スワスティカ これでインディア スワスティカ
装飾上

2007年10月

装飾下

目次
旅行■1日(月)インド最古の宮殿ホテル、ケースローリー
散歩■2日(火)誤算の常緑都市ルティエンス・デリー
人物■5日(金)ラグ・ラーイ講演会
散歩■8日(月)デリーのムジュレーワーリー
映評■10日(水)Dil Dosti Etc
分析■10日(水)キラーラインと違法また貸し
映評■12日(金)Bhool Bhulaiyaa
映評■12日(金)Laaga Chunari Mein Daag
散歩■13日(土)お祖母ちゃんと孫娘の廟
散歩■14日(日)プラーナー・キラーの隠された物語
分析■18日(木)インドの仲間遊び
散歩■21日(日)デリーのラームリーラー
散歩■27日(土)調和と統合の祭典、花売りたちの行進
映評■30日(火)Jab We Met


10月1日(月) インド最古の宮殿ホテル、ケースローリー

 インド観光のひとつの目玉に宮殿ホテル(ヘリテージ・ホテル)がある。王侯貴族の居城や宮殿をホテルに改装したもので、一般のホテルでは絶対に味わえない歴史の陶酔が魅力だ。だが、ベラボウに高いに宿泊料を取っているところが多く、簡単には手を出せない。その点、ニームラーナー・ホテルスが経営する宮殿ホテルはどれも比較的リーズナブルな料金設定で、オススメである。とは言え、インドのホテルは全体的に急速に値上がりしており、ニームラーナー系列のホテルも次第にリーズナブルとは言えない値段になって来た。

 ニームラーナー・ホテルスはインド全土で宮殿ホテルを経営しているが、メインターゲットはデリーを拠点とする観光客である。デリーから陸路で1日以内で行ける距離にある系列ホテルは2007年現在6つある。その中でもフラッグシップと言えるのが、デリーからジャイプル方面に100kmほど行ったラージャスターン州ニームラーナーにあるニームラーナー・フォート・パレスである。1464年建造の城を増改築した全50室のリゾート・ホテル。各部屋ごとに個性的な内装や家具でセンスよく装飾されており、部屋ごとに料金が異なる。オリジナルの城の部分である旧館と、後から増築した新館があるが、旧館の高い部屋が空いていれば当然のことながら旧館に泊まった方が雰囲気があっていい。しかし、もし旧館の高い部屋が空いていなければ、無理して旧館の部屋に泊まるよりも新館の部屋を選んだ方が無難だ。旧館の方は、元々客室ではない部屋を無理に客室に改造しているものがあるため、旧館の安い部屋は変な構造になっていたり、異様に狭かったりする。それだったらいっそのこと、利便性を考えて設計された新館の部屋の方がベターと言う訳である。ホテル内にはプールやスパなどの近代的設備も整っているし、城下町や周辺を探索するのも楽しい。既に何度も訪問しているが、初めて訪れたのは2004年1月だった(参照)。


ニームラーナー・フォート・パレス

 ニームラーナーよりもさらにデリー寄りの位置、ビラースプルの料金所の手前で西に向かった場所にあるのは、1935年建造のパタウディー・パレスである。まだホテルとしてオープンして間もない頃に訪れた(参照)。住所はハリヤーナー州グルガーオン県に入り、デリーからは約60kmとかなりいい位置にある。インドのクリケット史に燦然と輝く英雄、タイガー・パタウディーの邸宅だった宮殿である上、シャルミラー・タゴール、サイフ・アリー・カーン、ソーハー・アリー・カーンなどと言った映画スターとも関係の深い場所であるため、クリケット・ファンやインド映画ファンには垂涎モノの宮殿ホテルだと言える。そうでなくても、白を基調とした上品な宮殿で、一度訪れる価値は十分ある。


パタウディー・パレス

 ラージャスターン州シェーカーワーティー地方にもニームラーナー系列のホテルがある。バガルのピーラーマル・ハヴェーリーである。デリーからは約250km、半日かかる距離にある。ただ、シェーカーワーティー地方の外れに位置するため、同地域観光の拠点にはしにくい。また、シェーカーワーティー地方は宮殿ホテルの宝庫なので、ピーラーマル・ハヴェーリーに宿泊する意味は薄れる。よって、シェーカーワーティー地方は2回訪れたが、ピーラーマル・ハヴェーリーにはまだ訪れたことがない。

 基本的にニームラーナー・ホテルスは歴史ある建築物をホテルに改装しているが、ウッタラーカンド州リシケーシュにあるグラスハウス・オン・ザ・ガンジスだけは新しく建築したホテルである。デリーからは約300km、リシケーシュの市街地からさらに23km行った場所にある。その名の通り、ガンガー(ガンジス)河の畔にある閑静なリゾート・ホテルである。バドリーナートまでツーリングしたときに見かけたが、中は覗かなかった。同じようなコンセプトのリゾート・ホテルはリシケーシュ周辺にいくつかあるので、相対的にこのホテルに宿泊する価値は薄れるだろう。

 同じウッタラーカンド州の有名避暑地ナイニータール近くには、ラームガル・バンガローというニームラーナー系列ホテルがある。ここはデリーからの距離が325kmあり、半日以上かかるだろう。まだ訪れたことはない。

 また、デリーから東に約80km、ウッタル・プラデーシュ州のクチェーサルには以前までマッド・フォートというニームラーナー系列のホテルがあったのだが、僕がツーリングがてら訪れたときには既に何らかの理由で閉業されていた(参照)。よって、これはデリー周辺の6つのニームラーナー系列ホテルには含まない。


マッド・フォート・クチェーサル

 最後に残ったのが、ラージャスターン州アルワル県のケースローリー村にあるヒル・フォートである。14世紀建造で、宿泊できる宮殿ホテルとしてはインド最古。デリーからは約150km、デリー、ジャイプル、アーグラーの黄金の三角形のど真ん中に位置するという絶好のロケーションである。今回、このケースローリーのヒル・フォートをバイクで訪れることにした。

 ニームラーナー・ホテルスのウェブサイトには、ケースローリーまでの道筋がいくつか示されていた。デリーから最短なのはグルガーオン~ソーナーを通って行くルートだが、この道は交通量が多くて時間がかかると書かれていたので、多少遠回りながらも快適に走行できるデリー~グルガーオン~ダールヘーラー~ティジャーラー~キシャンガルのルートを通ることにした。このルートは、以前アルワルへツーリングしたときも通ったことがあり(参照)、道は大体頭に入っていた。

 午前10時にジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)キャンパスを出発。国道8号線(NH8)に乗り、そのまま南を目指した。デリー・グルガーオン・エクスプレス・ハイウェイの大部分が開通してくれたおかげでデリー~グルガーオン間の道はだいぶ楽になった。以前からジャイプル方面へのツーリング時の休憩地点として愛用していたマーネーサルのマクドナルドには10時半頃に到着。エクスプレス・ハイウェイが開通していなかった頃は、デリーからマーネーサルまで1時間かかったのを覚えている。首都圏の混雑を抜けた先にあるこのマクドナルドは、1時間のウォーミングアップを終え、これから先のツーリングに向けて一息つくのに絶好の場所にあったのだが、デリーから30分ほどで到着してしまうようになった今では、そのロケーションはちょっと魅力に欠けるようになった。それでも、これから先はしばらく何もないので、惰性でとりあえず立ち寄ることにした。

 マーネーサルのマクドナルドでしばらく休憩し、午前11時15分頃に出発。ダールヘーラーでNH8を降り、喧噪のバーザールを通り抜けて東へちょっと向かった後、アルワルに通じる南方面への道に乗った。もはやNHではないので、中央分離帯もないし、所々にスピードブレーカーもある。注意して進まないと危険だが、道は比較的きれいに舗装されており、交通量もさほど多くなく、しかも素朴な田舎の風景を楽しみながら走行できるので、デリー周辺のツーリング・ルートの中ではかなり快適な部類に入る。途中からは、のっそのっそと歩くラクダ車や、荒々しくも美しいアラーヴァリー山脈の雄姿が風景に加わる。一点注意すべきなのは、ティジャーラーに入る前にあるロータリーである。ティジャーラーは町中の道路が泥沼になった最悪の町であり、ここに迷い込むとひどい目に遭う。そのためであろうか、ティジャーラー市内に入らなくてもいいようにちゃんとバイパスが用意されており、ロータリーで直進せずにバイパスの方へ進むことが重要になる。それさえ注意すれば、特に問題ないだろう。

 このルートを走行中、途中でバイクを運転するインド人のおばちゃんとすれ違った。スクーターに乗っているおばちゃんはデリーでも数多いが、サルワール・カミーズの姿でバイクにまたがって颯爽と走行するおばちゃんは初めて見た。インドに住んで6年になるが、まだまだ新しいものを見せてくれるとは、インドもさすがである。

 キシャンガルを越えた辺りから、「アルワル○○km、サリスカー○○km」という道標が目に入るようになる。アルワル市街地に入る直前に三叉路があり、直進するとアルワル、左折するとラージガルとの表示が見える。この道を左折し、6kmほど進むとロータリーがある。このロータリーを左折し、さらに6kmほど進むと、ヒル・フォート・ケースローリーの看板がある。その看板に従って左折し、2km進むと、農村風景の中に忽然と小さな城塞が見えて来る。これがインド最古の宮殿ホテル、ヒル・フォートである。デリーからは160kmほどであった。


ヒル・フォート・ケースローリー

 ヒル・フォートは全21室のこじんまりとした宮殿ホテルだが、アラーヴァリー山脈に囲まれた広大な農地の中にポツンと立っており、眺めは抜群である。中庭は木陰が気持よく、くつろぎの空間となっている。また、夕方には城壁や屋上のテラスでのんびりと夕日を眺めることが出来る。ニームラーナー・フォート・パレスのような派手さはないが、過ごしやすそうなホテルになっていた。また、ホテルの中にはニームラーナー・ショップがあったが、開いている気配はなかった・・・。


ホテルの風景

 宿泊したのはヒンドーラー・マハルという部屋。城の東側の2階にある。ヒンドーラーとはブランコのことで、部屋の中には大型のブランコが天井から吊り下げられている。外にはテラスがあり、そこからはケースローリー村を一望の下にすることが出来る。また、インドではブランコはクリシュナとラーダーと密接な関係があるのだが、それを反映して部屋の壁にはクリシュナ関係のアンティークな絵が多数飾られていた。


ヒンドーラー・マハル

 ケースローリー村は人口600人ほどの小さな農村であった。村の外には延々と畑が続いており、ちょうどバージラー(ヒエ)の穂がなっていた。外国人観光客が訪れるためだろう、村の子供たちは例によって「ペン、ペン」と言い寄って来るが、しつこくはない。それを除けば特に観光客ずれしたところはなく、のどかで平和な村だと感じた。


ケースローリー村

 村の中心部には小さなモスクとダルガー(聖者廟)があった。ヒル・フォートから一通り眺めてみたが、ヒンドゥー寺院らしきものは見当たらなかった。唯一、村の外れの池のそばに半分崩れた寺院跡があった。と言うことはムスリムの村かと思ったが、ムスリムっぽい服装をした人はおらず、村からは不思議なほどイスラーム教を感じなかった。イスラーム教徒に礼拝を呼び掛けるアザーンも、滞在中一度も聞かなかった。現在はラマダーン(断食月)中だが、特に断食をしている様子もなかった。よって、ここはメーオと呼ばれる、イスラーム教に改宗した元ヒンドゥー教徒コミュニティー(ラージプート、ジャート、ミーナーなど)が多数を占める村なのではないかと結論付けた。メーオは一応イスラーム教徒ながら、ヒンドゥー教の教義や習慣も捨てておらず、混淆した文化を持っていると聞く。メーオは主に、デリー~ジャイプル~アーグラーを結ぶ黄金の三角形地帯(メーワート地方)に住んでおり、ケースローリー村は正にその中に含まれている。また、ヒル・フォートを建造したのも、カーンザーダーと呼ばれる、イスラーム教徒に改宗したヤードゥヴァンシー(ヤーダヴ族)の王と言われており、ケースローリーがメーオの村だというのは間違いないと思われる。


花とヒル・フォート


バージラー畑とヒル・フォート


牧女とヒル・フォート

 午後5時~6時まではティータイムで、中庭で紅茶を飲むことが出来る(無料)。アール・グレイ、ニールギリ、アッサム、レモンティーの中から選べた。午後7時~8時まではバータイム。同じ場所でアルコールを楽しむことが出来る。オールド・モンク(世界最高のラム酒、インド産)があったのでラムコークを注文したが、変な味でガッカリ。ダイエット・コークしかなかったからそれで割ったらしいが、それにしても変な味であった。きっとスタッフの誰かがこっそりオールド・モンクを飲んで、減ったのがばれないように後から水を足したに違いない。瓶に入ったオールド・モンクの色は明らかに薄かった。それだけでなく、コーラの炭酸も抜けていたように思えた。とにかく全てが噛み合っていない味であった。こんなガッカリのオールド・モンクは初めて飲んだ。その後キングフィッシャー・ビールも注文したが、これも何か薄かった。ラージャスターン州の酒は皆こうなのか?理由は分からないが、ここの酒はどうも信用できなかったので、アルコールが必要な人は持参した方が無難かもしれない。夕食は午後8時~9時半でビュッフェ形式。ヴェジ、エッグ、チキン、マトンと一通り出て来るが、インドの様々なレストランと同様に、ヴェジが一番おいしかった(ヴェジのコックがノンヴェジの料理を作ることがけっこうあるのだが、そんなノンヴェジ料理ほど信用ならないものはない)。日によってメニューは変わると思うが、ダム・アールーは深みのある味で美味だった。朝食は午前8時~9時。パラーターなどもあったが、基本的には洋食。スクランブルエッグや、マウサンビー(ヘソミカン)のフレッシュ・ジュースがおいしかった。


朝の風景

 帰りはサリスカー虎保護区やニームラーナーに寄った。サリスカーへは、フェアリー・クィーン号ツアーに参加したときに行ったことがある(参照)。なぜ再訪したかというと、この近くにいくつか未踏の遺跡があるからである。しかし、ケースローリーからサリスカーまで案外時間がかかった上に、目的の遺跡を全て回ったら一日はかかることが分かったので、またいつか来ることにして、デリーへの帰路に就いたのだった。ちなみに、サリスカーで以前宿泊したRTDCホテル・タイガー・デンで昼食を食べたのだが、ヴェジ・ターリー(140ルピー)はかなりおいしかった。これを食べにはるばる来たと思ってもいいぐらいだった。アルワル、サリスカーからシャープラー(NH8)へ抜ける道も、アラーヴァリー山脈の迫力ある風景を楽しむことが出来て儲け物であった。また、この道を走っていると遠くにいろいろ城が見えた。今でも誰か住んでいるのか、それとも廃墟となっているのか分からないが、アルワル周辺を探検してみるといろいろ発見があるのではないかと思った。また来ることになるだろう。


サリスカー~シャープラー間で発見した城

 また、ニームラーナーに寄ったのは、ニームラーナー・フォート・パレスへ行くためではなく、その城下町に住んでいるラクシュマンに会うためであった。ラクシュマンはニームラーナー・フォート・パレスのすぐ近くで土産物屋をやっている。なぜか彼とはニームラーナー初訪問時から意気投合して現在まで親交を保っている。今回も帰りにニームラーナーの近くを通ったので、ついでにラクシュマンに会いに行ったのである。ラクシュマンは以前は別の店で働いていたのだが、今では独立してニームラーナー・シルバー・クラフトと言う新しい店を開いていた。デリーやジャイプルから仕入れて来るようで、特に変わった商品を取り扱っている訳でもないが、割といいセンスをしているのではないかと思う。もしニームラーナーに行くことがあれば、是非ラクシュマンの店も見てみて欲しい。

 ニームラーナーではラクシュマンの店で1時間ほどのんびりしてしまった。結局デリーに帰り着いたのは午後8時過ぎであった。今回はケースローリーだけでなく、サリスカーやニームラーナーも回ったので、合計460kmほどのツーリングになった。アルワル周辺は探検する価値があることが分かったので、次につなげることが出来るツーリングになったと思う。

 また、このルートは今最も発展著しい国家首都圏(NCR)の南西部を巡るツーリングにもなった。「首都圏」を示す言葉はいろいろあって紛らわしいのだが、デリー・マスタープラン2021によると、NCR(National Capital Region)と言った場合、ラージャスターン州、ハリヤーナー州、ウッタル・プラデーシュ州を含むかなり広範な地域のことを指す。総面積は33,758平方kmになる。その内、グルガーオン、ファリーダーバード、ノイダ、ガーズィヤーバード、ソーネーパト、バハードゥルガルなどのデリー近郊地域を含めたエリアを中央国家首都圏(Central NCR)と呼んでいる。以前はデリー首都圏(Delhi Metropolitan Area)と呼ばれていた。総面積は約2,000平方kmである。さらに、デリー州のみのエリアのことを、デリー国家首都圏(National Capital Territory of Delhi - NCT Delhi)と呼んでいる。総面積は1,483平方kmになる。今回、デリーから100~150km離れたやニームラーナーやアルワルの方まで行ったのだが、ここはまだNCRの範囲内である。つまり、広い意味での首都圏として定義されている地域だ。まだまだ田園風景広がる田舎だが、NH8沿いやダールへーラーの辺りは急速に開発が進んでいると感じた。特にニームラーナーに大きな工業地域が出来ていたのには驚いた。もうニームラーナーも秘境ではない。あと10年もしたら、名実共に首都圏はアルワルの方まで押し寄せるのではないかと思う。

 最後にニームラーナー・ホテルスの予約方法を補足しておこうと思う。ニームラーナー・ホテルスの系列ホテルに宿泊したい場合、デリーを拠点としている限り、一番お勧めなのはオフィスを直接訪ねることである。オフィスはデリーのニザームッディーン駅のすぐ近くにある。ニームラーナー系列のホテルは部屋ごとにいろいろ特徴があるため、どの部屋に泊まるかでだいぶ印象が変わってしまう。オフィスには全ての部屋の写真が数枚用意されており、それらを見比べながら泊まる部屋を決めることが出来る。スタッフの助言も参考になる。やはりまずはニームラーナー・フォート・パレスに宿泊すべきだが、パタウディー・パレスやヒル・フォート・ケースローリーもそれぞれに魅力があり、捨てがたい。また、カーン・マーケットにはニームラーナー系列のショップもある。

10月2日(火) 誤算の常緑都市ルティエンス・デリー

 チャーンドニー・チャウクの昔の絵や写真を見ると、中央にネヘレ・ビシシュト(天国の水路)と呼ばれる水路が流れ、緑の溢れる美しい通りだったことが分かる。その頃は、ラールキラーの威容を背景に、アジア中の富が行き来する、さぞや壮麗な通りだったことだろう。チャーンドニー・チャウクだけではない。かつて、シャージャハーナーバード(現在のオールド・デリー)は無数の庭園が点在する庭園都市であった。現在の雑多なチャーンドニー・チャウクやオールド・デリーから往時の姿を想像するのは難しい。


1846年のチャーンドニー・チャウク
大英図書館所蔵

 ムガル朝の衰退に伴い、デリーは外部から頻繁に侵略と略奪を受けるようになるが、それでもシャージャハーナーバードは廃墟にはならなかった。シャージャハーナーバードの景観が一変する大きな転機となったのは、1857年のインド大反乱であった。一度は反乱軍に占拠されたシャージャハーナーバードであったが、すぐに英国軍は体勢を立て直し、奪還に成功した。その後、英国人はラールキラー内部やシャージャハーナーバードのかなりの部分を更地にしてしまった。現在オールド・デリー駅がある場所や、ラールキラーとジャーマー・マスジドの間の地域も、かつては市街地となっていた。

 チャーンドニー・チャウクの風景がガラリと変わるきっかけになったのはデリー遷都である。1911年12月12日、デリーを訪れた英国の国王ジョージ5世は、英領インド帝国の首都をカルカッタからデリーに移転することを発表した。そして翌年12月23日に、ハーディング総督はチャーンドニー・チャウクで遷都記念パレードを行った。だが、ハーディング総督はこのとき爆弾テロに遭い大怪我を負ってしまう。かつてチャーンドニー・チャウクにはニーム(インドセンダン)とピーパル(インドボダイジュ)の並木があったが、テロリストたちは木々によって視界が遮られるのをうまく利用してテロを行った。よって、ハーディング総督暗殺未遂事件の後にこれらの木々は切り倒されてしまい、中央を流れていた水路も埋め立てられてしまった。ちなみに、このテロの首謀者が、後に日本に亡命して新宿中村屋に匿われた「中村屋のボース」ことラース・ビハーリー・ボースである。

 さて、デリー遷都を決定した英国政府であったが、シャージャハーナーバードは既に飽和状態となっており、郊外に新都市を建造する必要があった。当初はシャージャハーナーバードの北、現在デリー大学のノース・キャンパスがある辺りに新都市を建造しようとしていたが、スペースの不足により、ラーイスィーナーの丘とその麓がロケーションに選ばれた。英国人建築家のエドウィン・ルティエンスが設計者としてデリー都市計画委員会(DTPC)に加わり、ニューデリーの設計を主導することになった。このとき建造されたニューデリーは、独立後に開発されたニューデリーと区別して、一般にルティエンス・デリーと呼ばれる。コンノート・プレイス、大統領官邸、インド門を結ぶ三角形と、その南側の地域を含めた、ロータリーだらけの閑静な地域のことである。

 英国植民地政府としては、新首都ニューデリーの建設によって、地元のインド人たちに、インドに対する英国の圧倒的優位性を示さなければならなかった。デリーに遷都した大きな理由のひとつも、数世紀に渡ってインドの首都が置かれて来たデリーを本拠地とすることで、インドを支配しているのは英国であることを示すことだった。1858年に英国がインドの直接統治に乗り出した後も、インド人の間では、カルカッタに首都を置いている英国政府を単なる地方政権だと考える風潮が根強かったと言われている。中世以降、デリー以外の場所に首都が移されたことは何度もあったが、インドの精神的な首都は常にデリーにあった。そのデリーにインド文化を圧倒する新首都を建設することは、単なる権力の誇示に留まらず、英国がインドを永続的に支配して行くことの意志表明であり、また、植民地の潤滑な支配のために重要な施策であった。

 ニューデリーを建造するにあたって、目安でもあり、ライバルでもあった都市は、当然のことながら、ムガル朝第5代皇帝シャージャハーンによって1639年から9年の歳月をかけて建造されたシャージャハーナーバードであった。ニューデリーには、シャージャハーナーバード内にあるラールキラーやジャーマー・マスジドと言った堂々たる建築物を圧倒するものを建てる必要があった。例えば、総督官邸(現在の大統領官邸)はラーイスィーナーの丘の上に建てられたが、この頂上部分はジャーマー・マスジドのミーナール(塔)よりも高くなるように故意に設計されている。

 もうひとつDTPCが腐心したのは、ニューデリーをシャージャハーナーバードに勝る庭園都市にすることだった。世界でも類を見ないような、庭園と都市の融合が目指された。そのため、ニューデリーに植える街路樹の種類には細心の注意が払われた。まず重視されたのは、そのサイズと形であった。街路に心地よい影を作るだけの大きさに成長し、それでいて通行を妨げないような形の木が選ばれた。そして、「Trees of Delhi」の著者プラディープ・クリシャンによると、サイズと形以外に、乾季でも枯れ木にならない常緑樹であることが裏の選定基準となった。常に青々とした緑で都市全体を包み込むような常緑樹が、ニューデリーの街路樹として選ばれたのである。言い換えれば、ニューデリーは庭園都市であるだけでなく、常緑都市として設計されたのだ。

 そのため、北インドの街路樹として一般的な、マンゴー、シーシャム(シッソーシタン)、アマルタース(ナンバンサイカチ)、スィリス(ビルマネム)などは、枯れ木の期間が長い落葉樹であることから候補にはならなかった。1913年のDTPC最終報告書では13種類の樹木がリストアップされた。ただ数だけが報告されているだけで、どの樹木が選ばれたのかは不明だが、最終的に街路樹として多用されたのは以下の8種類だけだった(日本名は大修館書店「ヒンディー語=日本語辞典」に準じた)。
  1. ジャームン(ムラサキフトモモ)
  2. ニーム(インドセンダン)
  3. アルジュン
  4. イムリー(タマリンド)
  5. ソーセージ・ツリー
  6. バヘーラー(セイタカミロバラン)
  7. ピーパル(インドボダイジュ)
  8. ピルカン(イチジクの仲間)
 その他、以下の種類の古木もルティエンス・デリーに見られるが、限られた通りにしかない。これらの内のどれかが13種類の樹木に含まれていた可能性がある。
  1. プトランジーヴァ(トウダイグサの仲間)
  2. マフワー(イリッペ)
  3. ジャーディー(?)
  4. リバー・レッド・ガム
  5. キルニー(サワノキ)
  6. ウッルー(?)
  7. ブッダズ・ココナッツ
  8. アンジャン(?)
  9. ローレル・フィグ
 当然、これらの木々はごちゃ混ぜに植えられたわけではなく、街路ごとに計画的に植樹された。よって、ニューデリーの街路と街路樹を注意深く見ると、通りごとに樹木の種類が全く異なっているのが分かる。例えばコンノート・プレイスからラージパトを垂直に貫いて南へ通じるジャンパトは、一貫して主にアルジュンが植えられている。また、ラージパトとインド門周辺にはジャームンまたはラージ・ジャームンが植えられている。アクバル・ロードは最初から最後までイムリーの並木が続くし、サフダルジャング廟からインド門に続くプリトヴィーラージ・ロード~シャージャハーン・ロードは、ニーム通りとなっている。


ジャンパトのアルジュン並木とアルジュンの実


インド門とラージ・ジャームン


アクバル・ロードのイムリー並木とイムリーの葉

 上では、これらの木々は常緑樹であるために植樹されたと書いた。しかしながら、実はイムリー、アルジュン、ニームなどの木々も、短期間ながら落葉の季節がある落葉樹である。そうすると、ニューデリーの設計者が常緑樹を街路樹に選んだというプラディープ・クリシャンの説と矛盾してしまう。だが、クリシャン氏はその疑問に自分で答えている。同氏によると、それは英国人園芸家の調査不足から生じた設計ミスだと言うのである。どうやら上記の木々は、湿った森林や川岸では、常緑樹のようになり、落葉しなくなるらしい。木の落葉には、水分が重要な働きをしている。すなわち、乾燥していると木は葉を落とすし、十分な水分があれば木は葉を落とさない。クリシャン氏によると、街路樹選定の際、これらの木々が落葉樹であることが英国人にまだ知られていなかった可能性が高いとのことである。彼らははっきりと落葉樹であることが分かった樹木をリストから外し、最終的に常緑樹だと思われる13種類の樹木を選んだのである。だが、長い乾季があるデリーに植えられたそれらの木々は、本来の性質に従って定期的に葉を落とすようになった。常緑都市を目指した英国人の計画は、残念ながら完全には実現されなかったのである。

 また、ルティエンス・デリーのいくつかの街路には、当初の計画とは違う樹木が後から(おそらく独立後に)追加されてしまっている。例えば、ローディー・ロードにはニームの木が街路樹として計画的に植えられ、今ではそれらは立派な大樹に成長しているが、異なる種類の樹木もかなり目に付く。さらに、開発によって昔の樹木が全く姿を消してしまっている通りもある。最近ではメトロの工事が行われているため、昔からの大樹がさらに伐採されつつある。


ローディー・ロードのニーム並木

 ちなみに、ルティエンス・デリーの街路樹の多くが花を咲かすのは酷暑期で、今はルティエンス・デリーの木々を見て回っても、葉っぱか実が見られるだけで、華やかさはなかった。唯一、今の季節に花を咲かせていたのは、サプタパルニー(ジタノキ/トバンノキ)であった。ルティエンス・デリーで手軽にサプタパルニーの並木が見られるのは、デリー・ゴルフ・クラブの西を通っているアーチビショップ・マカリオス・マールグである。サプタパルニーは常緑樹だが、元々ルティエンス・デリーの13種類の樹木の中には入っていなかった。ヒマーラヤ地方原産のサプタパルニーは、1940年代後半、ゴルフ・リンクス・コロニーが建設されたときに、このアーチビショップ・マカリオス・マールグにデリーで初めて植えられたらしい。今ではチャナキャプリーやプレス・エンクレイブ・マールグなど、デリー各地で見られる。サプタパルニーの花は独特の強烈な匂いを発しており、今の季節のデリーの風物詩のひとつに数えられてもおかしくないだろう。


アーチビショップ・マカリオス・マールグのサプタパルニー並木と
サプタパルニーの花

 実で言ったら、ルティエンス・デリーの8つの街路樹のひとつに含まれるソーセージ・ツリーが面白かった。アフリカ原産のこの木には、その名の通りソーセージのような形をした実がなる。雨季に実が出来るようだが、そのままずっとぶらさがっていることが多いらしい。今でも実を見ることが出来た。ちなみに実は毒性で食べることは出来ない。ルティエンス・デリーでは、コペスニクス・マールグや、カーン・マーケットの南のスブラマニヤム・バールティー・マールグなどに街路樹として植えられている。


カーン・マーケット近くのスブラマニヤム・バールティー・マールグの
ソーセージ・ツリー並木とソーセージ・ツリーの実

 ルティエンス・デリーの主な街路樹と、その開花時期を表にまとめてみた。

木の名前 植樹された主な街路の名前 開花時期
ジャームン
ラージ・ジャームン
アショーク・ロード
フィーローズ・シャー・ロード
ラージパト
インド門周辺
モーティーラール・ネルー・マールグ
トゥグラク・ロード
5月
ニーム サンサド・マールグ
カストゥルバー・ガーンディー・マールグ
プリトヴィーラージ・ロード
シャージャハーン・ロード
アウラングゼーブ・ロード
ローディー・ロード
4月
アルジュン ジャンパト 4月末~5月
イムリー ティラク・マールグ
アクバル・ロード
6月~8月
ソーセージ・ツリー コペルニクス・マールグ
プラーナー・キラー・ロード
ノース・アベニュー
サウス・アベニュー
アムリター・シェールギル・マールグ
スブラマニヤム・バールティー・マールグ
4月~8月
バヘーラー シュリーマント・マーダヴ・ラーオ・スィンディヤー・マールグ
カニング・ロード
DRラージェーンドラ・プラサード・ロード
4月
ピーパル マザー・テレサ・クレシェント 4月、10月
ピルカン チャーチ・ロード
ダルハウジー・ロード
DRザーキル・フサイン・マールグ
7月~9月
プトランジーヴァ ブラッセイ・アベニュー
フクミー・マーイー・マールグ
レース・コース・ロード
4月
マフワー ラージェーシュ・パイロット・マールグ(旧名サウスエンド・ロード) 4月
ジャーディー クリシュナ・メーナン・マールグ 3月、8~9月
リバー・レッド・ガム トルストイ・マールグ 10月~11月
キルニー ジャスワント・スィン・ロード
マン・スィン・ロード
1月
ローレル・フィグ ラージャージー・マールグ 4月~8月
サプタパルニー アーチビショップ・マカリオス・マールグ 10月~12月

 「Trees of Delhi」には、ルティエンス・デリーの街路樹をまとめたマップが掲載されており、EICHERの「Delhi City Map」と照らし合わせて見て行くと、迷いやすいルティエンス・デリーも迷わずに回れるのではないかと思う。ただ、前述の通り、「○○並木」として紹介されている通りにも異なる種類の樹木がかなり大量に追加されてしまっており、注意深く葉の形などを観察する必要がある。

10月5日(金) ラグ・ラーイ講演会

 今日、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)に、有名なインド人写真家ラグ・ラーイがやって来て、「Creativity in Daily Life」と題した講演会を行った。JNUの写真クラブが招聘したようだ。タイミングが合ったので、ラグ・ラーイの講演を聞きに行った。

 ラグ・ラーイと言うと、1984年にボーパールで発生した世界最悪の化学工場事故、ユニオン・カーバイド事件の報道写真があまりに有名である。工場から漏れ出した有毒ガスの餌食となって死んだ子供が土葬されているシーンを撮った写真――土の奥から虚ろな目をした子供が顔だけを覗かせ、見る者を凝視し返している・・・――は、ユニオン・カーバイド事件の象徴として、また、ラグ・ラーイの代名詞として、人々の記憶に残っている。それ以外にも、マザー・テレサやインディラー・ガーンディーなど、インドの偉人に数えられる人々の写真集や、タージ・マハルやカジュラーホーなど、インド各地の有名遺跡の写真集など、多くの代表作を残している。日本でも何回か個展が開かれているはずである。

 本日午前10時半(実際には11時頃から開始)より、JNUの言語文学文化学科(SLL&CS)の会議室で行われたラグ・ラーイ講演会。クリケットの試合があったためか、出席者の数は意外にも少なかった。一体JNUの写真クラブのメンバーは何人いるのだろうか?

 やはり偉大な人というのはそういうものなのだろうか、ラグ・ラーイはとても穏やかなオーラを持った人だった。会場に入って来ても、すぐには「この人がラグ・ラーイだ」とは分からなかった。場を圧倒するオーラを持った人ではなく、場に溶け込むタイプの人だと感じた。写真に関する有益なテクニックの話が聞けるのかと思っていたが、ラグ・ラーイは講演をなんとインドの古典音楽(アラーウッディーン・カーンやラヴィ・シャンカルなど)や芸術映画(サティヤジト・ラーイ)の話から始め、マザー・テレサを経由しつつ、最後はやっぱりインドの古典音楽や芸術映画の話で締めていた。そこで語られていたのは、どちらかというと精神論的なことが多かった。どれだけ自分の仕事に専心できるか、自分自身を捧げることが出来るか、そういう抽象的で一般論的な話が中心であった。何となく、バクティズム・スーフィズムや聖典バグヴァト・ギーターにも通じるものがあり、インド人は極致まで達すると皆そうなるのだなぁと逆に興味深かったのだが、写真の話がほとんどなかったことは、少なからず聴衆を失望させたようだ。その後、質疑応答の時間になり、聴衆からは写真に関する具体的な質問が次々と飛び出た。

 まずやはり、創造性は教えることが可能かどうかという議論があった。ラグ・ラーイは、「自分が今までどのように撮って来たかを教えることは可能だが、それでは単なる模倣を広めるだけで、創造性ではない」と見解を述べ、やはり音楽の話へ行って、「アラーウッディーン・カーンはラヴィ・シャンカル、ニキル・バナルジー、ヴァサント・ラーイなど、それぞれ個性的な弟子たちを育てた。真のグルとは、何かを教えられる人ではなく、個人の才能を引き出せる人のことを言う」と結論付けていた。また、何をするにも人生を楽しむことが一番大切だと語り、そのためには常に新しいことに挑戦していく姿勢、プログラムされたものを解体していく姿勢を持つ必要があると述べていた。よって、彼は過去の作品には全く執着はないと言う。過去の作品は過去の作品であり、そこで完了したもの。それにしがみつくことはしない、と語っていた。いつまでもボーパールのあの写真と結び付けられて紹介されるのは本望ではなさそうだった。

 それと関連し、ラグ・ラーイは、自分の最高傑作は常に日常生活から生まれているとの考えを述べた。ラグ・ラーイはステイツマン紙、サンデー誌、インディア・トゥデー誌などのカメラマンを務め、報道写真を中心に名声を獲得して行ったが、メディアのために撮った写真は仕事に過ぎず、特に思い入れはないらしい。また、写真の対象が大事件であればあるほど、写真は自然に注目を集めるため、彼には退屈に感じるようだ。それよりも日常の一瞬の風景をカメラで捉えることに自分の創造性をつぎ込みたいと語っていた。また、そのためには「コネクション」が重要だと主張していた。人であろうと建物であろうと自然であろうと、撮影する対象とコネクションを築けなかったら、いい写真にはならない。

 白黒→カラー→デジタルと言うカメラの進化については、ラグ・ラーイは肯定的に語っていた。時代は変わるものであり、技術も進歩するものである。写真家も技術の進歩に従って行くべきだと述べていた。ラグ・ラーイは白黒写真が好みなのかと思っていたが、特にそういうこだわりはないようで、白黒かカラーかは表現したいものに依るようだ。ただ、色にはそれぞれ感情があるため、カラー写真はそれぞれの色の感情をまとめるのが難しいと語っていた。一方、白黒はそういう色の主張を全て黙らせてしまうため、カラー写真よりも易しい。ただし、カラー写真を撮るようになったのは、所属していたメディアの要望によるもので、自発的にカラー写真を始めたわけでもないようだ。デジタルカメラの登場についても全面的に受け入れていた。彼は3、4年前からデジタルカメラを使い始め、現在はニコンのデジタル一眼レフD200を使っているようだ。主にこのカメラ一台(とレンズひとつ)だけを持ち歩いて写真を撮っているらしい。いかにも「プロの写真家が来たぞ」と言った重装備で現場に望むと、「コネクション」が築きにくいので、避けていると語っていた。

 ラグ・ラーイは写真家集団マグナム・フォトに属しており、そのウェブサイト(英語版/日本語版)で彼の作品を鑑賞することが出来る。やはり世界的に有名な写真家だけあって、息を呑むような作品ばかりである。特に彼は一貫してインドをテーマにした写真を撮り続けているので、同じような風景を見て機会が多い者にとっては目から鱗である。

 写真には全然詳しくないので、ラグ・ラーイが天才写真家かどうかは分からない。だが、何かひとつのことに極限まで取り組んだ人にありがちな、達観した佇まいを持つ人で、きっとすごい人なんだろうと思った。

 ラグ・ラーイの講演を聞いてとりあえず、せっかく「被写体の宝庫」インドにいるのだから、なるべくカメラを持ち歩いてみようか、と少し影響を受けた。インドに住み始めた頃はいつもカメラを持ち歩いていたものだっただが、やはりインド生活が日常になってしまうと、そういうことも少なくなってしまう。ただ、旅行者の視点と同じになってしまっては、それは退化と言えるだろう。生活している人ならではの視点がなければならない。例えば、貧しい人々ばかりを撮影するのは旅行者の悪い癖だ。そういう外国人旅行者の趣向をインド人はよく理解できないし、迷惑にも思っているようだ。「なぜ彼らはインドの悪い部分だけを切り取ろうとするのか?なぜインドの悪い評判だけを広めようとするのか?」と。だが、貧しい人々というのは外国人にとってはフォトジェニックなオブジェであり、イメージ通りのインドであり、それを撮りたいと思う気持ちは僕も外国人なのでよく分かる。貧しい人ほど大喜びで被写体になってくれるというのも、それを助長しているだろう。しかし、その葛藤を乗り越えなければ、ラグ・ラーイが講演の題名に掲げた「日常の中の創造性」は得られないような気がする。

10月8日(月) デリーのムジュレーワーリー

 「ムジュラー」とはペルシア語で「挨拶」という意味である。デリー・サルナタト朝時代、接見式や宴会などに出席したい者は、「某はムジュラーのために出席しとうございます」などと言って伝えていた。だが、ムガル朝時代になると、タワーイフ(芸妓)が踊りを披露する前に観衆に対して「ムジュラーを申し上げます」などと決まり文句を言っていたため、やがて「ムジュラー」は踊りや歌のことを指すようになり、「ムジュレーワーリー(ムジュラーをする女性たち)」は踊ったり歌ったりする女性たちのことを指すようになった。当時、女性が歌ったり踊ったりすることははしたないこととされており、接見式や宴会などでムジュラーをするのはタワーイフのみであった。また、金持ちの家では、出産、結婚式、祭りなど、慶事のときにタワーイフを呼んでムジュラーをさせるのが習わしとなった。

 タワーイフは、ナウチー(芸妓見習い)、演奏家、パーン屋などを引き連れて邸宅を訪れ、歌を歌い、踊りを踊った。タワーイフは当然のことながら踊りと歌に長けていたが、それだけでなく、詩を詠んだり、気品溢れる知的な会話をしたりすることが出来た。よって、人々はタワーイフの一挙手一挙動に心を奪われるのだった。ムジュラーは邸宅のマルダーナー(男性居住区)で行われることが多かったが、基本的に誰でも見物することが許された。よって、ムジュラーが催される邸宅には自然と人々が集まって来た。邸宅の女性たちも、屋上や格子の裏からムジュラーを楽しんだ。ムジュレーワーリーを呼ぶのは決して安くなく、人気のある者だと何十万ルピーもかかった。よって、ムジュラーは本当に裕福な者でしか催せなかった。大富豪は自身の財力を示すためにムジュラーを行ったし、ムジュレーワーリーと深い仲になることは、その家の破滅を意味した。

 タワーイフは基本的に報酬さえ折り合いがつけばどの邸宅でもムジュラーをしたが、誰かの妾となった場合、その人のためだけにムジュラーをした。このようなムジュラーをデーレーダールニーなどと言い、最も位の高いタワーイフとされた。時代も時代で、妾を持つことは、金持ちの一種のステータスとされていた。妾になるようなタワーイフは、踊り、歌、教養、詩才、行儀作法など、どれも最高レベルを誇り、彼女の屋敷は文化の中心地とされた。良家の子女はそのような最高峰のタワーイフの家に送られ、行儀作法を学んだと言う。

 タワーイフの館はコーターと呼ばれた。コーターには必ず酒杯が置かれ、サーキー(酌婦)が客に酌をした。フッカー(水タバコ)も用意され、パーンダーン(パーンの容器)やウガールダーン(痰壺)が整然と並べられていた。床にはマスナドと呼ばれる、もたれかかるタイプの大きな枕や、ガーオ・タキヤーと呼ばれる円筒形の枕が置かれており、客はゆったりとくつろいで座ることができた。壁には鏡や絵が飾られ、天井からは飾り天幕やシャンデリアが吊り下げられていた。

 デリーには多くの有名なタワーイフが住んでいた。例えば18世紀に生きたヌールバーイーは、この世のものとは思えないほど美しく、優れた話術を持っており、しかも聡明で物知りなタワーイフであった。デリーの大富豪たちは皆が皆、彼女の美貌とムジュラーの虜になり、彼女のコーターへ行くことを何よりの誇りと考えていた。時の皇帝ムハンマド・シャー・ランギーラーも例外ではなかった。彼女は宮殿のように壮麗な豪邸に住んでおり、ムジュラーに出掛けるときも召使いの一群を連れ、まるでパレードのように路地を練り歩いた。彼女を呼ぶには、最初から高価なダイヤモンドや宝飾品をプレゼントしなくてはならず、ムジュラーが終わった後も金銀財宝の山が惜し気もなく差し出された。彼女は、関わった男を破滅させる魔性の女として噂で有名であった。彼女の金銭欲は尋常ではなかった。彼女は男ではなく、その男の持つ金だけを愛していた。それでも男たちは何とか彼女を物にするため、巨額の金をヌールバーイーに投じ続けた。金がある内は彼女に相手をしてもらえるが、全ての金を使い果たした後は、見向きもされなくなった。こうしてデリーの多くの大富豪が破産してしまったと言う。また、ナーディル・シャーの侵略を受けたとき、ムガル王家の至宝コーヘ・ヌールの在り処をナーディル・シャー漏らしたのもヌールバーイーだったと言われている。ムハンマド・シャーはコーヘ・ヌールをターバンの中に隠していたが、皇帝と愛人関係にあったヌールバーイーにとってその秘密を知るのはたやすいことだった。

 同じ頃、アミール・ベーガムというタワーイフもデリーで有名であった。彼女はムジュラーに素っ裸でやって来た。だが、彼女は上半身にチョーリー(ブラウス)、下半身にパージャーマー(ズボン)の柄の刺青を施していたため、誰も彼女が裸だとは気付かなかった。ただ、彼女と特に親密な恋人たちだけがその秘密を知っていたと言う。

 マヘーシュワル・ダヤール著「दिल्ली जो एक शहर है(Dillī Jo Ek Shehr Hai)」には、デリーのタワーイフの話術の妙に関する興味深いエピソードがいくつか載っている。19世紀頃であろう、あるときムシュタリーとゾーラーというタワーイフがいた。2人はある富豪の宴会に呼ばれた。彼女たちが中庭に足を踏み入れようとしたとき、ある軽薄な若者が彼女たちに向かって「やあ、上等のジョ―リー(जोड़ी)だ」とからかった。ジョ―リーとは今でこそ「カップル」「コンビ」みたいな意味だが、当時は馬車馬のペアのことを言っていた。それを聞いたムシュタリーは、靴を脱ぎながら返答した。「そうよ、よく分かったわね、さすが馬丁の息子ね。」それを聞いた観客は大爆笑し、若者は恥じ入って縮こまってしまった。だが、若者は復讐の機会を狙っていた。しかしタワーイフたちの方が一枚上手だった。ムジュラーが始まる前、ムシュタリーとゾーラーはわざとその若者の方に視線を向けては笑っていた。それを見た若者は我慢できなくなり、彼女たちに、「そんなに私を見つめて、私を取って喰うつもりですか?」と問い掛けた。今度はすかさずゾーラーが答えた。「私たちの宗教では、豚を食べるのは禁じられていますわ。」

 19世紀、チャーンドニー・チャウクにはチュンナーマルと言う大富豪が住んでいた。今でもチュンナーマルの邸宅はチャーンドニー・チャウクの一等地に建っている。あるとき、チュンナーマルの邸宅でムジュラーが催され、ムシュタリーが呼ばれた。


チュンナーマルのハヴェーリー

 ムシュタリーは踊りながらガザル詩を歌っていたが、そのときのラディーフ・カーフィヤー(脚韻)は「+ā huā chāhtā hai」であった。おそらくその日、ムシュタリーの足の動きがよくなかったのであろう、1人の軽薄な男がそれに気付いてこんな冗談の詩を詠んで彼女をからかった。
حمل نو مہینے کا ہے مشتری کو
کوئی دم میں لڑکا ہوا چاہتا ہے

hamal nau mahīne ka hai mushtarī ko
koī dam men larkā huā chāhtā hai

ムシュタリーは妊娠9ヶ月
今にも男の子が生まれそうだ
 それを聞いたムシュタリーはムッと来たが、それでも怒りを顔に出さず、涼しい顔をしてムジュラーを続けた。そしてその男のそばに寄ったときに大きな声でこのようなガザル詩を詠んだ。
کرو کرتے ٹوپی کی اب تم تیاری
کہ ہمشیرہ زادہ ہوا چاہتا ہے


karo kurte topī ki ab tum tayārī
ke hamshīrāzādā huā chāhtā hai

服と帽子の準備をしなさい
今にも甥が生まれそうだ
 その男がムシュタリーを「もうすぐ子供が生まれそうな重い足取りですね」とからかったところ、ムシュタリーは「そうです、あなたの姉妹である私に男の子が生まれそうですからお祝いの準備をして下さい」と返したのである。つまり、ムシュタリーはその男を自分の兄弟と呼んで家族扱いし、芸妓を出す家柄に貶めたのである。その男は屈辱のあまり卒倒してしまったと言う・・・。

 かつて、ジャーマー・マスジドの裏のチャーウリー・バーザールにタワーイフたちのコーターやハヴェーリーが並んでいた。ヌールバーイーのハヴェーリーもここにあったとされるし、有名なペルシア語・ウルドゥー語詩人ミルザー・ガーリブの恋人もチャーウリー・バーザールにいた。1857年のインド大反乱の後も、チャーウリー・バーザールは引き続き花街として栄えた。タワーイフは日本の芸妓と同様に芸能を第一とする女性たちであり、必ずしも娼婦ではないが、時代が下ると周辺の地域から売春婦同然のタワーイフたちがデリーに流入するようになった。夕方になるとチャ―ウリー・バーザールの建物のベランダからタワーイフたちが自らの美を披露しながら下界に微笑みを投げかけ、グングルー(足鈴)やタブラー(太鼓)の音があちらからもこちらからも響き渡り、通りは香水の香りで満たされた。それに釣られて多くの男たちが自然にチャ―ウリー・バーザールに集まった。裕福な若者たちや洒落者たちは競い合って上等の服を着て闊歩した。周囲の目を気にして隅の方をこそこそと歩く者もいた。パーン屋やタバコ屋も精いっぱい着飾って道端に座っていた。まるで通り全体が花嫁になったかのように毎晩華やいでいた。

 18世紀から19世紀初めを生きたラースィク・アーズィマーバーディーという詩人が詠んだ詩には、チャーウリー・バーザールの往時の栄華がよく表現されている。
چاوڑی قاف ہے یا خلد بریں ہے راسخ
جمگھٹے حوروں کے سے یہاں پریوں کے پر ملتے ہیں

chāwrī qāf hai yā khuld-e-burīn hai rāsikh
jamghate hūron ke se yahān pariyon ke par milte hain

ラースィクよ、チャーウリーはカフカースだ、さもなくば天国だ
ここでは天使たちが群れをなし、妖精たちの羽が手に入る
 だが、チャ―ウリー・バーザールの繁栄も永遠ではなかった。インド独立前に既にチャ―ウリー・バーザールの繁栄には蔭りが見え始めていたが、独立を機にその栄華には完全に終止符が打たれた。シャージャハーナーバード(現在のオールドデリー)の外縁にGBロードという通りが作られ、タワーイフたちは皆そちらへ移動した。GBロードでもムジュラーは行われた。ターラーという名の美しいタワーイフが名を馳せた時代もあった。ムジュラーワーリーはデリーの文化の重要な一部であった。だが、タワーイフの豪奢な生活は富豪たちの財力に支えられていたため、町から派手な富豪が姿を消して行くにつれて、タワーイフの生計も苦しくなって来た。きっと売春婦に身を落とすタワーイフもいたことだろう。独立後、政府が規制を強めたことにより、タワーイフの凋落は決定的となった。やがてムジュラー文化は追憶の産物となってしまった。今ではタワーイフという言葉は売春婦とほぼ同義語である。

 デリー・メトロのハウズ・カーズィー駅からジャーマー・マスジドの裏まで続くチャ―ウリー・バーザール・ロードは現在、いかにもオールドデリーと言った感じの雑多な繁華街となっている(EICHER「Delhi City Map」P58 G5, H4, H5)。バイクやサイクルリクシャーが行き交い、頭に大量の荷物を乗せたクリー(人夫)たちが忙しく立ち回っている。西の方は主に機械関係のマーケットとなっており、東の方はウェディング・カード出版会社の密集地となっている。


ハウズ・カーズィー駅交差点


チャーウリー・バーザール西部


チャーウリー・バーザール東部

 通りにはいくつか古そうな屋敷が残っていた。かつてはあの窓からタワーイフたちが顔を覗かせていたのであろうか?







 だがもう、かつてここが花街だった頃の面影は残っていないし、それを知る者もほとんどいないだろう。

 一方、GBロードは現在シュラッダーナンド・マールグと改名されたが、依然としてGBロードの名で知られており、デリーの赤線地帯として有名である。ニューデリー駅の東側、アジメーリー門のすぐ北にある(EICHER「Delhi City Map」P58 F4, F5, G5)。デリーでは知らぬ者のいないGBロードだが、この「GB」が何の略なのかは不思議なほど誰も知らない。ネットで検索すると、ガン・バクション・ロード(Gun Baction Road)、ガースティン・バスティオン・ロード(Garstin Bastion Road)、ガーンディー・バーバー・ロード(Gandhi Baba Road)、ガスティー・バーザール・ロード(Ghasti Bazar Road)など、いくつかの説が見つかるが、どれが正解なのかは分からない。結局誰も真相を知らないし、気にもしないのであろう。1階はモーター類やツール類の卸売商店街となっているが、店舗と店舗の間に薄汚ない階段があり、上階の売春宿とつながっている。階段の前にはポン引きが立っており、道行く男たちに声を掛けている。また、この辺を通行している人々は、一見ただの通行人のように見えるが、通りがかりざまに階段をさっと見上げてチェックしているところを見ると、大半は客なのだと思う。だが、基本的に昼間は通行するだけなら全く問題はない(写真撮影は困難)。GBロードが本来の姿を発揮するのは夜である。その時間にここに来る男たちはほぼ全員、売春婦目当てだと考えていいだろう。一説では4,000人の性労働者がここで働いていると言われる。その多くがネパールや貧しい農村から二束三文の金で身売りされて来た女性たちのようだ。


GBロード

 今ではムジュラーもムジュレーワーリーも、いやらしさを強調した全く違ったものになってしまったと言う。かつてのムジュラーに最も近いのはカッタク・ダンスであるが、現在は古典舞踊として鑑賞する芸術となっており、雰囲気はだいぶ違うだろう。「Mughal-e-Azam」(1960年)や「Umrao Jan」(1981年/2006年)などの映画でかろうじて当時の雰囲気を感じることが出来るのみだ。

10月10日(水) Dil Dosti Etc

 ここ数週間、ボリウッドはつまらなそうな映画が大量に公開されている。数週間に一度訪れる「駄作ダンピング週間」かと思っていたが、その裏にはもっと大きな理由があった。9月27日から10月11日は、シュラッド、ピトリ・パクシャ、タルパンなどと呼ばれる祖先崇拝の期間であった(参照)。この時期、買い物をすることは不吉とされており、ヒンドゥー教徒の経済活動は一気に停滞する。信心深い人は野菜すら買い物をしなくなる。また、イスラーム教徒にとって最大のお祭りシーズンであるラマダーン(断食月)もちょうど重なっており、映画を公開するには不適切な時期だったのである。よって、駄作が公開される確率が高くなってしまったという訳だ。ただ、去年のシュラッドでは、「Dor」や「Pyaar Ke Side/Effects」など、けっこう重要な作品が公開されていた。これも、2007年がボリウッド豊作の年だったからであろう。打って変わって不作の今年、ピトリ・パクシャ中の映画館はどこも25%以下のコレクションとだいぶ不況を呈している。

 しかし、ピトリ・パクシャ開始の翌日に公開された「Johnny Gaddaar」はなかなかの野心作だった。「ピトリ・パクシャ中に封切られた映画は駄作ばかり」とは決して言い切れない。「Johnny Gaddaar」と同日に公開された「Dil Dosti Etc」も、割といい作品のようだったので、今日見に行くことにした。結論を先に言えば、「Dil Dosti Etc」は、デリーを舞台にしたかなり僕好みの映画だった。見ておいてよかったと思う。



題名:Dil Dosti Etc
読み:ディル・ドースティー・エトセトラ
意味:心、友情、その他
邦題:デリー・グラフィティ

監督:マニーシュ・ティワーリー(新人)
制作:プラカーシュ・ジャー
音楽:スィッダールト・スハース、アグニ
振付:ジャエーシュ・プラダーン
衣裳:プリヤンカー・ムンダーダー
出演:イマード・シャー、シュレーヤス・タルパデー、スムリティー・ミシュラー、イーシター・シャルマー、ニキター・アーナンド(新人)
備考:PVRアヌパムで鑑賞。

左から、イマード・シャー、ニキター・アーナンド、イシター・シャルマー、
スムリティー・ミシュラー、シュレーヤス・タールパーデー

あらすじ
 デリー大学に入学したアプールヴ(イマード・シャー)は、裕福な家庭に育った青年であったが、人生の意味、愛の意味を追い求める哲学的な一面があった。アプールヴは、高校生の女の子キントゥ(イーシター・シャルマー)と付き合いながら、GBロードに住む売春婦ヴァイシャーリー(スムリティー・ミシュラー)のところへ通い詰める。アプールヴは、ビハール出身で政治家を目指すサンジャイ・ミシュラー(シュレーヤス・タルパデー)と出会う。サンジャイは学生自治会の選挙に立候補し、対立候補たちと火花を散らし合う毎日であった。サンジャイの恋人プレールナー(ニキター・アーナンド)は、モデルを目指すリッチな女性であった。だが、サンジャイは保守的な考えで、衆前で水着になるような職業には反対だった。

 学生自治会の投票日。下馬評ではサンジャイが有利であった。アプールヴは投票日前日、ヴァイシャーリーの部屋で一夜を明かし、早朝投票に出掛ける。その後、彼はキントゥの家に行き、彼女を抱く。そして寮に戻って来たアプールヴは、成り行きからプレールナーとも寝る。

 選挙はサンジャイの勝利に終わった。だが、その場にアプールヴとプレールナーがいないことを不審に思った彼は、アプールヴの部屋へ行く。そこには2人がいた。友情を裏切られたサンジャイは失望のままキャンパスの外に出る。

 すぐにサンジャイは死体で見つかる。自殺したのか、バスにひかれたのか、それともライバルに殺されたのか、その死因は不明だった。その後、キントゥは新しいボーイフレンドと付き合い出し、プレールナーはモデルになってファッションショーに出演していた。ヴァイシャーリーは今でも売春宿にいた。アプールヴは未だに愛の意味を追い求めていた。

 「1日に2人の女とやれるのか?」
 「そうだな、3人でもいけるぜ」

 映画は、こんなぶっ飛んだ会話から始まる。主人公のアプールヴは大学1年生の、金と暇を持て余した悩める青年。女の子を口説くのは朝飯前のプレイボーイで、「愛とは4文字言葉だ」と言い切るが、どこか哲学的なところがあり、なかなか真の愛の意味を見つけれないでいる。アプールヴは高校生のキントゥ、売春婦のヴァイシャーリーと同時並行で関係を持ち、答えを出そうとする。一方、もう1人の主人公である学生政治家サンジャイは奥手なところがあった。上記の問いかけも、アプールヴが高校生の彼女がいながら売春宿に通っていることを知ったときにサンジャイが投げかけたものだ。サンジャイは純愛を信じ、友情を絶対視し、学生政治に全てを捧げる熱い男だった。彼は恋人のプレールナーとも肉体関係を持とうとしないが、それが逆にプレールナーを傷つけていた。彼は学生自治会の選挙で会長に当選するという夢を果たすが、親友アプールヴの裏切りを知り、そのまま謎の死を遂げる。

 一見筋の通っていない映画のように見える。特に終盤でアプールヴがプレールナーとセックスに至ってしまうのは、脈絡がないように思われる。アプールヴ自身も独白で「あのときなぜプレールナーが僕の部屋に来たのか分からない」と回想している。だが、映画の冒頭のセリフを思い起こすと、映画の中心を貫く一本の芯が見つかる。それは、若い頃に誰もが悩む、自我の確立のためのもがきである。

 アプールヴは、米エール大学への留学を蹴ってデリー大学に通っていた。裕福な家庭で何不自由なく育った彼の人生に目的はなく、自堕落な生活を送っていた。寮のラギング(後述)から逃れる内に彼はデリーの有名な赤線地帯であるGBロードに通い始め、ヴァイシャーリーという中年の売春婦の部屋に入り浸るようになる。彼の言い分は、「教室も売春宿も違いはない」であった。また、純真な女子高生キントゥとも出会い、付き合い出す。アプールヴの人生に、何やら目的らしきものが生まれた。

 だが、サンジャイの存在が彼の考えに影響を及ぼすようになる。学生自治会選挙に立候補したサンジャイは、政治家への夢に向かって着実に進んでいた。サンジャイの生き様は、マイペースなアプールヴにとって、尊敬に値するものでもあり、脅威でもあった。その脅威が具体的な形になって現れたのが投票日であった。その日、彼はまずヴァイシャーリーと一夜を過ごし、早朝に手切れ金とも言える大金を枕元に置いて去って行く。投票を手早く済ませた後、彼はキントゥの家に行く。キントゥは処女で、2人の仲はまだ肉体関係に至っていなかったが、このとき初めてキントゥは彼に体を許す。だが、長居し過ぎたために母親が帰って来てしまい、彼は逃げるようにキントゥの家を去る。この後、アプールヴは「あと1人・・・あと1人・・・」と焦燥感に駆られる。アプールヴは以前サンジャイに、「1日3人いける」「愛とは四文字言葉」と公言した。それを、サンジャイの人生の晴れ舞台の日に達成してやろうとしていたのである。これらは映画中でははっきりと語られていないが、全体を通して考えればそう受け止めるしかないと思う。と、そのとき偶然、サンジャイの恋人プレールナーがやって来る。プレールナーはアプールヴに、「サンジャイが勝っても嬉しい気がしないかもしれない」と打ち明ける。夢に向かって邁進するサンジャイを見て、彼女は自分が置き去りにされているように思ったのであろう。その言葉を機に、2人は裸になって抱き合う。

 このように、アプールヴの「1日3人」という卑小な自己顕示は、結局のところ友情を犠牲にして達成することになってしまった。そして夢の実現と同時に愛情と友情の両方を失ったサンジャイは失望のまま姿を消し、その後遺体で発見される。アプールヴとサンジャイ、2人の人生観は全く別だったが、2人とも何も得ることはなかった。「人は人生の中で何かを追い求めるが、あるときふと、自分が人生から望んだのはこんなものじゃなかったと気付くときが来る。」アプールヴが最後に語る独白は非常に印象的だった。この映画で若者の悩みへの答えは提示されていなかったが、それは答えのない永遠の問いであることを思えば、自然な終わり方だったと言える。

 アプールヴの「愛の実験」は映画のもうひとつの核心であった。アプールヴは、キントゥとヴァイシャーリーという全く違う女性たちを通して、愛の意味を見つけようとする。最終的にアプールヴは、処女は愛をするもののセックスを恐れ、売春婦は誰にでも体を許すものの愛を恐れるという違いを見つけながらも、どちらも変化を恐れるという意味においては同じだと語る。そして投票日、アプールヴはヴァイシャーリーと恋愛関係になったことを確信しながら彼女の元を永遠に去り、キントゥに「ずっと大切にするから」と語りかけて処女を奪いながら関係を断ってしまう。そして親友の恋人プレールナーとベッドを共にするが、それはサンジャイの死を引き起こしてしまう。これら一連の出来事の中で彼が理解できたことは3つだけだった――サンジャイは死んだこと、自分は生きていること、そしてまだ愛の意味が理解できていないことである。

 主演のイマード・シャーは、有名俳優ナスィールッディーン・シャーの息子。ナスィールッディーン・シャーの監督デビュー作「Yun Hota To Kya Hota」(2006年)で映画デビューした。これが2作目となる。顔は父親そっくり、とぼけた演技も父親譲り、髪の毛がアフロっぽいのは地毛であろうか?「Dil Dost Etc」ではおそらく自然体の演技をしていたと思われ、どちらかというと大根役者っぽい印象を受けた。特にセリフのしゃべり方が凡庸であった。だが、父親もマイペースな演技をする人であるし、何より風貌が特殊であるため、スクリーンの中で映える力を持っているのは確かである。本気で演技をしたらどんなものか見てみたいものだ。同じく主演のシュレーヤス・タルパデーは非常にパワフルな演技をしていて好印象。「Iqbal」(2005年)や「Dor」(2006年)のときよりも明らかに腕を上げている。今年公開の「Om Shanti Om」で一気にメジャー俳優に上り詰める可能性がある。

 女優はほとんど無名だったが、適材適所であった。プレールナーを演じたニキター・アーナンドは2003年のミス・インディア・ユニバース。モデルとして活躍しており、本作で映画デビューとなる。キントゥを演じたイーシター・シャルマーは「Loins of Punjab Presents」(2007年)にも出演していた。ヴァイシャーリーを演じたスムリティー・ミシュラーは「Zubeidaa」(2001年)などに出演していたようだが記憶にない。3人とも自然に演技をしていた。

 映画の舞台はデリーで、ロケもデリーのみで行われた。デリー大学のハンスラージ・カレッジやヒンドゥー・カレッジを中心に、北から南までいろいろな場所で撮影が行われており、デリー賛歌とも言える内容となっていた。GBロードまで出て来たのはすごい。だが、実際にGBロードで撮影されたわけではなさそうだった。終盤、ヴァイシャーリーが売春宿の屋上に出てアプールヴを見送るシーンで、初めて外の風景が映し出されるが、それはジャーマー・マスジドの裏、ちょうど10月8日の日記で書いたチャーウリー・バーザールであった。

 デリー大学のラギング文化が描写されていたのは興味深かった。ラギングとは簡単に言えば新入生いじめのことで、主に寮で行われる。ラギングでは新入生は裸にされたり歌を歌わされたりする。男子だけでなく、女子の間でもラギング文化はあるようだ。だが、それは通常悪質なものではなく、むしろ上下や横の連帯感を強める通過儀礼的なものである。「Dil Dosti Etc」でもラギングはむしろ好意的に描かれていた。ただ、現在インドでは行き過ぎたラギングが問題になっている。過度のラギングによって毎年死者も出ている。ちなみに、「Munnabhai MBBS」(2003年)でもラギングを垣間見ることが出来る。

 インドの大学の学生自治会選挙の様子が分かるのも貴重だ。特にデリー大学は、学生の選挙ながら、金と力に物を言わせたパワー・ポリティックスになるのが常で、それがよく再現されていたと思う。

 正直言ってあまり期待せずに「Dil Dosti Etc」を見に行った。重い腰を上げた決め手は、「Apaharan」(2005年)などのプラカーシュ・ジャー監督がプロデューサーだったことと、ナスィールッディーン・シャーの息子が出ていたことぐらいであった。だが、意外にも自分の中で今年最も心に残った映画のひとつになった。デリーが舞台になっていたのもそのひとつの要因だが、それだけでなく、主人公アプールヴの苦悩と迷走が淡々とした筆致で描写されており、非常に現代的な青春映画に仕上がっていたことが大きかった。隠れた名作。今年のアルカカット賞候補である。

10月10日(水) キラーラインと違法また貸し

 9月16日の日記で、デリーのブルーライン・バスと政治家・警察の癒着のことを書いた。今回はその続編である。

 デリーの民営路線バス、ブルーラインは、「キラーライン」の異名を持つほど毎日のように人身事故を起こす、デリー市民にとっては死神のような存在である。10月7日には南デリーにおいてコントロールを失ったバスがバス待ちしていた人々の中に突っ込み、一気に7人もの人命を奪った。この大事件によって改めてブルーラインの恐怖がクローズアップされたが、それでもブルーラインのターンダヴァ(死のダンス)は収まらず、連日犠牲者が出ている。これで、今年に入ってからブルーラインの餌食となった死者の数は90人に達した。デリーでバイクを運転している僕にとってもこれは他人事ではない。ブルーライン・バスには極力近付かないように気を付けている。

 だが、10月7日の事件で、キラーラインの誕生に関係するひとつの重要な事実が浮かび上がった。それは違法な「また貸し制」である。

 10月10日付けのタイムス・オブ・インディア紙によると、路線バスを運行したいバスのオーナーはまずは州交通機関(STA)から認可を得る。この制度では、バス・オーナーが自分でバスを運転するか、運転手や車掌をアレンジして路線バスを運営するように想定されている。だが、実際はそのように機能していない。STAから認可を得たバス・オーナーの多くは、その権利をテーケーダールと呼ばれる請負師に下請けに出す。よって、運転手や車掌の工面や給与、CNG代や修理代の捻出などはテーケーダールが行うことになる。代わりにバス・オーナーは毎日1,500~3,000ルピーのコミッションを得る。コミッションの値段は、バスの状態や認可を得たルートの収益率により異なる。テーケーダールは乗客の数が多く収益率の高いルートのみ下請けをするため、儲からないルートを割り当てられてしまったバス・オーナーは、自分で全てをアレンジするしかなくなるようだ。だが、逆にもし収益率の高いルートの権利を手に入れたら、嫌でもテーケーダールに下請けに出さないといけなくなる。もし拒否すれば、彼らは暴力にも訴えるからだ。

 路線バスの権利を他人にまた貸しすることは法律で禁じられている。だが、STAはまた貸しがあることを十分把握していながら、ノーチェックで認可を出してしまっている。それゆえ、デリー各地にテーケーダールの発生を許す結果となった。テーケーダールの1日の純益は、バス1台につき500~1,500ルピーほどらしい。通常、テーケーダールは10台ほどのバスを下請けしているため、1日5,000~15,000ルピーを儲けていることになる。自分のバスを所有しているテーケーダールもいる。テーケーダールになる人物は地元のゴロツキのような連中がほとんどで、一定の縄張りを持っている。彼らは個人的な都合で誰でも運転手に採用してしまうため、未熟な運転手、無免許の運転手が巨大なバスを運転することになる。政府はバスのメンテナンス不足を事故多発の主な原因と考えて対策を取っているようだが、誰の目にも運転手の質の低さが原因としか見えない。一応運転手の再教育のためのトレーニング・コースは7月から行われている。だが、タイムス・オブ・インディア紙によると、8,000人のブルーライン運転手の内、トレーニング・コースに参加したのは1,500人だけで、しかも参加者の数はどんどん減り、先月は遂にゼロになってしまったと言う。これでは全く意味がない。未熟な運転手が路線バスの運転席に座る現状の裏には、デリーで横行する違法なまた貸し制がある可能性が高い。また、テーケーダールは警察や官僚にも影響力を持っており、事故を起こしたバスの運転手や車掌も、数日拘置所に入れられるだけで、すぐに釈放されてしまう。10月8日付けのタイムス・オブ・インディア紙によると、今年に入って人身事故を起こし、逮捕されたバスの運転手88人の内、82人は既に解放され、何事もなかったかのようにバスを運転していると言う。バスの利用者は概して下層の人々であることも、政府がなかなか積極的に規制に乗り出さない要因であろう。そして庶民はそれを肌で感じているため、バスが人身事故を起こすと運転手を捕まえて集団暴行を加える。運転手も運転手で事故を起こしたら周囲の人々からどんな目に遭うか分かっているため、人をひいてしまったら一目散に逃げ出す。

 10月7日に7人の命を奪ったブルーライン・バスも、テーケーダールによって運行されていた。しかも、3台のバスを所有し、50台ものバスを請け負っている大物テーケーダールであった。名前はナワーブ・カーン。メーワート地方(ハリヤーナー州南部からラージャスターン州北東部にかけての地域)出身のナワーブ・カーンは、デリーにやって来た後、まずは助手としてバスに乗り込むようになった。その後、車掌に昇格し、やがて路線バスの下請け業を始めた。彼の権力は相当なもので、交通警察や交通局役人も彼の名を聞いただけで震え出すほどだったと言う。彼が所有・下請けするバスには「NK」というコードネームが書かれており、NKバスはどんな交通違反をしても一切咎められることはなかった。縄張りはデリー南部のバダルプル一帯で、7人が犠牲となった事故もバダルプル近くで起こった。

 現在、事故を起こしたバスのオーナー、マニーシュ・カッカルと、そのテーケーダールのナワーブ・カーンの両人は家族と共に行方をくらましており、警察は後を追っている。

 元々デリーの路線バスは全て公営だったが、1992年から民間人に路線バス運行のライセンスが発行されるようになり、ブルーライン・バスが誕生した。果たしてその頃から現在のような人身事故が多発していたかは分からないが、事態が深刻化したのは、皮肉なことに、シーラー・ディークシト政権によって強行されたCNG化政策以降だったようだ。かろうじてCNG化前のデリーの空気を吸ったことのある僕には、CNG化は大成功だったと思える。まだデリーの空気を汚ないと言う人は多いが、あの頃に比べたら見違えるほどきれいになった。しかし、無理に路線バスのCNG化を推し進めたため、つまり、CNGバスしかデリーの路上を走行できなくしたため、元からバスを所有していたオーナーたちの多くは路線バス運行から手を引いてしまい、代わってテーケーダールが台頭して来たようだ。デリーのバスがCNG化したのが2002年。5年という年月は、インドのシステムの腐敗の開始とその表面化・問題の深刻化までにかかる時間としてはとても標準的に思える。ブルーラインがこれからどうなって行くかは分からない。現在対策が検討中だ。高等裁判所も動いているので、小手先だけの対処では済まされないだろう。最も厳しい対処がなされた場合、全面廃止もありうる。

 先月からブルーライン事件を特に取り上げるのは、デリーに深い関係のある事件ということもあるが、インドの社会システムの表裏を理解するのにとてもいい糸口になるような気がするからだ。インドは法治国家だが、法律だけで動いている国ではない。法律だけで動いているわけではないのだが、ある日突然法治国家へ極端にリバウンドする。外国人にはその加減がなかなか分からないので、ハラハラすることしきりだ。

10月12日(金) Bhool Bhulaiyaa

 ピトリ・パクシャが終わり、今日からナヴラートリが始まった。それに伴い、ボリウッドはいよいよ年末の期待作ラッシュ期間に突入する。上半期の不調を補うような大ヒット作が望まれるところである。

 今日は2本の期待作が同時公開された。ボリウッドで「コメディーの帝王」と賞賛されるプリヤダルシャン監督の「Bhool Bhulaiyaa」と、「Parineeta」(2005年)で衝撃のデビューを果たしたプラディープ・サルカール監督の「Laaga Chunari Mein Daag」である。我慢できなくて2本とも今日見てしまった。まずは「Bhool Bhulaiyaa」の評である。



題名:Bhool Bhulaiyaa
読み:ブール・ブライヤー
意味:迷宮
邦題:ブール・ブライヤー

監督:プリヤダルシャン
制作:ブーシャン・クマール、クリシャン・クマール
音楽:プリータム
作詞:サミール
振付:ポニー・ヴァルマー
衣裳:サーイー、ナヴィーン・シェッティー
出演:アクシャイ・クマール、シャイニー・アーフージャー、ヴィディヤー・バーラン、パレーシュ・ラーワル、マノージ・ジョーシー、アミーシャー・パテール、ラージパール・ヤーダヴ、アースラーニー
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

上段左から、パレーシュ・ラーワル、アミーシャー・パテール、
アスラーニー、マノージ・ジョーシー
中段 ラージパール・ヤーダヴ
下段左から、ヴィディヤー・バーラン、アクシャイ・クマール、
シャイニー・アーフージャー

あらすじ
 ヴァーラーナスィーに住む王族の家系チャトゥルヴェーディー家は、近所の人々からお化け屋敷と恐れられる邸宅を所有していた。その屋敷には、禁断の恋をして王に殺された踊り子マンジュリカーの霊が住みついており、王家に属する者を家に寄りつかせようとしないと言われていた。一族の長バドリーナーラーヤン(マノージ・ジョーシー)は家の者に、絶対に邸宅の3階へ行かないように厳しく言いつけてあった。

 ある日、バドリーナーラーヤンの亡き兄の息子で米国に留学していたスィッダールト(シャイニー・アーフージャー)がヴァーナーラスィーに戻って来る。バドリーナーラーヤンは、実の娘同然にかわいがっていた養女のラーダー(アミーシャー・パテール)をスィッダールトと結婚させようと考えていたが、スィッダールトは米国で出会ったインド人女性アヴニ(ヴィディヤー・バーラン)と結婚し、彼女も連れて来ていた。落胆したバドリーナーラーヤンであったが、スィッダールトを歓迎する。

 ところが、スィッダールトは例のお化け屋敷に住むと言い出す。バドリーナーラーヤンや、その弟のバトゥクシャンカル・ウパーディヤーイ(パレーシュ・ラーワル)は幽霊の話をして思い留まらせようとするが、スィッダールトは全く迷信を信じておらず、アヴニと共に住み始める。バドリーナーラーヤンは仕方なく、家族全員でその屋敷に住むと言い出す。こうしてお化け屋敷にしばらくチャトゥルヴェーディー一家が住むことになった。

 アヴニは好奇心から、禁断の3階へ上がり、封印されていた扉を開けてしまう。その先は大広間となっており、壁にはマンジュリカーの絵が飾られていた。さらに、彼女の衣服や装身具がそのまま置かれていた。

 そのときから屋敷で異変が起こるようになる。突然物が壊れたり、倒れたりし出し、アヴニのサーリーは急に燃え出す。そしてバドリーナーラーヤンの娘ナンディニーは急に動き出したブランコに頭を打たれて倒れてしまう。幸い大事には至らなかったが、安静することになった。スィッダールトはラーダーを疑い、友人の精神医アーディティヤ・シュリーワースタヴ(アクシャイ・クマール)を家に呼ぶ。アーディティヤは家族に溶け込むながら怪奇現象の原因を探る。そして、夜になると3階からグングルー(足鈴)の音が聞こえて来るのに気付く。

 ナンディニーは、隣に住むシャラド・プラダーン教授と結婚することになっていた。バドリーナーラーヤンは、不吉なことが起こる前に婚約式を済まそうとする。その夜、アヴニの様子が変になり、シャラドを連れ出して奇妙な行動を起こす。アーディティヤは調査の結果、既に確証を得ていた。アーディティヤはスィッダールトに、幽霊の正体は彼の妻のアヴニだと言う。精神学的に彼女は解離性同一性障害(DID)と言う病気であった。必ずしも幸せな幼年時代を送れなかったアヴニは、祖母からおとぎ話を聞いて物語の世界に生きて来た。よって物語の主人公に成りきってしまう癖があり、お化け屋敷の話を聞いたことで、その主人公マンジュリカーに成りきってしまったのだった。まだアヴニの人格は残っていたが、何とかしないと完全にマンジュリカーに人格を乗っ取られる可能性があった。王に恋人シャシダルを殺され、しかも自分も殺されたマンジュリカーは、王への復讐に燃えていた。マンジュリカーにとって、シャシダルと同じ家に住んでいたシャラドは恋人であり、スィッダールトは王であった。マンジュリカーになったアヴニはスィッダールトを殺そうとしていた。そこでアーディティヤはスィッダールトとアヴニを助ける秘策を考える。

 ドゥルガー・プージャーの夜、アヴニがマンジュリカーになって踊り出した後、アーディティヤ、スィッダールト、シャラドの3人は3階へ行き、シャシダルを使って彼女を祭壇に呼び出す。怒ったマンジュリカーはスィッダールトの命を要求する。アーディティヤはスィッダールトと剣を差し出し、自分で殺すように指示する。その瞬間、スィッダールトは人形と入れ替わった。マンジュリカーはスィッダールトの人形の首を剣で切断し、意識を失う。

 翌朝、アヴニは完全に正気に戻っていた。スィッダールトはアーディティヤに感謝する。また、アーディティヤはラーダーに惚れており、彼女にプロポーズをする。こうして屋敷の呪いは解け、皆の顔に笑顔が戻ったのだった。

 インド製ホラー映画の先駆け「Raaz」(2002年)の大ヒット以降、インド映画界でもホラー映画がこぞって作られるようになった。「Bhoot」(2003年)、「Darna Mana Hai」(2003年)、「Vaastu Shastra」(2004年)、「Kaal」(2005年)、「Naina」(2005年)などなどである。ヒットした映画もあれば、フロップに終わった映画もある。だが、僕が前々から主張していたのは、「ボリウッドはインド映画らしいホラー映画を作るべき」ということだ。つまり、笑い、涙、踊りなど、インド映画の全ての要素が含まれながら、それでいてホラー映画として完成度の高い映画を究極的には目指すべきだと注文を付けていた。ハリウッド・スタイルのホラー映画はそれはそれでいいのだが、インド人が本当に求めているのはそういうハイセンスなホラー映画ではないし、皆が皆その方向に向かってしまったら、「ハリウッド映画と全く同じならハリウッド映画を見ればいいじゃないか」ということになってしまい、インド映画産業にとっては大きな危機なのである。インド人によるインド人のためのホラー映画が作られなければ、ボリウッドに芽生えたホラー映画というジャンルに未来はない。観客を恐怖で震わすホラー映画に笑いや踊りを盛り込むのは狂気の沙汰だと思わるかもしれない。だが、「E.T.」(1982年)を見事に完全インド映画化したボリウッドなので、ホラー映画のインド映画化も不可能ではないと考えていた。「Raaz」から5年、遂にその期待は正しかったと頷けるときがきたようだ。「Bhool Bhulaiyaa」は、僕が待ち望んでいた、インド映画のエッセンスが詰まったホラー映画であった。

 ただし、この映画を賞賛する前に、ひとつ重要な事実を前置きしておかなければならない。実は「Bhool Bhulaiyaa」は、ラジニーカーント主演のタミル語映画「Chandramukhi」(2005年)のリメイクである。日本にはラジニーカーント・ファンが多いので、それに気付く人は少なくないだろう。ただし、「Chandramukhi」もマラヤーラム語映画「Manichithrathazhu」(1993年)のリメイクであること、そしてプリヤダルシャン監督はマラヤーラム語映画界出身であることも、付け加えておかなければならない。

 パレーシュ・ラーワル、ラージパール・ヤーダヴ、アスラーニーと言ったボリウッドのコメディー映画に欠かせないコメディアンたちと、シャイニー・アーフージャー、ヴィディヤー・バーランと言った高い演技力を持つ若手俳優を起用し、しかもオールラウンドな才能を発揮するベテラン男優アクシャイ・クマールを主演に据えることで、「Bhool Bhulaiyaa」は、観客を笑わせ、泣かせ、怖がらせ、驚かせ、そして最後に安堵感を与えるというインド映画の基本を踏襲しながら、ホラー映画としての味も損なわない、非常に完成度の高い映画に仕上がっていた。

 ホラー映画の「種」は、本当に幽霊であることもあるし、人間が幽霊の振りをして犯罪を犯していたと明かされることもあるし、いろいろである。「Bhool Bhulaiyaa」の中のお化け屋敷で起こる数々の怪奇現象は、解離性同一性障害と呼ばれる一種の精神病が「種」となっていた。だが、クライマックスで完全に科学的な解決を選ぶのではなく、昔ながらのお祓いの儀式の助けを借りていたところは、インド映画らしい点であった。

 あらすじでは詳しく書けなかったが、お化け屋敷の由来は以下の通りである。昔、その屋敷には王が住んでいた。王はマンジュリカーというベンガル人踊り子を寵愛していたが、マンジュリカーは屋敷の隣に住むシャシダルという舞踊家と恋仲にあった。それを知った王はマンジュリカーの目の前でシャシダルを殺し、次にマンジュリカーも殺してしまう。死ぬ前にマンジュリカーは屋敷に呪いをかけ、王族は誰も住めなくしてしまう。その後、王はすぐに死に、屋敷はマンジュリカーの亡霊がさまようお化け屋敷となった。

 「Chandramukhi」は、他のラジニーカーント映画と同様に、主演ラジニーカーントの強力なカリスマ性が必要以上に強調された映画であった。「Bhool Bhulaiyaa」で同じ役を演じていたのはアクシャイ・クマール。現在アクシャイ・クマールはボリウッドでトップクラスの人気と実力を誇る男優になっている。だが、ラジニーカーントと比べたらまだまだ小者だと言わざるをえない。しかし、強力な主役がいなくても「Bhool Bhulaiyaa」は十分に面白く、オリジナルのシナリオの完成度の高さが感じられた。「Bhool Bhulaiyaa」が「Chandramukhi」のリメイクだと直感して以降、僕の最新の関心事は「Chandramukhi」必殺のセリフ(効果音?)「ラカラカラカ・・・」が出て来るか否かであったが、残念ながら「ラカラカラカ・・・」またはそれに代わる決めゼリフの出番はなかった。また、「Chandramukhi」の中で踊り子チャンドラムキーに成りきったガンガーが踊る「Raa Raa」と言う曲は、切ないような狂おしいような不安定なメロディーが映画の主題にピッタリで、映画を見終わった後もしばらく耳に残って離れなかったのだが、「Bhool Bhulaiyaa」の同様の曲「Mere Dholna」にはそこまでの力が感じられなかった。よって、音楽では完全に「Chandramukhi」の方に軍配が上がる。ただ、「ハレー・ラーム、ハレー・ラーム、ハレー・クリシュナ、ハレー・ラーム・・・」というバジャン(宗教賛歌)を現代風にアレンジした「Bhool Bhulaiyaa」のタイトルソングは現在大ヒット中である。この曲は映画本編中ではほとんど使われず、最後のスタッフロールでそのダンスシーンが流された。

 俳優の中ではヴィディヤー・バーランの怪演が特筆すべきだ。通常時とマンジュリカー時の表情の切り替えや、本当に幽霊に取りつかれたかのような狂気の言動は、現在の若手女優の中では彼女しかできない演技であろう。おぞましい化粧をした顔もすさまじく、既存のヒロインの枠を超越した大女優の片鱗を覗かせていた。踊りも非常にうまかった。アクシャイ・クマールは、彼の持ち味である、ヘラヘラしてるがプレイボーイで、馬鹿そうに見えて優秀で、頼りにならなそうで頼もしいというキャラを存分に発揮していた。シャイニー・アーフージャーも渋い演技を見せていた。アミーシャー・パテールは脇役であったが、最近の彼女の演技の中では最高点であろう。

 舞台はヴァーラーナスィーで、実際にヴァーラーナスィーでロケが行われていたが、大部分はラージャスターン州の州都ジャイプルでのロケであった。しかも途中でカルナータカ州にも飛んでいた。これらの地域は光の色、樹木の種類から人々の風俗や建物の建築様式まで全く違うので、場所が飛ぶとすぐに分かってしまう。しかも自動車のナンバーがその地域のものになってしまっている!これでは雰囲気が台無しである。別に他の場所でロケをしてもいいのだが、出来ることなら自動車のナンバーを隠すか、ストーリーと矛盾しないように配慮してもらいたいものだ。

 ヴァーラーナスィーという土地柄を反映してか、少しだけ英語とヒンディー語の対立が触れられていた。また、マンジュリカーはベンガル人という設定のため、ベンガリー語も多少出て来た。

 「Bhool Bhulaiyaa」は、ボリウッドがホラー映画というインド映画の方程式とは相反するジャンルを完全に手中に収め、自らの血肉にしたことを記念する作品になりそうだ。PVRプリヤーは満席で、観客は、こんなに盛り上がっているのは近年見たことがない、というほど盛り上がっていた。PVRプリヤーのような高級映画館で立って踊り出す人を見たのは初めてかもしれない。インド製ホラー映画の完成形を見たかったら絶対に「Bhool Bhulaiyaa」見るべし。

10月12日(金) Laaga Chunari Mein Daag

 大ヒットの予感がする「Bhool Bhulaiyaa」に続けて、ヤシュラージ・フィルムス制作の「Laaga Chunari Mein Daag」も鑑賞した。ジャンルは全く異なる映画だったが、同時公開された両作品は偶然にも、どちらもヴァーラーナスィーが舞台の映画であった。



題名:Laaga Chunari Mein Daag
読み:ラーガー・チュナリー・メン・ダーグ
意味:ヴェールに染みが付いた
邦題:汚れたヴェール

監督:プラディープ・サルカール
制作:アーディティヤ・チョープラー、プラディープ・サルカール
音楽:シャーンタヌ・モーイトラー
作詞:スワーナンド・キルキレー
振付:ハワード・ローゼンマイヤー
衣裳:サビヤサチ・ムカルジー、マニーシュ・マロートラー、スバルナー・ラーイチャウドリー、シラーズ・スィッディーキー
出演:ジャヤー・バッチャン、ラーニー・ムカルジー、コーンコナー・セーンシャルマー、アヌパム・ケール、クナール・カプール、アビシェーク・バッチャン、ヘーマー・マーリニー(特別出演)、ムルリー・シャルマー(特別出演)
備考:PVRプ