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【12月16日〜1月8日】

12月16日(月) 今年のインド映画音楽

 2002年のヒンディー語映画界は、公開された132本の内124本がフロップに終わるという、ボリウッド史上最悪の年となってしまった。今年記憶に残った映画といえば、「Raaz」、「Company」、「Devdas」、「Dil Hai Tumhara」、「Shakti」ぐらいである。さて、今年のフィルム・フェアはどうなるだろうか?

 映画自体に傑作が少なかったとはいえ、映画音楽はまた別である。今年の僕のお気に入りのCD、曲を挙げてみようと思う。

■「Raaz」(Nadeem-Shravan)

 おそらく今年インドの街角でもっとも流れたのが、この「Raaz」の曲だろう。メロディーに目新しいものはなく、収録曲の雰囲気がどれも似通っているのだが、インド人に言わせれば歌詞が非常にいいらしい。僕の個人的なお気に入りは「Yeh Shaher Shanti Shanti」だが、他の曲も独特の哀愁があってよい。

■「Haan... Maine Bhi Pyaar Kiya」(Nadeem Shravan)

 映画自体はあまりヒットしなかったのだが、曲はとてもよかったと思う。僕は「Zindagi Ko Bina Pyaar」が一番好きだが、映画のクライマックスで劇的な使い方をされた「Mubarak Mubarak」もいい。

■「Company」(Sandeep Chowta)

 ハードロック調の曲と、アーシャー・ボースレー(ちなみにお婆さん)のファンキーな歌声のアンバランスさがいい「Khallas」も好きだが、もっとも気に入っているのは「Tumse Kitna」。残念ながらなぜか映画中、この曲は使用されなかったのだが、それ故余計にレアさが出てよい。耳コピしてギターで弾けるようにしたほどだ。今でもこの曲は僕のレパートリーに入っている。

■「Devdas」(Ismail Darbar)

 イスマイル・ダルバール得意の、いわゆる「インドっぽい」メロディーの曲が目白押しのCD。それでいていろんなヴァリエーションがあり、なかなか。カタック・ダンスの大御所、ビルジュー・マハーラージの歌う「Kahe Chhed Mohe」は絶品。難しいヒンディー語で歌詞が書かれているので、意味を聴き取るのはインド人にも困難のようだ。マードゥリー・ディークシトの踊りがフラッシュ・バックする「Maar Daala」もよい。

■「Dil Hai Tumhaara」(Nadeem Shravan)

 個人的にこの映画は今年の最高傑作。歌も古風ながら叙情がこもっていて、頭に残り、とてもよかった。僕のお気に入りは「Dil Laga Liya Maine」。プリーティ・ズィンターの踊りがかわいく、そして悲しかった。テーマ曲の「Dil Hai Tumhaara」も人気が高い。

■「Sur」(M.M.Kareem)

 ラッキー・アリーのファン(そんなのいるのか知らないが)にはたまらない映画&サントラ。音楽がテーマになっている映画のサントラだけあって、非常にいい曲が多い。中でも僕のお気に入りは「Aa Bhi Ja」と「Jaane Kya Dhoondta Hai」。「Dil Mein Jaagi Dhadkan Aisi」もよい。

■「Road」(Sandesh Shandilya)

 最初聞いたときは、あまりの斬新さにあまりCDを買う気がしなかったのだが、大家の息子のスラブがこの映画の曲を気に入っており、それにつられて僕もこのCDを買ってしまった。なんとなく脳みそに突き刺さるような曲が多い。この音楽監督にはこれから期待している。

■「Jeena Sirf Merre Liye」(Nadeem Shravan)

 映画はまあまあだったが、CDはとても好きだ。テーマ曲の「Jeena Sirf Merre Liye」は耳コピしてギターで弾けるようにした。時々道を歩いているとこの曲を知らず知らずの内に口ずさんでしまうことがある。カリーナー・カプールがパリのエッフェル塔の前で踊る「Ek Baar To India」もキャッチーで好きである。

■「Chura Liyaa Hai Tumne」(Himesh Reshammiya)

 今年のインド映画音楽の中で、もっとも気に入ったダンス系音楽は、このCDに収められている「Mohabbat Mirchi」である。昨年の「Mehbooba Mehbooba」(映画「Ajnabee」の曲)並みの個人的大ヒット。まだこの映画は公開されていないのだが、既にテレビではこの曲のダンス・シーンがオンエアされ始め、ダンスもなかなかかっこいい。大期待。

■「Dum」(Sandeep Chowta)

 まだ発売されたばかりで、映画は公開されていない。だが、既にプラネットMやミュージック・ワールドのヒット・チャートで健闘している。音楽監督は「Company」のサンディープ・チャウター。彼の持ち味の、ヒンディー・ハードロックな曲が多い。まだ聴き込んでいない。

■「Bollywood Hollywood」(Sandeep Chowta)

 まだ現時点では公開されていない映画のサントラ。これもサンディープ・チャウター。彼はこれから急成長していく音楽監督だと思われる。「Chin Chin Choo」のリミックスが欲しくてこのCDを買った。まだ聴き込んでいない。

 こうして自分の趣向を改めて見直してみると、最近の僕のお気に入りの音楽監督はナディーム・シュラヴァンとサンディープ・チャウターだと言える。う〜む、気付かなかった・・・。そういえばA.R.ラフマーンのCDがひとつも入っていない。今年はラフマーンはあまりヒンディー語映画界で活躍しなかったかもしれない。

12月17日(火) 各国ヒンディー語習得事情

 外国語を習う際の障害は、それぞれの国よって異なる。特に発音にはそれぞれのお国事情が絡んで、同じ言語を習っていても各国各様の発音になってしまう。例えば日本人が英語を習う際、最初に克服しなければならないのは、子音+母音+子音の音節構造である。それを克服しない限りは、ジャパニーズ・イングリッシュを脱することはできない。その他、母音の発音や「r」と「l」の区別などが日本人にとって難関となるだろうか。

 ヒンディー語を習う際も、当然同じような問題が発生する。サンスターンにはいろんな国の人がヒンディー語を習いに来ているので、各国訛りのヒンディー語を聞くことができる。韓国人は韓国訛り、フランス人はフランス語訛り、イラン人はペルシア語訛りのヒンディー語を話す。そういえば「Lagaan」に出ていたイギリス人のヒンディー語は、インド人の爆笑を誘っていた。もちろん日本人も日本語訛りのヒンディー語を話していると思うのだが、自分ではあまり意識しない。日本人の話す英語が日本人にとって聴き取りやすいのと同様、日本人の話すヒンディー語が日本人の僕にとって聴き取りやすいのは確かだ。

 サンスターンには現在韓国人の学生が非常に多い。だから韓国語訛りのヒンディー語に接する機会が多い。こう言っては悪いのだが、韓国人には、ヒンディー語の発音は非常に難しいみたいだ。彼らのヒンディー語には無声音と有声音の区別が欠如していることが多いので、聴き取るのに非常に苦労する。

 最近気付いたことだが、どうも英語圏や欧州語圏の人には、短母音と長母音の区別が非常に困難なようだ。ヒンディー語には短母音と長母音の区別があるので、それを発音し分けないと正確なヒンディー語にならないし、聴き間違いの機会も多くなってしまう。例えば、バラト(人名)とバーラト(インドの正式名)の区別が彼らにはつきにくいようだ。日本語には、例えば「おや(親)」と「おーや(大家)」のように短母音と長母音の区別があるので、日本人にはそれはそう難しくはない。

 去年くらいからヒンディー語の固有名詞のカタカナ表記について考えていて、まだ確固たる結論は出ていないのだが、やはり基本的に短母音と長母音の区別はつけるべきだと思う。この区別はヒンディー語と日本語の共通事項なので、それをわざわざ排除して書くのは、日本とインドを結ぶ線を一本切り落とすような気がして気持ちが悪い。また、ヒンディー語の固有名詞をカタカナにする際、英語を解すべきではないと思う。英語表記は袋小路にしておいて、ヒンディー語から直接カタカナにすべきだ。なぜなら英語表記にはヒンディー語のエッセンスのいくつかが消去されてしまっているからだ。英語ではバラトもバーラトも「Bharat」になってしまうが、それはただ単に彼らが短母音と長母音の区別を聞き分けられないだけであって、それ以外の深い理由はない。短母音と長母音の区別を知る日本人が、その欠陥表記に従う必要はない。

12月18日(水) インドから年賀状を送る

 僕は毎年欠かさず年賀状を送っている律儀な人間である。大体高校時代から毎年150〜200枚ほどの年賀状を友人や恩師に送っている。去年はインドにいながらもその習慣を捨てきれず、いや、実際には「インドから年賀状」なんて洒落てるじゃないか、という悪巧みと共に、インドから年賀状を148枚送った。1枚10ルピーする絵葉書と8ルピーの切手を148枚買ったので、合計3000ルピーほど年賀状のために費やしたことになる。もちろん年賀状のために、一刻も早く旅行に出掛けたい気持ちを抑えて、冬休みの貴重な時間も費やした。ところが、その148枚の年賀状は、日本には届かなかった。1枚も届かなかった。時々日本の郵便局でも、年賀状の届け忘れが発見されることがあるが、普通に考えたらインドの郵便局の不手際である。あれだけ金と時間を費やしたのはいったい何だったのか・・・。1月1日にも届かず、2日には普通届かないが、3日にも届かず、1週間経っても届かず、1ヶ月経っても届かなかったことから、僕の心は空虚感でいっぱいになった。僕の年賀状を楽しみにしていた人々からも苦情の声が届き、僕は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになると共に、インドの郵便局に対するやり場のない(やり場はあるか)怒りが込み上げてきた。2002年の幸先は決していいものではなかった。

 あれから1年経った。まず今年も年末年始はインドで過ごす僕は、今回も年賀状を送るか決断に迫られた。別に年賀状を送らなくてもいいじゃないか、という、他の人なら誰でも考えそうな考えが、初めて僕の心に浮かんできた。メールで送ったっていいじゃないか、というモダンな考えも浮かんできた。だが、結局、今年もちゃんと手紙で年賀状を送ることにした。

 僕はもうインドの郵便局を信頼していないので、今回は方法を改めることにした。まず、日本からお年玉付き年賀ハガキを小包で送ってもらい、それに文面と宛名を書く。そして、そのハガキを年末年始に日本に帰る人に頼んで日本に持ち帰ってもらい、成田空港の郵便局で出してもらう。こうすれば、その友人がうっかり忘れない限り、必ず2003年の1月上旬には確実に届くはずである。

 既に日本からお年玉付き年賀ハガキを送ってもらっていたので、今日はその年賀ハガキの文面を作成した。もし日本だったらいくらでも工夫できるのだが、インドにいると材料と手段が限られているので、あまり凝ったものはできない。だが、もう今回のテーマはとにかく「インドから年賀状を出し、無事に届く」ということに徹しているので、極端な話もう届けばそれでいい。あとは宛名を書くだけである。今度こそは絶対に年賀状を届けてみせる、と心に誓った2002年の暮れであった。

12月19日(木) かっぱえびせん論争

 先月あたりから、デリーに留学している一部の日本人と韓国人の間で、「かっぱえびせん論争」が密かに活発化している。はっきり言ってインドに来てまで論争するまでもない、しょうもないトピックだし、わざわざインドをテーマにしたこのウェブサイトで発表する必要もないかもしれないが、最近テスト&テスト勉強で書くことがないので書いておこうと思う。

 事の発端は、ある韓国人が、日本で発売されているカルビーのかっぱえびせんを見て、「これは韓国のスナック菓子だ!」と主張したことにある。カルピーのかっぱえびせんと言えば、日本人なら誰でも知っている、日本人に最も親しまれているスナック菓子である。とは言え、特に今までかっぱえびせんに特別な感情を抱いていなかったのだが、突然韓国人にかっぱえびせんを「これは韓国のスナック菓子だ!」と主張されるとなぜかムッと来る。これはおそらく日本人万人に共通した感情だと思う。

 だが、韓国人のその主張にも同情の余地はある。まずは下の写真を見てもらいたい。




セウカン(発売元:ノンシン)


 これはあの有名な辛ラーメンを出しているノンシンという韓国の食品会社が発売している、「セウカン」というスナック菓子のパッケージである。日本人が見れば一発で分かるが、これは明らかにカルビーかっぱえびせんのパクリである。まるで一緒ではないか。

 上の写真はノンシンの韓国語版ホームページから失敬したものである。よく見てみたら日本語版もあったので、そちらも除いてみた。すると、こちらではパッケージの写真が下のようになっていた。




Shrimp Cracker
海外販売向けパッケージ
のようだ


 1番最初の写真に比べると、パッケージのデザインが明らかにカルビーかっぱえびせん風デザインから外してある(それでも十分かっぱえびせんを連想させるが・・・)。国内販売向けと海外販売向けでは、パッケージのデザインが何らかの意図によって変更されているようだ。これが意味するものは何であろうか?セウカン国内販売用パッケージ・デザインには、海外販売の際に何か不都合でもあったのだろうか?このデザイン変更に確信犯的な邪悪な意図を感じるのは僕だけだろうか?

 だが、これだけでセウカンがかっぱえびせんのパクリ商品であることを決め付けることはできない。なぜなら、カルビーの方がノンシンの商品をパクッた可能性が依然残るからだ。そこで、今度はセウカンとかっぱえびせん、どちらが先に発売されたかを調べてみた。すると、韓国代表セウカンの発売は1971年12月なのに対し、日本代表かっぱえびせんが発売されたのは1964年であることが分かった。7年も先にかっぱえびせんは日本で発売されていた!・・・勝った!かっぱえびせんの完全勝利である。かっぱえびせんの方が早く発売されていたのだ!デザインはどうあれ、あの形態のお菓子は韓国よりも日本で先に発売されていたのだ!当然の帰着といえば当然だが、安心といえば安心の結果である。

 かっぱえびせんのホームページには、かっぱえびせんの生みの親が語る、かっぱえびせん秘話なども掲載されているので、日本のかっぱえびせんが元祖であることはほぼ間違いない。だが、セウカンの方ももう既に30年以上韓国で親しまれているスナック菓子であるため、韓国人も愛着を持っているようだ。別に韓国人に恨みがあるわけではないので、今はそっとしておいてやりたい。だが、もし今度論争を挑まれたら、今度こそはキチンと教え諭してやらなければならない。かっぱえびせんのホームページと、ノンシンのホームページを示して、真実を太陽の下にさらけ出さなければならない。

 それにしても本当にしょうもない論争である・・・。

12月20日(金) クリスマス会

 昨日でテストも無事終了し、今日はテストの結果発表とカルチャー・プログラム(クリスマス会)があった。何か出し物をしなくてはならない。僕は「Jeena Sirf Merre Liye」を歌うことにしていた。僕がギターを弾き、友達にアフリカの打楽器ジャンベーを叩いてもうらことになった。昨日突然決まったので、今日の朝1時間早く来て練習することにした。

 ところが、ここのところずっとオート・リクシャーのストライキが継続している。もう1週間以上である。デリーの交通状況は異常な状態に置かれている。冬休みで今デリーに来る観光客は、かなり大変なのではなかろうか?しかもオート・リクシャーのストライキに便乗する形で、タクシーもストライキを始めてしまった。新聞によると来年までこのストライキは続くらしい。

 僕はバスを普段から使いこなしているので、バスの路線があるところへは問題なく行くことができる。一番困っているのは普段バスを毛嫌いして使っていなかった人たちだ。彼らはオート・リクシャーがなければ全く動くことができないから大変である。日頃の行いがいざというときものをいう。

 しかし、いくら毎日バスで通学している僕でも、ギターを持っているので今日はオート・リクシャーで行きたい気分だった。ギターを買うときにケチったので、ギター・ケースは持っていない。要するにいつもギターを裸で持ち運んでいた。それだけならまだ道端の子供たちから、「お兄さん、何か演奏してよ」と声を掛けられるだけで済むのだが、そのままバスに乗り込むと問題である。まず、現実的な問題として、満員バスの中にギターを持って入るのは、かなり精神的疲労が多い。また、もし空いていたとしても、いきなりバスの中に裸のギターを持って乗り込むと、乗客たちから大道芸人に見られてしまう。よくバスに乗ってると、ダウラク(両面太鼓)、ハルモニウム、タンバリンなどを持った、乞食に等しい音楽家たちが乗り込んできて、歌を歌って楽器を鳴らして、料金を徴収する場面に出くわす。それとほとんど同じ状況になってしまうので、あまり裸でギターを持ってバスに乗りたくないのだ。

 オート・リクシャーもなく、バスも使わないとなると、もう残された選択肢はひとつ。歩くしかない。幸い、僕の家からカイラーシュ・コロニーにある学校まで、歩いて50分くらいなので、頑張れば無理な距離ではない。というわけで、今朝は裸のギターを抱えて、トボトボと歩いて学校まで行った。G.K.1に入ったところにサイクル・リクシャーがいたので、それに乗って学校まで急いだ。こんな状況だと、ただ黙々と毎日自転車をこぎ続けるサイクル・ワーラーが神様に見える。

 オート・リクシャーのストライキのためか、今回のクリスマス会に参加した人の数は例年に比べて少なめだった。僕は予定通り友達と「Jeena Sirf Merre Liye」を演奏し、歌った。ジャンベーの音がやたらでかいので、ギターにマイクを近づけて演奏した。それでもやはりジャンベーの音はでかい。なかなか好評だった。他にスリランカ人がシンガリー語でクリスマス・ソングを歌ったり、韓国人は韓国語でクリスマス・キャロルを歌ったり、最後にみんなでインド国歌を歌ったりした。




「Jeena Sirf Merre Liye」を歌う


 帰りはさすがに歩きたくなかったので、ギターを持ってバスに乗った。するとやはり乗客の視線は一気に僕の方へ向く。「なんだこいつは」という不審に満ちた視線である。車掌も僕の方を大きな眼を見開いてじっと見据えている。僕がポケットに手を入れ、運賃を払うと、「なんだ、なんでもないか」と、皆ホッとした表情になった。それにしても、もしかしてどうもバスに乗り込んでくる大道芸人や物売りたちは、暗黙の了解としてバスの運賃を払わなくていいようだ。そういうおおらかなところがインドの好きなところである。僕ももし演奏し出したら、少なくともバスの運賃だけは免除されたかもしれない。運がよかったらおひねりももらえるかも・・・。日本人初バス芸人になろうか・・・。

12月21日(土) 冬休み旅行

 旅行は僕のもっとも中心的な趣味である。連休や長期休暇が近付くと、自然に僕は旅行の計画を練り始める。昨日で学校が終わり、今日から冬休みになった。当然、もう1ヶ月ほど前から旅行の計画は練っていた。去年は南インド旅行に出掛けた。さて、今年はどこへ行こうか・・・。既にインドはかなり旅行したので、だんだん行くところがなくなってきているのも事実である。そんな中から僕が選んだ旅行先とは・・・。

 当初、僕はアンダマン&ニコバル諸島を狙っていた。アンダマン&ニコバル諸島は、インドとマレーシアの中間、ベンガル湾に浮かぶ小さな島々である。行政的にはインドの領土となっているが、文化的にはかなりインドと違うらしい。また、太平洋戦争中、日本軍はこの島まで占領していた。だから今でも日本の神社が残っていたりする。日本人にとって割と因縁のある土地である。見所はやはり美しいビーチだろう。

 おそらくアンダマン&ニコバル諸島は、あと5年もすればインドのもっともホットな観光地となるはずである。アンダマンのいいところは、安い宿泊施設が充実しているところだ。アラビア海に浮かぶ同じようなビーチ・リゾート、ラクシャードゥイープ諸島(インド領)やモルディブなどに比べて格安である。また、アンダマンは軍事的にも要衝であり、これからますます重要度の増す場所だと踏んでいる。是非観光客に汚染される前に行ってみたいと思っていた。それに12月、1月はアンダマンのベスト・シーズンである。

 ところが、アンダマンまでの交通費を計算してみたところ、やはりかなり高くなってしまうことが分かった。手段は2つ、船か飛行機である。カルカッタとチェンナイから船、飛行機共に出ている。飛行機の値段は片道7000ルピー前後、船なら片道1500〜4000ルピーである。また、飛行機はほぼ毎日運行されているが、船は1月に2〜4便しかない。大体60時間前後かかるそうだ。

 船で行くのがもちろんもっとも安上がりだが、便数が少ない上に2泊3日以上かかるので、限られた期間内で行って帰ってくるのは日程的につらい。やはり飛行機を考えた。僕は学生料金が利くので、飛行機は半額になる。すると、往復7000ルピーほどで行けることになる。しかし、飛行機に乗るためにカルカッタかチェンナイに行かないといけないので、その分の金、時間も当然必要になって来る。そう考えると、なんかバンコクに行った方が安いように思えてきた。デリーから直接アンダマンへ飛行機で行けたらもっと真剣に考えたのだが、デリーからチェンナイかカルカッタへ行って、そこで余裕を見て1日くらい滞在して、その後飛行機に乗って・・・と考えていたら面倒になってきて、とうとうやめることにしてしまった。

 というわけで、アンダマンを諦めた結果、結局今回の冬休みは、現在の僕のマイブームであるマディヤ・プラデーシュ州を旅行することに決めた。主な目的地はマンドゥ。近いし、暖かいし、興味深いものがよく残っている州なので、最近かなり評価が急上昇中である。インダウル、オームカレーシュワル、マヘーシュワルなどを廻って、もう一度ビーム・ベートカーも訪れてみる予定である。

12月22日(日) ムドリカー・バス

 最近個人的な用事で北デリーへ行くことが多いので、南デリーと北デリーを結ぶムドリカー・バスを愛用している。「ムドリカー」とはヒンディー語で「指輪」という意味である。デリー市街地をグルッと取り巻くリング・リードをグルグル廻る環状線バスである。普通デリーの市バスには3桁の数字が振られているのだが、ムドリカー・バスには番号がない。内回り(反時計回り)は「−」(マイナス)、外回り(時計回り)は「+」(プラス)という記号になっている。それらの記号は○の中に書かれている。だから最初「+」バスを見たとき、てっきり鹿児島の大名、島津氏の家紋かと思ってしまった。それはないにしても、病院関係のバスだとずっと思っていた。ムドリカー・バスはリング・ロード・サーヴィスとも言うようだ。

 ムドリカー・バスは僕の家の近くのサウス・エクステンションも通るので、利用するのは簡単である。僕はいつも北デリーへ行くときは「−」バス、南デリーへ帰るときは「+」バスを利用しているので、リング・ロードの東側をいつも通っている。このバスを利用すれば、サウス・エクステンション、ラージパト・ナガル、アーシュラム、サラーイ・カーレー・カーン・バススタンド、ニザームッディーン駅、ITO、インディラー・ガーンディー・スタジアム、フィローズ・シャー・コートラー、ラール・キラー、ラージガート、ISBT、マール・ロード、アーザードプル、PVRナーラーヤナー、ダウラー・クーンアー、ハイアット・リージェンシー、メディカルなどに行くことができる。非常に便利なバスである。

 なぜかこのムドリカー・バスは、やたらと便数が多い。利用者が多いからであろうか、大体5分の1本は必ず来るし、一度に2、3台ムドリカー・バスがバス停に突っ込んでくることもある。だから基本的に車内は空いている。しかも客の循環が頻繁にあるので、座れる可能性も他の路線バスに比べて高い。例え混んでいても、主要なバス停で一気に乗客がドサッと降りることが多い。はっきり言って、デリーのバスを1年以上に渡って使い続けている僕にとって、ムドリカー・バスは「快適」レベルのバスである。

 そんな中、最近になって新しいムドリカー・バスが走り始めた。レディース・スペシャル、またはマヒラー・スペシャルと呼ばれる女性専用ムドリカー・バスである。本数はそんなに多くないのだが、今まで2回、目にすることができた。女性しか乗車することを許されず、車内に男は運転手と車掌だけという、まるでハーレム状態のバスである。運転手と車掌も女性だったら完璧だったのだが、まだそういう仕事に女性は進出していないので仕方ないか。車体はまあきれいな方で、座席もよく、カーテンが付いており、噂によると車内には絨毯が敷かれているらしい。ここまで来ると男が逆差別されているような気分になる。女だったら一度は乗ってみたいバスだろう。

12月23日(月) 年賀状送付準備完了

 年賀状の宛名書きが完了した。150枚の年賀状を用意したのだが、今年は120枚ちょっとしか送れなかった。別に友達が急に減ったというわけではない。僕は去年インドに来る前、年賀状を送るために知人の住所をパソコンに入れて来ていていたのだが、今年の5月に日本に帰ったときは別に住所に関して何もしなかったため、この2年の内に住所が変わってしまったと思われる人がけっこう増えてしまったからだ。Eメールで住所を聞こうにも、もう時間がないので返信を待っている暇はない。そういう人たちには、Eメールで年賀状を送った方が手っ取り早いだろう。

 海外にずっと住んでいると、だんだん日本在住の人々と縁が切れてくるように思える。そんな中、年賀状というのは、1年に1度、知人友人との縁を結び直すのにちょうどいい習慣だと思う。僕は物心ついたときから毎年年賀状を出し続けている。年賀状がなかったら、とっくに関係が切れてしまっていたであろう人々とも、年に一度近況を伝え合うことができている。去年はインドの郵便局の陰謀により年賀状が届かず、おそらく僕のところに届く年賀状は激減してしまうだろうが、別に僕は返信を期待して年賀状を送っているわけではないので、とにかく送り続ければいい。

 ちょうどクリスマス後に日本に帰る友人がいたので、今回はその人に頼んで成田空港で僕の年賀状を出してもらうことにした。もし来年年賀状が届かないとしたら、その友人がインドに置き忘れるか、出し忘れるかのどちらかの可能性が高い。しかし、インドから年賀状を出すよりは、届く可能性が高いだろう。特に凝っているわけではないが、とにかく届いてもらえればそれで嬉しい。

12月24日(火) 雨のクリスマス・イヴ

 インドはあまりクリスマスが祝われない国である。最近になってデリーもクリスマスの時期にはクリスマスっぽい雰囲気になってきてはいるが、東京のあのクリスマス1ヶ月前からのドンチャン騒ぎを見ている者としては、デリーのクリスマスはまだまだ気合が入っていない。ディーワーリーやホーリーで気合が入り過ぎているので、これ以上気合は入れなくてもいいのだが。一応インドでは、クリスマスは祝日となっている。

 そんなクリスマスっぽくないクリスマス・イヴを、さらにクリスマスっぽくしなくさせる出来事が起こった。なんと朝から雨が降り始めたのである。・・・雨?雨といえば雨季が終わってから一度も降っていなかったではないか・・・?それなのになぜ今頃になって降りだすのか?しかもクリスマス・イヴの日に・・・?クリスマスの日に雨が降るとホワイト・クリスマスということになって、世の人々に歓迎されるのだが、雨が降るとかなり興ざめである。レイニー・クリスマスか・・・。この雨は容赦なく昼過ぎまで続いた。

 去年のことはあまり覚えていないのだが、今年街角でふと気付いたのは、サンタクロースがやたらと辺りをうろついていることである。お馴染みの赤い服を着て、仮面を付けて、白いヒゲを生やして・・・。それがデリーの至るところにいるのだ。クリスマスにサンタクロースがいるのは全く問題ないが、問題なのはそれらが全員全く同じ衣装を着けていることだ。カムラー・ナガルのマーケットを馬車に乗って駆け抜けて行ったり、サウス・エクステンションのデパートの中で客に愛想を振りまいていたり、ニザームッディーン駅近くのガソリン・スタンドの前に立っていたり・・・。なんか不気味な現象である。

 僕の勝手な予想では、おそらくこれらのサンタクロースは同じ会社から派遣されて来た人々だと思う。「あなたの店にサンタクロースはいかがですか」みたいな宣伝文句で、クリスマスの時期のみの期間限定アルバイトを派遣している会社があるのだ。そうでないとしたら、サンタクロース変身セットを売る会社があって、「あなたの店の社員をサンタクロースに変身させてみませんか」みたいな宣伝文句で、サンタクロースの衣装を売ったのだろう。同じ衣装を身につけたサンタクロースがデリーの街に氾濫しているこの状況をうまく説明するには、これら2つのどちらかしかない。しかしインドでサンタクロースを見ると、なんだか気味が悪いのは僕だけだろうか?あまりインドの雰囲気にマッチしていないように思える。

 クリスマスの時期には、子供たちもなぜかサンタクロースの衣装を身に付ける。これはけっこうかわいい。また、サンタクロースっぽい赤い服が店頭によく並んでいるのを見かけるが、これも偶然ではなかろう。それにしてもデリーでもっともクリスマスらしい場所ってどこだろうか・・・?

12月25日(水) クリスマス

 日本人はどちらかというとクリスマスよりクリスマス・イヴを重視している感があるが、インドではクリスマスが絶対的に重要のようだ。聞くところによるとクリスマス・イヴを特別視する習慣は日本独自のものらしい。インドは今日は祝日。学校の冬休みも今日から始まることが多く、インド人にとって今日はどんちゃん騒ぎに打ってつけの日である。夜になると南デリーのあちこちで無謀な運転をする若者が氾濫したり、街の至るところでパーティーが開かれたりしていた。

 今日は友達とPVRアヌパム4に映画を見に出掛けたのだが、予想通りどれも満席でチケットは手に入らなかった。現在「Kaante」がヒットしており、「Saathiya」も楽しそうである。どちらかのチケットが手に入ればと思っていたのだが、それはインド人も同じだったみたいだ。

 PVRの周りはインド人で溢れ返っていた。雰囲気は全然クリスマスっぽくないのだが、まあデリーの中ではクリスマスっぽい活気を呈している場所だろう。PVR周辺は乞食の子供も多くうろついているのだが、彼らの顔も普段とは一味違った。

 昨日の日記に書いた、同じ衣装のサンタクロースはPVRアヌパム4のマーケットにも出没していた。そこへ同じくサンタクロースのかっこうをした子供が近付いて行った。大人のサンタクロースはその子供を見ると、「いい子だね〜」と頭を撫で、ポケットからチョコレートを取り出してその子供にあげていた。それだけなら世界中のどこにも見られる光景だと思うが、インドのすごいところは、その子供のすぐ後ろから、2、3人の薄汚い格好をした乞食の子供が、そのチョコレートをもらう子供を、なんとも言えない表情で眺めていたことである。サンタクロースの格好をした子供は、クリスマスにサンタクロースの衣装を買ってもらえるくらい裕福な家の子供だろう。その子供はチョコレートをサンタクロースからもらうことができた。しかし、一番腹を空かせているであろう、もしかしてチョコレートの味なんて味わったことがないかもしれない乞食の子供たちは、サンタクロースからチョコレートをもらうことができなかった。一瞬の光景だったが、僕の心を打った。あいにくカメラを持っていなかったので写真に収めることができなかったが、もし撮れたとしたら、すごい奥の深い写真になったと思う。

 映画を見ることができなかったので、今度はG.K.2のマーケットへ行った。昔このマーケットに来たときは、まだまだ発展途上のマーケットという感じだったのだが、あれから劇的に変動を遂げ、G.K.2はバーの集合体マーケットと化していた。おそらくデリーでもっともバーの多いマーケットだろう。このままナイト・ライフ・エンターテイメントに特化していけば、G.K.2マーケットも利用価値が出てくるかもしれない。あと、マクドナルドができれば、マーケットとしての価値は確立する。現在バリスタとニルラーズはある。僕たちは100デグリーというバーで軽く飲んだ。個人的なカテゴライズでは、いわゆるBuzz系バーというやつで、音楽がやたらとうるさいバーだった。

12月26日(木) Saathiya

 今日は新作映画「Saathiya」を見に、PVRアヌパム4へ行った。この映画の音楽はA.R.ラフマーンが担当しており、最近のヒットチャートで1位に登りつめている。僕もラフマーンが音楽監督ということで、発売と同時にCDを買って聴いてみたのだが、どこかで聞いたことがある。というより、最初の曲「Saathiya」の冒頭、「サーティヤー、サーティヤー」と流れた瞬間、すぐに分かった。昔DVDで見た、マニ・ラトナム監督のタミル語映画「Alai Payuthey」の曲のリメイクである。確かにあの映画の音楽はファースト・クラスだった記憶がある。歌詞がヒンディー語になっても、あのラフマーン特有の脳みそが洗われるような旋律は失われておらず、しばし陶酔。やはりラフマーンはいい。映画を見てみて分かったのだが、ストーリーも同映画のリメイクだった。

 昼の12時からの回を見たのだが、満員御礼状態。かなりヒットしているようだ。同じく先週の金曜日から封切られた「Kaante」も大ヒットしており、これは昨年の「Lagaan」と「Gadar」のツイン・ヒットのごとく、この2作も同日公開ダブル・ロング・ランしそうな勢いである。今年はボリウッド映画界に活気がなく、日本人ながらインド映画ファンとして心配していたのだが、年末になって期待できるヒット作が登場して僕も嬉しい。おそらく冬休みと客入り状態も少なからず関係があるとは思うが、映画自体が良作であることも大きいと思う。

 「Saathiya」とは「愛しい人よ」みたいな意味。原作はマニ・ラトナム監督のタミル語映画「Alai Payuthey」で、ヒンディー語版では監督・俳優ともにボリウッドの人になっている。監督は新人監督シャード・アリー、主演はヴィヴェーク・オーベーロイとラーニー・ムカルジー。最後の方で特別出演でシャールク・カーンとタッブーが出て来たのには驚いた。




ヴィヴェーク・オーベーロイ(左)と
ラーニー・ムカルジー(右)


Saathiya
 裕福な家庭の育ちのアディティヤ(ヴィヴェーク・オーベーロイ)と、貧しいが天真爛漫で知的なスハーニー(ラーニー・ムカルジー)は、最初友達の結婚式で出会い、その後ムンバイーの市内電車にて出会いを重ねていた。二人は相思相愛の仲になるが、二人の両親同士はそれを認めなかった。アディティヤとスハーニーは友人や姉の助けを借りて、密かに寺院で結婚式を挙げ、そのまま秘密の結婚生活を続けていた。

 そんな中、スハーニーの姉ディーナーの見合いが行われる。見合い相手のラッグーとディーナーの縁談はまとまりかけるが、ラッグーの弟とディーナーの妹、つまりスハーニーの縁談まで始まってしまう。既に結婚していたスハーニーは、初めて両親にそれを打ち明ける。スハーニーの両親は怒り、スハーニーを家から追い出す。アディティヤの父親も怒ってアディティヤを追い出した。こうして二人は自分で家を借りて駆け落ち結婚生活を始めたのだった。

 結婚前のアディティヤはスハーニーのために何でもできる男だった。しかし結婚後のアディティヤは変わってしまい、二人の間では毎日口論が繰り広げられるようになった。スハーニーの父親の死もあり、アディティヤとスハーニーの仲は最悪の状態となる。その一方で、アディティヤはスハーニーに内緒で、自分たちのために破談になってしまったラッグーとディーナーの仲を取り持とうと努力し、とうとう二人は結婚することになる。その知らせを聞いたスハーニーは、アディティヤのことを考え直し、彼に会いに家に急ぐ。そのときスハーニーは自動車にはねられて重態となってしまう。

 いつまで経っても帰って来ないスハーニーに、アディティヤは心配になる。街中を探し回り、どうもスハーニーが交通事故に巻き込まれたことに勘付く。アディティヤは病院へ駆けつける。

 しかし病院では複雑な状況が生じていた。スハーニーをはねてしまった女性(タッブー)の夫(シャールク・カーン)が、アディティヤより一足先に駆けつけていた。スハーニーは一刻も早く手術が必要なほどの重態だったが、危険を要する手術だったので、医者は患者の関係者の承諾がなくては手術を始められない状態だった。その男はスハーニーの夫であると名乗り、患者の名前をサーヴィトリーだと伝え、手術の承諾書にサインをした。こうして、アディティヤが病院に到着したときには、その患者の名前はサーヴィトリーになっており、アディティヤはスハーニーに会うことができなかった。

 しかし結局アディティヤは警察にスハーニーの捜索届けを出していたおかげで、スハーニーに会うことができる。スハーニーの手術は成功し、アディティヤの必死の祈りによって、意識不明状態だったスハーニーの目は開く。そしてアディティヤにつぶやく。「I Love You」

 ヒットしているのがおかしくないほど、とてもいい映画だった。オリジナルのタミル語映画「Alai Payuthey」とストーリーはほぼ一緒だったので、これはマニ・ラトナム監督を賞賛すべきだと思う。現在と過去が行き来する構成ながら分かりやすいストーリー・ラインで、しかもカメラ・ワークにインド映画離れしたセンスを感じた。

 そして音楽もこの映画の質を高めている。A.R.ラフマーンの音楽は本当に他の人には真似できない力がある。やはりテーマ曲の「Saathiya」が素晴らしい。踊りも印象的。しかし途中で挿入された「Chori Pe Chori」は、ストーリーとはあまり関係なく、無理矢理な感じがしたので、入れない方が絶対によかったと思う。

 「Company」「Road」に引き続き、今作はヴィヴェーク・オーベーロイの第3作目の出演作品である。「Company」でファンになりかけ、「Road」では「う〜ん、どうしよっかな〜」ぐらいだったのだが、「Saathiya」で遂に僕はヴィヴェークのファンとなった。あのシャイな笑顔がかっこいい。インド人に受ける必須条件の筋肉もある。踊りもうまくて個性がある。演技力も十分である。若手の男優の中では、アルジュン・ラームパールと共にヴィヴェークを応援していくことにした。主演女優のラーニー・ムカルジーは、まあ無難な縁起をしていた。今回はあまりラーニーに関しては何も感じなかった。

 途中で突然出演したシャールク・カーンとタッブーには驚いた。会場からも「あれ、シャールクが出て来たぞ」と驚きの反応があった。なぜシャールクとタッブーほどの大俳優が、こんな端役で出て来たのか最初不思議だったのだが、ある1シーンを見た瞬間、これはベテラン俳優でないとできない演技だ、と感じたところがあった。それはスハーニーの手術中の1シーン。スハーニーを轢いた上に轢き逃げしてしまった妻(タッブー)、妻の代わりに自分が交通事故を起こしたと言う夫(シャールク)、そして夫に「スハーニーに何かあったらただじゃおかないからな」と感情的になって脅すアディティヤ。妻は「夫は何も悪くない、私が全部いけないの」と言って泣き崩れるが、夫はその妻を優しく抱き、「大丈夫、オレたちができることは全てしたんだ」と慰める。それを背中で聞いていたアディティヤも泣き崩れる。それを見ていた夫は、妻を抱きながらアディティヤの肩に手を置く。このシーンはシャールクの演技力なくしては全く意味をなさないシーンだった。カメラ・ワークも凝っていた。多分マニ・ラトナム監督のオリジナル作でも、この印象的なシーンはあったと記憶している。

 全体的に素晴らしい映画だったが、惜しむらくはラスト・シーンが陳腐だったことだ。手術を終え、意識不明のままベッドに横たわるスハーニー。その横でアディティヤは必死にスハーニーに話しかける。「おいスハーニー、起きてるのは分かってるぞ、さあ目を開けてまたオレと口喧嘩しようぜ」そんなアディティヤの必死の気持ちがスハーニーに届き、彼女の目は開く。陳腐だ、陳腐すぎる・・・。オリジナル作のエンディングもこんなだっただろうか?それ以外が素晴らしかったため、ラストの陳腐さはかなり残念だった。

12月27日(金) Mr. and Mrs. Iyer

 長らくストライキを継続していたオート・リクシャーも、次第に街角に戻ってきた。やはり彼らも収入がないと困るのだろう。昨日は久しぶりにリクシャーに乗って映画館まで行った。やはりデリーの街にオート・リクシャーがないと、前歯が一本抜けたような気分になる。やっとデリーの交通事情が正常に戻りつつあるようだ。

 今日は本日封切られた新作映画「Mr. and Mrs. Iyer」を見にPVRアヌパム4へ行った。この映画のサントラはあらかじめ購入していた。なぜかというと、あのタブラー・マスターのザーキル・フサインが音楽監督を担当し、彼が歌声も披露しているからである。聴いてみた第一印象は、実はあまり大したことなかったが・・・。

 この映画を見に行った理由は、ザーキル・フサインが音楽を担当していたこともあるが、ラーフル・ボースという僕の好きな俳優が出演していることもあった。ラーフル・ボースは今年の夏に公開された「Everybody Says I'm Fine!」を監督し、また脇役ながらマッドな演技もこなしていた人物である。彼は底知れない才能を持った男と見た。これから要注意人物である。

 「Mr. and Mrs. Iyer」の監督は、アパルナー・セーンという女流監督。「チャウランギー通り36番地」(1981年)という有名な映画を作った人で、フェミニストとしても名を馳せているらしい。今作は彼女の20年振りの映画ということになる。アパルナー・セーンの娘、コーンコーナー・セーンシャルマーが主演女優として出演している。




多才な男、ラーフル・ボース


監督アパルナー・セーンの娘、
コーンコーナー・セーンシャルマー


Mr. and Mrs. Iyer
 ミーナークシー・アイヤル(コーンコーナー・セーンシャルマー)はタミルの厳格なブラーフマン家系の娘。北ベンガルからカルカッタに、子供を連れて1人で向かう途中だった。ちょうど同じバスに乗り合わせた写真家ラージャー(ラーフル・ボース)が、家族に頼まれて道中彼女の面倒を見ることになった。

 バスの中は、インドのどこにでもありそうな人間模様を描いていた。いちゃつきまくる新婚夫婦、厳格なムスリムの老夫婦、スィク教徒のおっちゃんたち、どんちゃん騒ぎをする若者のグループなどなど・・・。ところがバスは辺鄙な場所で交通渋滞に巻き込まれてしまう。こんなところでなぜ交通渋滞なのか・・・?不審に思う乗客たち。そこへ警察のジープが駆けつけてくる。なんとその地域でヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動が起こっていたのだ。ムスリムがヒンドゥー教徒を殺し、今度はヒンドゥー教徒がムスリムへ報復攻撃を加えていた。乗客たちは急いでバスの中に逃げ込み、閉じこもる。

 夜になった。不安な表情を隠せない乗客たち・・・。そんな中、バスの周りを無数の松明が囲む。そしてとうとう暴徒がバスの中へ入り込んでくる。暴徒たちの目的はムスリムの殺害。暴徒は1人1人乗客の名前を聞いていく。なぜなら名前を聞けばヒンドゥーかムスリムか分かるからだ。

 実はラージャーの本名はジャハーンギール・チャウドリーといい、ベンガル生まれのムスリムだった。最初ミセス・アイヤルは彼がムスリムであることを知って動揺するが、暴徒たちの前で「彼は私の夫、ミスター・アイヤルです」と言ってかばう。暴徒たちはそのバスの中からムスリムの老夫婦を連れ去って行った。

 翌朝、ラージャーとミーナークシーは近くの村まで歩いていく。そこで宿が見つからなかったので、警察に連れられて森の中の寂れたロッジに泊まることになった。しかし厳格なブラーフマン家庭に育ったミーナークシーは、見知らぬ男と共に過ごさなければならないことに気を悪くする。

 しかし、ラージャーとミーナークシーは次第に心を交わしていく。二人は表向きは夫婦ということになっていたので、皆の前では話を合わせなければならない。若者たちにハネムーンのときの思い出などを聞かれて、ラージャーが勝手にロマンチックな話をでっち上げていくのを聞き、そして必死でミーナークシーを守ってくれるラージャーを見て、ミーナークシーもだんだん彼に淡い恋心を抱くようになる。

 警察の厚意により、ラージャーとミーナークシーは軍のトラックに乗ってその暴動地域を脱出することができ、カルカッタ行きの列車に乗ることができた。列車の中で二人は言葉ではなく、目で愛を交換し合う。

 翌日、列車はカルカッタのハウラー駅に到着した。駅ではミーナークシーの本当の夫、スブラマニアン・アイヤルが待っていた。ラージャーはミーナークシーにそっと別れを告げる。ミーナークシーは最後に彼につぶやく。「グッバイ、ミスター・アイヤル・・・。」

 もう2002年も終わろうとしているが、今年もっとも感動した映画のひとつとなった。こんな素晴らしい映画を作る人物がインドにいるとは・・・!全くインドの奥の深さにはいつまでたっても驚かされる。

 まず、この映画はヒングリッシュ英語だった。つまり、基本的に英語がベースとなっている英語だ。ベンガル地方のストーリーだが、現地語はヒンディー語が使用されていた。また、ミセス・アイヤルがタミル人という設定なので、タミル語も字幕入りで入っていた。つまり、英語、ヒンディー語、タミル語というインドの主要言語3つが飛び交う、まさにインドの複雑な言語状況を顕著に体現している映画だった。その点でまず面白い。

 また、インドの生々しい旅行事情が堂々と描かれているところも注目である。インドを貧乏旅行したことのある人なら、誰もが一度は経験するあの過酷なバス移動、そして列車移動の旅情がよく出ていた。特にバスの中の人間模様は前半のもっとも面白い部分だ。「そうそう、こういう奴絶対いるよ」という面々が乗り込んでおり、「あ〜、こういうこと起こるなぁ」という出来事が起こり、しかも途中バスが意味不明に停車したりして、なんだか自分の思い出と重ね合わせて見てしまう。そういえば今までこういうインドの生の旅行風景を描いた映画があまりなかった。ただ、コミュナル暴動に巻き込まれることなって滅多にないのだが・・・。

 音楽は前述の通りザーキル・フサイン。そういえばラーフル・ボースが監督した「Everybody Says I'm Fine!」でもザーキル・フサインが音楽を担当していた気がする。この映画は普通のボリウッド映画ではないので、インド映画特有のミュージカル・シーンはほとんどなかった。歌と音楽が流れ、軽くそういう雰囲気のシーンはあるのだが、映画の流れを止めない自然な挿入のされ方で好感が持てた。ザーキル・フサインの音楽は、単体で聴いたらあまりパッとしなかったが、映画の中で聞くとなかなか印象的だった。

 監督のアパルナー・セーンはフェミニストということだが、それほどフェミニズムに言及した映画ではなかった。メイン・テーマはヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動である。なんとあのグジャラート州のコミュナル暴動が起こる数ヶ月前に脚本を書き終えたらしい。偶然にしては不気味な一致である。ヒンドゥーとムスリムの対立を背景に、厳格なヒンドゥー教徒の人妻と、先進的なムスリムの男との、禁断の恋を絡ませるところは、すごい発想だと思った。

 ヒンドゥー至上主義者たちがバスの中に乗り込んできて、ムスリムを探すシーンがある。ここで暴徒たちは一人一人名前を聞いていくのだが、これはインドのことについて少し知識がないと理解できないかもしれない。インドでは名前を聞けば、その人の宗教はおろか、カーストや出身地まで大体分かってしまう。だから時々フルネームを明かさない人がいたりする。主人公の本名はジャハーンギール・チャウドリー。名字こそヒンドゥー化しているが、ファースト・ネームはバリバリのムスリム名である。アイヤルという名字は、タミルのブラーフマンの典型的な名前である。

 また、暴徒たちは名前を聞くだけでなく、ムスリムだと疑われる男のズボンを脱がす。ムスリムは割礼をしているため、男性器を見ればムスリムかどうか分かるからだ。それを見た一人の男が、バスの中にいたムスリムの老夫婦を指差して、「こいつらはムスリムだ!」と暴露する。その老夫婦は暴徒に連れ去られ、結局殺されてしまうのだが、なぜその男が突然そんな密告をしたかというと、そいつはユダヤ教徒だったのだ。ユダヤ教徒も割礼をしているため、男性器に包皮がない。ムスリムだと間違われて殺されるのが嫌で、わざとスケープゴートを差し出したのだ。この辺りもインドの複雑な宗教事情を垣間見せてくれて非常に面白い。

 ラージャーとミーナークシーの恋はとうとう成就しない。しかし、最後の列車の中で二人はキスを交わしたのか、それは映画の中ではうまく遮られていて観客は勝手に想像を膨らませるしかない。ラスト・シーンはこれ以上考えられないほどいい終わり方で、最初から最後まで全く隙のない素晴らしい映画だった。今年最高傑作の称号を与えてもいい。こんないい映画を見ることができて幸せだ。僕の隣に座っていたインド人も、何度も「これはいい映画だ」とつぶやいていた。国際映画祭でもいくつか受賞しているようだ。

12月28日(土) Kaante

 現在巷の話題を最も集めている映画「Kaante」を見に行った。全編ロサンゼルス・ロケ、ハリウッド・スタッフによる撮影、豪華な俳優陣、ということで今年最大の期待を背負っていたのだが、度重なる公開延期により、人々の気持ちは萎え萎えになっていた。しかしいざ公開されると爆発的ヒットを記録している。

 「Kaante」とは「棘」という意味。監督はサンジャイ・グプター。キャストはアミターブ・バッチャン、サンジャイ・ダット、ラッキー・アリー、スニール・シェッティー、クマール・ガウラヴ、マヘーシュ・マーンジュレーカル。




Kaante


Kaante
 ロサンゼルスに住む6人の男たち、メジャー(アミターブ・バッチャン)、アッジュー(サンジャイ・ダット)、マック(ラッキー・アリー)、バウンサー(スニール・シェッティー)、アンディー(クマール・ガウラヴ)、バーリー(マヘーシュ・マーンジュレーカル)は、共謀して銀行強盗をする。計画は完璧だった。しかし大金を手に入れて銀行を出ると、6人はパトカーに囲まれていた。防犯装置は作動しないようにしたはずなのに、どうして警察に分かったのか?とにかく6人は散り散りになって逃げる。

 秘密基地に集合した6人だが、金の分配や密告者の存在によって仲違いをする。6人の中に囮捜査中の覆面警官がいるという情報を聞き、ますます6人の仲は険悪になる。いったい誰が警察なのか?金は誰が手に入れるのか?

 期待していたほど楽しい映画ではなかった。そもそもこの映画はクエンティン・タランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」のリメイクである。あらすじにしてしまうと非常に短くなってしまうのだが、一応3時間映画だった。だが2時間にしようと思えばできる映画だと思った。

 ロスが舞台になっているので、言語はヒンディー語中心ながらもアメリカ英語が混じっていた。また、かなりスラング・チックなヒンディー語をしゃべるので、聴き取るのは難しい。というより、この映画ははっきり言って会話を楽しむ映画だったように思える。洒落た会話のやりとりや、おかしい言い回しが連発したようで、インド人観客はかなり笑い転げていた。僕の理解率はくやしいながら50%以下である。ヒンディー語映画は「言葉が分からなくても楽しめる」とよく賞賛(軽蔑?)されるが、この映画は言葉が分からないと面白さが半減してしまうように思えた。

 主役6人の中で特に光っていたのは、サンジャイ・ダットとマヘーシュ・マーンジュレーカルである。インドのカースト制度は有名だが、映画界にもカーストの上下があり、俳優の中にも厳密な分業制度が成り立っている。大体インドの俳優は、主役俳優、脇役俳優、コメディー俳優、悪役俳優と分類することができ、お互いその領域をはみ出ることは滅多にない。その中でサンジャイ・ダットは主役俳優にカテゴライズされるのだが、彼ほど悪役が似合っている俳優も他にいない。ていうか、アムリッシュ・プリーみたいに悪役俳優として生きて行ったらいいのに・・・。マヘーシュ・マーンジュレーカルは、6人の中でもっともマッドな男として、狂喜に満ちた演技を嬉々と演じていて印象に残った。

 ほとんど男しか出てこない映画なので、バランスをとるためか、ミュージカル・シーンは際どい格好をした美女たちの、ストリップ・ショー的なダンスが中心だった。音楽はアーナンド・ラージ・アーナンド。「Ishq Samundar」がお気に入りの曲である。しかし曲の挿入のされ方があまり洗練されておらず、邪魔に思えたところもあった。「Kaante」のCDは随分前に発売されていたので、観客はもう既に曲を暗記してしまっており、一緒に歌を口ずさんでいる人が多かった。

 総論として、「Kaante」はインド人の若者が好きそうな映画だが、評論家受けするような映画ではない。現在ヒットしてはいるものの、そう長続きしないと僕は予想する。むしろ同時期に公開された「Saathiya」の方が、家族、恋人同士、友達同士などなど、万人受けするような映画なので、末永くロングランしそうな雰囲気である。

12月29日(日) デリー出発

 ここ数日の内にデリーは急激に寒くなってきた。デリーには「夏が非常に暑い年の冬も非常に寒い」というジンクスがある。先週までは、「今年の冬は例年よりも暖かいのではないか」と思っていたが、やはり12月末から1月にかけては今年もとても寒そうだ。しかし去年ほどの新鮮な驚きがないためか、深夜から早朝にかけてデリーを覆う霧に、それほど悩まされたことはない。

 今日からマディヤ・プラデーシュ州旅行へ出掛けた。今回でマディヤ・プラデーシュ州を旅行するのは今回で3度目である。1度目は北部にあたるオールチャー、グワーリヤルなどを廻り、2度目は中部にあたるボーパール、ビームベートカー、サーンチーなどを見た。今回はマディヤ・プラデーシュ州西部、インダウルを中心に廻る予定。おそらく次の機会があれば、東部も廻ろうと思っている。

 出発する前に大家さんに来月分の家賃を渡しつつ、「今日からマンドゥーへ行きます。」と伝えたら、あまり通じなかった。マンドゥーに着いてから気付いたことだが、マンドゥーの英語表記は「Mandu」だが、ヒンディー語表記や現地人の発音ではマーンダウになる。「マンドゥー」と発音しているとどうもインド人に通じないので、これからマーンダウと呼ぶことにする。また、インダウルも英語表記では「Indore」だが、ヒンディー語表記に従って「インダウル」と書くことにする。「インダウルの近くの、遺跡に囲まれた・・・」とマーンダウを説明すると、ジャイナ教の大家さんは分かってくれて、「あそこにはジャイナ教の寺院があるんだよ」と嬉しそうに語った。

 夜10時25分、ニザームッディーン駅発のインターシティー・エクスプレスに乗った。列車は時刻通り出発。順調な滑り出しである。極寒のデリーともこれでしばしのお別れである。今回の旅行は寝袋持参。早速寝袋を使って寝台に横になった。

12月30日(月) マーンダウ1

 列車の旅の楽しみのひとつは、同じコンパートメントになった人と会話が弾むことである。しかし世の中にはいろんな人がいるので、必ずしもいい人たちと同じコンパートメントになれるとは限らない。僕は基本的に自分からあまり話し掛けないが、誰かが話し掛けてくれば気軽に応じるタイプである。今回は幸い、けっこう楽しい人が同じコンパートメントになった。インダウル在住でローラースケート選手の姉妹、アメリカ在住歴27年のおばさん、マニプリーの青年などだった。乞食が定期的に循環して来たが、その中でヒジュラーも来てくれて、なかなかヴァラエティーに富んだ列車の旅だった。

 10時過ぎに途中経過駅のウッジャイン駅に到着。ウッジャインはヒンドゥー教4大聖地のひとつ。今回の旅の目的地の候補だったのだが、駅から眺めてみた限りでは何の変哲もない地方都市という感じだった。ただ駅に降り立っただけで満足してしまったため、改めてウッジャインを訪れる気力が薄れてしまった。

 ウッジャインからさらにしらばく列車に揺られ、12時過ぎにやっとインダウル駅に到着した。今日は何とかマーンダウに辿り着きたかったので、とりあえずインダウル観光は後回しにし、バス停へ向かった。

 インダウルからマーンダウへ行く交通手段はバスかタクシーしかない。午前中ならマーンダウ直通のバスが出ているらしいが、もう既に午後になっていたので、ダール経由でマーンダウへ行くことにした。インダウル郊外のバス停でダール行きのバスに乗った。

 平原と畑の中の道をバスはひたすら走り、2時過ぎにダールに到着。そこで簡単にマーンダウ行きのバスが見つかった。マーンダウに近付くにつれて道は悪くなり、周りの風景も、緑の平原から次第に岩石砂漠地帯へと移行して行った。しかしマーンダウに入城する瞬間は、そんな途中の困難が一気に吹っ飛ぶほど感動的である。丘の上辺一帯に城壁が連なっており、城の門も不完全ながら残存している。その門の細い入り口をバスで無理矢理通り抜けていくので、まさに「入城」という感じだ。中世の雑踏が一瞬目の前を横切ったような感覚に襲われた。マーンダウに着いたのは4時過ぎだった。

 マーンダウには実は3、4軒しかホテルがない。12月31日という特別な日を前にホテルに空き部屋が見つかるか密かに不安だったのだが、何とか今日はマーンダウ最高級のホテル・ループマティーに泊まることができた。年末年始ということで特別料金が設定されていたが、それでも440ルピーという格安の値段。地方の高級ホテルに泊まるのは、安い上に設備もよくてお得である。

 マーンダウの別名は「City of Joy(歓喜の街)」という。チェック・インした後、ブラブラとマーンダウの村を歩いてみた。マーンダウの気候は暑くなく、寒くなくでちょうどいいくらい。去年同じ時期に行った南デリーははっきり言って非常に暑かったので、マディヤ・プラデーシュ州はデリーの極寒から逃げてくるにはちょうどいい場所だと思った。マーンダウ村の人々はとても穏やかで、僕にとってマーンダウは「City of Peace(平安の街)」に思えた。

 とりあえず今日は、サンセット・ポイントから日の沈むのを見た。テーブルのように盛り上がった台地と、どこまでも続く平原の狭間に日は沈んで行った。明日で2002年の太陽の命が終わる。

12月31日(火) マーンダウ2

 マーンダウは20Kmの面積の台地がまるまる要塞となっており、その台地の各地に遺跡が点在する、マディヤ・プラデーシュ州屈指の秘境である。マーンダウの遺跡は大まかに3つのグループに分かれている。ロイヤル・エンクレイヴ、ヴィレッジ・グループとレーワー・クンド・グループである。今日はまずマーンダウの最もメインとなる遺跡群であるロイヤル・エンクレイヴを訪れた。

 前回の旅行で「サーンチーの屈辱」を味わったばかりだったが、今回も同じ屈辱を味わった。つまり、インド人料金で入ることができず、外国人料金を払わされたことである。しばらく粘ったが、外国人はインドに14年住んで初めてインド人料金で入れるようになる、と言われた。僕はまだ1年半しかインドに住んでいない・・・。結局外国人料金を払わなくてはならなくなった。マーンダウの遺跡群の中で入場料がいる場所は3箇所あり、それぞれ外国人は100ルピーを払わされる。ちなみにインド人は5ルピーである。どうもマディヤ・プラデーシュ州の遺跡はマイナーなくせに管理が厳しい。

 ロイヤル・エンクレイヴ最大の見所はジャハーズ・マハル(船の宮殿)である。その名の通り船の形をした宮殿で、建物の東西に人造湖が造られているため、湖の対岸から眺めると、本当に水に浮かぶ船のような宮殿である。この建物はマーンダウのスルターン、ギャースシャー・キルジーが、15世紀後半、自身のハーレムとして造らせたものだ。最盛期にはこの宮殿に15000人以上の側室が住んでいたそうだが、そんなに多くの人が住めるほど大きくはないと思った。というか、そんなに側室を抱えてどうするつもりだったのか、ギャースシャーは・・・。しかも、ジャハーズ・マハルの近くにはシャーヒー・マハル(王の宮殿)というもうひとつの宮殿があるのだが、この建物はハーレムがいっぱいになったために建てられたハーレムの別棟だったそうだ。このスルターンは相当女好きだったと見える。ジャハーズ・マハル、シャーヒー・マハル共に、宮殿内部にはハーレムっぽいかわいい形をした浴槽があったり、オシャレな形の窓があったりして、女子寮っぽい雰囲気が漂っていた。




ジャハーズ・マハル
かつてのハーレム


かわいい形の浴槽


 ロイヤル・エンクレイヴには他にも多くの遺跡が残っている。ヒンドーラー・マハル(ブランコの宮殿)、チャンパー・バーウリー(地下井戸)、ジャル・マハル(水の宮殿)、シアター・ホール、ハンマーム(浴場)などなど。それらに共通して感じられたのは、エンターテイメント精神である。特にいくつもある人工池、浴槽、井戸などから、水浴びに対する飽くなき追求心が感じられた。なんとお湯の浴槽やサウナなども備えられていたみたいだ。マーンダウの遺跡の保存状態はまあまあだが、もしもっと完全な状態で残っていたら、華麗なる宮殿生活の断片を容易に想像できただろう。




ヒンドーラー・マハル内部


 ロイヤル・エンクレイヴを見終わった後、ついでにヴィレッジ・グループの遺跡も見た。ここの遺跡で入場料がいるのはホーシャングシャー廟だけである。ホーシャングシャー廟(1405年)はインド初の大理石の建築で、タージ・マハルの建築家たちが勉強に訪れたと言われている。しかし外から見た限りでは、きれいな建築だとは思ったものの、100ルピーも払ってまでして見る価値のある建物には思えなかったので、外から写真を撮っただけだった。ホーシャングシャー廟の隣にはジャーミー・マスジドやアシャルフィー・マハルなどがあった。どちらも立派な建築だったが、遺跡ラッシュのマーンダウの中では中の下程度の印象だった。




ホーシャングシャー廟


 マーンダウは多くの遺跡で有名だが、もうひとつ特異な事象でも有名である。それは、マーンダウ各地に生えているバオバブの木だ。もともとアフリカに生えている木で、特徴的な格好をしており、ヘチマのようなマラカスのような実がなる。1466年にエジプトのカリフからマーンダウのスルターンに実が送られ、それを植えたところマーンダウ各地に繁殖したみたいだ。この木はマーンダウのあちこちで目にすることができるものの、マーンダウ以外で自生しているところはインドにないそうだ。バオバブの実はインドではイムリーと呼ばれ、マーンダウの村で1つ5〜10ルピーほど(おそらく外国人プライス)で売られている。1つ買って食べてみたが、酸っぱいラムネのような味がした。イムリーというと、映画「Taal」の「Ishq Bina」という曲で「サトウキビ・ジュースよりも愛は甘く、イムリーよりも愛は酸っぱい」と歌われている。イムリーを初めて食べたが、その歌が思い出されてきたせいで、「イムリー=初恋の味」という感じがした。あまり好きな味じゃなかったのですぐに捨ててしまったが・・・。




イムリー


 2002年最後のサンセットは、ジャハーズ・マハルの上から見た。かつてのハーレムから湖越しに眺める最後の夕日は格別・・・でもなく、木と木の間に静かに沈む普通のサンセットだった。マディヤ・プラデーシュのどこまでも続く平原の彼方に沈む夕日、というのを想像していたのだが・・・。しかもロイヤル・エンクレイヴの開場時間は日の出から日の入りまでなので、日が沈んだ後は急いで退散しなければならなかった。




2002年最後の夕日


 年末年始をマーンダウという片田舎で静かに過ごすことに決めたわけだが、予想通りマーンダウではほとんど何も行われていなかった。ループマティー・ホテルではニューイヤー・パーティーらしきドンチャン騒ぎが行われていたが、この日は僕はループマティー・ホテルが予約で満室だったため、隣のトラヴェラーズ・ロッジへ移っていた。だから騒ぎ声が遠くから聞こえてきただけだった。マーンダウは田舎だけあって電気事情が悪く、頻繁に停電が起こる。11時頃までずっと停電で、おかげで夜空の星がきれいに見えた。マーンダウの村では、ただ1日が過ぎ、当たり前のように日が変わっていくだけだった。



―日向編 終了―

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