイド・リクシャーのカウンターがある。ここでリクシャーを頼むと安くなるので、最近僕は愛用している。今日もここでプリペイド・バウチャーをもらってリクシャーに乗ろうと思った。しかし魔法はこのとき起こった。

 カウンターの人に聞いてみると、ガウタム・ナガルまで32ルピーと言うので、僕はポケットから50ルピー札を取り出してカウンターに出した。確かに50ルピー札を僕は取り出した。50ルピー札に小指程度の穴が開いていたのが印象に残ったからだ。しかし、どういうわけか、カウンターに出すまでにその50ルピーが10ルピーに摩り替ってしまっていた。カウンターの人から、「32ルピーって言っただろ」と10ルピー札を付き返された。・・・おかしい、確かに胸ポケットから50ルピー札を取り出したはずだが、いったいどこで摩り替ってしまったのか・・・。そのとき、カウンターの周りは混雑していたので、僕が50ルピー札を取り出して、カウンターへ出すまでの間に、僕の近くにいた誰かが巧妙に摩り替えた可能性もある。しかし、一番怪しいのはカウンターの男である。僕から50ルピーを受け取った瞬間、どこかに隠し持っていた10ルピー札と目にも留まらぬ早さで摩り替え、僕にその10ルピー札を付き返して来たのだろう。僕は50ルピー札を出してから、10ルピー札を付き返されるまでの間、どこを見ていたのか記憶になく、全くもって魔法のようだった。・・・そういえば、この前ここのプリペイド・カウンターを使ったときも、全く同じようなことがあったような気がしてきた。50ルピー札を出して、10ルピー札が返って来たような記憶がある。そのときは本当に間違えたのかと思って、謝りながらさらに50ルピー札を渡した記憶がある。僕は一瞬の間、カウンターの前で呆然と立ち尽くした。

 アフガン・マジック・・・急に記憶の底にこびりついていた言葉が浮かんできた。パーキスターンのクエッタという街に行ったとき、このアフガン・マジックという言葉を聞いた。クエッタはアフガニスタンと国境近くの街で、アフガン人が多く住んでいる。クエッタにはそのアフガン人が営む両替屋が密集している場所があった。そしてそこでお金を両替した者は、もれなくアフガン・マジックを体験することができると、旅行者の間でまことしやかに語られていた。

 例えば1万円両替するとする。今の為替相場がいくらかは知らないが、1万円が5000ルピーになるとする。100ルピー札50枚である。まずは両替商のアフガン人が、100ルピー札を数える。1、2、3・・・48、49、50。ちゃんと50枚ある。その札束を渡される。しかし、自分で数えてみると1枚足らないのだ。つまり4900ルピーしかない。「おい、足りないぞ」と両替商に言う。すると、アフガン人は「そんなはずはない」と言って再び目の前で数え出す。1、2、3・・・48、49、50。やはり50枚ある。おかしいな、と思ってまた自分で数えてみる。すると今度は4800ルピーしかない。こんなことを繰り返している内に、どんどん手持ちの金が減っていくという、魔法のような手口である。これがアフガン・マジックである。もちろん、その話を聞いてわざわざアフガン人の両替商のところへ両替に行くような物好きはあまりいないのだが・・・。

 このニザームッディーン駅のプリペイド・カウンターの男も、同じような小手先の詐欺を行っているようだった。僕はこれを安直に「インディアン・マジック」と名付けた。残念ながら僕は50ルピーをどこかで誰かに10ルピー札と摩り替えられたにも関わらず、何が起こったか全く理解できなかったので、もう一度32ルピーを払う羽目になった。もし前回も同じ目に遭っているとしたら、これで2度目である。プリペイド・カウンターを使って安くオートに乗っているつもりが、高い買い物をしていることになる。しかし3度目はないと思え、ニザームッディーン駅のプリペイド・カウンターの男よ。次に使うときは、目を凝らしてお前の技を見破ってやる・・・!そう心に決めて、朝日の中、ガウタム・ナガルに帰ったのだった。

11月21日(木) Heritage Seminar in Rishikesh

 22日から24日まで、北インドに住む外国人留学生を対象に、リシケーシュでセミナーが開催される。3日間の宿泊代、食事代、交通費など全てひっくるめて400ルピーという格安のツアーである。それに参加するため、デリーに住む留学生たちは今日から夜行バスに乗ってリシケーシュへ向かわなければならなかった。

 事前の告知では、今日の夜10時にサンスターンの前集合とのことだった。ところが、いろいろ手違いがあったみたいで、手配していた45人乗りのバスが用意できず、35人乗りのバスで行くことになってしまい、あぶれる人が出て来た。数人はキャンセルとなったのだが、僕はバスではなく別途ジープで行くことになった。そのジープには教授陣と僕の他友達2人が乗り込むことになった。しかも出発時間は4時。10時に出発する積もりでいたので、いきなり予定が繰り上がって困った。これらの変更は今日の朝、突然知らされた。しかしこんなことインドではよくあることだ。これでインディア!

 4時半頃、集合場所のサフダルジャング・エンクレイヴを出発。そのままリング・ロードを東進し、ヤムナー河を渡った。ここに架かっている有料の橋は日本の企業が造っただけあって、一瞬日本の高速道路を走っている感覚に陥る。インド人の造った道とは比べ物にならない平らできれいな道である。料金所なんて全く日本のそれである。もしデリーで擬似日本体験をしたかったら、このトール・ロードの橋を渡るといいかもしれない。この橋を渡れば、そこはデリーの衛星都市ノイダである。

 ノイダで1人教授をピックアップした後、僕たちの乗ったターター社製ジープ「SUMO」は一路ハリドワール&リシケーシュへ向けて疾走した。車の中では教授たちのポエム合戦が繰り広げられていた。これらの教授がどれほどの業績を上げている人かあまり知らないが、一人はインドにおける人間国宝、パドマシュリー賞を受賞していた。著作は300冊を越えるらしい。

 デリーの北東にあるメールートを越えた辺りで夕食を食べることになった。ところが車に乗ってる御仁方は皆ブラーフマン階級、純ヴェジタリアンである。肉料理を出すレストランや食堂には入ろうとせず、ムスリムの経営するノン・ヴェジ・レストランなんてもってのほか。ひたすら純ヴェジタリアンの食堂を探し続けていた。しかも教授の内の1人は断食中で、野菜すら口にしようとしなかった。インド人は旅行をなめているのか・・・?しかし、逆に考えれば食べ物が豊富にある国だからこそ、こういう食習慣も生まれたのだろう。

 やっと見つけた純ヴェジタリアン食堂で、アールー・ゴービーやダール・マッカニーなどをタンドゥーリー・ローティーと共に食べた。空腹だったため、シンプルな料理が非常においしく思われた。いや、このおいしさは空腹だったからだけではない。出された水(多分水道水)を飲んでみたら、デリーの水とは比べ物にならないほどのおいしさ。ヒマーラヤに近付きあることを、水の味から実感した。

 ヒマーラヤの麓にあるヨーガの里、リシケーシュまではまだまだある。食事後さらに北上する。ところが、だんだん道の雰囲気が怪しくなってきた。どうもこの先で農民たちがデモを行っており、ウッタル・プラデーシュ州からウッタラーンチャル州へ通じる道を封鎖しているという噂が耳に届いてきた。ウッタル・プラデーシュ州の首相マーヤーワティーがサトウキビの買い上げを行ったとか何とかで、砂糖の値段が暴騰し、それに対するデモをやっていると聞いたが確かではない。とにかく行けるところまで行ってみようということで、自動車は不気味にガラガラの道を進んで行った。しかし噂は本当で、その道は封鎖されており、交通渋滞になっていた。通れそうにもない。既に時計は10時を回っている。このままだとセミナーも中止になってしまう可能性がある。とにかく道の途中で自動車を止めて対策を練ることにした。

 自動車の外に出てみると、空気がかなり冷たく澄んでいることに気付いた。今までインドのいろんな場所を旅行して来たが、道路が封鎖されるなんていう事態は初めてだ。インドは必ず何かが起きる国。慣れてくると、それがたまらなく面白く思えてくる。知力・体力・時の運を使ってそのトラブルを克服しなくてはならない。そしてそれを克服したとき、レベルが1つ上がった気分になる。インドで何かが起こったとき、それは新たなストーリーの始まりである。

 と、側道から一台の自動車がヘッド・ライトが近付いて来た。その自動車はメイン・ロードに止まると、二人の男を降ろし、去って行った。その自動車は封鎖されている道路の向こう側から来たようで、どうもその道が抜け道になっているようだ。自動車から降りた二人の男は地元の人間で、抜け道の案内役のようだ。見るからに胡散臭い身なりをしている。教授たちは彼らに案内させるかどうか相談していた。最悪の場合、その男たちは訳の分からないところに僕たちを連れ込んで、強盗を働くかもしれない。しかしうまく行けば封鎖された道路を抜けることができるのは確かだ。インドを代表する(?)頭脳を寄り集めて考えた結果、このまま待っていても仕方ないので、その二人の怪しい男たちをジープに乗せて、抜け道を案内させることにした。

 側道は小川に沿って暗闇の中へと続いていた。暗闇の先には、死んだようにひっそりと静まり返った村と、霧に覆われたサトウキビ畑が横たわっていた。二人の男たちはジープに乗ると饒舌に話し出した。彼らは自称歌手で、もともと今回のデモによる渋滞で退屈しているドライバーたちのところへ行って歌を歌って金を稼ごうとしていたそうだ。教授たちもなるべく彼らに話を合わせ、「バターを塗りつつ(=胡麻をすりつつ)」適当に会話をしていた。教授と村人が肩を並べて会話をしている様も傍から見ると滑稽である。それにしてもインド人はこんな状況に陥っても余裕綽々で会話を弾ませることができるから見上げたものである。

 どうやらその男たちに案内させたのは正解だったみたいで、無事に封鎖されている道路を飛び越えて、メイン・ロードに出ることができた。パドマシュリー氏は彼ら案内人にお礼として100ルピーを払った。それが高いか安いかは誰も知らない。月明かりに照らし出される霧の田舎道は、とても幻想的に見えた。外にはサトウキビの甘い匂いが充満していた。その先はもうウッタラーンチャル州だった。

 農民たちのデモによる道路の封鎖というトラブルをなんとか回避した後、急に安心感が睡魔と共に僕の全身を覆い、その後の記憶はあまりない。気付いたらリシケーシュに到着しており、今回宿泊する、スワーミー・ダヤーナンド・アーシュラムを探している最中だった。既に真夜中の1時を回っていた。アーシュラムに着き、部屋を宛がわれた後、すぐに眠ってしまった。

11月22日(金) セミナー第1日目

 アーシュラムとは修行者や巡礼者のための修行場、または宿泊施設である。アーシュラムの生活は規則正しく、清く簡素だ。言わば修学旅行のような感じである。朝食は朝8時。時間になると鐘が打ち鳴らされ、宿泊者がぞろぞろと食堂へ集まってくる。

 食堂に行ってみると、他の学生たちも到着していた。僕たちは昨日の夕方出発して真夜中に到着したのだが、一般の人たちはバスで真夜中に出発して今朝到着したようだ。ウッタラーンチャル州に入った後、デリーに電話しておいたので、州境封鎖の情報は伝わっていた。だから皆、封鎖されている道を迂回してリシケーシュに来たようだ。考えてみれば、バス組が来る前に僕たちが先発隊として来ておいてよかった。もしバスで来て州境で身動きがとれなくなっていたら、大変な事態になっていただろう。

 今回このセミナーに参加しているのは、教授を除けば全員インド国籍以外の外国人である。デリーからはデリー大学、JNU、ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンのデリー校、ジャミアー大学の、ヴァーラーナスィーからはバラーナス・ヒンドゥー大学の留学生が参加していた。その他、ケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンのアーグラー校からも大勢の留学生が来ていた。

 スワーミー・ダヤーナンド・アーシュラムはガンガーの畔に位置している。リシケーシュを流れるガンガーの水は清く、流れは速い。青い山々が直立し、空には薄っすらと雲がかかっている。これら全て、デリーにはないものである。今までどれだけ汚染された環境の中で生活していたか、まざまざと思い知らされた気がした。空気も澄んでいて、水もおいしくて、ここにいると身体的にも精神的にも健康になれる気がする。




リシケーシュの風景


 朝食後、まずはアーシュラムの主、ダヤーナンド氏が歓迎の挨拶と簡単な講義をした。ダヤーナンド氏はヴェーダンタ思想の著名的な研究家であり、世界各国で講演をしている。ヒンドゥー教に関するセミナーなので、やはり宗教に関する話であったが、別に聴衆を啓蒙・感化するような内容ではなく、「道徳的であるために、宗教的である必要はない」「神は各個人の内面に存在する」というような話をしていた。ひとつダヤーナンド氏の話の中から面白かったものをひとつ載せておく。

夢の中で神様が
 よく、宗教家を名乗る人の中で、「夢の中で神様が語りかけてきた」と言って信心深い人々を信じ込ませる者がいる。実は私も昨夜、夢で神様を見た。

 神様は私に言った。「私は決して夢の中に現れない」と。

 もしそれが本当に神様なら、決して嘘はつかないだろう。しかしそれが語った言葉は明らかに矛盾を含んでいる。なぜなら夢の中に現れて、夢の中に現れない、と語っているのだ。

 もしそれが嘘つきの偽物だとする。すると、神様は夢の中に現れることになる、ただし偽物の神様が。

 人々はこの矛盾について考えなければならない。誰かが神様について偉そうに話だしたら、我々は理性を働かせて聞かなければならない。なぜなら神様は議論して解決するものではないし、実体を伴ったものでもないからだ。


 第1日目は3つのレクチャーがあった。1つ目のレクチャーこそ多くの学生が出席していたが、2つ目、3つ目のレクチャーは半分も出ていなかった。みんなどっか散歩へ出掛けてしまったみたいだ。僕はリシケーシュを訪れたのは2度目なので、観光欲はあまりない。ずっとレクチャーを聞いていた。だが、1人の教授につき1時間しか与えられていないので、それほど深い内容の講義はなかった。

 アーシュラムの食事は、僕のイメージする監獄の食事にそっくりである。一人一人大皿を持って列を作り、そこに配膳係の人からローティー、キチュリー、サブジーなどをドカッと乗せてもらう。アーシュラムの食事なので、全て純ヴェジタリアンである。8時に朝食、12時に昼食、7時半に夕食と毎日決まっている。味ははっきり言って薄味。自分で塩を振りかけて食べるとちょうどいい。

 夜にはカルチュラル・プログラム、つまり学生たちが出し物を出し合う集まりがあった。まず驚いたのは、アーグラーのサンスターンに通っているインド系移民の学生たちのパフォーマンスである。イギリス植民地時代、サトウキビ畑の契約労働者として、多くのインド人が世界各地の植民地へ送られた。フィジー、モーリシャス、トリニダッド・トバゴ、スリナム、ギアナなどなど。契約期間が終わった後もインドに帰らず、その土地に移民することに決めたインド人が、現在それらの国々にたくさん住んでいる。彼らはインドの文化を継承する目的で、必ず音楽を習うらしい。アーグラーには上記の各国からヒンディー語を勉強しに来ているインド系移民がたくさんおり、皆何らかの音楽の知識を持っているそうだ。今回のカルチュラム・プログラムでも、彼らはタブラー、ハルモニウム、ダウラクなどを演奏し、多くのバジャン(ヒンドゥー教の賛歌)を披露してくれた。また、バラタ・ナーティヤムを踊った人もいた。




インド系移民たちの演奏の様子


 それら優れたパフォーマンスの後に、タイミング悪く僕たち日本人も何かパフォーマンスをしなければならなかった。深謀遠慮した結果、「ふるさと」を皆で合唱するという無難なところで決着がついた。「ウサギ追いしかの山〜」という、自然に満ちた故郷を懐かしむ歌だ。しかし、残念ながらほとんどの日本人の若者にとって、その歌で描かれている情景は実体を伴っていない。東京生まれの人にとって、そんな光景はイメージだけのものだろうし、比較的田舎に生まれ育った僕でも、そういう自然の中で遊んだ記憶はあるが、それらの自然は現在は開発されてしまって、もう残っていない。皮肉なことに、「ふるさと」で歌われている情景は、ここリシケーシュにあるのだ。「山は青きふるさと、水は清きふるさと・・・。」まるで日中見たリシケーシュの風景そのものではないか。しかし、リシケーシュでこの歌を歌うことは正しいような気もした。故郷を懐かしむ歌ではなく、故郷に帰って来た歌として、リシケーシュの自然の中に染み込んでいくように思えた。

 他の国の留学生たちも、突然出し物を出せと言われた割には、頑張っていろんなパフォーマンスをしていた。歌を歌ったり、踊りを踊ったり、詩を朗読したり・・・。こうしてリシケーシュの第1日目が過ぎて行った。

11月23日(土) セミナー第2日目

 今日のセミナーは午前中の2つだけで、これで今回のセミナーの全講義は終了した。予定ではヒンディー語と英語の講義が行われるとのことだったが、結局全て英語の講義だった。僕はヒンディー語でも英語でも理解できるのでどちらでもよかったのだが、中にはヒンディー語しか分からない留学生とかもいるので(ロシア人とか)、そういう人にとってはあまり役に立たなかったみたいだ。

 普段サンスターンではヒンディー語で授業を受けているので、実は英語でインドの文化について講義を受けるのは新鮮な体験だった。しかし、つくづく思ったのは、英語でインド文化を説明することの限界である。インドの文化には特殊な用語が多く、それを英語に無理に翻訳してしまっているようなところがいくつかあり、「そう訳してしまったら、本当の深い意味が伝わらないんじゃないかなぁ」と個人的に首を傾げることがあった。やはりインドの文化を理解しようと思ったら、ヒンディー語の知識は必須だと実感した。しかも、無理に翻訳して物事を考えるのではなく、先入観を取り払ってありのまま捉えることが最も重要である。日本の「侘び」「寂び」を「Lonesome」などと訳して無理に説明しても、外国人には絶対に本当の意味を分かってもらえないだろう。

 全講義が終了し、あとはリシケーシュとハリドワール観光となる。つまり、今回の「Hindu Heritage Seminar」の日程3日間のうち、講義があるのは前半の1日半だけである。その辺りは主催者も参加者の気持ちをよく把握しているといえる。せっかくリシケーシュまで来ているので、大部分の学生たちの心は浮かれていて、講義どころではないのだ。早めに講義を終わらせておいて、残りの時間は学生たちをリフレッシュさせてやろう、という粋な計らいが心憎い。

 昼食後、皆でリシケーシュ観光に出掛けた。リシケーシュの北部にあるラクシュマン寺院に参拝するところから始まって、ラクシュマン・ジューラー(つり橋)を渡り、途中にある重要な寺院を見て廻りながらガンガーに沿って南下して行った。




ラクシュマン・ジューラーで
教授たちと記念撮影
左からシャシ・バーラー
ソーム・ディークシト
シャルデーンドゥ・シャルマー(敬称略)


 最後はパルマールト寺院のガートでヤッギャとアールティーの儀式を見た。ガンガーに沈む夕日を背景に、オレンジ色の衣服を身にまとったブラーフマンや修行中の子供たちが火を囲んで座り、マントラを唱えながら儀式を行い、そして多くの群集がその儀式を取り囲んで眺めていた。バジャンの生演奏が始まると、ガートに座っている人々はスピーカーからガンガーに向かって放出される大音響の音に酔いしれ、自然と手を打ったり身体を動かしたりする。その儀式を取り仕切っていたブラーフマンが、セミナーに参加していた僕たちに特別に挨拶をしてくれて、その中で「Welcome Home」と祝福を与えてくれたのが無性に嬉しかった。また、やはりセミナーに参加していたミスター・パドマシュリーは相当名の知れた人らしく、わざわざ挨拶を頼まれていた。




ヤッギャとアールティー


 思えば僕が「インドにはまったな」とはっきり自覚した瞬間は、昔、シヴァラートリの日にヴァーラーナスィーのガンガー河畔で見たアールティーだった。単調なマントラの音、自然に身体の動くバジャンの音、河岸を彩る無数の光、ブラーフマンたちの神妙なる仕草、群集たちの一体感、全てが僕にとって「ああ、インドだなぁ」と深遠な感動を与えてくれた。その後インドに留学することになり、インドに住んでいると、折に触れてそういう自覚を促す感動がある。今回リシケーシュで見たこのアールティーもその種のものだった。先生に「どうだった?」と聞かれたので、「もっとインドが好きになりました」と答えた。

 今日の夜にもカルチュラル・プログラムがあった。やっぱりインド系移民の人々は大活躍。いろんな歌を知っていてすごい。中国人、タイ人、ロシア人、モンゴル人、韓国人などなどが出し物を出して、歌を歌ったり踊りを踊ったりしていた。みんないろんなパーティー・ネタを持っていて羨ましい。僕は今夜は何もやらなかったが、他の日本人が歌を歌った。今日もいい一日だった。

11月24日(日) セミナー第3日目

 あいにく今日の天候は曇だった。太陽が出ないとリシケーシュの1日はとても寒くなる。思えば、「空に雲がある」という体験自体が久しぶりだ。デリーは雨季を過ぎたらもう空は毎日青々としている。

 午前中はガンガーでモーター・ボートに乗った。ガンガーの渡し舟2艘を1時間チャーターして、緑色のガンガーを遊覧した。団体旅行は値段交渉せずとも気楽に楽しめるので非常に楽である。もし個人旅行で同じような旅程を組んだら、至るところでインド人たちとの熾烈な交渉が待っている。そんなことを考えながら、ガンガー河畔の景色を楽しんでいた。2艘の船に分乗したので、船が近付くとお約束的にお互い水の掛け合いが始まった。みんな若いなぁ〜。




ボート同士で水を掛け合う


 モーター・ボートに乗った後、アーシュラムに戻って昼食を食べ、荷物をまとめた。もうデリーに帰る準備である。なんかあっという間にリシケーシュ・セミナーは過ぎ去ってしまったような気がする。僕はいつも1人で旅行しているので、気の知れた友達と一緒に旅行する楽しさを再発見させてもらえたように感じた。また、高校の修学旅行みたいな雰囲気で懐かしい感じもした。

 リシケーシュに来るときは僕たち3人はバスからあぶれてしまったのだが、帰りは僕たちもみんなと一緒にバスに乗り込むことができた。デリーに戻る途中でハリドワールに立ち寄り、観光をした。洞窟寺院やバーラト・マーター寺院などを見て廻った後、ガンガーのガートへ行ってアールティーを見た。しかしハリドワールのアールティーは激しく観光スポット化していて、ドーナー(河に流す灯り)を売る人、寄付を要求する人、見物客を整理する係の人、勝手に額にティラクを付けて金を要求する人などがゴチャマゼになっていた。リシケーシュのヤッギャとアールティーが素晴らしかっただけあって、ハリドワールのアールティーは不快感を催すほどだった。

 ハリドワールを出発したのは午後8時半過ぎ。僕は旅行を重ねる内に、もう既にバスの中でもグッスリ眠れる能力を身に付けていたので、デリー行きのバスの中ではほとんど眠っていた。だが、旅慣れていない人の中には一睡もできなかった人もいるみたいだ。

 デリーに到着したのは翌日の朝3時頃。夜道を爆走したようで、予想よりも早く到着した。いつも予定が遅れがちなインドでは珍しい。しかし今回ばかりは遅れた方がよかった。夜中の3時にデリーの夜道に下ろされたら危ないだろう。バスも走っていないし、リクシャーを見つけるのも難しい。6時に着いたならバスも拾えるだろうし、危険度も下がる。バスはジャミアー大学、サンスターン、ラージパト・ナガル、ディフェンス・コロニーなどを廻った後、僕は不本意ながらIITゲートで下ろされ、そこからずっと自宅まで歩かなければならなかった。家に着いたとき、ちょうど5時になっていた。

11月25日(月) 誕生日

 今日は僕の誕生日、24歳になった。

 大家さんの家族も僕の誕生日を覚えていてくれて(なぜか22日だと勘違いしてたが)、家で誕生日を祝ってくれることになった。

 しかし、インドでは誕生日などの祝い事の感覚が特殊である。インドにはどうも「喜びは分け与えるもの」という考え方がある。幸せな人をさらに喜ばせてどうするんだ、ということなのか、幸せを溜め込んでおくとよくない、ということなのか、よく分からない。とにかく、そのため、誕生日は祝ってもらうのと同時に、祝われる人は祝ってくれる人にミターイーなどを食べさせなければならない。また、年下の人にお菓子やオモチャなどプレゼントを与えなければならないらしい。なんか祝われる方が大変なのだ。

 昨年はまだインドのこの習慣をよく理解しておらず、大家さんに祝ってもらったにも関わらず、ミターイーなどを食べさせることをしなかった。今年は少し進歩したことを見せるため、あらかじめ「誕生日にはミターイーを食べさせます」と言っておいた。とはいえ、僕はミターイーがあまり好きではないので、普通にバースデー・ケーキを買うことに決めた。

 しかし、問題なのは大家さんの一家がジャイナ教徒であることだ。ジャイナ教徒は厳格な不殺生主義を貫いており、インド人の中でも特に菜食主義の傾向が強い人々だ。大家さんの家族も肉を食べないのはおろか、卵も食べない。そういう人々のために、インドでは卵を使用しないケーキも売られている。そのエッグレス・ケーキを買おうと思っていた。

 まずはグリーン・パークにあるエヴァーグリーンへ行ってみた。デリーではけっこう名の知れたレストラン&ミターイー店である。ところが、聞いてみるとここで売られているバースデー・ケーキは全て卵が使用されていた。カットされているケーキならエッグレス・ケーキはいくつかあったのだが。そこで、もうひとつの有名店レインボーズへ行ってみた。レインボーの本店はサフダルジャング・ディヴェロップメント・エリア(SDA)にあるのだが、工場はエセックス・ファーム近くのカルー・サラーイにある。工場の方を訪ねてみたら、やはりエッグレス・ケーキは売られておらず、オーダーメイドしなければならなかった。作るのに15分ほどかかるらしい。

 しかし、そもそも本当に彼らは卵入りケーキを食べないのか、疑問に思えてきた。そこで大家さんの家に電話して、ぶっちゃけて聞いてみた。そうしたら「卵単品では食べないが、ケーキなら卵入りを食べる」とのことだった。それを聞いてずっこけてしまった。君たちの宗教の信条を尊重してこれだけ苦労したというのに、案外いい加減なものだ・・・。そもそも卵が入っていないケーキはおいしくないだろうし、思っていたよりも店であまり売られていなかった。結局卵入りのノーマル・ケーキを買うことにした。レインボーズは品揃えが悪かったので、もう一度エヴァーグリーンに戻って、四角形のチョコレート・ケーキを買った。インドはケーキも量り売りである。4、5人くらい食べるので0.5Kgの小さめのケーキにした。ケーキの上には「Happy Birthday」と書いてもらった。誕生日に自分でケーキを買って、自分に「Happy Birthday」と書いてもらうのは何だか気恥ずかしい。やっぱり何かこれはおかしいのではないか。西洋の文化を無理矢理インドに持って来てしまったために起こった珍現象と言えるだろう。同時に24本ロウソクをつけてもらおうとしたら、「2」と「4」の形をしたロウソクを渡された。全部で106ルピー。ちなみにここの店のマネージャーはガウタム・ナガルに住んでて、僕のことを知ってた。だんだん近所で顔が知れた存在になって来てるような気がする。

 インドの誕生日会は、まずケーキ(ミターイー)を食べるところから始まる。大家さんたち一家が集まったところで、ささやかながら誕生日会が始まった。「2」と「4」のロウソクをケーキの上に立て、火をつけて、カメラの準備。みんなで「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」の歌を歌ってくれた。日本ではこの歌が終わったところでロウソクの火を吹き消すように記憶していたのだが、インドではこの歌が歌われている最中のあるタイミングで吹き消さなければならないらしい。僕はそのタイミングを逃してしまい、あたふたしたスタートとなった。

 ロウソクの火を何とか吹き消したのはいいのだが、インド人のとって、その後の主人公がナイフでケーキを切る行為の方がさらに重要のようだ。ケーキにナイフを入れた瞬間に拍手が起こったことで、「ああ、今けっこう重要な瞬間だったんだな」とわかった。まるで結婚式みたいだ。それから、ケーキを細かく切った後、今度は主人公がお客さん一人一人に手でケーキを食べさせると思っていたのだが、なぜか僕が家族から手で食べさせてもらった。僕がインドの誕生日会の習慣に動揺していたので、そうしてくれたのかもしれない。インド人の誕生日会に参加したのは初めてではないのだが、なんだか未だに要領を得ない。習慣の違いというのは面白いものだ。

 大家さん一家からは、オレンジ色のYシャツをプレゼントされた。なぜオレンジ色を選んだのか、それは敢えて聞かないでおこう。夕食は祝い事用の特別料理。サルソーン・カ・サーグやラージュマー・チャーワル、スペシャル・ローティー、ラッスィーなどを作ってくれた。

11月26日(火) 再び誕生日会

 昨日は大家さん一家に誕生日を祝ってもらったが、今日は友達と一緒に誕生日会を行った。

 誕生日会を行うということで、またケーキを買うことになった。昨日はグリーン・パークのケーキ屋エヴァーグリーンでケーキを買ったが、今日はSDAマーケットのレインボーズで買うことにした。レインボーズのケーキもデリーっ子の間ではけっこう有名である。数種類あったが、1キロ300ルピーちょっとのチョコレート・ケーキを1キロ購入。ケーキの上にはまたも自分で「Happy Birthday」と書いてもらった。

 この「自分で自分の誕生日ケーキを買う」という習慣は、インドでは違う形で楽しまれているような気がする。僕は2回とも無難に「Happy Birthday」と書いたが、もっとお茶目な人なら一発ギャグをケーキの上に書くのだ。そしてみんなの前でケーキを披露して爆笑を誘う、という寸法である。もし日本のように他人の誕生日のためにケーキを用意するような習慣なら、ケーキの上に書く文字はどうしても無難になってしまうが、自分で自分のバースデイ・ケーキを買うのだったらいろいろできそうだ。そう考えると、僕も「Happy Birthday」などではなく、もっと面白いのにすればよかったと思った。

 誕生日会の会場はマールヴィーヤ・ナガル近くにある友達の家にさせてもらった。周りの環境は劣悪でアフガン人の密集地になっているが、彼の家は屋上でテラスをまるまる利用できるので、パーティーするのにちょうどいい。気候もちょうどパーティー向けである。参加者は日本人&韓国人が6人。友達がおいしい日本風カレーを作ってくれて、それにキムチを添えて邪道な食べ方をしたりして、楽しく過ごすことができた。いい友達を持つことができて、僕は本当に幸せ者だなぁと思いつつ、デリーの霞んだ夜空を見上げていた。

11月27日(水) インターナショナル・トレード・フェア

 2週間前ぐらいから、デリーの幕張メッセの異名を持つプラガティ・マイダーンで、「インディア・インターナショナル・トレード・フェア2002」が行われていた。インド国際貿易祭とでも訳そうか。インド各州の物産品や、新製品のプロモーションなどが大々的に行われる毎年恒例のイヴェントである。しかし聞くところによると大変な混雑で、チケット買うのに一苦労、中に入るにも一苦労、中を見て廻るのも人の波をかきわけつつ、という状況らしい。しかもデリー中のスリが一同に会し大活躍していると言う。友達の中にもモバイルをすられた人がいる。そういう悪名も轟いているものの、国際貿易祭を訪れた人全てが口を揃えて言うには、一度見る価値はある催し物らしい。そのイヴェントも実は今日が最終日だった。

 サンスターンの先生は割と物分りがいいので、「みんなでトレード・フェアに行きたい」と言ったら、ランチの後早退することを許してくれた。そこでサンスターンから参加者を募り、総勢9人で3つのリクシャーに分乗してプラガティ・マイダーンへ向かった。

 プラガティ・マイダーンにはナンバー1から6までゲートが6つある。ナンバー4はアップー・ガルという遊園地専用の入り口、ナンバー5はプラガティ・マイダーン駅からの入り口なので、実質的にはイヴェント会場に外から入る入り口は4つということになる。事前にこの中でもゲート・ナンバー1がけっこう空いているという情報を得ていたので、プラガティー・マイダーンの南側にあるナンバー1へ行ってみた。

 ゲート・ナンバー1の状況は、聞きしに勝る混雑ぶりだった。しかしチケット売り場はそれほど混雑しておらず、スムーズに買うことができた。大人1人20ルピーだった。だが、中に入るために長蛇の列が出来ていた。その列は本当に数匹の蛇がプラガティ・マイダーンに首を突っ込んでいるかのごとくで、尻尾はクネクネと遠くの方まで伸びていた。その列に僕たちは並び、待つこと2、30分、ようやく中に入ることができた。

 その列に並んでいるときからそうだったが、中に入ってからはさらにスリ厳戒態勢で臨んだ。辺りを見回してみると、確かに怪しい容貌をした輩がうろついている。僕の左ポケットには小銭・小金とモバイルが、僕の肩掛けカバンの中には数千ルピーが入った財布が入っていた。常に左胸近辺に手を沿え、カバンは前に来るようにして注意深く歩いた。

 僕は今までプラガティ・マイダーンを何度も訪れたことがあったが、今回ほど広大な会場がフルに使用されているイヴェントを見たことがなかった。「ワールド・ブック・フェア」でも、建物のいくつかは未使用だった。そしてすさまじい数の来客。デリーは本当に人口が多いということを思い知らされる。しかもインド特有の不親切さがあり、どこで何が行われているのか把握するのが困難だった。一応ヘルプ・デスクのようなものはあったが、常にカウンターにはインド人が鈴なりになってるし、地図も見にくかった。というわけで、もう運を天に任せて、気の向くまま足の赴くまま、目に付いた建物に入ってのが一番手っ取り早かった。

 わざわざ貿易祭に出向いたわけだが、はっきり言って僕はあまり買い物に興味がない、といか男は結局買い物にそんなに興味がないものだと思うので、特に欲しいものはなかった。会場を適当に廻っていろんな店を見てみたが、全く「これは!」というものがなかった。アッサム州近辺のインド東北州の物産品には期待をしていたのだが、目新しいものはなかった。

 結局6時まで3、4時間ほどプラガティ・マイダーンの大混雑の中をウロウロしたのだが、僕が金を費やしたものは、コカ・コーラ一杯とココナッツ・ジュース1個だけだった。全ての店を見て廻ることなど1日ではとても不可能で、行き残してしまったところの方が多いとは思うが、最終日、インターナショナル・トレード・フェアを少しでも体験することができてよかった。

11月28日(木) アムジャード・アリー・カーン

 夕方からスィーリー・フォート・オーディトリアムで、有名なサロード奏者アムジャード・アリー・カーンのコンサートがあった。友達からパスをもらったので、行くことができた。

 最近インドでテロが相次いでいるせいか、警備は厳重だった。本当は携帯電話も持ち込み禁止だったが、僕のは発見されなかったのでうまくトラブルを回避することができた。やはりアムジャード・アリー・カーンの名はかなり有名らしく、スィーリー・フォートにはデリー中から上流階級インド人たちが大集合していた。ただ、1階席は満席になったものの、2階席は空席だった。

 今回のコンサートはアムジャード・アリー・カーンの音楽家人生50周年を記念するものらしく、彼の2人の息子アマーン・アリー・バンガーシュ、アヤーン・アリー・バンガーシュとの共演だった。この親子3人がサロードを演奏していた。また、マシュー・バーレイというイギリス人の若者がチェロを演奏し、ヴィックー・ヴィナヤークラムがガタムという打楽器を、サビール・カーンがタブラーを演奏していた。

 最初の演目はアムジャードのサロード、ヴィックーのガタム、サビールのタブラーの共演だった。まずはアムジャードがソロ演奏。サロードの音の使い方はスィタールと似ているのだが、音はスィタールよりも深みがある。また、スィタールにはフレットがあるが、サロードにはない。よって、フレットレス・ベースのような演奏法になる。

 ガタムという楽器はもしかして初めて見たかもしれない。素焼きの壺のような形をしており、両手の指で壺の腹の部分をカチカチ叩くのだ。また、壺の口には皮か何かが張られているらしく、タブラーのバーヤン(左側)の太鼓を手の平の下で撫でるような音(ガーイだったか)のような音も出すことができる。簡単な構造の楽器ながら、演奏者はそれに一生を費やしたかのような容貌をしており、手の動きも尋常ではなかった。

 タブラー奏者はなぜか片手で叩くのを得意技としているらしく、わざと左手を上に上げて、右手だけでティンティンティン・・・とハイスピードで叩いていた。基本的に打楽器二人組みは目立ちたがりで、サロード主体のコンサートだったにも関わらず、ソロ演奏を延々と続けたりして目立ちまくっていた。

 サロードの生演奏を見たのは確か2回目だ。1回、東京で行われたインド音楽のコンサートで、日本人が演奏しているのを見たことがある。基本的に眠気と戦いながら演奏を聴いていたが、時々目がハッと覚めるようなフレーズが飛び出したりして、何とか眠らずに済んだ。

 2つ目の演目では、アムジャードの息子アマーンとアヤーンが、チェロ奏者マシューと共に演奏した。マシューはチェロでインド音楽風の演奏をするという冒険に挑戦し、見事にインド人観客の拍手を受けていた。ただ、チェロの音はやはりインド音楽には合わないように感じた。

 最後はお約束通り、全員揃っての大合奏。アムジャード、アマーン、アヤーンの親子3人のサロードが見事に調和したとき、チェロの音は全く聞こえなくなってしまっていた。サロードはけっこう音がうるさいのだ。そして全員で合奏というのに勝手にソロ演奏合戦を繰り広げる打楽器二人組み・・・。最後はちょっと統率を欠いていたように思える。インド人演奏家は自己顕示欲が強いことが多いので、なかなかまとめるのが大変そうだ。

11月29日(金) デリーのデジカメ現像事情

 リシケーシュ・セミナーでいろいろ集合写真を撮ったので、写っている人に写真を焼き増しして配る必要が出て来た。いや、正確に言うと僕のカメラはデジタルカメラなので、現像をしなければならないのだ。

 デジカメにはメリットとデメリットがあるが、インドにおいてデジカメを使う際、もっともネックとなるのが写真の現像である。デジカメは普通のカメラと違って撮ったらすぐに見れるし、パソコンを持っていればモニターで写真を隅々まで見ることができるので、はっきり言って現像する必要性がない。今まで僕はインドで撮った写真を現像したことが1度しかない。その1度も、「インドでデジカメ画像が現像できるのか!」という驚きと共に試しに数枚現像してみただけだった。日本に帰ったときに現像する計画もあったが、やはりわざわざ現像する必要性を感じなかったので、何も現像せずにインドに来てしまった。

 インドでデジカメ画像を現像するのがなぜネックになるかというと、その値段の高さゆえである。去年グリーンパークの写真屋でデジカメ画像を現像してもらいに行ったとき、1枚25ルピーもした。日本だったら今いくらぐらいだろうか?去年パーキスターンを旅行したときに現像したら、僕の家の近くの写真屋で1枚15円とかそのくらいだったような気がする。インドの方が約5倍高いことになる。

 1枚25ルピーの衝撃があまりに強すぎたため、あれ以来写真屋には全く足を運ぶこともせず、デジカメの写真を現像しようなんていう考えも浮かんでこなかった。しかしリシケーシュ旅行が転機となり、そろそろ写真を現像してみようかという気になった。あれから1年経ったので、デリーのデジカメ現像事情も改善されていることだろう。1枚10ルピーくらいになっているのではないか。というわけで、リシケーシュの写真に加えて、今まで撮った写真の中から気に入った写真もついでに現像することにした。

 日本だったら、写真ファイルの入ったメモリーカードを写真屋に出せば簡単に現像してもらえるが、インドではまだこの方法は一般的ではない。わざわざCD−Rに焼いて出さなければならない。CD−Rの価格はネルー・プレイスで最低1枚11ルピー。まあこれは許せる値段である。今まで撮った写真の中から名作中の名作を厳選してCD−Rに焼いた。30枚ほどの写真ファイルがあり、合計76枚現像することになった。

 さて、どこで現像するかが問題である。前回現像したのはグリーン・パーク・マーケットのある写真屋である。まずはそこへ行って値段を聞いてみることにした。ところが、そこは1年前と変わらぬ料金、つまり1枚現像するごとに25ルピーだった。グリーン・パークのほかの写真屋も訪ねたが、そこも同じ料金だった。次第に焦ってきた僕は、バスに乗ってサウス・エクステンションへ。サウス・エクステンション・パート2の写真屋へ、ワラにすがるような気持ちで駆け込んでみたが、やはりここもズッコケの25ルピー。どうやらデリーの現在のデジタル写真現像料金は一律25ルピーのようだ。もっと安いところもあるかもしれないが、僕の家の近くで、デジカメ画像が現像できて、しかも安そうな写真屋はもう思い浮かばなかった。合計1900ルピーの出費か・・・。よく考えてみたら写真1枚=1食分の値段ではないか。だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたが、せっかくCD−Rに焼いたのだし、もうこれが最後だと決めて、思い切って現像してもらうことにした。出来上がりは明日の夕方らしい。あとは出来を見てみようではないか(結果報告。写真はきれいに仕上がったが、サイズがバラバラ・・・。日本では考えられない手の抜きようである)

11月30日(土) The Guru

 突如として「The Guru」という映画がデリーで公開され始めた。英語版とヒンディー語版同時公開されており、「ハリー・ポッター」や「スパイダーマン」並みに気合の入った上映体勢である。かつて一度予告編を見たことがあり、細かいことは忘れたが、何やらやたら楽しそうだ、という印象だけが残っていた。今日はリシケーシュで出会ったデリー大学の学生たちと遊んでいたので、みんなで映画を見に行くことにした。

 しかし映画館に着いてビックリ。インドの映画館には大体上映中の映画のド派手な看板が立っているのだが、「The Guru」を上映している映画館には、黒いレザーの服を着てムチを持って立ってる女の絵やら、男女が裸でベッドの上に座って本を読んでる絵やら、まるでピンク映画だった。映画の副題は「The Guru of Sex」・・・。警備員に「この映画はどんな映画?」と恐る恐る聞いてみたら、「セックスに関する映画だ」とそのものズバリ。僕が映画通を気取って「この映画面白そうだよ」と提案したので、非常に恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。しかし警備員が言うには「ブルーフィルムではなく、コメディー映画だ」ということなので、無理矢理見ることにした。

 監督はDaisy Von Scherler Mayerというハリウッドの人。「Dil Se」のプロデューサー、シェーカル・カプールがエグゼクティブ・プロデューサーをしてはいるが、基本的にイギリス映画のようだ。個人的な判断では、これはヒングリッシュ映画のカテゴリーには入らない。キャストはヘザー・グラハム(「オースティン・パワーズ2」に出演していた)、マリサ・トメイ、ジミー・ミストリーなど。いくらブルーフィルムではないと言っても、ブルーフィルムっぽく見えるので、観客は男中心。観客のテンションは異常に高かった。ちなみに僕が見たのはヒンディー語版である。




The Guru


The Guru
 インドでダンス・インストラクターをしていたラムー(ジミー・ミストリー)は、一攫千金を夢見てニューヨークへ渡ってきた。しかしそこでの生活はみじめで、レストランのウエイターを毎日する羽目になった。しかしラムーは諦めず、自分のダンスの才能を頼りにあるプロダクションに面接しに行く。彼のダンスは認められ、めでたく採用となったが、そのプロダクションはアダルトビデオ製作会社だった。恥ずかしがり屋のラムーは人前でそんなことすることができず、困惑する。

 そのアダルトビデオのお相手がシャローナ(ヘザー・グラハム)だった。シャローナには彼氏がいたが、彼には内緒で、結婚資金を貯めるためにアダルトビデオに出演していた。緊張するラムーを見てシャローナは優しく諭す。「人前で裸になることを恐れる必要はないわ。身体という服を着ていると思えばいいの。」

 一方、東洋かぶれの金持ちマダム、レクシー(マリサ・トメイ)は、ある日インドから聖者を招いて、その話を聞く会を催していた。ところが聖者が酒を飲んで倒れてしまったため、ひょんなことから通りすがりのラムーが聖者の代わりに講演をすることになった。ラムーはうろたえるが、さっきシャローナから聞いたセックスの極意を語り出し、出席者に感銘を与える。そしてみんなで踊り出し、ラムーは1日にしてセックス・グルとしての地位を築き上げる。

 ラムーのもとには毎日毎日性の悩みを抱えた金持ちたちが訪れた。ラムーはシャローナとプライベートで会って愛の講義を受け、彼女の話をそのまま信者に語った。こうしてラムーは大金持ちとなった。しかしいつしかラムーはシャローナを恋するようになっていた。

 シャローナと彼氏の結婚式の日が近付いていた。ラムーの心は次第に焦り始める。彼らの結婚式の日、ラムーはちょうどテレビで生番組に出演中だったが、遂にその場で自分はグルではなく、ただのダンス・インストラクターであることを告白し、シャローナの結婚式場へ駆けつける。

 結婚式場では衝撃の事実が発覚する。実はシャローナの彼氏もひとつ大きな悩みを抱えていた。彼はゲイだったのだ。彼はシャローナとの結婚を望んではいなかった。そしてゲイ友達もラムーと同時に結婚式場に駆けつけていた。こうしてラムーはシャローナと結ばれ、ゲイ同士も結ばれることになった。

 下ネタ連発の下品な映画だったが、思わず笑ってしまうシーンもたくさんあった。しかしさすがインド、ところどころきわどいシーンはカットされており、画像が飛ぶことがあった。最後のオチもよかったし、全体としてよくできた映画だとは思うのだが、依りによって女の子もいるグループの中で見に行ったので、こんな映画を選んでしまったことに非常に責任を感じていた。1人で見に行くべき映画だった。

 映画は終始インドっぽい雰囲気だったが、あくまで外国人から見た勝手なインドのイメージだった。昔からインドに対する偏見やイメージは凝り固まっていて変わっていないことを思い知らされた。英語圏では既に公開された映画で、イギリスではけっこうヒットしたようだ。だが、インドでわざわざこの映画を公開する意義はあまりないように思われた。

 この映画は終始お色気シーン満載だったが、その中で、ひとつだけ「これだけはインド人に見せるのはよくない」というシーンがあった。それは別にいやらしいシーンでも何でもなく、何を隠そう料理を作るシーンである。インド人は食べ物の浄・不浄に神経質であり、他人の唾液が自分の口に触れることを極端に嫌がる。だからこの映画の中に出て来た、鍋の中の料理にちょっと指を入れて味見、というシーンは、インド人にとって「こいつら何やってんだ」という嫌悪感を与えたのではなかろうか。別に味見をするのは悪くないが、もし指を直接食べ物の中に入れたら、その食べ物全体が「不浄」のカテゴリーになってしまう。あのシーンだけはよくなかった・・・。



―温故編 終了―

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