知る人ぞ知る話であるが、昨年9月7日、僕は文壇デビューを果たした。インド人の詩人や教養人などの前で、日本とインドの紅葉を比較したヒンディー語の詩を詠んだのである。僕はけっこう長いことヒンディー語を勉強しているのだが、ヒンディー語で詩を詠もうなどとはそのときまで一度も考え付かなかった。だが、デリー大学の元教授であり、ヒンディー文学者でもあり、そしてインド日本文化協会の会長を務めるラージ・ブッディラージャー女史に促され、これを機会にひとつ今まで習得したヒンディー語の力を振り絞って詩を書いてみようと思い立ったのである。何の変哲もない稚拙な詩ではあったが、出席者の方々に非常に温かく迎えられ、感極まった思いがした。この「Poorvatipoorva(East
meets East)」と名付けられた詩会の後、気をよくした僕はしばらくの間、気が向くとヒンディー語でいくつか詩を書いていたが、やはり語彙に限りがあるため、いくつも詩を書いていると使う単語が似通ってきて、だんだん限界を感じるようになり、遂にはやめてしまっていた。
文壇デビューを果たしたことなどすっかり忘れていた10月中頃、突然1本の電話がかかって来た。それは、デリー大学のインド人日本学者ウニーター・サッチダーナンド女史からの電話であった。ウニーター女史は昨年の「Poorvatipoorva」にも出席しており、一応の面識があった。彼女は石川啄木の熱烈なファンで、昨年「憧れの会」という石川啄木サークルを立ち上げた。とは言っても、国際啄木学会という石川啄木研究では国際的に権威のある学会と提携しており、けっこう本格的である。そして今年、彼女は「憧れの会」を通して、デリーで石川啄木に関するセミナーを開催しようとしていた。いろいろな企画があったが、その中でもメインイベントが、インドの詩人たちに啄木の詩をヒンディー語に翻訳してもらって、当日朗読してもらうという詩会であった。ウニーター女史はいろいろな詩人たちにコンタクトを取って詩の翻訳を依頼したようだが、その中で昨年ヒンディー語の詩を詠んだ日本人がいたことを思い出し、僕に電話をくれたのだった。ウニーター女史の夫はジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の教授で、僕の住んでいるブラフマプトラ寮のすぐ近くに彼女の家があったことも好都合であった。昨年はオリジナル詩に挑戦したので、訳詩なら比較的たやすいだろうと考えた僕は、再び詩作に対する情熱が湧き上ってくるのを感じながら、ふたつ返事でそれを引き受けた。
基本的には1人4首の短歌を訳すことになっていた。一応僕に割り当てられた短歌があったが、好きな短歌を訳していいと、一定の自由を与えられた。ウニーター女史から、解説付きの啄木短歌全集を借り受け、自室に戻ってパラパラと流し読みした。啄木の詩を読むのは久し振りだ。多分中学か高校のときに教科書に載っていた短歌を読んで以来だろう。全集に目を通したのはこれが初めてだった。石川啄木の詩には、「自殺したい」とか「誰かを殺してやりたい」などのかなり際どい詩が案外多く、かなり驚いたが、中には非常に琴線に触れる詩もあり、しばらくの間、啄木の世界に没頭してしまった。やはり僕に「この短歌を訳したい!」と思わせるようなアピールのある詩は、中高生の頃に教科書で読んだ詩であった。特に僕が好きな短歌は以下のものである。
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
僕はてっきり、石川啄木が15歳の頃に作った詩だと理解していたが、どうもかなり後に回想して書いた詩のようだ。それでも、青春時代の夢と希望と自由に溢れた詩であることには変わりがない。この詩は僕が訳させてもらった。他に、以下の2首も非常に有名で記憶に残っていた短歌であった。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
これらの詩を含め、合計6首の短歌を訳してウニーター女史に渡した。
それから約2、3週間、全く音沙汰がなかったのだが、セミナー開催日の数日前になってようやくウニーター女史から再び電話があり、前日にやっと招待状を受け取った。セミナーの題名は「A
Day with Japanese Poetic Aesthetics」、ヒンディー語では「जापानी काव्यमयी सौंदर्यशास्त्र
के साथ एक दिन」。だが、必ずしも石川啄木に特化したセミナーではなく、俳句と短歌をインドの文学にどのように応用させていけばいいのか、という大きな命題を掲げていた。ここでなぜ突然俳句が出て来るか、少し説明が必要であろう。

実はインドでは俳句は非常に有名である。当日配布された冊子に寄稿されたJNUヒンディー語学科のランジート・サーハー教授のヒンディー語の小論文「Perspective Haiku: Sensitivity and Structure(अवलोकन हाइकु: संवेदना एवं संरचना)」や、国際俳句学会のウェブサイトに掲載されている「俳句―インドからの展望」という論考によれば、インドに俳句を初めて紹介したのは、アジア初のノーベル文学賞受賞者で詩聖と呼ばれるラヴィーンドラナート・タゴールであったらしい。1916年の日本旅行を題材にラヴィーンドラナートが書いた「日本旅行記」に、既に俳句に関する記述が見受けられ、彼は「俳句ほど短い詩は世界にないだろう」と紹介すると同時に、松尾芭蕉の有名な俳句を数首翻訳して掲載している。また、同時期にはタミル語の詩人スブラマニヤ・バーラティーも、日本の俳句に関する評論文を書いていたようだ。独立後になると、インドにおける俳句の影響はヒンディー文学に最も顕著に現れる。ヒンディー文学者アギェーイは、日本を旅行した経験もあり、俳句から大きな影響を受けた詩人だと言われている。彼が1959年に出版した詩集「अरी
ओ करुणा प्रभामय(Arī Ō Karunā Prabhāmay)」には、以下のような有名な3行のシンプルな詩が収録されている。これは何かの俳句の訳詩のようだ(元の俳句が何かは不明)。
उड़ गई चिड़िया
कांपी, फिर
थिर हो गई पत्ती
だが、インドの文壇において俳句を定着させるのに多大な貢献をしたのは、サティヤブーシャン・ヴァルマー教授である。彼は「जापानी कविताएँ(日本の詩)」や「जापानी हाइकु और आधुनिक हिंदी कविता(日本の俳句と近代ヒンディー詩)」などの著作を著しただけでなく、「インド俳句クラブ」を設立し、1981年から「हाइकु(Haiku)」という雑誌を発刊し始めた。同誌は1989年に廃刊となってしまったが、インドにおける俳句の人気を決定的なものとした。また、1998年にはバグワトシャラン・アガルワール教授がヒンディー語の季刊誌「हाइकु भारती(Haiku Bharati)」を刊行し、こちらは現在まで続いているようだ。
俳句がこれだけの知名度を獲得した一方、短歌はインドではほとんど注目されて来なかった。最近では短歌の形式で詩を書く詩人も出て来たが、それでもごく少数である。石川啄木は基本的に短歌の詩人である。だが、短歌だけを売りにしたのでは人は集まらない。俳句なら人は集まる。これが、石川啄木のセミナーに「俳句」の文字が入った理由である。これは、ネパール人、パーキスターン人、バングラデシュ人などが経営するレストランが、インド料理の知名度にあやかる形で「インド&ネパール料理レストラン」などと銘打つのと似ているように思える。
さて、前日になってやっと招待状を受け取ったわけだが、そこには僕がヒンディー語に訳した短歌が掲載されていた。僕が最も気に入っていた前述の「不来方」の短歌である。この短歌の翻訳には最も気合を入れたので、訳詩の方も一番気に入っていた。
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
लेट गया हरे मैदान पे, खंडहर कोज़ुकाता क़िला
समा गया खुले आसमान में
दिल मेरा पंद्रह साल का
石川啄木の短歌の大きな特徴のひとつに3行詩型がある。石川啄木は、五七五七七の形式の短歌を3行に分けて書くことにより、独自のスタイルを生み出した。よって、ヒンディー語に翻訳するときも、この3行詩型を温存するようにウニーター女史から言われた。それでも一応、脚韻には出来る限り気を使い、例えば上の訳詩では、幼稚ではあるが、1行目前半「मैदान
पे」と2行目「आसमान में」、1行目後半「क़िला」と3行目「साल का」で韻を踏んでいる。「草」という単語の訳には、「घास」ではなく「मैदान」を使用した。後者の方が広々とした感じが出るかと思った。さらに、青々しい色彩感を加えるため、「हरे」を付け加えた。「不来方のお城」とは啄木の生まれ故郷、岩手にある盛岡城のことである。最初僕は「कोज़ुकाता
क़िला」とのみ訳したが、これだけだとインド人読者のイメージの中に「もう使われていない城」という荒涼感が出ないかもしれないので、「廃墟」という意味の「खंडहर」を付け加えた。「आसमान」の前に「खुले」を付け加えたのは、広大さと色彩を添えるためである。「空に吸われし」はこの短歌を訳す際に最も核となる一節だと思うが、僕は「包み込まれる」という意味の「समाना」という動詞を使用した。果たしてこれが最も適した訳語選択だったかどうかは分からない。
このセミナー「A Day with Japanese Poetic Aesthetics」は、本日11月3日、国際交流基金(ジャパン・ファウンデーション)で朝から夕方までかけて行われた。午前9時半から開会式が行われたのだが、僕は遅刻して行ったので開会式で何が話されたかは分からない。ジャパン・ファウンデーションは最近ジョールバーグからラージパトナガルに移転し、今回が移転後初訪問であったため、かなり迷ってしまった。だが、何とか開会式の後のティータイムには間に合い、チャーイを飲んで一息つくことができた。実際の予定より30分ほど遅れており、午後11時半から講演が行われた。ラージ・ブッディラージャー女史を初め、数人のインド人が講演を行ったが、基調講演を行ったのは岩手大学の教授で国際啄木学会の理事を務める望月善次氏であった。望月教授は、啄木の短歌の主題や特徴を10点指摘し、それぞれの代表的な短歌を紹介した。

講演の様子
その後昼食タイムがあり、午後2時過ぎから息抜きのためのクイズ・セッションが始まった。石川啄木の人生に関するクイズであったが、この中で、石川啄木の正確な生年月日は不明であること、ペンネーム「啄木」の意味はキツツキで、彼の生まれ故郷にはキツツキが多く生息していたことに加え、啄木はこのペンネームに「世界をつっ突いてやる」という野望を込めていたこと、熱烈な恋愛結婚をしながら結婚式に出席しなかったことなどの興味深い事実が明らかにされた。
その後、啄木について作られたビデオの鑑賞があり、簡単なティータイムがあった後、いよいよ啄木の訳詩の朗読会が始まった。翻訳をしたのは、アショーク・ヴァージペーイー、ケーダールナート・スィン、マングレーシュ・ダブラール、プラヤーグ・シュクラ、ガンガー・プラサード・ヴィマル、ヴァルヤーム・スィン、ラージェーンドラ・ダスマーナー、ヴィノード・バールドワージ、スレーシュ・サリル、トリネートラ・ジョーシー、ランジート・サーハー、ヘーマント・ジョーシー、イッバール・ラッビー、ラージ・ブッディラージャー、リーターラーニー・パーリーワール、クリシャンダット・パーリーワール、デーヴェーンドラ・チャウベー、マドゥ・シャルマー、ラージェーンドラ・トーマル、スシュマー・ジャイン、マンジュシュリー・チャウハーン、ジャンシュルティ・チャンドラ・セート、ケーンドラジ・ダスマーナー、プレームパール・スィンなどの詩人、文学者、研究者、教授、翻訳家や、デリー大学やJNUの日本語学科の学生たちであった。上で紹介した人の全てが出席したわけではないが、約半数は来ていたと思われる。
だが、当然のことながらほとんどのインド人は日本語が分からないわけで、英訳からヒンディー語に翻訳せざるをえなかった。語彙の選び方などには「さすが」と唸らせるようなものがあったものの、元の短歌にあるシンプルさと力強さが決定的に欠落してしまっているものが多かった。一般に文学の翻訳は不可能と言われる。その中でも詩の翻訳は最も困難である。さらに、俳句や短歌のような短い詩の翻訳は、さらなる困難を極める。その上、重訳による翻訳では、不可能中の不可能と言わざるをえない。かえって、日本語を学んでいる学生たちの方が、ちゃんと芯を捉えた翻訳ができていたのではないかと思う。
また、今回初めて知ったのだが、インドでは俳句や短歌は韻律ではなく文字数で形式を規定しているようだ。例えば、プラヤーグ・シュクラによるヒンディー語俳句の一節は以下のような感じである。
पानी में कुछ
दिये जा रहे बहे
हवा में मौन
ウニーター・サッチダーナンド女史による日本語訳は以下の通りだ。
ともし火は
水面(みなも)に流れ
またたけり
ヒンディー語の俳句を見ると、文字の数は5+7+5でちゃんと俳句の詩形になっている。だが、韻律では7+11+7になっており、俳句からは逸脱している。そのまま朗読しただけでは、日本人の耳には俳句だとは思われないだろう。ヒンディー語が読めない人のために以下にカタカナで転記しておく。
パーニー メ クチュ
ディエー ジャーラヘー バヘー
ハワー メ マォン
確かにヒンディー語では5+7+5の合計17韻律は短すぎる。ドーハーと呼ばれるヒンディー文学の伝統的な2行短詩形でも13+11、11+13の合計48韻律である。もし韻律で俳句や短歌を作ろうと思ったら、言いたいことをほとんど表現できない。よって、便宜的に字数で俳句や短歌の詩形を作ることになったのであろう。だが、日本の俳句のリズムに慣れた僕は、ヒンディー語の俳句や短歌はどうも違和感があった。僕が訳した石川啄木の短歌6首の内、1首だけ、日本の短歌の韻律を保存して訳すことに挑戦した。
ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
泣く母の肖顔(にがお)つくりぬ
かなしくもあるか
मिट्टी से लार को मिला
बनाया
रोती हुई माँ का चेहरा
ミッティー セ ラール コ ミラー
バナーヤー
ローティー フイー マー カ チェヘラー
韻律を整えるため、原詩第3行目の「かなしくもあるか」を省略せざるをえなかったが、上の2行だけで悲しい雰囲気が十分出ているだろう。僕は俳句や短歌を外国語の詩に取り入れる場合、そのリズム、つまり五七五や五七五七七の韻律が非常に重要だと思うのだが、望月教授は違った考えを披露していた。教授によると、俳句や短歌の最も重要な要素はそのシンプルさにあり、外国語で俳句や短歌を作る際にその韻律に縛られるのはよくないとのことである。彼が提案していたのは、俳句の場合は3行詩、短歌の場合は5行詩とし、俳句なら第2行を他の行よりも長く、短歌なら第1行と第3行を他の行よりも短くすることである。それもひとつの考えではあるが、俳句はまだしも、ヒンディー語で短歌を作るのは完全に不可能ではないように思える。これから少し、ヒンディー語による5+7+5+7+7の韻律の短歌の可能性を個人的に模索してみようと思う。
あと、上記の詩に関して、ある詩人から、涎のためには「लार」ではなく「थूक」の方がよいと助言を受けた。どうも前者は口からダラダラと垂れている涎で、後者は口からペッと吐き出す唾のことようだ。この語彙の選択は非常に微妙なところだ。自然に垂れてきた涎を使って母親の肖顔を作るのと、砂に唾を吐きかけて母親の肖顔を作るのとでは、情景がかなり変わってしまう。だが、助言は真摯に受け止めておいた。
他に、少し韻律がオーバーしてしまったが、以下の詩もなるべくその韻律を保存しようとした一例である。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
काम किया, मेहनत की
पर ज़िन्दगी ठीक न हुई
ताक ली हथेली
この有名な詩の翻訳は、他の2人の詩人もしていた。比較として掲載しておく。
ラージェーンドラ・ダスマーナー
श्रम पर श्रम करता रहा, ईमानदारी से जुटा रहा काम पर
फिर भी नहीं हो सकी आजीविका आसां
लगातार देखा मैंने अपने हाथों को
マドゥ・シャルマー
भले ही मैं करता काम
और काम, नहीं है सुकर मेरा जीवन
घूरता मैं अपने हाथों को
どちらの人も、原詩第3行目の「ぢっと手を見る」の「手」を、複数形で訳しているのが興味深かった。つまり、彼らは「両手を見ている」情景を思い浮かべたということであろう。もしくは、英語の訳詩が「hands」と複数形になっていたのかもしれない。だが、僕には片手をじっと見ている情景が思い浮かんだ。しかも、手というよりも手の平というイメージが強かったので、腕から手まで全体を指す「हाथ」ではなく、手の平を指す「हथेली」を使用した。これにより、3行において脚韻を踏むことにも成功している。
他に僕が訳した短歌の中で、他のインド人の訳と重複していたものに以下のものがあった。啄木の母親に対する愛情をよく表している非常に有名な短歌である。
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず
僕は以下のように訳した。
यूँ ही उठाया, माँ को पीठ पर
चल न सका तीन क़दम भी
रह न सका बिना रोए, हल्कापन से उनके
ケーンドラジ・ダスマーナーの訳詩は以下の通りである。
खुशी से मैंने उठाया अपनी माँ को पीठ पर
आँखों में आंसू उसके अत्यधिक हल्के वजन से
चल न पाया तीन कदम भी
ここで問題となるのは原詩1行目の「たはむれに」という語句ではないかと思う。ダスマーナー氏は「खुशी से(喜んで)」と訳しているが、僕は別に何か嬉しくて母親を持ち上げたわけではないと思う。ただ単に何の意図もなく、突発的に持ち上げたのだと思う。よって、僕は「यूँ
ही(何とはなしに)」という訳語を選んだ。あと、ある詩人の助言によると、僕の訳詩の3行目「हल्कापन」は「हल्केपन」の方が正しいようだ。この「-पन」の使い方は時々迷うことがある。後置格の影響で変則的に変化するみたいだ。また、「三歩あゆまず」の訳でも微妙な違いが見受けられる。僕は「三歩歩けなかった」という(不)可能表現に「सकना」を使った。一方、ダスマーナー氏は「पाना」を使った。どちらも普通に使う単語であるが、この使い分けはヒンディー語学習者にとって注目すべき点である。「エクスプレス・ヒンディー語」によると、前者は「可能《・・・できる》;許可《・・・してもよい》」であり、後者は「意志や努力を前提とする可能《・・・できる》」である。「पाना」を使った方が行為者の主観が入るので、通常はより生き生きとした表現になる。さて、啄木の原詩では、背負った母親が余りに軽すぎて三歩も歩けなかった、と詠われている。普通は重すぎて歩けないところを、軽すぎて歩けないのである。これをヒンディー語の詩情に当てはめるならば、「सकना」と「पाना」、どちらがよいだろうか、かなり悩んだ。僕も最初は「पाना」を使おうかと思ったが、かえって意志の入らない「सकना」の方が、母親の体重のあまりの軽さへの驚き――例えるならば階段を上っていてもう1段あるかと思ったらなくて足がガクッと下に落ちる感覚――がストレートに表現できるかと思い直し、「चल
न सका」と訳した。同時に、次の行の冒頭を「रह न सका」と続けて、頭韻っぽくした。ただ、どちらが本当に適しているのかは、ちゃんとしたヒンディー語話者の判断を仰ぐしかないだろう。
最もインド人の間で共感を呼んだと思われるのは、以下の詩である。
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
インドは多言語国家であるが故に、当のインド人でも、インド国内にいながら、周囲を全く理解できない言語で囲まれてしまうという体験が起きやすい国である。よって、見知らぬ土地で、自分の故郷の言語や方言にふと反応してしまう心情は非常に共感を呼んだようだ。僕は以下のように訳した。
सुनाई पड़ी बोली देश की अपने
भीड़ के बीच स्टेशन में परदेश के
सुनने गया यह आई कहाँ से
日本語の「故郷」という言葉は、実はヒンディー語に非常に訳しにくい。おそらく「村」という意味の「गाँव」が最も近いのだろうが、僕は敢えて「देश」を選んだ。この単語は、一般には「国」の意味で使われるが、日本語でも「くに」という言葉がしばしば「故郷」を表すように、ヒンディー語のこの単語にも「故郷」の意味合いが含まれている。そして、それの反意語である「परदेश」という単語は、直訳すれば「外国」であるが、やはり「異郷」という意味もある。映画音楽などでこの単語はよく出て来るが、「外国」という大きなスケールよりも「異郷」という小さなスケールで捉えた方が適切であろう。原詩には、「停車場」という単語に異郷感を示すような要素が少なかったので、僕は敢えて「परदेश」という単語を付け加え、「異郷の停車場」とした。解説によると、啄木が詠ったこの「停車場」とは上野駅のことであったらしい。
僕が訳した短歌はあと1首あるが、この短歌は冒頭に挙げた「不来方」の短歌と一続きになっており、繰り返しになるが、その短歌と一緒に掲載しようと思う。
教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城址(しろあと)に寝に行(ゆ)きしかな
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
क्लास छोड़, भाग खिड़की से
जाया करता था अकेले
उस खंडहर में नींदने
लेट गया हरे मैदान पे, खंडहर कोज़ुकाता क़िला
समा गया खुले आसमान में
दिल मेरा पंद्रह साल का
「教室の窓」の短歌は「不来方」の短歌に続けるために後から追加して翻訳した詩なのだが、出席者の間ではジョークの詩と受け取られてけっこう笑いを誘っていた。あと、ある詩人からは「寝に行きしかな」の訳語「नींदने」の語彙選択をとても褒められた。「寝る」という動詞をヒンディー語に訳す際、通常使われるのは「सोना」である。だが、この単語に何となく詩情を感じなかった僕は、他にいい単語はないかと辞書をパラパラとめくっていた。そのとき偶然、「नींदना」という単語が目に入り、その響きがとても気に入ったので、即採用したのであった。そういうちょっとした工夫と苦労を見抜いてもらえ、褒めてもらえるのはとても嬉しいことだ。そして、それを見抜けるのはやはりその人が優れた詩の才能を持っているという証であろう。
僕の日記であるので僕の話題が中心になってしまったが、僕がひのき舞台に立ったのは一瞬だけで、あとは座席で黙って座っていただけであった。セミナーは非常に盛り上がり、盛況のうちに幕を閉じた。
「Umrāo Jān Adā(امراؤ جان ادا)」と言えば、ウルドゥー文学初の小説として知られる有名な文学作品である。巨匠ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーによって1899年に書かれた同作品は、不幸にして娼婦となってしまった女性の人生を描きながら、数々の叙情的な詩を盛り込みつつ、19世紀のラクナウーの繁栄と混乱と没落を浮き彫りにしている。ウムラーオ・ジャーンが実在の人物であったかどうかについては議論があり、実はルスワーの母親だったとの説もあるが、確証はない。「Umrāo
Jān Adā」は今まで少なくとも3回映画化された。「Mehndi」(1958年)、「Zindagi Aur Toofan」(1975年)、そして有名なムザッファル・アリー監督、レーカー主演の「Umrao
Jaan」(1981年)である。そして2006年11月3日、アイシュワリヤー・ラーイ主演の新「Umrao Jaan」が公開された。奇しくも公開日はアイシュワリヤーの33歳の誕生日の直後、そして共演は、彼女と結婚の噂もあるアビシェーク・バッチャン、監督は「Refugee」(2000年)や「LOC」(2003年)のJPダッターである。JPダッター監督はこれまで男性中心の映画を撮り続けて来たことで知られており、またラージャスターン州の砂漠をこよなく愛することでも知られた監督だが、今回は初めて、女性中心の映画を作り、しかも映画の8割をラクナウーで撮影した(残りの20%はジャイプル)。間違いなく今年の期待作の1本である。
題名:Umrao Jaan
読み:ウムラーオ・ジャーン
意味:主人公の名前
監督:JPダッター
制作:JPダッター
音楽:アヌ・マリク
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アイシュワリヤー・ラーイ、アビシェーク・バッチャン、シャバーナー・アーズミー、スニール・シェッテイー、ヒマーニー・シヴプリー、クルブーシャン・カルバンダー、ディヴィヤー・ダッター、アーイシャー・ジュルカー、プル・ラージ・クマール、パリクシト・サーニー、マーヤー・アラグ、ビクラム・サルージャー、ジャーヴェード・カーン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

アイシュワリヤー・ラーイ
| あらすじ |
ラクナウー在住の文学者ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーは、近所に住む有名な娼婦ウムラーオ・ジャーン(アイシュワリヤー・ラーイ)の素晴らしい歌声を聞き、彼女に会いに出掛ける。ウムラーオ・ジャーンはルスワーを歓迎すると同時に、自分の人生を語り始める。
ウムラーオ・ジャーンの本当の名前はアミーランであった。アミーランは、ファイザーバードのバフー・ベーガム廟に勤める下級官吏(パリークシト・サーニー)の娘として生まれた。幸せな幼年時代を過ごしていたアミーランであったが、ある日父親の仇敵であるディラーワル・カーン(ヴィシュヴァジート・プラダーン)に誘拐されてしまう。ディラーワル・カーンは、相棒のピール・バクシュ(ジャーヴェード・カーン)の助言に従い、彼女をラクナウーで有名な娼館を経営するカーナム・サーヒブ(シャバーナー・アーズミー)に売り渡す。カーナムは、ブーアー・フサイニー(ヒマーニー・シヴプリー)にアミーランの養育を任すと同時に、彼女に「ウムラーオ」という名前を与える。
ウムラーオはブーアー・フサイニーの夫マウルヴィー・サーヒブ(クルブーシャン・カルバンダー)によって詩学・舞踊・声楽などの英才教育を受ける。カーナムの館には、実の娘のビスミッラー(ディヴィヤー・ダッター)やクルシード(アーイシャー・ジュルカー)という同年代の女の子も住んでおり、彼女たちは一緒に育てられた。やがて幼年時代は過ぎ、青春時代がやって来る。
ラクナウーの王族貴族たちが集う宴においてデビューを果たしたウムラーオは、たちまちの内にラクナウー中の話題となる。そしてウムラーオの常連客となったのが、貴公子ナワーブ・スルターン(アビシェーク・バッチャン)であった。カーナムやクルシードは、ウムラーオに「娼婦が客に恋をしてはならない」と戒めるが、ウムラーオはナワーブ・スルターンに恋してしまう。
だが、運命は思わぬ方向へ向かう。ナワーブ・スルターンの父親は、息子が娼婦遊びに没頭していることを知って怒り、彼を勘当してしまう。一文無しとなったナワーブ・スルターンは、カーナムの娼館からも追い出されてしまう。ウムラーオはただひたすら彼が一財を築いて戻って来るのを待ち続ける。
それと時を同じくして、ウムラーオに一目惚れした男がいた。盗賊ファイズ・アリー(スニール・シェッティー)である。ファイズ・アリーは貴族の振りをしてカーナムの娼館に入り、ウムラーオに熱烈にアプローチする。カーナムも、ナワーブ・スルターンを忘れてファイズ・アリーの相手をするように命令するが、ナワーブ・スルターンのことを愛するウムラーオはそれを受け容れようとしなかった。だが、ウムラーオはナワーブ・スルターンがガリーにいるとの情報を得る。ウムラーオは、ファイズ・アリーを利用してカーナムの娼館を出て、ガリーへ向けて旅立つ。だが、その途中でファイズ・アリーの正体がばれ、彼はガリーの領主に捕まえられてしまう。
情報通り、ナワーブ・スルターンはガリーに滞在していた。だが、ファイズ・アリーが話した嘘の話からウムラーオが自分を裏切ったと信じ込んだ彼は、彼女を捨て、他の女性と結婚してしまう。ウムラーオは傷心のままラクナウーに帰る。カーナムたちはウムラーオを歓迎するが、マウルヴィー・サーヒブは既に他界していた。
そのとき、1857年のインド大反乱が発生した。反乱は鎮圧され、英国軍はラクナウーに進駐した。カーナムの娼館にいた娼婦たちは散り散りになってラクナウーを逃げ出す。ウムラーオは故郷ファイザーバードに戻るが、家族には会うことができず、そこで娼婦業を始める。すぐにウムラーオはファイザーバードの話題となる。ウムラーオはある日、父親が既に死去したこと、また弟が生家に今でも住んでいることを知って、とうとう自分の生家を訪れる。だが、母親(マーヤー・アラグ)や弟は、娼婦となって家の名誉を汚した彼女を突き放す。ウムラーオはファイザーバードにいれなくなり、再びラクナウーに戻ることになった。
ファイザーバードからラクナウーに戻る途中、彼女は1人の乞食に出会う。その男は紛れもなく自分を誘拐して娼館に売り渡したディラーワル・カーンであった。ディラーワル・カーンはすっかり変わり果て、貧困と病苦に喘いでいた。ウムラーオは彼に腕輪を恵むと共に、神様に対して「彼を許してやって下さい。私はもう許しました」と祈る。 |
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この映画を見終わった観客の感想のリトマス試験紙となりそうなのが、ジャーヴェード・アクタルによる歌詞ではないかと思う。新「Umrao Jaan」の歌詞をよしとできれば、この映画はまあまあの評価となるだろう。歌詞が全く気に入らないなら、おそらくこの映画は駄作以外の何者でもないだろう。19世紀の文学作品を21世紀の今、映画化しようとする際、小説が舞台としている19世紀に比重を置くべきか、それとも観客が生きる21世紀に比重を置くべきか、それが最大の論点となるだろう。JPダッター監督のこの「Umrao
Jaan」は、もちろん時代考証を全く無視しているわけではないものの、ほぼ完全に21世紀の新しい「Umrao Jaan」を目指した作品であった。その点で、サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の「Devdas」と非常に似通った位置にある作品だ。
映画制作者の苦労と苦悩は、新「Umrao Jaan」の公式ウェブサイトに載っているジャーヴェード・アクタルの以下の言葉に凝縮されている。
19世紀を舞台にした映画を制作する際、監督、脚本家、音楽監督はジレンマに直面する。もし時代を正確に表現するため、19世紀に話され、歌われていた言葉を使うならば、21世紀の観客は理解できないだろう。もし21世紀のことだけを考えたら、19世紀のエッセンスは失われてしまうだろう。よって、2つの時代を橋渡しすることができるような努力が払われなければならない。理想的なのは、19世紀のストーリーとフィーリングを、21世紀の感覚に沿うように、現代の語彙を使って再構築することである。
新「Umrao Jaan」は、19世紀のラクナウーを舞台にし、非常に文学的かつ芸術的な外面を持ちながら、そこで使われている言語はアラビア語・ペルシア語で隅から隅まで装飾された種類のものではなく、現代人でも理解できるギリギリの華美な語彙を含んだ比較的簡素なヒンディー/ウルドゥー語であった。それは挿入歌の歌詞に最も顕著に表れている。ほとんど難しい単語を使わず、映画のストーリーに沿った歌詞を作ることに苦心が払われているのが伺われた。ウルドゥー文学の金字塔を原作としながら、これだけ簡易な語彙を選んでの映画制作は、非常に勇気の要る決断だったと思う。だが、それゆえに、文学者や教養層のサイドからの批判は免れえないだろう。新「Umrao
Jaan」に入って行けるか否かはまず、その「21世紀のウルドゥー語」として提案された言語を素直に受け容れられるか否かにかかっている。賛否両論あって然るべきであろう。ちなみに僕は、ひとつの挑戦として積極的に受け容れたいと思っている。「Taj
Mahal」(2005年)で使われていた、誰にも理解できないようなヘビーなウルドゥー語に比べたらマシである。ボリウッド映画はまず第一に門戸を広く構えた娯楽映画であるべきだ。
だが、それを棚に置いておいても、ストーリー・テーリングには詰めの甘さが目立った。いくつかの部分で、不必要なシーンが冗長に、丁寧に描くべきシーンが簡略化されてしまっていたように思えた。JPダッター監督はインタビューの中で、「ウムラーオ・ジャーンよりもアミーランに重きを置いた」と述べていたが、もしアミーランを強調するなら、誘拐されてからカーナムの娼館に売られ、ウムラーオとしての人生を受け容れるまでをもっと丁寧に描写するべきであった。作品中ではこの部分がかなりすっ飛ばして描かれていた。ルスワーの原作では、ファイザーバードからラクナウーに連れて来られるまでの心情や、簡単にアミーランを捨ててウムラーオになってしまったときの心の動きがよく描写されていた。逆に、ナワーブ・スルターンとの逢引や睦言の描写は冗漫すぎた。ロマンス映画としての味付けを濃くしようとしたのだろうが、さじ加減を少し誤っているように感じた。結局ウムラーオも娼婦であり、娼婦の映画に純愛を持ち込むのは強引過ぎないだろうか?原作はもっと割り切った見方でウムラーオの人生を見ている。また、最後、ファイザーバードからラクナウーへウムラーオ・ジャーンが向かうときの道標に、ウルドゥー文字と一緒にデーヴナーグリー文字も書かれていたのは全く時代考証から外れている。あの時代にデーヴナーグリー文字が公共の場で使われることはありえない。JPダッター監督の映画はいつも大味なので、これはもう彼の持ち味と開き直るしかないかもしれない。
しかし映画の最後はとてもよかった。かつてウムラーオを誘拐したディラーワル・カーンは、天罰を受けたのであろうか、いつの間にか乞食に身を落としていた。それを見た彼女は彼を許し、彼のために神様に祈るのである。そういう因果応報性や高い精神性が自然に映画の中に盛り込まれているのは、インド映画の大きな特徴のひとつであろう。
また、ウムラーオが久し振りに生家に戻って母親と再会するシーンなどは無条件で泣けてしまった。幼年時代に指輪をなくして母親から平手打ちをくらった彼女は、全てを失って戻って来たとき、平手打ちすらくらわせてもらえなかったのである。退屈だったり納得できない部分が散見されたものの、泣ける映画であるのは確かだった。
振り付けはヴァイバヴィー・マーチャント。ウムラーオらが踊っていたのは基本的にカッタク舞踊であったが、正統派の舞踊をマスターできているのかどうかは疑問である。どちらかというとアイシュワリヤー・ラーイの顔のアップが多く、身体全体の動きをゆっくり見ることができなかったように思える。コスチューム・デザインを担当したのは、「Taj
Mahal」のアンナ・スィン。「Taj Mahal」のコスチュームはまるで「スターウォーズ」のようであったが、新「Umrao Jaan」も思わず衣装に目が行ってしまうほどの過剰な豪華絢爛さであった。振り付けと衣装の点では、僕は「Devdas」の方がより質が高いように思えた。
主演のアイシュワリヤー・ラーイは、ムザッファル・アリーの「Umrao Jaan」でウムラーオを演じたレーカーとの比較を避けられないだろう。だが、アイシュワリヤーは彼女なりの演技でウムラーオを演じ切っており、決して酷評されることはないだろう。その美貌も美しい衣装によく映えていた。だが、彼女は声がどうもよくない。特に怒りや悲しみを表現するときの彼女の声はダミ声で損をしている。やはりラクナウー中をその美貌と才能で虜にしたウムラーオを演じるには、声にも気品がなくてはならない。ラクナウーで使われていた優雅なウルドゥー語も、彼女には使いこなすことができなかったようだ。聞くところによると、元々このウムラーオの役はプリヤンカー・チョープラーがオファーを受けていたらしい。
共演のアビシェーク・バッチャンは、ほとんどアイシュワリヤーの美を眺めているだけの役であったが、映画の中によく溶け込んでいた。ひとつ、父親に勘当されて酔っ払ってウムラーオの部屋を訪れるシーンでは、酔っ払いの演技がいまいちできていなかった。もしかしてアビシェークは下戸なのだろうか?
ムザッファル・アリーの「Umrao Jaan」では、ゴーハル・ミルザーを名優ナスィールッディーン・シャーが演じており、大きな存在感を醸し出していた。だが、JPダッターの「Umrao
Jaan」は、プル・ラージ・クマールという比較的無名の男優が演じており、作品中でもその人物設定に深みがなかった。これも聞くところによると、当初はアルシャド・ワールスィーがオファーを受けていたようだ。ゴーファル・ミルザーに魅力がないのは、新「Umrao
Jaan」の大きな欠点になりうる。
カーナム・サーヒブにシャバーナー・アーズミーをキャスティングしたのは正解であっただろう。映画中最も素晴らしい演技を見せていた。最近脇役が定着してしまったスニール・シェッティーだが、彼もいい脇役演技をしていた。マウルヴィー・サーヒブを演じたクルブーシャン・カルバンダーや、ブーアー・フサイニーを演じたヒマーニー・シヴプリーも好演であった。
ウルドゥー文学を原作にしただけあり、題名の登場の順番は、ウルドゥー文字→ヒンディー文字→アルファベットであった。そしてそれらの題名や「インターヴァル」の文字が、ウルドゥー語のように右から書かれるという演出もあった。
僕が見た回はほぼ満席であったが、新「Umraoo Jaan」は期待されていたほどオープニングで多くの観客を動員できなさそうだ。駄作続きの2002年にもし公開されたら注目されたかもしれないが、今年はボリウッドが我が世を謳歌する2006年である。もしかしたら失敗作に終わって他の傑作の中に埋もれてしまうかもしれない。
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11月6日(月) インドとサッダーム元大統領 |
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11月6日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に、以下のような写真が掲載されていた。

左にいるのはインディラー・ガーンディー首相(当時)、右にいるのはサッダーム・フサイン副大統領(当時)である。1975年にインディラー・ガーンディーがバグダードを訪れたときに撮影されたもののようだ。
11月5日、イラク特別法廷でサッダーム大統領は求刑通り死刑を宣告された。この判決に対し、日本の安倍晋三首相は、「公正な裁判が行われた」と歓迎の意向を示した。だが、インドの立場はどうも違うようだ。
11月6日付けの各紙によると、先日外相に就任したばかりのプラナブ・ムカルジーは、サッダーム大統領の死刑判決に関して、「このような生死の決断は、勝者の論理にのみ基づいた正義ではなく、イラク人民と国際社会の両方に受け容れられるような、適切なプロセスに基づいて下されたものでなければならない。」と微妙な声明を発表した。一方、左翼はこの判決に真っ向から反対している。統一進歩連合(UPA)政権に閣外協力しているインド共産党マルクス主義派(CPM)はマンモーハン・スィン政権に対して、「この八百長裁判に遺憾の意を示すと同時に、この判決を無効とするよう干渉すべきだ」と圧力をかけた。インド共産党(CPI)やインド共産党マルクス・レーニン主義派(CPI-LM)も裁判を「茶番劇」と糾弾している。また、インドで最も権威のある英字新聞ザ・ヒンドゥー紙の社説では、サッダーム元大統領の独裁政治が批判されつつも、裁判の不当性に対する糾弾に重きが置かれていた。インド人民党(BJP)は特に声明を発表していない。
思い起こせば、米国がイラクを侵略したとき(BJP政権時代)もインドはイラクへ派兵することを断固として拒否し、サッダーム元大統領が捕らえられたときも、反応は鈍かった。サッダーム元大統領逮捕の報が世界中を駆け巡ったとき、ヤシュワント・スィンハー外相(当時)は、「この進展がイラクの安定につながることを望む」とのみ述べ、手放しの歓迎はしなかったし、ヴァージペーイー首相(当時)も、サッダーム元大統領の逮捕に対する言及を避けた。当時野党だった国民会議派は、「イラクの大統領はインドの友人であり、国連の監視の下、人道的な裁判を受けられるように圧力をかけるべきだ」と主張した。
インドが、米国から「独裁者」「暴君」のレッテルを貼られたサッダーム元大統領を表立って批判しないのは、国内のムスリムの感情に配慮をしているからだと言われる。インドのイスラーム教徒が皆、サッダーム元大統領を敬っているわけではないようだが、反米感情は根強く、サッダーム元大統領を賞賛はしないものの、同情を寄せるイスラーム教徒は少なくないようだ。現に全インドムスリム個人法局のQSRイリヤース報道官は、「イラクの人々を殺戮した罪の罰を受けるべきなのは、米国のブッシュ大統領である」との声明を発表している。だが、イラク問題に対する腫れ物を触るような態度の理由は、どうもそれだけではないように思える。
まず考えられるのは、イスラーム教徒に限らず、インド人の間で、イラクとサッダーム・フサイン元大統領に対して愛着を持つ人々が案外いることである。1985年から1991年まで駐バグダードのインド大使を務めたカマル・バクシー氏は、「サッダーム元大統領のインドに対する態度は常に積極的、友好的、かつとても温かかった。彼はインドとその指導者、特にインディラー・ガーンディー元首相に対して多大な尊敬を寄せていた。」と回想している。
インドは自惚れの強い国だ。インドはインドを尊敬してくれる人に優しい。サッダーム元大統領がなぜインドを尊敬していたのか、その理由はよく分からない。独立後のインドが取っていた、東西どちらにも与しない非同盟主義であろうか、インディラー・ガーンディー元首相のリーダーシップだろうか、それとももっと単純に、その長大な歴史と豊かな文化であろうか?イラクと言えば、メソポタミア文明が花開いた土地である。メソポタミア文明が、インダス文明と交易をしていたことは今や定説となっている。その太古の記憶が、同じ古代文明国仲間としてのインドに対する尊敬の一因となっている可能性はある。とにかく、サッダーム元大統領は「インドの友人」であったため、インドは表立って彼の死刑判決を歓迎しないのだと考えられる。
しかしそれだけとも思えない。注目すべきは、ムカルジー外相が司法プロセスの適切さを問う声明を発表していることだ。この声明文を見ると、日本人としては、東京裁判におけるラーダー・ビノード・パール判事の判決文を思い起こさざるをえない。パール判事は日本で大きく誤解されている人物だが、彼が問題にしたのも、司法の正当さであった。パール判事は、アジアを欧米列強から解放した日本を尊敬していたからとか、日本が戦争を始めたのはそれ以外に手段がなかったからという理由で「戦犯」たちの無罪を主張したのではなく、その裁判のプロセスを問題視して日本無罪の判決文を書いたのである。裁判のプロセスに問題があるのは、サッダーム元大統領の裁判にも当てはまる。インドは司法が非常に強い国だ。ムカルジー外相の発言をそのまま受け取るならば、司法に対する絶対の信頼が、サッダーム元大統領への同情を生んでいると考えることができる。
さらに思い付くのは、インドは独裁者に対して、好意的ではないものの、一目置く傾向のある国であることだ。米国のブッシュ大統領は国民の間でインド中で非難の的となっているが、例えばナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総帥は、何となく畏敬の念で受け取られているように思われる。昔、本屋で「世界の偉人100選」みたいな本を手に取ったとき、その1人目にアドルフ・ヒトラーが載っていて驚いた記憶がある。アルファベット順に偉人たちを掲載したら、たまたまヒトラーが一番最初に来てしまっただけかもしれないが、「偉人」としてヒトラーを紹介するあたり、日本や国際社会とは違う感覚がインドにはあるように思われた。また、インドでは厳しい先生のことを「ヒトラー」とあだ名する習慣が全国的にあると聞く。その影響もあって、ヒトラーは親しみの沸く存在になっているのかもしれない。ちなみに、これは偶然かもしれないが、ヒトラーもインドに対して尊敬の念を抱いていた一人である。
これらを総括して考えてみると、インド人は日本で言う「武士の情け」や「判官びいき」の感覚がある国民なのではないかと思う。戦争は戦争で徹底的に争うが、一度勝敗が決まった後は、敗軍の将を尊敬と共にもてなす、みたいな美徳がインドにもあるように思われる。そして、第三者の立場に立った際、勝者よりも敗者に同情を寄せる精神性があるように思われる。中世、インドは多くの外来イスラーム勢力からの侵略を受けた。だが、在来の王国は、決してそれらに成す術もなく屈してしまったわけではない。中には侵略を跳ね返した王国もあった。しかし、戦争に勝利した王の多くは、敗軍の将を捕らえて処刑することまではしなかったように見える。多くの場合、みすみす逃がしてしまっていた。捕まえることができなくて逃がしてしまったこともあるだろうが、捕まえたのに、または捕まえるチャンスがあったのに、逃がしてしまったことの方が多かったのではないかと思う。敗走したイスラーム勢力の首領の中には、本拠地に戻って力を蓄え、再三インドへの侵略を繰り返した者も多かった。その内に勝敗はひっくり返り、インドは次第にイスラーム勢力の支配下に置かれるようになった。例えば、12世紀にインドへの侵略を繰り返したムハンマド・ガウリーは、伝説によると、当時デリーを支配していたラージプートの王、プリトヴィーラージ・チャウハーンとの初の戦いにおいて、一騎打ちで負けて負傷を負ったが、命までは奪われなかった。ムハンマド・ガウリーはアフガニスタンに戻って戦力を整え、再度プリトヴィーラージに戦いを挑み、今度は彼を打ち破っている。どこまでが史実かは分からないが、北インド最後のヒンドゥーの牙城と呼ばれるチャウハーン朝がイスラーム勢力に滅ぼされたのも、彼が武士道にこだわり過ぎたからと言えるかもしれない。それはともかくとして、インドには戦争での敗者を徹底的に抹殺するまでの残忍さはあまりないように思える。その美徳は、中世においては、敗軍の将の命を助けるという点に表れ、現代においては、適切な法の裁きを受けさせるという点に表れているように見える。
また、インドが親日的な国である理由のひとつに、広島・長崎の原爆投下があるが、これはインド人の「判官びいき」の一例として挙げられそうだ。学校で、広島と長崎に原爆が投下されたことを学んだインドの子供たちは、その瞬間から米国を憎み、日本のことを愛するようになってしまう、とインド人の口から聞いたことがある。原爆が投下されたことと、日本を好きになることのつながりが、僕にはすぐに理解できなかったが、おそらくそれは「判官びいき」的同情に近い感情なのだろう。徹底的に打ち負かされた第三者に、インド人はしばしば非常に同情的だ。ヒトラーに対してもそういう認識なのだろう。インドの与野党から、サッダーム元大統領の死刑判決に対して歓迎の声明が発表されないのは、いろいろな政治的思惑がその裏にあるだとは思うが、実のところは、インドの美学に反するからなのかもしれない。
今回は、サッダーム元大統領の死刑判決から、インドをひとつの「存在」として捉え、いつの間にか長々と勝手な所感を書き綴ってしまった。かなりいい加減なことも書いたと思うので、あまり真に受けないでいただきたい。
ダウリーとは結婚持参金のことである。ダウリー(dowry)というのはラテン語起源の言葉で、インドではダヘーズ/ダヘージ(दहेज़/दहेज)と呼ばれることが多い。インドの大半のコミュニティーでは、結婚時に花嫁側が花婿側に持参金を払わなければならない。かつて戦争などの影響により男性の数が激減したことがあり、そのときから花嫁側が花婿側に持参金を払うようになった、とインド人は好んで説明する。ダウリーを巡っては、花婿側家庭による花嫁側家庭の搾取、貧乏な家庭の娘と裕福な老人との不釣合いな婚姻、再婚によるダウリー再獲得目的の花嫁の殺害、女児の間引きなどの社会問題が起こっており、1961年にはダウリー禁止法が制定されたが、今でもダウリーは社会に根付いており、社会問題と言えるほど男性の数が増えつつある現在でもなくなりそうにない。むしろ、ダウリーは高額化しており、ますます花婿側家庭の負担となっている。ダウリーとして贈られるものは、装飾品や家庭用品などの伝統的な品物から、電化製品などの文明の利器までいろいろあるが、中でも最もポピュラーなのは自動車である。フロントガラスに花をあしらった自動車が走っているのを見たら、それはダウリー用の自動車だと思って間違いない。リアガラスに「ラージュー&プリヤー」みたいなステッカーが貼ってあるものも、ダウリーとして贈られたと考えていいだろう。
インドは今や世界でも有数の自動車の一大市場である。100万台市場と呼ばれるようになって久しい。僕がインドに住み始めた2001年に比べると、明らかに自動車の数は増えた。それを実感するための一番よい方法は、夜に住宅街へ行ってみることである。住宅と住宅の間の道路には道を埋め尽くすほどの数の自動車が車間距離ゼロの状態で駐車してある。どうやって出すのか分からない。こんな状態なので、駐車場争いも激化しているようだ。自動車の流行が次第に軽自動車からセダンやRVなどの中大型車へ以降していることも油に火を注いでいる。また、地価の上昇により、デリー中から空き地が急速に減っているのも問題だ。かつて、住宅街には謎の空き地がいくつかあったものだ。兄弟間などで所有権争いが起こっていたり、何か法律上問題があったり、その理由は様々だが、これらの空き地があったおかげで、駐車スペースにはまだ余裕があった(空き地に駐車するわけでなく、空き地の前の空きスペースに駐車する)。何を隠そう、僕もサフダルジャング・エンクレイヴに住んでいたときは、その空き地前空きスペースを駐輪場としていた。だが、ここ最近、その空き地に次々と建物が建つようになった。しかもマンションタイプの建物である。多くの住人が住むだろうし、自動車の数も増えるだろう。こんなわけで、ますます駐車場争いが激化していくわけである。
自動車の売り上げが激増するのは、ピトル・パクシャ以降のナヴラートリー、ダシャヘラー、ディーワーリーのお祭りコンボ・シーズンだが、それに加え、北インドでは冬の結婚式シーズン(10月~2月)もダウリーの影響で自動車の販売台数が伸びる時期のようだ。この時期に売れる自動車の内の何割がダウリーになるのかを正確に示すデータはないようだが、相当数がダウリー用に購入されているようだ。11月9日付けのヒンドゥスターン紙によると、この時期には、花嫁の両親と共に、花婿も一緒にショールームを訪れて自動車を選ぶ風景がよく見られるという。ダウリーとして購入される自動車は、ヒュンダイのサントロ、マールティ・スズキのアルト、ワゴンR、マールティ-800などの軽自動車が大半のようだが、次第にエスティーム、ホンダ・シティー、アコードなどのセダンにもその影響が及んでいるらしい。
さらに、新郎新婦が結婚直後に自動車を購入する現象も見られるという。最近はインドでも共働きの家庭が増えており、それぞれが自分の自動車を買うことも少なくない。また、結婚前に自動車を持っていたとしても、結婚を機にさらに上のモデルの新しい車に買い換える人も多い。ヒュンダイのマーケティング担当者によると、自動車の販売台数が年間で最も伸びるのは、ナヴラートリー期とこの結婚式シーズンのようだ。
2006年も終わりに近付き、結婚式シーズン真っ只中である。結婚式を見るたびに、着実にインドの人口が増えているのを感じて怖い思いがするのだが、同時に自動車の数もどんどん増えて行くようで、二重の恐怖である。
昔は毎日ザ・ヒンドゥー、タイムズ・オブ・インディア、インディアン・エクスプレスの3種の英字新聞を読んでいたが、最近ではインディアン・エクスプレスの代わりにヒンディー語紙ヒンドゥスターン(हिन्दुस्तान)を読んでいる。インドで最も真面目な新聞であるザ・ヒンドゥー紙は必須であるし、インドで最も娯楽性に満ちた新聞であるタイムズ・オブ・インディア紙も絶対に捨てがたい。インディアン・エクスプレス紙は時々独自のルートによるすっぱ抜き記事を載せるし、折込紙に興味深い記事が出たりするので、これまた目が離せないのだが、上記2紙に比べると優先順位は低くなる。4紙以上読むのはつらいので、インディアン・エクスプレスの購読をやめざるをえなかった。ヒンディー語紙としてヒンドゥスターンを選んだのには特に理由はなかった。あるとすれば、有力ヒンディー語紙のひとつであるナヴバーラト・タイムス(नवभारत
टाइम्स)がタイムズ・オブ・インディア紙と同じグループであるので、そのライバルであるヒンドゥスターン・タイムス紙と同じ系統のヒンドゥスターンを購読してみようかと思ったくらいである。だが、最近ではけっこう楽しんで読んでいる。
ヒンドゥスターン紙には週に数回、メトロ・リミックス(मेट्रो रीमिक्स)という折込紙が付いて来る。メトロ・リミックスは毎週金曜日にボリウッド・バーザール(बॉलीवुड
बाजार)というボリウッドのビジネス・レポートの連載記事を載せており、これがけっこう面白い。「これでインディア」でも、過去に何度もボリウッド・バーザールを参考にさせてもらっている。今日のボリウッド・バーザールの題名は、「映画館は空っぽ、でもプロデューサーのポケットは満タン(सिनेमा
हॉल खाली पर निर्माताओं की जेब भारी)」であった。本日の記事はこの記事を参考にして書いた。
資本主義の申し子である芸術形態、映画は、投資という観点から見たら、非常に博打性の高い産業である。確かにヒットの方程式なるものは存在する。大スターのキャスティングや他地域におけるヒット映画の翻案はそのひとつである。カラン・ジャウハル監督の登場により、マーケティングが映画の成功を左右することも証明された。だが、その方程式も完全ではない。失敗する映画は失敗する。いくらヒットの方程式をもってしても、錬金術のようにフロップ(失敗作)をブロックバスターに変えてしまうことはできない。観客も馬鹿ではない。だが、最近のボリウッドでは、「フロップでも損をしない」という新たな魔術が普及しつつあるようである。
ボリウッド・バーザールには、先日公開された「Umrao Jaan」の例が挙げられていた。既に同作品はフロップの烙印を押されてしまっている。だが、プロデューサー兼監督であるJPダッターは全く動じていない。なぜなら映画公開前から既に制作費を回収してしまっているからだ。まず、「Umrao
Jaan」の制作費は、多くとも1億5千万ルピーと言われている。インドの映画配給権はテリトリーごとにディストリビューター(配給業者)に販売される。インド国内には主要なテリトリーが5つある。JPダッターは、「Umrao
Jaan」の配給権を、ミニマム・ギャランティー(MG)契約により、1テリトリーにつき3.5千万ルピーで販売した(MGについては後述)。海外配給権はまた別で、同作品の海外配給権はおよそ3千万ルピーで売られた。つまり、配給権だけでJPダッターは合計2億1千万ルピーの収入があったことになり、既に制作費を回収した上に利益も得ている。それに加えて、衛星放送権(少なくとも2.5千万ルピー)、DVD販売権(1.5千万ルピー)、音楽配給権(2千万ルピー)なども売却することができるため、映画館からの収益なしにJPダッターは2億7千万ルピーを得ることになる。さらに、映画公開後はMGによる興行収入が懐に入る。
ここでMGについて簡単に説明しよう。インドのメディア論の教科書と言えるヴァニター・コーリー=カンデーカル著「The Indian Media
Business(Second Edition)」によると、インドではいくつかの種類の配給契約があるようだ。MGというのは、ディストリビューターが完全にリスクを背負う形の配給形態で、期待作の配給契約は大体このMGとなる。ディストリビューターは映画のプリント(1プリントにつき6万5千ルピー)や宣伝などの費用を持つ。映画の興行によりその費用が回収できた場合、ディストリビューターはプロデューサーに対して20%のコミッションを支払う。興行収入が費用を越えた場合、そのオーバーフロー(過剰収益)はプロデューサーと山分けとなる。プロデューサーとディストリビューターの間の配給契約には、他にアドバンス、コミッション・ベーシス、アウトライトなどがあるようで、どちらがどれだけのリスクを負うかにより契約は変わってくる。
これはつまり、名のある映画メーカーの作った映画は、絶対に損をしないということである。この現象は両極端の影響をこれからインド映画界に及ぼすように思われる。まず、ポジティヴな影響から考えると、やはり映画制作におけるリスクが軽減されるため、実験的・野心的な作品を作るプロデューサー・監督が出やすくなるだろう。ボリウッドにハリウッドからのパクリが多かったのも、映画制作のリスクの大きさが最大の原因であった。このポジティヴな影響により、オリジナルの作品が増え、インド映画のダイナミズムが促進されることが期待される。一方、失敗作でも資金を回収できるというこの状況は、逆に映画がどうだろうと売れればいい、という捨て鉢な雰囲気を映画メーカーの間に生じさせる恐れもある。もちろん、失敗作ばかり連発していては、映画メーカーの名が傷ついて長期的に見てプラスにはならないが、ボリウッドの状況を見ていると、一度ヒット作を放った映画監督は、その後いくらプロップを連発しても、ある程度チヤホヤされる傾向にあり、少し不安である。極端なことを言ってしまえば、ボリウッドに、「とにかく1作でも大ヒット映画を放てば、その後の映画人生は安泰」という新手の「ライセンス・ラージ」が生まれる可能性もある。さらに、現在主流の配給システムは、期待されながらフロップに終わった映画の損失をディストリビューターと映画館が負担することになっており、それが続けば映画界全体を弱体化させる恐れもある。
ボリウッド映画の1ファンとして、映画制作のリスク軽減がポジティヴな方向へ影響を及ぼすことを祈るばかりである。

1冊の本が人を旅立たせることがある。1冊の本が旅を変えることがある。コンノート・プレイスのオックスフォード・ブックストアに立ち寄ったときに目にした1冊の本、「The
Forts of Bundelkhand」(Rita Sharma & Vijai Sharma、Rupa & Co.)。ブンデールカンドとは、ウッタル・プラデーシュ州南部からマディヤ・プラデーシュ州北部にかけての地域、言い換えれば、ヤムナー河の南、ナルマダー河の北の地域のことを指す。同書は、そのブンデールカンドにある城のガイドブックであった。さすが特定地域に限定したガイドブックだけあり、「ロンリー・プラネット」や「インド建築案内」などではカバーし切れないようなマイナーな城も掲載されていた。偶然そのとき、その方面へツーリングへ行こうと考えていた僕は、795ルピーという少し高めの値段ではあったが、その本を購入した。

The Forts of Bundelkhand
ブンデールカンドはかつて、ヴァツァ、ジェージャカブークティまたはジャジャウティーと呼ばれた。ブンデールカンドが歴史上、頭角を現すのは、チャンデーラ朝が勃興する9世紀からである。カンナウジを拠点として北インドを支配していたプラティハーラ・ラージプートの地方領主に過ぎなかったチャンデーラ氏族は、プラティハーラ朝の衰退に乗じて独立する。このチャンデーラ朝こそが、男女交合像(ミトゥナ)で有名な世界遺産カジュラーホーの寺院群を建造した王朝である。チャンデーラ朝は、卓越した寺院建築技術を有していた他、優れた灌漑技術や強力な山城築城技術も持っており、カーリンジャル、アジャイガルなどの難攻不落の山城を拠点として300年間に渡って王国を存続させた。11世紀のメヘムード・ガズニーの侵略には抗し切れなかったものの、すぐに勢力を盛り返し、12世紀末のムハンマド・ガウルの攻撃は跳ね返した。だが、デリーとアジメールを首都としたプリトヴィーラージ・チャウハーンの王国との抗争により疲弊し、13世紀初めに奴隷王朝の創始者であるクトゥブッディーン・アイバクの攻撃により首都が陥落して以来、チャンデーラ朝は衰退して没落した。カジュラーホーは少なくとも14世紀中頃までは宗教都市として存続したと考えられているが、やがて人々の記憶から消え去り、1838年に地元の人の噂を聞きつけた英国の技術士TSバートに発見されるまで密林に埋もれたままであった。
14世紀になると、ブンデールカンドではブンデーラ氏族が勢力を持ち始める。ブンデールカンドという地名も、このブンデーラ朝から取られている。ムガル帝国の成立により、ブンデーラ朝は絶えず圧力を受けるようになるが、17世紀になるとブンデーラ朝とムガル朝は同盟関係となる。その要因は、ブンデーラ朝のビール・スィン王と、ムガル朝第4代皇帝ジャハーンギールの間の友情による。ビール・スィン王は、ジャハーンギールがまだ王子だった頃、彼の要請に応え、政敵であった宰相アブル・ファズルを暗殺したことがあった。ジャハーンギールは皇帝になった後もその恩を忘れず、ビール・スィンを支援し続けた。ムガル帝国という強力な後ろ盾を得たブンデーラ朝は最盛期を迎える。だが、シャージャハーンの時代以降になるとブンデールカンドは再びムガル朝の侵略を受けるようになる。南からはマラーター王国も北上して来ていた。当時ブンデールカンドにはいくつかの小王国が分立していたが、その中でも最も有力だったのがパンナーのチャトラサール王である。チャトラサール王はマラーターに領地の3分の1を与え、ムガル朝に対抗させたため、ブンデールカンドにマラーターの支配権が確立し始める。また、オールチャー、ダティヤー、サムタルなどの小王国は英国と手を結ぶ。
1857年のインド大反乱では、ブンデールカンドの中心都市のひとつであるジャーンスィーが重要な役割を果たす。18世紀中頃、ジャーンスィーの城主はガンガーダル・ラーオであったが、1853年に跡継ぎを残さずに死去してしまう。英国は、ダルハウジー総督が制定した「失権の法則」により、ジャーンスィーを併合してしまう。ガンガーダル・ラーオの妃であったラーニー・ラクシュミーバーイーは年金生活を送るようになるが、1857年のインド大反乱ではジャーンスィーでも反乱が起きる。英国の手からジャーンスィー城を奪還した反乱軍は、ラクシュミーバーイーに女王として即位するように要請する。ジャーンスィー王国の女王となったラクシュミーバーイーは、剣を取り、馬を駆って、勇敢に英国の攻撃からジャーンスィー城を守ったが、とうとう城は陥落してしまう。ラクシュミーバーイーはスィンディヤー家が統治するグワーリヤル(Gwalior)へ逃げるが、再び英国の攻撃を受け、戦死してしまう。ラクシュミーバーイーは「ジャーンスィーのラーニー」とも「インドのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、この地方の人々の誇りとなっている。反乱が鎮圧された後は、ブンデールカンドの大部分はグワーリヤルのスィンディヤー家の領地となる。スィンディヤー家は現在まで存続しており、特に政界でアクティヴに活動している。
このように、ブンデールカンドはインドの歴史の中で非常に存在感のある地域であった。ヒンディー語の方言にブンデールカンディーというものがあるが、それもこの地域がひとつの強力なアイデンティティーを有していたことを示しているだろう(先日公開された「Omkara」という映画では、このブンデールカンディー方言が使われた)。しかし、観光地としては、カジュラーホーを除けばそれほど一般によく知られた地域ではない。オールチャーは最近になってようやく注目を集めるようになったが、他にも多くの見所がある地域であり、これらをバイクで巡ろうと考えた。
ブンデールカンドにいろいろな城があるのを知ったのは冒頭の本によってであるが、そもそもブンデールカンドを旅行しようと思った一番のきっかけは、別の本であった。いつだったか忘れたのだが、飛行機に乗っているときに、座席の前のポケットに入っている雑誌によって、「国会議事堂のモデルになった寺院」の存在を知った。デリーにある国会議事堂は、円形をした独特の建築物である。ニューデリーが建造されたとき、エドウィン・ルティエンスとハーバート・ベイカーによって設計された。だが、その国会議事堂のモデルとなった建築物がインドのどこかにあるというのは全くの初耳であった。その雑誌には写真も掲載されていた。確かに円形の建築物で、国会議事堂と同じように柱で支えられていた。そのときから、いつかここに行きたいと思っていた。寺院の名前は「Mitawali」、所在地はマディヤ・プラデーシュ州の「Morena」と書かれていた。地図で調べてみたところ、「Morena」はアーグラーとグワーリヤルの間で、デリーからバイクで行くのにちょうど良さそうな距離であった。よって、涼しくなったら行ってみようと決めていた。こういうこともあり、「The
Forts of Bundelkhand」を読んだ途端、この寺院からオールチャーやカジュラーホーなどを含めた旅行ルートが頭の中で瞬時に描かれたのであった。

デリーの国会議事堂
そしてカジュラーホーも前から行ってみたい場所のひとつであった。もちろん、既にカジュラーホーは訪れたことがある。だが、それは僕が初めてインドを旅行した1999年のことだった。もう7年間もカジュラーホーへ行っていない。それに気付いたとき、無性にカジュラーホーへ行きたくなった。そして何よりカジュラーホーは僕にとって少し特別な場所であった。初めてインドを旅行したとき、いわゆる定番のルートを通って、僕はデリーのゴール・マーケットにある旅行代理店へ連れて行かれた。そこで訳が分からない内にデリー~ジャイプル~アーグラー~ヴァーラーナスィーのツアーを組まされた。これらの人気ルートを手っ取り早く旅行できたのはよかったのだが、ずっとドライバーやガイドが付いて来るので非常に窮屈であった。40日間インド一周を計画していた僕は、ヴァーラーナスィーから反転し、サトナー経由でカジュラーホーへ向かった。ツアーはヴァーラーナスィーまでであったので、カジュラーホーからは完全に1人の旅行であった。自分で気ままに旅行をすることで初めて僕はインド旅行の真の楽しさを知った。だから、カジュラーホーは僕にとって原点に近い存在であった。どうせならカジュラーホーまでバイクで行きたい、そう強く思った。だが、カジュラーホーと言えば悪路で有名な場所である。最新版の「ロンリー・プラネット」にも、「道が悪いので金銭的余裕があれば空路で行くことをすすめる」みたいなことが書かれていた。しかし、最近カジュラーホーはかなり発展したとも聞く。もしかしたら道もよくなっているかもしれない。道の状況を見て、カジュラーホー行きを決行するか否かを決めることにした。
本当は11月の早い時期に旅に出ることを計画していたのだが、体調がよくなかったことと、いろいろな用事ができてしまったことで、出立はズルズルと延期された。だが、遂に11月11日早朝、決意してデリーを旅立った。今回も単独のツーリングである。今日の一応の目的地はオールチャー。予定ルートはデリー~アーグラー~グワーリヤル~ジャーンスィー~オールチャーである。途中、「Morena」を経由するので、「国会議事堂のモデルとなった寺院」にも立ち寄る計画であった。だが、どこの町に宿泊するかは、時間と体力を見て柔軟に対応することにしていた。
朝7時半にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)のブラフマプトラ寮を出発。ラドー・サラーイにあるガソリンスタンドでスピード97を給油し、メヘラウリー・バダルプル・ロードを通ってNH2(国道2号線)へ出て、アーグラーへ向かった。10時過ぎにマトゥラーにあるマクドナルドに到着。軽食を取って休憩する。10時半に再びバイクにまたがって出発し、11時過ぎにはアーグラーに到着した。ここまでは何回か通ったルートなので、何の迷いもなかった。だが、アーグラーから先は未知の領域である。
アーグラーからグワーリヤルへはNH3が延びている。だが、NH2からNH3へ抜けるにはアーグラー市街地を抜けて行くしかなさそうだった。所々にある道標を頼りにしつつ、デリーから来た者の目には無法地帯に見えるアーグラー市街地の大混雑を通り抜け、何とかNH3に出た。アーグラー南郊は非常に道が悪く苦労したが、それを抜ければきれいな舗装道となっていた。アーグラーを抜け出たときには12時になっていた。
アーグラーはウッタル・プラデーシュ州で、グワーリヤルはマディヤ・プラデーシュ州だが、アーグラーとグワーリヤルの間には、意外なことにラージャスターン州が入り込んでいる。途中、奇妙な形の砂山が林立する風景に囲まれたダウルプル(Dholpur)という町を通るが、それがラージャスターン州である。遠くの方には城も見えた。ここもきっと何か謂れのある場所なのであろう。

ダウルプルの城
ダウルプルを抜け、河を渡ると、いよいよマディヤ・プラデーシュ州に入る。しばらく美しい舗装道を走っていくと、そこはもうムライナー(Morena)、例の「国会議事堂のモデルとなった寺院」があるとされた町である。きっと誰かが知っているだろうと思い、ムライナーの町で何人かに聞いてみたのだが、はっきりしない返事。とりあえず国道から下りてムライナー市街地の方へ向かっていくと、ムライナー駅に出た。駅の水道で顔を洗って一息ついた後、周辺にたむろっている人にさらに尋ねてみたが、やはり知っている人はいなかった。これは思った以上に難航しそうだ。地元の人々にいちいち聞いていたのでは埒が明かない。帰りも同じルートなので、ネットカフェや観光局で情報を収集して出直すことに決めた。
グワーリヤルには2時頃に到着。ここから南東のジャーンスィーへ抜けなければならなかったが、不覚にも道に迷ってしまった。ちゃんとジャーンスィーまでの道を人に尋ねつつ進んで行ったのだが、気付いてみたらジャーンスィーとは方向が違う南西のシヴプリー方面へ出てしまった。気付いた途端に引き返し、もう一度丁寧に道を確認して、グワーリヤル市街地を抜けてジャーンスィー・ロードに出た。こんなことがあったので、グワーリヤルを通り抜けるのにも1時間かかってしまった。だが、後から調べてみたところでは、シヴプリー方面からジャーンスィーへ抜けるバイパスがあったようだ。シヴプリー方面への道を教えてくれた人も決して悪気はなかったのだろう。そういう道路情報を示す道標が全くないのがいけない。
グワーリヤルを出ると、道の名前はNH75となる。少し進むとちょっとした丘陵地帯となり、峠を越えると再び平地の道となる。しばらく進んでいくと、前方に巨大な城が見え始めた。ダティヤーである。昔、ジャーンスィーからグワーリヤルへバスで移動したとき、ダティヤーの城を発見して驚いたものだった。神谷武夫氏の「インド建築案内」にはちゃんとダティヤーの記述があった。このダティヤーには帰りに立ち寄る。
ジャーンスィーに到着したのは午後4時半。本日の目的地であるオールチャーまであと少しである。ちなみに、ジャーンスィーはウッタル・プラデーシュ州となる。ジャーンスィーをほぼ一直線に通り抜けると、カジュラーホー・オールチャー方面へ向かう道が示されていた。それに従ってきれいに舗装された道を進んで行くと右に折れる道があり、直進するとカジュラーホー、右折するとオールチャーとなっていた。そのT字路を右折し、細い舗装道をしばらく進んで行くと、遂にオールチャーの城や寺院が前方に見え出した。午後5時半、日没の直前であった。オールチャーは再びマディヤ・プラデーシュ州である。この辺りは州境が複雑に入り組んでいる。
オールチャーではベートワー河の河畔にあるホテル・ガンパティに宿泊した。懸念だったのはバイクの駐輪場だったが、ここは中庭にバイクを止めることができ、安心であった。元々弁護士をしていたというオーナーは、顔は怖いがフレンドリーで、デリーからはるばるバイクで来た僕を温かく迎えてくれた。ホテルはまだ建築中で、いくつかのレベルの部屋があるが、僕が泊まったのは1番安い部屋。シングルで250ルピーであった。バスルーム、TV、ホットシャワー、タオル、石鹸などが付いている。
前回オールチャーに来たのはちょうど4年前のディーワーリー祭の時期であった。オールチャーには有名なラーム寺院があり、ディーワーリーは盛大に祝われる。普段は静かな村のようだが、そういう訳もあって僕が訪れたときは非常に混雑していた。今回も、どういう偶然か、何らかの祭りが行われており、オールチャーは非常に騒がしかった。オールチャーもだいぶ変わったと聞いていたのだが、想像していたほど変化はなく、4年前に見たものは大体今年もあった。ただ、郊外に高級ホテルがいくつかできており、白人団体観光客が目立つようになったのは大きな変化であった。

ラーム・ラージャー寺院
多くの参拝客が詰め掛けていた
今回のツーリングの中で、1日の移動距離が最も長かったのが初日の今日であった。走行距離は464.5km。元気な内に長距離移動を済ませておくのが賢明だろうと思い、今日は頑張った。デリーを午前7時半に出て、オールチャーに午後5時半に着いたので、10時間かかったことになる。デリー発のツーリング先として、オールチャーは悪くない場所だ。ポイントは、デリー、アーグラー、グワーリヤル、ジャーンスィーの市街地をどれだけスムーズに抜けられるかであろう。道さえ分かっていれば、もっと早く着けるはずだ。また、アーグラー辺りで1泊してオールチャーまで来れば、旅程はだいぶ楽になるだろう。

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11月12日(日) オールチャーからカジュラーホーへ |
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オールチャーは既に観光済みで、中継点として滞在しただけであったが、せっかくなので早朝に主な見所を再訪してみることにした。

早朝、ホテル・ガンパティから眺めた
ジャハーンギール・マハル(左)とラージ・マハル(右)
ベートワー河の河畔に位置する天然の要塞オールチャーは、16世紀にブンデーラ朝の首都となった町である。ブンデーラ朝は絶えずムガル帝国に脅かされており、アクバルに堂々と対抗したマドゥカル・シャーの死後は兄弟間の内紛によって弱体化した。だが、ブンデーラ朝の運命を決定するひとつの事件が発生する。アクバルの息子サリームは宰相アブル・ファズルを敵視しており、マドゥカル・シャーの息子ビール・スィン・デーオに、アブル・ファズルの暗殺を依頼する。ビール・スィンはデカンからアーグラーへ戻る途中のアブル・ファズルを殺害し、その首をサリームに送る。アクバルの死後、皇位に就いたサリーム(ジャハーンギール)は、ブンデーラ朝の内紛に介入し、ビール・スィンを王位に就ける。以後、ムガル朝とブンデーラ朝は同盟関係となり、ビール・スィンはムガル朝のメーワール攻略やデカン攻略に協力した。ブンデーラ朝はビール・スィンの統治の下、最盛期を迎える。ブンデールカンドに残る遺跡の多くは、この時代に建てられたものである。オールチャーにあるジャハーンギル・マハル、ラクシュミー・ナーラーヤン寺院、ダティヤーのゴーヴィンド・マンディル、ジャーンスィー城などは全てビール・スィンが建造したものだ。その建築の最大の特徴は、政治的な背景を反映してか、ラージプート様式とムガル様式の融合にある。また、ブンデーラ朝の建築は、その後のインドの建築に大きな影響を及ぼしたと言われている。
まずはベートワー河を渡って王宮コンプレックスを見てみた。まだ朝早かったのでチケットカウンターも開いておらず、散歩がてら、とりあえず外側からジャハーンギール・マハルを眺めた。ジャハーンギール・マハルは、その名の通り、ジャハーンギールをもてなすために建造された城である。

ジャハーンギール・マハル
散歩をして戻って来たらチケットカウンターが開いていたので、チケットを購入して(外国人30ルピー、カメラ20ルピー)、まずはラージ・マハルへ入った。ラージ・マハルはブンデーラ朝の首都をオールチャーへ遷都することを決定したルドラプラタープが16世紀に建てた王宮である。ブンデールカンドに特徴的な正方形プランの建築物で、ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)、ディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)、ザナーナー(女性居住区)に分かれている。王族たちは普段ここに住んでいたと言う。ラージ・マハルの最大の見所は、王妃たちが住んでいた部屋に残る壁画の数々である。保存状態はそれほどよくないが、天井や壁を彩るカラフルな絵は素晴らしい。光がないので薄暗くてよく見えないのが残念である。

ラージ・マハルの壁画・天井画
次にジャハーンギール・マハルへ入った。実はこのジャハーンギール・マハル、僕のお気に入りの遺跡のひとつだ。やはり正方形プランのこの城は、回廊と階段が複雑に組み合わさっており、まるでドラクエの迷宮を探検しているような気分になる。今回は2度目だったので、前回ほどの感動はなかったものの、またこの城に戻って来れた喜びを感じた。

ジャハーンギール・マハル内部
王宮コンプレックスを一通り見終えた後、橋を渡って町へ戻り、今度はチャトルブジ寺院を訪れた。チャトルブジ寺院は、ラーム・ラージャー寺院のそばに建つ、城塞のような圧倒的な外観をした建築物である。このラーム・ラージャー寺院とチャトルブジ寺院にまつわる面白い伝説がオールチャーには伝わっている。

チャトルブジ寺院

ラーム・ラージャー寺院
ラーム・ラージャー寺院は、元々マドゥカル・シャーが妻ガネーシュ・クンワルのために建てた王宮であった。ガネーシュ・クンワルはラームの熱烈な信徒であった。彼女があるとき、アヨーディヤーのサラユー河河畔でお祈りをしていると、ラームが降臨した。ラームは、オールチャーまでの約400kmの道のりを徒歩で帰ることを条件に、彼女に付いて行くことを約束した。ガネーシュ・クンワルはラームの像を持ってオールチャーまで8ヶ月かけて歩いた。オールチャーに辿り着いた彼女は、ラーム像をとりあえず自分の王宮に置いた。マドゥカル・シャーは、ラーム像を安置するためにチャトルブジ寺院の建造を始めた。チャトルブジ寺院は15年の歳月をかけて完成した。だが、ラーム像を移そうとしたところ、像はビクとも動かなくなってしまった。そこで、ガネーシュ・クンワルの王宮はそのまま寺院となり、チャトルブジ寺院にはヴィシュヌ像が代わりに安置されることになった。
ラーム・ラージャー寺院のそばには、ハルダウル廟という少し変わった信仰スポットがある。ディンマーン・ハルダウルは、ビール・スィン・デーオの後継者ジュジャウル・スィンの弟であった。ジュジャウル・スィンは、自分の妻と弟が密通しているのではないかと疑い、王妃に対してハルダウルに毒を盛るように命令する。王妃は潔白であったものの、どうしてもハルダウルを殺すことができなかった。それを知ったハルダウルは、自ら毒を飲んで自殺してしまう。地元の人々の間でハルダウルは英雄視され、やがてハルダウルは半神格化されて信仰されていると言う。
上記の遺跡は徒歩で巡ったが、下記のものは一旦ホテルに戻ってバイクで巡った。まずは西へ。西郊の小高い丘の上にあるラクシュミー・ナーラーヤン寺院は、ビール・スィン・デーオによって1623年に建立された寺院である。三角形プランの珍しい形の寺院である他、壁や天井に描かれた絵が見所となっている。ただ、今回訪れたときは修復中で、寺院内部はきれいな状態ではなかった。また、オールチャー南郊には王室の墓標であるチャトリーが並んでいる。近くで見るよりも、ベートワー河に架かる橋を渡って、対岸から眺める方が壮観である。ただ、チャトリー群がよく見える対岸は有料の公園となっており、お金を払わなければならなくなっていた。しかも何もないのに外国人200ルピー、カメラ代40ルピーという無茶苦茶な値段設定。挙句の果てに、チャトリー群のそばにはオールチャー・リゾートというホテルが出来てしまっていて、対岸からいい写真を撮れなくなってしまっていた。だが、僕はインド人料金20ルピー+カメラ代40ルピーだけ払って下の写真を撮った。それでも高い写真である。

ラクシュミー・ナーラーヤン寺院

チャトリー群
早朝の観光を終え、朝食を食べてホテルをチェックアウトしたときには10時半になっていた。NH75に戻り、T字路で右折してカジュラーホー方面を目指す。あらかじめオールチャーで情報収集したところ、カジュラーホーまでの道はだいぶ整備されたようで、それほど辛くないようだった。よって、当初の予定通りカジュラーホーを目指すことにした。
オールチャーを出て30分ほどすると、バルワーサーガルという町に到着した。「The Forts of Bundelkhand」によると、バルワーサーガルにも城があるようだ。ちょっと立ち寄ってみることにした。
バルワーサーガル城は、バルワーサーガル湖の湖畔の小高い丘の上にそびえ立っている。18世紀にオールチャーのウディト・スィンによって建造された。インド大反乱時には、ターティヤー・トーペーが立てこもっていた。2万人の兵士を率いるターティヤー・トーペーは、ラクシュミーバーイーの救援に駆けつけるはずであったが、バルワーサーガルを攻撃した英国のヒュー・ローズ将軍に破れてしまう。ターティヤー・トーペーの敗北は大反乱の転機となり、援軍を失ったラクシュミーバーイーが立てこもったジャーンスィー城も陥落してしまう。バルワーサーガル城の一部は崩壊しているが、これはヒュー・ローズが撃ち込んだ大砲の跡らしい。

バルワーサーガル城
バルワーサーガル城内部はオープンスペースとなっており、かつてはここで宴が催されたらしい。城の一角にはバングラー様式の屋根をした寺院があり、特徴的である。また、内部の壁には無数のロウソク置き場が作られており、オシャレだった。先ほど、バルワーサーガル城はバルワーサーガル湖の湖畔にある、と書いたが、今年のブンデールカンドは雨が全然降らなかったようで、湖は完全に干上がってしまっていた。もし水があったら、バルワーサーガル城は水面に映えた美しい城であったことだろう。

完全に干上がったバルワーサーガル湖
バルワーサーガルを簡単に観光した後、11時半に再びNH75に戻り、カジュラーホーを目指した。途中、マウー・ラーニープルという町を通過するが、この辺りはまたウッタル・プラデーシュ州となる。マウー・ラーニープルの次にはナウガーオンという町が来るが、今度はまたマディヤ・プラデーシュ州だ。チャッタルプルというけっこう大きな町を通り抜けると、後はずっと1本道。ビマーターという町でNH75を下りて北上すると、10kmほどでカジュラーホーに到着する。途中の道は、所々ガタガタな道もあったが、大部分は非常にきれいに整備されていた。おかげでスムーズに走行することができた。
カジュラーホーに到着したのは午後2時過ぎ。ビマーターからカジュラーホーの道も驚くほどきれいに舗装されていた。途中には空港も見えた。7年振りに訪れたカジュラーホーは、全く変わってしまっていた。もはやカジュラーホーは村ではない。小さな町である。カジュラーホーの入り口にはニューデリーにあるようなちょっとしたロータリーまで出来ていた。そして、西群前の道路から、東群にかけての道路はちょっとした繁華街となっていた。その発展振りにしばし呆然としてしまった。
カジュラーホーは世界的観光地なだけあって、ホテルには困らない。とりあえず町の中心部まで行って停車してみると、早速いろんな人が話しかけて来た。「ホテル?」「ガイド?」「インディアン・レディー?」「マリジュワナ?」ここでは何でも手に入るようだ。ウブな旅行者をカモにする悪質なインド人も多い。余計なトラブルは避けたかったので、信頼できるホテルに泊まりたかった。カジュラーホーに何年も住んでいた日本人(現在はデリー在住)を知っているので、その人の助言を得て、ホテル・ハーモニーを宿泊先に選んだ。だが、ホテル・ハーモニーは満室であった。代わりに、すぐ近くにあるホテル・ゼンを紹介された。特に悪くなかったので、ここに泊まることにした。バスルーム、ホットシャワー、タオル、石鹸付きで1泊350ルピーであった。
今日はカジュラーホー郊外にあるラネー滝(Raneh Fall)へ行ってみることにした。以前に訪れたときは短い滞在だったため、カジュラーホー周辺の観光地までは巡ることができなかった。聞くところによるとカジュラーホー周辺の自然はかなりすごいようで、寺院と同じくらい楽しみにしていた。何よりバイクという足があるので、郊外には足を伸ばしやすい。
ラネー滝はカジュラーホーの北18kmの地点にある。カジュラーホーを北に抜けてしばらく行くと右に折れる道があり、その田舎道をまっすぐ進んで行くと、ケーン・ガリヤール鳥獣保護区域の入り口に出る。ラネー滝はこの鳥獣保護区域の中にあるため、ここで入場料などを払わなければならない。外国人入場料は200ルピーである。門を越えて森林の中の道を進んでいくと広場に突き当たる。そこで1人のおじさんが待ち構えており、ここにバイクを止めろと指示して来た。しかし滝らしきものは見当たらない。何より滝の音がしない。おじさんに「滝はどこ?」と聞いてみると、「ここだ、ここだ」と言う。よってバイクをそこに止めると、おじさんがガイドをし出した。どうやら本当にここがラネー滝のようだ。だが、滝らしきものは依然として見当たらない。そのとき、バルワーサーガルの湖のことが頭をよぎった。もしかして旱魃で滝がないんじゃあ・・・?その勘は的中した。ラネー滝は旱魃により消滅してしまっていた。灌漑用に上流にあるダムで水を止めているため、ケーン河にはほとんど水が流れていなかったのである。
滝がなくてガッカリしたが、それでもケーン河の光景は絶景であった。切り立った岩が思い思いの方向に伸びており、その間には深緑の泉が出来ていた。おじさんの話によると、ここは「カーマスートラ/愛の教科書」(1996年)のロケ地のひとつらしく、レーカーも来たようだ。確かにこの光景が映画に出て来たような気がする。おじさんは、「ワシがレーカー・ジーのボディーガードをしたんだ」と自慢げに語っていた。

ラネー滝の成れの果て
雨が降らなかったため、この辺の森林は既に紅葉が始まっていた。インドでは通常、紅葉は2月頃である。どうも紅葉と水は深い関係がありそうだ。ケーン・ガリヤール鳥獣保護区では他に、ワニを見たり、ボートに乗ったりすることもできるようだが、滝がなくてガッカリであったので、もう引き返すことにした。

水不足により、既に紅葉が始まっていた
カジュラーホーに戻った時点で4時を回っていた。日没までまだ少し時間があったので、まずは博物館を簡単に見た後(入館料5ルピー)、カジュラーホー郊外にある64ヨーギニー寺院を見に行くことにした。前回は西群と東群の主な寺院しか見ていなかったので、今回は全ての寺院を見て回りたかった。カジュラーホーの寺院群は大きく分けて西群、東群、南群の3つのグループに分かれている。入場料が必要なのは西群のみである。聞くところによると、西群のチケットは1回限りの入場のみ有効で、何度も出たり入ったりできないらしい。よって、西群の寺院は明朝、じっくり見ることにした。

64ヨーギニー寺院
64(チャウサト)ヨーギニー寺院は9世紀末に建造されたと推定される、カジュラーホーで最も古い寺院である。カジュラーホーのほとんどの寺院は砂岩で建造されているが、この寺院は花崗岩で作られている。ヨーギニーとはカーリー女神の従者であり、一般には64人いるとされるが、その数は前後することがある。カジュラーホーの64ヨーギニー寺院も、かつては67の小堂が並んでいたとされるが、現在では35しかない。64ヨーギニー寺院はインド中央部各地に散在しており、最も有名なのはオリッサ州ヒーラープルのものである。僕は今までマディヤ・プラデーシュ州ジャバルプル郊外のベーラーガートにある64ヨーギニー寺院を見た。ムライナーにある「国会議事堂のモデル」も64ヨーギニー寺院である。一般に64ヨーギニー寺院は円形をしているが、カジュラーホーのものは四角形である。インド最古の64ヨーギニー寺院ではないかとの説もあるようだ。
まだ時間があったので、ついでに東群のジャイナ教寺院も簡単に見ることにした。カジュラーホーの東には、古いジャイナ教寺院がいくつか建っているのだが、その中でも最大のものがパールシュヴァナータ寺院である。10世紀にチャンデーラ朝の王ダンガーによって建造されたこの寺院は、その建築もさることながら、壁面の彫刻も素晴らしい。その近くには幾分小さめのアーディナータ寺院も建っている。だが、その他の小さな寺院群が全て白く塗られてしまっているのを見てぶっ飛んでしまった。7年前に来たときはもっとひっそりとしていたはずなのだが、今ではすっかりきれいに整備されてしまっており、修復も好ましくない形で行われていた。

パールシュヴァナータ寺院

アーディナータ寺院
本日の走行距離は231.5km、本日までの総走行距離は696.0km。オールチャー~カジュラーホー間の道は、もはや悪名高い「ダンシング・ロード」ではなく、ちゃんとした舗装道となっており、スムーズに走行することができた。カジュラーホーには空港もあるが、団体観光客は通常、バスで移動するので、観光地の発展のために道路整備は不可欠である。やっとインドの観光局もそれが分かったようだ。道路の整備が進んだことにより、カジュラーホーはツーリング・ドライブ先としても適した観光地となったと言える。後は道の途中に観光客が気軽に立ち寄れるような休憩スポットなどを作れば完璧であろう。

今日はまず早朝にカジュラーホー観光の目玉である西群の寺院を見て回った。インドの遺跡の多くは日の出から日没までという合理的かつ曖昧な時間設定である。6時半にチケットカウンターへ行ってみると、今正にカウンターが開いたところであった。栄えある本日のファースト・ビジターとなった。
伝説によると、カジュラーホーにはかつて84~85の寺院があったとされている。その内、現存しているのは22寺院で、1980年からの発掘調査により、新たに18の寺院跡も発見された。その22寺院の内、建築的・芸術的に最も優れた寺院が密集しているのが西群である。基本的に時計回りで西群の寺院を巡った。カジュラーホーの寺院は、壁面の彫刻に目が奪われがちであるが、まずはその建築などを中心に簡単に説明していく。
まず見たのはラクシュマナ寺院。930~950年の間に、チャンデーラ朝の王ヤショーヴァルマンによって建造された。初期の最も大規模な寺院で、カジュラーホーの寺院の中で最も保存状態のよい寺院でもある。基壇の中心には巨大なシカラを備えた本殿がそびえ立つ他、四隅には小祠堂が設置されている。このようなタイプの寺院様式をパンチャーヤタナ様式と呼ぶ。外壁、内壁の彫刻も素晴らしいが、基壇部分の周囲
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