スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2004年8月

装飾下

|| 目次 ||
分析■1日(日)パンカーと結婚とドゥパッター
生活■2日(月)交通違反の話
演評■4日(水)歌舞伎講座
映評■6日(金)Taarzan
文学■7日(土)プレームチャンド作品、TVドラマ化
分析■11日(水)一触即発、マニプル州
生活■12日(木)インドで人気者作戦@
映評■13日(金)Kyun! Ho Gaya Na...
生活■14日(土)カリズマ・ラーマーヤナ
競技■17日(火)アテネ五輪のミス・インディアは誰か
映評■20日(金)Fida
演評■20日(金)シャンカル・マハーデーヴァン公演
分析■23日(月)光陰円の如し
政治■25日(水)ネルー・ガーンディー王朝
映評■27日(金)Dhoom
生活■27日(金)デジカメ付き携帯購入記
競技■30日(月)アテネ五輪とインド
演評■31日(火)佐藤雅子カタック公演


8月1日(日) パンカーと結婚とドゥパッター

 インドの一般的な部屋の中。ふと上を見上げると、天井から吊り下げられた扇風機(ヒンディー語で「パンカー」と言う)がクルクルと回って風を送っている。パンカーの回り始めがインドの夏の始まりであり、パンカーの停止がインドの冬の始まりだと言っていいほど、パンカーは現代のインドの風物詩となっている。もしインドに俳句があったら、パンカーは夏の季語になるだろう。・・・そういえば、シムラーやダージリンで泊まったホテルの部屋にはパンカーがなかった。これらの避暑地では、夏もパンカーがいらないくらいの涼しさなのだ。だが、僕は不思議と落ち着かない気分になった。パンカーのない部屋に入ると、まるでインドとは別の国に迷い込んだ気分になるものだ。現在、僕の頭上では、最速のスピードでパンカーが回転している。

 3年前、留学するためにデリーにやって来て、最初に宿泊したのは、パハール・ガンジの有名な安宿ナヴラング・ホテルだった。僕が泊まった1泊80ルピーのシングルルームの天井でも、やはりパンカーがクルクルと回転していた。ベッドに仰向けに横たわると、そのせわしく回転するパンカーだけが目に飛び込んできた。クルクルと回転するパンカー・・・。パンカーをじっと見ていると、まるで催眠術にかかったような気分になる。「なんでインドに来たんだろう・・・」小汚ない小部屋の不潔なベッドに横たわり、ひと時も休まずに回り続けるパンカーを見つめていると、不思議と人生の根本的な問いがいろいろと浮かんで来るものだった。同じような体験をする旅行者は多いのではないだろうか・・・?レオナルド・ディカプリオ主演の「ザ・ビーチ」(2000年)でも同じようなシーンがあったように記憶している(あれはタイが舞台の映画だが・・・)。

 ドゥパッター。インドの女性の最大のチャームポイントだと思う。インド人の女性のファッションは、大きく分けて2つ。1枚の布を身体に巻きつけたサーリーと、パンジャービー・ドレスまたはサルワール・カミーズと呼ばれる、ワンピース+ゆったりしたパンツのセットである。サーリーはサーリーでまた魅力的なのだが、パンジャービー・ドレスも捨てがたい。特にパンジャービー・ドレスを着たときに、必ず首にかけるショールがいい。そのショールは、ドゥパッターとかオールニーなどと呼ばれている。どうも元々胸を隠すための布らしいが、現在都市部ではドゥパッターは一種のファッションとなっている。原色のドゥパッターを風になびかせたインド美女は、都会の中でも非常に絵になる。もちろん、日差しが強いときに頭を覆ったり、熱いものを手にとるときのキッチン手袋代わりにしたりと、いろいろ実用的な用途にも使われる。

 どうして一見無関係に見えるパンカーとドゥパッターに関することを書くかというと、最近インドで起こった事件が関連している。ナフィーサ・ジョセフ――1997年のミス・インディア&モデル&MTVのVJ――が、7月29日に自宅で首吊り自殺した。8月7日の結婚式を前にした、女性の夢と憧れを全て手にした美女の突然の自殺は、インド中を震撼させた。原因は婚約者との不和だったと報じられている。31日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に詳しく特集されていた。




ナフィーサ・ジョセフ


 ナフィーサの婚約者の名前はガウタム・カンドゥージャー。ビルマ系スィク教徒で、自動車部品のビジネスをしており、しかもプロのサーファーかつダイビング・インストラクター。カンドゥージャーは2年前に前妻と離婚したが、ドゥバイの銀行に持っていた前妻との共同預金口座はそのままキープしていた。2人の共通の友人によりナフィーサはその共同預金口座のことを知り、カンドゥージャーに問い詰めたが、彼は答えようとしなかった。ナフィーサは彼に離婚証明書の作成を求めたが、それも拒否された。さらに、8月1日のザ・ヒンドゥー紙によれば、カンドゥージャーは彼女に「性格上の違い」から結婚破棄を通告したらしい。29日午後8時、ナフィーサは自宅で母親と親友のプーナムと共に婚約者のその行動について話し合った。母親とプーナムは彼女を慰めようとしたが、午後8時45分頃、ナフィーサは母親とプーナムを一室に閉じ込め、外から鍵を掛けた。その後、彼女は住み込みのメイドを家から追い出した。9時45分頃、追い出されて外をうろついていたメイドが異変に気付き、警備員に知らせた。警備員は配水管をよじ上って4階のナフィーサの家に入り、母親とプーナムが閉じ込められた部屋を開けた。同時に、ナフィーサがメイドの部屋で首を吊っているのが発見された。ナフィーサはパンカーにピンクのドゥパッターを引っ掛けて、それで首を吊って自殺していた。すぐに病院に運ばれたが、ナフィーサは既に死んでいた。

 パンカーにドゥパッターで首を吊る元ミス・インディア・・・。この「パンカー+ドゥパッター」の組み合わせの首吊り自殺は、インドではけっこう多いと聞いたことがある。JNUの寮でも時々そのような自殺があるという。その理由として圧倒的に多いのは、恋愛上の問題、つまり結婚の問題である。パンカーはどの部屋にも必ず設置されているし、確かに首吊りするのにちょうどいい形状をしている。インド人の女性なら、ドゥパッターくらいは必ず何着か持っている。そしてインドの女性は今でも結婚に対して非常に保守的な考えを持っている人が多い。インド人にとって、恋愛と結婚は、生きるか死ぬかの問題である・・・と、インド人女性と結婚したある日本人男性が言っていた。これらの組み合わせが不幸にも連鎖反応を起こすと、ナフィーサのような悲劇が起こる。しかもピンクのドゥパッター、というところがやけに生々しいように感じた。

 僕は男だからドゥパッターは持っていないが、しかしパンカーに首を吊って自殺、という話を聞くと、つい想像してしまうのが、冒頭に書いたナヴラング・ホテルの一室の天井にあったパンカーである。回っているパンカーをじっと見つめていると、だんだん思考が変な方向へ向かってくるときがある。それが「死」という結論に達してしまうと、そのままそのパンカーに首を吊って自殺、ということがあるのではないだろうか。特にナヴラング・ホテルは、世界を貧乏旅行しているバックパッカーが多く泊まるホテルである(今はブライトGHあたりが主流か)。あそこでは、ドラッグなどに手を出して屋上から飛び降りる自殺者がけっこう多発するという噂を小耳に挟んだこともある。僕が見つめていたあのパンカーも、もしかしたら数人の命を奪ってきたのではないか・・・ナフィーサ・ジョセフの自殺の記事を読んで、ふと思考が3年前のあの部屋に飛んだ。

 現在も僕の頭上では、ひとつのパンカーが回転している。しかし、このパンカーからは、幸いにもあのナヴラング・ホテルの部屋のパンカーのような、人を吸い込むような魔力はないように思える。

8月2日(月) 交通違反の話

 去年の9月末にバイクを買って以来、デリーの道を走り回ってきた。インドで車を運転するというと、とてつもなく危険なイメージがあるだろう。僕自身も、まさか自分がインドでバイクに乗ることになるとは思っていなかった。しかし、バイクを買って走ってみると、意外とデリーの道は快適であることが分かった。確かに道は悪いし、有象無象の生物が闊歩しているし、インド人は自分勝手な運転をするし、万が一事故った場合どうなるか分からない。しかし、それらのことを差し引いても、何よりインドの道には自由がある。日本のように、ひたすら線に沿って運転しなくてもいいし、交通ルールを馬鹿のひとつ覚えみたいに遵守しなくてもいいし、交通警察と法外な罰金に怯えながら運転しなくてもいい。ニューデリーは道が広く、緑が多く、信号が少ないので、走っていて本当に快適である。夜中にインド門周辺の道路を走ると、バイクで走って世界で一番気持ちいい都市は、もしかしてこのデリーなのではないか、と思うほどだ。少なくとも、デリーは東京とは比較にならないほど走って気持ちのいい都市である。

 というわけで調子に乗って走っていたら、先日遂に交通警察に捕まってしまった。今まで日本人の友人のバイクの後ろに乗っていて警察に捕まったことはあったが、自分で運転していて捕まったのは初めてだった。場所はマトゥラー・ロードのプラーナー・キラー近く。信号無視だった。信号無視は日本ではけっこう重い違反だと思うが、インドでは車さえ来ていなければ自己判断で行ってしまってもいいという風潮が強い。そのときも車が来る気配がなかったし、T字路の分岐点のない側の道路を直進していたので、そのまま進んでしまった・・・が、先には警察が待ち構えていた。

 以前、友人が捕まったときも信号無視で、そのときもT字路だった。右折しようとして赤信号で止まっていたところ、対向車線が途切れたので発進したら、先に警察が待ち構えていた。バイクの交通違反は一律100ルピーと言われている。しかしそのとき、警察は僕たちが日本人であることを知って、突然「罰金は1100ルピーだ」と言ってきた。1100ルピーという数字は非常に分かりやすい。つまり、100ルピーは正規の罰金で、残りの1000ルピーは自分たちの懐に納める儲けというわけだ。こういう不正は日常茶飯事のように行われているから、別に驚きもしない。かえって、1100ルピーという数字から、愛嬌すら感じたほどだった。しかしそんな大金を払う必要はない。それに対抗して僕たちは「我々は日本大使館の者だ」と言い張った。なぜなら、外交官からは罰金を取れないことになっているからだ。しかし、外交官がバイクに乗ってデリーの街を走り回っているというのは甚だ怪しい。その後多少の議論があったものの、結局正規の100ルピーを払うだけで済んだ。その後もその友人は何度も交通警察に捕まり、法外な罰金を要求され続けていた。

 その経験や体験談があったから、交通警察というのは皆そういう私腹を肥やすあくどい奴ばかりなのだと考えていた。特に外国人違反者は金づるであり、ここぞとばかりに法外な罰金を取ろうとしてくるのだと思っていた。だが、今まで僕は日頃の安全運転のおかげで捕まったことがなかったので、それをはっきりと確信することはできなかった。

 そんな中、とうとう交通警察に捕まるチャンスを得た。一度デリーの交通警察の実態を自分の目で確かめてみたいと思っていたので、素直に捕まった(はっきり言って捕まえ方が甘いので、逃走することは十分可能である)。また、もし法外な罰金を吹っかけられても、僕にはその後の交渉が楽しみだった。このような窮地でどれだけ被害を最小限に抑えることができるか、今まで培ってきたヒンディー語の語学力と交渉術を試すいい機会になる。ヒンディー語には、他の外国語のように語学検定などがないため、高圧的なインド人と交渉してどれだけ相手を言いくるめられるかを、オーラル・コミュニケーション能力の達成基準とするしかない。

 ところが、幸か不幸か僕を捕まえた交通警察は、僕に100ルピーの罰金しか要求して来なかった。警察が僕の国際運転免許証を見て、赤い紙に名前、車両ナンバー、違反事項などを書き込み、それに僕がサインをして、100ルピーを現金で支払い、その紙を手渡されて、それで終わりだった。僕が「JNUメン・MAヒンディー・カルター・フーン(JNUでヒンディー語修士をしてます)」と言ったら、「ガルティー・ビー・カルテー・ハェーン?(間違いもするのか?)」と聞いてきた。「ヒンディー」と「ガルティー(間違い)」を掛けた下手なダジャレだった。ダジャレにはずっこけたが、不正な罰金を要求することもなく、きちんと仕事をしていたので感心した。最後に「サラク・ケ・ヴィカース・ケ・リエ・メーレー・パイセー・カ・イステーマール・カル・ディージエーガー(私のお金を道路の整備のために使ってください)」と敬礼しておいたが、後で考えてみたら、交通違反の罰金が(面目上)道路整備に使われるのは日本のことだった。インドにおいて交通違反者から徴収した罰金がどういう用途で使われるのか、おそらく神も知らないだろう。

 信号無視をしたのは自分だったので、罰金を払うことには何の文句もなかったのだが、ひとつだけ後ろめたいことがあった。それは、所持していた国際運転免許証が期限切れだったことだ。国際運転免許証は作成から1年しか有効ではない。僕の国際免許証は去年の6月に作成したものだった。しかし、期限が1年であることは、表紙の裏の目立たないところに、日本語と長ったらしい英語で小さく書かれているだけなので、もしかしてインドではそのまま通用してしまうのではないかと考えていた。予想は的中し、やっぱり何も言われなかった。どうせ無免許運転でも罰金100ルピー(300円以下)なので、1年ごとに2650円の手数料(高すぎる!)を払って国際運転免許証を更新するのも馬鹿馬鹿しい。

 今回は信号無視だったが、デリーではスピード測定器を使ったスピード違反の取り締りも時々行われている。デリーとグルガーオンを結ぶ道なんかでよくネズミ捕りをやっているそうだ。最近最新式のスピード測定器が導入された、との記事を読んだことがある。そういえば昔のインドの車はアンバサダーばかりで、スピード違反しようにもスピードが出ない車ばかりだった。それに、インドの道路はデコボコだったので、スピードを出そうにも出せない道が多かった。というわけで、歩行者は余裕で道路を横断することができた。一方、隣国のパーキスターンではインドよりも先に輸入車が普及していた。インドを旅行した後に国境を越えてパーキスターンへ行くと、道路を走る自動車のスピードが急に速くなって、道路を横断するのに苦労した、という話を聞いたことがある。それがいつの間にかインドでもスピードの出る輸入車が普及し、道の整備も進み、スピード違反の取り締まりが急務になって来たようだ。

 ノーヘルは視覚的に分かりやすいので、バイク乗りたちがよく捕まっている。住宅街の出入り口などで検問をして、「ちょっとそこまで」という感じでノーヘルで外出した人々を一網打尽にしていることが多い。ちなみにデリーのヘルメット着用義務の規則は変則的である。まず、バイクの運転手は、スィク教徒の男性以外の人々がヘルメット着用を義務付けられている。なぜスィク教徒の男性が除外されるかというと、ターバンをかぶっているからである。と言うより、ターバンがヘルメットとして認められる、と書いた方がより正確だろう。スィク教徒の男性全員がターバンをかぶっているわけではないからだ。もちろん、ターバンをかぶっていないスィク教徒はヘルメット着用の義務がある。正常な日本人なら、ターバンがヘルメットのように事故から頭部を守ってくれるのか、と突っ込みたくなるだろうが、インドではそういうことは問題にされないから不思議だ(ターバンの守備力は1ぐらいしかないだろう)。ちなみに、インドではスィク教徒ライダーのためのグッズ(ターバンと合わせて装着するゴーグルなど)も売られている。かの月光仮面は、ターバン+サングラス+マスクという格好でバイクに乗るスィク教徒がモデルになったことは有名な話だ。一方、バイクの後ろに乗っている同乗者は、ターバンをかぶったスィク教徒の男性と全ての宗教の女性を除いた者、つまりターバンを着用していない男性のみがヘルメット着用を義務付けられている。やはり正常な日本人なら、なぜ女性同乗者はヘルメットをかぶらないでいいのかと不思議になるだろうが、これもスィク教と関係あるらしい。実はスィク教ではターバン以外のものを頭にかぶることを禁じている。デリーでライダーのヘルメット着用が義務付けられたときに、スィク教徒たちが「ヘルメットをかぶることは宗教の規律に反する」として反対運動を行った。その主張は受け容れられ、結局「スィク教徒はヘルメットをかぶらなくてもよい」ということになった。そうなると、スィク教徒の女性にもそれが適用される。よって、スィク教徒の女性はヘルメットをかぶらないでいいことになったが、かと言ってスィク教徒の女性を外見から見分けることは困難であるため、なし崩し的に全ての女性同乗者のヘルメット着用が免除されたという。ただし、運転手だけはいくらスィク教徒の女性でもヘルメットをかぶることが義務付けられているようだ。このように、インドでは法律や安全性よりも宗教が勝ることが多い。

 スピード違反、信号無視、無免許運転、ノーヘルの他、よく取り締まりの対象になるのは、バイクの3人、4人乗り、飲酒運転などなどだが、不思議と取り締まられないのは、ハイビームと逆走である。インド人は夜間常にハイビームにしていることは以前にも書いたが、法律で禁止されているにも関わらず、警察は全く取り締まろうとしない。インドでは逆走も非常に多い。だが、日本の道と違ってインドの道は概して広いので、隅の方なら逆走が黙認される傾向にある。特にデリーでは最近中央分離帯が増えており、Uターンがしにくくなっているので、ますます逆走が増えている。僕の家の前の道にも中央分離帯ができてしまったので、反対方向に行くときはいつも少し逆走して順路に合流している。逆走はもはや違反というよりも生活の知恵である。また、日本ではよく追い越し禁止車線があるが、インドではそもそも誰も車線など守っていないので、車線関係の違反は全く取り締まられない。右側の車線から突然左折するような危険な運転をする車があっても、警察は取り締まろうとしない。本格的に違反を取り締まり出したら、おそらくインド人全員が違反者ということになってしまうので、見た目で分かりやすいものをとりあえず取り締まっているということだろう。

 交通違反をして捕まったインド人を観察してみると面白い。僕のように素直に捕まるインド人はまず皆無と言っていいだろう。まずは両手を合わせて「お許し下さいませ〜」と懇願する人がほとんどで、何とか逃げようとする人も後を絶たず、これは逃げられないと諦めた後でも、ああだこうだ言って交渉する人が多い。捕まると、携帯電話で電話をし始めるインド人がいるが、あれはおそらく知り合いの警察などに頼んで、コネで罰金から逃れようとしているのだと思う。すごい執念である。もちろん、日本の法外な金額の罰金を身にしみて実感している僕からしたら(日本では3回違反で捕まったことがある)、100ルピーという額ははっきり言って屁でもないが、インド人からしたらけっこう大きい金額だ。

 以前、インドの道路はインドの縮図だと主張し、今回もその一例を取り上げたが、それでもまだまだインドの道路から学ぶべきことは多い。これからも折に触れてインドの道路についてのエッセイを書いていこうと思う。

8月4日(水) 歌舞伎講座

 海外に住んでいていいことは、その国の文化を学ぶことができるだけではない。思わぬきっかけで、日本の文化を見直すこともできる。今日は、ジャパン・ファウンデーション主催の歌舞伎講座がトリヴェーニー・カラー・サンガムで行われた。出演者は、中村雁次郎(がんじろう)、中村翫雀(かんじゃく)、中村雁乃助(がんのすけ)、市川左字郎(さじろう)、中村鴈京(がんきょう)、藤間勘十郎(かんじゅうろう)など。また、イギリス人歌舞伎研究者のアラン・カミングスが通訳&解説をしてくれた。元々彼らはデリーの国立演劇学校で歌舞伎のワークショップを行うために来ていたのだが、ジャパン・ファウンデーションの強い要望により、一般公演が実現したという。なんとデリーで歌舞伎公演が行われるのは史上2回目、22年振りのことらしい。僕自身は、歌舞伎を見たのはこれで2回目となる(以前、銀座の歌舞伎座で鑑賞)。トリヴェーニー・カラー・サンガムの劇場は非常に小さかったため、場内はすぐに満員に。デリー在住邦人の観客も多く来ていたが、それ以上に日本の文化や踊りに興味のあるインド人も詰め掛けていた。

 まずは現代歌舞伎を代表する歌舞伎役者で人間国宝の、中村雁次郎の挨拶があり、次に雁次郎の長男の中村翫雀と、振付師の藤間勘十郎、そしてアラン・カミングスが歌舞伎の解説を日本語と英語でしてくれた。最初のデモンストレーションは「浜松風」。失恋して狂ってしまった松風という名の海女が、漁師に言い寄られ、それを彼女が断ると、漁師に殺されそうになる、というストーリーで、松風と漁師の2人が壇上で踊る。漁師の表情や仕草が、いかにも歌舞伎という感じで面白かった。

 「浜松風」の後にはビデオが上映された。中村雁次郎が主催する近松座が、2001年にシェークスピアゆかりのグローブ・シアターにて公演を行ったときの記録である。しかし、ビデオは公演をそのまま映したというよりは、「歌舞伎役者、イギリスへ渡る」みたいな題名が付きそうな旅行番組のような構成だった。中村雁次郎はマンチェスターでローレンス・オリビエに会ったことがあり、彼に「グッド・ラック」と握手されたこと、グローブ・シアターの舞台はなぜか中国風建築だったこと、そして中村雁次郎はイギリスでもインドでも同じような内容の挨拶をしていたことが印象に残ったぐらいだった。一番退屈な時間だった・・・。

 その後、再びアラン・カミングスらの解説があり、2つめのデモンストレーション「藤娘」が上演された。中村雁次郎がソロで、藤の精が酒を飲んで酔っ払うシーンを抜粋して踊っていた。さすが名優と絶賛される人の踊りには、インドの大御所舞踊家たちと相通ずる余裕と貫禄があった。「藤娘」のこのシーンは、同じ振り付けの踊りが2回繰り返される。ただし、1回目はシラフの踊り、2回目は酔っ払いの踊りであり、微妙に踊りが変化する。事前に解説があったために、その微妙な違いに気付くことができた。




中村雁次郎の「藤娘」


 歌舞伎の公演は短い演目が2つだけだったものの、詳細な解説があったおかげで、素人にはすごく分かりやすかった。中村翫雀と藤間勘十郎が主に解説をしてくれたのだが、それを英語に翻訳していたアラン・カミングスの解説の方がもっとすごかった。元の日本語をさらに分かりやすく、そして詳しく英語に翻訳していて、彼1人が解説をしてもよかったのではないかと思ったほどだ。彼は早稲田大学に留学していたそうだ。

 歌舞伎とインド古典舞踊の間にはいくつか類似点が見受けられた。歌舞伎役者もインド古典舞踊家も基本的に世襲制であること、どちらも発祥は民俗芸能だったこと、どちらも歌、音楽、踊り、衣装などがミックスされた総合芸術であること、顔の隈取りは南インドの舞踊、カタカリと非常によく似ていること、どちらも観客との掛け合いを重視する舞台芸術であること、男優が女役も務める伝統があることなどなどである。特に興味を引いたのが、歌舞伎は「ストーリーよりも衣装、セリフ、立ち回りなどの様式や、役者の演技を楽しむ芸術である」ということだ。これはインドの古典舞踊論や、現代のインド映画にも当てはまる考え方だと思う。「インド映画はストーリーがワンパターン」と悪口を言う人がけっこういるのだが、ストーリーが重視されるのは西洋的な切り口で、アジアの演劇芸術ではストーリーはどちらかというと入れ物に近いものだったと思う、というのが最近の僕の自論である。入れ物の中に何を入れるか、つまり、既知のストーリーをどう表現するかに芸術家のオリジナリティーが問われるのがアジア的芸術論だと思う。インド映画も、意図的ではないにしても、その伝統に片足を乗っけているのではなかろうか。

 江戸時代の有名な浄瑠璃・歌舞伎作者、近松門左衛門は「東洋のシェークスピア」と呼ばれており、その関係で中村雁次郎はどうもシェークスピアに憧れがあるようだ。しかし、言わせてもらえば、それはちょっと一足飛びだったような気がする。いかに歌舞伎とシェークスピア劇に類似点があろうと、歌舞伎の名優がまず着地すべきだったのはアジアであり、特に豊かな古典舞踊が残っているインドだったのではないかと思う。幸い、中村雁次郎は今回インドに来てくれたし、彼自身もインドに何かを感じて来訪を決めたのだと思う。このデリー滞在中、中村雁次郎たちは国立演劇学校のインド人の学生たちに「浜松風」の振り付けを教えているそうだ。そのフィードバックとして、日本の歌舞伎もインドの伝統芸術から何かを得てくれれば、とインドに住む日本人として、大きなお世話かもしれないが、密かに願っている。

 会場には多くの日本人もいた。その中には初めて生で歌舞伎を見た人もけっこういたと思われる。問題だと思うのは、なぜインドに来て初めて歌舞伎を見ることになってしまったのか、ということだ。日本にいるとなぜか日本の伝統芸能を見る機会がほとんどない。見てみたいと思っている人、分かったような気になっている人は多いが、実際に見る機会は、よほどの強制力がない限りゼロに近いだろう。はっきり言って僕自身、今回デリーで一流の歌舞伎を見て、日本の文化に改めて誇りを持てた。しかし本来なら全ての日本人が日本で歌舞伎を一度でもいいから鑑賞しているべきであり、海外に出てくる前に、世界に誇るべき自国の文化を自覚しているべきである。インド人がインドのことを知らないのはまだ仕方ない。なぜならインドはまだまだ貧富の差の激しい国だからだ。しかし日本は大半の国民が経済的に豊かになった。就学率、識字率も非常に高い。それでいて自国の伝統文化に疎い国民が多いのは、教育上問題があるように思える。

8月6日(金) Taarzan

 最近ボリウッドもいろんな主題の映画をリリースするようになってきたが、こんな変な映画は前代未聞だろう。今日は、公開されたばかりの新作ヒンディー語映画「Taarzan」をPVRアヌパムで見た。いったい「Taarzan」の何が変かというと、意思を持った自動車が主人公なのだ。意思を持った自動車と聞くと、僕はつい「ドラえもん・のび太の海底奇岩城」(1983年)に出てきたバギーちゃんを思い出してしまうのだが、果たしてそれがインド映画にどのように組み込まれるのか。期待と不安が入り混じった気持ちで映画館に足を運んだ。

 「Taarzan」とは、あのジャングルの王者ターザンのことで、映画中では自動車の愛称がターザンとなっている。監督は「Ajnabee」(2001年)などのアッバース・マスターン、音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、ヴァトサル・セート、アイーシャー・タキヤー、アジャイ・デーヴガン、アムリーシュ・プリー、シャクティ・カプール、ディーパク・シルケー、パンカジ・ディール、サダーシヴ・アムラープルカル、ムケーシュ・ティワーリー、グルシャン・グローヴァー、ラージパール・ヤーダヴ、ファリーダ・ジャラールなど。




アイーシャー・タキヤー(左下)と
ヴァトサル・セート(中央)
それとターザン(裏)


Taarzan
 自動車設計者のデーヴェーシュ(アジャイ・デーヴガン)は、新技術の自動車を設計し、大手自動車会社に売り込んだ。会社役員のサクセーナー(シャクティ・カプール)、カプール(パンカジ・ディール)、デ・コスタ(サダーシヴ・アムラープルカル)、チョープラー(ムケーシュ・ティワーリー)ら4人は、デーヴェーシュの設計図を盗み、自社の自動車として売り出そうと計画する。それがデーヴェーシュにばれると、4人は息のかかった警察官のシャルマー(ディーパク・シンデー)と共にデーヴェーシュを車ごと池に沈めて殺害する。

 それから12年後、デーヴェーシュの1人息子ラージ(ヴァトサル・セート)は大学生になっていた。ラージはカルタル・スィン(アムリーシュ・プリー)の経営する自動車修理屋でバイトをしながら、祖母(ファリーダ・ジャラール)と共に貧しい生活を送っていた。ある日、ラージの通う大学に、英国オックスフォード大学からプリヤー(アイーシャー・タキヤー)というかわいい女の子が入学して来る。ラージはプリヤーと仲良くなり、やがて2人は恋仲となる。

 ある日、ラージはスクラップ屋で父親の愛車「ターザン」を発見する。変わり果てた姿になっていたが、バックミラーにかかっていたターザンの人形は、それが父親の自動車であることを証明していた。ラージはターザンを買い取り、自分の手で大改造を施す。

 ラージの設計と執念により、ターザンは独特のフォルムを持つかっこいい自動車に生まれ変わった。ところが、この自動車に合うエンジン・ポンプは既に生産中止となっており、どこにも見当たらず、動かすことができなかった。ラージが諦めたとき、急に自動車は動き出す。実はこのとき、父親デーヴェーシュの霊がターザンに乗り移ったのだった。

 デーヴェーシュの霊が乗り移ったターザンは、手始めにラージをいじめていた大学生4人組をやっつけ、その後、自分を殺した5人の男に復讐を始めた。ターザンは勝手に動き出し、全てはラージの知らない間に行われた。まずはチョープラーが殺され、サクセーナー、デ・コスタ、シャルマーと次々に殺されていく。ラージは殺人事件の犯人として警察(グルシャン・グローヴァー&ラージパール・ヤーダヴ)に疑われるが、証拠不十分のために釈放される。

 そんなとき、イギリスからプリヤーの父親がインドにやって来る。実は、彼女の父親は、デーヴェーシュを殺した5人の内の1人、カプールだった。このときラージとプリヤーは婚約していたが、ラージがデーヴェーシュの息子であること、またチョープラーら4人を殺したのがラージである疑いがあることを知ると、カプールは娘の結婚を断固拒絶し、プリヤーをイギリスへ連れて帰ろうとする。ターザンはカプールにも襲い掛かるが、カプールはターザンを崖から落として破壊する。カプールはそこへ駆けつけたラージをも殺そうとするが、ターザンは再生してカプールを懲らしめる。また、カプールは自分がデーヴェーシュを殺したことを自白する。カプールは逮捕され、デーヴェーシュの霊はラージに「オレよりもすごい車を作ったな」と言って去っていく。

 ストーリーの基本線は、「Karan Arjun」(1995年)のような、無念にも殺された人が現世に転生して、自分を殺した悪人たちを成敗するという転生復讐映画だった。しかし、霊が自動車に乗り移るという仰天の発想により、非常にユニークな映画になっていた。とは言え、映画中一番面白いのは、異色のヒーロー「ターザン」でもなく、人間のヒーロー・ヒロインの恋愛でもなく、実は脇役陣のコメディーである。自動車が主人公ということを除けば、普通のインド映画として十分に楽しめる映画だが、最後のまとめ方が陳腐だったので、総合評価は低めである。

 最初に断っておかなければならないが、上のあらすじでターザンを「かっこいい自動車」と表現したが、これは映画中の登場人物にとって「かっこいい」ことになっているからそう書いただけである。はっきり言って、ターザンのデザインはインド人のセンスを疑うほどダサい・・・。しかもターザンという名前はどうかと思う。・・・映画中の説明によると、デーヴェーシュの父親が車のバックミラーにディズニーのキャラクターのターザンの人形をぶら下げたことから、その車の名前はターザンとなった。そのターザンの人形のおかげで、ラージはターザンを見つけることができたので、一応ストーリー上重要な意味を持つ。それから大改造を施した後もずっとターザンの人形はぶら下がっていた。つまり、ターザンとターザンの人形は、祖父、父、息子と受け継がれたことになる。だが、ディズニーの「ターザン」が公開されたのは1999年であり、映画中の時間は現代(つまり2004年)が基準となっていると思われるから、時代考証が全くなってないことが分かる。こんな細かいことを突っ込んでもインド映画は始まらないわけだが・・・。

 主人公は何と言ってもターザンである。運転手なしに勝手に動き出すのはまだ序の口で、敵に体当たりしたり、エンジンを吹かして騒音を立てて家のガラスを粉々にしたり、水中や水上を走行したり、自分で自動的に修復したりと、まるでアニメのような非現実的活躍をする。観客は、自動車にデーヴェーシュの霊が乗り移っているから何でもできるんだ、ということで無理に納得するしかない。やっていることは殺人なので、よく考えると恐ろしいマシンなのだが、いくつか微笑ましいシーンがあった。例えば、チョープラーの乗った自動車を追いかけている途中で、タイヤを溝にはめたバスを見かけると、一旦追跡をやめて、バスを後ろから押し上げてあげたり、走行中にも関わらずラージがプリヤーといちゃついていてよそ見運転をしていたとき、運転をそっと代行してあげたりするシーンがあった。最後に、デーヴェーシュの霊が去って行くときに、「それとラージ、運転中はよそ見をするなよ」と注意するところは絶妙だった。

 ラージとプリヤーの恋愛はほとんどオマケみたいなものだった。ラージがプリヤーに告白するシーンは酷い。映画中、最悪の場面だろう。ラージは最初眼鏡をかけているのだが、プリヤーの勧めでコンタクトにし、ファッションもイメチェンする。最近のインド映画には、この「冴えない男または女が眼鏡を卒業してモテモテに」という方程式が多いような気がする。「Kal Ho Naa Ho」(2003年)はその代表例だし、「Koi... Mil Gaya」(2003年)もその一種だ。また、TVのCMでも、眼鏡をやめてコンタクトにしたらモテモテになった、というプロットのものが流れている。はっきり言って普通のインド人は、コンタクトレンズをあまり理解していない。だが、コンタクトは売られており、使用しているインド人も徐々に増えてきていると思われる。眼鏡という安価な視力矯正器具から、コンタクトレンズという高価で面倒な器具への移行、またはそれを人々に促すこの一連の動きは、インドが豊かになって来ていることを表していると思う。ちなみに眼鏡をかけている人への蔑称をヒンディー語では「チャシュミシュ」という。

 ラージを演じたヴァトサル・セートと、プリヤーを演じたアイーシャー・タキヤーは共に映画初出演だ。ヴァトサル・セートは「リティク・ローシャン2世」と呼ぶべき注目の若手男優。踊りもリティク・スタイルでなかなかうまい。最近の流行なのだろうか、細身でスラッとした体型である。顔はクリケット選手のラーフル・ドラヴィルに似ていると思う。アイーシャー・タキヤーも、いかにも最近の流行の顔という感じだ。個人的には、アミーシャー・パテールやブーミカー・チャーウラーを想起させた。アイーシャーはこの映画で無難なデビューを果たせたと思う。踊りはヴァトサルに押されていた。近年、女優よりも男優の方が全体的に踊りがうまくなっているような気がする・・・。

 脇役で何人か有名な俳優が出ていたが、一番面白かったのはデ・コスタを演じたサダーシヴ・アムラープルカルだった。下級警官を演じたラージパール・ヤーダヴも要所要所で笑わせてくれた。ラージの親友を演じていた若い男優には、確か昔、ラーモージー・フィルムシティーを見学したときに会ったような気がする。

 分かりやすくまとめると、「Taarzan」は、コメディー映画だと思って見ると大吉、変わったインド映画だと思って見ると吉、かっこいい車が出てくる映画だと思って見ると凶、恋愛映画だと思って見ると大凶、という映画である。

8月7日(土) プレームチャンド作品、TVドラマ化

 近代ヒンディー文学を代表する文学者と言ったら、ムンシー・プレームチャンド(1880〜1936)以外には考えられない。プレームチャンドを抜きにして、近代ヒンディー文学の発展は語ることが出来ない。プレームチャンドが最高傑作「Godaan(牛供養)」を発表し、進歩主義作家協会第1回大会で議長演説をし、そして死去した1936年という年は、ヒンディー文学史の中で重要な意味を持っている。その多大な貢献にも関わらず、インド映画界で彼の作品が映画化されることは多くなかった。そんな中、明日8日からグルザル監督の「Tehreer Munshi Premchand Ki(ムンシー・プレームチャンドの作品)」という連続TVドラマがドゥールダルシャンで放送される。第1回は「Godaan」(2部構成)。主演はパンカジ・カプールとスレーカー・スィークリー。他に「Nirmala」「Eid Gaah」「Kafan」「Jyoti」「Poos Ki Raat」などの代表作合計26作品が放映されるそうだ。また、ドラマには、デリーの国立演劇学校の学生が多数出演するという。

 まずはプレームチャンドについて少し詳しく解説する。プレームチャンドというのはペンネームで、本名はダンパト・ラーイ・シュリーヴァースタヴと言う。だが、ペンネームの方が圧倒的に有名なので、プレームチャンドで統一することにする。プレームチャンドは1880年7月31日、バナーラス近くのパーンデープル村の、貧しいカーヤスト・カースト(書記階級)の家に生まれた。父親は郵便局員をしていた。プレームチャンドの実母は彼が8歳の頃に死去し、父親は再婚したが、継母との仲はよくなかった。15歳のときにお見合い結婚するが、妻との仲もよくなかった。同じ年に父親も死去する。プレームチャンドは、ウルドゥー語とペルシア語を学び、18歳の頃に学校を卒業した。彼はそのまま小学校教師に就職して北インド各地の学校を転々とする。1903年〜08年のカーンプル滞在中にナワーブ・ラーイというペンネームで雑誌に投稿するようになり、1908年にウルドゥー語短編集「Soz-e-Watan(愛国心)」を出版する。ところがこの本はイギリス政府により発禁処分となり、プレームチャンドもペンネームをザレームチャンドと改名せざるをえなくなる。その後、しばらくの間プレームチャンドはウルドゥー語で文学作品を創作し続け、1910年にはプレームチャンドと名乗るようになる。しかしウルドゥー語では読者が限られていたため、友人の勧めに従って1914年に「Seva Sadan(休護所)」をヒンディー語で刊行した。以後、ヒンディー語で小説を書き、後にウルドゥー語に翻訳するようになる。1921年、マハートマー・ガーンディーの非暴力不服従運動呼びかけに感化され、1922年、イギリス政府のために働くことを放棄して教職員を辞める。1922年に雑誌「Hans(ガチョウ)」を刊行。ガーンディー主義を具体化した理想主義的文学作品を次々と発表する。この頃のプレームチャンドの作品には、社会問題などの解決策が必ず提示されていた。ところがガーンディー主義に失望した1930年頃から、農民を主役とした現実主義的、悲観主義的な小説を書くようになる。プレームチャンドの最後の作品となった長編小説「Godaan」と短編小説「Kafan(死者の衣)」では、「インドに救いは何もない」という一種の悟りの境地に達している。1936年10月8日、胃潰瘍、水腫、肝硬変により56歳で死去。生涯に長編小説11作、短編小説約300作を発表した。

 実はプレームチャンドは存命中にボリウッド映画界に関わったことがあった。1934年、高い名声を獲得していたものの金銭的に困窮していたプレームチャンドは、モーハン・バーヴナーニー監督の映画制作会社アジャンター・シネトーン社に脚本家として入社する。月給は8000ルピーだったという。同年、バーヴナーニー監督、プレームチャンド脚本の映画「Mazdoor」が公開された。ボリウッド初のリアリズム映画という鳴り物入りだったが、検閲に引っかかった上に興行的に大失敗に終わり、アジャンター・シネトーン社は倒産する。また、同年、ナーヌーバーイー・ワキール監督がプレームチャンドの書いた初のヒンディー語小説「Seva Sadan」を映画化するものの、これも失敗に終わった。この2作品の失敗により、失意のままプレームチャンドは故郷バナーラスに戻ることになる。以後、プレームチャンドは二度と映画界に関わらなかった。しかし、プレームチャンドの書いた作品は以降も映画界に時々関わることがあった。

 プレームチャンドの死後から2年後の1938年、クリシュナムルティー・スブラマニアム監督が、再度「Seva Sadan」を映画化した。ただしこれはタミル語映画だった。売春と女性解放を主題としたこの映画は、インド映画初のフェミニズム映画となり、主演のスッブラクシュミーの好演もあって興行的にも成功を収めた。

 その後しばらくの間、プレームチャンドの小説を原作とした映画はほとんど登場しなかったが、それでもいくつか優れた作品が作られた。例えば1966年に映画化された「Gaban(泥棒)」。監督を務めていたクリシャン・チョープラーが撮影中に急死するというハプニングがあったものの、リシケーシュ・ムカルジーが後を引き継いで完成させた。サンジャイ・ダットの父親、スニール・ダットが主演を務め、絶賛を受けた。1977年には一気にプレームチャンド原作の2作が公開された。ムリナール・セーン監督がプレームチャンドの短編「Kafan」をテルグ語で映画化し、「Oka Oorie Katha(ある村の物語)」を発表した他、日本で「サタジット・レイ」と表記されて一定の知名度を得ているサティヤジト・ラーイ監督が、プレームチャンドの短編「Shatranj Ke Khiladi(チェスをする人)」を基に同名の映画を作った。両作品とも原作に忠実な映画ではなかったが、プレームチャンドのストーリーは映画化される価値があることを十二分に証明した。だが、以後、インド映画界がプレームチャンド原作の映画を作ることはなかった。一方、TV映画界は時々プレームチャンドの作品をTV映画化しており、1981年にサティヤジト・ラーイが監督を務め、オーム・プリー、スミター・パーティール、モーハン・アガーシェーが主演を務めた、プレームチャンド原作の「Sadgati(救済)」というTV映画は高い評価を得ている。8日から公開されるグルザル監督の連続TVドラマ「Tehreer Munshi Premchand Ki」も、その流れを汲むものだが、気合の入れ方は相当なものらしい。

 グルザル監督はインタビューにおいて、「今日の若者がプレームチャンドの話を理解することができるだろうか?プレームチャンドの作品を今日TV映画化することに意義はあるのだろうか?」との問いに対し、「私の時代には、若者は知識を広げるのに本を読むしか手段がなかった。敢えて言うなら、他にラジオがあったくらいだ。当時と比べてコミュニケーションの手段が劇的に進歩した現代に生きる若者が、タゴールやプレームチャンドを読んでいないからといって、我々がそれを責めるのは筋違いである。今、テレビを使って文豪の作品を若者に紹介するのもひとつの方法ではないだろうか。また、プレームチャンドの作品は、今日ますますその重要性を増しているように感じる。インドの農村は、1930年代とそう変わっていない。そればかりか、ますます問題は悪化しているように思える。プレームチャンド作品のTV映画化が、インドの農村の問題をもう一度見直すきっかけになってくれればと思っている」と述べている。

 僕はここ2〜3年、精力的にインド映画、特にヒンディー語映画を見ているが、映画と同時に最近急速に見逃せない存在となって来ているのが、TVドラマである。現在インドでは、「Jassi Jaissi Koi Nahin(ジャッスィーみたいな女の子は他にいない)」「Kyunki Saas Bhi Kabhi Bahu Thi(なぜなら姑もかつては嫁だったから)」などのTVドラマが女性を中心に絶大な人気を集めており、映画の人気に迫るほどの勢いを見せている。だが、僕は映画を見るのは大好きなのだが、TVドラマは大嫌いで全く見ていない。TVドラマを見ると毎週時間を拘束されるのがその一番の原因だ。また、インドのTVドラマの主流は、延々と続く嫁と姑の女同士の醜い争いであり(日本でも一緒か)、男の僕には見ていて馬鹿馬鹿しくなって来るものばかりだ。そういうことを見越してか、インドのTVドラマは完全に女性をターゲットにして作られている。だが、TV映画俳優から映画デビューする人も次第に増えてきており、TVドラマのパロディーが映画中に登場したりもすることも多くなってきた。そういう流れを見ると、インド映画の評論をするために、インドのTVドラマの知識も必須となる時代がすぐに来ると思われる。ヒンディー文学を学んでいるので、「Godaan」のTVドラマくらいは是非とも見ておきたいのだが、その時間帯には用事があるので、おそらく見ることができないだろう。DVD化を強く希望する。

8月11日(水) 一触即発、マニプル州

 毎度のことだが、8月15日の独立記念日を前に、インドはにわかにゴタゴタして来ている。独立記念日は、1月26日の共和国記念日と共に、インドの国の威信を賭けたイベントであると同時に、テロリストたちの格好の標的となる日である。よって、ここ数日間、首都デリーは厳重な警戒態勢に置かれている。現在モンスーンの真っ只中にあり、毎日のように雨が降っている中、これだけ警官が多いと、ますます外出が億劫になってしまう。インドの予期せぬ政権交代により、一時中断していた印パ平和協議も現在再開されているが、権力のない者同士の話し合いの段階なので、特に大したことが決まるわけでもない。やばそうなのはヒマーチャル・プラデーシュ州である。サトラジ河上流の中国領で土砂崩れがあり、河が堰き止められてしまった。その堰によって巨大な湖が形成されつつあり、いつ堰が決壊してもおかしくない危険な状態になっている。もし決壊したら、大量の水がサトラジ谷に一気に押し寄せ、多くの被害を出すと思われる。

 そんな中、現在最もホットなのが、インド東北部にあるマニプル州である。普段は注目を浴びることの少ないこの辺境の州は、先月起こったある事件により、大揺れに揺れている。中央政府が舵取りを誤ると、分離独立問題にまで発展する可能性がある。マニプル州の概説、キーワードとなるAFSPA、そして事件の経過を順に追って行く。

 マニプル州は、インド東北部にある、俗にセブン・シスターズと呼ばれる7州の内の1州である。ミャンマーの国境沿いにある州で、州都はインパール。インパール作戦で日本人にも名の知られた場所だ。面積は2万2327平方km、人口は230万人。住民の大半は、ナガ族、クキ族、メイテイ族などのモンゴロイドであり、日本人と似た顔つきをしている。インド東北部の諸民族は、キリスト教宣教師の影響によってキリスト教徒に改宗していることが多いのだが、マニプル州だけはヒンドゥー教徒が多い。これは18世紀からこの地にヒンドゥー教を国教とした王国が栄えたからである。マニプリー・ダンスやマニプル手織綿布など、伝統芸能や伝統工芸が盛んな地でもある。インド独立後、しばらくの間は連邦直轄地だったが、1972年に完全な州となった。

 インドの悪名高き法律に、武装部隊特別権力法(AFSPA)なるものがある。AFSPAの原型となったのは、1955年にアッサム州(当時)に適用された紛争地域法である。紛争地域法は、警察に逮捕拘留の特別権限を与えるものであり、マニプル州にも適用された。1958年にはAFSPAが制定され、同じような特権が治安部隊に与えられた。AFSPAが適用された地域では、治安部隊は令状なしに、治安を乱す者、または治安を乱す恐れのある者を、逮捕、拘留、射殺することが許可され、攻撃の拠点となる、または攻撃の拠点となりうる建築物に、令状なしに侵入、捜索することが許可された。言わば、AFSPAは007の世界に出てくる「殺しのライセンス」である。しかも、AFSPA適用対象となる「紛争地域」は、中央政府によって事実上独断で決定される。実はイギリス植民地時代にも同名の法律はあったが、特別権限は指揮官のみに与えられていた。現在のAFSPAは、隊員1人1人に独断の権限が与えられている。AFSPAは1958年にマニプル州の一部で適用され、1980年に州全域に適用されることとなった。

 現在、AFSPAはマニプル州だけでなく、アッサム州、アルナーチャル・プラデーシュ州、ナガランド州、メーガーラーヤ州、トリプラー州、ミゾーラム州などのインド東北部全7州に加え、ジャンムー&カシュミール州で適用されている。AFSPAの適用された地域では、治安部隊による同法の濫用が頻発し、罪のない住民が強奪、誘拐、拷問、強姦、殺害などの被害に遭っている。また、事件が起きるたびに中央政府は加害者の治安部隊員をかばい、事件を正当化する行動を繰り返した。マニプル州だけでも、AFSPA適用後から合計1万2千人以上の人々が治安部隊に殺されたという。以上のような理由から、AFSPAは人権団体から非難を浴びており、中央政府から「紛争地域」と指定された地域に住む住民は、激しく同法と治安部隊に反抗している。住民の間に芽生えたこの反感や不信感が、東北部での武装組織の勢力拡大につながったのも明らかである。

 そんな中、ちょうど1ヶ月前の7月11日に、地元の女性が治安部隊のアッサム・ライフル隊によって殺害されるという事件が発生した。殺害された女性の名前はタンジャム・マノーラマー・デーヴィー、32歳。マノーラマーと母親と弟の3人が夕食を終えて就寝していたところ、深夜12時半頃に突然ドアを激しく叩く音がし、7、8人の男が家の中に踊り込んで来た。彼らはアッサム・ライフル隊所属の治安部隊だった。隊員たちは、マノーラマーにテロ組織の人民自由軍(PLA)幹部である嫌疑がかけられていることを指摘し、家族の目の前で拷問して、彼女を連れ去って行った。その数時間後の午前5時頃、マノーラマーの遺体が自宅から数キロ先で発見された。遺体は全裸に近い姿で、身体には16発の銃弾の跡があり、しかも性器にまで弾丸が撃ち込まれていたという。レイプ後に殺害された可能性が高く、性器への発砲は証拠隠滅のためだと思われる。

 このニュースは瞬く間にマニプル中に広がり、長年治安部隊に虐げられてきた住民の怒りが爆発した。犯行を行った隊員は停職処分になった後、行方が分からなくなった。オクラム・イボビ・スィン州首相(国民会議派)は司法調査を命じ、インパール市には外出禁止令が出された。政府の対応に全く誠意が見られなかったため、マニプル州の騒乱は悪化の一途を辿り、7月15日には、12人のマニプリーの女性活動家たちが全裸になって、インパール市のアッサム・ライフル隊本部の前に立ちはだかるという前代未聞の事件が起こった。彼女たちは、「インド軍が我々をレイプした」「インド軍が我々の肉を喰らった」と書かれた横断幕を持って、「私たちをレイプできるもんならしてみろ!」と呼びかけ、犯人の引き渡しとAFSPAの撤廃を求めた。全マニプル女性社会改革開発協会の書記長で、全裸デモを指揮したトクチョム・ラマニ(75歳)は、「我々の尊厳と名誉が守られない中、衣服を着る意味があろうか?」と語気を荒くした。




全裸デモ


 州内32組織がAFSPA撤廃を求めて反対運動を行う中、イボビ・スィン州首相はデリーに飛んで中央政府と今後の対応について協議したが、中央政府はAFSPAの撤廃やアッサム・ライフル隊の撤退に関して首を立てに振らなかった。8月3日、イボビ・スィン州首相が何の手柄もなくマニプル州に戻ってくると、それを待ち構えていた学生団体が州首相の通る道を遮断した。治安部隊との間で激しい衝突があり、100人以上が負傷し、1人が死亡した。現在、マニプル州の公共機関はほとんど閉鎖されており、公共機関もストップしている。32組織は中央政府に対し、8月15日までにAFSPAの撤廃と慰謝金の支払いを決定することを要求しており、州内の組織には、この騒乱を利用してマニプル州の独立を実現しようと画策する者も現れている。イボビ・スィン州首相ら国民会議派の議員8人も、とうとうやけくそになったのか、住民に加わって、「8月15日までにAFSPAを撤廃しないならば揃って辞任する」と中央政府に訴えている。とにかく、独立記念日の8月15日がこの問題のデッドラインとなりそうだ。

 悪名高きAFSPAだが、中央政府は簡単に撤廃しないだろう。なぜなら同法は他の多くの州でも適用されており、それらの州で長い間撤廃が要求されているからだ。一旦マニプル州のAFSPAが撤廃されたら、他州が後に続いて撤廃要求を強めるのは必至である。また、同法がテロリストたちへの牽制に役立っていることも見逃してはならない。マニプル州内では17の武装組織が活動していると言われている。ただ、国民会議派政権は現在、911事件後の米国主導の対テロ戦争に便乗する形でBJP政権が施行したテロ防止法(POTA)の撤廃を進めており、同じような目的のAFSPAを撤廃しないのは、少し筋が通らないことになる。現時点では、中央政府内務省のシヴラージ・パティール大臣が、マニプル州からアッサム・ライフル隊を撤退させる準備があることを表明したものの、AFSPA撤廃は完全に否定している。

 一方、アッサム・ライフル隊は、殺害されたマノーラマーが間違いなくPLAの隊員であったことを強調している。情報筋によると、マノーラマーは1997年にPLAに入隊した爆発物取扱いのエキスパートで、多くの地雷や即席爆発物(IED)の敷設に関わったという。だが、彼女の写真を見る限り、そんな物騒なことをするような人には見えないのだが・・・。もっとも、状況はもはや彼女がテロリストであろうがなかろうが関係ないところまで深刻化してしまっている。




マノーラマー


 AFSPAの濫用や中央政府の北東州に対する冷たい態度なども気になるところだが、やはり一番目を引くのは、マニプリーの女性たちの全裸の抗議だ。インドではちょっと想像できない行為である。北東州はインド文化圏というよりも東南アジア文化圏に近く、女性たちが積極的に社会に関わっており、母系社会的特徴も強い。また、あの辺りには元々首狩りの風習があった。勇猛果敢な首狩り部族の女性たちだったからこそ、全裸デモという偉業を達成できたのだろう(ただし中年以上のおばさんばかりだったようだが・・・もともと裸族みたいなものだったのだろうか?)。少なくとも、全インドの視線をマニプル州に向けることに成功した事件だったと言えるだろう。

 ・・・全然関係ないが、マニプル州の隣のナガランド州の女の子に、冗談ながらハエタタキで叩かれそうになったことがある。そのときふと、必要以上に身の危険を感じた。ハエタタキを構えたナガランド人のその女の子の姿は、まるで斧を振り上げた首狩り族そのままであり、腰を低く構えてこちらを凝視する姿は、今にも飛び掛って来て本当に首を狩られそうな気分になった。まあ、首狩りは最近イラクでも横行しているし、サッカーも元々は人間の生首をボールにして遊んでいたようだし、そもそも日本にだって首狩りの風習はあったわけで、ノースイーストの人々を首狩り族だからと言って馬鹿にすることはできないのだが・・・なんか彼らは特別に生粋の首狩り族っぽいオーラを持っているように思える。全裸のマニプリー女性がデリーに押し寄せて来たりなんかしたら大変である。

8月12日(木) インドで人気者作戦@

 インドは所有物でステータスを測られる国だ。日本にもかつてはそういう時代があったが、物が溢れて飽和状態になった現在では、そのようなことはあまりない。しかし、インドでは未だに物の有無やグレードがその人の社会的地位を象徴する。例えば、自転車の所有者はスクーターの所有者に勝てず、スクーターの所有者はバイクの所有者に勝てず、バイクの所有者は四輪車の所有者に勝てない。つまり、いくら高価なバイクを持っていても、オンボロな四輪車を持っている人よりはカーストは下となる。この状況を見て、「インドの道路では車輪の数がカーストの高さに比例する」と短絡的に結論付ける人もいるが、それは正確ではない。例えば三輪車であるオート・リクシャーの運転手は、スクーターの運転手よりもカーストが下となる。なぜなら、スクーターの運転手は大方の場合スクーターの持ち主であるが、オート・リクシャーの運転手はボスからオートを借りて運転しているだけの、スクーターも買えない低所得労働者であり、自ずとスクーター所有者には頭が上がらないことになる。また、バスの運転手も同様であり、乱暴な運転をする割には、いざ歩行者をひき殺したりすると、彼らは周囲の人々から袋叩きに遭う。車輪の数は必ずしもカーストの高さを表さない。

 ところで、日本にはまだまだインド人には物珍しいものが多い。すぐに思い付くものは電化製品だろう。しかし、デジカメ、ハンディカム、ノートPCなどのような電子機器は、はっきり言ってデリーでももう珍しいものではなくなってしまった。持っていれば持っていたでそれなりに効果はあるだろうが、しかしその反応はあまりに当たり前なので楽しくない。面白いのは、我々が日本で当然のごとく使っているものが、インドで意外に大好評という事態である。まさに「インド人もビックリ、日本人もビックリ」だ。お土産に話を限定すれば、自分自身の経験や周囲の人々の話から、三色ボールペン、まな板、折り畳み傘、リュックサック、マグライト、ゴム手袋、亀田の柿の種、ユニクロの服あたりがけっこう喜ばれるように思われるが、お土産ということもあって予算に限りがあるため、これらはまだまだ「ビックリ」というレベルには達しない。インドにもう3年も住んでおり、何度かインドと日本の間を往復してきたので、次第にそういう「インド人をビックリ」という確信犯的な品物を持ち帰りたいという欲望が生じてきた。しかもお土産ではなく、自分自身のため。言わば、日本からインドに、インドにはない品物を持って来てインド人の注目を集め、意図的に人気者になってしまおうというしょうもない計画だ。

 断っておくが、特に何もしなくても、普通の日本人がインドに飛び込めば、それなりに注目を集めるし、それなりに人気者になれる。特に外国人が珍しい田舎の方へ行けば、一気にヒーローになって衆目を浴びる。しかし、それでは受動的な人気者止まりである。能動的にインドで人気者になるためにはどうしたらいいのか、何を持って来ればいいのか、それを考えることに意義がある。

 この人気者作戦のために、今回日本からいくつかアイテムを持って来たのだが、まだ機が熟していないこともあり、全てを明かすことはできない。段階的に、何を持って来たか、どのようにお披露目したか、インド人の反応はどうだったかを公開していこうと思う。まず手始めに発表するのは、ヘルメットである。

 インドは二輪車ユーザーが多い割に、またヘルメット着用が一応義務付けられている割に、いいヘルメットが少ない。いいヘルメットというのは、かっこいいヘルメットという意味もあるし、万一のときに命を守ってくれるだけの強度を持つヘルメットという意味もある。デリーの大規模なヘルメット市場はカロール・バーグで、オールド・デリーのダリヤー・ガンジや、グリーン・パークなどでもヘルメットは手に入るが、いいものは少ない。時々輸入物のヘルメットを扱っている店もあるが、一番の欠点は、インドのヘルメットはインド人用サイズになっているため、日本人の頭の大きさに合うものが少ないことだ。また、デリーの道路を走っていると、道端にヘルメットをひな壇のように飾り立ててヘルメットを売っている人がたくさんいるのに気付く。こういうところで売られているヘルメットは、安価だが低品質のヘルメットばかりだ。とにかく、インドのヘルメットは、安全性など二の次で、警察に捕まらなければいい、という程度の発想で作られているものがほとんどである。

 僕はバイクを購入する前、たまたま立ち寄ったグリーン・パークのヘルメット専門店で、Vegaというメーカーのフルフェイス・ヘルメットを1000ルピーで購入した。デザインが奇抜で、かぶったときのフィーリングが一番よかったからである。以後、しばらくの間このヘルメットを愛用していたのだが、不幸にもJNUのキャンパス内で盗まれてしまった。仕方がないのですぐに代わりのヘルメットを探したが、いざ探そうと思うとインドにはいいヘルメットがないことに気付いた。どうしても盗まれたのと全く同じヘルメットが欲しくて、デリー中を駆け回って、やっとカロール・バーグで手に入れた。ところが、このヘルメットも同じくJNUのキャンパスで盗まれてしまう。実はインドのヘルメットには、日本のと違ってヘルメット・ホルダーに引っ掛けるための金具が付いていない。それでいながら僕のバイクにはヘルメット・ホルダーが付いているので、バイク駐車中はヘルメットのあご紐をヘルメット・ホルダーに引っ掛けていた。だが、あご紐を外せば簡単に取り外せてしまうため、二度も盗難に遭う羽目になってしまった。JNUの人々の再三の心無い行為にも失望したが、不用心だった僕もいけない。二代目のヘルメットが盗まれた後は、「高価なヘルメットは必ず盗まれる」と悟り、道端で売られている200ルピーの安価なヘルメットを買った。強度には不安があるが、作りがシンプルであるため軽くて風通しがよく、案外安いヘルメットの方がいいかも、と気付いた。その他、友人から譲り受けた、正真正銘のバカチョン・ヘルメットも持っている。これは、日本の小学生がかぶる自転車用ヘルメットよりもさらに貧弱なプラスチック製のヘルメットで、事故っても何の救いにもならないだろう。値段は20ルピーほどのようだ。





初代Vegaヘルメット
バイクの色とコーディネートして購入
JNUにて盗まれる
二代目も同じくJNUにて盗まれる




三代目Hero Hondaヘルメット
案外軽くて使い勝手がいい




バカチョン・ヘルメット


バカチョン・ヘルメット内部


 200ルピーのヘルメットでそのまま過ごしたが、日本に帰ったのを機に、インドでは手に入らないデザインのかっこいいヘルメットをインドに持ち帰ることにした。ドンキホーテ、東急ハンズ、ヴィーナス・フォートなどを巡った後、上野のバイク街で最終的にヘルメットを購入した。僕が選んだのは、ゴーグル付きの半キャップ型ヘルメット。半キャップのヘルメットはインドでも手に入るが、ゴーグル付きのものはインドでは今のところ見たことがない。しかも、ただの半キャップではなく、革張りである。一見、空軍のパイロットがかぶっているヘルメットに似ている。




四代目ゴーグル付き半キャップ


 案の定、このヘルメットは現在大好評である。道を走れば皆の注目を集め、JNUでは皆から「すげぇ、これはどこで買ったんだ?」と絶賛の嵐。インド人ばかりでなく、アメリカ人、韓国人、インドネシア人、タイ人などからも評判がいい。日本のアニメ好きの人には、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」や、大友克洋監督の最新作「スチームボーイ」と指摘されることもあった。とりあえず、インド人をビックリ&人気者作戦第一弾は成功裡に終わったようだ。このタイプのヘルメットを大量にインドに持って来て、道端に並べて売ろうかと考えたほどだ。ただ、インドで人気者になるということは、常に周囲の邪視にさらされることに等しい。このヘルメットをヘルメット・ホルダーに掛けたりしたら、一瞬の内に盗まれることは火を見るより明らかなため、必ず持ち歩くことにしている。また、映画館など、ヘルメットを持ち込めない場所へ行くときは、必ず三代目ヘルメットをかぶって行くことにしている。所有物により人気者となった人の人生は至難の道である。この国では、持てば持つほど、生活が窮屈になって行くように思える。金持ちが貧乏人から搾取する以上に、貧乏人は金持ちから搾取しようとする。日本には「もてる男はつらいよ」という言葉があるが、これは「持てる男はつらいよ」という意味だったかと気付かされたのであった。

8月13日(金) Kyun! Ho Gaya Na...

 独立記念日が近づくにつれて、首都デリーの警戒レベルが上がっている。今日はPVRアヌパムで新作ヒンディー語映画「Kyun! Ho Gaya Na...」を見たのだが、館内に一切バッグを持ち込めなかった(いつもなら持ち込める)。この厳戒態勢はデリーの過ごしにくい部分のひとつだ。しかも最近大雨がよく降るので、道路が無茶苦茶になっている。舗装がいい加減なので、雨が降るとすぐに穴ぼこだらけの水溜りだらけになるのだ。これでまた道路舗装の仕事ができ、失業対策になるというわけである。よくできたシステムだ・・・。

 「Kyun! Ho Gaya Na...」は今月一番の期待作だ。何と言っても、現在のボリウッドの噂のカップル、ヴィヴェーク・オーベローイとアイシュワリヤー・ラーイが主演するのだ。監督はサミール・カールニク、製作はボニー・カプール、音楽はシャンカル・エヘサーン・ロイ。その他のキャストは、アミターブ・バッチャン、オーム・プリー、スニール・シェッティー、ティンヌー・アーナンド、ラティ・アグニホートリー。ラストでビックリ、ディーヤー・ミルザーも特別出演している。「Kyun! Ho Gaya Na...」の題名を日本語に訳すのは少し難しいのだが、意訳すると「ほら!恋しちゃったでしょ・・・」とか「どうだい!うまくいっただろ・・・」みたいなニュアンスである。




ヴィヴェーク・オーベローイ(左)と
アイシュワリヤー・ラーイ(右)


Kyun! Ho Gaya Na...
 ディヤー(アイシュワリヤー・ラーイ)は山間のコーヒー・プランテーションに父親のマルホートラー(ティンヌー・アーナンド)と共に2人きり住む純朴な女の子だった。ディヤーはお見合い結婚を忌み嫌い、本当に好きな人と結婚すると心に決めていた。マルホートラーの親友、ラージ(アミターブ・バッチャン)は、プランテーションで孤児院を営む独身貴族だった。ディヤーも孤児院の仕事を手伝っており、彼女はソーシャル・ワーク修士のテストを受けにムンバイーへやって来た。

 ムンバイーにはマルホートラーの友人カンナー夫妻(オーム・プリーとラティ・アグニホートリー)が住んでいた。ディヤーはカンナーの家に滞在してテストに備えることになったが、カンナー家の1人息子アルジュン(ヴィヴェーク・オーベローイ)は、ディヤーをからかってばかりいた。アルジュンは「オレの辞書に恋愛と敗北はない」が口癖の男で、母親が気に入った女性とお見合い結婚をすると決めていた。

 実は、マルホートラー家とカンナー家は、ディヤーとアルジュンの結婚をアレンジしようと考えていた。しかし2人とも強情な性格だったため、何も言わずに2人を引き合わせようと考えていたのだった。アルジュンと出会ったディヤーは一瞬の内に恋に落ちてしまうが、恋愛のことなど真剣に考えたこともなかったアルジュンは、彼女のことをからかってばかりいた。アルジュンの悪戯に笑って耐えていたディヤーだったが、彼はとうとう彼女の女心に触れる悪戯をしてしまう。「どうしてそんなに怒るんだよ?」と全く訳の分からないアルジュンにディヤーは泣きながら叫ぶ。「あなたのこと愛しているからよ!」その夜、ディヤーは自宅へ去って行ってしまう。

 ディヤーがムンバイーを去った後、急に元気がなくなってしまったアルジュンは、彼女を追ってプランテーションまで赴く。アルジュンは、マルホートラー、ラージ、孤児院の子供たちと仲良くなるが、自分の心を理解し切れていないアルジュンには、ディヤーに思いを打ち明けることができなかった。

 そんなある日、孤児院の子供たち全員の誕生日を祝うパーティーが催された。そこへ、かつてラージの孤児院で育って現在米国に住んでいるイシャーン(スニール・シェッティー)がやって来る。イシャーンとディヤーは幼馴染みで、旧交を温めあうが、それを見てアルジュンの心には嫉妬が生まれる。イシャーンがディヤーにプロポーズし、2人の結婚が決まると、アルジュンは傷心のままムンバイーへ帰ってしまう。

 ムンバイーへ帰ってもアルジュンは落ち込んだままだった。自分はディヤーに恋していたことを自覚したアルジュンは、イシャーンとディヤーの結婚式に乗り込む。だが、進行していく2人の結婚式を前に、彼は何もすることができなかった。アルジュンはラージにつぶやく。「最後に1回でもチャンスがあれば・・・!」それを聞いたラージは「よし、チャンスをやる」と言う。

 実はイシャーンとディヤーの結婚は、アルジュンにディヤーとの結婚を促すためにラージが仕組んだ茶番劇だった。イシャーンと共に火の回りを回っていたのは、彼の本当の婚約者プリヤー(ディーヤー・ミルザー)だった。アルジュンはディヤーにプロポーズをする。

 伝統的「インド映画の方程式」に則って作られた純インド映画。今をときめくセレブ・カップル、ヴィヴェーク・オーベローイとアイシュワリヤー・ラーイの、現実世界の仲睦まじさを想起させる恋愛劇。いかにも映画らしい甘い名ゼリフの連発は小気味良く、ヴィヴェークを中心としたコメディー・シーンも抜群の冴えだし、シャンカル・エヘサーン・ロイの音楽やミュージカル・シーンにも死角なし。現在ヒット中の「Mujhse Shaadi Karogi」と同じような筋だったのが不幸な点だったが、インド映画ファンは十分満喫できる映画である。

 冒頭のクレジット・シーンは、美しい山と河の風景が映し出され、ヴィヴェークとアイシュワリヤーの名前が同時に登場する。本編が始まってまず現れるのはディヤー役のアイシュワリヤー。普段よりも表情豊かで目の動きがキュートなのが印象的だった。その次の登場するのはアルジュン役のヴィヴェーク。映画館にクスクスと笑いが漏れるほどのかっこよすぎる登場の仕方(かっこいいことはかっこ悪いことなのだ・・・)。いきなり放つセリフが「アルジュンの辞書に恋愛と敗北の文字はない。」このセリフは以後、何度も出てくる。一方、ディヤーの口癖は「恋に落ちるのに時間は必要ない。一瞬で十分。」お見合い結婚派のアルジュンと、恋愛結婚派のディヤー。これだけ聞いただけで、インド映画ファンなら大体の筋書きが分かってしまうだろう。

 少し面白いのは、周囲の人々が2人のお見合い結婚と恋愛結婚を同時に実現させようと画策するところだ。ディヤーとアルジュンは実はお見合い相手でもあり、また2人の両親たちは2人を自然に恋に落ちさせようとしていた。ムンバイーのアルジュンの家に居候し始めたディヤーは、アルジュンと一緒にボーリング大会に出場したり、ダンス・コンテストに出たりする。最初に恋してしまうのはディヤーだった。しかし鈍感なアルジュンは全く彼女の心を理解しなかった。アルジュンは恋愛が何なのかも分かっていない男だった。まさに彼の辞書には恋愛という文字がなかったのだ。ただ彼は、愛している人をからかうことでしか、自分の気持ちを表現できなかった。アルジュンはディヤーを何度もからかうが、彼がさいごにしでかした悪戯は、ディヤーの心を深く傷つけた。親友のヴィナイの誕生日パーティーの日、アルジュンはヴィナイにメッセージ花火をプレゼントする。打ち上げられた花火に書かれていたのは「Diya I Love You」。それを見てディヤーは感動するが、その次に打ちあがったメッセージを合わせると「Diya I Love You Vinay」。つまり、これはアルジュンのジョークで、ディヤーがヴィナイに愛の告白をしているメッセージだった。これに怒ったディヤーは、「あなたの辞書には感情という文字もないのね!」と言って、翌日早朝、ムンバイーを去ってしまう。ここで前半が終了する。

 後半、舞台はディヤーの故郷であるコーヒー・プランテーションに移る。非常に美しい場所だったが、どうやらここはカルナータカ州南部のコーラグ丘陵らしい。また、アミターブ・バッチャン演じるラージが大活躍するのも後半である。ディヤーを追ってやって来たアルジュンだったが、2人の間に特に進展はなかった。ラージは2人の結婚作戦に加わり、彼の孤児院で育ったイシャーンの来訪を機に彼を利用することにする。イシャーンはディヤーにプロポーズし、彼らの結婚はアルジュンの目の前で決定する。ラージの作戦通り、アルジュンは嫉妬と失望で傷ついてムンバイーへ帰ってしまう。ムンバイーで父親がアルジュンに言うセリフは良かった。「恋愛にシャーヤド(多分)はない。恋をしたか、してないか、どちらかだ。」その言葉をきっかけに、アルジュンはディヤーの元へ取って返す。アルジュンが結婚前のディヤーに会うシーンは、「Devdas」(2002年)のデーヴダースとパーローのシーンを思い起こさせる。アルジュンは「心を打ち明けるために来た」と言うが、ディヤーは「もう遅いわ」と冷たい返事。それ以上言葉を続けることができなかったアルジュンは、イシャーンとディヤーの結婚を泣きながら見つめる。「オレは恋愛で敗北してしまった・・・。」インドの結婚の儀式は、新郎新婦が火の回りを7回まわることにより完了する。しかしこのとき、花嫁の頭には深くショールがかぶさっており、顔が見えないのがミソになっていた。実はイシャーンと結婚式を挙げたのは、彼の本当の婚約者プリヤーで、ディヤーはアルジュンのプロポーズを待っていたのだった。アルジュンはディヤーに「愛してる」と気持ちをストレートに伝える。

 一言で総括してしまうならば、前半はアイシュワリヤーのため、後半はヴィヴェークのためにある映画だった。前半では、アルジュンに恋するアイシュワリヤーの表情が素晴らしく、後半では自分の本当の気持ちと格闘するヴィヴェークの表情がよかった。おそらく女性の観客はアイシュワリヤーに共感し、男性の観客はヴィヴェークに共感できるだろう。

 センセーショナルというか、ショックだったのは、あのアイシュワリヤーがキスをしたことだ。アイシュワリヤーは、映画中一切キスをしないことで有名である。ベッドシーンなどもってのほか。そのアイシュワリヤーが、ヴィヴェークと唇を合わせるシーンがあった。現実世界で付き合っている男優がキス相手だったからこそ実現したレア・シーンだと言える。おまけにスニール・シェッティーの頬にキスするシーンまであった。アイシュワリヤーのキス解禁という、おめでたいのだか残念なのだか、よく分からない記念映画となった。だが、噂によると今度彼女が出演するハリウッド映画でもキス・シーンがあるらしい・・・。

 アイシュワリヤー、ヴィヴェーク共に、演技もダンスも素晴らしかった。敢えて言うなら、アイシュワリヤーは特別美しく、ヴィヴェークは特別キュートに映っていたように思える。ヴィヴェークが列車の中でコーラを売り歩くシーンは爆笑ものだ。脇役陣では何と言ってもアミターブ・バッチャンが大活躍だったが、必要以上にハッスルしすぎで謎のキャラになっていたように思える。彼の口癖は「カモン、チャーリー!」だった。全く意味不明なんだが・・・。

 最後にディーヤー・ミルザーが出て来たのには意表を突かれた。ディーヤー・ミルザーはアイシュワリヤーを小さくしたような女優で、非常に顔が似ているのだが、その特徴を監督はうまく使ったと言える。

 映画の所々にはいろんなオマケというか遊びがあった。ラリーがあり、ボーリング大会があり、ダンス大会があり、シカールがあり(借り物競争みたいなもの)。駅のシーンは、ヒンドゥスターン・タイムス紙とタイムズ・オブ・インディア紙の宣伝合戦を微妙にパロったものだが、インドに住んでいないとこのパロディーは分からないだろう。

 音楽監督のシャンカル・エヘサーン・ロイはますます腕を上げている。「Pyaar Mein Sau Uljhanein」は、ハリウッドのミュージカル風の曲。アルジュンとディヤーの結婚観の相違がよく現れている。「Main Hoon」のミュージカルでは、黒ぶち眼鏡をかけたヴィヴェークとアイシュワリヤーを見ることができる。ヴィヴェークはシャールク・カーンっぽいコミカルなダンスを踊っている。「No No」はラップ調のダンス・ナンバー。アイシュワリヤーとヴィヴェークの本気の踊りを見ることができる。特にアイシュワリヤーはジャネット・ジャクソンみたいだ。「Baat Samjha Karo」ではアミターブ・バッチャンが独特の踊りを披露する。基本的にミュージカル・シーンへの入り方は少し強引だった。

 「Kyun! Ho Gaya Na...」は、ストーリーを楽しむこともできるし、俳優を楽しむこともできるし、コメディーを楽しむこともできる優れた映画だ。個人的には、「Devdas」の主人公デーヴダースが、パーローを手に入れることができたような錯覚に陥って胸が熱くなった。ハッピーエンドの「Devdas」と言っていいかもしれない。ただし、アイシュワリヤーの熱狂的ファンで、心臓の弱い方にはオススメできません・・・。

8月14日(土) カリズマ・ラーマーヤナ

 来月7日〜9日の日程で、飛行機でコールカーターまで往復することになった。最近インドの国内線は、早く予約すればするほど料金が安くなるという割引サービスがある。今日は航空券を購入しにコンノート・プレイス近くの旅行代理店に友人と共に赴いた。友人に紹介してもらった旅行代理店で、おかげでインド人料金で航空券を売ってもらえた。ところが何だかんだ言って時間がかかり、2時間ぐらいしてやっと航空券を手に入れることができた。

 航空券を待っている間、ものすごい嫌な予感がしていた。なぜなら、バイクを駐車禁止の場所に停めていたからだ。コンノート・プレイス近くは駐車禁止の取り締まりが厳しい。しかもデリーの警戒レベルが最高潮に達する独立記念日直前だ。同行した友人もバジャージ社のパルサー180に乗って来ていた。航空券の購入を終えて、「まあ大丈夫だって」と言い合いながらバイクを停めた場所へ行ってみると・・・ない!僕のカリズマと友人のパルサーが共にない!やられた!レッカーに持ってかれた!拉致事件だ!というわけで、囚われの身のカリズマとパルサーを取り戻すためのミッションが始まってしまった。まるでスィーター姫を羅刹王ラーヴァンに誘拐されたラーム王子・・・。レッカー移動されたのは初めてだったので、怒りと焦りで唇が震えていた。

 動転しながらも、近くに停まっていたオート・リクシャーの運転手に「レッカー・ワーラー(レッカーの人)はどこだ?」と分かりにくい聞き方をしたら、ありがたいことに理解してくれて、コンノート・プレイス周辺の駐車違反二輪車が集められる場所に連れて行ってくれた。YWCA近く、パリアメント・ストリートの交通警察の派出所だった。オートに座っている間もまだ動揺していて、途中の記憶があまりない。

 そのまま派出所の敷地内を進んでいくと、何台かバイクが停まっている場所があった。心境はまるでランカー島に忍び込んだハヌマーン。見ると・・・僕の赤いカリズマがあった!友人のパルサーも!へなへなと座り込みたいくらいの安心感・・・。一応盗難の可能性もあったのでドキドキしていたが、レッカー移動されただけだったことが分かったので、最悪の状況は脱した。辺りを見渡すと、木陰に交通警察の制服を着たおじいさんがポツンと座っていた。こいつがラーヴァン、もとい、違反車両を取り締まっている警察官のようだ。

 当然のことながら、拉致されたバイクを取り戻すには運転免許証がなければならない。他にもバイクをレッカー移動されたインド人が数人来ていたが、どうやら彼らは無免許運転をしていたようで、運転免許証がないと取り合ってもらえない様子だった。幸い、僕も友人も運転免許証は持参していた。ただし、友人はインドで取得した免許証、僕のは国際免許証である。問題なのは、僕の国際免許証は期限が切れていることだ。

 まずはインドの運転免許証を持っていた友人が先に手続きを始めた。外国人の場合は、在住許可証も必要となるようだ。ただし、パラパラと適当に確認されるだけである。このときは2人とも、航空券購入に必要だったために在住許可証を持っていた。友人の手続きは順調に済み、駐車違反の罰金100ルピーと、レッカー移動代の100ルピー、合計200ルピーを支払って手続きは終了した。

 さて、僕の手続きの方は多少難航した。警察官は国際免許証を初めて見たようで戸惑っていた。僕が一番見て欲しくなかったのは、国際免許証の表紙裏の英文。小さく「有効期限は発行日から1年」と書いてある。国際免許証には他に有効期限の具体的な日付は明記されていない。発行日だけは表紙に書いてある。見たところ、その警察官は英語の教養くらいはありそうだ。案の定、警察官は「有効期限はどこに書いてある?」と聞いてきた。なるべく平静を装いながら、「書いてない」と答えた。「これは本物か?本物はどこだ?」と聞いてきたので、持っていた日本の運転免許証を見せた。もちろん、日本語で書かれているので警察官は読めない。しかも日本の運転免許証は、西暦ではなく日本の暦で期限が書かれている。だが、数字だけは「インド数字の国際形」なので誰でも読める。僕の免許証には「平成17年12月25日まで有効」と書かれていたので、駄目元で「期限は2025年12月17日だ」と言ってみた。インドでは年月日の並びが、日/月/年となるので、それっぽく見えるのではと考えたのだ。・・・そんな口から出任せが通じるかと思ったが、嬉しいことに簡単に納得してくれた。こんな無茶苦茶、日本じゃ絶対通用しないだろう。・・・何事にもルーズな国に住んでて本当によかった・・・。僕も罰金+レッカー移動代の200ルピーを支払った。外国人だからといって、特に賄賂などは要求されなかった。案外、デリーの交通警察はきちんと仕事をしている。

 何とかピンチは乗り切り、カリズマとパルサーを取り戻した我々だったが、最後の懸念が残っていた。それは、レッカー移動時にどこか壊されていないか、ということだ。かなり乱暴な扱いを受けるので、いろんなところに傷が付いたりすることは容易に想像できる。「ラーマーヤナ」で言えば、スィーター姫のアグニ・パリークシャーだ。僕のカリズマは・・・見たところ目立った傷は付いていなかった。エンジンもちゃんとかかった。ほぼ異常なし!カリズマの貞操は守られた!ところが、不幸なことに、友人のパルサーは左後部ウィンカーが割れていた。レッカー移動時にどこかにぶつけたのだろう。可哀想に・・・。動揺を隠し切れない友人は、帰る途中、道を間違えていた。その後調べてみたところ、僕のカリズマのウィンカーにも多少傷が付いていたが、まあ許せる程度だった。

 ここのところ立て続けに交通警察のお世話になっており、心臓に悪いので、僕もインドで運転免許証を取得しようかと思い始めた。インドの運転免許証は、お金を出せば簡単に買うことができるし、身分証明のために役立つ。インドの運転免許証があれば、あのタージ・マハルでもインド人料金で入ることができるという。一応応急措置として、国際免許証の表紙裏にパスポートのコピーを貼って、有効期限に関する表記を隠しておいた。僕のある友人などは、国際免許証をカードサイズまで縮小コピーしてラミネートして使っている。彼は今まで何度も交通警察に捕まったようだが、免許証に関して何も言われたことはないという。確かに国際免許証は変なサイズで携帯に不便で、しかも紙製で免許証っぽくないので、警察の受けがよくない。せめてカード型にしてくれればいいのだが・・・。

8月17日(火) アテネ五輪のミス・インディアは誰か

 先週からアテネ五輪が始まり、世界の視線は世界最大のスポーツの祭典に集まっている。日本の選手もけっこう頑張っているようで何よりだ。ここインドでもアテネ五輪は話題になってはいるが、いかんせん、未だにメダル獲得数がゼロなので、盛り上がりはイマイチである(と思っていたら、本日男子射撃でラトール少佐が銀メダルを取ったようだ)。アジアの超大国仲間である中国が国別メダル獲得数争いを独走しているのと比べると非常に対照的だ。また、なぜかインドで生中継されている競技は、女子重量挙げや女子ホッケーなど、マイナーなものばかりである。おそらく人気の競技は放映権料が高くて、インドのTV局では手が出せないのだろう。おかげで、女子重量挙げにかなり詳しくなった。

 7月29日(木)7月31日(土)の日記でインドの五輪出場選手やインドの五輪の歴史を調べたこともあり、日本人選手以上にインド人選手のアテネ五輪での活躍が気になっている。日本人選手は「メダルを取って当たり前」みたいな雰囲気の中でオリンピックに出場している人が多く、金メダルを取ってもものすごい感動はないが、インドは「メダルが取れたら奇跡」くらいのギリギリの線で戦っている人がほとんどであるため、応援にも力が入る。今のところ、女子重量挙げのサナマーチャー・チャーヌーが4位と、あと一歩のところでメダルを逃している。金メダルを期待されていた女子射撃10mARのアンジャリー・バーグワトは決勝まで進めなかった。あとは、女子走り幅跳びのアンジュ・ボビー・ジョージ(8月25日から)や、現在試合が行われている男子テニス・ダブルスのリーンダー・パエス&マヘーシュ・ブーパティ組に期待するしかない。

 いつから始まった習慣なのかは知らないが、オリンピック期間中、日本のマスコミは、メダル候補の選手に加え、テレビ映りのいい女子選手を好んで取り上げることが多い。ストレートに言ってしまえば、「五輪選手の中で誰が一番かわいいか」みたいな企画をやったりして、あまり関係ない方面から五輪を盛り上げようとしたりする。面白いことに、そういう考え方はあまりインドにはない。あくまでスポーツ選手はスポーツ選手として、スポーツのことだけを中心に取り上げる硬派な姿勢を取っているように見える。多分、そういう部分ではインドのマスコミの方が健全なのだと思う。これを「未熟」だと表現することも可能だが、それならば日本のマスコミは「末期症状」と言えるだろう。

 とは言え、誰もやっていないとやりたくなってくるのが人情というものである。果たして、五輪に出場したインド人女子選手の中で、一番かわいいのは誰だろうか?今回五輪に参加したインド人女子選手は27人いる。・・・まあスポーツ選手なので、映画女優と比べると見劣りがするのは仕方がない。女子重量挙げの選手なんて、現役の首狩り族みたいなごっつい人がいたりして、逆に注目してしまったりもする。27人全員を見たわけではないが、多分その中で一番整った顔立ちをしているのが、女子バドミントンのアパルナー・ポーパトではないだろうか、と個人的に思っている。




アパルナー・ポーパト


 アパルナー・ポーパトは1978年1月18日ムンバイー生まれ。8歳の頃からバドミントンを始め、13歳の頃には州大会、全国大会で優勝を重ねるようになる。インドの伝説的バドミントン選手、プラカーシュ・パドゥコーネーがバンガロールにバドミントン・アカデミーを開校すると、16歳のアパルナーはそこへ移ってさらに腕を磨いた。1日4時間半練習しているそうだ(けっこうマイペース?)。前回、シドニー五輪に参加したときの彼女の世界ランクは第16位。ところが1回戦で敗退してしまう。現在の世界ランクは第27位。アテネ五輪にはインド唯一の女子バドミントン選手として参加したが、1回戦を勝ち抜くものの、2回戦で敗北。ベスト16位止まりだった。

 実はインドでは最近密かにバドミントンが人気である。夕方、住宅街の路地裏でバドミントンをして遊んでいる子供たちがけっこういる。クリケットは人数が揃わないとできないが、バドミントンは道具さえあれば2人で遊べる手軽なスポーツなので、インドでも受けていると思われる。ただ、相手を負かすような打ち方ではなく、あくまでキャッチボールのような仲良しバドミントンだ。アパルナーはインタビューで、「リーンダー・パエスがアトランタ五輪で銅メダルを取った後、インドでテニスブームが起きたように、私が五輪で活躍することによってインドでバドミントンの知名度が上がってくれれば」と言っていた。残念ながらメダルには手が届かなかったが、バドミントン・アカデミーがあるくらいなので、これからバドミントンはインドの有望なスポーツになっていくかもしれない。

8月20日(金) Fida

 先週は実生活のカップル、ヴィヴェーク・オーベローイとアイシュワリヤー・ラーイが共演する映画が公開されたが、今週も同じようなコンセプトの映画が公開された。「Fida(献身)」という名の映画で、共演するカップルはシャヒード・カプールとカリーナー・カプール。カリーナー・カプールは説明の必要がないくらいの有名な女優だが、シャヒード・カプールは「Ishq Vishq」(2003年)でデビューしたばかりの若手男優である。監督は同じく「Ishq Vishq」でデビューしたケーン・ゴーシュ。音楽はアヌ・マリク。ファルディーン・カーン、アキレーンドラ・ミシュラー、キム・シャルマーも出演する。PVRアヌパムで鑑賞した。




シャヒード・カプール(左)と
カリーナー・カプール(右)


Fida
 ジャイ(シャヒード・カプール)は偶然見かけたネーハー(カリーナー・カプール)に一目惚れし、しつこく口説く。「私のために命を投げ出すつもりはあるの?」との言葉に対し、ジャイは左腕に「I Love U Neha」と自ら刺青を入れて、睡眠薬を大量に呑み込んで自殺を図る。ジャイは一命を取り留めるが、その行動がネーハーの心を動かし、2人は恋仲となる。

 ある日、ジャイはネーハーが大きなトラブルに巻き込まれていることを知る。死んだ父親がマフィアから借りた金、6千万ルピーを3日後までに返さなければ、ネーハーはマフィアに殺されることになっていたのだった。ジャイは6千万ルピーを用意するために銀行強盗をすることを決意するが、銀行で7千万ルピーの現金を引き出している男を見つけ、彼から金を盗むことにする。男の名前はヴィクラム(ファルディーン・カーン)だった。

 夜、ジャイはヴィクラムの家に忍び込むが、ヴィクラムに殴られて気絶してしまう。翌朝、ヴィクラムは目を覚ましたジャイから事情を聞く。ジャイの置かれた状況を理解したヴィクラムは、6千万ルピーを提供する準備があることを伝える。ただし条件があった。

 少し前にインド全土を震撼させた事件があった。何者かが銀行から50億ルピーの金をインターネットをハッキングして盗み出したのだ。犯人はまだ捕まっていなかった。実はその犯人がヴィクラムだった。ヴィクラムはジャイに、身代わりになって警察に出頭すれば、6千万ルピーを提供しようと提案する。ネーハーのためなら命を投げ出す覚悟があったジャイは、ヴィクラムの提案を了承する。

 ところが、ヴィクラムが銀行から盗み出した金は、マフィアのドン、アンナー・バーブー(アキレーンドラ・ミシュラー)の口座から引き出したもので、アンナーも犯人を必死に探していた。ジャイが警察に逮捕されると、アンナーはジャイを誘拐するために手下を差し向ける。警察とマフィアの銃撃戦が発生するが、ジャイはその合間に逃げ出し、ネーハーの家へ辿り着く。しかし、そこで見たのは、一緒にシャワーを浴びるヴィクラムとネーハーだった。

 実はヴィクラムとネーハーは恋人同士だった。ヴィクラムは銀行から大金を盗み出したが、警察とマフィアの追っ手に怯えて暮らしていた。ネーハーに言い寄る男が現れたのをいいことに、彼を犯人に仕立て上げる計画を立てたのだった。それを知ったジャイは絶望しながらも逃亡するが、途中で警察に見つかって撃たれ、河の中に落ちる。

 2ヵ月後、ヴィクラムとネーハーは金を湯水のごとく使って豪勢な生活をしていた。そこへ突然、ジャイから電話がかかってくる。ジャイは生きており、2人に復讐するためにやって来たのだった。ジャイはネーハーを誘拐して、ヴィクラムに警察に自首するよう求めるが、そこへアンナーも現れ、ヴィクラム、ジャイ、マフィアの銃撃戦となる。マフィアは全員死に、結局最後にヴィクラムが優位に立つが、ジャイは最後の力を振り絞ってネーハーの頭を銃で射抜き、死ぬ。ネーハーを失ったヴィクラムは、ハッキングして手に入れた金をチャリティー団体に寄付する。

 メイン・キャラクターは3人。シャヒード・カプール演じるジャイ、カリーナー・カプール演じるネーハー、ファルディーン・カーン演じるヴィクラム。この内の誰にも感情移入することができなかった。よって、映画を見終わった後の充足感は非常に少なかった。シャヒードとカリーナーの絡みもほとんどなく、最後にはシャヒードかカリーナーを撃ち殺すという、残酷な終焉。全く期待外れの作品だった。

 シャヒードまたはジャイに感情移入できなかったのは、まずシャヒードの無理に作った笑顔が気に入らなかったことと、100%ドーピングのあまりにアンバランスな筋肉。なぜカリーナー・カプールが彼と付き合っているのか、理解できない。映画中のキャラクターもひどかった。彼女(キム・シャルマー)がいるにも関わらず、ネーハーに一目惚れすると彼女を無視してネーハーに言い寄ったりしていたし、ヴィクラムとネーハーに復讐するシーンは悪役に等しかった。ジャイに比べるとヴィクラムの方がかえって純愛キャラだった。ジャイを罠に掛けるところは陰険だが、ネーハーに対する愛情に一点の曇りもなかった。しかし、彼にも感情移入することはできない。ジャイの恋心を弄んだネーハーも、もちろん感情移入することは難しい。よって、インド映画で一番重要な、「映画のキャラクターに観客の心を同調させる」という部分で大失敗していた。

 映画全体の流れもチグハグだった。前半から後半序盤にかけての、ジャイが殺されるシーンまではいい流れだったが、そこからがいけなかった。ヴィクラムとネーハーの家に生き返ったジャイが執拗にストーキングするシーンは突然ホラー映画みたいな手法になるし、ジャイの性格がねじ曲がってしまっているので誰が悪役か分からなくなる。ファルディーン・カーンの登場シーンも何だか蛇足だった(突然空き瓶をキックでぶち割って登場)。

 映画自体の出来は高く評価できないが、カリーナー・カプールだけはいろんな表情を使い分けていてなかなかよかった。「Dev」(2004年)のときも思ったが、カリーナーは無表情に近い表情のときが一番かわいく見える。笑った表情のときはものすごい不細工に見えるときもある。ファッションでは、ミュージカル「Aaja Ve Mahi」で身に付けていた「Wow」マークのベルトがよかった。

 いくつかのミュージカル・シーンや後半部分は、南アフリカ共和国やドゥバイでロケが行われたそうだ。

 あまり見る価値のない映画だが、カリーナー・カプールが付き合っているシャヒード・カプールがどんな男なのか、自分の目で確かめてみるのもいいかもしれない。

8月20日(金) シャンカル・マハーデーヴァン公演

 現在のボリウッド音楽界をリードする音楽家の1人、シャンカル・マハーデーヴァンが出演するコンサート「Amar Jyoti(不滅の光)」が本日、スィーリー・フォート劇場で行われた。招待状をもらうことができ、行くことができた。行ってみて分かったのだが、これは故ラージーヴ・ガーンディー元首相の生誕60周年を祝うイベントであると同時に、国のために殉死した無名の兵士を悼むイベントでもあった。参加ミュージシャンはけっこう豪華で、作曲家チーム、シャンカル・エヘサーン・ロイのリーダーであるシャンカル・マハーデーヴァン、ドラムのA.シヴァマニ、タブラーのウスタード・シャファート・アハマド・カーン、フルートのパンディト・ローヌー・マジュムダル、パカーワジのドゥルガー・プラサード、キーボードのアトゥル・ラニンガー、ヴォーカルのパンディト・ラージャン&サージャン・ミシュラ、タブラーのパンディト・スディール・パーンデーイ、ハルモニウムのメヘムード・ドールプリーなど。来賓もまた豪華で、K.R.ナーラーヤナン元大統領や軍の要人、それにラーフル・ガーンディー、プリヤンカー・ヴァドラーも来ていた。特にプリヤンカー&ラーフルの兄妹は、(暗殺や事故死しなければ)インドの将来を背負って立つ政治家になることは確実なので、今の内に生で見ることができてよかった。個人的には、JNUヒンディー語科のゴーヴィンド・プラサード教授に会場で会ったことに驚いた。しかも教授はVIP席に座っていた。

 まずはタブラー、フルート、パカーワジの3人が軽く演奏し、その後シャンカル・マハーデーヴァンとドラム、キーボードが現れて、総勢6人で演奏した。それが終わった後、ラージャン&サージャンと、スディール・パーンデーイ、メヘムード・ドールプリーの3人が登場した。

 シャンカル・エヘサーン・ロイというと、「Dil Chahta Hai」(2001年)や「Kal Ho Naa Ho」(2003年)の音楽が有名だが、今回シャンカルが披露したのは古典声楽だった。今でこそ映画音楽で有名なシャンカルだが、実は古典音楽にも相当精通しており、特にその声には定評がある。彼の声の使い方は古典声楽そのものだったが、伴奏は純粋な古典音楽ではなく、ドラムやキーボードと合わせたフュージョン風の音楽だった。シャンカルの声は素晴らしく、しかもエネルギーがあるので、聞いていて飽きない。立ち振る舞いもまるで年配のグルのように貫禄があって、それでいながら愛嬌でお茶目な感じがしてよかった。シャンカル・マハーデーヴァンは古典音楽から映画音楽まで幅広く活動する、現代インドを代表する音楽家であることを実感した。

 シャンカルもすごかったのだが、それと同じくらい目を引いたのが、ドラムのアーナンダン・シヴァマニだった。実は彼のことは全く知らなかったのだが、調べてみたら「リズムの魔術師」と呼ばれるくらい有名なドラマーだった。1959年12月1日、チェンナイ近郊のアッラコナムで生まれたシヴァマニは、有名なパーカッショニストだった父親の影響で、7歳の頃からドラムを始めた。11歳で怪我をした父親に代わってレコーディングに参加をしたときからプロの世界に関わるようになり、ノエル・グラント、ビリー・コーバムなどと共演して腕を磨いた。ザーキル・フサイン(タブラー)、トリローク・グルトゥ(フュージョン)、ルイス・バンク(ジャズ)、ハリハラン(ガザル)など、各界の大物にも実力を認められ、ジェームス・アシュレーと共同制作したアルバム「Drums On Fire」は高い評価を得ている。シャンカル・マハーデーヴァンやARレヘマーンとも共演を重ねている。インド映画音楽では、「Roja」(1992年)の「Roja Janeman」、「Dil Se」(1998年)の「Chaiya Chaiya」などに参加している。

 今回のコンサートでは、シヴァマニの周辺には各種のドラムや小道具が立ち並んでおり、彼はそれらをせわしく打ち鳴らしていろいろな音を創出していた。日本の和太鼓もあった。キャラクターも面白くて、観客を大いに沸かせていた。

 残念ながら、シャンカルやシヴァマニの後にあったラージャン&サージャンの声楽は、少しだけ見て席を立ってしまった。以前にも彼らのコンサートを見たことがあるのだが、「あぁあぁあぁあぁ・・・」と喉を鳴らすだけで30分以上引っ張ったりして非常に疲れた記憶があるので、ちょっと敬遠している。ラージャン&サージャン兄弟はインド声楽の大御所と言えるだろうが、僕はシャンカル・マハーデーヴァンの方がエネルギーとショーマンシップがあって好感が持てた。あと、空腹だったのでこれ以上「あぁあぁあぁあぁ・・・」の繰り返しを聞く気力がなかったのも理由である。コンサートの後は、ニザームッディーンの有名なインド料理レストラン、カリームでマトンの脳みそカレーを食べてまったりとした。

8月23日(月) 光陰円の如し

 現在オリンピックが行われており、世界各国の国旗を目にする機会が多い。インドの国旗はティランガー(三色旗)と呼ばれており、基本的に三色から成り立っている。縦に三色が並んでおり、上からオレンジ、白、緑色となっている。オレンジ色(サフラン色)はヒンドゥー教を、緑色はイスラーム教を、そして中央の白色は2つの宗教の調和を表しているという。似たような配色の国旗に、アイルランド、コートジボワール、ニジェールがあるが、インドの国旗のもうひとつの特徴は、中央に配された車輪である。一般的には、これは法輪(ダルマチャクラ)と言われており、アショーカ王の石柱に刻まれている文様で、仏教のシンボルである。しかし、マハートマー・ガーンディーはこれをチャルカー(糸車)と説明しており、アーリヤ・サマージはヴィシュヌの持っている武器チャクラだとしている。コナーラクのスーリヤ寺院の車輪を連想してもおかしくないだろう。ネルー元首相は、インドの国旗の中央に位置する車輪を「インド古代文明の象徴であり、歴史を通じてインドが代表した多くのものの象徴である」と総括的に説明した。

 インド人はゼロという概念を発明した民族として名高いが、僕は円という概念を発見したのもインド人ではないかと思う。インドでは円形のものを見る機会が多いような気がする。牛車などの車輪が円形なのはいいとして、例えばインド人の女性は額に円形の大きなビンディーを付けていたりするし、腕輪も円形だし、ヤントラに円形モチーフのものが多いし、何よりインド人のクリクリッとした大きな目は円形そのものである。そう考えると、インドの国旗の中央に円形の車輪があるのは、非常に大きな意味があるように思えてくる。国旗に円、というと、日本人としては日本の国旗も思い浮かぶ。アジアの国々の国旗には、他の地域に比べて円をモチーフとした国旗が多いかもしれない。インド、日本、韓国、バングラデシュ、ラオスあたりが、アジアで国旗に円の入っている国である。それに比べると、ヨーロッパの国旗は直線を基調としたデザインが多いようにも思える。キリスト教のシンボルである十字架も、直線デザインと言っていいだろう。

 1月9日(金)の日記で、ヒンディー語の「kal」について論じた。ヒンディー語では「明日」を表す単語も「昨日」を表す単語も「kal」である。この言語的特徴から、インド人の時間に対する感覚が日本人や西洋人とは違うのだということが推測できる。我々は、昨日よりも今日、今日よりも明日、日々日進月歩という概念を持っていると思う。言わば、直線的な時間概念である。「光陰矢の如し」という諺に象徴されるように、時間は矢のような形で、矢のような軌道で、矢のような速度でもって進んでいくものだという視覚的イメージがあると考えられる。一方、インド人の時間概念を端的に表すならば、円である。太陽は1日周期で昇っては沈むし、満月は1ヶ月周期で巡ってくるし、季節は1年周期で巡ってくるし、人生も輪廻転生を繰り返す。時間の概念が円形ならば、未来と過去を遮断して考えることは無意味だ。アナログ時計の盤上で分かりやすく説明するならば、1時に対して2時というのは、時計の針を1時間進めるか11時間戻すかだけの違いであり、1時に対して12時というのは、1時間戻すか11時間進めるかだけの問題である。どちらに針を動かしてもやがては辿り着く。「kal」とはつまり、「明日」とか「昨日」なのではなく、「今日から1日離れた日」という意味であり、つまりは「時計の針を任意の方向に1目盛動かした時間」くらいに理解すればいいのだと思う。今日から見たら、その時間的距離は変わらない。

 ところで、果たして時間は直線だろうか、円だろうか。もちろん、目に見えるものではないので、どちらが正しいかを論じるのは無益だ。しかし、地球の形は球形なのに、一見すると平らに見えること、また実際に昔の人の多くはそう考えていたことなどを考え合わせると、時間を直線とする考え方は実は巨大な円形の円周上の1点を捉えただけのミクロな考え方なのではないかと思えてくる。

8月25日(水) ネルー・ガーンディー王朝

 21日付けのタイムズ・オブ・インディア紙一面に以下のような写真と「あの子は誰?」というキャプションが付いていた。




WHO'S THAT BOY?


 まるで捕まった宇宙人みたいな写真だが、もちろんこの子供は人類の子である。多分これだけでは難しいだろう。下の写真を見ればさらに分かりやすい。







 子供の両脇に立っているのは両親。左はロバート・ヴァドラー、右はプリヤンカー・ガーンディー・ヴァドラーである。そう、この子供はロバートとプリヤンカーの長男、ライハーン・ガーンディー・ヴァドラー(4歳)である。つまり、国民会議派のソニア・ガーンディー党首と故ラージーヴ・ガーンディー元首相の孫、故インディラー・ガーンディー元首相のひ孫、故ジャワーハルラール・ネルー元首相のひひ孫ということになる。インド独立後のインドの大部分を支配したネルー・ガーンディー王朝の新たな後継者だ。8月20日にデリーのヴィール・ブーミで行われた、ラージーヴ・ガーンディー生誕60周年記念式典の際、ライハーン君も両親らと共に出席した。そのときの写真である。ライハーン君は、チョコレートとアニメとシャールク・カーンが好きな、フレンドリーで悪戯好きなごく普通の男の子だという。現在、ヴァサント・ヴィハールにあるシュリーラーム・スクールに通っているらしい。ちなみに僕が行ってこの日記でも報告した、シャンカル・マハーデーヴァンのコンサートは、これとはまた別のイベントである。




ラージーヴ・ガーンディー生誕60周年記念式典


 上の写真には、現代のネルー・ガーンディー王朝の担い手と国民会議派の重鎮が多数写っている。左で体操座りをしているのはソニア・ガーンディー党首、その隣で左の方を見ているのは、ソニアの息子のラーフル・ガーンディー下院議員、その隣の青いターバンをかぶっているのが、現在のインドの首相、マンモーハン・スィン博士で、その隣でライハーン君を見ているのが父親ロバート・ヴァドラー、ライハーン君の後ろにいるのが母親プリヤンカー・ヴァドラー、右端にどっしりと座り込んでいるのがデリー政府のシーラー・ディークシト州首相である。

 ネルー王朝の下準備をしたのは、ジャワーハルラール・ネルーの父親モーティーラール・ネルー(1861-1931)である。ネルー家はブラーフマン(バラモン)の中でも最高の権威を持つカシュミール・ブラーフマン出身で、「パンディト」という尊称を持っていた。モーティーラールはイラーハーバードの著名な弁護士で、インド独立運動の指導者であり、国民会議派の議長も担った。その長男、ジャワーハルラール・ネルー(1889-1964)は、英国のケンブリッジ大学などに留学して弁護士の資格を取得し、帰国後は父親と同じ道を歩んでインド独立運動に参加する。マハートマー・ガーンディーの思想に感化されたジャワーハルラールは、国民会議派の議長を何度も担った。1947年のインド独立後は初代首相に就任し、独立インドの発展に寄与した。その一人娘、インディラー・プリヤダルシニー・ネルー(1917-84)は、政治家フィーローズ・ガーンディー(1913-60)と結婚し、以後インディラー・ガーンディーを名乗るようになる。インディラーは父親の病死後、シャーストリー政権を継いで1966年に第三代首相に就任し、「女帝」と揶揄されるほどの強権政治を行う。1977年には総選挙で大敗して首相の座を失うが、1980年に再び首相となる。1984年に護衛のスィク教徒に暗殺される。インディラーには2人の息子がいた。長男のラージーヴ(1944-91)と次男のサンジャイ(1946-80)である。インディラーはサンジャイを自身の後継者に目していたが、1980年に飛行機事故で死亡してしまう。民間航空のパイロットとして働いていたラージーヴは、サンジャイの死後、母親の要請に従って政治の世界に入り、1984年、母親の死後に首相に就任する。ところがボフォールズ事件という贈収賄事件によって1989年失脚し、1991年に遊説に訪れていたタミル・ナードゥ州で爆弾テロにより暗殺される。ところで、ラージーヴはケンブリッジ大学留学中に出会ったイタリア人女性、ソニア・マイノ(1946-)と1968年に結婚していた。ラージーヴの死後、国民会議派幹部は未亡人のソニアの政界進出を画策する。当初は拒否していたソニアだが、90年代後半のインド人民党(BJP)の急速な勢力拡大を見て決心し、1998年に正式に政界に進出する。国民会議派の党首に就任したソニアは、2004年の下院総選挙で会議派の勝利を呼び込み、一時は首相就任が噂されたが、結局首相となったのはマンモーハン・スィン博士だった。ソニアは故ラージーヴとの間に2人の子供をもうけた。長男のラーフル(1970-)と長女のプリヤンカー(1971-)である。プリヤンカーは母親の政界進出後、積極的に母親を助けて自身も政治の世界に身を置いているが、議員にはなっていない。一方、ラーフルが正式に政界に進出したのは2004年の下院総選挙からで、見事当選。プリヤンカーは宝石デザイナーのロバート・ヴァドラーと結婚し、プリヤンカー・ガーンディー・ヴァドラーを名乗るようになった。プリヤンカーとロバートの1人息子が上述のライハーン君である。一方、ラーフルはまだ独身だが、彼にヴェネズエラ在住の恋人がいるとの報道が最近あった。このジャワーハルラール・ネルー→インディラー・ガーンディー→ラージーヴ&ソニア→ラーフル&プリヤンカー→ライハーンを直系のネルー・ガーンディー王朝とするなら、もうひとつ影の傍系が存在する。1980年に飛行機事故で死亡したサンジャイ・ガーンディーの未亡人、メーナカー・ガーンディー(1956-)と、その息子フィーローズ・ヴァルン・ガーンディーである。メーナカー・ガーンディーは国民会議派ではなくジャナタ党に属しており、副大臣や大臣に就任したこともある。メーナカーは政治家である他、動物愛護運動家でもあり、環境保護活動家でもある。彼女が著した「Book of Hindu Names」(Penguin)は、インド関係者必携の本である(本当に彼女が書いたのかは知らないが)。2004年にはメーナカーとヴァルンは親子揃ってBJPに入党し、ネルー・ガーンディー王朝の末裔は国民会議派とBJPの両派に別れて相対することになってしまった。これも運命と言えば運命だろう。

 ところで、ネルー・ガーンディー王朝という名称は、インド独立の父マハートマー・ガーンディーを連想させてしまい紛らわしいのだが、上で見てきた通り、ネルー・ガーンディー王朝の支配者たちとマハートマー・ガーンディーとは直接血縁関係はない。しかし、全く無関係でもない。王朝の人々の名字がガーンディーとなったのは、インディラーがフィーローズ・ガーンディーと結婚したことがきっかけとなったのだが、実はフィーローズは元々フィーローズ・カーンという名前だったという。父親のジャワーハルラール・ネルーは、娘がムスリム(パールスィーとも言われる)のフィーローズと結婚することを頑なに拒否した。それを仲介したのがマハートマー・ガーンディーだった。ガーンディーはフィーローズをかわいがっており、彼にガーンディー姓を与えた。自分の娘がフィーローズと結婚することでガーンディー姓となることに政治的利点を見出したネルーは、彼らの結婚を許したという。別の説では、フィーローズの姓は元々「Ghandi」だったという。マハートマー・ガーンディーは彼に、綴りを自分の姓と同じ「Gandhi」に変えるようにアドバイスし、以後フィーローズは「Gandhi(ガーンディー)」姓を名乗るようになったという。どちらにしろ、インディラーがインド最高のカリスマであるマハートマー・ガーンディーと同じガーンディー姓となったのは、偶然とは考えにくい。その裏には政治的な意図が見え隠れする。田舎の無学なインド人は、ガーンディー姓を見てガーンディーの子孫だと勘違いすることもあったのではないかと思う。

 ・・・と、長々とネルー・ガーンディー王朝の系譜について説明してしまったが、何を一番言いたかったかというと・・・もう一度この写真を見てもらいたい。




ラージーヴ・ガーンディー生誕60周年記念式典


 居並ぶ政治家たちの中で、ソニア党首だけが体操座りをしていたのがものすごい気になったのだ。他の人々は皆一様にあぐらをかいているのに、ソニア党首だけが体操座り・・・。この写真を見て、もしかしてソニア・ガーンディーは未だにあぐらをかけないのではないかと考えた。西洋人というのはあぐらや正座が大の苦手である。苦手というより、そんな座り方今までしたことがない、という人がけっこういる。ソニア党首がインドに住み始めて既に30年以上が経つ。伝統的ローマン・カトリックの家に育ち、当初はインド料理が大嫌いだったというソニア・ガーンディー。1983年にはインド国籍を取得し、今ではインドの文化にかなり親しみ、ヒンディー語も片言ながらマスターしているが、あぐらだけはまだ苦手なのではないか・・・。しかし、インド人の家庭に外国人が飛び込むこと自体大変なことなのに、よりによってインドを長年支配してきたネルー・ガーンディー王朝に嫁入りし、インドの政局を立派に舵取りしているソニア党首には、同じ外国人として、またケーンドリーヤ・ヒンディー・サンスターンの後輩として、全く頭が上がらない。彼女が米フォーブス誌の「世界で最も影響力のある女性100人」の第3位に入ったこともうなずける。

8月27日(金) Dhoom

 ハリウッドのアクション映画では、ジョン・ウー監督の「ミッション・インポッシブル2」(2000年)辺りから、カーチェイスの代わりにバイク・チェイスが一時的に流行した。一昔の映画では「Easy Rider」(1969年)がバイク映画の金字塔と言えるだろう。インドでは二輪は「中産階級の乗り物」というイメージが強く、四輪車に比べて決してかっこいいイメージはない。しかしながら、ハリウッド映画の影響からか、最近バイクのかっこよさを前面に押し出した映画がチラホラ出ている。例えば「Janasheen」(2003年)はバイクレーサーが主人公の映画だった。そんな中、いよいよ真打登場。スズキの大型バイクが何台も爆走しまくる、バイク野郎のバイク野郎によるバイク野郎のための映画、「Dhoom」が今日から公開された。PVRアヌパムで鑑賞。

 「Dhoom」とは「騒音」みたいな意味。監督はサンジャイ・ガーンドヴィー、音楽はプリータム。キャストはアビシェーク・バッチャン、ウダイ・チョープラー、ジョン・アブラハム、イーシャー・デーオール、リーミー・セーンなど。パリーザード・ゾーラービヤーンがゲスト出演。しかしこの映画の真の主人公はスズキのバイクたち。Suzuki Hayabusa(1300cc)、Suzuki Bandit(1200cc)、Suzuki GSX-R600(600cc)などが登場する。




左からウダイ・チョープラー、
アビシェーク・バッチャン、
ジョン・アブラハム
バイクはBandit(左)とHayabusa(右)


Dhoom
 ムンバイーで輸入大型バイクに乗った4人組の強盗事件が相次いでいた。いくら警察が必死で追いかけても、時速300km以上出るように改造されたバイクに乗った4人組を捕らえることはできず、途中で雲隠れしてしまっていた。担当となったジャイ警視監(アビシェーク・バッチャン)は、市内で盗難バイクを輸入車風に改造して売るアリー(ウダイ・チョープラー)を逮捕する。アリーはムンバイー随一のバイクレーサーでもあった。ジャイはアリーを疑っていたが、アリーを拘留している間にも強盗事件が発生した。

 強盗団を率いていたのはカビール(ジョン・アブラハム)だった。カビールとその仲間は普段はピザ屋で働いていた。エクスプレス・ハイウェイ近辺で強盗が多発していることに目を付けたジャイは、次の目標と思われる場所に張り込む。ジャイの予想は的中し、大型バイクに乗った4人組の強盗団が現れた。ジャイはアリーのバイクに二人乗りして追跡するが、1人を負傷させるものの全員取り逃がしてしまう。この事件をきっかけに、カビールはジャイに挑戦状を叩き付け、次の目標を州首相主催のチャリティー・コンサートだと宣言する。ジャイとアリーは会場に張り込む。

 ところで、チャリティー・コンサートのメインダンサーを務めていたのはシーナー(イーシャー・デーオール)だった。アリーは以前にもシーナーと偶然会っており、一目惚れしていた。シーナーを見たアリーは持ち場を離れて一緒に踊り出すが、その瞬間、カビールら強盗団がチャリティーで集めた金を奪ってバイクで逃走した。ジャイは何とか最後尾にいた男を射殺するが、他の3人はまんまと逃走してしまう。ジャイは衆目の前で持ち場を離れたアリーと殴り合いのケンカをし、その様子が全国に放送されてしまう。

 一方、1人メンバーを失ったカビールは、至急メンバーを補充しなければならなかった。彼が目を付けたのはアリー。TVでアリーがジャイと絶交したことを知っており、彼に声を掛けた。アリーはカビールの仲間となり、共にゴアへ向かう。カビールはゴアで最後の大仕事を計画していた。ゴアの高級ホテルの地下に保存されている1億8千万ルピーの現金を盗む計画である。また、実はシーナーもカビールの仲間であることが発覚した。カビール、アリー、シーナーら6人の強盗団は、それぞれバーテンダー、宿泊客、ボーイ、コックなどに変装してホテルに忍び込む。ところが、そのホテルには、州首相チャリティー・コンサートの失敗で警察官の職を失ったジャイが、妻のスウィーティー(リーミー・セーン)と共に来ていた。それでもカビールは作戦を決行することを決意する。

 ニューイヤー・パーティーの日、カビールらはホテルの地下から金を盗み出す。ところが、これは全てジャイとアリーによって仕組まれた罠だった。アリーはやはりジャイの味方だったのだ。盗難の様子は全てビデオカメラで撮影されており、カビールらはジャイに逮捕される。一方、アリーとシーナーは金を持って去っており、アリーはシーナーを縄で縛って「オレと結婚しよう、そうすれば逮捕されないですむぜ」とプロポーズをする。だが、カビールらは隙を見て逃走し、アリーのところへやって来る。今度はアリーが殺されそうになるが、そこへジャイが駆けつける。カビールはトラックで逃走し、ジャイとアリーはボートで追いかける。最後に逃げられないと悟ったカビールは、バイクで崖から海へ転落する。

 個人的にバイクが好きなので、バイクが主人公のこの映画はかなり楽しめた。だが、ストーリーははっきり言ってありきたりなので、冷静な目で見ればあまり楽しくないだろう。日本の大型バイクがインドを走るという点にロマンを見出せない人には退屈な映画に映る可能性が高い。

 この映画の最大かつ唯一の見所は、インドでは普通手に入らない輸入バイクがレースやチェイスをするいくつかのシーンである。突然ウイリーしたり逆ウイリーしたりもするので、けっこうすごい。特にジョン・アブラハムが乗っていた1300ccのHayabusaは、世界で最も速いバイクと言われており、最高時速は300kmを越える。大型バイクの群れの後ろの方で、225ccのカリズマが数合わせとして密かに走行していたのも僕は見逃さなかった。ちなみに、ウダイ・チョープラーが乗っていた黄色いバイクがBanditで、強盗団が乗っていた黒いバイクがGSX-R600である。1000cc超のバイクに比べたら、カリズマはオモチャみたいなものだ・・・。また、序盤で強盗団の仲間がかっこいいスポーツカーを買ってみんなにみせびらかすシーンがある。しかしカビールは、すぐにそのスポーツカーを崖からわざと落としてしまう。四輪車では強盗をした後に逃げ切るのが難しいからだ。このシーンから、「男はやっぱり四輪より二輪だぜ!」というメッセージを感じた。

 これだけバイクがメインになっていたのに、クライマックスにバイク・チェイスがなかったことが意外だった。代わりにトラックVSボートの変則的チェイスが繰り広げられた。このシーンはこのシーンでなかなか緊迫感があったのだが、残念な気がした。また、途中2台のGSX-R600が転倒し、最後にはHayabusaが海の藻屑と消える。そんなもったいないことするなら、僕にくれ〜と泣きそうになった。カビールら強盗団が、普段はピザ屋の宅配スクーターに乗っているところは憎い演出だった。アビシェークがバイクを走らせるシーンが全くなかったのは、やはり彼の運動音痴のせいだろうか・・・。

 主人公の3人――アビシェーク・バッチャン、ウダイ・チョープラー、ジョン・アブラハム――は皆まあまあの演技をしていた。アビシェークはますます渋い男優になってきたが、アジャイ・デーヴガンと似通ったキャラクターになっているのが懸念である。ウダイ・チョープラーは今回最もはまり役だったかもしれない。トップ・レーサーでありながら、なぜか女の子にもてないというお調子者キャラだった。ジョン・アブラハムはいつも通りの寡黙な役。今回はぶち切れることもなく、なかなかかっこよかった。一方、女優陣はほとんど装飾品に近かったので特筆すべき点はない。

 「Dhoom」のサントラでは、実はけっこう国際的な顔ぶれが揃っている。「Shikdum」は、トルコの人気歌手タルカンの曲「Sikidim」のカバー曲。タイトル曲の「Dhoom」は、タイの人気歌手タタ・ヤンが「Dhoom Dhoom」でカバーしており、CDに収録されている。

 完全に男をターゲットとした映画なので、女性には全く受けない映画かもしれない。しかし、僕はかなり壺にはまった。今年のアルカカット賞に輝きそうな映画である。

8月27日(金) デジカメ付き携帯購入記

 日本に一時帰国して毎回驚くのは、携帯電話の圧倒的な多機能化である。昔は液晶がカラーだったりカメラが付いているだけで驚いていたが、今の携帯はテレビが見れたり、ドラクエが遊べたり、メガピクセルのデジカメが付いていたり、電車の時刻表を見れたりと、いったいどこまで多機能化すれば気が済むのか訳が分からない。言うまでもなく、日本は携帯電話の最先進国である。しかし日本の携帯は日本でしか使えないというデメリットも持っている(最近はローミングできる機種もあるようだが)。その点、インドの携帯は国際標準であるため、SIMカードさえ入れ替えれば、ヨーロッパや東南アジアなどでも使用することができる。SIMカードは自由に取り外しが可能なので、機種交換も日本とは比べ物にならないくらい簡単である。また、香港やタイなどで最新の高性能携帯を買ってインドで使うという粋な道楽もすることができる。ここインドでもカラー液晶携帯は当たり前となり、カメラ付き携帯は徐々に普及しており、ビデオ撮影ができる携帯も登場している。また、インターネットを介してリングトーン(いわゆる着メロ)やらゲームやらをダウンロードすることができる機種も一般化して来た。

 カメラ付き携帯のインドでの普及を思い知ったのは、今年2月7日(土)のブライアン・アダムスのコンサート会場だった。このとき僕はカリズマ購入者の特典としてただでチケットを手に入れていたが、一般の観客は500ルピーまたは700ルピーのチケットを買ってコンサートに参加していた。僕は700ルピー席にいたのだが、僕の周囲にいたインド人は皆カメラ付き携帯を持っていてコンサートをバシバシ撮影していて驚いた。つまり、デリーでカメラ付き携帯を持っている階級というのは、ブライアン・アダムスのような西洋のミュージシャンのコンサートを聴きに来るだけの造詣(?)があり、コンサートに1人700ルピーの代金を支払う経済的余裕のある人々なのだということを知った。ただ、会場は携帯持込禁止だったにも関わらず、皆まんまと持ち込んでいたことにも驚いた。また、インドではデジカメの普及より先にデジカメ付き携帯の普及が進んでいることも見て取れた。とにかく、あのときから、カメラ付き携帯を買おうという野望が沸き起こったのだった。

 しかし、1人でデジカメ付き携帯を買っても、1人で楽しむことしかできず寂しいので、日本人の友人たちと共に同時に購入することにした。僕の携帯はパナソニックのEB-GD75という機種で、2年前のものだった。何度も床に落としたりしたのに特に故障などはなく、バッテリーの持ちもそれほど悪くなっていないので、重宝していたのだが、そろそろ買い換えてもいい時期になっていたことも、新携帯購入の動機のひとつである。とにかく次に買う携帯はカメラ付き、と決心し、今日は2人の友人と共にデリー最大の携帯電話市場、カロール・バーグのガッファール・カーン・マーケットへ向かった。このマーケットで売られているモバイルは非常に安いのだが、全て密輸品と言われている。

 どうせなら日本の携帯に負けないようなメガピクセルのデジカメが付いたモバイルが欲しかったのだが、残念ながらインドではまだメガピクセル時代は到来していない。ノキア社の7610が唯一メガピクセルのデジカメを搭載しているが、値段はカロール・バーグで24000ルピー(約6万円)。現実的な値段ではない。ソニー・エリクソン社のS700があればよかったのだが、これはまだインドでは売られていない。現在インドで売られている携帯のデジカメの質の主流は30万画素ほどである。日本の現状を知っていると無理して30万画素カメラの携帯を買う気が失せるが、一度決心したので撤回はできない。僕がターゲットとしていたのは、ソニー・エリクソン社のK700、Z600、パナソニック社のx300、x70あたりだった。ノキア社の携帯はあまりにインドで普及しすぎていてつまらないし、韓国企業の携帯は日本人としてパスである。他のメーカーもあまり眼中になかった。

 ガッファール・カーン・マーケットは(あくまで個人的な命名だが)「下界」と「天界」に分かれている。天界は下界よりも数段高い位置にある。下界で売られている携帯は主に中古品で、天界は新品の密輸品である。また、天界には携帯修理屋が集中している。下界の携帯電話屋はほとんど露店で、店主はだいたいスィク教徒やアフガニスタン人である。携帯電話の他にも家電製品などが売られているが、このマーケットに来ている人の9割方は携帯電話関連の用事で来ていると考えていいだろう。携帯電話を買う際は、天界の冷房の効いた室内に店舗を構える店で買うのが安心である。ただ、同じような店が十数軒並んでいるので、まずは全ての店を巡って目的の携帯の在庫や値段をチェックすべきだ。注意すべきなのは、ここのマーケットでは箱なし、箱付き、領収書付きで値段がかなり違うことである。領収書付きというのはつまり1年の保証が付いているということで、箱なし、箱付き、領収書付きの順に高くなる。決して安い買い物ではないので、僕たちはインドの買い物の基本に立ち戻って、とにかく時間と労力をかけて買い物をした。すなわち、しらみつぶしに全ての店を回って値段を確認し、またそれぞれの店で店員の解説や推薦を聞いた。しかし、同じ携帯なのに、店によって店員の言うことが全然違うので、どの情報を信用し、どの情報を切り捨てるかが重要だった。




ガッファール・カーン・マーケット(天界)


 一通り見て回った後、とりあえず冷静に考えるために、カロール・バーグのマクドナルドに入って一休みした。果たしてインドでカメラ付き携帯を買う必要があるのか、そもそも新しい携帯に買い換える必要性は・・・などという邪念を振り払いつつ、僕たち3人はそれぞれ目標の携帯を決定した。1人はノキア社の3660(言い値11000ルピー)、僕ともう1人はソニー・エリクソン社のZ600(言い値11000ルピー)である。3660は大型だが手にフィットする形態をしていてなかなかいい。Z600は今や日本では当たり前となった折りたたみ式携帯。インド人はなぜか折りたたみ式携帯をあまり好んでおらず、このタイプの携帯の普及度は比較的低い。一大決心をし、「よ〜し、買うぞ〜!」と気合を入れてマクドナルドを飛び出たものの、その瞬間友人の1人が走ってきたバイクにひかれそうになった。友人が「危ねぇな、馬鹿!」と日本語で叫ぶと、バイクに乗っていたインド人が間髪入れずに「馬鹿野郎!」と日本語で返してきた。「馬鹿!」と言われて「馬鹿!」と返されるのだったら、ただオウム返ししただけだろうということで納得がいくが、「馬鹿野郎!」と返されるのは異常事態だ。日本語を知っているとしか考えられない。僕が日本語で「どうして日本語分かるの?」と聞いてみると、「日本に住んでただよ!」と言って中指を立てながら颯爽と走り去って行った。僕は爆笑だったが、ひかれそうになった友人はかなり怒っていた。携帯を買う前の異常な出会い・・・これは不幸の前兆だろうか・・・。ちなみに、カロール・バーグには空港などでだまされてパハール・ガンジに自力で辿り着けなかった外国人が連れて来られるホテルがいくつかある。よって、やけに外国語が堪能なインド人がうろついていたり、だまされやすそうな外国人旅行者がトボトボと歩いていたりする。

 ガッファール・カーン・マーケット天界の、一番やる気がなかったが一番言い値が安かった店に入った。相変わらずやる気のないおっさんが店番をしている。もう一度値段を聞いてみると、「前にも言っただろう。そう何度も聞くな」とつれない返事。3人で3個買うから安くしてくれ、と頼んでも「Na」と一言で粉砕。元々安いので仕方ないのだが・・・。予定通りNokia3660×1とZ600×2を買おうするが、店のおっさんは「K500は買わないのか」と聞いて来た。僕が予め考えていた機種にK700があるが、どうやらK500はKシリーズの最新機種らしい。しかし、最新機種の番号が旧機種の番号より若くなることはあるのだろうか、と疑っていた。店員によると、今日入荷されたばかりらしく、しかもK700よりK500の方が値段が安く、高性能らしい。店の若い店員もK500を使っていた。一方、僕が買おうとしていた赤色のZ600はどうやら手に入らないらしく、また取扱い説明書が意味不明の言語で書かれていたので(いったいどこから密輸したのか・・・)、Z600を買う気がなくなってきた。そこで急転直下、僕はK500を買うことに決めた。言い値は14000ルピーで、100ルピーまけてもらった(定価は16000ルピーのようだ)。ちなみにK700の言い値は16000ルピーだった。




左からZ600、Nokia3660、K500


 とりあえず買ったばかりなのでまだ全ての機能を使いこなせていないが、とりあえず電話をしたりSMS(ショートメール)を送ったりすることは問題なくできた。僕の買ったK500は30万画素のデジカメを搭載しており、ビデオ撮影も可能、MP3の再生もできる。撮影した画像を他の携帯に送ったり、インターネットからリングトーンやゲームをダウンロードしたりすることもできるはずなのだが、今のところできていない。僕がSIMカードを買ったときにそのようなサービスはなかったので、多分設定上の問題だろう。もしかしたらプリペイドではそのような機能は使用できない可能性もある。そうなったらデジカメ付き携帯を買った意味が半減してしまう・・・。エアテル(通信会社)のオフィスに行って確かめなければならない。赤外線を使って他の携帯とデータを交換することは成功した。まだ3人の中で誰が勝ち組で誰が負け組かは明らかになっていない。

8月30日(月) アテネ五輪とインド

 昨夜、アテネ五輪が閉幕した。幸い最後の競技である男子マラソンがインドでも放送されたため、日本の油谷選手の5位入賞を見届けることができた。マラソン中、ギリシアの田舎の風景が延々と映し出されていたが、インドとそんなに変わらなくて面白かった。道路のいい加減な舗装や味気ない建物などはインドそっくりだった。よく考えてみれば、古代からインドの教養語であったサンスクリト語と、古代ギリシア語は同じ語族の言語である。インド人とギリシア人に何となく共通点を見出せた大会だった。また、途中アイルランド人が突然レースを妨害したのには驚いた。あれはインドでもちょっとありえない行為だ。インド人もビックリのオリンピックだったと言えるだろう。

 今回は日本人選手の活躍と共に、密かにインド人選手の活躍を期待していた。インドは独立以来合計11枚しかメダルを獲得しておらず、個人種目では銅メダル3枚のみである。ところが、ある予測では今回インドは8枚のメダルを獲得するとされていたので、非常に楽しみにしていた。走り幅跳びのアンジュ・ボビー・ジョージ、女子射撃のアンジャリー・バーグワト、男子テニス・ダブルスのリーンダー・パエス&マヘーシュ・ブーパティ組、女子重量挙げのカルナム・マッレーシュワリー、ホッケー・チームなどがメダルを期待されていた。ところが、終わってみればインドは銀メダル1枚だけだった。・・・いや、銀メダル1枚が取れただけでもすごいと表現すべきか。しかしそれ以上に、ドーピングによってインド人選手の成績が取り消されたことが話題となった。アテネ五輪でのインド人選手の主な活躍を総括してみる。

 アテネ五輪唯一のインド人メダリストに輝いたのは、男子射撃ダブル・トラップのラージヤヴァルダン・スィン・ラトール大佐である。ラトール大佐は1970年1月29日、ラージャスターン州ジャイサルメール生まれ。ジャイプル大学で戦略学の修士号を取得し、インド陸軍に入隊して、1999年にはカールギル戦争で戦った。射撃を始めたのは1996年で、1998年から本格的に国際試合に出場するようになる。徐々に成績を伸ばしたラトール大佐は、2003年にキプロスで行われた世界射撃大会において銅メダルを獲得し、オリンピックへの出場権を得た。2004年にはシドニーのワールドカップで金メダルを取ったのを皮切りに、他にも2つの金メダルを獲得している。アテネ五輪直前の世界ランクで3位。十分メダルが狙えるポジションにいた。8月17日に行われた男子射撃ダブル・トラップ決勝でラトール大佐はUAEのアハマド・アルマクトゥム王子の189/200に続き179/200の高得点を取って銀メダルに輝いた。ラトール大佐はアテネ五輪唯一のインド人メダリストとなっただけでなく、独立後個人種目で銀メダルを獲得した唯一のインド人選手かつインド史上4人目のメダリストとなった。ところが、ちょうどラトール大佐が銀メダルを獲得したとき、インド全土でケーブルTV業者のストライキが行われており、4年に1度あるかないかという、インド人選手のメダル獲得の瞬間を大半のインド人が見逃すという、タイミングの悪い事態となってしまった。




銀メダルを取ったラトール大佐


 ところが、ラトール大佐の興奮冷めやらぬ8月19日、残念な事件が発生する。インド人女子重量挙げ選手のドーピング疑惑が持ち上がったのだ。ドーピング検査で陽性反応が出たインド人選手は2人、プラティマー・クマーリーとサナマチャ・チャヌである。特に後者は53kg級で4位に入賞していたのだが、その成績は剥奪されてしまった。どうやらベラルーシ人のコーチが彼女らのドーピングに関わっていたようだ。シドニー五輪の銅メダリスト、カルナム・マッレーシュワリーは、インド人選手で初めてドーピング違反で失格となった者が出た事件を「インドのスポーツ史上最大のトラウマ」と表現した。ちなみにマッレーシュワリーもメダルを期待されていたが、背中を痛めて途中棄権してしまった。

 ラトール大佐の銀メダルの後、もうひとつのメダルが期待されたのは男子テニス・ダブルスだった。アトランタ五輪銅メダリストのリーンダー・パエスと、マヘーシュ・ブーパティの黄金コンビは、金メダルを目標として試合を順調に勝ち進んだが、準決勝で破れてしまう。3位決定戦で銅メダルを狙うものの、3時間58分に渡る死闘の末に敗北し、結局インドにもうひとつのメダルをもたらすことはできなかった。インド最後の望みは走り幅跳びのアンジュ・ボビー・ジョージだったが、自己最高記録かつ国内記録の6.83mをマークするものの、1位のタティアナ・レベデヴァ(露)の7.07mには遠く及ばず、6位に終わった。アンジュは試合後「インドのみんなにごめんと言っておいて」とコメントするほど落胆していたようだが、決勝で自己最高記録を出したのだから彼女はベストを尽くしたと言えるだろう。インドの最後の最後の望みは、決勝まで残った女子4×400mリレー(マンジート・カウル、チトラ・K・ソーマン、ラージウィンダル・カウル、KMビーナーモール)だったが、試合前に1人が怪我をし、1人が体調を崩していることが明らかになって望み薄となり、結局7位で終わった。また、かつて無敵の強さを誇ったインドのホッケーチームも奮わず、7位だった。

 結局、アテネ五輪はいつも通りインド人は本番に弱いことが確認された大会ということで終わってしまった。1つメダルが取れただけでも御の字というところだが、期待された選手が次々とあっけなく散っていく姿は、昔の日本人選手のようだった。スポーツはやはり才能だけあっても勝てるものではない。優れたコーチ、恵まれた環境、そして政府の支援が一体とならなければ、インドはいつまでもスポーツ後進国に留まるだろう。インドでオリンピックが開かれる日はいつになるのだろうか?一応ニューデリーを2020年のオリンピックの候補地として立候補させることが決まっている。

8月31日(火) 佐藤雅子カタック公演

 日本人カタック・ダンサーの佐藤雅子さんと言えば、デリーの邦人社会では名の知れた存在である。カタックの大御所パンディト・ビルジュ・マハーラージと、その息子パンディト・ジャイキシャン・マハーラージに師事し、マハーラージ主催のカタック公演があると、インド人ダンサーに混じって彼らに勝るとも劣らないほどの踊りを披露している。もうデリーに8年間も住んで、カタックの修行にいそしんでおり、日本大使館の人々からも「雅子先生」と呼ばれるほど権威を持っている。実は僕がデリーに留学する際もいろいろ助けてくれて、デリーに住み始めてからも何かとお世話になっているので、頭が上がらない人の1人である。個人的にはそろそろパンディト・マサコ・サトーと名乗ってもいいのではないかと思っている。「パンディト」「ウスタード」などの尊称は、大成された芸術家の名前の前に、「Mr.」などの代わりに置かれ、敢えて日本語に訳すなら「〜師」みたいな意味である(パンディトはヒンドゥー用、ウスタードはムスリム用と決まっているようだ)。蛇足だが、この他にも「クワージャー」「ムンシー」「アーチャーリヤ」などいろいろな尊称がインドにはある。マハートマー・ガーンディーの「マハートマー」もその一種だ。いつからそれらの尊称を名乗っていいのかはよく分からないのだが、多分日本で言う免許皆伝と同じようなものなのではないかと思う。

 インド映画関連で言えば、パンディト・ビルジュ・マハーラージは、2002年の大ヒット映画「Devdas」の中の「Kaahe Chhed Mohe」の作詞、作曲、冒頭の歌、またダンスの振り付けを行っている。マードゥリー・ディークシトがカタック・ダンスを踊るこのミュージカル・シーンは、映画のハイライトのひとつである。バックダンサーとしてマハーラージの弟子が数人踊っているのだが、実は雅子師にもそのチャンスはあったという。だが、身長の高さと顔の違いから惜しくも採用とはならなかったとか。今までインド映画に日本人が出演したことは何度かあるが、バックダンサーとして出演した日本人はまだいないと思われる。

 今日はそのパンディト佐藤雅子さんのソロ公演がトリヴェーニー劇場であった。最初から最後まで雅子さんの踊りという、正真正銘のソロ公演は、インドでは初とのこと。音楽も生演奏で、パンディト・ジャイキシャン・マハーラージがパカーワジを務め、その他タブラー、ハルモニウム、サロードなどをインド人音楽家が演奏した。来賓も、パンディト・ビルジュ・マハーラージをはじめ、榎日本大使夫妻、アスラーニー元在日インド大使夫妻、NRI省の副大臣夫妻など、そうそうたるメンバーだった。もちろん日本人も多く来訪しており、雅子さんの8年間の修行の成果の発表を応援した。JNUヒンディー語科のゴーヴィンド・プラサード教授まで来ていたのには驚いた(特に招待状などは渡していないのだが)。ゴーヴィンド教授には、8月20日に行われたシャンカル・マハーデーヴァンのコンサートの会場でも出会った。今まであまり接点のなかった教授なのだが、ここ1、2週間で急に親近感を覚えるようになった。踊りを見るのは趣味らしい(授業は分かりにくいのだが・・・)。

 雅子師のおかげで、今までビルジュ・マハーラージを含め、カタック・ダンスを見る機会は非常に多かったのだが、いかんせん素人の域を出ないため、正確な批評をすることは不可能である。しかし僕が感じたところを述べると、最初は緊張からか動きが少し硬かったものの、次第に硬さがとれて動きが研ぎ澄まされてきて、最後には何かに取り付かれたような鬼気迫る踊りとなっていた。僕の隣に座っていた、自称舞踊評論家のインド人(スニール・コーターリーという有名なインド古典舞踊評論家らしい)も「ヴァ!ヴァ!」と褒め称えていたので、インド人的にもなかなか受けがよかったようだ。敢えて文句をつけるならば、ほとんど説明もなしに次から次へと踊っているだけだったので、もう少し解説があると素人の日本人にも分かりやすかったと思う。




佐藤雅子師


 デリーに8年間住んでカタックを修行してきた雅子師だが、そろそろ活動の本拠地を日本に移すことを計画しているようだ。インド舞踊を習っている日本人は少なくないが、現役のインド人舞踊家の大御所の下で、正式な弟子として修行を重ね、しかもインドでソロ公演をすることを許された日本人はそれほど多くないだろう。もし日本でパンディト・マサコ・サトーの公演があったら、是非見に行っていただきたい。カタック・ダンスの詳細や公演情報などは雅子師のウェブサイトを参照のこと。




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