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これでインディア 

2003年5月

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※旅行地図を用意しました。左の「旅行MAP」をクリックして下さい。
デリーからグワーハーティーへ行く列車はいくつかあったが、時間帯から判断して僕は4056ブラフマプトラ・メイルを利用することにした。オールド・デリー駅を夜9時に出発し、翌々日の昼2時にグワーハーティーに到着する便である。「メイル」と名の付く列車は元々郵便配達用の列車だったようだが、今では旅客列車と同様の扱いになっている。エクスプレスよりも少し格が落ちるイメージがある。僕はスリーパー・クラス、つまり寝台席の一番安い席を買っていた。
昨夜は出発時間に間に合うようにオールド・デリー駅へ行ったのだが、ブラフマプトラ・メイルはいきなり3時間遅れの11時50分発に変更されていた。やれやれ・・・と溜息が出る。3時間もオールド・デリー駅のプラットフォームの雑踏の中で待つのはしんどいので、ISBT(カシュミーリー・ゲート)近くにあるマクドナルドで時間を潰すことにした。ここのマクドナルドはデリー・メトロ開通に伴って新しく開店した支店で、ISBTのバス出発を待ったり、今回のようにオールド・デリー駅発の列車の出発を待ったりするのに便利だ。夜は11時まで営業している。
11時過ぎに再びオールド・デリー駅へ行ってみると、既にプラットフォームに列車が来ていた。早速乗り込んで自分の席を探す。3時間出発が遅れているために車内は既に人と荷物でいっぱいだ。僕の席は幸い比較的楽な3段ベッドの一番上の寝台になっていた。そこを見てみると・・・誰かおじさんが寝ている・・・。インドではよくあることだ。即どかして僕がそこに寝る。ふぅ・・・と落ち着いて周りを見渡してみると、明らかに許容量より多くの乗客が溢れ返っている。8人のコンパートメントになぜか10人以上の人間がひしめいているのだ。こいつらどうやって寝るつもりなんだ・・・?天井には汚ない扇風機が3つ。真ん中の扇風機は故障のため動いていない。扇風機には黒ずんだ蜘蛛の巣がベッタリとまとわりついている。やっぱりメイルは格下の列車のようだ。深夜12時過ぎにやっと列車は動き出した。
早朝目が覚めた。他の乗客もポツリポツリと起き出している。下を見てみると、床に人が寝ている。やっぱりそうするしかないよな・・・と思い、床に寝ている人を踏みつけないように気をつけつつトイレへ行く。そしてまた自分の寝台に戻って一眠りした。
インドの寝台列車は8人一組のコンパートメントになっている。3段ベッドが2つと、2段ベッドが1つ。3段ベッドの中段は折りたためるようになっており、それがそのまま座席の背もたれになる。昼間は中段を折りたたんで下段に座って同じコンパートメントになった者同士で取り留めのない話をしたりして時間を潰すのが一般的な列車旅行スタイルである。ところが昼間になって下を見てみると、6人掛けのはずの椅子に既に8、9人の人が座っている。僕の座る場所がない。しかも乗客同士でどこに荷物を置くか言い争っており、少し席を外すと僕の寝台に荷物を置かれそうな雰囲気だ。仕方ない、このまま上の寝台で過ごすか・・・。結局今日はほとんどずっと寝台の上で寝て過ごした。だから列車がどこをどう通っているのか全く分からなかった。日中は非常に暑かった・・・。
早朝6時頃、列車はニュージャルパーイーグリー駅(一般にNJPと呼ばれている)に停車していた。ニュージャルパーイーグリーは西ベンガル州北部の交通の要所にある場所だ。ここからひたすら東進してアッサム州を目指す。なんだか湿っぽいな、と思ったら、外では雨が降っていた。ニュージャルパーイーグリー駅で降りた人がけっこういたようで、車内は昨日よりは空いていた。おかげで今日は下の座席に座ることができた。
列車から西ベンガル州北部〜アッサム州の風景を見ていた。果てしな〜く水田が続いていた。これが「ショナル・バングラ(黄金のベンガル)」か・・・。これだけ米があれば、10億人のインド人を養っていくことも可能だろう。水田の合間に熱帯性の植物が生い茂り、去年のちょうど同じ時期に旅行したスリランカを思い出した。ケーララ州の風景にも似ていた。バングラデシュには行ったことがないが、おそらくこんな風景なのだろう。バングラデシュとの国境はすぐそこである。
ニュージャルパーイーグリー駅を出た列車はなぜか鈍行列車と変わらなくなり、途中にある小さな田舎の駅にいちいち停まるようになった。おかげで途中の村の様子を垣間見ることができたが、はっきり言って超ド級のド田舎である。こんな開発が進んでいない場所はインドで初めて見たかもしれない。家は木や葉っぱで作られ、道路に自動車の数はほとんどなく、電線もあるのかないのか分からない状態だ。しかし美しかった。自然に見事に融合した人間の生き様がそこにあった。だが一方で、もしグワーハーティーもこんなだったらどうしよう・・・と不安になってしまった。僕の心の中には自然と共に生きる田舎の生活への憧憬があるが、いざド田舎へ行くとなるとやはり不安になるという矛盾した感情がある。
いつ西ベンガル州からアッサム州に入ったのかは分からなかった。しかし遂に憧れの土地である東北インドに足を踏み入れることができた。東北・・・と聞くとなぜか辺境の地が思い浮かぶ。日本の東北地方、中国の東北地方、タイの東北地方、なぜかアジアにおいて東北が付く地域は辺境のイメージが浮かぶ場所が多い。インドも例外ではない。東北インドはインド中央部に住む人々にとっては辺境であり、全く異質の文化を持った土地なのだ。これからインドの一般的な習慣に従って、東北インドの7州(セブン・シスターズ)のある地域をノース・イーストと呼ぶことにする。
途中列車はブラフマプトラ河を渡った。ブラフマプトラ河はノース・イーストを貫通してバングラデシュへ流れ込み、ガンガーやヤムナーと合流する大河である。ガンガーやヤムナーにも劣らない巨大で悠々とした河だった。もちろん、僕が乗ったブラフマプトラ・メイルはこの河から名付けられている。
ブラフマプトラ河を渡ると、文明の匂いのする建物、村落がちらほらと見え始めた。同時に、薄汚れたスラムや、スラムの住人の姿も目に付くようになって来た。もうそこはグワーハーティーだった。午後5時にグワーハーティー駅に到着した。デリーからざっと41時間列車に乗っていた。西から東まで2053Km、インドを横断したことになる。とにかく疲れた・・・。早くシャワーを浴びたい・・・。
グワーハーティーは古名をプラーグジョーティシュプラと言い、「マハーバーラタ」にも登場するくらい由緒正しい街である。しかし他のインドの古都と同じく、現在では小汚ない街となっていた。雰囲気はやはりケーララ州の州都ティルヴァナンタプラムを思い起こさせた。アッサム州だけでなく、ノース・イーストの中心的な都市であるが、アッサム州の州都ではない。州都は隣にあるディースプルだ。列車から降り立って少し歩いたのだが、ジメジメしていて汗ばむ。アッサムというと紅茶の名産地として有名だ。だからてっきり涼しいところなのかと思っていたが、少なくともグワーハーティーは湿気の多い場所だ。
僕は駅前にあるアッサム州観光局経営のツーリスト・ロッジ・プラシャーンティに泊まった。シングルで230ルピー。スタッフがフレンドリーで、部屋も快適だった。
朝起きると外は雨だった。しかも大雨。このまま止まなかったら困るな、と思いつつ朝食を食べて準備をしていたら、いつの間にか止んでいた。しかし空はどんよりとした曇り空。いつまた雨が降り出してもおかしくはない。だが雨ごときでひるんではいけない。勇気を出して外に出た。
今日はグワーハーティー観光をする。グワーハーティーは古い街だけあって、いくつか面白そうな寺院がある。まずはブラフマプトラ河に浮かぶピーコック島にあるウマーナンダ寺院へ行くことにした。
ホテルからブラフマプトラ河沿いに延びるMGロードへ出て、船着場を探した。ブラフマプトラ河沿岸にはいくつも船着場があり、対岸に渡ったり、市内移動の交通手段としてボートが利用されている。また、沿岸にはいくつかボート・レストランが浮かんでいる。その中でウマーナンダ寺院行きの船着場を見つけ、ボートに乗り込む。本日最初の便(10:00AM)だったようだ。往復10ルピー。
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ピーコック島とブラフマプトラ河 |
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同じボートに偶然ブータン人の兄妹と乗り合わせた。と言ってもネパール系のブータン人で、グワーハーティーに何かの仕事で来ているようだ。ヒンディー語を普通に話すことができて、英語もできた。これからブータンに行く予定だ、と言うと驚いていた。幸先の良い出会いだった。
ウマーナンダ寺院はシヴァ寺院で、寺院の地下にシヴァ・リンガが祀ってあった。けっこうコマーシャリズムが浸透していて、お布施を半ば強制的に払わされた。ウマーナンダ寺院の隣には、1820年に建てられた古い寺院もあったが、建築的に面白いものではなかった。この寺院はただ単にロケーションが面白いだけだった。ピーコック島という割には孔雀もいなかった。
ウマーナンダ寺院から本土に戻り、そこから歩いて今度はナヴァグラハ寺院を目指した。ナヴァグラハ寺院はグワーハーティーの東端にあるチットラーチャルの丘の上にある。地図では近いように思えたのだが、実際に行ってみると非常に遠かった。ジャングルの中の坂道を上がっていくような感じだった。しかも朝雨が降ったせいで湿気ムンムン。汗ビッショリになりつつも、やっと丘の上にあるナヴァグラハ寺院に辿り着いた。
ナヴァグラハとは九曜星、つまりスーリヤ(太陽)、ソーム(月)、マンガル(火星)、ブド(水星)、ブリハスパティ(木星)、シュクル(金星)、シャニ(土星)、ラーフ(蝕星)、ケートゥ(彗星)のことで、インドの天文学、占星学において重要な働きを持つ神様たちのことである。実際、このナヴァグラハ寺院は天文学と占星学の中心地だったようだ。
ナヴァグラハ寺院は釣鐘をひっくり返したような形をした特徴的な形をした小さな寺院だった。多くの参拝客が訪れており、僕もどさくさに紛れて中に入ってみた(・・・というよりグワーハーティーの寺院は異教徒にも寛容である。普通に中に入れてくれる)。すると・・・そこは呆然と立ち尽くすに値する不思議な空間になっていた。真っ暗闇の中に、9つのリンガが立ち並んでおり、それぞれのリンガも周りにはびっしりとディーヤー(灯火)が置かれていた。まるでリンガを無数の星が取り囲んでいるかのようだった。参拝客はその上にさらにディーヤーを置いて礼拝する。この小さな小さな灯りの群れが、リンガの近くに座るパンディト(僧侶)や参拝客をボーッと暗闇の中に赤く浮かび上がらせていた。おそらくひとつひとつのリンガが9つの惑星を表しているのだろう。一番奥にあったリンガがもっとも参拝客を集めていたので、それがスーリヤか、またはシャニだろうと予想できた。寺院内部は異様な熱気で包まれており、吹き抜けの天井の上の方で換気扇が回っていた。
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ナヴァグラハ寺院 |
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寺院の周りにはなぜかヴィシュヌの10アヴァタール(化身)が彫られていた。ナヴァグラハ寺院からは非常に眺めがよく、グワーハーティーの街を一望することができた。上から見てみるとグワーハーティーもなかなか大きな街だと思った。それともここから見えた街がアッサム州の州都ディースプルなのかもしれない。
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チットラーチャルの丘の様子 |
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またも歩いて丘を下り、そのまま歩いてホテルに戻った。もう汗ビッショリになっていたので、シャワーを浴びて服を着替えて、昼食を食べてから再び外に出掛けた。
次の目的地はグワーハーティーでもっとも有名な寺院と言われる、カーマーキャー寺院である。カーマーキャー寺院はグワーハーティー郊外にあるので、ステーション・ロードのバス停からカーマーキャー寺院行きのバスに乗って行った。4ルピーだった。
やはりカーマーキャー寺院も丘の上にあったが、今度はバスがグイグイ登って行ってくれたので楽だった。カーマーキャー寺院はヒンドゥー教の一派、シャクティ派の中心地かつ、タントリズム発祥の地である。・・・と書きつつ僕もあまりそれらの用語を理解していないが、つまりは性行為を宗教儀式に取り込んだ信仰だと説明しておけばいいと思う。この寺院の由来はこうである。
| カーマーキャー寺院の由来 |
| シヴァはサティーと結婚したが、サティーの父ダクシャはそれを面白く思っていなかった。ある日ダクシャはシヴァを招かずに宗教儀式を行い、それがサティーを傷つけた。サティーは父親に抗議するために火の中に投身自殺してしまう。それを知ったシヴァ神は絶望的悲しみに襲われ、サティーの遺体を抱いてインド中を滅茶苦茶に歩き回った。ヴィシュヌ神はシヴァを正気に返らせるため、サティーの遺体をチャクラ(円盤状の武器)で次々に切り落として行った。サティーの遺体が落ちた場所はインド各地に聖地として残っている。そしてサティーの女性器が落ちた場所がここカーマーキャー寺院である。一方、サティーがバラバラになるとシヴァは正気を取り戻し、ヒマーラヤへ帰って深い瞑想に入った。 |
バスを降り、供え物を売る店が続く参道を少し上っていくと、すぐにカーマーキャー寺院が現れる。寺院のオリジナルは非常に古いのだろうが、ムスリムによって破壊されたり、復元したり、増築したりされているため、古いのか新しいのかよく分からない、なんとなく雑然とした雰囲気の寺院である。3つのドームがあり、一番高い塔を持つところが本堂のようだ。主な入り口は2つあり、正面から入るとカーマーキャー女神の像を金網越しに参拝することができるようになっているが、ここからは本堂に入れず、ここで参拝を済ます信者は少ない。一方、本堂の横の入り口の前に長い列ができており、そこから入るのが真の参拝である。例によって僕も入れてもらえることができたので、列に並んで中に入ることにした。
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カーマーキャー寺院(奥)
手前の赤い寺院は別の寺院 |
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ヒンドゥー寺院に入ったことがある人なら分かるだろうが、あの暗くておどろおどろしい雰囲気はまるで悪魔教の寺院か、そうでなければディズニーランドか何かのアトラクションのようである。壁や床はねっとりとしており、独特の油の臭いが辺りに立ち込めている。そして地の底からうなり響いてくるようなマントラ詠唱の声。カーマーキャー寺院の本堂は地下に降りていくようになっているので、それはまるで地獄へ降りていく階段のように思えた。幸い、列に並んでいたインド人たちの表情が明るかったので、地獄へ降り立つような気分には寸前のところでならなかったが、思わず泣き出す子供の気持ちはよく分かるような気がした。カーマーキャー寺院の奥には、花で覆われたシヴァリンガらしきものがあったが、暗闇だったし、花と供え物で埋め尽くされていたので、いったい何があるのかよく分からなかった。地下にある水を飲め、と言われたが、なんだか気持ち悪くて飲めなかった。お布施も要求されたが、今回はパスしておいた。おかしな場所だった。カーマーキャー寺院の周辺には他にも多くの古い寺院が散在していたが、それらを見ることはしなかった。バスに乗ってグワーハーティーに戻った。
今日1日歩き廻ってみて、だいぶグワーハーティーのことが分かったようだ。街の雰囲気はやはりティルヴァナンタプラムに似ている。何が似ているかというと、建物の全体的にくすんだ感じと、熱帯樹の緑の強烈な濃さのコントラストだ。ジャングルの中に人工的建物が申し訳なさそうにニョキニョキと顔を出しているような感じである。雨が降ると湿っぽいが、夕方は涼しくて過ごしやすい気候だった。また、駅の北側には裁判所が固まっているようで、黒い服を着た弁護士らしき人の姿が目立った。グワーハーティーのサイクル・リクシャーには雨除けのため折り畳み式の長い庇がついているし、オート・リクシャーには扉が付いている。治安上の問題からか、街に軍隊の姿が目立った。アッサム州の公用語はアッサミー語だが、ヒンディー語も十分通じた。文字はベンガリー文字とほぼ同じ。僕はベンガリー文字を読むことができないので口惜しい思いがした。ヒンディー語のデーヴナーグリー文字と共通点も多いので、何となく読める文字もけっこうあるのだが。街中の広告を見た限り、どうもグワーハーティーで一番の繁華街は、ファンシー・バーザールというところらしい。また機会があったら行ってみようと思う。
夕方、ホテルのレストランでフィッシュ・カレーを食べてみたらけっこうおいしかった。ベンガル地方と同じく、アッサムも魚のおいしい地域のようだ。米もコリコリした食感でおいしい。
グワーハーティー駅の南側にはパルターン・バススタンドという大規模な長距離バススタンドがある。公共バスとプライベート・バス、両方のバスが発着しており、セブン・シスターズ各州へ行くバスが頻繁に出入りしている。まさにセブン・シスターズの交通の中心部と言える。これら7州はかなりバス交通網が発達しているようだ。僕の憧れの土地、マニプル州やナーガーランド州行きのバスを見ると、ついついそちらへ乗り込んでしまいそうになる。日本人の顔があれば、ばれずにそれらの外国人立入禁止州にも行けてしまいそうだ。しかし今回はそっちまで足を伸ばす予定ではないので、グッとこらえた。
今日は早朝パルターン・バススタンドからバスに乗ってグワーハーティーを発ち、アッサム州北西部の入り口の町ジョールハートへ向かった。プライベート・バスで140ルピーだった。
バスはまずは南東へ向かい、アッサム州の州都ディースプルを通り抜けて行った。やはりディースプルはだだっ広くてあまり何もなさそうな街だった。ディースプルを抜けると突然田舎の風景に様変わりする。水田が果てしなく広がり、ポツポツと牛が草を食べており、木、竹、泥などで作られた家が林の中に立ち並んでいる。グワーハーティーにいる人の顔はまだアーリヤ系の血の臭いがしたが、この辺りの田舎にいる人々の顔はかなり東南アジア風味である。肌の黒いモンゴロイドと言っていいだろう。
ここで僕は2回おんぶを見た。赤ちゃんを背中におんぶしていたのだ。実はインドで人が赤ちゃんをおんぶをしているところを見るのは稀である。前で抱っこするか、腰に引っ掛けるように横で抱くか、2タイプであることが多い。僕が思うに、モンゴロイドは比較的尻が小さいため、横ひっかけタイプの抱き方が不得意なのだと思う。インド人のお母さんなんかかなり大きな尻をしているから、赤ちゃんにとってそれは椅子のようなものだろう。同じように、アフリカ人も横ひっかけタイプの赤ちゃんの抱き方をよくするらしい。やはりアフリカ人のお母さんも尻は相当でかい。一方、インド人は太っているので、赤ちゃんを背中におんぶするのが不得意なのではないか。痩せていないと背中まで手が回らず、赤ちゃんをしっかりとキープすることができない。
ナガーオンという町を過ぎた。すると突然広大な茶畑が道の両脇に現れるようになった。そういえばグワーハーティーよりも気候が涼しくなっている。今日は1日中曇っていたのでそう感じたのかもしれないが、ブラフマプトラ河の上流に向かっている形なので、標高が上がっていると考えていいだろう。茶の栽培に適した気候である。これがかの有名なアッサム・ティーの茶畑か・・・。少しだけ感動した。本当にどこまで行っても茶畑だった。
アッサム・ティーの他にもアッサム州で有名なものがある。それは一角サイである。アフリカなどにいるサイは2本の角があるのだが、アッサム州にいるサイは1本しか角がなく、世界でもここにしか生息していないようだ。グワーハーティーの街中でも一角サイのトレード・マークをよく目にした(例えばアッサム州観光局やアッサム・オイル社のトレード・マークは一角サイである)。多分にもれず絶滅の危機に瀕しており、手厚く保護されている。ジョールハートに行く途中で一角サイが1500頭以上生息しているというカズィランガ国立公園近くを通り過ぎた。もちろん一角サイを見ることができなかったが。ちなみにアッサム州では石油が出るらしく、石油産業も茶栽培と並んでアッサム州の主要な産業である。
グワーハーティーから約7時間でジョールハートに到着した。幹線道路沿いにある何の変哲もない町だった。しかし明日訪れる予定のマジューリーへの基点となる町である。バス停の近くにホテル街があり、ジョールハートで最高級というホテルに泊まることにした。と言ってもシングルで375ルピー。田舎町で安いホテルに泊まると停電のときにジェネレーターがなくて本当に停電になったり、虫が部屋で大運動会を繰り広げたりしているので、なるべく設備の整っていそうなホテルに泊まることにしている。
アッサムに来て初めて晴天を見た気がする。今日はマジューリーへ行くため気合を入れて朝6時にホテルを出た。チェック・アウトし、荷物をフロントに預けて身軽な格好で出発した。今日はマジューリーへ日帰りで行き、さらにシヴァサーガルへ移動する予定である。
マジューリーは世界最大の川中島である。ブラフマプトラ河の真ん中に浮かんでおり、886平方Kmの面積がある。マジューリーには現在22のサートラーが残っている。これだけが事前に僕が持っていたマジューリーに関する知識だった。いったい世界最大の川中島とはどんなものなのだろうか?サートラーって何だろうか?無性に好奇心が沸き、どうしても行ってみたくなったのだ。
マジューリーへ行くためにはまずバスでジョールハートからニーマティー・ガートまで行き、そこでフェリーに乗ってマジュリーへ渡らなければならない。ところがせっかく6時にホテルを出たものの、ニーマティー行きのバスは7時半が始発だった。バスの中で1時間以上出発を待たなければならなかった。ジョールハートからニーマティーまで7ルピーだった。
ニーマティー行きのバスはジョールハートから北に向かった。まずは竹林の中にある村を通り抜け、それを過ぎると今度は大湿地帯の中を貫いている悪路を、車体をゆっさゆっさと揺らしながら進んで行った。やがて沼地と砂浜の中間のような場所に出た。そこがニーマティー・ガートだった。ジョールハートから約1時間かかった。
「ガート」というとヴァーラーナスィーの沐浴場がすぐに思い浮かんで来るが、どうもガートの元々の意味は船着場のようだ。ニーマティー・ガートにはヴァーラーナスィーのような、河に向かって降りていく階段もなく、沐浴をする人もなく、ただ船着場だけがあった。フェリーが1艘と、数艘の船が停留していた。陸地にはチャーイ屋など数軒の掘っ立て小屋が建っていたが、ヤギが落ち着かない雰囲気でうろついていたりして寂寥とした雰囲気だった。ふとタミル・ナードゥ州のラーメーシュワラムのアダムス・ブリッジ辺りを思い出した。その内向こうの方から人とバイクを満載したモーターボートがやって来た。その船が今日のマジューリー行きの第一便のようだ。9時過ぎにボートは再び乗客とバイクを満載して出発した。15ルピーだった。
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過積載モーターボート |
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僕はそのガートからマジューリーまでただフェリーで対岸まで渡るだけかと思っていた。だが15ルピーという運賃から想像がつくように、マジューリーまでの道は一筋縄ではいかなかった。そのままず〜っとボートはブラフマプトラ河を下り続けた。この辺りのブラフマプトラ河は湖と見間違うほどの流域を誇っており、船で河の中央部に行ったら、両岸がどちらも見えないくらいである。川中島がいくつも浮かんでおり、いったいどれがマジューリーかよく分からない。そうこうしている内に30分が経ち、そして1時間以上が過ぎてしまった。10時半頃、やっとボートは船着場に辿り着いた。
ボートが接岸するや否や、乗客たちはボートから一目散に飛び降りる。陸ではボートのタイミングに合わせてバスが客を待っていた。つまりいい席を取るために彼らはこれほどまで急いでボートから降りて駆け出しているのだ。アッサム人もやっぱりインド人の血を引いているようだ・・・。
マジューリーは湿原と森の広がる美しい場所だった。そして人も住んでおり、いくつか町がある。マジューリーで一番大きな町はガラムルという。とりあえずそこへ行けば何か起こるだろうと思い、ガラムル行きのバスに乗る。ガートからマジューリーまで10ルピーだった。マジューリーの道は一切舗装されておらず、とんでもない悪路である。だがバスから見える景色はまぶしいほどにのどかで美しかった。「地上の天国」、そんな言葉が僕の脳裏に浮かんだ。
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地上の楽園マジューリー |
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ガートからガラムルまでまた1時間ほどかかってしまった。思った以上に移動に時間がかかる。どうせならマジューリーに1泊する予定で来ればよかったと後悔し始めた。ガラムルに着いたときは既に11時半頃になっていた。
マジューリー来訪の第一の目的はマジューリーがどんなところか見ることだったが、第二の目的はサートラーを見物することである。ガラムルにひとつサートラーがあったので、それをまず見ることにした。ガラムルの町の入り口付近に立派な門が建っており、それがサートラーへ通じる道の入り口となっていた。
サートラーへの道をテクテク歩いていると、自転車に乗った青年が話し掛けて来た。彼の名はデニーといい、マジューリーでツーリスト・ガイドをしているらしい。マジュリーには3つの部族が住んでいるそうなのだが、彼はその中のミスィ族にあたるらしい。顔はモンゴロイド。どうも起源はチベットにある部族のようだ。彼とは同い年だったためにすぐに仲良くなり、いろいろとマジュリーのことについて教えてくれた。
マジュリーには60以上のサートラーがあったそうだが、水没したり移転したりして、現在では22のサートラーが残っているそうだ。実はマジュリーは雨季(6月〜9月)に島のほとんどの部分が増水したブラフマプトラ河の下に沈んでしまう。しかしそれでも島には人が住んでおり、水没時にもそのまま住み続けているらしい。確かにマジューリーの人々の家を見ると、高床式になっている。多分そこまで増水するのだろうということが予想できた。毎年水没するため、道路も舗装されずにある。世界遺産に登録する動きもあるのだが、まだまだ実現の日は遠いようだ。マジューリーは秘境中の秘境と言ってよく、外国人旅行者はほとんど来ないが、ロンリー・プラネットに掲載されているため、来る人は来るようだ。彼が言うには僕は彼が会った3人目の日本人だそうだ。
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マジューリーの典型的民家 |
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マジューリーを観光する際、もっともネックとなるのは宿である。ガラムルにサーキット・ハウスという政府の役人のための宿泊所があり、そこが空いていれば泊まることもできるが、確実ではない。またサートラーにはダラムシャーラー(巡礼者用のゲストハウス)があるので、そこに泊まることもできるが、設備は期待できないだろう。つまり、マジューリーは旅行者向けのゲストハウスが全くない場所なのだ。だからデニーはマジューリーにゲストハウスを作る夢を語ってくれた。確かにこんなに美しい場所はそうあるものではない。うまく宣伝すれば、秘境好きのバックパッカーたちがたくさんやって来るのではないだろうか?
また、マジューリーまでの交通と、マジューリー内の交通、どちらも不便であるとしか言いようがない。僕の場合、ジョールハートからガラムルまで4時間もかかってしまった。しかもニーマティー・ガートに戻る最終のフェリーは2時らしい。それを逃したらジョールハートに帰れなくなる可能性が高い。ジョールハートから日帰りで来るにはしんどい場所のようだ。マジューリーで少なくとも1泊するような旅行プランで来るべきだろう。また、マジューリー内にはバスが通っているが、頻繁に通っているわけではないので使い勝手が悪い。オート・リクシャーも島に数台しかなく、常に拾えるものではない。一番いい方法は、誰かから自転車を借りて回る方法かもしれない。
さて、サートラーに到着した。靴を脱いで敷地内に入る。デニーの説明によると、サートラーには僧侶が住んでおり、サンスクリト語、音楽、舞踊などを学んでいるらしい。サートラーごとにいろいろ特色があり、また規則も違うのだが、厳しいところではサートラーは女人禁制で、未婚の人しか住むことができないらしい。
サートラーの基本となる建物(これこそがサートラーなのだが)は寺院とホールが一体化したような建物である。正方形の部屋と屋根の上に塔を持つ本殿があり、その前に長方形の細長いホールが伸びている。この様式の建物は、グワーハーティーからジョールハートに来る間の村でも何度も目にしていた。礼拝の場所であると同時に、集会所や催事場を兼ねた建物のようだ。ガラムルのサートラーのホールの内壁には、クリシュナの生涯の壁画が描かれていた。またガルダの像がホールの一番手前に置かれていた。この建物の周りにサートラー居住者の家がポツポツと立ち並んでおり、ブラーフマンが住んでいる。本殿内部も見せてもらったが、クリシュナやヴィシュヌなどの像が祀られていた。だが基本的に建物は再築されていて新しく、あまり面白くなかった。
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ガラムルのサートラー |
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ホール |
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本殿に祀られている神像 |
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サートラーは仏教の僧院のようなものと考えていいだろう。修行僧が住み込みで宗教や芸術を学び、宗教儀式を行う場所のようだ。ヒンドゥー教のブラーフマン(僧侶)は世襲なので、元々僧院などは必要ない。このサートラーという文化はアッサム・ヒンドゥー独自のものと思われる。
マジューリーで一番すごいサートラーはどこか、デニーに聞いてみたらアウニアティーというところが島で一番大きく、そして一番古いらしい。だがガラムルから10Km離れたところにあり、しかも道が非常に悪いようだ。オート・リクシャーで行く他ない。既に12時を回っており、帰りのフェリーが出発するまであと2時間もない。幸い、ガラムルの町に2台オートが停まっていたので、ガラムルからアウニアティー、アルニアティーからガートへ行ってもらうことにした。値段は涙の300ルピー。べらぼうに高い・・・が売り手市場なので仕方ない。島でオートは高級な移動手段なのだ。それで行ってもらうことにした。デニーとはガラムルで別れた。彼にガイド代を渡そうとしたら、「そういうつもりでガイドしたわけじゃない」と言って断られた。インドでガイドがガイド代を受け取ろうとしないのを初めて見た。しかしそれでも無理矢理受け取ってもらった。是非彼にはマジューリーにゲストハウスを作る夢を実現させてもらいたい。
ガラムルからカムラーバリーという町を通り、そこからアウニアティーへ向かった。確かに道は相当悪く、途中で泥に車輪がはまってしまったこともあった。だが、なんとかガラムルから1時間足らずで到着することができた。
アウニアティーのサートラーには宝物庫があり、パンディット・ジーがひとつひとつ説明してくれた。120年前の木の椅子やら、銀の大皿やら、ナーガー族のヤリやら、象牙やら、船の模型やら・・・。あまり楽しくなかったが、後から聞いた話では、ここに所蔵されている象牙はかなり貴重な品のようだ。
次にアウニアティーのサートラーを見せてもらった。パンディト・ジーが言うには17世紀に建てられたものらしいが、やはりガラムルと同じく建物は再築されており、そう古くなかった。しかしホールの大きさはガラムルの2〜3倍はあり、やはりガルダの像が一番手前に飾られていた。本殿にはゴーヴィンダ(クリシュナ)やヴァスデーヴァ(クリシュナの父)などが祀られていた。
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アウニアティーのサートラー |
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僕は時間がなくて22あるサートラーの内のわずか2つしか見ることができなかったが、どうも建築や彫刻に期待をしてはいけないようである。かなり期待外れだった。その代わりデニーが言うには、運がよければダンスや音楽のパフォーマンスをサートラーで見ることができるようだ。
2時のフェリーには間に合い、何とかジョールハートに戻ることができた。しかし帰りのフェリーはかなり鈍足で、しかもブラフマプトラ河の流れに逆らう形で進むことになったので、ニーマティー・ガートまで2時間半もかかってしまった。行きの2倍以上かかったことになる。
5時半にジョールハートのホテルに戻った。そこで食事をとる。今日は思った以上にいろんなところで時間がかかってしまって食事をするタイミングが取れなかった。だから朝からサモーサーとチャーイしか口にしていなくてずっと腹ペコだった。クタクタに疲れていたのでそのままもう1泊してもよかったのだが、どうしても今日中にシヴァサーガルへ行っておきたかった。荷物を受け取った後、バス停に向かってシヴァサーガル行きのバスに乗り込んだ。バスは7時頃に出発し、シヴァサーガルには8時半過ぎに到着した。
シヴァサーガルではアッサム州観光局経営のツーリスト・バンガローに宿泊した。部屋は広くて清潔で、宿の主人も親切な人だった。シングルで210ルピー。敷地内にツーリスト・オフィスがあるので便利である。
アッサム地方には13世紀から1826年まで600年以上続いたヒンドゥーの王朝があった。アホム王国である。日本で言えば鎌倉時代から江戸時代までずっと続いた王朝、ということになるだろう。アホム王国は現在のミャンマーに住んでいたシャン族がアッサム地方に侵入して作った王朝だったが、ヒンドゥー教を受容し、ムガル朝の17回に渡る攻撃を跳ね返して、独自のアッサム・ヒンドゥーを発展させた。そのアホム王国が600年間首都を置き続けた場所がこのシヴァサーガルである。
シヴァサーガルの街の中心となるのは、街の名前と同名のシヴァサーガルという巨大な人造湖と、その湖畔に建つシヴァドール寺院である。僕の泊まったツーリスト・バンガローもシヴァ・サーガルの湖畔にあり、シヴァドール寺院から歩いてすぐである。今日はシヴァドール寺院から観光を始めた。
シヴァドール寺院はアッサム地方で最も高い塔を持つシヴァ寺院である。高さは33mある。ロンリー・プラネットには「インドで最も高いシヴァ寺院」と書かれていたが、インドで最も高いシヴァ寺院はタミル・ナードゥ州のタンジャーヴルにあるブリハディーシュワラ寺院だろう(66m)。ツーリスト・オフィスでもらった観光案内にはちゃんと「アッサム地方で最も高いシヴァ寺院」と書かれていた。だが「シヴァ寺院」と限定するということは、他にもっと高いヒンドゥーの寺院があるということなのだろうか?別に高さで競い合っても仕方ないとは思うのだが・・・。1734年に造られた寺院だそうだ。
シヴァドール寺院を実際に見てみると、はっきり言ってそんなに巨大な寺院ではない。パンフレットの写真では黒ずんだ石肌むき出しの味のある寺院なのだが、現在ではなぜか塔部分がピンク色のペンキで塗られており、俗っぽい雰囲気になっていた。またマジューリーで見たサートラーのように、本殿前は細長いホールとなっていた。本殿内部には不思議な形の水路(ヨーニ?)があった。参拝者は水路に頭をつけて祈っていた。
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シヴァドール寺院 |
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何となく気分が乗っていたので、シヴァドール寺院のスケッチをすることにした。シヴァサーガルで最も有名な寺院であるのはもちろんのこと、アッサム州でも最も重要な寺院らしい。絵は2時間半ほどで完成。まあまあの出来だった。
シヴァドールの次は、シヴァサーガル市街地から4Km離れたところにあるラング・ガルを見に行った。シヴァドール寺院前の交差点からテンポ(乗り合いオート)を拾って行くことができた。だが行ってみてビックリ。こんなところにも外国人料金が設定されていた。インド人料金5ルピーに対し、外国人料金100ルピー。しかし「僕は日本人だがインドに住んでいるからインド人料金だ」という理論を使ったら、しぶしぶながらも5ルピーで入れてもらえた。最近遺跡のチケット・カウンターの人が規則に厳しくなっており、インド人料金で入ることができる確率が低くなっていたのだが、さすがにアッサム州はまだ人情が生きていた。外国人料金が設定されて以来、インド政府と壮絶な戦いをしているような気分になる。
ラング・ガルは18世紀半ばにアホム王国の王プラマッタ・シンガーによって建てられた2階建ての建物である。王家の人々がここから象の決闘やスポーツを観戦したらしい。現在ではピンク色の壁に黒い屋根という色合いだが、ラング・ガル(色の家)という名の通り、当時はきれいに彩色されていたと思われる。壁にはところどころにキラリと光る彫刻が施されていた。この建物で一番センスを感じるのが、屋根の上にある舟型の彫刻である。この彫刻がなければラング・ガルの魅力は半減していただろう。だが結論として、100ルピー払って見る価値のある建物とは思えなかった。5ルピーで十分だろう。どちらかというと、ラング・ガルの正面にある公園から見た方がきれいだ。この公園には色とりどりの花が植えられており、ラング・ガルをラング・ガルたらしめている。本当は入場料3ルピー、カメラ料10ルピー必要だが、特別にただで写真だけ撮らせてもらえた。
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ラング・ガル |
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インド人料金で入場することができて気分がよかったので、ラング・ガルもスケッチすることにした。2時間半ほどかけてスケッチした。これもまあまあの作品に仕上がった。
ラング・ガルの近くにもうひとつ遺跡がある。タラータル・ガルまたはカレーン・ガルと呼ばれるアホム王国の王宮跡である。18世紀初頭のアホム王国最盛期の王ルドラ・シンガーによって造営された。ここも外国人料金100ルピー、インド人料金5ルピーだったが、僕は5ルピーで入ることができた。しかしタラータル・ガルの規模はなかなかのものだったが、保存状態があまりよくなくて、取りとめのない廃墟という感じだった。八角形の小さなシヴァ寺院が残っていたが、内部は物置となっていた。地下3階、地上4階の宮殿も崩壊状態だった。これも100ルピー払う価値は絶対にない。
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タラータル・ガル |
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他にもシヴァサーガルには多くの人造湖、寺院、遺跡などが残っている。だがタラータル・ガルを見る限り、概してアホム王国の建築物に優れた特徴があるとは思えなかった。保存状態もあまりよくなさそうだ。結局ラング・ガルが一番見る価値のある遺跡だと言える。今日は2つもスケッチをして疲れたので、他の場所は見るのはやめてホテルに帰ってしまった。
ところで、街中で「シヴァサーガル」の表記を見ると4種類あることに気が付いた。英語で「Sivasagar」または「Sibsagar」、それにアッサミー語と稀だがヒンディー語である。英語表記の「Sivasagar」はヒンディー語的表記法、「Sibsagar」はアッサミー語的表記法である。現地人の発音を聞くとアッサミー語的「シブシャーゴル」とヒンディー語的「シヴサーガル」両方あった。僕はインドの地名をカタカナ化する際、基本的にヒンディー語至上主義をとる方針なので、「シヴァサーガル」と表記していくことに決めた。他にもアッサムに来てからいろいろ地名を見てきたが、カタカナ表記することを考える際に問題となりそうな例がいくつかあった。例えばナガーオンという町の英語表記は「Nagaon」と「Nowgong」があった。前者がヒンディー語的、後者が英語的かつアッサミー語的表記法である。やはり現地人の発音では「ネゴーン」「ナガーオン」両方ある。これもヒンディー語を基にして「ナガーオン」と表記した。
早朝ホテルをチェック・アウトして7時半発グワーハーティー行きのバスに乗った。今日は1日移動の日である。アッサム州を一気に南下して、メーガーラヤ州の州都シロンへ向かう。政府系のデラックス・バスでグワーハーティーまで175ルピーだった。シヴァサーガルからグワーハーティーまで363km。
バスがシヴァサーガルを出ると急に雨が降り出した。アッサム州は雨の多いところで、ほとんど毎日のように雨が降っている。昨夜も嵐だった。だがありがたいことに今まで雨が降ったら困るときに雨に降られたことはない。いつもどうでもいいときに雨が降ってくれる。僕は相当晴れ男のようだ。今回もバス移動中に降ってくれたので何の支障もなかった。
ジョールハートを通過し、カズィランガ国立公園を通り過ぎて、12時頃にナガーオンのバス停で昼食休憩になった。食堂があったのでそこでターリーを食べたのだが、それが非常においしかった。アッサム州に来て以来ほぼ毎日のようにフィッシュ・カレーを食べているが、これがおいしいの何のって・・・。デリーじゃ味わうことのできない旨さである。
グワーハーティーには3時頃到着。パルターン・バススタンドですぐにシロン行きのプライベート・バスを見つけて乗り込んだ。シロンまで約100km、60ルピーだった。バスは3時半に出発した。
メーガーラヤとは「雲の家」という意味である。州全体がアッサム州とバングラデシュに挟まれた山の上にある。名前の通り年中雲に覆われており、世界で最も湿度の高い地域として、そして降雨量の最も多い地域として有名である。州都のシロンは「東洋のスコットランド」と呼ばれている。メーガーラヤには主にカシ族、ジャインティア族、ガロ族の3部族が住んでいる。
グワーハーティーを出てしばらくすると、バスはグングンと山を登っていく。まさにエンジン泣かせの坂。途中の道をトラックが黒煙を吐きながらノロノロと列をなして登坂していた。それを追い越しながらグングン登る。いつアッサム州からメーガーラヤ州に入ったかよく分からなかったが、気付くと途中通過する村の様子が変わっていた。
僕はノース・イーストに来る前にある推測を立てていた。もしノース・イーストの文化がインドよりも東南アジアに近いなら、必ず外で働く女性の数が増えるはずである、という仮説である。一般的にインドでは、市場などで物を売る人は十中八九男である。インドでは外で働くのは男で、家で働くのは女という役割分担がはっきりしている。ところがタイなどの東南アジアでは、女性はとても働き者で、女性が店番をしている姿を見ることが多い。男は何をやっているかというと、タバコを吹かしたりトランプをしたりして、実用的なことは何もしてない、ということが多い。そういえば白人女性がインドの社会を見て「男が女性の社会進出を抑圧している」と批判し、東南アジアの社会を見て「男は何もしていない」と批判し、とにかくアジアの男は悪いと結論付けているのを見たことがあるが、どちらも文化なのだから、他人がとやかく言うことではないと思う。
さて、実際に見たノース・イーストの様子だが、アッサム州はまだインド文化の影響が強いためか、外で働いている女性の姿はそんなに多くなかった。だが、メーガーラヤ州に入った途端、店番の主な担い手が女性に変わった。パーンを売る人も、雑貨を売る小屋の中にいる人も、女性の姿が圧倒的に目立つようになった。ただ、男性の店番も少なくなかったが。一応推測が外れていなかったことが密かに嬉しかった。
顔はやはり東南アジア系である。背は低く、色は黒い。女性の服装もサーリーではなく、左肩に引っ掛けるローブのようなものを身にまとっていた。男性は特に特徴のある服は着ていなかった。以前書いたように、ここでも赤ちゃんをおんぶをしている人の姿が目立った。
7時半頃、シロンに到着した。もう暗くなっていたので周りの風景はよく見えなかったが、シロンは案外大きな町に思えた。標高は1496m。湿気の多い場所だと聞いていたが、涼しくて非常に過ごしやすい気候だ。とりあえず今日は晴れていたので、雲の覆われたような雰囲気ではなかった。山の上の町というと、今までシムラーやダラムシャーラーなどを見てきたが、ヒマーチャル・プラデーシュ州の山の町に比べると建物の密集度が低く、森の中に町があるような雰囲気である。
ホテルを探してシロンの中心街ポリス・バーザールをうろついている内に8時になった。するとあちこちの店が次々とシャッターを下ろし始めた。どうもシロンの市場は8時で終了のようだ。レストランまでシャッターを下ろしている。早くせねば、と急いで部屋の空いているホテルを探し、結局ホテル・モンスーンに泊まることにした。部屋は小さいが清潔で、テレビもあった。1泊275ルピー。
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5月8日(木) 雨に愛された町チェッラプンジ |
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シロンの近くにチェッラプンジという町がある。メーガーラヤ州の主要な観光地のひとつであり、周りにいろいろと見所がある。なんとこの町は世界で一番降水量の多いところだそうだ。年間平均降水量が12063mm。東京の年間平均降水量が1523mmなので、実に東京の8倍もの雨が降る計算になる。1974年には世界記録の24555mmの雨が降り、1995年6月16日にはなんと1日で東京の1年間の降水量とほぼ同じ、1563mmの雨が降ったらしい。いったいどんな雨だろう、想像がつかない。海をひっくり返したような雨だろうか。雨季の6月〜7月には、ノンストップ・レインが降るそうだ。とにかく雨の多い場所である。
メーガーラヤ観光局が毎日チェッラプンジ周辺の観光地を巡るツアーを主催している。今日はこのツアーに参加して1日チェッラプンジ観光をすることにした。朝8時出発で、1人125ルピーだった。僕以外は皆インド人。アッサム州、マハーラーシュトラ州、ケーララ州などなどいろいろなところから来ていた。シロンは涼しい気候の場所なので、避暑に来ているインド人がたくさんいる。かつてコールカーターなどのベンガル人にとって避暑地といったらダージリンだったが、ダージリンは残念ながら観光業に汚染されてしまったので、最近の避暑トレンドはもうシロンに移っているそうだ。
このツアーでまず驚いたのは、女性のバスガイドが付いていたことだ。カシ族のおばさんで、バスから見える景色を解説したり、参加者の面倒をよく見ていた。インドで女性のバスガイドが付いたツアーを初めて見た。やはりメーガーラヤ州は女性が積極的に社会に参加している。カシの女性を見ていると、インド人女性にはないフットワークの軽さがある。よく動き、よく働く。
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カシ族のガイド
チャイナ・ドレスの原型のような
民族衣装を着ていた |
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シロンを出たバスは山道を登っていく。まずはマウクドク谷という景色のいい場所で停まった。そこからはメーガーラヤ州の美しい台地がよく見えた。ガイド曰く何かの映画でサルマーン・カーンがここで踊りを踊ったそうだ。こういう言い方をするとインド人は非常に喜ぶ。前々から思っていたのだが、絶対にインドの映画産業と観光業はタイアップして相互に利益を享受することができると思う。この映画でこの俳優がロケを行い、この歌に合わせて踊った、という情報を集めて旅行ガイドブックにすれば、映画好きなインド人を絶対に惹き付けることができると思う。当地の観光業にもプラスになるし、その映画が人々の記憶に残る可能性も高くなる。しかしまだそこまでインド人の知恵が回っていないようだ。とにかくスイスやカナダなどの景色のきれいな外国でロケをすれば売れると思っているプロデューサーも多い。だが、インドにはそれらの国にも負けない美しい場所がいくつもある。予算も少なくて済むし、わざわざ無理に外国ロケする必要はないと思う。
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メーガーラヤ州の風景 |
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マウクドク谷からバスは台地の上に出た。メーガーラヤ州の地形はまるでパソコンのキーボードのようだ。側面は急傾斜、上面は平らな、同じ高さくらいの台地がいくつも突き出ている。そして表面は豊富な緑で覆われている。キーボードの中に迷い込んだような独特の景色がずっと続く。またメーガーラヤ州では石炭がたくさん採れる。台地の上にはいくつも石炭の山ができており、人々が手作業で石炭を掘り出していた。
バスはチェッラプンジに到着した。次の目的地はチェッラプンジの丘の上に建っているラーマクリシュナ・ミッションの建物だった。ラーマクリシュナ・ミッションはヒンドゥー教の一派である。ここには博物館があり、メーガーラヤ州に関する情報を仕入れることができる。メーガーラヤの3部族のこと、彼らの使っている道具、衣類、武器、祭りの様子などが展示されている。
次に行ったのはノーカリカイ滝。ノーカリカイ滝は世界で4番目、インドで2番目に長い落差を誇る滝である。ノーカリカイ滝にはこんな伝説がある。
| ノーカリカイ滝の伝説 |
| 昔リカイという女性がいた。リカイは未亡人で1人の娘がいた。彼女はある男と再婚したが、その男はリカイの娘を嫌っていた。ある日リカイが鉄鉱石を運ぶために外出していたときに、彼は娘を殺してカレーにしてしまった。彼はリカイにそのカレーを食べさせた。リカイはそのカレーを食べたが、娘の指を見つけ、夫が娘を殺したこと、そしてそれを食べてしまったことを知る。リカイは悲しみの余り気が狂ってしまい、滝から飛び降りて自殺した。彼女の名前を取ってその滝はノーカリカイ(リカイの滝)と呼ばれるようになった。ちなみにカシ語で「ノー(Noh)」は「滝」、「カ(Ka)」は女性であることを表す言葉である。 |
日光の華厳の滝も自殺の名所として有名だが、どうして人は滝から飛び降りたがるのだろうか。ノーカリカイ滝は一筋の滝で、ダイナミックな水の落ちぶりだった。インドで一番の落差を誇る滝はどこにあるのかよく分からなかった。
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ノーカリカイ滝 |
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次に行ったのはマウスマイ洞窟。入場料5ルピー、カメラ料15ルピーが必要だった。メーガーラヤ州には無数の洞窟があり、このマウスマイ洞窟もそのひとつである。ここは洞窟全体が電灯で照らされているので懐中電灯がなくても気軽に探検できる洞窟だ。ほとんど人工的な手が加えられておらず、非常に狭い穴をくぐっていったり、自分で足場を見つけて進んで行ったりしなければならない。また、日本の鍾乳洞のように鍾乳石を保護しようとかそういう考えは全くないので、気軽にあちこち触ったりすることもできてしまう。ここは非常に楽しかった。
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マウスマイ洞窟 |
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次に行ったのはコー・ラムハー。ガイドは「自然に出来た巨大なシヴァ・リンガ」と言っていた。なんと断崖絶壁に沿って一本の巨大な柱のような岩がそそり立っていた。確かにシヴァ・リンガに見えないこともない。コー・ラムハーはカシ続の人々にとっても聖なる岩として信仰の対象になっているらしい。またこのコー・ラムハーはメーガーラヤの丘陵地帯の端に位置しており、眼前には広大な平野が広がっていた。そこはもうバングラデシュである。
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コー・ラムハー
平野部の河はもうバングラデシュ領 |
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次に行ったのはタンカラン公園。入場料5ルピー、カメラ料10ルピーが必要だった。ここからはキンレム滝を展望することができる他、「ノン・ヴェジ・ツリー」を見ることができる。非菜食主義の木?何じゃそりゃ?ガイドが「ノン・ヴェジ・ツリー」と言ったときにはいったい何のことか理解できなかったが、実際に見てみたら納得。日本で食虫植物と呼ばれている植物のことをインド人は「ノン・ヴェジ・ツリー」と呼んでいたのだ。この公園にあったのはウツボカズラで、袋に蓋が付いたような形の植物だ。実は子供の頃僕は食虫植物が大好きで、ウツボカズラも飼育していた。あのときは近所の園芸屋で買ってきたが、この辺りには自生しているようだ。遂にあの頃の憧れの植物の故郷にやって来たか・・・。感慨もひとしおである。ところでノン・ヴェジ・ツリー以外の植物ってヴェジタリアン・ツリーなのだろうか?彼らは水しか飲んでないと思うのだが・・・。
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ノン・ヴェジ・ツリー
ウツボカズラ |
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最後にノースンギティアン滝を見た。この滝は雨季には7筋の滝が流れるため、セブン・シスターズと呼ばれているそうだ。だが今は2筋しか流れていなかった。これも壮大な滝だった。このノースンギティアン滝の展望ポイントにレストランがあり、ここで昼食を食べてツアーは終了となった。4時半にはシロンに到着した。
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ノースンギティアン滝
現在はツー・シスターズ
雨季にはセブン・シスターズになる |
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やはりメーガーラヤ州の最大の見所は自然である。各地に湖、川、滝、洞窟などがあり、ピクニックやトレッキングに非常に適した場所である。その他興味深かったのは、あちこちに建っているモノリスである。平べったい石が直立、または平行に置かれている。ストーン・ヘンジやモアイなどと並ぶ古代文明の跡、と書きたいところだが、おそらくカシ族の元々の信仰対象か、墓だと思われる。ガイドは、直立しているのが男性の象徴、平行に置かれているのが女性の象徴であると説明していた。シヴァ・リンガとの関連も興味深い。注意してメーガーラヤの風景を見ると、各地に大小様々なモノリスを発見することができる。シロンにすらある。
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摩訶不思議なモノリス群 |
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もちろん田舎に住むカシ族の様子を見るのも楽しい。日本人と同じ顔をした人々がいるので、不思議な気分だった。だがインド人はあまり部族の習慣や風俗などに興味はないようだ。彼らは景色の写真を撮ったりするだけで満足していた。
前述の通り、チェッラプンジは世界で最も降雨量の多い場所である。だからいつ雨が降ってもおかしくないのだが、なぜか今日はずっと快晴だった。おかげで観光に非常に適した日だった。ガイドも「あなたたちはラッキーだ」と言っていた。昨日のツアーでは土砂降りだったらしい。また僕の晴れ男ぶりが発揮されてしまったのか?
シロンの本屋で「Meghalaya Land Of Enchantment」という本を買った。メーガーラヤ州のことがいろいろ書いてあったので、その中から個人的に興味のあることをまとめておく。
メーガーラヤ州にいる部族は3つあり、メーガーラヤ州西部に住むのがガロ族、中部に住むのがカシ族、東部に住むのがジャインティア族である。シロンやチェッラプンジはカシ族の土地だ。ガロ族はチベットから来たと言われ、チベット・ビルマ語族の言語を話す。一方、カシ続とジャインティア族は東南アジアから来たと言われ、モン・クメール語族系の言語を話す。ガロ族の言語はガロ語、カシ族の言語はカシ語、ジャインティア族の言語はプナル語と呼ばれている。公用語は英語。だが少なくともシロンの人は英語、ヒンディー語両方とも話すことができる。一方、メーガーラヤ州に入ると急に看板からヒンディー語やアッサミー語が消える。まるで頑なにヒンディー語などの他言語を拒否しているかのようだ。英語か、現地語をアルファベット表記した言葉が書かれている。また、メーガーラヤ州の主要部族はカシ族であるため、州全土でカシ語が通じるそうだ。
ノース・イーストではキリスト教宣教師が積極的に布教活動をしたことから、キリスト教徒が非常に多いのだが、メーガーラヤ州では他の州ほどキリスト教徒の数は多くない。全人口の52%がキリスト教徒で、ヒンドゥー教徒が16.5%、イスラーム教徒が2.5%、その他仏教徒、スィク教徒、ジャイナ教徒などがわずかながらいる。キリスト教徒の比率が低いということは、つまり彼らはオリジナルの信仰をよく保存しているということだろう。とは言え、メーガーラヤ州各地で教会や十字架型墓地をよく目にする。
メーガーラヤ州の部族は母系社会として有名である。母親の系統で家系が続いている。親族関係や祖先は常に母方が中心となる。この母系社会のシステムが、カシ族の女性が働き者であることの大きな要因であろう。女性は外で働き、男性は家で料理をしたり子育てをしたりしているそうだ。だが家長はやはり男性のようで、父親などが有事に際して最終的な決定権を持っている。とは言え、基本的に男女平等の社会と見ていいだろう。また結婚に際しては族外結婚が基本のようである。つまり少しでも血縁関係にある者同士は結婚しない。
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カシ族の働く女性 |
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ツアーでもらったパンフレットに基本的なカシ語が紹介されていたので掲載しておく。
| カシ語 |
| Khublei |
神様の恵みがありますように。カシ語の挨拶。 |
| Khublei shibun |
ありがとうございます。 |
| Phi long kumno? |
お元気ですか? |
| Nga shait nga khlain |
元気です。 |
| Thiah suk |
おやすみなさい。 |
| Katno ka dor ine? |
これはいくらですか? |
| Ai 〜 seh |
私に〜を下さい。 |
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5月9日(金) 巨人の遊び場ジャインティア・ヒルズ |
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メーガーラヤ州にはカシ族、ジャインティア族、ガロ族の3部族が住んでおり、シロンやチェッラプンジはカシ族の居住地域にあたる。ガロ族の住むメーガーラヤ州西部はシロンから遠いのだが、ジャインティア族の住むメーガーラヤ州東部(ジャインティア・ヒルズ)はシロンからすぐそこである。今日は天気がよかったらジャインティア・ヒルズへ行き、雨が降ったらグワーハーティーに戻ろうと思っていたが、見事に昨日に勝るとも劣らないほどの快晴。ジャインティア・ヒルズを訪れることに決定した。
昨日はちょうどメーガーラヤ州観光局が主催するツアーに参加して、安く手っ取り早くチェッラプンジ周辺の観光地を巡ることができたのだが、ジャインティア地方へ行くツアーはなく、タクシーをチャーターしなければならなかった。メーガーラヤ州は坂道が多いため、サイクル・リクシャーは存在せず、オート・リクシャーの数も少ない。町で最も目にするのは、黄色と黒のツートン・カラーに塗られたマールティー・スズキやアンバサダーのタクシーである。
ちょうどホテルのレセプションにタクシー・ドライバーをしている人がいた。僕がレセプションの人とジャインティア観光の相談をしているのを聞いて、彼が僕に話し掛けて来た。どうも彼はジャインティア方面に行ったことはないようだが、連れて行ってくれるということだった。言い値は1500ルピー。シロンのタクシーのチャーター代は1時間120ルピーということなので、仮に8時間かかるとして900ルピー〜1000ルピーくらいだろう。値段交渉をして結局1100ルピーで行ってもらうことにした。
昨日買った「Meghalaya Land Of Enchantment」に、ジャインティア・ヒルズの見所がいろいろと載っていた。その中から面白そうなスポットを選らんであらかじめリスト・アップしておいた。昨日はたくさん滝を見たのでもう自然はあまり見たくない。何か他とは違うものを見てみたかった。基本的にそのリスト通りに廻ってもらった。
ドライバーはメーガーラヤ州生まれのベンガル人で、ヒンディー語が通じたので助かった。自動車はマールティー・スズキ。彼とはお互いの身の上話やらメーガーラヤ州のことやらいろいろ話をした。彼は2人兄弟3人姉妹の次男だそうだ。彼の父親は早くに亡くなってしまい、3人の姉妹は結婚して家を出てしまい、また兄はカシ族の女性と結婚して母系社会の習慣に従って嫁の家へ入ってしまったので、彼が年老いた母親を1人で養っているそうだ。主にタクシーで観光客を相手にシロンやチェッラプンジを廻っているようだが、今日初めてジャインティア方面へ行くそうだ。あまり外国人と接したこともないようで、デジカメも初めて見たと言っていた。
シロンを出てジャインティア・ヒルズの中心都市ジョワイに通じる国道40号線を東に進む。この道はトリプラー州の州都アガルタラーまで通じているそうだ。やはり丘陵地帯がどこまでも続く美しい風景だ。道路も非常にきれいに舗装されている。メーガーラヤ州政府は道路の整備に力を入れているそうだ。しかしこんなに美しいメーガーラヤ州の残念なところは、道の途中で列をなしてノロノロと坂を上っているトラックである。メーガーラヤ州の特産品、石炭を運搬するためにこれだけ多くのトラックがあちこちを走っているそうだが、このトラックが汚ない黒煙をブォ〜と吐きまくっているのだ。環境汚染しまくりである。トラックの裏についたり、追い越したりするときにこの汚染された黒煙が容赦なく自動車の中に入って来て、臭いの何のって・・・。だからトラックに近付いたら急いで窓を閉め、通り越したらまた窓を開ける、という行為を繰り返さなければならない。また、急な坂道の登坂に力尽きたトラックが道の真ん中に立ち往生していたりすることもしばしばである。
国道40号線を東に進み、カシ族の領土からジャインティア族の領土へ入った。ジョワイへの道を途中で左折して、まずはナルティアンという町へ向かった。ナルティアンはジャインティア王国の首都だった場所である。鬱蒼とした林を通り抜けてナルティアンへ向かう。・・・急にドライバーがテロリストの話をし始めた。メーガーラヤ州の森林にはテロリストが住んでおり、政府に反抗して通行人を殺害したりしているらしい。この辺にもいるのか、と聞いてみたら、いる、と言われた。・・・ってやばいじゃん、それ・・・!早く言ってよ!急に周りののどかな林の風景が危険な森のように見え始めた。テロリストたちはシロンのバーザールに店を構えている人々にショバ代を要求しているようで、もし金を払わないと店を襲撃するらしい。だから店主たちは皆テロリストに金を払っているそうだ。シロンの店が6時頃から次々とシャッターを下ろし始め、8時にはもう全ての店が閉まってしまう理由が分かった。あの差し迫った雰囲気は異常だと思っていたが、テロリストを恐れてのことだったのだ。メーガーラヤ州は他のノース・イースト各州に比べて比較的安全とのことだが、やはりテロリストの脅威にさらされ続けている地域であることを忘れてはならないようだ。
ナルティアンはのどかな田舎町だった。まずは丘の上にあるドゥルガー女神寺院へ行った。ここは500年の古さを誇るヒンドゥー寺院で、かつては人身供養が行われていた場所である。現在、年老いたベンガル人のパンディト・ジーが管理していた。パンディト・ジーに「この寺院はどれだけ古いのですか?」と敢えて質問してみたら、「ざっと2000年じゃ」という答えが返って来た。ドライバーは何でも信じてしまう性格らしく、「バープレ!」とひたすら驚いていた。建物自体は新築されているので古さを感じないが、生贄を殺すためのまな板と、遺体を放り込む穴が残っていた。ナルティアンには他にもいくつかヒンドゥー寺院があるが、それら全てをそのベンガル人のパンディト・ジーが管理しており、ドゥルガー女神寺院以外は見る価値ないと言われたので行かなかった。
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かつてこの上で
人身供養が行われたという |
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ドゥルガー女神寺院は見てもそんなに楽しいものではないが、ナルティアンには世界に誇るべき素晴らしいものが他に残っていた。町のすぐそばに、無数のモノリス群がそのままの姿で保存されているのだ。地面から直立している細長い石と、小さな石に支えられて地面と平行に浮かんでいる平らな石の組み合わせがいくつも並んでいる。これはかなり息を呑む風景である。地元の人はやはりモノリスは神様だと言っていた。だが僕の直感では、墓か、家の跡のように見えた。ここでは最近までジャインティア族が定期市を開いていたようだが、遺跡を保存するため、現在ではこのモノリス群の隣に市場は移っている。
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ナルティアンのモノリス群 |
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このモノリス群の中でもさらに有名なのは、メーガーラヤ州で一番高いモノリスである。高さは8mあり、数あるモノリスの中でも群を抜いて巨大である。伝説では巨人マル・パランキとルー・ランスコル・ラマレによって建てられたらしい。メーガーラヤ州では日本のデイダラボッチのような巨人伝説がけっこう残っている。ナルティアンのこのモノリス群と、最大のモノリスはインドの他の地域では見ることのできない素晴らしい見所である。
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メーガーラヤ州最大の
モノリス |
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現在このモノリス群はただ囲いがしてあるだけで、管理はされていないに等しい。入場料も当然ない。だが地元の人が言うには、2ヵ月後にインド考古学局の調査員がここに調査しに来るらしい。インド考古学局と言ったら、インド各地の遺跡に法外な外国人料金を設定している張本人である。そいつらが来てここを観光地として認定してしまったら、きっと入場料を設定し、外国人料金も取るようになるだろう。彼らより一足先にここに訪れることができたので勝利感が沸いたが、同時に、早くインド中のマイナーな観光地を巡っておかなければ、全て外国人料金を設定されてしまう、という危機感も持った(もっとも、1100ルピーも出して一人でタクシーをチャーターした外国人に文句を言う筋合はないかもしれないが・・・)。
モノリス群の近くには、小川に横たわるモノリスもあった。このモノリスは橋代わりに利用されていたそうで、何かの祭りのときにこのモノリスのプージャーが行われるそうだ。
ナルティアンを出て国道40号線に戻り、再びジョワイへ向かう。途中、タドラスケイン湖に寄った。この湖は四角形をした人造湖で、伝説ではサジャル・ナンリという男が鍬で地面を一突きしただけで出来た湖らしい。湖畔では地元の女性たちが洗濯をしていた。
シロンから東に66km、ジャインティア族の中心都市ジョワイに到着した。さすがにシロンに比べれば規模は小さいが、それでもシロンとジョワイの間には村しかないので、大きな町に見える。カシ族とジャインティア族は別の部族で、言葉も違うのだが、一目で分かる違いのようなものはあまりなかった。・・・どちらかというとカシ族の方が美人が多いか・・・。ジャインティア族の顔はモンゴロイドの血がより濃いような気がした。服装もカシ族と似ているが、腰に巻く布が特徴的だった。
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ジャインティア族の親子 |
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まずはジョワイの町の麓にあるキアン・ノンバー記念碑を見に行った。4階建てのタワーのような建物で、あまり見て楽しいものではなかった。門が閉まっていたので上に上ることもできなかった。キアン・ノンバーとはジャインティア族の英雄で、英国とインド独立を賭けて戦ったフリーダム・ファイターのことらしい。
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キアン・ノンバー記念碑 |
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記念碑にはキアン・ノンバーについて以下のように説明してあった。
| ジャインティア族の英雄キアン・ノンバー |
キアン・ノンバーはジャインティア・ヒルズが生んだ最高の勇者である。彼はインドの歴史に刻まれるべきフリーダム・ファイターだった。彼は1862年から63年にジャインティア・ヒルズから大英帝国の勢力を駆逐するために戦った。
1862年12月27日、不幸にも彼はマンセル村のウムカラに病気で横たわっていたところを卑劣な英国兵士に捕らえられてしまった。そして1862年12月30日にジョワイのイアウムシアンで公開処刑された。絞首台から彼は住民たちに言った。「絞首刑の後、もし私の顔が東に向いたなら、我々は100年以内に自由を得ることができるだろう。もし私の顔が西に向いたなら、我々は永遠に奴隷のままだろう。」
彼の言葉は真実となった。殉死した愛国者の顔は東を向き、インドは1947年に独立を果たした。 |
キアン・ノンバー記念碑を見た後、ジョワイのマーケットをちょっとぶらついてみた。驚いたことにジョワイの人はヒンディー語も英語も通じなかった。ジャインティア族の言葉プナル語か、カシ語のみが通用した。外国人は珍しいようで、僕はかなりみんなからジロジロ見られた。やはりマーケットの店番をしているのは女性が圧倒的に多い。ジョワイのバス停の向かい側に大きな庶民バーザールがあるのだが、そこはどこを見ても女女女・・・。インドの中でも、おそらく世界の中でも非常に珍しい女性だらけのマーケットだった。シロンの庶民バーザールも見たのだが、やはりシロンは都会であるし、ベンガル人が多いため、男性の商人も多かった。ジョワイのマーケットは買い物客以外、男を見つけることは困難である。この女マーケットは密かに必見の見所だと思った。このマーケットの観光価値は僕が世界で最初に発見したのではないだろうか・・・いや、何事にも先人がいるかな・・・。また、このマーケットでカブトムシの幼虫のような虫を売っているのを見た。どうもここらの人は虫を食べるようだ・・・。ちなみにジョワイの特産品はターメリックである。ドライバーもわざわざターメリックを市場で買っていた。1kg60ルピーだった。
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ドキッ!女だらけのマーケット |
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蟲 |
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ジョワイ特産品ターメリック |
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アッサム州を旅行していたときからずっと思っていたが、ノース・イースト各州の人々は他地域の人よりもパーンをよく食べている。特にメーガーラヤ州の人々はまるで三度の食事よりもパーンが好きなのではないかと疑われるくらい常にパーンを食べている。チェーン・パーン・イーターだ。しかも女性がパーンを食べているのが目立つ。上の写真の女の人もパーンを食べているため、口が真っ赤である。マーケットにもパーンの材料になるキンマの葉が大量に売られていた。
ジャインティア・ヒルズで他に是非訪れてみたかった場所があった。インドで一番の長い洞窟と言われるウムラワン洞窟(6.5km)と、11の独立した洞窟が並ぶというサンダイ洞窟である。しかしそこまで行く道は相当悪いようで、しかもテロリスト居住地域にあたるため、現在観光客には開かれていないそうだ。仕方ないのでこれでジャインティア・ヒルズ観光を切り上げてシロンに帰った。
ジャインティア・ヒルズの見所は何と言ってもナルティアンのモノリス群だ。そしてジョワイの女マーケットは一見の価値がある。シロンからバスでジョワイまで行って、ジョワイでタクシーをチャーターしてそこから約20km離れたナルティアンへ往復するのが最も安上がりかつ手軽な観光方法だろう。ただ、ジョワイは英語やヒンディー語が通じないので、やはりシロンでタクシーをチャーターした方がいいかもしれない。
今日はジャインティア・ヒルズ観光後、シロンの本屋で「An Introduction to the Khasia Language」という本を買った。僕は専門が言語学なので、非常に各地の言語に興味がある。けっこう分かりやすく解説してあって、カシ語の基礎文法を大体理解できた。非常に面白いと思ったのは、名詞の複数形の性である。カシ語の名詞には性の区別(男性名詞と女性名詞)、数の区別(単数形と複数形)がある。性の区別は全て冠詞で表される。男性名詞単数形には「u」という冠詞が付き、女性名詞単数形には「ka」という冠詞が付く。例えば月は男性名詞で「u
bynai」、木は女性名詞で「ka diing」である。また生物名詞は自然性と対応し、オスの犬は「u ksew」、メスの犬は「ka ksew」となる。ところが複数形になると性の区別は消滅し、無条件で冠詞「ki」が付く。つまり月の複数形は「ki
bynai」、木の複数形は「ki diing」、犬の複数形は「ki ksew」となる。複数形を表す冠詞「ki」はどうも女性を表す冠詞「ka」から派生した語のようだ。つまり、複数形になると、性は基本的に女性名詞となるのだ。
もうひとつ例を挙げてみる。1人称の代名詞に性の区別はなく、単数形は「nga」、複数形は「ngi」である。だが2人称と3人称には男女の区別があり、2人称単数男性形は「me」、女性形は「pha」、2人称複数形は男女とも「phi」になり、3人称単数男性形は「u」、女性形は「ka」、3人称複数形は男女とも「ki」である(3人称は冠詞と全く同じである)。やはり複数形になると単数女性形から派生したと考えられる形態をしている。
これはヒンディー語の文法と全く逆である。ヒンディー語は男性優位の言語だ。複数形は基本的に男性形になる。例えば「私たちが」と言ったときに、「私たちが」の中に1人でも男性が含まれれば、主語の他の構成員が全て女性であっても、その文は男性形の文になる。完全に女性のみの集団である場合のみ、文は女性形が許される。だがカシ語は複数形は女性形になってしまう。これは絶対にカシ族の母系社会を反映していると思う。
カシ語は中国語と同じく孤立語と言ってよく、名詞や動詞などの活用が全くない。代わりに上に見たように冠詞が非常に重要な役割を果たしている。語順も中国語や英語と同じく、基本的に名詞、動詞、目的語の順番だ。ざっと見たところ、とても簡単な言語に思えた。ただ、ベンガリー語の影響をよく受けているし、モン・クメール語族ということなので、深く研究するにはベンガリー語やカンボジアのクメール語の知識が必要になるだろう。
メーガーラヤ州に来て以来ずっと晴天に恵まれていた。おかげで一昨日、昨日と快適に観光をすることができた。だが一方で物足りない気分もあった。なぜならここは「雲の家」である。雲と雨もメーガーラヤ州の重要な観光ポイントのひとつだからだ。雲が下から上がってくる、という独特の風景はメーガーラヤ州の最も美しい光景と言われている。
と思っていたら、シロンを去る今日になってやっと雨模様となってくれた。観光するときは晴れて、去るときに雨が降るとは何てラッキーなのだろう。早朝、グワーハーティー行きの乗り合いジープに乗ってメーガーラヤの丘陵地帯を下った。ジープは90ルピー。バスよりも高いが、スピーディーに移動することができる。
朝から曇り空だったが、ジープに乗り込んでシロンを発った瞬間から雨が降り出した。そして途中の道では、有名な「下から上がってくる雲」も目にすることができた。いくつもの白い雲が山の斜面を這うようにゆっくりと空に向かっている。まるで巨大なナメクジのようだ。
7時頃シロンを出て、グワーハーティーには10時ちょっと過ぎに到着した。グワーハーティーに足を踏み入れるのはこれで3度目なので、もう既にちょっと気心の知れた街のように思えてきた。明日は1日かけてバスで西ベンガル州のスィリーグリーへ向かう予定なので、今日はグワーハーティーでゆっくりと1泊するつもりだった。ところが案外宿探しが難航した。前回来たときに泊まったツーリスト・ロッジ・プラシャーンティが満室だったことから他のホテルを探さなくてはならなくなった。前回はすんなりそこに泊まることができたから気付かなかったが、グワーハーティーのホテルはどうも外国人を歓迎しない傾向にある。パルターン・バススタンド周辺にいくつも安いホテルがあるのだが、それらは僕が日本人であることを知ると急に「部屋は満室だ。他へ行ってくれ」と急にそっけない態度になる。また、グワーハーティーの宿は慢性的に満室状態が続いているようで、安くていいホテルは本当に常に満室状態のようだ。
また、普通外国人がインドのホテルに泊まるとき、宿帳とは別にC−4というフォームに必要事項を記入させられる。これはホテルがFRRO(外国人登録局)に届け出るためのフォームで、このフォームによって外国人旅行者は行動を逐一把握されている。ところがアッサム州とメーガーラヤ州のホテルでは、このC−4を全く記入させられなかった。法律が違うのだろうか?非常に気になったところである。
宿探しに手こずったものの、僕も旅行経験は長いので、なんとか泊めてくれるホテルを探し当てて一時の安住を手にすることができた。ホテルの名前はホテル・イエッサー。パルターン・バススタンドから近く、便利なところにある。名前がとてもよい。ダブル・ルームしかなくて、1泊300ルピーだった。やはり外国人を泊めるのに慣れていないようだったが、僕がヒンディー語をしゃべれることを知るとリラックスしてくれていろいろ親切にしてもらった。
グワーハーティーで行ってみたかった観光地は既に行き尽くしたので、今日はグワーハーティーで一番のモダン・マーケット(つまりノース・イーストで一番)と思われるファンシー・バーザールへ行ってみた。ベネトンなどの支店があった他、ショッパーズ・ポイントという数階建てのショッピング・モールもあった。中は狭くてこじんまりとしており、店舗がまだ入っていないところもあってまだまだこれからといった感じだったが、冷房が効いていて快適だった。やはりグワーハーティーのナウなヤングたちが集まっていた。3階にはノース・イースト最大の音楽ショップを謳うミュージック・ポイントという店があった。デリーのミュージック・ワールドやプラネット・ハリウッドを愛用している僕にとっては、やはりこじんまりとした店でしかなかったが、洋楽からインド映画音楽まで一通り揃えてあった。アッサミー語の歌のCDを買うことができることが特徴だろう。
今日は疲れが溜まっていたので、ファンシー・バーザールを視察した後にホテルに帰って眠った。
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5月11日(日) 交通の要所スィリーグリー |
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グワーハーティーを拠点にノース・イースト各州へ移動する際、最も便利なのがパルターン・バーザールの長距離バススタンドでバスに乗ることである。パルターン・バススタンドはアッサム州交通局経営の公共バスと、プライベート・バス両方が発着するため、とりあえず行けばバスが見つかるという非常に都合のいい場所だ。特にプライベート・バスの客引きが激しく、彼らに行き先を言えばすぐにバスまで案内してくれる。今まで僕はジョールハートとシロンへ行くためにプライベート・バスを利用した。ジョールハート行きのバスは快適で申し分なし、シロン行きのバスはオンボロでノロノロ運転だったが、シロンに辿り着くことには辿り着いた。今日はアッサム州を出て500km以上離れた西ベンガル州の交通の要所スィリーグリーへバスで向かう。大体12〜13時間かかるそうだ。
早朝5時頃ホテルをチェック・アウトして、パルターン・バススタンドでスィリーグリー行きのバスを探した。プライベート・バスの客引きは、6時発と言ったり6時半発と言ったりして怪しかったので、公共バスをまずは探した。しかし朝出発する公共バスはなかった。仕方ないのでまたプラベート・バスを利用することにした。チケットは250ルピー。客引きの話では6時発のバスがあるらしい。もう1人スィリーグリーへ行くベンガル人のおじさんがいて、その人とバスが来るのを待っていた。
6時頃客引きが「こっちだ、こっちだ」と言うのでついていくと、今にも出発せんとしているバスがあった。しかし超満員状態。チケットを買うときに僕は22番のシートを予約したはず。しかし僕とベンガル人のおじさんは、一番前の運転手ボックスに座らされた。まあ景色がよく見えるし、揺れも少ないので悪い席ではない。だから文句は言わなかったが、どんどん乗客を詰め込んで来るので窮屈だった。
6時過ぎにパルターン・バススタンドを出発したバスはグワーハーティー市内でさらに乗客を拾いつつ市外に出た。ブラフマプトラ河を渡り、ひたすら水田の中の道を西へ向かった。
バスで長距離移動する際、慣れないと食事を取ったりトイレに行ったりするタイミングを見極めるのが難しい。僕は何度もバスで長距離移動して来たが、未だに慣れていない。途中で急にバスが止まって、運転手がエンジンを止めて降りてしまうことが何回もあり、それはトイレ休憩だったり、チャーイ休憩だったり、昼食や夕食タイムだったり、ガソリン給油だったり、何かの手続きのために止まっただけだったりする。運転手、車掌や周りの人に「これは何のためのストップか」と逐一聞かないと、食事をするタイミングを逃したり、ずっとトイレに行けなかったりする。今回はまさにそれだった。朝から何も食べずにバスに乗ったため、途中で何か食べたかったが、昼食休憩らしい休憩がなく、ほとんど何も食べないままずっと乗っていた。
グワーハーティーを出てからのアッサム州がけっこう長くて、午後2時半頃にやっと州境を通過した。西ベンガル州のコーチ・ビハール地方に入った。アッサム州の田舎の風景に比べ、やはり西ベンガル州の田舎の方がより文明を感じた。ところが西ベンガル州に入ってから、サーリーの下にブラウスを着ていない女性を3人目撃した。現在インド人女性がサーリーを着るとき、必ずと言っていいほどサーリーの下にブラウスとペチコートを身に付ける。しかしそれは比較的新しい文化(おそらくムガル朝時代〜イギリス植民地時代以後)で、もともとインド人女性はサーリーの下に何も身に付けていなかった。ただサーリーの端で胸を隠していただけだった。そのさらに前は男女ともドーティー(腰布)だけを巻いているだけで、上半身は裸だったと言われている。このようにインド人の服装も変遷を繰り返しているわけだが、田舎中の田舎へ行けば、今でもサーリーの下に何も来ていない女性の姿を見ることができる。僕は今までのところタミル・ナードゥ州の田舎で目撃しただけだったが、本日西ベンガル州北東部のコーチ・ビハール州で2度目の目撃を果たすことができた。まるでシーラカンスを見たような気分だ。ただ、そういう格好をしている女性は十中八九お婆さんである。
コーチ・ビハールではもうひとつ珍しいものを見た。乗り合いサイクル・リクシャーである。貨物運搬用のサイクル・リクシャーに屋根を付けたような、幌馬車風のサイクル・リクシャーで、このタイプのリクシャーは初めて見た。
西ベンガル州ではちょうど選挙が行われており、あちこちの施設で人々が列を成して投票をしていた。西ベンガル州は共産党の勢力の強い場所であり、道はCITUの赤い旗で埋め尽くされていた。
ところが3時頃、急にバスはコーチ・ビハール地方の中心都市コーチ・ビハールで停まってしまった。運転手が言うにはここが終点らしい。元々このバスはコーチ・ビハール行きのバスだったのだ。しまった、騙された!予約したはずのシートが予約されていなかったりしてなんか怪しいと思っていたが、こういうことだったのか!あのパルターン・バススタンドのプライベート・バス・カウンターに一杯喰わされた。久々にインド人に騙されてしまった。しかし同志もいた。同じくスィリーグリーへ向かうベンガル人のおじさんである。おじさんが車掌に掛け合ってくれて、コーチ・ビハールからスィリーグリーへ行くバス代60ルピー×2人分を取り返してくれた。幸いスィリーグリー行きのバスがすぐに来たのでそれに乗り込み、午後7時頃にはスィリーグリーに到着した。グワーハーティーから合計13時間かかった。結局騙された割には、時間も金もロスせずに済んだ。これもベンガル人のおじさんの助けがあったからこそだ。捨てる神あれば拾う神あり、捨てるインド人あれば拾うインド人あり、ということで一件落着ということにしておこう。だがこの長時間の移動によって、昨日はゆっくり休んで回復した体力を全て使い果たしてしまったかのようにヘトヘトに疲れた。
スィリーグリーは10km離れたニュージャルパーイーグリー(NJP)と双子の街を形成している。ニュージャルパーイーグリー駅はコールカーターとグワーハーティーをつなぐ鉄道の要であり、スィリーグリーのバススタンドは西ベンガル州北部の都市(ダージリン、カリンポン、コーチ・ビハールなど)や、スィッキム州、アッサム州などの隣接州、またネパール、ブータン、バングラデシュなどの隣国へのバスが発着する。スィリーグリーのバススタンドには頻繁にバスが出入りしていた。
また、アッサム州と違って、この辺りはもう既に外国人旅行者がたくさん来る場所である。街の雰囲気も、外国人を変に気にしない感じで何となくホッとする。
今日はセントラル・バススタンドの前にあるデリー・ホテルに泊まることにした。シングルで150ルピー。バスルームが汚ないが、部屋はまあ許せる程度。1階に外貨両替のカウンターがあるので便利。レートはそんなによくない上に、コミッションを30ルピー取られる。
アッサム州を去ったことにより、ノース・イースト旅行に区切りがついた。グワーハーティーはノース・イーストの中心地として非常に栄えている印象が強い。最後に騙されたのが悔やまれるが、今となってはよくも悪くも思い出のひとつに過ぎない。メーガーラヤ州では働く女性の姿が印象に残った。
しょうもないことだが、なぜかアッサム州、メーガーラヤ州では、5ルピー紙幣がよく流通していた。5ルピー紙幣はデリーではあまり見かけないのだが、それらの州を旅行しているとどんどん財布の中に5ルピー札がたまっていく。
アッサム州から西ベンガル州に入り、ノース・イースト旅行を完遂したことで、今回の旅の第一章が終わったことになる。第一章は予定通り順調に進んだ。晴天に恵まれたことが大きな助けとなった。今日からは第二章、スィッキム文化圏の旅である。これからスィッキム王国の文化圏内であるダージリン、ガントク、カリンポンなどを巡る。ちなみに第三章ではブータンを1週間ほど旅行する予定で、第四章は余った時間を使って西ベンガル州南部の都市をいくつか廻ってコールカーターを目指し、最終的にデリーへ戻る。
と言うわけでそろそろ旅の日程の目途がついてきたので、帰りの列車を予約することにした。6月8日にデリーから日本に飛ぶので、それまでにデリーに戻らなければならない。とは言え、デリーで少し余裕が欲しいので、6月4日か5日あたりのコールカーター発デリー行き列車を予約することにした。実はグワーハーティーでも列車を予約しようとしたのだが、鉄道予約オフィスの全てのカウンターに果てしない列ができていた上に、外国人用の窓口もなかったので諦めた。
スィリーグリー&ニュージャルパーイーグリーの鉄道予約オフィスは朝8時から開くということなので、その時間に合わせて行った。だが既にカウンターの前には数人の列ができていた。それでもグワーハーティーよりはマシである。列に並んで順番が来るのを待った。
今の時期、インドのほとんどの学校は長期休暇中であり、旅行シーズンである。また、欧米の大学なども今が長期休暇の時期にあたるため、欧米人大学生の旅行者も多い。帰りの列車を予約するのにはかなりの困難が予想された。正攻法ではおそらく手に入らないだろう。実はデリーからグワーハーティー行きのブラフマプトラ・メイルのチケットもかなり苦労をして手に入れたのだった。今回僕が狙っていたのは2303プールヴァー・エクスプレス。コールカーターのハーウラー駅を9:10に出発し、24時間後にニューデリー駅に到着する。デリー〜コルカタ間を移動するには、この列車がもっともリーズナブルだ。
30分くらい列に並んでやっと僕の順番が回って来た。窓口の人に予約フォームを渡す。「外国人か?」と聞かれたので「そうだ」と答える。「パスポートを出せ」と言われたのでパスポートを渡す。外国人用に予め確保されたシートを探してくれている。ここで僕が学生ヴィザでインドに来ていることがばれると問題が起きるのだが(観光ヴィザ以外の外国人に外国人用シートの特権はないことになっている)、幸いヴィザはチェックされなかった。ところが6月4日も5日も席がなかった。6月6日なら空いていると言う。つまり7日の朝にデリーに着くことになる。7日にデリーに着いて8日に飛行機に乗るのか・・・。ギリギリの旅だな・・・。しかし間に合うことには間に合う。そのチケットを買うことにした。エアコン付き3段ベッド車両の席で1208ルピーだった。
なんとか帰りの切符を手にしたところで、次の仕事に取り掛かることにした。スィッキム州へ行くにはパーミットが必要なので、どこかで手続きをしなければならない。デリー、コールカーター、ダージリンなどでもパーミットを申請できるのだが、スィリーグリーのスィッキム観光局がもっとも手軽にパーミットを出してもらえるそうなので、ここで取ることにした。スィッキム観光局の開業時間10時に合わせて行ったのだが、オフィサーが来ていないということでずっと待たされた。典型的なインドの事務手続き風景である。オフィスの偉い人がいないと何も進まないのだ。1時間ほど待ってやっと手続きが始まった。フォームに必要事項を記入し、パスポート・サイズの写真を1枚提出して手続きは完了。30分後にはパーミットが発行された。また、同時にスィッキム州観光案内のパンフレットももらえた。
このようにスィリーグリーは交通の要所であるだけでなく、事務手続きに便利な場所でもある。だが、全く観光ポイントはない。やることを終えたら長居する必要は全くない街だ。すぐに次の目的地へ向かう。セントラル・バススタンドで12時半発のダージリン行きバスに乗り込んだ。スィリーグリーからダージリンまで80km、プライベート・バスで57ルピーだった。
スィリーグリーからバスは北に向かい、やがて山を登り始めた。シムラーやシロンへ行くときも同じように山を登って行ったが、それらと比較してこのスィリーグリー〜ダージリン間の道は相当な悪路だ。道の舗装も劣悪ながら、一車線しかない場所がいくつもある。対向車とすれ違うのにいちいちどちらかが停まって道を譲らなければならない。しかもトラックから出る排気ガスが臭すぎる。追い越しに成功するまでその排気ガスを吸い込み続けなければならない。
だがこのスィリーグリー〜ダージリン間の道を個性的にしているのは、トイ・トレインの存在である。自動車用の道路に沿って、トイ・トレインの細い線路が通っている。このダージリンのトイ・トレインは蒸気機関車で、鉄道ファンの憧れの的である。スィリーグリーからダージリンへ行くのにトイ・トレインで行くこともできるが、バスやジープで行くよりも2倍の時間がかかるので、実用的ではない。蒸気機関車に乗ることを楽しめる人でないと途中で飽きてしまうだろう。
ダージリンへ行くまでに3回トイ・トレインを見かけた。だがその内の2つはディーゼル機関車で、蒸気機関車は1回しか見なかった。どうも全部が全部蒸気機関車ではないようだ。トイ・トレインとは言いつつも、案外ちゃんとした車両だった。山の斜面にへばりつくように並ぶ家々の真ん前を列車が悠々と通っていく光景は迫力があった。
ここらの人の顔を見ていると、実にいろんな顔がある。ベンガル人らしきアーリヤ系インド人はもちろんのこと、チベット人、ネパール人、スィッキム人などなど。肌の色も様々だ。中には日本にいてもおかしくない顔をしている人もいる。日本の有名人に似た顔もチラホラ。イチロー、所ジョージ、矢沢永吉、ムツゴロウなどなど・・・。
スィリーグリーからダージリンまでずっと西ベンガル州であり、ベンガリー語が公用語の地域だが、不思議とダージリンに近付くにつれて看板からベンガリー文字が消え、ヒンディー語が目立つようになった。もちろん英語の表記が一番目立つが。これは元々ダージリンやカリンポンがスィッキム王国の領土であったことと関係あるかもしれない。
標高が上がるごとに次第に風が冷たくなって来た。チベット風の建物も目立つようになった。バスは途中で乗客を拾ったり降ろしたりしながらゆっくりと進み、3時頃カルサーンを通過、4時半頃に標高2134m、西ベンガル州の有名な避暑地ダージリンに到着した。
現在避暑シーズンの真っ盛りなので、宿探しに手間取ることは十分予測していたが、本当にその通りだった。まずガイドブックに載っているホテルはほぼ全て満室。それ以外のホテルも満室のところがほとんど。街の中心部から離れたホテルには空室があったが、あまり魅力的な部屋ではなかった。ダージリンは山の斜面に沿って広がる都市なので、道は坂道だらけだ。移動するのに一苦労である。標高が高いので空気も薄い。そんなダージリンで1時間ほどホテルを探して彷徨った。だが最終的に納得できるホテルに泊まることができた。ガーンディー・ロードのホテル・プラダーンである。シングルで275ルピー。まさに足で見つけたホテルだった。
今まで旅行者があまりいない場所を旅行していたので、ネットカフェでメール・チェックをする機会があまりなかった。グワーハーティーのファンシー・バーザールで一度メール・チェックをしたが、日本語が使用できなかったので、英語のメールだけをチェックしただけだった。しかしさすがにダージリンは外国人旅行者も多いだけあって、日本語使用可能なネットカフェも簡単に見つかった。早速メールチェックをした。また、夕方になるとかなり冷えたので、店でセーターを買った。必要なものは現地調達。身軽な旅の基本である。
今日見た雰囲気では、どうもダージリンは外国人に慣れ過ぎていて、逆に冷たい感じがした。特に子供が冷めていて、僕を見ても「ふん、日本人か」みたいな顔をして通り過ぎていく。「こいつは何者だ」みたいな脅威と好奇の目で見てくれる子供の方が僕は好きなんだが・・・。だが基本的に人は親切で、ホテルを探しているときも多くの人に助けてもらった。
ところで、ダージリンのカタカナ表記についてだが、「ダージリン」はもともとチベット語の「Dorje Ling(雷の地)」から来ており、ヒンディー語などのインドの言語とは関係がない。街の看板などを見てみるとヒンディー語では表記が一定しておらず、「ダールジリン」だったり「ダールジーリン」だったりする。既にダージリン・ティーというブランドで半分日本語にも浸透しているので、僕はダージリンと表記することにした。同じようにアッサム州の「アッサム」も、ヒンディー語では「アサム」と表記されているが、茶のブランド名の浸透を理由に「アッサム」と表記している。また、ダージリンから30km南にある町カルソーンは英語で「Kurseong」と表記されている町のことだが、ヒンディー語では「カルサーン」でほぼ統一されていたので、カルサーンと表記することにした。
ダージリンは有名な避暑地であるが、避暑地の宿命として、観光ポイントとなるとどうしてもいかにも観光客をターゲットにしたアトラクションが多くなる。それらは当然のことながらツーリスト・プライスである。それに乗っかって純粋に楽しむもよし、ただ単にのんびり過ごすのもよし、なのだが、やっぱり「せっかく来たんだから」という考えが浮かび、積極的にミーハーな観光ポイントをこなしてしまう。
ダージリンの観光関連者は早朝から晩までいろいろなエンターテイメントを用意している。早朝の見所と言えば何と言ってもサンライズ。ダージリンの南にタイガー・ヒルという場所があり、そこから見る日の出は格別ということになっている。日の出なんて何度も見ているので、わざわざ朝早く起きて日の出を見に行くのも馬鹿馬鹿しいのだが、後で「ダージリンに行っておいてあそこに行かなかったなんて!」と批判されるのが嫌で、行こうと思ってしまう。今日は朝3時に起きて、タイガー・ヒルまで行くジープ乗り場へ行こうとした。朝早く起きるのは問題なかったが、外に出てみるとパラパラと雨が降っていた。空を見ても星が見えない。こんな状態では日の出どころではないだろうと思い、タイガー・ヒルへ行くのはやめてホテルに戻って再び寝た。
ホテルで朝食をとり、朝8時頃再び気を取り直してホテルを出た。もう雨は上がっていた。今度はトイ・トレインに挑戦することにした。駅に行ってみるとちょうどチケット・カウンターが開いたところだったので、9:15発ニュージャルパーイーグリー行きのトイ・トレインのチケットを買った。トイ・トレインは人気のアトラクションなのでチケットを手に入れるのは難しいのだが、幸運にも1席だけ空いていたので滑り込みでチケットを買うことができた。ニュージャルパーイーグリーまでは行かず、ダージリンの次の駅グームまで行く。2ndクラスで21ルピー。
ダージリンのトイ・トレインにはディーゼルと蒸気のふたつがあるようだが、僕が乗ったのは残念ながらディーゼル機関車だった。今回乗ったのはどちらかというと交通機関としての役割が大きい列車だったのでディーゼルだったのだろう。この他、ジョイ・ライドという完全にツーリスト向けの列車も出ており、こちらは220ルピーかかる。ダージリンからグームまで往復する列車である。おそらくこの列車は蒸気機関車だと思う。
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ダージリンのトイ・トレイン
これは蒸気機関車 |
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僕が乗ったトイ・トレイン
ディーゼル機関車 |
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9:15ちょうどにトイ・トレインはダージリン駅を出発した。実は乗る前まで「トイ・トレインに乗って何が楽しいのか」と思っていた。だからシムラーへ行ったときもトイ・トレインのことなど眼中になかった。ところが乗ってみるとこれがまた面白かった。やっぱり民家のすぐそばを通り抜けていくのが楽しい。おばさんが洗濯をしながらこちらを見ていたり、子供が手を振っているのを見ながら進んでいく。遠くに目をやればヒマーラヤの山々が連なっている。列車のすぐ隣をバスやジープが通り抜けていくというのもすごい。ディズニーランドなどのアトラクションでは決して真似できない、大自然の中の生きたアトラクションだった。ついついパシャパシャと写真を撮りまくってしまった。
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途中で蒸気機関車とすれ違う |
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列車のすぐ横をジープが通り過ぎる |
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30分ほどでグームに到着した。グームにはイガ・チョリン・ゴンパというダージリン地方で最も有名なゴンパ(チベット仏教の寺院)がある。1875年に建造された比較的新しいゴンパだが、この辺りでは最古のゴンパということになる。外見はカラフルなゴンパ、内壁には美しいタンカがびっしりと描かれていた。中にはマイトレーヤ・ブッダの巨大な仏像が安置されている。何となく今日はスケッチをしたい気分になっていたので、このゴンパをスケッチすることにした。しかし途中で空模様が怪しくなり、雨が降るまでに完成させようと急いでしまったため、あまりバランスのとれていない絵になってしまった。2時間半ほどで絵は完成した。結局雨は一滴も降らなかった。
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イガ・チョリン・ゴンパ |
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グームからジープ・タクシーを拾ってダージリンに戻った。安食堂でポーク・モモを食べて、ダージリンの繁華街ザ・モールを通ってチャウラースターへ行った。この辺りの雰囲気はシムラーそっくりである。どちらもイギリス人が避暑地として開発した都市なので、似ていて当然かもしれない。ただ、シムラーとダージリンで違うところは、シムラーはパンジャーブ文化の影響がある一方で、ダージリンはチベット文化の影響が色濃いことだ。また、茶のプランテーションの労働者のほとんどがネパール人であることから、ダージリンはネパール人が非常に多い地域である。ネパーリー語が半ば公用語としてまかり通っている。
今度はダージリンの北に向かってず〜っと歩いて行った。ダージリンの北の端には、インドで初めて造られたというロープウェイが運行している。チャウラースターから徒歩で30分ほど歩いてやっと辿り着いた。正式名はダージリン・ランギート・ヴァレー・ロープウェイという。このロープウェイもダージリンでは観光ポイントのひとつだ。こちらはトイ・トレインと違って、交通手段ではなく完全に観光客向けのアトラクションである。往復75ルピーだった。
僕が行ったときは混んでいなくてすぐに乗ることができた。小さな6人乗りのゴンドラに乗り込むと、急に空中に放り出される。ガクガク揺れるのでビックリするが、すぐにゴンドラは安定し、すーっと急降下し出す。これはけっこう怖い。何しろここはインドである。日本のように安全第一ではない。何が起こるか分からない国なのだ。しかし乗ってしまったからには覚悟を決めるしかない。景色を楽しもうと外を見る。すると、眼下の山の斜面には茶の木が魚の鱗のようにびっしりと張り付いている。これが有名なダージリン・ティーの生まれ故郷だ。谷一面が茶畑だった。しかもかなり急な斜面である。その茶畑の間にジグザグの道があり、米粒ほどの人がゆっくりと歩いている。
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ロープウェイと茶畑 |
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30分ほどで麓の町に着いた。ここには食堂が数軒あるだけで特にやることはない。ここで一杯紅茶を飲んでもいいが、帰りのロープウェイに乗っているときにトイレに行きたくなると困るので何も飲まなかった。すぐに帰りのロープウェイに乗って上まで上った。往復75ルピーは高いと思ったが、ダージリンの茶畑を上から眺めることができるのがいい。
ダージリン・ティーにもいろいろなブランドがあるが、僕が仕入れた情報によると、「Happy Valley Tea」か「Makaibari Tea」というブランドが高品質のようだ。大体1kg400ルピーぐらいする。最高級品のダージリン・ティーだと1kg1300ルピーほどするそうだ。
ところで、モモ研究家(食べるだけだが)を自称する僕にとって、やはりチベット文化圏内ではモモの食べ歩きが義務必然となっている。今回の旅行では今のところ、グワーハーティー、スィリーグリー、ダージリンでモモを食べてみた。グワーハーティーではパルターン・バーザールにある小さなモモ・スタンドでチキン・モモを食べたが、割とおいしかった。1皿6つ15ルピーと格安だった。スィリーグリーではセントラル・バススタンドの前に夕方になると出る屋台でマトン・モモを食べたが、これもけっこうおいしかった。1皿8つ10ルピーとさらに格安だった。こうなって来るとダージリンのモモに期待がかかるが、実際にはダージリンでは案外おいしいモモにありつくのは簡単ではなかった。高級レストランではDekevas RestaurantとKunga Restaurant、安食堂ではTenzin Restaurantを試してみた。どれもクラブ・サイドというダージリンの中心街に位置している。まずDekevas Restaurantではチキン・スティームド・モモ(50ルピー、1皿8つ)を食べたが、皮が厚くて中も肉が多すぎておいしくなかった。Kunga Restaurantでもチキン・スティームド・モモ(60ルピー、1皿10個)を食べたが、皮は饅頭風、中はやはり肉が多すぎて食べるのに苦労した。Tenzin Restaurantではチキン・モモはなく、ポーク・スティームド・モモ(12ルピー、1皿4つ)を食べたが、モモというより饅頭になっていた。どうも僕の理想とするモモにありつけない。
思うに、まずどうもチキン・モモというのはチベット料理の中では邪道なのかもしれない。チベット料理の本場に行って、おいしいチキン・モモにありつけたことは今まで皆無であるばかりか、チキン・モモを用意していないところも多い。チキン・モモはインド人の好みに合わせて開発されたモモだと予想できる。チキン・モモを食べるのだったら、デリーが一番おいしい。
おいしいモモを作る秘訣は野菜にある。モモにおいて、主役は野菜なのだ。肉は野菜を引き立てる影の役者に過ぎない。それを分かっていない店は、肉ばかりを中に詰めてモモを作る。そして皮肉なことに、高級レストランになればなるほどその傾向が強くなる。肉をできるだけ詰めれば客が喜ぶと思っているようだ。・・・と考えるより、もしかしてこれはチベット人と日本人の味覚の差なのかもしれない。
僕はチベットに行ったことはないのだが、ラダックやダラムシャーラーは訪れたため、一応チベット料理に物申してもいい身分にあると思っている。よってここでインドのモモの法則を唱えたい。
| インド モモの法則 |
1.一般に高級レストランのモモはまずい。安食堂や屋台で食べるべし。モモしか作っていないような店が一番おいしい。
2.チベット文化圏のモモには期待してはいけない。ただ、ポーク・モモが一番おいしいと思われる。
3.チキン・モモはデリーで食べるべし。チベット文化圏ではチキン・モモは高いばかりかおいしくない。 |
そういえばダージリンではビーフ・モモも食べることができる。肉屋でビーフを売っているのも見た。インドでここまで大っぴらに牛肉が流通している都市は初めて見た。ヒンドゥー教で牛は聖なる動物と考えられているため、牛肉の扱いは慎重である。例えばデリーでは牛肉を売ってはいけないことになっている(ただ、BeafではなくFilletと書いて売れば問題ないらしい)。また、驚くべきことに牛肉はインドでは肉の中で一番安い肉である。だが、どうも牛肉と言っても水牛の肉だったりするため、あまりいいイメージがない。インドで牛肉を食べて病気になった人を知っている。宗教的また衛生的理由から、インドであまり牛肉を食べない方がいいと思う。
また、インド人のモモの食べ方を見ているとけっこう邪道である。なんとモモにトマト・ケチャップを付けて食べているのだ。僕には暴挙に思われるのだが、餃子に醤油を付けて食べる日本人の食べ方も、本場から見たら暴挙かつ邪道なのかもしれない。中国で餃子を食べたときは、辛いタレのようなものを付けて食べていた。インドでも、同じような辛いタレが一緒に付いてくることが多い。
今日は朝からスィッキム州の州都ガントクへ向かう予定だった。朝ホテルをチェック・アウトして、チャウク・バーザールのジープ乗り場へ向かった。しかしどうも街の雰囲気がおかしい。ジープ乗り場の前には多くの人が集まっており、ジープ会社のカウンターは閉まっていた。人々は口々に「今日はガントクへ行けない」と言う。満席になったのかと思っていたが、そうではなかった。ちょうどその場に日本語のしゃべれるインド人がいたので聞いてみたら、誰かダージリンの偉い人が暗殺されたらしい。そのせいでダージリンにつながる道は封鎖され、バス、ジープ、トイ・トレイン、交通機関は全て麻痺状態になってしまった。スィリーグリーへもガントクへも行けない状態だ。早速新聞を買って情報を仕入れた。以下、本日のテレグラフ紙(英語)から抜粋して翻訳。
| ゴールカーの指導者、射殺される |
[ダージリン5月13日]正体不明の暗殺者によって、DGHC(ダージリン・ゴールカー山岳議会、Darjeeling Gorkha Hill Council)の議員プラカーシュ・ティンが、ダージリンから約48km離れたゴークにおいて射殺された。
ティン(享年40歳)は午後5時半頃に地元の市場から帰宅している最中に襲撃された。彼はダージリン・サダル病院へ搬送される途中で死亡した。
ティンはゴールカー人民自由戦線(GNLF:Gorkha National Liberation Front)の指導者であり、1988年にDGHCが結成されて以来、暗殺された3人目の議員となった。
1999年3月28日には、ダージリン・モーター・スタンドにおいて、GNLFダージリン支部委員だったルドラ・プラダーンが切り殺された。去年の10月3日には、カリンポンのダルヤー・ダラーにおいて、反GNLFの指導者で議員だったCKプラダーンが白昼に射殺された。
ティンに同行していた地元住民のバクター・ジョーギーによると、彼らはパパイヤを買いにゴーク・バーザールへ行き、その帰宅途中、市場から2kmの地点で、4人の武装した暗殺者たちがGNLFの指導者を背後から撃った。
「私は突然銃声を聞き、ティンが崩れ落ちるのを見た。暗殺者たちは次に私に向かって銃を撃って来たが、弾丸は外れた。私は彼らに石を投げた。しかし彼らは引き続き銃を撃ってきて、弾丸のひとつが店の近くをかすめていった。しかし私は彼らを追い払うために投石をやめなかった。」
親類とGNLFの議員たちは指導者を45km離れたダージリン・サダル病院へ急送したが、途中で彼は死亡した。
ティンの悲報が広まると同時に、病院周辺が警戒態勢に置かれ、運動が禁止された。
ダージリン支部委員長ディーパク・グルンを含むほとんど全てのGNLF上層部は病院に駆け込んだ。午後9時半現在、指導者から何のコメントも発表されていない。
当局は発言を拒絶しており、GNLFの指導者の左胸郭に4発の弾丸が打ち込まれたという事実だけを述べるに留まった。
情報では、ゴークでは緊張が張り詰めているが、不穏な動きは報告されていない。ダージリン警察本部長サンジャイ・チャンデールは、既にSP(治安警察)が送り込まれており、暴動を警戒していると語った。
スィッキムへの州境は封鎖された。
ビジャンバーリー・パルバザールの議員だったティンは、DGHCにおいて灌漑と大衆教育を担当していた。ビジャンバーリー・パルバザールはかつて左翼の牙城だったが、ここ数年に渡ってGNLFが支配している。
GNLFは今までのところ暗殺に関して何も声明を発表していないが、グルンは殺人を非難し、犯罪者の迅速な逮捕を要請した。
ティンの死後、彼の妻と2人の息子(リワーズとリカーシュ)、そして娘のクリティアカー(カリンポンの聖ジョセフ修道院の8thクラスの学生)が残された。
ティンはダージリンに住んでいたが、葬儀はゴークで行われる模様だ。 |
とりあえずこの記事を読む限りでは、プラカーシュ・ティンに同行していたバクター・ジョーギーという男が怪しい。銃で武装した集団に向かって石を投げて応戦するとは・・・生きて帰れるはずないだろ!!インド人は本当に面白い。
犯人の正体は不明とのことだが、この事件はのどかな避暑地ダージリンの暗部を明るみに出すものとなるだろう。ダージリンにはイギリス植民地時代から茶のプランテーションとして連れて来られたネパール人が多く住んでおり、インド独立後、彼らは政府から差別を受けていると感じ始めた。インド憲法に彼らの言語であるネパーリー語は地方公用語として認定されていないし、西ベンガル州政府に職を得るためにベンガリー語の能力を要求される。かと言って既にダージリンは彼らの生まれ故郷となっており、ネパールに帰るわけにもいかない。そこで1980年代半ばから、彼らは西ベンガル州から独立してネパール移民の州ゴールカー・ランドを作る運動を開始した。それを指導したのがゴールカー人民自由戦線(GNLF)であり、1986年には大きな暴動も発生した。1988年には西ベンガル州政府が妥協し、ダージリン・ゴールカー山岳議会(DGHC)が発足して、ダージリンは大幅な自治を認められた。ところがそれを不本意とするGNLFのメンバーが分離し、1990年にゴールカーランド自由協会(Gorkhaland Liberation Organisation、GLO)を結成してゴールカーランド独立実現に向けて活動を継続している。その後も散発的にダージリンでは事件が起こっており、今回の事件もそのひとつである。
どうせ地元の政治団体による勢力争いなので、外国人に危険はないだろうが、道路が封鎖されてしまうと旅行に支障が出る。今日はどうしてもガントクへ行きたかったのだが、全く行けそうな雰囲気ではなかったので諦めた。明日行くことにする。再びホテル・プラダーンに戻ってチェック・インした。
ダージリンのメイン・ロードであるヒル・カート・ロードでは、暗殺されたプラカーシュ・ティンの葬列兼デモ行進のようなものが行われていた。街中に警察が配備されており、今日は1日中全ての店のシャッターが閉まったままだった。ただ唯一、薬屋だけは開いていた。戒厳令中でも薬屋だけは営業を許されているのかもしれない。戒厳令と言ってものどかなもので、道端では学校が休校になって喜んでいる子供たちがクリケットをして遊んでいた(ダージリンやシムラーなどの学校は現在授業がある。冬に長期休暇となるようだ)。道を歩く人も普通にいて、危険は全く感じなかった。しかし全ての店が閉まってしまったのでやることがない。今日は退屈な1日となってしまった。ずっとホテルで寝ていた。夕方になってやっといくつかの店が開いたものの、雨が降り出したためにますます中に閉じこもることになってしまった。
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5月15日(木) カリンポン、そしてガントク |
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突然の事件で昨日はダージリンで足止めを喰らってしまったが、今日はどこへも行けるようだ。朝ホテルをチェック・アウトし、ジープ乗り場へ向かった。ところが、やはり昨日の戒厳令によって交通機関が混雑しており、ガントク行きの乗り合いジープは11時まで席が取れない状態だった。また、ジープ・カウンターは非常に混乱しており、どうも信用が置けない。なかなかガントクに辿り着けない・・・!
ジープ乗り場をウロウロしていると、「どうした?」というインド人がやって来た。彼が言うには、ガントクへ行くにはまずカリンポンへ行って、そこでガントク行きのジープに乗った方が今のところ早い、とのことだった。カリンポン行きのジープはすぐに出発するようで、席も空いているとのこと。カリンポンは今回行こうかスキップしようか迷っていたところなので、ガントクへ行く途中立ち寄るのも悪くない、と思い、まずカリンポンへ向かうことに急遽決定した。ダージリンからカリンポンまで乗り合いジープで55ルピー(バック・シート)。乗り合いジープはフロント・シート、ミドル・シート、バック・シートそれぞれ値段が違い、フロント・シートが一番高い。
8時にダージリンを出発した。やっとダージリンを脱出することができた気分だ。ダージリンから東に向かって山を下りて行く。2時間ほどで谷間にある河に出た。ティースター河である。このティースター河にあるティースター・バーザールは、スィリーグリー、カリンポン、ガントクへ向かう道の交差点であるだけでなく、リフティングの基地にもなっている。ティースター・バーザールから再び山を上って行き、10時半にはカリンポンに到着した。
ダージリンはセーターが必要なくらい涼しかったのだが、同じ山の町カリンポンはけっこう暑かった。標高1250mなので、ダージリンよりも900mほど低い位置にある。900m違うだけでこれだけ気温が違うのか、と実感した。だが、ダージリンと町の雰囲気はよく似ており、やはりネパーリー語が話されていた。ここもダージリン・ゴールカー山岳議会(DGHC)の管轄に置かれている。バススタンド周辺は、道が狭いために交通渋滞がひどかった。
カリンポンではある人と会う予定があった。今回ブータンのスペシャル・ヴィザを取る手助けをしてくれたブータン大使館の人の恩師がメイン・ロードで店を構えており、是非その人に会って安否を確かめてほしい、と頼まれていた。カリンポンの繁華街を道を尋ねつつさまよっていたら何とか店を見つけることができた。恩師にも会うことができた。ブータン大使館の人に話によると「生きていたら相当年なはずだ」と言っていたが、会ってみたらピンピンしており、年齢を聞いたらまだ61歳だった。彼はヒンディー語の教師をしており、去年退職したようだ。
カリンポンでは首尾よくガントク行きの乗り合いジープを見つけることができた。12時半に出発し、ガントクまで70ルピーだった。同じジープにはなんか変わった顔のおばさんが2人乗っていた。どこから来たのか聞いてみると、ブータン人だった。仏教寺院巡りをしにインドに来ていると言っていた。この辺りにはブータン人もけっこう多いのかもしれない。片言のヒンディー語が話せたので、いろいろブータンの情報を引き出すために会話をした。この2人のおばさんの性格から判断する限り、ブータン人は強引かつ親切、そしてはしゃぎまくり、という感じで、何となく韓国人を思い出した。いよいよブータン旅行が近付いてきたように思った。
ジープは一度ティースター・バーザールまで戻り、三叉路を北に折れて、ティースター河に沿ってスィッキム州へ向かった。景色はヒマーチャル・プラデーシュ州とよく似ており、高い山に囲まれた美しい道だった。1時間ほどで西ベンガル州とスィッキム州の州境ラーンポーに到着した。外国人はここで手続きをしなければならないはず・・・と思いきや、他の乗客が「ヒンディー語をしゃべってろ」と言う。警察のチェックがあったが、僕は何も質問されなかった。ブータン人も知らん顔である。そのまま州境を越えてしまった。もうこの辺りでは、僕の顔は地元の人の顔と変わらないからばれないようだ。
とうとうスィッキムにやって来た。スィッキムは長い間「桃源郷シャングリラ」と考えられてきた秘境である。しかし来てみたら案外発展した土地だった。道はきれいに舗装されているし、河にかかる橋も立派だし、ラーンポーの町などはインドの他の町と何ら変わらなかった。
スィッキムには元々東南アジア方面からやって来たレプチャ族が住んでいたが、15世紀にチベットから内乱を避けてやって来たチベット人が住むようになり、スィッキム王国を作った。スィッキム王国はブータンやネパールなどと抗争を繰り広げながら、やがてインドを植民地化したイギリスと、スィッキム王国を属国とみなしていたチベットの勢力争いの場となる。インド独立後もスィッキム王国は独立を保ち続けるが、次第に国内に住むネパール人の不満が高まって暴動まで発展し、政府はコントロールが取れなくなった。そこで1975年に国民投票を行い、インドとの併合の道を選んだ。スィッキムは中国と国境を接するため、インドにとって軍事的に非常に重要な土地となり、政府はスィッキムの発展に多大な資金を費やしている。また、スィッキムは無関税地域である。
このスィッキム州に対する優遇政策、またブータンとの良好な外交関係から、インドが中国に対してどれだけ恐怖を抱き、そして警戒をしているか察することができる。インドのライバルというとすぐにパーキスターンが思い浮かぶが、独立前からインドの潜在的な敵は常に中国だった。核保有国であるインドとパーキスターンは、「仲良くケンカしな」の間柄であり、お互いに依存し合っている部分が多くある。また、インドに比べたらパーキスターンは小国家であり、はっきり言ってあまり恐れる必要はない。しかしアジアのもうひとつの核保有国、中国はインドにとって不気味な巨大国家であり、一度戦争をして敗北をしているトラウマの国である。パーキスターンを裏から援助しているのも中国である。
また、チベット仏教の国であるスィッキムやブータンの立場から見ると、近代史上一度は中国につくかインドにつくか選択を迫られたはずである。しかし1949年に中国によって侵略されたチベットを見れば、インド側についた彼らの選択は間違っていなかったといえる。ただ、チベットも相当アグレッシブな国なので、もし中国に侵略されていなかったら、チベットがスィッキムやブータンを侵略していたかもしれない。そのときはインドとチベットが対峙することになっていただろう。ダライ・ラマも今でこそノーベル平和賞を得るくらいの平和主義者になっているが、歴史が別の方向に動いていたら、ヒトラーのような侵略者になっていたかもしれないと僕は思っている。インドに亡命し、政治活動を禁止されている今のダライ・ラマには、結果的に平和を唱えることぐらいしか対抗手段がないのだ。
ラーンポーから再び山道を上がって行き、3時にはガントクに到着した。ラーンポーはまだ暑かったのだが、ガントクはこれまた山の上にある街で、けっこう涼しかった。ガントクは今まで見た山の街(シムラー、ダラムシャーラー、マナーリー、ダージリン、カリンポンなどなど)の中で最も都会っぽい雰囲気を持っていた。特に繁華街のMGロードはバンガロールっぽいモダンさだった。
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ガントクのMGロード |
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デリーでスィッキム人に会うたびに、インドにいる全ての民族の中で、スィッキム人がもっとも日本人に近い顔をしていると思っていた。だから、日本人とそっくりな民族の住む場所に行ってみたい、というのがスィッキムを訪れた主な動機だった。実際にスィッキムに来て見ると、案外インド系の人がいっぱいいる。避暑で来ているインド人もいるのだろうが、やはりダージリンやカリンポンと同じくネパール人が多く住んでいるため、そう感じたのだろう。だがその中で、肌の色の白い、日本人と言っても何の疑問も沸かない顔の人たちがいた。なんだか感動した。ついジロジロそこらの人の顔を見てしまう。
ガントクではMGロードにあるグリーン・ホテルに泊まった。ダブル・ルームをシングル料金にしてもらって1 |