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これでインディア 

2004年12月

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12月1日(水) 日本人ボリウッドスター誕生? |
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本日付けのエクスプレス・ニュースライン紙(インディアン・エクスプレス紙の折込版)に気になる記事が掲載されていた。題名は「SUMO in Capital」。その記事によると、現役を引退した2人の日本人力士、タチバナとモトハシが、広告キャンペーンのためにデリーに来ているとのことだった。その他、相撲のルールや用語について詳細に解説がしてあった。
この記事を読んですぐにピンときたのは、インドの携帯電話通信会社アイデア社が最近放送しているTVCM。いくつかパターンがあるが、基本路線は以下の通りである。1人の力士が出てきて、インドのローカルな食べ物やダンスを楽しみ、「ローカル・フード!」「ローカル・ダンス!」などと言う。そしていざSTD(電話屋)でローカル・コール(市内電話)をしようとするが、電話ボックスが小さすぎて身体が入らない。「STDからのローカル・コールは駄目だな!」というわけで携帯電話の宣伝となっている。このTVCMはありがたいことにアイデア社のウェブサイトで見ることができる。日本の人たちは是非鑑賞してもらいたい。TVCMの他、力士たちは広告用ポスターなどにも出ており、現在デリーのあちこちで彼らの姿を見ることができる。TVCMに出ているのは基本的に1人だが、ポスターでは2人いる。
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アイデア社の広告に登場する2人の力士 |
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やはり日本人としてこのTVCMや広告ポスターは非常に気になっていた。インドのTVCMに力士が登場するのはこれが初めてではない。一昔前にはコカコーラのTVCMか何かで、力士たちがサッカーをするというものが流れていたという(僕は見たことがない)。また、インドを代表する自動車会社ターター社は「SUMO」という名前のRV車を販売しており、インド人の相撲に対する関心は低くないことを感じていた。日本人としては嬉しい話だ。しかし、アイデア社の広告に出演している力士が本当に日本人なのかは識別しかねていた。韓国人や中国人のようにも見えるし、もしかしたらスィッキムあたりから太った人を連れてきたのかもしれないと思っていた。だが、どうやらこの記事を読む限り、アイデア社のTVCMや広告に出ていたのは本当の日本人で、しかも本当の力士だった人のようだ。タチバナは12年間力士をしており、モトハシは彼の3年後輩らしい。僕はあまり相撲には詳しくないが、日本ではそれほど有名な力士ではないと思う。だが、インドではすっかり有名人になってしまったようだ。彼らがインドを再訪したということは、彼らの出演したCMがけっこう好評だったということだろう。新聞には「no less than Bollywood Stars in Japan(日本のボリウッドスターと言っても過言ではない)」と書かれており、注目を集めていることが伺われる。もしかしたら本当にインド映画界からオファーが来るかもしれない。TVCMに出ているのが2人の内どちらかは分からないが、愛嬌のある笑顔がなかなかよく、コメディアンとして十分やっていけそうな気がする。問題なのは言語だが、吹き替えすれば当面はOKだろう。TVCMでは一応セリフをしゃべっており、ヒンディー語もしゃべっている(一部聞き取れないのだが・・・)。これはもしかしたら吹き替えではないかもしれない。
ところで、検索サイトで調べていたら、日本の相撲関連の掲示板で、どうもこのアイデア社のTVCMと関連していると思われる書き込みを見つけた。
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募集中!相撲力士をインドのテレビCM撮影のため(3日間位)募集しております。インドまでの航空券(往復)と高ギャラも供給いたします。 |
日付は去年の12月6日。・・・そういえば、去年の9月に僕がTVCMに出演したときにお世話になったエージェントに、「デリーに日本人力士はいないか」みたいなことを質問された覚えがある。僕は「力士が何でデリーにいるんだ。日本に行かなきゃいないよ」みたいなことを答えたような気がするのだが、もしかしてそれとつながっていたかもしれない。
残念ながら僕にはあれ以来何のオファーもないが、もしかしたらアイデア社の広告に出演した力士たちなら、身体的特徴をフルに活かして、日本人初のボリウッドスターを目指せるかもしれない。僕の記憶が正しければ、今までインド映画にエキストラや端役として出演した日本人はいるが、本格的俳優として出演した人は皆無だ。インド映画で今までもっとも大きな役を与えられた日本人は、ラジニーカーント主演のタミル語映画「Baba」(2002年)に出演した「Gaiko Mayata」さんだ・・・え、日本人の名前じゃない?本当は「Keiko Yamada」だろうが、タミル文字には有声音と無声音の区別がないため(つまりカとガ、タとダの区別がない)、またそもそも日本語の表記を間違えているため、日本人とは思えない名前になってしまっている・・・。とは言え、「Gaiko
Mayata」さんも一回限りの出演であり、本格的俳優デビューとは言いがたい。だが、太った体を活かした力士コメディアンなら、けっこう長続きするキャラクターになるような気がする。おそらく2人とも相撲界ではあまり実績を残せずに現役を引退したと思われるので、第二の人生をインドの映画界で始めてみるのもいいのではないだろうか?2人のボリウッド・デビューが成功すれば、大相撲天竺場所も夢の夢ではなくなる。

12月2日付けのザ・ヒンドゥー紙に、インド訪問中の元力士、タチバナ氏とモトハシ氏の続報が載っていた。やはり両氏はアイデア社のTVCMに出演していた力士で、今回も同社のキャンペーンに参加するために訪印したとのこと。報道陣の前で相撲のデモンストレーションを行ったり、インタビューに答えたりして、なかなか活躍したようだ。
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モトハシ(左)とタチバナ(右) |
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上の写真の裏にある力士のアニメ絵が気になる。スローガンは「Sumo ke saath Jhumo(相撲と共に楽しもう)」のようだ。以下、力士と記者のやりとりを紹介。
記者「体重145kgもあって、結婚することはできるのか?」
力士「もちろん結婚できる。そこの女の子を紹介してくれませんか?」
記者「力士は日本で神様のように扱われていると聞きましたが、インドでどう扱われていますか?」
力士「我々はここでも温かく迎えられている。しかしインドで相撲を普及させるために頑張らなければならない。もうすぐ他の日本人力士たちもインドに来る予定だ。もし一度相撲が人気になれば、我々も日本と同じように王者のような扱いを受けるだろう」
記者「身体を鍛えるためにウエイト・トレーニングやウエイト・リフティングをするのか?」
力士「5歳の痩せた少年でも5年以内に力士になることができる。練習に加え、多くのご飯を食べ、よく眠ることが大事だ」
インド人記者の質問が素朴なのと、力士の答え方にユーモアがあるのが楽しかった。彼らはこれから20日間に渡って、アーグラー、ハリヤーナー、アハマダーバード、プネー、ハイダラーバード、コーチン、インダウルなどを回り、アイデア社の広告キャンペーンと同時に相撲の普及活動を行う予定だそうだ。
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12月5日(日) ヒンディー語講座マフィア用語編 |
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本日付のサンデー・タイムズ・オブ・インディア紙に、ムンバイーのマフィアが使う新しい隠語が特集されていた。マフィアたちは警察の盗聴などを恐れているため、身内だけに通じる隠語(Mafiosi)を使う。その隠語は3〜4年ごとに変わってきたのだが、最近になってまた新しい隠語が出始めたようだ。というか、新聞に載るくらいだから、もうこれらのマフィア用語は使われなくなっている可能性が高いが、ヒンディー語映画に出てくるマフィアたちの言語を理解するのに役立つため、新聞に載っていた単語や例文をピックアップしてみた。ヒンディー語のアルファベット表記は新聞のものを忠実に載せた。
■HaathとKaan
マフィアにとっても先立つものは不可欠である。上記の言葉はどちらもお金の単位を表す隠語で、ハート(Haath)は現金10万ルピー(1ラーク)、カーン(Kaan)は現金1000万ルピー(1クロール)を指す。ハートの元々の意味は「手」、カーンは「耳」である。マフィアの会話では、「手1本と耳1個を揃えて持って来い(1010万ルピー持って来い)」という風に使われる。マフィアはお金に関する言葉を決して電話などで使わないらしく、これらの単語は常に変えられてきた。昔は10万ルピーはペーティー(Peti)、1000万ルピーはコーカー(Khokha)と呼ばれていたという。お金自体は、昔はカーガジ(Kagaj=紙)と呼ばれていたが、最近では「Lottery(くじ)」と呼ばれているとか。
■BidiとGuldasta
マフィアにとって、「警察」という言葉も重要だ。日本語でも警察に対するいろいろな隠語がある。インドでは元々警察はパーンドゥ(Pandu)とかトゥッラー(Thulla)と呼ばれていたという。前者は警察の制服の色を暗示したカーキー色のことだが、後者は語源不明。だが、現在ではビーリー(Bidi)と呼ばれているという。ビーリーはインドの街角でよく売られている格安の煙草で、これも多分色が警察の制服と似ているから付けられたのではないかと思う。また、インドではマフィアと警察の癒着も公然の秘密となっている。マフィアが警察に渡す賄賂は、グルダスター(Guldasta=花束)と呼ばれているらしい。買収したい警察がいたら、「Guldasta de do usko(あいつに花束を渡せ)」みたいに指示するそうだ。
■Guitar、Ma、Bacche
銃火器はマフィアの命。しかしこれらも隠語にしないとすぐに警察にばれてしまう。日本語でも「ハジキ」などと呼ばれている。インドのマフィア御用達のライフル銃はソ連製AK−47。昔はジャールー(Jhadoo=ほうき)と呼ばれていたが、今ではギター(Guitar)と呼ばれているそうだ。外見から付けられた隠語だろう。リボルバー銃とピストル銃は、昔はそれぞれチャクリー(Chakri=車輪)とカセット(Cassette)と呼ばれていた。しかし最近ではマー(Ma=母親)とバッチェー(Bacche=子供)と呼ばれているらしい。よって、仕事の前にマフィア同士では、「Ma Bachche hain na saath mein?(母子一緒か?=リボルバー銃とピストル銃は揃ってるか?)」などと確認し合うそうだ。また、最新の隠語では、リボルバー銃とピストル銃はそれぞれチャッパル(Chappal=ぞうり)とファイル(File)と呼ばれている。例えば「File
se marna(ファイルでやれ=ピストルで撃て)」などと使う。
■Puttha、Chidiya、De、Patient
インドのマフィアはいろんな犯罪に手を染めているが、パスポート偽造もそのひとつ。偽造パスポートは、パッター(Puttha=葉)とかチリヤー(Chidiya=鳥)と呼ばれている。前者はやや古い隠語で、現在ではポケベルの意味で使われているとか。また、マフィアの仕事の花形は何と言っても殺人。昔は人を殺すことをゲーム(Game)と読んでいたらしいが、現在ではただ単にデー(De=与える)とだけ言うらしい。例えば、「De de usko(直訳:あいつに与えろ)」と言った場合は、「あいつを殺せ」という意味になる。殺人についでマフィアがよく行うのが誘拐。誘拐のターゲットは患者(Patient)と呼ばれ、例えば「Patient
ko hospital mein rakha hain(患者を病院に入院させた)」と言った場合は、「ターゲットを誘拐して閉じ込めておいた」という意味になるそうだ。この隠語は、大ヒットしたヒンディー語映画「Munnabhai MBBS」(2003年)から来ているという。
その他にもいろいろあるので列挙しておく。
■ピーラー(Pila)=元々「黄色」という意味。マフィア語では「金」という意味になる。
■バルフ(Barf)=元々「雪」という意味。マフィア語では「銀」という意味になる。
■ハートワーラー(Hathwala)=元々「手の中のもの」という意味。マフィア語では「携帯電話」になる。携帯電話は昔はカウワー(Kauva=カラス)と呼ばれていたという。ピーピーうるさいからだろうか。昔の方が隠語っぽかったような気がするが・・・。
■アイテム(Item)=英語。マフィア語では「美人」「べっぴんさん」「かわいい女の子」という意味で使われる。この単語のニュアンスは既に広く普及しており、映画中、挿入歌だけに特別出演する女優のことを「アイテムガール」と呼ぶようになっている。「Company」(2002年)のミュージカル「Khallas」に特別出演してエロチックなダンスを踊り話題になったイーシャー・コーッピカルあたりから使われるようになった言葉だと記憶している。
■アクト・スマート(Act Smart)=英語。「スマートな行動をする」みたいな意味になるだろうが、マフィア語では、生意気な行動のことを言い、特にマフィアにたてつくような行動のことを指すようだ。同じ意味で、アースマーニー・カブータル(Aasmani Kabutar=空の鳩)という言葉も使われる。
■カルチャー・パーニー(Kharcha Pani)=元々「給料」という意味。マフィア語では「リンチする」みたいな意味になる。「あいつに高い水を飲ませてやろう」みたいに使うのだろう。ここで言う「水」とは「血」のことだろうか。
■スパーリー(Supari)=この単語はマフィア映画によく出てくるが、よく意味が分からなかった言葉のひとつだった。辞書には、「ビンロウの実」という原義と、「男性器の亀頭」というスラング的意味しか載っていなかった。実はマフィア用語では「殺しの契約」とか「殺しの許可」みたいな意味で使われているらしい。マフィアの子分は、バーイー(ボス)のスパーリーを得るまでは殺人をすることができないそうだ。
さあ、これで君もインド・マフィアの仲間入りだ!・・・ではなくて、これらの知識があれば、インド映画に出てくるマフィアのセリフを理解するのに少しは役に立つだろう。
今日はスィーリー・フォート・オーディトリアムでヒングリッシュ映画「Hari Om(邦題:ハリ・オム」の上映会があった。一応インド映画評論家として僕も出席を頼まれていたため、テスト期間の最中だったにも関わらず見に行った。この「ハリ・オム」は先日行われた東京国際映画祭で上映された印仏合作の映画で、日本語字幕が付いたフィルムが出来上がっていたため、これをインド・センターという団体がうまく利用して、デリーに住む日本人とフランス人を対象に「インド・日本・フランスの三カ国友好のため」と多少無理のある理由付けをして公開したといういきさつがある。本当は「ハリ・オーム」と表記してもらいたかったが、例の教団の事件が後を引いており、「ハリ・オム」となったとか。「ハリ・オーム」とは「ヴィシュヌ神のご加護を」みたいな意味の挨拶言葉で、マディヤ・プラデーシュ州オームカレーシュワルでよく使われていたのを覚えている。この映画の中では主人公の名前になっている。
「ハリ・オム」の監督はバーラトバーラー(別名ガナパティ・バーラト)。彼はARレヘマーンとコラボレーションをして「Vande Mataram」のプロモーション・ビデオを撮影した監督だ。この映像はマニ・ラトナム監督「Bombay」(1995年)のDVD(日本版)に収録されており、昔はその映像の美しさに何度も見返していた覚えがある。「ハリ・オム」は、バーラトバーラー監督の本格的な映画監督デビュー作となる。キャストは、インド人俳優がヴィジャイ・ラーズ、AKハンガル、アヌパム・シャームなど。ヴィジャイ・ラーズは「モンスーン・ウェディング」(2001年)などに出演の細身の才能ある男優。後者2人は「Lagaan」(2001年)に出演していた。一方、フランス人俳優は、カミーユ・ナッタ(今年公開の「クリムゾン・リバー2」に出演)とジャン・マリー・ラムール(2003年の「スイミング・プール」に出演)。ラージャスターンの風景、雰囲気、文化などが非常によく映像に捉えられており良作だったため、日本で一般公開される可能性も高い。日本語字幕のある映画に最初から最後まであらすじを書く必要もないので、導入部分だけを掲載しておく。
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ジェーン・マリア・ラモール(左)、
ヴィジャイ・ラーズ(中)、カミーユ・ナッタ(右) |
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| ハリ・オム |
ラージャスターン州ジャイプルでオートリクシャーの運転手を営むハリオーム(ヴィジャイ・ラーズ)は、ラージャスターン中のオート運転手を統括するマフィアのドン、ラールチャンド直属の部下バグワーン・ダーダー(アヌマプ・シャーム)との賭けに負け、2万5千ルピーの借りを作ってしまった。明日の夕方までに金を払わなかったら、ハリオームの愛機「マードゥリー」はマフィアに取られてしまうことになってしまった。何の方法も浮かばずただ無為に時間は流れた。そのときハリオームはジャイプル宮殿の前でフランス人女性の旅行者、イザ(カミーユ・ナッタ)を拾い、彼女にジャイプルを案内する。イザは恋人のブノア(ジョン・マリー・ラムール)と共に宮殿列車に乗ってインドを観光していたが、このときブノアはマハーラージャーとの商談に忙しく、彼女をかまってやれなかった。そこでイザは1人でジャイプル観光に乗り出したのだった。ところが、時間の過ぎるのを忘れて観光を楽しんでいたイザは、列車に乗り遅れてしまう。イザは、自分を置いて1人だけ列車に乗ってしまったブノアに失望しながらも、バスでビーカーネールに向かおうとするが、そのバスもパンクしてしまい立ち往生してしまう。
そのとき、ハリオームはマフィアから逃げるためジャイプル郊外の道を走っていた。そこで偶然イザを見かけ、彼女をビーカーネールまで連れて行くことにする。果たして2人の運命やいかに・・・。 |
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少しストーリー展開に謎な部分があったものの、フランス人女優のインドを楽しむ姿と、オートワーラーの素朴なセリフ、そしてラージャスターン州の美しい景色と独特の文化のおかげで、インドの魅力を存分に満載した傑作ロードムービーになっていた。インドを旅行した人には、特にジャイプルやジャイサルメールなどを旅行したことがある人には強力オススメ作。インドに来たことがない人が見たらどういう反応をするかは多少自信がない。インドのいい面もよく描かれていたが、悪い面もけっこうあからさまに映像になっていたので、それが印象に残ってしまうと「インドはやっぱり駄目・・・」となってしまうかもしれない。
ヴィジャイ・ラーズは以前から注目していた男優である。「Run」(2004年)のコメディー役が一番印象に残っているが、一般には「モンスーン・ウェディング」のウェディング・プランナー役が出世作として知られている。そこら辺にいるインド人とあまり変わらない貧相な顔をしており、病的に痩せているが、なぜか愛嬌のある男優である。「ハリ・オム」でもオートの運転手がものすごく似合っていた。こういう庶民役を演じさせたらヴィジャイ・ラーズの右に出る者はいないだろう。ヒロインのフランス人女優カミーユ・ナッタは2002年にデビューしたばかり。インドを心底楽しんでいる表情が非常によかった。ブノアを演じたジャン・マリー・ラムールもまだキャリアの浅い男優であるが、神経質で自分勝手そうな顔が役にピッタリだった。
ロケ地になったのは主にジャイプル、ナワルガル、ビーカーネール、ジャイサルメールの4ヶ所だと思われる。ジャイプルのシティー・パレス、ジャンタル・マンタル、風の宮殿、ナハールガル、ジャイサルメールのフォート、ナワルガルのハヴェーリー(邸宅)などが映っており、これらの都市を旅行した人は必ず「おぉ!」と思うだろう。特にジャイプルのシティーパレスにいる小人が出演していたのには驚いた。あの小人はいつもシティパレスにいて、写真を撮ると必ず金を要求してくることで旅行者に有名である。ジャイプルのマハーラージャー、サワーイー・マドー・スィン1世が英国を旅行したときにガンジス河の水を入れて持って行ったという巨大な銀の壺(世界最大の銀製品らしい)も映っていた。これらはジャイプルを観光したことがある人なら誰でも見たことがあるだろう。ナハールガルはジャイプルの北にある城砦跡で、レストランにもなっている。2001年に行ったことがあり、い〜んディア写真館2001年の作品No.17と18はそこで撮影したものだ。ナワルガルには行ったことがないが、緻密な彫刻と壁画の残るシェーカーワーティー地方の一都市で、やはりハヴェーリーで有名である。デリーからもそれほど遠くないので、いつか暇ができたらシェーカーワーティー地方の都市をバイクで巡ってみたいと密かな野望を持っている。ビーカーネールには行ったことがある。高級ホテルが映っていたが、僕は見たことがない。ビーカーネールの有名なハヴェーリーのいくつかが映っているのは分かった。中世の街並みがそのまま残る砂漠の都市ジャイサルメールは何度見てもやはり素晴らしい。最近の映画では「Meenaxi
: Tale of 3 Cities」(2004年)でロケ地となっていた。ジャイサルメールの砦内の狭い路地をオートリクシャーでカーチェイスするので迫力がある。い〜んディア写真館2002年の作品No.44で映っているハヌマーンの壁画が映っていたので感激。
これらの都市の風景の他、道を歩く象の間をオートリクシャーで通り抜けたり、砂漠をラクダで渡ったり、バスの屋根の上に乗って移動したりと、インドの旅の醍醐味が存分に再現されていた。特に、ハリオームとイザがオートリクシャーでビーカーネールに向かっているときに途中で新郎新婦をピックアップするシーンはよかった。インドでは花嫁はベールで顔を隠しており、その顔を見たい人は花嫁に何かプレゼントしなければならないらしい(知らなかった!)。イザが花嫁に口紅(?)をあげると、花嫁はベールを外して顔を見せてくれる。「まあ、きれい!」それを聞いてハリオームはつぶやく。「マダム、結婚式の日の花嫁はみんなきれいなんすよ。」新郎新婦と一緒に乗ってきたハルモニウム奏者は、イザの名前と出身国を聞く。イザが答えると、ハルモニウム奏者は即興でイザの歌を歌いだす。「フランスからやって来たイザ〜!」またある日、ハリオームはイザに宗教を聞く。イザは「私はカトリックよ」と答える。するとハリオームはしばらく考え込んだ後、イザに言う。「マダムの神様は1人だけなんすよね。1人で忙しくないですかね。私たちの神様は五万といるから、みんなで仕事を分担してるんすよ。」またまたあるとき、イザはハリオームに聞く。「ここはどこ?」ハリオームは答える。「ビーカーネールに続く高速道路ですよ」イザは驚いて笑う。「これが高速道路?」その横をラクダが通り過ぎる。「ラクダも歩く高速道路なのね。」ハリオームは答える。「ラクダはラージャスターンじゃあ2番目にいい乗り物でっせ!」イザは聞く。「じゃあ一番は何?」ハリオームは得意げにリクシャーのクラクションをパフパフ鳴らす。・・・ひとつひとつがインドによくある風景で、よくある出来事で、インドを旅行し、インドに住む僕の心の琴線に触れた。なんとインドはラス(情感)に溢れた国なのか!と、インドに住む僕自身がインドの良さを再発見した映画だった。ナワルガルのハヴェーリーにいた老人の話もよかった。
プロットには多少不満が残った。ハリオーム、イザ、ブノアの三角関係が中途半端な描写しかされておらず、最後でもそれが解決されたとは言えなかった。ハリオームとイザの恋愛は、さらにもっと淡白に、それでいて無言の中で語り合うように描いた方がさらに深みのある映画となっただろう(例えば2002年のヒングリッシュ映画の傑作「Mr. & Mrs. Iyer」のように)。
フランスと共同制作だけあって、ちょっとしたお色気シーンも用意されているのが何とも憎かった。カミーユ・ナッタは事あるごとに無意味に裸になったり色っぽい格好になっており、道中で偶然見つけたバーウリー(階段井戸)では、いきなり裸になって水浴びを始める(胸などは見えていないが・・・)。インド映画にも最近際どいシーンが多くなって来ているが、大体どれもねっとりとしており、また絶対に局部は映されないという変な安心感がある。しかしこの映画のはやたら爽やかなヌードで、しかももしかしたらフランス人の趣向が出て乳首くらいは見えてしまうかもしれない・・・とやたらとドキドキしていたのだが、そういうことはやっぱりなかった。もしかしたらインド公開版は文化的背景を配慮して際どいシーンがカットされているかもしれない。
言語は英語、フランス語、ヒンディー語の三ヶ国語混合。日本語字幕は右端に、フランス語とヒンディー語が話されるときは下端に英語字幕が出ていた。インド人が英語を話すときにも英語字幕が出ていたのは、インド英語は英語と認められていないということだろうか・・・。途中、ヒンディー語の四文字言葉にあたる「ベヘンチョー!」という言葉がそのまま出てきたのには驚いた(日本語字幕では変な表記になっていたが・・・)。
会場にはバーラト・バーラー監督とヴィジャイ・ラーズが来ていて、上映後、簡単なスピーチをしてくれた。在印日本大使夫妻と在印フランス大使夫妻も出席しており、両大使も映画前にスピーチをした。フランス大使はやたらとキザな格好をしており、「フランス大使なのに英語で話すのは変な話ですが・・・」みたいな前置きをして英語でスピーチを始めていた。やはりフランス人は英語に対して対抗意識を持っているのだろうか?バーラト・バーラー監督やヴィジャイ・ラーズと是非話をしてみたかったのだが、この映画鑑賞のせいでテストの準備がかなり危機的な状況に陥っており、徹夜は必至の状態だったため、映画終了後はすぐに帰ってしまった。
「ハリ・オム」はインドの魅力、敢えて言うならラージャスターン州の魅力が存分に詰め込まれた傑作。日本で公開されたら是非見ていただきたい。
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12月6日(月) インド製ブッダ映画、オスカーへ |
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第77回アカデミー賞の外国語映画賞にマラーティー語映画「Shwaas」(2004年)がノミネートされており、現在インドの映画界は「Lagaan」(2001年)が果たせなかった念願のオスカー獲得をこの映画に期待している。「Shwaas」はまだデリーで公開されておらず、僕は見ていないのだが、眼球癌になった少年を描いた社会派映画のようだ。現在ゴアで開催されているインド国際映画祭でも、この映画が上映され、大いに注目を集めたという(インド国際映画祭は毎年デリーで行われていたのだが、諸所の事情により今年はゴアが開催地となった)。
ところが、「Shwaas」の他にアカデミー賞の予備選考候補となっているインド製映画がある。しかもアニメである。タミル・ナードゥ州チェンナイを拠点とする3DCG会社ペンタメディア社が制作した「The Legend of Buddha」(2004年)が、第77回アカデミー賞アニメ部門のノミネート候補11作品に選出されたのだ。他のノミネート作品は、ハリウッドの大手制作会社による「Shrek2」、「Shark
Tale」、「Incredibles」など大物揃いで、インド製アニメがオスカーを手にする可能性は限りなくゼロに近い。よって、ノミネート5作品に選ばれることが大きな目標となるだろう。
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The Legend of Buddha |
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「The Legend of Buddha」は、これまで数本の3Dアニメを制作していたペンタメディア社が初めて取り組んだ2Dアニメ(正確に言えば2Dのキャラ+3Dの背景)であり、インド、シンガポール、フィリピンのアニメーターが参加している。シンガポール政府からの資金援助も得たそうだ。キャラクター・デザインは全てフィリピンで行われたという。題名の通り、仏教の始祖、ガウタム・スィッダールトの生涯を描いた作品で、予算は630万ドル。画風を見てみると、ディズニーのアニメに多大な影響を受けていることは否めない。もっと独自のインドっぽい画風だったらよかったと思うのだが・・・。ただ、ペンタメディア社の関係者によると、国際市場に売り込むためには「国際的な顔」にしなければならないらしい。インド人デザイナーにキャラクター・デザインを依頼するとインド人っぽい顔になってしまうため、敢えてフィリピンのデザイナーに任せたという。現在インドのアニメ産業は急成長をしており、安い人件費と高い技術の強みによりインドは近い将来世界のアニメ産業のハブとなると見られているが、まだ今のところ世界的な基準は多くの意味で満たせていないようだ。既にこの映画は米国では9月に公開されているが、インドではまだ公開されていない。ブッダのアニメということで、日本人にも興味深い映画である。やはり手塚治の名作漫画「ブッダ」と比較せずにはいられないが・・・。
ところで、このペンタメディア社と聞いて、ふと、何か忘れていたものを思い出したような不思議な感覚に陥った。その瞬間、ペンタメディア社が過去に制作した3Dアニメの話が頭をよぎり、フラッシュ・バックの如く過去の忘れかけていた記憶が僕の脳裏に舞い戻ってきた。「Pandavas」!昔、音楽店の店頭で思わずジャケット買いしてしまったVCD!「パーンダヴァ」とは、インド二大叙事詩のひとつ「マハーバーラタ」に出てくる主人公格の5兄弟のことである。そのパーンダヴァ5兄弟の活躍を3Dで再現してしまったのが「Pandavas」であった。ジャケットには、気味の悪い表情をした3Dキャラがこちらを虚ろな目と共に睨みつけており、インド製3D映画ということでこれは面白そうだと思って買ったのだが、家に帰った途端に急に見る気が失せて、そのまま長い間倉庫入りしていた伝説のVCDだった。早速クローゼットの中を見回してみたら、すぐに「Pandavas」のVCDが見つかった。やはり予想した通り、ペンタメディア社のものだった。まだ包装のビニールさえもはがしていなかった。恐る恐るVCDをPCにセットし、鑑賞してみた・・・やはり期待した通りのゲテモノ作品だった。古代インドの服装などが3Dで立体的に再現されているのは面白かったが、建築物のデザインは明らかに西洋的だった。これは何と表現すればいいのだろうか・・・。だが、決して目新しいものではなかった。PS2などで発売されているTVゲームはほとんど3Dもので、ゲームの途中で突然3Dムービーになったりするが、その途中に挿入される3Dムービーにそっくりだった。はっきり言って、賞賛すべきか失笑すべきか、その微妙なラインに位置する出来栄え。少なくともPIA(パーキスターン国際航空)の機内で流れる、緊急脱出などを説明した3Dムービー(2001年時に拝見)よりはよくできているのではなかろうか?僕の手元にあるのは2枚組のVCDだったのだが、全てのストーリーが入っておらず、2枚目のVCDは途中で終わってしまった(ドゥルヨーダンとビームの決闘あたり)。おそらく容量が足らなくて入りきらなかったのだろう。これだからVCDはいかん!今はDVDも発売されているらしいが。どうやら英語版とヒンディー語版があるようだが、僕が持っていたのはヒンディー語版。サンスクリト語語彙を多用した難解なセリフ、ナレーションが多いが、声優の発音がきれいなため、お手本にしたい発音だと思った。「Pandavas」のウェブサイトはコチラ。
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Pandavas |
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サイコロ賭博のシーン
まるで最近のTVゲームの1シーンのようだ |
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この「Pandavas」を作った会社が、2Dアニメに挑戦し、それがアカデミー賞の予備候補に選ばれるとは・・・信じられない・・・。インドのアニメ産業の発展の著しさを感じる・・・。
インド文化関係評議会(ICCR)はインド政府の自治組織で、インドと外国の文化交流を促進する活動を行っている。我々外国人には、インドに留学する外国人学生に奨学金を供与している団体として有名だ。ICCRは年に1回、ICCR奨学金で留学している外国人学生を集めて文化祭のようなものを催している。僕は特にICCRから奨学金などをもらっていないが、去年もその文化祭に盆踊りで参加し、今年も日本代表として出場することになった。今回の演目は「鬼太鼓」。参加人数は6人(この内1人なぜかルーマニア人が友情出演)。盆踊りではなく、ほとんど創作ダンスだった。バラタナーティヤムを習っている日本人女性が去年に引き続きリーダーをしたが、日本のダンスというよりは何となくバラタナーティヤムに近い踊りになっており、ダンス素人の我々にとっては非常に難しいダンスとなってしまっていた。だが練習に練習を重ね、何とか人様に見せれるぐらいの完成度には達した。
本当は11月11日に行われる予定で、9月くらいから練習を重ねていたのだが、当日、パレスチナ自治政府のアラファート議長がパリの病院で死去したことにより突然中止となってしまった(去年も突然予定変更された)。10日に行われた直前リハーサルでは相当テンションが上がっていて、このまま本番に持っていこうと気合を入れていたのだが、突然のキャンセルにより一気に意気消沈。そのまま僕は学期末のレポート地獄と期末テスト期間に突入したため、ICCRとは一切関係ない生活を送ってきた。その後、留学生祭が12月7日に行われることが発表された。僕の期末テストが終わるのが12月6日。ギリギリセーフで出演が可能となった。他のメンバーも何とか予定を合わせることができた。会場は、元々タールカトーラー・スタジアムだったのだが、今回はカマニ・オーディトリアムになった。
朝からリハーサルが行われ、6時半から開始だった。参加国と演目を順番に挙げていくと・・・
1.フランス、ルーマニア、ベラルーシ、バングラデシュ
スィタール、タブラー、バーンスリー、キーボードのコラボレーション。
2.カザフスタン
カザック・ダンス
3.スーダン
ラオ・ダンス(スーダン南部の伝統舞踊)
4.ポーランド
喜びのダンス
5.フィジー諸島
メケ・ダンス
6.ウガンダ
ウガンダ・ダンス
7.ネパール
カウダ・ダンス(ネパール西部の伝統舞踊)
8.モンゴル
モンゴル伝統舞踊
9.日本
鬼太鼓
10.モーリシャス
セガ・ダンス(アフリカ起源の喜びのダンス)
11.リトアニア
母なる大地への伝統歌と恋人を待つ少女の踊り
12.西インド諸島
ギアナとトリニダード&トバゴの民俗舞踊
13.キルギスタン
キルギス・ダンス
14.ガーナ
伝統舞踊
15.スリランカ
キャンディアン・ダンス「マハボ・ワンナマ」(菩提樹を賞賛する踊り)
16.ケニア
ケニア・ダンス
17.ブータン
喜びと平和のダンス「タシ・デレ・プンスム・ツォン」
18.タンザニア
タンザニア・ダンス
19.ウズベキスタン
結婚式の伝統舞踊
20.バングラデシュ
村人のダンス
21.カーテンコール
全出場国による「文化を通した友好」の宣言(ARレヘマーンの「Vande Mataram」に合わせ)
ざっと出場国を見ればすぐに分かるように、やはり去年と同じく出場国の中で押しも押されぬ先進国は日本だけである。どうもICCRとしても日本のような先進国に出場してもらうことは名誉なことのようだ。もっとも、この留学生祭を取り仕切っているジャヤラクシュミーというバラタナーティヤムの舞踊家が、我ら日本のリーダーのグルなので、その関係で出場を半ば義務付けられているところがあるのだが・・・。
果たして日本の踊りがどれだけ観客を感動させたかは分からないが、個人的には特に失敗もせず、満足のいく踊りをすることができたと思う。僕はひょっとこのお面をつけた変な役で、顔に変なペイントをさせられており、その時点で相当ブルーな気持ちになっていたので、かえって全然緊張しなかった。女性たちは、サーリーの生地を元にインドの仕立て屋に無理矢理作らせた着物を着用。でもなかなか見栄えよくできていた。
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日本の踊り |
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他国の批評をちょっとしておくと、僕の中で一番ヒットだったのがウズベキスタン。男女1組が踊る踊りで、男が女に言い寄るが、女はそれをうまくかわす、みたいな踊りだった。最後には女も男のプロポーズを受け容れる、みたいなストーリーだと思う。どちらも役になりきって踊っており、しかもバングラー・ダンスみたいなノリの踊りだったので、楽しめた。フィジーの部族っぽい踊りやコスチュームもよかった。ブータンの「♪タシデレ、タシデレ、プンスムツォ〜ン♪」という歌はやたらと耳に残る名曲であった。ネパールやバングラデシュの踊りや音楽も、いかにも平和な村という感じでよかった。西インド諸島は屈強な肉体を持ったプロのチョウ・ダンサーたちが踊っていたので迫力満点。だが、それにトリニダード・トバゴ出身の女性とロシア人の女性(どちらもジャヤラクシュミーの弟子)が途中から加わってしまったため、観客の視線はどうしても女性たちの踊りに行ってしまい、男たちはただのバックダンサーに成り下がってしまっていた。モンゴルは伝統舞踊ということだったが、全く伝統舞踊に見えない、奇妙にモダンな踊りを踊っていた。
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フィジーの女性陣 |
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練習のときから思っていたのだが、インドの外国人留学生には旧ソ連圏から来ている人が多いため、この留学生祭に参加した学生たちの間では英語の次にロシア語が公用語となっている。急に「ロシア語を少しでも習っておけばよかったな」と思ってしまった。英領インド時代にサトウキビ・プランテーションの労働者として移民したインド人が多く住む国々(フィジー、モーリシャス、西インド諸島など)を除けば、インドに来ている留学生はほとんどユーラシア大陸かアフリカ大陸の人々であり、数百年、数千年の昔からインド亜大陸を訪れていた民族とそう変わりはないと言える。
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トリニダード・トバゴ、カザフスタンの
ダンサーたちと共に |
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最後にICCRの会長が、「私はあなたたちにムンバイーでもう一度公演してもらいたい!」と言っており、それを本気にした留学生たちは「ムンバイーで会おう!」と言って別れていた。・・・そんな時間ないんだが・・・。
今日は先々週から公開のヒンディー語映画「Hulchul」をPVRアヌパムで見た。「Hulchul」は「ハルチャル」と読み、「混乱」みたいな意味だ。監督は、去年公開されてヒットしたコメディー映画「Hungama」のプリヤダルシャン監督、音楽はヴィディヤサーガル。前作と同じく多くの人物が複雑に絡み合うため、キャストの数が多い。主演はアクシャイ・カンナーとカリーナー・カプールで、他にアムリーシュ・プリー、パレーシュ・ラーワル、ジャッキー・シュロフ、スニール・シェッティー、ラクシュミー、アルシャド・ワールスィー、シャクティ・カプール、アルバーズ・カーン、アキレーンドラ・ミシュラー、ディープ・ディロン、マノージ・ジョーシー、ファルハーなどが脇役を務めていた。
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上から
パレーシュ・ラーワル
ジャッキー・シュロフ
アムリーシュ・プリー
スニール・シェッティー
ラクシュミー
アルシャド・ワールスィー
シャクティ・カプール
アルバーズ・カーン
マノージ・ジョーシー |
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カリーナー・カプールとアクシャイ・カンナー
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| Hulchul |
地元の名士アンガールチャンド(アムリーシュ・プリー)家には4人の息子がいた。上から順にバルラーム(ジャッキー・シュロフ)、キシャン(パレーシュ・ラーワル)、シャクティ(アルバーズ・カーン)そしてジャイ(アクシャイ・カンナー)である。アンガールチャンドの妻はバルラームの結婚を巡る不幸な事件により死去しており、以後、4兄弟は一生独身を通すことが決められ、アンガールチャンド家の門の前には「女人禁制」の札が掲げられることになった。
一方、隣村に住むラクシュミーデーヴィー(ラクシュミー)の家は、過去の遺恨からアンガールチャンド家を敵視しており、ラクシュミーデーヴィーは何とかアンガールチャンドに復讐する機会を伺っていた。ラクシュミーデーヴィーの家には、義理の息子のカーシーナート(シャクティ・カプール)、その娘のアンジャリー(カリーナー・カプール)、ラクシュミーデーヴィーの3人の息子、スーリヤ(アキレーンドラ・ミシュラー)、プラタープ(ディープ・ディロン)、ヴィール(スニール・シェッティー)がいた。
アンガールチャンド家の末っ子ジャイと、ラクシュミーデーヴィーの孫娘アンジャリーは同じ大学の法学部に通っていた。アンジャリーは結婚が決まって一度退学したのだが、その結婚はアンガールチャンドの妨害により中止となってしまった。再びアンジャリーは大学に戻って来た。ジャイとアンジャリーは、お互いの家に復讐をするため、恋に落ちた振りをして接近する。相手を恋に狂わして苦しめてやろうという魂胆だった。ところが2人は本当に恋してしまう。
ジャイは自身の結婚を実現させるため、まずは3人の兄たちを結婚させようとするが、3人とも結婚には全く興味がなかった。そのとき、ジャイの親友のラッキー(アルシャド・ワールスィー)が大ニュースを持って来た。なんとジャイの兄のキシャンが実は内緒で結婚しており、子供もいるというのだ。早速ジャイとラッキーはキシャンの妻ゴーピー(ファルハー)の元を訪れる。そこへキシャンもやって来て大変なことに。もしこの結婚がばれたらキシャンは父親に殺されてしまう。キシャンはジャイとアンジャリーの結婚を助けることを約束させられるが、キシャンの結婚はアンガールチャンドの耳にも入ってしまった。おまけにジャイとアンジャリーが恋仲にあることもばれてしまう。アンガールチャンドは激怒してジャイとキシャンを家から追い出す。
アンガールチャンド家の仲間割れに高笑いをするラクシュミーデーヴィーは、さらに敵の内部分裂を誘うため一計を案じる。ラクシュミーデーヴィーはアンジャリーの結婚を強引に決め、その結婚式にアンガールチャンドを招待した。アンガールチャンド、バルラーム、シャクティはその結婚式に出席する一方、ジャイはキシャン、ラッキーらと共に結婚式場に忍び込み、花婿と摩り替わってアンジャリーと結婚の儀式を行う。儀式の最後を飾る、マンガルスートラ(既婚の印の首飾り)の着装の段になり、ラクシュミーデーヴィーは花婿がジャイであることを見抜く。マンガルスートラは結婚の証であるため、何としてでもジャイの手からマンガルスートラを奪わなければならなかった。マンガルスートラを巡ってアンガールチャンド家とラクシュミーデーヴィー家の間で大混乱が起きるが、最後にはジャイはアンジャリーの首にマンガルスートラをかけることに成功し、2人の結婚は成立した。アンガールチャンドも遂にジャイとキシャンの結婚を認め、家の門から「女人禁制」の札を外した。 |
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「Hungama」に引き続き、無数の登場人物が最後で大混乱を起こすコメディー映画。これがプリヤダルシャン監督の独特の手法なのだろうか?細かいところでチョコチョコと笑わせてくれる映画だったが、展開があまりにハチャメチャすぎて、一本の映画を見ているというよりは、コント集を見ているようだった。まずはコメディーありきで、その笑いを味付けするためにストーリーらしきものをくっ付けているように思える。だが、最後にジャイとアンジャリーが結婚を認められるときには観客から拍手が沸き起こるほど、2人の結婚を応援したくなる映画だった。
何しろ登場人物が多いので、ヒンディー語映画初心者には顔と名前を一致させるのが大変だろう。だが、出演している俳優のほとんどはけっこう名の知れた人たちなので、普通のインド人には全く問題ない。
主演はアクシャイ・カンナーとカリーナー・カプールだったが、脇役陣の方が元気がよかった。アムリーシュ・プリー、ラクシュミー、アルシャド・ワールスィー、パレーシュ・ラーワル、スニール・シェッティー、ジャッキー・シュロフ、シャクティ・カプールなどなど好演が目立った。悪役ではアムリーシュ・プリーとラクシュミーが観客を恐怖のどん底に突き落とし、アルシャド・ワールスィーやパレーシュ・ラーワルが観客の腹を爆笑でよじらせた。余計なお世話だが、前々から前髪が危機的な状況に陥っていたアクシャイ・カンナーの髪の毛が増えたような気がする。
ジャイとラッキーが牛の剥製を獅子舞のようにかぶってラクシュミーデーヴィーの屋敷に侵入するシーンがあった。酔っ払った牛飼いが牛の乳を搾ろうとすると、ジャイは手袋を膨らませて乳のようにし、それを牛飼いに絞らせた。これら一連のギャグはどこかで見たことがある。多分昔のインドのコメディー映画にあったように思う。
インド人庶民はこういうお気楽なコメディー映画が好きなので、現在「Hulchul」はけっこうヒットしている。だが、日本人の鑑賞に耐えうる作品ではないように思う。細かい笑いはけっこういいセンスしていると思うのだが、全体的なまとめ方は雑としか言いようがない。
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12月9日(木) Khamosh Pani |
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今日はPVRアヌパムでパンジャービー語映画「Khamosh Pani : Silent Waters」を見た。この映画はパーキスターン、フランス、ドイツが共同制作したもので、去年のロカルノ国際映画祭で金豹賞を獲得して話題になった。監督はザービハ・スマルというパーキスターン人女性監督。しかしながら、主演はインドの俳優である。言語は9割以上パンジャービー語で、時々ウルドゥー語が入る。英語字幕入りなので理解に支障はなかった。
「Khamosh Pani」とは英語の副題通り、「静かなる水」という意味である。監督はザービハ・スマル、キャストは、キラン・ケール、アーミル・マリク、シルパー・シュクラ、ナヴテージ・ジャウハルなど。
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キラン・ケール |
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| Khamosh Pani |
1979年、パーキスターン、パンジャーブ州チャルキー村。アーイシャ(キラン・ケール)は、1人息子のサリーム(アーミル・マリク)が仕事もせずにブラブラしているのを心配していた。アーイシャは決して村外れにある井戸には行かず、友人に水を届けてもらっていた。
ある日、村に2人の若者がやって来て、イスラーム原理主義を説き始める。それに共感したサリームと親友のアミンは、次第に排他的な原理主義に染まっていく。サリームの恋人だったズバイダー(シルパー・シュクラ)は、彼の行動に不安を感じながらも何もすることができなかった。政界ではズールフィカール・アリー・ブットー前首相は処刑され、ズィヤーウル・ハク首相のイスラーム化政策が進行していた。
そんなとき、印パ間の協定に基づき、チャルキー村にインドからスィク教徒の巡礼者がやって来た。巡礼者の中に混じってやって来たジャスワント(ナヴテージ・ジャウハル)は、1947年印パ分離独立時に生き別れとなった姉ヴィーローを探しに来ていた。印パ分離時、インドへ移住せざるをえなくなったチャルキー村のスィク教徒たちは、女性たちの貞操を暴徒化したムスリムから守るため、自分の妻や娘を井戸に落として殺したのだった。しかしヴィーローだけはそれから逃れ、そのままどこかに隠れ住んでいたのだった。ヴィーローの存在は村のタブーだったが、やがてジャスワントはアーイシャが姉ヴィーローであることを突き止める。
アーイシャが実はスィク教徒であることを知って一番ショックを受けたのは、イスラーム原理主義に染まっていた息子のサリームだった。サリームは仲間たちから糾弾され、アーイシャは村人たちから白い目で見られるようになる。それに耐え切れなくなったアーイシャは、井戸に身を投げて自殺してしまう。
2002年、ラーハウルで働いていたズバイダーは、イスラーム原理主義の政治家となったサリームをTVで見かける。 |
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1947年の印パ分離独立の悲劇を描いた映画は数多くあり、それに伴う女性の悲劇も、アムリター・プリータム原作の映画「Pinjar」(2002年)などで描かれているが、この映画ほど心に重くのしかかるタッチの映画は今までなかったのではないかと思う。分離独立の悲劇に加え、イスラーム原理主義に染まっていく農村の若者たちの現状も、当時の政治情勢と絡めながら語られており、非常に見る価値のある映画となっていた。
題名の「静かなる水」とは、村の郊外にある井戸のことだ。度々井戸の映像が映し出され、井戸に決して行かないアーイシャの謎が観客を不思議がらせ、またアーイシャの記憶が白画面のフラッシュバックとなって挿入されるが、終盤までその意味は明かされない。全てが明らかになるのは、スィク教徒の巡礼者が村にやって来てからで、事実は恐るべきものであった。印パ分離独立時、パーキスターン側にいたヒンドゥー教徒とスィク教徒はインドへ、インド側にいたイスラーム教徒はパーキスターンへ移住したが、この移動は大量殺戮の悲劇を生み、印パ双方に多大な犠牲と悲劇をもたらしてしまった。その中で、立場の弱かった女性はさらに弱い立場に追い込まれ、殺される者、レイプされる者の他、家族と離れ離れになって置き去りにされてしまったり、自殺を強要されたりする者も少なくなかった。「Pinjar」では、ムスリムに誘拐されて無理矢理結婚させられ、分離独立後はパーキスターン側に残ってしまったヒンドゥー教徒の女性が主人公だった。「Khamosh Pani」では、自殺を強要されながらも逃れ、ムスリムの若者に救われて結婚し、そのままイスラーム教徒としてパーキスターン側に住み続けたスィク教徒の女性が描かれていた。この女性の悲劇に、イスラーム原理主義に傾倒する息子の姿が重ねあわされていた。
ヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー原理主義)でもイスラーム原理主義でも、その根幹にあるのは宗教問題でも何でもなく、はっきり言って就職問題と貧困問題である。行き場のない若者たち、将来に希望を持てない若者たちが、宗教を政治に利用しようとする政治家に利用されて排他的な思想を植えつけられ、やがて暴力事件を引き起こすようになる。この状況は日本でもそう変わりはないだろう。封建制社会では、生まれながらに職業や身分の制約を課せられながらも、親の仕事をそのままやっていれば失業することはないという保証があった。しかし封建制度が崩れ、民主主義的また資本主義的社会になってからは、職業選択の自由やある程度の平等は保証されながらも、上記のようなまた別の問題が発生するようになってしまった。宗教の原理主義化も、それらの問題と無関係ではない。「Khamosh Pani」でも、昔ながらの生活を送っていた一般的な村人たちは非常に宗教に寛容であり、政治にも冷めた考えを持っていたが、都会からやって来たイスラーム原理主義者たちの説得と脅迫により、またそれに感化された村の若者たちの影響により、次第に排他的な行動を取るようになってしまう。
俳優陣は皆、素晴らしい演技をしていた。特に主演のキラン・ケールは貫禄の演技。キラン・ケールは「Devdas」(2002年)や「Veer-Zaara」(2004年)などの大作に出演しており、最近さらに存在感を増しているように感じる。サリーム役のアーミル・マリクは「Yeh
Kya Ho Raha Hai」(2002年)でデビューした若手だが、大人の演技をしていた。ズバイダー役のシルパー・シュクラはどうやら新人のようだが、あまり映画向きの顔ではないように思える。
言語はほとんどパンジャービー語。ヒンディー語と似ているので何となく分かる部分もあるが、英語字幕があるので何とか付いていけた(字幕、特に英語字幕を見ながら映画を鑑賞するのは苦手だ)。パーキスターンの国語はウルドゥー語だが、最大の母語話者を誇る言語はパンジャービー語である。映画中、演説やTV放送などの言語はウルドゥー語だった。
映画賞を受賞したほどの映画なので、僕が薦めるまでもなくオススメの映画である。
本日から公開の新作ヒンディー語映画「Musafir」をPVRアヌパムで見た。明日から旅行へ行くので、それに備えて目ぼしい映画は見ておこうと三日連続で映画館に通っている。同時に年賀状の作成もやっているのでここのところ忙しい。来週からは今年最後の期待作と言ってもいい「Swades」が始まるから楽しみだ。
「Musafir」は「ムサーフィル」と読み、「旅人」という意味。サンジャイ・ダットのホワイト・フェザー・プロダクションが制作、監督は「Kaante」(2002年)のサンジャイ・グプター、音楽はヴィシャール&シェーカル。キャストはサンジャイ・ダット、アニル・カプール、マヘーシュ・マーンジュレーカル、サミーラー・レッディー、アディティヤ・パンチョーリー、コーイナー・ミトラ(新人)など。
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サンジャイ・ダット |
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| Musafir |
ムンバイーで冴えないチンピラ生活を送っていたラッキー(アニル・カプール)は一発逆転を狙って仲間と共にマフィアから金を騙し取るが、その金は泣く子も黙る大マフィア、ビッラー(サンジャイ・ダット)のものだった。しかも金は恋人(コーイナー・ミトラ)に奪われてしまう。ラッキーはビッラーに追われ捕まるが、一度だけチャンスをもらう。それは、ゴアへ麻薬の入ったバッグを持って行って金と交換して持ち帰る仕事だった。
ラッキーは自動車で一路ゴアを目指すが、その途中で悪徳警官タイガー(アディティヤ・パンチョーリー)がビッラーの手下を殺したところを目撃する。ゴアを取り仕切っているタイガーはラッキーに目を付けるようになる。
ゴアに着いたラッキーは、道端で偶然サム(サミーラー・レッディー)という美女と出会い、彼女を家まで送り届ける。そのまま家に入っておもむろに2人はキスを始めるが、そのとき家に夫のルカ(マヘーシュ・マーンジュレーカル)が入ってくる。ラッキーはそのまま立ち去る。
ラッキーはビッラーから受け取った麻薬を現金と交換するが、手違いからその現金を失ってしまう。そのときルカがラッキーに、サムの殺人を持ち掛ける。ルカの話によると、サムは事あるごとに男を家に連れ込む淫乱な女で、いっそのこと殺してしまいたいとのことだった。サムは多額の報酬を約束する。その一方でサムもラッキーに、ルカの殺人を持ち掛ける。サムの話によると、彼女はルカに無理矢理妻にされており、その復讐をしたいとのことだった。ラッキーは2人からそれぞれ家の鍵を預かる。
夜10時、ラッキーがルカとサムの家に侵入すると、既にサムがルカを殺した後だった。ラッキーはルカの家にあった金を持ち、サムを連れて逃げ出す。ところがルカは悪徳警官タイガーの兄弟で、しかもその金はタイガーのものだった。ラッキーはタイガーに追われるようになる。一方、ビッラーもゴアまで来ており、ラッキーを追う。
結局タイガーとラッキーはビッラーに捕まり、金とサムはラッキーの手中に収まる。ビッラーは2人に命を懸けたギャンブルをするように強要する。サムの助けもあり、ラッキーはその賭けで生き残った。ビッラーはその場に2人と金を残して立ち去って行った・・・。 |
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サンジャイ・ダットの漢っぷり爆発の映画。サンジャイ・ダットの登場シーンは案外少ないものの、そのインパクトは他のどの登場人物をも凌駕する。まさに彼のためにあるような映画だった。インド人の若者の間でサンジャイ・ダットの人気は絶大なものがあり、この映画も彼らに熱狂的に支持されるのではないかと思う。
マフィア役をやらせたら、サンジャイ・ダットの右に出る者はいない。マフィアを演じるというよりも、マフィアそのものなのではないかと思えて来てしまうほどだ(一応父親はのスニール・ダットは政治家)。この映画でもカリスマ的マフィアをまがまがしく演じており、そのかっこよさにしびれた。太葉巻をくわえ、バタフライ・ナイフをカシャカシャと回しながら銃をぶっ放すという、まるでアメコミのキャラクターのようなマフィアをいとも簡単にこなしてしまっていた。しかもセリフがかっこいい。「全く皮肉なもんだぜ。ガーンディー・ジーは一生涯を非暴力のために捧げた。だが、事もあろうに政府はガーンディー・ジーの顔を暴力の元凶に印刷しやがった・・・金さ!」インドの全ての紙幣には確かにマハートマー・ガーンディーの肖像が印刷されている。・・・このセリフはギャグか、それともかっこつけか?こんなにまがまがしいセリフは今まで聞いたことがない。ラストで、苦労して奪った金をラッキーとサムに残して、アメリカン・バイクで颯爽と去っていく姿もかっこよすぎる。・・・なぜ金を彼らに残したのかはいまいち理解できないが・・・。
久し振りにアニル・カプールをスクリーンで見た。いい演技をしていたが、サンジャイ・ダットの前ではただのおっさんに見えてしまう。「ラッキー」という名前ながら、ひたすらアンラッキーなのが笑えた。サムを演じたサミーラー・レッディーは、「Darna
Mana Hai」(2003年)や「Plan」(2004年)に出ていた若手女優だ。何か物言いたげな目と口が魅力的だと感じた。マヘーシュ・マーンジュレーカルもマフィア映画には欠かせない人物である。憎々しい笑みがいい味を出している。彼は俳優の他、監督業もやっており、「Rakht」(2004年)などを監督している。
いくつかのミュージカル・シーンも印象的だった。一番よかったのは「Tez Dhaar」。ただサンジャイ・ダットがリムジンの中で白人の美女に囲まれて体を揺らしているだけの踊りだが、なぜか無性にかっこよかった。「Ishq Kabhi Kario Na」や「Saaki」などもよかった。ほぼ全てのミュージカルは、露出度の高い「アイテムガール」が色っぽい踊りを踊るものだった。
日本人にとって、おそらくサンジャイ・ダットはインド映画ハマリ度のリトマス試験紙ではないかと思う。インド映画を全く知らない人がサンジャイ・ダットの出ている映画を見たら、「なにこの濃いおっさん?」という感じだろう。何を隠そう、僕が初めてインドで見たインド映画もサンジャイ・ダットの映画だった。そのときは全然好きになれなかったのだが、インド映画の魅力が分かってくる内に、次第にサンジャイ・ダットの魅力も分かってきたように思える。しかし、いたいけな女性がインドで「私はサンジャイ・ダットが好き」などと公言してしまうと、周囲のインド人を引かせてしまうから気を付けなければならない。サンジャイ・ダットは女人禁制的魅力があると思う。
サンジャイ・ダットのファンならば絶対に見るべき映画。サンジャイ・ダット抜きにしても割と凝ったストーリーだったが、インド映画初心者にはインパクトが強すぎる映画ではないかと思う。
インドに住んでいるとインドのことがよく分かると思われがちだが、インドに住んでいるからといってインドのことがよく分かるわけでもない。特にデリーのような大都会に住んでいると、デリーでの体験や見聞だけで「インドは〜〜だ」とさもインド全体のことが分かったような口調で物事を語ってしまいがちになり、本当のインドの状態を見失ってしまうことがよくある。だから時々デリーの外を旅行をすることは非常に大事だ。JNUに入ってから旅行する時間があまり取れなくなったが、長期休暇には必ずどこかを旅行するようにしている。
今冬、旅行先に選んだのはラージャスターン州南部。ラージャスターン州と一口に言っても実はそれぞれ地域ごとに文化的差異がある。話は飛ぶが、僕は愛知県豊橋市出身である。豊橋は愛知県の東部、静岡県の近くにある。愛知県というと名古屋が非常に有名でインド人でも知っている人がいるくらいだが、実は豊橋の人間は名古屋と一緒にされるのを非常に嫌がる。なぜなら豊橋は三河の都市であり、名古屋は尾張の都市であるからだ。これら両地域は全く違った文化圏に属しており、方言も全然違う。ちょうどそれと同じく、ラージャスターン州もいくつかの地域に分割して考えることができる。主な地域は、北東部のジャイプルを中心とするアンべール(アーメール)地方、西部のジョードプルを中心とするマールワール地方、そして南部のウダイプルを中心とするメーワール地方である。これらの地域がどれだけ違うかを示す好例が僕のヒンディー文学科のクラスにある。クラスにラージャスターン出身の学生はけっこういるのだが、1人はジョードプル近くのマールワール地方出身、残りはジャイプルやアルワルなどのアンベール地方出身である。アンベール地方の学生たちは派閥と言えるくらいお互い仲がいいが、マールワール地方出身の彼はそのグループとちょっと距離を置いている。同じ州出身と言えど、同郷という感覚はあまりないようだ。今回旅行するのは、ラージャスターン州の中でもメーワール地方を中心とした地域ということになる。ウダイプル、チッタウルガル、ブーンディー、コーターの4都市を中心に観光する予定だ。ウダイプルは2000年に一度訪れたことがあるが、他の都市は初めての訪問となる。安めの宮殿ホテルやハヴェーリー(邸宅)・ホテルに宿泊することが、今回の旅行の密かな目的である。
デリーのサラーイ・ローヒッラー駅で午後2時10分発ウダイプル行きの9615チェータク・エクスプレスに乗り込んだ。サラーイ・ローヒッラー駅はラージャスターン方面へ行く列車が主に発着する駅で、特にメーターゲージ(狭軌)の列車用となっている。ウダイプル行きの列車もメーターゲージである。ただ、現在ブロードゲージ(広軌)の線路が建設中のようだ。メーターゲージの列車は車両の横幅が狭くて天井も低く、ベッドの数が少なくなっている。チェータクとは、メーワール王国の英雄マハーラーナー・プラタープ・スィンの愛馬の名前である。
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サラーイ・ローヒッラー駅
デリーの駅の中では小さい駅である |
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チェータク・エクスプレスには3等AC寝台席(もっともリーズナブル)がなかったので、2等AC寝台席で行くことにした。ドアもある完全なコンパートメントになっており、1つのコンパートメントに4人が寝れるようになっていた。同室になったのは、パンジャーブ人、ウダイプル在住の人、そしてなんとJNUでアフリカ学を教えている南アフリカ人(白人)の教授だった。
ラージダーニー・エクスプレスとは違うので、食べ物などは出てこない。しかも等級が高い列車なので、車内に物売りが全然やって来ない。よって、非常に退屈かつ不便な移動となってしまった。インドの列車の旅は、等級が上がるほど快適になるが、インドならではの面白さからは遠ざかってしまう。それでも、荷物の心配をする必要がないというのは何物にも変えがたい。ACなしの寝台クラスで行くと、靴まで枕元に置いて寝ないといけないから大変だ。また、AC以上の等級で行くと毛布などの寝具を支給してくれるので、荷物の節約をすることもできる。一応、夕食と朝食は沿線上の村人らしき人が注文を取りに来たので、彼らに頼めば持って来てくれた。夕食は9時半頃、朝食は8時頃だった。
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2等AC |
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枕、毛布、シーツなどは
支給してもらえる |
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列車のウダイプル到着予定時間は9時5分。時間通りとは行かなかったが、それに近い時間でウダイプル・シティー駅に到着した。駅からオート・リクシャーで旧市街の中心部まで行く。旧市街の要地に近く、湖に面しているジール・ゲストハウスに宿泊することにした。ダブルルームで300ルピー。バス・トイレ、ホット・シャワー付きで、しかもバスタブまで付いているという豪華さだが、タオルや石鹸などはもらえなかった。ジール・ゲストハウスはウダイプルのホテルの中でも老舗で、オーナーは相当金を稼いでリッチな老後を送っているそうだ。だが、現在いる従業員は、見かけは親切だが影で宿泊客の悪口を言い合っており、あまり信用が置けない人物だった。
ウダイプルは、何と言っても人造湖ピチョーラー湖の中に浮かぶ宮殿、レイク・パレスで世界的に有名である。レイク・パレスはマハーラーナー・ジャガト・スィン2世によって1754年に建造され、メーワール王国の夏の宮殿だったが、現在ではインドを代表する宮殿ホテルとなっており、一般に開放されている。レイク・パレス・ホテルは「007/オクトパシー」(1983年)のロケ地となったことで映画ファンにも有名である。ウダイプルに乱立する屋上レストランでは夜な夜な同映画の上映会が行われているとか。ところが、近年ウダイプル周辺は深刻な干ばつに見舞われており、ピチョーラー湖も大半が干上がってしまっている。2000年に訪れたときは満々と水を湛えていたのだが、もはやピチョーラー湖東岸のシティー・パレスとレイク・パレスの間にしか水がない状態となってしまっていた。僕が泊まったジール・ゲストハウスの前も、本当だったら湖なのだが、今では干上がって下に降りれるようになっており、そのまま歩いてレイク・パレスまで行けてしまう。干上がった湖は広大な草原となっており、牛たちが草を食んでいた。夕方には、干上がった湖で子供たちがクリケットをして遊んでいたのが印象的だった。
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大半が干上がったピチョーラー湖 |
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レイク・パレスまで歩いて行ける
ただ、陸路からは宿泊客以外立入禁止 |
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レイク・パレスは1泊300〜1000ドルくらいする超高級ホテルだが、レストランで食事をするだけなら貧乏人でも入ることができる。前回来たときはレイク・パレスの中を見ることができなかったので、今回はまずレイク・パレスでランチを食べることから挑戦してみた。レイク・パレス・ホテルのレストランは完全予約制で、予約なしではレイク・パレス行きのボートに乗ることすらできない。レイク・パレスへ通じる道の入り口にあるカウンターで予約をし、12時半にボート乗り場からボートに乗ってレイク・パレスへ足を踏み入れた。・・・四方が水で囲まれていたらどんなに感動的な一歩だったことだろうか・・・だが、湖の大半が干上がってしまった現在では、レイク・パレスの片側にしか水がなく、歩いていけるのにわざわざボートで入場するというのは何だか間抜けな気がした。
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シティ・パレスからボートに乗って
レイク・パレスへ |
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レイク・パレス内部は思っていたほど広い空間ではなかったが、よく整備されていた。概して、宮殿ホテルは元々宮殿だっただけあって、あまりホテルとしての利便性を考慮して設計されていない。よって、大体においてちょっと変な構造になっているのだが、このホテルはなかなかどうしてホテルっぽくなっていた。ランチはビュッフェで、1人1000ルピー+税金。ノン・ヴェジとヴェジのカレーが用意され、ノン・ヴェジではフィッシュ・カレー、チキン・カレー、マトン・カレーに加えて、ポーク・カレーがあった。インドでポーク・カレーというのは珍しい。さすがに1000ルピー取っているだけあって味は絶品。夕食が要らないくらい腹いっぱい食べた。
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レイク・パレスの一角
向こうに見えるはシティ・パレス |
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ランチ・ビュッフェ |
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レイク・パレスの南には、もうひとつ湖に浮かぶ宮殿がある。ジャグマンディル島と呼ばれており、マハーラーナー・カラン・スィンによって建造されたものだ。この島には、父ジャハーンギールに謀反を起こして隠れていたシャー・ジャハーンが滞在していたことがあり(1623〜24年)、タージ・マハルのモデルとなったと言い伝えられている。インド各地には「タージ・マハルのモデル」と言われる建築物がいくつもあり、タージ・マハル好きな僕はそういう遺跡があると絶対に見てみたくなるのだが、残念ながら現在ジャグマンディル島は開いていなかった。なぜなら水不足で湖が浅すぎてボートが行けないからだ。ジャグマンディル島はリティク・ローシャンとカリーナー・カプールが主演の映画「Yaadein」(2001年)の中の、「Jab Dil Mile」というミュージカルのロケ地になっている。
レイク・パレスから戻った後は、シティ・パレスの博物館へ行った。入場料は大人50ルピー。カメラ持込料があり、どんなカメラでも200ルピーも取られるとのことなので、カメラはホテルに置いて来た。シティ・パレスは複数の宮殿の集合体になっており、ラージャスターンで最も巨大な宮殿を形成している。1571年から建造が始まり、歴代のマハーラーナーによって増築され続けて来た。現在のマハーラーナー、アルヴィンド・スィンも増築を行ったとのこと。内部はいくつもの部屋に分かれており、それぞれに特徴がある。例えば王妃の部屋シーシュ・マハルは四方が鏡で装飾されており、クリシュナ・ヴィラースは四方に細密画が飾られ、チーニー・マハルは中国から取り寄せたタイルが敷き詰められ、モール・チャウクには鏡で作られた孔雀が飾られている。マハーラーナーの豪奢な生活を偲ぶことができる。一番最後には、メーワール王国の歴史とマハーラーナーの家系を紹介した展示があった。現マハーラーナーの1人の息子と2人の娘の写真もあった。娘の1人はコギャルっぽかったのだが・・・。
ところで、ウダイプルの王は皆、マハーラーナーと呼ばれている。日本ではマハラジャ(マハーラージャー)という呼称が有名だが、ウダイプルの王だけはマハーラーナーであり、ウダイプルの人々もこの特別な呼称に誇りを持っている。メーワール王国はラージャスターン州の藩王国中唯一ムガル王朝に屈しなかった誇り高い王国であり、マハーラーナーとは敢えて訳せば「偉大なる戦争の王」というニュアンスがあると思う。それに比べると、マハーラージャーという呼称は「政治的な王」という意味合いが強いかもしれない。
夕方には、「バーゴールのハヴェーリー」と呼ばれる旧大臣邸の、ダローハルと呼ばれる広場で7時から行われる舞踊ショーを見た。ラージャスターン州の伝統舞踊を分かりやすく簡潔に紹介する1時間のショーで、よく考えられたプログラムとある程度のレベルのダンサーのおかげで非常に楽しむことができた。ラージャスターンの伝統歌「ケーサリヤー・バーダム」から始まり、体中に付けたベルを打ち鳴らすテーラータール・ダンス、女性たちの踊りガヴァリー、ラージャスターン名物パペット・ダンスや、壺を次々と頭に乗せていく大道芸的踊りなど、充実した内容だった。
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ガヴァリー |
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9段積み! |
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今日は旅行第1日目だったが、1日中フルでウダイプルをエンジョイできた気がする。ウダイプルには来たことがあったので勝手が分かっていたことも大きいが、有数のツーリスト・スポットなので住民が旅行者に慣れており、観光業が程よく発達していることが一番の要因だろう。できれば長く滞在したい、過ごしやすい街である。
今日は早朝からタクシーを1日チャーターして、ウダイプル北部にある観光地を巡った。チャーター代は特に下調べもなしに交渉して1400ルピー。ナートドワーラー、ハルディーガーティー、クンバルガルそしてラーナクプルの4ヶ所を主に見て回った。普通の旅行者はクンバルガルとラーナクプルだけを回るようで、こちらのタクシー・チャーター料金は1000ルピー前後。実際に行ってみたらナートドワーラーはそれらと大して別方向にある訳でもなく、その2ヶ所にナートドワーラーなどを加えたら、多分妥当な値段は1100ルピーくらいだと思った。現在のところ、タクシー料金は4ルピー/kmの計算が妥当である。
早朝6時の出発だったが、やはりインドなので時間通りに事が進むはずがなく、結局6時半頃ウダイプルを出発した。ドライバーの名前はカールー、28歳。突然、聞いてもないのに「実は人妻と横恋慕しててね・・・オレも既婚で子供もいるけど」と、かなりプライベートな話から始まったので驚いた。ウダイプル近郊の村出身で、言葉がかなり訛っていたが、聞いている内にだんだん慣れてきた。おしゃべりなドライバーというのは、退屈しなくていいが、調子のいい奴が多いので多少注意せねばならない。
まず向かったのはナートドワーラー。と、その前にウダイプルからナートドワーラーへ行く途中に、メーワール王国のマハーラーナーの氏神であるエークリングジー寺院があるが、朝早すぎたために閉まっていた。歴代のマハーラーナーは、祭りのときにウダイプルから約25km離れたこのエークリングジー寺院まで徒歩で通っていたという。
ナートドワーラーはシュリーナートジーと呼ばれるクリシュナ神の寺院かつ門前町である。聞くところによると、ナートドワーラー寺院の賽銭収入は、アーンドラ・プラデーシュ州のティルパティ寺院に次いでインド第2位だとか。特にグジャラート人が多額の金銭を寄進して行くらしい。確かにナートドワーラーではグジャラーティー文字を多く見かけた。ナートドワーラー寺院に祀られている神像は、元々マトゥラーのクリシュナ生誕寺院にあったものだと言われている。敬虔なイスラーム教徒だったムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブがインド中のヒンドゥー寺院の破壊を始めたとき、マトゥラーの寺院に安置されていたクリシュナの神像は信者によって安全な場所に避難された。1671年、メーワール王国のマハーラーナー・ラージ・スィン1世がクリシュナの像をウダイプルに保護安置することを提案し、像は荷車に載せられて運ばれた。ところがスィハール村でクリシュナ像を載せた荷車は泥沼にはまりこんでしまい、そこでにっちもさっちもいかなくなってしまった。それを見たある聖者が、この出来事は神様がこの地を住居と定めたことを示すと語ったため、ラージ・スィンの許可によってその村に寺院が建造され、クリシュナ像が安置された。以後、この村はナートドワーラーと呼ばれるようになり、多くの巡礼者を集めるようになったという。また、アウラングゼーブはナートドワーラーまで侵入して来たが、なぜか寺院は破壊しなかったという。ナートドワーラー寺院は、神のお告げにより民家と同じ掘っ立て小屋になっており、そのおかげでアウラングゼーブはそれが寺院だとは気付かずに通り過ぎてしまって難を免れたと聞くが、神の威光によりアウラングゼーブはナートドワーラー寺院を破壊できなかったと説明する人もいた。現在ではナートドワーラー寺院は立派な寺院となっているが、本殿だけは上から見ると今でも民家のようなシンプルな構造をしていることが分かる。
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ナートドワーラー寺院入り口
中は写真撮影禁止 |
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ナートドワーラー寺院のご本尊シュリーナートジーは日に5回だけご開帳される。午前中は5時、7時、9時の3回らしい。だが、僕が行ったときはちょうど7時のご開帳が済んだところで、9時まで待つことはスケジュール上不可能だったため、残念ながらご神体を拝まずに立ち去ることになった。こういう寺院に必ずいる、チップ目当てのガイドの話によると、ご開帳ごとにシュリーナートジーは服を変えるようだ。その様子は絵で見ることができた。どちらにしろ、ヒンドゥー教徒以外は本殿に入ることはできないらしい。
ナートドワーラーの門前町では、なぜか日本語を少しだけしゃべれる女乞食がいた。こんなガイドブックにも載っていない場所を訪れる日本人は稀だと思うが、彼女の話によると「たくさん日本人が来る。日本人から日本語を習った」とのことだった。いったい誰が日本語を教えたのだろう・・・?
ナートドワーラーから今度はクンバルガルへ向かったが、その途中にハルディーガーティーと呼ばれる古戦場を通った。ハルディーガーティーは、1576年、アクバル直属の将軍アーサフ・カーンとアンベール王国のマハーラージャー・マーン・スィン率いるムガル・ラージプート連合軍と、マハーラーナー・プラタープ・スィン1世率いるメーワール軍とビール族の連合軍の戦争が行われた場所として有名である。「ハルディー」とはターメリック(ウコン)のことで、「ガーティー」は谷とか坂という意味だから、日本語に無理矢理訳すとウコン坂またはウコン谷になるだろうか。ここの土壌は黄色がかった赤土であり、それからこの名前が付いたらしい。だが地元の人々は、ハルディーガーティーの戦いで戦死した兵士たちの血が地面に染み込んだため、ここら辺の土は赤い色をしていると信じている。16世紀、ラージプートの王国のほとんどはムガル王朝に恭順を示し、誇り高きメーワール王国だけがムガル王朝に頑強に対抗していた。ムガル朝第3代皇帝アクバルは当初メーワール王国に再三和平の使者を送ったが、プラタープ・スィンは承諾しなかった。とうとう両軍は激突することとなり、ハルディーガーティーで戦争が起こった。戦争は10時間だけだったが、ラージプートの勇猛果敢な歴史に残るほどの激戦となり、マハーラーナー・プラタープ・スィンは7ヶ所に重傷を負って意識を失いそうになりながらも何とかムガル軍からの逃走に成功した。ハルディーガーティーには、マハーラーナー・プラタープ・スィンの愛馬チェータクの記念碑があった。チェータクとは、プラタープ・スィンと共に数々の戦場を駆け巡った名馬である。ハルディーガーティーの戦いのとき、チェータクは脚を負傷しながらも3本足で戦場を駆け回っていた。敗色が濃厚となり、逃亡するプラタープ・スィンがバナース河を渡っていたところ、ムガル軍の急襲があり、矢がチェータクに命中した。ところが、そこで倒れたら重傷を負っていたプラタープ・スィンは河の中に落ちて死んでしまう。そこでチェータクは最後の力を振り絞って一飛びし、河を渡りきったところで息絶えたという。その場所に記念碑が立っているという訳だ。武将の名馬・愛馬の話は日本にも中国にも事欠かないが、インドを代表する名馬と言えばこのチェータクだろう。メーワール王国のマハーラーナーに関する詳細な解説は、この後のチッタウルの日記を参照にされたい。
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チェータク記念碑 |
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クンバルガルには11時前に到着した。クンバルガルはウダイプルの北84kmの地点にある要塞で、元々2世紀にジャイナ教徒の王子によって建造されたと言われているが、現存している要塞はマハーラーナー・クンバーによって1458年に建造された。アラーヴァリー山脈の山頂、標高1100mの地点にそびえ立っており、周囲は万里の長城を思わせる堅固な壁で覆われている。城壁の全長は36kmで、これはインドで最長、世界的にも万里の長城に次いで2番目に長い城壁だとか。これは、メーワールの王が外敵の侵入により危機に陥ったときに篭城するための要塞で、マハーラーナー・プラタープ・スィンの時代に一度しか陥落したことがない。しかもそのときは、ムガル軍、アンベール軍、マールワール軍の連合軍による総攻撃だったという。そこまでしないと落城させられなかった理由は、要塞を一目見れば納得がいく。厚い城壁と7つの堅固な門に守られた要塞。今までインド各地の要塞を巡ってきたが、そのどれに勝るとも劣らない威容があった。城壁内には365軒の寺院があり、特にニールカント寺院はマハーラーナー・クンバーによって毎日の礼拝のために建造された。最近集中的に整備されたようで、山頂の宮殿、バーダル・マハル(マハーラーナー・ファテー・スィンが建造)に続く道などきれいな石畳になっていた。入場料はインド人5ルピー、外国人100ルピーだが、「デリーに住んでる」と言ったら簡単にインド人料金にしてくれた。
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クンバルガル |
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頂上から下を眺める |
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クンバルガルの麓にあるホテルで軽く昼食を取った後、次に目指したのはラーナクプル。ラーナクプルにはジャイナ教の巨大な白亜の寺院がある。遺跡観光目的でインドを旅行する者のバイブルとも言える「インド建築案内」の著者、神谷武夫氏が「インド建築の最高傑作」と呼ぶほどの寺院であり、今回の旅行で最も訪れてみたかった場所だった。クンバルガルから1時間半ほどでラーナクプルに到着した。山と森だけの僻地に忽然と白い建造物群が遠くに見えてくるから異様だった。ちなみにラーナクプルは現在ではメーワール地方ではなくマールワール地方に立地しているが、寺院が建造された15世紀にはメーワール王国領内で、マハーラーナー・クンバーによって寄進された土地に建っている。
ラーナクプルは駐車場やダラムシャーラー(巡礼宿)など完備の一大宗教施設となっていた。ジャイナ教の寺院なので、靴やベルトを初めとする革製品は一切身から外して行かなければならない。入場料などはなかったが、カメラ料として50ルピーを取られた(ビデオカメラは150ルピー)。こんな僻地にあるくせに、チケット・カウンターの人は僕の持っているカメラを見て、「それはデジカメか?ビデオ撮影機能付きのデジカメじゃないのか?」と疑っていた。確かに僕のデジカメはビデオを撮ることができたが(全然使ってないが)、その場はそれとなく否定しておき、カメラ料金だけで入ることができた。ウダイプルのシティーパレス博物館でも、「いかなるカメラでも200ルピー」、つまり「カメラでもビデオカメラでも200ルピー」となっていたが、あれは多分ビデオ撮影機能付きのデジカメを意識しての料金設定だと思う。デジカメの余分な機能が次第にインドの入場料に悪影響を与えつつある・・・。
ラーナクプルにはいくつかの寺院があるが、その最大のものがジャイナ教の始祖の始祖アーディナートに捧げられたチャウムク(四面)寺院。1439年建造。外見はまるで要塞のような堂々たる威容を誇っている。インド建築の権威、神谷武夫氏が「インド建築の最高傑作」と太鼓判を押す建築物だけあって、多大な期待と緊張と共に寺院内に足を踏み入れた。内部は彫刻でビッシリと装飾された白大理石の柱が林立し(合計1444本あるという)、天井にまで細かな彫刻が施されていた。全てが白い・・・そして全てが細かい・・・。寺院は合計29のホールの集合体となっており、それぞれ微妙に床や天井の高さが違う。神谷武夫氏の言葉を借りると、「この寺院は内部空間の変化に富んだ構成に最大の魅力がある」。同著に掲載されている写真を見ると、2階から撮影したらしきものもあったが、現在では2階に上ることはできなくなっていた。
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アーディナート寺院 |
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内部は白亜の空間 |
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・・・これがインド建築最高傑作か・・・そう自分に言い聞かせながら、何度も何度も回廊状になっている寺院をグルグル回ってあちこちを観察した。しかし、あまりに期待が大きすぎたためか、僕に建築の十分な知識がないためか、何となくピンと来なかった。今までインド各地の建築物を見てきたが、その中でジャイナ教の寺院はなぜか性に合わないと前々から感じていた。グジャラート州のシャトルンジャヤ寺院には感動したが、それ以外のジャイナ教寺院で僕を唸らせたものはなかった。繊細すぎるというか、味がないというか、何だか来た人を圧倒するダイナミックな魅力に欠けるように感じる。ラーナクプルの寺院にピンと来なかったのは、ジャイナ教寺院と気が合わないことが一番の大きな原因だと思った。また、全てが大理石できれいに磨かれており、あまり古い印象を受けないのもマイナスポイントだ。石造りの、いかにも廃墟といった感じの、灰と黒の混ざったような寺院の方が味があるように思える。一面真っ白というのも何だか魅力に欠ける。ヒンドゥー寺院のように色彩豊かな建物の方が僕には魅力的に感じる。色彩的にはシンプルだが、それでいて日本的侘び寂びを感じないのも残念だ。・・・などなど、いろいろ自分の期待外れ感を理屈で説明しようと考えながら寺院をじっくりと見たが、いい説明は思い浮かばなかった。ただ、ひとつだけものすごい残念で、しかもはっきりと説明できるのは、この人里離れた寺院が完全なる観光地となってしまっていたことだ。白人の観光客や、巡礼者とは思えないインド人旅行者がカメラを持ってウロウロしており、それがこの寺院の魅力を台無しにしていた。もっとも、僕自身もカメラを持ってウロウロしていた観光客の1人だが・・・。
ラーナクプルからウダイプルまでは約60km。3時頃にラーナクプルを出て、途中チャーイ休憩を挟んで6時前にはウダイプルに到着した。
今日はウダイプルの北部を巡ったわけだが、ほとんど農村のど真ん中を通り抜けていくような道で、途中の風景も楽しめた。特に興味深かったのは、畑への灌漑用水を井戸から汲み上げる装置。水車のようになっており、井戸の水を箱で汲み上げて、地上へ上げるのだが、その動力源が2頭の牛。棒に括りつけられた牛がグルグルと円を描いて回り、その力で水車を動かしていた。牛の後ろには操縦者がチョコンと乗って牛たちの動きを監督していた。この灌漑設備もそうだが、この辺りは河、池、水が豊富で非常に豊かな農園が至る所に広がっていた。メーワール王国が強靭な軍事力を誇れたのも、この豊かな農業力があったからこそではないかと思った。また、ラージャスターンと言っても全てが砂漠ではないことが分かった。アラーヴァリー山脈に位置するメーワール地方はどちらかというと山岳地帯となっている。
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灌漑用水車 |
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僕は今までインド最高の建築物について特に考えたことがなかった。なぜなら神谷武夫氏がラーナクプル寺院を最高傑作に挙げており、それを見るまでは何も言うことができないと思っていたからだ。しかし、ラーナクプル寺院を自らの目で見た今、僕の中で「インド建築の最高峰は何か?」という問題が急に大きくなってしまった。残念ながら僕は神谷武夫氏の考えには同意できない。ではいったい何か?やはりタージ・マハルを外して考えることはできないだろう。その他、今まで見てきた遺跡の中で素直な感動を与えてくれた遺跡は何だっただろうか?エローラのカイラースナート寺院も大好きな遺跡だし、ジャイサルメールの城砦や旧市街も全部ひっくるめてお気に入りの遺跡だ。マドゥライのミーナークシー寺院も捨てがたいし、オールチャーのジャハーンギール・マハルも楽しかった。だが、素直に考えて、やはりタージ・マハルを最高傑作とするのが一番無難なのではないかと思う。
今日は朝からトラブルに見舞われた。今日は朝7時からウダイプル南部のドゥーンガルプルとジャイサムンドをタクシーで回ろうと考えていたが、7時になっても8時になってもドライバーが来なかった。別のドライバーを呼んでもらったものの、そのドライバーもなかなか来ず、結局8時半頃に2人のドライバーがほぼ同時に来た。ドゥーンガルプルとジャイサムンドは心から訪れてみたい場所ではなかったし、もう面倒だったので、そこへ行くのはやめて、朝から次の目的地チッタウルへ向かうことにした。これだけ外国人相手においしい観光業をしているにも関わらず時間厳守の観念が全くないインド人に、「本当に観光をやる気があるのか、外国人相手にこんないい加減な仕事していて観光業が発展するはずがない、時間を守れない人間は人生で何事も成すことはできない」などとじっくり説教をした後、バス停へ向かった。・・・後から思えば、このときチッタウルへ行っておいて正解だった。
8時50分発のバスに乗り、ウダイプルから約115km東にあるチッタウルを目指した(48ルピー)。昨日タクシーで巡った辺りは緑が豊かな土地だと感じたが、チッタウル周辺はステップ気候のような半砂漠半草原地帯となっていた。バスは3時間足らずでチッタウルのバス停に到着した。
チッタウルではホテル・プラタープ・パレスに宿泊した。このホテルは小さな宮殿ホテルみたいな外観と内装をしており、なかなか独特な魅力があった(外見がラブホテルっぽいのは否めないが)。だが、僕が着いたときには750ルピーのデラックス・ダブル・ルームしか空いておらず、しかも明日には予約が入っており延泊することが不可能だった。部屋を見せてもらったら、テラス付きのけっこう趣のある部屋だったので、1泊だけ泊まることにした。
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ホテル・プラタープ・パレス |
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デラックス・ダブル・ルーム |
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チッタウルはメーワール王国の牙城チッタウルガルで有名であり、この要塞を見るのが長年の夢だったが、チッタウルガル観光は明日1日を費やすことにして、今日はチッタウル近郊にある宮殿ホテル、キャッスル・ビジャイプルを訪れることにした。実はプラタープ・パレスとキャッスル・ビジャイプルのオーナーは同じである。ホテルでタクシーとビジャイプルでのランチをアレンジしてもらった。タクシーは往復350ルピー、ランチは250ルピーだった。
ビジャイプルはチッタウルからブーンディーへ向かう道の途中、チッタウルから約40kmの地点にある。チッタウルからタクシーで1時間足らずだ。キャッスル・ビジャイプルは16世紀に建造された城を改造したホテルで、あまり清潔とはいえない村の中心にあった。敷地はそれほど大きくなく、建物もそれほど魅力的ではなかった。それぞれの部屋を見せてもらったが、アンティークの家具が使われていてまあまあのセンスではあったが、ちょっと物足りないという印象の方が強かった。庭にはプールもあった。現在改築中で、完成したらもうちょっとマシになるかもしれない。宿泊費は1400ルピー前後のようだ。過去に訪れたことがあるラージャスターン州ニームラーナーの宮殿ホテルと比べてしまうが、はっきり言って全ての点においてニームラーナーの方が上だった。特に部屋の家具や装飾のセンスはニームラーナーの足元にも及ばないと感じた。
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キャッスル・ビジャイプル |
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デラックス・ツイン・ルーム |
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とは言え、食事は非常においしかった。ノン・ヴェジのターリーを注文したら、3人分くらいはある量のカレーを出されて驚いた。内訳はチキン・カレーの他、ラージャスターンの郷土料理(ヴェジ)4種、ラージャスターン風のローティーやミターイーなど。野菜も肉も全て新鮮な味がしたことがおいしさの秘訣だったと思う。特にチキンは、今殺したばかりの鶏の肉の味がした。もちろん1人で全てたいらげることはできなかった。
チッタウルガル・・・メーワール王国の中心地であり、標高590m、面積28平方km、南北に細長いテーブル状台地に浮かぶ難攻不落の要塞。チッタウルガルほど多くの武勇伝と悲劇を生んだ要塞はインドには他にないだろう。歴史的にも建築的にもチッタウルガルは特別な意味を持っているが、ヒンディー文学の分野でもチッタウルガルは非常に重要である。いろいろな意味で、間違いなく今回の旅行のハイライトだ。ちなみに、日本ではチットールガルと表記されることが多いが、自分自身の原則に従い、チッタウルガルと表記している。
チッタウルガルを巡る手段としてはタクシー、オートリクシャー、自転車がポピュラーなようだ。僕は自由気ままに自転車で巡ろうと思っていたが、昨日ビジャイプルへ行く途中にチッタウルガルへつながる険しいジグザグの坂道(高低差150m)をチラリと見た瞬間、自転車はやめようと即決した。そこでホテルでバイクをレンタルできるか聞いてみたら、できるとのことだったので頼むことにした。レンタル料200ルピーでガソリンは50ルピー分入れた。バイクはヒーロー・ホンダのCD100。実は遺跡が散在する街をバイクで回るのが一種の趣味になっている。1998年にはエジプトの王家の谷をバイクで回ったことがあるし、2003年にはディーウをバイクで何周もした。デリー各地に残る遺跡を横目にバイクを走らせるのも密かな楽しみとなっている。自転車もいいのだが、絶対に後で後悔するような印象が強い。ハンピーを自転車で巡ったときは相当疲れた。
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ヒーロー・ホンダ CD100
ラタン・スィン・パレス前にて |
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チッタウルガルの観光を書く前に、チッタウルガルの歴史を整理しておく必要がある。その歴史は、ラージャスターン州を中心にインドの中世を彩ったラージプート(インドの武士と言っていいだろう)の男たちの死をも恐れない勇猛果敢さと、女性たちの不名誉の生より名誉の死を選ぶジャウハルに象徴されている。ジャウハルとは、特にラージプートの女性たちが外敵との戦争に敗北したときに行う集団自殺のことである。戦争に負けると、後に残された女性たちはレイプされ、殺害されるか奴隷にされるのが中世の慣わしだった。よって、誇り高いラージプートの女性たちは自ら火の中に飛び込み、生き恥をさらすより死を選んだのだった。ラージプートだけでなく、王族から庶民まで全ての女性が一斉にジャウハルを行うこともあったという。チッタウルガルは歴史上3回、外敵により陥落させられており、その度にジャウハルが行われた。
チッタウルガルは、神話では「マハーバーラタ」のパーンダヴァ5兄弟の1人ビームが建造したと言われているが、誰が最初に要塞を建造したのかは定かではない。メーワールのマハーラーナー(スィソーディヤー家)の所有となったのは、バッパー・ラーワルの頃の8世紀である。歴史上、チッタウルが最初に陥落したのはデリーのアラーウッディーン・キルジーによる総攻撃があった1303年である。このときの王はラタン・スィン1世だった。このアラーウッディーン・キルジーによるチッタウルガル侵略は民話となっており、それを基にジャーイスィーという詩人が「パドマーワト」という叙事詩を著した。伝承によると、アラーウッディーン・キルジーとラタン・スィンの戦争は、ラタン・スィンの王妃パドミニーの絶世の美貌により起こったという。パドミニーの美しさを伝え聞いたアラーウッディーン・キルジーは、彼女を奪うためチッタウルガルを攻撃した。ところがチッタウルガルがあまりに堅固だったために彼は落城させることができなかった。そこでキルジーはラタン・スィンに使者を送り、「もしパドミニーの顔を一目でも見せれくれたらデリーに帰る」と約束した。ラタン・スィンは戦争よりも和平を重視し、キルジーをチッタウルガルに招き、鏡に映したパドミニーの姿を見せた。ラタン・スィンはキルジーを城門まで見送ったが、パドミニーへの思いをますます募らせたキルジーは、ラタン・スィンを捕えて軍営に連れ帰ってしまった。キルジーはチッタウルガルに使者を送り、「もしラタン・スィンを返してほしかったら、パドミニーをオレによこせ」と脅迫した。しかしパドミニーも負けていなかった。パドミニーはキルジーに、「もし私のメイド700人のために700個の輿を用意してくれたらあなたと共にデリーへ行きます」と返答した。キルジーは快諾し、パドミニーに700の輿を送った。パドミニーはメイドの代わりに女装した兵士たち700人を輿に乗せ、輿担ぎに変装させた4200人の兵士に輿を運ばせた。パドミニーはキルジーの軍営へ到着すると、「最後に夫に会わせてください」と頼んだ。キルジーは承諾した。パドミニーと700の輿がラタン・スィンの囚われている軍営に辿り着くと、兵士たちは正体を現し、キルジーの軍勢に奇襲をかけた。この奇襲によりキルジー軍は総崩れとなってデリーへ逃げ帰ることとなった。怒り狂ったキルジーはすぐに軍勢を建て直し、チッタウルガルを再度攻撃した。今度はさすがのチッタウルガルも持ちこたえられず、メーワール王国の兵士たちは勇敢に戦った後に玉砕し、女性たちはジャウハルを行った。これがパドマーワトのあらすじであり、メーワール地方を中心にあたかも史実のように語り継がれているが、歴史的な実証はない。チッタウルガルは地理的に要衝にあり、キルジーによるチッタウルガル攻撃は、パドミニーに横恋慕したというよりも戦略的目的によるところが大きかったと考える方が自然である。それでも、1303年のキルジーによるチッタウルガル攻撃、つまりチッタウルガルが陥落したときの戦争は史実である。ラタン・スィンらメーワールの勇敢な戦士たちは死装束をまとい、城門から打って出てキルジー軍に立ち向かい、息絶えるまで戦ったという。また、敗北が決定的になると、城内の女性たちは次々と火の中に飛び込んで自らの貞操を守った。キルジー軍に従軍した有名な詩人アミール・クスローは、チッタウルガル攻略の様子を「ターリーケ・イラーヒー」という本に記録している。その本によると、アラーウッディーン・キルジーは1303年1月23日にデリーを出発し、同年8月25日にチッタウルガルを陥落させた。3万人のヒンドゥー教徒が虐殺されたという。だが、チッタウルガルは間もなくメーワール王家の末裔によって取り戻された。
2度目にチッタウルガルが陥落したのは1535年だが、その間に少なくとも2人、歴史に名を残す偉大な王がメーワール王国に誕生した。マハーラーナー・クンバー(在位1433〜1468)とマハーラーナー・サーンガー(在位1509〜1527)である。マハーラーナー・クンバーはマールワー王国(現在のマディヤ・プラデーシュ州西部)のスルターンを戦争で打ち破って捕虜にするという戦績を上げただけでなく、芸術と建築を愛した王としても有名であり、彼の在位中に多くの建築物が建造された。クンバルガルはそのひとつである。一方、マハーラーナー・サーンガーはデリーのスィカンダル・ローディー、グジャラートのマフムード・シャー・バイカラ、マールワーのナスィールッディーン・キルジーなどの強敵を次々に打ち破った戦争の天才だった。彼は人生のほとんどを戦場で過ごし、身体中に80個以上の傷跡があった他、片目を幼少の頃に兄弟喧嘩で失い、イブラーヒーム・ローディーとの戦争で片手片足を失っていた。それでも彼は軍を率いて勇敢に戦ったという。
マハーラーナー・サーンガーの死後、息子のラタン・スィン2世が後を継いだが、すぐに死去してしまった。この混乱に乗じ、1535年、グジャラートのスルターン、バハードゥル・シャーがチッタウルガルを攻撃した。このときの様子も民謡となって語り継がれている。伝承によると、故マハーラーナー・サーンガーの王妃カラムワティーは、チッタウルガルが陥落の危機を迎えたとき、ムガル朝第2代皇帝フマーユーンにラクシャー・バンダンのラーキーを送ったという。ラクシャー・バンダンとはヒンドゥーの祭りで、妹が兄(または兄同然の男性)の右手首にラーキーと呼ばれる紐を巻いて、自分のことを守ってくれるように頼む行事である。ラージプートの伝統では、ラーキーを巻かれた男性は、その女性を命懸けで守らなくてはならない。イスラーム教徒のフマーユーンにラーキーを送るという行為は一見狂気の沙汰なのだが、フマーユーンも面白い性格の皇帝だったようで、イスラーム教徒のバハードゥル・シャーではなく、ヒンドゥー教徒のカラムワティーに加勢した。ただ、フマーユーンの軍勢がチッタウルガルに到着したときには刻や既に遅く、要塞はバハードゥル・シャーによって占領されていた。言い伝えによると、やはりラージプートたちは勇敢に戦い、その結果1万3千人の戦士たちが戦死し、3万2千人の女性たちがジャウハルを行ったという。ただし、カラムワティーは2人の息子を予めブーンディーに逃がしており、メーワール王家の血が途絶えることはなかった。チッタウルガルに到着したフマーユーンは早速バハードゥル・シャーを攻撃して追い払った。ムガル朝が全盛期を迎えるのはヒンドゥーとムスリムの融合政策を行った第3代皇帝アクバルのときからだと言われることが多いが、イスラーム教徒でありながらヒンドゥー教徒の味方をしたフマーユーンの行動が、インドのヒンドゥー教徒に与えた影響は計り知れなかったとされており、ヒンドゥーとムスリムの融合は既にフマーユーンの頃に準備が始まっていたと考えることができる。ただ、フマーユーンがバハードゥル・シャーを攻撃した本当の理由は、ただ単にバハードゥル・シャーの方がインド支配のために邪魔だったからだろう。当時は、ヒンドゥーのラージプート同士、またイスラームの王朝同士で戦争が繰り返されており、宗教はそれほど重要な問題ではなかったかもしれない。
バハードゥル・シャーによる侵略の後、チッタウルガルはカラムワティーの息子ヴィクラマーディティヤが統治することになった。しかし彼は、マハーラーナー・サーンガーの兄弟、プリトヴィーラージとメイドの間の子供バンビールによって1536年に暗殺されてしまう。バンビールはメーワール王国を乗っ取ろうと計画しており、ヴィクラマーディティヤを殺害した後、その弟ウダイ・スィン2世も殺害すべく彼の住む宮殿へ向かった。ウダイ・スィンの女家庭教師だったパンナー・ダーイーは異変に気付き、ウダイ・スィンを逃がして、自分の息子にウダイ・スィンの衣服を着せた。そこへ現れたバンビールはウダイ・スィンと勘違いしてパンナー・ダーイーの息子を殺した。パンナー・ダーイーはメーワール王家の血統を守るため、自らの息子を犠牲にしたのだった。このときウダイ・スィンは15歳で、1年後に彼はバンビールを打ち破ってチッタウルガルを取り戻した。時を同じくして、デリーではアクバルが皇帝の座に就いており、ラージプートの各王国に恭順するよう呼びかけていた。他の王国はムガル王朝の強大な力の前に屈し恭順を受け容れたが、メーワール王国だけは頑強にムガル王朝に対抗した。そこで1567年10月20日、アクバルは自ら軍勢を率いてチッタウルガルを攻撃した。メーワールのラージプートたちはアクバルを何度も死に追い詰めるほど徹底的に抗戦し、再三に渡る降伏の勧告にも屈しなかった。落城が決定的になると、8千人の死装束をまとった戦士たちが城門を開いて打って出ると同時に、城内では女性たちがジャウハルを行った。こうしてチッタウルガルは3度目の陥落を迎えた。一方、落ち延びたウダイ・スィンは、チッタウルガルから115km離れた土地に新しいメーワール王国の都を築いた。これが現在のウダイプルである。
ウダイ・スィンの死後、その息子マハーラーナー・プラタープ・スィンが後を継ぎ、引き続きムガル王朝に抵抗し続けた。プラタープ・スィンはハルディーガーティーの戦いでアクバル軍と激突するが敗北し、大半のメーワールの土地をムガル王朝に奪われる。しかしプラタープ・スィンは「チッタウルガルを取り戻すまでは、贅沢もせず、金銀の食器も使わず、草の上で眠り、髭の先を上に曲げることもしない」と復讐の誓いを立て、ゲリラ戦に戦法を変えてムガル軍に抵抗し、遂にチッタウルガルとマンダルガル以外のメーワールの土地を取り戻すことに成功する。チッタウルガルは1616年にムガル朝第4代皇帝ジャハーンギールによってラージプートに返還されるものの、要塞は廃墟のままで、再建が始まったのは1905年になってからである。以上がチッタウルガルにまつわる歴史と伝承の簡潔なまとめである。
朝8時頃にバイクの鍵を受け取ってホテルを出発した。チッタウルの街は3つの部分に分かれていると言っていい。一番東には要塞チッタウルガル。チッタウルガル上には住民も住んでおり(人口4000人)、学校などもある。チッタウルガルの西側には旧市街があるが、これは1568年から築かれたものらしい。それまではチッタウルの街は全て丘の上の城壁内にあった。旧市街の西にはガンベーリー河が流れており、その西に新市街が広がっている。僕が泊まったホテル・プラタープ・パレスも新市街にある。よって、新市街を抜けてガンベーリー河を渡り、旧市街を通り抜けて要塞の麓まで辿り着いた。そこからは丘の上まで続くジグザグの坂道となっており、途中に7つの門が残っている。対向車に注意しつつ坂道を上っていくと、チケット・オフィスがあった。インド人5ルピー、外国人100ルピーだが、「デリーに住んでいる」と言ったらインド人料金にしてくれた。
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遠くに見えるのがチッタウルガル
手前はガンベーリー河 |
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まずいきなりそびえ立っているのが、クンバー・パレス。マハーラーナー・クンバーが改築したことから名前が付いたという。大部分が崩れてしまっているが、所々に残っている部分から、壮麗な建物であったことが伺われた。クンバー・パレスから北へ向かい、時計回りに遺跡を見て回った。ラタン・スィン・パレス、キールティ・ストゥンブ(名誉の塔)、博物館、ビーム・ラト、パドミニー・パレス、ヴィジャイ・ストゥンブ(勝利の塔)、ミーラー寺院など。全てを挙げていったら切りがないので、この中から印象に残った主なものをピックアップして紹介する。
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チッタウルガル
塔はヴィジャイ・ストゥンブ |
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パドミニー・パレスは、上で紹介したパドミニーにまつわる伝承の舞台となった宮殿だ。湖の中に浮かぶ3階建ての建物があり、そこにパドミニーが住んでいたという。その隣の湖畔にも建物があり、その一室からアラーウッディーン・キルジーは鏡に映ったパドミニーの姿を見たとされている。ちゃんとその部屋も残っており、鏡もかけられている。だが、アラーウッディーン・キルジーとパドミニーのこの話は史実とは認めがたく、この宮殿も伝承に基づいて後世に造られたものである可能性が高い。または、ただ単にパドミニーの夏の宮殿だった可能性がある。普段パドミニーはクンバー・パレスに住んでいたようだ。
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パドミニー・パレス |
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ヴィジャイ・ストゥンブは、チッタウルガルを代表する建築物である。高さ37m、9階建ての塔で、外壁と内壁には無数の彫刻が刻まれている。この塔は、ヒンドゥー様式の塔建築の中で唯一現存しているものであり、建築学的に非常に貴重な資料となっている。イスラーム教徒は、アザーン(礼拝の呼びかけ)のために塔をよく建てていたが、ヒンドゥー教徒にも塔を建てる習慣があったと考えられている。だが、そのほとんどは崩れたか破壊されたかして現存しておらず、唯一チッタウルガルの塔だけがほぼ完全な状態で残っている。9階建てなのは、ナヴグラハ(九曜)と関係しているらしく、シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマー、ラクシュミー、ヴィシュヌの化身、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」の場面などの彫刻が施されている。デリーのクトゥブ・ミーナールと比べてみるのも面白い。クトゥブ・ミーナールは上に行くほど細くなっているが、ヴィジャイ・ストゥンブは基本的に同じ太さであり、下の階と上の階が一番広くなっている。内部には階段があり(157段あるとか)、8階までは簡単に上っていくことができる。9階へ続く階段はないが、肩車か何かをすれば一応上れるようになっている。8階まで上ってみたが、窓が小さくて狭いため、あまり景色を楽しんだりくつろいだりすることができなかった。ヴィジャイ・ストゥンブの建立理由には諸説があるが、マハーラーナー・クンバーが1437年にマールワーのメヘムード・キルジーを打ち破ったことを記念して建てたというのが定説のようだ。ヴィジャイ・ストゥンブのスケッチを1時間半かけて描いた。チッタウルガルにはもう1つ塔があり、それがキールティ・ストゥンブだが、こちらはジャイナ教徒の商人によって建てられたもので、ヴィジャイ・ストゥンブよりも古い代わりに小さい(高さ22m、12世紀に建立)。
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ヴィジャイ・ストゥンブ |
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ヴィジャイ・ストゥンブとクンバー・パレスの間には、大小2つの寺院がある。その内、小さい寺院はミーラー寺院と呼ばれている。ミーラーとは、ヒンディー文学史の中で数少ない女性詩人として知られる16世紀の実在の人物である。一般に、女性に対する尊称「バーイー」と共にミーラーバーイーと呼ばれる(「兄弟」という意味の「バーイー」とは微妙に発音が違う)。だが、本当の発音はミーラーンバーイーだったようだ。ただ、ここではミーラーバーイーと表記しておく。ミーラーバーイーは1503年、メールターのラーオ・ドゥーダージーの息子ラタン・スィンの娘として生まれ、1515年にメーワール王国のマハーラーナー・サーンガーの息子ボージラージと結婚した。つまり、彼女はラージプートの女性だった。ミーラーバーイーは幼少の頃からクリシュナの熱狂的な信者であり、結婚してチッタウルガルに住むようになってからも宗教的活動に専念した。ミーラーの行動はマハーラーナーの家族を困らせ、妨害も受けたが、ミーラーの信念は変わらなかった。1527年までにミーラーの父親、夫、そして義理の父であるマハーラーナー・サーンガーが相次いで死去し、親しい身内を失ったミーラーはますますクリシュナ信仰にのめり込むことになった。マハーラーナー・ヴィクラマーディティヤの代になるとミーラーへの嫌がらせはエスカレートし、とうとう彼はミーラーに毒を飲むよう強要した。ミーラーは毒を飲んだが、クリシュナの加護により生きながらえたと伝えられている。やがてミーラーバーイーはチッタウルガルを去り、各地を巡礼した後、グジャラート州ドワールカーにて1546年に死去した。ミーラーバーイーの詩は民謡となってラージャスターンの人々に歌い継がれており、ヒンディー文学の中でも中世バクティ時代の4詩人の1人として重要な位置を占めている。ミーラー寺院は、そのミーラーバーイーによって建立された寺院だと言われている。ただ、歴史学者によるとこの寺院はマハーラーナー・クンバーによって建てられたものであり、ミーラーとは関係ないという。だが現在ミーラー寺院のご神体はクリシュナとなっており、ミーラーの像がかたわらに添えられている。
他にも大小様々な遺跡が残っており、遺跡好きにはたまらない場所となっている。眼下にはメーワールの雄大な平原が広がり、その中をバイクで走るのはこの上ない快感だった。2時頃には下界に下りてホテルに戻った。
予めチェックアウトしてあり、荷物をレセプションに預けていたので、それを受け取って次なる目的地ブーンディーを目指すことにした。ブーンディーまでバスで行こうと思っていたが、バススタンドで確認したところ、2時45分発の列車を利用した方が便利とのことだったので、駅まで行ってデヘラードゥーン・エクスプレスに乗ることにした(45ルピー)。デヘラードゥーン・エクスプレスは2時50分頃に駅に着き、3時頃に発車した。まあまあ時間通りだと言える。しかしエクスプレスのくせにこの列車は田舎の小さな駅によく停まっていた。この辺りは本当に砂漠地帯で、途中に見える村々も非常に貧しいように見えた。ブーンディーには2時間半ほどで到着した。
ブーンディー駅と市街地はけっこう離れており、オートリクシャーで行かなければならない。しかし郊外の道からブーンディーの旧市街へ入っていく道はダイナミックだった。駅周辺には何もなく、駅からしばらくは国道を通っていく。国道の周辺は何の色気もない建物が立ち並ぶ普通のインドの町となっており、古都ブーンディーに対してちょっと不安がよぎった。そこから上り坂となり、山の中腹を巡っていくと、次第に向かい側の山に巨大な城が見えてくる。そしてその城下には古風な街並みが広がっていた。なんと美しい町だろう!早速オートリクシャーに停まってもらって写真を撮った。ブーンディーは、ジャイプル、ジョードプル、ジャイサルメールにも劣らない中世の街並みを残した小さな町だった。
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ブーンディーの街並み |
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ブーンディーでは、ハヴェーリー・ブラジ・ブーシャンジーという古いハヴェーリー(邸宅)を改造したホテルに宿泊した。このホテルは建物の内面や部屋の壁一面に細密画風の絵が描かれており、貴重なアンティークのコレクションが至る所に飾られていた。部屋は400ルピーからあるが、一番安い部屋は既に埋まっていたため、750ルピーのスタンダード・ルームに宿泊した。部屋はそれほど広くないが、部屋の装飾は絶品。1階にお土産屋兼骨董品屋があり、なかなか貴重な品物を売っていた。何より、このホテルの従業員は、インドでは珍しく接客業の何たるかを心得ており、非常に親切かつ紳士だった。夕食はラージャスターンの純菜食家庭料理ターリーで300ルピー。ブーンディーには他にもハヴェーリーを改造したホテルが多くある。
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ハヴェーリー・ブラジ・ブーシャンジー2階 |
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山間の小国ブーンディーはラージャスターンの他の都市と比べたらメジャーなツーリスト・スポットではない。しかしながらその魅力は他の古都と比べて見劣りせず、メジャーな観光地ではないがゆえにこの街は大いなる魅力を秘めている。人々は親切かつ好奇心旺盛で、街並みや市場は中世の趣きを残していて歩くのが楽しい。間違いなくブーンディーはラージャスターン州の穴場的観光地である。
今日は朝からブーンディーの街を見下ろす宮殿を訪れた。この宮殿は1580年に建造が開始されたとされている。入場料は外国人50ルピー、インド人10ルピー、カメラ料20ルピー。例によってインド人料金で入ることができた。宮殿の門をくぐるとすぐそばにロイヤル・リトリートというホテルがあり、そこからあまり整備されていない石畳の坂を上って行った。宮殿には2ヶ所入り口があり、まず見えてくるのは二頭の象が上部で来客を迎えるハーティー・ポール(象の門)。そこにいた両手の指がないおじさんが中を案内してくれた。宮殿は空っぽで、保存状態も最良ではないが、この宮殿の大きな見所は、各所に残っている細密画風壁画の数々。これほどのレベルの壁画が残っているとは思っても見なかったので驚いた。シュリーナートジーやクリシュナに関する絵が多かったが、ラーム、シヴァ、ヴィシュヌ、ティルパティなどヒンドゥー教の神様や、マハーラージャーの肖像画などがあった。上の階にあるバーダル・マハル(雲の宮殿)にはジャーンスィーのラーニーの絵もあったので、これらの壁画は19世紀中頃以降に描かれたものが多いのではないかと思う。奥にはザナーナー(女性用の居住区)もあり、大きなブランコの支柱が残っていた。
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