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これでインディア 

2004年1月

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昨夜9時半頃、ブジを出た夜行寝台バスは、早朝6時半頃にアハマダーバードに到着した。そのままアハマダーバードのバススタンドで、ヴァドーダラー行きのバスに乗り換えた。バスは7時過ぎにバススタンドを出発した。
ヴァドーダラーはアハマダーバードから約100km南の地点にある街である。旧名をバローダーと言い、今でもこちらの方が通用してはいるが、一応公式名称のヴァドーダラーと表記する。かつてガーイクワード藩王国の首都だった街で、インドの都市の中でも10本の指に入るくらい暮らしやすい都市だと言われている。
アハマダーバード〜ヴァドーダラー間は有料道路になっており、料金所が2ヶ所あった。しかし有料道路の割には片側1車線しかない上に中央分離帯もないような道だった。その癖みんな飛ばすし、無理な追い越しをする。途中、交通事故を2度も見てしまったが、それも無理はないと思えるような危険な道だった。今年の初日の出は、このヴァドーダラー行きのバスの中から眺めることになった。大晦日を夜行バスで過ごし、初日の出もバスから見る、というのは旅人っぽくていいなぁと自分を信じ込ませてみた。草原や河には白いもやがかかっており、朝日の光が矢となってその朝もやの中を貫いている光景は幻想的だった。
9時半頃にヴァドーダラーに到着。ヴァドーダラーではホテル・スーリヤに宿泊することにした。もう旅も終盤なので奮発。シングル500ルピー。部屋はデリーの中〜高級ホテルと比べても遜色ないほど快適。テレビ、ホット・シャワー、石鹸、タオルなどが完備されている。朝食付き。
ヴァドーダラーの街は非常に計画的に造られている感じがした。駅前には市内バススタンドがあり、長距離バススタンドもそこから歩いてすぐの場所にある。市内バススタンドのそばはホテル街となっており、ホテル・スーリヤもそこに位置している。駅前から東に伸びる道路は繁華街となっており、またバローダー大学文学部の、インド・サラセン調の豪華な建物がそびえたっている。街中には他にもインド・サラセン調の壮麗な建築物がいくつも並んでおり、緑も多かった。オート・リクシャーもメーターで行ってくれるので安く済む。
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バローダー大学文学部 |
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まずは街中にある公園サーヤージー・バーグ内にあるバローダー博物館へ行った。入場料はインド人10ルピー、外国人200ルピー。館長と交渉してインド人料金で入れてもらった。展示物はこれといってまとまりに欠け、ヒンドゥーの神様の彫刻、マハーラージャーの遺品、日本、中国、エジプトなどの美術品、骨董品、動物の標本、民俗学、地理学、地質学関係の展示物、鯨の骨、西洋の油絵などが展示されていた。200ルピーも払って見るべきようなものはなかった。どちらかというと、博物館の建物自体の建築の方が面白い。
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バローダー博物館 |
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次に、マハーラージャーの宮殿の敷地内にあるファテースィン博物館へ行った。ここの入場料はインド人15ルピー、外国人100ルピー。やはり館長のマダムと交渉したら、15ルピーにしてくれた。この博物館には歴代のマハーラージャーの肖像画やコレクションなどが展示されているが、中でも個人的に興味を惹かれたのが、インドの有名な画家ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーの油絵、リトグラフのコレクションである。ガーイクワール家のマハーラージャーはラヴィ・ヴァルマーのパトロンだったようで、彼が描いたマハーラージャーの家族の油絵がたくさん展示してあった。また、ラヴィ・ヴァルマーの有名な神話画も油絵、リトグラフ共にたくさん展示されており、感動した。現在街角で売られているヒンドゥー教の神様などのポスターは、ラヴィ・ヴァルマーの絵から始まったものである。
ファテースィン博物館のチケット売り場では、マハーラージャーの宮殿であるラクシュミー・ヴィラース宮殿の入場券も買うことができる。こちらはインド人・外国人共に100ルピーを払わなければならない。100ルピーも払った割には写真撮影も禁止で、見ることのできる場所も少なく、大したことはないが、ダルバール・ホールの豪華さなどは目を見張るものがあった。やはり数多くの映画のロケ地となっているようだ。建物はヒンドゥー、イスラーム、西洋の様式の折衷となっており、荘厳かつ美麗。敷地内にはゴルフ場やらテニス場やらがあった。
今日は非常に疲れていたので、ホテルに帰ってばったりと倒れこんだ。昔は夜行バスや夜行列車を使った後でも1日精力的に観光ができたものだが、何だか最近は夜行明けは身体の調子が悪くなる。だんだん体力が衰えて行っているのを感じる。
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1月2日(金) パーヴァーガル&チャーンパーネール |
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ヴァドーダラーから北東に47kmの地点に、チャーンパーネールという、複数の良質の遺跡が残っている町があるという情報を予め入手しており、今回の旅のノルマのひとつだった。今日は日帰りでヴァドーダラーからチャーンパーネルへ行くことにした。
昨日予めバススタンドでチャーンパーネル行きのバスの時刻を聞いたのだが、「チャーンパーネールに直接行くバスはない」と言われた。ヴァドーダラーから北東40kmの地点にあるハーロールという町でバスを乗り換えなければならないらしい。そこで、朝6時15分発のハーロール行きバスに乗った。
ヴァドーダラー〜ハーロール間は有料道路になっており、きれいに舗装された道路が続くので、快適な走行である。7時過ぎにはハーロールに到着した。ハーロールのバススタンド近くでは、多くのオート・リクシャーやジープが待っており、盛んにパーヴァーガル行きを呼びかけている。どうもチャーンパーネールとパーヴァーガルは同じ町のことらしい。パーヴァーガル行きの乗り合いジープに乗り込む(5ルピー)。
ハーロールからパーヴァーガルまではたった7kmなので、すぐに到着した。パーヴァーガルは半ば崩れかけた、しかし本来の機能は十分保っている城壁に囲まれた町だった。そして町の南側には切り立った崖に周囲を囲まれた山があり、頂上には寺院が見えた。地元の人々によると、この山がチャーンパーネールだと言う。「ロンリー・プラネット」や神谷武夫氏の「インド建築案内」には山の麓の町がチャーンパーネールで、山がパーヴァーガルだと書いてあったが、どうも逆のようだ。
パーヴァーガルの歴史は古く、石器時代から人が住んでいた形跡があるという。8世紀にはラージプートの一族、チャウハーン朝の首都となったが、1484年にマハムード・ベーガーラーに占領されて以来、イスラームのスルターンの支配を受けた。よって、街にはいくつかの古いモスクが残っている。
まずはパーヴァーガルの城門をくぐって中に入った。すぐに目に付いたのが、シェヘル・キ・マスジド(街のモスク)。入り口の門に立つ2本のミーナール(塔)が特徴的なモスクである。どうも入場料がいるようで、入り口にロックがしてあったが、まだ朝早くて誰もいなかった。面倒なので、門を乗り越えて中に入って、モスクを見学した。早起きは三文の徳とはこのことだ。モスク内部はそれほど大したことがなかったが、外壁の一部には美しい彫刻がいくつか残っていた。ボーラー・マスジドとも呼ばれているようだ。
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シェヘル・キ・マスジド |
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シェヘル・キ・マスジドから道成りに進んでいくと、バーザールに出る。やはりまだ朝早くて人はあまりいない。バーザールを通り抜け、別の城門をくぐって一旦城壁の外に出ると、そこに見えるのがパーヴァーガルにいくつか残るモスクの中で最も美しいジャーミー・マスジドである。
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ジャーミー・マスジド |
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ジャーミー・マスジド(金曜のモスク)もやはり入場料がいるようで、チケット売り場らしきプレハブが建っていたが、まだ閉まっていた。ここは入り口が少しだけ開いていたので、そこを潜り抜けて中に入り、モスクを見て回った。やはりシェヘル・キ・マスジドと同じく入り口に立つ2本のミーナールが特徴的で、屋根には複数の半球状ドームを持っている。3階建てになっており、特に入り口部分の彫刻は非常に壮麗。上の階には上ることができなかった。1523年に建てられたという。
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ジャーミー・マスジドの入り口 |
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ジャーミー・マスジドを見終えて出ようかと思ったら、係員がやって来てしまった。「なんで入ってるんだ」と怒られたが、「開いてたから入った。チケットが必要なら買うから」と言ってごまかした。8時が開場時間なのにも関わらず、そのとき8時20分になっていたことも、言い訳になった。やはり外国人料金があり、インド人が5ルピーなのに対し外国人は100ルピー。しかし学生証や居住許可証を見せてデリーの住人であることを示し、5ルピーにさせた。結果的にほとんど係員を言いくるめた形になった。ヒンディー語ができてよかった・・・!勝手に遺跡の中に侵入しているところを見つかると、下手したら罰金を取られる恐れがある。パーヴァーガルには2ヶ所、チケットが必要なモスクがあるが、両方のチケットは共通である。
ジャーミー・マスジドから今度はジャングルの中の道を通り抜けて、町の北側にあるナギーナー・マスジド(宝石のモスク)にも行った。このモスクも同じ様式の建築をしており、他のモスクと比べてもそんなに遜色なかったが、特に入場料もなく、ただ囲いがしてあるだけで、自由に中に入れた。
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ナギーナー・マスジド |
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他にもパーヴァーガルにはモスクを始めとする多くの遺跡が散在しているようだが、まだあまり観光地として整備されておらず、ほとんどジャングルの中に埋もれている状態なので、行くことができなかった。
パーヴァーガルの遺跡を見終えた後は、山の上にあるチャーンパーネールを見ることにした。今回の旅行では既に登山を2回しており、もう山は登るまいと決めていたが、そこに山があるからには登らなければならなかった。パーヴァーガルのバススタンドから乗り合いジープが出ており、山の途中にあるマーンチーという場所まで行くことができる(7ルピー)。マーンチーは町というよりも、登山口に沿って店、食堂、ゲストハウスなどが並んでいるところである。
マーンチーにはグジャラート州観光局経営のホテル・チャーンパーネールがある。そこで朝食を食べようと思っていたのだが、ウプマーという精進料理のようなものぐらいしかなかった。このホテルに泊まってパーヴァーガル&チャーンパーネールを観光しようかとも考えていたが、ヴァドーダラーに宿泊して日帰りで来て正解だったようだ。結局、登山口近くの食堂でプーリーを食べて登山前に腹を満たした。
チャーンパーネールの登山は、パーリーターナーのシャトルンジャイ寺院や、ジュナーガルのギルナール山に比べて格段に楽だった。石段はきちんと整備されており、道幅も広い。道端にずらりと店が並んでいるが、その店の軒先が日陰を作ってくれているので、既に10時を回っていたものの、それほど暑くは感じなかった。店の中にはサードゥ・ショップとでも呼びたくなるところもあり、神様の絵を飾ったサードゥが「おい、これ、そこの外国人、1ルピー払っていけ」などと呼びかけてくるのは鬱陶しかった。チャンパーネールの山は3段の台地になっており、1段目が前述のマーンチー、2段目がもっとも大きな平地で参道やいくつかの古い寺院があり、3段目がカーリー女神を祀るラクリーシュ・マハーデーヴ寺院となっている。マーンチーまではジープで行けるからいいとして、マーンチーから2段目の平地まで行くのが最も大変。急な坂道がいくつかあるが、それを越えてしまえば後は平地となり、土産物屋などが並ぶ参道を抜けていくだけである。ラクリーシュ寺院まで行くのにまた急な坂道を登る必要があるが、それほど長くはないので疲れない。マーンチーからラクリーシュ寺院まで1時間ほどで辿り着けた。
ラクリーシュ寺院に外国人が入ってもいいのかは知らないが、入り口で靴を脱いでそのまま入って行っても誰にも何も言われなかった。考えてみたら、これが今年の初詣でとなるので、少し賽銭を入れて今年1年の無病息災を祈願した。今年の僕の守護神はカーリー女神ということになるのだろうか。
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ラクリーシュ寺院までの石段 |
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ラクリーシュ寺院の他にチャーンパーネールには、ジャイナ教寺院やシヴァ寺院、モスクなどが残っている。ラクリーシュ寺院に至るまでの階段の脇にもジャイナ教的な石像が並んでいたので、おそらくこの寺院も元々ジャイナ教寺院だったのではないかと思った。その他、2段目の平地の先っぽにはナヴラーク・コートラーという、モスクのような、倉庫のようなイスラーム建築が残っている。また、あちこちに貯水池があり、城壁や門も一部残っている。
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シヴァ寺院 |
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なかなか立派な彫刻が残っている |
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ナヴラーク・コートラー |
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チャーンパーネールはいくつかの古い寺院が残っていたものの、もっとも面白かったのは参道の店だった。典型的なヒンドゥー教聖地の様相で、プラサードを売る店、ココナッツを売る店、頭に巻く布を売る店、腕輪を売る店、オモチャを売る店、欲深そうなサードゥが座っている店(?)、カセットやCDを売る店などが並んでいた。特にカセット&CD屋では、流行のフィルミー・ソングを勝手に替え歌にしてカーリー女神の賛歌にしてしまった歌を売っていた。VCDまであり、ローカルの歌手と思われる人物が、チャーンパーネールの山を背景に替え歌を歌っている映像が流れていた。そういえばアジメールに行ったときにも、アッラーの賛歌と化したフィルミー・ソングが売られていた。これらの違法替え歌カセット&CDは非常に面白い現象だと思う。
帰りはパーヴァーガルのバススタンドから直接ヴァドーダラーへ行くバスが見つかった(26ルピー)。おそらくヴァドーダラーからパーヴァーガルへも直通のバスがあるだろう。バス停の質問所では「チャーンパーネール行きのバスはどこか?」と聞いたので「ない」と言われたのだと思う。「パーヴァーガル行きのバスはどこか?」と聞けばきっと答えてもらえるだろう。
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1月3日(土) アハマダーバードの更紗博物館 |
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10時頃、アハマダーバード行きのバスに乗り、12時半過ぎにヴァローダラーからアハマダーバードに戻ってきた。前にも泊まったホテル・オアシスにチェック・インして、昼食を食べに外に出た。アハマダーバードにサブウェイがあるのを発見したので、どんな感じなのか見に行った。菜食主義の習慣が根強いアハマダーバードのピザハットは、純菜食主義レストランになっていたので、もしかしたらサブウェイも同じようにヴェジタリアンのサンドイッチしか食べれないのかと期待していた。
アハマダーバードのサブウェイは、ミーターカーリー・シックス・ロードのシュリー・クリシュナ・センターにある。中に入ってみると、特にデリーのサブウェイとメニューに変化はなかった。つまり、ノン・ヴェジのサンドイッチも食べることができた。しかし、デリーのサブウェイはノン・ヴェジのカウンターがメインになっているのに対し、アハマダーバードのサブウェイはヴェジのカウンターがメインになっているという違いがあった。
シュリー・クリシュナ・センターの地下には、バリスタの他、クロスワードという本屋・CD屋・文房具屋の総合チェーン店がある。クロスワードはムンバイーを中心にチェーン展開しており、デリーのサウス・エクステンションにもチェーン店がある(潰れた可能性あり)。ワンフロアだが、かなり大きな本屋で、これだけの規模の本屋があれば、アハマダーバードに外国人が住むのもそれほど大変ではないかもしれないと思った。
サブウェイで昼食を食べた後は、キャリコ・テキスタイル博物館(更紗博物館)を訪れた。更紗や織物といえばインド原産、しかもグジャラート州は原産地中の原産地である。アハマダーバードの更紗博物館は、世界でも有数の優れた更紗や織物のコレクションで知られているという。更紗博物館はアハマダーバード旧市街から北に2kmほど行ったシャーヒバーグにあるが、地元の人にはあまり知られてないらしく、道を尋ねながら行かなければならなかった。
入場料は無料だが、入り口でハンドバッグ、カメラ、携帯電話などを預けなければならない。また、自由に内部を見て回ることができず、ガイドに従って説明を受けながら回らなければならない。1日2回、朝の10時半と、昼の2時45分からツアーがある。今日は午後のツアーに参加した。
ガイドのおばさんがインド訛りの英語で説明をし始めた。まずはアーディワースィー(原住民)の宗教の説明から始まって、それが一体織物と何の関係があるのかと困惑しながら聞いていたが、初期ヒンドゥー教の自然崇拝主義の話に入り、ジプシーたちの信仰から次第に布と関係ある話になって来た。カーリー女神のヤントラ、マントラの話や、シヴァリンガ、ヴィシュヌのアヴァタールの説明を受けた後、いよいよクリシュナを描いた更紗のコレクションの説明が始まる。ヒンドゥー教の神様の絵が描かれた織物は、彫刻などと比べると意外に歴史が浅く、400年前ぐらいから始まったらしい。更紗博物館には400年前〜200年前の素晴らしい更紗が展示してあり、どれも相当貴重な品であることが容易に伺われた。特に感心したのは、20世紀に作られた同じテーマの絵の織物と比較してあったことである。400年前の絵と、現代の絵では、全体の構成や人物の表情の豊かさが全然違った。ガイドのおばさんによると、昔の職人は、ただ神様への親愛の情念から絵を描いているので、これだけ生き生きとした絵が描けたのだという。現代の職人は金を儲けるために織物を作っているので、芸術性が全く消えてしまっている。
織物の他にもこの博物館には、どうやって集めたのか、非常に貴重な古美術品が多数展示されている。細密画のコレクションも素晴らしく、アクバル・ナーマのオリジナルや、インドの最初期の細密画などがあった。また、金細工のマハーヴィールやバーラー・クリシュナ、装飾品、南インドの銅像など、どれも溜息の出るような素晴らしいコレクションだった。建物自体も古いハヴェーリー(邸宅)が改造されており、いかにもインドの貴族の豪邸といった感じの、豪華で住み心地が良さそうな空間になっていた。庭にはクジャクやインコが放し飼いされていた。ツアーは2時間で終わった。
その後、市立博物館にも行ってみた。アハマダーバードの街の歴史や、グジャラート州出身の著名人のプロフィールなどが主な展示で、他に現代美術や、キリスト教、スィク教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、イスラーム教などの説明が簡単にしてあった。特にアハマダーバードの遺跡が網羅されて紹介されていたので、アハマダーバード観光を始める前に訪れるといいかもしれない。ただ、今回の旅行では、市内の遺跡を巡る時間はなさそうだ。アハマダーバードを完全に観光するには、あと1日は余分に必要だった。
市立博物館の1階部分には凧博物館がある。アハマダーバードは毎年1月15日から開催されるカイト・フェスティバルで有名である。もうあと2週間に迫っており、街ではあちこちで凧屋が凧を売り、糸をカラフルな色で染めている光景を見ることができる。しかし残念ながら凧博物館はリノベーション中で中に入ることはできなかった。
夕方少し空腹を感じたので、アーシュラム・ロードのシティ・ゴールドというシネマ・コンプレックスにあるマクドナルドで軽く食事をした。アハマダーバードのマクドナルドも特に変わりはなく、ノン・ヴェジのメニューも食べることができた。しかしデリーに比べて、ヴェジのメニューが強化されているような気がした。例えばデリーではチャイニーズ・クリスピーというヴェジのバーガーは、期間限定で売り出されただけで、現在では売られていないが、アハマダーバードのマクドナルドではチャイニーズ・クリスピーがレギュラー・メニューになっていた。
アハマダーバードのアーシュラム・ロードにあるシネマ・コンプレックス、シティ・ゴールドで、去年の暮れに封切られた「LoC Kargil」を見た。シティ・ゴールドのチケットは100ルピー。5スクリーンの大規模なシネコンだが、デリーのシネコンに比べたら格は落ち、館内の売店ではロクなものが売られておらず、座席も不潔ではないものの、くすんだ印象を受けた。映像、音響はまあまあの程度。
「LoC Kargil」は1999年にジャンムー&カシュミール州で起こったカールギル戦争を題材にした映画である。監督はJ.P.ダット。キャストはここ最近のボリウッド映画の中では最も豪華で、有名な俳優を挙げるだけでも、男優はサンジャイ・ダット、スニール・シェッティー、アジャイ・デーヴガン、マノージ・バージペーイー、ナーガールジュナ、サイフ・アリー・カーン、アクシャイ・カンナー、アビシェーク・バッチャン、サンジャイ・カプール、女優はラヴィーナー・タンダン、マヒマー・チャウドリー、タッブー、ラーニー・ムカルジー、カリーナー・カプール、ナムラター・シロードカル、イーシャー・デーオール、イーシャー・コッピカルなどなど枚挙に暇がない。よくこれだけ集めたな、という感じだ。
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LoC Kargil |
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| LoC Kargil |
| 1999年5月、ジャンムー&カシュミール州のカールギル付近の停戦ライン(Line of Control:LoC)を警備するインド軍のパトロール隊が相次いで消息を絶つという事件が発生した。何者かが停戦ライン上にある山岳地帯を占拠し、インド側に向けて発砲、砲撃を繰り返すようになった。ジャンムー&カシュミール州各地に展開していたインド軍の精鋭たちがカールギルに集結し、事態の収拾に当たった。相手は高所に陣取っており、また彼らが何者なのか、どれだけの戦力なのか全く情報がなかった。しかし、パーキスターンの正規軍が関与していることが疑われた。インド軍は犠牲をものともせずに謎の武装勢力たちの拠点を次々と陥落させていき、最後の要害タイガー・ヒルの奪回に成功する。こうして1999年7月、インド軍は武装勢力たちを停戦ラインから追い出すことに成功したのだった。 |
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あらすじにしてしまうと非常に短い、つまり内容があまりない映画だった。停戦ラインを越えてインド側に侵入した武装勢力を掃討する作戦が冗漫に描かれており、最後に作戦が成功するという、何のひねりもない筋書きである。登場人物が多い映画というのは、各キャラクターの特徴付けが難しいのだが、その点ではこの映画は各俳優の個性をうまく引き出して色づけをすることに成功していたと思う。もっとも、それは男優に限っての話で、女優たちははっきり言って男優の単なる飾りに過ぎなかった。各兵士たちには妻、家族、恋人などがあって、それぞれ大切な人々の不安を背に戦場に赴いているのだが、それは特に目新しいことではなく、描写もいい加減だったために、何の感慨も沸かなかった。
インドの文学を読むと、クシャトリヤ(戦士階級)の妻というのは、戦士である夫よりも勇猛果敢であることが多く、夫を戦場に送り出すときに「必ず生きて帰って来て」などとは言わない。「勝利か、死か」である。負けて生き恥をさらすような選択肢は元々インドのクシャトリヤ・カーストにはない。男にも、女にも。もし夫が戦場から逃げ帰って来たり、戦場に行くことを拒んだりすると、妻は女の装飾品を夫に投げつけて、自ら馬に乗って武器を取って戦場へ駆け出したという。ラクシュミーバーイーという、「インドのジャンヌ・ダルク」と称される勇猛果敢な女性は歴史上有名である。そしてもし男たちが戦争で負けたら、女性たちは自ら火の中に飛び込んで命を絶ったという。こういうインドの女性の強さが描かれていたらもっと良かったのだが、「LoC Kargil」に登場する女性たちはただ家で涙を浮かべながら、愛する人の無事を案じているだけのステレオタイプな女性像でしか描かれていなかった。
この映画の一番いけないところは、敵の基地を襲撃するシーンがワンパターンであることだ。各部隊が敵の各拠点を攻撃し、それぞれの男優たちの見せ場が用意されているのだが、どれも「それ〜突撃〜!うお〜!」というごり押しの描写で、全くひねりがない。結局、各男優たちの勇猛な行動のおかげで敵の基地を占拠することに成功して喜ぶのだが、味方にも犠牲者が出て、それを悼んで悲しむ、というパターンの繰り返しである。また、地名は一応出てくるものの、どの部隊がどこをどこから攻撃しているのかよく分からない。もっと地図などをうまく使って詳細を説明したら、戦争ドキュメンタリーの要素も持った映画にもなったと思う。
興味深かったのは、インド軍が出身地で割り振られているのが分かったことだ。特に山岳戦となると、ゴールカーまたはグルカーと呼ばれるネパール人兵士たちの部隊が強い。実際のカールギル戦争でも、ゴールカー兵たちは大活躍をしたようだ。その他にもハリヤーナー州のジャート兵や、パンジャーブ州のターバンを巻いた兵士、ムスリムの部隊など、いろいろ登場した。
ヒンディー語の四文字言葉にあたる「ベヘンチョー」という言葉が、仲間を撃たれて怒った兵士たちなどから連発されるのだが、「チョー(チョード)」の部分がカットされていた。カットされるくらいだったら、セリフに入れなければよかったのに、と思うのだが。その他の侮蔑語も連発される。
退屈な映画ではあるが、男優たちが水を得た魚のように生き生きと演技していたのは高く評価できた。多分みんな、戦争物の映画に出て見たかったのだと思う。確かに戦争映画というのは男の血をたぎらせる。「こういう映画に一度出てみたかったんだよ!」という顔をして楽しそうに演技をしているのが印象的だった。また、その他のエキストラたちはどうやら本物の兵士のようだ。彼らももちろん「やったぜ、映画に出演できるぜ!」という感じで目を輝かせて演技をしていた。
インド人はこういうインド賞賛映画が大好きなので、内容はないものの現在ヒットしている。だが、日本人が見ても眠たくなるだけの映画だから注意が必要である。
グジャラート州旅行最後の日。今日は、昨日行った更紗博物館を再び訪れた。更紗博物館では1日2回、午前と午後にツアーを行っており、それぞれ別の内容となっている。午後のツアーではインドの美術品各ジャンル全般のコレクションを見ることができるが、更紗博物館の世界的に有名な更紗のコレクションは少ししか見ることができない。更紗を集中的に見ようと思ったら、午前中のツアーに参加しなければならない。
ツアーが始まる10時半頃に更紗博物館を訪れた。今日も昨日と同じおばさんがガイドをしてくれた。まずは織物の技術が詳しく説明されているセクションに案内された。原始的な織物から、機織器を使用しての近代的な織物までの変遷や、各織物の特徴などが、かなり詳細に展示してあった。インドの博物館で、ここまで親切かつ詳細に展示物を展示しているところを今まで見たことがない。織物自体の織り方の他、刺繍、色染め、版画のテクニックや器材なども展示されていた。僕はあまり布に関する知識・興味がないので、これらの詳細な展示をよく理解することができなかったが、その方面に興味関心のある人が見たら、それはそれは素晴らしい展示・コレクションに映ることだろう。
これら織物技術の展示の後は、いよいよ貴重な織物コレクションの展示品を案内してもらえる。400〜500年前の美しい織物の展示品はまさに息を呑むばかりである。シャージャハーンやその愛妻ムムターズが使用したというオリジナルの布があったり、グジャラート州の家を飾るカラフルなウォール・ハンギングのコレクションがあったり、ビハール州やオリッサ州の刺繍があったりと、その内容は入場料無料の博物館とは思えないほどのものである。たくさんすごいものがありすぎて、どれが本当にすごいのか、感覚が麻痺してしまう。元々織物の知識がないので、あまり記憶に残るものが少なくて悔しかった。しかしひとつだけ心の残ったのは、やはり昔の職人の作り出す作品は、現代人では真似できないような途方もない芸術性を持っているということだ。それは神への信仰心から来るものであったり、機械ではない、生の人間の手から紡ぎ出される温もりであったり、芸術への純粋な貢献であったりするが、やはり400年前の作品と現代の作品との間に立ちはだかる大きな壁は、商業主義である。昔の職人は金儲けとは別の次元でものを作っていた。だから無制限に時間を費やすことができたのであり、デザインも独創的で繊細なものを考案することができた。当時のインドの織物は、世界で他に追従するものがないくらい高い技術を誇っていた。しかしヨーロッパ人がインドに訪れるようになり、作品を商品として見なすようになった途端、インドの織物に変化が訪れる。ヨーロッパ人は「これと同じものを作ってくれ」などという注文を出すようになり、インドの織物職人たちは注文に従って織物を作るようになった。しかしそれはインドの織物をどちらかというと新たな進化のステージへと押し上げる役割を果たした。ポルトガル人やイギリス人の注文に従って作られた織物も博物館に展示されているが、そこには職人たちの飽くなき挑戦を見ることができる。その内ヨーロッパでは機械で織物を織るようになり、大量生産が可能になる。すると今度はインドにその織物製品を輸出するようになる。機械で作られた織物はインド国産製品の半額の値段であり、しかもインドの職人たちが長年培ってきた刺繍などのデザインを機械的にあしらっていた。安価な欧州製品はインド国産の織物を駆逐して行った。次第にインドの大多数の織物職人たちは、商業主義に迎合するしか生きる道がなくなっていった。しかしインドの古い優れた技術が絶滅してしまったわけではない。現在でもインドは刺繍などで世界の最先端を行っており、特にカッチ地方の工芸品の中に古い伝統技術が生き残っているが、やはり400年前の織物と比べると、その質は落ちてしまったと言わざるを得ないだろう。
インドだけでなく、織物だけでなく、何事においても、金儲けのためにやるか、そうでないか、というだけでその物事の質は大きく変わってしまうものだ。それはこの「これでインディア」にも当てはまるかもしれない。僕は特に金儲けのためにこのウェブサイトを作っているわけではない。じゃあ何のためか、と問われたら、一応裏にいろいろ理由や目的はあるものの、ウェブサイトを作る能力があり、環境があり、興味があり、時間があるから、やっているだけである。特に利益を求めてやっているわけではなく、ただやれることとやりたいことをやっているだけである。この信条がもしかしたらヒンドゥー教の重要な概念のひとつ、バクティ(神への絶対的服従や信愛)なのかもしれないと思っている。別に神様に向けてこのウェブサイトを発信しているわけではないし、神様への愛情を露にしているわけでもないが、もしかしたらそれに近い行為をしているのかもしれない。ウェブサイトだけでなく、僕のインドとの関わり方も、現在のところインドを利用して何か儲けてやろうとか思って関わっているわけではない。僕がつくづく感じるのは、こういう無私無欲な心を持ってインドに接する人に対して、インドは非常に優しい国である、ということだ。僕も個人の利益とは別の次元でウェブサイトを作っており、邪な心を持たずにインドに住んでいるおかげで、逆にいろいろ恩恵を被っているように感じる(それらの一端はこのウェブサイトの中でも見受けられるだろう)。その一方で、もしインドで何か商売をしよう、とか、インドを使って一儲けしてやろう、と思ったら、インドはその表情を一変させて、途端に厳しい態度を取ることになる。もしこのウェブサイトの内容を出版しよう、とか、何か商売になるコンテンツでも始めよう、と思い立った瞬間、おそらく僕はインドからひどい仕打ちを受けるだろう。インドを旅行して、インドを好きになる人も、やはり自己の利益とは関係ない視点でインドと接することができているので、インドにはまることができるのだろう。それとは逆に、駐在員など、インドでビジネスを行うために来ている人にとって、インドは非常に厳しい国となっているのではないかと感じる。インドの学者や研究者は、心の持ち方次第でそのどちらにも当てはまるだろう。
更紗博物館は、貴重な織物や美術品を鑑賞することができるだけでなく、芸術とは何か、商業主義、機械主義が芸術にどういう影響を与えたか、ということを改めて考えさせてくれる場所である。アハマダーバードの最も重要な観光地だと思った。これからアハマダーバードを訪れる観光客には、是非1日使って、10時半からのツアーと、2時45分からのツアーを体験してもらいたいと思う。インド全土に渡って、訳の分からない高額な外国人料金を設定する遺跡、博物館が多い中、無料というのも嬉しい。
午後にはCGロードにあるバナースクラフトへ行った。バナース・クラフトはSEWA(Self-Employed Women's Association)というNGO団体の販売店で、カッチやバナースカーンター(カッチの隣の地域)の工芸品を売っている店である。SEWAは村の女性たちを中心に、「貧しい女性たちは資金援助ではなく組織が必要である」という理念の下、1972年に設立された。カッチやバナースの農村に住む女性たちは、世界でも類稀な伝統工芸技術を持っていながら、その価値を知らず、貧困にあえぐ生活を送っていた。そのような女性たちに、彼女たちの工芸品の芸術性を気付かせ、自分たちで働いて定期的現金収入を得て、生活を豊かにしていけるよう指導する役割をSEWAは果たしている。現在SEWAのメンバーはグジャラート州内で20万人以上、インド全土で30万人以上もいるそうだ。カッチのスムラーサルにあったカーラ・ラクシャーと同じような理念の団体のようだ。ちなみに団体名のSEWAとは上述の「Self-Employed
Women's Association」の略でもあるが、ヒンディー語(またはサンスクリト語)の「セーヴァー」または「セーワー」の意味も掛けてあるのは明らかだ。「世話」とか「サービス」という意味で、日本語の「世話」の語源にもなった言葉である。
バナース・クラフトの商品はどれも確かな品質を持っている。全てリーズナブルな定価で売られているので、それぞれの工芸品の大体の値段をここで確かめることができる。ここでカッチの村で買ったものが果たして適正な値段だったのかどうかが分かってしまった。あるものは割といい値段で買うことができたが、またあるものは少し高めの値段で買ってしまった。しかし全体的に僕が出会ったカッチの村人たちは、2倍3倍の値段をふっかけるようなことはしていなかった。おそらくカッチを訪れる前にこの店を見ておけば、だいぶ有利にカッチの村で買い物をすることができるだろう。また、カッチを訪れなくても、アハマダーバードのバナース・クラフトでカッチの素晴らしい工芸品を安心して購入することができる。ただ、カッチのものはカッチで買うのは一番ではあるが。ちょうどバーゲンセールをやっていたこともあり、バナース・クラフトでまたいくつか買い物をしてしまった。普通僕は旅先では、荷物が増えるのが嫌であることと、欲しいものがあまりないことから、あまり買い物をしないのだが、カッチの工芸品はどれもつい買いたくなってしまうようなものばかりで、しかも旅の最後だったこともあり、旅行資金の残りを使い果たすくらい買い物をした。ちなみにバナース・クラフトのウェブサイトは、http://www.banascraft.org/またはhttp://www.kutchcraft.org/
午後5時25分発の2957ラージダーニー・エクスプレスに乗り、デリーへ向かった。ラージダーニーは食事など全てのサービスが乗車券に含まれているので楽である。ミネラル・ウォーター、ジュース、軽食、チャーイ、夕食、朝食などの他、タオルや毛布やシーツなども提供してくれるため、手ぶらでも旅行ができる。
ほぼ20日間に渡り、グジャラート州に限って旅行をしたが、20日では全土を網羅するためには少しだけ時間が足らなかった。今回観光した場所は、アハマダーバード、ベーチャラージー、モーデーラー、パータン、ロータル、パーリーターナー、ディーウ、ジュナーガル、ジャームナガル、ドワールカー、ブジ、マーンドヴィー、ドーラーヴィーラー、ヴァドーダラー、パーヴァーガル、チャーンパーネールなどであるが、この他にもマハートマー・ガーンディーの出身地ポールバンダルや、サウラーシュトラの中心都市ラージコート、東グジャラートの港町スーラトや、元ポルトガル領のダマンなども行ってみたかった。また、時間があったらダードラー&ナガル・ハヴェーリーという、グジャラート州とマハーラーシュトラ州の境目にある謎の連邦直轄地にも足を伸ばしてみたかったのだが叶わなかった。
今回旅行してみて、グジャラート州で一般の外国人旅行者が訪れる価値がある場所だと思ったのは、アハマダーバード、ディーウ、そしてブジ(カッチ)である。その他、サファリに興味がある人はギール国立公園が外せない観光地になると思うし、建築に興味がある人はパーリーターナーのシャトルンジャイ寺院やグジャラート州各地に残る階段井戸を訪れるべきである。インダス文明に興味がある人はロータルやドーラーヴィーラーに行かなければならないだろうし、織物に興味がある人は、アハマダーバードの博物館や、カッチ地方の村々はまるで織物天国のように感じるだろう。ヒンドゥー教の巡礼地も、ソームナートやドワールカーのように、全インド的に有名な場所から、ジュナーガルのギルナール山や、パーヴァーガル&チャーンパーネールのカーリー寺院のようにローカルな信仰を集めている場所までいろいろある。このように、グジャラート州はただの観光客を魅了するものを持っているが、それ以上に、何かテーマを持って旅行をしている人にとって非常に興味深い土地であると感じた。
グジャラート州はあまり外国人観光客が来るところではなく、比較的英語が通じにくい州である。グジャラーティー語ができれば完璧なのだろうが、ヒンディー語がよく通じるので、ヒンディー語の知識さえあれば非常に楽に人々とコミュニケーションがとれる。特にブジやヴァドーダラーでヒンディー語がよく通じたし、インド人がお互いにヒンディー語で会話しているのもよく耳にした。また、グジャラーティー語はヒンディー語と、言語的にも文字的にもよく似通っており、ヒンディー語がある程度分かれば、グジャラーティー語の会話も3割ぐらい理解できるし、グジャラーティー文字も5割以上は推測して読むことができる。
グジャラート州で特徴的なのは酒と肉が手に入りにくいことである。ノン・ヴェジ料理は高級レストランに行けば食べることができるが、ジャイナ教の巡礼地などでは町に全く肉がないということも少なくない。酒はグジャラート州全土でほぼ絶望的なくらい手に入らない。その代わり、ディーウやダマンに行けば酒も肉も安く手に入るため、グジャラート人の酒と肉に対する渇望のはけ口となっているようだ。旅行に酒が欠かせなかったり、肉を食べない日があると体調が悪くなるような人には、グジャラート州は全く向いていない。観光に値する場所はいくつかあるが、外国人観光客向けに観光設備が整っておらず、今はまだ全面的に旅行を勧めることができない場所である。まずは町と町を結ぶ道路の整備を迅速に行ってもらいたい。一方、ディーウは非常に観光客のための配慮が行き渡っているように感じた。
グジャラート人は、他の地域のインド人と同じく基本的に親切である。オート・ワーラーも正直な人が多いように感じた。ただ、頑固で無愛想な性格の人も多いようだ。グジャラート人の気質は決して陽気ではないと思った。その点、ディーウの住民は太陽のように朗らかだった。ジャイナ教の影響が強い州ではあるが、イスラーム色の強い町、イスラーム教徒の多い町も多く見かけた。もちろん、多数派はヒンドゥーである。
今回の旅行で、グジャラーティー・ターリーがすっかり大好物となってしまった。グジャラーティー・ターリーに比べたら、デリーのターリーはしけたもんである。席に着くとすぐに大皿が用意され、次々に野菜、ミターイー、ローティーなどが盛られていき、少し食べると次々に補充してくれる。その強引なまでの補充の仕方は、最初は戸惑うのだが、慣れると楽しくなってくる。値段もリーズナブルで、腹いっぱいになるまで食べられる(往々にして腹いっぱい以上にさせられる)のでいい。味は辛くて甘くて油っこい。アハマダーバードの高級レストラン、ヴィシャーラーは雰囲気もよく、味もよいので、もっともオススメのグジャラーティー・ターリーのレストランである。
旅行中、3回山を登り、2回夜行バスを使ったことが、僕を体力消耗させたが、下痢などにはならず、体調が悪くてなっても1日寝れば治ってくれた。しかしなぜかデリーに帰ったら下痢になった。帰りの列車の中で何か変なものでも食べたか・・・。
今回のグジャラート州旅行の隠れテーマとなったのが、サルマーン・カーン主演の「Tere Naam」だった。サウラーシュトラの田舎の町に行ったとき辺りから徐々に通りすがりの若者などに「Tere
Naam」「サルマーン・カーン」「ラーデー」などと言われるようになり、ジュナーガルのギルナール山でそれが最高潮に達した。多くの人々から同じことを何度も言われたので、「こいつら同じことしか言えないのか!」と、だんだん不愉快な気分になって来たが、ブジでちょうど上映されていた「Tere Naam」を見てからは、余裕を持って対応できるようになった。映画中、ヒロインの女の子がラーデー(サルマーン・カーン)に「Good
Morning, Sir」と敬礼するシーンが何度もあるので、「Tere Naam」と言われたら、「Good Morning, Sir」と返して笑いを取ることにしたのだった。
グジャラート州を旅行しているときは、「意外と寒いなぁ」と思っていたが、デリーに帰って来たらデリーのそれ以上の寒さに驚いた。今思えばグジャラートはデリーの10月〜11月くらいの気候だった。朝晩は冷えるが、昼は太陽が照って暖かく、半袖で大丈夫くらいだった。それに比べてデリーは・・・白い霧が1日のほとんどの間、街全体を覆っており、太陽が雲と霧の合間から姿を見せるのは1時から4時頃までの限られた時間である。夜は限りなく冷え込む。純粋に気温だけを見たら、冬のデリーは東京よりも寒くはない。しかし実際にデリーの冬を体験してみると、なぜか東京よりも寒く感じる。身体の芯まで冷え切って、熱が溜まらない感じだ。日本だとコタツや暖房があるので、いくらでも熱を補給できるが、インドはあまり熱を発する器材がない。しかし前に住んでた部屋よりはだいぶマシだから、我慢するのは簡単だ。
新年早々ショックだったのは、20日間乗っていなくて汚れていたバイクを水で洗っていたら、誤って倒してしまい、傷がついてしまったことだ。ハンドルも微妙に曲がったように感じる。レッグガードのないカリズマの転倒は即崩壊を意味するが、不幸中の幸いにも泥の地面の上に倒れたため、大被害は免れた。それでも相当ショックを受けたが、道を走っていたら、他の人のバイクがあまりにボロボロだったので、何となく「ま、いっか」という気分になった。あまり物に執着しても仕方ない。これからだんだん僕のカリズマももっとインドのバイクっぽくたくましくなっていくような気がする。
今回のグジャラート旅行では、柄でもなくいろいろ買い物をしてしまった。その中から「これは日本人にもけっこう受けるのではないか」というものをいくつかピックアップしてみる。全てカッチ地方の工芸品で、ブジやカッチの村々で買うことができる他、アハマダーバードのバナース・クラフトでも購入することができる。値段は、定価がある場合は定価、交渉性の場合は最初の言い値を載せておく。そこからいくら値引きできるかは、各人の交渉力と運次第である。もちろん、僕はこの値段よりも少し安い値段で買っている。
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各種大きさの鏡 縁の飾りがカラフルで面白い
大きいのが125ルピー、中ぐらいのが60ルピー、
小さいのが40〜50ルピー、鈴つきのが75ルピー |
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バッグ類
左が220ルピー、右が250ルピー |
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トーラン(ノレン) 赤い色が主流だが、敢えて青色を買った
一番大きいサイズで、手製の刺繍も精緻 1050ルピー |
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象とクジャクの刺繍がかわいいトーラン 250ルピー |
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ピンクの花柄トーラン 500ルピー |
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ウォール・ハンギング いろんな刺繍があって楽しい
上にはトーランも見える 200ルピー |
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ショール、サーリーなどもいいものを売っていた
このショールは色が気に入った 500ルピー |
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チャウパドというインド古代から伝わるゲームのボード
ドングリ型の駒、貝殻のサイコロ、遊び方説明書、
ケースなどがついて860ルピー |
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カッチの工芸品(特に織物類)の値段の見極め方は、ずばり刺繍の細かさとその範囲である。布自体の大きさはあまり値段に関わらないようで、刺繍がどれだけ細かいか、どれだけの範囲に渡って刺繍がなされているか、つまるところ、どれだけ作るのに時間がかかっているか、を基準に値段が決められていることが多い。ウォール・ハンギングで、僕が買ったものの4分の1の大きさほどのものがあったのだが、目が痛くなるような細かい刺繍がなされており、値段は3500ルピーだった(1枚作るのに6ヶ月かかるそうだ)。ショールなども布の質よりも刺繍の質で値段が決められていた。
工芸品を作っている村へ行けば安く買えるか、といえばそういうわけでもなく、やはり物を見る目と交渉術が必要になる。普通に言い値で買ったら、ブジのマーケットよりも高い値段で買わされていた、ということもありうる。まずはアハマダーバードのバナース・クラフトや、スムラーサルのカーラ・ラクシャーなど、定価の付いている工芸品屋へ行って目を養い、値段を確かめてから、村に繰り出すと有利に買い物をすることができるだろう。ただ、上述の2つの店では、非常に質の高いものを売っているので、そこで買ってしまっても別に問題はないような気がする。村を巡って買い物をするというのは、どちらかというと、村々の生活レベルと観光業を少しでも助長させてあげる、という義務感、使命感の方が強い。村人と仲良くなれば、いろいろいい写真も撮らせてもらえるだろう。
いろいろ面白い工芸品が売られていた中、僕が一番気に入ったのはトーランというノレン。トーラン自体はインド全土で見られるが、ここまでカラフルな刺繍がしてある布製のトーランはグジャラート州独特のものだと思われる。よく玄関の上などに複数の葉っぱが糸で通してあるのを見るが、あれもトーランの一種だという。トーランは、神様を家に招き入れる目的があるそうだ。招き猫や門松と同じ性格のものだろうか。更紗博物館のガイドのおばさんの話によると、インドの他の地域の人々は、グジャラートの人々のような豪華なトーランを作ることができないのを恥じて、せめて葉っぱだけでも、と玄関に葉っぱを吊るしているそうだ。ちなみにトーランはグジャラート州観光局のトレードマークにも使われている。
チャウパド(チョーパドとも呼ばれているだろう)のボードは、スムラーサルのカーラ・ラクシャーで買ったのだが、そこには他にもインドに昔から伝わるゲームの布製のボードがいくつか売られており、どれも美しい刺繍がなされている上に遊び方説明書も付いていて、金が許せば全部買いたい気分だった。チャウパドを選んだのは、ボードの形が十字架形でユニークだったからだ。他のゲームは正方形の盤だった。
家に帰って説明書を読みながらチャウパドを遊んでみた。チャウパドの歴史はインダス文明の時代まで遡るようだ。アクバル帝もチャウパドを好んで遊んだという。そういえばこれと同じ形をしたものが、アーグラー近郊のファテープル・スィークリーの庭にあったような気がする。チャウパドは2〜4人用のゲームとのこと。スゴロクに似たゲームだ。4つの駒をひとつずつ動かして、盤の周囲を1周グルリと回らせるのが主な目的である。ちょうど家を訪ねてきた友人と一戦対戦してみたが、2人で遊ぶとゲームの性格上、お互い邪魔し合うようなこともできず、競争のような感じになってしまった。4人で遊ぶととても面白そうだが、2人で遊ぶと戦略の入り込む余地があまりなくて退屈かもしれない。
ヒンディー語には「カル(kal)」という単語がある。2003年の大ヒット映画「Kal Ho Naa Ho」の題名にも使われている単語で、「明日」とか「昨日」という意味だ。・・・ここで日本人なら――おそらく日本人だけでなく世界中の多くの人々が――「明日」と「昨日」がなぜ同じ単語なの?と疑問に感じるに違いない。しかし、ヒンディー語では同じ単語なのだ。「明日」と「昨日」だけでなく、「明後日」と「一昨日」、「3日後」と「3日前」もそれぞれ「パルソーン(parsoN)」、「アタルソーン(atarsoN)」であり、同じ単語である。それに代わる言葉は、ヒンディー語には存在しない。他の北インドの諸語でもそれは同じのようだ。世界で「明日」と「昨日」が同じ単語である言語は少数派だと思うが、アフリカの言語にもそのような言語があると聞いたことがある。
「明日」と「昨日」が同じ単語で混乱しないのか、というのも当然の疑問だろう。普通、「明日」の意味の「kal」は未来形の動詞と共に、「昨日」の意味の「kal」は過去形の動詞と共に使われ、文脈から判断されるため、思ったほど混乱は生じない。しかし「君の誕生日はいつ?」と質問して、ただ「kal」と答えられた場合、明日がその人の誕生日なのか、昨日が誕生日だったのか、その答えだけでは分からないなんてこともあるだろう。
ヒンディー語の「kal」の考え方は、ひょっとしたら距離と同じ感覚なのではないかと思う。例えば「アーグラーはデリーから200km離れた場所にある」という文章は全く間違いではないが、どの方向に200km離れているのかは明記されていない。また、地球は丸いので、逆の方向に行っても辿り着くのだが、暗黙の了解があって、短い距離の方を採用することになっている。つまり、地球1周は約4万キロなので、それから200kmを引いた数字を提示しても、全くの間違いではないと思うのだが、やはりそれは間違いと認識される。世界中の人々が使っている距離の感覚には、方向性が入っておらず、また最短距離を必ず提示するという原則に基づいていると言える。それと同じで、ヒンディー語の「kal」にも未来とか過去とかいう時間の方向性が入っていない上に、出来事には周期があるという原則の下、現在から最も近い日を提示するという暗黙の了解に基づいているのではなかろうか。つまり、「kal」という単語の意味は、「明日」と「昨日」というよりも、「今日から1日離れた日にち」といった方が適していると思う。
日本語や英語の「昨日」「今日」「明日」の時間概念は、なんとなく一次関数の直線を思い起こさせる。昨日より今日、今日より明日、どんどん時間が進んでいき、人間はどんどん進歩していかなければならない、「昨日」と「明日」は全く別のものなのだ、という考え方が裏にあるため、「昨日」と「今日」は別の単語になっているのではないだろうか。一方、ヒンディー語の時間概念からは、「昨日=今日=明日」という、果てしない時間の平行線が眼前に浮かんでくる気持ちがする。インドの村に行ったら、昨日と同じことを今日し、今日と同じことを明日するという、毎日の周期的活動の繰り返しを目の当たりにする。村に行かなくても、インド人の一般的な商売の仕方は何となくそんな感じだ。町の市場にある個人経営の店では、基本的に同じ客が同じ商品を同じだけ買っていくため、発展がない代わりに不況もない、と言う話を聞いたことがある。そういう生活をしていたら、1日前も1日後も同じだと考えても不思議ではない。そういう果てしない時間の概念が、ヒンディー語にも影響を与えていると考えられないだろうか?
「kal」について、もうひとつ苦々しい経験と共に思い出されるのが、インド人の「明日」は、「1日後とは限らない」ということだ。例えば仕立て屋にクルター・パジャーマーなどを注文して、仕上がり予定日に行ってみると「明日来い」と言われる。そして次の日にまた行ってみると、また「明日出来てるから」と言われる。そのまま黙っていると、延々と「明日」が続く。「今から必要なんだから!」とせかすと、その場で30分もかからずに仕立ててくれてしまったりするから、さらに怒りが込み上がってきたりするものだ。日本人の「考えておきます」が「No」の意味である、とは欧米人などがよく日本人の習慣を皮肉って言う言葉だが、インド人の「明日」も「No」の意味に近いと考えた方がいい。
インド人の10代くらいの若者の間で、カリーナー・カプールはまるで一昔前の「モーニング娘。」的な熱狂的人気を誇っているが、日本人インド映画ファンの間では、割と彼女に対して冷めた感情を持っている人が多いように思われる。見た目通りのわがまま娘であることや、顔がでかくて美人というより変人顔であることなどが原因だろう。しかし僕は割とカリーナー好きで、彼女の出演する映画は必ずチェックしている。特に彼女の登場シーンが毎回毎回笑わせてくれるので、いつも期待している。「Kabhi Khushi Kabhie Gham」の彼女の登場シーンは傑作である。彼女にはこのまま大スターとコマーシャリズムの王道を歩んで行ってもらいたいと思っている。
一方、ラーフル・ボースという男優がいる。ラーフルは2002年の最高傑作映画「Mr. & Mrs. Iyer」で主演を務めた男優で、その他にも質の高いヒングリッシュ映画に出演している。僕がもっとも注目している男優である。最近少しナンパなヒンディー語映画に出演するようになっており、個人的に彼の将来を危ぶんでいる。彼には是非このままミスター・ヒングリッシュ映画として、硬派な路線を歩んで行ってもらいたいと思っている。
まるで全く別の路線を進んでいたと思われるカリーナー・カプールとラーフル・ボースだが、何を間違ったか、その2人の共演する映画が登場した。本日から公開の「Chameli」である。僕はてっきり、この映画も典型的カリーナー映画で、彼女のアイドル振りが遺憾なく発揮される娯楽映画かと思った。だから、カリーナーとラーフルの共演は、つまりラーフルの商業主義への迎合と受け止め、僕は彼の評価を一段階下げることまで考えながら、映画館に足を運んだのだった。
しかし、映画開始から数分で、僕の予想がいい意味で裏切られたのを感じた。ラーフルが商業主義映画に出演したのではなく、なんとあのカリーナーが社会派映画の世界に果敢にも挑戦したのだった。はっきり言って新年早々すごい映画が登場したと思った。監督は「Joggers Park」「Mumbai Matinee」「Ek Din 24 Ghante」など、個性的映画を撮ったアナント・バーラーニーだったが、撮影中に急死したようで(それを聞いたときは非常にショックだった。若く才能のある監督だと思っていたのだが!)、その後を「Calcutta Mail」のスディール・ミシュラーが引き継いだようだ。
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カリーナー・カプール |
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| Chameli |
ムンバイーに住む金融コンサルタントのアマン(ラーフル・ボース)は、最愛の妻を交通事故で亡くし、その悲しい思い出から抜け出せないでいた。ある大雨の日、彼の自動車がエンストしてしまい、雨宿りをせざるをえなくなった。そこで出会ったのが、その界隈を縄張りにしていた売春婦チャメーリー(カリーナー・カプール)だった。最初アマンはチャメーリーと話そうともしなかったが、彼女のやたら達観した言葉を聞いている内に、彼女に心を開くようになる。彼女の口癖は「世界はこんなだからさ」だった。チャメーリーはヒジュラー(いわゆるニューハーフ)のハシーナーと、若者ラージャーとの駆け落ちを助けて、「愛があればいいじゃないかい」と言う。
チャメーリーはアマンに身の上話を聞かせる。「あたいはガルワールに住んでたんだよ、とっても大きな家だったさ、でも父さんが病気になってね、叔父さんに無理矢理ムンバイーに連れてこさせられて、売春宿に入れられたんだ」その話を聞いてアマンは心を痛めるが、チャメーリーは急に笑い出し、「ハッハッハ、全部嘘だよ、この話を聞かせれば男は500ルピー多めに払ってくれるのさ」と言う。その後、チャメーリーは「ある晩、姉さんと一緒に寝てたら、母さんの悲鳴が聞こえたのさ。誰かが母さんを連れ去ったんだ。その後どうなったのか、母さんは二度と帰って来なかったよ」と語り、正直なアマンはまた心を痛めるが、「これも嘘だよ。この話を聞かせれば1000ルピーアップさ」と言う。
チャメーリーは売春宿の総元締めのナーヤクや、マフィアのウスマーンなどと関わっており、多額の借金を抱えていた。それを聞いたアマンは、代わりにウスマーンに3万ルピーを払ってやるが、話がもつれたことによりもみ合いになり、アマンは誤ってウスマーンをナイフで刺してしまう。アマンとカリーナーは警察に連行される。警察もマフィアと変わらないくらい腐敗していたが、アマンは友人のコネクションを使って何とか釈放してもらう。ナーヤクや入院中のウスマーンとも警察に話をつけてもらって、チャメーリーを解放してもらう。しかし、その過程でアマンは、チャメーリーが語った嘘の身の上話が全て真実だったことを知る。
いつの間にか雨は止み、夜が明けようとしていた。チャメーリーはアマンに「実際はどうであれ、あんたは売春婦と一晩過ごしたことになるね。奥さんが知ったら怒るだろうね。いいかい、二度と私の世界に来るんじゃないよ」と言って別れる。
家に帰ったアマンは、今まで悲しい思い出に触れるのが嫌でしまい込んでいた、死んだ妻の写真を取り出す。「世界はこんなだからさ」というチャメーリーの言葉が、アマンに過去と向き合う力を与えたのだった。妻が死んで以来連絡が途絶えていた、妻の父とも電話をすることができた。そして「愛があればいいじゃないかい」というチャメーリーの言葉を思い出しながら、またチャメーリーの元を訪れるのだった。 |
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ラーフル・ボースの演技の素晴らしさは再三語っているので言うまでもないが、この映画で驚いたのは、カリーナー・カプールの演技である。彼女にこんな演技力があったとは思ってもみなかった。売春婦の役というのも驚きである。「プリティー・ウーマン」のジュリア・ロバーツのような、理想化された売春婦像ではない。ムンバイーの売春街に住む、最悪に汚ない売春婦である。映画中、チャメーリーも言っている。「あれ旦那、チャンドラムキーみたいな売春婦を想像してたかもしんないけど、実際の売春婦ってのはこんななんだよ。」なんと彼女の着ているけばけばしい衣装は、本物の売春婦が着ているものと同じで、たった250ルピーほどらしい。タバコもプカプカ吸っている。カリーナーのようなアイドル女優がこんな役に挑戦するとは、全くの驚きであり、しかも素晴らしい演技で二重の驚きだった。これは、「Devdas」での馬鹿馬鹿しいほど豪華絢爛な売春婦像への、カリーナー・カプールからの挑戦状とも言える。実際の彼女がどんな立ち振る舞いで、どんな話し方をしているのか知らないが、売春婦役の彼女は、まるでそれが地であるかのような、迫真の演技だった。
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完全に売春婦になりきっている
カリーナー・カプール |
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映画の前半は、アマンが雨宿りのために駆け込んだ、商店街の軒先のみを舞台に展開される。そこへチャメーリーを取り巻く各種の登場人物がやって来て、チャメーリーのキャラクターが次第に浮き彫りにされていく。特に印象的なのは、コーヒー売りの少年ジョンである。チャメーリーは売春街でコーヒーを売り歩くジョンを実の弟のようにかわいがっており、ジョンが裏社会に足を踏み入れないように、また裏社会から大きく羽ばたけるようにサポートしていた。また、ヒジュラーのハシーナーと、政治家の息子のラージャーとの恋愛も、チャメーリーの心の優しさをチラッと見せてくれる。代わる代わる登場人物がやって来る前半は舞台劇のようで、多分この映画は何かの舞台劇の脚本を元に作られたのではないか、と思われた。
後半になると、アマンが次第にチャメーリーの住む世界に深入りするようになり、泥沼にはまっていく。マフィアのウスマーンの追っ手から逃れ、タクシーを拾うことができ、一旦アマンはチャメーリーと別れた。だが、タクシーの運転手が「あの女の命は長くないだろうよ」と呟いたことにより、アマンは取って返してチャメーリーの借金を肩代わりするのだった。
映画冒頭から、アマンは憂鬱な表情を見せているが、その原因が何なのか明かされない。断片的に過去の映像が流され、彼の妻の姿が映される(妻の役はリンキー・カンナーである)。最後の最後で、妻は既に死んだことが明らかにされる。妻が産気づき、アマンは自動車を走らせて病院に急いでいたのだが、そのとき交通事故に遭って、妻と、生まれようとしていた子供を失ってしまったのだった。彼はその責任を自分一人に押し付け、孤独な悲しみに陥っていたのだった。その悲しみから救い出してくれたのが、悲しい過去を持ちながらもふてぶてしく生きているチャメーリーの哲学だった。
特にチャメーリーの話す言葉は、スラングがかなり入っているので、教科書的ヒンディー語の知識だけでは聴き取りが難しいだろう。しかし、悪口の勉強にはなる。ムンバイヤー・ヒンディー特有の「アパン(自分を指して使う言葉)」という言葉も使われている。放送禁止用語も相当セリフに入っているようで、「ピー」という音が入ったり、急に嵐や雷の音が大きくなったりして聞こえない部分がある。
この映画は、今までカリーナー・カプールを馬鹿にしていた人々に是非見てもらいたい。また、「Mr. & Mrs. Iyer」でラーフル・ボースのファンになった人(いるのかな?)にも絶対にオススメの映画である。カリーナー・カプールの生の歌声を聞くことができるのも、けっこう貴重かもしれない(相当音痴である)。ちなみに「チャメーリー」とはジャスミンのことである。
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1月11日(日) Munna Bhai M.B.B.S. |
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サンジャイ・ダットというと、僕は悪役顔のマッチョなアクション男優というイメージが強いが、彼は一方でコンスタントにコメディー映画にも出演している。1週間前から公開された「Munna Bhai M.B.B.S.」も、サンジャイ・ダット主演のコメディー映画である。今日はチャーナキャー・シネマでこの映画を鑑賞した。
「Munna Bhai M.B.B.S.」とは「ムンナー兄貴、医学部に入る」みたいな意味。「M.B.B.S.」とは「Bachelor of
Medicine & Bachelor of Surgery」の略らしい(頭文字の順番が違うような気がするが)。つまり、医学部と訳していいだろう。主演はサンジャイ・ダットと彼の実の父親スニール・ダット(17年ぶりの銀幕カムバックらしい)、そして「Lagaan」でデビューしたグレイシー・スィン、ジミー・シェールギル、ボーマン・イーラーニー、アルシャド・ワルスィーなどである。
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Munna Bhai M.B.B.S. |
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| Munna Bhai M.B.B.S. |
ムンナー(サンジャイ・ダット)は、ムンバイーのドービー・ガート近くで、子分のサーキット(アルシャド・ワルスィー)などを従えてマフィアのボスをしていたが、田舎に住む父親ハリ・プラサード・シャルマー(スニール・ダット)には医者をやっていると嘘をついていた。普段は人を誘拐して金を巻き上げたりしていたが、父親が田舎からムンバイーを訪れるときだけは、子分たちを使ってアジトを病院に見せかけ、医者になった振りをしていた。
今回も父親がムンナーの元を訪れて来た。ハリ・プラサードは偶然旧知の医者アスターナー(ボーマン・イーラーニー)に出会う。アスターナーにはチンキー(グレイシー・スィン)という娘がおり、ハリ・プラサードはムンナーとチンキーのお見合いを決める。しかしアスターナーはムンナーが医者ではなくゴロツキであることを知り、チンキーを見合いに呼ばず、ムンナーとその両親を見合いの席で侮辱して家から追い出す。ムンナーが医者でないことを知った父親は怒り、村へ帰ってしまう。全てがばれてしまったムンナーは傷心したが、アスターナーを見返すため、チンキーと結婚するため、本当に医者になることを決意する。ムンナーは、ある医者を脅して入学試験を代わりに受けさせ、トップの成績でムンバイーの医学大学に入学する。ところが不幸なことに、その医大の学長は、あのアスターナーであった。アスターナーの方針は、ずばり「患者と心を通い合わせるな」であった。患者の病気を治療するためには、患者をただのモノと捉えなければいけない、というのが彼の持論であった。
ムンナーは医大でスマン(これもグレイシー・スィン)という女医に出会う。スマンはアスターナーの娘チンキーだったが、彼には正体を隠しながら、新入生のムンナーを助ける。ムンナーは未だ見ぬチンキーに恋焦がれながらも、スマンに惚れていく。ムンナーは患者と抱き合って心を通い合わせることが一番重要だと考えていた。ムンナーのやり方は、医学部の教授たちの反発を招くが、病院のスタッフからは次第に支持されるようになる。ムンナーの影響で、大学病院には笑顔が溢れるようになった。ムンナーはズルをして1学期のテストもトップでパスした。しかしアスターナーはそれが我慢ならなかった。
アスターナーはとうとうムンナーの退学を決める。しかし病院のスタッフや医学生たちはアスターナーに抗議し、ムンナーをこのまま大学に留まらせるように懇願する。そこでアスターナーは、次の日自らムンナーの試験を実施し、全ての問題に正解したら、彼の在学を認めると宣言する。ムンナーは、既に味方となっていた医学部の教授たちを抱きこんで、答えの暗記に走るが、ちょうどその夜、ムンナーが面倒を見ていた癌患者のザヒール(ジミー・シェールギル)が死亡し、彼はテストどころではなくなる。次の日、彼はザヒールを救えなかった悲しみからテストを途中で放棄して、去っていく。
しかし、家に帰ったムンナーを迎えたのは、彼の両親だった。スマンは彼の両親に全てを打ち明けた。ムンナーは医者にはなれなかったが、多くの人々の心を癒し、多くの人々に愛されていた。父親はそれを誇りに思い、ムンナーを抱きしめる。そしてスマンは自分こそがチンキーであることを打ち明け、ムンナーとの結婚を承諾する。こうしてムンナーはチンキーと結婚するのだった。 |
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ホロリとする場面がいくつもある上質のコメディー映画。コメディアンとしてのサンジャイ・ダットの才能が遺憾なく発揮されているように感じた。最初から最後まで、抱腹絶倒のギャグがありながら、病院内での人間のドラマや、非情な院長との対立、情に厚いムンナーの行動などが、いい匙加減で調合されており、監督の才能を感じた。監督のラージクマール・ヒラーニーは、元々TVドラマやミュージック・ビデオの監督だったようで、これが映画監督第一作らしい。
病院もののドラマや映画は、比較的お涙頂戴的ストーリーを作りやすいので少し差し引いて考えなければならないとは思うが、この映画は笑い涙に加えて、泣き涙も流させてくれる。あらすじで、癌患者の若者ザヒールについて書いたが、他にも12年間植物人間状態で放置されているアーナンドや、失恋して自殺未遂を繰り返す少年、30年間ずっと床掃除を続けてきたお爺さんなど、多くの人々と心と心の付き合いをする内に、ムンナーは大学病院内で人望を集めて行く。ムンナーが来る前の病院は、患者が死にかけているのに、医者は「まだフォームを書いてないから」とか「今は勤務時間外だから」という態度で治療をせずにいるような状態だった。ムンナーはそういう病院の悪い体制を改め、患者と友人になり、患者と心を通わせることによって、病気の治療を心がけた。もちろん、現実世界でこんなにうまく行くはずはないのだが、何だか感動してしまう。
大学病院の院長を務めるアスターナーも、高圧的な性格ながらいろいろ笑わせてくれる。彼は「笑いセラピー」という独自の理論を実践している。それはつまり、ストレスを感じたり、怒りがこみ上げたりしたときに、無理矢理笑って心を安定させるという方法である。アスターナーはムンナーのせいで何度も怒り狂うが、その度に不気味な笑いをして、それが爆笑を誘っていた。
サンジャイ・ダットの出演するコメディー映画は、「Ek Aur Ek Gyarah」(2003年)ぐらいしか見たことがないが、あの映画よりはいい演技をしていた。「Munna Bhai M.B.B.S.」では、医学生であるものの、実際はマフィアの役だったので、特に違和感なく見ることができただけなのかもしれないが。ちなみに彼の父親、スニール・ダットも、ムンナーの父親役で出演している。スニール・ダットはかつての人気男優である。
グレイシー・スィンをスクリーンで見たのは、2001年の「Lagaan」以来だ。同映画でガウリー役を演じる彼女を見たときは、はまり役だと感じたが、あまりにはまっていたため、そのイメージが定着して今後あまりブレイクしないのではないかと予想していた。実際、「Lagaan」以来、彼女の出演する映画は2003年の「Armaan」、「Gangajal」ぐらいしかなく、この「Munna Bhai M.B.B.S.」が彼女の第4作となる。「Lagaan」の頃に比べて少しふっくらしたように感じるが、今回は女医という知的な役柄で、さらに魅力ある女優に成長しているように思った。しかし、現在の他のボリウッド女優に比べて、肌の色が黒いのが今後欠点となるだろう。ビパーシャー・バスの黒さはあまり気にならないばかりか、彼女の魅力を一層引き立てているが、グレイシー・スィンの黒さは、「もっと白ければ、もっと魅力的なのに」という、一種の失望感が伴う。
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グレイシー・スィン |
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この映画では、インドの大学に特有の「ラギング」の実態を垣間見ることができる。ラギングとは要するに新入生いじめのようなものであり、特に大学の寮などで行われる。この映画では、新入生は皆パンツ一丁になって、上級生の前で踊らされていた(典型的なラギングである)。しかし筋肉ムキムキのムンナーが踊りだすと、上級生たちは怯えだし、ムンナーの命令に従って今度は上級生たちが裸で踊り出すのだった。もちろん大爆笑である。男子寮ではこのようなラギングが必ず行われるようだが、女子寮でどのようなラギングが行われるかは・・・残念ながら今のところ情報がない。
先にも述べたが、笑いあり、涙ありの佳作映画であり、現在インド人に大いに受けてヒットをしている。サンジャイ・ダットのファンというのが日本人の中にいるとは思えないのだが、「Lagaan」でグレイシー・スィンに心を奪われたなら、見る価値はあるだろう。
インドを語るのに、「多様」という言葉は欠かせない。僕もこの日記の中で、インドの多様性に言及してきたし、インドの修飾語として好んで「多様な」という単語を使っている。しかし、僕の心には、このインドの多様性に対して、一抹の疑念が常にある。
その疑念を持つに至ったきっかけは、もう1年以上も前、あるインド人の大学生と一緒にバーで酒を飲んでいたときに、そのインド人が発した一言だった。その場には、日本人の男3人、インド人の男2人がいた。日本人の3人の内、一人はヒッピー風のファッションをしており、もう一人は暴走族風のファッションをしており、僕は優等生的小ぎれいなファッション(自分で言うのも何だが)をしていた。それを見たインド人が、「日本人はいろんな奴がいて楽しい」と言ったのだ。
そのときハッと思った。店内を見渡してみると、インド人ばかりだったが、ワイシャツにズボンといった、皆同じような服装をしていた。髪型も皆同じようなものばかりだ。女性の服装や髪型だって、それほどバラエティーがあるわけではない(もちろんサーリーの巻き方に何十種類もあったりするのだが)。インド人って、実は均質で無個性な民族なのではないか、と思うようになった。その後、日本に帰って、東京の街を歩いてみたが、本当にいろんなファッションをしている人がいる。我々がインドを「多様なインド、多様なインド人」と形容するのと同じように、インド人の目に「多様な日本、多様な日本人」と映ってもおかしくない。「日本人は無個性」「もっと個性化の教育を」などと叫ばれていた時代があったと思うし、今でもそう思われているのかもしれないが、日本人は案外個性的な国民なのではないだろうか?
グジャラート州を旅行していたときに、多くの人々から「Tere Naam」と呼ばれたことも、「インド人は同じことしか言えないのか!」という文句に近い疑問を持つに至った原因となった。それだけでなく、インド人が初対面の外国人にする質問というのも、まるでマニュアルがあるかのように同じことばかりである。名前、国籍、職業などを聞くのは万国共通だからいいとしても、父親の名前と職業、既婚か独身か、宗教、通貨の単位など、質問事項はほとんど一緒である。最初はいいとしても、同じことを何度も何度も質問されると、どんなに心の広い人でもだんだん怒りを覚えてくるだろう。それらの答えを予め紙に書いてFAQとしてまとめておけば、旅行中役に立つかもしれない。多様なはずのインド人が、無個性に思えてしまう瞬間だ。
確かにインドは多様な国である。しかし、その多様性は、民族やコミュニティーと密接に関わっている。インドはひとつの国というよりも、多くの国が集まってできた世界である。インドの国土面積は日本の約9倍だが、日本をただ9倍に膨らませたというイメージではない。アメリカのような新しい国だったら、そう考えてもいいかもしれないが、インドは違う。日本という国をジグソーパズルのように9個並べたような国、と考えた方がいい。別の喩えをすれば、インドとイギリス、ドイツ、フランスは同格ではない。インドと同格なのはヨーロッパである。そう考えないと、インドを理解するのは難しい。インドは、それぞれ独自の習慣を持った民族が寄り集まってできた国なのだ。多様な国にならない方がおかしい。それに加えて、多くのコミュニティーが平面的にも階層的にも存在し、それらもそれぞれ独自の生活習慣に基づいて生活している。民族間、コミュニティー間では、同じインド人といえど、様々なレベルで違いが見受けられる。「インド人にはいろいろな人がいる」という文章は、「インド人にはいろいろな民族、いろいろなコミュニティーがある」という意味で捉えるべきだ。
しかし、逆に言えば、同一民族内、同一コミュニティー内では、あまり違いがないことになる。部族の村へ行けばそれがよく分かる。村中の全ての人々が、同じような格好をし、同じような家に住み、同じような生活をしている。こういう社会の内部に、多様性が入り込む余地は限りなく小さい。
また、都市に行けば、民族同士、コミュニティー同士の違いが均一化される傾向にある。都市的社会生活を営むにあたって、伝統衣装を着るのを止めて洋服を着ることや、都市型の生活習慣に基づいて生活することを余儀なくされる。おそらく自分のアイデンティティを隠して生活したい人も、多く都市部に住んでいるはずだ。よって、都会のインド人は一見すると無個性なファッションになってしまう。デリーでファッション的に目立つのはターバンを巻いているスィク教徒だが、ターバンを巻かないスィク教徒も多くおり、ほとんどのデリー市民たちは一見したら何の特徴もない服装をしている。
それに比べたら日本人というのは、ひとつの民族であるにも関わらず、本当にいろいろな人がいる。僕のようにヒンディー語を学びにインドに留学する人もいれば、道端で大道芸をやっていたり、地道にサラリーマンとして働いていたり、ベンチャー企業を立ち上げたり、新興宗教を興したり、世界を放浪したり、挙げて行ったらキリがない。この種の多様性というのは、インドには見られない。確かに県民性というものが議論されたり、日本国内でも地域によって特徴的な習慣などがあったりするものだが、それらを別の民族だと断言できるレベルのものではない。日本人は日本人だ。日本人は多様性を外に求めず、内部で醸成しようとしているように感じる。同一民族内での多様性というのは、異民族間の多様性とはまた別の性格を持ったものだろう。
日本人の多様性は、おそらく経済的余裕と関係があるだろう。何だかんだ言っても日本は豊かな国であり、趣味に回すことができる金があり、またやりたいことを目指していける自由がある。しかしインドではまだまだ「趣味」という概念が育っておらず、自分のやりたいことを自由にやれる雰囲気はない。とりあえず毎日の生活で精一杯であり、金にならないことはしない人が多く、社会からの逸脱を非常に恐れる。ファッションにしたって、インドは選択肢が少ないために必然的に皆似通った服を着ることになってしまうのだが、もっと多くの衣料品店ができて、いろいろ選択肢ができると、インド人のファッションも多様化してくるだろう。そう考えると、特にインド人の無個性を嘆く必要はなさそうだ。
しかし、インド人の均質性について、ひとつだけ不安に思っていることがある。それは学問での無個性である。インド人の大学生は、いい点数をもらうために、決して教授の意見に逆らわないという傾向にある。これは伝統的な師弟関係の名残りとも考えられるが、現代の学問の世界でただ従順に教授の意見に従うだけのインド人大学生を見ていると、インドの将来に少しだけ不安を感じる。僕なんかは、わざと教授の意見に反対して注目を集めて高得点を狙うという生意気な作戦を取っており、それは決して失敗していないと思うのだが、インド人学生にはそういう発想があまりないようだ。彼らが教授や既成概念に牙をむくときがいつか来るのだろうか・・・。
よくよく思い出してみると、僕が初めてインドを旅行した1999年にデリーの映画館で見た映画が、サンジャイ・ダット主演の「Daag - The Fire」だった。ビルの屋上から機関銃をぶっ放して飛び降りてくるサンジャイ・ダットにぶっ飛んだものだった。なぜか最近サンジャイ・ダットが出演する映画が頻繁に公開されており、新年早々サンジャイ尽くしである。今日は、先週から公開の「Plan」をPVRアヌパムで見た。
「Plan」のキャストは、サンジャイ・ダット、ディノ・モレア、サンジャイ・スーリー、ビクラム・サルージャー、ローヒト・ロイ、マヘーシュ・マーンジュレーカル、プリヤンカー・チョープラー、リーヤー・セーン、パーヤル・ローハトギーなどである。監督はフリダエ・シェッティー、プロデューサーはサンジャイ・グプターとサンジャイ・ダット、音楽はアーナンド・ラージ・アーナンド。2002年に公開されたヒット作「Kaante」と同じチームと銘打たれており、サンジャイ・ダット、サンジャイ・グプター、マヘーシュ・マーンジュレーカル、アーナンド・ラージ・アーナンドなどが共通している。
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左からディノ・モレア、ビクラム・サルージャー、
サンジャイ・ダット、サンジャイ・スーリー、ローヒト・ロイ |
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| Plan |
ムンバイーへ向かう列車のコンパートメントでたまたま同席した4人の若者は、ムンバイーにそれぞれ目的を持って来ていた。ボビー(ディノ・モレア)は映画男優になるのを夢見て田舎を飛び出してきた。オーミー(ローヒト・ロイ)は、父親の金を盗んでムンバイーに逃亡した男を捕まえ、金を奪い返すために来ていた。ジャイ(ビクラム・サルージャー)は、ムンバイーの大学に行ってしまった恋人を追いかけて来ていた。ギャンブル好きのラッキー(サンジャイ・スーリー)は、一攫千金を夢見て家を飛び出てムンバイーを目指していた。
ところが、4人の田舎者にとってムンバイーは巨大な都市過ぎた。何とか住む家を確保するが、それぞれの夢は急速にしぼんでいった。ボビーは映画プロデューサーのもとを訪れるが相手にしてもらえない。オーミーが追い求めていた、父親の金を盗んだ男というのは実は彼の友人で、オーミーはただムンバイーに来たいがために、彼に金を盗ませて計画的にムンバイーに来たのだった。ジャイの昔の恋人(リーヤー・セーン)は彼のプロポーズを拒否した。ラッキーはギャンブルに明け暮れる毎日だった。結局4人は、ムンバイーで無為に過ごすようになった。
だんだん皆の懐が寒くなってきたある日、4人は一攫千金を計る。ありったけの金をラッキーに渡して、彼の強運を利用してギャンブルで大金を獲得しようという計画だった。ラッキーは順調にカジノで勝ち続けるが、欲を出したために大負けしてしまう。こうして4人は一文無しになったばかりか、70万ルピーの借金を抱えてしまう。カジノのオーナーは7日以内に70万ルピーを払わなければ命はない、と脅す。
切羽詰った4人は、誰か大金持ちを誘拐して身代金を巻き上げる計画を立てる。しかし彼らが誘拐したのは、よりによってムンバイーの裏社会を支配するマフィアのドン、ムーサーバーイー(サンジャイ・ダット)だった。しかし、実はちょうど彼らがムーサーを誘拐したときに、ライバルのマフィア、スルターン(マヘーシュ・マーンジュレーカル)がムーサーの部下を寝返らせてムーサー暗殺を計画しており、結果的に4人はムーサーの命を救ったことになった。ムーサーは自分を誘拐した4人を殺すところだったが、それに免じて彼らを許すことにした。
ムーサーには、ラーニー(プリヤンカー・チョープラー)という恋人がいた。ラーニーはキャバレーのダンサーで、ムーサーとの結婚を望んでいたが、その話を持ち出すといつも、結婚なんて考えていないムーサーとケンカになるのだった。ムーサーはスルターンへの復讐を決めるが、部下全てを失ってしまった今、彼を助けるのは、ボビーら4人しかいなかった。ラーニーは4人を無理矢理ムーサーの部下にして、スルターン復讐を手伝わせる。スルターンの部下を次々に始末している内に、いつの間にか、ムーサーと4人は心を通わせるようになる。
やがてスルターンの居場所が分かった。4人をマフィアの道に引き込みたくなかったムーサーは、彼らを田舎に帰し、単身そこへ乗り込むことを主張するが、4人はムーサーについて行くことを嘆願する。こうしてムーサーは4人を引き連れてスルターンのアジトに殴りこみをかけ、激闘の末にスルターンに復讐を果たす。
ムンバイー駅で4人を見送るムーサーとラーニー。4人が去った後、ムーサーはラーニーに言う。「結婚しようか。」 |
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多額の借金を抱えた田舎者4人組がマフィアのボスを誘拐するという、荒唐無稽なストーリーだったが、まあまあ楽しめる映画だった。変な髪形をしてアルマーニのスーツに身を固めたサンジャイ・ダットがかっこよすぎる!マフィアの役をやらせたら、例えプロフェッショナルな悪役俳優であっても、彼にかなう者は現在のボリウッドにはいないだろう。「Munna Bhai M.B.B.S.」でコメディー色満点のマフィア役、この映画で正統派マフィア役、どちらもピッタリはまっていたからすごい。
ムンバイーに着いたばかりで右も左も分からない4人がまず向かった先が、ムンバイーの売春街グラント・ロードだった。本物のグラント・ロードがどんな雰囲気なのか知らないが、デリーの売春街G.B.ロードを見る限り、この映画で描かれている売春街のイメージは現実にはあり得ないと思う。住み心地が悪かった4人はすぐにグラント・ロードを出て、オンボロ・マンションに部屋を借りることにしたのだった。
普通に考えたら、マフィアのドンを簡単に誘拐できるはずがないが、ちょうどそのときはライバルのマフィア、スルターンによって部下たちが買収され、彼の警護から外れていたので、スムーズに誘拐できたのだった。ちなみに4人は、クロロフォルムで気絶させて誘拐していた。しかし、彼がムンバイーでその名を知らぬ者がいないほどのマフィアであることを知って4人は大慌てする。
ムーサーは次第に4人をかわいがるようになり、映画プロデューサーに電話してボビーを映画スターにさせてあげたり、4人の70万ルピーの借金問題を解決してあげたりした。しかし、「ムーサーバーイーのようになるんだ!」と調子に乗る4人たちを怒鳴りつける。「俺みたいになマフィアになりたいのか?こんな生活をお前たちにさせたくない。4人とも今から田舎へ帰れ!」4人はしぶしぶ身支度をするが、最後にスルターン復讐を手伝うことになる。
サンジャイ・ダットは、実生活もマフィアみたいなものだと思うので、映画中の演技は演技というよりも全て地だろう。アルマーニのスーツにグッチの靴、ロレックスの時計、彼が2丁の拳銃を構える姿は、何の違和感もない。サンジャイ・ダットは、ボリウッド・スター中一番会ってみたくない俳優である。
プリヤンカー・チョープラーは依然として体のバランスが変。腰から尻にかけてのラインが細すぎる。病気の一種ではないかと心配するくらい不思議な体の形をしている。割と好きな女優で、大スターになれるオーラがあると思うのだが、あまりこれと言った成長が見られず、期待していたほどブレイクしないかもしれない。今回は姉御っぽい役を演じていた。ディノ・モレアも好きな男優だが、この映画では登場人物が多かったために影が薄くなっていた。彼も今ひとつ成長が見られない。ダンスもあまりうまくない。かえって悪役のマヘーシュ・マーンジュレーカルの方が、ぐっと観客を引きつける演技をしていた。
ダンスシーンは手抜きに思えた。4人組の踊りの息が合っていない上に、サンジャイ・ダットの踊りは「これでいいのか?」と思うくらい動きが固い。アーナンド・ラージ・アーナンドの音楽にもあまり魅力を感じなかった。
別につまらないことはないのだが、すごい楽しいというわけでもなく、別に見なくてもよかった映画だと僕は思った。サンジャイ・ダットのファンなら楽しめるのだろうが・・・。
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1月13日(火) インドの新聞が伝える日本像 |
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現代の社会では、マスコミが国民に伝えるイメージというのは多大な影響力を持っている。ある意味、「支配」という言葉を使った方が正しいかもしれない。マスコミが伝える情報が、世論を支配するまでになっているように見える。僕が日頃不満に思っているのは、日本のマスコミが日本人に伝えるインドの情報の選択である。日本に伝わるインドの情報といったら、カシュミール問題やテロであったり、貧困であったり、カースト制の悪い面であったり、災害であったりする。ほとんどインドのいいニュースを流してもらっていないような気がする。もっとも、長い間日本に住んでいないので、あれから少しは改善されているかもしれない。
ところで、インドのマスコミは日本について、どんなニュースを伝えているのだろうか?実はインドは世界で最も親日的な国と言われるくらい、日本と日本人に好意と好奇の視線を投げかけている国である。インドの新聞にも、日本のニュースが多く載るが、それらはほぼ全て好意的なものばかりである。最近の僕は職業柄、たくさんの新聞に目を通す機会があるのだが、今年に入ってなぜか日本のニュースが以前にも増して増えたように感じている。そこで、ここ1週間の新聞の中で、カラーの写真入りで日本について紹介された記事を抜粋してみた。
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■1月8日(木)Times of India 横綱の朝青龍(右)が、東京の明治神宮にて闘牙(左)を従えて土俵入りの儀式を行った。
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■1月8日(木)Business Line 東京近郊の川崎市にて、NECの社員と、同社の開発した個人用ロボット、パペロの2ショット。このロポットは音声認識ソフトウェアを内蔵し、自動で英語−日本語の翻訳を行う。
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■1月11日(日)Business Line 若い女の子たちが、東京の神社において、仮設のプールの中で氷水を浴び、体と魂を浄化する苦行を行った。
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■1月12日(月)Business Line 本田技研の開発した人間型ロボットASIMOが、東京本社において社員のカウントに従って餅つきをした。本田の社員たちは餅を作って新年を祝い、来場客に配った。
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■1月12日(月)Times of India 【日本にて、デリーに先駆けてローリーが祝われた】 日本の古都奈良の興福寺の裏で若草山が燃え、空には花火が打ち上げられた。死んだ草を始末し、春を迎えるために、毎年1月に若草山の山焼きが行われる
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■1月13日(火)Times of India 元力士の小錦と、その妻飯島が、東京のホテルにおいて結婚を発表した。小錦は28歳の元看護婦と1月7日に結婚した。ハワイ出身の小錦は、外国人で初の力士となり、大関まで昇りつめた。1997年に引退した後は、日本でテレビのパーソナリティーとして活躍している。
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■1月13日(火)The Hindu 97歳の神道の神職者、中川正光氏が、東京の鉄砲州稲荷神社において、氷水の中で沐浴をした。人々は新年になると、健康と幸福を祈って、体と魂を浄化するための沐浴の苦行をする。
ざっと見たところ、この中に日本のマイナス面を伝えるニュースは全くない。この1週間のニュースから察する限り、インドのマスコミが好んで伝えている日本のニュースは、「相撲」「最先端技術」「宗教祭儀」の3つということができる。
インド人は実は相撲にすごい興味を持っている。マスコミが好んで報道していることも関連していると思うが、元々インドにもクシュティーという相撲に似た伝統スポーツがあり、受け容れやすい素地があるからだと思われる。もちろん、実際に相撲を見たことのあるインド人はほとんどおらず、ただ力士の太った体が強烈な印象として脳裏に残っているだけである。
今日のタイムズ・オブ・インディアの一面に小錦の写真が載っていたのだが、早速学校で話題になっていた。「あんなでっかい身体をした力士が、こんな小さな女性と結婚するなんて!」というような驚嘆の反応である。タイムズ・オブ・インディアも、インド人たちのそういう反応を計算して一面に掲載したのだろう。タイムズ・オブ・インディアは世界で最も楽しい新聞だと思っている。
それにしても是非一度でいいからインドで大相撲をやって、インド人に生の相撲を見せてあげたいと思っているのだが、韓国巡業すら難航している現状ではその実現は難しいだろう。一応、「相撲」という言葉の起源はサンスクリト語にあり、インドで相撲をやることに意味はあると思うのだが・・・。
ロボットの記事もよくインドの新聞に載る。本田技研のASIMOは去年インドを訪問しており、大いに話題を振りまいた。ロボットだけでなく、日本で何か新しい技術が使われた製品が発表されると、すぐにインドの新聞に載る。やはり好奇心をそそるような報道の仕方である。
日本独自の儀礼や祭りもよくインドの新聞に載る。昨日の新聞には「日本で1日早くローリーが祝われる」というキャプションと共に、若草山の写真が載っていたので大笑いした。北インドでは今日(13日)、ローリーという祭りの日で、古い木片などが燃やされ、まるでキャンプファイヤーのようなことが行われる。もしかしたら若草山の山焼きと、北インドのローリーとの間に何かつながりがあるかもしれないが、ここはインド人のユニークな視点を賞賛すべきだろう。ローリーはマカル・サンクラーンティという、冬の終わりを告げる日の前日に行われる。南インドなどではマカル・サンクラーンティの日にポンガルが祝われる。
なぜかインド人は苦行の写真も好きみたいだ。偶然かもしれないが、上に挙げた写真の中にも2つ、真冬に水浴びをしたりする写真があった。1月11日の写真は、よく見ると服が透けていて、下に着ている水着がうっすらと見えていたりして、インド映画風エロチックさがあるような気がする。インドの新聞には、スポーツ紙(そんなものインドにはないが・・・)でもないのに微妙な写真が堂々と載ることがあったりして面白い。
インドといえば、何度も来日して著名人たちと親交を深めたラヴィンドラナート・タゴール、独自の政治論に日本の例を幾度となく引用しているマハートマー・ガーンディー、太平洋戦争終了後の1946年に開かれた極東軍事裁判において、ただ一人公正な立場から日本に味方してくれたパール判事など、昔からなぜか親日的な人物を輩出してきた国である。その傾向は今でも残っており、インドの新聞は日本のいい情報だけを拾って伝えてくれている。その影響からか、一般庶民も日本人に対して特に親切にしてくれる。日本人として本当にありがたい気持ちがする。こんないいパートナー、世界にあまりいないと思うのだが、日本は依然としてインドに対してつれない態度をとっている・・・。残念な気持ちでいっぱいである。
インドには、日本ではあまり考えられない商売をして生計を立てている人がいる。例えば電話屋なんかそうだろう。「電話屋」と聞いても、インドを知らない日本人にはピンと来ないだろうが、一度でもインドを旅行すれば、多分最低1、2度はお世話になるはずで、容易にイメージが沸くだろう。インドの市町村には必ず「STD/ISD/PCO」と書かれた看板を目にする。これが電話屋の目印だ。STDは「Subscriber Trunk Dialing」の略で、つまり州外電話、ISDは「International Subscriber
Dialing」の略で、つまり国際電話、PCOは「Public Call Office」の略で、つまり州内電話(ローカル・コール)のことである。最近の電話屋は、国際、州外、州内全てに電話をかけることができるところが多いが、中には国際電話がかけれなかったり、ローカル・コールしかできないところもある。機械で通話時間と料金が計られており、通話後にはレシートがもらえる。田舎に行ったら、ストップ・ウォッチで時間を計ったりするところもある。携帯電話を買って以来、めっきりと電話屋のお世話になる機会は少なくなったが、それでも旅行中や、長距離電話をかけるときなど、重宝している。心配されていたほど、携帯電話の普及によって電話屋は打撃を受けていないようにも見える。インターネット・カフェを始める電話屋もけっこう多い。ちなみに、公衆電話というのはインドではほとんど目にすることができない。
ところで、先日公開された「LoC Kargil」では、兵士たちがカールギル地区の電話屋から故郷に電話するシーンがあった。「こんな辺境の地にも電話屋があるなんてな!」と驚き、喜び、家族に無事を報告していた。電話屋を知る者としては、多少じ〜んとくるシーンであった・・・。多分インド人にとって、旅先や出稼ぎ先の電話屋というのは、そのまま「故郷」とか「家族」と直結したイメージが持たれているのではないかと思っている。
「体重計屋」というのも、日本人には理解しがたい商売だろう。インドの街角には、体重計を前にしてちょこんと座っている人が必ずいる。何をしているのかと思うと、その人が体重計ひとつを生業にして生きている人なのだ。つまり、体重計で体重を量った人からお金をもらって生活をしている。そんな馬鹿な、と思う人もいると思うが、体重計屋が成り立つということは、街角で体重を量る人がいるということで、やはり体重計屋で体重を量っているインド人を時々目にする。残念ながら僕は体重計屋を使ったことがないので、相場が分からないが、おそらく1回1ルピーほどだと思う。
公衆電話や自動販売機がないくせに、インドには自動有料体重計という代物が存在する。駅や映画館など、人が集まる場所にそれはよく置いてある。派手な外観をしており、初めて見る人にはそれが体重計だとは信じられないだろう。1ルピーコインを入れて台の上に立つと、小さな紙切れが出てくる。その紙切れには映画スターの顔などが印刷されており、裏に体重がプリントされている。しかし往々にして、その体重の数値は正確ではないことが多い。この自動有料体重計も、なぜかインド人に人気で、ともすると体重計の周りに人だかりができていることすらある。最近は身長も同時に測れる体重計が登場したので、自動有料体重計業界は新たな躍進を見せるかもしれない。ただ、この種の体重計屋や自動有料体重計は、中国やタイなど他のアジアの国でも目にしたので、日本人が考えるほど特殊な職業や商売ではないかもしれない。
「耳かき屋」は、インド旅行者には古くから有名な存在である。「地球の歩き方」などにも「耳かきワーラー」として紹介されている。文字通り、耳かきをして金を稼いでいる人々である。赤くて丸い帽子をかぶっているので、見るとすぐに分かる。昔は、デリーのコンノート・プレイスの中心部にあるセントラル・パークによくいたのだが、現在はデリー・メトロ工事のためにセントラル・パークが閉鎖されてしまったため、耳かき屋たちはコンノート・プレイス周辺部を徘徊したり、デリーの他の市場をうろついていたりする。彼らは固定したオフィスなどを持たないようだ。神出鬼没に現れては、日陰に座り込んで庶民の耳掃除に勤しんでいる。耳かきワーラーたちは、外国人に数百ルピーや数ドルの料金を要求するとされ、ガイドブックから注意を喚起されてきた人々だったが、絶好の職場(セントラル・パーク)を失ってからは、割と細々と日銭を稼いでいるようだ。僕も彼らに耳かきをしてもらったことがある。ピンセットを使って、ピンポイントで耳クソを引っ張り出すので、驚くほどたくさんの耳クソがとれる。すっごい気持ちよかった。「やだわ、私に耳クソなんてないから・・・」と謙遜する淑女からも、大量の耳クソを獲得する能力を持った人々である。「ここに行けば必ず会える」という場所は、コンノート・プレイス以外はあまり知らないが、もし見かけたら必ず彼らに耳かきをしてもらうことにしている。正しい料金は、両耳で5ルピーである。ところで、彼らの正式なカースト名は何なのだろうか・・・?まさか本当に耳かきワーラーでもあるまいし、そろそろ正しい名前で呼んでやりたいと思っている。
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耳かきワーラー
彼らの正式名称を募集中 |
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「メヘンディー屋」というのも、インドならではの商売だろう。インドの市場には、メヘンディーのカタログなどを並べて座っている男たちがいる。メヘンディーというのは、インドの女性たちがヘンナの葉を染料にして手や足につける文様のことで(刺青ではない)、祭りや結婚式のときなどによく目にすることができる。それを一手に請け負っているのがメヘンディー屋である。メヘンディー屋にもピンからキリまであるようで、「あのマーケットのメヘンディー屋はうまい」などと女性が噂しているのを聞いたことがあるが、僕はやってもらったことがないので、いったいいくらかかるのか、どんな気持ちなのか、よく知らない。ディーワーリーやラクシャーバンダンなどの祭りの前には、メヘンディー屋の周りにはインド人女性たちの人だかりができる。ただ、このメヘンディー屋も、メヘンディーの本場であるアラブ世界などでは全く珍しい存在ではない。
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グリーン・パークのメヘンディー屋 |
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ドービー(洗濯屋)は有名だが、「プレス屋」というのは案外知られていないかもしれない。アイロンのことをインドではプレスという。プレス屋は各住宅街の要所要所で営業している。レンガを積んで板を乗せたような、簡易的な台の上でアイロンをかけているのですぐに分かる。近所の住民の衣服にアイロンをかけて金を稼いでいる。住宅街で道に迷ったときは、彼らプレス屋に道を尋ねるのが一番確実である。近所を回ってプレスする服を集めているので、周囲の地理にすごく詳しい。プレス屋のことをドービー(洗濯屋)と勘違いしている人も多いが、彼らは洗濯は基本的に請け負っておらず、アイロン専門にやっている。洗濯もやってくれるところはあるが、本業ではないようで、あまり安くない。アイロン1枚1〜2ルピーほどである。最近は近代的なドライ・クリーニング屋があちこちのマーケットにできつつあるが、逆に彼らは洗濯だけを請け負っており、アイロンはやっぱり近所のプレス屋がやっているようだ。共存繁栄ということか。ちなみにデリーにはあまりドービーがいないような気がする。
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ガウタム・ナガルのプレス屋 |
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学生が最もお世話になるのが、ゼロックス屋である。ゼロックス屋というのはつまりコピー屋のことである。だが、インドでは単に「コピー」というと、「本」のことになってしまう。コピーのことをインドでは「フォトコピー」とか「ゼロックス」と言っている。だから「ゼロックス屋」と呼ぶのが正しいだろう。ゼロックス屋は電話屋と兼ねて営業していることが多い。日本のコンビニでは、セルフサービスでコピー機を使うようになっているが、インドでは全て店員がやってくれる。というか、決して自分でやらせてくれない。勝手にコピー機をいじると怒られる。熟練したゼロックス屋なら、両面コピー機能のないコピー機でも無理矢理両面コピーをしてくれたりするし、パスポートとヴィザのコピーを器用に1枚の紙に載せてくれたりもする。ゼロックス屋はどこにでもあるが、大学の近くや、オフィス街でよく営業をしている。普通デリーではA4サイズのコピーが1枚につき1ルピーだが、JNU内では半額である。製本なども安価でやってくれる、心強い味方だ。インドはどんな本でもゼロックスすることができるので便利である。ここ数年来、日本の大学の図書館では、著作権の問題から文献のコピーに厳しくなってきた。だがインドのゼロックス屋の辞書に「著作権」という言葉はない・・・。インドの大学で学ぼうと思ったら、文献の著作権にこだわってはいられない。全てコピー、コピー、コピーである。一度インドのゼロックス屋の味を味わってしまうと、日本のコピーは全部自分でやらないといけないため、非常に面倒に感じる。
このように、日本人には馴染みのない商売に携わっている人々もインドにはたくさん住んでいる。インドの面白い部分のひとつだろう。
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1月16日(金) Ek Hasina Thi |
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2003年度乗りに乗っている女優の一人、ウルミラー・マートーンドカルの新作が公開された。「Ek Hasina Thi(一人の美人がいた)」。同じく2003年公開の「Kal
Ho Na Ho」で株を上げたサイフ・アリー・カーンも主演。現在絶好調のこの2人の共演を、PVRアヌパムで見た。
「Ek Hasina Thi」のプロデューサーは、安定した質の映画を提供することで定評のあるラーム・ゴーパール・ヴァルマー。ハリウッドの20世紀フォックスも出資している。キャストはウルミラーとサイフの他に、スィーマー・ビシュワース、プラティマー・カーズミーなど、ボリウッド界の曲者女優が出演する。
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Ek Hasina Thi |
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| Ek Hasina Thi |
サーリカー(ウルミラー・マートーンドカル)はムンバイーの旅行会社に勤める独身のOLだった。サーリカーはたまたまオフィスにやって来た実業家のカラン(サイフ・アリー・カーン)に口説かれ、次第に彼を恋するようになる。
ある日、出張に出掛けていたカランから電話が入る。友達がムンバイーに来るから、家でお茶でも飲ませてやってくれ、とのことだった。サーリカーは何の疑いもなくOKする。やって来た友達は怪しい風貌の男だったが、カランの友達ということで歓待する。その男は、急用ができたようで、スーツケースを置いて外出してしまう。その日のニュースで、その男は指名手配犯で、しかも警察に射殺されたことが分かる。カランは、スーツケースをどこかに捨てるように指示するが、警察がやって来てしまい、サーリカーは犯罪者擁護の罪で逮捕される。
カランはサーリカーに、裁判で自分の名前を決して出さないよう、弁護士を通じて説得する。状況の辻褄が合わないため、裁判は不利だった。弁護士はサーリカーに、罪を認めれば罪が軽くなると言い、サーリカーもそれに従うが、裁判官は「安定した生活を送っていながら、故意にマフィアに手を貸すとは、同情の余地がない」として、彼女に7年の懲役を言い渡した。サーリカーは、女性専用の監獄に入れられる。やっとムンバイーに戻ってきたカランは、サーリカーと面会するが、彼は「何とかして外に出せるように努力してるから、しばらく我慢してくれ。その内慣れるだろう。俺の名前だけは絶対に出さないでくれ」と言うだけだった。それを聞いてサーリカーの表情が変わる。
サーリカーはネズミにも悲鳴を上げるような臆病な女性だったが、カランの裏切りを知ってからはまるで性格が変わり、ネズミも怖くなくなっていた。サーリカーはカランに復讐するため、監獄の仲間と共に脱獄する。サーリカーはまず弁護士を殺す。しかしカランに対しては、ただ殺すような簡単なことはしなかった。サーリカーはカランが滞在していたデリーへ行き、彼をひたすら尾行する。カランがマフィアのあじとへ足を運んでいることを知った彼女は、カランが去った後にマフィアの幹部を殺害し、大金を奪う。すぐにそれはマフィアに知れ、カランが彼を殺したと疑われる。カランはマフィアに命を狙われることになる。また、脱獄と弁護士殺害から、サーリカーにも警察の追っ手が迫っていた。
サーリカーはカランと偶然を装って会い、命を狙われている彼を自分の住む家にかくまう。サーリカーはまだ彼を殺そうとしなかった。やがてカランは、彼女が弁護士やマフィアを殺したことを知り、サーリカーをマフィアに突き出すが、マフィアは泣き喚くサーリカーの言うことを信じ、カランの言うことを信じなかった。そこへ警察が踏み込んできたため、場は混乱する。カランは何とか逃げ延び、停めてあった車に乗って逃走するが、その車にはサーリカーも乗っていた。サーリカーは彼に銃を突きつけ、そのまま運転させる。サーリカーはカランを郊外の洞窟へ連れて行き、そこへ縛り付けて去っていく。
夜・・・。洞窟で拘束されたカランは、そこが大量のネズミの住処だということに気付く。周りからうじゃうじゃとネズミが出てくるが、彼は身動きができなかった。洞窟に悲鳴が響き渡る・・・。 |
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サーリカーの復讐がメインの、お化けものではないライトなホラー映画。ストーリーはよく出来ていた。あらすじも書きやすかった。安心して普通に楽しめる映画だが、あまりにハリウッド映画的すぎて、なんだか心の奥底から楽しめない。ハリウッド映画的映画はハリウッドが作っているのだから、インド人はインド映画の範疇でできることをやってもらいたいと思っている。だからそこまでこの映画を高く評価することはできない。しかしやはり特筆すべきは、ウルミラー・マートーンドカルである。
まるで最近のウルミラーは、「サイキック女優」になろうとでもしているかのように、精神的に異常をきたし気味の女性の役をやっている。2003年の「Bhoot」はその最たるものだが、「Pinjar」でもヒステリックな表情を見せ、「Tehzeeb」でも怒りに顔を震わせていた。この映画でも「Bhoot」に匹敵するほど、復讐に燃える怖い女の役。ウルミラーの目の怖いこと怖いこと・・・。もう彼女がピュアなヒロインをやっている映画を見れなくなりそうだ。
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いっちゃってるウルミラー |
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サイフ・アリー・カーンも、最近になってやっとブレイク気味である。なぜかサイフは脇役的出演が多かったのだが、2001年の「Dil Chahta Hai」辺りで一気に彼の運気が上昇し始め、ペプシのCMに出るようになった2003年ぐらいで最高潮に達しているように思える。最近流れているペプシのCM「Kisko
Pyaar Karoon(誰に恋しちゃおうか)」は最高。彼の「What's that!?」という仕草もかっこいい。インドに住んでいる人にはお馴染みのCMだが、日本では多分見れないと思うので、一応簡単に筋を説明しておく。
| サイフのペプシCM |
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田舎のバスにサイフが一人で乗っていると、チアガールの衣装を着た若い女の子たちの群れが乗り込んでくる。彼女たちは外の店員にペプシを注文するが、ペプシが届く前にバスは出発してしまう。喉が渇いて死にそうな表情の女の子たち・・・そこでサイフがたまたま持っていたペプシの栓を開ける。一斉に振り向く女の子たち。そこで「誰に恋しちゃおうか」の音楽がかかり、サイフと女の子たちが踊りを繰り広げるが、それはサイフの妄想だった。バスが次のバス停に停車し、デブで醜い男がバスに乗り込んできて「ペプシ〜」とペプシを売り出す。女の子たちは彼に群がる。それを見てサイフは「What's that!?」とつぶやく。 |
2003年に公開された大ヒット作「Kal Ho Na Ho」では、どちらかというと助演男優という感じだったが、重要な演技をしていた。そしてやっと「Ek Hasina Thi」で、堂々の主演男優の座を獲得した。
2人の主演に負けないくらい存在感を示していたのが、スィーマー・ビシュワースとプラティマー・カーズミー。スィーマーは、これまた怖い女警官の役で、執拗にサーリカーを追い回す。プラティマーは監獄にいた虜囚の一人。マフィアのボスで、監獄の中からマフィアを指揮していた。彼女曰く、マフィアにとって、監獄が世界で一番安全な場所らしい。この2人は要チェックの曲者女優である。
ストーリーの前半はムンバイー中心だったが、サーリカーが脱獄してから舞台はデリーに移る。だから見慣れたデリーの街並みがあちこちで出てきて楽しかった。ボリウッド映画を見ていると、大体舞台はムンバイーなので、ムンバイーに住んでるとさぞや楽しいだろうな〜と思っていたが、最近はデリーロケの映画も増えて、デリー住民もインド映画を別の角度から楽しめるようになって来た。なんとちょうどこの映画を見ていたPVRアヌパムの映画館と、その周辺のサーケートのマーケットも映画中出てきたので、変な気分だった。案外映画中に見慣れた場所が出てくると、映画に集中できなくなってよくないと思った。この場所からあの場所へ一瞬で行けるはずない、とか、実際の地理感覚が働いてしまって、気が散った。
「Ek Hasina Thi」は、ハリウッド映画を見るような感覚で楽しめる映画だが、正統派インド映画のファンには物足りないだろう。ミュージカル・シーンは一切なし。2時間半ほどの映画である。
デリーに住み始めてからもう2年以上経つが、まだまだデリーの中にも知らない場所、行ったことのない場所というのはあるものだ。「この世の地獄」と形容されるデリーの売春街G.B.ロードは、一度詳しく実地調査してみたいと思っていながら、怖くて行っていない。トゥグラク朝の城砦の跡があるトゥグラカーバードにも、実は行ったことがない。デリー最大の卸売り市場アーザードプルも行ったことがない。デリーの北の外れローヒニーにある、M2Kという新しくできたシネマ・コンプレックスや、ノイダ(Noida,:New Okhla Industrial Development Areaの略らしい)にある、これまた新しくできたシネマ・コンプレックスのウェーヴにも、一度行こうと思いつつ、まだ行っていない。デリーの西の端にあるドワールカーにも、何もない場所とは知りつつも、一度行ってみたいと思っている。まだまだデリーをマスターしたとは言えない。
競馬場もその「いつか行こうと思いつつも行っていなかった場所リスト」にリストアップされていた場所だった。場所はアショーカ・ホテルのすぐ近く、首相官邸のすぐ前である。僕の家からもそんなに遠くない。名前はデリー・レース・クラブという。1940年設立とのことなので、印パ分離独立前からあることになる。今日はプラガティ・マイダーンでオート・エクスポを見た後、暇だったので競馬場を見学してみることにした。ちなみに僕は日本の競馬場に行ったことがないので、以下の記述は同行した友人の説明を大いに参考にしている。
入るとまずは駐車場があり、そこにバイクを停める。駐車代は二輪車7ルピー、四輪車10ルピー。普通二輪車の駐車場代は5ルピーなのだが、ここはなぜだか高い。駐車場に入るや否や、レースのデータブックを売る子供たちが群がってくる。とりあえず15ルピーの小冊子を記念に買ってみた。入場料は一人40ルピー。中に入ると、日本の競馬場と似た異様な雰囲気で盛り上がっていた。日本の競馬場にもいそうな人相の人が多く集っていた。競馬といえば元々紳士の娯楽であり、イギリス植民地を経験したインドにも、そういう伝統が残っているとは思うが、このデリーの競馬場を見る限り、そこにいる人はあまり堅気な商売をしている人に思えなかった。ただ、年配の人の中には、いかにも上流階級の紳士といった風貌の人も少しはいた。ほとんど男ばかりだが、稀に有閑マダムっぽい人もいた。
賭博のメインとなる会場は、屋根のある広場となっており、小さなカウンターが20個ぐらいぐるりと取り囲んでいる。それぞれのカウンターにオッズが掲示されていた。イギリス方式になっており、それぞれ私営のブックハウスとなっている。つまり、カウンターごとにオッズが違う。客は、その中から最も有利と思われるカウンターを選んで馬券を買わなければならない。
競馬場もあったのだが、その日はその場でレースは行われていなかった。ムンバイーで行われているレースの中継が会場で流されており、その賭けが行われていた。つまり場外馬券場のようになっていた。20日にはデリーでレースがあるようだ。
1レースで6〜14頭ほどの馬が走る。その中から1頭を選んで馬券を買う。オッズには、ウィン・オッズとレース・オッズの2種類がある。選んだ馬が1着になればウィン・オッズの配当がもらえる。2着か3着になれば、レース・オッズの配当がもらえる(ただし6頭ほどのレースだと2着まで)。各カウンターは、他のカウンターのオッズを双眼鏡で見たりして、お互いに牽制しあいながらオッズを決めていく。賭ける側も、各カウンターがホワイトボードに書き込んでいくオッズを見比べながら、馬券を買うカウンターと、選ぶ馬、賭ける金額を決める。どうも最低金額は40ルピーのようだ。レースが始まる直前が一番賭け時のようで、馬が位置に付くと、一斉に人々はカウンターに走って大急ぎで馬券を買う。馬がスタートするとベルが鳴り響き、その時点で馬券は販売は終了。会場の中心にあるテレビに群がって、レースを観戦する。レースの決着がつき、もし賭けに勝ったら、馬券を買ったカウンターで配当金を受け取ることができる。レースは30分ごとに行われるようだ。
1レースだけ遊んでみた。4時からの第7レース(1200m)で、12頭の馬が走り、データブックの予想によると、1着Some Time(1)、2着Star Decoration(8)、3着Eye To Eye(5)だった。コメントによると、「Some
Timeの独断場でレースは盛り上がらないだろう」と書かれていた。確かに各カウンターのオッズでSome Time(1)の倍率は非常に低く、中には0.8倍のものもあった。そこら辺にいた怪しげなおっさんのアドバイスに従い、Latest
News(2)に60ルピーほど賭けてみたのだが、結果はデータブックの予想通り、1−8−5。ビギナーズ・ラックは働かなかった。競馬場で売られているデータブックは、けっこう信用できるかもしれない。
しかしまだ全貌がよく理解できていないため、もしかしたら連番で馬券を買ったりすることもできるかもしれない。データブックも独特の記述の仕方がしてあるため、全てを解読することができない。しかしこんな異様な雰囲気の場所がデリ
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