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9月12日(土) Quick Gun Murugun |
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インドは現在、ピトリ・パクシュとかシュラーッドと呼ばれる特別な期間に入っている。基本的には祖先崇拝の期間であるが、この時期、新しいものを買ったり、新しいことを始めるのは不適とされており、あらゆる場面で経済活動が停滞する。映画業界も例外ではなく、この時期に映画の公開は極力控えられる。よって、この期間に封切られる新作は、何らかの事情で他の時期に公開が適わなかった訳ありの作品ということになる。今年は9月18日までがピトリ・パクシュになっている。ピトリ・パクシュが終わると、一転してナヴ・ラートリー、ダシャヘラー、ディーワーリーと言ったお祭りシーズンに突入し、映画公開にもっとも適した時期となる。これらはヒンドゥー教の祭日であるが、同時に現在はイスラーム教の断食月であるラマダーン(インドでは「ラムザーン」と発音する)の真っ最中であり、やはり新作映画公開とは相性が悪い。今年は、ラマダーンの終了がほぼピトリ・パクシュの終了と重なっている。これらの事情から、現在公開されている映画ははっきり言って地雷だらけである。話題作は9月18日から順次公開されて行くので、もし安心して映画を楽しみたかったら、来週まで待つのが賢明かもしれない。
8月24日~9月8日まで日本に一時帰国していたが、僕が留守にしていた期間、取り立てて重要な作品は公開されなかった。しかし、その時期に封切られた作品の中で、1本だけ前々から気になっていた映画があった。それは「Quick
Gun Murugun」である。「Quick Gun Murugun」とは、1994年に音楽専門チャンネルChannel [V]が立ち上げられたときに創作されたキャラクターである。緑のシャツに虎柄のチョッキ、白いカウボーイ・ハットにピンクのスカーフというド派手なファッションに身を包んだタミルのカウボーイで、「Mindi
It」、「I Say」などの独特な決め台詞がカルト的人気を博したらしい。そのTV生まれのユニークなキャラがこの度映画化されることになり、「Quick
Gun Murugun」が完成したのである。以前、◇・◆サブSUB LOGローグ◆・◇で少しだけ触れられていた。「Om Shanti Om」(2008年)でシャールク・カーンが真似していたタミル語映画界のスターも、ラジニーカーントよりもむしろこのクイックガン・ムルガンがモデルになっていたようだ。映画「Quick
Gun Murugun」は8月28日に封切られたが、幸い3週間目に入った今でも上映が続いており、鑑賞することが出来た。英語版、ヒンディー語版、タミル語版、テルグ語版が作られたようだが、僕が見たのは英語版である。
題名:Quick Gun Murugun
読み:クイック・ガン・ムルガン
意味:早撃ちムルガン
邦題:クイックガン・ムルガン
監督:シャシャーンカ・グプター
制作:パト・ピシュ・モーション・ピクチャーズ
振付:レーカー・プラカーシュ
衣装:サンジーヴ・ムールチャンダーニー
出演:ドクター・ラージェーンドラ・プラサード、ナーサル、ヴィナイ・パータク、ランバー、アヌ・メーナン、ラージュー・スンダラン、シャンムガラージャ、アシュヴィン・ムシュラン、ランヴィール・シャウリー、サンディヤー・ムリドゥル、ガウラヴ・カプール
備考:DTスター・プロムナード・ヴァサント・クンジで鑑賞。
ドクター・ラージェーンドラ・プラサード
あらすじ |
1982年、南インドの某所。カウボーイのクイックガン・ムルガン(ドクター・ラージェーンドラ・プラサード)は、周辺のヴェジタリアン・レストランを暴力によってノンヴェジ・レストランに変えてしまうギャング、ガンパウダー(シャンムガラージャ)を、菜食主義者としての正義感から、決闘によって追い払う。ガンパウダーのボス、ライス・プレート・レッディー(ナーサル)は、命からがら逃げ帰って来たガンパウダーを処刑し、ムルガンを罠にはめて捕まえる。そして彼の胸に銃を撃って殺す。
死んでしまったムルガンは死神に連れられてあの世へ行く。そこはインドのお役所と全く変わらず、非効率的に運営されていた。ムルガンは、そこの長官であるチトラ・グプター(ヴィナイ・パータク)に事情を説明し、もう一度生き返らして欲しいと嘆願する。チトラ・グプターは了解し、彼を生き返らせるが、多少の手違いがあり、ムルガンは2007年のムンバイーに送り込まれてしまった。ムルガンは、ムンバイーに住んでいた兄のところを訪ねる。兄と兄嫁は、生き返ったムルガンを温かく迎える。
ところで、25年前はギャングのボスだったライス・プレートは、今では実業家になっており、マック・ドーサというチェーン店を全国展開しようとしていた。既にジャンゴ博士(アシュヴィン・ムシュラン)設計の自動ドーサ製造マシンも完成していたが、それによって作られるドーサにはまだ何か足らなかった。ライス・プレートの右腕MBAラウディー(ラージュー・スンダラン)は、足りないものは母親の愛情だと喝破する。そこでライス・プレートは、ムンバイー中から母親を誘拐して来て、秘密のドーサ・レシピを調べる。だが、なかなか最高のドーサは出来なかった。
ムルガンは、ライス・プレートに関する情報を集める中で、場末のダンスバーで踊り子をするマンゴー・ドリー(ランバー)と出会う。ドリーはムルガンと一目惚れするが、ムルガンは死んだ恋人(アヌ・メーナン)を今でも一途に愛していた。ムルガンが生き返ったという情報はライス・プレートの耳にも届き、早速ラウディーを送り込む。だが、ラウディーは誤ってムルガンの兄を殺してしまう。また、ムルガンの兄嫁のドーサを食べ、彼女こそが最高のドーサの作り手であることを直感したラウディーは、彼女を連れ去ってしまう。それを知ったムルガンは、マック・ドーサに単身乗り込む。それを迎え撃ったラウディーと一騎打ちをし、見事ムルガンは彼を倒す。兄嫁も無事解放された。
ムルガンは一躍ムンバイーのヒーローとなり、ノンヴェジ・ドーサを売り出そうとするマック・ドーサに対する抗議運動も起こった。この逆風に憤ったライス・プレートは、ムルガンの兄嫁が経営する弁当宅配ビジネスを邪魔するため、弁当爆弾を仕掛ける。ムルガンの兄嫁の家から届けられた弁当は各地で爆発し、彼女はSWATに連行されてしまう。
兄を殺され、兄嫁が逮捕されてしまったムルガンは自殺を考えるが、そこへドリーがやって来る。実はドリーはライス・プレートの愛人で、今回の爆弾テロの黒幕がライス・プレートであることを掴んでいた。それを知ったムルガンは、マック・ドーサの本社ビルへ乗り込み、マンゴー・ドリーを失うものの、護衛を次々と倒して、ライス・プレートを追い詰める。屋上でムルガンとライス・プレートは相対し、ライス・プレートは無残な最期を遂げる。 |
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90分の低予算映画だが、お馬鹿な笑いとお馬鹿なアクションに徹底的にこだわっており、気軽に見られるコメディー映画に仕上がっていた。ただ、アクションの部分は、真後ろの敵に銃弾を命中させたり、敵が撃って来た銃弾を歯で受け止めたりと、日本人にも分かりやすいものばかりであったが、笑いの部分は、インドのお役所の風刺や有名TV番組のパロディーなど、インドのことをある程度知らないと笑えないだろうものがいくつかあった。
例えば、死んだムルガンがヤムラージ(死神)に連れて行かれたのは、あの世のはずであるが、それは死んだ魂を管轄する役所みたいな場所になっており、インドの役所と同様に、窓口に並んだり、面倒な書類を提出したりしないと行けない。そこを統括するのはCグプターという人物だが、それはインドの神話の中に登場する、死者の生前の行いを全て記録する冥界の書記官チトラグプタがモデルとなっている。
2007年のムンバイーに転送されたムルガンは、マンゴー・ドリーという女性と出会うが、彼女は宿敵ライス・プレート・レッディーの情婦であった。彼女はミス・インディアになることを夢見ており、その援助をしてくれるというライス・プレートを頼ったのだが、そのまま情婦にされてしまったのであった。ドリーは自分の憐れな境遇をムルガンに語る。するとムルガンは彼女を励まして言う。「もう一度ミス・インディアに挑戦すればいい。IAS(インド文官試験)よりは難しくないだろう。」インドのエリート官僚の登竜門となるIASの試験に合格するのは、ミス・インディアになるより難しいというジョークである。
ムンバイーの街頭で一騎打ちすることになったムルガンとMBAラウディーであったが、表に出た2人は、道路が渋滞で埋まっていたため、自動車の上に乗って決闘を行うことになった。そのシーンも面白かった。
「Quick Gun Murugun」には、インドの各映画界から俳優が寄せ集められていた。主人公のムルガンを演じたのは、テルグ語映画の俳優であるドクター・ラージェーンドラ・プラサード。ヒロインのマンゴー・ドリーを演じたのは、ボリウッドから南インド映画界まで幅広く活躍するランバー。もう1人のヒロイン、ロケットの中からムルガンを叱咤激励する恋人を演じたのは、ケーララ州で人気のローラー・クッティーことアヌ・メーナン(参照)。悪役のライス・プレート・レッディーを演じたのはタミル語映画の俳優であるナーサル。その他、端役としてヴィナイ・パータク、アシュヴィン・ムシュラン、ランヴィール・シャウリー、サンディヤー・ムリドゥル、ガウラヴ・カプールなど、ボリウッド映画でお馴染みの顔ぶれが揃っている。
前述の通り、「Quick Gun Murugun」は、英語、ヒンディー語、タミル語、テルグ語の4バージョンがあるようだ。僕が見た英語版では、強烈なインド訛りの英語がメインになっていた他、タミル語の台詞も英語字幕と共にかなり出て来た。ムンバイーのシーンではわずかながらヒンディー語の台詞もあったが、そのシーンでは特に字幕はなかった。
「Quick Gun Murugun」は、典型的インド娯楽映画のお馬鹿さを極限まで突き詰めたようなユニークなコメディー映画である。インド訛りの癖のある英語が多少聴き取りにくいものの、普段は言語の壁や上映時間の長さからインド映画を敬遠している人にもオススメだ。
日本において、世界史の授業でムガル朝の創始者の名前が「バーブル」と教えられているが、これは誤りと言ってよく、インドにおける一般的な発音は「バーバル」である。そのムガル朝創始者バーバルとは関係ないが、バーバルという名前のギャングが主人公の犯罪映画「Baabarr」が先週から公開中である。ウッタル・プラデーシュ州を舞台とした重厚な映画とのことで、見る価値ありと判断し、映画館に足を運んだ。監督は「Deewaanapan」(2001年)や「Alag」(2006年)のアーシュー・トリカー。
題名:Baabarr
読み:バーバル
意味:主人公の名前
邦題:バーバル
監督:アーシュー・トリカー
制作:ムケーシュ・シャー、スニールSセーン
音楽:アーナンド・ラージ・アーナンド、スニール・スィン
歌詞:アーナンド・ラージ・アーナンド
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ
出演:ソーハム(新人)、ミトゥン・チャクラボルティー、オーム・プリー、スシャーント・スィン、ウルヴァシー・シャルマー、ムケーシュ・ティワーリー、ティーヌー・アーナンド、ゴーヴィンド・ナームデーオ、シャクティ・カプール、ヴィヴェーク・ショーク、ヴィシュヴァジート・プラダーン、カシシュなど
備考:PVRアヌパムで鑑賞。
左から、オーム・プリー(上)、スシャーント・スィン(下)、ソーハム、
ミトゥン・チャクラボルティー、ウルヴァシー・シャルマー
あらすじ |
ウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウーの片隅に、アマンガンジという犯罪者の巣窟となっている地域があった。そのアマンガンジに住む一般的な屠殺業者の6人兄弟末っ子として生まれたバーバルは、近所の下らないいざこざに巻き込まれて弱冠12歳で人を殺し、以後、犯罪者の道を進む。
2004年。バーバルはウッタル・プラデーシュ州を代表するギャングに成長していた。バーバルは殺人、誘拐、脅迫など、様々な容疑で指名手配されていたが、政治家の票田となっているアマンガンジという地域の特殊性や、地元の犯罪者と癒着した汚職警察官ダローガー・チャトゥルヴェーディー(オーム・プリー)などのおかげで自由闊歩していた。バーバルに父親はいなかったが、叔父(ティーヌー・アーナンド)が面倒を見ており、バーバルはその娘のズィヤー(ウルヴァシー・シャルマー)と恋仲にあった。また、長男のサルファラーズ(シャクティ・カプール)は刑務所にいたが、次男のナワーズ(ムケーシュ・ティワーリー)が兄弟の中の親分であり、バーバルも彼を慕っていた。
そこへ、エンカウンター・スペシャリストのドイヴェーディー警視(ミトゥン・チャクラボルティー)が、バーバル対策のために赴任して来る。早速ドイヴェーディー警視はバーバルに会いに行き、警告をする。だが、バーバルは聞く耳を持たなかった。
州政府の入札を巡って、バーバルはライバル・ギャングのボス、タブレーズ(スシャーント・スィン)と対立を深める。バーバルはバイヤー・ジーと呼ばれる政治家(ゴーヴィンド・ナームデーオ)の娘の結婚式に潜入し、彼のところに匿われていた裏切り者のソーンカルを抹殺する。だが、バーバルは逃げ切れずに警察に逮捕される。
バーバルの公判が行われたが、タブレーズは弁護士に変装して裁判所に潜入し、バーバルを撃つ。一命を取り留め、保釈も得られたバーバルであったが、しばらくは療養生活を送らざるをえなかった。だが、回復した後は執拗にタブレーズを追跡し、殺そうとするが、すんでの所で逃げられてしまう。
ギャング間の抗争が激化し、時の政権は非難にさらされていた。とうとうギャングの一掃が命令され、ドイヴェーディー警視の指揮の下、アマンガンジを初めとした犯罪者の温床が一斉に捜索を受ける。このときタブレーズは逮捕されるが、バーバルの行方は分からなかった。まずは叔父が尋問され、次にナワーズが捕まって殺されるが、情報は得られなかった。
アマンガンジの人間関係を熟知していたチャトゥルヴェーディーは、バーバルの恋人ズィヤーに目を付ける。叔父は、ナワーズの居所を教えたことでバーバルに殺されており、ズィヤーはひとりぼっちになっていた。チャトゥルヴェーディーはズィヤーを使ってバーバルと連絡を取り、彼が西ベンガル州の州都コールカーターに住む妹アーフリーンのところにいることを突き止める。バーバルは逮捕されてしまう。
ウッタル・プラデーシュ州政府はバーバルを自州に移送させようとするが、バーバルがフェイク・エンカウンターにより殺されることを恐れた高等裁判所は、無条件にはそれを許さなかった。八方塞がりとなったが、チャトゥルヴェーディーが州首相に妙案を提案する。それは、タブレーズをわざと逃がし、バーバルを殺させるというものだった。ドイヴェーディー警視もそれに乗る。だが、チャトゥルヴェーディーはさらに奥の手も用意していた。
バーバルは移送中に自動車を下ろされる。タブレーズが逃げたことを知り、全ての策略を悟ったバーバルは反抗するが、取り押さえられる。そのとき、チャトゥルヴェーディーはバーバルにそっと耳打ちする。自分の銃を使え、と。バーバルはチャトゥルヴェーディーのホルスターから拳銃を奪い、ドイヴェーディーを撃つ。そしてチャトゥルヴェーディーを人質に取って逃げようとするが、チャトゥルヴェーディーは銃を隠し持っており、バーバルを撃ち殺す。チャトゥルヴェーディーは、フェイク・エンカウンターを使って、邪魔者のドイヴェーディーとバーバルを同時に葬ったのだった。
世間では、チャトゥルヴェーディーはギャングの親玉バーバルを射殺した英雄となり、彼は特進して警視に就任した。そしてちゃっかりズィヤーを愛人としていた。だが、犯罪の芽はバーバルを殺しただけでは摘まれなかった。チャトゥルヴェーディーもまた、復讐心に燃えた子供に暗殺されてしまったのだった。 |
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インド最大の人口密集地かつ犯罪多発地域ウッタル・プラデーシュ州を舞台として、些細な事件に巻き込まれて12歳で殺人を犯してしまった主人公の人生を主軸に、犯罪者の温床が犯罪を生み、犯罪がまた犯罪者を生んで行くという負のサイクルがいかにして回っているのかを描き出した重厚な作品。この物語に正義は存在しない。アンダーワールドの人間はライバル同士の仁義なき抗争に明け暮れ、警察はアンダーワールドと癒着して甘い蜜を吸い、政治家は恐怖にさらされた生活を送る人々を票田としていいように扱う。弱肉強食の世界では「目には目を」のルールのみが守られ、それによって暴力と殺人は新たな暴力と殺人の序章となって行く。バーバルが生まれ育ったのもそんな環境であり、バーバルが死んだ後もそれは変わらなかった。大人と子供の区別もなく、銃を持っているか否かのみが優劣を決める。12歳で殺人を犯したバーバルは、大物ギャングに成長した後にフェイク・エンカウンターによって殺されてしまうが、それを仕組んだ汚職警官チャトゥルヴェーディーもまた、バーバルを慕っていた近所の少年によって銃殺されてしまう。
日本人に多少解説が必要なのは、エンカウンターとフェイク・エンカウンターのことだろう。エンカウンターとはギャングやテロリストなどとの遭遇戦のことで、警察は、武装集団から銃器などによる攻撃を受け、正当防衛が必要となったことを理由に、司法手続きなしに犯罪者たちを殺すことができる。逮捕すると裁判が面倒であるし、釈放されることも多いので、インドの警察はギャングやテロリストをエンカウンターによって殺すことを好む。エンカウンターを専門とする警察官はエンカウンター・スペシャリストと呼ばれ、「Baabarr」でもドイヴェーディー警視がエンカウンター・スペシャリストと呼ばれていた。また、フェイク・エンカウンターというのは、エンカウンターに見せかけて容疑者を殺害してしまう行為のことである。事件を手っ取り早く解決したいとき、犯人や、犯人と思われる人物をとりあえず殺し、後で「犯人が発砲して来た」などと理由を付けてその行為を正当化することがインドではよく行われているようである。当然、濡れ衣を着せられたらたまったものではない。エンカウンターによって殺害されたテロリストとされながら、実はテロリストではなかったのではないかと思われる事件がいくつか起こっており、度々問題となっている。劇中では、主人公バーバルがフェイク・エンカウンターによって殺されてしまった。
映画の中では州首相と野党リーダーが出て来たが、明らかに州首相の方は社会党(SP)のムラーヤム・スィン・ヤーダヴ、野党リーダーの方は大衆社会党(BSP)のマーヤーワティーがモデルとなっていた。両者ともウッタル・プラデーシュ州を代表する政治家である。時代も2004年と明記されており、この頃はムラーヤム・スィン・ヤーダヴが州首相、マーヤーワティーが野党であった。2007年の州議会選挙によりこれがひっくり返り、現在はマーヤーワティーがウッタル・プラデーシュ州の州首相を務めている。
主人公バーバルを演じたのはソーハムという新人男優。全くバックグラウンドが分からないのだが、非常に迫力のある演技をしており、衝撃のデビューと形容しても差し支えないだろう。バーバルを追うエンカウンター・スペシャリストのドイヴェーディー警視を演じたのは、北インドの大衆にもっとも敬愛されているミトゥン・チャクラボルティー。貫禄の演技であった。他に、ムケーシュ・ティワーリー、ゴーヴィンド・ナームデーオ、シャクティ・カプールなど、渋い俳優が目立った。ヒロインのウルヴァシー・シャルマーは「Naqaab」(2007年)でデビューした女優で、まだブレイクの兆しは見えない。
ヒンディー語の牙城であるウッタル・プラデーシュ州を舞台にしているだけあり、言語はコテコテのヒンディー語である。特にチャトゥルヴェーディーが話すのは、ラクナウー周辺で話されているアワディー方言である。ヒンディー語初級者には難易度高めの映画と言える。
「Baabarr」は、犯罪の負のサイクルを描き出した佳作である。ムードは暗く、重苦しく、決して万人向けの映画ではない。プラカーシュ・ジャー監督の「Gangaajal」(2003年)や「Apaharan」(2005年)みたいな重厚な映画が好きな人なら見てもいいだろう。
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9月18日(金) Dil Bole Hadippa! |
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昨年、日本の野球界において、男子選手と共にプレイする初の日本人女子プロ野球選手が誕生した。それとは全く関係ないと思われるが、インドのフェスティバル・シーズンの開始を告げるナヴラートリの週に公開となった新作ヒンディー語映画「Dil
Bole Hadippa!」は、クリケット好きな女の子が男子チームの中に潜り込んで大活躍するというストーリーである。制作は、インド映画界最大のコングロマリット、ヤシュラージ・フィルムス。ヤシュラージは2007年に女子ホッケーを題材にしたスポ根映画「Chak
De! India」を送り出しており、その二匹目のドジョウを狙った作品とも受け取れる。題名も似ている。だが、今回は、スポーツを題材としながらも、メインテーマはもっと大きなものとなっている。
題名:Dil Bole Hadippa!
読み:ディル・ボーレー・ハリッパー!
意味:心がエイヤーと叫ぶ
邦題:かっ飛ばせ!ヴィーラー!
監督:アヌラーグ・スィン
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:プリータム
歌詞:ジャイディープ・サーニー
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント、チンニー・プラカーシュ、レーカー・プラカーシュ
衣装:マニーシュ・マロートラー、マムター・アーナンド、ソニア・トミー
出演:シャーヒド・カプール、ラーニー・ムカルジー、アヌパム・ケール、ダリープ・ターヒル、ラーキー・サーワント、シェリリン・チョープラー、ヴラジェーシュ・ヒールジー、ヴァッラブ・ヴャース、プーナム・ディッローン
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。
ラーニー・ムカルジー(左)とシャーヒド・カプール(右)
あらすじ |
インドのアムリトサルに住むヴィクラムジート・スィン、通称ヴィッキー(アヌパム・ケール)と、パーキスターンのラーハウル(ラホール)に住むリヤーカト・アリー・カーン、通称ラッキー(ダリープ・ターヒル)は、印パ分離独立前からの親友であった。2人は大のクリケット好きで、ここ10年ほど、パーキスターンの独立記念日である8月14日か、インドの独立記念日である8月15日に、印パ親善マッチ「アマン・カップ」をアムリトサルかラーハウルで共催していた。ヴィッキーもラッキーもアマン・カップのために自分のチームを持っていた。だが、ヴィッキーのインディア・タイガースは、いつもラッキーのパーキスターン・チャンプスにボロ負けしていた。
ヴィッキーには離婚した妻(プーナム・ディッローン)と1人の息子がおり、2人ともロンドンに住んでいた。離婚の理由は単純で、ヴィッキーが妻の要望に従って、インドを捨ててロンドンに移住することを頑なに拒否していたからである。息子のローハン(シャーヒド・カプール)は英国でプロのクリケット選手になっていた。
ある日、ヴィッキーが心臓発作になったとのニュースを受け取ったローハンは単身アムリトサルに戻る。ところがそれはローハンを10年振りにインドに呼び戻すための嘘だった。ヴィッキーはローハンに、半年後に開催予定のアマン・カップに出場するように頼む。ローハンには父親の要望を拒否することが出来なかった。
早速ローハンはアマン・カップの出場者を募集する。それに目を付けたのが、アムリトサルのジグリー・ヤール・ダンス・カンパニーの一員、ヴィーラー・カウル(ラーニー・ムカルジー)であった。ヴィーラーは女の子ながら強打力を持っており、クリケット選手になることを夢見ていた。ヴィーラーは喜び勇んで選考の場を訪れるが、女の子であることを理由に追い返される。
傷心のヴィーラーは、酔っぱらって動けなくなったヒーローの代役として、男装して、劇団のヒロイン、シャンノー・アムリトサリー(ラーキー・サーワント)とステージに立ったことをきっかけに、男装して選考を受ければクリケット選手になれると思い付く。男装したヴィーラーはヴィール・プラタープ・スィンを名乗り、見事選考に合格する。
キャプテンのローハンは、選考した選手の特訓を開始する。あるときローハンは、男装を解いてシャワーを浴びているヴィーラーを見てしまうが、ヴィーラーはヴィールの妹だと名乗って何とかごまかす。ローハンの幼馴染みでミス・チャンディーガルのソニア(シェリリン・チョープラー)がローハンに積極的にアプローチしていたが、ローハンは次第にチャキチャキのパンジャービー娘ヴィーラーに惹かれるようになる。ローハンはヴィールを通してヴィーラーをデートに誘い、そこで愛の告白をする。ヴィーラーもローハンに恋していたが、敢えてその答えをアマン・カップ勝利後まで持ち越す。
再びアマン・カップの日がやって来た。今回はインド・チームがパーキスターンへ遠征する番で、試合はラーハウルで行われた。ヴィッキーの妻も試合観戦にやって来た。まずはパーキスターン・チャンプスのバッティングであった。ローハンは絶好調で、パーキスターンの選手を次々に打ち取る。だが、その試合の途中でローハンはヴィールがヴィーラーであることに勘付いてしまう。ローハンは急にスランプに陥り、パーキスターンは一気に大量得点を重ねた。
インド・タイガースのバッティングの番が来た。ローハンは、男装してチームに潜り込み、自分の心を弄んだヴィーラーに憤っており、彼女をチームから外してしまう。だが、既にチームの得点源となっていたヴィーラーなしに、大量得点のパーキスターンを越える点を稼ぐことは困難であった。次々とインドの選手は打ち取られてしまう。とうとうヴィーラーを呼ばざるをえなくなった。遂に長年待ち望んで来たチャンスを与えられたヴィーラーは獅子奮迅の活躍をし、一気に点差を詰める。だが、乗って来たところで転倒して腕を怪我してしまう。もはやローハンが孤軍奮闘するしかなかった。うまくローハンがバッティングをするように試合を運んで行ったが、やむを得ない展開から、最後の重要なバッティングをヴィーラーが受け持つことになってしまった。ヴィーラーは神様に祈り、渾身のバッティングをする。その甲斐があり、僅差でインド・タイガースは勝利する。
表彰式でローハンはヴィール・プラタープ・スィンが実は女の子ヴィーラーであったことを観衆の前で明かす。女性がクリケットの試合をしていたことを知って、印パ両方の観客はブーイングを飛ばす。だが、ヴィーラーは、男性と共にクリケットをプレイするだけの能力がありながら、女性であることだけを理由に、インドのためにクリケットをプレイするという夢を見ることさえ許されない現状に疑問を呈すと同時に、インド系米国人女性宇宙飛行士スニーター・ウィリアムス、女性警察官僚キラン・ベーディー、女性首相インディラー・ガーンディーの例を出し、女性でも男性と肩を並べて夢を追うことが出来ると主張する。その訴えに観衆も心を動かされ、ヴィーラーに惜しみない拍手を送る。 |
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「Chak De! India」と同様に女子スポーツを題材にした映画であったが、いわゆるスポ根映画ではなかった。作品には主に3つのメッセージが込められていたと思う。ひとつは未だに特定の分野に残る男尊女卑の考え方への批判。たまたま映画はクリケットが題材になっていたが、メッセージの守備範囲はもっと広い。今まで男性のみの世界とされていた分野でも、女性がどんどん進出して活躍している。映画の最後、主人公ヴィーラーのスピーチの中で、宇宙飛行士スニーター・ウィリアムス、警察官僚キラン・ベーディー、政治家インディラー・ガーンディーの3人が例として出されていた。そして、それだけの才能がある女性にはチャンスが与えられるべきであるし、女性であることだけを理由にそういう女性たちからチャンスだけでなく夢すらも奪うような社会は正しくない、というメッセージが込められていた。さらに、女神の像は必死に崇拝するのに、生きている女性に対して尊敬を払わないインド人男性の矛盾も突いていた。ふたつめは、「Swades」(2004年)などとも共通するが、インド人はたとえ海外に住んでいても必ずインドに深い愛着を持っており、いつかはインドに還るものであるというメッセージである。パンジャーブ地方の穀倉地帯の土の香りが、欧米のモダンなライフスタイルに染まったインド人をルーツに呼び戻す、という流れは、多くのインド映画で見られる。挿入歌「Ishq
Hi Hai Rab」でも、「遠くに行くほど近くに感じる」とインドが歌われている。みっつめは印パ友好のメッセージである。劇中に登場するアマン・カップはフィクションだが、実際にクリケットは印パ間の信頼醸成措置の一環として活用されており、スポーツが両国民の心をつなぐもっと近道の橋であることが強調されていた。
映画のプロットから感じ取られるメッセージは主に上の3つであるが、もうひとつ、劇中のちょっとした台詞の中で耳に留まったものがあった。それは、ローハンとヴィーラーのデートのシーンである。ローハンとのデートのために勝負ドレスを着てやって来たヴィーラーに、ローハンは優しく語りかける。「僕はインドとヴィーラー、この2つに恋してしまった。そしてこの2つは、他の何のためにも、変わる必要はない。あるがままが素晴らしい。」つまり、ヴィーラーは普段のヴィーラーが一番魅力的であるように、インドはインドであることがもっとも素晴らしいのであり、無理に欧米の後を追ってインドらしさを失うのはよくない、ということである。ヤシュラージ・フィルムスと言ったら、ボリウッド映画界の中では率先して映画のグローバライゼーション(≒ウェスタナイゼーション)を推進して来たプロダクションのひとつだと思うのだが、「Rab
Ne Bana Di Jodi」(2008年)の大ヒットに気をよくしたのか、これは方向転換宣言とも取れる台詞であった。
このように、「Dil Bole Hadippa!」は意外にメッセージ色が強い映画である。それでも、スポ根映画とまでは行かないまでも、何だかんだ言ってスポーツのスリリングさを再現することに多くの時間が費やされていたため、ロマンス映画として見たときには弱さもある。ローハンとヴィーラーの接近にはもうひとつふたつクッションが欲しかったし、「第三者」となるソニアにももう少し役割を与えた方が良かった。クライマックスに演説を持って来て、映画を通して言いたかったことを言うというのは、チャップリンの「独裁者」(1940年)を例に出すまでもなく、古今東西の映画でよく使われる手法で、「Dil
Bole Hadippa!」でも踏襲されていたが、映画は第一に映像で語る芸術であることを考えると、これは最上の方法とは言えない。ヴィーラーが演説でしゃべったことを映像で語る努力がなされていれば、この映画はもっと研ぎ澄まされたことだろう。女の子が男装してクリケット選手になるというプロットの映画を考えた際、劇中でもっとも重要となるのは、彼女が女の子であることがばれる、または明かされるシーンであるが、「Dil
Bole Hadippa!」ではそこでちょっと手抜いているように思えた。インターミッション直前でまずシャワーを浴びるヴィーラーの姿がローハンに見られてしまうという、ちょっとしたお色気をミックスした暴露未遂シーンがあり、それは悪くなかったと思う。だが、終盤、ローハンが、ヴィール・プラタープ・スィンが実はヴィーラーであることに勘付くシーンでは、ヴィーラーの目から外れたコンタクトレンズがそのきっかけを作るアイテムになっていたのだが、非常に分かりにくかったし説得力に欠けた。さらに、題名「Dil
Bole Hadippa!」は内容とあまり直接関係ないような気がする。もっと頭をひねれば、もっと内容に見合った題名が思い付いたのではないかと思う。以上、思い付いた欠点をあげつらってみたが、それでも「Dil
Bole Hadippa!」は全般的に楽しく見られる映画に仕上がっており、今年の必見映画の1本に数えても差し支えないだろう。
「Dil Bole Hadippa!」の主人公は完全にラーニー・ムカルジーである。「Black」(2005年)で絶頂を迎えたラーニー・ムカルジーのキャリアはその後下降線を辿っていたのだが、「Dil
Bole Hadippa!」においては、スィク教徒男性に変装してクリケットをプレイするトリッキーな演技を見せ、今一度彼女の存在感と演技力が再確認された形となった。ただ男装するだけでなく、一般的なパンジャーブ人男性の仕草をかなりよくコピーしたり、かなり本格的にクリケットをプレイしていたりして、感心した。バーングラー・ダンスを踊るときも、男性ダンサーのますらお振りの踊り方をよく再現していた。もちろん、ノーマル時に輝くスマイルも変わらず魅力的であった。最近低迷していたラーニーであるが、この映画での演技に限っては絶賛を送りたい。
相手役のシャーヒド・カプールも、ラーニーに負けず劣らず堅実な演技をしており、今最も頼りがいのある中堅男優であることを証明していた。シャーヒドはロマンスもアクションも先日公開された「Kaminey」(2009年)のような変則的な役柄もオールマイティーにこなす、オールラウンダー型の男優に成長して来ており、頼もしい限りである。ダンスの腕もますます上がっており、もはやリティク・ローシャンの域に達したと言っても過言ではない。
アヌパム・ケールやダリープ・ターヒルなど、安定した名脇役俳優を除き、脇役陣の中で特筆すべきはラーキー・サーワントである。最近ラーキーは映画よりもTVの方で活躍しており、スクリーンでは久し振りに見た気がする。ほとんどアイテム・ガールとしての出演であったが、何を期待されているかを完全に熟知しており、セクシーなダンスで観客を魅了していた。さすがに踊りは絶品である。サブヒロイン扱いのシェリリン・チョープラーは、元々モナ・チョープラーを名乗っていたセクシー女優であるが、このまま芽が出ずに脇役女優のまま終わりそうな雰囲気である。
音楽はプリータム。パンジャーブ地方が舞台なだけあり、パンジャービー風味の威勢のいいナンバーが揃っている。タイトル曲「Hadippa」、アンチ・ディスコ&パンジャービー万歳ソング「Discowale
Khisko」、エンドクレジット・ナンバー「Bhangra Bistar」など。ノリノリで踊りたかったら「Dil Bole Hadippa!」のサントラは買って損はない。また、劇中では、ボリウッドの中ではダンスがうまい部類に入るシャーヒド・カプールとラーキー・サーワントがフルに踊りを見せている上に、多数のバックダンサーを従えた豪華でカラフルなダンスシーンが楽しめる。
名目上はヒンディー語映画であるが、パンジャーブ地方を舞台とした物語なので、台詞はかなりの程度パンジャービー・ミックスである。ヴィーラーがそれに片言の英語を交ぜるために、さらに分かりにくくなっている。よって聴き取りは難しい部類に入る。ちなみに題名になっている「ハリッパー!」とは、パンジャービー・ソングによく入る掛け声で、「エイヤー!」「いいぞ!」「その調子!」「あ、それ!」みたいな意味だと理解すればいいだろう。
劇中では過去の人気作のパロディーやオマージュが随所で見られた。ジグリー・ヤール・ダンス・カンパニーのトラックには、「Dhoom:2」(2006年)を初めとした映画のポスターの絵が描かれていたし、「Hum
Aapke Hain Koun..?」(1994年)、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)など過去の大ヒット作のパロディーや、「Maine
Pyaar Kyun Kiya?」(2005年)の挿入歌「Just Chill」、「Bunty Aur Bubli」(2005年)の挿入歌「Kajra
Re」のダンスの流用など、枚挙に暇がない。
クライマックスはクリケットの試合となっているため、映画をフルに楽しもうと思ったら、クリケットのルールをある程度理解していた方がいいだろう。映画中では、世界のクリケット界の新トレンドとなっている20オーバー(120球)限定のT20形式で試合が行われている。最後のバッツマン(打者)としてフィールドに現れ、積極的バッティングで大量得点を稼ぎ出していたヴィーラーが怪我をしたことで、なるべくローハンにバッティングを回していくという戦略的な試合運びが必要となったが、その辺の駆け引きやスリルは、オーバーごとに投手の投げる方向が変わるクリケットのルールを知っていないとチンプンカンプンであろう。ここでは特にクリケットのルールを解説しないが、最後は主人公が勝つというスポーツ映画の王道を守りながらも、観客を興奮させるため、非常によく工夫されていた展開だったとだけ言っておこう。また、台詞中には、サチン・テーンドゥルカルやカピル・デーヴなど、インドの超有名クリケット選手の名前が出て来る。
「Dil Bole Hadippa!」は、一見「Chak De! India」と同じラインの、女子スポーツを題材にしたスポ根映画のように思えるが、実際のところは男性社会に果敢に挑む女性の挑戦が主体であり、どちらかというと女性向け映画となっている。クリケットにも多少明るくないと映画の世界に入り込めないかもしれない。それでも、笑いあり、涙あり、豪華なダンスあり、ハラハラドキドキの試合ありと、娯楽映画としてよくまとまっており、誰でも十分に楽しめる。今年の重要作品の1本となりそうだ。
「ボリウッド映画はハリウッド映画の劣化コピー」と揶揄されることがある。残念ながら、確かにハリウッド映画のパクリのような映画はボリウッドにいくつもある。しかし、ボリウッド映画は今やその触手を世界中に伸ばしており、ハリウッド映画に限らず、いろいろなところからネタを取り込んでいる。記憶にあるところでは、ドイツ映画「ラン・ローラ・ラン」(1998年)の翻案である「Ek
Din 24 Ghante」(2003年)、韓国映画「オールド・ボーイ」(2003年)の翻案である「Zinda」(2006年)、韓国映画「猟奇的な彼女」(2001年)の翻案である「Ugly
Aur Pagli」(2008年)などである。そして、実はボリウッド映画の非オリジナル作品の中でもかなりの割合を占めているのが、南インド映画の翻案である。南インド映画界でヒットした映画を、その監督自身がヒンディー語にリメイクすることもあれば、ヒンディー語映画界の監督やプロデューサーが南インド映画界のヒット作のリメイク権を買ってヒンディー語版を作ることもある。最近大きな話題となったのがアクション映画「Ghajini」(2008年)だ。同名のタミル語映画からのリメイクで、昨年の最大のヒット作となった。「Ghajini」のヒットは、ボリウッドにおいて今後2つの潮流を生みそうである。まずは南インド映画のリメイクがますます増えるだろう。南インド映画界で当たった作品をヒンディー語でリメイクしてさらなる儲けを狙うという流れが今後活発化するはずである。そしてもうひとつ、アクション映画の復権も予想できる。ボリウッドのメインストリームでは、ここ数年ほど暴力主体のアクション映画が下火になっていた。だが、「Ghajini」のヒットにより、アクション映画を望む観客層がヒンディー語圏にもまだ十分いることが確認され、今後アクション映画が増えて行きそうだ。そして、この2つの潮流をまとめると、南インド映画発のアクション映画のリメイクがヒンディー語映画界で増えて行く可能性が示唆される。
昨日封切られたサルマーン・カーン主演のアクション映画「Wanted」は、上記の予想の現実化の口火を切る作品となりそうだ。この映画は、テルグ語映画「Pokiri」(2006年)やそのタミル語リメイク「Pokkiri」(2007年)のリメイクである。監督は、タミル語版で監督を務めたプラブデーヴァ。プラブデーヴァと言ったら、知る人ぞ知る、「インドのマイケル・ジャクソン」と呼ばれるダンスの名手であるが、ダンサーやコレオグラファーの他に、俳優や監督としても活躍しており、非常に多才な人物である。そのプラブデーヴァと、ボリウッドのトップスターのひとりサルマーン・カーンとのコラボレーションは、それだけで興味をそそられる現象であった。
題名:Wanted
読み:ウォンテッド
意味:指名手配
邦題:ウォンテッド
監督:プラブデーヴァ
制作:ボニー・カプール
音楽:サージド・ワージド
歌詞:ジャリース・シェールワーニー、サミール、アルン・バイラヴ、ワージド、サッビール・アハマド、サルマーン・カーン
振付:プラブデーヴァ、ラージュー・スンダラン、ヴァイバヴィー・マーチャント、ラージーヴ・スルティー
出演:サルマーン・カーン、アーイシャー・ターキヤー、マヘーシュ・マーンジュレーカル、プラカーシュ・ラージ、ゴーヴィンド・ナームデーオ、ヴィノード・カンナー、マノージ・パーワー、アニル・カプール(特別出演)、ゴーヴィンダー(特別出演)、プラブデーヴァ
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。
アーイシャー・ターキヤー(左)とサルマーン・カーン(右)
あらすじ |
ムンバイーではマフィア同士の熾烈な縄張り争いが頻発していた。アシュラフ・カーン警視総監(ゴーヴィンド・ナームデーオ)は犯罪ゼロのムンバイーを目指し、マフィアの一掃に乗り出す。だが、悪徳警官タルパデー警視(マヘーシュ・マーンジュレーカル)をはじめ、警察の中にもマフィアと密通する者が多く、なかなか成果は上がらなかった。
ラーデー(サルマーン・カーン)はムンバイーでフリーの殺し屋をしていた。ある日偶然出会ったジャーンヴィー(アーイシャー・ターキヤー)に一目惚れし、以後彼女を追いかけるようになる。ジャーンヴィーは、シュリーカント・シェーカーワト(ヴィノード・カンナー)の経営するフィットネスクラブに通っていた。ジャーンヴィーは最初ラーデーを気味悪がるが、タルパデー警視に嫌がらせを受けていたところを助けられ、以後ラーデーを受け容れるようになる。ジャーンヴィーがラーデーに恋するようになるのに時間はかからなかった。彼女はラーデーが殺し屋であることを知っていたが、いつか更生すると信じていた。しかし、彼と共にいることで、彼が行う殺人の数々を目の当たりにし、とうとう耐えきれなくなる。
ところでラーデーは、ムンバイーの大半を支配するマフィアのボス、ゴールデンに協力することになる。しばらくゴールデンと共に仕事をするが、ある日突然ゴールデンが殺されてしまう。ゴールデンが殺されたことで、今までバンコクからゴールデンを操っていたドン、ガニー・バーイー(プラカーシュ・ラージ)がムンバイーにやって来る。
ガニー・バーイーは早速ラーデーに会い、州首相を爆弾で暗殺する計画を話す。また、彼をゴールデンの後継者にしようとするが、ラーデーは拒否する。そうこうしている内にアシュラフ・カーン警視総監指揮の急襲があり、ガニー・バーイーは捕まってしまう。だが、ガニー・バーイー逮捕は公表されなかった。なぜならガニー・バーイーは政府の上層部まで影響力を持っており、もし逮捕を公表したらすぐに上から圧力がかかり、釈放を余儀なくされるからである。
ガニー・バーイーの行方が分からなくなり途方にくれたゴールデンのマフィアたちは、アシュラフ・カーン警視総監の娘を誘拐し、ガニー・バーイーを解放させる。ガニー・バーイーは復讐に乗り出そうとするが、アシュラフ・カーン警視総監の娘から、覆面警官がマフィアの中に入り込んでいるという情報を手にする。ガニー・バーイーはその覆面警官の正体を突き止めるため、タルパデー警視に情報収集させる。その結果、シュリーカント・シェーカーワトの息子が覆面警官としてマフィアに潜入していることが分かる。
ガニー・バーイーは直々にシェーカーワトの経営するフィットネス・クラブを訪れ、覆面警官は誰かということを突き止めようとするが、シェーカーワトは、ラージヴィールという名前を出すだけで、他に有力な情報を提供しようとしなかった。そこでガニー・バーイーはシェーカーワトを殺す。そうすればラージヴィールが駆けつけてくるだろうという算段であった。そこに駆けつけて来たのは他でもないラーデーであった。ラーデーは、アシュラフ・カーン警視総監によってマフィア殲滅のために送り込まれたエリート警官であった。
ガニー・バーイーは、ラーデーが覆面警官であることを知って驚き憤る。すっかり騙されたガニー・バーイーは、ラーデーにテロ計画まで話してしまった。だが、だからと言って計画を中止したり変更したりするのは、ガニー・バーイーのプライドが許さなかった。州首相暗殺の決行を決める。だが、ラーデーはその前に動き出した。タルパデー警視を脅してガニー・バーイーの居場所を探らせ、単身そこに乗り込む。まずはアシュラフ・カーン警視総監の娘を救出し、その後ガニー・バーイーの手下を次々になぎ倒して、最後にガニー・バーイーに引導を渡す。そして全てが終わった後に現場を訪れた悪徳警官タルパデー警視もついでに殺し、悪の一掃を完了する。 |
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昨年「Ghajini」を見たときに感じたことと全く同じことを、この「Wanted」でも感じた。「Ghajini」の映画評はこちらで見ていただきたい。端的に言えば、「果たしてボリウッド映画はこの場に及んで後退する必要があるのか?」という疑問である。僕は南インド映画には全く疎く、偉そうに語る資格は全くない。南インド映画界でも優れた映画がコンスタントに作られていることと思う。しかし、アクション映画に限っては、南インド映画をそのままボリウッドに持って来ることはもうやめてもらいたい。暴力に次ぐ暴力、支離滅裂で無茶苦茶なストーリー、ストーリーとはほとんど無関係なダンスシーン、真剣にやっているのか受け狙いなのか判別不能なオーバーアクティングなどが「Wanted」には満載であった。それらは南インドのアクション映画ではまだ日常茶飯事なのかもしれないが、ボリウッドはもうとっくの昔に捨て去ったものである。リメイクにかこつけてそれらを無理に復活させるのは、時間を逆戻りさせようとする、無駄で迷惑な努力にしか思えない。
全体のストーリーは子供の妄想みたいに幼稚なものであったが、「Wanted」で優れていたのは各部品である。天下一品のコレオグラファーであるプラブデーヴァが監督なだけあり、まずダンスはどれも高いレベルであった。特に主演のサルマーン・カーンに加えて、特別出演のアニル・カプールとゴーヴィンダー、それにプラブデーヴァ自身もカメオ出演のダンスナンバー「Jalwa」はとても豪華だったし、その他映画の途中で挿入されるダンスシーンのどれも手抜きがなかった。惜しむらくはどれもストーリーとの関連性が希薄であることである。アクションシーンも、一般的なヒンディー語のアクション映画に比べて高い水準を誇っていた。アクションでいかに観客に爽快感を与えるか、研究し尽くされた映像美であった。そしてコメディーシーン。まるでショートコントのような小ネタがいくつも挿入され、それ自体はとても面白かった。欠けていたのはそれらをうまくつなぎ合わせて行く編集能力である。
サルマーン・カーンはおそらく「Tere Naam」(2003年)以来初めてのアクション映画主演であろう。スターシステム100%フル稼働であり、サルマーン・カーンがおいしいところ全てを取る展開になっていた。何しろ無敵の殺し屋として映画が始まり、終盤でエリート警官としての素性が明かされるという、これ以上にないかっこいい展開である。全ての道はサルマーンに通ず。ヒロインの心も鷲づかみ。かっこよすぎである。サルマーン・カーン親衛隊にとっては「待ってました!」の映画だろう。彼のスターパワーのみで、田舎を中心に観客を動員しそうだ。
サルマーンのかっこよさを際立たせる余り、そのキャラクター設定に無理が出ていた一方で、悪役の人物作りはなかなかうまかった。それはマヘーシュ・マーンジュレーカルとプラカーシュ・ラージの演技力の賜物であろう。マヘーシュ・マーンジュレーカル演じる悪徳警官タルパデー警視は、小悪党をそのまま絵にしたような男で、ブレのない演技で憎たらしさをうまく醸し出していた。プラカーシュ・ラージ演じるガニー・バーイーの方は、典型的な悪の親玉ではなく、どことなく抜けた感じの仕草や台詞によってユニークな悪役になっており、劇中の意外な笑いの壺となっていた。
ヒロインはアーイシャー・ターキヤー。決して悪くはない女優で、「Wanted」でも悪くはなかったが、伸び悩んでいる様子が感じられ、ここらが彼女の限界かと思われてならない。それに映画の脚本自体が混乱しているため、彼女の演技も混乱気味であった。
他にヴィノード・カンナーやゴーヴィンド・ナームデーオなど、渋い俳優が脇役で出演していた。アニル・カプールやゴーヴィンダーは前述の通りアイテム出演のみである。
音楽はサージド・ワージド。プラブデーヴァを初めとした振付師陣によるダンスは優れたものが多かったが、音楽自体にはこれと言って卓越したものが見当たらなかった。
言語は基本的にヒンディー語であるが、ムンバイーのアンダーワールドが舞台であるため、タポーリー・バーシャーと呼ばれるマフィア語がふんだんに使われていた。その他、カメオ出演のプラブデーヴァが一瞬だけタミル語を話しているのが面白かった。
「Wanted」は、プラブデーヴァ監督、サルマーン・カーン主演という、いかにも興味をそそられるアクション映画であるが、南インド映画リメイクの悪い部分が前面に出てしまっており、最近ボリウッドで主流の娯楽映画を見慣れている人には退屈に思えるかもしれない。だが、「Ghajini」と同様、こういう映画を望んでいる層も多く、ヒットする可能性は残されている。
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9月20日(日) マイケル・ジャクソンの魂も解脱? |
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インドを訪れる日本人に人気の観光地にボード・ガヤーがある。ブッダ・ガヤーとも呼ばれるこの村は、仏教の開祖ブッダが悟りを開いた地として知られており、ブッダがその木陰で瞑想したと言う菩提樹があった場所には、世界遺産マハーボーディー寺院が建っている。ちなみに、現存する菩提樹の樹齢はせいぜい100年程度のようである。だが、ブッダが木陰に座って悟りを開いた菩提樹の直系の子孫とされている。
そのボード・ガヤーを訪れる旅人が必ず中継地とする町がガヤーである。鉄道駅があり、ボード・ガヤーに鉄道でアプローチしようとする限り、必ずガヤー駅で降りなければならない。ガヤーからボード・ガヤーまでは17kmほどである。ボード・ガヤーは仏教徒にとって最大の聖地であるが、実はガヤーもヒンドゥー教徒にとってかなり重要な聖地となっている。最近終了したばかりだが、ピトリ・パクシュと呼ばれる期間、多くの巡礼者がガヤーを訪れる。
ガヤーは祖先崇拝の一大中心地である。ガヤーのヴィシュヌパド寺院で祖先の魂を供養すると、その魂は解脱を得られ、天国へ行けると信じられている。ピトリ・パクシュは、日本のお盆と似た祖先崇拝の期間であり、この時期、祖先の魂を供養するため、多くの人々がガヤーを訪れるのである。祖先の魂を供養する行為は、シュラーッドとかピンド・ダーンとかタルパンなどと呼ばれている。
なぜガヤーがそのような聖地になったのかを説明する神話伝承についてはいくつかのバージョンがあって、その全てを紹介しても混乱を招くだけなのだが、それらに何となく共通している要素を簡潔にまとめると以下のような感じになるだろう。かつてガヤーという名の強大な悪魔がおり、ヴィシュヌ神に足で踏んづけられて退治されたのだが、悪魔ガヤーは触れた者の魂を天国へ導く力を与えられていた。現在のガヤーは、正に悪魔ガヤーの身体が横たわった場所に出来た町とされており、ヴィシュヌ神が悪魔ガヤーを退治したときに付いた足跡を祀っているのがヴィシュヌパド寺院とされている。また、今でも地上に横たわったガヤーを、ヴィシュヌ神を初めとした様々な神様たちが踏んづけて抑えているともされており、ガヤーにはヴィシュヌ神以外にも多くの神々を祀った寺院がある。日本で地面の中のナマズが地震を起こすと考えられているのとちょうど同じように、神々に踏みつけられたガヤーが身体を動かすと地震が起きるとの迷信もあるようである。
通常、死者の魂を供養するのは、その長男や子孫の仕事である。生前に自分の魂の供養を行っておき、死ぬと同時に解脱を得るという都合のいい方法もあるようだが、基本的には血縁の者がピンド・ダーンを行う習わしだ。しかし、9月15日付けのヒンドゥスターン紙によると、ガヤーには、世界中の著名人の魂を勝手に供養し続けているという奇特な人がいるらしい。今年のピトリ・パクシュには、6月25日に死去した「キング・オブ・ポップ」マイケル・ジャクソンの魂の供養も行われたようだ。
その人の名前はスレーシュ・ナーラーヤン。もちろんマイケル・ジャクソンの親族でもなければ、面識があった訳でもない。社会活動家のナーラーヤン氏は8年前から様々な境遇の死者のピンド・ダーンを行って来ており、マイケル・ジャクソンの魂の供養もその活動の一環のようである。特に彼は、死後渦中の人となって魂の安らぎが得られていなさそうな人や、凄惨な事件や大規模な天災によって死んだ人々の供養を優先しているようだ。人種や宗教は全く関係ない。昨年は、暗殺されたパーキスターンの政治家ベーナズィール・ブットー、インド共産党の政治家ハリキシャン・スィン・スルジート、ノイダで殺害されたアールシーとヘームラージから、ビハール州のコースィー河氾濫や中国四川省地震で亡くなった人々の供養をした。今年は、マイケル・ジャクソンに加えて、デリーのジャーマー・マスジドのシャーヒー・イマーム(神官長)アブドゥッラー・ブカーリー、古典声楽者ガングーバーイー・ハンガルや、ムンバイー同時テロで死んだ人々のピンド・ダーンが行われた。他に名前が挙がっていたのは、2003年にコロンビア号空中分解事故で亡くなったインド人女性宇宙飛行士カルパナー・チャーウラーや、2006年に亡くなった著名なシェヘナーイー奏者ビスミッラー・カーンである。とにかくニュースになった人々を片っ端から供養しているような感じだ。さぞや毎日、新聞を読むのが楽しいことだろう・・・。
日本には「小さな親切、大きなお世話」という言葉がある。インドにいると、この言葉が脳裏をよぎる機会が多いのだが、全く関係ない死者の魂を供養し続けるナーラーヤン氏の行動は究極のお節介とも言える。だが、死後の世界がどうなっているのか、生きている人には決して分からないもの。ブッダも明言は避けている。もしかしたらナーラーヤン氏のこのお節介が、多くの魂の救いになっているのかもしれない・・・。
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9月21日(月) ナヴラートリ:「9」の意味 |
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今年は9月19日からナヴラートリ(九夜祭)が始まった。その名の通り9夜続く祭りで、10夜目には、ヒンドゥー教三大祭のひとつとされるダシャハラー祭が来る。ダシャハラー祭はヴィジャイダシャミー祭とも呼ばれる。ダシャハラー祭からちょうど20日後に祝われるのがディーワーリーまたはディーパーワリーと呼ばれる祭りで、やはりこれもヒンドゥー教三大祭のひとつとされており、盛大に祝われる。他にも、カンニャー・ブージャン、バーイー・ドゥージ、カルワー・チャウト、ダン・テーラスなど、この時期にはいくつもの重要な祭りが密集する。また、ナヴラートリの第7日目からダシャハラーの日までを特にドゥルガー・プージャーとも呼び、女神信仰が行われる。このように、この時期は単に多くの祭りがあるだけでなく、いくつかの重要な祭りが重層的に重なっているのである。よって、ナヴラートリからディーワーリーまでの1ヶ月間、インドは北も南も寝ても覚めても祝祭ムード一色となるのである。
ダシャハラーとは「10日目」という意味である。インドの伝統的な太陰太陽暦における第7月アーシュヴィン月の第10日目に行われる祭りなので、そう呼ばれている。ダシャハラー祭はインド各地で各様に祝われるが、それらに共通するコンセプトは、「悪に対する正義の勝利」だと言える。ダシャハラー祭の由来は主に2通りに説明される。ひとつは、インド二大叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公ラーム王子が羅刹王ラーヴァンを殺した日だと言う説明である。もうひとつは、ドゥルガー女神が強大な悪魔マヒシャーを殺した日だとする説明である。どちらにしても、この日正義は悪を駆逐する。
ナヴラートリは、アーシュヴィン月の開始と共に始まる。ナヴラートリの9日間、信心深い人は断食をしたり節食したりして、宗教的生活に没頭する。それだけでなく、この時期はインド各地で様々なイベントが行われる。ドーアーブ地方(ウッタル・プラデーシュ州とその周辺部)ではラーム・リーラーと呼ばれる野外劇が上演され、メーラーと呼ばれる移動遊園地が各地に出現する。グジャラート地方では連日連夜ダンディヤー・ラースと呼ばれるスティック・ダンスが踊られ、男女が踊りに熱狂する。ベンガル地方ではドゥルガー女神を象った像が各町内会ごとに作られ、優劣が競い合われる。
単にナヴラートリと言った場合、アーシュヴィン月第1日~第9日までの「秋のナヴラートリ」のことを主に指すが、実はナヴラートリは他にもあり、その中でも「秋のナヴラートリ」に次いで重要なのが、チャイトラ月(インドの太陰太陽暦の第1月)の第1日~第9日に祝われる「春のナヴラートリ」である。やはり同様にこの期間、信心深い人々は特に禁欲的な生活を送り、節制する。
今まで秋のナヴラートリはダシャハラー祭までのカウントダウン期間みたいなイメージを漠然と持っており、だからこんなにドンチャン騒ぎをするのだろうと思っていたのだが、9月20日付けのヒンドゥスターン紙の折込紙リミックスに、スレーシュ・チャンドラ・ミシュラという占星術師によるナヴラートリの「9」の解説があり、この数字に隠された秘密を初めて知った。
まず、春秋のナヴラートリが、ちょうど秋分と春分の日の前後に来ることに注目したい。インドの伝統医学アーユルヴェーダでは、秋分の日と春分の日の前後の期間を「ヤムラージ(死神)の落とし穴」と呼んでおり、1年でもっとも病気にかかりやすい時期として警告している。ナヴラートリの9日間、断食したり禁欲生活を送るのは、まずはこのためであるらしい。
さらに、身体は半年に1回、メンテナンスをするのが好ましいとされる。メンテナンスというのはつまり断食のことで、半年に1回、胃腸を空っぽにして、身体機能を一度リセットし、健全な肉体と精神を取り戻すことが必要になる。それを秋分と春分のときに行うとちょうどいいという訳である。
そして断食や節食をする期間が9日間なのにも理由がある。アーユルヴェーダでは、身体には9つの穴があるとされている。すなわち、口(1つ)、目(2つ)、耳(2つ)、鼻(2つ)、尿道口(1つ)、肛門(1つ)である。コンセプトとしては、それらを毎日ひとつずつメンテナンスして行くため、9日間が必要となる訳である。さらに、ナヴラートリの1日1日には、ドゥルガー女神の化身が当てはめられているが、それも身体の9門と関連しているようである。1日目から順に、シャイルプトリー、ブラフマチャーリニー、チャンドラガンター、クーシュマーンダー、スカンドマーター、カーティヤーイニー、カールラートリ、マハーガウリー、スィッディダートリーと言う名前が付いている。
ナヴラートリに断食をすると書いたが、一口に断食と言っても、9日間全く何も食べない訳ではない。それではさすがに身体が持たない。この9日間、各人の許容範囲内で食を抑えるだけでよく、もし何かを食べるときは、特定の薬草で作られた料理のみを食べるのが好ましいとされる。それは9品目ある。すなわち、蕎麦(カットゥー)、ヒユ(チャウラーイー)、冬瓜(ペーター)、インドビエ(シャーマーク・チャーワル)、菜っ葉、コショウ、カミメボウキ(トゥルスィー)、サゴデンプン(サーグーダーナー)、マラッカノキ(アームラー)である。ナヴラートリの時期、各レストランは断食者用にこれらの材料で作られたナヴラートリ・メニューを用意しているところが多い。
このように、意外に科学的に「9」という数字が決められている。インドに限った話ではないかもしれないが、殊にインドの迷信を突き詰めて行くと、意外な科学的理由が隠されていたりする。例えばよく言われるのが菩提樹のことである。インドでは菩提樹は神木として崇拝されているが、それは菩提樹が夜間でも酸素を排出する特殊な樹木であるかららしい(科学的にそれが本当かどうかは知らない)。人間が生きて行くのに必要な酸素をもっとも作り出してくれる菩提樹を根絶やしにしないため、菩提樹を崇める迷信が生み出されたと言う話である。ブッダも、四六時中酸素を供給し続ける菩提樹の下で瞑想したために悟りを開くことが出来たとの見方もある。ミシュラ氏のナヴラートリ解説には、それと同じくらいかなり説得力があった。「科学的なこじつけ」と表現した方が正しいのかもしれないが・・・。
ところで、以前ドゥルガーの乗り物占いと題して、ナヴラートリとダシャハラーの時期に、夫シヴァ神の住むカイラーシュ山から地上に降りて来るドゥルガー女神が、どの乗り物に乗って行き来するかによって、次の年の運勢が占われるということを紹介したことがある。詳しくはリンクを読んでいただきたいが、簡単に説明すると、ドゥルガー女神は1年の内の4日間(ナヴラートリ第7日目~ダシャハラーの日、つまりドゥルガー・プージャーの期間)だけ、カイラーシュ山を下りて地上で過ごすのだが、やって来る日(ドゥルガー・プージャー第1日)と帰って行く日(ドゥルガー・プージャー第4日)の曜日によって、ドゥルガー女神が移動に使う乗り物が決定し、その乗り物によって、ダシャハラーから始まる1年間の運勢が決まる。今年は、行きは揺り籠、帰りは象となる。9月21日付けのヒンドゥスターン紙には、デリーのベンガル人多住地域チトランジャン・パークにあるカーリー寺院の主管僧ムクティパダー・チャクラヴァルティーが、来年度の乗り物占いを読み解いていた。この乗り物占いから分かる来年度の運勢はズバリこうである。揺り籠に乗ってドゥルガー女神が来ることは凶兆であり、疫病によって多くの人々が死ぬであろう。象に乗って帰って行くことは吉兆であり、良好な雨と豊作が期待されるであろう。
疫病とは新型インフルエンザのことであろうか?そうだとしたら今後新型インフルエンザがさらに猛威を振るい、さらに多くの死者が出ることが予想される。しかしそんなことは乗り物占いに頼らなくても予想できることで、ちょっと怪しい。豊作の件も同様である。今年は雨が必要なときに雨が降らなかったため、農業は大きな打撃を受けた。しかし、インドには不作の年の次の年は豊作というパターンがあるみたいで、来年は豊作になることも普通に予想できることである。占いとは得てしてそういうものだが、ナヴラートリの「9」と違って、こちらにはあまり科学的な根拠を感じない。
現在デリー各地ではラームリーラーが行われており、ヒンディー語紙では連日各ラームリーラーの進行状況がニュースとして報道されている。ラームリーラーとは、ナヴラートリ祭の9日間と、その直後にあるダシャハラー祭の合計10日間を使って、インド二大叙事詩のひとつ「ラーマーヤナ」のストーリーを野外劇で再現する行事であり、大衆娯楽の元祖である。デリーだけでも300ヶ所でラームリーラーが行われているらしい。
ラームリーラーの会場はこんな感じ
ラヴ・クシュ・ラームリーラー委員会によるラームリーラー広場上演会場
ラームリーラーの会場に今行くと、ヘンテコな顔をした巨大な人形(プトラー)が立っているのを目にするだろう。日曜日(ラームリーラー2日目)にオールドデリーのラール・キラー広場へ行ったところ、まだ1体しか立っていなかったのだが、最終的には3体の人形が立つ。これらはそれぞれ、「ラーマーヤナ」の悪役、ラーヴァン、クンブカラン、メーグナードを表している。ラーヴァンは、ランカー島を拠点とし、「ラーマーヤナ」の主人公ラーム王子の妻スィーター姫をさらった羅刹王で、よく10個の頭を持った姿で描写される。クンブカランはラーヴァンの弟であり、半年眠って1日活動するというぐうたら者だが、起きている間は強大なパワーを誇る。メーグナードはラーヴァンの息子で、神々の王インドラを打ち負かしたことからインドラジート(インドラに勝利した者)の異名を持っている。ラーヴァンもクンブカランもメーグナードも、ラーム王子たちの前に立ちはだかった強敵である。
人形はまだ1体しか立っていなかった
ナヴシュリー・ダールミク委員会によるラームリーラー広場上演会場
奥ではメーラー(移動遊園地)が営業中
最後のダシャハラーの日には、ラーム王子たちがメーグナード、クンブカラン、ラーヴァンを退治するシーンが上演され、それに合わせて会場に立っている3体の人形が順に燃やされる。これはランカー・デヘン(ランカー島炎上)と呼ばれ、人々はラーヴァンらの人形が燃やされるのを一目見に会場にやって来る。人形にはかなりの量の火薬が仕込まれているため、間近でこのランカー・ダハンを見ると、とんでもない迫力である。
ところでデリーには、このラーヴァン人形の製造を一手に引き受けている地域があるらしい。9月21日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に紹介されていた。今の内に行っておかないと、ラーヴァン人形を作っているところが見学できなくなってしまうと思い、今日、その地域へ行ってみた。
タイムズ・オブ・インディア紙では、その地域の名前はティタールプル(Titarpur)と表記されていたが、毎回お世話になっているEICHER「Delhi
City Map」ではタタールプル(Tatarpur)と表記されていた。おそらくどちらも通用している。ティタールプル/タタールプルは、デリー・メトロのタゴール・ガーデン駅のすぐ近くにあるので、足のない人にとってもアクセスは容易である。デリー・メトロが頭上の高架橋を走るナジャフガル・ロードを西進し、ラージャウリー・ガーデン駅を越えると、道の両側と中央分離帯に、作りかけのラーヴァン人形が大量に置かれた場所があり、すぐに分かった(EICHER「Delhi
City Map」P53 A6)。
道端に立ち並ぶラーヴァンの顔は圧巻
ティタールプル/タタールプルは元々、火葬用品を作る人々の集落であったらしい。遺体を火葬場へ運ぶためのアルティーと呼ばれる担架や、遺体に着せるカファン(屍衣)などが作られていた。ところが50年ほど前、ラーヴァン・バーバーと呼ばれる人物がスィカンダラーバードから移住して来て、趣味でラーヴァンの人形を作り始めた。村の子供たちはラーヴァン・バーバーの隣に座ってその制作過程を習得し、彼らも真似してラーヴァンの人形を作るようになった。やがてティタールプル/タタールプルのラーヴァン人形はデリー中で有名となり、ラーヴァン人形の制作者たちは「ラーヴァンワーラー」と呼ばれるようになった。かつてはティタールプル/タタールプルのラーヴァン人形の作り手は3家族のみだったらしいのだが、労働者として雇われてグジャラート州やビハール州からやって来た人々が独立してラーヴァン人形を作り始め、今ではおよそ30社がこのビジネスに従事している。今やティタールプル/タタールプルのラーヴァン人形は海外からも注文が来るほど有名になっている。
髭の色塗り中
スタンダードな14mの高さのラーヴァン人形を作るのに費用は3,500ルピーほどかかるようで、それがデコレーションなどの質に従って8,000~20,000ルピーで売られるそうだ。だが、最近は同業者が増えて来たために価格競争が激化しているようで、ラーヴァン人形業界も楽ではなさそうである。また、道端に掲げられていた横断幕によると、高さ1.5mの小型ラーヴァン人形から、高さ15mの大型ラーヴァン人形まで、様々なサイズを取り扱っているらしい。
小型ラーヴァン人形
お土産にいかが?
ラーヴァン人形の制作は7月から始まる。まずはナングローイから竹ひごを購入し、それらを組み合わせてフレームを作る。その後、段ボールや布きれなどをフレームに貼っていき、色を塗って完成である。ダシャハラー祭まであと1週間を切っているので、てっきりもうあらかた完成しているかと予想していたのだが、行って見るとまだまだ未完成のものが多く、現場では急ピッチで作業が行われていた。ティタールプル/タタールプルには途方もない数の人形が置かれていたのだが、これらがダシャハラーまでに完成し、売れると思うと、驚かざるをえない。
急ピッチで作業中
こういうのを見ると、改めてデリーは面白い街だと感じる。ダシャハラーからディーワーリーの時期にデリーにいられるのはそれだけで幸運なことだ。
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9月25日(金) What's Your Raashee? |
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日本では12星座占い(正確には黄道12宮占い)が盛んで、誰でも自分の星座くらいは知っている。一般的な黄道12宮占いは、生まれたときに太陽がどの星座の位置にあるかで人間を12種類に分類し、それぞれの人がどのような運勢の下にあるのかを占う。僕は占いよりもむしろ「聖闘士星矢」という漫画で星座に詳しくなったが、そういう同世代の人も多いと思う。
インドにも天体や星座による長い占星術の伝統がある。古代バビロニア王国で発明されたと言われる、黄道12宮を基にした占星術は、ギリシアを経てインドに伝わり、独自の発展をして来た。インドではそれは「占い」という安っぽいものではなく、今でも人生を左右する重要な「履歴書」と考えられている。生まれたときから死ぬときまで、その人がどのような人生を歩むのかが緻密に計算される。特に結婚の際には2人のホロスコープが照らし合わされ、現在でも縁組みの重要な判断基準となっている。
さて、本日より公開のヒンディー語映画「What's Your Raashee?」は、「あなたのラーシ(宮)は何ですか?」という題名が示すように、黄道12宮占いをテーマにしたユニークなラブコメである。主人公の男性が、各星座に属する12人の女性とお見合いをするというプロットだ。その12人の女性を1人で演じるのがプリヤンカー・チョープラー。つまり、プリヤンカーは今回1人12役に挑戦する。1本の映画の中で女優が12役を演じるのは世界初のことのようで、既にギネスブックに登録申請されているようだ。主演は、プリヤンカーのボーイフレンドとされるハルマン・バウェージャー。この2人が以前共演したSF映画「Love
Story 2050」(2008年)は大コケしており、一抹の不安が頭をよぎったのだが、ナヴラートリ~ダシャハラー・シーズンのリリースと言うこともあり、初日に鑑賞となった。
題名:What's Your Raashee?
読み:ファッツ・ユア・ラーシ?
意味:あなたの星座は何?
邦題:星占いの恋占い
監督:アーシュトーシュ・ゴーワーリカル
制作:ロニー・スクリューワーラー、スニーターAゴーワーリカル
音楽:ソハイル・セーン
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:チンニー・プラカーシュ、レーカー・プラカーシュ、ラージュー・カーン、ロリポップ、テレンス・ルイス、ラージーヴ・スルティー
出演:ハルマン・バウェージャー、プリヤンカー・チョープラー、マンジュー・スィン、アーンジャン・シュリーワースタヴ、ヴィシュヴァ・バドーラー、ラージェーシュ・ヴィヴェーク、ディリープ・ジョーシー、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、ユーリー・バイラヴィー・ヴァイディヤー、ギーター・ティヤーギー、アジター・クルカルニー、ダルシャン・ジャリーワーラー
備考:PVRアヌパムで鑑賞。
ハルマン・バウェージャー(中央)とプリヤンカー・チョープラー(周囲)
あらすじ |
シカゴに留学中の純朴なグジャラート人青年ヨーゲーシュ・パテール(ハルマン・バウェージャー)は、父親が心臓発作になったとの急報を受け取り、急遽ムンバイーに戻って来る。ところがそれはヨーゲーシュをインドに呼び寄せるための嘘だった。
事情はこうであった。ヨーゲーシュの兄ジートゥー(ディリープ・ジョーシー)は株取引で失敗し、多額の借金を抱えていた。両親や妻と暮らすアパートの部屋も担保になっていたし、マフィアからも多額の金を借りていたため、命の危険もあった。父親が占星術師(ラージェーシュ・ヴィヴェーク)に相談すると、彼はヨーゲーシュの金運がもうすぐ最高潮に達すると予言する。その瞬間、グジャラート州バルドーリーに住む母方の祖父から電話が掛かって来た。祖父は無数にいる子孫の中でもヨーゲーシュのことを特に可愛がっており、彼が結婚したら、所有している広大な土地の名義を全てヨーゲーシュに委譲する意向を伝えた。祖父の資産さえ手に入れば、借金は返済できる。よって、借金の返済期限が来る前にヨーゲーシュを結婚させる必要があり、彼をシカゴから無理矢理呼び寄せたのだった。
事情を知ったお人好しのヨーゲーシュは、家を守るために結婚することを承諾する。父親の兄弟デーボー(ダルシャン・ジャリーワーラー)が結婚紹介所を運営しており、彼がヨーゲーシュの結婚相手募集を一手に引き受けた。するとすぐにたくさんの女性から申し込みがあった。しかし、短期間でそんなに多くの女性とお見合いするのは不可能であった。そこでヨーゲーシュは、最近読んだ12星座の本に影響され、それぞれの星座に属する12人の女性とお見合いして、その中から結婚相手を決めると宣言した。デーボーは早速星座に従って12人の女性を選び出す。
まずは牡羊座のアンジャリー(プリヤンカー・チョープラー)とのお見合いがあった。アンジャリーは田舎育ちの純朴な女性であったが、NRI(在外インド人)のヨーゲーシュに気に入られるため、派手な衣装に無理に身を包み、ロクにしゃべれない英語で会話をしようとし、ヴェジタリアンなのに自分のことをノン・ヴェジだと偽ったり、タバコを吸ったこともないのにタバコをいつも吸っているように見せかけたりと、いろいろチグハグなところが目立った。
次に会った水瓶座のサンジャナー(プリヤンカー・チョープラー)は、英語も流暢で、いかにもお嬢さんと言った感じの女性であった。しかし、彼女にはアフリカ人のボーイフレンドがいた。彼女の両親はそれを快く思っておらず、無理に彼女を他のインド人男性と結婚させようとしていた。サンジャナーはそのことをヨーゲーシュに明かし、自分との結婚を拒否するように頼む。ヨーゲーシュはそれを受け容れ、彼女とは結婚しないと言う。
双子座のカージャル(プリヤンカー・チョープラー)はお転婆な大学生だったが、シカゴでDJをやっていたヨーゲーシュと気が合った。ヨーゲーシュは彼女と結婚しようとするが、カージャルは少なくとも1年付き合った後でないと結婚しないと言う。結婚を急ぐヨーゲーシュには、その条件は飲めなかった。
蟹座のハンサー(プリヤンカー・チョープラー)は保守的な家庭の娘だった。だが、彼女には大きな秘密があった。実は過去に彼女は隣家の男性と恋愛関係にあったが、その男性は別の女性と結婚してしまった。ハンサーはその男性に処女を捧げてしまっていた。ハンサーはヨーゲーシュにそのことを隠さず話す。ヨーゲーシュはその勇気に感銘する。
天秤座のラジニー(プリヤンカー・チョープラー)は不動産会社の社長で、彼女との会話は全てビジネスライクであった。ラジニーにとっては結婚も契約でしかなかった。なぜなら彼女の会社は現在CBI(中央捜査局)の取り調べを受けており、逮捕される可能性があった。そこで彼女は結婚して海外へ亡命することを考えており、その相手としてヨーゲーシュを候補に選んだのだった。ラジニーは既に契約書まで用意していた。そこには、結婚の契約期間をとりあえず2年としており、その後離婚するかどうかを決定するなど、様々な規定が盛り込まれていた。その代わり、ラジニーは5千万ルピーを持参金として支払うことを約束した。その契約書を読んでヨーゲーシュは腰を抜かしてしまう。
魚座のチャンドリカー(プリヤンカー・チョープラー)は生まれ変わりを信じるオカルト趣味な女性であった。チャンドリカーはヨーゲーシュを前世の夫と信じ込んでおり、彼との再会を一人で喜ぶ。しかしヨーゲーシュにはちっとも訳が分からなかった。
獅子座のマッリカー(プリヤンカー・チョープラー)は有名なダンサーだった。マッリカーはダンスの仕事を続けるため、裕福な男性との結婚を望んでおり、結婚後に莫大な資産を得る予定のヨーゲーシュに目を付けたのだった。しかし、インドの生水を飲もうとしない米国かぶれのヨーゲーシュに愛想を尽かし、去って行ってしまう。
蠍座のナンディニー(プリヤンカー・チョープラー)は、モデル志望であったが両親にはそれをひた隠し、ひたすらインターネットで情報収集をしている女性であった。シカゴはファッションの中心地で、もしシカゴ在住のヨーゲーシュと結婚すれば、モデルへの道が開けると考えていた。ナンディニーは大人しめの服装でお見合いの席にやって来たが、ヨーゲーシュと2人きりになると突然セクシーな服に着替え、自分の夢をヨーゲーシュに語る。ヨーゲーシュは、まずは両親に自分の夢を伝えるべきだと助言し、彼女はその通りにする。最初は驚いた両親も、後にはそれを受け容れる。
乙女座のプージャー(プリヤンカー・チョープラー)は、農村で医療活動を行うことを生き甲斐とする女医であった。ヨーゲーシュはプージャーのことを気に入るが、彼女はシカゴに移住することを望まなかった。インドの農村で一生医療活動を続けて行くという信念を持っていた。
牡牛座のヴィシャーカー(プリヤンカー・チョープラー)は、インド有数の資産家の娘であった。だが、彼女はヨーゲーシュが財産が目的で自分と結婚しようとしているのかどうかを確かめるため、わざと彼の前で頭がおかしい振りをする。もしこれで「ノー」と言って来たら、本当のことを伝えるつもりであった。
射手座のバーヴナー(プリヤンカー・チョープラー)は占星術師で、ヨーゲーシュとの結婚を占星術によって占った。すると、ヨーゲーシュのホロスコープには、2人の女性との結婚の運命が見えた。つまり、最初の妻とはうまく行かないということだった。ただ、結婚前に別の女性との「完全なる肉体関係」があるのなら、占星術上はそれが結婚扱いとなり、バーヴナーとの結婚に支障がなかった。だが、ヨーゲーシュにはそのような関係は過去になかった。そうなると残されたのは最後の手段であった。それは、結婚前に結婚相手と肉体関係を結ぶことだった。突然バーヴナーはヨーゲーシュをベッドに押し倒して誘惑し出す。ヨーゲーシュは這々の体で逃げ出す。
ヨーゲーシュは、最後のお見合い相手となる山羊座のジャーンカナー(プリヤンカー・チョープラー)に会いに行った。だが、彼女はどう見ても未成年にしか見えなかった。父親にそれを問いただすと、あっさりとジャーンカナーが15歳であることを認めた。なぜそういうことをしたかと言うと、それは持参金の問題だった。彼女の家には女の子ばかりが生まれ、彼女たちの結婚が家計の重荷となっていた。ヨーゲーシュは結婚相手に持参金を求めておらず、それを見て父親はジャーンカナーを応募させたのだった。ヨーゲーシュは未成年とは結婚できないと言って立ち去る。まだ結婚する気のなかったジャーンカナーはヨーゲーシュに感謝する。
こうして12人の女性とお見合いをしたヨーゲーシュであったが、未だに誰と結婚するか決めかねていた。しかしそのとき、祖父が、ヨーゲーシュの名義になる予定の土地をジートゥーらが売って金にしようとしているのに勘付いてしまい、土地の売却を禁止すると通達して来た。どうしてもまとまった金が必要となったため、ヨーゲーシュは5千万ルピーの持参金を約束するラジニーとの結婚を決める。だが、ラジニーは既に、シカゴでのヨーゲーシュのルームメイト、コーリーとの結婚を決めていた。コーリーも結婚相手を探すためにインドに戻って来ていたのだが、持参金がたくさんもらえる相手がいいと言う彼のためにヨーゲーシュはラジニーのことを教えたのだった。
そこでヨーゲーシュは資産家の娘ヴィシャーカーと結婚しようとする。だが、デーボーはそれを止める。デーボーはそのときまでヨーゲーシュの置かれた立場を把握していた。彼はジートゥーの借金は自分が何とかすると言い、その代わり結婚相手は自分が決めると提案する。ヨーゲーシュはもはや誰とでも結婚していいと思っていたので、それを了承する。結婚相手は結婚式当日に分かることになった。
結婚式の日。会場に現れたのはサンジャナーであった。サンジャナーにはボーイフレンドがいたはずであったが、デーボーの協力で彼が浮気していることが発覚し、フリーの身になっていた。デーボーはサンジャナーの人柄がヨーゲーシュに一番近いと判断し、彼女をヨーゲーシュの花嫁に決めたのだった。また、結婚式には祖父も駆けつけた。祖父は、ジートゥーの借金のことをデーボーから聞いており、金も用意して来ていた。会場に来ていた借金取りたちはそれを受け取って帰って行った。 |
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まずはその上映時間の長さに驚いた。たっぷり3時間半、インターバルを含めたら4時間の大長編である。途中インターバルが2回あったのだが、その内のひとつは単に上映中のトラブルだったのかもしれない。突然映像が切れて「インターバル」のスライドが出た。
発想はとても面白い。インドのロマンス映画のほとんどは結婚を軸にストーリーが展開するため、大まかな筋だけを取り出したらどれも似たり寄ったりという印象を受ける人もいる訳だが、「What's
Your Raashee」の、12星座に対応した12人の女性たちとのお見合いというアイデアは新しかった。映画の原作は、マドゥ・ラーイ(Madhu
Rye)という米国在住インド人作家の小説「Kimball Ravenswood」のようで、この小説は既に演劇やTVドラマにもなっている。もちろん、それぞれの女性がそれぞれの星座の人の特徴をよく表しているかどうかは別問題である。一応、各星座に特有の一般的なイメージが各キャラクターに投影されるような努力はされていたが、あくまでフィクションであり、そこを突っ込むのは大人げないだろう。
12人の女性全てをプリヤンカー・チョープラー1人が演じるのも、突き詰めて考えれば手抜きということになってしまうが、12人の顔がみんな同じなのは一応劇中で言い訳がされていた。自分の「夢のお姫様」を探す男性にとって、花嫁候補の女性の顔は、理想が投影されるために皆一緒に見える、と言うものであった。祖父が主人公ヨーゲーシュにそれを説いていた。12人のヒロインの顔が一緒であるため、クライマックスの結婚式のシーンにおいて、ヨーゲーシュの目の前に現れたプリヤンカー・チョープラーが一体どの役なのか分からないというトリックもあった。
娯楽映画でも社会問題に踏み入るインド映画の伝統を踏襲し、「What's Your Raashee」でも持参金、花嫁の処女性、幼児婚などについて触れられていた。だが、それらへの言及はいたって簡潔であり、強いメッセージ性を持ったものではなかった。例えばヨーゲーシュは持参金を受け取ることに猛反対していたが、ストーリーの中で持参金が悪だという結論には至っていなかった。
2回目のインターバル(?)のときにストーリーが飛んだように思ったのだが、それを除外してこの映画の最大の問題を挙げるとしたら、やはりそのまとめ方になる。ヨーゲーシュはサンジャナーと結婚することになるのだが、その展開の正当性を説得力ある方法で観客に提示できていなかった。12人のヒロインとのお見合いは冗長であったが意外に退屈ではなかった。だが、その中から1人を選ぶ段階になると、観客側から見ても、一体どうやってまとめるのだろうと心配になるほどであった。優れたインド映画はそこで説得力あるエンディングを用意するものなのだが、この作品では残念ながら尻切れトンボになってしまっていた。サンジャナーを選んだことに異議はない。もう少し丁寧に伏線を張るべきだったと思う。
「What's Your Raashee」はプリヤンカー・チョープラーのキャリアの分水嶺となる作品であろう。既に「Fashion」(2008年)での主演で高い評価を得ているプリヤンカーだが、今回は1人12役という異例の挑戦を行い、それをかなり成功させていた。特にその12役の中で、牡羊座のアンジャリー、双子座のカージャル、天秤座のラジニー、山羊座のジャーンカナーなど、今までプリヤンカーがあまり演じて来なかったような役柄をよく演じ分けていた。ただ、彼女が元々得意として来たようなキャラ、例えば水瓶座のサンジャナー、獅子座のマッリカー、乙女座のプージャーなどは、あまり演じ分けが感じられなかった。それでも、彼女の潜在能力を確認するには十分の出来で、今後も信頼性のある女優として成長して行くことであろう。
主演のハルマン・バウェージャーはよく言えばナチュラルな演技であった。おそらく地なのであろう、12人の女性たちのそれぞれの特徴に翻弄される純朴な青年の姿をよく表現していた。踊りもうまい。だが、観客の視線をスクリーンの中の自分の引きつける力がまだ欠けており、まだこれからと言った感じだ。リティク・ローシャンとの区別化にもまだ成功していない。
脇役陣の中では、結婚斡旋業者デーボーを演じたダルシャン・ジャリーワーラーが突出している。「Gandhi, My Father」(2007年)でマハートマー・ガーンディー役を演じ、ボリウッドで認められず存在となったダルシャンは、次第にボーマン・イーラーニーと似た立場になって来ている。つまり、悪役もコミックロールもそつなくこなす名脇役俳優になって来ている。
音楽はソハイル・セーンという人物で、僕はあまり知らない。劇中には12人のヒロインが登場するが、それに大体対応するように12曲が用意されている。ジャズ調のタイトル曲「Pal
Pal Dil Jisko Dhoonde」や、ヨーゲーシュが12人の中から結婚相手を選ぼうとするときに挿入される「Chehre Jo Dekhe
Hain」は悪くなかったが、それ以外の曲はほとんど耳に残らなかった。ちなみに「Chehre Jo Dekhe Hain」ではプリヤンカー・チョープラー演じる12人のキャラクターが一堂に会して踊るため、映像的に面白い。
映画はグジャラート人家庭の結婚相手探しであり、花嫁候補も基本的にグジャラート人であった。よって、時々グジャラーティー語が台詞の中に混ざるし、グジャラーティー文字が出て来るシーンもいくつかあった。だが、主な台詞はヒンディー語である。
「What's Your Raashee」は、「Lagaan」(2001年)、「Swades」(2004年)、「Jodhaa Akbar」(2008年)など、21世紀のボリウッドの重要作品を監督して来たアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の最新作になる。だが、ラブコメなのにも関わらず上映時間が異常に長く、まとめ方も締まっておらず、非常に疲労感の溜まる作品になっている。12星座とラブコメを融合させるアイデアは悪くない。もし、映画館なら4時間、DVDでも3時間半という長丁場に耐えられて、プリヤンカー・チョープラーの12変化または12星座がどのように映像化されるのかを楽しめる人なら、見てもいいだろう。