スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2003年8月

装飾下

|| 目次 ||
分析■2日(土)マイカー時代到来
生活■4日(月)ガウタム橋崩落
映評■5日(火)3 Deewarein
生活■5日(火)グルガーオンの3モール
生活■7日(木)授業開始
分析■8日(金)孤独恐怖症
分析■9日(土)デリー・メトロ
映評■11日(月)Koi... Mil Gaya
分析■13日(水)恩の文化差
分析■14日(木)二食制
分析■15日(金)地域別貧困度測定法
映評■17日(日)Footpath
生活■18日(月)グルクル大学
分析■21日(木)ガーンディーの3匹の猿
映評■23日(土)Hungama
映評■25日(月)Mumbai Se Aaya Mera Dost
生活■26日(火)本を求めて三千里
生活■31日(日)ピーリヤー


8月2日(土) マイカー時代到来

 最近のデリーは本当に自動車が急激に増えてきた。毎年30万台の新車がデリーで売れているという話を聞いたことがある。インドではまだ自家用車を持つことは当たり前ではないが、だんだん自家用車を買うだけの経済力が都市部の各中流家庭についてきているのも確かであり、この数字の大部分は1台目の新規購入だと思われる。また、買い替えにしても、中古車市場と修理市場と「動けば問題ない」主義の発達しているインドでは、どんなにオンボロの自動車でも本当に動けなくなるまで使用するので、毎年30万台新車が売れているということは、つまりデリーの自動車台数がそのまま30万台ずつ増えているということに等しいだろう。

 というわけで、自動車でデリーを移動すると必ずと言っていいほど渋滞に巻き込まれる。この状態を見越してデリー政府は積極的にフライオーヴァーと呼ばれる高架橋を主要道路の交差点に建設しているが、その工事がまた渋滞を巻き起こしているし、フライオーヴァーが完成すると、今度はその交差点の周辺部分に渋滞ポイントが移動するという悪循環に陥りがちである。僕の住む地域のそばにも、かつて大渋滞ポイントとして名高かったメディカル交差点がある。その名を聞いただけでオート・ワーラーは顔をしかめて迂回するという、鳴り物入りの渋滞地域であった。この交差点を通過するのに最悪何十分要したことか。今ではウッタル・プラデーシュ州の工事会社のおかげで、まるで日本の高速道路のインターチェンジのような、デリーで一番立派なフライオーヴァーが完成しており、渋滞は完全に解消された。ところが今度はそのメディカル交差点の周辺部――北はINAマーケット、東はサウス・エクステンション、南はユースフ・サラーイ、西はサフダルジャング・ホスピタル――の道が慢性的な渋滞に見舞われている。渋滞はガン細胞のように転移する!

 デリーにマイカーが急増したことを感じるために、夜、高級住宅街を散歩してみてもいい。ヴァサント・ヴィハールなどは一軒一軒が大豪邸なので問題ないが、グリーン・パーク、グレーター・カイラーシュ、ニューフレンズ・コロニーなどの高級密集住宅街へ夜に行ってみると、道の両脇には隙間がないくらいビッシリと自動車が並べられている。僕の住むガウタム・ナガルも、てっきり中級住宅街だと思っていたのだが、夜になってみるとけっこう自動車があちこちに停まっており、けっこうリッチな地域なのかもしれないと思い始めている。

 このまま自動車数が増加していったら、その内道路が自動車で埋まって動けなくなることは目に見えている。ただ、そんな自動車地獄のデリーでも不幸中の幸いがいくつかある。まず、デリーのマイカーの主流は小型車であることだ。マールティ・スズキ社のZEN、ターター社のIndica、ヒュンデイ社のSantroなど、軽自動車が一番の売れ筋だ。おかげで自動車台数が増えたと言っても、自動車が占拠する面積はそれほど大きくない。ただ、だんだんとセダン車に流行が移行しつつあり、RV車も売れているので、このまま行ったら本当に自動車が道を埋め尽くすこともありうる。

 道が広いのもデリーが救われているポイントだ。特に南デリーなどはゆとりある道幅が確保してあり、幹線だったら必ず片側3〜4車線くらいはある。とは言っても車線など誰も守っていないし、車線が必ず書かれているとは限らないので、要するに自動車が3〜4台通れるくらいの道幅が片方ずつにあるということだ。また、公共機関の燃料のCNG(圧縮天然ガス)化が完了したので、空気も以前に比べたら断然よくなった。渋滞とは直接関係ないが、緑が多いのもデリーの道路のいいところだと思う。

 ただ、デリーの道路は問題だらけであることも否めない。ヴァージペーイー首相が「道路に穴があるのか、穴の間に道路があるのか」と語ったほどデリーの道は穴だらけだ。なぜ穴ができるのか理解に苦しむが、ある日突然大穴が開いていることが多い。道路の作り方が悪いのか、よっぽど重い自動車が通っているのか・・・。また、スピード・ブレーカーと呼ばれる隆起が至る所に設置されているので、スピードを出すと穴につまずいたり、スピード・ブレーカーに乗り上げたりして危険極まりない。牛も問題だ。道路の真ん中に牛が寝ていたりすることはインドのどこにでもある風景であり、デリーでも例外ではない。特に夜間の黒牛はまさに死の象徴。突然ヘッドライトの中に牛が現れ、そのままぶつかって牛もろともお陀仏というケースも多いと言う。交通マナーも最悪だ。日本のような譲り合いの運転をしていたらかえって危ないくらいの弱肉強食の交通。交差点はまさに命がけで、信号が停電で消えると、一斉に四方の自動車が交差点に突っ込む有様。インド人はいつもハイ・ビームを使うので、夜は対向車線のライトで何も見えなくなる。駐在員などは運転手に運転させていることがほとんどだが、それが正解だろう。長年インドで自動車を自ら走らせているある日本人は僕にこう語った。「インドでくれぐれも自動車を運転するなよ。」

 マイカー激増中のデリーにあって、その問題解消のキーとなりうるのがデリー・メトロだ。現在は北デリーと東デリーを結ぶ一部区間しか開通していないが、これが将来的には全デリーを網羅する交通機関となる。バンコクでBTS(高架市内電車)が交通渋滞解消に役立ったように、デリーでも効力を発揮することが期待されている。デリー・メトロ全線開通がいつになるのかは神のみぞ知るが、自動車で道が埋まる前に完成することを祈っている。

 これだけ自動車が増えてくると、おそらく今度は駐車場の土地確保がすぐに問題として急浮上してくるだろう。今のところ道端に停めている家庭が多いが、その内日本のように駐車場所に厳しくなってくることが予想される。そうなってくると、駐車場ビジネスが儲かりそうだ。ある程度の土地さえあれば簡単にできるし、その気になれば立体駐車場や地下駐車場も作ることが可能だ。現在、マーケットなどの駐車場、駐輪場は、チンピラみたいな男どもが仕切っている場合が多く、あまりカーストの高い商売ではない。しかしデリーでクリーニング屋が雨後の筍のように乱立している現状を考えると、案外カースト感の克服なんて簡単なのかもしれない(もともと洗濯屋カーストは最下層である)。最近のデリーは経済で動いている部分が多い。儲かると思えば何でもするという雰囲気が出てきて、やっとビジネスしやすい都市になってきたという。

 最近のデリーでは自動車数の増加は非常に目に付くが、その一方で、マイカーの増加に反比例して減少しており、非常に気になっているのが牛の数である。気のせいではなく、着実に牛の数が減っている。いったいどうなっているのだろうか?確かに牛は交通の障害となるが、牛がデリーの街からいなくなったら、それはそれで寂しい。インドに初めて来た人が、道路に横たわっている牛を見るとけっこう感動するそうだ。夜の黒牛は本当に怖いが、牛の粛清はほどほどにしてもらいたいと思っている。

 そういえば今日、近所を歩いていたら面白い光景に出くわした。家の扉の前に牛がドデンと座り込んでしまい、住人が家の中に入れずに困っていたのだ。必死に牛をどかそうとするのだが、牛は住人の困惑などどこ吹く風で、呑気に辺りを見回していた。通り過ぎながら思わずクスクスと笑ってしまった。こんな面白い国は他にはないだろう。やっぱり牛はインドの道に必要だ!

8月4日(月) ガウタム橋崩落

 昨日未明、グジャラート州のスーラトで住居用ビル3棟が倒壊した。1階にあった工場で何かが爆発し、その影響で他の2棟も崩れたらしい。デリーでも最近毎日雨が降っているため、老朽化した建物が倒壊したという話を時々聞く。

 ところで、ガウタム・ナガルの西側には、幅5mほどのドブ川が流れている。大量のゴミが投げ捨てられ、真っ黒な豚がゴミを漁っているその川は、見ただけで吐き気を催す。この川の豚は、「インドで決して豚肉は食べまい」と決心させるに十分な迫力を持っている。ともすると肉食主義者を菜食主義者に改心させてしまうかもしれない。まさかインドの豚肉は野生の豚ではなかろうが、この川の豚が何者かによって捕獲されている場面の目撃情報もあり、さらに慎重な検証が必要である。少なくとも僕は基本的に出所の知れない豚肉はインドでは食べないことにしている。同郷者を食べてしまうかもしれないから・・・。

 このガウタム・リバーは、ガウタム・ナガルと、メイン・ロードや大きな市場のあるユースフ・サラーイを隔てており、その間には1本の橋が架かっている。自動車がやっとすれ違えるくらいの小さな橋だが、市場と大通りに続く重要な交通の要所なので、いつも人や自動車が往来している。その橋が、ちょうどスーラトのビルが倒壊した日に崩落してしまった。

 崩落と言っても全体が完全に落ちたわけでなく、今のところ橋の端が崩れ落ちてしまっただけだが、そのまま引きずられるように全体が崩れてしまう恐れも十分ありうる。地震や台風のせいでこうなったならまだ納得がいくが、どうも周りの人の話を聞くと、自然に崩れてしまったらしい。今まで毎日のように通っていた橋だけに、その崩落現場を見たときはさすがにギョッとした。しかもその崩れかけの橋の上を、人々は何事もなかったかのように通っていく。一応自動車は通行を止められていたが、バイクは余裕で通れるようになっていた。当然のことながら人々の通っているのは、崩れていない方の端なので、今度はそちら側に重さがかかっていることになる。だから次にそちら側が崩壊してしまってもおかしくない。とは言いつつも、僕も余裕でその橋を渡って行ったが。いちいち細かいことを気にしていたら、インドでは生きていけない。




ガウタム橋崩落現場


 インドの建物は、日本とは比べ物にならないくらい貧弱に造られている。鉄の棒で骨組みを作ってコンクリートで固め、レンガを積み上げるだけだ。日本は地震の多い国なので、建築も自然と丈夫になるのだが、それを差し引いてもインドの建物は心もとない。インドの建築現場を見ていると、こんなに簡単に家が造れるものなのか、と感心してしまうぐらいだ。僕の住んでいる家も特別頑丈に造られているわけではないので、いざとなったらやばいだろう。

 今のところ目に見えてやばそうなのは、デリー各地に造られたフライ・オーヴァーである。主要道路の交差点の渋滞解消のために造られたのだが、これがかなり手抜きのようで、いつ倒壊してもおかしくないものが多いらしい。幸いデリーはそんなに地震の多い場所ではないのだが、地震が全くないわけではない。何しろインド亜大陸はユーラシア大陸へ果敢にも突っ込み続けているのだ。ヒマーラヤ山脈はかつて海の底であったことはあまりにも有名である。もしデリーで大規模な地震が起こったら、一面瓦礫の山と化すことは火を見るより明らかだ。まあ、そんなこと心配しているインド人なんて一人もいないのがまたいいところなのだが。

 とりあえずガウタム橋崩落は身近な問題である。オート・リクシャーが橋を通れなくなってしまったので、橋を渡ってからオートを探したり、別のルートから家の近くまでオートで来ないといけなくなった。いつも橋の上で営業していた靴磨き屋などはどこへ行ったのだろうか、などと心配してしまったりもする。復旧するのはいつだろうか・・・。

8月5日(火) 3 Deewarein

 先週の金曜日からデリーでは3つのヒンディー語映画が封切られた。アジャイ・デーヴガンとラーニー・ムカルジー主演の「Chori Chori」、アクシャイ・カンナーとシルパー・シェッティー主演の「Hungama」、そして「Oops」である。ところが、ポスターや紹介文を見たところ、どれもお気楽なコメディー映画という雰囲気で、あまり見たい気持ちは起こらなかった。実はこの3本の他にもう1本、ヒンディー語映画が公開された。「3 Deewarein(3つの壁)」。予告編を見てけっこう楽しそうだと思ったのだが、なぜかデリーでの公開はグルガーオンにあるPVRメトロポリタン(PVRグルガーオン)のみ。普通、縮小公開される映画にロクな映画はない。デリーでは、とんでもなくつまらない映画は全く上映されないということもある。だが、予告編を見て感じた「これはいい映画だ」という自分の直感を信じ、先週に引き続いて今日もはるばるグルガーオンを訪れたのだった。

 「3 Deewarein」のキャストは、ナスィールッディーン・シャー、ジャッキー・シュロフ、ナーゲーシュ・ククヌール、ジューヒー・チャーウラー、グルシャン・グローヴァーなど。ナスィールッディーン・シャーは「モンスーン・ウェディング」に出ていた演技派俳優、ジャッキー・シュロフやジューヒー・チャーウラーはボリウッド映画でお馴染みの人気俳優で、グルシャン・グローヴァーは癖のある悪役として定評のある曲者俳優である。ナーゲーシュ・ククヌールは「Hydrabad Blues」や「Bolliwood Calling」などの傑作ヒングリッシュ映画の監督で、今回はヒンディー語映画の監督と主演を兼任する。




左からナスィールッディーン・シャー、
ナーゲーシュ・ククヌール、
ジャッキー・シュロフ


3 Deewarein
 監獄の長官モーハン(グルシャン・グローヴァー)は、「監獄は動物の檻ではなく囚人たちの家である」という哲学のもと、囚人たちに仕事をさせて金を儲けさせ、その金で監獄を運営していくという斬新な方法を試験的に実施していた。ある日、監獄にチャンドリカー(ジューヒー・チャーウラー)という女性がやって来る。監獄と囚人をテーマにしたドキュメンタリー映画を撮りたいと言う。長官は乗り気ではないものの、その実験の成果を宣伝するために彼女が監獄に出入りして囚人にインタビューすることを許した。

 チャンドリカーは3人の囚人をインタビュー相手に選んだ。1人はジャッグー(ジャッキー・シュロフ)。妻を包丁で惨殺。元弁護士、無口で料理が上手く、詩を作るのが趣味。1人はナーギヤ(ナーゲーシュ・ククヌール)。妻を道路に突き落として車に轢かせて殺害。元会計士で笛を吹くのが趣味。1人はイシャーン(ナスィールッディーン・シャー)。銀行強盗をし、かつ従業員を射殺。脱獄の常習犯で口の達者な男。

 ジャッグーはあまり多くを語らず、ただ死を待つばかりだと述べるのみだった。ナーギヤは無実を主張していた。彼の語るところによると、道路を渡ろうとして待っていたときに、妻が小言を言い始めた。それをイライラしながら聞いていたときに突然妻が道路に倒れ、自動車に轢かれて死んでしまったと言う。しかし報告書では彼が故意に押して殺したことになっていた。彼は次第にチャンドリカーに惹かれ、なんとかドキュメンタリー映画で自分の無実を世間に訴えて欲しいと頼む。一方、イシャーンも無実を主張する。彼は銀行強盗の常習犯だったが人を殺したことはなかった。だが、そのときはつまずいて誤って銃を放ってしまい、妊娠中だった女性従業員を射殺してしまったと語る。そして、今度も脱獄することをちらつかす。

 チャンドリカーと3人の囚人の交流は、4人の人間関係を次第に緊密なものにしていく。そしてインタビューを重ねるごとにイシャーンに興味を持ったチャンドリカーは、その脱獄に手を貸すことにしたのだった。

 1月26日共和国記念日。監獄でも記念式典が開かれている中、イシャーンはまんまと脱獄する。一方、ジャッグーの死刑執行の時間が迫っていた・・・。この後あっと驚く展開が待ち受けている。

 普段は結末まであらすじを書くのだが、この映画の場合は書かない方がいいだろうと思い、途中で止めておいた。監獄が舞台のシリアスなヒンディー語映画で、ミュージカル・シーンなど一切なし。俳優たちの演技と最後のどんでん返しが小気味よい佳作だった。こういう優れた映画がインドで作られ始めたと書くべきか、作られていたのだが、やっと一般にも公開されるようになってきたと書くべきか。最近はシネマ・コンプレックスがデリーのあちこちに建っているので、だんだんいろんなジャンルの映画を楽しめるようになって来たのが嬉しい。

 この映画のセリフの理解度は他のヒンディー語映画に比べて低かった。ボリウッドのメジャーなヒンディー語映画では、俳優たちがスタンダードなヒンディー語をしゃべってくれるので理解しやすい。しかしこういう写実的映画では、スラングに近いようなヒンディー語で会話が進むので、聴き取るのに苦労する。本当はこういうヒンディー語も聴き取れるようにならないといけないのだが、なかなか難しい。

 題名「3つの壁」とは、どうも監獄のことのようだ。四方を壁に囲まれてはいるものの、入り口が一方にあるため、3つの壁という訳だ。3人の囚人ともかけてあるかもしれない。

 「モンスーン・ウェディング」を見たときにナスィールッディーン・シャーはいい俳優だと思ったが、この映画を見てさらにその感嘆は深まった。映画のスクリーンに染み込むような上手い演技をする。あまりメジャーな映画には出演しないが、彼の映画だったら見てみたいと思わせてくれる人である。ジューヒー・チャーウラーは少し違和感があった。ボリウッド映画で彼女の姿をたくさん見すぎているため、彼女の大きく魅力的な目を見ると、今にもウインクして踊りだすんじゃないかと不安になってしまう。ジューヒー・チャーウラーはもう30を過ぎただろうか。けっこう太ったな、という印象を受けた。ジャッキー・シュロフはいつもとあまり変わらないような役柄だったが、これが地なのだろうか。ナーゲーシュ・ククヌールは監督をしながらも名演をしていた。

 映画を見ていて初めて知ったのだが、インドでは共和国記念日に囚人の恩赦が行われるようだ。毎年数人の枠しかないのだが、囚人たちは皆この日を楽しみにしている。だが、囚人の中には生活が保障されている監獄で一生住みたいと思う人もいるようで、恩赦を受けた途端、いきなり殺人をして「これでまたここにいれる」とつぶやく者も映画の中にいた。

 インドの監獄というともっと陰湿で閉鎖的なイメージがあるのだが、この映画では囚人たちは大部屋に雑魚寝しており、けっこう快適な生活を送っていそうだった。一応監獄の長官がリベラルな考え方をしているという設定だったのだが、実際のところはどうなのだろうか?

 チケットを買うときに、チケット売り場の兄ちゃんが「いい映画だよ」と言っていた。僕もいい映画だと思った。なぜPVRグルガーオンのみで公開なのか疑問に思う。外国の映画祭にも出品されて高い評価を得ているようなので、もっと拡大公開をしてもらいたい。去年はヒングリッシュ映画と呼ばれる英語のインド映画が大隆盛したが、今年はもしかしたらヒンディー語の良質な映画がもっと登場するかもしれない。

8月5日(火) グルガーオンの3モール

 映画「3 Deewarein」を見るためにグルガーオンを訪問した。

 今回でグルガーオン訪問は2度目になった。だいぶデリー〜グルガーオンの交通が分かってきた。前回(7月30日)はダウラー・クンアーでグルガーオン行きのバスに乗って、グルガーオンのIFFCOチョークで降りた。今回はメヘラウリーからグルガーオン行きのバスに乗って、グルガーオンのサハラ・モール前で降りた。メヘラウリーはメヘラウリーでも、メヘラウリーのバス停からバスは出ておらず、クトゥブ・ミーナール近くのアヒンサー・スタールのバス停辺りでバスを待たなければならなかった。帰りはサフダルジャング・ターミナル行きのバスに乗って帰ることができたので、そこからもグルガーオン行きのバスが出ているのだろう。ただ本数はそんなに多くないと思われる。一番便利なのはやっぱりダウラー・クンアーだ。いつでもグルガーオン行きのバスが何台も停まっている。また、デリー〜グルガーオン間で乗り合いジープが運行しているのだが、まだあまり使いこなせない。グルガーオンでの公共交通はサイクル・リクシャーしかない。オート・リクシャーはなく、「テンポ」とか「パトパティー」などと呼ばれる乗り合いオートが運行しているが、これもまだどういう経路を通っているのかよく分からず。

 今回はちゃんとカメラも持ってグルガーオンにある3つのショッピング・モールを探検した。「3 Deewarein」の英語の題名は「3 Walls」。これに「3 Malls」とかけて、グルガーオンの3つのモールの感想を書いておこうと思う。

 まずはサハラ・モール。サハラTVなどで有名なサハラ・グループのモールで、僕が行ったときにはまだ大部分が建設中だった。一応中に入ることができたものの、オープンしている店舗は少なかった。ビッグ・バザールというデパートが入っているのが特徴。外壁にはいろいろな店の看板がズラリと並んでおり、期待が持てそうだが、完成してからでないと評価のしようがない。構造が少しわかりにくくて不親切なように感じたが、どうなるだろうか。




サハラ・モール


 メトロポリタンは5階建てのショッピング・モール。5階部分がPVRメトロポリタンまたはPVRグルガーオンと呼ばれる高級シネマ・コンプレックスになっている。映画館数はなんと驚きの7館。この内2館がヨーロッパ映画専門とのことだが、もしかしたらハリウッド映画のことなのかもしれない。フランス映画なんかが上映されるようになったら面白いのだが、インドのお国柄とフランス映画はあまりマッチしないかもしれない。映画館の売店あたりの雰囲気は未来っぽくていい。また、メトロポリタンにはショッパーズ・ストップというデパートが入っている。ファストフード・チェーンはマクドナルド、ニルラーズ、サブウェイ、バリスタなど一通り入っており、その他「Yo! China」という中華料理屋がオープンしている。まだ半分くらいしか店舗が入っていない。建物の構造はインド的シンプルさ(殺風景さ)が残っているが、迷子になりにくいとも言える。1階には子供の遊び場もあり、子供連れの客にはいいかも。




メトロポリタン


1階広場


 メトロポリタンの向かい側にあるのがシティー・センター。3つのモールの中では最も完成されている。4階建てで、4階にはDTシネマというシネマ・コンプックスがある。映画館数は4館。チケット売り場は1階の玄関横にあり、ちょっとこじんまりし過ぎのような気がした。マクドナルド、サブウェイ、バリスタなどのファストフード・チェーンは当然のことながら入っており、その他、ルビー・チューズデイ、バズ、Mojoなどのレストラン&バーがあってアルコールが飲めたり、チャイナ・ホワイトという中華料理店、ココ・パームという南インド料理店などのレストランがあったり、地下にはクロスロードというスーパー・マーケットがあったり、なぜかサムスンのショールームがあったりと、グルガーオンのモールの中で最もヴァラエティー豊かなショッピングが楽しめるようになっている。ライフ・スタイルというデパートを併設している。




シティー・センター


中心部の吹き抜けにはバリスタ

 日本では六本木ヒルズが何かと話題になっていたが、今日のデリーにおける新しいショッピング・スポットの探検の方が断然面白い。グルガーオンは最もエキサイティングだが、ファリーダーバードにも同じようにショッピング・モールが建設されつつあり、ノイダも負けてはいないだろう。それに北デリーや東デリーでも新しい高級映画館が完成したと聞く。近いうちに探検してみなくてはなるまい。だが、どこのスポットでも、「どうしてこうなるの?」とか「こうすればいいのになぁ」という足りない部分があったりする。このインド特有の詰めの甘さというか、イマイチさが突っ込みどころに困らなくていい。まだまだデリーは僕を楽しませてくれそうだ。

8月7日(木) 授業開始

 今日から僕の通うM.A.ヒンディーの授業が始まった。

 本当は昨日から始まるとアナウンスされていたのだが、昨日行ったら4人しか来ていなかった。先生は「半分以上の学生が来たら授業を始める」と行って去っていった。

 今日も授業があるか不安だったのだが、幸い11人の生徒が来ていた。だが登録人数は29人。まだ半分に足りていない。結局自己紹介や雑談をしただけでその授業は終わった。

 まだシラバス(学習要綱)をもらっていなかったので、みんなで事務所に詰め掛ける。オフィサーは「シラバスはまだできていない。3、4日かかる」と相変わらず呑気な返答だったが、粘っていたら「30分後に来い」ということになった。

 事務所周辺で待っていたら、突然女の先生がやって来て「みんな教室に入りなさい」ということで授業が開始された。掲示板に貼ってある時間割表には今日はその先生の授業はなかったはず。おかしいと思っていたら、どうやらいきなり時間割変更のようだ。この先生の授業ではいきなり宿題が出された。事の進行の具合が、あっちはノロノロ、こっちはテキパキ、チグハグすぎて身体がちぎれそうだ。とりあえず1日目だったので、宿題が出されただけですぐに授業は終わった。

 授業後事務所に行ってみると、まだ今年のシラバスはできていないからということで、1995年度版のシラバスが配られた。この内のいくつかは変更がないのでそのまま使える、とのことだった。これを配ったことで、2003年度版のシラバス作成を怠るようなことがなければよいのだが・・・。どうも最近はインドで起こりうることが事前に予想できるようになって来た気がする。

 インドの大学において、文系学科というのは実はあまりステータスが高くない。優秀な学生は医者やエンジニアなど、実用的な学問へ進むためで、文学部などははっきり言って「掃きだめ」に近い。その中でもヒンディー語学科ともなると、その「掃きだめ」の中の最も役に立たない連中がこぼれ落ちて来るところだ。・・・という話を耳にしていたが、実際に今日同じクラスになったインド人たちを見てみると、思っていたよりも真面目そうな人は多いものの、皆ビハール州やラージャスターン州などの田舎から出てきており、裕福そうな人はあまりいなかった。今日のところは、デリー出身のインド人は一人もいなかった。しかも彼らの話すヒンディー語はそれぞれ訛っており、聴き取れないことがある。インド人同士なら割とその訛りの壁を越えて会話することができるようだが(東京人が関西弁を一応理解するようなものだろう)、外国人にはその壁は高い。まだ全員出席していないので、他にどういう人がいるのか判断はできないが、今日の結論としては「思っていたよりもまともな人が来ているが、地方出身の苦学生っぽい人が多い」と述べるに留めておこう。

 少しインドに関わったことがある日本人なら、「インド人は英語がうまい」と認識を持つと思う。癖のある英語なのだが、ベラベラと超スピードでまくしたてるのがインド流なので、日本人にとっては「うまい」と思わせるに十分な迫力がある。だが、よくよく観察してみると、やはりインドの全人口からしたら、英語をある程度流暢に話すことができるインド人は少数派であると気付かされる。JNUはインドでもっとも高難易度の大学だが、JNUに入学するだけの学力を持つインド人でも、英語が苦手な人が少なくないようだ。インドの教育機関には、英語で教える学校と、ヒンディー語などの現地語で教える学校があり、後者の学校を出た学生はやはり英語はそれほどうまくない。特に書く方となると顕著だ。英語は話せるけど書けない、というインド人はかなりの数いる。

 「インド人は英語がうまい」という一般認識は、おそらく「インド人はずる賢い」という、旅行者が持つ一般認識と同じ間違いを犯している。旅行者が関わるインド人というのは、旅行者をカモにしている人が多いから、そのように思ってしまいがちなのだ。それと同じく、外国人と関わるインド人は、外国人と関われるだけの教養を持った人が多いのは当たり前のことなのだろう。ただ、他のアジアの国々に比べたら、インドは英語を理解する人口の量、比率ともにかなり高いレベルを達成しているのは確かだと思う。

8月8日(金) 孤独恐怖症

 インド人は孤独恐怖症だと思う。いや、かえって日本人が孤独に対する恐怖を克服してしまったと言うべきか。

 日本にいると、一人で行動することに何の制約も感じない。一人で出掛けるのはごく普通のことだし、一人で外食をするのも余裕だし、一人で映画館で映画を見るのにも何の後ろめたさもない。だがインドでは違う。まず、一人で出掛けるということが子供にとってはけっこう異常なことのようだ。女の子が学校以外の場所に出掛けるには、親との壮絶な言い争いを経てからでないと無理である。男の子でさえ、近くの公園へクリケットをしに行ったりする以外、一人でどこかへ出掛けることは稀のようだ。だから僕の大家さんの息子のスラブ君(15歳)も、アンサル・プラザなどに出掛けたいときは僕を誘いに来る。大家さんは「息子が出掛けるときは常にお前と一緒でなければいけない」と勝手に決められたこともあった。インドでは、大人になるということは、一人で外出できるようになることと等しいと思う。

 一人で外食をする、ということも、インドではそれほど一般的ではない。安食堂などへ行けば、一人で食事をしている出稼ぎ労働者などを見かけるし、高級レストランでも一人でたらふくご馳走を頬張っている謎のインド人を見かける。だが、インドでは最低でも2、3人がテーブルを囲んで食事をしている風景が一般的だ。友達同士、恋人同士、家族同士、果ては一族郎党全員引き連れての大会食と、いろんなパターンがあるが、日本の吉野家などで見られるような、一人黙々とご飯をかき込む人の姿は珍しい。例え一人で店に来ても、店員と既に仲良しだったり、相席になった人とすぐに友達になって話を始めたりと、とにかく孤独を避ける習性がある。

 僕はよく映画館に映画を見に行くのだが、一人で行くときは少しだけ気が重い。インドでは映画は完全に複数で見に行く娯楽なのだ。まずチケット・カウンターで「チケット1枚プリーズ」と言う瞬間がなんか恥ずかしい。時々チケット・カウンターの人の「なぜこいつは一人で来ているんだ」という視線を感じることがある。チケットを持って映画館の中に入ると、開場するまで一人でポツンと待たなければならない。見回すと皆友達同士楽しそうにおしゃべりをしている。一人で映画を見に来ている人なんて僕ぐらいなものだ。開場し、座席に座ると、両隣は必ずグループ客である。左右から「一人で映画を見に来ているジャッキー・チェンみたいなこいつはなんなんだ」という視線をチラチラと感じる。いざ映画が始まると、みんな映画に集中してくれるので一安心である。

 そもそも、家探しをしていたときから、インドにおいて一人であることの異常さを感じさせられていた。僕は一人で住むつもりだったので、シングル・ルームの物件を探していたのだが、これが驚くほどに見当たらないのだ。インドの家は、複数で住むことを前提に設計されていることが多いので、一般的な構造の家となると2部屋〜3部屋ぐらいになる。トイレとバス・ルームが1部屋に1つついていることも珍しくない。僕が現在住んでいる家も、実は3部屋の家のうちの離れの1部屋を借りている形である。こんな状態だから、「一人で住んでいる」とインド人に言うと、「なぜ?」と驚かれることも多い。

 インド一人旅をしたことがある人ならば、インドに住んだことがなくても、上で僕が述べてきたことを理解できるはずだ。一人旅中、出会ったインド人と会話をしていると、必ず「なぜ一人で来たんだ?友達はいないのか?」と聞かれる。僕はこういう場合に備えて、「日本では一人で旅をするのがファッションなんだ」という定型句を既に用意しているが、他の人も適当に答えているのだろうか。インド人にとって、旅行とはグループでわいわいがやがやと楽しくするものなのだ。一人旅という概念は、タコの入っていないタコヤキのごとく、旅行という概念と矛盾するのだろう。一人でピクニックすることに当てはめて考えてみれば、少しは彼らのその考え方を理解できるかもしれない。ただ、外国人旅行者がよく行くような場所などは、地元の人もよく外国人のことを理解しているので、一人でいることに何の卑屈な感情も抱かないかもしれない。

 そういえばこんなこともあった。日本人十数人とインド人数人で旅行へ出掛けたことがあった。宿泊先のホテルでは基本的に一人一室が割り振ってあった。夕食のときになって、同行していたインド人の若い女の子(超美人!)が、突然僕に「一人で寝るのが怖いんです」と言ってきた。その意味するところはまさか・・・と生唾を飲み込んだが、どうやら本当に一人でいるのが怖いらしい。自宅では一人で寝てはいるものの、家族と一緒に暮らしているので怖くはないらしい。しかし見知らぬホテルで一人で寝るのは、とてつもない恐怖を感じるそうだ。結局、その女の子は日本人の女の子の部屋で一緒に寝ることになり、穏便に彼女の問題は解決されたが、その頃から僕は「インド人ってまさか孤独恐怖症なんじゃないか」と思い始めた。

 よく「インド人にはプライバシー観念がない」という言葉を聞くが、まさにインド人には「個人」という考え方はないのだと思う。インドでは家族が最低単位なのだ。喜びも悲しみも個人ではなく家族で分かち合うものだし、運命も家族と共にある。だからいざ彼らが全ての人間関係から遮断されて「個人」になった場合、果て知れぬ恐怖に襲われるのだと思う。学問のため、また仕事のため、デリーには家族から離れて一人で生活することを余儀なくされているインド人が多くいるが、彼らがまずすることは、現地での仮の家族を形成することだろう。一人で住むことはおそらく全く考えていないと思う。

 最後に、このインドの状況と日本の状況を比べてみると、全く対極と言わざるをえない。日本では何でも個人主義になってしまった。孤独主義と言っても過言ではないだろう。日本では個人が完全なる最低単位となっており、一人で行動することが前提となっている。一人で何でもすることが偉いことのように吹聴されているようにも思われる。だから個人の秘密という概念も登場する。一人一人が何か大きな存在から分離、遊離してそれぞれあちこちに漂っているかのようだ。だが、人間は一人では生きれないものだ。お互いに頼りあって生きていく方が合理的だし自然に適っている。インドの家族主義も分業主義も、この頼りあいの精神に拠っていると思う。インドでは「あなたがいなければ私も生きていけない」という関係の無数の連なり、言わば依存関係のネットワークで社会が形成されているように見える。一方、日本の社会では「私はこう生きる」というだけで、他人との関係があまり見えてこない。

 日本もかつては家族主義、集団主義だったと思うのだが、西洋文明の無批判な受容によって、いつの間にか孤独主義へ移行してしまった。おそらく家族主義には家族主義なりの欠点もあったからだと思うのだが、今日の日本の個人主義は度が過ぎているように思えてならない。そしてこの傾向は子供が個室を手に入れてから本格的に始まったように思う。子供は「個」ではありえず、常に両親や家族の一部として存在すべきもののはずなのに、個室を与えられた子供は徐々に孤独に慣れ、やがて孤独を愛するようになってしまう。孤独を愛する人間というのは、僕を含め、ある意味人間失格なのかもしれないとさえ思っている。最近日本で大きな問題になっている、犯罪の低年齢化は、確実に個室主義になった日本の家庭が原因だ。また、今回帰省したときに、電車の中などで、一人黙々と携帯電話を凝視しながら指を動かしている人々が目立ったが、あれにはさすがの僕も不気味なものを感じた。日本人は公共の場にいながらも、外界から遮断された孤独な世界を構築する手段を開発してしまった。例えインターネットという偉大なパブリック・スペースにつながっていようと、現実の世界で孤独だったらそれは孤独以外の何者でもないだろう。これからは日本人1億2千万人が、皆それぞれ孤独に生きる方向へと向かうのだろうか。そうなってくると、今度は孤独への恐怖を克服してしまったことに対する恐怖感も覚え始める。人は孤独恐怖症であるべきなのだ。〜症などと病気のように命名することの方がおかしかった。孤独を克服した日本人の方こそが何らかの病名で呼ばれるべきだ。集団恐怖症が妥当だろうか?だからインドにおいて、一人でいるときに感じるこのぎこちない感覚というのは、大事にしなければならない、と最近思っている。

8月9日(土) デリー・メトロ

 恥ずかしながら今日になって初めてデリー・メトロに乗った。

 インドの首都デリーの交通渋滞や公害問題の解決を期されて着々と建設が進められているデリー・メトロ。2002年12月に一部開通したときは、まるで遊園地の乗り物に乗るかのように、デリー中の人々が連日押し寄せて大変な騒ぎだったと聞くが、今では普通に交通機関として運行している。

 デリーに住む者として一度は乗っておきたいと思っていたのだが、何しろ僕とは全然関係ない地域しかまだ走っていないので、乗る必要性がなかった。もし日本人として初めてメトロに乗ることができるなら挑戦してみる価値はあったが、残念ながらその栄光はデリー・メトロ開通第一日目にして大使館やJBIC(国際協力銀行)などの人々に奪われたようだ。その内、デリー・メトロに対する興味もだんだん薄れてきた。

 だが、開通から半年以上が過ぎ、どうも次第にデリー市民としてデリー・メトロに乗ったことがないと恥をかくような状況になってきたように感じたので、それではここらで一度乗っておこうか、と重い腰を上げてカシュミーリー・ゲートまで向かったのだった。昨日から公開されたリティク・ローシャンとプリーティ・ズィンターの「Koi... Mil Gaya」が今年空前のヒットを記録していてチケットが手に入らず、やることがなかった、というのが本当の理由ではあるのだが・・・。

 現在デリー・メトロはごく一部しか開通していない。ティース・ハザーリー、カシュミーリー・ゲート、シャーストリー・パーク、スィーラムプル、ウェルカム、シャーダラーの6駅を結ぶ区間である。ティース・ハザーリーはオールド・デリーの北の端に位置し、物騒な地域とのイメージがある。カシュミーリー・ゲートはラーナー・プラタープISBT(長距離バススタンド)がある場所で、交通の要所となるだろう。スィーラムプル、ウェルカム、シャーダラーはヤムナー河を越えた「デリーのオマケ」みたいな地域にある駅である。よって現在のメトロは、ISBTに到着した人が、ヤムナー河向こうのデリー東部へ移動するのに便利なぐらいで、現在のところほとんど利用価値がないと言って過言ではないと思う。また、デリー・メトロというぐらいだから基本的に地下鉄なのだが、現在開通中のこれらの区間は地下鉄ではなく、バンコクのBTSや、東京のゆりかもめのように高架橋を電車が通る。

 まずは順当にカシュミーリー・ゲート駅から乗ることにした。デリー・メトロのカシュミーリー・ゲート駅にはマクドナルドとドミノ・ピザが出店しており便利だ。まずはカウンターでチケットを購入。自動販売機ではなく、カウンターにいる人に行き先を言って購入する。インドではお札はボロボロだし、コインも多種多様なので、自動販売機というのは難しい。コールカーターの地下鉄もチケット販売は人力である。この方式の方が温かみがあるし雇用もできるのでいいと思う。運賃は現在のところ4ルピー〜7ルピーである。これから徐々に開通していくに従い、運賃がどのように設定されていくのかは分からないが、デリーのバスが2ルピー〜10ルピーであることを考えると、もしかしたら少し高い交通機関になるのかもしれない。だが、デリーの市内バスは安く設定し過ぎた上に値上げをしようにも市民の強硬な反対に遭って昔の運賃がそのまま生き残り続けたという歴史を持つので、最初は高めにしておいた方が後が楽かもしれない。お金を払うと、丸いコインのようなものがもらえる。これがチケットである。

 改札は自動改札である。コールカーターの地下鉄も自動改札とは言え、少し旧式なのだが、デリー・メトロの自動改札は東京のSUICAのようなシステムで驚いた。コインを画面にタッチさせるだけで機械が自動認識して観音開き式ゲートを開けるのだ。ただ、間違ったコインを使った場合などにもちゃんと対応するのかは疑問である。

 改札を抜けると警察による持ち物検査がある。これがいかにもインドらしいところで、カメラなどは持込禁止となっている。空港並みに取り調べられるので、メトロは身軽な格好で乗らないといけない。しかしカメラを持ち込めないとなると、観光客はどうなるのだろうか?その内検査も簡略化されるといいのだが。

 エスカレーターを上って行くとプラットフォームに出る。電光掲示板もあり、大体10分起きに電車が出ていることが分かる。プラットフォームには数人の警察官が警備に当たっている。開通当初は相当な混雑だったようだが、現在では乗客はまばらだ。コールカーターの地下鉄同様、電車が来るときに特別なアナウンスなどはない。しかし別に困らない。だってプラットフォームにいたら、電車が来ることぐらい視覚や聴覚が正常ならすぐに分かる。しかし出発するときは、日本の電車のように安全確認をしてくれないことが多いので、ドアあ閉まる前に急いで乗らなければならないようだ。

 電車は4、5両編成だっただろうか。韓国製車両だが、日本の電車とさほど変わったところがあるわけでもない。違うところと言えば、座席にクッションがないことだ。金属製で、長時間座っているとお尻が痛くなりそうだ。立ち客のための手すりや吊り革もある。窓が大きめなので景色を広々と眺めることができるが、そこから見えるのはインドの、どちらかといえば汚ない住宅街などなので、変な気分だ。途中ヤムナー河を越えるが、そのときに遠くにラール・キラーが見える。メトロから見るラール・キラーは割と絶景かもしれない。

 ヤムナー河を越えるとまずはシャーストリー・パーク駅に着く。同名の公園や町がある地域だ。その後スィーラムプル駅へ。この辺りは以前ヒジュラーの調査に携わっていたときに訪れたことがあり、少し知っている。ヤムナー河近くにある町というのは貧乏人の居住地域となっていることが多く、ハエの量が半端ではない。あまり長居したくないところという印象が強い。その次には謎のウェルカム駅がある。英語の「Welcome」である。いったいなぜこんな駅がついたのかは関係者に聞かないと分からないが、僕の予想では、近くにウェルカム・スィーラムプルという町があり、そこからとられたのではないかと思っている。マウリヤ・シェラトンなどのウェルカム・グループと関係があるのかもしれない。ウェルカム駅を過ぎると終点のシャーダラー駅である。

 シャーダラー駅は、北インド鉄道のシャーダラー駅と隣接している。しかし特に何かがある場所でもない。もう少し東へ行けば、ウッタル・プラデーシュ州との州境である。メトロの高架下は路上生活者たちの憩いの場となっており、少し散歩していたらすぐに乞食の子供たちに取り囲まれてしまった。逃げるようにまたメトロの駅に戻り、引き返すことにしたのだった。

 メトロがデリー全土を網羅するようになったら、それはすごいことだと思う。東京の地下鉄とほとんど変わらない感覚で使えるから、これはデリーの交通革命になりうる。僕が住む南デリーの方までメトロの線路が伸びるのはまだまだ先のことだが、コンノート・プレイスへ電車でサッと行けたりすると便利だろうなぁと思う。デリー市民の夢を乗せて走るデリー・メトロ、今年中にもまた拡張開通するようだから楽しみだ。

 ところで、デリー・メトロがどんな変化をデリーにもたらすだろうか。交通が便利になることは当然だが、その他にどんな影響があるのだろうか。まずオート・リクシャーや市内バスが打撃を受けることは必至だろう。サイクル・リクシャーはもともと狭い地域限定で営業しているので、かえって仕事が増えるかもしれない。メトロの駅前で待っていれば、駅から自宅などへ向かう客を多く拾えるようになるだろう。また、気になるのは現在のところメトロの線路が遠隔地と単純に直線的に結ばれているだけであることだ。デリー・メトロの路線計画図を見てみると、基本的にデリー・メトロはISBT、デリー駅、ニューデリー駅、コンノート・プレイス、インド門などのデリー中枢地域と、シャーダラー(デリー東部)、バルワーラー(デリー北西部)、ドワーリカー(デリー西部)などのデリーの辺境地域を結ぶように作られており、それらの間に適当に等間隔になるように駅を並べているような印象を受ける。駅の存在が近隣の町の発展にどれだけ大きな影響を与えるのか無頓着なようだ。現在開通しているデリー・メトロでは、スラム街の真ん中に駅が置かれているようなところがあり、駅の近くに商店街ができるような雰囲気でもない。このままでは駅周辺が路上生活者のいい稼ぎどころかつ住処になって、町の発展もクソもない。日本の地下鉄のように、既に発展している町のど真ん中に駅を設置したり、これから発展させたい町に駅を作ったりという配慮をすべきなのではないかと思った。カメラ持ち込みも早く解禁してほしいが、そもそもインドの鉄道は軍事施設ということで今でも表向きは撮影禁止になっているので、無理なのかもしれない。

8月11日(月) Koi... Mil Gaya

 インド製SF映画と聞いて、妙に嫌な予感がするのは僕だけではあるまい。昔、有名なインド人映画監督マニラトナムの「アンジャリ」という映画が日本で公開された。ストーリー自体はSFではないのだが、ミュージカルの中に「E.T.」をパクったような稚拙極まりないSFチックなシーンがあり、その衝撃があまりに大きかったためにそれが僕の「インド製SF」のイメージを固定してしまった。

 あれから時は流れた。インド映画も次第にいろんなジャンルの映画に挑戦するようになった。例えば最近の流行はホラー映画である。当初インド製ホラー映画は奇天烈極まりなく、失笑を抑えがたかったが、最近の作品は普通にハラハラドキドキできる映画になって来ている。2001年は時代物映画の当たり年だったことで記憶に新しい。そして遂にヒンディー語映画は禁断のSF映画に手を伸ばした。それが今、巷で話題沸騰中のヒンディー語映画「Koi... Mil Gaya(巡り会い)」である。嫌な予感はぬぐえなかったのだが、これが今年かつてないほどヒットしており、批評家の評価も上々で、しかもヴァージペーイー首相も絶賛したというただことではない事態になって来ていた。チケット入手もかなり困難になっており、公開4日目の今日にやっと見ることができた。

 主演はリティク・ローシャンとプリーティ・ズィンター、脇役にはレーカー、ジョニー・リーヴァル、ムケーシュ・リシなど。監督・プロデューサーはラーケーシュ・ローシャン、音楽はラージェーシュ・ローシャン。「Kaho Na... Pyar Hai」と同じくローシャン一族のホーム・プロダクション作品だ。監督のラーケーシュ・ローシャンは端役でも出演している。




Koi... Mil Gaya


Koi... Mil Gaya
 ローヒト(リティク・ローシャン)は胎児の頃に負った脳の損傷が原因で知能の発育が遅れた子供だった。身体は高校生並みになっても知能は中学校1年生止まりだった。もう何年も留年し続けていた。しかし明るい性格のローヒトは子供たちの人気者だった。ローヒトの父親は他界しており、母親ソニア(レーカー)が女手ひとつで彼を育てていた。

 ローヒトの住むヒル・ステーションの町カサウリーにニシャー(プリーティ・ズィンター)が引っ越してくる。ニシャーは最初ローヒトの悪戯に腹を立てるが、彼が知能発育の遅れた子であることを知ると、献身的に彼の世話をするようになる。その内ローヒトとニシャーは小学校的な意味での「ボーイフレンド&ガールフレンド」の仲になる。しかしそれを面白く思わなかったのが、ニシャーの幼馴染みで番長のラージだった。ラージは事あるごとにローヒトをいじめる。

 実はローヒトの父親サンジャイ(ラーケーシュ・ローシャン)は宇宙人と交信を試みることに一生を費やした科学者だった。独自の機械を使って交信には成功したものの、他の科学者たちには一笑に付されて信じてもらえず、その帰りにUFOを見て運転を誤って事故に遭い、死んでしまったのだった。そのとき母親の胎内にいたローヒトの脳が損傷を受けたのだった。

 ある日ローヒトは物置から父親の機械を見つけ出し、適当に遊び感覚でいじってみた。それがなんとUFOを呼び寄せることになり、町の人の前に巨大なUFOが飛来した。UFOは短時間で去っていったが、着陸地点に残った足跡から、どうも宇宙人が一匹地球に取り残されたらしいことが分かる。警察や科学者たちはその宇宙人を捕獲しようと捜索に乗り出す。

 一方、宇宙人はローヒトとニシャーの前に現れる。ローヒトとニシャーは宇宙人を物置小屋に匿うことに決めた。宇宙人は超能力を持っており、ジャードゥー(ヒンディー語で「魔法」の意)と名付けられた。ジャードゥーはローヒトの脳を正常に戻した上に、彼にスーパーパワーを与える。そのパワーで今まで彼のことを馬鹿にしていた先生たちやラージたち不良少年たちを驚かす。

 悔しがるラージは、ニシャーのキスをかけてローヒトにバスケットボールの試合を申し込む。ラージのチームは前回のバスケットボール大会優勝のメンバーである。対するローヒトのチームは同級生の子供たち。しかしローヒトにはジャードゥーからもらったパワーがあったし、子供たちにもジャードゥーが超人的ジャンプ力が与えられた。ジャードゥーの力の源は太陽光なので、試合当初は曇っていてパワーが使えず形成不利だったが、途中から晴れ始め、一気に逆転。ローヒトのチームが勝利を収める。正常に戻ったばかりか常人を越えた力を手に入れたローヒトは、ニシャーに愛の告白をする。二人は本当の恋人になったのだった。

 ところが宇宙人を捕獲して実験対象にしようともくろむ警察や科学者たちの魔の手がジャードゥーに及びつつあった。宇宙人がローヒトの家にいることが勘付かれてしまう。ローヒトはジャードゥーを宇宙に帰そうとするが、ジャードゥーが去ってしまったらまたローヒトは元の低知能児に戻ってしまうという。しかしそれでもローヒトはジャードゥーを宇宙に帰すことに決め、宇宙と交信を始める。しかし交信が通じたそのとき、ローヒトの家は警察によって取り囲まれる。ローヒトはジャードゥーを連れて逃げ出す。一度は捕らえられるものの、命がけでジャードゥーを取り戻し、ちょうど飛来してきた宇宙船にジャードゥーを帰す。こうしてローヒトのパワーは失われてしまう。

 ローヒトは町の英雄になった。しかし元のローヒトに戻ったのをいいことにラージが復讐に現れる。ピンチになったそのとき、気付いたら彼のスーパーパワーが戻っていた。空を見ると宇宙船のシルエットが!ジャードゥーが力を返してくれたのだった。

 2003年ももう半分以上過ぎ去ったが、去年に比べてボリウッドもだいぶ盛り返してきたように思える。その中でも今日見た「Koi... Mil Gaya」は今年のヒンディー語映画で一、二を争う傑作となるだろう。これは「Kuch Kuch Hota Hai」級の名作。一言で表せば全年齢対象SFラブコメ友情スポ根感涙映画。ハリウッドお得意のSF映画に、インド映画のテイストを強引にミックスさせたら、とんでもなく面白い映画ができあったという感じだ。はっきり言って、こんなに楽しいSF映画は初めて見た。最近のハリウッドの映画が技術偏重になってストーリーがおなざりになっていく中、インド製SF映画は、笑いあり、涙あり、恋愛あり、アクション・シーンあり、スリルあり、サスペンスあり、もうなんでも詰まった超娯楽大作に仕上がった。

 ・・・と、かなり興奮気味に絶賛しまくってしまったが、本当に褒め言葉しか見つからないほどの傑作である。事前に少し懐疑的な期待を抱いていた分、実際に見た後の感動はさらに大きくなった。

 まず一番嬉しいのは、リティク・ローシャンの演技の上達である。低知能児という、今までのボリウッドでは有り得なかった難役に挑戦。見事に演じきっていた。今年度の主演男優賞はリティクに決定か。主演女優賞はどうやらもう既に「Bhoot」のウルミラー・マートーンドカルが内定のようだが・・・。彼の映画を見るとどうしても右手の親指が気になってしまうのだが、今回はもうそんな細かいところに視線は行かなかった。というか、今回はかなり堂々と二本ある親指が画面に映っていた。ということが分かるということは、やっぱり視線は右手の親指へ行っていたということだが、それよりも彼の名演に集中すべきだ。当代随一のリティクのダンスも存分に楽しめる。今回は「猫ダンス」とも言うべき新ネタ登場。「It's Magic」という曲で見ることができる。「Kabhi Khushi Kabhie Gham」の「You Are My Sonia」ダンス並みにインドのディスコで流行ると思われる。練習してマスターすればインドで人気者間違いなし!




リティクの右手は指が6本


 プリーティ・ズィンターはいつも通りのはつらつとした元気いっぱい清涼演技で大満足。特に目立った点はなかったが、コテコテになりがちなSF映画に、何ともいえないそよ風のようなすがすがしさが加わっているのは彼女の役得だろう。

 意地悪な見方をすれば、この映画を、「E.T.」と「未知との遭遇」を足して2で割ったような映画と評価することもできる。宇宙人との交信方法、UFO飛来の情景、光の中に浮かび上がる宇宙人の人影、愛くるしい宇宙人の姿、宇宙人を捕獲して科学に役立てようとする当局など、それら二大SF映画から多大な影響を受けた点はたくさん見受けられる。しかし、この映画には他のハリウッド製SF映画にはない人間味溢れた爽快感がある。SF映画にお笑いやら友情やら家族愛やらスポーツ対決やら、ありとあらゆる要素を自然な形で詰め込んでしまったのは驚嘆してしかるべきだと思う。これこそインド映画のエッセンスであり、ハリウッドの映画製作者には発想すら思い浮かばなかったものだ。

 いかにもインドっぽいな、と思わせてくれたのは、宇宙人との交信に使う機械が発する音。「未知との遭遇」そのまま、音での交信なのだが、なんと各音階が「オーム」という音を発するのだ。ちゃんと「オームはヒンドゥー教では宇宙の波動の音と言われている」という説明付き。欧米の科学者たちは「科学と迷信をごっちゃにするな」と馬鹿にするのだが、オーム音が宇宙人に通じ、おかげで宇宙人がUFOに乗ってやって来たのだ。やっぱインドはすごい!オームは宇宙の共通語だ!オウム真理教が暗躍した日本にはやって来なかったけど・・・。

 ヨーダとE.T.を足して2で割ったような宇宙人のジャードゥーもなかなかよかった。CGではなく、着ぐるみのようだったが、目やら口やらいろいろ動いていて高度な技術が使ってあったと思う。デザインも、宇宙人的で、かつ愛嬌もあり、不気味でもあってそのバランスがよかった。インド映画にしては驚くほど高品質な宇宙人だった。どうもオーストラリアの特撮会社が制作したようだ。

 映画のロケは、ウッタラーンチャル州の有名な避暑地ナイニータールとその周辺の町のようだ。カサウリーも実在の町である。その他にもカナダでロケが行われたようで、ハッとするような美しい風景を背景に見ることができる。

 ストーリーで一番優れていたのは、知能の遅れた青年と宇宙人の交流を核にしたところだ。宇宙人のおかげでローヒトは人並み以上の知能と運動能力を手に入れるが、彼を宇宙に帰すことでその力は失われてしまう。この葛藤がいい。ローヒトの母親は、我が子の知能遅れを嘆いていたので、本当はこのまま正常に戻ったローヒトのままでいてもらいたい。ローヒト自身もせっかくヒーローになれたから、本当はこのままでいたいと思っている。しかしジャードゥーを宇宙に帰さなければならない。涙を誘うシーンである。ジャードゥーを宇宙に帰した後のニシャーのセリフもよかった。「力は消えちゃったけど、私の愛は残ったでしょ。」SFにうまくロマンスも組み込んだな、と思った瞬間だった。

 ただ、その後ローヒトは力を取り戻してエンディングとなる。別に力は取り戻さなくてもよかったんじゃないかと思う。ニシャーのあのセリフで終わっていたら僕は100点満点中120点をあげたと思うが、最後に少し予定調和的理不尽さが見受けられたため、100点ということになった。インド映画的にはああいう終わり方が最上なのかな・・・。

 その気になれば、ドラえもんのようなTVドラマにも作り変えることができそうなストーリーだったと思う。脳に障害を持つローヒトが、宇宙からやって来て一人取り残されたジャードゥーに出会ってスーパーパワーを手に入れる。太陽の光がないと力を発揮できないという欠点もいい。ラージはもちろんジャイアンのような悪役だ。その他、ジャードゥーを捕獲しようとする怖い警察官もいる。毎回ピンチに陥るローヒトをジャードゥーが救ったり、今度はジャードゥーをローヒトが救ったり。これはこれでなかなか面白そうだ。

 「T3」で地の底に落ちたハリウッドのSF映画界。ボリウッドには「Koi... Mil Gaya」という傑作があるぞ!さあ、かかって来い、という感じだ。でも「Koi... Mil Gaya」の大ヒットを受けて二番煎じ的にSF映画を作るとボロが出そうだから気をつけてほしい、ボリウッドの映画制作者たちよ・・・。

8月13日(水) 恩の文化差

 インド人は「ありがとう」を言わない民族だと言われている。そもそも「ありがとう」にあたる言葉はヒンディー語には元々なかった。「あなたに苦労させてしまいましたね」みたいな労をねぎらう言い方はあったと思うのだが、「ありがとう」とピッタリ対応するような言葉はなかったと言っていいだろう。英語の「Thank You」の訳語として初めて、サンスクリット語から「ダンニャワード」、アラビア語から「シュクリヤー」という感謝を述べる言葉が作られた。インドの挨拶として有名な「ナマステー」や「ナマスカール」も同じような過程で作られた言葉であり、歴史は浅い。

 では「ありがとう」を言わないのだったら、インド人は何もしないのかといったら、そうでもない。観察していると、ちょっとしたことに対しては、インド人特有の首を傾けるジェスチャーをするのが一般的だ。例えば人に何か取ってもらったときに、アメリカ人なら軽く「Thank You」「Thanks」と言うところでインド人はクイッと首を傾ける。このジェスチャーは日本人の感覚からすると「さあ?」みたいに見えるので紛らわしいのだが、インドでは「Yes」の意味になる。だが、目下の者などに対してはそのジェスチャーすらしないことが普通である。どちらにしろ、感謝すべき他人の行為に対してインド人は何も言わないことが多い。

 なぜインド人は「ありがとう」を言わないかといえば、「Thank Youの安売りはThank Youの価値を下げる」というインド人の哲学があるからだ、という説明がされることが多い。日常の些細なことに対していちいち「ありがとう」を連発していたら、本当に感謝したいときに発する言葉がなくなってしまうし、感謝の言葉が感謝の念のこもっていないただの挨拶になってしまう。確かに日本語の「ありがとう」は、感謝しているというより条件反射で発してしまっている場面がすごい多いように思える。「どうも」という言葉なんてインド人のジェスチャーと同程度の価値の言葉だろう。

 もちろん「ありがとう」を言う国と、「ありがとう」を言わない国、どちらが優れているかなんて論じることはナンセンスだ。日本では親しい間でも「ありがとう」を言うのがマナーだし、インドでは「ありがとう」を言わない方が親しさを表す、ただそれだけの違いだろう。しかし日本人からすると、「ありがとう」を言わない国にいても敢えて「ありがとう」を言うことで、礼儀正しさを見せようじゃないかという気分になることが多いのではなかろうか。感謝されて気分を害する人はいないだろう、と考えて、なるべくいちいち「Thank You」と発してしまうのが普通だろう。

 「ありがとう」はまだどうでもいい部類に入るが、この恩に関する感覚の違いはさらにフォーマルな場面で文化の摩擦を生じさせるかもしれない。例えば、日本人は誰かに何か面倒な頼みごとをするのに、贈り物を贈る習慣がある。頼みに行くときに贈り物を持って行き、その頼みごとが成就した暁にはもう一度お礼に贈り物を贈る。日本人からしたら、これはホスピタリティーあふれる美しい習慣だ。ところがインド人はこの日本人の習慣を嫌うという。非常に冷たい印象を受けるらしい。

 便宜上、恩を数値で表してみよう。例えばAさんがBさんから100ポイントのことをしてもらったとする。BさんはAさんに対して−100ポイントという人間関係になる。これが「BさんはAさんに借りがある」とか「BさんはAさんに恩を返さなければならない」ということだろう。すると、Bさんがもし日本人だった場合、Bさんはすぐにお礼として、なるべく100ポイントに見合うような品物をお礼として贈ろうとする。そうすれば、BさんのAさんに対する恩ポイントは±0になる。日本人はこのように、恩ポイントをマイナスにしたままにしておくことを嫌う傾向にあり、すぐに何とかして恩を返そうとする。しかしインド人からしたら、すぐに恩ポイントを±0にしようとする行為は、人間関係に区切りをつける冷たい行為のように感じるそうだ。社会生活を営むにあたって、確かに人間同士の関係がきれいに±0になることはありえない。±0ということはつまり見ず知らずの他人に等しい関係になってしまう。この恩ポイントのプラスマイナスこそが人間関係の絆だと思っているのだろう。だから、もしBさんがインド人だった場合、Bさんはずっと大事にその−100ポイントを胸にしまっておいて、いざAさんに何か助けの必要が生じたときに返そうとするのだ。これがインド人の恩に対する感覚であり、日本人と異なっている。「ありがとう」を言わない習慣も、どうやらこの恩の感覚に関係しているのではないかと思う。

 しかし、このインド人の感覚は非常に都合のいい考えでもある。もしAさんに何も必要が生じなければ、Bさんはずっと恩を返さずにそのまま生きていくことも可能だ。だが一方で、BさんはAさんの息子のCさんに恩を返すといった、世代を越えた恩返しも成り立つ素地にもなっていたりする。やはりインド人の時間に対する感覚は悠久と表現するしかない。また、その恩ポイントがもっと具体的なもの、つまり借金などであった場合も、このような考えをすることが多いので、いつまで経っても返してくれなかったりする。また、日本人だったらお金を借りたらお金で返すという暗黙の了解があるが、インド人の場合はお金で返さなくてもいいと考えている節もある。

 とりあえず現在のところ、ブータン個人旅行を実現させてくれたブータン大使館の人にお礼をしなければならないのだが、日本的にお礼をしていいのかな、と少し考えているところである。多分ブータン人は日本人と感覚は近いと思うのだが・・・。

8月14日(木) 二食制

 僕の住んでいる家にはキッチンがない。我ながら2年間もキッチンのないところでよく生きて来れたと呆れながら感心してしまう。もちろんあればあるに越したことはないし、キッチンがあったらなぁ、と痛切に感じることが多い。一応必要なときは大家さんの家の台所を貸してもらうが、ジャイナ教徒なので肉類卵類はご法度。非常に肩身の狭い思いをして使わなくてはならない。自分専用の台所を手に入れるためには引越しという選択肢しかない。僕は何度も引っ越そうと思ってきたのだが、その度に挫折して来た。大家さんとの人間関係をまたゼロから始めなければならないことの煩わしさや、引越し先のインターネット事情への心配、そして引越しによってさらに条件の悪い場所へ住むことになってしまうかもしれないという恐怖感などが主な要因である。なぜキッチンのないところへ住むことを決めたかというと、当初インドに住むことと旅行とあまり区別して考えていなかったからだ。旅行中、キッチンのある部屋に泊まるようなことはまずない。それでも困ることはないので、キッチンがなくても暮らしていけるだろうと思っていた。また、インドの台所というのは日本のシステム・キッチンのようにはなっておらず、ただ台が備え付けられているだけの本当の「台所」なので、こんなのだったらあってもなくても一緒だろう、という見下した考えもあった。本当は例え台だけでもあった方がよかったのだ。

 インドに住み始めて真っ先に直面したのは、朝食問題である。住み始めた当初は大家さんの家でよく食事をさせてもらっていたので、朝食も食べさせてもらえるかと思ったがそうはいかなかった。インド人はあまり朝食を食べない民族なのだ。日本人の朝食時間は大体朝7時〜8時といったところだが、インド人は朝起きてチャーイを飲むだけで、朝食らしきものを食べるのは10時〜11時くらいになってからなのだ。それもかなりの軽食であり、朝食と呼べるかどうか怪しい。こんなだから昼食も遅れる。日本人の昼食時間は大体12時〜1時だが、インド人の昼食時間は1時〜2時であるのが一般的だ。夕食ともなると、インド人は夜寝る前に食べると表現したくなるぐらいに遅い。だから、大家さんの家で食事をしようと思っても、生活リズムが違うので非常に苦労することになった。昼食、夕食はどうにかなるとしても、朝食は大問題だ。朝、学校に行く前に食事をしなければならないのだが、外食しようにもどこの食堂も開いていない。屋台なら開いていて、パラーターやプーリーを食べることができるのだが、こういう不衛生な食事を毎日していると身体が慢性的にだるくなるような気がした。トースターを買って朝食にトーストを食べようとしたが、元々朝食はご飯派だったことや、インドのパンはあまりうまくないことから、いつの間にか止めてしまった。結局郷に入らば郷に従えということで、僕も朝はチャーイだけになってしまった時期もあった。JNUに通うようになってからは、食堂が8時半頃から開いているので、ちゃんと朝食を食べれるようになった。イドリーやワーダーなどの南インド料理が朝食にはいい。

 しかしなぜインド人は朝食を食べないのだろうか?1日2食だけの生活でいいのだろうか?なぜ昼食・夕食のタイミングが他の国の人に比べてずれているのだろうか?

 まず言葉の面から考えて見ると、そういえばヒンディー語には朝食にあたる言葉はない。一応「ナーシュター」が「朝食」と訳されることが多いのだが、実際には「軽食」という意味である。だから夜に軽食を食べてもそれは「ナーシュター」になりうる。だが、ヒンディー語には「昼食」「夕食」にピッタリはまる言葉もないので、言葉の面から捉えるのは間違っているかもしれない。

 夕食を食べるのが遅いから、朝食も遅れるのだろうという意見もあるが、いくら夕食を遅く食べても、僕は朝になると空腹感を感じるのだが・・・。

 最近思いついたのは、もしかして気候と関係あるのではないかということだ。インドが暑い国であるのは言わずもがなである。だからインドでは農業や肉体労働は朝の涼しいうちと、夕方日が傾き始めてからが仕事時なのだ。昼間に昼寝しているインド人労働者たちを見て「インド人は怠け者だ」と早とちりする旅行者も多いのだが、実際には朝早くから彼らは重労働をしている。そうなってくると、インド人にとって朝という時間は仕事の時間なのだ。そんなときに食事をしている暇などない。10時前後になり、太陽が昇って日向で働くことができなくなると日陰に入り、身体の火照りをほぐしながら軽く食事をとる(朝食)。そのままのんびりと休み続け、正午を過ぎた辺りで昼食となる。そして太陽の光が弱まるまでさらに休憩して、再び働き出す。太陽が沈むとその日の仕事は終わりで、家に帰って夕食となる。働く場所が家から遠い人は自然と夕食も遅くなる。こういう生活リズムが染み付いているのかもしれない。それに、昔は食事の準備は1日仕事だったことも忘れてはならないだろう。朝から食事が食べられるなんてかなり贅沢なことだったのかもしれない。こう考えると、インド人の食習慣もそんなに異常ではないように思えてくる。日本だって1日3食食べるようになったのは、せいぜい江戸時代中期からだったと言われている。人が農業から離れると、食生活も変わるということか。

 もちろん、会社などでは欧米式の生活リズムで働かなくてはならないから、仕事前に食事をとるという新しい習慣も生じている。オフィス街などでは朝早くから食事をすることができるようになっていることが多い。また、都市部のインド人は昼食と夕食の他にも、豆やらトウモロコシやらパーン(噛みタバコ)やらチャート(インド式スナック)やらいろいろ食べているので、あまりお腹が空かないかもしれない。

 とりあえずインドを旅行する際、食事のタイミングが少し違うので注意した方がいいだろう。夕食を食べようと思ってレストランに行っても、6時ではまだ開いていないことの方が多い。

8月15日(金) 地域別貧困度測定法

 8月15日という日は世界のいくつかの国で重要な意味を持っている。日本にとって1945年8月15日は近代史の中でもっとも重要な日である。敗戦記念日なのか終戦記念日なのか、首相が靖国神社を参拝すべきなのかすべきでないのかを論じるのはやめるとしても、この日が近づくにつれて日本全体がしめやかな雰囲気になって行くことは確かだ。一方、日本軍に占領されていた国にとったら8月15日は独立記念日だ。おそらくハッピーな雰囲気に包まれるのだろう。第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカなどにとったら8月15日は別に何もないようだ。

 インドも8月15日は独立記念日である。ただし独立は1945年ではない。日本の敗戦から2年後の1947年8月15日、イギリス領インドは、インドとパーキスターンという2つの国に分離独立した。この日が選ばれたのは、日本の敗戦日と無関係ではない。ただしパーキスターンの独立は8月14日ということになっている。ムスリムの占い師が8月15日を大凶の日だと言ったからだ。結局パーキスターンは8月14日24:00に、インドは8月15日0:00に独立することになったそうだ。

 インドでは8月15日の独立記念日が近づくに連れて次第にお祭り気分になって来る。独立記念日は国民の休日であり、子供たちはこの日に凧揚げをする。8月に入る頃になると、バーザールでは凧を売る店が臨時に出現し、気の早い子供はその頃からもう凧揚げを始めている。一方、独立記念日はテロリストたちにとって格好のテロ日和である。デリーではインド門、大統領官邸や、大統領の演説が行われるラール・キラーを中心に警備が厳重になる。

 インド人というのは世界一の祭り好きな国民だと言われ続けてきたが、近年次第に変化が訪れつつあると感じる。大都市を中心に、祭りに対する意欲がだんだん低下してきている。インドの祭りの象徴と言えば、ディーワーリーの爆竹、ホーリーの色水、そして独立記念日の凧揚げである。これらが次第に迫力を失いつつあるのだ。僕の住むガウタム・ナガルはその傾向が顕著で、ここ数年でディーワーリーに鳴らされる爆竹の数は減り、ホーリーの色水掛けが節度を守って行われるようになり、そして独立記念日に揚げられる凧の数は減少してしまった。今年の独立記念日は朝から雨が降っていたため、それが凧数減少現象に拍車を掛けたかもしれないが、昼からは雨があがったのにも関わらず、凧揚げをする子供はあまり多くなかった。

 ところが、僕の友人の住むデリーのとある町に行ってみたら、屋根という屋根全てに子供が上り、何百もの凧が空で泳いでいた。その町はガウタム・ナガルに比べたらグレードが下がる、いわゆるスラムのような町だ。よく見てみると、子供だけでなく、いい年した大人まで凧揚げを楽しんでいる。地域によってこんなに差があるものなのかと改めて驚かされた。

 やはり、高級住宅地になるほど、祭りを熱心に祝わなくなるという傾向があると思われる。確かに凧揚げなんて金のかからない貧乏人の遊びである。裕福な家庭の子供ほど、凧揚げに興味がなくなると言っていいだろう。日本で正月に凧揚げをする子供が現在何人いるだろうか?ここで僕は新たな法則を思いついた。ずばり、「インド人は豊かになればなるほど独立記念日に凧揚げをしなくなる」。

 この法則を適用すれば、地域別の貧困度や、年ごとの富裕化のスピードを測ることができる。つまり、独立記念日に空を泳ぐ凧の数が、その地域の貧困度を示し、また毎年同じ地域で凧の数を測定すれば、その地域の住民がどんなスピードで富裕化していくかを知ることができる。同じく、ディーワーリーに鳴らされる爆竹の数、ホーリーに投げられる水風船の数でも測ることが可能だが、やはり凧の数を数えるのが、空を眺めるだけなので一番楽だと思われる。・・・いや、楽ではないが・・・。

 独立記念日の凧揚げの法則は冗談だが、人は豊かになるほど伝統的な祭りや遊びをしなくなるのは普遍的な真理だと思う。やはり豊かになるといろいろと楽しい娯楽を享受できるようになり、祭りや伝統的な遊びには興味を示さなくなるのだろう。祭り大国インドでも、その現象は避けられないようだ。デリーが発展していく様子を見るのは楽しいのだが、古い習慣がだんだんと廃れていく様子を見るのは悲しい。

8月17日(日) Footpath

 おそらく「Koi... Mil Gaya」は今年最大のヒット作となるだろうが、これからも楽しそうなヒンディー語映画が続々とリリースされる。インド映画ファンとして、今の時期インドにいれるのはなんて幸せなことだろう。しかしインド映画は一筋縄ではいかないので、いくら楽しそうに見えても実際に見たらガクッと来る作品も少なくない。どれが名作でどれが駄作か、ちゃんと見極めないといけない。鑑識眼が問われるところだ。

 今日は「Footpath」という映画を見た。2002年のヒット作「Raaz」のヴィクラム・バット監督作品である。主演はアーフターブ・シヴダーサーニー、ビパーシャー・バス、ラーフル・デーヴ、イムラーン・ハーシュミー(新人)、アパルナー・ターリク(新人)。




左からイムラーン・ハーシュミー、
アーフターブ・シヴダーサーニー、
ラーフル・デーヴ


Footpath
 少年時代に事件に巻き込まれてムンバイーからデリーへ単身逃れてきたアルジュン(アーフターブ・シヴダーサーニー)は、12年間名前を変えて暮らしていたが、ある日突然踏み込んできた警察に捕まる。しかし警察は彼を逮捕しに来たのではなく、おとり捜査を依頼するために来たのだった。アルジュンがムンバイーで暮らしていたときの不良仲間であるシェーカル(ラーフル・デーヴ)とラグー(イムラーン・ハーシュミー)は、今ではムンバイーの麻薬取引を牛耳るマフィアとなっていた。警察はアルジュンに、彼らの組織へ入り込んで情報を流すように命令する。アルジュンはかつての友を欺くことをためらいながらも、彼らの命がそれによって助かるならと引き受けることにする。

 アルジュンはムンバイーに戻り、シェーカル、ラグーと再開する。アルジュンは簡単に組織の中に入ることに成功する。また、少年時代のガールフレンド、サンジュナー(ビパーシャー・バス)とも再開し、恋に落ちる。

 シェーカルは組織のボスとして冷酷非情な男となっていたが、アルジュンやラグーとの友情は忘れてはいなかった。ラグーは考えるより先に銃をぶっ放す短気でおっちょこちょいな男だが、憎めない性格をしていた。ラグーは下町で英語教室を開いているマダム(アパルナー・ターリク)に恋をしており、彼女のためにいろいろ問題を引き起こしていた。シェーカルの上には「シェイク」と呼ばれる大ボスがおり、シェーカルはラグーがヘマをしでかすたびにシェイクに呼び出されては大目玉を喰らっていた。

 シェーカルはアルジュンが警察のおとり捜査官であることを知り、またラグーの度重なる失態に愛想を尽かし、シェイクにそそのかされて二人を殺すことを決める。アルジュンは殺されなかったが、ラグーはシェーカルに殺される。一方、アルジュンもシェイクの上にはさらに警察の署長が絡んでいることを突き止める。アルジュンは国外逃亡しようとするシェーカルを身をもって止めて刺し違える。シェーカルは死に、アルジュンは九死に一生を得た。アルジュンはサンジュナーと結婚し、自分の人生を小説にまとめるのだった。

 限りなく下らない映画。特に前半はもう途中退場しようかと思ったぐらいに退屈だった。全く見る価値なし。唯一、新人のイムラーン・ハーシュミーはスバ抜けていい演技をしていた。決してハンサムな顔はしていないが、脇役俳優として、曲者俳優として、これから活躍が期待されそうな俳優だった。同じく新人のアパルナー・ターリクは、全然駄目。音楽はナディーム・シュラヴァンだが、音楽も手抜きであることが見え見えだった。

 ビパーシャー・バスは2001年に「Ajnabee」で衝撃のデビューをし、2002年の「Raaz」で人気を不動のものとしたが、それ以降全く作品に恵まれていない。これも全て監督の責任だ。ビパーシャーをただのセックス・シンボルとして利用しているだけで、彼女のいろいろな魅力を引き出す努力をしていない。本作品でもビパーシャーの露出度は必要以上に高く、ベッド・シーンも「お約束です」と言わんばかりに存在する。ビパーシャーが出る映画はほとんど全てエロチックな映画と言っても過言ではないだろう。ビパーシャー自身はそれで満足していないと思う。彼女はもっと演技をしたいはずだ。実際、映画中精一杯演技をしている。しかしその演技は肩に力が入りすぎていて、いかにも劇的で、空回りしてしまっているところがあり、余計に映画の質を落としてしまう。ビパーシャー・バスの出る映画はだんだんワンパターンになりつつあるので、「ビパーシャー映画」というジャンルが確立するかもしれない。

 アーフターブ・シヴダーサーニーは最近次第に出演機会が増えてきたが、あまりスター性があるとは思えない。無精ひげを生やしているのはトレードマークにしたいからなのだろうか?ラーフル・デーヴという俳優は初めて見たような気がするが、冷徹な悪役をやらしたらすごいはまりそうな凄みがあってよかった。

 それに前々から指摘しようと思っていたのだが、インド映画の子役は演技が下手だ。セリフ棒読みだし、動きも恥じらいがあってぎこちない。ボリウッド映画がハリウッド映画にどうあがいてもかなわないポイントのひとつは、この子役の質にあると思う。今まで見たインド映画の中で、子役の演技が素晴らしいと感じたのは、サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督の「大地のうた」ぐらいじゃないか・・・。「Kuch Kuch Hota Hai」もよかったかな。子供が主人公になる映画は、割と演技力のある子役をどこかから見つけてくると思うのだが、例えば主人子の少年少女時代などを描くために一瞬だけ登場する子役は、どうしようもない演技しかしないことが多い。

 作品自体は退屈なので見るだけ損するが、イムラーン・ハーシュミーの演技だけは必見だと思う。彼にはこれから少し注目してみたい。

8月18日(月) グルクル大学

 僕が勉強しているMAヒンディーの授業も次第に始まってきた。8月6日から始まると言われていたのだが、結局先週11日からボチボチと始まる科目が出てきて、今週から本格的にスタートということになりそうだ。インドの大学は、8月15日の独立記念日を境に授業が本格スタートという暗黙のカリキュラムができているように感じる。

 当初は、同じクラスのインド人のことを田舎者だと侮っていた。デリー出身のインド人と、田舎出身のインド人は、時として人種が全く違うのではないかと思うくらいに体格や雰囲気が違っていたりする。MAヒンディーを専攻しているインド人にデリー出身の人は一人もおらず、ほとんどがラージャスターン州、ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州から来ている。中にはそこら辺でゴミ集めをしていても全く遜色ないような典型的低カースト顔のインド人もいたりする(失礼な表現だが・・・)。ところが、授業が始まってみると、いくら田舎出身で田舎の大学を卒業してきていても、皆相当頭の切れる人が揃っていると感じた。さすが天下のJNU、インド中から優秀な学生が集ってくるだけある。ただ、ヒンディー語のクラスだけあって、英語に弱いインド人が他の学部に比べて多いようだ。

 MAヒンディーを専攻する外国人は毎年1人いれば多い方だと聞いたが、今年は4人もいる。2人はアメリカ人、僕を含めて2人は日本人である。世界上位の経済大国出身の学生がインドの大学でヒンディー語を専攻するのはなんだかおかしいが、21世紀の新たな世界に適合した還元現象なのかもしれない。ちなみにアメリカ人は2人ともなぜか偶然カリフォルニア大学バークレー校出身のエリートで、ヒンディー語もうまい。

 授業は完全にインド人対象で行われるため、非常に難しい。教授たちは一切手加減なしのスピードでベラベラベラッとヒンディー語をしゃべる。しかも板書も全くないと言っていい。去年まで通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンで訓練したどんなディクテーションよりも数倍難しい。おそらく外国人学生はお荷物ぐらいにしか思われていないのではないだろうか?クラスメイトのインド人の親切と好意に甘えるしか、授業についていく方法はないかもしれない。

 インド人の学生を見ていると、学問に対して本当に真摯な姿勢を持っていて感心してしまう。というより、教師に対して恐怖心を抱いているのではないかと勘ぐってしまうくらいに尊敬を払った言動をしている。既に講義が始まっている教室に遅れて入るときは、必ず学生は教授に「May I come in, Sir?」と聞いてから入る。教師に対して発言するときは必ず「Sir」や「Madam」を付け加える。教授が教室に入ってくると、皆起立して迎える。授業中私語をする人なんていないし、誰も教授に対して生意気な言動を発するような人はいない。まるで教授が神様であるかのようだ(こういう古い学問形態をグルクルという)。かたや日本の学級崩壊、かたやインドのグルクル、久しぶりにカルチャー・ショックを受けた。

 教授も圧倒的威厳と共に授業を進める。授業が一旦始まったら、遅刻してきた生徒を一切受け入れない方針の教授もいる。実は僕はある授業に遅刻してしまって、教室に入れてもらえなかった第一号の生徒になってしまった。新幹線の国の誉れに泥を塗ってしまった気分だ。また、講義中に質問することを禁止する教授もいる。積極的に質問することを責める教授は一人もいないだろうが、講義というのは終わってみるまでその人が何を言いたいのか分からないことが多いので、質問は講義が終わってから、ということのようだ。可哀想に、講義中に質問してしまったある学生は、教授からかなり厳しい言葉で糾弾されたのでシュンとしてしまった。教授と学生の間の、まるでグルと弟子のような厳密な関係は、JNUの特徴のようだ。

 また、教科書を暗誦している学生がいるのにも驚いた。ヒンディー語文学史の教科書の金字塔といったら、アーチャールヤ・ラームチャンドラ・シュクルの「Hindi Saahithya Ka Itihaas」だが、その文章の主要各文を、あたかもそれが当然であるかのごとく暗誦している学生がけっこういた。さすがMAヒンディーの学生だ。アジアの古き良き学問伝統が今でも脈々と伝わっていることに感動した・・・というより僕も暗誦しなきゃ駄目なのだろうか???授業後の過ごし方も、図書館で勉強するという学生がほとんどで驚かされる。

 JNUは共産主義色の強い大学である。共産主義的プロパガンダがあちこちに見受けられるし、教授もマルクスの影響を強く受けたような発言をすることがある。また、JNUは外国語教育、外国語研究に非常に強い大学であるが、これも共産主義的な臭いがする。

 JNUは寮が完備されており、ほとんどの学生は寮住まいである。僕もJNUで学ぶなら絶対に寮に住むべきだと思うのだが、依然として同じ場所に住んでいる。なぜならJNUの寮に入ると自宅でインターネットができなくなるからだ。それはつまりこの「これでインディア」続行が不可能になることを意味する。別に続行する義務はないのだが、もはや日課となっているのでなかなかネットから離れた生活に踏み切れない。

 クラスメイトからは「なぜ寮に入らないのか?」と催促に近い質問をされる。寮に入らないと友達ができないかもしれない。しかし一方で、JNUはJNU内でひとつの完結した世界となっている。まるで共産主義者が描く理想世界を体現したかのようなキャンパスになっている。インド人にとってJNUの学費、生活費、医療費などただ同然だし、あるインド人曰く「女もフリーだぜ」ということなので、ある意味特殊なインドを形成していると言っていい。だから、寮に住み、JNUの中で生活すると、生のインドに触れる機会が少なくなることも確かだと思う。

8月21日(木) ガーンディーの3匹の猿

 ダイキンといえば有名な日本のエアコン・メーカーだが、最近インドにも進出して来た。そのダイキンのTVコマーシャルにこういうものがあった。まずは棚の上に置かれた3匹の猿の像が映し出される。3匹の猿はそれぞれ、見ざる、言わざる、聞かざるのポーズを取っており、一番左の見ざるの猿から順に言わざる、聞かざると画面が動いていく。そして聞かざるのところでカメラは止まる。すると、聞かざるの像が急に動き出してキョロキョロし出す。「あれ、おかしいな、聞こえないぞ」というジェスチャーである。すると隣にはダイキンのエアコンがある。つまり、ダイキンのエアコンはこんなに静かですよ、ということを宣伝するCMだった。確かにインドのエアコンはうるさい上に電気の消費量がとてつもない。ある店がインドのエアコンからダイキンのエアコンに変えたところ、電気代が驚くほど安くなったそうだ。

 というダイキンの宣伝は置いておくとして、ここで問題になるのは、果たしてインドにも見ざる、言わざる、聞かざるがあるのか、ということだ。日本の会社のCMなので、日本人が入れ知恵したことは十分考えられるが、それでも一般のインド人に前知識がないとこのCMはあまり成り立たないだろう。少し不思議に思っていた。

 所変わってJNU。JNUの食堂には大学らしく各政党の支援団体の張り紙がしてある。多くは現政権を糾弾、風刺するためのものである。今日はそこにも見ざる、言わざる、聞かざるを発見した。ヴァージペーイー首相などの政治家たち3人が、見ざる、言わざる、聞かざるのポーズを取っているという風刺画であった。インド人の友人に聞いてみたところ、「あれはガーンディー・ジーの3匹の猿だ」と言った。かの有名なマハートマー・ガーンディーが、「悪いことを見るな、悪いことを聞くな、悪いことを言うな」という教えを説明するために使った3匹の猿の像をパロッたものだと説明された。インド人なら誰でも知っているくらいに有名らしい。

 言うまでもなく、見ざる、言わざる、聞かざると言えば、日光東照宮の有名な3匹の猿のことである。あれは果たして日本が起源なのか、インドが起源なのか、一瞬だけ混乱した。だが、見ない、という意味の「見ざる」と、「猿」をかけた言葉遊びは日本語でしか成り立たないだろう。あれは完全に日本起源だ。

 そういえば、グジャラート州アーマダーバードにあるガーンディーのアーシュラム(修道場)にも3匹の猿の像があると聞いたことがある。僕は実際にそこへ行ったことがあるのだが、あまり覚えていない。誰かが言っているのを聞いて知っているだけだ。そのガーンディー・アーシュラムの3匹の猿の像は、誰か日本人がガーンディーにプレゼントしたものだ、という話も合わせて聞いた。ということは、やはり日本人がプレゼントした三猿からガーンディーがヒントを得て、「悪いことを見るな、悪いことを聞くな、悪いことを言うな」の説法をしたというのが正しいのだろう。そもそも「ガーンディーの3匹の猿」と呼ばれているということは、ガーンディー以前にはインドに存在しなかったということを示している。

 もちろん、インド人の中に、この3匹の猿が日本から来たことを知っている人はほとんどいないだろう。だが、インドと日本の交流の足跡が、人々の心に自然な形で残っているのを発見するのは嬉しいことだ。「日光見ぬうち結構いうな」とは言うが、日光を見てないガーンディーもこれまた結構なことをしたもんである。

8月23日(土) Hungama

 最近デリーの人々もリッチになってきて、週末ともなると南デリーの中心的なシネマ・コンプレックス、PVRアヌパム4は常に満員状態である。今日は3週間前に封切られた映画「Hungama」を見にPVRまで行った。噂によるとなかなか面白いらしい。中には「Koi... Mil Gaya」よりも面白いと言う人もいる。やっぱりチケット入手は困難で、深夜10:55の回の席がやっと手に入った。

 「Hungama」とは「大騒動」みたいな意味。主演はアクシャイ・カンナー、アーフターブ・シヴダーサーニー、リーミー・セーン(新人)。その他、個性的な脇役陣が勢揃い。パレーシュ・ラーワル、シャクティ・カプール、ラージパール・ヤーダヴ、ラザーク・カーンなどなど。登場人物が多くて複雑に絡み合っており、しかもアンジャリーという同名の登場人物が二人おり、相当なヒンディー語の力がないとストーリーを追うのが難しいかもしれない。だがよくできたコメディー映画だった。




左からアーフターブ・シヴダーサーニー、
リーミー・セーン、アクシャイ・カンナー


Hungama
 アンジャリー(リーミー・セーン)は強制的なお見合い結婚から逃げるために村からムンバイーにやって来て職を探していた。一方、ナンドゥー(アーフターブ・シヴダーサーニー)はミュージシャンになるのを夢見ていたものの、日々の生活にも困るほど困窮していた。とりあえず二人は安い住居を探しており、いい物件を見つけたのだが、そこは既婚の男女のみ住むことが可能だった。犬猿の仲だったアンジャリーとナンドゥーは仕方なく夫婦の振りをしてひとつ屋根の下に住むことになった。

 ジートゥー(アクシャイ・カンナー)は何か大きなことをしようとしていたが資金がなかった。親はお金の余裕があるものの、ケチで何も手助けをしてくれなかった。「泥棒をしてでも稼げ」という親の忠告に従って、ジートゥーは親からお金を盗み、電器屋を立ち上げた。

 ラーデーシャーム・ティワーリー(パレーシュ・ラーワル)は誰もがその名を知る大金持ちだったが、ムンバイーに邸宅があるにも関わらず田舎から一歩も出ようとしなかった。しかしジートゥーの両親のアドバイスに従ってムンバイーに住むことになった。ところがムンバイーの家にはアニル(サンジャイ・ナルヴェーカル)が内緒で住んでいた。アニルは自分のことをラーデーシャームの息子と詐称して、マフィアのドン、カチュラーセート(シャクティ・カプール)の娘マードゥリーと婚約していた。アニルはラーデーシャームが戻ってくると知るや否や、駅前のウェルカム・ロッジに逃げ込む。

 アンジャリーは求職のためにラーデーシャームの屋敷を訪れる。そのときたまたま来ていたジートゥーは、アンジャリーをラーデーシャームの娘と勘違いする。その後偶然アンジャリーはジートゥーの電器屋に求職しに訪れる。ジートゥーは彼女が社会勉強をするために仕事を探していると思い込み、逆玉の輿を狙って彼女を採用して、必死にアプローチするようになる。アンジャリーもせっかく職が手に入ったので、真実を黙っている。毎日ジートゥーはアンジャリーをラーデーシャーム・ティワーリーの家に送っていくため、アンジャリーはジートゥーが去るまでラーデーシャームの家の庭の中に隠れる羽目に陥った。

 ムンバイーに来た途端、ラーデーシャームの妻アンジャリー(ショーマー・アーナンド)は急にモダン化し、社会活動やらディスコやら社交界やらに関わるようになり、全く変わってしまった。毎日ジートゥーはアンジャリーを送ってラーデーシャームの家に来るため、やがてラーデーシャームは妻アンジャリーが電器屋のジートゥーとできているのではないかと勘ぐり、一方ミセス・アンジャリーはラーデーシャームがアンジャリーとできているのではないかと勘ぐるようになった。また、カチュラーセートがラーデーシャームの家を訪れ、自分の娘マードゥリーとラーデーシャームの息子(実はアニルである)が婚約したことを報告したため、さらに話はこんがらがる。ラーデーシャームはロンドンに留学中の一人息子を呼び戻すが、それはマードゥリーと婚約した男ではなかった。カチュラーセートは別の息子はどこだ、と詰め寄る。ラーデーシャームは口からでまかせを言って「別の息子は今どこかに隠れている」と叫ぶ。

 ナンドゥーとアンジャリーは毎日小競り合いを繰り返しながらも何とか同じ家で暮らしていた。その内次第にナンドゥーはアンジャリーを恋するようになる。そのときアンジャリーの田舎から、親が勝手に決めた婚約者ラージ(ラージパール・ヤーダヴ)が、アンジャリーに会いにムンバイーにやって来ることになる。ラージは少し頭のおかしい男だった。ナンドゥーはラージをうまく罠にはめて脅し、駅前のウェルカム・ロッジに閉じ込める。アニルを探していたカチュラーセートはウェルカム・ロッジにアニルがいることを突き止めてリンチをするが、間違ってラージをリンチしていた。おかげでラージは完全に狂ってしまった。

 遂にラーダーシャームと妻アンジャリーとの仲は決裂寸前となり、ジートゥーの両親も立ち会って何とか話し合いで解決することにする。まずはラーデーシャームが妻アンジャリーの愛人だと疑う電器屋のジートゥーが呼ばれる。自分の息子がアンジャリー夫人の愛人だったことに仰天する両親だが、ジートゥーはラーデーシャームの娘のアンジャリーを愛していると主張する。今まで一人しか息子がいないと思われていたラーデーシャームに次々と隠し子の存在が明らかになり、今度はラーデーシャームの立場が危うくなる。そこでアンジャリー夫人がラーデーシャームの愛人と疑う女が呼ばれた。それはアンジャリーだった。アンジャリーは全てを告白する。これで解決したと思われたが、そこへカチュラーセートが現れる。カチュラーセートはそこにいた人々を連れ去り、どこかの倉庫でラーデーシャームを殺害しようとするが、そこへ頭の狂ったラージが突っ込んできて、しかもなぜか偶然大家に追いかけられていたナンドゥーもそこへ居合わせ、大騒動となる。

 大騒動の中、ナンドゥーとアンジャリーは結婚することに決まり、ジートゥーに見送られながら倉庫を去って行った。

 あらすじをまとめるのが難しい映画だったが、よくできた脚本だと思った。脚本、監督はプリヤーダルシャン。あまり彼の映画は見たことがない。2000年に「Hera-Pheri」というコメディー映画を作っている。コメディーが得意な人なのだろうか。もう腹がよじれるほど笑える映画で、確かに面白い映画だった。しかしナンドゥーとアンジャリーの恋愛の描き方が少し性急すぎたことは否めない。最後の終わり方も、ちょっと解せなかった。純粋なコメディー映画として見るのが正解だろう。

 もし無理矢理この映画から何か深いメッセージを読み取ろうとするなら、田舎からムンバイーに出てきたラーデーシャーム・ティワーリーとその妻アンジャリーの変貌の意味だろう。田舎に住んでいたときは、二人の間に何も争いごとはなかった。平穏な生活を送っていた。ところがムンバイーに出てきた途端、アンジャリー夫人は急に色気づいて、いろんな活動・交流に積極的に関わるようになる。そして夫婦の間に溝ができる。そして一度この都会の罠にはまったら、二度と元の生活には戻れない。インドの諺に「空っぽの頭に悪魔が住む」というのがある。暇人ほど悪いことをしがちだ、といいう意味だ。だが、忙しい生活というのもまた心を狭くし、人間関係をギクシャクしたものにするものだ。ラーデーシャーム役のパレーシュ・ラーワルはとてもいい俳優で、よくインド映画に出ている。今回はブラジ・バーシャーのような訛ったヒンディー語と、古典劇のような大袈裟な台詞回しが壺にはまった。

 リーミー・セーンは新人女優ながら、物語の核となる重要な役を演じていた。顔は少し角ばりすぎだと思ったが、表情豊かだし踊りも下手ではなかったので、これから頑張れば二流女優ぐらいにはなれるだろう。

 アクシャイ・カンナーの演技からは余裕が感じられてよかった。が、頭髪は前にも増してギリギリになって来てしまった。途中、ミュージカル・シーンでアンジャリー夫人(ショーマー・アーナンド)と踊るシーンがあるのだが、当然のことながら「Dil Chahta Hai」を想起させた。おばさんとの恋愛がアクシャイ・カンナーの十八番になってしまったのか・・・。アーフターブ・シヴダーサーニーはどうも好きになれない。なぜいつも無精ひげを生やしているのだ?お坊ちゃん顔にワイルドさを加味しようとしているのだろうか?

 コメディー映画や、インド映画のコメディー・シーンを見るたびに思うのだが、ギャグというのは、どれだけ現地の言葉を理解しているかが測られるのと同時に、どれだけ現地の文化が身に染み付いているかが容赦なく明らかにされるものだ。つまり、どっぷりとインドにはまればはまるほど、身体の中のインド人度が上昇すればするほど、インド映画で笑うことが可能となる。今回はなかなか笑うことができて、そういう自分にも満足できた。

8月25日(月) Mumbai Se Aaya Mera Dost

 今日は先週の金曜日からリリースされた新作映画「Mumbai Se Aaya Mera Dost」を見に行った。前評判を聞いてみるとどうもかんばしくないのだが、映画の雰囲気がよさそうだったし、ヒット作に恵まれないアビシェーク・バッチャンがめげずに頑張っているので見に行くことに決めた。

 「Mumbai Se Aaya Mera Dost」とは「ムンバイーから来た私の友達」という意味。主演はスモールBことアビシェーク・バッチャンと、2000年ミス・ユニバースのラーラー・ダッター(「Andaaz」に引き続き2作目)。脇役陣には「Lagaan」に出演していた俳優が多く、ヤシュパール・シャルマー、アディティヤ・ラーキヤー、ダヤーシャンカル・パーンデーイ、アキレーンドラ・ミシュラ、シュブロー・バッターチャーリヤ、アジャイ・カーモーシュなどなど。




ラーラー・ダッター(左)と、
アビシェーク・バッチャン(右)


Mumbai Se Aaya Mera Dost
 ムンバイーに住むカーンジー(アビシェーク・バッチャン)が10年ぶりにラージャスターンにある田舎へ帰ってきた。親友のアーリヤ(アディティヤ・ラーキヤー)や彼の祖父はカーンジーを歓迎する。カーンジーの村はつい最近電気が来たばかりという僻地の村だった。カーンジーはテレビとパラボラ・アンテナをお土産に持ってきて、家に据え付けた。村の人々は文明の利器に驚き夢中になるのだった。その熱中振りは異常なほどで、村人たちは寺院にも行かなくなり、テレビで見たことをすぐに真似するのだった。

 カーンジーは村で出会った女の子と恋に落ちる。彼女の名前はKC(ラーラー・ダッター)。ところがKCはカーンジーの父親を殺した宿敵タークル(ヤシュパール・シャルマー)の妹だった。タークルは一帯を支配する地主で、自分よりも大きいテレビを持ってきたカーンジーをただでさえ憎んでいたため、妹とカーンジーの仲は許しがたいものだった。ある日タークルは妹を閉じ込めるが、カーンジーの助けでKCは逃げ出す。タークルはカーンジーの村を壊滅させることに決める。

 最初村人たちはタークルに逆らうことを恐れていたが、アーリヤがタークルに殺されたのを見て一致団結する。タークルの襲撃に備えて老若男女武器の準備をする。やがてタークルは部下を引き連れて村に攻め込んできた。カーンジーたちは村を挙げてタークルの徒党を撃退し、最後はカーンジーとタークルの一騎打ちで見事カーンジーはタークルを打ち負かす。タークルは警察に逮捕され、村に平和が戻った。1ヶ月の予定で村に帰って来ていたカーンジーは、このままずっと村でKCと共に過ごすことを決めた。

 ほぼ全編ラージャスターン州ジャイサルメールでロケが行われていた。映画の冒頭からラージャスターンの砂漠を行く満員のバスが映し出されて一気に心はラージャスターンへと飛ぶ。一面の砂漠と独特のカラフルな衣装のコントラストが美しく映し出され、まるでラージャスターン州のプロモーション映画のようだった。主要な役以外のエキストラも現地の人々を使っているようで、非常に田舎の雰囲気が出ている。ラージャスターンに行ったことのある人もない人も、ラージャスターンに行ってみたくなること請け合いだ。




冒頭で登場する味のあるバス


 物語は電気が今まで来ていなかった僻地の村に電気が来たところから始まる。解説によると、インドの10億人の人口のうちの60%、6億人は村に住んでおり、インドに50万ある村の中の8万7千の村には今でも電気が来ていないという。インドでは今でも電気のない場所で中世と変わらないような生活している人が相当いることに驚かされるが、そういう村を舞台に映画を作るという発想もすごい。現代を舞台にしながら時代劇のような映画を無理なく作れてしまうインドもすごい。

 村を舞台にしたためか、ストーリーは非常にスローテンポで進む。退屈になるぐらいのんびりしすぎな場面もいくつかある。また、片田舎であることを強調するために、登場人物が話すヒンディー語は相当訛っている。正確なラージャスターニー語かどうかは知らないが、なんか本物っぽい印象を受けた。当然、聴き取るのには大変苦労する。

 昔見たオリッサの映画に、辺鄙な田舎にバスが開通して、職を失った牛車タクシーの運転手の話があった。昔ながらの生活を営んでいた村に、文明が持ち込まれることを題材にした映画を見ると、寂しい気持ちになることが多い。人々は文明の到来に諸手を挙げて喜ぶが、それによって職を失う人もいれば、堕落してしまう人もいる。この映画は基本的に娯楽映画なので、そういう文明の弊害について糾弾するような描写はそれほど鮮明ではなかった。だが、テレビに釘付けになった村人が寺院へ行かなくなって、その寺院の僧侶が困窮したり、テレビに夢中になって、村が危機に陥っているのに気付かなかったたりするシーンなどがあった。最後で主人公が村に永住することを決めるのも、軽い文明批判だろうか。

 テレビには村人たちの興味をそそるいろいろな事象が映し出される。初めてスイッチをつけたときに現れたのはライオンだった。村人たちはあちこちに逃げ惑う。慣れてくると、村人はテレビの真似を始める。料理番組の早切り、カウボーイ映画のカウボーイ、アクション映画のスローモーションなどなど。「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」などの宗教映画が放映されると、人々はテレビに供え物を捧げる。これは実際にインドでテレビ放送が始まったときに起こったことだと聞いている。著作権は完全に無視なのか、昔のいろいろな映画が登場するのも面白い。ゴーヴィンダー、アーミル・カーン、カリシュマー・カプールなどの若い姿をチラッと見ることができる。

 アビシェーク・バッチャンは今回ハードボイルドな役柄だったが、けっこうはまっていてよかった。苦手のダンスも頑張っていて感心した。これでこの映画がヒットすれば、本人も父親のアミターブ・バッチャンも喜ぶだろうが、今のところそれほどヒットする兆しはない。ちなみにアミターブ・バッチャンは「Lagaan」のように冒頭のナレーションで声だけ友情出演している。

 「Lagaan」といえば、「Lagaan」に出ていた俳優が数人いた上に、砂漠の村を舞台にしていたため、映画の雰囲気がどうしても「Lagaan」と酷似してしまっていた。唯一、ジャイサルメールの旧市街の街並みがたびたび登場することが救いとなっていたか。

 ヒロインのラーラー・ダッターは、見る角度によって表情の印象が変わる面白い顔をした人だと思う。前作「Andaaz」のときよりも才能豊かに見えた。悪女のようにも見え、純愛のヒロインのようにも見え、勇ましい女傑のようにも見える。ダンスも下手ではなかった。このままスターへの階段を順調に上りつめる能力はあると思う。

 村人の一人、シュブロー・バッターチャーリヤ演じるアブドゥルのスローモーションは、映画中しつこいぐらいに繰り返され、なかなか受ける。「Lagaan」でカチュラーを演じていたアディティヤ・ラーキヤーも、この映画では名演をしており、只者ではないことを感じる。同じく「Lagaan」で裏切り者の村人を演じたヤシュパール・シャルマーも、にっくき悪役をやらせたら右に出る者がいないほどうまい。

 残念ながら、中盤のんびりしていてだらけ気味な割に、終盤展開が早すぎてバランスが崩れており、映画の完成度は低くなってしまっている。しかしインド映画のエッセンスは十分すぎるほど詰まっており、普通に楽しめる映画だ。特にラージャスターンが好きな人には自信を持ってオススメできる。

8月26日(火) 本を求めて三千里

 インターネットで何でも情報が手に入る現代に住んでいると、1冊の本を見つけるのがどれだけ難しいことか、ついつい忘れがちになってしまうものだ。

 ある授業で、チャンドバルダーイーの「プリトヴィーラージ・ラーソー」を読むことになった。チャンドバルダーイーの「プリトヴィーラージ・ラーソー」といったら、ヒンディー語文学の誕生を告げる産声のような作品である。成立時期には諸説があるが、原型ができたのが12世紀で、その後加筆修正が加わり続け、14世紀頃には現在手に入る形になったと言われている。歴史書の一種ではあるが、歴史書編纂を嫌うインド人の性格が反映されてか、史実に基づいた記述は少なく、歴史学的な価値はないに等しい。だが、サンスクリト語やプラークリト語の名残りが色濃いアプブランシュ語が、現代のインドで話されているヒンディー語の原型へと変化していく過程を見ることができるため、文学的・言語学的に非常に重要な資料である・・・らしい。

 授業で使われるテキストとして、マータープラサード・グプト編集の要約版「プリトヴィーラージ・ラーソー」が指定された。噂によるとこの本は非常に入手が困難なようだ。JNUの図書館にも蔵書がないらしい。教授もそれは承知しているようだが、「デリー中を隈なく探し回れ。見つからなかったという言い訳は許さん」と厳命が下された。

 今になってしみじみと思うが、日本の大学はまるで幼稚園のように親切な学問環境だった。授業で使われる教科書や参考書などは必ず大学の生協で手に入った。品切れになっても注文してくれた。だがインドでそんな「サービス」は期待できない。授業を受けたかったら、その授業で使う本を必死に探し当てないといけないのだ。多くの場合、授業で使われる本は図書館に何冊も置いてある。だからインド人の学生は買わずに図書館から借りて済ましている人や、必要な部分をコピーして使っている人が多い(ただ単に経済的理由であることも考えられる)。ちなみに当然のことながらインドで著作権云々をとやかく気にする人は皆無である。大学の本屋で堂々とコピー本が格安で売られている。そういえば日本の大学では、授業を取るのにその教授が書いた高価な本を買わないといけなかったりして、金儲けのために授業を履修している学生にそういうことをさせているんじゃないかと理不尽な気持ちになっていたものだ。それを考えるとインドの方が学生は学生らしい扱いを受けているかもしれない。

 さて、マータープラサード・グプトの「プリトヴィーラージ・ラーソー」は、JNU内にある本屋と図書館、JNU近くにあるベール・サラーイの本屋街、どこにも見当たらなかった。デリーでヒンディー語の書籍を買おうと思った際に便利なのが、オールド・デリーのダリヤー・ガンジ近くにあるヒンディー・ブック・センターだ。はるばる南デリーから店を訪ねていったのだが、そこにもその本はなかった。ただ、要約版ではなく完全版の「プリトヴィーラージ・ラーソー」は置いてあった。枕にちょうどよさそうなぐらい分厚い本が2巻セットになっているという絶望的な本だった。注文しようと思ったが、既に絶版になっている本で、受け付けてくれなかった。次に思いついたのは、去年まで通っていたケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの図書館。ヒンディー語の書籍がけっこう揃っていたので「プリトヴィーラージ・ラーソー」ぐらいはあるかと思い、調査を依頼したが、何の連絡もないところを見るとやはり蔵書されていないようだ。最後の望みだった、デリー大学近くにあるカムラーナガル・マーケットのバンガロー・ロードへも足を伸ばしてみたが、目的の本は見つからなかった。あと、デリー大学の図書館や、マンディー・ハウス近くにあるヒンディー語の書籍が豊富な図書館、そこまで行くことはしなかった。

 結局、同じクラスの人でその本を手に入れた人は一人もおらず、マータープラサード・グプト編集本の代わりに、ハザーリー・プラサード・ドゥイヴェーディーとナームワル・スィン編集の「要約プリトヴィーラージ・ラーソー」がテキストに用いられることに決まった。この本だったら既に購入していたので問題ない。ホッと安心した。

 僕はインターネットをはじめてから、情報は専らインターネットから収集する癖がついてしまっていたのだが、この「プリトヴィーラージ・ラーソー」のおかげで、学問に対する基本的な姿勢を改めて学ばされた気分になった。1冊の本を求めて街の本屋や図書館を全てを駆けずり回ることから学問は始まるのだ。・・・ただ、本を買うことと、本を読むことと、本を理解することはそれぞれまた別のことなのではあるが・・・。

8月31日(日) ピーリヤー

 インドを旅行する際に、「3日、3週間、3ヶ月」に気をつけろと言われることがある。つまり、インドに到着してから3日後、3週間後、3ヵ月後に病気になる可能性が高いということだ。一方、インドにずっと暮らしている外国人はそれぞれ「1年目に気をつけろ」とか「いや、2年目が危ない」とか「3年目に必ず何か重い病気になる」などなど、一家言を持っていたりする。

 僕は2年間、日本人にとって「病気天国」とのイメージの強いインドに住んできたが、特に大した病気にもならなかった。友達で肝炎などの病気に罹った人はいたが、自分の身に起こったことではないので実感は沸かなかった。その内、僕の身体はもしかして特別に病気に耐性ができているのではないかと過信し始めたところもあった。3年目になって「もうインドには完全に慣れた」という奢った気持ちがあった。

 ところが4日前ぐらいから急に高熱が出て、ずっと治らなかった。体温を測ってみたら102度だった。・・・といってもインドではどうも体温に華氏を使うようで、102度と言われたときにはピンと来なかったが、摂氏にしたら39度くらいのようだ。風邪などになったら1晩寝れば直るのが常なのだが、これだけ続くのは何かおかしい。次第にこれは何らかの重い病気に罹ったのではないかと疑うようになった。大家さんらに散々病院に行くよう勧められたが、あまり病院が好きではないのでずっと躊躇していた。しかし今日になってまだ熱が下がらないのを見て、遂に病院を訪れることになった。デリーでどこの病院がいいのか知らないが、僕は流れからヴァサント・ロークにある病院へ行った。

 案外簡単に診察は済み、英語で病名を言われた。英語の医学用語にはとんと弱いので何のことか分からなかった。ヒンディー語で病名を言ってもらうと、「ピーリヤー」と言われた。「ピーラー(黄色)」から派生した言葉だと予想できたので、何か黄色に関係する病気だと理解した。最初に思いついたのは、顔が黄色くなるという肝炎だが、もしかして黄熱病のことかとも思った。黄熱病といえば野口英世が病原体を発見し、自ら感染して死亡したという病気だ。そんな恐ろしい病気に罹ってしまったのか・・・とほぼ絶望的な気持ちになりながら家に帰って辞書で調べてみたら、ピーリヤーとは黄疸のことだと判明した。黄疸にもいろいろ原因があり、黄熱病になっても黄疸が出るようだが、どうやら肝炎だと考えるのが妥当のようだ。つまり肝臓の病気だ。医者は「インドじゃ普通の病気だから心配しなくていい。すぐに治る」と言っていた。とりあえず解熱のために注射を打たれた。

 ピーリヤーであることが分かると大家さんたちにはいろいろ忠告を受けた。サトウキビ・ジュースを飲め、バターやギーは食べるな、熱い食べ物、飲み物を摂取するな、外の食べ物を食べるな、肉を食べるな、などなど・・・。やはり10〜15日間は食べ物に気を付けなければならないようだ。薬も10日分処方されたから、このくらいで治るということなのかもしれない。

 それにしても、変な病気に罹ったということだけでもショックだったが、やはり自分が無敵でなかったことが分かったことが一番ショックだったように感じる。思えば今までけっこう無謀な食生活をしていたかもしれない。「インド人が食べてれば大丈夫だろう」という考えから、あまりきれいではないところで食事をすることもあった。いったい何が原因で黄疸になったのかは特定できないが、とりあえず夏が過ぎるまではあまり変な食事に手を出さない方がいいと考え直した。

 ピーリヤーでふと思い出したのは、いつぞやに出会った占い師の言葉である。大家さんと親しくしている人なので、時々家に来ては大家さんの相談に乗ったりしている。その占い師と初めて会ったとき、彼は僕の顔を見て「君は過去に犬に噛まれたことがあるね」と言い当てた。これだけなら胡散臭いのだが、その後、「君は腹に問題がある。黄色に気をつけることだ」と付け加えた。僕は胃か何かの病気のことかと思っていたが、もしかしてこのピーリヤーを指していたのかもしれない。それを考えるとやはりインドには不思議な人がまだまだいるものである。

 とりあえずしばらく安静にしなければならない・・・。





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