スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2003年4月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(火)今日のニュース
音楽■2日(水)ノラ・ジョーンズ
生活■5日(土)インド珍コイン収集
分析■7日(月)三神一体
生活■10日(木)新デリー・サンスターン着工式
旅行■11日(金)シムラー避暑&勉強ツアー
旅行■12日(土)サラーハン(1)
旅行■13日(日)サラーハン(2)
旅行■14日(月)サトルジ峡谷からシヴァーリク峡谷へ
旅行■15日(火)ナーハン&デヘラー・ドゥーン
旅行■16日(水)デリーへ
映評■17日(木)The Hero
旅行■19日(土)サハーランプル文化交流ツアー(1)
旅行■20日(日)サハーランプル文化交流ツアー(2)
分析■23日(水)デリーの女性問題
音楽■24日(木)さよーなーらー
生活■24日(木)最強のお客さん
生活■27日(日)今日はいい天気
生活■28日(月)ブータン大作戦
生活■30日(水)卒業式


4月1日(火) 今日のニュース

■オーストラリアのスターが薬物検査にひっかかる

 もう終わってしまった話だが、インドにはまだ2003年ワールド・カップで勝利を手にする可能性がある。オーストラリアのボウラー、ブレット・リーとウィケット・キーパーのアダム・ギルクリストは、国際クリケット協会(ICC)によって行われた無作為抽出の薬物検査で陽性を示していたことが分かった。この衝撃的なニュースは選手たちがリーの家でパーティーを行っていた昨夜遅く発覚した。

 「それらの選手の尿サンプルから見つかった薬物スタンドリモルは、ICCによって禁止されている5つの物質の内のひとつだ。」とICCの幹部は語る。「サンプルは3月23日にヨハネスブルグで行われた決勝戦の20分前に抽出された。」

 シェーン・ウォーンの事件に続き、この最新のニュースはオーストラリア・クリケット委員会(ACB)にとってさらなる痛手となった。一方、選手たちはウォーンのように無実を訴えている。「私はただ下痢薬を飲んだだけだ。その薬が禁止されている物質を含んでいるなんて知らなかった。」とギルクリストは言う。

 しかしオーストラリア・スポーツ薬物局(ASDA)が、ICCの4条1B項(ドーピング禁止の条)に選手が違反したことを確かめるために再検査したところ、同じ結果になった。「我々は結果を選手に送ったけれども、彼らは検査所のレポートのコピーを要求している。」リーは、「全て馬鹿げた言いがかりで、私は発見物の確実性について納得するまで何もいいたくない。」と語っている。ASDAの規則によると、選手たちは24時間以内に抗議をすることができる。

 同時に、ACBはワールド・カップ没収という事態になっても、それを受け容れる姿勢だ。「我々は、オーストラリアは勝利を騙し取ったと世界に言わせたくない。」ACBの委員長ディック・ポンドは言う。

 インドのクリケット・チームのキャプテン、サウラヴ・ガーングリーには連絡が取れないが、彼のチームと何億ものインド人の夢が実現される可能性はまだ残っている。

■パーキスターンがインド便を再開

 パーキスターンの大統領ムシャーラフ将軍は来月PIAの旅客機からインディラー・ガーンディー国際空港に降り立ち、彼の国からインドへのフライトが再開されたことを示す予定だ。この動きはインド上空がパーキスターンに閉ざされた2001年12月以来最も大きな前進である。

 「ムシャッラフは1日滞在し、アブドゥル・カラーム大統領、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相、アードヴァーニー副首相と会談する。」と官邸の関係者は語る。

 ムシャッラフは9人の閣僚と共に来印する。現在、パーキスターンには1週間に3便のフライトが許される見通しだ。カラーチー−ムンバイーが2便と、ラーホール−デリーが1便である。インディアン・エアラインズはPIAの運航開始に伴い、デリー−カラーチーとデリー−ラーホール便を開始させる予定である。

 ムシャッラフはアショーカ・ホテルにてカラーム大統領主催の大昼食会に出席する予定だ。情報によると、首相は自宅にてプライベートなディナーを用意するそうだ。ITDCの官吏は付け加える。「我々は目下パーキスターン大統領の好物を揃えるために準備中である。ムシャッラフ大統領が生まれたオールド・デリー名物のヴェジタリアン料理も用意するつもりだ。」

 セントラル・コテージ・エンポーリアムはヴァージペーイ首相とカラーム大統領によって、ムシャッラフ大統領への贈答品を準備する大役を請け負っており忙しい。「善意を示すために、我々はカーディーの衣服を贈る予定だ。」とMEAの官吏は言う。インドとパーキスターンのよりよい関係が、将軍のフライトと共に大空へ飛び立つ日は近い。

■ローロー&アビシェーク、雨降って地固まる

 醜い罵りあいは終わった。数ヶ月前にカリシュマー・カプールとアビシェーク・バッチャンは破局を迎えたことを正式に発表したが、結局彼らは結ばれることになった。この吉報は現在ニュージーランドで撮影中のラージュシュリー監督「Main Prem Ki Diwani Hoon(私は愛の虜です)」の製作現場で発表された。

 「ローロー(カリシュマーの愛称)とアビシェークが行き違いを解決して考え直したのはこの上なく嬉しいことです。」とカリシュマーの叔母ニートゥー・スィン・カプールは言う。「アビシェークが分別のある態度を示して、ローローとの約束を守ったことは私も誇りに思います。私たちは皆彼女のことが大好きですから、彼女が家族の一員になる日を待ちきれない気持ちです。」とジャヤー・バッチャンは言う。

 アビシェークは最近の進展を「非常に個人的な事柄」として多くを語りたがらない一方、彼の親友でありプロデューサーでもあるゴールディー・ベーヘルは裏話を語ってくれた。「アビシェークはほとんど感情を表に表さないが、私は彼がカリシュマーと別れて以来、心に傷を抱き続けていたことを知っている。約2週間前、カリシュマーと彼は再び話す機会を持った。そしてすぐに彼らはお互いにこれからも幸せに住むことができることを再確認したんだ。」

 デリー・タイムス編集部は、アミターブ・バッチャンがランディール・カプールと一緒にハニー・イーラーニー監督の「Armaan」のロケを行っているモーリシャスに電話を掛けたが通じなかった。しかしムンバイーに住むローローの叔父リシ・カプールは、結婚式は間近だと断言した。「婚約式などは行われないだろう。この結婚式は今まで最速のものとなるだろう。」終わりよければ全てよし。愛があれば実生活にもハッピー・エンドは訪れる。

■ニコール・キッドマン、デリーへ来たる!

 ニコール・キッドマンがデリーにいた!デリー市民はほとんど気が付かなかった。「The Hours」でオスカーを取ったオーストラリア出身の女優ニコール・キッドマンは、ヒッピー生活を体験するために訪問を計画していたゴアへの途上、お忍びでデリーを訪れた。

 次回作のためにキッドマンの衣装をデザインしていると言われているデリーの有名デザイナー、スニート・ヴァルマーは、彼女の束の間のデリー滞在中に彼女に会った。しかし彼はキッドマンがヒッピー生活に憧れていることについて触れることを拒んだ。「私はただニコールがゴアへ旅立ったことだけは断言できる。私は彼女がそこを訪ねた理由について全く知らない。私が知っているのは、私が彼女の次回作のひとつの衣装をデザインしていることと、ニコールは自分の女優歴について、オスカーを取った後にも関わらず大変真剣に考えていることだ。おそらく彼女は忙しい毎日を抜け出して、短い息抜きを求めており、ゴアはそのために適した場所だと思ったのだろう。」

 ニコールはニコールで、セレブリティーとしての生活を投げ打って、イタリアでのんびり過ごしたいと、自分の望みを打ち明けている。トム・クルーズの前妻であるこの35歳の女優はこう語ったことがある。「私はある種のボヘミアン生活に憧れている。トスカナの広い場所で3、40人の人々と共に住み、多くの人々、音楽、子供たちに囲まれて過ごしたい。私は自分が演技をしているところを生涯見ることはないだろう。」

 もちろんキッドマンの心変わりの早さは有名なので、彼女がパパラッチから逃れるためにトスカナの代わりにゴアに新天地を見出した可能性は十分にある。実際、昨日彼女がインディラー・ガンディー国際空港に降り立ったとき、彼女は自分が全く注目されていないことに興奮していた。空港からキッドマンは真っ直ぐ友人のファームハウスへ向かい、深夜便でゴアへ発った。

 その間、マウリヤ・シェラトンのブカーラにてキッドマンが酒製造会社のシャシャンク・バガトやその他未確認のインド人の友人と共に夕食を食べているのが目撃された。しかしこれがキッドマンのデリーでの最後の目撃情報になった。彼女は黒塗りのベンツに乗り込んで消え去った。彼女がどこを訪れたのかは分からないが、デリーの歴史にキッドマンが足跡を残したことは確かだ。ハリウッド俳優がやって来ても何の騒ぎも起きないこともあるものだ。

■「デリーは今やインドの中でもっとも清潔で安全な都市になった。」
    〜デリー市長シーラー・ディークシトのインタビュー

―デリーの公害レベルが急にゼロ近くまで下がりましたが、これはどうしてでしょうか?

 この世界でも稀に見る素晴らしい業績は、デリー政府の公害に対する絶え間ない努力の賜物でしょう。デリーにおける公害はほぼ皆無となりました。この目的を達成するため、我々は何十年にも渡って、ディーゼル車、バス、トラック、ヴァン、バイクなどの汚染の原因となる乗り物を排除して来ました。さらに、デリーには公害の原因となる工場がないため、街の空気は非常にきれいです。

―ヤムナー河の水質汚濁はどうですか?

 確かにヤムナーは長い期間に渡って汚染されています。しかしそれも今や変わりました。我々は汚ない水路を塞ぎ、それらがヤムナー河に至らないようにしました。そして河へゴミを捨てることを禁じました。同時に河岸の浸食も収まりました。その結果、ヤムナー河はもはや汚ない水路ではなく、水晶のように澄み切った河となりました。

―政府はどのようにして街から犯罪を一掃しましたか?

 法と秩序は我々政府の管轄ではありませんが、デリー警察との継続的な協力関係によって、デリーは犯罪ゼロ都市になりました。視姦、ダウリー、レイプなど、女性に対する犯罪は、デリー警察との連携によって今やほぼ消滅したと言っていいでしょう。首都はもはや世界で最も安全な都市となりました。夜であろうと昼であろうと、女性は何の恐れもなく自由に出歩くことができます。

―デリーの電気と水が急に供給過剰になったのはどうしてでしょうか?

 新しい給水施設と発電施設が稼動したことにより、今デリーには電気と水が有り余っています。実際、隣接州は我々の政府から電気・水の借入を交渉しています。

■戦争終結、平和な世界に




歴史的抱擁

 合衆国大統領ジョージ・ブッシュとイラク大統領サダム・フセインは、世界が最も欲していること――平和――を遂行する決意をした。



 一番最後の記事を見れば一発で分かるように、これらは全て4月1日エイプリル・フールの記事である。全てタイムス・オブ・インディアに付いている地方情報誌デリー・タイムスの一面記事である。

 去年初めてインドのエイプリル・フール記事を目にして以来、今年の4月1日を今か今かと待ちわびていた。去年は「オサマ・ビン・ラディーンがニューデリー駅で逮捕される」とか、「政府は学校のテストを禁止することに決めた」とか、「サルマーン・カーンとアイシュワリヤー・ラーイが結婚式を挙げた」など、壺を付いた面白い記事が目白押しだったのだが、今年の嘘記事はパンチ力に欠けた。

 まず前々からの予想通り、イラク戦争がトップを飾っていた。しかし写真だけ載っているだけで詳しい記事がなくガッカリ。ブッシュとサダムが抱き合うに至った過程をもっと細々とでっち上げてもらいたかった。

 その他の記事ははっきり言ってインドのことについて知識がないと素直に笑えない上、「こりゃ嘘だろ!」と笑えるような記事が少なかった。クリケットのワールド・カップでインドを破って優勝したオーストラリア・チームの選手から、禁止薬物陽性反応が出てインド・チームが代わりに優勝カップを手にする可能性が出て来た、というのもクリケットについて詳しくなければよく分からないだろうし、ニコール・キッドマンがデリーに来ていた、という記事にしても、そういう可能性は十分あるわけで、すぐに嘘だと分からない。またカリシュマー・カプールとアビシェーク・バッチャンが依りを戻した、という記事を見て僕は初めて彼らが破局を迎えたことを知った(映画そのものには興味があるが、あまりボリウッドのゴシップに興味はないので・・・)。その中でも最も面白かったのは、デリー市長シェイラー・ディークシトのインタビューだ。デリーの大気汚染、水質汚濁、犯罪などが全て解決されたという記事で、これは裏を返せば全く解決されていないという皮肉に満ちたジョーク記事である。

 この他、長髪だったカラーム大統領が角刈りにしたという見出しがあり、詳細は9ページ、と書かれていたのだが、その新聞は8ページまでしかなかった。

4月2日(水) ノラ・ジョーンズ

 今日の新聞を読んでいたら、あるインド人映画監督が、ノラ・ジョーンズとラヴィ・シャンカルを題材にしたヒングリッシュ映画を計画中、という記事があった。前々からノラ・ジョーンズについて書こうと思っていたので、これを機に少し書いておこうと思う。

 ノラ・ジョーンズといえば、2003年2月23日に開催された第45回グラミー賞の主要各部門を総なめにした、現在最も注目を浴びているアーティストである。彼女の生年月日は1979年3月30日。ということはついこの前24歳の誕生日を迎えたことになる。実は僕と同い年、というか同じ学年である。




ノラ・ジョーンズ


 3月に日本に帰ったとき、僕も彼女のアルバム「Come Away With Me」を買った。輸入版も売っていたが、敢えて日本発売版を買った。付属しているアーティスト紹介の紙に何が書いてあるかちょっと興味があったからだ。しかしそれはある意味僕の期待通りで、ある意味僕の期待外れだった。そこには、ノラ・ジョーンズがインドの伝統楽器スィタールの巨匠であるラヴィ・シャンカルの娘であることについて全く触れられていなかった。

 ラヴィ・シャンカルと言えば、ビートルズのジョージ・ハリスンの師匠かつ友人として知られており、また世界にインド音楽の魅力を知らしめた張本人でもある。ラヴィ・シャンカルはちゃんとインド人と結婚しており、アヌーシュカ・シャンカルという娘がいる。彼女もスィタール奏者として頭角を現して来ている。一方、ノラ・ジョーンズはラヴィ・シャンカルとアメリカ人のスー・ジョーンズとの間の子供である。つまり愛人の子供、ということになるのだろうか。スィタールの巨匠にとって、あまり世間体のいいことではない。実際、ラヴィ・シャンカルはノラ・ジョーンズに一度も会ったことがないそうだ。

 ノラ・ジョーンズがグラミー賞を取ったとき、インドでは「スィタールの巨匠の娘がグラミー賞を取る!」というような見出しで大々的に報道された。おそらく他国では全くそういう形の報道はなかったであろう。日本のニュースを見ても、ラヴィ・シャンカルとノラ・ジョーンズを結びつけた報道は目にしなかった。ラヴィ・シャンカルのコメントも載っており、娘の業績を賞賛すると同時に、彼女の受賞は彼女自身の努力の賜物であり、音楽のジャンルも全く違い、自分は関係ない、というようなことを言っていた。また、ノラ・ジョーンズも父親であるラヴィ・シャンカルに感謝の言葉を述べたことはない。

 僕がこのニュースを聞いたとき、まず思ったのはラヴィ・シャンカル、ノラ・ジョーンズ、アヌーシュカ・シャンカルの間を交錯する複雑な感情である。ノラ・ジョーンズは父親が有名な音楽家であることを子供の頃から知っていたようだが、会う機会はなかった。彼女は父親に対してどういう感情を抱きつつ育ったのだろうか?見返してやりたい、という復讐心があったのだろうか?振り向いてもらいたい、愛してもらいたい、という渇望感があったのだろうか?グラミー賞受賞により、彼女は父親に存在を認めてもらった気分だろうか?それとも本当に全く関係ないと思っているのだろうか?

 また、ラヴィ・シャンカルは隠し子のこの活躍について本当はどう思っているのだろうか?娘であることには変わりないので、素直に褒め称えてやりたい気持ちだろうか?それとも「無意味に目立ちやがって・・・」という忌々しい気持ちなのだろうか?

 ラヴィ・シャンカルの愛娘であり、父親の後継者に目されているアヌーシュカ・シャンカルは、音楽界の頂点に立った腹違いの姉妹のことをどう思っているのだろうか?音楽家として先を越された思いだろうか?それとも立派な姉妹を持って誇りに思っているのだろうか?

 確かに映画になるくらい面白い三角関係がこの3人の間にはあるのではないかと思う。しかも3人とも音楽家として一流の人間である。インド映画的ミュージカル映画にけっこうはまってるような気がする。

 また、この三角関係を想像すると同時に、やはり血統というものは存在するのか、と思った。ノラ・ジョーンズの音楽を聴けば、彼女の音楽がインド音楽とは全く関係ないことはすぐに分かる。生まれてから一度も父親に会っていないのだから、ラヴィ・シャンカルから音楽の手ほどきを受けたことなど全くないだろう。だが、腐ってもタイ、あのラヴィ・シャンカルの血を受け継ぐ者である。インドのカースト制度によって蓄積された音楽家一家としての濃縮な血筋が、ノラ・ジョーンズの体内にも流れており、ジャンルは違えど抜群の音楽センスを発現させているのではなかろうか?

 現在インドでもノラ・ジョーンズの「Come Away With Me」は洋楽チャートのトップをキープしている。このアルバム自体が素晴らしい、ということもあるが、やはりインド人としては、インド人の血を持つ者が活躍するのが誇らしいのだろう。ジャズはインド人の趣向にあんまり合っていないような気もするが、もしかしたらノラ・ジョーンズのインド凱旋(?)公演とかが計画されて、インドでもジャズが流行るようになるかもしれない。

4月5日(土) インド珍コイン収集

 インドへ初めて来る旅行者がいるとする。飛行機で空港に到着し、入国審査を済ませ、荷物を受け取り、税関を済ませ(ないに等しいが)、いざインドの母なる大地へ第一歩を踏み出そう、とする前にしなくてはならないことがある。両替である。USドルなり日本円なり現金なりT/Cなりで持ってきたお金を、インドのルピーに換えなくては旅が始まらない。おそらく空港の両替窓口には長い行列ができているはずである。まだ日本の感覚が残っているので、ノロノロとしか進まない列に並ぶと本当にイライラする。やっと自分の出番がやって来て、お金を差し出す。窓口の人は無愛想にお金を受け取り、引き出しからドサッと札束を取り出す。ここでまずカルチャー・ショックを受ける人が多いはずだ。

 「えっ、お札をホッチキスで留めている?」

 ときにはホッキキスが付いたままの札束がドカッと飛んでくることもある。これを外すのは一苦労なので、カウンターの人に言って外してもらわなくてはならない。そんなこんなでインドの旅が始まり、ルピーとの付き合いも同時に始まるわけだ。

 インドの紙幣は本当に汚ない。手垢で真っ黒になっていたり、穴が開いていたり、ちぎれかかっていたり、セロハンテープでくっつけてあったり、ホーリーの後は赤く染まっていたり、なぜかメモが書いてあったりと、紙幣がそのままインドの社会を如実に反映しているかのようだ。そういえば紙幣に書かれている17種類の文字は、インドの多言語性を象徴するためによく引き合いに出される。

 ボロボロになった紙幣はまるでババ抜きのジョーカーのように人から人へ、こっそりと回されることになる。油断していると、いつの間にか財布の中に下のような紙幣が入っていることになる。




大きな穴の開いた100ルピー札


 実はこれはまだマシな方である。上には上があり、もっとオンボロな紙幣が影で暗躍しているので注意が必要である。田舎へ行けば行くほど、ボロ紙幣に巡り会う可能性が高くなるようだ。穴が開いていたり、やぶれていたりする紙幣は、店などで受け取ってもらえないことが多いので、不幸にも手に入ってしまったときには、こちらもなんとか相手の目を盗んで使うしかない。ちなみに現在インドでは1ルピー、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピーの紙幣があり、デザインが頻繁に変更されるためか、違うデザインで同額の紙幣が何種類かあったりする。

 紙幣に比べれば貨幣は丈夫なので、受け取ったお金の状態をいちいち確認する必要はない。ただ、ちゃんと正しい額のお釣りをもらっているか確認すればいいだけだ。しかし最近の僕は、このコインをもらう瞬間が非常に楽しくてしょうがない。毎回ひとつひとつコインを確認している。何を確認しているかというと、特別デザインの貨幣がないか確認しているのだ。

 インドのコインには、普通のコインとは違う、特別デザインのコインがある。日本でも時々そういう記念コインは発行されるが、市場で使われることはあまりないような気がする。しかしインドでは普通のコインと全く同じ扱いで使われている。だから時々珍しいデザインのコインを手にすることができる。最近僕はそういう珍しいコインを収集し始めたのだ。

 とは言いつつも、現在のところ僕のコレクションはそんなに多くない。ある程度集まったらコイン・コレクションのコーナーでも作って載せようかと思っていたが、なかなか集まらないので、とりあえず今のところ手元にあるものをここで公開しておこうと思う。




I.C.D.S.設立15周年記念コイン


 ヒンディー語では「samekit baal vikaas sevaa yojnaa ke 15 warsh」と書かれており、英語では「15 years of I.C.D.S.」と書かれている。意味はどちらも同じである。ちなみにI.C.D.S.とは、「Integrated Child Development Service(総合的児童育成サービス)」で、子供や女性の保健、保育、教育などを推進する行政サービスである。他に「1975-1990」という年号と、「vasudhaiva kutumbakam(人類皆兄弟)」というサンスクリト語が書かれている。1990年発行に発行された、I.C.D.S.設立15周年を記念してのコインだろう。




ラージーヴ・ガーンディー記念コイン


 第7代インド首相ラージーヴ・ガーンディーの肖像が描かれたコイン。彼の生没年である1944−1991という数字も刻まれている。おそらく1991年に発行されたと思われる。




チャトラパティ・シヴァージー記念コイン


 マラーターの英雄、チャトラパティ・シヴァージー(1627−1680)の肖像が描かれたコイン。1999年に発行されている。

 しかし本当に上には上がいるもので、僕の友人の中に密かに僕と同じように珍しいコインをコツコツと収集している男(日本人)がいた。彼は日本にいたときからコイン集めが趣味だったようで、インドに来るや否や、当然のごとくコイン・コレクションを開始したらしい。彼の収集期間は既に1年を越えるため、ほぼ全ての種類のコインを集め切ったと豪語していた。彼のコレクションに比べたら、僕のコレクションは微々たるものだ。ところが、その彼ですらヨダレを垂らして欲しがるコインが僕の手元にあった。これである。




隅が欠けた1ルピー貨幣


 このコインをもらったときのことは今でもはっきり覚えている。あれは去年の1月、南インドを旅行していたときだ。僕はアーンドラ・プラデーシュ州の州都ハイダラーバードのとあるヴェジタリアン・レストランで食事をしていた。多分ペーパー・マサーラー・ドーサーを食べたと思う。食事をし終え、お金を払い、ボーイがお釣りを持ってきた。するとその中にこの欠けた1ルピーが入っていたのだった。僕は破れた紙幣を出されたときの感覚で、「おい、なめてんのか、こんなの客に出すな!」と言おうと思ったが、ふと「でも珍しいからもらっておこう」と考え直し、そのままそれを財布に入れて立ち去った。

 その後、ハイダーラーバードの観光名所チャール・ミーナールのそばに、古コイン古紙幣交換所みたいなところがあったので、このコインを出してみた。すると50パイサーしかくれなかったので、やっぱり交換するのはやめて返してもらった。

 その後家に戻り、このコインを無造作にそこら辺に置いておいた。すると大家さんのお手伝いボーイのシャームーがこのコインを見つけ、「兄さん、こんな役立たずのコインもらっちゃいけないよ。馬鹿にされてるよ」と叱られてしまった。

 それからずっとこのコインのことは忘れていたのだが、珍コイン収集を始めてからこれも一応コレクションに入れることにした。ある日例のコイン収集家の友人が僕の家を訪ねて来たので、僕のコレクションを見せてみた。上の3つは全て彼のコレクションにあるものばかりだったが、彼の視線は最後の欠けた1ルピーの上でピタと止まった。彼が言うには、このコインは相当価値のあるものらしい。僕はコイン収集界のことなどよく知らないのだが、こういう偶然できた失敗作のコインなどは、高値がつく傾向にあるようだ。このコインの隅は半円状に欠けているが、そのカーブにはちょうど別の1ルピー貨幣を当てはめることができる。誰かが無理矢理破壊したというよりは、加工過程でできた可能性が高い。果たしてインドの1ルピーにどれだけのプレミアがつくかは疑問だが、持っておいて損はない代物であることが分かった。現在では家宝として大事にしまってある。

 ちなみにそのコイン・コレクターとの間で取り決められた、インド珍コイン収集の掟を紹介しよう。掟はただひとつ。お釣りなど偶然もらったコインのみを集める、ということだ。チャーンドニー・チャウクなどに行けば古いコインを売っている店があるが、金を払って買ってしまうのではコレクションの醍醐味がない。1ルピー貨幣なら1ルピーとして、2ルピー貨幣なら2ルピーとして、5ルピー貨幣なら5ルピーとして手に入れたものでなければならない。さあ、君もインド珍コイン・コレクションを始めてみないか!?

4月7日(月) 三神一体

 先日夕方近所を歩いていたら、行き着けの食堂の前に人だかりができていた。食堂の親父も出てきて見ていた。その親父が僕を見つけて呼んだ。「おう、来い!仔牛が生まれたぞ!」

 見ると道端で牝牛が生まれたばかりの仔牛をペロペロなめていた。時々仔牛を励ましているのか、産褥の痛みが残っているのか、「モ〜」と長く鳴いていた。暗くてよく見えなかったが、血やら汚物やら何だか分からないものが仔牛の周りに飛び散っていた。仔牛の身体も泥だらけになっていた。まだ生まれて間もないので立つことができない。じっと地面に寝そべって、時々身体をピクピクさせている。

 インドの道に牛が闊歩しているのは有名である。牛は聖なる動物だから野放しにされている、という説明がされることもあるが、犬や豚だって野放しになっているのでその説明はあまり正確ではない。ただ単にそれが自然から見て普通だからそうなっているだけのことだろう。道から完全に野良な動物が排除された社会の方がある意味恐ろしい気がする。また、インドの牛は本当の野良牛ではなく、大体持ち主がいるというのが通説だ。夕方になると牛の家族が自分で一路家に帰って行く様子を目にすることができる。もともと放牧させていた地域がどんどん開発されて町になってしまったが、それでもお構いなしに放牧させ続けている結果が今のインドの牛事情だろう。

 そんな道端の牛たちに慣れっこになってしまっていたが、牛の出産を見たのは始めてだった。インド人たちはじっと様子を見守っている。店の親父は「生まれてから15分で仔牛は立ち上がっておっぱいを飲む」と自慢げに説明してくれた。なんか仔牛が立ち上がるシーンを見てみたかったので、ずっとその親子の様子を見ていた。店の親父は食堂から5、6枚ローティーを持って来て母牛に食べさせた。出産のためかなり空腹だったようで、母牛はパクパクとローティーをたいらげてしまった。

 よく見ると、へその緒のようなものが仔牛の後ろ足に引っ掛かっている。仔牛がなんとか立ち上がろうとするのだが、それが邪魔で立ち上がれないでいた。母牛もそれを知ってか知らずか、口でその物体を噛み切ろうとするのだが、なかなか切れない。あるインド人が「このまま立ち上がれないと死んでしまう」と余計なおせっかいをし始めて、無理矢理仔牛を抱き起こそうとし始めた。しかし店の親父は声を張り上げた。「無闇に近付くと母親が突進してくるぞ!絶対にそんなことするな!」

 しかしそのインド人は諦めの悪いやつで、店の親父が立ち去った後、その仔牛に近付こうとした。すると今まで仔牛に向けられていた母牛の愛情に満ちた眼差しは、一気に敵意に満ちたものになった。母牛は低く構えて頭突きを食らわすポーズをした。これはたまらん、ということで、僕もひとまずその場を離れた。さすがにインド人は牛と共に暮らしているだけあって慣れたもので、牛の攻撃をひらりとかわして遠くへ逃げた。母牛は深追いはせず、また仔牛をなめ始めた。店の親父がまた出てきて言った。「馬鹿なことしやがって。仔牛が立ち上がった後、一人一人に復讐するぞ。早く立ち去った方がいい。」

 僕は最後まで見てみたかったが、いつの間にか周りにやたら牛が集まって来ていたので、ちょっと怖くなって立ち去った。後日店の親父に聞いたところ、仔牛は無事に立ち上がって去って行ったそうだ。

 生命の誕生の瞬間、というのも十分神秘的だが、あの母牛の愛情と敵意の激しさに僕は心を打たれた。そして思った。これこそ本能、これこそシヴァ神だ、と。

 ヒンドゥー教には数え切れないほどの神様がいる、と言われているが、それらの中で特に主要な三神がよく引き合いに出される。ブラフマー、ヴィシュヌ、そしてシヴァである。一般にブラフマーは創造神、ヴィシュヌは維持神、シヴァが破壊神と分類されている。よく調子のいいインド人はこんなことを言う。「God(神様)の意味を知ってるか?Godとは、Generator(創造者)、Operator(管理者)、Destroyer(破壊者)の頭文字をとってできた言葉だ。」

 この考えはこれでいいとして、僕はいつしかこの三神のことをこういう風に考えるようになっている。誰かに言われたのか、何かの本で読んだのか、それとも自分で思いついたのかは今となっては定かではない。しかし、僕はある意味この自説が一番理に適っていると思っている。

 僕はブラフマーを脳、理性の象徴、ヴィシュヌを心、感情の象徴、シヴァを本能の象徴として考えている。ブラフマーは理性と良識の中枢。ブラフマーの乗り物はハンス。その純白の色から純潔さを象徴する。ブラフマーの妻はサラスヴァティー、学問と芸術の神様だ。やはり知恵を司っている。

 ヴィシュヌは化身してこの世に降り立ち、悪を撲滅する。その変幻自在の変身が、心に沸き起こるいろいろな感情に対応しているような気がする。ヴィシュヌの乗り物はガルダ。ガルダ自身も世界で最も速いもの=心の動きを象徴している。ヴィシュヌの妻はラクシュミー、富の女神だ。富があれば自然と心が満たされるわけだ。

 シヴァは攻撃性と慈悲の両面を兼ね備えた神様だ。その様子は近所で見たあの母牛と一致する。シヴァ・リンガもずばり男根である。まさに本能を象徴している。シヴァの乗り物はナンディー(雄牛)。雄牛は性欲や力の象徴だ。シヴァの妻はドゥルガー(力の女神)やパールヴァティー(慈悲の女神)で、シヴァの二面性を象徴している。

 これら3つの象徴するもののバランスが1人の人間の内部において必要なわけで、ブラフマー(知性)に偏っていたり、ヴィシュヌ(感情)に偏っていたり、はたまたシヴァ(本能)によってのみ突き動かされていたのでは人間としての完成度に欠ける。しかもそのバランスを保つのはかなり困難なので、それを達成できる者はまさに「God」ということになるのだろう。

 もっとも、インドの神様を使っていろいろこじつけをすることは簡単だ。不思議なことに、それぞれの神様のバックグラウンドを使っていろいろな教訓話、ありがたい話、笑い話を作ることができるし、それがうまくかみ合う場合が多い。神様を登場人物にして今でも誰かが新しい神話を作っていることだろう(最近はジョーク話が多そうだが)。インド人にとって神話は神話ではなく、実生活の生きた知恵を乗せる乗り物のようなものだと思う。

4月10日(木) 新デリー・サンスターン着工式

 去年の7月にアルビンド・アーシュラムからカイラーシュ・コロニーに移転したケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンのデリー校だったが、さらに今度はクトゥブ・インスティトゥーショナル・エリア(B-26 A Qutub Institutional Area)に新校舎を建設することになった。今までのデリー・サンスターンの土地・建物は借り物だったが、今度は遂に念願のサンスターン独自の所有物になる。今日はその着工式が開かれ、僕たち学生も呼ばれた。

 インドの着工式は、ブーミプージャーとシラーンニャースと呼ばれる。ブーミプージャーは土地に対するお祓いで、シラーンニャースは建物の最初の石が置かれる儀式である。この儀式に人材開発省(インドの文部省にあたる)大臣ムルリー・マノーハル・ジョーシーが主賓として招かれていた。さすがに大臣の警護は厳重で、6人の護衛が取り巻き、座席は入念に爆弾がないか調べられていた。偉い人が来る場にいると、やはりテロが怖い。要人が射殺されるのだったらまだ安全だが、爆弾テロはこっちまで被害を被る可能性が高いので嫌である。大臣の他、サンスターン関係の教師が出席しており、アーグラー校からも生徒が数人来ていた。

 11時に大臣が到着すると、そのまますぐにブーミプージャーが始まった。ブラーフマンがマントラを唱え、大臣がブラーフマンの指示に従っていろんな供え物を神様に捧げていた。その後、あらかじめ掘られた穴の中に、大臣が数個のレンガを入れて、コンクリートがかぶせられた。これでシラーンニャースも終わった。





ブーミプージャー
右の白いクルターを着た人が
人材開発省大臣



シラーンニャース


 その後はいつものパターンで、アーグラー・サンスターンの生徒たちが歌を歌い、サンスターンの校長や大臣の話があって、みんなでインドの国家を歌って一応式は終わった。その後はビュッフェ形式の昼食も出た。

 まだ最初のレンガが置かれただけなので、新デリー・サンスターンがいつ完成するかは神のみぞ知る。だが、前々からクトゥブ・インスティトゥーショナル・エリアに移転計画があることは知っていたが、こんなに早く事が進展するとは思っていなかった。もしかしたら2004年ぐらいからもうそちらへ移ることがあるかもしれない。インドはタイミングが悪いと本当に遅々として何も進まない国だが、何かタガが外れると転げ落ちるようにドンドンいろんなことが進んでいく側面もある。また、デリー校が移転するだけでなく、オリッサ州の州都ブバネーシュワルとグジャラート州の中心的都市アーマダーバード、そしてナーガーランド州にもサンスターンの分校ができることが決まったそうだ。この近年のサンスターンの急激な発展は、政府の中でのヒンドゥー教至上主義の浸透、それにヒンディー語地位向上運動の活発化と密接に関係していることは明らかである。

 個人的な注目点は、果たしてこの新デリー・サンスターンが、インド各地に分校を持つケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの中心となるかどうかだ。現在ではアーグラー校が本校としての地位を保っている。だが、普通に考えたら首都であるデリーに本校が置かれるべきだ。今回のように政界とのつながりを重視するためにも、やはり政治都市デリーに本校を置いておいた方が有利だと思う。しかし純粋に勉強する環境となると、アーグラー郊外にキャンパスを持つアーグラー校の方が適しているかもしれない。今回の着工式で実際に僕たちは新デリー・サンスターンが建つ土地を見てみたが、果たしてどこからどこまでがサンスターンの土地になるのかはよく分からなかった。下手したらけっこう狭いかもしれない。住所が示す通り、クトゥブ・インスティトゥーショナル・エリアはいろんな学校が集まっている場所で、交通の便はかなり悪そうだ。だが、噂によると現在のデリー校にはなかった学生寮ができる可能性がある。そうなったら留学生はけっこう安心して留学できるようになるのではないだろうか?

 だがよく言われているのは、アーグラー校の生徒の話すヒンディー語は標準ヒンディー語(つまり教科書通りのヒンディー語)になるが、デリー校の生徒の話すヒンディー語は俗語が混じった汚ないヒンディー語になる傾向があるらしい。アーグラー校は全寮制かつ隔離された僻地にあり、キャンパスの公用語が当然のことながらヒンディー語となるので、文法に沿ったヒンディー語を話すようになる。一方、デリー校の生徒は寮がなく、自分で家を借りてインド人の真っ只中で住むことになるので、よく言えば生きた表現の習得が可能、悪く言えばブロークン・ヒンディーになる可能性が大きい。僕はなるべく俗語は収集することだけに努め、話すときは標準文法に沿って話すようにしてはいるのだが、どうしても俗っぽい言い方の方がいいやすい上にかっこいい印象があるので、知らない間にスラングっぽいヒンディー語をつぶやいてしまっていることがある。寮に住むのがいいか、インド人と共に住むのがいいか、これはけっこう難しい問題かもしれない。何はともあれ、寮に住みたい人は寮に住んで、そうでない人は自分で家を借りて住むという選択肢ができることが重要なことだと思う。

4月11日(金) シムラー避暑&勉強ツアー

 暑い!急激にデリーの気温が上昇して来た。来週からテストが始まるというのに、これでは全く勉強する環境になっていない。しかも、ここ数日間ネットがつながらない!ハートウェイ(インターネット会社)に何度も抗議の電話を繰り返すのだが、「もうすぐ直る。待ってくれ。」という言葉が返ってくるだけで、一向につながらない。数日前まではつながりにくいという状況だったのだが、一昨日、昨日と全くつながらない状態。毎日ネットにつながってないと無性に落ち着かなくなる性格になってしまったのでつらい。ただでさえ暑いのに、さらに頭をイライラさせる要因が重なり、全く勉強する気力がなくなってしまった。テストは来週の木曜日から始まる。それまであと1週間ある。その間、授業はもうない。・・・1週間の休み・・・そうだ、旅行へ出掛けよう!突然僕の頭にいいアイデアが浮かんだ。

 旅行中だったらネットにつながらなくてもともとだ。イライラする必要もない。それに旅行をしていると僕の心は非常に落ち着く。どうせなら涼しいところへ勉強道具一式を持って行こう。旅先で勉強すればいい。デリー周辺で避暑地と言えば・・・うん、シムラー辺りがいいな。こうしてシムラー避暑&勉強ツアーが急遽昨夜10時頃決定した。

 一応周りの人には「涼しい場所で勉強をするために」シムラーへ行く、ということにしておいたが、実は他に主要な目的があった。シムラーの近くにあるヒマーチャル・プラデーシュ建築の最高傑作、サラーハンのビーマーカーリー寺院を見てみたかったのだ。ヒマーチャル・プラデーシュ州の寺院は木造で特徴的な形をしているので非常に興味深い。元々平野部分でも多くの寺院が木で作られていたと言われるが、現存するものはヒマーチャル・プラデーシュ州と南インドのケーララ州を除いて他にない。また、アジャンターの石窟寺院に当時の木造建築の名残が残っていると言われている。

 朝4時に起き、ISBT(カシュミーリー・ゲート)へ。ちょうど5:40発シムラー行きの長距離バスがあった。デリーからシムラーまで200ルピー、約10時間の道のりである。北に向かうことになるので、左側の席に座る。右側の席に座ると正午までは東からの日光が直接当たるのでダメージが大きい。バスの座席の位置ひとつでも旅の快適さは随分変わるものだ。

 ISBTを出たバスはアウター・リング・ロードを通ってひたすら北へ。デリーからハリヤーナー州に入る手前辺りで非常に臭い地域があった。汚染された河から鼻が曲がるような腐臭が立ち込めていた。思わずハンカチで鼻を覆う。SARSになってしまうかと思った。ヤムナー河の汚染は相当ひどいと身をもって体験した。

 国道1号線を通ってずっと北へ。途中カルナールを通過。カルナールは2月1日のコロンビア空中分解事故で星となったインド人女性宇宙飛行士カルパナー・チャウラーの生まれ故郷として一躍脚光を浴びた地域である。さらにずっと北上し、9時頃ピプリーで朝食休憩となった。ピプリーはクルクシェートラ観光の拠点となる町である。以前来たときよりもオート・リクシャーの数がやたらと増殖していたような気がした。

 11時頃にハリヤーナー州とパンジャーブ州の州都チャンディーガルに到着。相変わらず計画都市チャンディーガルはインド離れした景観である。チャンディーガルのバス停で10分間停車した。僕は売店でスナック菓子を買い、座席でポリポリ食べていたのだが、隣に怪しげな男が座ってきた。彼は僕に聞いてきた。「このバスはシムラーへ行くか?」僕は「行くよ」と答えた。すると彼はまた質問した。「お前はシムラーへ行くか?」僕は「行くよ」と答えた。そうしたら彼は変なことを言い出した。「エーク・バート・ホー・サクター・ハェ?(ちょっと用事を頼まれてくれないか?)」僕はその「エーク・バート(ある用事)」というのがよく分からなかったので、「用事って何の用事?」と聞き返した。すると男はもどかしそうな顔をしてまた同じ質問を繰り返した。あんまり関わらない方がいいかと思ったので、この期に及んでではあるが、「ヒンディー語は分からない」と言って何とか諦めてもらった。いったい何の用事だったのだろうか?雰囲気からしておそらく麻薬の運び人とか、その手の用事だったと思うのだが・・・。

 チャンディーガルまではずっと平野の道だったのだが、チャンディーガルを出ると急に登山道になった。バスの運転手はかなり乱暴な運転をしており、急勾配かつ急カープの道をかなりのスピードでぐいぐいと進んでいく。遠心力で乗客は右に左に押し付けられ、上からは棚から荷物が頻繁に降ってくるというスリル満点のバス旅行となった。おまけに僕の後ろの座席に座っていた女性が窓から顔を出してゲエゲエ吐き出したので気持ちのいいものではなかった。インド人って比較的車酔いしやすい民族だと思う。長距離バスに乗ると必ず誰か1人は吐く。

 途中カルカーという町を通過した。カルカーからシムラーまで、トイ・トレインと呼ばれる登山電車が通っており、けっこう有名なのだが、今回はタイミングが合わなくて使用しなかった。また、もしデリーから列車で来ると、このカルカーの駅で列車を乗り換えなければならない。なぜならカルカーから線路が狭軌になるからだ。

 次第に高度が上がってきた。デリーでは見たことがない高山植物が道の脇に見られるようになって来た。山の斜面には段々畑が連なり、今まで通ってきた道が遥か後ろの山の中腹部に一本の線となって残っている。ヒマーチャル・プラデーシュ州のもっとも魅力的な風景だ。

 山の尾根沿いに広がるシムラーの街が見えた瞬間は一種の感動を覚える。こんな山奥にこんな都市があるとは!山の斜面に沿って洋風の建物が並んでいる様子は、ちょっと不思議な景観だ。また、シムラーに近付くにつれて自家用車の数が増えてくる。シムラーは金持ちインド人たちの避暑地、別荘地でもあり、マイ・カーに乗って家族で来ている人が多い。

 僕の隣にはずっとお婆さんが座っていたが、その人はシムラーの人だった。僕に「どこから来た?」と聞いてきたので、「ジャーパーン・セ・アーヤー・フーン(日本です)」と答えると、どうもジャーパーン(日本)が分かっていない様子。インドのどこかの町の名前だと思っているような雰囲気だ。「ここの者じゃないのかね?」ともう一度質問されたので、「インド人ではありません」と答えておいた。旅行中、こういう素朴な人と会話をすることができると、いかにも旅をしているなぁと感じてしまう。そのお婆さんは「シムラーに友達はいないのか?どこに泊まるつもりだ?シムラーのこと何も分からないだろう?」と、あと一押しで「うちに泊まっていきなさい」と言ってくれそうなところまで来ていたが、そうなったら歓待されすぎて別れにくくなり、無為に長居してしまうことになりかねないので、「ガイドブックがありますから」と言ってなんとか老婆心を鎮めておいた。

 シムラーのバス停には3時半頃到着した。ちょうど10時間のバス旅だった。バス停辺りにはインドの観光地お約束の客引き連中がたむろしているが、そこまでしつこくない。4月まではオフ・シーズンで、どこのホテルも半額だった。僕は結局YMCAに泊まることにした。シングルで173ルピー、朝食付きである。

 シムラーの街をブラブラしてみたが、なんか不思議な街である。広場には同じように暇を持て余してしそうなインド人がたむろっており、西洋風の街並みのショッピング・ストリート、マール・ロードがあるかと思えばその裏の斜面はインド的バーザールになっている。道を歩く人の種類も同じインド人ながら、都会っぽいインド人から、いかにも山の民といった年季の入ったインド人、ネパール人、そしてチベット人など、実に様々である。外国人の姿はそう多くは見かけなかった。

 シムラーに着いたときは「なんだ、シムラーって言っても暑いじゃないか」と思ったが、日が沈み、夜になるとかなり冷え込んできた。YMCAの僕の部屋には、パンカー(天井のファン)がないというくらいの余裕ぶりだ。代わりに暖炉があるほどである。確かに5月くらいから夜も寒くないちょうどいい季節になるのかもしれない。シムラーは標高2000メートル以上ある上に、急な坂を上り下りしなければならないので、かなり息が切れる。でも空気も水もさすがにおいしい。

 ヒマーチャル・プラデーシュ州は一応ヒンディー語が公用語となっているが、ヒンディー語はヒンディー語でもパハーリー方言が話されている。シムラーのヒンディー語を聞いていても、かなり訛っていると感じる。東北弁みたいなものだ。

4月12日(土) サラーハン(1)

 サラーハン。ヒマーチャル・プラデーシュ州にはサラーハンと呼ばれる町が2つあるため、神谷武夫氏の名著「インド建築案内」には北サラーハンとして紹介されている。サラーハンへ行くには、シムラーからさらに160Km、ヒマーラヤ山脈の奥地へ入り込まなければならない。僕はこのサラーハンにあるビーマーカーリー寺院を前々から見てみたかった。シムラーから2本直通のバスがあるが(午前9:45、10:30)、それよりも中継となる町ジューリー(Jeori、Jeuriなどと表記される)へ行って、そこでサラーハン行きのバスに乗った方がいい、とバス停のカウンターの人に教えてもらった。

 早朝、ホテルをチェック・アウトしてシムラーのリボリー・バススタンドへ行く。ちょうどジューリー行きのバスを発見。乗り込もうとすると乗客から「カウンターへ行って切符を買って来い」と言われた。切符なんて普通は車内に買えるもんだが・・・と思ったが言われた通りにカウンターへ行く。昨日も同じカウンターにサハーラン行きの便について質問しに来たのだが、行ってみて驚いた。昨日はなかったはずのコンピューターが今朝になって置いてあったからだ。カウンターの人はにやにや笑いながらいかにも嬉しそうにコンピューターとプリンターでチケットを作っていた。もしかして今日から導入されたのだろうか?僕のジューリー行きのチケットもコンピューターで発券してもらった(117ルピー)。

 バスは7:45発。僕の席は一番前、ドライバーの隣の席にされてしまっていた。実はデリーで市内バスに乗っていたとき、そのバスが追い越しに失敗して前の自動車に追突してしまい、左側前方がペシャンコになってしまうという事故を目の当たりにしていた。そのときから僕はバスの一番前、しかも左側にいるのが怖くなった。また、その席は景色がよく見えるのはいいのだが、見えすぎて崖の下とかも見えてしまうので、さらに怖い。

 やはりシムラーからジューリーまでの道も山道で、1.5車線くらいしかない細い道をグイグイと進んでいく。道の途中には小さなヒンドゥー寺院が点在している。大体ドゥルガーかハヌマーンの寺院である。スキー場として知られるナールカンダーを越え、しばらく行くと急に景色がパッと開ける。そして眼下には雄大なサトルジ河が現れる。サトルジ河を囲む山々はほぼ断崖絶壁の超高山である。こういう風景は既にパーキスターンのカラコルム・ハイウェイや、マナーリー〜レー間の道でも体験済みだが、日本では絶対に見ることのできない絶景なので、見るたびに絶句してしまう。こんな首を90度傾けてもてっぺんが見えないような山に囲まれて過ごしていたら、自然に逆らおうなんていう思いは絶対に起こらないだろうな、といつも思う。

 サトルジ河に出てからはずっと河に沿って上流に向かう。この辺りの道端には小さな木箱がいくつも置いてある。箱の周りには無数の蜂。どうも養蜂をしているらしい。カシュミールの蜂蜜は有名だが、ここでも蜂蜜作りをしているようだ。養蜂している人は、箱をいじるときに頭をスッポリ覆う金網状のマスクをかぶっているのだが、上半身は半袖のシャツしか着ていない。蜂に刺されないのだろうか?

 この辺りは中国の国境へ向かう道でもあるので、ジャンムー&カシュミール州ほどではないものの、軍隊の駐屯地がいくつか見受けられた。また、サトルジ河にかかる吊り橋や吊り椅子を見ている内に、パーキスターンのギルギット周辺の風景を思い出した。

 12時頃ラームプルに到着した。ラームプルは昔のインド〜チベット間の交易ルート上にある重要な町だったようだが、現在では新しく無味乾燥な建物が立ち並ぶ、ただのサトルジ河沿いの中都市という感じだった。ラームプルの手前辺りから急に道路の舗装がよくなり、バスのスピードが上がる。

 1時にジューリーに着いた。この町は本当に何もないただの町、という感じだった。サラーハン行きのバスが止まっていたので、すぐさまそれに乗り換える。ところがこのローカル・バスが超満員状態だった。僕は無理に詰め込んでもらって、かなり苦しい体勢のままさらに山道を登っていくことになった。普通インドを旅行していると、地元の人は旅行者を見ると親切に席を譲ってくれるものだが、今回は全くそんなことがなかった。僕は「いったい何者?」という不審な視線にさらされ、誰からも話しかけられなかったし、誰からも席を譲ってもらえなかった。この辺りはかなりの僻地で、外国人旅行者も滅多に訪れない場所だろうから、外国人に対して免疫があまりないのかもしれない。もしかして山の民はシャイなのか?僕が無闇にヒンディー語を話していたから余計国籍不明の不審者になってしまったのかもしれない。しかしもっとも考えられるのは、この辺りが中国に近いということとの関係だ。インドは中国と戦争をして負けており、中国人に対する感情はあまりよくない。僕は中国人と思われていた節がある。車内から「チーニー(中国人)」という声が聞こえて来た。こういう場合、日本人と分かると比較的好意を持ってもらえることが多いが、わざわざ「オレは日本人だぜ!どうだ!」と言いふらすのも馬鹿馬鹿しいのでしない。

 2時には念願のサラーハンに到着。計算してみると、シムラーから6時間ほどで着いてしまった。案外近かった。サラーハンは思っていた通りのどかな山間の田舎町だった。ヒマーラヤ山脈の山ひだに迷い込んだ気分だ。眼下お目当てのビーマーカーリー寺院もすぐに見つかった。サラーハンで最高級のホテル、シュリーカンドに泊まることにした。シングルで500ルピーちょっと。十分な広さの部屋に、サトルジ谷を見渡すバルコニーがあり、快適。ここなら静かだし、勉強がはかどりそうだ。




ホテル・シュリーカンドと山の風景


 昼食を食べた後、早速ビーマーカーリー寺院へ行ってみた。この寺院はカーリー女神を祀ったヒンドゥー寺院なのだが、入るのにいろいろと規則がある。靴を脱ぐのは基本だが、身体からベルト、財布などの革製品を取り外し、帽子をかぶって入らなければならない。カメラの持ち込みも禁止である。その代わり入場料などはない。入り口で退屈そうに座っていたパンディト・ジー(僧侶)が案内してくれた。

 ビーマーカーリー寺院の境内には2つの塔が並び立っている。右側の塔は約800年前に建てられた古い本堂で、左側の塔は1927年に建てられた新しい本堂である。1905年に地震があり、傾いてしまったので隣に新しく本堂を造ったらしい。今でも旧本堂は宝物庫として使われている。また、旧本堂の地下には秘密のトンネルがあり、隣村まで続いているそうだ。おそらくこれはビーマーカーリー寺院が寺としてだけでなく、要塞としても機能していたことを示唆しているのだろう。




ビーマーカーリー寺院


 塔を上がっていくと、3階にカーリー女神の像が置かれている。像の前でパンディト・ジーが僕の額にティラクを付け、聖水を飲ませてくれて、プラサード(金平糖のような甘い菓子)をくれた。外国人がよく訪れる寺院などでパンディト・ジーにこういうことをしてもらうと、必ず「寄付金500ルピー」とか言われるが、やはりここはそこまで汚染されていなかった。パンディト・ジーは何も要求して来なかった。僕はプラサードを食べながらパンディト・ジーと雑談してみた。「デリーに来たことありますか?」と聞いたら、「何度もある」と答えた。なんと彼はリンゴを売りに北デリーにあるアーザード・プルの果物市場へ毎年来るそうだ。農家と僧侶を兼業している人のようだ。テストでの幸運を祈って10ルピーをカーリー女神に捧げた。そういえば聞くところによるとこの寺院では、19世紀まで人身供養が行われていたそうだ。

 ビーマーカーリー寺院の建築は石と木の混交だった。石が2段組まれ、その上に木の板が敷かれ、そのまた上に石が2段組まれ・・・という感じに積み上げられていた。耐震のための構造らしい。外観は日本の建築と非常によく似ている。日本を数千キロも離れているのに、インドにいると思わぬところで日本を感じるときがある。

 寺院の外には乞食のお婆さんが1人ポツンと座っていた。あまりに虚しかったので1ルピーあげた。こんな辺鄙なところに座っていても、あんまり儲からないと思うのだが・・・。

4月13日(日) サラーハン(2)

 山の朝は幻想的だ。僕の泊まっている部屋のバルコニーは西向きで、昨日はちょうど山の間に沈んでいく夕日を見ることができた。早朝外を見てみると、まるで青い霧がかかったように目の前の景色は真っ青だった。時間が進んでいくにつれて次第に青みが薄まっていき、やがて正面の山の頂上に朝日の光が当たって黄金に輝き出す。それからはまるで青い衣が脱がされていくように、次第に日の当たる範囲が下へ下へと広まっていき、谷全体がモノクロTVからカラーTVへ劇的な変化を遂げる。

 朝食を済ませた後、僕はビーマーカーリー寺院のスケッチに取り掛かった。昨日は寺院の周りをグルッと廻って、いいスケッチ・ポイントを探した。寺院正面から眺めればベスト・アングルになるのだろうが、寺院は山の斜面に沿って建っており、正面は谷の方を向いているので、ヘリコプターに乗らない限りそのアングルは不可能である。結局2つの塔が並んでよく見える場所をスケッチ・ポイントに選んだ。

 僕の座った場所は、サラーハンの村とバス停をつなぐメイン・ロードと言ってよかったが、スケッチし出して最初の内は、通行人は全く寄って来なかった。やはりこの辺りの人は非常にシャイみたいだ。しかし1人2人子供が寄ってきて僕の傍に腰を下ろし、じっと僕のスケッチを観察し始めると、だんだんといろんな人が集まってくるようになった。実は去年の11月からずっとスケッチをしておらず、実に5ヶ月ぶりかつ2003年初のスケッチになったわけだが、絵は2時半で完成し、傑作中の傑作に仕上がった。どうやら腕は鈍っていなかったようだ。

 スケッチをしている間、けっこう頻繁にジープが行き交いしていた。ビーマーカーリー寺院を参拝しに来るインド人旅行者だった。実はインド人にはこの寺院は有名なようだ。寺院の門に1人ポツンといた乞食のお婆さんは、けっこう儲けているのかもしれない。何しろ独占市場だからな・・・。

 最初から最後まで僕のスケッチを見ていた男の子がいた。カマルという名前で、年は15歳。彼と仲良くなって、サラーハンの村のさらに上にある動物園に連れて行ってもらえた。村から徒歩で15分ほど。その動物園には鳥が数種類と鹿が2、3頭いるだけだったが、そこからの眺めは最高だった。ビーマーカーリー寺院もきれいに見渡せた。しばらく動物園に座って下の風景を眺めた。サラーハンの村をゴマ粒ほどの大きさの人が歩いているのが見える。そういえばホテルのバルコニーから僕は同じように下の道を歩いているゴマ粒ほどの大きさの人を眺めていた。そのホテルは今や僕の眼下にマッチ箱ほどの大きさになっている。ホテルにいたときは下の様子を眺めつつ、一瞬神様になったような気分になったものだったが、それも虚しいものだった。さらに上から誰かに同じように覗かれていたのだ。そのさらに上には誰かがいるだろう。例え山の頂上まで行って、「ここなら誰にも覗かれまい」と思っても、きっとその上の空から誰かが覗いているのだろう。




上から眺めたビーマーカーリー寺院


 そんなことを考えつつボーッと景色を眺めていると、いろんな音が聞こえてくる。遠くの方から来ている音だろう。木を切る音、寺院から流れてくるシュローカ、子供のはしゃぎ声、鳥の鳴き声・・・自動車のエンジン音やクラクションでさえも、ここではのどかな山の音楽のひとつになっている。デリーではただの雑音の構成物に過ぎなかったのだが・・・。

 動物園の下には大きなグラウンドがあった。サラーハンのマハーラージャーの子供はサッカーが好きだったのだが、一度ボールが外れて転がり出すと、そのボールは山の斜面をポンポンと転がって麓のジューリーのバーザールまで行ってしまっていた。そこでマハーラージャーがサッカーやクリケットをするグラウンドを造らせたそうだ。カマルが教えてくれた。グラウンドの記念碑には1985年に完成、と書いてあった。確かに山の斜面に住んでいると、平面がないので、クリケットやサッカーをするのに苦労しそうだ。そういえばシムラーからサラーハンへ来る間にも、途中通過した町で大きなグラウンドを持つところがいくつかあった。

 今日もビーマーカーリー寺院を参拝した。昨日は見逃していた、本堂の隣にあるランクラー・ヴィール寺院も見た。犬を連れた恐ろしげな女神で、その寺院の下には温泉が湧き出ているらしい。しかし誰にもそこへは行かないそうだ。かつてこの寺院で人身供養が行われていたと言われている。おそらくこのランクラー・ヴィールこそがもともとの土着の神様で、後からカーリーと同一視されるようになり、隣に巨大なカーリー女神の寺院が建ったのだろう。他にけっこう古そうなヌリスィンの寺院もあった。

4月14日(月) サトルジ峡谷からシヴァーリク峡谷へ

 当初の予定ではサラーハンからシムラーへ帰り、シムラーからデリーへ帰るという旅程だった。しかしサラーハンからハリドワールまで直通のバスがあるという話を聞き、急に浮気心が沸き始めた。デリーからシムラーに来たときは、それなりにシムラーがいい街に思えたが、サラーハンを見てしまうとシムラーはただのつまらない街だ。戻ってもあまり楽しくない。どうせなら別の場所へ行きたい。例のハリドワール直通のバスは、シムラー、デヘラー・ドゥーン、リシケーシュなどを経由するらしい。デヘラー・ドゥーンはウッタラーンチャル州の州都。まだ行ったことがない。リシケーシュもいいところだ。ハリドワールはほとんど通過したことしかない。いろいろ考えた結果、デヘラー・ドゥーンへ行くことに決めた。バスは朝8時発だった。

 ところが今日は運が悪くて朝から雨が降っていた。ただでさえ山道を猛スピードで突っ走るのは怖いのに、雨だと余計危険度が増す。いや、でも考えようによっては、移動日に雨が降ってくれた方が観光には都合がいいかもしれない。とにかくこの雨は今日1日中ずっと降り続けた。

 8時前にホテルをチェック・アウトしてバスに乗り込む。運転手に「デヘラー・ドゥーンに着くのは何時?」と聞いたら「夜の2時くらいかな」と言われた。げっ、そんなにかかるの!?運転手の計算違いか、僕の聞き間違いであってほしいと願いつつも、急にデヘラー・ドゥーンへ行く気が失せ始めた。しかしチケットはデヘラー・ドゥーンまで買った。295ルピーだった。

 出発時間になり、運転手がバスのエンジンをスタートさせる・・・が、かからない。何度もトライするが駄目だ。こういうときは乗客が全員降りて、裏から押してエンジンをかけなければならない。こんなんで果たしてハリドワールまで行けるのだろうか?

 ところがやっぱりそのバスは調子がおかしかった。道の途中で故障して立ち往生、という最悪の事態には至らなかったが、運転手の判断で、ラームプル手前にあるバスの修理場へ入ってしまった。そこで待つこと1時間・・・結局トラブルの原因が分からず、修理上に停めてあった別のバスを運転手が用意して、それに乗って行くことになった。

 それからがまた長くて、ナールカンダーで1時頃に昼食休憩があり、シムラーに着いたときには既に4時を回っていた。シムラーからサラーハンへ行ったときは6時間で行けたのに、帰りは8時間もかかってしまった。1時間はバスの修理に費やされたが、残りの1時間の差はいったいどうして発生したのだろうか?このままだと本当にデヘラー・ドゥーンに到着するのは夜中の2時になってしまう。

 さらに追い討ちをかけるように、そのバスはシムラーのバス停で1時間15分も停車していた。長距離バスに乗っていると、どこのバス停でどれだけ停まるかよく分からないことが多い。運転手や車掌に聞けば教えてくれるが、僕はてっきりすぐ出発するものだと思ってずっと待っていた。

 もうこの時点で旅程は変更されていた。デヘラー・ドゥーンへ行くのはまたの機会にしよう。その代わり、シムラーとデヘラー・ドゥーンの中間にある、ナーハンという街に行ってみよう。けっこう古い街らしいから、何か面白いものがあるかもしれない。また、ナーハンからデリーへ行くバスもありそうだ。こうして、今日のバス移動はサトルジ峡谷にあるサラーハンから、シヴァーリク峡谷にあるナーハンへの移動ということになった。

 5時15分、やっとバスはシムラーを発ち、山道を下って行った。だんだんと辺りが暗くなって来る・・・。幸い、雨はもうほとんど降っていなかったが、路面はまだ濡れている。危険なことには変わりない。

 ソーランを越え、バローグという街でバスは東へ向かう。この町の分岐路を南に向かうとカルカーやチャンディーガルに出る。東への道はシヴァーリク峡谷を通る道で、ナーハンやデヘラー・ドゥーンに通じている。

 もう既に日は沈み、辺りは真っ暗になっていた。ただ、今日は月夜なのか、暗闇の中でも山の景色がうっすらと見渡せた。8時頃に夕食の休憩があり、さらに山道を進んでいくと、やがて前方に光の集合体が見えた。あれがナーハンらしい。思っていた以上に大きな街のようだ。ナーハンのバス停に着いたのは夜の11時過ぎ。なんとか今日中にナーハンに辿り着けたようだ。サラーハンから15時間以上かかったことになる。身体はいたって健康だが、とにかく尻が痛い。バス停近くのホテル・ヒル・ヴューに泊まった。1泊200ルピー。見ると部屋にはパンカーが付いている。そういえばもう夜でもけっこう暑い。避暑には向かない地域に来てしまったかもしれない。

4月15日(火) ナーハン&デヘラー・ドゥーン

 朝、ナーハンの町を散歩してみた。無個性な建物の立ち並ぶ普通の山の町である。それほど古い町並みとも思えない。唯一特徴的なのは、あまりに坂が多いためにオート・リクシャーやサイクル・リクシャーが全くないことである。人々はバイクか徒歩で移動をしている感じだ。町の頂上にはラージャー・マハルと呼ばれる王宮があった。しかし一般人は立ち入ることができない上に、オンボロの建物だった。ラージャー・マハルの近くにはグラウンドがあり、そのそばに門が建っていた。地元の人にはデリー・ゲートと呼ばれているようで、長距離バスの発着所になっている。デリー・ゲートの反対側には細い坂道に沿ってバーザールが続いているが、こういう風景もインドではそう珍しくない。結局ナーハンにはあまり見る価値のあるものはないということが分かった。

 朝の散歩だけであっけなくナーハンは大体把握してしまったので、もうナーハンを発つことにした。だんだん疲れが溜まってきたので、もうデリーに帰ろう、そう思って、バス停へ行って8時発のデリー行きのバスに乗り、動き出すのを待っていた。しかし僕の心にだんだん疑問の心が生じ始めた。このままデリーに帰ったら、尻すぼみで旅が終わってしまう、もう1箇所くらい見ておいてもいいじゃないか、時間の余裕はあと1日ある、どうせデリーに帰っても暑いだけだ・・・。悶々と自問自答しているそのとき、バス停にデヘラー・ドゥーン行きのバスが入ってきた。僕は反射的にデリー行きのバスを降り、デヘラー・ドゥーン行きバスに乗り込んだ。まだ旅は終わっていない!

 ナーハンは山の上にある町だったので、バスはどんどん坂を下って行った。下山し終わると、もうあとは平野の道だった。ちょうど東西に走るヒマーラヤ山脈に平行して東進するような形だった。9時半頃にヒマーチャル・プラデーシュ州とウッタラーンチャル州の州境にある町パーオンター・サーヒブに到着。ここでまた1時間以上停車し、再びバスは東へ。ヒマーチャル・プラデーシュ州を後にし、ウッタラーンチャル州に入る。バスはのどかな農村をいくつも通り過ぎていく。まさに完璧なインドの農村がパーオンター・サーヒブ〜デヘラー・ドゥーン間に保存されていた。

 正午頃、ウッタラーンチャル州の州都デヘラー・ドゥーンに到着。僕はデヘラー・ドゥーンを勝手にバンガロールのような高原の都市、というように想像していたのだが、実際はかなりゴミゴミした町だった。今回訪れたどの町よりも自動車の交通量が多く、空気の悪さに閉口してしまった。まあいい、ここでデリーの大気汚染に対する免疫を回復しておこう。それにしても今思うと、シムラーはいいところだった。サラーハンがあまりに良すぎたために霞んで見えてしまったが、シムラーの中心部は全く自動車が通っておらず、非常に快適な町だった。

 デヘラー・ドゥーンではモーテル・ヒメーシュに泊まった。デヘラー・ドゥーンでもっともモダンな地域にあるホテルで、1泊400ルピー。ホテルの近くにバリスタがあった。そういえばシムラーやラクナウーにもバリスタがあった。もしかしてインドの全ての州都にバリスタは進出しているのかもしれない。

 デヘラー・ドゥーンの観光ポイントはただひとつ。ラーム・ラーイ・ダルバールだ。ラーム・ラーイはスィク教第7代グル、ハル・ラーイの息子で、第8代グルに目されていたが、ムガル皇帝アウラングゼーブを欺いた罪により、スィク教を破門されてしまう。ところが逆にアウラングゼーブはラーム・ラーイを憐れみ、1675年、彼に住む土地を与えた。やがてラーム・ラーイは自らの教団ウダースィー派を創設した。ウダースィー派は急速に普及し、彼の住居の周りには信徒の家が立ち並び始めた。1687年のラーム・ラーイの死後、アウラングゼーブが彼を偲ぶ廟を建てさせた。これがラーム・ラーイ・ダルバールであり、ウダースィー派の本拠地として門前町的に発展したのがデヘラー・ドゥーンである。

 デヘラー・ドゥーンの街の中心には時計塔が建っており、そこから真っ直ぐ南西の方角に延びているのがパルタン・バーザールである。このパルタン・バーザールの端にラーム・ラーイ・ダルバールはあった。いったいどんな建物かと思ったが、それはアウランガーバードのビービー・カ・マクバラーを下回るほどの地味な建築物だった。参拝客も少なく、ひっそりと静まり返っていた。シャージャハーンまでのムガル朝の建築物は素晴らしいが、アウラングゼーブの代になると急に地味な建物になってしまうような気がする。もうアウラングゼーブ・プロデュース作品は信用しないぞ、と心に決めた。しかしながら、ラーム・ラーイ・ダルバールの建築にはがっかりしたものの、1階の壁や天井に描かれていた壁画は素晴らしかった。




ラーム・ラーイ・ダルバール


 前述の通り、デヘラー・ドゥーンはラーム・ラーイ・ダルバールの門前町として発展した。そのためか、道端には必要以上に乞食が多いような気がした。また街を歩く人のファッション・センスを見てみると、シムラーほどではないが割とかっこつけた若者が闊歩していた。目抜き通りであるラージプル・ロードにおいしそうなレストランがかたまっているのも特徴である。

4月16日(水) デリーへ

 早朝6時発のデリー行きバスに乗り込んだ。本当は6時15分発のデラックス・バスに乗って悠々と帰還したかったのだが、8時15分にならないとないと言われたので、仕方なくローカル・バスに乗ることにした。しかし乗ってみて気付いたが、そのバスはウッタル・プラデーシュ州経営のバスだった。個人的にウッタル・プラデーシュ州のバスは苦手なのだ。車掌の態度がでかいのだ。しかし乗ってしまったからには仕方ない。そのバスでデリーへ行くしかない。デヘラー・ドゥーンからデリーまで127ルピー。

 バスはデヘラー・ドゥーンの街を出て、ひとつ山を越えるとあとは定規で引っ張ったような直線の道を突き進むだけだった。ヒマーチャル・プラデーシュ州を旅行していたときとは大違いの快適さだ。山道では10キロ進むのに何十分もかかったりするが、平地の道はすぐである。ところが途中でまたトラブルが。バスのタイヤがパンクしてしまった。タイヤを交換するのに30分以上足止めを喰らった。

 しかしヒマーチャル・プラデーシュ州のバス移動に比べると、ウッタル・プラデーシュ州のバスは途中のバス停での停車時間が短く、また食事休憩のときに何分停車するかを叫んでくれるので、実はいいところもあった。バスの移動ひとつとっても、州によっていろいろ特徴があるので、インドは面白い。

 途中、ムザッファルナガル、メーラトなどを通過し、次第にデリーに近付いてきた。デリーの隣町、ガージヤーバード辺りまで来るとデリーの喧騒圏内に入った感じになる。そして耐えられないほどの熱気・・・。シャーダラーからはデリー・メトロの線路に沿って西へ進む。シャーダラーとスィーラムプルの間にひとつ駅があったのだが、そこには「メトロ・ウェルカム」としか書かれておらず、駅名が分からなかった。しかしその駅の近くにバス停があり、そこには「ウェルカム」と書いてあったので、もしかして駅の名前が「ウェルカム」で、その辺の地名も同時に「ウェルカム」になってしまったのかもしれない。スィーラムプルを過ぎ、ヤムナー河を越え、デリーのISBTに到着したのは1時頃だった。デヘラー・ドゥーンから7時間かかった。

 ISBTからオートを拾って自宅まで戻ったのだが、そのオートまで途中で故障して動かなくなってしまった。どうも今月はメカ運が悪いようだ。別のオートに乗って家まで帰った。帰って早速懸念だったインターネットに接続してみると・・・やっぱりつながらない。もう今月は僕の身の回りにある機械が全て故障しそうな気配がする。

 ・・・結局ハートウェイのオフィスへ押しかけて抗議し、夜の9時過ぎにやっとネットがつながった。なんか久しぶりに酸素を吸った気分だ・・・。それにしてもデリーは暑い。頭がボーッとする。

4月17日(木) The Hero

 2003年のボリウッドの運命を占う試金石となるだろう映画が先週から公開された。サニー・デーオール主演の「The Hero」である。サニー・デーオールは2001年のメガヒット映画「Gadar」や同じく2001年末公開の「Indian」に出て以来ずっと銀幕から遠ざかっていた。サニー・デーオールは「Gadar」でインド人のヒーローとしての地位を完全に確立しており、彼を現在のインド人俳優のナンバー・ワンに挙げる映画ファンも多い。彼が1年以上の沈黙を破って登場するということで、大衆からかなり期待されており、またプロモーションもかなり大々的に行われていた。この映画がもし万一あっけなくこけてしまうと、2002年に引き続き2003年のボリウッド界にも暗雲が立ち込めることになってしまう。今日は第1日目のテストが終わった後にチャーナキャー・シネマへこの映画を見に行った。

 「The Hero」の副題は「Love Story of A Spy」。主演はサニー・デーオール、プリーティ・ズィンター、そしてもう1人のヒロインは、2002年ミス・ワールドのプリヤンカー・チョープラー。この作品がデビュー作である。他にアムリシュ・プリー、カビール・ベーディー、ラージパール・ヤーダヴなど個性的な俳優が脇を固めていた。




サニー・デーオール


The Hero
 カシュミール独立のために暗躍するテロリスト、イーシャーク・カーン(アムリシュ・プリー)らは、なんとか核兵器を手に入れようと画策する。ところがそれを阻止して来たのがインドが誇る敏腕スパイ、アルン・カンナー(サニー・デーオール)だった。彼は変装の名人で、戦闘能力にも長けていた。イーシャーク・カーンらにとってアルンは天敵だった。今回、アルンはラヴィ・バトラー少佐になってカシュミールの国境地帯を守備していた。

 駐屯地の村でアルンは1人の羊飼いの娘と出会う。彼女の名前はレーシュマー(プリーティ・ズィンター)。レーシュマーはインド・パーキスターン分離独立時に現在のパーキスターン領から逃げてきたヒンドゥーの家族の子だった。彼女の両親は死んでしまい、イスラーム教徒の老夫婦が彼女を育てていた。アルンはレーシュマーと恋に落ちる。

 そんなとき、テロリストのアジトで女の召使いが必要になっているという情報を得る。スパイを送り込むチャンスだ。アルンはレーシュマー以外にその役を果たせないと判断する。なぜなら彼女の方言はその地方のものだからだ。アルンは彼女を訓練し、スパイとして敵地に送り込んだ。

 レーシュマーはアジトで信頼を得ながら情報を逐一インドに送っていた。ある日そのアジトにイーシャーク・カーンらテロリストたちが集結する。彼らは自らの手で核兵器を製造する計画を協議していた。レーシュマーはその情報をインドに流そうとするが失敗し、正体がばれてしまう。レーシュマーはアジトを逃げ出し、間一髪のところでアルンに救われる。

 カシュミールでは新年会が行われた。主役はスパイとしての任務を果たしたレーシュマーだった。そして同時にアルンとレーシュマーの婚約式であることもアナウンスされた。皆は2人を讃える。ところがその会場をイーシャーク・カーンは爆弾で爆破する。レーシュマーは行方不明となり、アルンは敵方を欺くだめ、死亡したという報道が流された。イーシャーク・カーンも姿をくらます。

 しばらくイーシャーク・カーンの所在が分からない状態だったが、やがてカナダにいるという情報を得る。レーシュマーを失って悲しむアルンだったが、任務は任務、彼はカナダへ飛ぶ。一方、レーシュマーはパーキスターンまで流れ着いていた。彼女はあるパーキスターン人の医者に救われるが、足を損傷しており、歩けない状態だった。また、アルン死亡の報を聞いて落ち込んでいた。医者は彼女の足を直すためにカナダへ彼女を連れて行くことにした。こうして運命の導きにより、アルンとレーシュマーはカナダへ行くことになった。

 レーシュマーはある大きな病院で治療を受けていた。彼女の治療を担当していたのが、院長ザカリヤー(カビール・ベーディー)の娘、シャイラー(プリヤンカー・チョープラー)だった。レーシュマーはカナダに来てアルンが生きていることを直感で察知し、再び歩けるようになるようリハビリに精を出す。

 一方、カナダでアルンはワヒード・カーンという科学者になりすまして、核兵器が製造されていると疑われる病院に忍び込む。その病院はまさにレーシュマーが入院している病院だった。彼はシャイラーにも近付いて恋仲となり、婚約者となり、父親にも認められ、やがて核兵器開発のメンバーに入ることになる。彼はイーシャーク・カーンらテロリストらとも再会を果たすが、彼らはその科学者がアルン・カンナーであることには全く気が付かなかった。

 ワヒードとシャイラーの結婚式が行われた。そこでアルン(ワヒード)はレーシュマーと劇的な再開を果たす。2人はお互いにお互いの存在に気が付くが、言葉を交わすことはしなかった。レーシュマーは悲しみを胸に故郷へ帰る。

 ワヒードは遂にカナダにあるテロリストのアジトにも連れて行ってもらえたが、そこで正体がばれてしまった。しかしカナダの特殊部隊が救援に駆けつける。イーシャーク・カーンらは列車を乗っ取って乗客を人質にとり、必死に抵抗するが、アルンの超人的な活躍によって全員抹殺される。その間、シャイラーはイーシャーク・カーンに殺されてしまった。

 カシュミールに戻ったアルンはレーシュマーに会いに行き、2人は再開を果たす。

 カシュミール分離独立派テロリストとインドの英雄的スパイとの戦いを描いたアクション映画、と思わせておいて実はロマンスの度合いが強い映画だった。途中アルンとレーシュマーが離れ離れになり、お互いにお互いの生死が分からなくなるところは、「Gadar」のプロットと似通っている。しかしその後舞台がカナダに移って、シャイラーという第二のヒロインを登場させることで、「Gadar」の二番煎じにならずに済んでいた。

 サニー・デーオールは今回沈着冷静な男を演じており、いつものように雄叫びを上げるシーンは少なかったが、百面相のような変装が面白かった。特に科学者に化けたときの彼のスタイルはけっこうかっこいい。今回見ていて、彼の目の動きの魅力に気が付いた。彼の重たそうな目蓋が一瞬さっと目を覆い、下に視線をアンニュイに落とすしぐさが渋い。デーオール兄弟(サニー、ボビー、イーシャー)の中では、僕はサニー・デーオールが一番好きである。

 プリーティ・ズィンターはカシュミールの素朴な牧女を演じていた。彼女は「Mission Kashmir」でもカシュミーリーの女の子を演じていたが、カラフルなバンダナを頭に巻いたプリーティはかなりキュートだ。演技もこの映画の中でもっとも光っており、ますます彼女の成長に期待がかかる。彼女が出る映画は全部清涼感あふれる映画になるから好きだ。




カシュミール地方の民族衣装を着た
プリーティ・ズィンター


 この映画でもっとも美しいシーンは、ワヒードとシャイラーの結婚式だ。そこでワヒードに変装したアルンとレーシュマーは念願の再開を果たすわけだが、そのときアルンはシャイラーの花婿になっていた。レーシュマーはアルンが生きていたことに喜びつつも、悲しみの涙を流す。アルンもレーシュマーが生きていたことに涙を流すが、スパイとしての任務を果たすために心を鬼にして平静を保つ。この2人の表情がこの映画の中でもっとも魅せたかった部分であり、もっとも俳優が高度なレベルの演技を要求された部分だろう。映画の副題「Love Story of A Spy」は非常に的を得ていると感じた。

 新人のプリヤンカー・チョープラーは、最近ボリウッドで流行のスレンダー系若手女優の1人にカテゴライズされるだろう。だがやはりミス・ワールドに輝いただけあって、見分けがつきにくいスレンダー系女優の中にあって一際目立つ容姿を持っている。また、アメリカに留学していただけあって流暢なアメリカ英語を話す。ただ、腰周りがスリム過ぎるような気がしてならない。なんか胸と比べて不安定ではないだろうか・・・?踊りにも少し不安が残った。どちらにしろ、2003年期待の新人女優である。




プリヤンカー・チョープラー


 その他、カシュミール地方の風景や風俗が割と忠実に再現されていてよかったと思う。ロケ地はおそらく大部分がヒマーチャル・プラデーシュ州(クッルー、マナーリーなど)だろうが、カシュミールっぽい雰囲気は出ていた。ムスリムの登場人物が多かったので、言語はウルドゥー語彙が意識的に多く使われていた。

 音楽は「Gadar」と同じくウッタム・スィン。耳に残る曲がいくつかあってなかなかよかったと思う。サニー・デーオールはあまり踊らなかったが、ダンス・シーンもほどほどの派手さでよかった。

 おそらく「Gadar」ほどの大ヒットは記録しないだろうが、インド人が好むポイントは押さえて作ってあるように感じたので、ロング・ラン・ヒットしてもおかしくないだろう。

4月19日(土) サハーランプル文化交流ツアー(1)

 インドと日本の各種交流を推進すべく日々活動をしているビジネス・インド/ジャパン、日本大使館、ジャパン・ファウンデーションなどが共催をするサハーランプル文化交流ツアーに僕も参加することになった。ウッタル・プラデーシュ州北部にある小都市サハーランプルにあるシュリーマティー・ラーム・ラーティ・グプター女子短大を訪れ、日本の文化を紹介するのがメインのツアーである。2001年12月にも行われ、今回は第2回目ということになる。僕はテストの真っ最中であるにも関わらず、諸々の要因から参加することになった。参加者は上記の諸団体から代表者数名の他、デリーに住む駐在員マダムや留学生など総勢16名が参加。ヴォランティア参加の人の旅費は無料。土日を使った1泊2日のツアーである。

 朝7時、ニューデリー駅からデヘラー・ドゥーン行きシャターブディー・エクスプレスに乗った。サハーランプルはデヘラー・ドゥーンへ行く途中にある。特に何か見所があるような都市ではないが、交通の要所に位置しているのでインド人には割と有名である。デヘラー・ドゥーン行きのシャターブディーの列車は他のシャターブディーと比べてあまりきれいではなかったが、スタッフのサービスはよかったと思う。

 9:45頃、シャターブディー・エクスプレスはサハーランプルに到着。駅に降り立った途端、短大の学生たち数十人が僕たちを出迎えてくれた。しかもダウラク(太鼓)付き。急にダウラクを鳴らし始めるものだから、駅の人々は全員僕たちをポカンと眺めていた。花輪を首にかけられ、花びらを振りかけられながら僕たちは駅の外に出た。外にはバスとジープが待っていた。

 シュリーマティー・ラーム・ラーティ・グプター女子短大はサハーランプルの郊外ラームプルにあり、駅から自動車で30分ほどのところにあった。僕たち一行は再度歓迎を受け、校舎の中へ入った。




シュリーマティー・ラーム・ラーティ・
グプター女子短大


 女子大なので、本当に女の子ばかりだ。 本当は男子禁制らしいが、今回は文化交流イベントということで僕たち男性も入場することができている。見ると、制服らしきサルワール・カミースを着ている女の子もいれば、カラフルなサーリーを着ている女の子もいる。今日は最上級生である3年生の卒業式も同時に行われているようで、着飾った女の子たちは3年生のようだ。だが、いまいち学生と先生の区別がつかない。大学生ぐらいまでなると、日本人から比較するとかなり老けた顔をしている人もいるので、誰が学生で誰が学生なのか、はっきりとした境界線が引けない。

 なんとこの短大にはクリントン前合衆国大統領とヒラリー夫人も訪れたそうだ。校長室にはクリントンさんらの写真に混じって、一昨年同じツアーで訪れた人々の写真が飾ってあった。どうもこの大学を訪れた最初の外国人がクリントン一行で、その次が第1回サハーランプル・ツアーに参加した人々だったみたいだ。

 まずは庭に建てられたテントで北野武監督「菊次郎の夏」が上映された。その間僕たちは準備にとりかかり、女性陣は着物に着替えたりしていた。映画が終わった後、テントで歓迎のセレモニーが開かれ、学生が歌を歌ったり、パンジャービー・ダンスを踊ったり、スピーチがあったり、プレゼント贈答などが行われた。大学側からは僕たちにサハーランプルの特産品であり木彫小物入れが手渡された。

 昼食後、数チームに分かれて日本文化のレクチャーを行った。生け花、書道、折り紙、着物の着付け&日本舞踊、茶道などである。先生は駐在員のマダムたちが中心で、僕は書道のアシスタントをした。

 書道クラスには20人くらいの学生が来てくれた。僕が、子供の頃書道を習っていたことをチラッと言ったら、僕がお手本を書くことになってしまった。書道道具一式を目の前に広げる。筆、硯、文鎮、半紙・・・懐かしすぎる・・・。全て新品なので、筆がなかなか墨汁になじまない。まずは「大」という文字を書くことになった。1、2、3・・・が、書道を習っていたとは思えないくらい下手な文字になってしまった。しかしインド人たちに上手い下手が分かるはずがない。僕は「これでいいのだ」という顔をして誤魔化すしかなかった。次に「印度」という文字を書いた。これも小学生の書いた習字以下の文字に。しかし僕は再び「これこそ芸術」という顔をするしかなかった。こんな詐欺師が日本文化の伝道師になっていいのか、と罪悪感に苛まれた。

 混乱を避けるため、学生たちに実際の墨汁を使って書かせることはせずに、練習用のお習字ボードを使って書かせた。水を使って書くと線が浮き上がるボードで、水が乾くとすぐに消える。クイズ形式で簡単な漢字の意味を考えてもらいながら、書いてもらった。例えば「一」「二」「三」などの漢字の意味を当ててもらった。当然ながら「100を表すためには百本線を引かなければならないのか」という質問も飛び出して面白かった。その他、日本に関するクイズや剣玉などもやった。概してインド人の授業態度は非常に積極的で、鋭いところを突く質問も多い。しかし何の脈絡もなく突然「なぜ日本は優れた技術を持つに至ったのですか?理由は何ですか?」と聞かれたときには何も答えることができなかった。本当にいったいなんで日本はこんなに最先端の技術を持ってるのだろう?




剣玉にトライする女子学生


 書道の講師の人は英語がうまかったし、生徒たちは全員英語をよく理解していた。だからヒンディー語通訳としての役割も担うはずだった僕の出番はあまりなかった。かえって雰囲気に呑まれて僕も英語で授業を進めてしまった。ヒンディー語使うとクスクス笑われるのだ・・・。きっとこれは僕のヒンディー語人生の汚点となるだろう。

 僕はずっと書道クラスに付きっ切りだったので、他のクラスの様子を見ることはできなかったが、聞くところによるとどこも盛況だったようだ。これで彼女たちに日本の文化が分かってもらえたかといえばそれはNOだろう。何しろこちら側ですら日本文化の定義が危うい状態にあるのだ。しかし将来もし彼女たちが日本になんらかの形で少しでも関わる瞬間があるときに、今日の経験が活かされることになると信じている。

 全ての日本文化紹介イベントが終わった後、テントで3年生の卒業式が行われた。とにかくみんなダンスが好きで、卒業式が終わると同時にダンス・タイムとなり、すさまじい勢いでみんな踊り狂っていた。

 今夜はサハーランプル随一のホテルであるホテル・パンジャーブに宿泊した。一人一室をあてがわれており、AC付きの豪華な部屋。こんな部屋にただで1人で泊めさせてもらえるとは思ってもみなかった。夕食も豪勢に振舞ってもらえた。そのホテルの地下には小さなディスコもあり、地元の若者たちが数人来ていた。

4月20日(日) サハーランプル文化交流ツアー(2)

 サハーランプル文化交流ツアー2日目の今日は、サハーランプルの郊外に本拠地を置き、農村部の女性の地位向上運動を推進しているNGO「ディシャー」の活動を見学することになっていた。朝ジープに乗り込んで、昨日行った女子短大とは別の方角の郊外への道を進んだ。

 ディシャーはスルターンプルという小さな町の、迷路のような路地を抜けた郊外にキャンパスを持っていた。周りは森に囲まれており、目の前には古びたヒンドゥー寺院がぽつんと建っていた。赤レンガ造りの建物がいくつか建っており、その内のひとつ、ホールのような建物に僕たちは座らされた。

 ディシャーは約20年前に設立され、農村部の女性問題を解決するために地道な活動を続けている。現在固定メンバーは50人ほどのようで、その他お手伝いメンバーがさらにいるようだ。メンバーは皆スルターンプル周辺部に住む人々で、担当がいろいろ決まっており、例えば家庭内の女性暴力解決や、近所の女性同士でコミュニティーを作らせて相互資金扶助のシステムを確立させたりしている。上層部はさすがに学のありそうな顔をしていたが、他のメンバーはほとんど普通のおじさん、おばさんたちで、なんとなく暇潰しにやってるんじゃないかな、というような和やか過ぎるムードもあった。

 僕たちは2つのグループに分かれてディシャーが活動している村を見せてもらった。今回はインドの村を見ることができるということで、僕も他の参加者もけっこう期待していた。ところが僕は割といろんなところへ旅行しているので、今回見た村からは「もうどうしようもないほどのインドの貧しい農村」という印象を受けなかった。ほとんどの家はレンガで造られており、電気も来ており、家の中には生活に必要なものが溢れており、テレビまで各家庭置いてあった。「貧乏人の中でも上の方の家だ」と説明されたが、貧乏という定義がよく分からなくなるほどだった。デリーにいる乞食たちは「貧乏人の下」ということになるのだろうか?まあ逆に言えばディシャーの活動が功を奏しているのかもしれないが。

 ディシャーのあるメンバーの家を訪れたのだが、そこには近所の女性たちが集まってくれていた。彼女たちは1つのグループを形成しており、1月10ルピーずつグループに資金を積み立てているそうだ。そしてメンバーに何か金の必要が生じたときにその集めた資金から低利子でお金を借りることができる。このシステムが確立する前は、彼女たちはお金が急に入用になったとき、アクセサリーなどを売ってお金を調達するか、高利貸しにお金を借りるしかなかったようだ。




村の女性たち


 建物からはインドの真の農村を感じなかったのだが、彼女たちの仕草や言葉から「田舎に来たな」という感じがした。彼女たちはサーリーの端やパンジャービー・ドレスのドゥパッターを頭に覆っていた。インドでは、年上の男性の前で女性はそうすることがマナーとなっている。しかしデリーでそんなことを守っている人はあまりいない。また彼女たちの話す言葉はヒンディー語なのだが、かなり訛っているので、聴き取ることが非常に困難である。どうもこの辺りではハリヤーナー方言の影響を受けたヒンディー語が話されているようだ。そういえば僕の大家さんのお母さん(ハリヤーナー在住)の話す言葉と似ていた。

 村見学が終わった後、ディシャー本部で昼食を食べ、その後パペット・ショーを見せてもらった。このパペット・ショーの題材は主に生活する上での問題の風刺で、農村部の読み書きのできない人たちにも容易に理解してもらえる。この人形劇は、大衆に何かの問題について考えるきっかけを提起するメディアとして機能しているようだ。今回見せてもらった劇では、役人の賄賂について風刺されていた。ちなみに傀儡子たちはラージャスターンの学校で人形遣いを習ったようだ。

 ディシャーの見学を終え、余った時間でサハーランプル名物の木彫品工場を見学した。サハーランプルには木彫品の店がズラリと並んでいる通りがあり、路地裏では多くの職人が木の粉まみれになりながら木を削っていた。しかもみんな仕事が早い!もう目にも留まらぬ早さで木に穴を開け、彫刻を彫り、仕上げをしていた。宝石箱やコースターのような小物から、椅子・机などの家具まで、ありとあらゆるものを製作していた。働いている人の99%はムスリム。こういう細かい彫刻の仕事はほぼ全てムスリムの仕事である。サハーランプルはムスリム色の強い都市で、人口の40%はイスラーム教徒だ(インドの全人口に対し、ムスリムの人口は約10%)。




木彫品工場の様子


 その後せっかくだからということで、店に寄ってショッピングをした。僕は置き鏡を買った。50ルピーだった。




美しい木彫の小箱たち


 夕方7:50発のシャターブディー・エクスプレスでデリーに戻る予定だったが、座席がウェイティング・リストになっていて全員分取れておらず、5人があぶれてしまった。僕はそのあぶれた5人の1人だった。座席が取れた人たちはそのまま列車に乗ってデリーに帰ってもらって、僕たちはシュリーマティー・ラーム・ラーティ・グプター女子短大の厚意で用意してもらったジープに乗ってデリーに向かうことになった。デリーまで164キロ。途中夕食のためにダーバーで食事をしたりして、12時過ぎにはデリーに到着することができた。帰ってすぐに眠った・・・。



 4月20日付けの新聞のいくつかに僕たちの記事が掲載されていた。その中でもヒンディー語新聞のアマル・ウジャーラー紙のローカル版サハーランプル・ニューズに写真入りで僕たちのことが大々的に報道されていた。白黒写真だが、僕が女子学生たちと一緒にパンジャービー・ダンスを踊る写真が「外国人が踊る!」というキャプション入りで掲載されていた。遂に僕もインドの三面記事を飾ってしまったか・・・。以下、日本語訳。意味がよく分からなかったところは直訳してある。

菊池氏は語る:インドは自国の地方に技術的機会を調査すべき
カウンセラーはテロ対策に関してインドへの協力には触れなかった
 在インド日本大使館のカウンセラー菊池実氏は言った。「インドは自国の地方に技術的機会を調査すべきだ。」また彼は言った。「インドと日本の間の文化交流によって、両国間の関係はより強固なものになるだろう。」

 ジャーナリストとのインタビューの際、菊池氏は言った。「日本はインドを良き友人と考えている。両国がお互いの文化をさらによく理解し、より緊密な関係になれればと思っている。」「インドの農村部の女性たちがこの学校に対して自覚に目覚めたのを見て、この国の女性たちは他国の女性と比べても遜色のないと言うことができる。」「国家レベルでインドは日本と共に発展の多くの分野で協力していかなければならない。」

 菊池氏は言った。「昨年11月来印した日本の外務大臣は、インドと共にこれから関係をさらに緊密化していくために、日本がインドに経済面で貢献していくことを保証した。」日本のカウンセラーは、非武装に関して日本の政策、多くの国の核兵器使用の恐れ、テロに関するインドと日本の協力などの質問に対して細部まで立ち入ることを避けつつ、ただ「日本はインドを良き友達だと思っている」と述べるに留まった。
佐藤氏は語る:日本とインドの文化をさらに親密に
シュリーマティー・ラーム・ラーティ・グプター女子短大において女子学生たちの踊りに圧倒され、外国人出席者も身体を動かす
 ジャパン・ファウンデーションの副局長、佐藤幸治氏は言った。「今日、世界平和を確立することがもっとも必要である。インドと日本の間の親密な関係を持続させるために、両国の文化交流をさらに活発化させるべきだ。」

 佐藤幸治氏は今日シュリーマティー・ラーム・ラーティ・グプター女子短大において学位を得た女子学生たちのための卒業式に参加していた。主賓として在インド日本大使館のカウンセラー、菊池実氏もいた。この機会に女子学生たちは多くの文化プログラムを披露した。佐藤幸治氏は言った。「日本は500年(1500年の誤植?)の文化を今日でも遺産として受け継いでいる。ハイテク時代において、対等のパートナーとして歩んでいくため、両国の市民はお互いに共通の考え方に誇りを持っていかなければならない。」

 学校の理事長ギリラール・グプター博士は、卒業後に学校の生徒たちが多くの分野で成功しており、また素晴らしい業績を残していることを誇りに思うと述べた。彼は女子学生たちに、実りある人生を送るため、努力と思いやりを大切にするように説いた。校長のラージカマル・サクセーナー女史は、学校の主な目標は女性たちが近代的技術知識を習得すると同時に、経済的、道徳的、精神的な成長をすることであると述べた。彼女は学位を得た女学生たちに、学問習得と共に無私無欲になることを強調した。

 ニーラム・アグラワールの音楽指揮によって女学生たちは歓迎の歌と共にグループ・ダンスやパンジャービー・バーングラーなどのプログラムを披露した。女学生たちの魅惑的な踊りによって、日本人の出席者たちも一緒に踊ることを余儀なくされた。この前には、シプラー・アローラーによって灯火が捧げられ、式が開始された。また、日本の映画が上映され、学校の学生らによって工芸品も披露された。


4月23日(水) デリーの女性問題

 去年あたりから新聞によく「デリーのどこそこで女性がレイプされた」という記事が載っているのを目にする。果たして最近になって急増したのか、それとも発生数としては変わらず、表沙汰になることが多くなっただけなのか、よく分からない。だが、デリーは決して女性にとって絶対に安全な街でないことは確かだろう。しかしそれは東京だって同じことなので、デリー政府やインド人だけを責めることはできない。

 はっきり言って僕は真夜中1人でデリーの街を歩いていても、今まで危険な目に遭ったことは一度もない。真夜中、道端で警察に「お前どこから来た?どこへ行く?」と尋問されたことはあるが、強盗やレイプ(?)に遭ったことも遭いそうになったこともない。だから個人的には「デリーは安全な街」ということになっている。ただ、僕は身長が182.3cmあり、インド人レベルから見てもけっこう高い。痩せているのであまり強そうには見えないだろうが、大男には見えるだろうから、見た目で助かっている部分があるのかもしれない。しかし他の日本人の友人(男)に聞いても、デリーで何か命の危険にさらされたようなことはない。

 ところがやはり女性となると、いろいろ苦労があるようである。バスや電車の中の痴漢はどこの国でも同じだろうが、デリーで一番多いのがいわゆる視姦というやつだ。「いわゆる視姦・・・」と書いておきながら、視姦の定義が自分でもよく分かってないが、とにかくいろいろあるらしい。ずっと後をつけて来たり、ずっと見つめてきたり、ずっと待ち伏せしていたり・・・。ストーカーと括ってしまっていいのかもしれない。痴漢ならまだ意図がはっきりしていて対応しやすい部分もあるようだが、こういう行為は掴み所がないので余計イライラするようだ。

 インド映画を見ていると、ヒロインへのアプローチの仕方がけっこうストーカーすれすれの行為だったりすることがある。歌の歌詞を見ても「君がいなければ生きていけない」「君を愛するために僕は生まれてきた」などかなり狂おしい。しかしこれは予定調和の映画の中でやってるから許されるのであって、これと同じことを実世界でやるとけっこう迷惑なことになってしまう。実際、インド映画をお手本にしたような、インド人が書いたラブレターを見たことがある。まさに「君がいなければ生きていけない」の世界だった。インド人女性はこのぐらい恋に狂った男じゃないと受け付けないのだろうか?だが普通に考えたら迷惑だろう。いや、でもインド人の恋愛は基本的に烈火のごとく激しいのか?

 どうしても周りの環境の関係から、よくインド人と韓国人を比べてしまうのだが、韓国人の恋愛も激しい。よく言えばロマンチック、悪く言えば子供じみている。付き合いだした日から数えて100日記念、200日記念、300日記念などを祝ったり、誕生日には年の数だけ赤いバラの花を送るのが基本だったり、ペア・ルック至上主義だったりと、「まあよくやるわ」の世界である。そう考えると、世界的に見て日本人の恋愛はクールでニヒルな部類に入ると思う?

 とにかく日本人としての視線から見ると、インド人の恋愛は激しく思える。それがストーカー行為と関係あるのかもしれない。恋愛とストーカーは別であることは明らかであるが、どうもインド人の恋愛観にストーカーしてなんぼ、という考え方があるように思われる。インド映画の影響から、ストーカーしてればいつかは実を結ぶと考えている人もいるのかもしれない。ずっと後をつける行為にしても、向こうから決して話しかけてくることはなく、ずっと同じ距離を保ったまま尾行してくるそうだ。そんなことしてどうなる、と思うのだが、そうしていればいつか何かが起こると思っているのかもしれない。

 だが、インドは非常に見た目に左右される世界である。日本には「人は見た目に寄らない」という諺があるが、インドでは慣れてくると、とりあえず見た目でその人が金持ちか貧乏か、いい人か悪い人か、どの宗教の人かなど、簡単に分かってしまう。それを逆利用すれば、おそらく少し工夫するだけで、視姦、ストーカー被害などを防げると思われる。

 例えば、先日ヴァサント・ロークのマーケットを訪れた際、すごいものを見た。一人の女の子がマーケットから出て来たのだが、その子の顔は僕たちと同じモンゴロイド系(国籍は確認できず)、肌は白く、着ている服はミニ・スカートに胸の上半分丸見えの服という、インド離れした格好だった。すると、その女の子の周りにオート・ワーラーたちがハエの如く群がるわ群がるわ・・・。マーケットの前で客待ちしていたオート・ワーラー全員が一気にその女の子1人を囲んでしまった状態だった。女の子は非常に困惑していた。別にその娘をオートに乗せたからって、何かが起こるわけでないだろうに・・・。だが、無性に期待してしまう気持ちはよく分かる。何しろ僕も群がろうとしてしまったから・・・。

 それから導き出される結論は、やはり女性は過激な格好をしない、ということだろう。僕は絶対に女性の服装の過激化と、レイプ率の上昇は関連していると思う。最近デリーの若い女性の服装は西洋文化の浸透からか、かな〜り過激になってきた。もしデリーでレイプ件数が増加しているとしたら、それはまず女性側に責任があると思う。よくフェミニストっぽい人がよく、「女性の解放」「表現の自由」などを唱えて、「男が全面的に悪い」と反論するが、まだ女性の露出度が比較的低く抑えられており、それでいて次第に過激な服装をする女性が増えて来たデリーの実態を見ていると、そんなのは馬鹿げた戯言に思える。よく高校でも言われたものだ。「自由の裏には責任がある」と。日本人の女性は、もし視姦やストーカーに悩まされるようだったら、できればマニプリー人などのファッションを目指してなるべくインドの風景に溶け込む努力をすべきだと思う。僕などは既に「お前はインド人か、ネパール人か?」と二者択一の質問を迫られるぐらいインドに溶け込んでいるからトラブル・ゼロである(もっと選択肢をくれ・・・と毎回思うが。あと、「ジャーパーン」と言うと、「どこのジャーパーンだ?」と聞かれる)。

 ちなみに、女の子が夜中に道端でタバコを吸っていると、かなりの確率で周りから売春婦と見られる可能性が高いようだ。そういえば、タバコを吸う女性もデリーではここのところかなり増えて来た。

4月24日(木) さよーなーらー

 サンスクリト語から仏教伝播によって日本語になった言葉や、ヒンディー語から英語を介して日本語になった単語はけっこう多い。前者の例だと、セーワー(世話)⇒世話、カプラー(瓦)⇒瓦、ヴィシュ(毒)⇒ブス、カーマ(業)⇒オカマなどなど。後者の例だとパジャマ、ベランダ、カーキー色、バンダナなどなど列挙に暇がない。逆に日本語からヒンディー語になった言葉もある。人力車⇒リクシャーだ。他にも探せばあるかもしれない。インドと日本の文化交流の足跡が言語に残っていて面白い。

 また、別にヒンディー語にはなっていないが、インド人が必ず知っている日本語がある。それは「さよなら」である。

 1966年にインドで「Love In Tokyo」という映画が公開された。東京オリンピック(1964年)を成功させ、まさに高度成長時代へ突入せんとする日本でロケが行われており、当時の東京の街の様子が生々しく映っているので、僕たちの世代から見ると非常に新鮮、当時を生きた人々が見ると懐かしい、という日本人にはけっこう嬉しい映画である。街を着物を着て歩いている人が普通にいたり、高層ビルがあんまり建ってなかったり、交通量が全然少なかったり、旧型のバスが走っていたり、今のインドの地方都市とそんなに変わらない風景を見ることができる。

 「Love In Tokyo」はけっこうヒットしたようで、多くのインド人がこの映画のことを知っている。その中で歌われた有名な曲が「Sayonara」である。作曲はシャンカル・ジャイキシャン、歌詞はハスラト・ジャイプリー。歌手は大御所、ラーター・マンゲーシュカル。彼女のみずみずしいソプラノ・ヴォイスが「さよーなーらー、さよなーらー」と何度も繰り返すので、確かにすぐに「さよなら」という言葉を覚えてしまう。しかもヒロインのアーシャー・パレークが(全然似合っていない)着物を着て日本庭園で踊るので、そのインパクトはかなり激しい。




着物を着て「Sayonara」を踊る
アーシャー・パレーク


 先日、サハーランプルの女子大へ行ったとき、日本舞踊を教えた人が生徒から「「Sayonara」の歌に合わせて踊ってよ」と言われたそうだ。それを聞いて「こんな若い人まで「Sayonara」を知っているのか、と驚くと同時に、日本=着物=「Sayonara」という公式がインド人の頭の中で確立していることに改めて気付かされた。

 ところで明日、最後のテストがあり、29日か30日に卒業式になる。そのときにはアーグラーからも学生たちが来て、合同で式を行うそうだ。もちろんいつも通り出し物大会もあるようだ。アーグラー校の人たちは芸達者が多いので、デリー校の生徒も何かキラリと光る出し物をして迎え撃たなければならない。それで思いついたのが、「Sayonara」である。

 前述の通り、「Sayonara」はかなり有名な歌である。それを日本人が歌ったらけっこう楽しいかも、と思い出した。そもそも「Sayonara」はお別れの歌だから、卒業式で歌っても場違いではなかろう。というわけで、「Sayonara」の歌を探すことにした。

 残念ながら「Love In Tokyo」のCDはどうもリリースされていないようだ。カセットならあるかもしれないが、僕の家にはカセット・プレーヤーはない。そこでネットで検索してみると、ここで聴くことができた。早速聴き取りに入ったが、古い曲なのであまり音質がよくなく、聴き取るのがけっこう難しい。しかもラーター・マンゲーシュカルの声が高すぎて、何を言っているか分からない部分もある。今までいくつもの曲を聴きとってきたが、実はIndia FMBolliwoodLyrics.comなどのサイトに歌詞が載っているので、それを参考して簡単に書き下ろすことができた。だが、「Sayonara」は古すぎてどのサイトにも歌詞が載っていなかった。仕方ない、全部自分で聴き取るしかない。何度も何度も再生して、やっとなんとか意味がとれるような形にした。多分間違いが数箇所あるかとは思うが、その内直すだろう。「Sayonara」の歌詞は通例通り映画音楽歌詞集に載せてある。おそらく世界で初めて「Sayonara」の歌詞をほぼ完全な形でネットに載せたかもしれない(驚いたことに、ヒンディー語の知識がないにも関わらず一生懸命カタカナで聴き取って載せていたすごい日本人がいたが)。今回はカタカナで歌詞も載せておいた。

 歌詞を聴き取った後はギターで弾けるようにコードを拾っていく作業をしたのだが、どうもこの曲はC#のワンコードで進んで行っているので、なんかギターでコード弾きしてもあまり様にならない。実はけっこう難しい曲だったのかもしれない。果たして30日にこの歌を歌うかどうか、まだ分からない。現在練習中である。

4月24日(木) 最強のお客さん

 日本の最近の家屋というと、外界から完全に遮断された一種のシェルターのようなイメージがあるが、インドの家屋はドアや窓の隅に隙間が空いていたりするおかげで、必ず外界とつながっているような構造になっている。そのおかげでいろいろなお客さんがやって来る。お客さんと言ってもそのほとんどが虫類である。

 一番ポピュラーなお客さんは、ゴキブリ、蚊、ハエなどである。アヒンサー(不殺生)を遵守するために僕は基本的にあまり彼らを殺したりしないようにしているが、寝ようと横になったときに顔の辺りをブンブン飛ぶ蚊と、いつまでも居座っているゴキブリには死んでもらうことにしている。

 アリもよく部屋にやって来る。油断していると大行列を作って部屋を横断しているし、調子に乗って手足や急所を噛んで来るアリもいるので、タイミングを見計らって大虐殺を行うことがある。だが基本的に僕はラクシュマン・レーカーという薬を使って、アリが部屋に入ってこないように処置するに留めることが多い。

 夜、扉を開けっ放しにして電気をつけていると、蛍光灯などに蛾や小さい羽虫などがたかっているときもある。彼らの人生を見ていると本当に憐れで、自ら熱せられた蛍光灯に無謀にも自らぶつかっていき、その短い一生を終える者もあれば、パンカー(天井のファン)にはねられて死亡する者もいる。死骸は重力の法則に従って下に落ちてくるので、気付くとベッドが虫の死骸だらけになっていた、なんていう夏の一夜もあったりする。

 蜘蛛もけっこういる。いつの間にかいろんなところに巣が張られている。また、部屋の角に小さな繭のようなものがズラリと上下に並んでいることもある。これらは別に害はないのだが、部屋が貧しい雰囲気になるので定期的に立ち退いてもらうことにしている。

 インドではネズミはかなり一般的な部屋の同居者である。すごいスピードで部屋の隅を走り回る。食堂で見るネズミはあまり気持ちいいものではない。だがビーカーネール近郊にあるカルニー・マーター寺院(別名ネズミ寺院)へ行けば、ネズミに対する免疫ができるだろう。僕の部屋は5階にあるため、ネズミを見たことはない。ネズミは1階の部屋に多いようだ。

 これらのお客さんに比べたらヤモリなんてかわいいものだ。気付くと部屋の天井辺りでじっとこちらの様子を伺っている。ときどきクックックックと鳴き出すので面白い。

 ところが、本日とうとう最強のお客さんが僕の部屋にやって来てしまった。僕のベランダの天井に、蜂が巣を作りはじめたのだ。お客さんというより、居候を始めてしまった感じだ。何蜂かは知らないが、小さい蜂ではない。数えてみると蜂の数は4、5匹程度。巣の大きさはまだそんなに大きくない。だが放っておいたら巣が完成し、僕のベランダが蜂だらけになってしまって危ない。考えてみると蜂というのはゴキブリよりも厄介な存在だ。何しろ攻撃してくるのだ。もし猛毒を持っていたらやばい。僕はゴキブリよりも蜂の方が苦手だということが分かった。何とかせねば・・・ということで、朝から蜂との格闘が始まった。

 まずは蜂と戦える装備を確認する。肝心の殺虫スプレーは・・・アヒンサーを遵守するために捨ててしまった・・・。何か他に飛び道具になるようなものは・・・虫除けスプレーじゃあ武器にならないし・・・うぅ、ない・・・。あとはモップかホウキで突付くしかない。イラクから大量破壊兵器を預かっておけばよかった・・・。とにかく蜂と互角に戦えるような装備が部屋に準備されていなかった。

 しかしいざとなれば道端の石コロでも凶器になりうる。僕は500mlの空きペットボトルに目を付けた。最近マウンテン・デューという炭酸飲料が好きで、毎日1本は必ず買って飲んでいる。そのため、部屋の隅にはマウンテン・デューの空きペットボトルが山のように積まれていた。これだ、これしかない!

 僕はペットボトルに水を入れた。これを巣に向けて放り投げれば立派な武器になる。ベランダの扉を少しだけ開け、蜂の巣に向けてペットボトルを放り投げ、すぐに扉を閉めればいい。まるで対空砲火の届かない上空から空爆を行うアメリカ軍のような卑劣な作戦だ。しかし命には代えられない。早速第一発目のマウンテン・デュー爆弾を発射した。発射と同時に扉をバンッと閉じた。

 さて、ヒットしたかな、とほくそえんでいると、部屋の中からブンブンブンブンという音が。ぐわっ、いつの間にか一匹蜂が部屋の中に入っている!なんという不覚!蜂は蛍光灯の周りを狂ったように飛び回っていた。僕は新聞紙を丸めて蜂に近付く。蜂は蛍光灯のところにいるため、このまま叩いたら蛍光灯が割れてしまう恐れがある。容易に攻撃できない状態だ。まるで民家や病院に立てこもるイラク兵のようだ。しかし蜂の方が痺れを切らしたか、ついに蛍光灯から離れた。その隙に僕の新聞紙がうなった。蜂は敢えなく死亡。まず一匹仕留めた。

 さて、どうなっているかな、とベランダの扉をソロリと開けてみると、なんと以前よりも蜂の数が増えており、さらに急ピッチで巣の工事を進めていた。爆弾はヒットしなかったようだ。そこでもう1発、ペットボトル爆弾を発射。しかしうまく当たらない。もう1発、もう1発とやっている内に、僕の発射した爆弾がベランダの柵を越えて下に落ちてしまった。下からはド〜ンというけっこう大きな音がした。自動車のボンネットか何かの上に落ちてしまったようだ。さすが爆弾・・・。サブジー・ワーラー(野菜売り)が驚いて上を見上げている。幸い下を歩いている通行人には当たらなかったようだったからよかったが、作戦変更を余儀なくされた。

 こうなったら援軍に頼るしかない、ということで大家さんに相談。「ベランダに蜂が巣を作っている」と訴えたら、「なら蜂から家賃を取りなさい」と冗談を言われた。だが、お手伝いボーイのシャームーを送り込んでもらえることになった。

 シャームーはホウキを持つと、おもむろに蜂の巣に近付き、首尾よく巣を落として急いで扉を閉めた。僕はその間、バスルームに隠れて、じっと様子を見ていた。あっ、また部屋の中に1匹入って来ている!特攻蜂というのが存在するのだろうか、攻撃を受けると同時に突進してくる蜂が必ずいる。その蜂も狂ったように部屋の中を飛び回る。それを見たシャームーは、僕の靴下でパシパシと蜂を叩いて撃墜した。この蜂も見事な殉死を果たした。

 その後しばらくベランダの扉は閉めたままにしておいた。数時間後、もう一度シャームーが蜂の様子を確認しに来た。なんと蜂たちは巣のあった場所に再び巣を作り始めていた。なんという執念・・・。しかしシャームーも負けてはいない。再びホウキで蜂たちを蹴散らし、彼らの野望を見事に打ち砕いた。それ以後、蜂は僕のベランダに二度と姿を現さなかった。

4月27日(日) 今日はいい天気

 昨夜は雨が降り、今日もうっすらと曇り気味、日中にパラパラと雨が降ったため、今日一日朝から非常に過ごしやすい気候だった。だから今日の挨拶は「いや〜、今日はいい天気ですね〜」である。インドでは曇りや雨の日が「いい天気」なのだ。それにしても今日は本当にいい天気だった。

 インドの4月5月といったら酷暑期と呼ばれているくらいすさまじい暑さだ。気温は40度を越える。気温が体温を超えると一気に体感温度が増すものだ。しかも最近のデリーではエアコンを持っている家庭が増えて来たため、みんなで電気をバンバン使い、許容量をオーバーして停電、扇風機すら回らない・・・というシャレにならない状況がアチコチで繰り返されている。たとえ電気が来ていようとも、電圧が低くてパンカー(天井のファン)の回転速度が秒針程度くらいしかない、というのは日常茶飯事だ。さらに悪いことには、水の使用量も増えるために、水不足になって水すら出なくなることもときどきある。この酷暑期には、気温が40度を超し、電気が来ず、水も出ない、という極限状態をデリー市民は何度も乗り越えなくてはならないのだ。

 僕の部屋は建物の一番上にあるので、屋上に当たる日光によって日中はサウナのように暑くなる。全てが暑い。そして熱い。全ての物体が熱を持つ。衣服もぬるい、ベッドもぬるい、蛇口の水もぬるい、シャンプーもぬるい、歯磨き粉もぬるい、何もかも熱を持っている。まるで命が吹き込まれたかのように・・・。PCなどは元々自ら熱を発するので、キーボードを打っているとき、まるで鉄板の上に手の平を置いているかのように感じる。

 食欲もない。冬には大好物だったモモ(チベット風餃子)だが、今はそんなもの見るのも嫌だ。というか、肉に対する食欲が極度に下がる。やはりヴェジタリアン料理がいい。特に南インド料理が一番いい。唯一の救いはマンゴーだ。だんだんおいしいマンゴーが出揃ってきた。今は赤みのあるマンゴーが甘くておいしい。しかしまだマンゴーの本格的シーズンではない。まだまだおいしいマンゴーが出てくる。カボチャのような外見をしたメロンもおいしい。

 しかし案外気温が40度を越えても、それほど過ごしにくくはないものだ。乾燥しているので日陰は涼しいし、汗をかいたところに風が吹くとサァッと乾いて気持ちいい。日光は刺さるように痛いが、特に美白に気を使っているわけでもないのであまり気にしない。夜はシャワーを浴びてパンツ一丁になって眠ればなんとか眠れる。しかもいざとなったら外で寝るという最後の切り札を僕はまだ温存している。蚊も暑すぎてあまりいない。

 どちらかというと、日本の夏の方が過ごしにくいのではないかと思う。僕はもう2年ほど日本の夏を体験してないのだが、あの湿気は非常につらい。インドの夏には日陰という逃げ道があるが、日本の夏に逃げ道はないような気がする。もちろん最近では扇風機やエアコンという文明の利器が登場し、社会科の時間には日本の気候を「温暖気候」などと呼ぶ余裕が出て来ているが、もし電気がなかったら、ということを考えてみると、もしかして日本の夏の方が暑さでは勝っているのかもしれない。

 前述の通り、今日は雨が降って久しぶりに涼しいくらいの気候になったので、外を歩くインド人の数も普段より多い。僕も夕方の散歩を少しした。それにしてもこの時期に雨が降るのは珍しい。もしかして今年の雨季の雨量は多いかもしれない。インド経済は雨経済である。雨季にまとまった雨が降れば農業が安定し、農業が安定すれば経済全体が上向きになる。今年のインド経済はけっこう伸びるかもしれない。ただでさえ中国、東南アジアではSARSの影響で深刻な打撃を被っており、経済界の目が「中国、東南アジアが駄目なら、あとはインドだ」ということでインドの方へ向き始めているらしい。このままSARS騒動が長引き、インド経済が順調に発展するようなことがあれば、アジア経済の中で思ったよりも早くインドが台頭して来ることもあるだろう。

4月28日(月) ブータン大作戦

 4月30日から夜行列車に乗ってアッサム州の主要都市グワーハーティー(アッサム州の州都はグワーハーティーの隣にあるディースプル)へ向かう。1ヶ月ほど念願だった東北インドを旅行する予定だ。

 インドにはいろんな特色を持った地域があるが、東北インドはその中でも特に異色の存在だ。インド東北部にはセブン・シスターズと呼ばれる7つの州――アッサム、メーガーラヤ、トリプラー、アルナーチャル・プラデーシュ、ナーガーランド、マニプル、ミゾーラム――の他、スィッキム、西ベンガル州、そしてバングラデシュやブータンなどの隣国がある。インドの東端の国境は東南アジアに分類される国ミャンマーと接しているのだが、インド文化の境目は西ベンガル州からバングラデシュあたりにあるのではないかと思う。その境界を越えると、そこは全くインドとは別の文化圏になってしまう。つまり、西ベンガル州を越えるともう東南アジア文化圏に入るのだ。さらに面白いのは、全く別、というより、全く正反対の文化圏なのだ。

 まず、東北インドの主な人種はモンゴロイドである。日本人とそっくりなのはスィッキム人。肌の色も白いので、ほとんど日本人と見分けがつかない。アッサム州から東の人々は肌が黒いことが多く、女性は化粧の仕方に特徴があるため、日本人と見間違うことはあまりない。どちらかというと、タイ人などに近い雰囲気だ。また、インドが父系社会なのに対し、東北インドでは母系社会の習慣が色濃いらしい。インドでは財産は男に分配されるが、東北インドでは女性に分配される、という話を聞いたことがある。そして性には保守的な風潮の多いインドの中にあって、東北インドではフリーセックスの習慣があるという噂もある。また、東北インドでは英語がよく流通している。デリーにいる東北インド人の英語を聞くと、インド訛りがない本場っぽい英語、という感じがする。

 ただ、東北インドは独立運動やゲリラなどの影響により、あまり外国人旅行者が簡単に入って行けない地域である。現在アッサム州、メーガーラヤ州、トリプラー州はパーミッションなしで行くことができるが、スィッキム州は相変わらずパーミッションが必要だし、ミャンマーと国境を接するアルナーチャル・プラデーシュ州、ナーガーランド州、マニプル州、ミゾーラム州の4州は基本的に外国人は個人で立ち入れないことになっている。

 僕の今回の目的地はアッサム州、メーガーラヤ州、スィッキム州と、西ベンガル州北部のダージリンやマルダーなどである。それに加え、どうせならブータンにも足を伸ばしてみようと思い始めた。なぜならブータン大使館にコネができ、以前是非ブータンに来なさいと言ってもらえたからである。

 ブータン――「ブー」と「タン」・・・まず音の響きがおかしすぎる。マスコットは自動的に豚に決定しそうだ。ブータン好きな人は一般にブタ吉と呼ばれているらしい。ブータンはヒマーラヤ山脈の東端に位置する王国で、その地理的要因からずっと独立と鎖国を保ち続け、近年まで外国人にはほとんど開かれていなかった神秘の国である。国教は仏教。日本人にはマイナーな国と思いきや、日本との関係はけっこう深く、経済援助や貿易が行われており、毎年訪れる観光客も日本人が一番多いようだ。親日的な国であることが想像できる。

 ところがブータンを旅行するために最大のネックとなるのが、その旅行代金の高さである。ブータン旅行には国定料金が定められており、ハイ・シーズン(3月〜5月、9月〜11月)で1日200USドル、オフ・シーズン(6月〜8月、12月〜2月)で1日165USドルとなっている。個人旅行は基本的に不可能で、旅行代理店のパッケージ・ツアーに参加する形でないとヴィザは下りない。つまり今の時期1週間旅行をしたら、最低1人1400USドルかかり、それに旅行代理店の手数料や、飛行機代などが加算される。非常に高い。普通の人が考えたら、これだけ大枚はたくよりも、バンコクで豪遊するか、モルディブへの旅行を計画するだろう。

 だが、僕は敢えてブータンの個人旅行に挑戦することにした。今日は事前にアポイントメントを取ってから、チャーナキャープリーにあるブータン大使館を訪れた。純ブータン様式の建物で、他の大使館と比べても遜色ないくらい立派な大使館である。ブータン大使館で知り合いの人と相談した結果、観光目的は「Visiting Friend」ということで、旅行者だけど旅行者ではない、という扱いでヴィザを発行するように取り計らってもらえることになった(一応ブータンにも知り合いがいる)。だが、一旦申請がブータンの首都ティンプー(Thimpu)へ行き、そこで最終的な決断が下されるので、成否は分からない。なるべく出発前に分かるといいのだが。

 いろいろブータンの旅行情報について教えてもらった。インドから陸路でブータンに入国する場合、インド側ではジャイガーオン、ブータン側ではプンツォリン(Phuentsholing)が国境の町ということになる。ニュージャルパーイーグリー、スィリーグリー、カーリンポーンから簡単にアクセスできるようだ。プンツォリンからティンプーまでは頻繁にバスが出ており、はっきり言って一度ブータンに入国してしまえば、個人旅行はいとも簡単にできてしまいそうな雰囲気である。しかもブータンではインド・ルピーがそのまま使用できるそうだ。ブータン固有の通過はヌルタム(Ngultrum)といい、補助単位はチェタム(Chetrum)という。

 ブータンの正式国名はドゥク・ユル(Druk Yul)。「雷竜の国」という意味らしい。面積は46500平方Km、ほぼ九州と同じくらいの大きさ。人口は70万人(2001年統計)。立憲君主制をとっており、現在の国王はジグメ・シンゲ・ワンチョク(Jigme Singye Wangchuck)。GNP(国民総生産:Gross National Product)の成長よりもGNH(国民総幸福量:Gross National Happiness)の成長を目標に掲げたユニークな政策をとっている。民族構成はチベット系40%、ネパール系35%、その他が25%を占めている。言語はゾンカ語(Zhongka)、ネパール語、英語が主に使用されている。

 ブータンの観光資源というと、まずはおそらく自然と文化、ということになるだろうが、遺跡好きな僕にとってはゾン(Dzong)巡りが楽しみである。ゾンとは寺院兼行政施設兼要塞のようなもので、ブータンの交通の要所要所に造られているようだ。ブータンの主な見所は首都ティンプー、かつての冬の都プナカ(Punakha)、パロ(Paro)、ブムタン(Bumthang)、ワンデュ・ポダン(Wangdue Phodrang)、トンサ(Trongsa)などなどのようだ。首都ティンプー周辺のゾンを廻ることができればいいと思っている。

 ただ、悲しいことに、ブータンの歴史を見てみると、けっこう抗争が繰り返されていることが分かる。ブータンというとのどかで平和な国、というイメージがあるのだが、やはり人間の住む場所に争いは絶えないようだ。しかもブータンの歴史は仏教の歴史とほぼ等しい。結局仏教も他の宗教と同じく、争いの道具として利用されてきたと思うと、さらに悲しい気分になる。ブータンではもともとボン教が信仰されていたようだが、2世紀頃に仏教が伝来し、8世紀にインドからパドマサンバヴァという高僧がやって来たことにより、仏教が定着することになった。ところが次第に仏教諸派が乱立するようになり、お互いに抗争を繰り広げることになった。17世紀に初めてブータンで統一王朝ができるが、同じ時期にチベットとモンゴルの連合軍の攻撃にさらされることになる。18世紀に入るとブータンはインドに進出していたイギリスと良好な関係を保つようになる。ところが19世紀に入ると再び内乱状態となり、しかも領土問題からイギリスと戦争を行って敗北し、ブータンは南部の領土を失うことになる。その後19世紀末に再びブータンを統一したのがウゲン・ワンチュクで、彼が現在のブータン王国王家の創始者となっている。現国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクは4代目である。

 いざ旅行をしようというときにいろいろ気になることはあるのだが、その中でも重大な関心事は食べ物であろう。果たしてブータン人は何を食べているのか?今回ブータン大使館へ行くときも、何か日本食のお土産を持っていこうと思ったのだが、いったい彼らは何を食べているのかよく分からなかった。結局Yamato−yaで羊羹を買って行ったが、あの味を好むかどうかは分からない。調べてみたところ、どうも主食は米のようで、しかも赤飯のような赤い米らしい。さらに、ブータン料理はチリをたくさん使うためにかな〜り激辛のようだ。もしや向こうで餓死するかもしれない・・・。口に合う食べ物があればいいが・・・。

4月30日(水) 卒業式

 今日はケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの卒業式だった。アーグラー校の生徒たちもデリーに来て、合同で卒業式が行われた。

 2時から開始とのことだったが、やはりなんだかんだ準備に手間取って、結局3時から式は始まった。人材開発省(日本の文部省にあたる)からも賓客が来ていた。ところが生徒も教師も終始なんかそわそわざわざわしていた。もしこれが成人式だったら、絶対にどこかの市長が「けしからん!」と怒鳴っていたところだ。しかし式はまるでインド古典音楽のように何となく始まって行った。

 まずは学問の女神サラスヴァティーへ灯火が捧げられる。その後は賓客のスケジュールが詰まっていたためか、式は超スピードで進んで行った。従来の式では生徒たちがいろいろ出し物をするのだが、今回はごく限られた人しか機会を与えられなかった。というわけで、僕も「Sayonara」は歌わなかった。あまり練習していなかったので、ちょうどよかった。

 今日は先日行われたテストの結果も返してもらえた。各校上位3位の人はみんなの前で結果を返してもらえる。僕は残念ながら同じクラスのロシア人に負けてしまい、2位だった。12月のテストでは僕が僅差で勝ったのだが、今回は僅差で負けてしまった。

 サンスターンでは毎年卒業文集のようなマガジンを卒業式の日に発行している。学生たちがエッセイやら詩やらを書いて寄せ集めて一冊の本にするのだ。僕は太宰治の「走れメロス」を1、2ヶ月くらいかけてコツコツとヒンディー語訳して載せておいた。インド人に「他人を信じることの大切さ」を伝えようという目的があった。彼らがどういう感想を持つか楽しみである。

 式は5時頃に終わった。学生たちはお互いに写真を撮り合ったり、住所を交換し合ったりしていた。僕も数人と写真を撮ったが、今日の夕方には夜行列車に乗らないといけないため、長居は出来なかった。キリをつけて帰った。この日記をアップデートしてすぐ僕はデリーを発つ。おそらく次回更新は1ヵ月後くらいになるだろう。




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