スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2007年6月

装飾下

目次
映評■1日(金)Fool N Final
演評■2日(土)Maulana Azad
分析■3日(日)デリーのバスによくいる人々
分析■5日(火)留保制度闘争
映評■12日(火)Dharm
▼キンナウル・スピティ周回ツーリング
旅行■13日(水)序章:シムラー
旅行■14日(木)リコン・ピオとカルパー
旅行■15日(金)高山病
旅行■16日(土)辺境の「世界遺産」タボ
旅行■17日(日)ダンカル・ゴンパとカザ
旅行■18日(月)キ・ゴンパ
旅行■19日(火)クンザム峠越え
旅行■20日(水)マナーリー、ナッガル、ヴァシシュト
旅行■21日(木)マナーリー~デリー12時間走破
映評■27日(水)Jhoom Barabar Jhoom
映評■28日(木)Sivaji - The Boss


6月1日(金) Fool N Final

 先週公開された「Shootout At Lokhandwala」に続き、またもオールスターキャストの映画が。本日より公開の新作ヒンディー語映画「Fool N Final」である。予告編に有名ボクサー、マイク・タイソンが出演したことも話題を呼んでいる。



題名:Fool N Final
読み:フールン・ファイナル
意味:?
邦題:ブールン・ファイナル

監督:アハマド・カーン
制作:フィーローズ・ナーディヤードワーラー
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー
作詞:サミール
出演:サニー・デーオール、オーム・プリー、シャルミラー・タゴール、シャーヒド・カプール、アーイシャー・ターキヤー、パレーシュ・ラーワル、ヴィジャイ・ラーズ、ヴィヴェーク・オベロイ、アルバーズ・カーン、ジャッキー・シュロフ、チャンキー・パーンデー、サミーラー・レッディー、ザーキル・フサイン、ジョニー・リーヴァル、グルシャン・グローヴァー、ラーザック・カーン、スレーシュ・メーナン、アスラーニー、マイク・タイソン(特別出演)など
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、シャーヒド・カプール、アーイシャー・ターキヤー、パレーシュ・ラーワル、ジョニー・リーヴァル、サミーラー・レッディー、サニー・デーオール、ヴィヴェーク・オベロイ、アルバーズ・カーン、ジャッキー・シュロフ

あらすじ
 インドのダイヤモンド会社から貴重なダイヤモンドが盗まれた。実行犯はロッキー(チャンキー・パーンデー)で、彼はロンドンを拠点とするマフィア、チャウクスィー(グルシャン・グローヴァー)の下で働いていた。チャウクスィーはロッキーに、ドバイへ行って、兄弟のラールワーニー(アスラーニー)にダイヤモンドを引き渡すよう指示する。

 ドバイでジャンクショップを経営するチャウベー(パレーシュ・ラーワル)は、ドバイの武器商人、モスコ・チクナー(アルバーズ・カーン)から借りた金を返せなくて危険にさらされていた。チャウベーは、姪のティナ(アーイシャー・ターキヤー)、ティナに惚れている青年ラージャー(シャーヒド・カプール)と共に泥棒をして金を稼いでいた。だが、ラージャーにはここ2年ほど、別の収入があった。

 怪力男のムンナー(サニー・デーオール)は、ドバイのインド人居住区に、兄(オーム・プリー)と兄嫁(シャルミラー・タゴール)と共に住み、ガレージを経営していた。2年前、兄嫁と息子のラーフルは交通事故に遭い、ラーフルは死んでしまった。だが、重傷だった兄嫁に真実を話すことが出来なかった兄とムンナーは、道端で偶然出会ったラーフルそっくりのラージャーをラーフルに仕立て上げた。ラージャーは定期的にラーフルになってムンナーの家へ行き、その代金を稼いでいた。

 ラッキー(ヴィヴェーク・オベロイ)とボブ(スレーシュ・メーナン)は、ゲームセンターを経営していたが、ドバイのアンダーワールドのドン、JD(シャーヒド・フサイン)のために、ギャンブルファイトの戦士を探す仕事もしていた。ラッキーらは適任の戦士を見つけ出すが、ひょんなことから彼はムンナーに一撃の下に大怪我を負わされてしまう。JDに脅迫されたラッキーは、代わりにムンナーにファイトへの出場を頼み込む。また、JDはインドから女の子を連れて来てダンスバーで働かせる事業も行っていた。今回、パーヤル(サミーラー・レッディー)という美人を連れて来ることに成功したが、パーヤルは隙を見て逃げ出してしまった。JDはパーヤルを捜索していた。だが、パーヤルは実は偶然ムンナーらに助けられ、彼の家に居候していた。

 ドバイに到着したロッキーは、銃マニアだったため、まずはモスコのところへ行った。モスコはロッキーに、その日の夜に行われるギャンブルファイトでの儲け話を持ち出し、ロッキーも承諾する。その後、ロッキーはラールワーニーのところへ行くが、まだダイヤモンドは渡さなかった。彼はダイヤモンドを大事にスーツケースに入れていた。

 一方、モスコはチャウベーのジャンクショップを訪れ、借金の代わりにある仕事をすることを提案する。それは、ギャンブルファイトの会場でロッキーを誘拐し、彼が持っているスーツケースを奪うことであった。ラージャー、ティナ、チャウベーは、怪しいドライバー、パットゥー(ジョニー・リーヴァル)と共に会場の外で待ち伏せする。彼らは、ロッキーのことを心配してロンドンからドバイへやって来たチャウクスィーを殴って気絶させてしまったり、やぶれかぶれになってギャンブル場で強盗をしようとして危うく捕まりそうになるが、何とかロッキーを誘拐することに成功する。モスコはロッキーを射殺し、ダイヤモンドを持ち去る。JDやチャウクスィーもダイヤモンドを追うが、騒動の末、結局ダイヤモンドはチャウベーの飼っていた犬が食べてしまう。

 一方、JDは次のギャンブルファイトで、ムンナーにわざと負けることを強要していた。ラッキーやムンナーを脅迫するため、JDは部下に、ラッキーのゲームセンターや、ムンナーの住む居住区を破壊させる。とうとうムンナーは同意する。ムンナーは屈強な戦士たちに殴られるままとなった。一方、JDの部下は、JDが捜索していたパーヤルをムンナーの家で見つける。ムンナーがパーヤルを匿っていたことを知ったJDは、ムンナーの近所一帯を焼き討ちにすることを命令する。だが、そこにラージャーが駆けつけ、ムンナーの居住区を救う。もはや恐れるもののなくなったムンナーは反撃を開始し、JDが送り込んだ戦士たちを次々に打ち負かす。そして最後にはJDをも海に突き落とす。

 こうして一件落着となり、ムンナーはパーヤルと、ラージャーはティナと結婚することになった。また、ダイヤモンドを食べた犬はラッキーに預けられた。

 サニー・デーオール、シャーヒド・カプール、ヴィヴェーク・オベロイなどのヒーロー男優に加え、パレーシュ・ラーワル、ジョニー・リーヴァルなどのコメディー俳優も総出演しており、かなり豪華なキャストであった。コメディー部分は爆笑に次ぐ爆笑で、シャーヒド・カプールのアクロバティックなサイクリング・シーンも見事であったし、サニー・デーオールの無敵っぷりも心地よかった。だが、全体的にまとまりに欠ける映画で、一言で言うなら「期待外れ」であった。

 ボリウッドのコメディー映画では最近、大量の登場人物が織り成すハチャメチャなストーリーが流行している。共に「ボリウッドのコメディーの帝王」の称号を持つプリヤダルシャンやデーヴィッド・ダワンの作るコメディー映画などは正にその典型例である。基本的にコメディーであるので、観客は細かいことを気にせずに楽しめばいいのだが、いざあらすじをまとめようとすると、2~3時間の上映時間の間にあまりにいろいろなキャラがいろいろなことをするので、頭がこんがらがって細かい筋がよく思い出せないことがある。脚本が優れていれば、いかにハチャメチャな展開でも映画を見た後は割と筋が頭に残っているものだが、「Fool N Final」に関しては後に残るものがなかった。豪華キャストの割にはチープな映画だった。コメディーとしては合格だが、映画としては失格だと言える。

 コメディー部分はパレーシュ・ラーワルとジョニー・リーヴァルのおかげで最高の出来だ。大爆笑できるシーンが目白押しである。後者は最近映画への出演機会が減っているが、まだまだボリウッドで最も笑えるコメディアンだ。チャンキー・パーンデーやアスラーニーも面白い脇役俳優である。前半でシャーヒド・カプールが見せるサイクリング・テクニック(おそらくスタントではないだろう)はスピード感があって良かった。アーイシャー・ターキヤーとのコンビも、2人とも若々しくてよく似合っていた。サニー・デーオールのキャスティングは一見異色に見えるが、うまく映画に溶け込めていたと思う。ヴィヴェーク・オベロイも悪くなかった。

 最もミスキャスティングだったのはアルバーズ・カーンであろう。きっと根が善人なのだと思うが、今回彼が演じた悪役は全く似合っていなかった。「Shootout At Lokhandwala」での真摯な警官役は良かったのだが。サミーラー・レッディーもほとんど出番なしでなぜ出演したのかよく分からない。ジャッキー・シュロフは最近変な役しかもらえなくなっており、可哀想だ。あと、マイク・タイソンが映画のプロモに出演していたが、本編では特に出ていなかったと思う。

 シーンとシーンの変わり目はコミックのような効果が施してあり、ポップな雰囲気を醸し出していた。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。最後のクレジットシーンで流れる「FNF Masti (Remix)」は秀逸。ほぼフルキャストによるダンスナンバーとなっている。シャーヒド・カプールとアーイシャー・ターキヤーが踊る「Tere Layee」もポップなナンバーだ。

 「Fool N Final」は、部分部分では爆笑だが全体的なまとまりに欠けるコメディー映画であった。コメディー映画が好きなら見ても損はないが、それ以外の人にオススメできる映画ではない。

6月2日(土) Maulana Azad

 今日は、ローディー・ロードのアリアンス・フランセーズで上演された演劇「Maulana Azad」を観に行った。主催は劇団ピエロ、監督はサイード・アーラム、出演は「アメリカ系インド人」のトム・アルターのみ。いわゆるモノローグ劇で、既に国内外で50回以上上演された人気演劇である。


マウラーナー・アーザードに扮するトム・アルター

 マウラーナー・アーザード(1888-1958)は、インド独立運動で重要な役割を果たした学者、文学者、ジャーナリストである。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融和を最重視し、ジンナー率いるムスリム連盟や印パ分離独立に最後まで反対したイスラーム教徒で、分離独立後もインドに留まり、独立インドの初代教育大臣を務めた。演劇「Maulana Azad」は、晩年に彼が著した「India Wins Freedom」の執筆過程が演劇になっており、トム・アルター演じるマウラーナー・アーザードが、友人で口授者のフマーユーン・カビール(舞台上には登場しない)に、興味深い雑談を交えながら、独立運動の裏舞台を語る内容となっている。マハートマー・ガーンディー、ジャワーハルラール・ネルー、ヴァッラブバーイー・パテール、ムハンマド・アリー・ジンナー、ロード・マウントバッテンなど、有名な独立運動家や英国人の名前もたくさん登場し、ある程度インド近代史の知識がないと付いていくのは難しいだろう。

 また、「Maulana Azad」はウルドゥー語劇となっている。アラビア語、ペルシア語、ウルドゥー語の学者であったアーザードの教養を反映するように、台詞には難解なウルドゥー語彙が多用される。さらに、幕間にはウルドゥー語の詩も朗読されるため、モノローグ劇ながら、非常に高尚な内容の演劇となっている。

 とは言え、難解な題材と台詞が演劇としての面白味を損なわないようにいろいろ工夫がなされていた。例えば、アーザードの語る話は度々横道に逸れ、ジャスミン・ティーの話になったり、詩人ガーリブの話になったり、妻との最期の別れの話になったりした。また、トム・アルターの演技は、アーザードを、一国の大臣というハイステータスの人間ではなく、かと言って気難しい学者ではなく、むしろ一人の愛すべき人間として肉付けすることに成功しており、それが演劇を優れたものとしていた。

 演劇のメッセージは、ヒンドゥーとムスリムの融和である。アーザードの、「あのとき分離独立するよりも、10年後の今(演劇の時間軸は独立から10年後)、ひとつのインドとして独立した方がどんなに良かったか」という言葉が印象に残った。そして、印パ分離独立の責任は、ジンナーだけでなく、国民会議派の政治家だけでなく、皆にあると主張していた。

 トム・アルターは少し特殊な背景を持った俳優である。彼は米国系だが、国籍はインドのようだ。彼の両親はインドで布教活動をする宣教師で、その関係でトムは1950年に現ウッタラーカンド州の有名な避暑地マスーリーで生まれた。子供の頃からヒンディー語とウルドゥー語を学んで来たため、白人ながら完璧なヒンディー語とウルドゥー語を話す。聖書も英語ではなくウルドゥー語の翻訳で読んだと言うつわものである。演劇「Maulana Azad」でも、得意のウルドゥー語を駆使して、アーザードのしゃべる、高尚でかつお茶目なしゃべり方を再現していた。

 演劇は2時間半ほど。「Maulana Azad」は、6月16日にも同じアリアンス・フランセーズで上演される。

6月3日(日) デリーのバスによくいる人々

 5月31日付けのヒンディー語新聞ヒンドゥスターンのサプリメント、メトロ・リミックスに、デリーのバスによくいる人々を風刺した記事が掲載されていて面白かったので、翻訳して転載しようと思う。

■オー、バンダルー(猿) ओ बंदरू

 「ポール・コール」(人間とアニメの猿が政治風刺をする人気TV番組)のバンダルー(猿の名前)のことではない。バスのバンダルーだ。彼らの手足の柔軟性は、猿の数段上を行っている。遠くにバスが見えたら、彼らはバススタンドでウォームアップを始める。そしてバスが到着するや否や、手でこちらの人を殴り、足であちらの人を蹴飛ばし、急いでバスに乗り込む。彼らの本当の目的は、他人を押しのけて空席を奪い取ることだ。この猿たちにとって、バスはビスケットのようなものだ。他人がたとえ落っこちようと、罵声を浴びせようと、彼らにとって、ビスケットを味わうこと、つまり座席に座って休むことの方が重要だ。

■シェークチッリー(ほら吹き男) शेखचिल्ली

 友人は誰も彼らの話を聞こうとしないから、バスは彼らにとってほら吹き話をするのに一番最適の場となっている。彼らの武器は携帯電話である。この武器を使って、彼らはあれやこれや弾丸を撃ち出す。「200万ルピーの小切手を送れ」「オレのフォードが故障しちまった、だからバスに乗らなきゃいけなくなった」「アベー、ヤール、今さっき5000ルピーの靴を買ったところだ、あと2足買おうかと思ってる」「某大臣はオレの親友だ」「オレは夕食は5つ星でしかしない」などなど。このシェークチッリーたちは大声で話すものだから、周囲の人々は遂に怒り出す。そして他人の怒った様子を見て、彼らは成功したと確信するのである。

■ガンデーレー(不潔男) गंदेले

 バスに乗った途端に悪臭を感じたら、バスにガンデーラーが乗ってるものだと思った方がいい。彼らにとってバスはゴミ箱のようなものだ。自分自身、何ヶ月も風呂に入っていないような外見な上、口はグトカー(噛みタバコの一種)で一杯である。そして2分ごとに窓の外やバスの床に唾を吐き出す。だからバスが通った道やバスの中は赤くなってしまう。まるで自分の印を残して行っているかのようである。

■ララーケー(争い好き) लड़ाके

 彼らの手は常に痒みに震えており、舌はムラムラと波打っている。バスは、それを解消するための絶好の場所だ。彼らはわざとレディースシートに座り込む。そして誰かが来て「レディースシート」と言おうものなら、舌のムラムラを解消するチャンスが転がり込んで来たようなものだ。訳の分からないことを話し出す。口論で負けたとしても、彼らにとっては勝利である。もし誰かがこのララーケーにぶつかりでもしたら、取っ組み合いの喧嘩にでもなるかのような口の利き方をする。そして多くの場合、実際に殴り合いの蹴り合いが始まる。こうして彼らは自分の手の痒みを解消しているのである。もし誰かが誰かを困らせていたりしたら、何の努力もせずに獲物が手に入ったようなものである。そこへ飢えたオオカミのように飛んで行く。このララーケーは、そのようなアクションとスリルが大好きなのだ。

■サマージセーヴィー(社会奉仕家) समाजसेवी

 美しい女の子や女性を目にした途端、サマージセーヴィーは憑りつかれたようになる。女性を見るや否や立って席を譲る。そしてその席のそばに立って口説き始める。別のタイプのサマージセーヴィーもいる。席を求められてもいないのに、ちょっと体をずらして、近くの人に「ほら、座りな」と言う。もし誰かがその誘いに乗って座ろうものなら、それによって得られる接触を享受し、運賃を払った甲斐があったと自己満足するのである。このサマージセーヴィーの行動は本当に大したものだ!

■ジュガールー(ずる賢い人) जुगाड़ू

 これはずる賢い頭脳を持っており、捕まってもすぐに逃げおおせるタイプの人々だ。常に背広を着用してバスに乗り込んで来る。そして10ルピーの切符の代わりに2ルピーの切符を買う。車掌に聞かれると、「私はあそこで降りる予定だった。どうして教えてくれなかったんだ」などと言い訳を言い、自分の目的地まで辿り着く。彼らの話し方は非常に慎み深い。彼らはバスを乗り換え乗り換え移動する。ジュガールたちは、いろんなことから利益を作り出すことに長けている。

■ナシェーリー・バーイー(能天気な兄ちゃん) नशेड़ी भाई खिसके

 8時になった後、彼らは車掌の真似事をするために家を出る。窓から上半身を乗り出し、窓を叩いて叫ぶ。「トリロークプリー!ジャナクプリー!」もしバスが停車しているときに誰かが「このバスはあそこへ行くか」などと訪ねたら、彼らは「ああ、行く行く」と答えてバスに座らせる。そのバスがどこへ行こうともお構いなしだ。バスが動き出すと、彼らは周囲の人々の話に耳を傾ける。そして聞かれてもいないのにその話に割り込み、自分の意見を偉そうに聞かせる。もし彼らの行動を受け容れられない人がいたら、罵詈雑言の応酬まで話が進展する。だが、全ての苦痛から解脱したナシェーリー・バーイーたちは、殴られた後でも歌を歌うことが出来る。最近彼らの間では、「アーシク・バナーヤー・アーシク・バナーヤー・アープネ(あなたは私を恋に狂わせた;ボリウッドのヒット曲)」が流行しているようだ。

■スタッフ・ハェ(スタッフもどき) स्टाफ है

 「スタッフだ」この一言はオールマイティーだ。それを聞いた後、バスの車掌は切符を買わせようとしない。もし若者だったら、「大学のスタッフだ」、女性だったら、「DTC(デリー交通局)のスタッフよ」、男性だったら、「デリー警察のスタッフだ」。「家のスタッフだ」なんてことを言って無料乗車をする者もいるらしい。そしてもしIDカードを求められたら、「カードを見せろってか?言っただけで十分だろ(अब तू देखेगा कार्ड, बोल दिया न)」と答えるのである。

■プレーム・プジャーリー(愛の信奉者) प्रेम पुजारी

 一度バスが愛の舞台として映り始めたならば、彼らにとって世界中のレストランや公園は物足りないものとなる。彼らは、ガールフレンドの肩に偉そうに手を置いて座る。まるで手を離した途端に彼女がどこかへ飛んで行ってしまうかのように。もしバスの中でロマンチックな歌でも流れ出したら、もうその先は聞かないで欲しい。その歌のヒーローは彼、そしてヒロインはその隣に座っている彼女になってしまう。そして無料の映画上映が始まるのだ。

■カルチャー・バチャーウー(倹約家) खर्चा बचाऊ

 彼らは、3000ルピーのジーンズを買っておきながら、バスの中で2ルピーのために戦う倹約家である。7ルピーの切符を5ルピーにする方法を彼らは熟知している。もし車掌が争うムードになかったら5ルピーの切符を渡す。だが、車掌の方が一枚上手だったら、7ルピーの距離を行くのに10ルピーの切符を買って丸く収める。しかし、このカルチャー・バチャーウーは「お前じゃなかったら運賃は違った」と捨てゼリフを吐くのを忘れない。

6月5日(火) 保留制度闘争

 5月末にラージャスターン州で発生した保留制度を巡る州政府vsグッジャルの摩擦は、やがてミーナーvsグッジャルのコミュニティー闘争へ発展した。その火の粉は首都にも飛び火し、6月4日にはデリー・バンド(デリーでのゼネスト)の形でピークを迎え、沈静化した。その際、デリーはグッジャルによって外部との接続ルート(鉄道と幹線道路)を数時間に渡って遮断された。デリーでは毎日のように何らかの抗議運動がジャンタル・マンタル近辺で行われているが、このような大規模なプロテストは近年見たことがない。一見、グッジャルとミーナーのカースト闘争のように見えるが、その裏には「第三のカースト」ジャートが見え隠れするのも面白い。つまり、グッジャル、ミーナー、ジャートの三つ巴の様相となっている。携帯電話やインターネットの普及が、今回のようなコミュニティー間対立の迅速な拡大に大きな役割を果たすようになったことも興味深い。そして、今年はインド大反乱の150周年記念の年に当たるが、グッジャルの闘争とスィパーヒーの反乱は、デリー近辺で発生した反乱の火種がデリーへ向かう点で何となく似ていた。そもそも、グッジャルはインド大反乱で大きな役割を果たしたコミュニティーのひとつである。と言うわけで、一応沈静の兆しが見えて来た今回の事件を少し掘り下げてみたいと思う。

 まず、インドには保留制度というものがある。いろいろな要因で立場の弱い人々の地位向上を目的としたもので、該当する人々は大学入学時や公共セクターへの就職時に恩恵を被ることができる。いくつかのタイプの恩恵があるが、一般的に保留制度と呼ばれているのは、それらの人々のための枠があらかじめ保留されている保留枠のことである。だから、保留枠の恩恵を享受できる人々は、入学や就職の際の競争や選考が容易になる。保留枠には身体障害者枠や女性枠のようなものもあるが、最も一般的で最も問題になりやすいのが、コミュニティー(カースト)を基準にした保留枠である。コミュニティー別の保留枠は、指定カースト(SC)、指定部族(ST)、その他の後進階級(OBC)に分かれている。SCはいわゆる不可触民と呼ばれていた人々で、STはいわゆる「アーディワースィー」と呼ばれる原住民または部族である。OBCは不可触民ではないけれども、社会的に立ち遅れた状況にある人々のことを指す。特定のコミュニティーがどのカテゴリーに分類されるかは、州によって違うこともある。ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)では現在、SCのために15%、STのために7.5%、身体障害者(PH)のために3%の保留枠が用意されている。また、OBCの学生は、入試の点数に5点が追加される。

 グッジャルまたはグルジャルとは、インド亜大陸北西部に広く分布するコミュニティーの名前である。その起源は不明だが、中央アジアからやって来たとする説が有力で、一説によると黒海東部にある国家グルジアの国名とグッジャルは関連があるらしい。グジャラートの名前もグッジャルから来ている。インドの中世史~近代史を見てみると、グッジャルは野蛮な原住民か盗賊のような扱いを受けていることが多い。例えば、ニザームッディーン・アウリヤーは、ギヤースッディーン・トゥグラクが建造した新首都トゥグラカーバードに「Yā base gujjar, yā rahe ujjar(グッジャルの住処となるか、廃墟となるように)」と言う有名な呪いを掛けた。インド大反乱時、メーラトで反旗を翻したスィパーヒーと共にグッジャルもデリーに雪崩れ込み、最後の繁栄を見せていたシャージャハーナーバード(現在のオールド・デリー)を無茶苦茶にすると同時に、キリスト教徒の大量虐殺を行った。またその際、デリーから逃げる英国人や、後に情勢が逆転した後、デリーから逃げるインド人たちを郊外で待ち受け、身ぐるみを剥いだり殺したりしたのもグッジャルである。そのようなこともあってか、英領インド時代、グッジャルは英国人によって「犯罪者カースト」のレッテルを貼られた。宗教はヒンドゥー教またはイスラーム教である。現在、ラージャスターン州ではグッジャルはOBCに分類されている。州内での人口比率は5%ほどである。

 ミーナーも英領インド時代に「犯罪者カースト」に指定された部族のひとつである。やはり起源は中央アジアと言われる。ミーナーは元々はラージャスターン地方の支配者階級であり、ジャイプル郊外にある有名観光地アーメール(アンベール)城も元々ミーナーによって築かれたものだったが、台頭して来たラージプートに押されて支配権を奪われ、野に下った。中には生活のために盗賊を生業とする者も出て来た。英国人はラージプートの王朝と友好を保ったため、英領インド時代にラージプートの天敵であるミーナーの地位はさらに落ちた。こうしてミーナーは「犯罪者カースト」を代表するカーストとなった。ミーナーの人々はミーナー姓を名乗っていることが多く、すぐに分かる。ちなみに、ラージャスターン地方にはビールと言う部族も多く分布するが、歴史的過程の中で呼称が変わっただけで、ミーナーと起源は別ではないようだ。ただ、ミーナーはインド独立後に最も地位向上に成功したコミュニティーともなった。STにカテゴライズされたミーナーは、保留制度を最大限に活用して教育に力を入れ、警察幹部や上級官僚になる者も少なくなかった。僕の周囲でもミーナー姓を持つ人の出世のスピードは段違いである。元々優秀なのもあると思うが、やはりSTの恩恵は計り知れないようで、他の学生たちが苦労する中、在学中に簡単に大学教授職を手に入れたりしてしまっている。ラージャスターン州内でのミーナーの人口比率は10%である。

 ジャートはインド亜大陸北西部に分布する有力カーストのひとつで、元々は農耕民であったが、18世紀から弱体化したムガル朝支配に武器を持って対抗し、王国も形成したため、英領インド時代には「戦士種族」に分類され、兵隊として重宝された。やはり起源には諸説がある。宗教は様々で、ヒンドゥー教徒もいれば、イスラーム教徒もいるし、スィク教徒もいる。1999年にジャートはOBCに組み込まれたが、以来ラージャスターン州ではOBC枠の大半がジャートに占有されるようになった。例えばある年、州政府行政職の公募の内、85席がOBCに割り当てられていたが、その内の79席がジャートによって占有された。ジャートはラージャスターン州で大きな力を持っており、選挙においてはジャートを味方に付けた政党が勝利するとまで言われている。また、現在ラージャスターン州の州首相を務めるヴァスンダラー・ラージェーは、マラーター系のスィンディヤー王家の生まれながら、ジャートの王国であるドールプル王国のマハーラージャーに嫁いでおり、ジャートとの結び付きが強い。州内のジャートの人口比率は12~15%である。

 事の発端は2003年のラージャスターン州議会選挙の際、インド人民党(BJP)に属するヴァスンダラー・ラージェーが、グッジャルの分類をOBCからSTに変更することを公約として掲げたことである。ラージャスターン州では前述の通り、OBC枠はジャートに占有された形になっており、同じOBCのグッジャルは留保制度の恩恵を享受しにくい状況に置かれていた。一方、ST枠はほぼミーナーのみのための枠になっており、グッジャルがSTに変更されれば、状況の改善が期待された。よって、グッジャルはその公約を歓迎した。BJPは選挙に勝ち、ヴァスンダラー・ラージェー政権が確立した。ところが、ラージェー州首相はいつまで経ってもグッジャルの分類変更を実施しなかった。それを不服としてグッジャルのコミュニティーは抗議運動を行ったのだが、それに警察が発砲し、死者が出てしまった。グッジャルの間で死者は「殉死者」扱いとなり、この騒動は瞬く間にラージャスターン州全体に広がった。やがて州外のグッジャルも蜂起し、首都デリーの封鎖にまで至った。一方、ミーナーは、グッジャルがSTに分類されることで既得権力が失われるとして、グッジャルを牽制した。州政府内にはミーナーの官僚が多く、裏で州政府を動かしているとも言われているし、グッジャルに発砲したのはミーナーの警官だとの噂もある。

 グッジャルの抗議運動を率いたのは、グルジャル・アーラクシャン・サンガルシュ・サミティ(グルジャル留保闘争委員会)のキローリー・スィン・バインスラーである。デリー・バンドがあった日、バインスラーはラージェー州首相と会談した。州首相は、グッジャルの分類をSTに変更することを検討する委員会の設立を約束し、3ヶ月以内に報告書を提出することを義務付けた。これにより、バインスラーは抗議運動を撤回し、事態は一応の収束を見せた。だが、もしグッジャルの分類変更を認めれば、他のコミュニティーも同様の主張を行う可能性があるため、グッジャルの要求が簡単に通るとは思えない。しかも、1981年以降、ラージャスターン州でSTに新しく分類されたコミュニティーは皆無である。よって、まだ根本的な解決はなされていない。一部のグッジャルが、バインスラーが州首相から引き出した約束を「欺瞞だ」として真っ向から批判しており、グッジャル・コミュニティーの間の団結性に亀裂が入りつつあることも報告されている。

 当然のことながら、この「カースト戦争」の裏には政治が絡んでいる。グッジャルの抗議運動が最初に起こったのはラージャスターン州ダウサー県であるが、ダウサー選挙区から下院議員に当選したのは、国民会議派のサチン・パイロットだ。サチンは、グッジャル・コミュニティーを代表する有名政治家ラージェーシュ・パイロットの息子で、グッジャルの間で蓄積された不満を、ラージャスターン州のBJP政権転覆に利用しようとしたとしてもおかしくない。現にグッジャルの要求の中には、「混乱状態に陥ったラージャスターン州を大統領直轄地に」という極めて政治的なものも含まれていた。しかし、グッジャルの政治家もミーナーの政治家も、今回は政党の枠を越えてコミュニティー同士で団結しているように見え、政治的要素は少ないかもしれない。サチン・パイロットも表立って動いておらず、その動きの鈍さに批判が出ているほどだ。

 ラージャスターン州の紛争がデリーに飛び火した裏には、昨今の通信技術の発達も関係していそうだ。6月3日付けのヒンドゥスターン紙(つまり6月2日に書かれた新聞)には既に、6月4日のデリー・バンドを予兆する記事が掲載されていた。その記事には、「ここ数日間、SMS(携帯メール)がデリー近郊のグッジャルたちを扇動している」と書かれていた。「ラージャスターンでは20人のグッジャルが殉死した。デリーのグッジャルはこのまま黙っているつもりか?」「ラージャスターンで流れている血は水ではない、我らの強さを世界に見せるときが来た(राजस्थान में बहने वाला खून पानी नहीं, दुनिया क दिखाना है कि हमारा कोई सानी नहीं)。グッジャル万歳」「ラージャスターンの死体を見てどうして黙っているのだ、お前を守るのは誰だ(राजस्थान की लाशों पर क्यों हो मौन, आपकी रक्षा करेगा कौन)」「目覚めよ、グッジャルよ、目覚めよ」などと言った扇動的なSMSがグッジャルの間で急速に広まっていると言う(ヒンディー語で表記したのは詩形式になったメッセージ)。この出所不明のSMSが、グッジャルによるデリー・バンドの直接の原動力になった可能性が高い。インド大反乱の前、まるで反乱の合図を告げるかのように、インド人の間でチャパーティー(インド式パン)がものすごいスピードで手渡されていったというミステリアスな出来事が記録されているが、グッジャルのSMSはそれを思わせる。また、グッジャル・コミュニティーのウェブサイトやミーナー・コミュニティーのウェブサイトでもこの問題が取り沙汰され、議論を呼んでいた。最も白熱していたのは、インド人の間で人気のSNS、Orkutのグッジャルとミーナーのコミュニティーであった。インドの社会は元々コミュニティー間の脆弱な協調性の上に成り立っているが、一度それが崩壊したときの紛争拡大のスピードが、携帯電話やインターネットの普及によって数倍に早まっているように思える。

 よく言われることだが、真の解決は、留保制度の見直ししかないだろう。留保制度のおかげで、各コミュニティーが後進性を争い合うという変な状況になってしまっていると同時に、国民の統合性に深刻な障害が出ている。留保制度が政治家の票集めのための玩具だった時代は既に過ぎ去ったように見える。扱いを間違えれば、首都封鎖という大事にまで発展することが今回証明されたと言えよう。

6月12日(火) Dharm

 先週の金曜日から5本のヒンディー語映画が一気に封切られた。「The Train」、「Swami」、「Dharm」、「Red Swastik」、「Mera Pehla Pehal Pyaar」である。経験上、3本以上のヒンディー語映画が同時に公開されると、それらは全て駄作である可能性が高いことが分かっている。その週は何らかの理由から駄作のダンピング週間なのである。特に期待作公開予定週の前の週に封切られる映画は要注意だ。と思ってよく見てみると、今週の金曜日からはヤシュラージ・フィルムスの「Jhoom Barabar Jhoom」と、ラジニーカーント主演「Sivaji」という2大作の公開が控えている。これだけの要素が揃えば、6月8日公開の5作品の総駄作が決定したようなものである。しかし、新聞のレビューでは「Dharm」の評価が高く、この映画だけは見てみようと思った。



題名:Dharm
読み:ダルム
意味:宗教、義務
邦題:ダルマ

監督:バーヴナー・タルワール
制作:シータル・V・タルワール
音楽:デーバジョーティ・ミシュラ
作詞:ヴァルン・ガウタム、ヴィバー・スィン
出演:パンカジ・カプール、クリシュ・パレーク、スプリヤー・パータク・カプール、KKラーイナー、パンカジ・トリパーティー、ダヤーシャンカル・パーンデー、リシター・バット
備考:サティヤム・ネルー・プレイスで鑑賞。

パンカジ・カプール

あらすじ
 パンディト・チャトウルヴェーディー(パンカジ・カプール)は、ヴァーラーナスィーで最も尊敬を集めるブラーフマンであった。彼は毎日の務めを決して怠らず、ダルマ(宗教義務)に則った生活を送っていた。

 ある日、娘が男の子の赤ん坊を家に連れて来る。ある女性から預かったのだが、その女性が戻って来ず、仕方なく家に連れて来たのだった。妻のパールワティー(スプリヤー・パータク・カプール)は男の子を渇望しており、これを神様の贈り物だと考える。だが、どのカーストの子供か分からないため、チャトゥルヴェーディーはその子に触ろうともしなかった。警察に届出を出し、赤ん坊を探している母親はいないか聞いてみたが、手掛かりは掴めなかった。妻の説得もあり、チャトゥルヴェーディーは男の子を養子にすることに決める。名前はカールティケーヤと名付けた。

 頑固なチャトゥルヴェーディーもカールティケーヤの世話をする内に父性愛に目覚めて行く。今や彼は目に入れても痛くないほどカールティケーヤをかわいがるようになった。ところがある日、チャトゥルヴェーディーの家にカールティケーヤの母親が訪ねて来る。母親の姿を見たチャトゥルヴェーディーが愕然とする。なんとムスリムだったのである。カールティケーヤは母親に連れて行かれてしまう。

 ムスリムの子供を養子にしたことにより、チャトゥルヴェーディーのダルマは穢れてしまった。チャトゥルヴェーディーはシュッディーカラン(浄化)とプラーヤシュチト(禊)をするため、マウン・ヴラト(沈黙の行)に入る。だが、彼の頭の中にはどうしてもカールティケーヤのことが思い出されて来てしまう。それを振り払うため、最も困難と言われる行、チャンドラーヤン・ヴラトを始める。そして遂にカールティケーヤへの愛情を捨て去る。

 その頃、ヴァーラーナスィー近辺ではヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間の衝突が度々発生していた。暴動の中、カールティケーヤの母親は死んでしまい、チャトゥルヴェーディーの家に再びカールティケーヤが戻って来る。だが、チャトゥルヴェーディーも妻も彼を家の中に入れようとしなかった。

 苦悩したチャトゥルヴェーディーは、カールティケーヤを探しに、暴動によって壊滅状態となったイスラーム教徒の居住区を徘徊する。彼はやっとカールティケーヤを見つけるが、そこにヒンドゥー教過激派を率いたスーリヤプラカーシュが現れる。スーリヤプラカーシュはチャトゥルヴェーディーの檀家の息子で、弟子でもあった。チャトゥルヴェーディーはスーリヤプラカーシュに、「ダルマとは人道主義だ」と説く。その言葉に暴徒たちは戦意をなくす。チャトゥルヴェーディーはカールティケーヤを連れて家に帰る。

 編集に粗雑な点がいくつか散見されたが、テーマが明確で、非常にパワフルな映画であった。聖地ヴァーラーナスィーの雰囲気がよく再現されており、口数少ないパンカジ・カプールの鬼気迫る演技が映画を迫力あるものにしていた。

 主人公チャトゥルヴェーディーは、ダルマを守り、ダルマを守らせることを自分のカルタヴャ(責務)としていた。シャーストラ(経典)に書いてあることのみが彼にとって真実であった。ガンガーでの沐浴を終えて家に帰る途中のチャトゥルヴェーディーを不可触民の掃き掃除人がうっかり触れてしまうと、彼はガンガーに引き返して再び沐浴をする。その際、掃除人は周囲の人々からリンチに遭うが、チャトゥルヴェーディーは止めようとしない。見かねたサードゥがチャトゥルヴェーディーに、スィク教の聖典グル・グラント・サーヒブの一節を聞かせ、人は皆平等だと諌める。

Awal Allah Noor Upaya
Qudrat Ke Sab Bande
Ek Noor Sab Sat Upgaya
Kaun Bhale Kaun Mande

まず神があり、そして光が発せられた
人類は皆、神の創造物である
ひとつの光によって全世界が誕生した
誰が偉く、誰が卑しいなどということがあろうか?

だが、チャトゥルヴェーディーは聞く耳を持たない。そんなチャトゥルヴェーディーの人生の転機となったのが、カールティケーヤであった。ある日、母親が行方不明になってしまった男の赤ん坊を、娘が家に連れて来る。どのカーストの子供か分からない赤ん坊を引き取ることにチャトゥルヴェーディーは反対だったが、男の子が欲しかった妻は、「ブラーフマンの子供だ」と嘘を付き、その子を養子にするように説得する。チャトゥルヴェーディーも次第に父性愛に目覚め、いつの間にか片時も傍から離れさせないほど溺愛するようになった。だが、ある日突然母親が現れる。最悪なことに、母親はブラーフマンではなく、なんとムスリムであった。敬虔なブラーフマンは、家の中にイスラーム教徒を上がらせることもしない。家が穢れるからである。そのイスラーム教徒の子供を養子にして数年間育ててしまった。ショックを受けたチャトゥルヴェーディーは、穢れを浄化するため、そしてカールティケーヤへの愛情を捨て去るため、その日から厳しい修行生活に入る。どうしてもカールティケーヤのことが忘れられないチャトゥルヴェーディーは、最も困難な行と言われるチャンドラーヤン・ヴラトを始める。月の満ち欠けに従って節食や断食を行う行で、みるみる内にチャトゥルヴェーディーはやつれて行ってしまった。だが、行が終わったときには彼はカールティケーヤを全く忘れることに成功した。

 ところが、皮肉なことに、そのときカールティケーヤが家に戻って来る。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の衝突により、母親が死んでしまったのである。だが、チャトゥルヴェーディーは不動のまま礼拝室から出ず、妻は家の戸や窓を閉め切って、カールティケーヤが入って来れないようにする。こうしてチャトゥルヴェーディーはダルマの危機を乗り切ったのであった。しかし、これが正しい行いだったのか?チャトゥルヴェーディーは再び葛藤に悩むようになり、解決を求めるため、シャーストラを読み漁る。そしてサードゥから言われた詩の一節を思い出す。

Awal Allah Noor Upaya
Qudrat Ke Sab Bande
Ek Noor Sab Sat Upgaya
Kaun Bhale Kaun Mande

 「ダルマこそ真実である」と日頃から唱えていたチャトゥルヴェーディーが最終的に行き着いたのは、「ダルマとは人道主義である」という結論であった。つまり、人の道を外れた行為は、宗教でも何でもない、ということだ。チャトゥルヴェーディーは暴動で廃墟となった町を駆け抜け、カールティケーヤを探し出して再び引き取る。

 映画の中では、チャトゥルヴェーディーの人道主義への目覚めと相対するように、若いヒンドゥー教徒の間で過激主義や排他主義が高まって行った。特に、妹が白人と結婚したことに屈辱を覚え、過激主義に走ったスーリヤプラカーシュがその旗頭であった。最後にチャトゥルヴェーディーとスーリヤプラカーシュは会いまみえるが、チャトゥルヴェーディーの迫力と真理の言葉の前に、スーリヤプラカーシュは成す術がなかった。ただし、映画のクライマックスとしては上出来であったが、若者が過激主義に走っていく過程はステレオタイプな切り口に過ぎず、分析が足りていなかったように思えた。

 また、ヴァーラーナスィーのガートの風景もよく再現されていた。サードゥが座っていたり、カメラを持った外国人観光客がうろついていたりと、現在のヴァーラーナスィーそのものであった。特にヴァーラーナスィーの「俗」の部分を描写しようとする努力が伺われた。チャトゥルヴェーディーの人望に嫉妬し、外国人観光客を相手にせこい金儲けをするパンディト(僧侶)、ダヤーシャンカルがその象徴であった。「Banaras」(2006年)というヴァーラーナスィーを舞台にした映画があったが、それよりも「Dharm」の方がヴァーラーナスィーの本当の雰囲気をよく再現できていたと思う。

 あくまで映画のメインテーマは宗教の盲従への批判や、コミュナル意識の無意味さであったが、少しだけヒンドゥー教の中での女性問題にも触れられていた。チャトゥルヴェーディーに師事してヒンドゥー教に関してリサーチをしていたジャーナリストのポールは、彼に「パティヴラト(夫の長寿を願って妻がする断食)」について質問する。それに対しチャトゥルヴェーディーは、「我々の社会では、夫のいない女性のステータスはない」と答える。その後、ポールはチャトゥルヴェーディーの檀家の娘マニ(リシター・バット)と結婚するが、コミュナル暴動に巻き込まれて殺されてしまう。未亡人となったマニは白衣をまとい、実家の片隅にひっそりと住むことになる。インドでは今年公開されたディーパー・メヘター監督の「Water」(2005年)でも描かれていた寡婦問題だが、「Dharm」では参照程度の扱いであった。

 「Dharm」の中心はあらゆる意味で間違いなくパンカジ・カプールである。言葉ではなく、体で物を語る彼の演技は、「Dharm」を一級品の映画に押し上げていた。チャトゥルヴェーディーが初めてカールティケーヤを抱き上げる瞬間の一気に紐が緩んだかのような笑顔や、突然カールティケーヤが戻って来たときの無表情の中の動揺など、さすがと唸らされるような演技が目白押しであった。妻パールワティーを演じたスプリヤー・パータク・カプールは、パンカジ・カプールの本当の妻である。ひたすら夫を気遣う彼女の演技も素晴らしかった。最近ボリウッドではとんと見かけなくなってしまったリシター・バットがマニを演じていたが、相変わらず覇気のない女優のままであった。

 ブラーフマンが主人公であることもあり、使用言語はサンスクリット語と、サンスクリット語から重度に語彙を借用したヒンディー語がほとんどである。ヒンディー語学習者にとって、理解は困難な部類に入るヒンディー語映画であろう。

 「Dharm」は、「宗教とは何か」という普遍的な問いをインドの文脈で答えた重厚な作品である。シーンとシーンのつなぎ目が雑だったり、セットがチャチだったりと、いくつか弱点はあるのだが、非常にパワフルな映画に仕上がっている。オススメの作品である。

6月13日(水) 序章:シムラー

 「夏は山、冬は砂漠」。インド旅行を楽しむ秘訣である。インドには無数の魅力的な場所があるが、首都デリーを出発点として考え、その深さと面白さと美しさを総合的に判断すると、西ヒマーラヤの大部分を占めるヒマーチャル・プラデーシュ州と、タール砂漠を抱擁するラージャスターン州が群を抜いている。ちょうどデリーはこれら2つの州に挟まれた形になっており、どちらにも容易にアクセスすることができる。両州ともいつ行ってもそれなりに魅力があるが、気候の快適さという観点から言ったら、前者を楽しむには夏、後者を楽しむには冬が最適な季節なのである。

 6月前半は所用があって、連日40度を越す酷暑のデリーに缶詰状態であったが、それも首尾よく完了し、現行のヴィザが切れる6月30日まで時間的余裕ができた。当然のことながら、心はヒマーラヤの方を向いた。かねがねバイクでラダック地方のレーまで行ってみたいと思っており、まず考えたのもそれであった。ヒマーチャル・プラデーシュ州の人気避暑地マナーリーが出発点となるレーへのツーリングは、標高5000m以上の峠をいくつも越える、全長475kmの地球上で最も困難なルートのひとつである。バイク乗りだったら一生に一度は挑戦しなければ浮かばれないと言っても過言ではないだろう。ただ、このルートは積雪によって夏の短い期間以外は閉ざされており、旅行を予定している6月中旬の時点でマナーリー北部のロータン峠(3978m)が開いているか怪しかった。ロンリー・プラネットにはロータン峠は普通7月にオープンすると書かれていた。また、レー~マナーリーをバイクで走破するルートは元々白人バックパッカーなどに人気だったのだが、最近ではインドでバイク熱が高まったおかげで、インド人の間でも急速にポピュラーとなって来ているとの噂を耳にした。今回は連れがおらず、単独ツーリングになる。そういう人気ルートを一人でツーリングしていると寂しさが増すような不安もあった。どうせならレー行きは複数の仲間と走破して達成感を共有したい。一方、今回は、ほとんど交通量がないような孤独なルートを孤独に走ってみたいとの漠然とした願望があった。

 そこで目を付けたのがキンナウル地方とスピティ地方を周回するルートである。キンナウル地方はシムラーの東側にある峡谷地帯で、その最東端はチベットに接している。1992年に外国人観光客に開放されたばかりの秘境であり、そのおかげで外部からの影響が最小限に抑えられ、古くからの独特の風習がよく残った地域となっている。宗教では、ヒンドゥー教とチベット仏教が混交されて信仰されているのが興味深い。ヒマーラヤ山脈が形成される前から山として海面に突き出ていたと言われる聖山キンナウル・カイラーシュ山(6050m)があるのもこのキンナウル地方である。一方、スピティ地方はマナーリーの東側に位置しており、やはりそのすぐ東隣はチベットになる。スピティではチベット仏教が主に信仰されている。チベットが中国政府の同化政策にさらされ、「インドの中のチベット」と呼ばれるラダック地方の観光汚染が急速に進む中、最もチベットらしさを残しているのがスピティだと言われている。このルートを通ると、シムラーからマナーリーへ迂回して回って行くことができる。まだマナーリー~レーほどポピュラーなツーリング・ルートにはなっていないだろう。また、聞くところによると途中の景色の美しさはこちらの方が上らしい。マナーリー~レーと共に、いつかバイクで走破してみたいと思っていたルートである。ただし、2つの問題があった。ひとつはやはり峠の開通の問題。クッルー谷にあるマナーリーと、スピティ谷の間には、主に2つの峠がある。ひとつは前述のロータン峠であり、もうひとつはラーハウル谷とスピティ谷を分けるクンザム峠(4551m)である。このどちらも開通していなければ、周回することはできない。一方、キンナウル方面からなら、ヒンドゥスターン・チベット・ハイウェイを通って一年中アクセスできるが、この辺りは土砂崩れ多発地帯となっている。最新版(2005年発行)のロンリー・プラネットには、「調査時には、マリンで起きた大規模な土砂崩れにより、道は閉鎖されていた。バスで通行する際は、土砂崩れ現場手前でバスを降り、徒歩で向こうまで渡って、そこで待っている別のバスに乗り換える必要がある」みたいなことが書かれており、バイクで通行できない可能性が高かった。これがもうひとつの問題である。ただ、調査時からは時間が経っているため、状況が改善されていることが期待された。何にしろ、現地へ行って情報収集するしかない。

 そこで、まずはヒマーチャル・プラデーシュ州の州都シムラーまで行って情報を収集してみることに決めた。もしヒンドゥスターン・チベット・ハイウェイ(HTH)とクンザム峠が通行できるなら、シムラーからキンナウル地方とスピティ地方を巡ってマナーリーまで抜ける。もしHTHが開通していてクンザム峠が閉ざされているなら、キンナウル地方からスピティ地方まで行って、来た道を再び引き返してシムラーまで戻って来る。もしHTHの通行が不可能なら、シムラー周辺やキンナウル地方を見て回る。これら3つのオプションを用意し、6月13日にデリーを発った。

 日中の暑さから少しでも逃れるため、午前4時にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)を出発。プラーナー・キラーとプラガティ・マイダーンの間を通り抜け、リングロードに出て北上し、フィーローズ・シャー・コートラー、ラージガート、ラール・キラーなどをかすめながら長距離バススタンド(ISBT)へ。まだ未明のため、交通量は少なく、スムーズに進むことが出来た。そこからさらにヤムナー河沿いに北へ向かい、メトカーフ・ハウス、マジュヌー・カ・ティッラー、チベッタン・コロニーを通りながらデリー北郊へ。いつの間にかこの辺りの道は広く快適な道に整備されていた。考えてみれば、デリーを北に出るのは久し振りだ。国道1号線(NH1)に進路を取り、北へ向かう。この時点で5時。デリーを1時間で抜けることが出来たことになる。日中なら1時間半以上はかかっていた。辺りは徐々に明るくなって来た。

 NH1は拡張工事の真っ最中で、いくつか不便な場所があった。だが、工事が完了した部分は片道3~4車線の立派な幹線道路となっていた。2003年に初めてデリー郊外へツーリングに出掛けたのもこのNH1方面であったが、そのときに比べ、格段に道はよくなっていた。午前6時に古戦場パーニーパトに到着。パーニーパトでは現在フライオーバーが建設中で道路が狭くなっており、抜けるのに時間がかかった。さらに午前7時にはピプリーに到着。ピプリーはマハーバーラタ戦争が行われたクルクシェートラの玄関口に当たる町である。第一回ツーリングではこのクルクシェートラが目的地であった。ピプリーにオアシスというちょっとした休憩所があるのが分かっていたので、そこに立ち寄って朝食を食べた。

 午前7時半にピプリーを出て、さらにNH1を北上する。ピプリーからはバイクで通るのは初めての道になる。非常にきれいな並木道が続き、快適な走行。午前8時15分にはアンバーラーを通過。英領インド時代、アンバーラーには英国軍の駐屯地があった。アンバーラーからNH1はぐぐっと西に曲がっており、パンジャーブ州のルディヤーナー、ジャーランダル、アムリトサル方面へ伸びている。だが、今回はそちらへは行かない。アンバーラーでNH1を降り、そのままチャンディーガル方面へ向けて北に伸びる国道21号線(NH21)に進んだ。・・・が、アンバーラーとチャンディーガルの間はごちゃごちゃとした道になっており、非常に迷いやすくなっている。今日の目的地はシムラーだったため、本当はチャンディーガルまで行ってはいけなかったのだが、微妙に迷ったおかげでチャンディーガルに着いてしまった。午前9時頃であった。チャンディーガルはパンジャーブ州とハリヤーナー州の州都という特殊な立場から連邦直轄地となっている、フランス人建築家ル・コルビュジェが設計した計画都市である。チャンディーガルに来てしまっては方向が違うので引き返し、シムラー方面への道標になるパンチクラーを目指した。この辺りは水はけが悪いのか水溜りが至る所に出来ており、まだ平地だというのに足やバイクが汚れてしまった。

 地元の人に道を尋ねつつ何とかシムラーへ通じる国道22号線(NH22)に出ることに成功し、そのまま北を目指した。午前10時にシムラーの麓にある町カルカーに出た。カルカーからはシムラー行きのトイトレインに乗ることが出来、観光客に人気だ。だが、僕はバイクでシムラーを目指す。カルカーからは急に坂道となり、いよいよ登山が始まる。とりあえず気温が上がり始める時間に標高を上げ始めることに成功した。カルカーからシムラーまではほとんど一本道だが、所々分かれ道があり、道の確認を慎重に行いつつシムラーを目指した。途中、ダラムプルというところでマクドナルドやカフェ・コーヒーデーが並んでいるのを発見。シムラーに入る前に体勢を整えようと、カフェ・コーヒーデーでコーヒーを飲んだ。まだ朝早かったためか、コーヒーデーには全く客がいなかった。

 午後1時にシムラー(2205m)に到着。デリーから9時間で着いたことになる。途中の山道は恐れていたほど混雑していなかったのだが、シムラーに入った途端、大渋滞に巻き込まれた。元々道が狭いので、シムラーは慢性的な渋滞に悩まされている。その上、今はシーズンの真っ只中である。シムラーで宿の当てはなかったので、まずはそのままNH22を通ってシムラーの南側を通り抜けてみた。シムラーは山の尾根に沿って東西に広がっている町で、自動車用道路がその南北を取り囲んでいる。シムラーの南側は大きなホテルがいくつか並んでいるが、混雑していて不便そうだった。よさそうなホテルが見つからないままとうとうシムラーの街外れまで来てしまったので、引き返した。今度は北側の道へ出てみることにした。シムラーの西の方にヴィクトリー・トンネルというトンネルがあり、そこを潜り抜ければ北側の道路に出ることが出来る。北側の道をゆっくり走っていると、やはりこちらにもいくつものホテルが並んでいた。南側に比べたら幾分空いてそうだ。そんなことを思いつつゆっくり走っていると、一人の親父が手招きした。「ホテルか?」と聞くので「ホテルだ」と言うと、「うちを見てみろ」と言う。屋上が駐車場兼入り口になっており、下にレセプションや客室があるタイプのホテルであった。特に問題なさそうだったので、ここに宿泊することに決めた。ホテル・ラシク(Hotel Rashik)というホテルで、一泊900ルピー。バスルーム、ギザ、タオル、石鹸、TVなど完備。現在シーズン中なので、まともなホテルはこれぐらいする。実はシムラーで宿が見つかるか不安だったので、難なく見つかってホッとした。やはり平日だったのが幸いしたのだろう。これが週末だったりしたら、もっとホテル探しは難航していたはずだ。ここのホテルはベッドが円形で驚いた。ハネムーン・カップルをターゲットに設計したのであろう。


ホテル・ラシクの円形ベッド

 シャワーを浴びてリフレッシュした後、早速シムラーの町へ繰り出した。と言ってもシムラーは2回目なので、特に観光したい場所もない。情報収集に徹した。ホテル・ラシクの近くの階段を上に上ると、リッジと呼ばれる繁華街の一番西の端に出た。そこから坂を上って行き、スキャンダル・ポイントと呼ばれるシムラーの中心地に到着。さらに東の方へ歩いて行き、教会のある有名な広場も見た。だが、思ったほど混雑していなかったのが意外であった。てっきり足の踏み場もないほどインド人避暑客でごった返しているかと思った。デリーを襲っている熱波はシムラーにも到着しており、最高気温が32度もあったりしていたので、多くの避暑客はもっと涼しいところへ逃げてしまったのかもしれない。確かにリッジの坂道を歩いていると汗が吹き出てくるほどの陽気である。


シムラー

 スキャンダル・ポイント近くにあるヒマーチャル・プラデーシュ州観光開発局(HPTDC)のインフォメーション・センターを訪ねてみた。早速質問をぶつけてみると、ヒンドゥスターン・チベット・ハイウェイもクンザム峠も開通しているとのこと。それならシムラーからマナーリーまで、キンナウル地方とスピティ地方をグルッと回って行くことができる。念のためにマリンの土砂崩れについても聞いてみたが、どうやら今では自動車も余裕で通行できるようになっているようだ。しばらくスキャンダル・ポイントに佇み、インフォメーション・センターで購入したヒマーチャル・プラデーシュ州の地図(30ルピー)を睨みながら、旅程を考えた。もし周回ツーリングをするとなると、それは今までで最も困難なものとなることは明らかであった。ラーハウル谷とスピティ谷の分水嶺となっているクンザム峠は標高4551mあるが、今まで愛機カリズマでそこまでの高度の場所に行ったことはない。過去最高はウッタラーカンド州バドリーナートの3100m前後だ。道路も悪いだろう。だが、このツーリングはマナーリー~レー走破のためのいい練習にもなる。今回は約1週間の日程のつもりで来たが、何とかその日程内で1周することもできそうだ。それらのことを考えた結果、キンナウル・スピティ周回ツーリングを決行することを決断した。結果的に、以下のようなルートとなった。

 そうなって来ると装備が心もとない。軽装第一、現地調達をモットーに、とりあえず比較的標高の低いシムラーやキンナウル地方のみを標準にした服装しか持って来ていなかったので、標高3000mを越えるスピティ地方の寒さに対応できそうになかった。特にバイクでそれらの土地を走るためには必要以上の防寒具が欲しい。そこでシムラーのバーザールでウィンタージャケットを購入することにした。ちょうどある店で冬物のセールが行われており、かなり厚手のウィンタージャケットを格安で購入することが出来た。下にTシャツしか着ていなくてもポカポカあったかい強力なジャケットだ。これで準備は万端である。ついでに書店で、ココ・スィン著「Driving Holidays In The Himalayas: Himachal」を購入。このシリーズは、ヒマーラヤ地方をドライブする際に参考になる情報満載で役に立つ。

 明日の出発に備え、今日は早く寝た。本日の走行距離393.2km。

6月14日(木) リコン・ピオとカルパー

 午前6時にホテルをチェックアウトして出発。ちょうどホテルの前にガソリンスタンドがあったので、そこでガソリンを補給した。ところがガソリンを入れているときにパラパラと雨が降り出し、いざ出発と思ったら雨足が急に強くなったた。これは堪らんということで、たまたまあった小さなバス停で雨宿りをした。すぐに白い雲が辺り一面を覆い、1m先も見えないほどになった。これは危険な天候だ。10分ほど待っていたら雨も止み、霧も晴れたので、再度気を取り直して出発。だが、途中でまた雨雲がひっかかっている場所を通りかかり、強い雨が降り出した。今度はまだ閉まっている店の狭い軒先で雨宿りをしたが、どうも狭すぎて身体が収まり切らない。しかも雨が一向に止まないばかりか、強風を伴った雷雨となっている。30分ほど待ったであろうか、このまま雨宿りしていても濡れるばかりだし、先の方にもっといい雨宿り場所があるだろうと思い、思い切ってバイクにまたがって雨の中を出発した。ところがちょっと先に行ったら町が終わり、完全なる山道になってしまった。相変わらず雷も鳴っている。ずぶ濡れになりながらも何とか次の町まで辿り着き、そこのバス停に転がり込んで雨宿りをした。幸先の悪いスタートに先行き不安となった。

 2度目の雨宿り場所に辿り着く頃には、雨雲のひっかかっている場所を既に抜けていたので、雨はだいぶ小降りになっていた。ほとんど止みかけたので、出発することにした。幸い、今度は再び雨が降り出すようなこともなかった。シムラーから東に出ている国道22号線(NH22)は谷底へ降りる下り坂になっており、徐々に標高が下がって来た。サインジという町でサトラジ河と平行する平らな道となった。サトラジ河の上流に向かう形でバイクを走らせた。この辺りは、さっきまで雨が降っていたのが嘘のように晴れており、服を乾かしながら走行することが出来た。

 午前11時にラームプル(924m)に到着。ラームプルは、19~20世紀にサトラジ河流域を支配したバシャール王国の冬の首都だった町で、チベットとの交易路上にあったため大いに栄えた。現在でもラームプルには王宮や古い寺院が残っている。ラームプルにはヒマーチャル・プラデーシュ州観光開発局(HPTDC)が経営するカフェテリアがある。そこで遅めの朝食を取った。

 午前11時半にラームプルを出発。ラームプルから23kmでジューリーという町に出た。ジューリーは、この辺りでは一番の観光地サラーハンへのアクセス拠点となる町だ。ジューリーでNH22を降りて山道を登るとサラーハンはある。サラーハンは今では小さな村だが、バシャール王国の夏の首都だった場所で、ビーマーカーリー寺院という見事な建築様式の寺院で有名である。サラーハンには以前来たことがあり、今まで訪れたインドの観光地の中ではお気に入りの場所のひとつである。時間があったらサラーハンを再訪してみたかったのだが、今回はスピティの方まで行くことを決定したため、サラーハンの方へは行かず、NH22を進んだ。ジューリーを越えてしばらく行くと、いよいよキンナウル地方に入る。キンナウル地方はキンナウル県という行政単位でもある。キンナウルに入る手前には、「Welcome to Kinnaur」という手作り感溢れる石碑が置かれていた。ほんの15年前まで、外国人には閉ざされていた地域である。それが今では誰でも歓迎してもらえる。


キンナウル地方へ

 キンナウル地方の第一印象として強力に脳裏に刻み込まれたのは、岩と道路、自然と人工が織り成す芸術的な風景であった。荒々しい岩肌を道路が貫いており、遠くには雪山が見え始めていた。先ほどまでの緑溢れる穏やかな山の風景とは異なった、ダイナミックな自然の姿がそこにあった。


キンナウル地方の風景

 今までサトラジ河南岸を走行して来たのだが、途中ワントゥーという町で橋を渡り、北岸の道となる。このワントゥーからカルチャムまでダムの建設が行われており、非常に道が悪かった。カルチャムで再び橋を渡ってサトラジ河の南岸に出る。カルチャムは、ヒマーチャルで最も美しいと言われるサングラー(バスパー)谷へのアクセス拠点となる町でもある。サングラー谷へ行ってもよかったのだが、今日はまずはリコン・ピオ(Recong Peo)を目指した。リコン・ピオへ行かなければならなかったのは、インナーライン・パーミット取得の必要があったからである。

 キンナウル県は、外国人観光客に開放されたと言っても、チベット(中国)と国境を接する微妙なエリアであることに変わりはなく、国防上きちんと入域者を管理をする必要がある。そのような訳で、キンナウル県のプーとラーハウル&スピティ県のカザの間、つまりチベット国境スレスレの地域へ外国人が行くには、インナーライン・パーミットを取得する必要がある。インナーライン・パーミットはヒマーチャル・プラデーシュ州のいくつかの都市で取得が可能だが、最も容易なのは、クッルー県のマナーリー、キンナウル県のリコン・ピオ、ラーハウル&スピティ県のカザだと言われている。プー方面からこのインナーライン・エリアへ入る僕は、リコン・ピオでの取得が理想的であった。だが、インナーライン・パーミットの発行プロセスは国防政策と密接な関係があるため、変更されやすいものだ。よって、なるべく余裕を持ってパーミットを取得しておきたかった。今日は木曜日。明日金曜日にはオフィスが開いているだろうが、土日は業務が行われていない可能性が高い。もし発行までに時間がかかる場合、金曜日に申請すると受け取りが月曜日になってしまうかもしれない。そうなるとキンナウル地方に足止めを食らうことになり、周回ツーリングの達成が危ぶまれることになる。よって、なるべくなら木曜日の今日、申請しておきたかった。日本に住んでいる人はなかなかこんなことまで考えを巡らさないかもしれない。実際後からこれは考えすぎであったことが分かったのだが、インドのお役所仕事のいい加減さにいろいろ痛い目に遭っていると、こういうところでいろいろ用心するようになってしまうものだ。

 リコン・ピオは、サトラジ河の北側にそびえる山の中腹部にある都市である。ポーウリーという町でNH22を降り、登坂道を行くと着く。だがその前にポーウリーでガソリンを補給した。ポーウリーはキンナウル県最後のガソリンスタンドになる。ここからカザまでの約220km、ガソリンスタンドがひとつも存在しない。僻地ではガソリン補給が鍵となるため、ガソリンスタンド情報は欠かせない。

 午後3時頃にリコン・ピオ(2290m)に到着。リコン・ピオは想像していたよりも発展した町で、グラウンドと呼ばれる広場を中心に、活気のあるバーザールが道沿いに続いていた。ロンリー・プラネットには「旅行代理店を通じてインナーライン・パーミットを申請すべし」と書かれていたが、これは現在変更されており、グラウンドのそばにある観光局オフィスがパーミット申請を請け負っていた。料金は150ルピー。申請書に必要事項を記入し、パスポートとヴィザのコピーと共に提出する。すると、観光局の人とグラウンドの反対側にあるコンピューター・オフィスへ行くことになる。そこでデジカメを利用した写真撮影があり、数分間待っていると、顔写真付きの書類が完成する。そのオフィスのすぐ横に警察署の建物があり、そこでオフィサーにサインをしてもらえば、インナーライン・パーミット取得手続きは完了となる。ものの30分ほどで済んでしまった。同日に発行されるだろうとは思っていたが、こんなにもすぐに発行されるとは意外や意外。インドに住んでいると、最近世界で盛んに売り出されているIT大国としてのインドのイメージと実際のインドとのギャップに苦笑することが多くあるものだが、こればかりは感心してしまった。ロンリー・プラネットによると、以前はパーミット申請のためにパスポートサイズの写真の提出も必要だったようだが、コンピューターとデジカメの導入により、その手間が省かれることになったのである。そして発行までのスピードもおそらく格段に進歩したことであろう。また、以前は1週間有効のパーミットのみしかもらえなかったようだが、今では最初から2週間有効のパーミットを申請できる。

 もしパーミット取得に手間取ったらリコン・ピオに宿泊しようと考えていたが、あっけなく完了してしまったので、リコン・ピオのさらに上にあるカルパーへ向かうことにした。カルパーはキンナウル王国の首都だった場所で、元々チーニーと呼ばれていた。ヒンディー語で中国人のことを「チーニー」と言うが、それと関係なさそうで関係あるらしい。サトラジ河流域は古の交易路であり、この辺りには中国人が住んでいたと言われている。よって、土地の名前もチーニーとなったらしいのだが、僕にはどうもこの語源説は眉唾物のように思われる。カルパーは、シヴァの夏の住処と言われるキンナウル・カイラーシュ山の真正面にある風光明媚な村だ。インド総督ダルハウジーはカルパーの風景を大そう気に入り、より容易にこの地を訪れられるようにヒンドゥスターン・チベット・ロードの建設を命令したと言われている。

 午後3時半にリコン・ピオを出発。リコン・ピオのバーザールを抜ける道を上がって行った。最近土砂崩れがあったのか、道の途中でショベルカーが土砂を取り除く工事を行っており、道がトラックによって塞がれていた。すぐに移動するとのことだったので、バイクのエンジンを切ってしばらく工事を眺めていた。10分後くらいにトラックが動き出し、道が開いたので前進。そのまま坂道を上がって行く。途中、ファーンギーという村を通り抜けると道が非常に悪くなり、やがて道の先は土砂崩れによって塞がれたままになっていた。もしかしてカルパーまでは車両では行けないのだろうか?それとも道を間違えたのだろうか?


土砂崩れで崩れたままになっている道路

 とりあえず引き返して、途中で工事をしていた人たちにカルパーはどこか聞いてみると、やはり道を間違えていたことが分かった。全然気付かなかったが、途中で分かれ道があったらしい。そこで分かれ道に注意しながら来た道を戻ってみたら、言われた通り、カルパー行きの別の道があった。非常に紛らわしい分かれ道となっていた。その道を進んで行くと、やがて前方にカルパーの村と、雪を抱いた雄大な峰々が見えて来た。カルパーはデーオダール(ヒマラヤスギ)林とリンゴの果樹園に囲まれた美しい山村であった。


カルパーへ向かう道の途中

 カルパー(2960m)には午後5時頃に到着した。村の中心部は狭いバーザールとなっており、いくつか安宿が固まっていたが、ここにはバイクを駐車する場所がなさそうだったので、郊外にあるホテルを探すことにした。そのまま道なりに進むと、ホテル・ゴールデン・アップル(Hotel Golden Apple)という、小じんまりとした良さげなホテルが見えて来た。ちょっとした駐車場も併設されている。聞いてみると部屋も空いていたので、ここに宿泊することに決めた。部屋の窓からは、キンナウル・カイラーシュ山をはじめ、カルパーを見下ろす壮大な雪山景色を眺めることができた。カルパーの最大の見所と言ったら、真正面にそびえ立つキンナウル・カイラーシュ山の眺望であり、宿泊する部屋からの眺めは最も重要である。部屋は1泊800ルピー。TV以外、ミドルクラスのホテルの部屋に備わっているものは何でもあった。


ゴールデン・アップルの部屋

 今日は少し空に雲があり、キンナウル・カイラーシュ山の全貌はよく見えなかった。カルパーには2泊する予定である。その中で最高の景観を見せてくれることを期待しながら、今日は疲れたので早めに就寝した。

 本日の走行距離251.9km、本日までの総走行距離645.1km。

6月15日(金) 高山病

 無事にインナーライン・パーミットも取得できたので、今日はインナーライン・エリア走破の前の休息日に当てていた。サングラー谷、リコン・ピオ、カルパーなどを軽く観光して回ろうと計画していた。

 ところが未明から下痢になり、早朝から頭痛がするようになった。身体がだるく、食欲もない。真っ先に疑ったのが高山病である。酸素は肺の肺胞から血液に取り込まれるが、それは肺胞の圧力の方が血液の圧力よりも高いからである。だが、標高の高い場所では空気中の酸素の濃度と圧力が減るため、肺胞から血液に取り込まれる酸素の量が減少する。血液中の酸素が希薄になることによって引き起こされる症状が高山病(Acute Mountain Sickness)である。以前、マナーリーからレーへジープで強行移動したときに高山病になったことがあった。そのときの症状とよく似ていたため、高山病だと自覚することが出来た。だが、あのときは標高5000m以上の峠を越え、標高3505mのレーに滞在したために発生した。一方、カルパーの標高はたった2960mである。こんな低いところで高山病になるのは屈辱的であった。だが、高山病は身体の丈夫さや山登りの経験とは関係なく発生する奇妙な病気であり、起こるときは起こるもののようだ。いくつかの予防策はあるようだが、基本は無理をしないことである。高山病の最良の治療は標高を下げること。500m下げるだけでも効果はあるようだ。次善の策はとにかく身体を休めること。軽度の高山病なら、しばらく経てば自然治癒することが多い。今日は1日無理せずに部屋で休息することにした。

 慰めだったのは、今日は一日中天気が悪かったことだ。朝から雲が出て、せっかくの景色も全く見えなくなってしまっていた。サングラー谷へは景色を眺めに行こうとしていたようなものだったため、今日はたとえ体調が良かったとしても観光に適した日ではなかった。高山病と疑われる症状が出たこと、そして天候が悪かったことの2つの理由により、今日は1日中ホテルの部屋に缶詰状態となった。下痢も酷かったため、朝からほとんど何も食べず、水分補給だけ気を付けて、ベッドに横になっていた。


今朝5時頃のキンナウル・カイラーシュ山
このときはまだ大して雲が出ていなかった。


6月16日(土) 辺境の「世界遺産」タボ

 昨日とは打って変わって快晴。ホテルの部屋の窓からは雲ひとつないキンナウル・カイラーシュ山が見えた。


キンナウル・カイラーシュ山

 まだ下痢は続いているが、体調はそんなに悪くない。今日はヒンドゥスターン・チベット・ハイウェイを通って、いよいよスピティ谷へ行く。

 午前8時半にホテルをチェックアウトして出発。カルパーを下り、リコン・ピオを通過して、谷底へ下りた。ガソリンは十分あったので、麓のポーウリーで再度ガソリンを補給することはしなかった。そのままサトラジ河上流を目指した。道は基本的に舗装がされているが、土砂崩れ多発地帯だけは舗装しても無駄のようで、土や石を慣らしただけの道になっていた。


モーラン近辺の風景

 午前10時半にチェックポストのあるジャンギーに到着。外国人はここで、先日取得したインナーライン・パーミットを見せなければならない。だが、ピリピリとした雰囲気は全くなく、かと言ってテキパキと仕事をする訳でもなく、雑談好きで親切そうな軍人が書類に外国人の詳細を書き込んでいた。バイクのナンバーも記録された。

 11時半にプーに到着。プーはチベット(中国)との国境であるシプキ峠のすぐ近くだ。かなり大規模な軍隊の駐屯地があり、軍人が行き来していた。ここにカフェテリアがあり、チャーイを飲んで休憩が出来るが、僕は止まらずに先を急いだ。だが、ここから先は長く、休める場所もしばらくないので、プーで一息付くのが得策だったかと思われた。

 プーを越え、しばらく行くと、サトラジ河とスピティ河のサンガム(合流点)に出た。サトラジ河はこのままチベットまで続いている。通常、インドでは大きな河の合流点は聖地になっているが、ここでは橋がかかっているだけであった。今までサトラジ河沿いに進んで来たが、ここからはスピティ河の上流に進路を取ることになる。サトラジ河沿いに行くとチベットに出てしまう。


スピティ河(左)とサトラジ河(右)のサンガム

 さて、まだキンナウル県にいるわけだが、スピティ河沿いの道に入ると風景はスピティに近くなる。もはや緑は稀少で、ゴツゴツとした岩と、灰色の砂と、青すぎるほど青い空のみが風景の全てとなる。山の斜面を道路が蛇のように蛇行し、急速に標高が上がって来る。


蛇行する道路

 途中、殺風景な景色の中にまるでコケのように緑が這いつくばっているところが見えて来るが、それが集落である。水があり、木があり、家がある。だが、人の住んでいる気配はあまりない。通り掛かっても人影ひとつ見えず、ただ水がチョロチョロ流れる音と、風のバタバタ言う音のみが聞こえる。そのような静寂の町をいくつも通り過ぎ、やがて午後12時45分頃にナコ(2950m)に到着した。


遠くに集落が見える

 万全を期すために僕はヒマーチャル・プラデーシュ州のいくつもの地図を持参してツーリングをしていたが、ほとんどの古い地図では、ナコは国道22号線(NH22)から外れた位置にあり、NH22はナコの麓にあるヤンタンを通っている。だが、現在ではNH22はヤンタンではなくナコを経由してスピティ方面へ伸びている。その理由はおそらく、ロンリー・プラネットに記述されていた、ヤンタンの先のマリンで発生した大規模な土砂崩れのせいだろう。数kmに渡って道路が消失してしまったらしい。おそらくその道路の修復をする代わりに、ナコを経由し、マリン上部を通過する新しい道路が建設されたのであろう。だが、元々ナコはナコ湖のあるピクニック・スポットだったため、観光戦略的にはより優れたルートとなった。僕もナコ湖に立ち寄ってみた。

 ナコには村があり、観光客向けにカフェテリアやいくつかゲストハウスがあって、宿泊することができるようになっている。一応インナーライン・パーミットの書類には、「禁止区域内で宿泊することを禁ずる」との文言があるが、どうもナコなら泊まっても良さそうだった。ジャンギーのチェックポストでも、まず「ナコへ行くのか?」と聞かれた。

 ナコの見所はナコ・ゴンパとナコ湖である。僕もそれらを簡単に見て回ろうと思い、途中でバイクを止めて歩いて探した。だが、道標などない上に、ナコ村に住んでいる村人たちはあまり協力的ではなく、道を聞いても適当に返事をされて、一人でそれらを見つけるのは非常に困難だった。一応湖は見つけたのだが、観光地になるほどきれいで大きな湖でもなく、これがナコ湖かどうかは怪しかった。だが、インド人観光客が数人いて、湖畔にはゴミも散らかっていたので、これをナコ湖ということにしておいた。だが、ナコ・ゴンパは見つからなかった。


ナコ湖(?)とナコ村

 午後1時15分にナコを出ると、アッパー・マリンという場所を通る。大規模な土砂崩れがあったマリンの上部を通ると、さらに標高は上がって行く。標高3658mのチャンゴを越えると今度は道は下がって行き、スピティ河の河流のそばを通る道となる。そして、午後2時半に2度目のチェックポストとなるサムドーに到着した。サムドーもチベット国境のすぐそばにあり、戦略的に非常に重要な場所となっている。チベットから流れ込むパレ・チュ河との合流点であり、ラーハウル&スピティ県の入り口にも当たる。つまり、いよいよ本格的にスピティ地方に入ることになる。サムドーではインナーライン・パーミットの他にパスポートを見せる必要があった。

 本日の目的地はスピティ観光の中心地となっているタボである。サムドー付近の峡谷地帯を抜けると、タボまでは山間の平地が続いた。非常に美しい光景。スピティが紹介されるとき、必ず引用されるラドヤード・キップリング(英国人作家で「ジャングル・ブック」の著者)の言葉がある。
遂に彼らは世界の中の異世界に足を踏み入れた――数千m級の山々の谷――高峰はただ岩石と土砂のみを腰周りに身にまとっている。間違いない、ここに住むのは神々だ――人間の住む場所ではない。(「Kim」より)
キップリングの言う通り、スピティはまさに神々の住む谷。荒涼とした風景の中に神々しい輝きがある。確かにこんな高地の谷にも集落はあり、人が住んでいる。人間の住む場所ではない、というは現在では言い過ぎだ。だが、道路は閑散としており、数分に1台、車が通る程度である。孤独な道を孤独に走りたいなら、スピティほど適した場所はない。バジャージ社のアヴェンジャーというアメリカン・タイプのバイクのTVCMで、「I Feel Like God」というキャッチフレーズがあった。あのCMは多分ラダックを疾走していたが、高峰の山々に囲まれた高地の道をバイクで走っていると、本当にそういう気分になる。


ラリの近くの道

 午後3時45分頃に本日の最終目的地タボ(3050m)に到着。タボは谷間の平地に広がる小さな村だった。タボではタシ・カンサル・ホテル(Tashi Khangsar Hotel)に宿泊した。ヘリパッドの奥にあって分かりにくいが、タボでは一番設備の整ったホテルのひとつで、1泊400ルピー。マネージャーの若者が精力的、親切かつかなりの日本好きで、非常に心地よい滞在をすることが出来た。

 タボには、996年に建造された古いゴンパ(チベット仏教僧院)が残っている。通常、ゴンパはアクセス困難な高い山の上にあるのだが、タボは平地にあり、特異である。しかもその形はラージャスターン州の家屋のようで、チベット文化圏では他に類を見ない。当時ここは翻訳と学問の中心地だったようで、仏典のチベット語翻訳作業が行われていたとされる。「偉大なる翻訳者」リンチェンザンポの建立だとされるが、証拠には乏しい。タボを世界的に有名にしているのが、ゴンパの内壁に描かれた美しい壁画の数々である。アジャンター石窟寺院の壁画との類似性も指摘されており、タボは「ヒマーラヤ山脈のアジャンター」との異名を持つ。いくつかの資料では、「タボはユネスコによって世界遺産に登録された」との記述が見られるが、インドの世界遺産リストにタボが載っているのを見たことがなく、一応カッコつきで「世界遺産」ということにしておく。もし本当に世界遺産だとしたら、インドで最もアクセス困難な場所にある世界文化遺産ということになるだろう。


タボ・ゴンパ

 タボ・ゴンパの境内はチョスコルと呼ばれ、無数のチョルテン(仏塔)の他、合計6つの寺院が建っている(数え方によっては9つ)。各寺院内部にはそれぞれ美しい壁画が残っているが、圧巻なのは中央にあるメインテンプルである。メインテンプルは境内の寺院の中では最も古く、その芸術的価値も最も高い。ボーディサッタヴァ(菩薩)やジャータカ(本生物語)をモチーフにした美しい壁画が壁一面を埋め尽くしている。その様式は、インドとチベットの折衷となっており、インド・チベッタン様式と呼ばれている。内部は薄暗いため、絵の細部を見たかったら懐中電灯などを持って行かなければならない。ただ、内部は写真撮影禁止となっている。絵葉書をスキャンしたものを下に載せておく。


「ヒマーラヤ山脈のアジャンター」タボの壁画

 タボは、ダライ・ラマが引退した後に隠居しようとしている場所と噂されている。もしそうなったら、タボはダラムシャーラーのようにチベット人のコロニーとなり、一気に大きな町に発展するかもしれない。

 ところで、タボ・ゴンパの前には政府系のレストハウスがあり、やたら警備が厳しかった。銃を持った軍人が常に歩哨をしていた。チベットとの国境近くのため、いつもこんなに厳しいのかと思っていたが、後から知ったところによると、僕が通って来たルートをマンモーハン・スィン首相の娘も通って来ており、そのために特別警備が厳しくなっていたのであった。どうりで途中、政府系のアンバサダーとよくすれ違ったわけだ。首相の娘はこのときタボに滞在していた。それを除けば、タボはのどかな田舎町だった。今回のツーリングで立ち寄った町の中では、タボが一番気に入った。機会があったらまた訪れてみたい場所である。

 本日の走行距離180.5km、本日までの総走行距離825.6km。

6月17日(日) ダンカル・ゴンパとカザ

 タボにはゴンパの他に、僧院として使われていた洞窟も残っている。タボの村を見下ろす山の中腹部にあり、タボ・ゴンパからもよく見える。朝、散歩がてら洞窟まで歩いて行ってみた。基本的にどこからでも登って行けるのだが、メインロードの西側、タボの村外れから洞窟へ続く道が伸びており、それに従って行くと楽だろう。洞窟まで来ると、タボの村を見下ろすことが出来た。案外樹木や畑が多く、緑豊かな村である。だが、スピティの村々に緑が出現したのは、植林や灌漑が活発になったここ25年内のことらしい。昔は木一本生えず、雨も数年に一度降るか降らないかの不毛の大地だったとされる。昔、「キャラバン」(2000年)という映画が日本で公開され、見たことがある。生まれてから一度も木を見たことのない高地に住む少年が主人公で、映画中何度も「木って何?」と木への憧れを口にしていた。エンディングは、その少年が木を初めて見るというシーンで、今でも非常に印象に残っている。きっとタボもそんな村だったのだろう。だが、緑が増えたことにより、気候にも変化が表れ始めたと言う。スピティにも雨が降るようになったのだ。そのせいでたまに土砂崩れが起きて大きな災害が発生するらしい。


タボの村

 今日も快晴のため、景色も非常に美しい。スピティを最もスピティたらしめているのが、染まるほどに青い空だ。この空がなければ、スピティはスピティじゃないと言っても過言ではない。後でデリーに帰ってふと空を見上げてみたが、スピティの本当に真っ青な空を見た後では、デリーの空の色を青と表現することは出来なかった。どうやったらあんな青い空になるのだろうか?


青いスピティ

 タボの村の眺望は素晴らしかったものの、残念ながら洞窟は開いていなかった。洞窟にも消えかかった壁画が残っているとのことだが、見ることは叶わなかった。また、洞窟のそばには僧院があり、こちらは扉が開いていたが、中には誰もいなかった。今日は日曜日のため、休みなのだろうか?


僧院内部

 午前9時半にタボを出発。今日の目的地は、スピティ地方の中心都市であるカザだが、その前にタボとカザの間にあるダンカル・ゴンパに立ち寄る。まずはタボを出て西に向かった。タボの村外れには川が流れていたのだが、そこには橋が架かっていなかった。インドの山をバイクで旅行しようとすると、必ずと言っていいほど川を越えなければならない。道路に水が溢れている程度の場所がいくつもいくつもある他、橋が大水などで流されたままになっており、川としか表現の出来ないような地形をバイクで越えなければならないことが時々あるのである。インドで学んだ大きな教訓のひとつは、「バイクでも川を越えられる」ということだ。バドリーナートへツーリングに行ったときは、人生で初めて、氷河の雪解け水で出来たちょっとした川をバイクで越えたものだが、あの経験があったおかげで今回のツーリングでも幾度か冷静に川を越えて来た。だが、タボのこれは今まで見たものの中で最大の川であった。それでも、地元の人々はバイクでこれを越えているはずであり、僕に越えられない訳はない。昨日橋が流されたばかりではないので、ちゃんと自動車やバイクが川越えを出来るように、川底に石が敷き詰められているものだ。そういう「川の中の道」を正確に見極め、迷わず一気に渡ってしまうのが、バイクによる川越えのコツである。途中で止まると車輪が石と石の間に挟まってしまい、抜け出るのが困難になる。実は一度目は怖気づいて失敗してしまい、両足をびしょ濡れに濡らしながら何とか引き返したのだが、二度目に勢いをつけて突進したら、渡ることが出来た。今回のツーリングでは、後にも先にもこれだけの規模の川を渡らなければならなかったことはなかった。


タボでバイクで越えた川

 今日は時間的に余裕のある日程なので、景色を楽しみながらゆっくりと進んだ。相変わらず交通量が極度に少ない道路で、バイクで1人孤独に走っているとこの上なく爽快である。風は冷たいのだが、日光は非常に強く、まるで温かいスープの中に冷たい麺を入れて食べているかのような変な感覚だ。白い砂地の場所では、日光が反射して目が眩むほどまぶしい。そして相変わらず空は青い!


タボ~シチリン間の道

 シチリンの村を通り過ぎたところで、山の方へ伸びる分かれ道がある。この道をひたすら上って行くと、スピティで最も古いと言われるダンカル・ゴンパ(3890m)に到着する。ダンカル・ゴンパは岩山の上にそびえ立つ迫力ある外観である。ここはかつてスピティ王国の首都であった。ダンカル・ゴンパに到着した頃には、いつの間にか空には雲が広がり、曇った天気になっていた。午前10時半頃であった。


ダンカル・ゴンパ

 ダンカル・ゴンパは25ルピーの入場料を取っている。ドルジェというフレンドリーな僧侶が案内をしてくれた。ダンカル・ゴンパには、新旧の礼拝堂や祭りのときに使用する道具を収めた倉庫がある他、古いタンカがいくつも所蔵されている。


ダンカル・ゴンパ内部

 ダンカル・ゴンパはスピティ谷の主要観光地のひとつで、ひっきりなしに観光客が訪れるが、案内役のドルジェ氏は嫌な顔ひとつせずに観光客の応対をしていた。だが、やはりグループ客や家族連れよりも、僕のような孤独な旅行者にシンパシーを感じるようで、特別にお茶に招いてくれた。ゴンパは僧侶の生活の場にもなっており、上の写真のような宗教的な儀式を行う部屋以外に、ちゃんとキッチンや居間もある。案外食器などがきれいに並べられており、居心地が良さそうだった。ダンカル・ゴンパの中では、お茶をご馳走になったこの居間が一番印象的であった。ゴンパのような厳格な宗教空間の中に、人間味溢れる場所を見つけるとホッとするものだ。


ダンカル・ゴンパの居間兼台所

 チベットのお茶というと、バターをたっぷり入れたグルグル茶が有名である。チベット仏教の僧侶たちは事あるごとにグルグル茶を飲むが、僕はこれが大の苦手だ。もしグルグル茶を出されたらどうしようかと思っていたのだが、出されたお茶はレモンティーに近い味の不思議なお茶であった。何が入っているのかよく理解できなかったが、スピティ地方特有のお茶らしい。なかなかおいしかった。

 ドルジェ氏の、このまま泊まって行けと言わんばかりの歓待のおかげで、ダンカル・ゴンパではゆっくりしてしまった。ダンカル・ゴンパを発ったときには12時になっていた。


遠くにダンカル・ゴンパが見える

 シチリンまで下りてメインロードに乗り、スピティ河に沿って西を目指した。本日の最終目的地であるカザ(3600m)には午後1時頃に到着した。カザは、スピティ地方で唯一ガソリンスタンドのある町。ポーウリーで給油して以来、ガソリンを補給しておらず、カザでは必ずガソリンを入れなければならなかった。ホテルにチェックインする前、まずはガソリンスタンドを目指した。カザは谷を挟んでオールドタウンとニュータウンに分かれているが、ガソリンスタンドはニュータウンにある。だが、ガソリンスタンドの敷地内には多くの自動車が止まっており、どうも怪しい雰囲気。聞いてみると、停電のために給油機が動かず、みんな電気が来るのを待っているとのこと。時間がかかりそうだったので、ホテル探しを優先させることにした。

 カザでのホテル探しは多少難航した。タボで泊まったタシ・カンサル・ホテルで、カザで泊まるならホテル・スピティ・サラーイ(Hotel Spiti Sarai)がいいと推薦を受けたのでそれを探したのだが、このホテルはカザから数km離れた荒野にポツンと立っている特殊なホテルで、しかもグループ・ブッキングのせいで空き部屋がなかった。仕方なくカザ市内に戻ってホテルを探すことに決めた。オールドタウンには安いホテルが密集していたが、バイクの安全が確保できるような場所がなさそうだったため、ニュータウンの少し高めのホテルに宿泊することにした。最終的に決めたのは、オールドタウンからニュータウンに入ったすぐのところにあるサキャ・アボード・ホテル(Sakya Abode Hotel)。ちゃんと駐車場もあり、部屋はギザをはじめ一通り揃っている。1泊500ルピー。食堂が非常に豪華な造りで気に入った。ガソリンスタンドからもすぐ近くで便利であった。

 昼食を食べてゆっくりした後、ガソリンスタンドの方はどうなったかと偵察しに散歩に出掛けた。すると、今度はガソリンスタンドに誰もいない。一体どういうことなのか?ガソリンを補給することがこんなに難しいミッションだとは思わなかった。もしここで給油できないと、残りのガソリンではポーウリーにもマナーリーにも行けない。ガソリンスタンドの係員すらいな