スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2008年8月

装飾下

|| 目次 ||
映評■1日(金)Ugly Aur Pagli
分析■2日(土)鉄骨貫通のアイアンマン、奇跡の生還
音楽■5日(火)さあ、どこまでも一緒に行こう
映評■8日(金)Singh is Kinng
分析■10日(日)アマルナート土地譲渡問題
競技■11日(月)インド、初の個人種目金メダル
競技■13日(水)金メダルとインドのスポーツの問題
映評■15日(金)Bachna Ae Haseeno
映評■18日(月)God Tussi Great Ho
競技■21日(木)印レスリング、56年振りのメダル
映評■22日(金)Maan Gaye Mughall-e-Azam
競技■23日(土)インド、ボクシングで銅メダル
映評■24日(日)Mumbai Meri Jaan
映評■26日(火)Urdu Hai Jiska Naam
映評■28日(木)Phoonk
映評■29日(金)Rock On!!


8月1日(金) Ugly Aur Pagli

 7月25日から26日にかけ、カルナータカ州バンガロールとグジャラート州アハマダーバードにおいて連続爆破テロが発生し、その後も各地でテロ騒ぎが続いている。アハマダーバードの爆弾テロは、市街地と病院を時間差で狙った悪質なもので、先日公開された映画「Contract」のプロットと酷似しており、ボリウッド映画がテロや犯罪のインスピレーション源になっている可能性が改めて議論された。また、7月22日には下院で信任投票が行われ、あわや政変という事態にまで行った上に、与党による信任票の売買というスキャンダルがまだくすぶっていることもあり、政治が不安定な状態になっている。もし「Contract」のプロットをそこまで信じるならば、今回の連続爆破テロは、不安定な政局から国民の目をそらすために政治家によって計画されたものだと邪推されても仕方ないだろう。さらに7月30日にはデリーの日本大使館にテロ予告が届き騒然となった。結局それはインド人による悪ふざけであることが分かったのだが、真相発覚後もデリーでは通常よりも明らかに厳戒なレベルの警戒態勢が敷かれている。

 そんな状態なのでなるべく外出を避けているのだが、映画のためには外に繰り出さねばならず、今日も新作ヒンディー語映画「Ugly Aur Pagli」を見て来た。



題名:Ugly Aur Pagli
読み:アグリー・アォル・パグリー
意味:醜い男とキチガイ女
邦題:アグリー&パグリー

監督:サチン・カムラーカル・コート
制作:プリーティシュ・ナンディー、ランギーター・プリーティシュ・ナンディー
音楽:アヌ・マリク
歌詞:アミターブ・ヴァルマー
振付:レモ、ラージーヴ・スルティ、ポニー・ヴァルマー
出演:マッリカー・シェーラーワト、ランヴィール・シャウリー、スシュミター・ムカルジー、マニーシュ・アーナンド、ヴィハング・ナーヤク、バーラティー・アチュレーカル、ガウラヴ、パーヤル・ローハトギー(特別出演)、サプナー・バーヴナーニー(特別出演)、ズィーナト・アマン(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

マッリカー・シェーラーワト(左)とランヴィール・シャウリー(右)

あらすじ
 カビール(ランヴィール・シャウリー)は、ムンバイーの工科大学で留年に留年を重ねる落ちこぼれであった。長年ガールフレンドを求めていたがいつもうまく行かなかった。その上、母親からは、サンディヤー叔母さん(ズィーナト・アマン)のところへ行ってお見合いをするように強要されていた。

 カビールはある晩、駅でプラットホームから落ちそうになっている女の子(マッリカー・シェーラーワト)を見つけ、思わず助ける。その女の子はかなり酔っぱらっていた。そのまま放っておけなかったカビールは彼女を背負ってホテルへ行く。だが、部屋のエアコンを修理しようとして間違ってホテル全体の電気回線をショートさせてしまい、悪戯と勘違いされて警察に連行される。

 だが、その出会いがきっかけとなって2人はその後も会うようになる。女の子の名前はクフー。脚本家志望。常に命令口調で話し、何か気に障ることを言ったらすぐにビンタが飛んで来るような恐ろしい女の子であった。しかも賭けに負けたカビールはクフーの奴隷ということになってしまう。だが、カビールはクフーをいつも喜ばせたいと思っていた。

 ある日、いつものようにクフーが酔いつぶれてしまった。カビールはクフーを初めて彼女の家へ連れて行く。だが、そこにはクフーの両親が待ち構えていた。落ちこぼれのカビールはクフーの両親に気に入られず、しかも失態を演じて追い出されてしまう。

 それをきっかけにクフーは家出をし、カビールを連れてゴアへ旅立つ。だが、家族を捨てることができなかったクフーは、カビールに別れを告げる。何が何だか分からないカビール。だが、それ以来クフーは消息を絶ってしまう。

 2年後。しばらくコールカーターに住んでいたクフーはムンバイーに戻って来る。両親は彼女をお見合いさせようとする。だが、そのお見合い相手はカビールの友人であった。カビールからクフーのことを聞いていた彼は、彼女の前でカビールが彼女について語ったことを話す。それを聞いてクフーはお見合いの場から駆け出す。だが、カビールは既に引っ越し、連絡先も変わっており、彼を見つけることはできなかった。

 一方、カビールは、クフーへの思いを映画の脚本にし、それが認められてちょっとした名声を稼いでいた。そしてとうとうお見合い結婚をすることを決意する。サンディヤー叔母さんの紹介でお見合い相手と顔を合わせる。それはなんとクフーであった。

 2006年にラブコメ映画「Pyaar Ke Side/Effect」が公開され、スマッシュヒットを飛ばした。ミスター・ヒングリッシュ、アート系映画の旗手として知られる演技派男優のラーフル・ボースが、アイテム・ガール、セックス・シンボル、そしてボリウッドのトラブル・メーカーとして知られるマッリカー・シェーラーワトと共演するというチグハグなキャスティングであったが、この2人のミスマッチさが逆に妙にはまり、絶妙なラブコメにまとまっていた。おそらく「Ugly Aur Pagli」は、その2匹目の土壌を狙った映画である。プロデューサーはどちらもプリーティシュ・ナンディーとその妻ランギーター・プリーティシュ・ナンディーが経営するプリーティシュ・ナンディー・コミュニケーションズ。主演男優は異なるものの、ヒロインはどちらもマッリカー・シェーラーワト。映画の全体的デザインや、女性牽引型の展開などもとてもよく似ている。だが、「Pyaar Ke Side/Effect」との類似が必ずしも「Ugly Aur Pagli」の欠点となっていたわけではない。笑いとロマンス、涙とサスペンスが適度に配分され、ライトなノリの娯楽映画に仕上がっていた。

 インド映画では伝統的に、強くたくましいヒーローと、美しくもか弱いヒロインを原則として映画作りが行われて来た。だが、社会の変化を反映し、気弱なヒーローと強気なヒロインによるロマンス映画も作られるようになって来ている。日本ではしばしば「女性の男性化と男性の女性化」と言われるが、インドでもその傾向はあるようで、ボリウッドはその流れを敏感に感じ取っている。「Ugly Aur Pagli」が捉えたのも正にこの点で、従来の「男が女を守る」的な概念を笑い飛ばし、女性主導型恋愛時代の到来を宣言していた。また、通常「ドメスティック・バイオレンス」と言った場合、男性が女性に暴力を振るうことであるが、「Ugly Aur Pagli」では事あるごとにビンタを飛ばす、男性に暴力を振るう女性がヒロインとなっており、その暴虐振りがコメディーの種になっていた。

 とは言っても、女性の矛盾点や弱点を突くことも忘れていなかった。普段は男女平等を盾に男勝りな行動や要求をするクフーであったが、いざ不利になると「私は女なのよ」と言い訳するシーンがいくつかあった。また、結局クフーが常に高慢な態度を取っていたのは、彼女がカビールに手紙で明かしたところによると、昔の恋人を忘れたいがためであった。女性の外面的強さは、結局内面的弱さを隠すためのものだということがそこで主張されていた。カビールはクフーに振り回されてばかりであったが、クフーのことを一途に想い続け、最後の最後で彼女の心を勝ち取っており、それは伝統的な恋愛映画の流れとそう異なっていないと言える。

 ただし、映画のあらすじは、日本でも公開された韓国映画「猟奇的な彼女」(2001年)と酷似している。韓国映画のリメイクだとすると、上記の事柄はインドの社会の変化を反映したものとは言えないかもしれない。

 前半は正に猟奇的な展開で面白いのだが、カビールとクフーが離れ離れになってからは急に雰囲気が変わってしまう。2年振りに現れたクフーが急におしとやかな女の子になっているのは、前の恋人を忘れられて吹っ切れたからであろうか?だが、もう少し説明があればよりまとまった映画になったと思う。

 何かと話題になるマッリカー・シェーラーワトであるが、「Pyaar Ke Side/Effect」と同様に、素晴らしい演技をしていた。しかも何が起こったか分からないがかわいいのである。彼女は自分が何を期待され、何をすればいいかを完全に把握しており、しかもそれを越えるだけの力を見せる抜け目なさも備えている。大女優のオーラすら出ていた。何はともあれ、現在のボリウッドで名前で観客を呼ぶことのできる女優の一人であることは間違いないだろう。「Ugly Aur Pagli」はマッリカーのためにある映画である。

 「醜い男」にされてしまったランヴィール・シャウリーは、ださい駄目男の雰囲気を巧妙に醸し出していた。「Pyaar Ke Side/Effect」のラーフル・ボースと役柄が重なるようになっているのは気になるが、いい俳優である。ちなみにラストではランヴィールとマッリカーが熱いキスを交わすシーンがある。見てて怖くなるくらいマッリカーは本気で彼にキスをしていた・・・。

 脇役陣の中では、お見合い叔母さんのサンディヤーを演じたズィーナト・アマンが特筆に値する。往年の名女優の1人で、既に引退しており、滅多にスクリーンには登場しない。

 「Pyaar Ke Side/Effect」は音楽もヒットしたが、「Ugly Aur Pagli」のサントラCDもなかなかいい。特にディスコ・ナンバー「Talli」が秀逸である。

 「Ugly Aur Pagli」は、プリーティシュ・ナンディー・コミュニケーションズが得意とするライトなノリのラブコメ映画である。笑いとロマンスのバランスが絶妙で、マッリカー・シェーラーワトがいつになく魅力的なので、口コミがうまく作用すればヒットするかもしれない。

8月2日(土) 鉄骨貫通のアイアンマン、奇跡の生還

 ハリウッドでもボリウッドでもアクション映画は皆そうだが、雑魚はすぐに死ぬのに、主人公や主人公の仲間は体中を銃弾で蜂の巣にされても、剣が体を貫通しても、なかなか死ななかったり、生き残ったりする。ほとんどの人は、フィクション特有のご都合主義としてそれを受け止めていると思う。だが、本人の運が強く、しかも生きようという気力を失わなければ、人間というのは案外すぐに死なないものなのかもしれない。

 7月17日付けのタイムズ・オブ・インディア紙の1面に、以下のようなグロテスクな写真が掲載されていた。

 トリック写真でも何でもない。男性の体を鉄骨が貫いている。交通事故により、道路脇に積んであった鉄骨が男性の胴体を貫通してしまったのである。即死してもおかしくないのだが、貫通した場所がたまたま急所を外れていたのか、男性は生きていた。手術により鉄骨は除去された。そして、7月30日付けのタイムズ・オブ・インディア紙では、7月29日に男性が病院から退院したとのニュースが報じられていた。一体、体を鉄骨によって貫かれたこの男性は、どのように一命を取り留めたのであろうか?詳細を見てみよう。

 男性の名前はスプラティム・ダッター、23歳。IT企業に勤める典型的な中産階級のインド人である。7月12日早朝、スプラティムは出勤するため、会社の自動車に乗って、メヘラウリー・グルガーオン(MG)ロードを走っていた。スプラティムにとって、その日はその会社に出勤する最後の日だった。なぜなら彼は別の会社への転職が決まっていたからである。また、MGロードでは現在デリー・メトロの工事が行われていた。道路脇には工事用の鉄骨が積まれ、道路はまっすぐではなかった。

 午前6時頃。自動車を運転していた運転手は激しい眠気に襲われていた。しかも、自動車はかなりのスピードで走行していた。とうとう運転手はハンドルを誤り、自動車は道路脇に積まれた鉄骨の山に激突してしまった。その衝撃で、1本だけ外に飛び出ていた鉄骨が自動車のボンネットを突き抜け、そのまま助手席に座っていたスプラティムの胴体を貫通してしまった。

 だが、スプラティムは正気を失わなかった。彼はすぐに同僚と母親に、携帯電話で交通事故に遭ったことを伝え、助けを求めた。同僚はすぐに現場に向かった。母親が電話を受けたとき、父親は不在だった。動転した彼女は近所の人々に相談した。事故の知らせを受けた警察も現場に向かった。

 現場に駆けつけた人々は、スプラティムの状態を見て言葉を失った。病院に搬送するにしても、鉄骨に体を貫かれた彼を動かすことは容易ではない。結局、溶接工が呼ばれ、スプラティムの体の前で鉄骨を切断することになった。そして、スプラティムは、長さ150cm、幅5cm、重さ6kgの鉄骨に体を貫かれたまま、病院へ運ばれることになった。

 スプラティムは全インド医科大学(AIIMS)の外傷センターへ運ばれた。すぐにスプラティムは担架に乗せられて手術室へ移動させられたが、鉄骨に体を貫かれている患者の移動も容易ではなかった。スプラティムは依然として正気を保っており、担架で移動中に自分で通行人たちに「どけどけ」と声を掛けていたらしい。スプラティムが手術室に到着したのは、午前8時15分~30分の間であった。

 医者たちもスプラティムの状態を見て仰天した。このような外傷を負った患者を見るのは誰にとっても初めてだった。よって、どのように患者を救ったらいいのか、すぐには方法が思い付かなかった。そのときの当番医プラカーシュは先輩の医師たちに報告を送った。すぐに複数の医者や看護師が手術室に駆けつけ、センター長のMCミシュラ-をリーダーとする15人のチームが結成された。

 鉄骨の除去のため、主に2つの方法が提案された。ひとつは、単に鉄骨を引き抜き、すぐに損傷した内臓の手術をする方法。もうひとつは、手術によって鉄骨を取り除く方法。ミシュラ-氏は、前者の方法ではさらに多くの内臓器官を傷つける恐れがあると考え、後者の方法を採用することを決めた。検査の結果、手術による除去が可能であることも分かった。

 まず、全身麻酔によってスプラティムの意識を消失させた。そしてスプラティムを橫寝させ、肋骨を4本切断した。これにより、肋骨の間に挟まっていた鉄骨を横から取り除くことができた。ここまでで3時間が経過した。その後、損傷を受けた内蔵器官の手術が行われた。手術は全体で6時間かかった。

 術後の経過も順調で、7月29日にスプラティムは退院することができた。一躍「アイアンマン」としてヒーローとなったスプラティムは、「このような事故は起こり続けるだろう。だが、もし自ら行動し、勇気を失わなければ、死をはねのけることができる。このようなアクシデントに遭った後でも、私は『生きるんだ』という強い意志と共に、勇気を持って行動した。その結果は皆さんが見ている通りだ」と力強いコメントを残し、病院関係者、家族、友人、メディアなどへの感謝を述べて去って行った。だが、そんな彼でも事故の瞬間だけは思い出したくもないようである。

 スプラティムのエピソードには、有名な「リプリーのBelieve It or Not」が興味を示している他、英国の医学雑誌にも一連の報告の掲載が決定したようである。

 ところで、スプラティムの手術を行ったAIIMSの外傷センターは、正式名称をジャヤプラカーシュ・ナーラーヤン最高外傷センター(Jayaprakash Narayan Apex Trauma Centre)と言う。このセンターは、交通事故による負傷者の専門治療を目的に最新鋭の医療機器や設備を導入して1年ほど前に設立されたものだが、その裏には、インドの医療技術を世界に示すというしたたかな目的もあった。だが、設立以来、人員不足などでセンターの運営は必ずしもうまく行っていなかった。そこに降って沸いたのがスプラティムの事故であった。アイアンマンの奇跡の生還は世界の注目を集めるのに十分で、スプラティムの命だけではなく、彼の手術を行った外傷センター自身も救われる結果となった。


スプラティムの手術を成功させた医療チーム

 おそらく、スプラティムの体から取り除かれた鉄骨は、外傷センターのトロフィーとして展示されることになるのではないかと思われる。

8月5日(火) さあ、どこまでも一緒に行こう

 列車やバスに乗っているとき、窓の向こうを流れて行く景色を何も考えずにボーッと眺めているのが何とも好きだ。旅先で出会う一期一会の人々と会話をするのも嫌いではないので、誰かが話しかけて来たときは会話に応じるが、できれば誰とも話さず1人の世界に耽ってこのまま窓の外の風景を眺めていたいと思う。インド鉄道の列車の窓は、小さかったり鉄格子が邪魔だったり曇りガラスになっていたりで外の風景が見にくいので、バスに乗って、窓際や最前列の席に座れたときが、自分のその趣味を一番楽しめる。腹に爆弾を抱えたままバスに乗り込んでしまったときは別として、もし体調が万全なら、このままずっとバスに乗っていたいと思ってしまう。だから、目的地に到着するといつも、少し残念な気持ちと共にバスから降り立つ。旅行というのはある場所からある場所へ移動するものなので、目的地に着くことを否定してしまったら元も子もないのだが、どこへ行き着くか分からないようなバスに乗って永遠に流れ続ける風景を眺めていたいと思うことがしばしばある。バスの移動時間が長いと普通の人は辟易するものだが、僕はそれが長ければ長いほどワクワクしてしまう。

 そんな気持ちをうまく言い表してくれた歌があり、ここ半年ぐらい僕のお気に入りの一曲になっている。それは映画「Jab We Met」(2007年)の「Aao Milo Chalo」である。題名の意味は「さあ、どこまでも一緒に行こう」。思い立ってこの歌を翻訳してみた(参照)。

 まず、翻訳の際に直面した苦労を記しておこうと思う。気に入ったインドの映画音楽の歌詞を聴き取り、翻訳し始めたのは今から6~7年前だが、その頃に比べ、インターネットを通して膨大な情報が手に入るようになり、その作業は格段に楽になった。当初は一単語一単語自分で聴き取っていたものだが、今ではインド映画音楽の歌詞を掲載するサイトが無数にあり、まずそれらを参考にして書き下ろすだけでとりあえず事足りる。インターネットのメリットをひしひしと実感する。

 だが、インターネットのデメリットも同時に存在する。情報が膨大な代わりに、誤った情報も少なくないことである。それらのサイトは大方インド人が運営している。インド人が聴き取ったらその歌詞に間違いは少ないはずだと期待するのだが、不思議なことに、外国人ヒンディー語学習者の目から見てもけっこう間違いだらけなのである。しかも、それらのサイトの間ではコピペが横行しており、誤った歌詞があってもそのまま訂正されずにコピペされ続け、それがどんどん量産されてしまっている。彼らはコピペをした後に念のために自分で聴き取りをして推敲するということはあまりしていないようである。

 しかも、ネットに掲載されている歌詞を見る限り、インド人でも聴き取り困難な部分があることが容易に察せられる。もしかしたら日本人でも日本の歌を聴いて全て正確に歌詞を書き下ろせないかもしれない。だからそれはおかしなことではないのかもしれないが、インターネットを頻繁に利用している層のインド人のヒンディー語力の低下を感じずにはいられない。

 「Aao Milo Chalo」にも、歌詞の聴き取りが困難な部分があった。この歌は主にシャーンが歌っているが、途中2ヶ所だけ、ウスタード・スルターン・カーンが歌っている部分がある。スルターン・カーンは著名なサーランギー奏者であり、この曲中に頻繁に挿入されるサーランギーの音も彼の演奏によるものであろう。だが、スルターン・カーンの歌い方があまりに達者過ぎて、何を歌っているかよく分からないのである。ネットを検索したが、正確な歌詞を書き取っている人は皆無であった。

 だが、ヒンディー文学専攻の先輩の助けを借りたら何とかほぼ正確だと自負できる歌詞を書き取ることができた。どうもスルターン・カーンの歌っている歌詞は、中世女性バクティ詩人ミーラー・バーイーの詩から取られているようである。よって、ラージャスターニー方言の影響が強い。

 さて、「Aao Milo Chalo」は以下のような歌詞で始まる。
हम जो चलने लगे चलने लगे हैं ये रास्ते
आ हा हा... मंज़िल से बेहतर लगने लगे हैं ये रास्ते

道を歩き始めた僕たち、僕たちが歩き始めたこの道・・・
あぁ、向かう先よりもこの道のりの方が素晴らしく思えて来た
 つまり、目的地へ向かって旅立ったが、いつしか目的地よりもそこへ辿り着くまでのこの道のりの方が大切なものになって来た、ということが歌われている。その後、この道の途中のどこかで消え去ってしまいたい、いつもの自分ではない未知の自分が自分をどこかへ引っ張って行こうとしている、どこへ行くか知らないままどこまでも行こう、という意味の言葉が繰り返される。僕が旅行中に感じることと一致しており、それゆえにこの歌がずっと気に入っているのである。

 だが、この歌は単なる旅行ソングではない。目的地よりも道程の素晴らしさを歌う歌詞の裏には、たまたま道連れになった異性への恋心が隠されている。目的地に着いたら道連れとは別れなければならない。だから、道連れと2人きりでいられる道のりが素晴らしく思えて来たのであり、あわよくばこの道の途中のどこかで2人で消え去ってしまいたいと欲求するのである。その恋心をもっともよく表したのは、以下の部分である。
बैठे बैठे ऐसे कैसे कोई रास्ता नया सा मिले
तू भी चले मैं भी चलूँ होंगे कम ये तभी फ़ासले

このまま座って待っていても、新しい道は開けない
さあ君も僕も歩き出そう、そうしなければ距離は縮まない
 ここで言う「距離」とは、目的地までの距離であると同時に、2人の間の距離だと読み取れる。道連れに、「歩き出さなければ新たな道は開けず、目的地までの距離も縮まない」と励ましながら、同時に、一緒に旅をすることで、2人の間の距離が縮まるだろうという期待を持っているのである。そうすると、この歌はラブソングである。

 そして、しばしば人生は旅にたとえられることを考え合わせると、この歌は人生を歌った歌とも言える。人生とは最終目的地が定められていない旅であり、だから、この歌で歌われているように、どこへ行くか分からないまま、とにかくどこまでも歩き続けなければならないのである。

 それだけに留まらないところがインドの歌のすごいところだ。他の国の歌にここまで深みがあるか分からない。少なくとも日本の歌からはここまでの深みを感じない。これだけ道連れへの恋心を歌い上げておきながら、それと相反する歌詞が入るのである。すなわちそれは、ウスタード・スルターン・カーンの歌う歌詞である。このパートの本当の主体は女性だが、道連れの女性の声ではなく、やはりメインのパートの男性の気持ちを代弁している。その歌詞の中では、結局いつかは別れることを運命づけられている道連れに、「ずっとそばにいて欲しい」との思いをどう伝えたらいいのか、悩みをほとばしらせている。そして、愛の痛みを知った主体は皆に助言するのである。「君はこの愛の痛みを知ってはいけない」「間違っても恋をしてはいけない」と。だが、その言葉の裏には、恋愛への絶対的な服従の思いが込められていることは言うまでもない。つまり、「痛みを味わうことが嫌ならば恋愛をしてはならない、私はこの痛みに耐える覚悟をした」との表明である。そしてそれは人生への教訓にもつながる。「人生は苦である」と結論を出したブッダの哲学にも触れることになる。

 「Aao Milo Chalo」と共に、「Jaane Tu... Ya Jaane Na」(2008年)の中から「Kabhi Kabhi Aditi」の歌詞も翻訳した(参照)。この曲は今年もっとも気に入っている。「Aao Milo Chalo」も「Kabhi Kabhi Aditi」も、シンプルな言葉で深みのあることが歌われている点で共通している。そこにヒンディー語の真の力があると考えている。難解な単語の羅列にヒンディー語の心は宿っていない。

8月8日(金) Singh is Kinng

 2008年8月8日、世界の注目が北京五輪開会式に集中する中、インドでは今年の期待作の1本「Singh is Kinng」が封切られ、その成否が話題となっている。主演は、現在のボリウッドのトップスターの座に君臨するアクシャイ・クマールとカトリーナ・カイフ。監督は、「No Entry」(2005年)や「Welcome」(2007年)をヒットさせ、コメディー映画作りに定評のあるアニース・バズミー。プリータム作曲の音楽も大ヒットしており、期待しない方が無理な状態となっている。公開初日にPVRプリヤーで鑑賞したが、満席の映画館は久々にムンムンの熱気に包まれていた。口笛や野次が飛び交い、スターの登場シーンでは熱狂的拍手が沸き起こって台詞が聞こえないほどであった。また、本編上映前には、「Kidnap」、「Chandni Chowk to China」、「Bachna Ae Haseeno」など、今年後半の期待作の予告編が流れ、観客の興奮を促進していた。2008年のボリウッドは今まで必ずしも好調でなかったが、折り返し点を過ぎた途端に景気が劇的に上向きになっているのを感じた。

 「Singh is Kinng」は、題名から少し察しが付くように、スィク教徒が主人公の映画である。「スィク教徒は王様」と読み取れるその題名を一見すると、スィク教徒礼賛の映画だと思ってしまうが、インドではスィク教徒(サルダール・ジー)がジョークの題材になることが多く、しかも映画のジャンルがコメディーであることを考え合わせると、それは痛烈な皮肉にも受け取れる。それを敏感に察知したのか、公開前にはスィク教コミュニティーから「スィク教を馬鹿にした映画なのでは」と苦情が出たが、主演のアクシャイ・クマールやプロデューサーのヴィプル・アムルトラール・シャーが真摯に誤解を解いたため、上映禁止という最悪の事態は回避された。それでも、上映中何らかのトラブルが予想されたためであろう、映画館の警備態勢は通常よりも厳しめで、館員や警備員が頻繁に劇場を巡回して回っていた。幸いなことに、観客の興奮が度を過ぎていたことを除けば、特に異常事態は発生せず、無事に鑑賞を終えることができた。ちなみに、ターバン人口は意外にも少なかった。てっきり大量のスィク教徒が鑑賞に訪れるかと予想していたのだが・・・。



題名:Singh is Kinng
読み:スィン・イズ・キング
意味:スィンはキング
邦題:スィン・イズ・キング

監督:アニース・バズミー
制作:ヴィプル・アムルトラール・シャー
音楽:プリータム、RDB
歌詞:マユール・プリー
出演:アクシャイ・クマール、カトリーナ・カイフ、ソーヌー・スード、オーム・プリー、ランヴィール・シャウリー、ジャーヴェード・ジャーファリー、カマル・チョープラー、スダーンシュ・パーンデーイ、ヤシュパール・シャルマー、ネーハー・ドゥーピヤー、キラン・ケールなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞。満席。

アクシャイ・クマール(左)とカトリーナ・カイフ(右)

あらすじ
 パンジャーブ州の片田舎に住むハッピー・スィン(アクシャイ・クマール)は、心優しい正直者の若者だったが、同時に天然のトラブルメイカーでもあり、村人たちはハッピーに困っていた。特にランギーラー(オーム・プリー)はハッピーのせいで意中の女性から嫌われてしまい、彼を敵視していた。そこでランギーラーはハッピーを村から追い出す作戦を練る。

 ところで、ハッピーの村出身のラカンパール・スィン(ソーヌー・スード)、別名ラッキー・スィンは、オーストラリアで「キング」の異名を持つマフィアのドンになっていた。ラッキーの部下はグルジー(カマル・チョープラー)、ディルバーグ、ラフタール(スダーンシュ・パーンデーイ)、パンカジ・ウダース(ヤシュパール・シャルマー)、ジュリー(ネーハー・ドゥーピヤー)、そして実の弟のミカ(ジャーヴェード・ジャーファリー)などであった。

 ランギーラーは、喘息の発作で入院したラッキーの父親が、心臓発作で危篤状態だとでっち上げ、ラッキーを村に呼び寄せるため、ハッピーをオーストラリアへ送り込むことを提案する。ハッピーはすっかり乗り気になるが、彼は生まれてから一度も一人で村の外にすら行ったことがない。そこでランギーラーも一緒にオーストラリアへ送られることになってしまった。

 ところが、空港で別の乗客と航空券が入れ替わってしまい、ハッピーとランギーラーはエジプトに到着してしまう。そこでハッピーは、ソニア(カトリーナ・カイフ)という美しい女性と出会う。ソニアへの恋を心にしまいながら、ハッピーはオーストラリアへ行く。

 ハッピーとランギーラーは早速ラッキーに会いに行くが、彼は村へ帰ることを拒否した。途方に暮れるハッピーを助けたのが、花屋を経営するインド人のおばさん(キラン・ケール)であった。母親がいないハッピーは、おばさんを実の母親のように慕うようになり、花屋の仕事を手伝い出す。

 ハッピーはおばさんに、ある富豪のボートを花で飾り付ける仕事を任された。そのボートは実はラッキーのものであった。ラッキーは、ハッピーがまだオーストラリアにいることを知って怒るが、そのとき敵の襲撃を受ける。ハッピーは、銃弾を受けたラッキーを抱えて逃げるが、その過程でラッキーは頭部を何度もぶつけてしまい、半身不随の状態となってしまう。そして成り行きによってハッピーがラッキーの代理としてキングの座に就くことになった。

 おばさんはひとつの大きな困難に直面していた。おばさんには1人の娘がおり、現在外国に留学していた。おばさんの家はかつて大金持ちであったが、夫の死後、貧しい生活を余儀なくされていた。だが、娘が勉強を完了するまでそれを隠し、以前と変わらず裕福な暮らしをしている振りをしていた。ところが、もうすぐ娘がフィアンセを連れて帰って来ることになってしまった。娘の話では、ボーイフレンドの家は大富豪であった。娘が今帰って来たら、今までの嘘がばれることは必至で、しかも結婚が破談になる可能性が大だった。おばさんは途方に暮れていた。

 おばさんを放っておけなかったハッピーは、ラッキーのギャング団と豪邸を使って、おばさんを金持ちマダムに仕立て上げることを決める。ハッピーはマネージャーとなり、ランギーラーやギャング団はマダムの召使いということになってしまった。そこへおばさんの娘がボーイフレンドと共に帰って来た。それはなんと、エジプトで会ったソニアであった。ボーイフレンドの名前はプニート(ランヴィール・シャウリー)といった。

 ソニアに恋していたハッピーであったが、おばさんのために2人を心からもてなす。プニートはソニアにプロポーズをし、すぐに結婚式が行われることになったが、それでもハッピーは2人の幸せを思い、結婚式の準備も受け持つ。その過程でギャング団たちは、ハッピーの正直さに影響され、次第に悪の道から足を洗い始める。同時に、彼らはハッピーがソニアに恋していることを感じており、何とかハッピーとソニアが結ばれるように試行錯誤をする。そのせいもあり、プニートはソニアとハッピーが必要以上に親しいことに嫉妬を覚え始め、2人の仲はギクシャクするようになる。それでも、ハッピーの仲介によって2人は仲直りする。

 結婚式の直前に、おばさんの嘘やハッピーの素性がソニアとプニートにばれてしまうが、プニートはソニアと意地でも結婚することを宣言する。だが、その裏で、ラッキーの弟のミカが、キングの座を狙ってハッピー暗殺をプニートと共謀する。ソニアとプニートの結婚式には、ライバルのギャング団たちが勢揃いし、一触即発の状態となる。誤って銃声が会場に響き渡ったために大乱闘状態となり、プニートは隠れてしまうが、ハッピーはソニアを守るために奮闘する。その混乱の中でハッピーとソニアは知らずに聖火の周囲を回り、婚姻の儀式をしてしまう。プニートは恐れをなしてソニアをハッピーに任せて逃げ出し、元からハッピーに知らず知らずの内に惚れていたソニアもその結婚を受け入れる。

 また、ミカはラッキーを殺そうとするが、その際頭を打ったラッキーは正常な状態に戻る。ラッキーもハッピーの誠意によって改心していた。ミカはハッピーとラッキーを殺そうとするが引き金を引けない。結局ミカはラッキーに許される。ハッピーは、ラッキーとその一味、そしてソニアを連れて村へ帰り、大歓迎を受ける。

 インド映画が決して失ってはいけないインドの田舎の土臭さと、最近のボリウッド映画の定番となった都会的スマートさがうまく融合した痛快コメディー映画であった。2008年のボリウッドは良質なコメディー映画が不足していたが、これでやっと大きな花火が上がったと言える。主演のアクシャイ・クマールとカトリーナ・カイフは今まで「Humko Deewana Kar Gaye」(2006年)、「Namastey London」(2007年)、「Welcome」(2007年)で共演して来ており、その相性の良さがそれらの映画のヒットに貢献して来たが、今回もそれが再び証明された。昨年はこの2人にとって当たり年となったが、アクシャイとカトリーナはこの「Singh is Kinng」でもって完全にボリウッドのキングの座を手に入れたと言っていいだろう。現在インドの若者の間でもっとも人気がある男優は、シャールク・カーンでもリティク・ローシャンでもなく、アクシャイ・クマールであり、もっとも人気がある女優は、アイシュワリヤー・ラーイでもディーピカー・パドゥコーネでもなく、カトリーナ・カイフである。

 基本的にはコメディー+アクション+ロマンスの典型的マサーラ―映画なので、詳しい解説は必要ないだろう。だが、数点記しておくべきことがある。

 まずは「Singh」について。インドには、名前に「Singh」を持つ人がたくさんいる。「スィン」または「スィング」と読めば一番原音に近い。これは「ライオン」という意味である。最近はいろんな人が「Singh」を名乗っているため、一概には言えないのだが、名前の中に「Singh」があったら、パンジャーブ地方のスィク教徒か、北インド一帯に分布するラージプートとそれに類するコミュニティー(ジャート、グッジャル、ヤーダヴなど)の出身だと考えていいだろう。ただし、映画「Singh is Kinng」の中の「Singh」は、スィク教徒と置き換えていい。

 「Kinng」は英語の「King」のこと。「n」がひとつ多いのはヌメロロジー(数秘術)の影響であろう。もしかしたら「キンング」みたいなパンジャービー語的発音を表したかったのかもしれない。

 映画のキャッチコピーは、「Dil Agar Sachcha Ho Rab Sab Karde Setting」。その意味は、「もし心が正直ならば、神様が全てを解決してくれる」であり、これは主人公ハッピー・スィンの口癖でもある。そしてその言葉の通り、ハッピーの誠意は最後に彼に幸せをもたらし、困っている人を献身的に助けることの大切さが説かれていた。

 それと関連していたのが、ヒロインのソニアの考え方であった。大学で法律を学ぶソニアは、犯罪をこの世からなくすことを目標にしていた。だが、その方法は過激であった。ソニアは、犯罪者を片っ端から罰することで犯罪は消滅すると信じていた。だが、ハッピーは違った。彼は自ら正しい生き方を実践することで、周囲の犯罪者(ラッキーの部下たち)を自然に改心させた。その方法論は、マハートマー・ガーンディーの哲学に通じるものがある。

 アクシャイ・クマールは、今やボリウッドでもっとも芸幅の広い男優となっている。元々アクションが得意な男優だったが、それに加えてロマンスやコメディーも難なくこなせるようになった。彼の持ち味が一番発揮されるのは、「正直で優しく腕っ節も強い田舎者」というキャラクターであり、「Namastey London」に続いて本作でもアクシャイの魅力が磨き上げられていた。

 カトリーナ・カイフは、僕の予想を遙かに超えるスピードでスターダムにのし上がった。彼女が大女優になることは「Maine Pyar Kyun Kiya?」(2005年)の頃から予想していたが、これだけの短期間でトップに躍り出るとは思ってもみなかった。運も彼女に味方したし、サルマーン・カーンという後ろ盾も大きな追い風になったと思うが、彼女が併せ持つ美貌とかわいさが成功の大きな要因であろう。彼女は、時として相反するそれら2つの要素の、類い稀なる融合点である。

 主演の2人が良かった一方で、脇役陣は彼らの影に隠れてしまっていた。もう1人のヒロイン、ネーハー・ドゥーピヤーは残念ながら見せ場なし。脇役女優に転落してしまったように思えた。オーム・プリーやキラン・ケールも大役ではなかった。ジャーヴェード・ジャーファリーはいつも通り飛ばしすぎで、何を言っているかよく分からなかった。ランヴィール・シャウリーも持ち味を発揮できていなかったが、それでも脇役陣の中では彼がもっともいい仕事をしていた。

 音楽はプリータム。ラップ調の「Singh is Kinng」だけは英国のバーングラー・バンドRDBの作曲。全体的にパンジャービー色が濃厚で、ダンスナンバーが揃っている。コミカルなダンスソング「Jee Karda」、パワフルな結婚式ソング「Bhootni Ke」、バグパイプの音が印象的なラブソング「Teri Ore」、酔っぱらいディスコナンバー「Talli Hua」など、いい曲が揃っている。サントラCDは買って損はないだろう。

 映画の舞台の大部分はオーストラリアで、ゴールド・コーストで撮影が行われたようだが、エジプトでもロケが行われている。有名なクフ王のピラミッドやスフィンクス、ルクソールのルクソール宮殿やハトシェプスト女王葬祭殿などをバックにダンスが繰り広げられる。エジプト・ロケのインド映画は、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)以来か。

 ターバンをかぶったスィク教徒が勢揃いするため、台詞や歌詞にもパンジャービー語が多用される。ヒンディー語の知識だけでは映画の細かい部分の理解は困難である。エジプトのシーンがあったが、そこでは少しだけアラビア語も出て来た。

 「Singh is Kinng」は、今年のボリウッドの中ではもっとも面白いコメディー映画である。ヒットも確実。気楽な娯楽映画を求めるなら今はこの映画しかない。

8月10日(日) アマルナート土地譲渡問題

 7月13日の日記で、5月から現在まで未解決となっているアールシ・タルワール殺害事件について取り上げたが、ほぼ同時期に表面化し、アールシ・タルワール殺害事件とは比べものにならないくらい危険なくすぶり方を続けている問題がもうひとつある。それはジャンムー&カシュミール州のアマルナート土地譲渡問題である。

 この問題を理解にするにはまずアマルナート寺院について知っておかなければならない。アマルナート寺院は、カシュミール地方の都シュリーナガルからおよそ140kmの地点にある洞窟寺院である。標高3,888m、徒歩またはポニーによってのみアクセス可能な高地にあるこの洞窟では、シヴァリンガに見立てられた巨大な自然氷柱が祀られている。この氷柱は洞穴の天井から滴り落ちる水滴によって徐々に形成され、5月に最大になる。そしてその後、ゆっくりと溶解して行く。月の満ち欠けに従って大きさが変わるとも言い伝えられている。この氷柱リンガを参拝するため、毎年7月~8月に40万人の巡礼者が訪れる。ただ、地球温暖化が叫ばれる昨今、アマルナート寺院の氷柱もうまく形成されなくなって来ているようで、ここのところ毎年、「今年のアマルナート寺院の氷柱リンガの出来はどうか」ということがニュースになる。2006年には、巡礼者たちが「今年のリンガは自然形成ではなく人工のものではないか」と不満を訴えたため、論争を巻き起こしたことがあった。


アマルナート寺院の氷柱シヴァリンガ

 アマルナート寺院の氷柱リンガについては古代の文献から記述が見られ、昔からインド人に知られて来たことが分かる。伝説では、この地でシヴァ神が妻パールワティー女神に「不滅の物語」を説いたとされている。また、中世の文献にもアマルナート寺院のことに触れたものがいくつか見られる。例えば、1663年にムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブの一行と共にカシュミール地方を訪れたフランス人哲学者フランソワ・ベルニエは、著書「ムガル帝国誌(Travels in the Mogul Empire)」の中で、氷柱リンガとアマルナート寺院とおぼしきものについて「不思議な凍結物で満たされた洞窟」と言及している(岩波文庫の倉田信子訳「ムガル帝国誌」ではこの部分はうまく翻訳されていない)。

 だが、以上の経緯と相反することに、アマルナートの氷柱は1850年に発見されたことにもなっている。発見の過程は多少脚色がされているものの、確実だと言えそうなのは、ブーター・マリクという名のイスラーム教徒羊飼いによって発見されたことである。ブーターは遊牧中にたまたま洞穴と氷柱を見つけ、以後、アマルナートはヒンドゥー教の巡礼地として栄えることとなった。おそらく何らかの要因で、以前から知られていたアマルナートまでの道筋が人々の記憶から失われ、近代に入って羊飼いによって偶然再発見されたと考えれば一応筋は通るだろう。発見の逸話にはもう少し神秘的なバージョンもある――ブーター・マリクはある聖者から石炭の入った袋をもらった。家に帰って袋を開けてみると、中には金貨が詰まっていた。聖者にお礼を言いに戻ってみると、聖者のいた洞窟には代わりに巨大な氷柱があった。ブーターはその発見を村人たちに伝え、以後その洞窟は巡礼地となった。


アマルナート洞穴

 1850年の発見以来、自然氷柱のリンガは、発見者ブーター・マリクとその家族や子孫が、ヒンドゥー教ブラーフマン(僧侶)と共同で管理して来た。しかも、アマルナートまでの巡礼路の途中にはイスラーム教徒の村が点在しており、彼らは巡礼シーズン中にヒンドゥー教徒巡礼者の世話をすることで生計を立てるようになった。つまり、この地は150年以上前から、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の調和の象徴だったのである。今でこそカシュミール地方は印パ対立の象徴となってしまったが、同地方は1947年の印パ分離独立時の動乱においても、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間でコミュナルな暴動は起こらなかった。長く「地上の楽園」とされ、ジャハーンギールをして「カシュミールを失うより全王国を失う方がマシだ」とさえ言わしめたカシュミールが、コミュナルな空気に包まれるようになったのは、皮肉なことに、世俗主義と民主主義を掲げた独立インドが誕生してからである。政党や政治家が有権者の宗教感情を刺激して日和見主義的な票集めをして来たため、ジャンムー&カシュミール州の人々の間にコミュナルな感情が根付いてしまった。その対立は単にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間だけでなく、ヒンドゥー教徒多住地域であるジャンムー地方と、イスラーム教徒多住地域であるカシュミール地方の対立にも発展している。

 長年ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が調和を保って来たアマルナートにコミュナルな問題が生じ始めたのは、シュリー・アマルナートジー寺院委員会(Shri Amarnathji Shrine Board)が設立された2003年以降である。委員会は、1996年に200人以上のアマルナート巡礼者が吹雪によって死亡したことを受け、巡礼者や巡礼ルートの管理に州政府が介入する必要性が提議された結果、2000年に設立が認可された。実際に設立されたのは2003年である。委員会の議長は州知事が兼任し、寺院の管理から巡礼ルート上のインフラ整備まで全てを任されることになった。その結果、伝統的にアマルナート寺院を管理して来たブーター・マリクの子孫やブラーフマンは追い出されることになった。これに不満を抱いたのが、今まで巡礼者に物資やサービスを提供してきた地元のイスラーム教徒村民であった。彼らがもっとも恐れているのは、委員会が巡礼ルート上に売店や宿泊施設を設立し、その経営を外部のヒンドゥー教徒、つまりジャンムー地方のヒンドゥー教徒に請け負わせることである。また、カシュミール地方の人々は元からインド政府の移民政策や土地譲渡政策に敏感になっている。政府が、分離主義に毒されたカシュミール地方に親インド的人口を大量に流入させ、デモグラフィーを一変させようと企んでいると信じているのである。よって、シュリー・アマルナートジー寺院委員会の設立は、アマルナート寺院周辺の問題だけに留まらず、カシュミール地方全体の関心を引く問題になる可能性を秘めていた。

 だが、アマルナート寺院問題が本当に表面化するのは、州行政の2大権威である州首相(Chief Minister)と州知事(Governor)の対立が激化してからである。州首相は州議会議員から選出され、行政の実権を握る役職であり、州知事は中央政府から任命・派遣される名誉職である。通常、州知事は行政に口出しをしないものだが、2003年にジャンムー&カシュミール州の州知事に就任したSKスィナー陸軍中将は違った。インドでは、州内の軍隊、準軍隊、警察、諜報機関の統轄は州首相が行うことになっているが、1947年の第一次印パ戦争でカシュミール地方を巡ってパーキスターンと戦った経験を持つスィナー州知事は、パーキスターンからの越境テロや分離派による工作にさらされているカシュミール地方の守備と安定に独自の強硬理論を持っており、州内の対テロ作戦に自ら乗り出す動きを見せ始めた。実際、陸軍の中には政治家よりもこの退役軍人の言うことを聞く者が多数いた。それがジャンムー&カシュミール人民民主党(PDP)のムフティー・ムハンマド・サイード州首相(当時)との間で対立を深める伏線となった。PDPは、ジャンムー&カシュミール州を拠点とし、カシュミール人の福祉を追求する地方政党である。つまり、親ムスリムで、かつ分離派と協調の立場にある。当時、国民会議派とPDPが連立で州政府を運営していた。

 前述の通り、州知事はシュリー・アマルナートジー寺院委員会の委員長も兼任している。2004年、スィナー州知事は、アマルナート巡礼の期間を2ヶ月に延長することを提議する。伝統的に巡礼の期間は1ヶ月であるが、巡礼期間延長によって、地域経済の活性化や、巡礼ラッシュの解消が目指されたのだろう。だが、元々カシュミール地方へのヒンドゥー教徒巡礼者受け入れるに消極的なPDPのサイード州首相は、行政や治安部隊に余計な負担がかかる上に天候の不安もあるとして、それを却下する。巡礼期間延長を巡る論争は、国民会議派とPDPの間に深刻な亀裂を生み、連立政権崩壊直前まで事が及んだが、国民会議派の中央執行部の介入により何とか分裂は避けられた。結局スィナー州知事の言い分が通り、現在アマルナート巡礼は2ヶ月行われている(今年は6月18日~8月16日)。

 しかし、スィナー州知事はそれに懲りずにアマルナート寺院について独自の改革案を押し通し続けた。2005年3月、スィナー州知事は、州知事一等書記官のアルン・クマールと、その妻で森林局書記官のソーナーリー・クマールを通して、アマルナート寺院周辺の森林地帯の土地およそ100エーカー(40ヘクタール)をシュリー・アマルナートジー寺院委員会に譲渡することを決定した。巡礼者用のトイレやキャンプ施設の建設が名目だが、地元イスラーム教徒の手から完全に寺院を取り戻すための動きにも見える。そしてこれこそ地元イスラーム教徒や一般のカシュミール人が恐れていたことである。PDP州政権は今回も、森林地帯の土地譲渡には内閣の認可が必要として、すぐにこの決定を差し止めた。現在大きく燃え上がった土地譲渡問題の火種はこのときに点火された。

 その後も州知事と州首相の対立は続いたが、2005年10月に国民会議派のグラーム・ナビー・アーザードが、連立政権樹立時の約束に従い、PDPの前任者と交代して同州の州首相に就任すると、州知事と州首相の関係は改善された。中央政府でも国民会議派が政権を握っているため、中央と州の連携も格段に容易になった。その結果、2008年5月26日、中央政府と州政府の認可が下り、スィナー州知事の思惑通り、アマルナート寺院周辺の土地がシュリー・アマルナートジー寺院委員会に譲渡されることになった。

 この動きに反対し、カシュミール地方のイスラーム教徒はシュリーナガルなどで激しい抗議を行った。抗議者に対し警察が発砲し、多数の死者が出たことで事態は収拾不可能となった。国民会議派に政権を譲ったPDPも、州議会選挙と下院選挙が迫る中、カシュミール人有権者を自党につなぎ止めるため、土地譲渡の決定を撤回しなければ連立を解消すると国民会議派に圧力をかけ始めた。この渦中の中、スィナー州知事は任期を終えて退任し、6月25日にNNヴォーラーが新州知事に就任した。6月下旬には、シュリーナガルにおいて10日間に渡るゼネストが行われた。これらの混乱を受け、7月1日に国民会議派州政府は土地譲渡命令を撤回することを発表した。カシュミール地方ではこの発表は大いに歓迎された。抗議中、治安部隊との衝突によって多数の死者が出はしたものの、最終的には州政府に要求を呑ませることに成功したからである。

 ところが今度は、州政府の土地譲渡撤回命令に対して、ヒンドゥー教徒コミュニティーが怒りの声を上げた。抗議の中心地はジャンムーであった。急先鋒となったのは当然、ヒンドゥー教至上主義団体であるバジラング・ダルや世界ヒンドゥー協会(VHP)である。インド人民党(BJP)やシヴ・セーナーなども参加する抗議団体アマルナート闘争委員会(Amarnath Sangarsh Samiti)も結成され、抗議運動の先頭に立った。だが、ジャンムーの一般の人々もその抗議に加わった。ジャンムーの人々は、ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も一般的に土地譲渡に賛成のようである。ジャンムーの人々の間では、カシュミール地方の分離主義や、常にカシュミール地方を最優先してジャンムー地方を二の次にする政府の態度に対して不満が蓄積しており、アマルナート土地譲渡問題がそのはけ口となって爆発したとされている。「ジャンムー&カシュミール」は、今や「ジャンムーvsカシュミール」になったと言われるようになった。

 また、土地譲渡撤回後もPDPが国民会議派支持に回らなかったため、政権運営が困難となり、グラーム・ナビー・アーザード州首相は7月7日に辞任、国民会議派政権は崩壊した。州議会で過半数支持を集める政党が皆無なため、ジャンムー&カシュミール州は大統領直轄地となり、新州政府樹立は元々今年10月に予定されていた州議会選挙後に持ち越されることになった。

 現在でもジャンムーやシュリーナガルで抗議や政治運動が続いており、アマルナート土地譲渡問題は出口が見えないままくすぶり続けている。中央のUPA政権も、ライバル政党のBJPに助けを求めるほどで、全くのお手上げ状態のように見える。イスラーム教徒によって発見され、過去150年に渡ってイスラーム教徒によって管理されて来たという稀な歴史を持つヒンドゥー教の聖地アマルナート寺院。それはアヨーディヤーのバーブリー・マスジドのように、侵略と破壊の象徴ではなく、宗教調和の象徴のはずだった。だが、政争の道具としていいように扱われた結果、カシュミール地方のイスラーム教徒にとっては、守るべきカシュミールの主権の象徴となり、ジャンムー地方を中心としたヒンドゥー教徒にとっては、イスラーム教徒から奪還すべき聖地の象徴となってしまった。宗教間の対立が地域間の対立をも連鎖的に生み出してしまっており、さらに厄介である。

 世界最大の民主主義国と言われるインドだが、その民主主義の実態は、必ずしも明るいものではない。むしろインドは民主主義によってバラバラに引き裂かれつつあるように見える。インド神話では、神々と悪魔が協力して大海をかき回すサムドラマンタン(乳海撹拌)という一大行事が語られている。その結果、不老不死の霊薬アムリタが海から生じたが、それと同時にハラーハラという猛毒も生じた。その毒を飲み込み、世界を救ったのはシヴァ神であった。だが、民主主義というサマージマンタン(社会撹拌)によって、ジャンムー&カシュミール州ではシヴァ神(アマルナート)自身がハラーハラとなってしまった。果たしてこれを救う者はいるのだろうか?

8月11日(月) インド、初の個人種目金メダル

 4年前のアテネ五輪のときに、インドの五輪の歴史アテネ五輪とインドで、インドがいかにオリンピック弱小国であるかを書いた。インドはスポーツが何でも弱いわけではないのでスポーツ弱小国と決めつけるのは間違いだが、五輪種目になっている競技でなかなかメダルが取れないことは、認めなければならないだろう。だから、オリンピック弱小国という呼称がもっとも適している。それらの日記を読んでいただければ大体分かるのだが、以下、簡単にインドの五輪史を書いておく。

 2004年までのインドの五輪メダル獲得総数は17枚(金8枚、銀4枚、銅5枚)。2004年アテネ五輪でのメダル獲得数ではなく、2004年までの全五輪におけるメダルの獲得総数である。インドは、英国統治下にあった1900年(第2回パリ五輪)で初出場、1928年のアムステルダム五輪から1度もボイコットせずに連続出場している稀な皆勤賞国家であるが、その100年の歴史の中で17個しかメダルを取れなかった。しかもその内の11枚(金8枚、銀1枚、銅2枚)は団体競技ホッケーによるものである。かつてインドはホッケー最強国家であった。また、1900年のパリ五輪で銀メダルを2枚獲得したノーマン・プリッチャードは、インド代表で出場したものの、実際には英国人である。よって、全五輪史におけるインドの個人種目メダル獲得実数は4枚(銀メダル1枚、銅メダル3枚)のみとなる。

 1996年以来、毎五輪1枚ずつコンスタントにメダルを獲得しているものの、2008年の北京五輪でメダルが期待されていたわけではなかった。「ラッキーだったら1枚」という程度の予想であった。一応新聞などはオリンピックをカバーしているが、はっきり言って、一般のインド人は五輪とは全く無縁の生活を送っていたと言っていい。

 ところが今日昼頃、北京から突然の吉報が届いた。男子10mエアライフルという競技で、インド人射撃選手のアビナヴ・ビンドラーが金メダルを獲得したと言う。


アビナヴ・ビンドラー

 てっきりおじさんかと思ったが、プロフィールを見たら、こう見えても1982年生まれの25歳。2004年のアテネ五輪では7位、2006年の世界選手権では優勝と、けっこう実績のある選手であり、今回念願の五輪金メダル獲得となった。インド初の個人種目金メダリスト。金メダルは、インドが長らく欲しながらも手に入らなかったものであり、この喜びは国中が共有できるものである。アビナヴは、確実にインドのスポーツ史に名を残す人物になるだろう。もしかしたらこれを機にインド人の関心が少し五輪へ向くかもしれない。

 おめでとう、アビナヴ!おめでとう、インド!

8月13日(水) 金メダルとインドのスポーツの問題

 北京五輪の男子10mエアライフルにて、インド初となる個人種目金メダルを勝ち取ったインド人射撃選手アビナヴ・ビンドラーには、次から次へと褒賞が降り注いでいる。だが、それはかなり異常な状態だと言わざるをえない。アビナヴは、連邦直轄地かつパンジャーブ州とハリヤーナー州の州都チャンディーガルに住んでいるので、チャンディーガル準州政府が50万ルピー、パンジャーブ州政府が1,000万ルピー、ハリヤーナー州政府が250万ルピーの功労金の賞与を決定したことには納得が行く。だが、ビハール州(110万ルピー)、マハーラーシュトラ州(100万ルピー)、カルナータカ州(100万ルピー)、マディヤ・プラデーシュ州(50万ルピー)、オリッサ州(50万ルピー)、チャッティースガル州(10万ルピー)など、アビナヴとも今回の金メダルとも全く関係のない州までが競うように功労金賞与を発表したことには首を傾げざるをえない。さらに、クリケットの管理団体であるはずのインド・クリケット管理委員会(BCCI)までもが250万ルピーの功労金を発表している。また、ラールー・プラサード鉄道大臣は、インド鉄道AC1等席生涯乗り放題権という前代未聞のご褒美をアビナヴにプレゼントし、ニュースになった。

 だが、この突然のゴールド・ラッシュには訳がありそうだ。

 実は、インド初の個人種目金メダリストとなったアビナヴ・ビンドラーは、大富豪の息子である。父親のASビンドラーは加工食品輸出企業ビンドラー・アグロ・インダストリーズ・コーポレーションの経営者。カーストから言っても、ビンドラー家は上層階級であるパンジャービー・カトリーに属しており、血統も最良である。さらに驚くべきことに、アビナヴは自宅に自分専用の射撃場を所有している。コンピューターライズされたその射撃場の設備は国際レベルで、インドのどこにもないくらいのものだと言う。しかもアビナヴは7丁の高価な銃をはじめ、最先端の器具を所持している。彼はこの自宅の射撃場で日頃練習し、時々ドイツに行ってトレーニングを受けているようである。

 つまり、極論してしまえば、アビナヴは政府の後援など全くなしに、自分の財力だけで金メダルを獲得したことになる。

 では、果たしてそのような選手を、本当の意味で、国の代表と呼ぶことができるだろうか?

 だが、残念なことに、そして皮肉なことに、政府の後援を受け、政府の施設で練習するような選手は、滅多なことでは国際レベルの活躍をすることはできない。なぜならインドのスポーツ施設のほとんどはほぼ放置状態となっているからである。例えば、デリー南郊には国営のトゥグラカーバード・シューティング・レンジという射撃場がある。ここには、今回アビナヴが金メダルを獲得した競技に使用される10mライフル・シューティング・レンジもある。だが、ここの設備は1982年にアップデートされて以来、1丁の銃も国から支給されておらず、廃墟のような状態となっている。コンピューターの導入など夢物語で、射撃手はいちいち自分でターゲットを引き寄せてスコアを確認しなければならない。当然、ビンドラーは、大会以外でこの射撃場に来たことはない。このような場所から金メダリストが誕生するはずがない。射撃だけに限らず、国際的レベルにあるインド人スポーツ選手はほぼ全員、政府ではなく、自身または家族の経済的な支援によって支えられて来ている。例外なのは軍属の選手のみである。さすがに軍隊は軍人スポーツ選手を後押ししているようである。

 クリケット以外のインドのスポーツがどのような状態にあるかは、昨年公開された大ヒット映画「Chak De! India」(2007年)でも確認することができる。

 今回、直接関係ない州政府までもがアビナヴに功労金の雨あられを降らしたのも、州内のスポーツの悲惨な状態を覆い隠すためであろう。成功した選手に報奨金を与え、それにスポーツ振興の名を与えるのは簡単である。だが、本当に必要なのは、アビナヴのような裕福で自立自存の選手に形ばかりの賞金や名誉を与えることではなく、公営のスポーツ施設に地道に予算を付け、才能のある選手を大事に伸ばすことだ。そうでなければインドに本当のスポーツ振興は起こらないし、いつまで経っても五輪でごく少数のメダル獲得に狂喜乱舞する状態が続くだろう。インドの人口は10億人以上いるが、実際にスポーツができる環境にいるのは、数%である。その中から国際的なスポーツ選手が生まれる確率はさらに低い確率なのは言うまでもない。となると、インドの五輪メダル数は、その巨大な人口と広大な国土にも関わらず、しごく妥当な数字になっていると言えるだろう。逆に言えば、インド人は民族的にスポーツに弱いと決め付けることは不公平だ。彼らの多くは、才能を発揮する機会を与えられていないだけである。

 マンモーハン・スィン首相は、アビナヴの金メダル獲得について以下のようなコメントを寄せている。「彼は国の誇りとなるようなことを成し遂げた。これが他のスポーツ選手を刺激し、他にも世界の頂点に立つような選手が続くことを期待する。」金メダル獲得の報にインド中は沸き返ったが、アビナヴのバックグラウンドが知れるにつれ、多少興醒めのムードも出て来ている。結局金持ちじゃなければ金は取れないじゃないか!確かにスィン首相の言うように、アビナヴの金メダルは、今現在スポーツをプロフェッショナルな形でしている裕福なインド人の励ましにはなったかもしれない。だが、才能はあれど貧しいスポーツ選手のインスピレーション源になるだろうか?アビナヴの金は結局、「金のある場所に金が集まる」というインド人庶民の諦めに似た感情を助長しただけなのかもしれない。

 もしインドが本当にスポーツ大国を目指すなら、バガヴァトギーターの以下の有名な一節の意味を政府が理解しなければならないだろう。アビナヴの金メダルは、獲得したことに意義があるのではなく、これからこれがどのようにインドのスポーツ界に影響を与えて行くかに意義があると言える。

カルマンニェーワーディカーラステー・マー・パレーシュ・カダーチャナ/マー・カルマパラヘートゥルブール・マー・テー・サンゴーストワカルマニ

 汝の権利は行動にのみあり 行動による結果を求めることにあらず
結果が汝の行動の動機にならぬように 怠惰に身を委ねることのなきように

バガヴァトギーター 第2章 第47頌  


8月15日(金) Bachna Ae Haseeno

 インドの映画入れ替え日である金曜日が、ちょうどインドの独立記念日と重なった。先週公開された「Singh is Kinng」が今のところ今年最大のヒット作になりそうな勢いだが、本日から公開の2作品も十分に期待できる。今日は「Bachna Ae Haseeno」を見た。最近絶不調の大手プロダクション、ヤシュラージ・フィルムスの最新作で、監督は「Salaam Namaste」(2005年)や「Ta Ra Rum Pum」(2007年)のスィッダールト・アーナンド。去年デビューした大型新人ランヴィール・カプールとディーピカー・パドゥコーネの第2作であることも重要だ。



題名:Bachna Ae Haseeno
読み:バチュナー・アェ・ハスィーノー
意味:気を付けろ、美人たちよ
邦題:べっぴんさん、ご用心

監督:スィッダールト・アーナンド
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:アンヴィター・ダット・グプタン
振付:アハマド・カーン
衣装:アキ・ナルラー
出演:ランヴィール・カプール、ビパーシャー・バス、ディーピカー・パドゥコーネ、ミニーシャー・ラーンバー、クナール・カプール(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。満席。

左から、ディーピカー・パドゥコーネ、ランヴィール・カプール、
ビパーシャー・バス、ミニーシャー・ラーンバー

あらすじ
 1996年。デリー出身の学生ラージ(ランヴィール・カプール)は、友人たちと女の子との出会いを求めてスイス旅行に来ていた。そこで出会ったのが、アムリトサルから来たマーヒー(ミニーシャー・ラーンバー)という女の子であった。マーヒーは「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)の大ファンで、シャールク・カーンが演じた主人公ラージを求めて両親や友人たちと共にスイスに来ていたのだった。2人揃って電車に乗り遅れてしまったことをきっかけに、ラージとマーヒーの仲は急接近する。だが、空港での別れの際、ラージが友人たちの前で強がって口にした言葉がマーヒーの心を傷付けてしまう。

 2002年。ラージはマイクロソフト社に就職し、ムンバイーで今をときめくITエンジニアとして生活していた。ラージの部屋の隣には、ジャールカンド州ラーンチーから映画スターになることを夢見てムンバイーへやって来たラーディカー(ビパーシャー・バス)という女の子が住んでいた。ラージとラーディカーはやがて同棲するようになる。だが、ラージはラーディカーとの結婚は全然考えていなかった。シドニーへの転勤が決まったことをきっかけに、ラーディカーと別れようとする。だが、ラーディカーは結婚して彼と一緒にシドニーへ行くと言い出す。断れきれない内に話はどんどん進んでしまい、困ったラージは結婚登録直前にシドニーへ逃亡する。

 2007年。ラージはシドニーのゲーム会社で管理職になっていた。相変わらず派手な女遊びをしていたが、ある晩、タクシー運転手をして学費を稼ぐインド人の女の子ガーヤトリー(ディーピカー・パドゥコーネ)と出会う。ガーヤトリーは自立をモットーとしており、生活の安定のために結婚するという考え方を否定していた。結婚願望のないガーヤトリーに惹かれたラージであったが、やがて恋に落ち、あるとき彼女にプロポーズする。だが、ガーヤトリーの考えは変わっていなかった。彼女はプロポーズを拒否する。ラージは生まれて初めて失恋した。

 失恋の痛みを味わったラージは、急にマーヒーやラーディカーのことを思い出す。無断欠勤のために会社を解雇されたラージは、彼女たちに許しを乞うためにインドへ旅立つ。

 アムリトサルでラージはマーヒーがジョーギンダル(クナール・カプール)と結婚したことを知り、彼女に会いに行く。ところが、ジョーギンダルはラージに会った途端にパンチをお見舞いする。マーヒーは今でもラージの仕打ちによって受けた心の傷を引きずっており、夫に対しても心を開こうとしなかった。その原因を知ったジョーギンダルは、ラージに対して憎しみを燃やしていたのであった。だが、責任を感じたラージはマーヒーに許しを乞うと同時にジョーギンダルとの仲を取り持ち、2人の間に信頼関係を芽生えさせることに成功する。

 次にラージはムンバイーへ向かった。ラーディカーはいつの間にかシュレーヤーという名で大スターとなっていた。彼女は忙しい毎日を送っており、周囲には常にガードマンがいたため、ラージはなかなかラーディカーと話すことができなかった。そこで、ラーディカーがイタリアの別荘へ休暇に行くと、それを追って行く。ラーディカーは簡単に許そうとしなかったが、ラージを個人秘書として雇い、こき使うことにする。ラージは嫌な顔ひとつせずにラーディカーに仕える。やがてラーディカーの心にも変化が訪れ、彼を許す気になる。そもそもラージに捨てられたおかげで夢を叶えることができたのだし、ラージを許すことで彼女の気持ちは楽になったのだった。

 シドニーに戻って来たラージは、部屋にガーヤトリーからの手紙がたくさん来ていることに気付く。ラージが急にいなくなった半年間、ガーヤトリーはラージのプロポーズを受け入れる気持ちになったのだった。ラージとガーヤトリーは再会し、愛を受け入れ合う。

 シンプルで分かりやすい筋のラブコメ映画であった。若手スター2人が輝いている上に、ちょっとした下ネタ、豊富な海外ロケ、軽快な音楽とダンス、過去のボリウッド映画のパロディーやオマージュ満載で、優良な娯楽映画に仕上がっていた。まずまずのヒットになることが予想される。

 映画のポスターを見れば、1人の男が3人の美女と恋愛を繰り広げるストーリーであることは容易に想像が付くだろう。それらの恋愛が同時進行するのかとも予想していたが、基本的には、主人公ラージが人生の各段階――大学入学前、就職後、海外転勤後――において出会った3人の女の子との恋愛がオムニバス的に語られる映画だった。だが、3人の美女との出会いと別れは、前半で終わってしまう。後半は一転して、過去に心を傷付けた女の子たちへの贖罪の旅となる。そしてそれが終わったときに、本心から恋したヒロイン、ガーヤトリーと結ばれるのである。結婚を否定していたガーヤトリーがいつの間にかラージとの結婚を望むようになった過程が詳しく描かれておらず、突然の展開のような印象を受けたが、それ以外は分かりやすく退屈しない筋であった。

 映画の題名の意味と、映画中に織り込まれている監督のメッセージを考え合わせると、もっとも重要なのはジョーギンダルとマーヒーのシーンである。ジョーギンダルは真面目なスィク教徒で、昔から一途に恋して来たマーヒーと結婚し、2児をもうける。だが、マーヒーの心には常に、スイス旅行中に会ったラージから受けた傷が残っていた。マーヒーは再び裏切られることを恐れ、夫にも完全に心を開けないでいたのである。ジョーギンダルはラージに対し、「どうして女はすぐにお前みたいないい加減な男に騙されるんだ!?俺は、お前の犯した過ちの尻ぬぐいをずっとさせられているんだぞ!」と怒りをぶつける。ラージのような調子のいい男にご用心という訳だ。さらに、ラーディカーとの恋愛からは、精神的結婚適齢期に達していない男が突然結婚に直面したときに精神状態がよく表されていた。3人の美女が出て来るため、一見すると男性向けの映画だが、実際は、1人の男性の精神的成熟の過程が研究された作品で、やはり題名が示す通り、どちらかというと女性向けの映画になっているように思えた。

 ちなみに、「Bachna Ae Haseeno」というフレーズは、主人公ランヴィール・カプールの父親リシ・カプールが主演した映画「Hum Kisise Kum Naheen」(1977年)の中のヒット曲の歌詞である。「美人たちよ、気を付けろ、何しろ俺様がやって来たんだからな!」というキザな歌詞のこの曲は、インド人なら誰でも知っているというレベルの有名なものだ。映画「Bachna Ae Haseeno」中のタイトルソングには、原作のキショール・クマールの歌声がアレンジされて使われている。

 インド人ITエンジニアの王道を進む主人公と、1996年、2002年、2007年、そして現代へと進んでいく時間軸は、そのままインドの経済発展の象徴となっている。時間が進むにつれ、ラージがとんとん拍子に出世して行く様子が観察でき、面白い。これは、ITブームの波に乗った幸運なインド人の人生の真実であろう。

 映画中、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)、「Dhoom」(2004年)、「Jhoom Barabar Jhoom」(2007年)など、ヤシュラージ・フィルムス関連の過去の作品のパロディーが見られた。ラージとラーディカーが婚前同棲する下りも、スィッダールト・アーナンド監督自身の作品「Salaam Namaste」のパロディーと言える。

 昨年デビューし話題をさらったランヴィール・カプールとディーピカー・パドゥコーネにとって、第2作に当たるこの映画は、今後のキャリアの方向性を決める重要な試金石であった。2人ともデビュー作のイメージを踏襲しつつ発展させており、合格点と言えるだろう。ただ、前作「Om Shanti Om」(2007年)でソロのヒロインを演じたディーピカーは、今回は3人のヒロインと1本の映画を共有する形であるため、存在感は前作ほどではない。だが、先輩女優になるビパーシャー・バスを差し置いて、メインヒロインの座を確保したことは意義ある点であろう。あと、前作ではディーピカーの声は吹き替えだったが、どうも今回も吹き替えのような感じである。

 ランヴィールには十分にヒーローのオーラがある。しかも彼はこの映画で、「連続キス魔」の異名を持つイムラーン・ハーシュミーのお株を奪う3連続キスを達成した。つまりランヴィールは3人のヒロインとリアルでキスをする。ちなみに、現在ランヴィールとディーピカーは恋人関係にある。

 ビパーシャー・バスは演技で貫禄を見せていた。特に後半、贖罪に来たラージをやっとのことで許すシーンで見せるホッとした笑顔に彼女の魅力が集中していた。デビュー以来彼女に付きまとってキャリアの妨げになって来たセックスシンボルのイメージがだいぶ薄れて来たように思う。ミニーシャー・ラーンバーは、他の2人の女優に比べて色白である点で突出しているが、それ以外で魅力は感じなかった。彼女は小じわが目立つため、どうしても老けて見えてしまう。あとはクナール・カプールがスィク教徒役でサプライズ出演でしっかりした演技を見せていたのが収穫であった。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。もっともノリノリなのは前述のタイトルソング「Bachna Ae Haseeno」であるが、ディスコ・ナンバー「Lucky Boy」、バーングラー・ナンバー「Jogi Mahi」などもよい。サントラCDはまずまず買いの出来である。

 デリー、ムンバイー、アムリトサル、スイス、イタリア、オーストラリアでロケが行われており、とても豪華な雰囲気の映画になっていた。ロケ地の選定にもかなり戦略的な意図が感じられる。その辺りはヤシュラージ・フィルムスらしい。

 「Bachna Ae Haseeno」は、盛りだくさんだが疲れない、ちょうどいいバランスの娯楽映画である。次世代の大スター候補、ランヴィール・カプールとディーピカー・パドゥコーネの成長を見守る意味でも、押さえておいて損はない。

8月18日(月) God Tussi Great Ho

 独立記念日に「Bachna Ae Haseeno」と同時に公開されたのが、アミターブ・バッチャン、サルマーン・カーン、プリヤンカー・チョープラー主演の「God Tussi Great Ho」である。つい数年前までは、この顔ぶれはそのままヒットを意味したが、時代は変わるもので、今では「Bachna Ae Haseeno」の裏映画的な扱いである。「God Tussi Great Ho」は、ハリウッド映画「Bruce Almighty」のリメイクになる。



題名:God Tussi Great Ho
読み:ゴッド・トゥッスィー・グレート・ホー
意味:神様あんたは偉い
邦題:ゴッド・ジョブ!

監督:ルーミー・ジャーファリー
制作:アフザル・カーン
音楽:サージド・ワージド
歌詞:ジャリース・シェールワーニー、シャッビール・アハマド、デーヴェーン・シュクラー
振付:ボスコ・マーティス、シーザー・ゴンサルヴェス、ガネーシュ・アーチャーリヤ
出演:アミターブ・バッチャン、サルマーン・カーン、プリヤンカー・チョープラー、ソハイル・カーン、アヌパム・ケール、ラージパール・ヤーダヴ、ビーナー・カーク、ダリープ・ターヒル
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、プリヤンカー・チョープラー、アミターブ・バッチャン、サルマーン・カーン

あらすじ
 TV局に務めるアルン・プラジャーパティ、通称AP(サルマーン・カーン)は、何をやってもうまくいかないアンラッキー・ボーイだった。不幸なことが起こるたびに彼は神様を呪っていた。APは、同じ局に務める美女アーリヤー・カプール(プリヤンカー・チョープラー)に恋していたが、何もできずにいた。APの父親(アヌパム・ケール)は、息子がTV局という下らない場所で働いているのが気にくわず、毎日文句を言ってばかりいた。APの妹マドゥは結婚適齢期を迎えていたが、顔にアザがあるため、なかなか花婿を見つけられないでいた。母親(ビーナー・カーク)はそれでも毎日神様に祈ることを忘れなかった。

 ある日、TV局にアーリヤーの大学時代の同級生ラーケーシュ・シャルマー、通称ロッキー(ソハイル・カーン)が転職して来る。ロッキーは他人をからかうのが大好きな迷惑男であった。ロッキーは、APがアーリヤーに恋しているのを知ると、彼の恋路を邪魔し出す。APはますますフラストレーションを募らせて行った。

 最近仕事でいい結果を残せていなかったAPは、アーリヤーと共に新番組「Jhoot Bole Kauwa Kaate(嘘を言う者はカラスに噛まれる)」を立ち上げ、起死回生を狙う。この番組は、政治家を嘘発見器付き椅子に座らせ、いろいろな質問をするというものだった。APは、母親からもらったターウィーズ(お守り)を首にかけ、番組の発表会に臨むが、大事なところでロッキーに邪魔され、手柄を全て横取りされてしまう。怒ったボス(ダリープ・ターヒル)はAPをクビにする。全てに絶望したAPは、ターウィーズを空に向かって、つまり神様に向かって投げつける。そのターウィーズは神様のところまで届く。

 翌朝、無職のAPのところに何者かから求人の電話がかかって来る。APは半信半疑ながら待ち合わせ場所のハイアット・ホテル1801号室へ行く。だが、そこで待っていたのは神様(アミターブ・バッチャン)であった。神様は、「俺が神様になったらあんたよりもうまく世界を運営してみせる」と豪語するAPに、10日間だけ神様の力を与える。ただし、神様であることを誰にも知られてはならないという条件付きであった。

 神様になったAPはまずは神様の力を試して遊ぶが、だんだん個人的な目的のために力を使い始める。ロッキーに仕返しをし、アーリヤーを口説き落とし、妹を町一番の美人に変身させ、口うるさい父親から声を奪い、メイドを宝くじの一等当選者にする。だが、日にちはどんどん過ぎてしまい、最後の日になる。神様に、世界のためにまだ何の仕事もしていないと叱られたAPは面倒になって、世界中の全ての人の願いを一度に叶えてしまう。

 翌日、普通の人間に戻ったAPは、世界がメチャクチャになっているのに気付く。学校では受験生が皆満点を取って大混乱が起き、刑務所では服役者が皆釈放され、近所の駄目男(ラージパール・ヤーダヴ)がマドゥと結婚し、職場の雑用係が手に入れたばかりのスクーターで交通事故を起こし、アーリヤーの家の前の路地に住み、日頃から犬になりたいと口にしていた乞食が犬になってしまった。さらに困ったことに、アーリヤーが突然ロッキーと結婚式を挙げようとする。APはロッキーの願いまで叶えてしまったのだった。APは式場に駆けつけて何とか止めようとするが、アーリヤーは決意を翻そうとしなかった。そこへ刑務所から釈放された犯罪者たちが押しかけ、アーリヤーは流れ弾に当たって死んでしまう。

 APが神様に向かって叫ぶと、彼は神様のところへ呼ばれる。APは、神様の仕事がいかに大変かということ、皆の願いをただ叶えるだけでは世界はうまくいかないこと、全ての人は必要なもののみを与えられているということを悟り、神様に謝る。そして、アーリヤーを助けるように頼む。神様は、10日前の状態に全て戻すことのみ可能だと言う。APはそれを承諾する。

 全ては10日前に戻った。APは、「Jhoot Bole Kauwa Khate」の第1回撮影に駆けつけ、ホストを務めるロッキーに「まずはお前が嘘発見器椅子に座って質問に答えろ」と挑戦する。嘘発見器のおかげで、ロッキーが今までAPに対してしてきた悪事がばれてしまう。それを見たアーリヤーは、今度はAPを椅子に座らせる。アーリヤーは、「あなたは私のことを愛してる?」と質問する。APは「いや」と答える。すると嘘発見器は「嘘」を示す。こうしてAPとアーリヤーは結ばれたのだった。

 「神様は人に必要なものを必要なときに与えてくれている」という心強いメッセージが心地よい娯楽映画だった。サルマーン・カーンとソハイル・カーンの兄弟が繰り広げるコメディー・シーンも壺にはまっている。不幸な人間が一定期間だけ神様になるという、作りようによってはかなり壮大な物語になりそうな話を、卑近で安っぽいコメディー映画にまとめていたのは、逆にインド映画らしくて微笑ましかった。

 映画は、「なぜ神様は全ての人々の願いを叶えてくれないのか」「なぜ一部の幸せな人のみがさらに幸せになるのか」という多くの人々が抱く疑問に答えていた。各人には最初から必要なものが与えられており、不適切なもの与えられると大きな不幸に陥り、世界の秩序が乱れてしまうのである。つまりは今あるもので満足し、高望みをするな、という教えであった。また、神様は世界を創っただけであり、憎悪や嫉妬のような負の感情が人間によって作られたものだと、人間の批判をしながらも、最後で、アミターブ・バッチャン演じる神様は、人間には与えられたものの中で正しいことをする力があると人間を賞賛し、「人間こそが偉大なのだ」とまとめていた。

 映画の面白さの大部分は、主演のサルマーン・カーンやプリヤンカー・チョープラーよりもむしろ、助演に当たるソハイル・カーンのコメディアン振りに依っている。ソハイル・カーンはしばらくアクションヒーローとして売っていたが、デーヴィッド・ダワン監督「Maine Pyaar Kyun Kiya?」(2005年)でコメディアン・デビューをし、意外な才能を開花させた。今回もそのときと全く同様のノリの暴走振りで、楽しませてくれた。彼の暴走があるおかげで、神様になったサルマーンの反撃がコメディーとして生きていた。

 プレイボーイを演じることの多いサルマーン・カーンは、今回は全くの駄目男を演じていた。お約束の筋肉美披露なども控えられていたが、サルマーン特有のカクカク踊りは変わらなかった。彼は、顔は二枚目で身体もムキムキなのだが、声が一定のボリュームを越えると女々しくなってしまうので、プレイボーイを演じていてもどこか二枚目半の雰囲気を残すことになる。だから、この映画のように実は最初から駄目男を演じた方が役にはまるのである。「Partner」(2007年)以来、話題に乏しかったサルマーンは、この映画で取りあえず時間稼ぎができたと言える。

 ヒロインのプリヤンカー・チョープラーも悪くはなかったのだが、いつの間にかオーラがだいぶ失われてしまったように感じた。かつてはポスト・アイシュワリヤー時代を担う女優になると期待されており、確かに「Krrish」(2006年)や「Don」(2006年)の頃は上昇気流に乗っていたが、最近はお世辞にもトップ女優とは言えなくなった。だが、今年はまだ彼女の主演作が数本控えているので、決めつけるのは時期尚早であろう。

 売れようと売れまいと、ボリウッドの最高権威の地位をほしいままにしている男優アミターブ・バッチャンは、今年はお化けになったり神様になったり大忙しである。先日は「Bhootnath」(2008年)でお茶目な幽霊になったかと思ったら、今度はこの「God Tussi Great Ho」で神様役を演じた。アミターブ・バッチャンは「Agni Varsha」(2002年)でもインド神話の最高神格であるインドラ神を演じたが、今回はどちらかというと西洋的な神様である。そういえば「Thoda Pyaar Thoda Magic」(2008年)でもリシ・カプールが西洋的な神様を演じていた。もう、インド的な神様はボリウッド映画では時代遅れなのだろうか?

 音楽はサージド・ワージドだが、調子のいいタイトル曲「God Tussi Great Ho」以外は耳に残るものがない。むしろ、映画中にミュージカル・シーンが多すぎるように感じた。もう少しスマートにできたと思う。

 題名の「God Tussi Great Ho」の中の「Tussi」とはパンジャービー語で「君」という意味の単語である。だが、映画中にパンジャービー色は全くと言っていいほど存在しない。

 「God Tussi Great Ho」は、サルマーン・カーンとソハイル・カーンのコンビが面白いコメディー映画である。安っぽさが逆にいい味を醸し出している。パンチ力はないが、まったりと楽しめる作品だ。

8月21日(木) 印レスリング、56年振りのメダル

 8月11日の日記で、インドの射撃選手アビナヴ・ビンドラーが北京五輪で金メダルを獲得したことを伝えた。インド史上初の個人種目金メダルということで、インド中は喜びに沸き返ったが、どこか足りない部分があった。それは、8月13日の日記に書いた通り、アビナヴが自宅に専用射撃場を所有するほどの大金持ちで、スポーツ感動物語に欠かせない血と汗と涙の臭いが全く感じられなかったからである。もちろん、いくら裕福でも五輪で金メダルを勝ち取るまで様々な苦労があっただろうし、1人の力だけでなく、家族や友人の温かいサポートがあったからこそ偉業を成し遂げられたのだろう。だが、そういう背景をいくら説明しようと、「金があったからこそできたこと」という考えを完全に払拭することはできない。アビナヴの金メダルは、庶民が五輪やスポーツに求める、いわゆる「感動」とは別の次元にあるものであった。

 金メダルの興奮冷めやらぬ中、8月20日、今度はレスリングでインド人選手が銅メダルを獲得した。金メダルの後の銅メダルなので、インパクトは薄くなってしまったことは否めないが、今回は正真正銘の「庶民」によるメダル獲得である。しかも、ギリギリの戦いを勝ち抜いたドラマチックな勝利だ。8月21日付け各紙掲載のメダル獲得までの逸話を読むと、目頭が熱くなるのを抑えられなかった。これこそ、日本のマスコミが盛んに騒ぎ立てる「感動」であろう。

 選手の名前はスシール・クマール・ソーランキー(25歳)。レスリングの66kg級男子フリースタイルで、初戦敗退ながらも、敗者復活戦(Repechage)で奇跡の連勝をし、見事銅メダルを獲得した。デリー西郊のナジャフガル近くにあるバープラウラー村出身で、父親のディーワーン・スィンはMTNL(公営電話会社)の運転手。どういう雇用形態なのか詳細は不明だが、良くて最底辺の公務員、悪くて何の社会保障もないただの運転手といったところだ。全く高給は望めない。だが、父親自身がレスラーになる夢を持ちながらも貧困のためにその道に進めなかった過去を持っており、息子にだけは同じ境遇を味合わせたくないと考え、レスラーが身体造りをするために必要な牛乳、ギー(純油)、野菜などを1日も切らさず息子に摂取させ続けたと言う。典型的なスポーツ根性物語である。息子が自分の夢を叶えてくれたことに喜びを隠し切れないディーワーン・スィンは、「私の息子が勝ち取ったのは銅メダルだが、私たちにとってそれは純金のメダルだ」と語っている。


スシール・クマール・ソーランキー

 レスリングの敗者復活のシステムは以下の通りである。初戦敗退した選手が戦った相手が最終ラウンドに達した場合、敗退選手には銅メダル獲得のチャンスが与えられる。該当する4人の選手が総当たり戦を行い、他の3人に勝つことができたら銅メダルとなる。しかし、試合と試合の間のインターバルは短く、ほとんど連続で3戦を戦わなければならないため、過酷な戦いになる。スシールは初戦で敗退したものの、相手選手が最終ラウンドまで勝ち残ったため、敗者復活戦でわずかばかりのチャンスが得られた。スシールはこの敗者復活戦において他の3人の選手とほとんど休みなく対戦し、死闘の末に連勝して銅メダルを獲得したのである。

 スシールのメダルは、レスリングではインド史上2つ目となる。最初のメダリストは、マハーラーシュトラ州出身のレスラー、カーシャヴァ・ジャーダヴである。1952年のヘルシンキ五輪において、52kg級フリースタイルで銅メダルを獲得した。これはインド初の個人種目メダルにもなる。つまりスシールのメダルは、インドのレスリング界にとって56年振りのメダルとなる。スシールと同様に、ジャーダヴの家も裕福ではなく、しかも国からの支援もなかったため、村人たちからの寄付金によって渡航し、メダルを勝ち取った。だが、メダルの獲得が彼の人生を変えることはなかった。彼の偉業に注目する者は誰もおらず、1984年に交通事故で死亡するまで、生涯を貧困の中で暮らしたとされている。

 さすがにジャーダヴの時代よりは状況は改善しており、才能を見出されたスシールは幸いにも有能なコーチたちから指導を受けることができた。特にサトパール・ペヘルワーンというインドを代表するレスラーがスシールの指導に当たり、才能を開花させた。だが、まだまだ国や州からの支援は十分ではないと言う。インドには才能のある選手がまだたくさんいるが、彼らが国際レベルで活躍するには、適切な施設と有能なコーチが不足している。もし、政府が本格的に彼らの支援に乗り出せば、インドも次第に優秀なスポーツ選手を輩出できるようになるだろう。スシールの銅メダルのおかげでインドのレスリング界は一躍注目を集めることになった。インドではクシュティー(相撲)が伝統的に盛んであり、今でも多くの若者がアカーラーと呼ばれる道場で鍛錬をしている。よって、他のスポーツと違って下地は十分にある。スシールの銅メダルは、きっとインドの下町や農村で汗を流すインド人レスラーたちの励ましになっただろう。五輪のメダルはやはりこうでなければならない。

 ところで、スシールの生まれたバープラウラー村の近くにあり、彼の出身地と言ってもいいナジャフガルという町は、ヴィーレーンドラ・セヘワーグというクリケット選手を生んだ地として全インド的に有名である。セヘワーグは「ナジャフガルのナワーブ(太守)」の愛称を持っている。だが、クリケットで稼ぎに稼いだセヘワーグの一家は、最近ナジャフガルを捨ててデリーの高級住宅街に引っ越してしまった。そんな中、新たな英雄がナジャフガルから生まれた。スシールが銅メダルを勝ち取ると、ナジャフガルやバープラウラー村では花火が上がり、祝砲が乱発され、お菓子が配られ、老若男女街路に出て喜びの踊りを踊り出した。どうもスシールは子供の頃けっこうヤンチャで近所の人々に迷惑をかけることもあったようだが、今ではナジャフガルの誰もが彼のことを息子扱いし、誇りに思っているようである。今やナジャフガルのナワーブは、セヘワーグではなく、銅メダリスト、スシール・クマール・ソーランキーだ。


ナジャフガルの道場
ここでスシールもクシュティーをしていた

 また、ナジャフガルだけでなく、スシールが今まで関係した学校やスタジアムなどからも歓喜の声が上がっている。クシュティー・センターとして建設されたデリーのチャトラサール・スタジアムで、スシールと共に汗を流して来たある同僚レスラーは、取材に訪れた記者に対してこんなことを語っている。「射撃選手のアビナヴ・ビンドラーが金メダルを取って帰って来たが、特に祝われなかった。だが、スシールがデリーに戻って来たとき、どんなことが起こるか見ててくれ。誰もが驚くような盛大な祝い方をするよ。」

8月22日(金) Maan Gaye Mughall-e-Azam

 2008年下半期に入った途端、「Jaane Tu... Ya Jaane Na」、「Singh is Kinng」、「Bachna Ae Haseeno」をヒットさせて勢いに乗るボリウッド映画業界。今日は3本のヒンディー語映画が同時公開された。上映スケジュールの関係から、コメディー映画「Maan Gaye Mughall-e-Azam」をまず見ることにした。題名からは、インド史上最高傑作に数えられることも多い「Mughal-e-Azam」(1960年)のパロディーであることが容易に推測できる。



題名:Maan Gaye Mughall-e-Azam
読み:マーン・ガエー・ムガレ・アーザム
意味:大ムガル皇帝が認めた
邦題:天晴れ、ムガル皇帝

監督:サンジャイ・チェール
制作:ガネーシュ・ジャイン、ラタン・ジャイン
音楽:アヌ・マリク
歌詞:サンジャイ・チェール
振付:サロージ・カーン
出演:パレーシュ・ラーワル、ラーフル・ボース、マッリカー・シェーラーワト、ケー・ケー・メーナン、パワン・マロートラー、ザーキル・フサイン
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、パレーシュ・ラーワル、ケー・ケー・メーナン、
マッリカー・シェーラーワト、ラーフル・ボース

あらすじ
 1993年、ゴア州の港町セント・ルイス。ドバイに住みながらボンベイ(現ムンバイー)のアンダーワールドを牛耳るドンが、ボンベイで大規模なテロを計画していた。インドの対外諜報機関、調査分析局(RAW)は、ドンがゴア州の小さな港町セント・ルイスでRDX(爆薬)を陸揚げしようとしているとの情報をキャッチし、RAWエージェントを送り込む。派遣されたのは、ガザル歌手として表の顔を持つハルディー・ハサン(ケー・ケー・メーナン)であった。ところが、同じくRAWエージェントのアルジュン・ラストーギー(ラーフル・ボース)は、ハルディーに不審な点を感じ、局長の命を受けてセント・ルイスへ急行する。

 実はアルジュンはセント・ルイスの劇団カラーカール・シアター・カンパニー所属の女優シャブナム(マッリカー・シェーラーワト)に恋していた。シャブナムは、同劇団の男優ウダイシャンカル・マズムダール(パレーシュ・ラーワル)の妻であったが、大女優になる夢を持っていた。セクシーなシャブナムの周りには男が絶えず、アルジュンとも不倫関係にあった。この不倫関係のおかげで、彼は劇場爆破テロを防ぐという手柄も挙げていた。

 ハルディーよりも先にセント・ルイスに到着したアルジュンは、シャブナムを使ってハルディーから情報を得ようとする。やはりハルディーはドンとつながっており、テロリストであった。シャブナムはハルディーに近づき、ドンがもうすぐセント・ルイスに大量のRDXと共に上陸予定であることを突き止める。一方、アルジュンは、シャブナムのベッドで眠っているところをウダイシャンカルに見つかってしまうが、国を救うための極秘ミッションだと言い訳をし、カラーカール・シアター・カンパニーの劇団員の協力を得て、RDXをマフィアたちから奪う作戦を開始する。

 ドンは、カラーカール・シアター・カンパニーの劇場をマフィアたちの集合場所に指定していた。そこで劇団員たちは、集会の途中で劇場の電源を切り、どさくさに紛れてRDXを奪う計画を立てる。作戦は首尾良く進まなかったが、何とかRDXを手に入れたアルジュンたちは、ドンたちと裏でつながる警察の追っ手を振り切って海にRDXを捨てる。このときウダイシャンカルは銃弾を受けるが、命に別状はなかった。

 半年後。アルジュンと劇団員たちは、テロを防いだ功績により表彰を受けた。だが、その場で新たにシャブナムの新しい恋人が発覚するのであった。

 爆笑ポイントがいくつかあるが、低予算でこぢんまりとまとまったコメディー映画だった。「Mughal-e-Azam」のルーズなパロディーが随所に出て来るが、基本的には何の前知識なしでも笑える映画になっている。もちろん、「Mughal-e-Azam」を見ていれば、面白さは倍増である。ウルドゥー語の難解な言葉遣いをおちょくるような場面もいくつかあった。映画というよりは、コントのノリに近い。

 映画の面白さの核は、演劇「Mughal-e-Azam」の中でアクバルを演じるウダイシャンカルがしゃべる「敵がインドの地に足を踏み入れたら常に・・・」という台詞である。ウダイシャンカルはその台詞に絶大な自信を持っていた。だが、彼の妻のシャブナムと不倫関係にあり、毎日演劇を見に来ていたアルジュンは、シャブナムに、アクバルがその台詞をしゃべり出したらドレスルームに来るように言われていた。だから、ウダイシャンカルが「敵がインドの地に足を踏み入れたら常に・・・」と台詞をしゃべり出すと、アルジュンはいつも席を立って行ってしまった。ウダイシャンカルはそれを自分の演技力の欠陥だと感じ、だんだん俳優としての自信を失って行く。

 この台詞は物語の端々のいろいろな場面で出て来て笑いを誘うが、エンディングまでこの台詞で閉められていた。テロリストからRDXを奪取し、テロを未然に防いだアルジュン、ウダイシャンカル、シャブナムらは、国から表彰を受ける。そのときウダイシャンカルは得意になって「敵がインドの地に足を踏み入れたら常に・・・」と演説し出す。そうしたら、表彰式に出席していた士官たちが一斉にシャブナムに向かって走り出し、花を差し出すのである。

 また、RAWのエージェントながら、ドバイのドンとつながるテロリストだったハルディーは、ガザル歌手という表向きの職業柄、日常会話でもウルドゥー語の雅な言葉遣いを多用する。シャブナムに惚れたハルディーはロマンチックな言葉で彼女を口説こうとするが、いかんせん、彼の言葉は時代遅れで、シャブナムにはチンプンカンプンなのである。

 このように、映画では「古典を笑う」笑いがテーマになっていたと言える。

 ちなみに、映画中ではテロは未然に防がれたことになっていたが、実際には1993年にボンベイで連続爆破テロが発生している。ドバイのドンとは、映画中実名は出なかったものの、国際的テロリストのダーウード・イブラーヒームである。

 「Pyaar Ke Side/Effect」(2006年)の主演コンビであるラーフル・ボースとマッリカー・シェーラーワトの再共演が話題になっていたが、実際にはパレーシュ・ラーワルとマッリカー・シェーラーワトの映画であった。現在ボリウッド最高のコメディアンであるパレーシュ・ラーワルは見せ場たっぷりで大いに笑わせてくれた。マッリカー・シェーラーワトは、「Ugly aur Pagli」(2008年)に続いてキュート&セクシーな魅力を存分に発揮しており、映画を支配していた。かなりギリギリのセクシー・シーンもあった。この2人の前では、ミスター・ヒングリッシュの異名を持つ名優ラーフル・ボースも、萎縮してしまっていた。

 音楽はアヌ・マリク、振付はサロージ・カーン。ネオ・ムガル様式とでも言うべきミュージカルがいくつかあり、ユニークな雰囲気を作り出していた。だが、楽曲自体にそれほど魅力はない。

 「Maan Gaye Mughall-e-Azam」は、決して笑えないコメディー映画ではないが、映画らしいスケールの大きさに欠けるため、コメディー映画としては二流の作品になってしまう。見て損はないが、わざわざ見逃しても損ではないだろう。パレーシュ・ラーワルやマッリカー・シェーラーワトのファンにのみオススメできる。

8月23日(土) インド、ボクシングで銅メダル

 メダル1枚取れれば御の字という五輪弱小国のはずだったインドだが、今回は運が良く、3つのメダルを勝ち取ることができた。2つのメダル(男子射撃10mエアライフル金メダルとレスリング男子66kg級フリースタイル銅メダル)については既に「これでインディア」で紹介した。3つめのメダルになったのは、男子ボクシング75kg級の銅メダルである。見事メダリストとなったのは、ハリヤーナー州ビワーニー近くのカールワース村出身、ヴィジェーンダル・クマール(22歳)である。


ヴィジェーンダル・クマール

 ヴィジェーンダルのメダルは既に、準々決勝で対戦相手を破った8月20日(水)の時点で確定していた。ちょうどレスリングのスシール・クマールが銅メダルを勝ち取った日と同じであり、インドは1日にメダル2枚という初の快挙に沸き上がった。だが、ヴィジェーンダルには金メダルを勝ち取る可能性も残されていたため、インド人は引き続きヴィジェーンダルが勝ち上がることを期待していた。準決勝は8月22日(金)に行われた。対戦相手はキューバのエミリオ・コリア・バヨックス。ボクシング界ではキューバの名だけでも畏敬に値するが、バヨックスはキューバの中でもトップのボクサーである。ヴィジェーンダルは健闘したものの、惜しくも判定で敗れ去った。だが彼は、インドには3つめのメダルを、インドのボクシング界には初のメダルを持ち帰ることになった。今回は銅メダルだったが、ヴィジェーンダルは次の五輪で必ず金メダルを勝ち取ることを誓った。

 ヴィジェーンダル・クマールの生い立ちはレスリング銅メダリストのスシール・クマールと酷似している。2人とも村の出身であるし、父親の職業は運転手である。ヴィジェーンダルの父親のマヒパールは、ハリヤーナー道路局の運転手をしている。21日付けのヒンドゥスターン紙によると、マヒパールは息子が準々決勝の試合を戦っているとき、試合を見ていなかったと言う。何をしていたかというと、村のシヴァ寺院で息子の勝利を願ってずっとお祈りをしていたらしい。ヴィジェーンダルとスシールの偉業の裏には、貧しくとも心から息子を応援する父親の姿が共通して存在している。

 Indo.toでOgata氏も書いていたが(参照)、今回の五輪でインド人ボクサーが活躍したことで一躍注目を集めることになったのが、ビワーニー・ボクシング・センターである。ビワーニーはハリヤーナー州ロータクの西にある都市だが、この地域は「ミニ・キューバ」の異名を持つほどボクシングが盛んであるらしい。そしてビワーニーのボクシングの中心地がビワーニー・ボクシング・センターである。今回の北京五輪では、ビワーニー・ボクシング・センターから4人の選手がインド代表として北京へ行っており、それを見るだけでもこのボクシング・センターがどれだけすごいか分かる。今まで男女併せて40人の国際的ボクサーを輩出しており、国際レベルでは150の、国内レベルでは300のメダルを勝ち取っている。

 それらの業績だけを見ると、どれだけ最新設備を備えたボクシング・ジムなのかと思ってしまうが、ビワーニー・セクター13の隅にあるこのジムの写真を見ると、さらに仰天する。


ビワーニー・ボクシング・センター

 玄関前の泥沼の道が見えるだけだが、それだけでこのジムがどのような状態にあるのか推測できる。センター内にリングは1つだけ、他にはサンドバッグは5つとウエイト・トレーニング用の器具数台のみ。屋根はトタン屋根で、扇風機すらないため、酷暑期にはサウナのような状態となる。しかも、ジム内には水道さえもない。よって、ボクサーたちの日課は水運びから始まる。ボクシングはハングリー精神のスポーツだと言われるが、このジムは正にそれを地で行っている。壁にはジムのモットーが書かれている――No Pain No Gain, No Guts No Glory(痛みがなければ何も得られない、ガッツがなければ栄光は得られない)!

 ビワーニー・ボクシング・センターのコーチ、ジャグディーシュ・スィンは、4人の五輪ボクサーを育てた功績により、国からドローナーチャーリヤ賞を受賞することになった。受賞はヴィジェーンダルが銅メダルを勝ち取る前に既に決定していたが、ジャグディーシュは、彼の弟子の1人がメダリストになったことで、堂々と賞を受けることができると誇らしげに語っている。今回、レスリングやボクシングで念願の五輪メダルが得られたことで、クリケット以外のスポーツ振興に腰が重かった政府も俄然やる気になっており、もしかしてこの北京五輪がインドのスポーツ界を一変させるきっかけとなるかもしれない。

8月24日(日) Mumbai Meri Jaan

 映画には、グランド・ホテル方式という手法がある。1932年のハリウッド映画「グランド・ホテル」で効果的に使用されたためにその名が付いている。グランド・ホテル方式では、共通の場所や事件を巡って複数の独立したストーリーが同時進行する。それぞれのストーリーや、その中に登場するキャラクターは、完全に独立していることもあれば、お互いに微妙に交錯したり影響を与え合ったりもする。最後にそれらのストーリーがまとまることもあれば、独立したエンディングを迎えることもあるが、巧みに構成することで、全体としてひとつの作品に仕上がる。この手法はインド映画でも多用される。グランド・ホテル方式を採用したボリウッド映画の中で近年もっとも完成度が高かったのは、「Life In A... Metro」(2007年)だが、それを凌駕する作品が登場した。8月22日より公開の「Mumbai Meri Jaan」である。2006年7月11日にムンバイーで発生し、200人以上の死者を出した同時爆破テロを主題にした、事実に基づくフィクション映画だ。



題名:Mumbai Meri Jaan
読み:ムンバイー・メーリー・ジャーン
意味:ムンバイー、私の愛する街
邦題:愛しのムンバイー

監督:ニシカーント・カーマト
制作:ロニー・スクリューワーラー
音楽:サミール・パテールペーカル
歌詞:ヨーゲーシュ、ヴィナーヤク・ジョーシー
出演:パレーシュ・ラーワル、イルファーン・カーン、マーダヴァン、ケー・ケー・メーナン、ソーハー・アリー・カーン、ヴィジャイ・マウリヤなど
備考:PVRナーラーイナーで鑑賞。満席。

パレーシュ・ラーワル、ソーハー・アリー・カーン、イルファーン・カーン
ケー・ケー・メーナン、マーダヴァン

あらすじ
 ムンバイー、2006年7月11日。まず、ムンバイー在住ながら様々な階層やコミュニティーに属する5人が紹介される。

 スレーシュ(ケー・ケー・メーナン)はコンピューターのセールスマンだが、実質的には失業者で、1万ルピーの借金を抱えながら無為な毎日を送っていた。彼はイスラーム教徒を毛嫌いしていた。

 ルーパーリー・ジョーシー(ソーハー・アリー・カーン)は大手ニュース番組の看板レポーターで、もうすぐ結婚予定だった。だが、フィアンセは、不幸な人間に無理矢理インタビューを迫るニュース番組のやり方に批判的であった。

 トーマス(イルファーン・カーン)はコーヒーを売って生計を立てる貧しいタミル人であった。ムンバイーの富裕層に対する言い知れない憤りを感じながらも、自転車でムンバイーを徘徊し、細々と暮らしていた。

 トゥカーラーム・パーティール(パレーシュ・ラーワル)は定年間近の老警察官であった。彼は今まで誰とも争わず、中道主義を貫いて来た。だが、彼の指導下にある若手警官スニール・カダム(ヴィジャイ・マウリヤ)は、事なかれ主義を取るトゥカーラームのやり方に疑問を感じていた。スニールは妻とハネムーンに行くため、休暇を申請していた。

 ニキル・アガルワール(マーダヴァン)はIT企業に勤めており、ある程度裕福な生活を送っていたが、環境保護のために自動車を買わず、列車で通勤していた。彼の妻は妊娠しており、もうすぐ出産予定だった。

 この日、ムンバイーの市内鉄道で1等車両のみを狙った連続爆破テロが発生する。7ヶ所で次々に列車が爆破された。

 ニキルは通常は1等車両で通勤していたが、その日はたまたま2等車両にいた。だが、1等車両にいた友人は、命は助かったものの、右手を失ってしまう。ニキルは家族にはテロに遭った列車に乗っていたことは黙っていたが、惨劇が脳裏から離れず、ノイローゼ気味になってしまう。列車に乗ることに恐怖を覚えるようになり、悪夢にうなされるようになる。ニキルは米国へ移住することを考え始める。

 スレーシュもテロの現場に居合わせる。彼はイスラーム教徒の犯行だと決め付け、行きつけの食堂によく来ているユースフという若者が犯人ではないかと考え始める。ユースフはテロの直後から行方不明であった。あるとき、街でユースフを見かけ尾行する。だが、彼はガールフレンドと一緒にデートをしているだけだった。

 ルーパーリーはテロ現場に駆けつけてレポートをしていたが、彼女のフィアンセがテロ直後から行方不明であることが分かり、病院を駆け巡る。やはりフィアンセはテロに巻き込まれて死んでいた。しかし、TV局はそれを特ダネと考え、ルーパーリーをインタビューし、報道する。かつて犠牲者のインタビューをしていたルーパーリーは、いざ自分がインタビューされる立場になり、初めてその気持ちを思い知る。

 トゥカーラームは、休暇がキャンセルになって憤るスニールをなだめながらパトロールをしていた。強い正義感と共に警察に入ったスニールは、警察のシステムの中にいても何もできないことを思い知り、自殺を図る。だが、勇気が出ずに自殺は失敗する。

 トーマスは、モールから追い出されたことを根に持っていた。トーマスは「爆弾を仕掛けた」という電話1本で人々を大混乱に陥らせることができることを知り、モールに悪戯電話をかけるようになる。だが、ある日、悪戯電話によってパニックになったモールで、心臓発作を起こした老人を目にし、罪悪感を感じる。

 トゥカーラームの警官最後の日が来た。以前、深夜の道ばたでイスラーム教徒の老人をいじめていた若者スレーシュを見かけ、パトロールカーに招いて話をする。トゥカーラームはスレーシュに、宗教間の対立や、復讐に次ぐ復讐が何も生み出さないことを穏やかな調子で説く。そのおかげでスレーシュの心に変化が訪れる。

 今までイスラーム教徒と仕事をしない方針を貫いて来たスレーシュであったが、それをやめて、イスラーム教徒の顧客とコンピューターの売買の話をする。まとまったお金が入ったスレーシュは、行きつけの食堂に行って、今まで付けていたお金を支払う。そのとき偶然ユースフと相席になる。話してみるとユースフはとてもいい人柄で、サーイーバーバーの信者でもあった。すぐにスレーシュとユースフは仲良くなる。

 トーマスは、心臓発作を起こした老人が入院した病院で、老人が退院するのを待つ。病院を出て来た老人にトーマスは1輪のバラの花を渡す。

 ニキルの妻が陣痛を訴えて病院へ運ばれた。ニキルはすぐに病院へ向かおうとするが、道路が渋滞していた。タクシー運転手は数時間はかかると言う。だが、病院は列車で行けばすぐに着く場所にあった。テロ以来、恐怖で列車に乗れなかったニキルだが、背に腹は代えられず、勇気を出して列車に乗り込む。

 そのとき、ムンバイーでは、テロの犠牲者のために2分間の黙祷が行われた。ムンバイー全域が静寂に包まれた。ニキルも列車の中で黙祷し、涙を流す。

 映画「C.I.D.」(1956年)の挿入歌で、ムハンマド・ラフィーとギーター・ダットが歌う名曲「Yeh Hai Bombay Meri Jaan」がエンディングで流れる。この曲の歌詞では、「全てが手に入るが、心だけは手に入らない都市、それがボンベイだ」と歌われる。だが、テロの犠牲者のためにムンバイーの全市民が2分間の黙祷を捧げるシーンでこの曲が流れることで、「ムンバイー市民に心がないことはない、むしろ心ある人々が住む都市なのだ」という主張が感じられた。

 よって、ムンバイー賛歌とも呼べる映画なのだが、そこで取り上げられていた問題は、ムンバイーのみならず、インド全体に共通する問題である。例えばルーパーリーが主人公のストーリーでは、犠牲者の傷ついた心に塩をすり込む報道関係者の残酷さが浮き彫りにされていた。インドにはニュース専門番組がいくつもあるが、彼らは視聴率至上主義に毒されており、事件をなるべく劇的に脚色して伝えようとする。その過程で、犠牲者の心情を全く無視した大袈裟で悪趣味な報道になってしまうことが多い。このマスコミ批判は、映画中もっとも鮮烈なメッセージとなっていた。

 スレーシュのストーリーでは、コミュナルな感情がどれだけの誤解を生み、しかも自分の人生をも台無しにしているかが描かれていた。トーマスのストーリーでは拡大する貧富の差が生む危険性が指摘されていたし、ニキルのストーリーではテロが目撃者に与える精神的ダメージの深さに光が当てられていた。トゥカーラームのストーリーでは、インドの警察の汚職やシステムの問題に触れながらも、頭ごなしにそれを批判したり、ラディカルな変革を求めるのではなく、「柔よく剛を制す」という知恵の大切さが全ての解決の鍵となりうることが暗示されており、もっともハートフルな展開となっていた。また、全体のストーリーをまとめる役割も担っていた。

 グランド・ホテル方式の映画は、それぞれのストーリーを面白くし、相互に関連を持たせて相乗効果や統一性を付加し、しかもそれを最後で映画的にまとめるのに多大な才能と試行錯誤を要するが、「Mumbai Meri Jaan」はそれらを巧みにこなしていた。特に老警官トゥカーラームと新人警官スニールのやりとりは、映画の最大の魅力となっていた。

 今ボリウッドでもっとも確かな演技力を持つ俳優が揃い踏みであった。コメディアンとして定評のあるパレーシュ・ラーワルは、今回は全くコメディー色を抑え、落ち着いた素晴らしい演技を見せていた。ケー・ケー・メーナンやイルファーン・カーンも高い演技力を持っている俳優で、今回もそれぞれ渋い演技をしていた。タミル映画界の名優マーダヴァンも良かった。唯一、ソーハー・アリー・カーンだけは、まだ地位を確立し切れていない俳優である。「Rang De Basanti」(2006年)の成功以来、いい作品に恵まれなかったが、この「Mumbai Meri Jaan」でシリアスな演技を披露する機会を与えられ、そつなくこなしていた。彼女は通常のヒロイン女優よりも、クロスオーバー映画系の女優になって行きそうだ。

 「Mumbai Meri Jaan」は、ボリウッドにおけるグランド・ホテル方式の完成形のひとつと言える。典型的な娯楽映画ではないが、とても心に響くいい映画である。テロのシーンなどではグロテスクな映像もあるが、それも映画のメッセージを強めるのに一役買っている。最近はテロを題材にした映画が多すぎて食傷気味になってしまうが、この映画は見て損はない。

8月26日(火) Urdu Hai Jiska Naam

 国立イスラーム大学(ジャーミヤー・ミリヤー・イスラーミヤー)のM.A.アンサーリー・オーディトリアムで、「Urdu Hai Jiska Naam(その名はウルドゥー語)」という映画が上映されるという情報をキャッチした。ウルドゥー語の歴史を4部構成、2時間でまとめた映像作品とのことで、是非見たくなり、大学のあるオークラーまで行って来た。

 題名の「Urdu Hai Jiska Naam」は、19世紀の詩人ダーグ・デヘルヴィーの以下の詩から取られており、ウルドゥー語を題材にした映画としては順当なものである。
اردو ہے جس کا نام ہمیں جانتے ہیں داغ
سارے جہاں میں دھوم ہماری زباں کی ہے


Urdū hai jis ka nām hamīn jānte hain Dāg
sāre jahān men dhūm hamārī zabān ki hai

我らが知る言語、その名がウルドゥーなり、ダーグよ
この世の隅々まで響き渡れり、我らの言語
 監督はスバーシュ・カプール、プロデューサーはカームナー・プラサード、原案と脚本はソハイル・ハーシュミー。詩人のガウハル・ラザーがナレーションを務め、俳優のトム・アルターがプレゼンテイターとして登場する。言語は英語とウルドゥー語の2言語で制作されたようだが、今回上映されたのはウルドゥー語の方であった。映画自体は既に2003年に完成していたようだが、プレミア上映が行われたのは2007年、インディア・インターナショナル・センター(IIC)にて。今回、ジャーミヤー・ミリヤー・イスラーミヤーでの上映はおそらく2回目ということになる。だが、IICでの上映のときは映画に関わった人々が多忙のため揃っていなかったらしいので、プレミア上映としての雰囲気は今回の方が出ていた。会場には、カームナー・プラサード、ソハイル・ハーシュミー、ガウハル・ラザー、トム・アルターなどが来ていた。

 「Urdu Hai Jiska Naam」は、NHKのドキュメンタリー番組のような作りで、ブッダの時代から遡って、ウルドゥー語がどのように生まれ、どのように発展して来たかが、映像と共に解説されていた。ただ、語られる内容は、教科書に載っているような、いかにも定説な事柄のみであり、新たな視点などはなかった。また、ヒンディー語とウルドゥー語の分化の問題、ウルドゥー語とパーキスターン建国の問題、独立後のインドにおけるウルドゥー語の問題など、ウルドゥー語の微妙な部分についてほとんど触れられていなかった。基本的に低予算の映画であるし、監督も映像には凝っていなかったので、見た目はとても安っぽくなってしまっていた。NHKのドキュメンタリー番組に比べると全くもって見劣りがしてしまう。それでも、言語の歴史について映画を作るという発想は斬新で、この流れは断ち切ってはならないと思った。ウルドゥー語入門者の教材としても有用だと感じた。

 ソハイル・ハーシュミーの話によると、この映画の一番の目的は、ウルドゥー語を外国語だとか、イスラーム教徒の言語だと考える人々に、ウルドゥー語の正しい歴史を教えることのようである。軍隊内や市場での共通語として、スーフィー聖者たちの説法の言語として、そして独立運動の原動力として、ウルドゥー語は生まれ、発展し、そしてインドに貢献して来たことが強調されており、その目的は果たされていると感じた。デリーやドーアーブ地方(ヤムナー河とガンガー河の間の地域)で生まれた言語が、いかにデカンで文学として成熟し、そしてデリーに逆輸入されて行ったかについても簡潔ながら的確に語られていた。詩だけでなく、小説、演劇、映画など、様々な分野においてウルドゥー語が重要な役割を担って来たことにも触れられており、著名な文学者の名前も列挙されていた。

 今回上映されたのはウルドゥー語版だが、かなり純粋なウルドゥー語が使用されていた。インド生まれの米国人俳優トム・アルターがプレゼンテイターを務めていたが、彼も非常に美しいウルドゥー語を話していた。トム・アルターは、米国人ながら舞台でマウラーナー・アーザードやミルザー・ガーリブの役を堂々と演じており、ウルドゥー語演劇界で一目置かれる「外国人」となっている。ただ、彼自身は自分のことをインド人だと考えているようだ。

 最後はやはり、ダーグ・デヘルヴィーの詩で閉められていた。会場にはウルドゥー語の学生が多いようで、この詩が詠まれるとかなり盛り上がっていた。



 ところで、ソハイル・ハーシュミーはインドにおけるウルドゥー語が直面する偏見についての危惧を表明していた。それと全く同じ論調の社説が、8月3日付けのサンデー・トリビューン紙に掲載されていた。筆者はマールカンデーイ・カートジュー、題名は「Injustice to Urdu in India(インドのウルドゥー語に対する不当な仕打ち)」である。カートジュー氏はインド最高裁判所の裁判官で、カシュミーリー・パンディトというインドでもっとも血統の高いコミュニティーに属する人である(ジャワーハルラール・ネルー元首相もカシュミーリー・パンディトである)。カシュミーリー・パンディトは、ヒンドゥー教徒ながら伝統的にペルシア語やウルドゥー語を使いこなして来たコミュニティーのひとつで、ウルドゥー語について一家言を持っていもおかしくない。ついでなので以下に全文を翻訳して転載する。

 インドでは、ウルドゥー語に対して全くもって不当な仕打ちが行われて来ている。ミール、ガーリブ、フィラーク、ファイズなど、近現代インドにおける最高の詩人たちを生み出し、インド文化の輝ける宝石とも言うべきこの偉大な言語は、今日では無視されるか、そうでなければほとんど疑念の目でもって見られている。これ以上の愚かなことがあろうか?

 ウルドゥー語に対するこの不当な仕打ちの原因は、2つの誤った考えにあり、それらは故意に喧伝された。その2つとは以下のものである。(1)ウルドゥー語は外国語である。(2)ウルドゥー語はイスラーム教徒のみの言語である。

 前者は明らかに間違っている。アラビア語とペルシア語は疑いもなく外国語であるが、ウルドゥー語は完全に土着の言語である。ウルドゥー語はここインドで軍隊と市場の言語として生まれた。そしてその簡易形(カリー・ボーリーまたはヒンドゥスターニー語)が、インドの大部分の都市に住む庶民の言葉である。

 ウルドゥー語の著名な文学者は皆インドに住み、インドの庶民の問題を扱い、彼らの悲しみに同情し、人間の琴線に触れながら、我々の文化に多大な貢献をして来た。ウルドゥー語を外国語と呼べるのは無学な人のみである。

 ウルドゥー語がイスラーム教徒のみの言語であるという後者の考えも間違いである。インドでは実際のところ、前世代までウルドゥー語は、インドの大部分の都市において、ヒンドゥー教徒であれ、イスラーム教徒であれ、スィク教徒であれ、キリスト教徒であれ、全ての教養人の言語であった。

 私の考えでは、自国の文化遺産を見過ごすような国が発展することはない。そして私はここではっきりと明言するが、私はカシュミーリー・パンディトのみを私の祖先とは考えていない。カーリダーサも、アミール・クスローも、アショーカもアクバルも、スールもトゥルスィーも、ミールもガーリブも、私の祖先だと考えている。真の祖先は文化的な祖先であり、単なる血統上の祖先ではない。

 ウルドゥー語はインドの13州で話されており、国民的に支持されて来ている。ウルドゥー語は、ヒンドゥスターニー語(カリー・ボーリー)の基盤の上にペルシア語の特徴や語彙が重ねられて形成された言語である。よって、ウルドゥー語は、ペルシア語とヒンドゥスターニー語という2つの言語のコンビネーションによって創造された言語と言える。それゆえに、かつてこの言語は、「ハイブリッド」を意味する「レークター」という名称で呼ばれた。

 ウルドゥー語はペルシア語とヒンドゥスターニー語のコンビネーションによって生まれたため、ウルドゥー語はペルシア語の特殊形なのか、ヒンドゥスターニー語の特殊形なのか、という疑問が浮かぶ。その答えは、ヒンドゥスターニー語の特殊形であり、ペルシア語の特殊形ではない。

 私がそれを強調するのは、ウルドゥー語がペルシア語の特殊形だとすると、外国語ということになってしまうからである。カリー・ボーリー(ヒンドゥスターニー語)の特殊形だという事実を示すことで、それが土着の言語だということが明らかになる。

 カリー・ボーリーは、多くの作家や演説者によって使用される文学的ヒンディー語に比べ、簡易で、口語的なヒンディー語である。カリー・ボーリーは都市の言語である。

 カリー・ボーリーは、いわゆるヒンディー・ベルト(ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、ラージャスターン州、マディヤ・プラデーシュ州、デリー、ハリヤーナー州、ヒマーチャル・プラデーシュ州など)の都市に住む一般庶民の第一言語であり、インドのみならずパーキスターンを含む、非ヒンディー・ベルトの大部分における第二言語である。

 数世紀に渡ってペルシア語はインドの宮廷語だった。なぜならペルシア語はペルシアにおいて、フィルダウスィー、ハーフィズ、サアディー、ルーミー、ウマル・ハイヤームなどの文学者たちの活躍により、文化と気品と教養の言語として高度に発展した言語であり、オリエンタル世界の大部分に広まっていたからである。

 ムガル皇帝は、ペルシア人ではなくトルコ人であった。彼らの母語はトルコ語であったが、ペルシア語はトルコ語よりも発展していたため、彼らは宮廷語としてペルシア語を採用した。

 よって、バーバルは自伝「トズケ・バーブリー」をトルコ語で書いたが、孫のアクバルはそれをペルシア語に翻訳し、「バーバルナーマ」と呼んだ。

 アクバルの伝記「アクバルナーマ」はアブル・ファズルによってペルシア語で書かれたし、息子のジャハーンギールの自伝「ジャハーンギールナーマ」も、その息子のシャージャハーンの伝記「シャージャハーンナーマ」も、ペルシア語で書かれた。

 ペルシア語は数世紀に渡ってインドの宮廷語であり、都市部の共通語、つまり前述のカリー・ボーリーに影響を与えた。

 では、どのようにウルドゥー語が創造されたのか?この興味深い質問に答える努力をしよう。

 後期のムガル朝皇帝は名ばかりの皇帝に過ぎなかった。彼らは、英国人やマラーター、それに独立した地方太守(アワドのナワーブやハイダラーバードのニザームなど)などに帝国の領土を奪われ、経済的に困窮していた。彼らの治世に、宮廷語は徐々にペルシア語からウルドゥー語になって行った。

 なぜ偉大なムガル皇帝たちの治世にペルシア語だった宮廷語が、後期のムガル皇帝の治世にウルドゥー語になったのか?なぜなら後期のムガル皇帝は本当の意味での皇帝ではなく、むしろ庶民と同じ困難に直面する庶民に近い存在または単なる貧乏人になってしまったからである。よって、彼らは庶民に近い言語に頼るしかなかった。

 では、なぜ宮廷語は、都市部の庶民の言語であるカリー・ボーリーにならなかったのか?なぜなら後期のムガル皇帝や、ナワーブやワズィールなどの貴族たちは、貧困に陥りながらも自らの威厳、文化、自尊心を維持していたからである。彼らは依然としてティームール(バーバルの遠い祖先)の子孫であることや、偉大なムガル皇帝たちの末裔であることに誇りを持っていた。

 ウルドゥー語の偉大な詩人ガーリブの有名な逸話がある。彼は、経済的に大いに困窮していながらも、職場で誰も迎えに来なかったという理由だけで、就職を断った。

 ウルドゥー語の内容、つまり、その中で表現される感情や考えは庶民のものであるが、表現の形式は貴族的である。言い換えれば、ウルドゥー語は庶民の困難、悲しみ、不安、希望、願望を表現するが、そのスタイルは庶民のものではなく、貴族のものである。

 例えば、ガーリブは詩の表現形式が凡庸になることを恐れていた。彼は自分を貴族と考えており、大衆との差別化を強く求めていた。よって、彼の詩は、オリジナリティーと自由さで際立っている。

 ガーリブは、詩の言語は口語と同じであってはならないという確固たる信念を持っていた。よって、彼はしばしば自身の考えを、直接的ではなく、暗示や示唆によって間接的に表現した。

 他のウルドゥー語詩人についても同じことが言える。彼らは、自分を凡人ではなく、教養人かつエリートであると見せるため、しばしば自身の考えや感情を、簡易で直接的な言語ではなく、直喩や隠喩などの比喩や、遠回しな言い方によって表現した。しかし、そのせいで彼らの作品は時々理解が困難であり(偉大なウルドゥー語文学批評家・伝記作家のハーリーは、ガーリブの詩の3分の1は難解すぎてウルドゥー語とは認められないとしている)、複数の意味に取れることもある。

 インドに強力なムガル皇帝が君臨していた間はペルシア語が宮廷語であり、ウルドゥー語は決して高い地位を得られず、北インドの宮廷語にはなれなかった。だが、その代わり南インドやグジャラートでは、ウルドゥー語はエリート語として保護された。

 そういう意味では、ウルドゥー語は南インドに起源を持つと言える。偉大なムガル皇帝の治世にウルドゥー語は、ゴールコンダ、ビージャープル、アハマドナガルなどの南インド諸王朝で宮廷語として奨励され、普及した。

 つまり、興味深いことに、ウルドゥー語は偉大なムガル皇帝の治世の間、南インドやグジャラートで宮廷語となったが、強力なムガル皇帝がいる間、北インドではペルシア語に取って代わることはできなかった。

 1707年にアウラングゼーブが死去し、後期ムガル皇帝の時代になって初めて、ペルシア語は徐々に宮廷語としての地位をウルドゥー語に譲るようになる。だが、その過程は不承不承としたものだった。ガーリブはペルシア語の詩作を好み、自身のウルドゥー語の詩を見下していたが(もっとも、ガーリブの偉大さは完全に後者に依っている)、これはその一例である。

 ガーリブは、友人のムンシー・シヴナーラーイン・アーラムに送った手紙の中で、「友よ、どうしてウルドゥー語で書くことができようか?私はそのようなことを期待されるほど落ちぶれてしまったのか?」と書いている。ウルドゥー語で書くことは自分の品格を下げる行為であり、当時の著名な作家は皆ペルシア語で著作していた。

 1947年まで、ウルドゥー語は宮廷語であり、インドの大部分の教養人の言語であった。同時に、その二重性のため、都市部ではカリー・ボーリーのように庶民の言語でもあった。

 ウルドゥー語は、インドの多くの都市における庶民の言語であったため、全ての言語から語彙を借用した。他の言語の語彙を拒否することはなかった。ウルドゥー語は庶民の言語であったため、庶民に愛され、今日でも愛され続けている。

 今日でもヒンディー語映画の歌はウルドゥー語である。多くの人々がそれを抑制しようとしているが、心の声は自分の言語によってのみ表現できる。

 駅の売店で売れ筋の本は、ガーリブ、ミール、ファイズ、ジョーシュ、フィラーク、ハーリー、ダーグ、マジャーズ、ザウクなどの作品であり(今日ではデーヴナーグリー文字で書かれている)、ヒンディー語の詩人の作品ではない。

 プレームチャンド、キシャン・チャンド、ラージンダル・スィン・ベーディー、ゴーピー・チャンド、マリク・ラームなど、ウルドゥー語のバックグラウンドを持つヒンディー語の作家は、ヒンディー語の文壇でも大いに受け入れられている。

 ウルドゥー語は、人々の間で育った言語であるため、インドの人々から愛されている。ウルドゥー語文学は反抗の文学である。庶民が抱える苦悩に対する反抗、不正に対する反抗の文学である。

 ウルドゥー語の詩は、儀式主義、形式主義、抑圧的または時代遅れの社会慣習に対して反抗して来た(その意味では、ウルドゥー語の詩はカビールの詩の後継者だと言える。もっとも、ウルドゥー語の詩の方がさらに洗練されているが)。

 現代インドにおける庶民の言語であるため、ウルドゥー語はほぼ完全にセキュラー(世俗主義的)である。例外は、イクバールの後期の詩である。彼は後期に、ナショナリズムから汎イスラーム主義に転向した。

 ウルドゥー語文学はスーフィーの影響も受けている。スーフィーはイスラーム教徒の中でもリベラル派で、偏屈ではなかった。彼らは普遍の愛のメッセージを、宗教やカーストなどの区別なく全人類に広めた。

 ウルドゥー語詩人の中には、ミールやナズィールのように、ホーリー、ディーワーリー、ラーキーや他のヒンドゥー教の祭祀習慣について美しい詩を書いた者もいる。それは、ウルドゥー語が特定の宗教の言語ではなかったことを示している。フィラーク、チャクバスト、ラタン・ラール・サルシャールなど、多くのヒンドゥー教徒がウルドゥー語文学界に名を残した。ワリーの詩には、ガンガー、ジャムナー、クリシュナ、ラーム、サラスワティー、スィーター、ラクシュミーなどの言葉が頻繁に登場する。

 ウルドゥー語は、1947年の印パ分離独立によって最大のダメージを受けた。そのとき以来、ウルドゥー語はインドにおいて、外国語として、そしてイスラーム教徒のみの言語としてレッテルを貼られるようになった。イスラーム教徒ですら、「愛国心」やヒンドゥー教徒の仲間との連帯感を示すため、ウルドゥー語の学習を放棄するほどまでになった。

 カリー・ボーリーで慣用されていたペルシア語の語彙を憎しみと共に取り除き、一般的ではないサンスクリット語の語彙に置き換える政策は、不必要にサンスクリット語化されたヒンディー語を生み出すことになった。そしてそれはしばしば庶民には理解できない難解な言語になった。インドの法廷の公示に使用されるヒンディー語は難しすぎて理解できないことが多い。また、ペルシア語の語彙を忌避する政策は、ほぼウルドゥー語の抹殺を意味した。

 しかしながら、これらの敵対的な努力にも関わらず、心の声を表現する言語は、人々が心を持つ限り根絶されることはない。ウルドゥー語が今日でもインド人の心に住んでいるという証拠に、驚くほど多くの人々がムシャーイラーに参加する。それらの人々は、社会のあらゆる階層に属しており、北から南まで、東から西まで、インドの全ての地域の出身者で形成されている。もしウルドゥー語が外国語であったら、インドの人々がウルドゥー語をここまで愛する理由は説明できない。

 ウルドゥー語がイスラーム教徒の言語であるという誤解と同様に、サンスクリット語がヒンドゥー教の言語であるという誤解についても言及しておきたい。

 実はサンスクリット語は無神論者の言語である。サンスクリット語哲学の守備範囲は、深遠なる宗教から完全なる無神論まで、驚くほど広い。

 偉大なヒンディー語作家ラーフル・サーンクリティヤーヤンはかつて、「サンスクリット語を学ぶまでは神を信じていたが、学んだ後は無神論者になった」と述べた。

 アーリヤバタ、スシュルタ、チャラクなど、古代インドの偉大な科学者は皆、サンスクリット語で著作した。哲学者、文法学者、劇作家、詩人なども同様である。

 ウルドゥー語を蘇らせようと願っている人々に私は真摯にアピールしたいが、どうかウルドゥー語を独歩させず、サンスクリット語とリンクさせて欲しい。そうすることで、ウルドゥー語はコミュナルな言語としてレッテル貼りされなくなるだろう。

 さらに、プラカーシュ・パンディトがやっているように、デーヴナーグリー文字でもウルドゥー語詩人の作品を出版すべきだと主張したい。なぜなら、それによってペルシア文字を知らない人も読むことができるようになるからだ。私は、文字に固執するべきでないと考えている。

 左のページにペルシア文字で、右のページにデーヴナーグリー文字で印刷し、難解な単語については簡易なヒンディー語(ヒンドゥスターニー語)で解説を添える形はどうだろうか?

 最後に、ウルドゥー語やヒンディー語の作家に、簡易な言語を使用するようにお願いしたい。ヒンディー語やウルドゥー語の作品を読んでいると、しばしば難しすぎて理解できないことがある。

 もし書かれたものが理解できないような代物なら、そのような文学が何の役に立とうか?今日、インドの人々は、貧困、失業、インフレなど、深刻な問題に直面している。

 文学は、人々がそれらの問題に立ち向かう後押しにならなければならない。そのためには、戦時中のウィンストン・チャーチルのスピーチや、プレームチャンドやサラトチャンドラの作品のように、人々が理解できるようなシンプルな言語を使って書かれなければならない。

 日本ではまだヒンディー語のことをヒンドゥー語とかヒンズー語と呼ぶ人が多いので、そういう人たちにヒンディー語やウルドゥー語の成り立ちや、両言語の微妙な関係を理解してもらうのは大変なことなのだが、映画「Urdu Hai Jiska Naam」やカートジュー氏の論考でウルドゥー語のことがうまくまとめられていたので、ここでもう一度ウルドゥー語を中心に簡潔におさらいしておこうと思う。

 まず、ウルドゥー語はインドにとって外国語ではない、という点について。現在ウルドゥー語はパーキスターンの国語になっている。政府が積極的にウルドゥー語教育を推進しているおかげで、ウルドゥー語話者人口は全人口の75%以上になってるが、ウルドゥー語を母語(第一言語)とする人の数は全体の7~8%に過ぎない。よって、ウルドゥー語はパーキスターンの国語ではあるが、パーキスターンの言語ではない。むしろ、ウルドゥー語揺籃の地となったのは、現在インド共和国となっている地域である。ウルドゥー語の基盤となったのはデリーとその周辺の地域で話されていた言語であり、ウルドゥー語文学が最初に花開いたのはデカンであり、ウルドゥー語文学が最高潮に達したのはデリーやラクナウーである。また、ウルドゥー語は独立インドの州公用語(憲法第8附則言語)のひとつになっており、ジャンムー&カシュミール州で州の第一公用語に、デリー、ウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州、ビハール州、アーンドラ・プラデーシュ州で第二公用語に規定されている。よって、ウルドゥー語を外国語と呼ぶのは完全なる間違いである。

 次に、ウルドゥー語はイスラーム教徒のみの言語ではない、という点について。これに関しては注意深く論を進めていく必要がある。デリーが本当の意味でインドの首都としての地位を確立したのがイスラーム教政権がデリーに樹立してからであるのと同様に、デリーの言語がインド亜大陸の共通語としての地位を確立し始めるのもイスラーム教政権樹立後のことになる。首都の言語が国家の標準語となるのは自然な現象である。デリーの王朝の軍隊が遠くまで派遣され、領土が拡大するにつれ、デリーの言語もインド亜大陸の隅々にまで浸透していった。また、軍隊だけでなく、スーフィー(イスラーム教神秘主義者)たちも活動の場を亜大陸中に広げて行った。彼らが説法の言語としたのはデリーの言語であり、スーフィズムの広がりにつれてデリーの言語も広がって行った。よって、デリーの言語の普及にイスラーム教徒たちが果たした役割は甚大である。当時デリーの王朝の公用語はペルシア語であり、デリーの言語にはペルシア語の語彙が大量に流れ込んだ。ペルシア語にはアラビア語からの借用語も多かったため、ペルシア語を通じて、デリーの言語にアラビア語の語彙も定着した。また、その言語はペルシア文字で書かれることが多かった。当時、インドでは、イスラーム教の言語はアラビア語、文化と教養の言語はペルシア語と考えられていた。ペルシアの文化は言うまでもなくイスラームの文化であった。それらの語彙を取り込んだ言語に、イスラーム文化の影響が色濃くなることは自然なことであった。よって、ウルドゥー語はイスラーム教と全く無関係だとは言えない。だが、イスラーム教徒のみの言語だとする考えは、やはり間違いである。

 ヒンディー語、ウルドゥー語、またはそれらに類する言語名は複数あって非常に複雑で、「Urdu Hai Jiska Naam」やカートジュー氏の論考でも多少の混乱が見られた。以下、「ウルドゥー語」についてのみ補足をしておきたい。

 ペルシア語の特徴や語彙を取り込んだデリーの言語がウルドゥー語と呼ばれるようになったのは、早くとも18世紀末、実際には19世紀に入ってからである。「ウルドゥー」とはトルコ語で「軍営」「テント」という意味である。ムガル人は元々定住性の薄い遊牧民であり、インドにムガル朝を興してからも、移動しながらのテント生活を好んでいた。彼らに「首都」という概念は希薄で、皇帝の滞在するテントがそのまま宮廷であり、首都であった。皇帝のテントが移動することで、大臣、軍隊、ハーレムから、彼らに物資を供給して生計を立てる商人まで、つまり皇族から庶民まで全てが移動した。その中で、デリーの言語をベースに、インドの様々な言語とペルシア語が混ざり合った言語が形成されて行った。もちろん、防衛拠点として城壁で囲まれた城塞はいくつも建設され、固定の宮殿も建てられたが、ムガル人にとってそれらの建築物は首都を意味しなかった。たとえ野原であれ、戦場であれ、皇帝のいる「ウルドゥー」が首都の中心であった。当然、城塞の中に皇帝がいれば、そこがそのまま「ウルドゥー」であった。宮廷で皇族や貴族によって話されていた言語は昔から「ウルドゥーの言語」と呼ばれていた。だが、ペルシア語が公用語であった時代は、「ウルドゥーの言語」はペルシア語を指すことが多かった。ムガル皇帝の権力が失墜し、ペルシア語をインドの公用語として押しつけることが不可能になり、帝国の領土がデリー界隈にまで限定されてしまった18世紀、「ウルドゥー」はそのままデリーを意味するようになり、やがてデリーの言語、特にラール・キラー内で話される言語がウルドゥー語と呼ばれるようになった。そして、広い意味では、「ウルドゥー」における軍隊や市場で発達し、インド中に広まった庶民の共通語もウルドゥー語の一種とされた。よって、18世紀以前の文脈でウルドゥー語という言葉を使うのは本当は間違っている。非常にややこしいのだが、ウルドゥー語という名称が一般化されるまで、「ウルドゥー」で話されていた庶民の共通語は「ヒンディー語」と呼ばれていた。

 実は先日、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)で、「ヒンディー語の未来、未来のヒンディー語(हिन्दी का भविष्य - भविष्य की हिन्दी)」と題したセミナーが2日間に渡って開催された。そして今日は映画上映後の質疑応答時間に「現在インドのウルドゥー語が抱える問題」についてちょっとした議論が交わされた。ヒンディー語もウルドゥー語も、「これからどうなって行くのか?」ということに漠然とした不安を感じているようで、このような議論が行われると必ず、「ヒンディー語は世界最大の話者人口を持つ言語だ」「ヒンディー語を一刻も早く国連の公用語にすべきだ」「ウルドゥー語を愛する人々がいる限り、ウルドゥー語は安泰だ」「政府はヒンディー語/ウルドゥー語の支援をもっと積極的に行わなければならない」みたいな意見が出て来て、最後は勇ましくも中身のないスローガンと共に終了する。

 ヒンディー語もウルドゥー語も、実際に直面している敵は共通している。それは英語である。この状況は、ヒンディー語とウルドゥー語の分化が始まった19世紀からほとんど変わっていない。しかし残念なことにヒンディー語とウルドゥー語が手を取り合うような状況は望めそうにない。ヒンディー語関係者がウルドゥー語を一方的に馬鹿にし、ウルドゥー語関係者がヒンディー語に冷笑を浴びせかけるところを何度も見て来ており、両者の間の溝は深刻なまでに深いと感じざるをえない。個人的に、インドにおいてヒンディー語は結局生き残って行くと思っているが、ウルドゥー語はどうなるか分からない。カートジュー氏の論考では、これらの言語の最大の特徴であるハイブリッド性について焦点が当てられていたが、言語の生存と発展の源はこのハイブリッド性にあると思う。ペルシア語が公用語だった時代、ウルドゥー語または後にウルドゥー語と呼ばれるようになった言語は、ペルシア語の語彙や文化を積極的に取り込んで自らの力を増した。1837年に英国東インド会社が公用語をペルシア語から英語に変更してからも、ウルドゥー語は英語の単語を積極的に血肉にしていた。ウルドゥー語は、過去の遺産に過ぎないサンスクリット語を語彙の源泉として人工的に作られたヒンディー語より、よっぽどダイナミックな言語であった。独立後もヒンディー語は同じ失敗を続けたため、連邦公用語としての地位は獲得したものの、本当の意味での公用語にはなりえなかった。

 だが、最近はヒンディー語の方がハイブリッド性を持っており、自由にいろいろな語彙を取り込んでいるように見える。政府の積極的な後援は相変わらず得られていないが、テレビやインターネットの普及、経済成長、教育の向上などが、ヒンディー語にいい影響を与えている。金が物を言う商業主義の時代において、インドではヒンディー語のみが金になることが明確になった。英語ではビジネスが成り立たないのである。例えば英語のTV番組にはスポンサーは付かない。ヒンディー語のTV番組のみが一人勝ち状態なのである。おかげで、いわゆるシュッド・ヒンディー(極度にサンスクリット語化されたヒンディー語)はヒンディー語の暗黒の歴史として葬り去られつつあり、代わって新しいヒンディー語が生まれつつある。ウルドゥー語がもしウルドゥー語としてのアイデンティティーに固執し、図書館や博物館に安住の地を求める古典語としての道を選ぶのなら今のままでいいが、もしこれからも生きた言語として発展を望むならば、ペルシア語やペルシア文字へのこだわりを捨てて、ヒンディー語に再び同化する道を模索すべきではないかと思う。

 カートジュー氏は、デーヴナーグリー文字とペルシア文字を併記して出版する方式を提案していた。それが果たしてどれだけ成功するか分からないが、コンピューターの技術が進んだ現代なら、デーヴナーグリー文字とペルシア文字、つまりヒンディー語とウルドゥー語を相互に変換(必要あらば翻訳)するソフトウェアぐらい簡単に開発できるのではないかと思う。そうなった場合、文字や語彙の相違はあまり意味を持たなくなり、ヒンディー語とウルドゥー語の問題も解決に向かいやすくなるのではなかろうか?

8月28日(木) Phoonk

 ビパーシャー・バスの人気を決定付けたホラー映画「Raaz」(2002年)のヒット以来、ボリウッドでは盛んにホラー映画が作られるようになった。残念ながらインドのホラー映画はまだ未熟で、日本のホラー映画のような精神的な怖さはない。映像と音響で観客を無理矢理怖がらせる類の原始的なものである。だが、ホラー映画をホラー映画として評価したらインドでは失敗するし、正確な評論もできない。インド人は愉快なことに、ホラー映画をコメディー映画として見ているのである。それはインドの映画館でホラー映画を見なければ理解できないだろう。そういう観点でインドのホラー映画を見ると、なるほどなかなかよく出来たコメディー映画に見えて来る。特にラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督がこのジャンルにこだわりを見せており、現在公開中の「Phoonk」も、ヴァルマー監督らしいホラー映画に仕上がっていた。



題名:Phoonk
読み:プーンク
意味:呪文
邦題:黒魔術

監督:ラーム・ゴーパール・ヴァルマー
制作:アーザム・カーン
音楽:アマル・モーヒレー
衣装:ナーヒド・シャー
出演:スディープ、アムルター・カーンヴィルカル、エヘサース・チャンナー、シュレーイ・バーワー、ジョーティー・スバーシュ、アシュヴィニー・カルセーカル、ケニー・デーサーイー、ガネーシュ・ヤーダヴ、リレット・ドゥベー、KKラーイナー、ザーキル・フサインなど
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左上から時計回りに、スディープ、エヘサース・チャンナー、
アムルター・カーンヴィルカル、ジョーティー・スバーシュ、
シュレーイ・バーワー、アシュヴィニー・カルセーカル

あらすじ
 建設エンジニアのラージーヴ(スディープ)は、迷信を全く信じない無神論者であった。建設現場からガネーシュ神の姿をした石が発掘され、労働者たちが寺院を建てたいと申し出るが、ラージーヴはそれを認めなかった。ラージーヴは、妻のアールティー(アムルター・カーンヴィルカル)、10才の娘ラクシャー(エヘサース・チャンナー)、8才の息子ローハン(シュレーイ・バーワー)、母親(ジョーティー・スバーシュ)と共に暮らしていた。

 ラージーヴは、マドゥ(アシュヴィニー・カルセーカル)とアンシュマン(ケニー・デーサーイー)をアシスタントとして使っていたが、ある日2人の不正が発覚する。ラージーヴは怒って公衆の面前で2人を罵倒し、会社から追放する。

 その頃からラージーヴの身の回りでおかしな出来事が起こるようになる。家の庭に骨とライムが置かれていたり、マドゥとアンシュマンの後継者として採用したエンジニアが事故で死んだりした。特にラクシャーの様子がおかしくなった。急にどこかへ行ってしまったり、テスト中に男の声で笑い出して気を失ったりした。母親は黒魔術だと言うが、ラージーヴはそんな迷信を信じず、医者に診せる。Dr.パーンデーイ(KKラーイナー)は特に異常なしと診断するが、その後、両親の目の前でラクシャーは男の声でしゃべり、暴れ出す。精神科医のDr.スィーナー・ワールケー(リレット・ドゥベー)が呼ばれ、彼女は統合失調症だと診断する。

 しかし、ラクシャーの様子はおかしくなるばかりだった。再び彼女は男の声でしゃべり出し、しかも宙に浮き始める。ラージーヴはラクシャーを急いで入院させるものの、遂に黒魔術だと認めざるをえなくなり、部下の勧めに従って、呪術師マンジャー(ザーキル・フサイン)に相談に行く。マンジャーは、ラクシャーを見た途端、黒魔術だと判断し、ラージーヴの家へ行く。そこで、黒魔術が行われた跡を明確に察知し、1人の男と1人の女が黒魔術を行い、1人の男が手助けしていると伝える。手助けしていたのは、ラージーヴの運転手であった。また、黒魔術を行っていたのは明らかにマドゥとアンシュマンであった。

 ラージーヴはマドゥとアンシュマンの家へ直行する。そこではマドゥがラクシャーに黒魔術をかけており、最後の一撃を喰らわそうとしているところだった。ラージーヴはそれを止めるが、マドゥは魔力で持ってラージーヴを殺そうとする。だが、マンジャーの力によってマドゥは殺される。

 その後、ラージーヴが病院に駆けつけると、ラクシャーは正気に戻っていた。

 大袈裟な演出、効果的過ぎる効果音、アップを多用した凝ったカメラ・アングル、ストーリー上全く不必要なホラー・シーンなどなど満載の、正真正銘ヴァルマー印ホラー映画。これはもはや独立したジャンルと考えてもいいだろう。ヴァルマー監督は我々に、「恐怖を笑う」という新たな楽しみを与えてくれている。

 もし、鳥肌が立つような恐怖を求めるならば、「Phoonk」はオススメできない。だが、日本人には多少興味深いシーンもある。なぜなら、日本の呪術――丑の刻参りや藁人形など――とよく似た方法でインドでも黒魔術が行われていることが分かるからだ。

 しかし、この映画でひとつだけ心の残ったポイントがあった。それは、迷信は自分の目で見るまでしか迷信でいられないこと、そして、迷信が迷信でないと知った者は、他人にそれを簡単に教えないことである。主人公のラージーヴは、神様、悪魔、黒魔術など全く信じていなかった。だが、娘の状態が変になり、それが解雇した部下たちによる黒魔術だと判明した後、彼は迷信を信じるようになる。ラージーヴは黒魔術をかけた張本人と戦い、何とか娘を救う。だが、そのとき病院に入院していた娘は、精神科医によって治療を受けていた。黒魔術師との戦いの後に病院を訪れたラージーヴは、娘が回復しているのを見てホッとする。娘と一緒にいた妻は、精神科医が娘を救ってくれたと信じ、それを夫に言う。ラージーヴは一瞬反論しようとするが、それを抑え、妻の言葉に相槌を打つ。このように、迷信は実際にそれを見た者の心の中でのみ真実として生き続けるのである。その主張こそが、ヴァルマー監督が観客の心に「恐怖」として植え付けたかった真の要素であろう。我々は、いつ迷信が実は迷信でないと気付くことになるか、分からない。それは突然やって来るかもしれない。

 出演していた俳優はほとんど無名の人々ばかりである。ヴァルマー監督は、作品を完全に自己のコントロールに置くため、好んで無名の新人を起用する。有名スターだと自我が強いためにコントロールが難しいのである。今回はそれが功を奏していた。ちなみに、主演のスディープはカンナダ映画の俳優で、妻役のアムルター・カーンヴィルカルはマラーティー語演劇界の女優である。どちらもヒンディー語映画界では全く知られていない。

 「Phoonk」は、インド版の黒魔術映画であり、オカルトに興味のある人にとっては面白いだろう。ホラー映画として見るとがっかりするが、新手のコメディー映画として見れば、非常に楽しめる。

8月29日(金) Rock On!!

 ボリウッド映画音楽ほど普及はしていないが、インドにもロック文化があり、ロックバンドがあり、地域ごとに特色のあるロック音楽を創造している。ロック文化がもっとも盛んなのは西ベンガル州の州都コールカーターだが、デリー発のバンドでも、パリクラマーやインディアン・オーシャンのように全国的に有名なバンドがある。

 「Dil Chahta Hai」(2001年)や「Don」(2006年)の監督として有名なファルハーン・アクタルは、実は相当なロック好きのようで、今度はロックを題材にした映画をプロデュースした。それだけではない。彼は映画の主演を務め、しかも歌まで歌ってマルチタレント振りを披露している。題名はズバリ「Rock On!!」。今年の期待作の1本である。



題名:Rock On!!
読み:ロック・オン!!
意味:ロック・オン!!
邦題:ロック・オン!!

監督:アビシェーク・カプール
制作:リテーシュ・スィドワーニー、ファルハーン・アクタル
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:レモ
衣装:ニハーリカー・カーン
出演:ファルハーン・アクタル(新人)、プラーチー・デーサーイー(新人)、アルジュン・ラームパール、プーラブ・コーリー、ルーク・ケニー、コーエル・プリー、シャーハーナー・ゴースワーミー、ニコレット・バード
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左上から時計回りに、ファルハーン・アクタル、アルジュン・ラームパール、
ルーク・ケニー、プーラブ・コーリー

あらすじ
 アーディティヤ・シュロフ(ファルハーン・アクタル)は投資銀行の管理職で、金銭的には何不自由ない生活をしていた。しかし、妻のサークシー(プラーチー・デーサーイー)は、アーディティヤが常に人生に満足していないと感じていた。夫婦仲もいいとは言えなかった。だが、サークシーは妊娠していることを知り、夫の誕生日にサプライズ・パーティーを開いて、そこで妊娠のことを伝えようと計画する。

 誕生日プレゼントを友人のデーヴィカー(コーエル・プリー)と買っているとき、サークシーは偶然夫の旧友ケーダール・ザーヴェーリー、通称KD(プーラブ・コーリー)と出会う。だが、帰宅した夫にKDのことを聞いても、アーディティヤは「知らない」と答えるだけだった。だが、サークシーは倉庫を掃除しているときに夫の昔の写真を見つけ、アーディティヤがかつてKDらとバンドをしていたことを知る。サークシーは、サプライズ・パーティーにバンド仲間を招くことを思い付く。

 サークシーに頼まれたKDは、かつてのバンド仲間と久し振りに連絡を取る。キーボードのロブ・ナンシー(ルーク・ケニー)は二つ返事でパーティーへの出席を承諾するが、ギタリストのジョー・マスカレナス(アルジュン・ラームパール)は違った。ジョーはアーディティヤに会うのをためらっており、妻のデビー(シャーハーナー・ゴースワーミー)はKDとロブを歓待しなかった。だが、ジョーとデビーの息子のアンディーは、彼らのバンド「マジック」の大ファンであった。

 マジックは、10年前にアーディティヤ、ジョー、KD、ロブの4人で始めたロックバンドだった。アーディティヤがメインボーカルを務め、ジョーがギター、KDがドラム、ロブがキーボードであった。4人は音楽に人生を賭けており、メジャーデビューを夢見ていた。マジックはコンペティションで優勝し、アルバムを出すチャンスを与えられるが、音楽会社が彼らの音楽に介入し、それがアーディティヤとジョーの間に亀裂を生んだ。やがてジョーが乱闘を起こしてバンドを飛び出してしまった。それ以来、マジックは解散し、4人は別々の人生を歩むことになったのだった。

 サプライズ・パーティーにジョーは来なかったが、KDとロブは出席し、アーディティヤと久し振りに会う。だが、アーディティヤは2人との再会を楽しんでいなかった。彼にとってマジックは消し去りたい思い出だった。アーディティヤはサークシーの行動に怒りを表す。それにショックを受けたサークシーは実家に帰ってしまう。

 ジョー、KD、ロブの3人は、久し振りにスタジオを訪れ、セッションを始める。そこへアーディティヤもやって来て、4人は音楽によって再び絆を確認する。スタジオは酷い状態になっていたため、アーディティヤは自宅をスタジオとして使うことにする。実家から帰って来たサークシーは、マジックが復活したことを喜ぶ。4人はもう一度ステージに立つ夢を見始めた。ちょうどコンペティションが行われようとしていた。

 だが、2つの障害があった。ひとつはロブの病気であった。ロブは脳腫瘍を患っており、いつ死んでもおかしくない状況だった。だが、ロブは人生最後の思い出として、マジックとして演奏したいと強く願っていた。他の3人は、ロブのためにも出演を強行することを決める。

 しかし、ジョーの妻デビーはさらに大きな障壁であった。デビーは過去のいざこざを引きずっており、夫がマジックに参加することに反対だった。しかも、クルーズでの演奏の仕事がもらえたところだった。経済的に困っていたデビーは、夫を無理矢理クルーズに連れて行こうとした。

 コンペティションの日。アーディティヤ、KD、ロブは来たが、ジョーは現れなかった。遂に出番が来てしまったので、仕方なく3人でステージに立った。だが、アーディティヤは、かつてジョーが作詞作曲した曲を演奏した。それを空港へ向かうタクシーの中でラジオで聞いていたジョーは、クルーズの仕事を捨て、コンペティション会場へ向かう。遂に4人揃ったマジックは、全力で演奏を行う。

 その演奏から2ヶ月後にロブは死んでしまった。だが、マジックの仲間たちは毎週末会って親交を深めていた。KDはアーディティヤと共に音楽会社を立ち上げ、若い才能の発掘と育成をし始めた。デビーも若い頃の夢であったスタイリストになることができた。アーディティヤとサークシーの間には息子が生まれ、KDはサークシーの友人デーヴィカーと結婚した。

 30過ぎの男たちが、10年前に砕け散った夢をもう一度取り戻す感動のストーリー。現代を主要な時間軸としながら、どうしてマジックが解散したのか、なぜアーディティヤとジョーがお互いを避け合っているのかが、間に挿入される過去のフラッシュバック・シーンによって徐々に明らかになって行く構成は、ともすると単純になってしまいがちなサクセスストーリー映画にサスペンス的要素を加えており、アーディティヤとサークシーの仲直りや、最後のステージの感動を強めていた。音楽も、通常のボリウッド映画音楽と違ってライブ演奏の雰囲気に満ちたリアルなバンド音楽になっていて良かった。2008年のボリウッド映画の中で傑作の1本に数えられることになるだろう。

 気になるバンド解散の理由だが、特に凝ったものではなく、メンバー間の不和である。マジックの曲はほとんどボーカリストのアーディティヤが書いていたが、アルバム・リリースが決まった後、ジョーが1曲作り、メンバーたちはそれをアルバムに入れることを決める。だが、音楽会社はジョーの曲が気に入らず、それを勝手に取り除く。そのときジョーは気にしなかった。だが、音楽会社の売り出し方が、アーディティヤ中心で、他の3人はバックバンドのような扱いになってしまった。それが原因でジョーの不満が爆発し、ジョーはバンドを抜けることになったのだった。

 だが、10年後、再びステージに立ったアーディティヤたちは、家庭の事情で来られなかったジョーに捧げるため、ジョーが作詞した曲を最初に演奏し出す。それをラジオで聞いて我慢できなくなったジョーは、ギターを取り出して会場に向かい、メンバーと合流して演奏し出すのである。

 「Rock On!!」は、一度しかない人生の中で夢を追い駆け続けることの大切さを訴えかける映画であった。同時に、バンドや音楽の楽しさもよく出ており、この映画がきっかけでインドの若者の間にバンド・ブームが起きるかもしれない。

 今回突然俳優・歌手デビューしたファルハーン・アクタルであるが、俳優・歌手としてはそこまで高い評価を受けないのではないかと思う。彼の一番のネックはだみ声である。顔は悪くないのだが、声がアニメの道化役みたいなので、演技をしても歌を歌ってもどこか滑稽な感じになってしまう。今回はアマチュア・ロックバンドのボーカリストという役柄だったので、素人っぽさが出ていてよかったが、シリアスな演技をしたり、バラードを歌うには適していない声である。

 モデルから俳優に転向して以来、あまり成功していなかったアルジュン・ラームパール。「I See You」(2006年)ではプロデューサー業にも進出したが、やはりうまく行かなかった。だが、「Om Shanti Om」(2007年)での悪役できっかけを掴み、この「Rock On!!」でかなりいいオーラを出す男優になった。俳優というのは映画の中では単なる駒に過ぎず、元からよっぽど強力なカリスマ性を放っていない限り、有能な監督にうまく使ってもらわないとなかなか芽が出ないものだ。アルジュン・ラームパールはここに来ていい監督に巡り会えるようになったように思える。「Rock On!!」でもっとも切れ味のある演技をしていた。

 ヒロインのプラーチー・デーサーイーは、まずはテレビ界で活躍し、今回映画デビューした女優。「Rock On!!」では多くの見せ場はなかったが、正統派ヒロインの雰囲気を持った美しい女優で、これからトップへ登り詰めて行くことも可能である。この映画以降、きっとオファーが殺到することだろう。

 ロックバンドが主題の映画なので、音楽は重要だ。音楽監督は、ボリウッドでもっとも成功しているシャンカル・エヘサーン・ロイのトリオで文句なし。映画の雰囲気にあったライブ感溢れる音楽になっており、「Rock On!!」のサントラCDはオススメできる。歌詞では「Socha Hai」がもっともよい。

 ちなみに昔、同じくバンドをテーマにした「Jhankaar Beats」(2003年)という映画があったが、こちらは音楽がとても弱く、映画としても失敗していた。「Rock On!!」はインド初のバンド映画ではないが、バンド映画の完成形を実現した作品と言える。

 「Rock On!!」は、ボリウッドでは珍しいロックバンドを主題にした映画である。普段は映画監督をしているファルハーン・アクタルが主演をし、しかも歌を歌うという、一見すると俺様企画だが、よく考えられた構成になっており、涙なしには見られない。今年の必見映画の1本だ。


NEXT▼2008年9月


*** Copyright (C) Arukakat All Rights Reserved ***